明くる夕闇よ

あくびをする。足を組む。指とと同じくらいの細さのシャーペンをさらさらと動かす。そして男子としては長めの細くつややかな髪を少しゆっくり耳にかける。自習室と化した放課後の教室でこれほどまじまじと人間を見る人なんてきっと私以外いないだろう。でもこれは、こうなることはほぼ不可抗力なのだ。私はこの瞬間も彼---南ゆうやに恋をしているから。いつからだとか、どうしてだとかは分からない。恋は盲目とはこう言うことも含めているのかもしれない。と我に返って目の前のノートを眺める。すでに今日やるべきことは終えて週末にやる予定だった教科の復習をしているので、これ以上進める必要はない。しかし場の雰囲気に気圧されいつの間にか離していたシャーペンを手に取った。
最終下校15分前のチャイムが鳴ると、自習室はやがて雑音の多いにぎやかな雰囲気に変わる。そうなると即座に帰る人、この時を待っていたとばかりに話に花を咲かせる人、騒がしさに眠気を覚ました人と無彩色だった部屋が色とりどりになっていく。「あくる〜この後どうする?」後方から快活な声が飛ぶ。「えっと、もう少ししたら帰ろうかな」「わかった一緒に帰る?」私は素早く頷いた。するとカラカラと笑う彼女---野村みよは私の唯一の親友である。私は臆病な性格だから彼女の積極性にはいつも助けられる。「あたしちょっとお手洗い行ってくるから待ってて」と教室を出るのを横目に通学バックに教科書を入れていると、「あれ、ない」机に入れたはずの古典の教科書がない。一瞬目が回る。もう一度机の中を漁る。普段から物をさほど入れないので見つけづらいということはまずない。思考が滞る。前回の古典の授業は2日も前だからか机の中に入れたという記憶しかなく、もはやそれすらも曖昧だ。脳内だけががぐるぐると忙しく回り硬直していると、「ねぇ」思わず振り返ると数分前にまじまじとみた顔がそこにあった。驚きと混乱で何も言えずにいると「これ、冴草のやつ?」差し出された教科書は確かに今探していた物そのものだった。「えっと」ますます意味がわからない。なぜこれをあの南ゆうやが持っているんだろう。本当に意味がわからないという顔をしていたのだろう。彼はクスッと微笑んで「僕の机に入ってた。帰りの支度してたら古典二冊出てきたからだれのかと思って。確か文系の授業は僕の席だったよね」「え、あぁ、ごめん、ありがとう」細切れになった言葉で教科書を受け取る。じゃあねと通学バックを背負い直して教室を出る背中を呆然と見てから手に持ったそれに目を移す。教科書、どうりで見つからない訳だ。きっと誰かに呼ばれたか何かで反射的に机に入れてしまったんだろう。なるほど、そういうことか。納得したのも束の間、意中の人と話しているという事実を今更噛み締める。さえぐさ。という発音が何度も何度も反芻する。それに、この手に持ってる教科書もついさっきまで彼が持っていたのだ。途端、微かに手が震える。胸が炭酸で埋め尽くされたみたいにふくらんで、私は思わず深呼吸する。「あくる、なんかあった?」「わぁっ!」変に大きな声が出る。いつからいたんだ。それにビビる様子すらないみよは平然としていたかと思えば、瞬間、なんかぼーっとしてたから、とまたしてもカラカラと笑う。「帰ろ」「うん」私はしばしば夢見心地になりながら帰路についた。
***
 けたたましく鳴る爆音に起こされ、平たく冷たい液晶に手探りで触る。軽く伸びをして眠い目をこすりつつ通知欄をザッと見て、まず最初に開くのは決まって某SNSだ。アプリを開くと昨日の投稿にいいねが何件かついている。それに加えて推しの投稿の通知が入っていた。推しはアイドルでも俳優でもなければ歌い手でもない。字書き、つまり小説家だ。名前は仁とかいてにんと読む。1年くらい前にみた小説に心を打たれて今も推し続けている。投稿の内容をみた途端目が覚めた。[今週の土曜日の21時、久しぶりにインスタで配信でもしようかなもちろん声出しするよ汗]とある。久しぶり、という言葉が引っかかる。私は彼を推しはじめてから1度としてライブ配信をしているところを見たことがない。リプ欄をみると、1年半ぶりという発言が目立つ。なるほど、だからか。私はカレンダーアプリに予定を入れる。あと2日か、と思うと少しにやけた。いつも通りの授業を終えて、ホームルーム。担任が明日の予定を無駄のない要約で話す。級長の整ったかわいらしい声が、「起立、礼」といえばその3秒後には皆が一斉に散る。私はみよと談笑してると、チャイムが鳴った。気づけば放課後の自習時間だ。「うわー、早!あ、そろそろ部活行かなきゃ。あくる、また明日」「あ、うん、いってらっしゃい、また明日」みよはラクロス部とチア部に所属しているがその運動神経の良さからバスケ部やテニス部の準部員になりつつある。今は大会が近いからラクロスに専念しているみたいだけど、夏場はチア部の活動に重きを置いている。足早にその場を立ち去るみよに手を振ると、私は静まり返った教室でペラペラと教科書を開いた。
 「…えぐさ…冴草、起きて」「んん…」目を開けるとそこには長いまつ毛と少し切れ目の紫にも見えるような黒い瞳がこちらを覗いた。「あえ!?」謎の言語を発する。「もうすぐ最終下校だよ」窓を見ると空は赤く燃えている。いつの間にか、しかもこんな時間まで寝てしまったのか「あ、あ、、」しどろもどろになってもはや言語かどうかすらも怪しくなる。彼は意地悪そうに微笑んで「よく寝てたもんね」と言うから、私は赤面するしかない。「冴草は帰りどっち方面?正門側?西門側?」「正門側だけど…?」そう言うと彼は謎の笑みを浮かべ、「あ、そうなんだ、じゃあ同じなんだね」と言って、1秒後「もう暗いし、一緒帰る?」え、いや、なぜそうなる。私は必死に彼の思惑を探るが、全く見当もつかない。「いいけど、なんで?」恐れ多くも聞いてしまった。ん、と考え「なんとなく?」私は明日死ぬかもしれないと思った。それから数十分は何を話したか、どんな顔をしていたのかもわからない。ただ一つ覚えているのは、彼がにこりとこちらを見つめる一等星よりも眩しい眼差しだけだった。
 それからというもの、隙があればあの放課後の笑顔が浮かんでその度に顔を熱くさせる。それと同時に過去形になってしまったことに寂しさを覚える。放課後の自習時間もそんな感じで、私は気晴らしに某SNSをのぞいた。TLの最上には推しのリツイート。いよいよ今夜に迫った声出し配信の告知だった。こんな状態で勉強してもあまり定着しないし、この課題だけ終わらせて今日は早く帰ろうかな、と理由をつけてまたシャーペンを走らせた。
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20時59分、私はインスタをリロードしまくっていた。推しの声が聞ける、という喜びと一緒に微かな緊張感も感じる。21時00分、20秒ほどして推しのアイコンが浮かび上がった。すぐにそれをタップすると、画面は黒で埋め尽くされた。コメント欄はすでにものすごい勢いで動いている。何とコメントしようか考えていると、「あ、あー、きこえてる?音量大丈夫かな」好青年らしい爽やかな声が聞こえる。これが、推しの声なのか。尊い。「うん、大丈夫だし、はじめます。ずいぶん久しぶりだから緊張するな、こんばんは、仁です。」その声は丸みのあるかわいい男声だ。はじめて聞くはずなのに、どこか聞き覚えがあって落ち着く。配信は質問コメントを答えるような感じだった。私も一攫千金を狙うかのような気持ちで、質問した。[普段は何をしているんですか?]すると私は千金を掴んだようで、「普段は何してるんですか、かー。僕は学生だからいつも学校、、って言うのは知っている人もいるよね、せっかくだし学校の話でも少ししようかな。最近の話だったら少し前に席がえしたんだよね。ど真ん中の、いちばん後ろ。前と同じでちょっとつまんなかったなぁ」彼はクスリと笑う。「それでさ、この前帰る準備してたら同じ教科書が二つ入っててさ」コメント欄は[!?]に埋められる。「めっちゃびっくりしたんだけどさ、誰のかなーってみたら同じクラスの女子でさ、その女子みたらめっちゃ慌てて机漁っててて、これさがしてるのかなーって思って渡したら本当にその通りだったみたいで、おどろいてたけどすっごい安心してたし、うれしそうだったから良かったなって思ってさー」なんだか知ってる話だ。こんな偶然もあるのか。ぼんやり感心していると、話題は好きな作品に移る。「今書いてるやつ、割といい感じだよ。このままいけば良い作品にできそう。完結してるもので言えば、青キミかなー、個人的にも気に入ってるし、ぼくのことを知ってもらえるきっかけにもなってくれたからね。」青キミ、[青のない君の世界]はある有名小説サイトで週間ランキング1位にもなった仁の代表作だ。私が彼を知ったのはこの作品の前の作品だったから、1位になった時はすごく嬉しかったのを今でもよく覚えている。
配信が始まって1時間。「あ、もう1時間か、そろそろ時間なのでおわります。今日は来てくれて本当にありがとう。また来てくれるとうれしいな。あと、もうすぐ新作が上がると思うから、たくさん読んでね。それじゃあ、お疲れ様でしたー。」
私は急いで[おつかれさまでした!]と送ると、配信は切られた。私は彼の声を反芻させながら、余韻に浸った。
***
夏休み。学校に行けないとなると、家では勉強出来ない体質のために図書館に通う。毎日通っていると、いつも来るメンツ、いつメンがなんとなくわかってくる。今日も、いつもの定位置に座りしばらくすると、黄色のアメピンをした少女が斜め前に座って算数のドリルを開く。昨日は国語ドリルをついに終わらせたようで、ぐっと伸びをしてにこにこしていたのに、また振り出しに戻ったようにドリルをこなす様子を見ると、小学生は大変だなと思う。私も、とノートに目を移そうとした時、黒いバケットハットをかぶった、見慣れた顔が、珍しく課題らしきものが入ったトートバックを片手に、周りを見渡している。どうやら席を決めているようだ。見つかりでもしたら気まずいので、課題に集中する。すると横に人の気配を感じる。私は他人、私は他人。私は必死に自己暗示をかけるが彼には効果がなかったようだ。「久しぶり。隣、いい?」心は悶絶した。頭脳はフル回転。「いいよ!全然!お気になさらず!」彼は何をお気になさるんだろうか。「ありがと」彼は自然に微笑んで、椅子を引いた。私は何か話した方がいいんだろうか、いや、ここは無難に課題に戻った方がいいのだろうか、、。とあれこれ考えていると、「課題、どれくらい終わった?」「え、あ、半分くらい、、?」本当は今進めているもので終わりだが、なんとなくやめた。「へぇー、はやいね、僕はまだ全然」少し可愛くはにかんだのは気のせいだとしても、眩しい。
彼は課題、ではなくタブレット端末を見つめていた。さっきまでの愛らしい表情はいつの間にか真剣な顔つきになっていた。私も目の前にある課題を終わらせることにした。数時間が経って、課題があと数問のみになったころ、彼はタブレット端末をスリープさせると、ふぅと深く息を吐いた。だいぶ集中していたのか、少しだけ疲労の色がみえた。「お疲れ様」ずいぶん声を出してなかったからなんとなく声が裏返ってしまったけど、「ありがと」彼はあまり気にしてないようだった。「何書いてるの?」6割興味で聞いてみる。「ちょっとした趣味かな、あんまり見せびらかせるものじゃないけど、投稿もしてるんだ」「そうなんだ、はじめて知った」すると彼は一瞬何か思いついたような顔つきで「冴草は本とか読むの?」え、と思わず声が漏れる。どうゆう風の吹き回しなのか、思考が読めない。「うん、好きな方だよ」「へぇ、どんな話読むの?」深く踏み込まれて、ますます読めない。「雑多に読むけど、ちょっと暗い話とか好きだな」暗い話、というのはもちろん仁の作品のことだ。彼の作品は、どれも人間や社会の闇を描写している。「なるほどね、うん、ありがと」私は何に感謝されたのかわからなかったが、好きな人に感謝されて悪い気になる人なんていない。「あ、いえいえ」思わず笑みが溢れる。「冴草、あとどれくらい?よければ一緒に帰らない?」彼にしてはどこか落ち着きがなかった気もするけど「私で良ければ、全然いいよ、、!」私はうれしさで胸がいっぱいになった。そして、帰り道。世間話をしつつ、互いのことをなんとなく知った。私は年の離れた姉がいるけど、彼は一人っ子。私が本を好きなように彼も読書が好きで、部屋の壁一面が本棚になるほどだそう。他にも色々な話をして、話題は好きな小説家の話になった。今まで仁が好きということは友達にも、家族にも言っていない。特に大した理由があるわけではないけどなんとなく自分だけの秘密にしておきかった。その時も言うつもりはなかったけど、言わないでおこうと強く思っていたからか、「仁。あんまり有名じゃないけど、すごくいい話を書いてるんだよ。去年偶然見た話が本当に良くて、それからもうずっと好きなんだ」若干早口で話終わってから、やっと言ってしまったことに気がついた。マイナーすぎる話で、彼もきっと反応に困っているのだろう。しばらく彼は唖然としていた。「あ、ごめん。こんな話されても、、」迷惑だよね。と言い切る前に、彼は言った。「仁って、青キミの?」驚いた。世界はこんなにも狭かったのか、と。「そ、そうだよ!知ってるんだ、、」「知ってるも何も、、」彼はほんの少し口をつぐんでから、「僕が書いた、から。」時が止まった気がした。「、、え?」「仁は、僕なんだ。」よくわからなかった。何を言っているのか。でもその言葉の意味が、だんだんと輪郭を帯びて、やっとことの重大さを受け止める。声が出ない。私の表情をみて、彼はこう続けた。「知らなかった。こんな近くに僕の読者がいるなんて。それに、そんなに僕の作品を好きでいてくれていることも。実を言うと、僕が仁だってことは今まで誰にも言ってないんだ。自分の作品に自信がなかったから。投稿を始めたのは、自分が書いた作品が、誰にも見られずに忘れられるのは可哀想だなって思ったからなんだよね。でもそれが、冴草の、誰かの好きになってることが、すごく、うれしい。だから、その、、ありがとう」彼の声は、いつの間にか震えていた。私も何か言おうと言葉を探した。気がつけば言葉より先に、涙が出ていた。彼は少し驚いた顔をして、なぜか謝る。それを否定しようと、私は首を横に振った。「どうして?謝ることはないよ、なんかこう、うれしくて。好きな人が、こんなに近くにいるって奇跡みたいなことが、本当にあるんだって思ったら、感動したの」私は笑った。今この瞬間に起こっている奇跡を噛みしめながら。
***
9月1日、始業式。あれから南ゆうやには1度も会っていない。私は今、彼にどんな顔をすればいいかよくわからないでいる。昨日の夜から、今日の朝も通学路でも靴箱から教室まで必死に考えても、いい結論は導けなかった。教室の扉を前に、呼吸を整える。教室にはまばらに人はいたが、彼はまだいなかった。心なしか安堵しつつ自席につく。ホームルームまでは時間があるから1学期に読み終わらなかった小説を読むことにした。長らく読んでいなかったからか人物名があやふやだ。さらに言えば、内容もあまりよく理解できないけど他にすることもないので読み続けた。読み始めること4ページ、扉の開く方向をみると、彼がいた。有線のイヤホンを耳から下げて、少々気だるげな雰囲気で自席に座ると、スマホを触りはじめた。まるで、夏休みはなかったかのような、平然とした様子で。彼があの日は存在しないと言っても、私は信じると思う。今年の夏休みはあまりに非日常過ぎた。今だって、100%理解しきれている訳ではない。冷静になろうと、続きを読む。読み始めて10ページ、「あくる」とみよの声がして活字の羅列から目を離すと、すでに教室にはクラスメイトが揃っていた。時計をみると、あと5分でホームルームだった。「あくるおはよ、久しぶりだねー」「おはよ、久しぶり」みよはこの夏休み、チア部の活動で毎日外練習だったこともあって、その顔は小麦色だった。ちなみに、みよにこの夏休みのあれこれは話していない。隠している訳ではないが、なんとなく言えなかった。ホームルームの鐘が鳴る。じゃね、と言って手を振り席に戻る彼女に、私も手を振りかえす。その日は何事もなく終わった。強いて言えば、クラスの雰囲気が心なしかふわふわしていたくらいだった。始業式が終わり、ロングホームルーム。どうやら文化祭の出し物を決めるらしい。黒板には、縁日やおばけ屋敷、カジノなど様々な出し物が並ぶ。「では、多数決を採ります。決めた人は伏せてください」級長は快活に言う。この中で、いちばん目を引くものは、、。
採決が終わり、結果発表の時間だ。「いちばん多かったのは、巨大迷路です。この案に決定してもいいですか?」皆頷いている。もちろん、私も同意した。実は、私も票を入れたのだから当然だ。「それでは、この案に決定します。次に、役割分担ですが、、、」級長のスムーズな進行のおかげで話はサクサク進んだ。私は図面班に抜擢された。主な仕事は読んで字の通り、迷路の図面を作る班だ。南は装飾班、みよは当日の進行方法などを考える進行班に振り分けられた。この学校の文化祭は毎年、どのクラスもクオリティが高いことで有名らしく、文化祭のために入学したという生徒もいるとかいないとか。それもそのはず、文化祭の準備は皆が自主的に進めるという文化があり、夏休み明けからは放課後も教室にに居残って制作する生徒も少なくない。私のクラスも例外ではなく、その日の放課後、教室には私のほかに図面班のメンバーと、企画リーダーの住吉さんで会議を始めていた。住吉さんは、クラスの1軍と言われるような人で、丸い瞳とハーフツインが特徴的だ。話し合いは順調に進み、図面もおおよそ決まった。翌日の放課後、調達班、装飾班と連携を取る。装飾班の代表が南だったらと思うと赤面するが、ある意味杞憂に終わった。
その後も、多少の問題はあれど、準備は順調に進んだ。
***
9月某日
「今日は絶対に成功させましょう!そして、めいいっぱい楽しみましょう!」ハーフツインが揺れる。皆も意気揚々といったところだ。もちろん、私も例外ではないが。
「あくる!一緒に回ろ!シフトいつ?」3枠目と6枠目と最後、というと、3枠目、5枠目にすれば長めに回れるけどね、、あたし、最初だから。なるほど、それは時間的にギリギリだ。シフト表を見て、交換してくれそうな人を探す。私は目を見張った。奇遇にも南が5枠目の担当だったのだ。みよもそれに気がついたらしく、私以上に興奮気味に、交換してきなよ!と肘で突かれた。神にしてやられたな。深く深呼吸をする。よし。南は賑わう教室の隅でスマホを見ていた。輝くオーラが見えた。「ねぇ、シフト交換してほしいんだけど、いいかな」「いいよ、いつ?」「5枠目と私の3枠目」「わかった」「ありがと」ん。と生返事され、その場を離れた。途端、緊張の糸が緩むと、南と話したという事実が途方もなく大きな感情を連れて襲いかかる。「うわああ」感嘆の意。口からこぼれ落ちた。それを見ていたみよは、あはは!とマンガみたいに笑った。
みよのシフトが終わって、一緒に校内をみてまわった。アイスクリームとわたあめを食べた。他のどこで食べるより美味しかった。お化け屋敷にも行った。おばけも怖かったけどそれ以上にみよの絶叫の方が驚いた。休憩がてら写真スポットに寄った。人数制限がかけられていて、少し待つことになった。シフトの時間が近づいていることを知ってか知らずか、みよはこう言った。「あくる、楽しそうだね。あたしなんか安心したよ」安心?「だってさ、あくるってやっぱり真面目だし、ひまさえあれば勉強してるし、ちょっと根詰めすぎなんじゃないかなって思ってたからさ。今日一日、めっちゃ楽しんでて、あたしもなんかうれしかったよ!」そっか、そう思ってたんだ、、私はなんとなく申し訳ない気持ちになった。でもそれ以上にうれしくて、はにかんだ。
3回目のシフトが回ってきた。文化祭も終盤であることに加えて、体育館では絶賛演目が開かれていて、今の時間なら、ダンス部の発表の最中だ。ダンボールに光を遮られて薄暗くなっている教室は当然、閑散としている。今、教室には2人いる。1人は私。もう1人は、南だ。シフト表によればあと2人くるはずだが、どちらも陽キャなのでくることはない。すでに7分経過している。
神にしてやられたな。またしても。とはいえ、2人きりになって、何が起こるわけでもなく、壁にかけられた時計の秒針は休まず進む。南はスマホを見ている。動画なのか、画面から顔に放出される光が時折ピカピカと明滅している。私は、というと、ダンボールの繋ぎ目とか、夕焼けに染まった空を窓越しに眺めていた。南をまじまじと見つめたらいけない気がして。6秒に1回くらいほんの少し見て窓を見て、の繰り返しだった。そういえば、自分の催し(つまり巨大迷路)を体験していないことに気がついた。思い返せば制作中は図面班の仕事でかかりきりだったし、前日準備の時は装飾班の手伝いをしていた。せっかくだし、心の中で理由をつけて、迷路の入口に立つ。
図面班なので、コースは頭に入っている。案の定、1分もかからずにゴールした。コース内は文化祭クオリティにしては上出来だと言えそうだ。はからずも誇りに思った。ルンルン気分でバックヤードに戻る。南はスマホではなく私を見ていた。目が合った気がする。光速で目を逸らす。南は言った。「はやいね、さすが図面班。僕なんて5分はかかったね」ふふ、と南の顔がくしゃっと綻ぶ。眩しかった。私もくしゃっと目を細める。「図面班。私が図面班なの知っているんだ。」「そりゃね、あれだけ頑張ってるの見て、知らないことはないでしょ」「そ、そうなのかな。私は全然、何もしてない「」してるでしょ」被せられた。南がそんなに食い気味に喋るところを初めて見た。少し面食らう。「冴草は頑張ってたでしょ。お疲れ様」ふふ、と笑いスマホに目を移した。私はどんな顔をすればいいのかわからないまま、まだ微かに熱が残る学習椅子に座った。頭が熱く、熱く、燃えた。嬉しさでいっぱいなったこの気持ちをどうしよう。「あ、あ、ありがとう」なぜか、少し泣きそうになった。「いいってことよ」やわらかく微笑む彼が、本当に好きだと思った。もう会話が尽きてしまった。自分の口下手を恨んでいると、彼は口を開いた。「冴草は打ち上げ行くの?」うちあげ。そんな言葉もあったな。誘われないのだ。もちろん今回も。私は首を横に振った。「知らなかった。打ち上げあるんだ」南がぷはっ、と吹いた。「そっかー。よかった」何が??理解が追いつかない。「僕も、誘われてない」「えっあっ」これは気まずい空気なのか?しどろもどろ、という動作になる。「打ち上げする?」「えっあっえっ」どうゆうなりゆきだ。ますます、しどろもどろ。彼はクスクス笑っている。カオスだ。まるでギャグ漫画の中のような空気感。「嫌ならいいけど」嫌ではない。嫌ではないが!あぁ、神よ。さすがにやりすぎではないか。次の考査はがんばりますから赤点は見逃してください。「する、、!」
放課後、駅前のファミレス。目の前には推し。入店して6分、未だに現実を受け止めきれない。推しは至って正常なテンションで大盛りポテトを頼む。「冴草、ドリンクバーいる?」首を縦に振る。おっけー、と店員さんにピース。じゃなくて2つと頼む。もしこのまま無言でいたら私は尊さでどうかしてしまう。どうにか話を振る。「なんで私なの?他にもたくさんいたでしょ?」南は少し考えて、「話したかったから、かな。普通に誘われなくて悔しかったのもあるけど。」後者の理由が99.99%の要因だろう。きっとそうに決まっている。そうだとしても一体何を話したかったのだろう?「話すって何を?」「いろいろかな」いろいろ。そうこうしているうちにポテトが届く。彼は片手にポテトをつまみながら「仁、本当に知ってるんだね」「そうだけど、なんで?」「スマホ」あぁ、そうゆうことか。私のスマホの裏はハンドメイドの青キミの主人公、広瀬海のトレカが挟んである。2ヶ月ほど前にショート動画を見ていたところ、画像編集アプリでトレカを作る動画に感化され、気合いと勢いで作ったものだ。青キミ以外にも、[天使の庭]という作品に登場するエリックのトレカも使ったのだが、エリックは主人公の飼ってる犬。はたから見るとただの犬なので、犬好きなの?と聞かれたり、飼い犬?と尋ねられると、説明が面倒なのでお蔵入りとなった。「これ、自作だし、あんまり上手くないよ」本当に上手くはない。謙遜ではなく。それでも彼は「え、そうかな?すごくよくできてると思うよ。それに、作ってくれる時点で作者としては感無量というかなんというか」彼は眼福という顔をしていた。
山盛りにあったポテトが小盛りになった頃、南は言った。「相談があるんだけどさ」心がさざ波を立てる。「何?」彼はふぅと呼吸を整えた。「仁は今まで、ずっと一人で密かに続けていて、それで満足していたし、仁の活動は自己満足で、趣味の範疇だった。けど、青キミで1位をとって、たくさんの人に知ってもらって、最初は偶然だと思ったけど、その次は3位で、そこからもっと真剣に小説と向き合おうと思って。」南は時折言葉を詰まらせながらも、丁寧に話した。「それでこの前、書籍化しないかって、編集部の方から連絡があったんだけど、実はまだ返事を出してないんだ」驚いた。まさかそこまで人気になっているとは思ってもいなかった。途端、胸がいっぱいになった。本当は滝のように涙を流して喜びたいのだけれど、流石に彼の前でそんなことをするわけにもいかないので、平然を保つ。「え、どうして?」南は少し沈黙を置いて、「自信がないんだ」そう言った。虚ろな瞳をしていた。「本当に僕の事を好きな人なんているのかなって、数は確かにあるけど、それはあのサイトで、あの時だったから叩き出せたもので、みんなはその作品が好きで、僕の、仁の作品が好きな訳じゃないかもしれないし、ましてや、本を買ってくれる人なんているのかなって思ったら、踏み切れなくて」「そんなことないよ!」感情が突沸した。南のうつむいた顔が、ファミレスの照明に照らされる。私の思いは、溢れて止まらなくなった。「そんなこと、全然ないよ。私は知ってる。仁はまぐれで1位とか3位を取ったんじゃないよ。だって、仁の作品はいつも私の心を支えてくれるし、寄り添ってくれる。私だけじゃない、たぶん他のみんなもそう思ってるよ。そんな作品はきっと、絶対、小説に真剣じゃなかったら書けないはずだよ。」息をするのも忘れて言い切った後、私の頬が生ぬるく濡れていることに気がついた。「あ、ごめん、、」自分があまりにも図々しいから、咄嗟に謝っていた。南はしばらく呆然としていた。それからゆっくり、撫でるように「ううん、ありがとう、そうだね、そうだといいね、、」とやるせなく微笑んだ。
外に出ると既に暗闇が立ち込めた空が繁華街の色々の明かりに照らされている。秋特有の冷たい風が少し強く吹く。「送るよ、どっち?」「駅までで大丈夫だよ」「でももう暗いし」「駅の近くだから」「だったらなおさら」何も言えない。「じゃあ、、」「ん」南の押す自転車が、カカカと一定のリズムを刻む。私はよそよそしく周りの人や店を見ることしかできない。少しして、ねぇ、と左側から聞こえておずおずしながら振り向くと、「ありかがとう冴草、少し勇気出たよ。僕、やってみようと思う」彼の吸い込まれるように美しい瞳が、少し潤んで見えた。
帰宅して、今日の出来事を振り返るのが私の小さな習慣なのだけど、今日は情報量がありすぎてどうにも冷静になれない。ただでさえ文化祭。それに推しと2人きりの打ち上げ。そこで告げられた書籍化。もう命日なのかとでも言うような内容だ。疲れているはずなのにひどく目が冴える。それにしても、なぜ私にそんな重要な話をしたんだろう、、?たしかに南は普段から単独行動だから特段仲のいい人がいる訳ではない。だからと言ってわざわざ私に言う理由、、?私が仁のファンだから?本当にそれだけだろうか?考えても仕方ない、と割り切って私は深く目を瞑った。
***
翌日、南は教室に入るなり一直線に私の前に来て、「ちょっといい?」と嬉々を隠さない様子で言ってきたので、これは、、とは思いつつ促されるまま廊下に出た。それで?と問うと、「決まったよ。今日、SNSでも告知するつもり」「おおお、それはよかった」私は喜び半分、安堵半分、と言ったところだ。「ほんとに冴草がいなかったら、ここまで辿り着けなかったよ」南は薄ら笑った。「それは本を手に取ってから言うものじゃない?でも、おめでとう」つい調子に乗ってなんだか上から目線になってしまった。ふと、昨日の謎を思い出した。聞く勇気はないが。聞かないでおこう、と強く思うほど、なぜか口に出てしまう。「あのさ、どうして」言いかけた時に、予鈴が鳴った。聞けなかった。いや、元々聞くつもりはなかったからプラマイゼロ。でももし聞いていたら、彼はなんて言うんだろう。
午後12時ちょうどに告知は出された。コメント、再投稿、いいね。全部が凄まじい勢いで増える。私の予想通り、皆喜びをあらわにしている。そりゃ、推しの作品が本屋に並ぶ日が来るなんて、夢でしかない。それと同時に、僅かな恐怖があった。秒単位で増える数字に、改めて仁、つまり南ゆうやという人間の凄さを痛感する。本当にその本人が目の前にいるという事実は、たぶんこれから先も慣れないし、慣れてはいけないとも思う。そんな事をボーッと考えていると、横でコンビニのおにぎりを食べていたみよが、「そういえば、南とはどう?進展してる?」とタイムリーに聞いてくるので、思考読んでる?とツッコミを入れる。どうなんだろう、と曖昧に返すと、「いやでも、最近南から話しかけてくるじゃん?これって割と脈アリなんじゃない?」「それはなんか、業務連絡っていうか、なんていうか、、」みよはすっとぼけた顔で「あれ、でも南となんか係一緒とかあったっけ?あいつ図書委員会しかやってないよね?」鋭い。うぐ、と感嘆した。みよはフッと笑い出したので、話が途切れてひとまずは(?)よかった。図書委員。南は私の読みだと図書委員の活動中に執筆をしている。この学校の図書室はいつも人気がない。生徒の中には卒業するまで一度も立ち入らないなんてこともザラではない。実際、私も本を借りるために利用したことはほとんどない。使うとしても、自習の気分転換で訪れるくらいだった。ということはつまり、南が執筆をするにはうってつけの時間だ。司書教諭の目という問題はおそらく良好だろう。南は2年連続で委員会に所属しているので、たぶん信頼も厚い。まぁ、どれもそれも憶測なのだけれど。そういえば、かくいう南の様子はどうだろう。南の席に目を向けると、いない。それこそ、委員会の仕事か。その後も私は南の見えない教室でみよと談笑した。
春にはあれだけ大勢の生徒が自習室にいたのに、半年も経てばその数もまばらだ。割とやる気いっぱいだった教室も、活気もなくくたびれていたり、意味もなくとりあえずそこにあったりする。秋や冬は景色がくすみがちだ。私も例外ではなく、課題と予習をロボットのようにこなしていた。今教室にいるのは私と優等生の住吉さん、それと、南。住吉さんはいつも最終下校の1時間前に帰るので、残りの1時間は南と2人きり、、になったりならなかったりする。というのも、南は最後まで残ったり残らなかったり、いろいろだからだ。残る時は最後まで。残らない時は決まって住吉さんより前に帰る。バイトでもしているのだろうか?もしそうだったら、間違えて卒倒しないように行かないでおかないといけない。道端で偶然会うなんて、心臓発作を起こしてしまいそうだ。そうこう考えながら作業していると、「冴草」わっ!!!と心臓が飛び出た。「今日いつ帰る?」いつ、いつ、いつ、、、、思考がゲームで壁にぶつかり続けながら走る主人公みたいに空回りする。1ミリも進んでないけど暴走する。「いつでも大丈夫だよ!」変に大きい声。質問に答えていない。南はおかしく笑って「じゃあ一緒に帰らない?ちょっと色々話したいんだよね」とニコニコでキラキラでピカピカな笑顔でそう言うので、というよりそうでなくても、「もちろん」と返す他ない。私は帰りの支度をしようと机に目を置いた。思い出した。私、課題やってたんだった。期日がそこそこ近いのでこれだけは何がなんでも終わらせたい。「課題終わらせるからちょっと待ってて」南は「わかった、書いて待ってるね」書いて、というのはたぶん小説。私は急いで課題を消化させた。隣には仁がいる。生半可な照明の微妙に暗い教室。なんだか異質すぎて微小な笑いが込み上げる。それから15分ほど経って、「終わったー」私はフゥ、、と息をつく。「お疲れ様」南はグッと伸びをしてから、タブレットをしまった。
課題を適当にまとめて机の中に突っ込む。ペンケースとプリント入れは通学バック。明日の教科のノートも。もう一度バックの中を見る。入れ忘れはなさそうだ。よし。「準備できた?」「うん、待たせてごめんね」いやいや、気にしないで、サラッと言う言葉も微笑みも尊い。教室を出て、靴箱までの廊下。何も変わったことはないのに推しと並んで歩くだけで違う世界に来たみたいに思えてパラレルワールドにでも迷い込んだのかと錯覚しそうになる。「それで、話なんだけどさ」南はおもむろに話し始める。「次の作品、できたんだ」「あ、そうなんだ、お疲れ様」読みたい。とは言えなかった。「読む?」私の全細胞が活性化された気がする。「読みたい」「いいよ」「じゃあリンク送る、、ってそういえばLINE交換してなかったね」彼はしばらくスマホを触ると、「クラスのところから入れた。合ってる?」私もLINEを開くと、たしかに目に新しいアイコンが追加されている。大丈夫。と言うと、リンクが送られてきた。開いてみると、画面に広がる活字。でもいつもの作品より何倍も少ない。「今読んでいい?」「うん」少し間があったようにも感じたが、読んでみる。『僕はいつも教室の隅で一人で本を読んでいると、心がどうにか落ち着いた。でも本から目を離すと、嫌気がさすほどの人間がいて、僕はそれがたまらなく嫌いだった。でも今は違う。僕は本から目を離しても、ただ一人を見つめていた。気がついたら。それは誰でもいいわけじゃなくて、吸い込まれるみたいに、いつも目に映っていた。そのうちいつまでも目に映したいと思った。それに理由なんかなくて、でも強いて言うなら、笑う時に揺れる髪とか、壊れてしまいそうなほど華奢な背中とか、好きなものを語る時の熱意のあるまなざしとか、本当に全部がたまらなく好きだった。この気持ちはなんと呼ばれるのかなんて、もうわかりきっていたけどそれを正気にするほど想いは高まるだけだった。冴草あくるという光を、僕はもっと見ていたくなった。もし願いが叶うなら、この道を手を繋いで歩いてくれますか?』目を離した先には、手のひらを見せる南がいた。頭が熱い。きっと彼も同じだろう。瞬間、視界が潤んだ。強めのぼかしが効いたフィルター越しに私は彼の少し湿った温もりに触れた。
閑散とした通学路。空は一面オレンジ色に染め上げられている。あの後、靴を履き替えるまでそうしていたけど、校舎を出た後はもうしなかった。彼は平然としているように見えた。どうして私がとか、本当に?とか、信じられないし、信じない理由ばかり探ろうとするのは、そうでもしないと死んでしまいそうなほどうれしいからだと。冷たい風が柔らかく通り抜ける。冷たい風は寒いから好きではないけれど、今はなぜか心地よかった。南の自転車の軽快な音、ローファーの固い音、まだ高鳴る心音。見える景色、聞こえる音全てが、微睡の中にいるように、時空ごと美化されている。こんなことが起きてしまっていいのだろうか。冷静を取り戻そうと状況を整理すれば、また思い出し、平然をかき乱す。そんな事を繰り返すうちにも、家に近づいている。南といられる時間ももう終わる。何か言いたいのに、言う言葉も、言う理由も見つからない。ただひたすらにもどかしい。必死に何か話しかけようともがく間に、南は自然に言った。「良かった。本当に。冴草に変な風に思われたらどうしようって思ってたんだ。でも、杞憂だったね」はにかむ姿は、どこか恥ずかしそうにも見えた。私はできるだけマジレスにならないように、「なんでよ、私、全然、すごくうれしかったよ。」「そっか。それならよかった。あ」「今日か明日か、頼みたい事があるんだけど、いい?」なんだろう?「良ければ僕の小説の校閲を頼みたいんだけど、、いいかな?」校閲。文の誤字脱字などを見ること。それすなわち、読者より先に小説を読めるということだ。「えぇ!もちろん!」あまりの驚きと嬉しさで、声が大きくなる。南はフッと一笑した。しばらくすると、ついに家に着いてしまった。南はじゃあ、と自転車のペダルに足をかける。私も、ありがとうと気をつけてねをちょっと早口で言ったら、うん。と手を振って軽やかに漕ぎ出したので、私も手を振って見送った。あんなに長く一緒にいたのに、別れる時はあっさりなんだなと思うと、胸が途端にひんやりした。そう思いながら玄関のドアを開けると、私も大概かもな、と自嘲しつつ靴を脱いだ。部屋に入るとすぐに、ベッドが目に入る。思わず吸い込まれ、その瞬間に疲労感が滝のように押し寄せる。今日起こったことはとても1日では消費できまい。走馬灯かのように、出来事が次々に浮かんでは消える。1番新しい記憶。校閲。忘れないうちにとカレンダーアプリに書き込む。スマホの通知が雪崩のようにこちらに飛びかかってくるのだけど、流石に処理しきれない。カチ、とロックボタンを押して、深く息を吐いたら、ため息みたいに思えた。息を吐くと、ため息になるのか。どうも頭が限界レベルまで回らなくなったらしい。私は情報をできるだけなくそうとして、まぶたを閉じた。
***
夜、南から文書が送られてきた。PDFとかではなく画像なので、間違っている部分はマークアップして教えて欲しいとのこと。なるほど。私はたぶん、普通の人よりは読むスピードは速い方だと思っている。あまり急がなくて良いと言われたが、仕事は早いに越したことはない。けど、あっさり読み終えてしまうのもなんとなく嫌だったのであえて2日に分けて読むことにした。その方がより丁寧に読める、、かもしれない。読み進めるほど、校閲のしがいがある。きっと疲れているんだろう。それもそのはず、今回の作品は仁初小説に付属するものなので、それなりのページ数を稼げなければ意味がない。書き下ろしというのは小説を買う動機になるものでもある分、その価値は重い。前半を読み終えて、校閲した画像を送る。2分ほどして感謝の土下座スタンプ。作業は楽しいし、それなりのやりがいもあるから、またやりたいとは思うけれど、そう簡単に小説は書き上がらないので、ひとつひとつの作業を噛み締める。長い間机に向かって作業していたからか、少し首が痛い。マッサージを兼ねて首を回していると、部屋の小窓から小さく輝く光の点が2つ。そういえば、南と夜まで話したのははじめてだ。こんな時間が毎日続けば良いのに。あぁ、明日もこうしていたい。そう思いながら、黒く澄んだ空を愛おしく眺めた。

明くる夕闇よ

明くる夕闇よ

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-03-11

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