短編集 Ⅳ

短編集 Ⅳ

パパがカレーを

 僕の辛いときを亜紀先生は知っていた。
 飼っていた犬が死を迎えていた。パパは毎夜酔って帰り、祖母はそんな息子に絶望していた。
 その夜、僕は犬を亜紀先生のところへ連れて行った。死が近づいているのはわかっていた。夜中の1時に犬は僕の腕の中で死んだ。

 そのとき酔ったパパが入ってきた。パパにはどん底の時期だった。
 亜紀先生は酒臭いパパを僕のそばには来させなかった。大先生も出てきて、ふたりでパパを外に出した。僕はもうどうでもよかった。
 ふたりの先生になにを言われたのか、パパは黙って帰って行った。たぶん、パパの虐待に気付いていた先生は、通報するとか脅したのだろう。

 あとで聞いたところによると、亜紀先生は酔った男に、犬を洗う水道のホースで水をかけた。3月だ。まだ寒かった。パパは勢いよく水をかけられた。
「子どもを虐待するなんて、最低の大バカやろう! あの子は返さない。酒をやめるまで返さない!」
 パパはずぶ濡れで土下座したという。

 朝まで亜紀先生はついていてくれ、家に送ってくれた。パパは反省したのか、礼儀正しい男に戻っていた。亜紀先生に別人みたいね、と言われ、目が覚めました、と神妙に答えていた。
 
 ママは病気の犬を残し出て行った。大きな邸も社長夫人の座も、息子も捨てていった。この家族の最悪の時期に亜紀先生がいなかったら、僕たちはどうなっていただろう? 
 やがて亜紀先生は僕の義母になった。


 しばらくは亜紀先生と呼んでいた。
 亜紀先生は僕に勉強のやり方を教えた。パパは僕を頭の悪いやつだと決めつけていたが、やり方がわかると成績は伸びた。

 努力に勝る天才なし

 亜紀先生は励ました。
 祖母は戻った平和と妹の誕生を喜び亡くなった。唯一僕を愛してくれた人だ。母親似の僕をパパそっくりだとかわいがり、なんでも買ってくれた。
 パパは謝っていた。祖母の寿命を縮めたのは自分のせいだと……

 祖母が亡くなると家の中はパニックだ。
 亜紀先生は家事は苦手だと公言して嫁いできた。
 パパに、結婚しないのか? と聞かれ、欲しいのは、奥さんね、身の回りのことをやってくれる奥さんが欲しいわ、と答えたそうだ。

 彼女は料理のやり方を、掃除のやり方を知らなかった。
 サラダにはボロボロの茹で卵が丸ごと入っていた。野菜も麺も茹ですぎる。僕のほうがマシだった。
 ダイニングテーブルは物で狭くなり、ソファーには座れなくなった。
 パパは仕事で留守が多い。亜紀先生は仕事はやめたが、苦手な家事と育児で大変だった。僕はパパに怒られないように、山になった洗濯物を畳み掃除した。そしてパパの変わりに、妹を毎日風呂に入れるのを手伝った。

 ある夜、バスルームから歌が聞こえた。パパが歌っていた。歌いながら風呂掃除。パパが風呂掃除? 
 僕はバスルームの外で歌を聞いていた。聞き惚れていた。英語の歌。亜紀の好きな歌……いや、ママがよく口ずさんでいた歌だ。

 Don't give up……

 休みの日にパパは掃除機をかけ、キッチンでカレーを作っていた。
 パパがカレー?
「お子ちゃま用と2種類ね」
「もう、大人と同じで平気だよ」

 パパがカレーを作っている。僕のために。

アパートの手記

 君は部屋に押しかけて来た。
 風呂もない古いアパートには玄関もない。
 強引に入って来たので思わず怒った。
「靴を脱げよ」

 いや、
 入っていいと言ったわけではない。

 君は部屋を見回した。
 ここは母が独身のときに住んでいた部屋。

「早く帰ったほうがいいよ。僕は変態なんだ」
「どう変態なの?」
「スカトロ趣味なんだ」
「なにそれ?」


「……それって、食べたりするの?」
 


 君は誘惑した。
 僕を見つめ服を脱いだ。

「僕は、僕はね……EDなんだ」
「なにそれ?」

 君はくしゃみをした。下着姿で携帯をいじっていたから。
「寒気がするの。休ませて」

 仮病か? 額に手を当て僕のTシャツを出して着せた。

 薄い布団に寝かせた。何度か額に手を当て、家に電話しようか? と聞いたが返事はない。


 明け方、僕は布団の横で眠っていた。薄いカーテン越しに部屋は薄明るくなってきた。
 君は調べた通りにした。
 明け方のレム睡眠時の生理的な早朝勃起……

 僕は大胆な君に驚いた……
 いや、期待していた。 
 Tシャツを脱ぐ。いや、脱がせる。

 
 あわただしく避妊具を付け君の上にかぶさった。
「明るすぎるわ」
 それ以上の文句は言わせなかった。あとで言ったが。
「シャワー浴びてないのに、トイレも我慢しているのに……」
 
 
 喘ぎ声は曖昧だ。瞬間出た言葉は?
 
「ママって言ったの?」
「?」
「ママって言ったろ? こんなときに?」
「……安心して。ママには言わないから。責任とれなんて言わないから。
 花開き折るに堪へなば 直ちに(すべから)く 折るべし。

 

 デートからやり直し。
 映画を見た。
 君は誘惑した。シャーロック・ホームズを見ながら腿にさわってきた。

 初めてふたりでテニスをした。僕と打ち合いたくて、そのために君はテニス部に入っていたという。
 でも、下手くそ。
 君はコート中走らされ汗だくに。ベンチで息も絶え絶え。
 意地悪な僕の手を取り胸に当てた。


 海を見に行った。誰もいない海で、また君は誘惑した。
 お行儀のいいデートは終わった。
 海辺のホテル。BGMは波の音。
 2度目も痛かった……みたいだ。
 僕は別人のように優しくなる。

 
 古いアパートにこもる。
 BGMはベートーベンのソナタ。1番から流れる。
 君は我慢する。
 僕のために。
 
「幻想……」
「よく知ってるね。13番だよ」
「愛も幻想……」
「……」
「あなたにはテニスと同じ……」
 僕は嘘をつけない。
「歌って。ミラボー橋。音楽室で歌ってたでしょ」


 僕は口ずさんだ。指で奏でた。痛くないように。
「アポリネールはスペイン風邪で死んだ。30代で。僕も早死にかな。母が早かったから」
「あなたは長生きするわ。私たちの子どもがH高で出会って、結婚するまで」
「なに言ってるの?」
「あなたの子と私の子が恋をするの。ありえるわよ」
「男同士だったりして……突拍子もないこと言うなよ」


 ふたりだけの世界。建て替えの決まったアパートから住人は消えていく。

「隣も下もいなくなった。このアパートには僕たちだけ。大声出しても聞こえないよ」

「じゃあ、歌って」

 僕は歌った。音楽の時間に習った『Catari Catari』
 イタリア語でつれない心を情感込めて。

 君を抱きしめ歌う。父が歌っていた『Don't give up.』


 君は覚えてきた文章を披露する。

「情熱恋愛の専門家たちが口をそろえて僕らに教えてくれる。
 障害のある愛以外に永遠の愛はないと。
 闘争のない情熱はほとんどない、と」
「君はカミュを読むのか?」
「ママの本」

「続きは?」
「忘れちゃった」
「そうした愛は死という究極の矛盾のなかではじめて終わるものだ。ウェルテルであるかしからずば無か、そのどちらかだ」


 しだいにカーテンの薄さも気にならなくなる。シャワーを浴びていないことも。


 布団からはみ出し僕たちは絡み合う。
「僕たち。もう、離れられない……」
「……」
「私もって、言えよ」
「……バイブで充分」
 
「この口からそんな言葉が出るとはね」


 32番が終わる。
 ベートーベンのピアノソナタを4回聴いた。アパートで過ごした40時間。

 どうなるのだろう? これから。
 僕の父と君のママの間になにがあったの?

恩人

 夫が年賀状を振り分けた。私宛のものは少ない。数人の知り合いと美容室くらい。

 美容室 ミエ?
 ーー聞いたことがない。

 差出人は?
 沢 伊助?
 男性の美容師など……
 
 知らない。知らない人だ。

「昨年中は格別のご厚情にあずかり誠にありがとうございました。
 皆様のご健康とご繁栄を心よりお祈り申し上げます」


 掃除機をかけていてふと閃いた。
 慌てて紙に書いて見た。
 SAWA ISUKE
 MISAWA EISUKE
 残るのはMIE
 三沢 英輔。あの人だ。 


✳︎

 あの人の噂は聞いていた。夫の実家に行くと耳にした。
 あの、大きな邸のひとり息子は結婚を反対されて家を出た。親も、会社も捨てて……

 私は紳士服店で働いていた。 
 見覚えのある女性が入ってきた。若い男性とスーツを買いに。 
 この女性は?

 中3の秋、H校近くの甘味屋で会った、あの人の母親だった。息子とお汁粉を食べ、口の周りを拭いてやっていた過保護な母親。
 彼女は従業員に成人式のスーツを買ってやるようだ。私の接客を褒めてくれ、話した。
「息子も働いているのよ。いなかの支店だけどね。辺鄙な所らしいわ」
「○橋支店ですか? 三沢さん? 三沢英輔さん? 売上トップの?」
「あの子、トップなの?」
「辺鄙な支店で、人口の少ない町でトップです。ひとり当たりの単価が高いんです」
 私は社報を見せた。この2年、売り上げを競っていた。同姓同名だが、まさか、と思っていた。
 母親は涙ぐんでいた。

 あの人は、いなかから出てきていた娘と結婚した。30歳になっていたが、父親に反対された。三沢家の嫁にはできないと。
 子どもも産まれたのに父親は許さない。母親は会いたくても会いに行けない。

 私は○橋支店に電話をかけた。電話に出たのは確かにあの人だった。
 低音だがよく通る声。高校の国語の時間に、ミラボー橋を惚れ惚れとした声で暗唱し、フランス語で歌った男だ。
「あなただったのね」
 母親が来店したとは言えなかった。あの人は幸せそうだ。
「君よりいい女に巡り会えた」
と冗談を言った。
 冗談ではあるまい。あの母親を捨てたのだ。家も会社も。

 篠田は元気か? と聞かれ、私も話した。
「子どもができたの。待望の。
 8月に生まれるの。あなたのお子さんの1学年下ね」
 社報に情報が載っていた。男の子だ。
「よかったな。8月か、葉月だな」
「葉月、きれいだわ。女の子が生まれたら、葉月にしようかな。恩人のあなたに名付け親になってもらうわ」
「篠田が怒るよ」
「篠田には全部話した。あなたは恩人……」
「……」
「おかあさん、大事にしなさいよ」

 あの人は恩人だ。私を救い出してくれた。そのあとも、軽蔑したりはしなかった。幸せでいてほしい。できるなら、親に認められてほしい。


 数年後、夫が言った。
「三沢が戻った。奥さんと子どもを連れて。大変らしい。あいつの親父の会社も」

 倒産寸前の父親の会社。半身不随になった父親に、介護疲れで寝込んだあの母親。あの人は放ってはおけなかったのだろう。
「三沢なら持ち直すだろう」

 そう。あの人の会社は持ち直した。そして急成長を遂げた。

 それから、何年たっただろう? 葉月が小学校1年だった。夜遅く、あの人が訪ねてきた。突然。
 夫は出張でまだ戻っていなかった。
「しばらくだな」
 酒臭かった。この世で1番嫌いな酔っ払い。
 10年ぶりか? 
 こんなにだらしないあの人を見たのは初めてだった。私は酔っ払いには拒否反応を示してしまう。
 あの人は、くどくどと話し出した。酒臭い息で、
「妻が出て行った。息子を置いて」
「……よくあることだわ」
「男がいたんだ。信じられない」
 よくあることだ。情けない男は酒に溺れる。
「子どものためにしっかりしなきゃ」
「ああ、そうだな」
「私の父は許したわよ。母の不貞を許して、それでも愛した」
 あの人はいきなり言い出した。
「篠田と離婚してくれ。俺の気持ちを知ってて、どうして篠田なんかと……」

 葉月が起きてきた。大声に怯えて。
「脅かしてごめんね、お嬢ちゃん」
「はづきよ」
 娘が教えた。
「葉月か、いい名前だ。葉月は旧暦では秋なんだ。
 秋、か。木の葉が落ちる。落ちる……この手も落ちる。ほかをごらん。落下はすべてにあるのだ……」
 酔っていてもあの人は詩人だ。
「君にはわからないだろう? 君は頭はいいがバカだ。誰の詩かわかるか? 
 けれども、ただひとり、この落下を……限りなく優しくその両手に支えている者がいる……」
 そしてまた、とんでもないことを言い出した。
「葉月ちゃん、きみの名前はおじちゃんが付けたんだ。君はおじちゃんちの子どもになるんだ。大きなおうちだよ。広い庭がある。犬も……犬は死にそうなんだ。欲しいなら買ってやる。なんだって買ってやる」
 酔ったあの人は葉月の手をつかんだ。
「三沢君、やめて」
「おにいちゃんがいるよ。君よりひとつ上だ」
 無理矢理、葉月を連れて行こうとした。
「帰ってよ。三沢君!」
 私が強く言うとあの人は怒った。
「売春してたくせに。誰が助けてやったと思ってるんだ? 支えてくれよ。その両手で……」
 恩人だと思っていた人が……
「あなたでも言うのね。酔えば言うのね。子どもの前で」
「バイシュンてなに? おじちゃんが助けたの?」
 あの人は後悔したようだ。葉月の顔を見た。そして小声で言った。
「青春だよ。青春は()べからず。ママは、モテてモテて困ってたんだ。おじちゃんが助けてやった。パパと結婚させたんだ」
「おじちゃんは恩人なのよ。恩人」
「葉月ちゃん、これは夢なんだよ。夢を見てるんだ」

 あの人は子守唄を歌った。ドイツ語で。
 高校1年の音楽の時間、歌のテストで私が歌った子守唄だ。歌は苦手だ。か細い声で、音も外れた。それでも男子は拍手した。比べてあの人が歌ったCatari Catariは素晴らしかった。先生まで聞き惚れた。私は勉強ができただけ。

 葉月は私の膝で眠った。そのまま抱いていた。娘を抱いていれば乱暴はしないだろう。
「かわいいな。寝顔を見て後悔する。帰ったら、また息子を殴ってしまう。妻にそっくりな息子を。かわいそうな息子を」
「飲むのやめなさいよ。私の父みたいになるわよ。思い出すのも嫌だけど……子どもに愛想尽かされるわ」
「ああ、もう飲まない」
「酔っ払いはそう言うのよ。父は何回も、何万回も言った。仕事も失い、娘の学費さえ払えない。タバコで畳を焦がして、何度言ってもやめてくれない。火を出したこともある。私が消したのよ。それでも、懲りない。
 殺したいと思ったわ。酔っ払っていびきをかいている父の首を絞めて……何度も思った」
「篠田が力になってたんだな」
「三沢君、失うわよ。なにもかも。汚れて、お風呂にも入らなくなる。お酒だけ飲んで肝臓壊して、栄養失調になって呆けて死ぬの。
 死んだら万々歳よ。誰も悲しまない。喜ばれるのよ。せいせいされるの」
「熱弁だな。説得力がある」
「三沢君、病院へいくのよ。専門家に相談するの。入院するの……
 いいわ。ついていってあげる。息子さんは私が面倒みる。あなたが立ち直るまで。あなたは恩人だもの」

 電話が鳴った。夫からだ。あの人は葉月を抱き上げ寝かせに行った。私は電話に出た。
「熱は下がった。よく寝てるわ。もう大丈夫よ。気をつけて」
 電話を切るとあの人はいなかった。

 どうしただろうか? 夫に話そうか? あの人の息子が心配だ。あの母親も。 
 
 翌日、カーネーションの花束が届いた。

 恩人へ    M
 花言葉は感謝。


 三沢君……立ち直ったのね。こんな年賀状で知らせてくるなんて。


 2年後、あの人は再婚した。近所に住んでいた獣医と。若いが、しっかりした女性らしい。あの人の息子は懐いている……
 
 夫の実家にいけば耳に入る。大きな邸の主人の情報は。

先輩

 高校を卒業すると進学はせずに就職した。大学へ行く金はなかった。私の分は。

 でも、自分で稼いで自由に使えるのが嬉しくて、おしゃれして会社のクラブに馬術同好会なんてのがあったから、それに入ってちょっと格が上がった気分。
 大学生が教えにきていて、そこではチヤホヤされていたのよ。

 あの日先輩がその中にいたからびっくり。縁を感じたけれど、先輩は誘われてついてきただけ。 
 でも、きれいになったって言ってくれたわ。
 平凡な女が、19の頃は少しは華があったのかしら? 
 先輩は数回来て皆で飲んで方向が一緒だから話したけれど、私はただの後輩だった。
 そのうちカネが続かないから今日が最後だって。これでまた会えなくなるわね。

 あの日、あのステキな由佳さんがクラブにやってきて、由佳さんのスタイルと乗馬に先輩は魅せられていた。
 彼女は女の私から見ても非の打ちどころのない女性。正義感が強くて、私は酔っ払いに絡まれているのを助けてもらったことがある。
 酔っ払いは殴りかかり、かわされて転んだ。女のくせにボクシングなんかやっていて憧れていた。

 由佳さんは先輩も食事に誘った。彼女の車で行った行きつけのレストラン。彼女が店のピアノを弾くと先輩は驚いていた。私も……
 妬ましかった。なにをやっても極める女性。私は足元にも及ばない。
 もっと驚いたのは先輩のピアノ。合唱コンクールでは伴奏していたけれど、こんなに弾けるとは思わなかった。
 ふたりはピアノの話で盛り上がっていた。婚約者がいるのよ、と教えても動じなかった。余計に先輩は惹かれていった。ウェルテルのように。
 ふたりで会うわけにはいかないから、私を利用した。先輩はクラブを辞めなかった。言い訳もしない。
 私も聞かない。由佳さんは来る。同好会のある日に。私に会いに。先輩に会いに。

 由佳さんに旅行に誘われていた。彼女の故郷。父親の経営している乗馬クラブで特訓してくれると。
 彼女は先輩を誘うよう言った。親密になるチャンスだと。バカな私は喜んだ。テニス部の合宿以来だもの。

 由佳さんの車で出かけた。途中先輩は運転を変わり彼女は助手席に移った。ふたりは車の話をしていた。私にはわからない。私は後ろの席で眠ったフリをしていた。
 嫌な予感はあったのに、先輩といられるのが嬉しくて、それにまさか、婚約者のいる由佳さんと先輩がああなるとは思わなかった。

 ホテルで圭介さんに紹介された。受付のカウンターから出てきて丁寧に挨拶してくれた。誠実な人に見えた。由佳さんがいうような男には見えなかった。
 用意してくれた部屋は素敵だった。最低料金で最高の待遇。先輩とは隣の部屋。私たち4人は夜遅くまでホテルのバーで飲んだ。
 由佳さんは先輩を見ていた。彼女は婚約者の圭介さんにひどく腹を立てていて、先輩に気のあるフリをしただけなのよ。あとで私に謝った。

 4人で馬に乗った。よその大学生も合宿に来ていて、私たちは混じってカレーを作って飲んで騒いだ。
 由佳さんは私の部屋に泊まった。一緒にお風呂に入った。どこから見てもどの角度から見てもきれいな人が化粧を落とした。
「平凡な顔でしょ」
私は返事に困った。化粧ってすごい。
「素顔のほうがいいって言われた。訛りのある話しかたのがいいって……」
「圭介さんに?」
「圭ちゃんは私の顔なんてどうでもいいのよ。欲しいのは私の家と財産」
「そんなこと……」
「圭ちゃんは壊したの。私の恋を」
風呂から出ると由佳さんは私に化粧を教えてくれた。目が大きくなっていく。

 朝、食堂に入っていくと先輩はびっくりしていた。
 念入りに化粧した私と素顔の由佳さん。先輩は交互に見つめ笑い出した。由佳さんがなぜ素顔で口紅もつけないでいったかわかる? 私のためなのよ。先輩をがっかりさせようと思ったの。
 先輩が好きになるのはいつもきれいな女だもの。
 女は顔だものね。でも、先輩の視線は彼女に釘づけ。化粧を落とした由佳さんは先輩よりふたつも年上には見えなかった。

 帰る前日の夜、3人で河原を散歩した。圭介さんは仕事の電話をしていた。
 両手に花? の先輩にふたりの不良が絡んできて、ひとりまわせと由佳さんを連れて行こうとした。由佳さんは先輩がどうするかを見ていた。
 先輩は彼女の手をつかみ放さなかった。何度か殴られても守ろうとした。守る必要などなかったのに。

 私が携帯で電話するのをもうひとりの男が止めにきた。私は先輩を守りたい一心で、由佳さんに習った護身術で、男の1本の指を逆側に折った。
 気合を入れて大声を出した。イェーッとか、どりぁーーーとか。
 男は悲鳴をあげ、圭介さんも走ってきたのでふたりの不良は逃げていった。

 由佳さんは、弱いながら必死で守ろうとした先輩に本気で好意を持ってしまった。圭介さんと由佳さんが先輩を支え、私はひとりで歩いた。
 来なければよかった。何度手痛くふられるのだろう?
 由佳さんは先輩の部屋に泊まり込み介抱した。私は怒りを抑えた。由佳さんを殴りたかった。でも、彼女は私の知っている由佳さんではなかった。必死で私に謝った。先輩を試したこと。試して傷つけたこと。そして私の好きな人を好きになってしまったことを。

 先輩が助けたのは由佳さん。先輩が介抱して欲しいのも由佳さん……
 私は翌日の朝、先に帰った。圭介さんは駅まで送ってくれた。
 慣れている。こういう思いも扱いも。2度と由佳さんに会うことはない。先輩にも……

ずっと見ていた

 失恋した。
 振られた。
 いや、私のほうから振ってやった。
 あんな男、最低の男。 
 軽い、紙のように軽い男。
 私は都合のいい女だった。

 別れてよかった。2年の間、貯金ができなかった。
 自分では決して食べない高級な肉や果物やワイン。先輩には値段は言わなかった。
 自分で稼ぐようになって、わかる日がくるだろうか? 私がどれほど先輩のために金を使ったか? 
 買ってもらったものはなにもない。出かけたこともない。
 私が部屋に行った。
 掃除して洗濯して料理して、帰りはタクシーを呼んで帰った。送らなくていいと私が言った。

 別れてから、ヴァイオリンを習った。本当はピアノにしたかったけど、家に置く場所はない。
 電子ヴァイオリンを習った。音量を調節できるから。

 子どもの頃、習い事はさせてもらえなかった。塾にもいかなかった。兄の古い参考書で理解できたし、音楽もスポーツも、ほどほどにできた。
 ほどほどでいい。金をかけられた兄より優ってはいけない。目立ってはいけない。

 先輩はピアノを教えてくれた。私のために弾いてくれた。
「姉がすぐやめたから母に無理やりやらされた」
「母親には男の子は特別かわいいのかしら?」
「そうだな。オレは特別だ。おまえにも」
 練習していると先輩は邪魔をした。私の背中を鍵盤にした。
「おまえだよ。
 月光……ずっと弱く弾くの難しいんだ」

 電子ヴァイオリンを買ったのに、若い先生は私が弾いていると居眠りをしていた。メールをしていた……私は文句を言える性格ではない。 

 いつもこうだ。軽くみられる。怒らないからなのか? 
 仕事もそうだ。大卒の女たちは要領がいい。残業をしない。
 私は重宝がられる。それだけだ。飲み会でチヤホヤされるのは彼女たちのほうだ。
 私は真面目すぎる……つまらない……

 少し飲みすぎた。2次会は行かない。ひとり電車で帰る。
 ドアの外を見ていた。電車がのろい。
 視線を感じた。
 視線の先の男、見たことがある。知っている顔だ、誰だっけ? 
 よく会う男。今日も会った。かなり間近で。

 男が会釈した。ああ、毎日会社に荷物を届けにくる宅配便の人だ。私はいつも受け取りの判を押す。近寄ればタバコの匂いがして嫌だった。それだけで恋愛対象にはならない。
 彼のほうは気があると思う。ひとことふたこと話す口からは、デンタルリンスの匂いがした。タバコをやめればいいのに。吸っている本人はわからないのだろう。
 かれこれ4年になる。私が入社したときからの担当だった。夏は汗とタバコの入り混じった匂いがして、近寄られると息を止めた。

「あなたも忘年会?」
 私は声をかけた。少し酔っていたから。
「飲みなおさない?」
 酔っていたから大胆になれた。彼は喜んでついてきた。
 私の降りる駅、駅前の安い居酒屋。おなかはいっぱいだから酒だけ飲んだ。
 明日は休みだ。お互いに。

 そのあとは、腕を絡め歩いた。
 生まれて初めて自分を見失った。
 私が誘ったのだ。彼は……名前を言ったのだろうが記憶にない。記憶にあるのはシャワーを浴びて……彼は褒めた。
 きれいだと褒めた。
 きれい? 私が? 
 レベルが低いのね? 低すぎるわ……
 私は、美しくない月……誰にも愛されない……

 自分から求めたことはなかった。欲しいものはいつも我慢した。母にも父にも。友達なんていなかった。与えてくれる人はいなかった。いつも利用されるだけ。
 人がいいから。いやと言えない性格だから。
 要するに、つまらない、取るに足らない女なのだ。

 その夜は違った。
 酔いが私を別人にした。私は指図し、命令し、怒って、先輩と同じようにさせた。できるまで許さなかった。男は私の要求通りにした。
 どうでもいい男だから羞恥心などなかった。

 先輩? 先輩……ベッドだけは優しかったね。私を練習台にしていたんだもんね。あとは最低……
 愛なんていらない。愛なんてないのにこんなに満たされて、満たされて疲れて眠りに落ちる。夢の中でも満たされた。

 朝まで眠った。
 目が覚めると、目の前に男の顔があった。
 ずっと見ていたの? こんな私を?

 母にメールした。
(終電乗り遅れた。ごめんなさい)
 もう、家を出よう。母の愛はもう求めない。

 酔いが覚めない。シャワーを浴び、馴れ馴れしくなった男を拒否した。ホテルの前で別れた。
 歩いて冷静を取り戻す。
 彼の名は? 知らない。
 月曜日、気まずいだろうな。でも後悔はない。
 金も払わなかった。ああ、払ってくれたんだ。当たり前なのに。

 きれいだと、きれいだと何度も言った。入社してきたときから、毎日会えるのが嬉しかった、と。 
 君は優しかった。ねぎらってくれるのは君だけだ。雨の日に大変ね、と言ってくれるのも……
 僕は、4年の間見てたんだ……

 先輩、私もずっとあなたを見ていた。4年、5年、6年も……見る目がないバカな女だった。

 顔立ちは悪くないのに華がない。母に冷たく言われた。ほかの人にも言われたことがある。それをきれいだなんて……レベルが低すぎる。

……月曜日、彼はいつも通りだった。いや、理容店に行ってきたようだ。髪がさっぱりしていた。私はいつもより距離を置いた。
 火曜水曜木曜日。タバコの匂いがしなかった。
 金曜日、判をもらいにきた彼に書いて渡した。 
『この間の居酒屋来れる?』
 彼はうなずく。

 この間と同じパターン。朝帰りはできないから、飲みすぎたフリをして金を払わせ、いうことを聞かせる。思い通りにさせる。
 どうでもいい男だから、どう思われても平気だった。

 同じパターンが何度も。
 おかしい。遅れてる。ありえない。避妊させたのに。きちんと。きちんと。きちんと……
 彼は謝った。ごめん、君が寝てるとき……
 私は叩いた。頬を何度も。
「いい加減な人」

 愛などなかった。誠実そうにみえたがだらしない人。
 でもタバコはやめてくれた。
 酔った私がタバコ臭くて嫌だと拒んだから。歯医者へいってきた。念入りに磨いている歯は白くなっていた。

 吉岡は、父ひとり子ひとり。高校中退。貯金なし。
 母が笑うわ。  
 趣味の釣りで金はない。趣味のバイク。
 車のローンはたくさん残っている。
 でも、釣りをやめ、バイクは売るという。釣具も売るという。仕事も増やすという。
 父親は職人だから定年はない。家はあるけど古い。古いけど一緒に住めば家賃はかからない。
 30になるのに親に寄生。稼いだ金を全部使い、家に1銭も入れていない息子。税金も年金も把握していない。選挙に行ったこともない。

「あなたとは性格が、生き方が違うの。絶対うまくいかない」
「直すから、全部直すから。いやだよ。俺の子だ。大好きな、君の……4年も思ってきたんだ」
「……借金は?」
「ないよ。オヤジには借りてる。少し」
「いくら? 返さないのね?」
「オレがだらしないとオヤジはボケないですむ……」

 呆れてものが言えない。
 父親は真面目だ。亡くなった母親を思い、酒が入るといまだに泣く。
「家の中のことは掃除も洗濯も……やらせてるの? ボケないように?
 過去にも妊娠させたことあるの?」

 過去はどうでもいい。私にも過去はある。

 家に行って父親に会った。
 こんなきれいな人が、と父親は喜んだ。
 家は古いけれど片付いていた。手作りの椅子や棚があった。仏壇には新しい花が備えてあった。 
 低姿勢で、父親が茶を入れてくれた。私のために有名な店の最中を買っておいてくれた。
 私は弱い。自分のためにしてもらった経験は少ない。
 父親は私に似ていた。他人にも息子にも利用されているのだろう。

 ヴァイオリンの発表会に出た。グループで演奏した。
 ロングスカートに白いブラウス。舞台で正面の席など初めてだ。習い始めて1年も経たないのに熱心に練習した成果。華やかな舞台。
 私の観客は……ひとりだけ。
 恥ずかしいから来ないで、と言ったのに。
 彼もこんな場所は初めてなのだろう。自分で買いにいったのかいつもと違う服。
 私が先輩にプレゼントしたブランドのものだ。高かっただろうに、店員に勧められるままに買ったに違いない。
 手には花束……演奏のあと、他の観客を真似て彼は花束をくれた。
 花をプレゼントされるなんて初めての経験だ。素敵な花束だった。奮発したのだろう。節約しなければならないのに。

 恥ずかしいから来ないで……
 あなたを見られるのが恥ずかしかった。
 ごめんなさい。
 素敵よ。はにかむ顔が素敵だわ。恥ずかしくなんかない……


 私は結婚した。結婚式はあげなかった。これから金がかかるから、と。
 両親には家に連れて行き1度会わせただけだ。兄の結婚式とマンション購入の援助で私の分は残っていない。
 4年間、家に入れていた金を、もしかしたら貯めておいてくれてるかも……なんてことはなかった。期待はしていなかったがむなしかった。
 しかし、なぜ? 望まれなかった子なのか? 私にかわいげがなかったからなのか? 無邪気に甘えれば違っていたのだろうか?

 義父は喜んだ。やがて生まれる孫のためにベビーベッドを作ってくれる。
 待ち望まれている子どもの名を考える。
 義父は金をくれた。息子が貯金もなくて申し訳ないからと。その金で水回りをリフォームした。 
 母親が花が好きだったので小さいが花壇がある。
 義父は野菜を作っていた。手のかからない人だ。つわりで辛いとき、出産前後の辛いとき、息子より気を使い動いてくれた。

 義父のことは信じる。夫のことはわからない。
 用意はしておく。
 いつでも捨てる用意をしておく。
 母とは違う。

放言

 父は真面目で子煩悩な男だった。
 15の歳に故郷から出てくると、手に職をつけるために小さな靴店で修行した。父の作る靴は高価だった。しかし、やがて、大量生産に負けた。父の勤める会社は給料が上がらず、ある日社長は蒸発した。
 腕のある父に仕事はあった。障害者の靴を作る会社から誘いがあった。提示された給与、賞与は以前のところとは比べ物にならない。真面目な父は人望も得た。大学病院に出入りするようになり教授と打ち合わせをする。その教授からからコーヒーの粉をもらってきた。当時はまだインスタントが主流だった。父はネルの濾し袋で、教授に教わったようにコーヒーを淹れてくれた。母と私は砂糖を3杯も入れて飲んだ。

 ようやく人並みの生活ができるようになった。父は質素だった。将棋が唯一の趣味で私に教えた。初めはハサミ将棋だったが、覚えが早いことがわかると本将棋を教えた。父と将棋を指す。幸せだった。
 父は職人だから器用だ。川に行き流木を拾ってくる。私は自転車の荷台に乗せた木を押さえた。ふたりで歩いた道、話したことを鮮明に覚えている。
「女将棋指しになるか?」
 聞かれて困った。将棋は好きだけど……
「先生になりたい」
「じゃあ、大学に行かなきゃな。おとうさんが稼いで行かせてやるからな。腕がいいから定年はないんだ」
 父は運んだ木を乾かし将棋盤を作った。私は家の前で見ていた。古い小さな平屋の借家だが、左右に小さな花壇があって、父は季節ごとに種を植えていた。なんだったろう? 松葉牡丹、ケイトウ……夏はアサガオが屋根の上まで伸び、咲いた花の数を父と数えた。
 分厚い将棋盤の脚はナイフで格好よく彫られた。立派な出来栄えだった。
 将棋はすぐに上達した。最初父は自分の駒を減らし打ったが、同格になった。父は娘の頭の良さに感心した。
「誰に似たんだろう?」

 母は無知だった。ある日、空の星を見て、
「あの星は、もうないのかもしれないのよ。何十万年も前に出た光を見ているのよ」
と私が言うと、母には理解できなかった。
「そんなバカなことがあるか」
と怒り出した。
 その頃から私は母親を軽蔑するようになった。時々は母は朝起きれず、父は何も言わずに自分で弁当を作り仕事に行った。
 
 父が作った立派な将棋盤は、真ん中から少しずつヒビが入った。分厚い将棋盤のヒビが大きくなっていった。作り方がまずかったのだろう。

 母は娘のことなど考えてはくれない。良い母親とは思えない。良い妻だとも思えない。料理は下手だし、いや、それ以前に嫌いだった。努力をしない。家事が嫌いだった。おまけに、朝、起きられなかった。血圧が高いとか、言い訳をしていたが。
 私が熱を出した時も、夜中に心配して額に手を当てるのは父だった。喉が痛いときに砂糖湯を作ってくれたのも父だった。
 それでも小学校の低学年までは母のことは好きだった。高学年になると母の性格をいやだと思うようになった。家に出入りする酒屋やクリーニング屋と長話をしていた。パート先の若い男を家に入れていた。私はおぼろげだが思い出した。小学校4、5年の頃だろうか? 

 家の近くに、住み込みで働く若い男がいた。よく母と話していた。私に菓子を買ってくれた。その男はある日いなくなった。私は遊んでこい、と、伯父に言われ、土手を歩いた。なにかあったようだ。しばらく時間を潰し戻ると、
「おまえのかあさんはしょうがないね」
と伯母が言った。それを伯父がたしなめた。
 母はいなかった。母は実家に帰ったのだ、と父が言った。私は布団をかぶって泣いた。
 記憶ははっきりしていない。あれは夢だったのか? 母は数日後には戻っていた。何が起きたのかはわからなかった。

 それから父は私を見なくなった。父は仕事から帰ると毎晩テレビを相手に晩酌をした。私も父とは話さなくなった。父娘とはそんなものなのだろうと思った。父母は喧嘩をすることもなかった。

 母は中1のときに死んだ。心不全で、あっという間だった。その日、母は友人の家に遊びに行っていた。ビールを飲んで喋っているのだ。私はひとり家にいて勉強していた。夕方、母の友人から電話がきた。
 おかあさんが具合が悪くなった……
 
 母の死は現実ではないように感じた。近くの友人の家に行くと救急車がきていた。訳もわからず私は乗せられた。母は苦しそうだったが、娘の顔を見ると笑ったような気がした。苦しくても笑おうとした。

 近くの小さな病院。入って15分もかからなかった。先生が、手遅れでしたね、と言った。何が手遅れなのだろう? 母は長くは生きられないということなのか? ほどなくして父が駆けつけた。 土曜日だった。1月の土曜日、父は仕事の後、家に戻ったところを、誰かに教えられたらしい。
 父は死に目には会えなかったが、しっかりしていた。逝ったばかりの母は苦しそうな顔をしていた。悲しみは感じなかった。こんな顔を人に見せられない……そんなことを思った。
「運命だな」
と父が呟いた。

 残された父とひとり娘。父はしっかりしていた。私に先に帰って親戚に電話するよう、それから部屋を片付けておくよう言った。

 伯母に電話をした。伯母は何度もなにがあったのか聞いた。怒鳴った。
 狭い家を片付けた。平家の借家は2部屋しかない。
 奥の私の部屋に母は寝かされた。戻った母は穏やかな顔をしていて私は安心した。近所の人達が集まってきた。町内会の女たちはテキパキと動き、私は座っているだけだった。
 伯母が駆けつけてきた。伯母は私を抱きしめた。意外だった。母の兄の妻に会ったのはしばらくぶりだった。
「おまえのかあさんはしょうがないね」
 言われたその言葉は覚えていた。あの日以来、親戚付き合いも減っていた。
 抱きしめられ、初めて涙が出た。泣かなければ悪い……そんな気がした。
 父は葬儀屋と相談していた。私は心配した。葬儀屋が提示する金額。父は高い方を選んだ。伯母が、大丈夫なの? と聞いた。

 私は家事をやらざるをえなくなった。父は娘に金を渡し、私はきちんとレシートを見せた。おかずは商店街で買った。天ぷら、フライ、焼き魚、ポテトサラダ、惣菜を作って売っていた。母もよくそこで買ってきて済ませていた。食卓は変わらなかった。ときどき、母が作っていた湯豆腐や、もつとこんにゃくの鍋にした。たいした料理をしない母だったが、この2品は好きだった。アルミの平たい鍋で真似てみた。昆布にタラ、鍋の中央に醤油と鰹節の入った湯呑み茶碗。これは母と同じ味にできた。もつとこんにゃくの味噌鍋は何度作ってもできなかった。教えてもらっておけばよかった。

 やがて父の酒の量は増え、仕事にも影響が出るようになった。朝、酒が抜けていない。仕事を間違える。だんだん信用をなくしていった。夜中に泣いている。母の名を呼んで。それほど愛していたのか? 生きているときには思わなかった。むしろ逆だ。父は怒っていた。母はいい母親ではなかった。金の管理も父がしていた。料理も母は苦手だった。手抜きだった。

 母に死なれると父の人生も終わってしまったようだ。私は夜中に泣いている父を情けないと思った。なぜ、娘のために頑張ってくれないのだ? 
 そして父はついに仕事を失った。

 その夜、大喧嘩をした。すごい剣幕で父を罵った。
「私のことはどうするの? 高校行けないの?」
 酒浸りの父は、酒が入れば饒舌になり泣く。シラフのときは無口だった。
「おまえは冷たい」
 言われて逆上した。
「酔っ払いに優しくしろって言うの? 父親のくせに。情けない」
 つぎの言葉で私は黙った。いくら酔っても今までは言わなかった。告白させてしまったのは私だ。

 歩いた。どのくらい歩いたのだろう? ここはもう隣の区だ。橋を渡ればH高がある。第1志望の都立高校。目指して頑張ってきたが……橋の上で止まった。川が流れていた。
 高校には行けない。全日制には。それどころか、もう家には帰れない。ひどい父親だと思う。いや、父ではなかったのだ。

息子よ 1

 分厚い封書が届いた。差出人は……
 原稿在中
 手書きの原稿 見覚えのあるきれいな字だ。
 H高文芸部OGのマリーへ
 読んでいただければ光栄です。
      

   無題

 母が死んだ。
 7月の暑い午後、母は幼児を庇って車の前に飛び出した。
 葉子から連絡が来た。状態を聞いても泣きじゃくり、要領が得ないとEの声に変わった。
「とにかくすぐ来るんだ」

 実感が湧かなかった。電車の方が早い。家に向かう道すがら由紀夫は10年前のことを思った。

 難関校の合格発表の日、母と喜びを分かち合った。父は早世していたが、祖父母も大喜びだった。
 その週の土曜日だ。祖父母と母は法事で留守だった。黒いスーツに黒のストッキング、化粧は控えめだが母はきれいだった。
 出かけたあと母の部屋に入った。きれい好きな母の部屋は見事に整頓されていて、少しでも動かせばすぐに気づかれそうだった。タンスの上に亡くなった父の写真が数枚飾ってある。実物に抱かれた記憶はない。

 なぜあんなことをしたのか? 由紀夫はタンスをあけてみた。整頓された下着類をいじることはできなかった。
 和ダンスには紙に包まれた着物が入っていた。小物類の箱をそっとあけてみる。そこにはよくわからない着物の付属品が入っていたが、明らかにそれは隠してあったのだ。
 1本のビデオテープ。なにも書いてない。 

 人の部屋に勝手に入ってはいけない。人のものを勝手に見てはいけない。
 父親代わりの由紀夫の祖父は孫を正しく導き育ててくれた。
 しかし由紀夫は誘惑に勝てなかった。

 すぐに後悔した。
 映っていたのは若い頃の母だった。
 入学式でも成人式でもなかった。若い母が恥ずかしそうに服を脱ぐ。

 きれいだよ、と男の声。
 恥ずかしがるなよ。ビーナスの誕生だ。
 手をどけて。目に焼き付けておくよ。君の体……
 テープは不鮮明だが明らかに母だった。若い母と男の行為だった。男の顔は映らなかったが父のはずがなかった。
 家のために自由な結婚はできなかったはずだ。祖父の選んだ会社の後継者、母は従うしかなかった。
 思い当たることがいろいろあった。母は電話が鳴ると必ず自分が出た。由紀夫が出ると電話は切れた。
 母は電話のあとすぐに出かけた。祖父母は黙認していたようだ。母は独り身なのだ。しかし結婚前から続いている? 
 由紀夫はぞっとした。父は知っていて結婚したのか?

 日が暮れて由紀夫は家を出た。帰ってくる母と顔を合わせたくはない。早足で歩き続けた。暗い方向へ導かれていく。
 そこで女とぶつかった。若い女は勢いよく倒れスカートがまくれた。悪夢だった。

 悪夢は女の方だったろう。乱暴されて殺されると思ったようだ。それほど異常者に見えたのだろうか?

 由紀夫は吐いた。悪寒がした。
 家に帰らないでいると祖母が探しに来た。15歳の孫を探す過保護な祖母だった。
 公園のベンチでみつかり由紀夫はまた吐いた。祖母は風邪だと勘違いして自分のコートを由紀夫に羽織った。
 戻れるのは家しかなかった。自分の部屋に入り鍵をかけた。従順な孫の反乱に家の中はパニックになった。祖父がドアを蹴破ろうとした。祖母が止める。ドアの向こうで祖父母が言い争っていた。
「あなたが厳しすぎたのよ。いつかこうなると思っていた。もう孫まで失いたくない」
 母が宥める。
 私が悪いんです、と。

 終わりだ。由紀夫は机に頭をぶつけた。しかし気を失うこともできなかった。
 派手な一夜が明けると由紀夫は祖母の友人の家にあずけられた。

 母の顔はずっと見ていない。あずけられた家には小学生の女の子がいた。母親は亡くなっていた。
 面倒見のいい祖母の友人と幼い葉子は歓迎してくれた。家の主人は仕事が忙しく帰るのは夜中だった。 

 由紀夫は勉強に打ち込んだ。悪夢を忘れようとした。
 ひとつの悪夢は理解しようとした。母はひとりの女なのだ。母の人生なのだ。
 忘れられないのはそれによって犯した自分の罪。あれは……現実だったのか? 
 自分が犯したのは夢の中の母親。吐き気がこみあげる。由紀夫は記憶を押しやる。そのかわりに償いとしてボランティアに精を出した。

 寂しがりやの葉子の面倒を見た。葉子の祖母に頼まれ女手では無理な仕事を任された。器具の取り付け、修理。由紀夫は得意だ。
 珍しく大雪になった翌朝の雪かき。葉子は雪の球を投げてきた。雪だるまを作った。
 3年間、由紀夫はその家の息子のようだった。葉子は妹のような存在だった。祖母はよく遊びにきた。母と祖父のことを話した。由紀夫の顔色を伺いながら。
 祖母は由紀夫が荒れたのは厳格な祖父に反抗したためだと思っている。母は祖父の言うことには逆らえない。

 大学に入ると由紀夫はひとり暮らしをした。葉子の家を出るとき、葉子は由紀夫の車を追いかけて転んだ。
 胸が痛かった。ずっとそばにいてあげたかった。しかし……
 君のそばにいてはいけないんだ。僕は……なにをするかわからない。成長していく君のそばにいてはいけないんだ。
 由紀夫はボランティアに明け暮れた。辛い仕事は買って出た。アルバイトの給料が入ると寄付をした。寄付するところは次から次に出てくる。匿名ではなかった。償いだ。誰に認めてもらいたいわけではないが、許されないだろうが……
 いくらかでも自分の罪が軽くなるように……

 祖母が危篤……由紀夫は病室で母に会いトイレに駆け込み嘔吐した。
 祖母は誰かを待っていた。祖父に追放された甥か? 祖父の会社の金を持ち逃げし、付き合いは絶たれた。祖母のかわいがっていた甥だったが、祖父は許さなかった。
 祖母はよく祖父を責めていた。厳しすぎると。死の間際まで祖母は待っていた。それ以来祖父も弱くなった。

 祖父は祖母の形見のレコードを聞いていた。由紀夫に聞いた。
「厳しすぎたか? 自由がなかったか?」
「そんなことないよ。いつもきちんと叱ってくれた」
 本当のことは言えない。
「おまえは自慢の孫だ」
 ーー僕は犯罪者なんだ。

 祖父も祖母のあとを追うように死んだ。祖父も最後まで甥を、誰かを待っていた。
 母はひとりになった。家に戻れと親戚は言う。 
 由紀夫にはもうわかっていた。母は知っていたのだ。こうなった原因を。
 几帳面な母親にはすぐにわかったのだろう。だが弁解できなかった。思春期の息子に言えなかった。母の顔を見れば息子は吐く。母はただ時が過ぎるのを待っていた。由紀夫が大人になるのを。
 家を出るのが少し早かっただけだ。


 母は書道を教え始めた。はがきが届いた。葉子を引き取ったと。
 葉子……懐かしい名前。母は二十歳の葉子を自分の娘のようにかわいがっている。母のない娘と娘のない母。
 ふたりは一緒に買い物に行き料理をし、寝るのも同じ部屋だ。 
 葉子、僕の代わりに母に孝行してくれ、と由紀夫は願う。

 祖父母に線香をあげにいく。母の顔は見ない。葉子は変わっていなかった。由紀夫の目には眩しいくらい美しくなっていたが、10年経っても懐いてきた。10年の歳月を感じさせない。母との気まずささえ薄らぐ。
「来月も来てね。お線香あげに来てね。月命日には来ないとダメよ。月に2度は来てね」
 葉子は甘える。子供の頃のように。

 そのうち母の書道教室には大人も習いにくるようになった。母の人柄だろう。由紀夫と同年代の男がふたり。日曜日に習いにきている。
 葉子とはしゃぎ手料理まで食べていく。由紀夫も誘われたが自分の部屋にこもった。
 生徒のEが弾いているのか? 女に持てそうな男だ。葉子が好きになるのでは? 
 ピアノに合わせて葉子ともうひとりの男が歌っている。母が歌うのも初めて聞いた。

 小さな木の実

 歌詞に泣けた。父と息子の絆を歌う……由紀夫は入ってはいけない。楽しんではいけないのだ。
 それでも毎週帰った。月に2度が毎週になった。葉子の顔が見たくなって。葉子とふたりの男のことが気になって。

息子よ 2

 もう充分苦しんだ。もういいだろう? 人並みの幸せを求めても。
 しかし夢を見る。思い出したくない夢。思い出したくない空き地。刑事が捕まえにくる。まだ時効ではない。時効間際に捕まったという強姦事件の記事も読んだ。
 あれは、事件になったのか? その話題を聞いたことはない。あれは、闇に葬られた……

 気がつくとEが目の前にいた。
「ごめん。ノックしたんだけど」
 彼は由紀夫の顔を覗き込む。
「偉いんだね、君。また寄付したね。新聞に名前が出てたよ」
 この男は新聞の災害の寄付欄にまで目を通すのか?
「偽善者です」
「女に興味ない? 葉子ちゃんにも? まさかゲイ? 童貞とか?」
 葉子とOも入ってきた。
 由紀夫さん、ゲイなの? 
 えーっ? 
 童貞はOちゃん……キャッキャッキャッ……
 若い娘が。
「Eさん、彼女とうまくやってる?」
「やってるよ。ジャンクセックスはしてないよ。君に言われたから……」 

 若い娘が、若い男たちがあんなふうに、あんなふうに話せたら冗談にできたらどんなにいいか……
「ごめん。かあさんのビデオ、盗み見たんだ。きれいだったよ」


 

 病院で見た母の顔は事故で酷く傷ついていた。傷ついた顔を見ても平気だった。見ても嘔吐しなかった。
 悲しんでいる暇はなかった。喪主として決めることが次から次にあった。葉子がそばにいて手伝ってくれた。悲しみに浸らないために葉子もキビキビ動いた。
 Eが母に死化粧をした。傷跡を隠し、生気を取り戻させていった。由紀夫は口を押さえて部屋を出た。

 母の葬式に、その女は来た。母によく似た双子の妹。親戚は怒った。
「もうあなたに渡す遺産なんてない、あなたのためにどれだけ苦労したか、親の葬式にも来ないで」
 勘当された母の妹は正反対の性格だった。厳格な父親に従順な姉。反抗し家を出て行った妹。
 勘違いだった。
 あのビデオは妹のものだった。おそらく恐喝されたのだろう。母は妹に泣きつかれて尻拭いをしてやった……

 台所に立つ、母そっくりの女。殺してやりたい。この女のために母は電話が来ると会いに行き金を渡した。
「ねえさんだけだった。味方は。ママは私を見捨てた」
 叔母が振り向いた。母にそっくりの顔。
「いろいろあったけど今は幸せなのよ。息子がいるのよ。15歳。私に似ないで優秀なの」
 ではその息子に見せてやろう。あのビデオを。どんな反応をするだろうか? 
 いや、あんな反応をした自分が悪いのだ。なにもなかったように過ごせばよかったのだ。
 叔母が帰り由紀夫は祖父の聞いていたレコードをかけた。

 お前が生まれた時 父さん母さんたちは
 どんなによろこんだ事だろう
 ーーーーーーーー

 お前は大きくなり 自由がほしいと言う
 私達はとまどうばかり
 ーーーーーーーー
 
  (Anak 日本語詞 なかにし 礼)

 我が子よ……祖父母は出て行った娘のことを思い泣いていたのだ。死ぬ間際までもうひとりの娘を待っていた。

 叔母のことを思う。情景が浮かぶ。悪い仲間に入り夜の街をさまよう。母は必死で止めたのだろう。
 由紀夫は母の部屋に入った。あの日以来だ。あのビデオを観た呪われた日以来……
『心を病む子供達』
 これは妹を理解しようとして読んだのか? 

 久しぶりにビデオを観た。こんなもののために長い時間を無駄にした。祖父母にも辛い思いをさせた。
「君でもこんなもの観るんだ」
 振り向くとEがいた。慌てて消そうとするとEが止めた。
「おかあさんだね。すごくきれいだ。ビーナスの誕生か」
 なんていう感想を言うんだ。
「おかあさん、愛していたんだ。おとうさんを。結婚を反対されて駆け落ちした。優秀で従順なあの人が。
 なにも知らないんだな。おかあさんのこと。勘当されて君が生まれて、おとうさんは不治の病にかかった」
「母じゃないよ。母だと思い込んでいたけど違ったんだ。あの女だった」
「おかあさんだ」
 彼は続けた。
「死を覚悟してふたりは愛し合った。おかあさんは乳飲み子かかえて頭を下げて戻ってきた。治療にはお金がかかるから。
 すぐにおとうさんは亡くなったけど、おかあさんが愛したのは君のおとうさんだけ。君は日に日に似てくるって」
「母はあなたに話したんですか?」
「思春期にこれを観て、世界が終わった、か? 10年前の冬」
「……」
「神聖な愛なのに」
 ビデオの終盤、男が喋る。
「死ぬときはこの何倍も気持ちいいらしいよ。神様の最後の贈り物だ。そう思うと死も怖くないな……由紀夫を頼む」
 由紀夫の目から涙が吹き出した。声を抑えられなかった。なぜ最後まで観なかったのだ?
「最後まで観なかったのか? バカだな」

 納骨まで葉子はいてくれると言う。
 おかあさんのそばにいたいから、と。
 近所の目がある。親戚の目も。自分はいいが……
 葉子は近くに部屋を借り働くと言う。
 嬉しかった。母の残してくれたプレゼント……


 四十九日も過ぎ、EとOが線香をあげにきた。Eに言われ葉子と4人で散歩した。
 行きたくない場所。決して近づかなかった場所。
 悪夢を思い出す、いや、忘れはしない。

 そこはきれいに整備された公園になっていた。
「10年前は草が茂っていて夜になると暗くて、女は危ないから通るなって言われていた」
 Eが話しだした。
 彼の高校時代、愛した女が乱暴された。ここで……
 さらに不幸なことに妊娠した。
 さらに不幸なことに……

「僕は知らなかった。ついこの間まで。ついこの間まで、彼女の相手はOだと思っていた。彼女はOを愛しているのだと思っていた。

 彼女の手紙を読んで決心した。
 10年経ってる。犯人を探すのは不可能か? 
 しかし、できるだけのことをやらなければ……
 翌日から僕とOは周辺を聞き回った。Oが仕事の日はひとりで聞き回った。
 この公園の周辺は建売の家が立ち並び、10年前にあった工場はなくなり、精神病院は老人施設に変わっていた。
 彼女の手紙にあった、夢遊病者か麻薬常用者。もう調べることは不可能か?

 ぶらぶらと歩き回ると古いたばこ屋があった。吸いもしないたばこを買い、話好きな老婆に昔の話を聞いた。引っかかることはなにもない。ただひとつだけを除いては。
 僕は老婆に聞いた家を探した。古くからの土地持ちの邸。
『あのうちの子は皆出て行った。娘も孫も。幹夫さんが厳しかったからね。娘はひどかったねぇ。孫の由紀夫君は真面目すぎたんだよ。名門の高校に受かったのに……』

 2月8日は私立高校の合格発表のあとの土曜日だった。
 その翌週、真面目な由紀夫君は大きな邸を出て行き、知り合いのところから通学した。
 なぜ? 
 以来祖父母が亡くなり母親ひとりが残されても戻らない。


 僕は家をのぞいた。娘も孫も出て行った。ではあの娘はなんなのだ? 20歳くらいの活発そうな娘は?
 娘と目が合い、とっさに芝居をした。僕は立ちくらみがした振りをし、門の前でしゃがみ込んだ。

 あなたは駆け寄り庭に入れ、椅子に座らせてくれた。落ち着いたふりをすると、あなたはわざわざ家に入り飲み物を持ってきてくれた。濁った茶色い汁。鰹節の匂い。
『飲んで。出し汁よ。ジャンクフードばかり食べてたらダメよ』
『ジャンクフード?』
『ジャンクフードにジャンクセックスはダメ。生き方を変えなきゃ』
 思わずあなたの顔をみつめた。初対面の男になにを言い出す……? 
 日の光の下でもあなたはきれいだった。健康的で肌も目も髪も歯も輝いていた。本気で見ず知らずの僕を心配してくれた。心のきれいな女性だ」
「やめてよ。恥ずかしい」
 葉子を無視して彼は続けた。
「女主人が出てきた。走ってきた。警戒していた。ピンときた。武道に精通している。あの人が守ろうとしたのはあなただね。
『ヨウコちゃんのお友達?』
とあの人は聞いた。ヨウコ、か。
 僕は取り入った。年配女性には受けがいい。礼儀正しいからね。表札に書道教室の看板があった。僕は生徒になった。Oも誘った。ヨウコはOの好きなタイプだ。

息子よ 3

 思ったとおり、Oはあなたに惹かれていった。Oのシフトに合わせて日曜日の午前中早めの時間、僕たちは書道教室に通った。
 Oを見ると女主人の書道教師の警戒心は完全に解かれた。
 人徳。Oの人徳だな。幼稚園からの親友だ。Oは半紙に『葉子』と書いた。
『5月生まれ?』
とOが聞いた。
『8月生まれだろ?』
と僕が聞いた。葉月の8月。
『生命の息吹を感じる名前。亡くなったおかあさまが付けたのよ』
 先生の説明にあなたは涙ぐんだ。Oは完全に惚れた。遅番の時間ギリギリまでいて、あなたに見送られ自転車を漕ぐ。
 Oの恋を応援したい。僕は本気でそう思っていた。しかしあなたには意中の男がいた。

 初めて由紀夫君に会った。僕は自分の推理が間違いだと思った。君はまるで聖職者のよう……
 手を合わせて拝みたくなるように神々しかった。おかあさんの自慢だった。災害があればボランティアにいく。警視総監賞をもらったこともある。物欲のない珍しい男だと。

 葉子は君を愛している。こんなにわかりやすい女はいないな。Oはがっかりした。Oは身を引く。Oはいつでもそうだが……
 Oはボーナスでペンダントを買った。振られてもいい。葉子の幸せを望む。

 いつも襟の高い服しか着ていないのはなぜだい? 葉子ちゃん。
『Tシャツを着ないな、病気の跡でもあるのか?』
 Oでさえ気づいた。そのほうがマシだな。
 小説みたいに? クリスティの小説みたいにさ……病気のあとならどんなに醜くたってOの気持ちは変わらない。
 結局プレゼントは渡せなかった。先生が亡くなってしまったから……
 10年前の2月8日、ここで強姦したのは君だろ? 僕の彼女はずっと苦しんだ。今でも」

 もう覚悟していた。
 過去の卑劣な犯罪を葉子の前で暴露された。
 優しいOが止めた。
「もう、やめろよ。葉子ちゃんの前で。彼女は喜ばない」
「どうして、おまえはそうなんだ? こいつのせいでおまえは俺に殴られた。Oは妊娠した彼女を中絶させた。自分のせいだってことにして。僕は知らなかった。ついこの間まで。
 葉子、君にわかるか? 彼女の苦しみ。年月が過ぎても彼女は忘れない。犯人は嘔吐した。
 なぜだ? 嘔吐した。風邪か? 胃腸炎か?  
 心配症な彼女はエイズを疑った。エイズにかかった男が絶望して手当り次第移しているのだと……
 なぜ吐いた? おかあさんを見ると君は吐いた。あのビデオのせいか? あのビデオに刺激されて欲情した」
 由紀夫は殴られ立ち上がった。また殴られるために。愛する葉子の前で下劣な犯罪を暴露された。死んだほうがマシだ。
 殴られ蹴られる……OがEを止める。
 葉子がEの前に立ちふさがる。
「どけよ」
 葉子は両手を広げて立ち塞がる。
「あんたは罪を犯したことがないの?」
「……」
「もう充分苦しんでる。償いはしたわ。何人もの人を助けた」
「そうだな。許すよ。これで……
 君はなぜOを選ばない? 由紀夫は君にはふさわしくない。いや、君はOにふさわしくない」
 Eが話した衝撃の真実。
 彼は葉子のハイネックの襟を引き下げた。いつも隠していた葉子の首にはくっきりしたアザがあった。
「刑務所で首を吊った。麻薬常用者は君だ」

 衝撃を受けるふたりの男。葉子は力をなくし立ちすくんだ。
 葉子は自分から告白した。
「刑務所で首を吊り、死にそこなった。死にそこなったのは2度目。由紀夫さんがいなくなって、おばあちゃんが死んで、パパは忙しくて広い家にひとり。寂しくて悪い仲間と悪いことして……」
「万引きに援助交際。家出して売春、乱行。よく妊娠しなかったな? エイズにもならなかった。どこまでも落ちて覚醒剤に手を出した」
 Eが付け加える。
「パパが、もう手に負えないから少年院に入れるって。それでもまたやって死にそこなった。遠い刑務所に入れられた。パパは面会にも来なかった」
「死にそこなってどうだった? 快感だったか? セックスの何倍も?」
 葉子はEを睨んで続けた。
「ある日おばさまが面会に来たの。由紀夫さんの母親だって。懐かしい気がした。大好きだった由紀夫さんのおかあさん。おばさまは息子に見捨てられたって。私は父に見捨てられた。
 おばさまは私を引き取ってくれた。悪い友達が来るから家には帰さない。絶対立ち直らせるから覚悟を決めなさいって。
 トイレもお風呂も付いてきた。抵抗しても強くて敵わなかった。いろいろ教えてくれた。ママが生きてたら教えてくれたのかしら? 礼儀作法、書道、料理、本も読んだわ。たくさん話した。
 どうせ、汚れきった女だから……おばさまは、死んでもいいと思う人に巡り会うまで死んだらダメだって……」
 そう言うと葉子は去った。去るしかない。

「追いかけろよ。由紀夫、早く追いかけろ」
「目糞、鼻糞を笑う、か。由紀夫君」
 OがEを殴った。Eの唇が切れた。
「バカヤロウ。こんなことして……知ってたんだな、調べさせたんだ」
 葉子を追いかけたのはOだった。
「バカなやつだ。由紀夫君、僕は消える。あとはOに任せる。仇は取った」

 死んでもいいと思う人と巡り会えるまで……
 彼女となら死ねた……
 僕は、君となら死ねた……
 

 墓石の前でEは葉子とOに土下座した。
「かまわないわ。事実だもの。いつまでも隠してはおけなかった」
「自分の復讐のために君を利用した」
「そのまえに褒めてくれたわね。褒めちぎってくれた」
「事実だ。君は輝いていた。健康的に」
「おかあさんのおかげ。もっと早くに出会えていたら……」
「Oは君の過去なんか気にしないよ」
「……」
「バカ、葉子ちゃんが愛してるのはひとりだけ。子供の頃からひとりだけだろ? 僕は許すよ。おかあさんに免じて。由紀夫を許す。あいつは苦しんだ」
「……」
「ほら、迎えにきたよ。行けよ。あいつの償いだ。おかあさんの代わりに最後まで君の面倒をみさせろ。だから許す。行ってくれ。僕たちはもう少しここにいる。早く行けよ」

 Oに言われ葉子は去った。Oはふたりが去るのを見ていた。
「あのペンダント、どうするんだ?」
「余計なお世話だ。派遣社員にかわいい子がいるんだ」
「俺が女だったら、絶対おまえを愛するよ」
「よせよ。気持ち悪い。唇、大丈夫か? 血が出てるぞ。もう、血は平気か?」
「おまえは……かばってくれた。小学校のとき、隣の子が彫刻刀で手を切ったとき、血を見てパニック起こした僕を宥め、バレそうになると自分が大袈裟に騒いで先生に怒られてくれた」
「そんなことあったか?」
「女みたいだって言われてたのに、弱虫だってわかったら絶対いじめられていた」
「どうする? 彼女に電話しようか?」
「時効はまだだ」
「もう、いいじゃないか。彼女は許すよ」
「夫がいるからね。まだダメだ」

       

    (了)


 稚拙な文章、読んでいただけましたか?
 あなたは行間を読んでくれるだろうか?

悲しい父娘

「だからやめろって言ったじゃん」
 辰雄は小さくなった賢治につぶやいた。
「でも、これで、やっとあいつは解放される」

 悲しい父娘だった。
 妻に死なれると、男は酒の量が増えた。ひとり娘の操はまだ中学生だというのに、賢治は酒で仕事を失った。
 操はバイトしながら高校へ通った。辰雄は力になっていた。
 しかし、哀れな娘は結核が見つかり療養することになった。

 療養の手続きは操が自分でしてきた。父親は酒に逃げ、嘆くばかりで役には立たなかった。
 操はもう、当てにはしていなかった。父親の顔も見なかった。
「療養中に死んでくれればいい」
 口に出した。よほど辛く悔しかったのだろう。

 操の療養中、辰雄は父親の面倒をみに通った。鍵を開けた賢治は案の定酔っていた。
 突然現れた娘の男友達は強引だった。部屋を片付け掃除した。畳にはタバコの焼け焦げがいくつもあった。
 就寝中、火を出されたら隣の部屋の操は……
 おちおち眠ることもできなかったろう。

 洗濯をした。賢治が着ている服を脱がせ着替えさせた。
「娘のこと、考えろよ。見舞いにも行かないで」
 父親は泣く。
「どうなるのかわかってるのか? 酒だけ飲んで死にたいのか?」
 酔った賢治は饒舌だ。辰雄の話を聞かない。
「だけどね、辰雄くん。オレだって辛いんだ」
 なんでも、だけどね……だ。
 うんざりだ。強く言うと、
「やめるよ。もう、飲まないよ。オレだって意思は硬いんだ。やめようと思えばいつだってやめられる」
 辰雄は酔っ払いの言葉を信じた。しかしすぐに裏切られた。
 
 人恋しいのか、酔った賢治は辰雄を待つようになった。鍵は開けてある。
「来たか、辰雄くん。入れ、入れ」
 締め切った部屋はひどい匂いだ。窓を開ける。 
 古くなったものを食べ、腹をくだしていた。ひどい臭気だ。操はこんな父親の世話をしていたのか?
 辰雄は酒を流しに捨てた。探して手当たり次第捨てた。ゴミ箱にはウジがわいていた。羽化して飛んでいるのもいた。冷蔵庫もひどい臭気だった。辰雄はすべて捨てた。
 風呂場には便で汚れた下着が洗面器に何枚も入っていた。小蝿がたかっていた。地獄絵だ。絵なら臭いはないが。
 タオルで鼻と口を覆った。すべて捨てた。辰雄はこういうことは手際がいい。

 風呂場を掃除しシャワーを浴びさせた。嫌がる賢治を大声で怒鳴り、服を脱がせシャワーを浴びさせた。怒鳴ると賢治は従った。臆病だった。情けない小男だ。しかし辰雄はすぐにかわいそうになり賢治をおだてた。
「背中、流させてくれよ。オヤジさん」
 優しくすれば賢治は泣く。だけどね、と言い訳をする。背中も腕も足も洗ってやった。
「前は自分で洗え」
 情けない男はもたもた洗っていた。

 賢治は辰雄を気に入った。掃除した部屋で辰雄は将棋を教わった。酒が抜ければ父親は無口だ。いい父親なのだろうに。
 しかし、翌日にはもう酒を買ってきていた。饒舌だった。怒ると、
「だけどね」
が口癖だ。
「だけどね、辰雄くん、オレだって辛いんだ」
「操はもっと辛い思いをしてるんだ」

 買ってきた惣菜を食べさせた。辰雄は酒しか買ってきていない。冷蔵庫は整理して古くなったものはすべて捨てた。
 辰雄は賢治の話に付き合った。酔っ払いの、とめどもなくみっともない男の話に。酔っ払いは話した。15歳で東京に出てきた。頑張った。
 頑張ったんだ、オレは……
 亡くなった妻のことを話すと泣いた。泣いて話した。妻が不貞をはたらいたことを。操が自分の娘ではないことも。


 賢治は酔うと話す。妻の事。何度も何度も。男がいた……操は……
「似てるよ。オヤジさんに」
「似てる? どこが?」
「似てるよ、輪郭が。他人が見たらそっくりだ」
 そう言うと賢治は喜んだ。
「そうか、似てるか? 操はオレの子だ。操を見舞いに行く、もう飲まない、あいつはオレの子だ」
 確信もなく酒に逃げていたのか? 真実を知るのが怖くて酒を飲んだ……
「見舞いに行くぞ。連れていってくれ。いちごを買っていってやろう。操は好きなんだ。いちごに牛乳と砂糖をかける。たっぷりかける」

 しかし、朝迎えに行くと酔っ払っていた。
「ああ、辰雄くん」
「辰雄君、じゃないだろ」
 ひどい状態だった。こんなことを何度も繰り返したのだな。操はとっくに父親を見限った。見限ったけどどうすることもできない。
 もう、放っておこう。殴る価値もない。放っておけば、酒だけ飲んで死ぬ……死ねばいい。
 死ねば解放される。操を解放してやれる。

 辰雄はしばらく行かなかった。非難されることではない。自業自得だ。冷蔵庫は空っぽだ。酒だけ飲んで死ねばいい。本望だろう。隣近所も承知だ。死んでくれればほっとするだろう。いつ、火を出されるかわからない。そんな心配がなくなるのだ。

 夏の暑い日が続いた。そのうち異臭に気付いて発見されるだろう。療養中の娘はどうすることもできない。同情されるだろう。解放してやるんだ。
 これは殺人か? わかっていて放っておく。いや、慈善だ。正義だ。あの薄幸の娘を解放してやるのだ。アルコールにむしまばれている情けない父親から。今死ななければ、操は苦しみ続ける。この先ずっと。
 構うものか。疑われてもいい。罪でもいい。
 辰雄は眠れなかった。起き上がり、布団にもぐる。

 操は、予想していた?
 辰雄が行かなければとっくに死んでいただろう。父親のことを誰にも託さず頼まず、望んでいるのだ。父親が死んでくれることを。
 明日。明日、そっと近くまで行って様子を見てこよう。どうか……どうか死んでいますように。 
 どうか、生きていますように……

 夏の暑い日だ。賢治は酒を買いに行き帰り道がわからなくなった。弱った足腰で迷子のように歩き回り、倒れて病院に運ばれた。その日、家を訪ねた辰雄は近所の人に教えられ、病院へ行った。
 父親の親戚は皆、遠い田舎だ。亡くなった妻の親戚とは縁が切れていた。操には知らせられない。辰雄は甥だと嘘をついた。
 ほとんど食事を取らないで、酒ばかり飲んでいた賢治は栄養失調になっていて、しばらく入院になった。辰雄は安心した。これで酒は飲めない。

 父親は3ヶ月近く入院した。酒が抜けると別人のようだ。精神科にもかかり、依存症の治療をした。辰雄が行くと喜ぶ。将棋の本を買っていってやる。まわりには息子だと思われている。親孝行の息子だと。
「もう、飲むんじゃないぞ。息子に心配かけんなよ」
「娘の彼氏だ。いい男だろう。もう酒はやめた。キッパリやめた。辰雄君、操と結婚しろ。
 孫ができたら、兜を買ってやる。ああ、働くぞ。腕はいいんだ。腕はいいんだ」
 賢治は嬉しそうだ。詰将棋の本を読んでいる。死なせなくてよかった、と辰雄は思った。

 操に話したが喜ばなかった。皮肉な微笑だった。余計なことをしてくれたわね……と思ったのだろうか?

 そう。父親は退院するとまた飲んだ。金がなくなれば盗んでも飲むのだろう。そうして、刑務所に入れられればいい。

 操は全快し高校に戻った。辰雄に感謝した。害虫駆除がされ、部屋は掃除されていた。操の部屋には新しいカーペットが。操の好きなグリーンだ。窓ガラスもピカピカだ。風呂場のタイルの目地も白くなっていた。台所も片付いていた。この家がこんなにきれいだったことはかつてない。
 冷蔵庫には食料が。いちごと牛乳が。季節はずれのいちごはデパートまで買いに行ってきた。戸棚には缶詰やレトルト食品。菓子。
 父親は泣いた。泣き上戸だ。安っぽい涙だ。

 父親は入退院を繰り返した。肝臓も弱っていた。
 操は卒業したが進学も就職もしなかった。当時は高卒でも大企業に就職できた。しかし、病歴のある操は健康診断で落とされるだろう。操はよく通っていた図書館でアルバイトをした。
 ますます美しくなった操には誘いも多かっただろう。しかし、父親のために操は真っ直ぐ帰った。病気の父親がいると言うと男は敬遠するようだ。それでもダメなときは自分の病歴を話した。

 操が働いたのは父親の治療費のためだ。いや、病院代のためだ。入院させるために働いた。近くの精神病院はすぐに入院させてくれた。操はバイトを掛け持ちした。近くの花屋でも働いた。花屋は寒いのだ。辰雄は操の体を心配した。

 父親は退院しても酒はやめられない。操が仕事に行けば飲む。タバコの火で畳を焦がした。
「帰ったら家が燃えてた、なんて思いながら帰るのよ。燃えてしまえばいい。あんな汚い男」

 どうしようもない酔っ払いはやがてボケた。足も弱り酒を買いに行くこともできなくなった。操は介護のために働く。ヘルパーに来てもらった。1日3回。自分が見ることはしない。憎んでいるのだ。

 そして、ようやく父親は死んだ。しぶとかったが死んでくれた。遺体は病院から葬儀場の霊安室に移された。家に戻ることはなかった。火葬だけの葬式。小さくなった遺体は1番安い棺に入れられた。操は1度も顔を見なかった。誰にも知らせなかった。火葬の間、微笑していた。幸せそうに。
 骨になって戻った家。操は涙1粒流さなかった。

短編集 Ⅳ

短編集 Ⅳ

  • 小説
  • 短編
  • 青年向け
更新日
登録日
2024-03-26

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. パパがカレーを
  2. アパートの手記
  3. 恩人
  4. 先輩
  5. ずっと見ていた
  6. 放言
  7. 息子よ 1
  8. 息子よ 2
  9. 息子よ 3
  10. 悲しい父娘