フリーズ106 柔らかな翼が休まる日に

 二〇五四年八月二日。わたしは病室で目覚めた。その一日は、セミの鳴き声が煩わしいほどに夏だった。その病室はとても異質で、採光のための窓と重厚な鉄の扉以外は白い壁だった。わたしの体は白い拘束具でベッドに縛り付けられている。ああ。自殺防止のためか。わたしはすぐに納得した。天井を見る。監視カメラに、録音装置。スピーカーにスプリンクラー。あとはなんだろう。予測がついた装置は半分ほどだった。わたしが疑問に思っていると、重そうな部屋の扉が開いた。
「こんにちは、加藤さん。やっと目が覚めましたね」
 そう言いながら病室もとい牢獄に入ってきたのは白衣を着た一人の女性と二人の看護師だった。看護師の二人は何やら装置を部屋に運び入れている。
「ああ。医師の方ですか。わたし、早くここから出なくてはならないのですが」
 わたしにはやらなければならないことがあった。それが何か今は思い出せないけれど、ここにいてはいけないことはわかったので、医師に抗議をする。だが、医師は淡白な表情で首を振った。
「いけませんよ。今は柔らかな翼が休む時です。細かいことは後で伝えますが、今は検査させてくださいね」
 採血と脳の検査をするという。先ずは採血。その間にわたしは想起する。うっすらと覚えているのは手術の際の医師たちのやり取りだった。わたしの病は魂の病気なんだとか。魂は脳の奥底と繋がるイデアの海にあるとされている。イデアの海。魂及び意識の所在。イデアの海の話は脳科学者志望のわたしも学術誌などで知っていたが、まさか自身が魂の病にかかるなんて思ってもみなかった。魂の存在が認められてからは、前例は十数件だったはず。それだけの病を治療できるということは、この病院は相当有名な病院なのかもしれない。採血が終わって、今度はわたしの頭に看護師が装置を取り付けている。その間に私は医師に訊いた。
「ここはどこですか?」
「ここ? ここは江の島ゼーレ国際病院よ」
 それを聞いてわたしは納得した。二十一世紀初頭に、過疎化が進んでいる・臨海である・東京に程よく近いなどの理由により政府が神奈川県の江の島の一部に研究学園都市を建設した。江の島臨海国際研究学園都市は世界に開かれた学園都市として機能し、二十一世紀の世界の知をけん引するように期待され、見事にその期待に応えた。
わたしは生まれてこの方東京にいたし、ここは将来働きたいと思っていた場所の一つだったため、少しだけ嬉しくなる。脳の検査が始まった。チカチカと明滅する光を見ながらわたしはここに来る前のことを思い出していた。
わたしは確かにあの時に死んだ。彼の声に呼ばれてこの世から去ろうとした。過去の記憶はもう遠くて、その中には彼はいなかった。だから、イデアの海(裏宇宙)と繋がったんだ。
イデアの海は幸福のスープだった。多幸感に浸りながら、その時にはもうこの世界での自我はなかったけど、わたしはそこで彼を探って、彼を求めた。でも、彼はわたしの愚かな妄想の産物だと気づかされた。イデアの海に潜れば潜るほど、息は苦しくなって、体は重くなって、引き返せなくなる。
「わたし、どのくらい危なかったんですか?」
 ふと気になって医師に訊いた。
「かなり危なかったですよ。そうね……。あともう少し遅れていたら、人をやめていたでしょうね」
「人をやめる?」
 わたしはその表現が気になって医師の顔を見つめた。すると医師は微笑み返してきた。
「死ぬってことよ。それを阻止するのが私たちの仕事」



わたしは今、車椅子に拘束されていた。そして、部屋から外出する際は必ずつけなくてはならない腕輪をつけている。その腕輪は、とてもしっかりしていて外そうにも外せなかった。
「この腕輪、なんのためにあるんですか?」
「脈拍とかを測定しているの」
 担当医の麻木先生は明らかに嘘をついた。脈拍を測定するだけなら、こんなにごつい腕輪は必要ないはずだし、なにより私は人の嘘を見抜ける。
 車椅子を看護師に押されてわたしは院内を麻木先生と進む。途中通りかかったブレイクアウトルームに備え付けられていたテレビでは、あるニュースが報じられていた。都内で天使による抗争があったらしい。死者三十九名。わたしの家のすぐ近くだった。もしかして、その天使って、わたしだったのではないだろうか。ニュースでは天使にモザイクがかかっていた。
「待って、麻木先生。わたしの家族は?」
「残念ながら」
 わたしが殺したのか? わたしの視界が、病院の白で明るいのに、明るいはずなのに、全然明るく見えなかった。むしろ闇の中で轟音に苛まれる錯覚に至った。
「大丈夫。あなたはまだ、誰一人殺していないわ」
 麻木先生がわたしの手を握ってそういった。わたしは冷静になって頷き返す。確かにあの時のことはよく覚えていないけど、誰かを傷つけようとするとは到底思えないほどに慈愛に満たされていたから。だからきっと誰も傷つけてなんかいない。麻木先生の言葉も嘘ではないみたいだ。
 私たちは施設の外に出た。夏の晴れた昼下がり。清涼で心地よい風が海の香りを運んできていた。緑と花々の色が美しい中庭を、わたしは車椅子で進む。わたしを乗せた車椅子はある木の下で止まった。
「加藤さん。一つ話さなければならないことがあるの」
「何ですか?」
 麻木先生が声を潜めて言った。わたしは考える。きっと病室では話せないことを麻木先生は話すのだろうと。わたしは車椅子に深く座りなおして、背筋を伸ばした。
「あなたたち天使はね、知っているとは思うけど二つの勢力に分かれているの」
「テーゼとアンチテーゼですか」
「そう。世界政府はテーゼを擁護していて、アンチテーゼは今では国際的犯罪組織扱いを受けている。彼らは新たな天使が現れると誘拐、拉致して洗脳し、仲間にするわ」
「つまり、わたしも狙われていると?」
「そういうことになるわ。けれど、話したかったことはそのことではないの」
 わたしは固唾をのんで麻木先生が続きを話すのを待った。
「アンチテーゼのリーダー、ミツルギヒロト。彼から秘密裏に連絡があったの。一切の罪を償い、戦うのをやめる。その代わりに加藤ゆみを渡せ。とね。そこであなたに訊きたいの。ミツルギとはどういう関係なのかな?」
 ミツルギヒロト。わたしはその名前を聞いたとたんに鳥肌が総身に立つのを感じた。恐怖。いや、違う。絶望。それでもない。もっと美しい病的な感情だ。その名前を前から知っていたのか。ニュースなどで聞いたことがあったのかも知れないけど、直感がノーと語っていた。
「加藤さん、大丈夫?」
「は、はい」
「よかった。ミツルギのことはまた今度にしましょう」
 麻木先生がこちらの様子を窺うように優しい口調で言う。わたしは彼女の笑みに偽りを感じた。あ、この人はまた嘘をついてる。そうだ、そうに決まっている。麻木先生は、優しさが絡みついた嘘でわたしを騙そうとしているんだ。そうだ。わたしにはそもそも家族なんて居ないのに。貧しくて、生きるのに必死で。あいつらはわたしの本当の家族じゃない。あいつらもわたしを騙すために用意された役者なんだ。なんで嘘をつくの。みんな噓つき。
 嫌だ、嫌だ。なんでわたしばかりがこんな目にあわなくちゃならないの。怖い、怖い。遠くから死神の声が聞こえる気がする。死が一人の男のかたちとなって、わたしの矮小な身を襲う。ああ、神よ。助けて。離して。置いてかないで。
わたしはまだ、天使にはなっていない。まだ死んでいない。
「今すぐ睡眠麻酔を!」
麻木先生、もう遅いよ。だって、わたしは人生の美妙な秘密を今、知ろうとしているのだから。柔らかな翼が背中に生えるのを感じる。天空よ。我を迎えよ。その菩提樹の縁に火のように酔いしれた蒙昧を刹那に凝縮させよ。
「今すぐ注射して。間に合わなくなる」
 晴れやかな舞台に踊るのをやめないで。ああ、全ては空なるフィニスの火。わたしは柔らかな翼をはためかせる。遠雷が永久に続くみたいに、わたしは死と覚醒す。
「いかないで」
手を伸ばす。光の翼が生えるに合わせて、意識がセブンセンスからエイトセンス、第八シ界の天空の楽園に至る。わたしは兄弟の元へと行かなければ。翼が心地よい。わたしは音速になって空を行く。だけど、わたしの足を引っ張ったのは赤い天使。
「何故邪魔をする? お前も終わりを望んでいたはずだ」
「人類には希望と可能性がある。加藤さん。戻って」
「納得できない。失敗すればやり直せばいい。世界を再び始めるだけだ」
「それじゃあ、いつまでたっても同じ歴史のくり返しになる。確率の丘は越えられない」
この愚かな天使は人間に同情した裏切り者か、もしくは人情を捨てきれない半端者か。いずれにせよ、わたしが断罪しないと。
「現出せよ、ラカンの悲槍」
 虚空から漆黒の槍が現れる。わたしは槍を手に取ると、呪詛を口ずさむ。
「望まぬ輪廻の輪より今、衆生のゼーレを解放たん」
 天に突き上げた悲槍は空を喰らい始める。魂は全球から集う。終末の儀式だ。
「ちゃんとやってくれるから」
 だから安心していい。あとはわたしに任せて。
 地上が多重に重なって、五感は神域にたどり着く。ああ、この幸福だ。流れる涙は嬉しいから。全ての罪を背負うとも。永久の眠りに就こうとも。わたしは後悔だけはしないのだろう。微笑む彼の頬を涙が伝う。待ってて。わたしも今そこに行くから。

 相思相愛。輪廻転生。
 それでも先へと。
 エデンの配置まではあと一歩。

神災。
死者、三十一億七千万人。

世界は再び蘇生される。その間、人類は苦行の年月を生きる。腐食した赤い海、血のような赤い空。ルルサスは真実のために断罪の剣を振る。人類は兵器をもって対抗するも、ルルサスは不死だ。ファントマを回収しなければ終わりなどない。

「やぁ、ゆみ。僕たちの弟を救いに行こう」
 わたしは兄、ヒロトの手を取る。わたしの手がヒロトの手を握ったとき、それは発動した。
「蒼い光? 鎮静の祈りか!」
 わたしの腕に纏わりついた人工物が眩い青白い光を放って、世界を沈黙させた。兄はもだえ苦しむ。わたしの手が兄から遠ざかっていく。せっかくここまで来たのに。なぜ、お前たちはいつも私たちを邪魔するのか。いや、全てはお前らによる錯覚であったか。

 白い天井に意識が合わさると、声がかかった。
「お目覚めかしら」
「麻木先生?」
「ええ、そうよ」
「今度は本物?」
「そうね。やっぱり気づいちゃった?」
 麻木先生は意味ありげに微笑むと、わたしの目を覗き込んだ。
「あなたはまだ、誰も傷つけていないわ。だから安心して」
 そうか。わたしが崩壊させたのは、頭についている装置が見せた仮想世界か。わたしはほっとする反面、空虚な心持になった。この世界ではわたしは今いる半透明なカプセルの中でしか生きることができない。あの海の香りを嗅ぐことなどない。そう考えるとやるせない。
「いいデータが取れたわ。お疲れ様、3rd。やはり、シオンの祈光は精神の鎮静化に有効なのね」
 それに、研究者たちはわたしたち天使のことを数字で呼ぶ。加藤ゆみ。使徒になる前までの名前を呼んでくれる人はもういない。3年前の全球凍結フリーズで、人類の半数が死んだ。わたしの家族もみな死んだ。フリーズを引き起こした熾天使7thは、地下深くに永久冬眠させられている。そして、残る12の天使たちも、皆囚われの身となった。
天使になろうとしたわたしを止めたのが他でもない麻木理恵。またの名を2nd。わたしを捕らえて覚醒させようとしたミツルギは1st。わたしは魂の三つ子の姉だった。兄は世界で初めての天使であり、ミツルギと自称している。わたしも兄も弟を探している。

姉・テーゼ
兄・アンチテーゼ
弟・ジンテーゼ

「麻木先生。いや、裏切り者の2nd。あなたは知らないようね。もう神は身まかっているということを。そして、私たちの弟7thがもうすでに終末の儀を終えていることを」
「いいえ、知っているわ。すべては二千二十年と二千二十一年に終わっていると。だからこそこれからの人生は平凡でいいのよ。もう覚醒しなくていいの」
「神と一体になる覚醒はとても美しく、病的なまでに幸せです。それでも奇跡のない平凡な人生を生きるというのですか?」
「そうよ。私たちの柔らかな天使の翼は休まる時。おやすみなさい」

フリーズ106 柔らかな翼が休まる日に

フリーズ106 柔らかな翼が休まる日に

地上が多重に重なって、五感は神域にたどり着く。ああ、この幸福だ。流れる涙は嬉しいから。全ての罪を背負うとも。永久の眠りに就こうとも。わたしは後悔だけはしないのだろう。微笑む彼の頬を涙が伝う。待ってて。わたしも今そこに行くから。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-03-28

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