TL【蒸れ夏】金魚鉢回遊

feat.鯉月海夜。三人称視点/飄軽妹主人公/憎悪系ストーカー美人おじさん/

1


 今年も夏が来てしまうのだ。

 海夜(みや)は上着を脱いだ。季節は徐々に温かくなってきている。
 墓石の前に立ち、ただ立ち尽くすだけであった。線香もあげず、手も合わせず、水をくれも菓子を置きもしない。
『もしあたしが蘇生術使えるっていったら、お兄たむ、蘇る気ある?』
 事故死した兄は生きたかったに違いない。事故死なのだから。事故死なのだから、事故に遭ったその直前に巻き戻り、死を回避したいに決まっている!
『ねぇ、あーしや母父(マミパピ)のためだけに生きられる? 祭夜(さや)兄ちゃんの体裁のためだけに、生きていられる?』
 答えはない。死者の魂を乗せると言われる風でも吹けばよかった。死者の言霊を代弁するとかいう虫の鳴き声でも、死者の使者だと比喩される飛ぶ鳥でも構わない。何かあれば。あるのは嚔(くしゃみ)。彼女自身の反射であった。花粉症である。
『お兄たむ……』
 そこにあるのは雨風に晒された石である。
『殺風景なところだね。ここで花火やったら呪う? 怖い話みたいに』
 無軌道な若者を懲悪する寓話めいた怪談はありがちだ。
『また来るね、お兄たむ』
 そこに突き立っている手入れされた石を目当てに、またここへ来るのだ。おかしな話だった。石に関心はない。
 彼女は元来た道を引き返していく。杖をつき、足を引き摺った人物が反対側からやって来た。
「海夜ちゃん……?」
 兄が死んだ遠因なのではないかと、思わないでもない。だが否定したい。けれど確信を揺るがせることはできなかった相手。祭夜だ。墓場で笑みを浮かべているが、どうということはない。あるのは石の羅列だ。都会をコンクリートジャングルというのならば、ここは花崗岩畑だ。
 家に来ることを拒絶してから、彼はぱたりと来なくなった。だが月命日には墓参りに来ているらしい。それが尚のこと、海夜の疑惑を強めるのだった。疑惑ではない。確信だ。確信を、剥ぎ取らせてはくれない。

―月命日に墓参りに来る赤の他人には注意ですよ。罪悪感に浸ったときこそ、最も罪悪感から逃げられる瞬間なんです。

 兄の死後、知り合いの極悪人から受けたメールに書かれていた。その極悪人の死ぬ数日前のメールであった。最初は意味が分からなかった。印象には強く残っている。説教臭いその人の、ありがたく尊い、腹も満ちたり喉も潤う訓戒かと思われたが、海夜はそれを、どこか愚痴めいているように感じていた。
 だが繋がった。いとこのことを言っていたのだ。いとこは赤の他人ではないけれど。死してなお、極悪人の力は健在している。
「帰ってよ」
 無視すればよかった。ただ石と対面し、石に菓子を見せつけてまた回収し、その間に棒に火を点け、両手を合わせる奇行をしにいくだけだ。怒るところは何もないはずなのだ。
「帰ってよ! 帰って!」
 相手は身体障害者である。車も運転できなくなった。昔のように駆け回ることはもうできない。足の速いのが自慢だった。兄と並んで。彼からいえば、いとこと並んで。
 相手が身体障害者であるにもかかわらず、海夜はいとこを掴んだ。子供の喧嘩みたいだった。だが幼少期にこの人物と喧嘩したことなどない。父親はいなかったけれども、祖母と母親、その他親戚、学校の友人たちや保存会の人々に愛されて育った、鷹揚(おうよう)とした人だった。兄と違って。
「ご、ごめん、海夜ちゃん……」
 身体の均衡を崩し、尻から地面に落ちたのは相手のほうであったが、怒ることもなく、眉を下げて謝るだけ。横たわる杖を拾い、しかしすぐには立ち上がれない。片脚に力が入らないようなのである。
 海夜は惨めなその下肢から目を逸らした。生まれついての障害ではない。その脚が機能していた頃をよく知っている。彼はスポーツマンとして優秀だった。そしてその姿に、幼い頃にしか持ち得ない辜(つみ)のない感情は惹かれていたのだ。彼の片脚に必衰の理(ことわり)を見てしまうのだ。そしてそれがあまりにも唐突に、あまりにも早く訪れた。ゆえに惨めだった。
「でも、ごめんね。もう海夜ちゃんには会わないようにするから、ここに来るのは赦してね」
 優しい人なのだ。衝突を恐れ、強きに屈し、思想も自我も諦めて捨て去った、そういう弱さを履き違えている優しさではない。
 罪悪感に浸ったときこそ、最も罪悪感から逃げている瞬間……
 海夜は外方(そっぽ)を向いて、墓園を出ようとした。出入り口付近には駐車場があり、その脇を通らなければならなかった。また、出入り口と駐車場のあるすぐ傍に管理事務所があり、喫煙所があった。いくら喫煙所を設けても、風向きによっては通行人は受動喫煙の憂き目に遭う。
「跛行(びっこ)ひいてる人に、ちょっと酷いな」
 金髪の背の高い男がたばこを吸っていた。手入れのされていない自然的自然も多い墓場にそぐわない、俗っぽい外貌であった。都会の夜の繁華街で水商売をしていそうな。
 海夜はこの男のことも知っていた。車の運転ができなくなったいとこを、誰がここまで送迎してきたのか。
「ボクが君を八つ裂きにしようとしたときに、守ってくれたのは彼だよ」
 彼女にも心当たりがあるのだった。兄が、この男の姪で、いとこの恋人を監禁していた。そのときのことだ。同じ目に遭わせてやる。この男はそういう眼差しをくれていた。
 海夜は兄によく似た面構えで瀟洒(しょうしゃ)な身形の男を睨む。彼は陰険に口角を吊り上げた。
「お兄さんによく似ているね」
 彼女はそのまま、兄によく似た目元を横に逸らす。それが挑発だと分かっていた。そう直情的な人間にはなれなかった。兄の死に様に唾を吐きかけたようなものだった。
「性格も似れば、よかったんですけれど」
「困るな、それは。君のお兄さんがやったことはまだ赦せないよ」
 加害者は兄で、被害者は同性。被害内容が被害内容である。海夜もまたどういう感情を持っていいのか分からずにいた。兄がそういうことをした。そしてその後に死んだ。この事実をそうですか、とただ受け入れたのみである。
「被害者と加害者です。ワタシとそちらの感情は平行線。交わることはないです」
「子供ができたよ」
 どきり、と海夜の心臓が跳ねた。何がそう衝撃を与えたのか、彼女にも分からなかった。
「もうここには来させたくない」
 以前この男から、兄の死のために姪が不幸のなかにあるというようなことを告げられた。高校までやって来て、待ち構えていた。恨みは深い。
「もう来ないでと、伝えておいてくれますか」
「君はどうして来てほしくない?」
 海夜は胸の重みに言葉が出なかった。喉を迫り上げてくる礫(つぶて)を呑み込む。
「寝てるときの蚊の音みたいだから」
「子供、できたけど流れたよ。よかったね。内心、ホッとした? 名前も決めてた。こちらとして残念だよ。一番残念なのは、あの子たちだろうけれど」
 しかし知ったことではない。
「今でも君を、同じ目に遭わせてやりたいよ」
「海夜ちゃんは関係ないですから」
 脚を引き摺った祭夜がそこにいた。微苦笑を浮かべる様は、3年前と変わっていない。
「もう気は済んだのかい」
「海夜ちゃんが嫌がってるのに、行っても仕方がないです。せっかく連れてきてもらったのにすみません、義叔父(おとう)さん」
 海夜は駐車場へ入っていこうとした。
「気を付けて帰ってね」
 返事はしなかった。背中だけ向けていた。



 暑い日だった。敷かれた砂利がよく照りつけて眩しかったのを覚えている。
 海夜が自転車を飛ばしたとき、そこはすでに惨劇の後だった。同級生の南波(さざなみ)瑠夏(るか)が、横たわった女の脇で呆然としていた。
 砂利を踏む足音を殺すことはできなかった。南波瑠夏は、海夜の存在を認めた。赤く染まった包丁を手にしている。
「来たんですね。でもごめんなさい。舞夜(まや)さんの仇は僕が討っちゃいました」
 足元に転がる女は離れたところからみても血塗れだった。
「これでよかったの? 南波くん」
「いいんです、これで」
「これからどうするの? 南波くんは死なないの?」
 南波瑠夏は呆気にとられた顔を一瞬見せた。
「こんな恋、もうできないよ。空虚感を覚えながら、生きていくの? お姉さんの仇、まだ討ててないんでしょ」
 ふと、口を衝いて出た。
「……死にましょう。死んだほうがいいですね」
 南波瑠夏はふと、気の抜けた表情を見せ、背を向けた。それからまた向き直る。普段の、平生(へいぜい)の、殺人の最中とは思えない、飄々とした顔に戻っている。
「救急車を呼んでください。まずは救急車からです」
 海夜は携帯電話を手にした。番号を押す。その目の前で南波瑠夏は包丁を己の首に突き刺した。顔を上げる。視線は搗(か)ち合ったまま。瞬きが引き攣っている。唇が震えていた。
 彼女は虚ろなっていく瞳を見詰める。
「どうして兄を巻き込んだの……」
「鯉月(あかつき)さん。あの人は気を病んで、落ち込んで、一時(いっとき)の迷いで死を選んだのではありません。あの人は、我に帰ったから死んだのです。人を愛して生きていくには繊細だから。そしてその愛情というやつには鯉月さんも含まれていたと思います。妹を導くに足る兄でないことに、気付いたのでしょう。我欲まみれの、エゴを押し付けずにいられない自分に」
 異常な人間であった。南波瑠夏というのその美貌の裏に異常性を隠していた。否、隠していたわけではないのだろう。隠していると我々が勝手に思い込んでいた。
 尋常ではなかった。刺さった包丁を引き抜き、破れた肉へまた突き刺さす。血が噴き出す。顔色が忽(たちま)ち褪せていく。桜色の唇は萎びて今や紫色に染まった。
 やがて崩れ落ちていく華奢な躯体が熱砂利に転がるのを見届けてから救急車を呼ぶ。


 極悪人の言葉を海夜は信じていなかった。何故、あの極悪人に、小悪人の兄の気持ちが理解できるのだろう。
 学校での海夜の立場は複雑なものであった。兄を事故で亡くし、隣の市で起きた犯人死亡の殺人未遂事件の被害者はいとこであった。腫れ物扱いではなかった。だが空気は変わった。彼女は相変わらず道化師のようなキャラクターでいた。すらりと手足が長く、色白で、頭が小さく、鼻も小さい。兄によく似た美貌に可憐さも備わっている。自身の外貌を彼女はよく心得ていた。また、女の世界でどのようなことになるのかも予見し、また理解していた。同時に彼女自身の気質も合致していた。
 海夜は美少女であったが、決して艶福家ではなかった。美少年であるがゆえに不要な衝突を幾度も重ねてしまう兄とは顔以外、まったく違っていた。
 兄が生きるか死ぬかというときも何食わぬ顔をしていた。兄が鼓動が止まったときも然り。何食わぬ顔をした南波瑠夏と何食わぬ顔をしてすれ違う。学校一の美少年と学校一の美少女はまったく互いに知らぬ存在であるかのように。
 兄の死のすぐ後であっただろうか。海夜は淡い恋心というものを知った。18歳を迎えても彼女には生に関わらない生々しい欲望がよく分からなかった。異性同性構わず、魅力があれば惹かれた。そして惹かれるのみであった。兄のように身を持ち崩すほど煩うことはなかった。憧れと羨望、理想と無理解だけの、上澄みの輝きを求めたのである。
 海夜の初恋は代田(しろた)安吾(あんご)といった。そばかすの目立つ同級生であった。彼女は兄が飛び抜けて優秀であることを知っていた。男ならば兄と並ぶほどの人物でなければならないということもなかった。むしろ代田安吾という同級生は、成績上位者というわけではなかったし、見た目も醜いわけではなかったが特別美しいというわけでもなく、平々凡々といった人物であった。赤毛で、大きな黒縁眼鏡と白いラバーベルトの腕時計が剽軽な印象を与えた。実際、"オタク"を自称する割には社交的で調子づいたところがある。
 9月のことだった。兄が死に、同級生の1人が殺人未遂事件を起こし自殺し、祖母も没し、被害者のいとこが退院した頃のことだった。体育祭のクラス代表になった代田安吾が、手洗い場で嘔吐(えづ)いていた。
 放課後、海夜は人のいなくなった教室で校庭を眺めていた。出入り口から、駆け込むようにやってきた姿を捉えた。
「大丈夫? 熱中症?」
 喋ったことはないがクラスメイトである。
 最初は誰だとばかりの警戒の目を向けられた。だが代田安吾の人懐こい性質もあるのだろう。海夜の姿を認めた途端にその頑なな感じは軟化した。
「プレッシャーに弱くてさ」
 その一言で、彼女は兄のことを思い出してしまった。
 素直な性分であれば、兄は。
 否、頼りなかったからだ。
「でもちゃんとやるから、鯉月さんも楽しみにしてて」
 親指を立てられる。海夜も自身のキャラクターというものを理解した。親指を立てて返す。だが代田安吾は、妙な顔をしていた。はっとしたような。己の失態に気付くような。彼女はその表情の裏側を察した。
「楽しみにしてるからね、体育祭。PTAだからマッマも来るの」
 兄の死についてクラスは知っている。2日3日休みもした。南波瑠夏が起こした事件についてよくない噂もあった。保存会で、講師2人にいじめられていたのではないかというどこから出てきたかも分からない噂が。そしてその講師の1人は海夜の兄であったし、もう1人はいとこであった。知らぬ者もいれば知っている者もいる。
「じゃあ余計、頑張らなきゃ」
「無理しないでね……夏だし」
 まだ夏なのであろうか。秋の心地でいた。だが夏の暑さを引き摺っている。セミもまだ鳴いている。けれども種類が変わったのか、響きの情趣が変わってきた。
「ん、お互いに」
 また親指を立てて見せ、彼は教室からスクールバッグを持ってまた出ていった。
 海夜もまた外を眺める。
『お兄たむ……』
 秋がはじまる。もう始まっているのだ。空の色が変わった。雲の質感が。空気もそうだった。
 人は死ぬと空へ還るの主流という訳の分からない風潮があるが、兄は事故死とは名ばかりの自殺だ。地獄へ堕ちるのだとすれば、思いを馳せるべきは地面のさらに下。海底よりさらに下なのだろう。マントルよりもっと奥深く。核の中なのか、将又(はたまた)、外なのか。兄はどこにいるのだろう。いいや、兄は焼かれ、空へ広がっていったのだ。けれども兄の骨は壺に収まり、石の下にある。兄はどこにいるのだろう。
『お兄たむ……』



 いとこを傷付けたことを、あの男はそうとう怒っているらしい。大学の門で待ち構えている者がいる。
「お兄(ぢ)さんとごはん食べない?」
 海夜は大学の友人とそこで別れた。いとこの恋人の叔父にも守るものがある。おかしな真似はしないはずだ。するかもしれぬ。だがそうだとしても、どこか投げやりに彼女はそれを良しとした。
「鯉月さん、待って」
 海夜の手を掴む者がいる。彼女はうんざりした。
「おっと……」
 小綺麗な中年男が冷やかすような声を上げた。
「どういう関係?」
 掴まれた手を振り払う。振り払われたというのにあっけかんとして海夜に食い下がるのは、艶やかな黒髪の色白の男だった。顔立ちこそ大した相似は見られないが、はたから見れば兄妹のようである。しかしまったく血縁関係のない他人である。疑心に満ちた眼差しで、彼は海夜と小綺麗で若作りの中年男とを見比べる。失礼な視線に気を悪くすることもなく、身形のいい長身痩躯の美中年は腕を組み、海夜が何と答えるのか見物することにしたらしい。
「あーしの家族が、あの人の家族をレイプしたって関係」
 包み隠さず彼女は答えた。そしてこの同期生の男と距離を作ろうとした。
「被害者家族と加害者家族の関係」
 嫌悪の色が走ったのが海夜にも分かった。彼女は口の端を吊り上げる。
「行って大丈夫なのか」
 同期生で、浪人をしたわけでも留年をしたわけでも、社会人経験を挟んだわけでもないその者は同い年であるにもかかわらず、一度同じグループワークを経てからというもの、年長者ぶり、庇護者ぶる。
「でもあーしのいとこのお嫁さんの保護者だから」
 嫌悪と疑惑の次には疑問符が見える。安堵と焦りの綯(な)い交ぜになった情動が彼女のなかに湧き立った。
「え?」
「蓮池(はすいけ)さんには関係ないこと」
 海夜は忽如(こつじょ)として割り入った同期生を突き放し、昔は美青年だったに違いない面影の残る男の元へ行ってしまった。
「趣味が悪いな」
 後部座席を開けながら雨堂(うどう)緑蔭(りお)は言った。海夜は乗り込み、嫌味ったらしい微笑を睨み上げる。だが閉められてしまった。他人の家の匂いが充溢している。そこに香水も混じっている。
 数秒に運転席が開いた。
「お兄さんに似たボーイフレンドなんて」
 シートベルトが引かれていく。
「お兄ちゃんみたいにどっかに突っ込まないでね」
 ルームミラー越しに目が合った。この冗談を何度も繰り返している。嗤えばいいものを、嗤いもせず、雨堂緑蔭は沈黙で受け流す。
「でももうお終いだね」
「パパ活だと思われて終わるのはそちらでは」
「別にボクは君と共倒れなら構わないよ……パパ活なら君のほうの問題でもあるのだし―と言いたいところだけれど、大切なお婿さんはそうは思っていないようだからね。これ以上、彼の傷付いたところは見たくないよ」
 それ即ち、大切な姪と無関係ではないからだ。
「優しい人だね。この時代に妻の苗字になってくれた」
「……縁を切りたいのもあるんじゃないですか。鯉月家と」
 杖をつき、不自由になった脚で、傾斜のついた墓園を降りていく。その姿が焼きついている。よく喋る人だったが、今でもまだよく喋るのだろうか。内心を吐露するのだろうか。素直に、無邪気に。何の屈託もなく。変わり者の印象を恐れもせず。
「彼はもう、雨堂家(こちら)の人間だ」
「名実ともに……」
 車窓の外を眺め、海夜は呟いた。兄妹揃ってぼんやりしているのが好きだった。
「やっぱり似ていますか、さっきの人と、兄は」
「似ているね。顔立ちも少しそうかな。君のお兄さんの為人(ひととなり)自体はボクはよく知らないけれど、よく知らないからこそ、一目見たときに、似ていると思ったよ」
 車は走行を続ける。窓に映る風景は通り過ぎていく。だが時が止まったようだった。不自然だと思った態度が確信として告げられた直後だった。月命日に墓でいとこと会ったのは。
 兄と似た男を、恋愛対象として、性愛対象として見られるはずはない。
「告白されたんです。似た顔が好きってナルシストなのかな」
「皮肉なものだ」
「性格も兄に似ているから厄介です。ストーカー化するかもしれません。でもそれもいいかも知れませんね。そうしたら訊きます。どうしてそういうことするんですか、って」
 極悪人が口にした兄像ははたして正解なのであろうか。
 雨堂緑蔭は黙ってしまった。海夜は理由を知っている。彼の前で兄を貶すと、決まって返ってくるのは沈黙であった。静寂であった。無言であった。求められているのは、鯉月家の不幸ではないのか。
「何が食べたい?」
 そして決まって、話題が変わる。
「本当にランチだったんですか。本当にランチをするつもりはなかったんですけど……」
「じゃあ、どうするつもりだと思ったの? 本当にパパ活だとでも思っていたの? やめておくれ。姪より年下の女の子は好きじゃない」
 八つ裂きにする、八つ裂きにしておけばよかった、と事あるごとに口にしたのはこの男だった。それでも落ち着いた。南波瑠夏を知らないこの男の怒りと憎しみの矛先は鯉月家が受け入れたのだ。だが父と母は知らないだろう。年少者をつけ狙うとは雨堂緑蔭も小物臭い男である。
「イタリアンと和食はどっちがいい?」
「そこのコンビニで降ろしてください。ごはんは行きません」
「そうかい。無理強いはしないよ」
 車は実際、コンビニエンスストアの駐車場に入っていった。
「あの人、本当は妹がいるはずだったんですよ」
 車が停まり、シートベルトが戻っていく。運転席の後頭部がわずかに動いた。
「その子に付くはずだった名前がミヤ。あーしと同い年。後から聞いた話なんですけど。妹になりきれなかった……ねぇ、雨堂さん。あたしたちは平行線です。だめですって。怒りに任せて接点持とうとしたら。正論じゃないかもしれないけど、被害者家族には被害者家族の、加害者家族には加害者家族の言い分があって、それはきっと衝突します」
 車は停まっているか、居眠りをして舟を漕いでいるのかと思ったが、雨堂緑蔭は浅く頷いているのであった。だがそれが同意と肯定とは思えない。侮るような色がある。
「彼の立場はどうなる? すっぱりここで距離を置いたら、血を分けてしまっている彼の立場は? ボクは憎悪を以ってしても鯉月家にこだわるよ。彼にはあの子も暑詩(しょうた)もいるし、ボクもいるけれど、所詮は他人。血がすべてとは言わない。でも人は家筋(ルーツ)を捨てきれない。君を憎む柵(しがらみ)を作ってでも、彼を孤独にはしたくないな」
 海夜はこてんと己の肩を枕にしていた。意味は分かっている。言いたいことも。
「抽象的でよく分っかんないです。でもあたしを憎むってことは分かりました。じゃあ、長い付き合いになりますね。マミパピに親不孝掛けることの2をするわけにはいきませんから、あーしは自分で罪の意識のあまり! 他人を慮って! 死ぬわけにはいかんのです」
 彼女は車から降りていった。

2



 体育祭は無事に終了した。海夜(みや)は代田(しろた)安吾(あんご)の姿を探した。この日のために吐気を催しながら、練習に励んだ。クラスの主導権を握ることを恐れてもいた。体育祭はクラスごとに催し物があるのだった。このクラスごとというのは1年や2年でもクラスが同じならば1グループであった。つまり代田安吾は3学年分を統(す)べる。
 母親がPTAで、体育祭に参加すると聞いたためか、彼は海夜に相談を持ち掛けるようになった。
 兄、祖母を立て続けに喪い、いとこは身体障害を負った。はたから見ればそれが事実であり、だが海夜自身のことでいえば、あの日あの時、惨事の最中にいた。南波(さざなみ)瑠夏(るか)を間接的に殺してしまったもしれない。人の死ぬ様を見てしまった。彼女の背負ったものは大きく、消え失せることはないのだろう。だが代田安吾との関わり合いはわずかな憩いであった。現実世界と酷似していながら異世界から来た人のようだった。その明るさが。剽軽さが。何も知らなさが。兄は生き続け、いとこと諍うこともなく、狂った同級生も存在しない世界から来たような。平穏な非日常、巻き戻ることのない非日常と化してしまった日常を擬似体験できる相手だった。
 ところが、近付けばいずれは言うことになる。話さずにはいられない。
 手洗い場の窓から、裏校舎の壁に張り付くように代田安吾は特に親しい彼の友人と並んで話し込んでいるのが見えた。その友人というのは彼を通して話すようになったクラスメイトだった。渡り廊下を真正面から突き進む。
 話に夢中な2人は彼女の接近に気が付かない。 
『鯉月(あかつき)さん、援交してるかも』
 海夜は立ち止まった。
『え?』
『なんか校門に、ホストみたいな男が立っててさ』
 不審者みたいに声をかけてくるのだ。父兄のような面をして。人目も気にせず。恨みは深かった。嫌味の一言を捩じ込むために何時間でも粘る。時間的、経済的資源を惜しむこともなく。ただ一言、嫌味を言うことにだけ価値を置き。
『ホストが援交なんかするかよ』
『でも、ごはん食べにいこうとか、お菓子買ってあげるとか言うらしいよ。オレもこの前見た』
 海夜はいとこの恋人の叔父という若い男が、何故自身にこだわるのかこのときに理解した。ただ嫌味を言うだけに足繁く通っているのではない。すべては南波瑠夏が企んだことだ。だが兄は悪くないと言えるのだろうか。いとこを、あの男にとっては大切な人の大切な人を片輪にしたのは南波瑠夏だ。だがいとこが苦しんでいるのは、人生の途中で負った身体障害もそうであろうが、その立場ではなかろうか。兄の拗れた横恋慕が最も大きいのではなかろうか。恋心には悪鬼が住んでいる。
 代田安吾。このクラスメイトに安らいでしまった。その安らぎをさらに享受したいと思ってしまった。日焼けの痕のしっかりついた腕に触れたいと思ってしまった。だが体育祭ももう終わった。あとわずかな時間で放課後になる。関わり合いはこれで終わりだ。兄と同様に、悪鬼になってはいけない。

 ―お兄さんによく似ているね。

 あの男は外貌について言っているのだろけれど。
『鯉月さんが、そんなことするわけ、」
『ないって言い切れるか? 人間なんて裏で何してるか分かんないだろ』
 品行方正な優等生・南波瑠夏という大きな例が、この学年は切っても切り離せないのではないか。
『お前、清楚系が好きじゃん』
 海夜は動くに動けなくなった。代田安吾の好みに狼狽えたのではない。彼は日頃から軽々しく、己の好みを豪語しては笑われている。
 音もなく立ち去ろうとしてチャイムが鳴った。2人の顔が持ち上がる。そしてそこに佇む彼女の姿を認める。関係はリセットされかのような冷淡さで代田安吾は脇を通り抜けていく。
『ごめん』
 海夜はすれ違いざまに詫びた。何に詫びたのかは分からなかった。騙していた気分になった。彼にすべてを打ち明ける義務はない。権利はあるだろうが、義務や権利で語るものではない。聞く側を度外視している。笑える話ではない。気を遣わせる数が増えた途端に、彼との関わり合いは望んだものから遠くなる。
 だが相手からすれば、それは噂の肯定に聞こえるだろう。
 青臭く泥臭く甘酸っぱいこの高校生活に、血生臭いところから来た自分が異端なのだ。彼が現実世界によく似た異世界から来たのではない。
 代田安吾とは閉会式直前、結果発表のときに話したのが最後になった。ただ白いラバーの腕時計が、目蓋の裏に張り付いたまま。
 だが代田安吾の友人とはそうではなかった。体育祭の翌日に呼び出されたかと思うと、交際を求められる始末。もし合意を示したなら、代田安吾には何と説明するつもりだったのだろう。海夜は想像できていた。告白されて仕方なく付き合ったのだと弁解するに違いない。


「―でもね、嬉しかったんですよ。信じきってなくても、庇おうとしてくれたの。あーし、その一点だけでも切り取って大切にしておきたいんです」
 運転席の後頭部に語りかける。
「恋心には悪鬼が住んでるから……」
 窓の外を見遣る。
「あの子が彼と出会ったのも、体育祭だか球技大会だって言っていたな。皮肉なものだよ」
「そうですか? 別に皮肉じゃないでしょう。文化祭とか体育祭とかナントカ祭って、つい舞い上がっちゃうんですよ。日常なのに非日常で」
 海夜も何故、あのクラスメイトを探したのかもう分からなくなってしまった。催眠術にかかっているみたいだ。会って、何を言おうとしたのか。労おうとしたのだ。それ以外に何がある。他に何を、伝えるつもりだったというのか。


 "パパ活"か、将又(はたまた)、"ホス狂"か。毎日ではないが、時折り"迎え"にくる謎の男は何者なのか。
 大学一の美女は何かと噂に上がる。化粧も服装も決して派手ではなかった。華やかで小綺麗、垢抜けた大学生女子は他にもたくさんいる。制服も清貧質素を美徳とした校則もなくなった。だが鯉月海夜は骨格から髪質、肌感まで兄によく似て美しかった。炎天下にいても氷室にいるような淑やかがあった。ただし兄のような匂い立つ色気はなかった。彼女は俯くことはなかったし、ふっさりとした睫毛を伏せることもなければ、その眉が悩ましく寄せられることもない。似ているのは外貌だけであった。
 友人はいないわけではなかった。だが距離を置くようになってしまった。海夜からだ。ふと話したくなる。だが話す必要も必然性もない。聞かされた相手はどうなるのだ。血を分けた兄のことも理解できず、いとことも上手くいかず、人には恨まれている。だが現状に不満はない。家族仲はよかった。大学も楽しい。そろそろアルバイトを始めてみてもいいのかもしれない。
 考え事をしながら歩いていた。どこか無防備に。大したことは考えていなかった。とりとめのない、些細なことであった。兄が死んだことはアイデンティティではない。目の前で同級生が自刃したことも然り。地球からすれば、蚊に刺されてしまった程度の不運なのだろう。
「鯉月さん」
 振り向く。蓮池(はすいけ)夕涼(ゆり)が立っている。
「あのあと、大丈夫だったのか? 変なことはされてないか」
 海夜は目を逸らした。何が不満なのか訊かれたことがある。彼本人に、ではない。友人たちにであった。兄に似ている。その一言で黙らせることができた。まったく同じ顔をした兄がいるのだと言うと、彼女等は羨ましがった。写真を見せれば会いたがった。紹介を求められもする。彼女たちのなかで兄は今も当然のように生きている。三十路手前に差し掛かるはずであった。想像ができなかった。兄が老いていく様は、兄の死の匂いを嗅ぎ取る前から。
「変なことってたとえば何さ」
 海夜は恍(とぼ)けた。戸惑いが見える。胸がぐっと締め上げられ、眼球の裏が熱く沁みる。いつ触っても冷たそうな白い肌と、心地良い風に程よく冷やされたような黒い髪は、海夜も持っているものだつた。だが自分の姿などなかなか目にしない。
「そ、それは……」
「パパ活してるとか?」
 兄よりもどこか嫋やかで、兄よりはわずかに器用。兄よりは社交的で、態度も柔らかい。兄よりも、兄よりは、兄と違って、兄みたいに……
 海夜はこの同期生と共には居られないのだと再度理解する。
「パ……っ」
 庇護者ぶる同級生の狼狽を愉快げに彼女は見遣った。過ぎ去った失恋の瞬間がふと甦った。けれどそれは悲しみではなかった。温かさであった。ほんの一瞬でも真実を見抜こうとした姿が閃いたのだ。
「蓮池くんには関係なし! それとも知りたい? 知る権利の行使、しちゃう?」
 この同期生の恋心にも悪鬼が住んでいるというのか。ならば、先人のことを知るべきだ。兄は反面教師になるべきなのだ。
「知りたい。教えてくれるのなら……」
 思いのほか真摯な態度に、海夜は不快を示す。
「いいでしょう。オコタエしましょう」
 黒光りするかまぼこ板を手にする。目の前の同期生は惑っている。
「あたしはね、この事件の現場にいたの。驚くこと勿れ」
 その被害者はいとことその恋人であり、"パパ活おじさん"はその叔父。そして自殺した加害者は高校時代の同級生かつ、兄とは地域の集まりで接点があった。彼女は事の流れを語った。自己語りは快楽である。何よりの娯楽である。兄の耽溺した性の狂宴より気持ち良かったはずなのである。
 海夜の自分語りを聞いているのかいないのか、蓮池夕涼は黒紫に照る板を撫でている。一部の記事は削除されているが、まだ3年。残っているものだった。彼はそれに目を通していた。
「お兄さんは、どうしているんだ」
 海夜は引き攣った笑みを浮かべた。ことあるごとに兄に似ていると吐きかけ、投げかけた。海夜はかなり強い兄弟愛着者と思われているらしかった。そしてそれを彼女は厭わなかった。むしろそう思われるように振る舞っていた節さえある。だがそうであるならばすべて打ち明けてしまうべきだ。けれども彼女はその姿を晒した者等には告げていないことがある。
「暗くて寒いところで寝てるよ」
 切れの長い、二重目蓋の被さる眼が海夜を捉える。彼女は言ってから恥ずかしくなった。"寝ている"という単語を使ったのが。己の死生観を糊塗したようである。"寝ている"! 能動体だ。まるで望んでそうしているかのように。灰白色の骨と灰になり、陶器の壺に小さく収まっている状態はただそこに在るだけだ。自由意思も思想も義務も権利も自我もなく。否、兄の望み通りなのではなかろうか。捨て去りたかったものを捨て去った姿は。
 蓮池夕涼は彼女の言わんとしていることを察してらしい。だがその薄い唇が開かれる前に彼女は焦った。
「でも、自殺だからさッ!」
 そしてまた彼女は失敗した。大きな隔たりを感じた。望みのとおり、命を擲(なげう)つ覚悟を遂行したのだ。逃げたかった生のなかにはもういないのだ。卒業のたび、合格のたび、誕生のたびに祝われるのと同じように、やり遂げたのだ。それが望むとおりだったのだ。完遂したのだ。喜ばしいことなのだ。同情や哀れみなどは不適切なのだ……
 ところが目の前の同期生は、海夜の求めた顔をしていない。焦り、火照ったところに冷や水をかぶる。サウナでは身体を熱した直後、水風呂に浸ると、何かしら見えないものが整理されるという。海夜の気分もそうであった。情緒が整理された。
「……柵(しがらみ)って面倒臭いね。不合理じゃない? お兄ちゃむちゃむが生臭い世の中を嫌がって死んで、あーしはそれを喜んであげるべきなのに、遺されちゃったらブラコンみたいに引き摺って。どういうカオしていいか分からない? でも知りたがるってそういうコトだからね」
 言い訳を述べ散らかす自身が、彼女は嫌になった。腹が立った。しかし自身に腹を立てることはできない。標的は目の前のものに向かってしまうものなのだ。自身に腹を立てることができたとき! それは哀しみに変わるのだ。よって、兄は死んだ。
「気を付けなよ、蓮池くん。蓮池くんはお兄ちゃむちゃむによく似てるから。身を持ち崩さないように。恋愛のために生きることほどくだらないことはないんだからね」
 棘を帯びて嗤ってやるが、さすがは兄に似た同期生。哀れみの眉と冷ややかな視線を下ろしてくるのみである。
「俺はそうは思わない」
「蓮池くんは、ね」
「人間は社会的な生き物だ。それは恋愛感情ではないかも知れないけど、人に情を求めることが、くだらないことだとは思わない」
 自身の兄という不合理な生き物をまたそこに重ねた。中身のない人間に思えた。愛情深い人間にも思えた。教科書どおりのことしか言わないのは、ひたすらに妹の教育者であろうとしたからだ。両親も祖母も健在だったというのに。
「鯉月さんがブラコンだとも別に思わない」
「蓮池さんのこと苦手なんだよな。これ以上は告白ハラスメントだよ。身を持ち崩しちゃいけない。異性としては見られないよ。だってお兄ちゃむちゃむにくりそつだから」
「俺も別に、鯉月さんを異性として好きなわけじゃない。でも、男と女だ」
「ハァ?」
 煽るように大袈裟に訊き返す。巷で聞いたことがある。それはふられた負け惜しみではなかろうか。
「鯉月さんを女性としては見ていない。でも放っておけなかった。他の男と話しているのも別に気にならない。ただ一緒に居たいと思った。時々遠い目をするのが心配になる。変な不審者男と知り合いなのはもっと心配だ」
「はっはーん。妹みたいなヤツだから、ってパターンのやつ? それ言ってる男、10割方、肉体関係あるんだよね。下心隠す言い訳としてはチャチだよ、蓮池くん」
 蓮池夕涼は腹を立てた様子も、気分を害したふうもない。顔に出ないのだ。
「男と女だからな。理解されないのは仕方がない」
「男女問題で身内が"持ち崩した"から尚更ね」
 彼女は嫌味たらしく付け加えた。
「友達から始めてくれるんじゃなかったのか」
「無理だなぁ。お兄ちゃむちゃむと似た人とは、お友達にはなれないよ。男と女の間に友情は成立しな~い。ザンネン。あれは社交辞令。真に受けないでね」
 だが、海夜も蓮池夕涼の前でだけは、身内と接する態度を示してしまうのも事実であった。悔しくなる。蓮池夕涼との関わり合いは毒だ。羞悪(しゅうお)を覚える。


「最近、よく来ますね」
 綺麗にキープされた金髪を一瞥しながら海夜は言った。車のドアを閉める。発車するまで運転手は喋らなかった。
「そろそろ、引っ越そうかと思って」
「そうですか。じゃあ、また随分遠出の嫌がらせになりますね」
 運転手はまた黙った。
「彼の里心が気になってしまって」
「別に、今生(こんじょう)の別れでもないでしょう」
 乾いた笑みが返ってくる。
「君のことだよ」
「2人も3人も"オニイチャン"がいると困るものですね。あーしは妹をやれなかったんですよ。そろそろ見限ってもいい頃なのに、相変わらずお人好しなことで……何をそんな後ろめたく思っているんでしょうね」
 車を買い替えると昨年言っていたが結局同じ車であった。他人の家の匂いが鼻の粘膜に馴染んでしまっている。香水の匂いだけが部外者だった。外部付属品だ。
「君の生まれたときには、お兄さんやボクの義甥(おムコ)さんがいたただろうけれど、彼等からしたら人生の途中から現れた存在なんだよ。それは曖昧なものだ。いない世界も知っていて、知った以上はもう戻れない。不思議な……存在なんだよ」
「雨堂さんは、誰かのお兄さんなんですか」
「そう見えたかい」
「経験者の口振りだったので」
「もう30代。平均年齢が40代だったか。少子高齢化といえど、ボクより若い子なんてたくさんいる。擬似体験とまでは言わないけれど……こう見えて末っ子だよ。直近の兄とは15も離れてる」
 母親が早くに子を産んだのかもしれないが、複雑な家庭なのかもしれない。
「君にしか話してないけれどね。どうせ君も、言わないだろう。必要なら君のいとこくらいには言ってもいいけれど、姪と甥の耳には入れたくないな」
「言われたくないなら言っちゃダメですよ。武装組織が急に現れて、雨堂さんのコト全部喋るんだって脅されたら、あたしゃきっとすべてゲロります」
「そのレベルまで来たら、別に言っても構わないよ。さすがにね」
 ルームミラーに呆れた微笑が見える。
「どうして身内なのに知られたくないんですか」
「身内だから知られたくないことなんて、たくさんあるでしょう。君にはない?」
「ありますね」
「たとえば?」
 反射的に答えたが、思い当たるところがない。誰にも言いたくないことなら、それなりにあるけれど。
「兄に似てる人に言い寄られたんですけど、その真相は恋愛感情ではなくて、何かとフクザツナセイヘキのためだった……とか」
「あっはっは。そうなんだ? 案外、君って非モテなの?」
「まぁ、そうですね。男も女も、いいなと思った人とは付き合えませんでしたからね。いいなと思った人も……ま、それが甘酸っぱい青春としての完成形ですよ。あれがいいんです。あれでよかった。そこに雨堂さんが関わってるのは癪ですが」
 目印の大通りに入る。ここでこの男は訊くのだ。―何が食べたい?
 海夜は運転手の後頭部を見た。訊かれない。
 大通りを過ぎて、コンビニエンスストア・プチストップで降ろしてもらうはずであった。そこから駅へと歩くはずであった。
 海夜は黙っていた。運転手も黙っていた。静寂。静寂。静寂。走行音が冷ややかだった。ウィンカーの軽快な音がまぬけだ。
 進行方向からして高速道路へ乗るらしい。
「雨堂さん」
 引っ越すと言っていた。思えば、断頭台に首を嵌めて、談笑しているような3年であった。所詮は罪人と執行人の関係だ。
 海夜は運転手を瞥見した。
「今年の夏も、暑くなるのかな」
 雨堂緑蔭の独り言が谺(こだま)する。
「冷夏が、いいな」
「天気の冷たさは、脚に悪いです」
「梅雨どきは傷が痛むからね。君もそうなんじゃないかい」
「わたしはどこも怪我なんてしてませんよ。毎日ぴんぴんしてます。兄にも、祭夜兄ちゃんにも申し訳ないくらいに、ね」
 この運転手の掌中の珠、目に入れても痛くない姪のことを口走りかけて、彼女はやめた。
「ああ、そう」
「でも暑いのは嫌だな。暑いのは……」
 兄はクーラーが好きではなかった。扇風機もあまり好まない。熱中症になりかけるところを何度も見かけている。冷夏がいい。過ごしやすかろう。だが切望の時期はもう終わった。
 後悔は何もない。後悔があればよかった。自己憐憫に夢中になれたなら。
「猛暑がいいです。猛暑が兄を炙り殺せばよかった」
「お昼ごはん、パン屋さんでいいかな」
「要らないです」
「要らないならよかった。吐くほど食べさせてあげる」
 この男も可哀想な生き物だ。復讐を果たすべき真っ当な相手はみな、死んでしまった。守るものがあるために、代替的な復讐相手を手に掛けることもできない。代替的な……
 海夜はまた車窓の外に目を遣った。代替的ではないのかもしれない。兄に、この男の蝶よ花よと育てた姪の居場所を教えたのは誰だ。兄を止めなかったのは誰だ。見殺しにしたのは。南波瑠夏の悪事を予見していたのは。そして誰にも相談しなかったのは。思いはした。考えはした。ところが反省するでもなく、彼女は自身の幸せを求めた。そうでなくては母はどうなる。父は。まだ生前の兄の意思を汲もうとしている。

―こんな時はお兄ちゃんを恨むものだ。

 横暴に死んでくれたならよかった。恨もうとはしたが、結局は恨みきれない。けれども恨むよりも酷いことをした。顔面を損傷し、意識のない兄の死を願った。兄とさえ思わなかった。禍いを齎(もたら)す美貌と訣別して兄は逝った。だが醜く生まれても、今度は親を怨み、世を怨むのだろう。南波瑠夏がその最たるものであったのではないか。美貌こそ持ち合わせたが、何かがあの者にとっては醜かったのだろう。一体何が醜かったのだろう。眉目秀麗で人当たりもよく、人望も厚く、艶福家であった。
 あれは異常者なのだ。生まれつきの奇形なのだ。すべて後付けなのだ。すべて、誰もが持ち得る不幸を抽出し、妥協して動機と紐付けたに過ぎないのだ。魂の奇形というものを、優しさこそ強さと正しさと定義したがる社会は受け入れない。
 彼女は車に揺られ、無言に唆され、気付けば眠ってしまっていた。緊張感がなかった。復讐に燃える鷹は爪ではなく怒りを隠すのだろう。走行音が心地良い。

―ごめんな、海夜。こんな兄でも心配してくれて。ありがとう。

『死んじゃいなよ、死んじゃいなよ、お兄たむ。生きてても罪背負っていくんだよ。祭夜にいにとはいとこのまま。あの人はきっとその傍にいて。耐えられないよ、お兄ちゃむ。こんなこと思ってごめんね。お兄ちゃむの優しいところだけもらってごめんね。幸せになるから。何も知らないフリして、他人事にして、幸せになるから。悔しさとか、全部が知りたいとかムカつきとか、全部忘れて、あたし誰よりも長生きするから……』

TL【蒸れ夏】金魚鉢回遊

TL【蒸れ夏】金魚鉢回遊

【蒸れた夏のコト】海夜スピンオフ。性描写ナシ。兄が死んだコト、いとことのコト、同級生とのコト。

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2024-03-13

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