とある猫又、如月の頃
かつてpixivで某方からリクエストしていただいた、ワルモ団妖怪パロディの「イチ鬼とジロ猫又の出会い話」の総集編・リライト版です。
n年ぶりに思いを馳せたら色々と付け足したいことが出てきたり、過去に書いたものの拙文具合に頭抱えたりしたので、大筋は変えずに細かな表現などを調整しました。
昔書いたバージョンには無い、なおかつジロ猫又がイチ鬼と添い遂げる決心をするに至った経緯をより詳細に、かつ説得力のある話の運びになるように改良したつもりです。
もし良ければ、pixivに過去に載せたバージョンと読み比べて、拙文具合を笑ってやってください。
改良したはずなのに読みにくい!話がよく分からん!と感じた方、いやもうほんとその通りです。相変わらずの駄文ですみません。
当時リクエストしてくださった某方、その節はありがとうございました!
遥カナ記憶
昔の俺は、生まれながらの力が忌々しくてたまらなかった。人を寄せ、金を寄せ、幸運を寄せるこの力は呪いだとすら思っていた。
けれど、今は違う。むしろこの力に感謝さえしている。
この力が無かったら、あの日の悲劇が無かったら、俺はお前と出会えていなかったから。きっと、虚しい最期を迎えていただろうから。
目を覚ました時、俺の小さな体はうつ伏せに倒れていた。鞠のように丸まった、いつもの猫らしい寝相ではなかった。
重い頭をのろのろともたげる。俺の頭上には深く黒い空。そこに浮かぶ月は、反対に冴え冴えと白く滲んでいた。
――――ここでようやく理解した。自分は今、何故か夜中にも関わらず屋外にいる。
(……どうして、こんなところにいるんだろう)
頭が働かない。それどころか、割れそうなくらいの頭痛で目眩を覚える。こんなにも体がしんどい理由は分からないが、とにかく帰らなければ。体を起こそうとした時、力を込めた前脚がズキンッと痛んだ。声にならない悲鳴と共によろけ、均衡を崩した俺の体は呆気なく地に伏す。
(……いた、い……体が、痛い……)
前脚の痛みを自覚すると同時に、他の箇所が呼応するように激しくズキズキし始めた。腹、背中、胴、後ろ脚、頭。打撲した後のような持続性のある痛みだ。まるで無事な場所など無いと言わんばかりの苦痛で顔が歪み、呼吸が乱れる。
(何が……起きたんだ……?)
頭痛と苦痛で鈍った頭では、自分の身に起きたことを思い出すのに暫くかかった。記憶にかかった靄を無理矢理に掻き分ければ、朧げながらも蘇ってくるものがあった。
(ああ……そうだ。確か、すごくお腹が空いて……台所からいい匂いがしていたから……俺は……)
――――「力」の働きが悪いことへの仕置きだとして、飼い主はここ数日、俺の食事を抜きにしていた。
かろうじて水は口にしていたものの、空腹のせいで前後不覚に陥った俺は、台所から香る美味そうな匂いに釣られた。正体は、大店の主である飼い主が奮発して買ったという、高級な鰹節だった。おそらく、夕飯の味噌汁の出汁にでも使うつもりだったのだろう。しかし、あろうことか俺は、そんなにも大層なものをうっかり齧ってしまったのだ。
我に返った時には既に遅かった。獣の歯形が残った鰹節を前に頭が真っ白になっていたその刹那。突然襟首を掴まれたかと思うと、冷たい石の床に放り投げられて、そして……
――――その辺りから記憶が途切れているが、その先は思い出すまでもない。こんな有り様だ、飼い主にこっぴどく仕置きされたことは明白だった。
人間の価値観など知ったことではない。だが、少なくとも彼は、大枚をはたいて買った高級品を、飼い猫なんぞに齧られてさぞかしご立腹だったのだろう。おまけにうちの飼い主ときたら、堪忍袋の緒が切れれば最後、普段の静けさが嘘のように荒々しくなる。俺がぼろ雑巾みたいになるまで仕置きしたのもある意味当然の結果だ。
尤も、ここまでの乱暴は初めてだった。きっと、俺に対して募らせていた不満や苛立ちが、今日で爆発したと見える。仕方ないだろう、俺は奴の期待に応えられなかったのだから。
恐らく、俺は散々痛めつけられた後、外に放り出されて何時間も経過していると思われる。きっと飼い主は、一晩は俺を放置することだろう。奴にとって大切なのは、「俺」ではなく「俺の『招き猫としての力』」。何なら「招き猫」として機能するようになるまで、家に入れてすらもらえないかもしれない。
こんな状況にあっても、今更失望など無い。むしろ頭は冷静ですらあった。否、単に思考を放棄していただけかもしれないが。
それよりも、体中が痛くて堪らない。それに、ひどく寒い。俺の時間感覚と記憶が正しければ、今は確か如月の月。
雪が降ってもおかしくない寒空の下、気を失っていた体はすっかり凍えて、全身が氷漬けになったみたいだった。
子猫の頃から人間に飼われていた俺は、外で寒さを凌ぐ術を知らない。冷たい風に体温が奪われ、体が震えた。その震えはさらに傷に響き、俺は顔を歪めてうめいた。「苦しい」という一言が頭に浮かんでは消える。
(どうして……俺が、こんな目に遭わなければならないんだ……?この身に宿った「力」のせいなのか?)
子猫の時から宿っていた「力」。人を惹きつける不思議な「力」。俺の飼い主はこの「力」で客を得て、数年で小さな店から大店に成長した。
俺の「力」は、確かに飼い主に幸福をもたらした。だが、俺自身はどうだ。まるで道具のようにこき使われ、上手く機能しなければ虐げられる、苦々しく冷ややかな生活だけではないか。
この「力」さえ無ければ、俺は……
(――――もう、ねむってしまおうかな)
ふと、そんな思いが芽生えた。
今まで苦しんできた時間が、自由を知らないまま飼われ続けてきたことが、今更ながら馬鹿らしい。利用されるばかりの生活に意味なんて無いに等しい。生に縋ることへの意義など、どこにあろうか。
凍えるこの空の下で眠ってしまえば、俺は朝を迎えることなく逝けるだろう。それでいい。今の俺にとって、死よりも恐いのは、あの男からの支配が続くこと。眠ってしまえば、そんな恐怖からも逃れられる。万々歳だ。
俺はそっと目を閉じた。弱りきったこの身はもう限界が近いのだろう。数分もすれば、視界を覆った暗闇に吸い込まれるような感覚に陥った。渦にでも飲み込まれているような、ぐるぐるとした感覚に任せると、意識は勝手に薄れていった。
―――――ザッ。
意識が失われるか否かの狭間に聞こえた、微かな足音と人の気配。次いで、体がゆっくり宙に浮く感覚と、脇の下に滑り込んだ手の感触。久しく覚えが無かったが、確かに懐かしいその感触で、誰かに抱き上げられたのだと知れた。
(……なん、だ?)
朧げな意識の中で警戒していると、柔らかい温もりが冷たい体を包み込んだ。誰かが俺を抱っこしているような、優しい温度だった。
飼い主が迎えに来たか?否、そんなわけはない。俺が子猫の頃こそ覚えはあるが、ここ数年の奴はこんなふうに俺を抱きしめなどしない。この温かさの主が気になって、思わず目を薄く開けた。
「ああ、良かった……まだ生きててくれたか」
何と、そこには安堵の表情を浮かべた人間……のような男がいた。
人間のような、などと曖昧な言い方になったのは、男がひどく奇妙な形をしていたからだ。霞んで悪くなった視界に加えて、夜に沈んだ暗闇にいてなお、夜目にもその髪や目は赤いことが分かった。その上、こめかみの辺りからは鋭い形の突起物も見える。人間、というには何だか違和感のある姿だ。
何にせよ、人見知りの俺にとっては形などは二の次。見知らぬ相手が自分に触れているという事実だけで、意識を手放しかけていた頭に純粋な怯えと警戒心が生まれた。平時であれば一瞬で毛を逆立て、低く威嚇の声を発していただろう。尤も、今はそんな力も残っていない。ゆえに、威嚇の代わりと言わんばかりに男を食い入るように見つめた。というより、精一杯睨んだ。
男は俺の胸中を知ってか知らずか、柔らかく微笑むと、やおらに俺を抱きしめた。男らしく無骨な両の手が、まるで気遣うようにこの身を包み込む。想定外の触れられ方に、思わず目を丸くしてしまった。だが、その抱擁は弱った猫の警戒心を解くのに充分すぎるほど優しかった。
(……温かい)
久方ぶりに感じた、人肌の温もり。冷え切った体も、心さえも、抱かれる腕の中で熔けていくようだった。春の柔らかな陽だまりの中でうたた寝している時の心地とよく似ている。その温度にもっと寄り添いたくて、体を弱くすり寄せてみる。男の手が、応えるように俺の背中をぽんぽんと柔らかく叩く。
「お前はまだ生きなければ。授かったその命、そんなに若くして失うなど勿体ない」
低く静かな声が、耳元で囁いた。そして、男はそのままそっと歩きだしたのが、微かな振動で分かった。
何処に行くのだろう。疑問が浮かんだが、すぐにどうでもよくなった。何だか、とても眠くてたまらなかった。まぶたが再び重くなり、俺はゆっくりと目を閉じた。
初めて出会った見知らぬ人。しかし、不信感は無かった。この人に抱かれていると、自分でも驚くほど穏やかな心持ちになれた。
先程のような冷めた気持ちも、もう目覚めないかもしれないという漠然とした恐れも無い。俺は不思議なほど穏やかな気持ちで、男の手に抱かれながら全てを預けた。
――――この時、俺は知る由も無かった。
突然現れたこの珍妙な形の男が、俺の運命をそっくり変えてしまうなんて。
草木も眠る丑三つ時。
妖怪たちが一番活発な時間帯だ。【猫又】である俺も例外ではない。
冬の候、冴え冴えと白く輝く月が、黒々とした空にくっきりと浮かんでいる。開け放った社の扉の前で、満月を眺めながらぬるく温めた酒を呷る。イチローが愛飲している純米酒を少し頂戴したのだ。
(相変わらず強い酒だ。美味なんだがな)
猪口を傾けながら、俺は苦笑いしていた。
イチローは強い酒を好んでいる。奴が頻繁に飲んでいるこの酒も、それなりの度数がある。ちびちびやらないと少々飲みづらいが、味はとてもいいので俺も好きな酒だ。
「――――ジロー、優雅に月見酒か?」
ふと、前方から声がした。目を向けると、赤髪の【鬼】が鳥居をくぐり、ゆったりとこちらに歩いてきているところだった。この寒い真夜中に、近辺の「夜廻り」をしてきたのだ。
イチローは、この東地方では名の知れた紅い【鬼】だ。妖怪の中でも折り紙付きの実力を持ち、性格も気さくな彼は、多くの『まつろわぬ者』たちの首領的存在として慕われている。
そんな彼はこの近辺で、知らずに妖の世界に迷い込んだ人間を送り返したり、「邪なる衆生」と呼ばれる悪意ある妖怪をこらしめたり、或いは邪悪な目的を持った人間を脅かして追い払ったりしている。
つまり、彼は人間と妖怪、或いは妖怪同士のいざこざが起きないように、時折この界隈を見回っている、というわけだ。
「お帰りイチロー。寒い中お疲れ」
「ああ、ただいま」
扉の前で草履を脱ぎ、裸足で社に上がると、イチローはすぐさま火鉢の前に胡座をかいた。真っ赤になった炭がパチパチ爆ぜるそれへと手をかざすと、気の抜けた溜息が聞こえてきた。
「はあ〜あったかい……いやはや、足も手も冷え冷えしてしまったぞ」
「今時分は如月の月だろう。ましてやこんな真夜中では寒くて当然だ。防寒具の一つも着けていかないから……」
「なんのこれしき、と意地を張るものではなかったな。これは明日の朝も冷えるぞ……」
「迷惑な話だ」
寒いのが嫌いな俺は、イチローとは違った意味合いの溜息を吐く。それが可笑しかったのか、イチローはくすくすと笑った。
「それはそうと珍しいな。ジローが一人で飲んでるなんて」
火鉢に手をかざしながら、イチローの視線は俺の傍に置かれた徳利や手元の猪口に向いた。
俺は酒にそこまで強くない。宴の時やイチローに誘われた時など、他人に便乗しない限りは頻繁に飲むこともないのだ。そんな奴が、今日は進んで猪口を傾けているとあれば、俺を知る者からすれば珍しい光景だろう。
「ああ……何となく飲みたくなったんだ。今宵は月も明るく綺麗だったからな」
「ほう……まあ気持ちは分かるぞ。酒はいつ飲んでも美味いが、月見酒もまた乙だからな」
曖昧かつ当たり障りのない返事をすると、イチローは物珍しそうに片眉を上げつつも納得したように頷いた。
実を言うと、一人で飲んでいたのには訳がある。酒の力を借りないと話せないことを、目の前の【鬼】に話す為なのだが、それをわざわざ説明するのは野暮というもの。そうして適当に言い訳を捏ねたわけだが、幸い怪しまれずに済んだようだ。
「イチローもどうだ?飲むなら熱めに燗をつけるぞ」
尋ねてみるが、イチローはうーんと暫し悩んでからへらりと笑った。
「今夜は気分ではないのでな、やめておくよ」
その返答に俺はきょとんとした。思わずイチローの顔をじっと見つめる。
「ん?どうしたジロー」
「イチロー、ちょっといいか」
すでに空になっていた猪口を置くと、四つん這いでのそのそとイチローに近づく。何事かと言いたげなその顔に手を伸ばし、額にぺたりと手を当てた。
「……何してるんだ」
「熱でもあるのかと思って」
「俺は至って元気だぞ。何故そうなる」
「いつも酒を水分代わりに飲んでるような奴が酒を断るなど、具合が悪いのかと疑うだろ」
「失敬な。お前は俺を何だと思ってるんだ」
言葉の割には面白そうにくつくつ笑い、イチローは俺の額を優しくぴしっと弾いた。いてっ、と呻いた俺を他所に言葉を続ける。
「本当に今夜は興が乗らんだけだ」
「『夜廻り』の途中で何かあったか?」
「ああ……うん、まあな。ちょいと暴れてた妖怪をいなしてきた程度なんだが……それがきっかけで少し物思いに耽ってしまってな。そいつが気がかりなせいかもしれん」
「何を考えていたんだ?」
首を傾げるが、イチローは答えない。代わりに、手の仕草のみで「隣に来い」と示すので、彼の傍らに座り直した。
すぐに話し出すのかと思えば、イチローは俺が座ったのを見てもまだ黙っていた。火鉢の中で赤くなっている灰を見つめたままだ。その横顔は、言葉を慎重に選んでいるように見えた。
―――――暫しの沈黙。
ふと、冷たい風がすうっと滑り込んできた。振り返ると、社の扉を開けたままだったことを思い出した。月をよく見るためだったのだが、イチローと話しているうちに閉めるのを忘れてしまっていたようだ。
さすがに冬の夜風は堪える。俺はイチローに目配せしてから立ち上がった。静かに扉を閉めると、それをきっかけにしたかのようにイチローが俺を呼んだ。
再び隣に座って次の言葉を待つ。イチローは俺の方を見ないままで、そっと口を開いた。
「……お前は、後悔していないか?」
いきなりそう言われても脈絡が無い。「何を?」と訊き返すと、イチローは続けた。
「妖怪と化したことさ」
「………!」
咄嗟に答えられなかった。思わず目が泳いだのが自分でも分かった。言葉に詰まる俺を、イチローの紅い眼が見つめてくる。真っ直ぐな視線が、俺の泳ぐ視線を捕まえようとしているようだった。
イチローの質問の意味は分かる。そのままの意味だ。呑み込めないのは、何故今更そんなことを訊いてくるかだ。
戸惑いからくる瞬きを繰り返していると、イチローが言葉を続けた。
「覚えているか、ジロー」
「だから、何をだ」
イチローが何を訊こうとしているのかいまいち読み取れない。思わず言葉の先を急かすような言い方になってしまう。
「……俺がお前を見つけた時、お前はひどい有り様だったよな」
その言葉で、蘇った。
遠い、遠い、あの日のことが、記憶の海からゆっくりと浮かび上がってくる。
あの日も、こんな夜だった。
月が冴え冴えと明るくて、凍えそうな如月の頃。寒空の下、俺は無様に死にかけていた。使い古した雑巾みたいになった俺を見つけてくれたのは、他でもない。隣で俺を見つめてくる、緋色の髪の【鬼】であった。
「お前を手当てした後も不安だったよ。このままお前が目を覚まさなかったら……そう思うと、気が気でなかった」
当時を思い出しているのか、イチローは苦笑いを浮かべた。
「そうだったのか?とてもそうは見えなかったが」
禁忌の記憶ではないにしろ、少々苦味の強い記憶だ。思い出すのはあまり気が進まなかったが、イチローの話したいことを理解するには、彼に合わせるしかない。
「内心は不安だったさ。目の前で命の灯火がか細く揺らいで、消えるか踏ん張るかも分からなかったのだからな」
珍しく細い声で、【鬼】はそう答えた。不安だった、という一言は本心のようだ。
普段から弱音も吐かなければ、弱った姿も見せない。そんな、心身共に強靭な彼がはっきり「不安だった」と口にするのは稀なことだ。
(……まあ、無理もないか。確かにあの時の俺の怪我は、猫が負うには深刻だったからな)
俺はそっと溜息を吐くと、静かに記憶の糸を手繰り寄せた。
孤独ナ鬼ト猫
次に俺が目を覚ました時、辺りはほのかに明るく、この身には大きすぎる布がかけてあった。それは大人用と思われる黒い羽織であった。
(……俺、寝てたのか……)
目だけを動かして辺りをゆるゆると見回す。
俺が寝かされているのは、木造の部屋のようだっだ。部屋の中央にはだるま火鉢が焚かれていて、空間はほかほかと暖かい。ほのかに明かるかったのは、この火鉢で燃える火のおかげだろうか。
部屋の隅には台所と思われる小さな区画、木製の扉、畳まれた敷布団、柳行李といったものが見受けられた。どうやら誰か住んでいる場所のようだ。
上を見れば、壁には格子の窓らしいものがある。
そこから見える空は暗く、今は夜であることが知れた。
(……そういえば、ここは?)
少なくとも飼い主の屋敷ではない。あの家に格子の窓はなかったし、何よりもっと広々としており、品物やら私物やらで雑然としていた。ここにも明らかな生活感はあるが、こちらはどこかこざっぱりとしている。
それならば、俺が寝ているここはどこなのか、見当が付かない。何故見知らぬ場所にいるのだろう。ひとまず体を起こそうとした瞬間、鈍く重い痛みが全身を、特に右前脚を襲った。
『ぃ、ぎっ…!!』
顔が歪み、呼吸が乱れた。ウウウ……と低い獣の呻きが漏れる。起こしかけた体を再び元の位置に横たえると、俺は息を吐いた。
(……どうして、こんな怪我を…?)
ぐらぐらする頭で記憶を辿ろうとしたが、全身を襲うズキズキとした痛みに邪魔されて、それすらもままならない。痛い、苦しい、辛い、そんな言葉が頭を埋め尽くし、涙が滲んでくる。
ぎゅうっと目を瞑り、苦痛に耐えていた時だった。
「おお、気が付いたか、猫」
――――突然、視界の外から声がした。
耳に覚えのない声に警戒心が芽生え、閉じていた目を開いた。声のした方に頭を向けると、いつの間にか、部屋の扉が開いていた。そして、いつからいたのだろう、扉を背にする形で人影が部屋に入っていた。
(……あっ)
見覚えがあった。目にも鮮やかな緋色の髪、頭にある尖った突起のようなもの。気を失う前に見た、あの奇妙な姿の男で間違いない。
目を丸くしている俺を他所に、俺の傍らに胡座をかくと安心したように微笑んだ。近くで見ると、その瞳も髪に劣らぬ鮮やかな紅の色をしており、左目の下には奇妙な赤い模様が刻まれている。
「良かった、目が覚めてくれて。お前を拾ってから五日も眠っていたから、もう駄目かと思ってしまったぞ」
(……そんなに眠っていたのか)
そう言われても、にわかには信じられなかった。意識を失ったのがつい昨日のことのように思える。
「気分はどうだ?まだ傷が痛むか?」
男は引き続き俺に話しかけてきた。と言っても、その口調は猫に対して人間が発する、あの甘い媚びたような喋り方ではない。だからこそ、これは答えるべきなのだろうかと、俺は迷いを覚えた。
無視することもできたが、そうするのは気が引けた。何故なら、男の口調はまるで人間に話しかけているようだったからだ。猫に一方的に話しかけるのとは違う、相手の返事が前提のしっかりした声掛け。
答えに迷ったのは、そんなふうに話しかけられたことが無かったことと、もう一つ理由がある。
実は、俺は猫でありながら人間の言葉が理解できる。
あくまで出来るのは「聞いた言葉の意味や意図を理解し、自力で文章を組み立てて想起する」ところまでであり、人語はどう足掻いても話せない。そもそも猫の口の構造では、天地がひっくり返っても不可能だ。
だから、俺がいくら人間に答えようともにゃあと鳴くことしかできないので、あちらはこれっぽちも理解できない。人間と俺では、会話が成立することはまず無いのだ。
それに鳴いたら鳴いたで、人間サマは俺の鳴き方や仕草から勝手に都合のいい解釈をして、理解したつもりになるのでさらに無意味だ。
迷った挙句、申し訳程度に「にゃあ」と鳴いた。どうせ伝わらないとは思いながらも、『まだ痛い』と言ったつもりで。
鳴き声を聞いて、男は俺を見つめた。何度か瞬きを繰り返しているところを見ると、案の定理解してないようだ。
ほらな、伝わってないんだろ。心の中で諦めたように呟いた時だった。
「……そうか、痛いか。薬の効果が切れてきたらしいな」
(……え?)
――――我が耳を疑った。
男を見やると、彼はうぅむ、と唸って立ち上がり、部屋の隅に置かれた柳行李をごそごそやり始めた。これじゃないな、あれも違う、はてどこにやってしまったか……などとぶつぶつ言いながら、何かを探しているようだった。
(……流石に偶然、だよな……?)
大きな背中を見つめながら、そう思い直した。
これまでもこちらの言ったことと、相手の返答が偶然に繋がったことはあった。きっと今のも、男の言ったことが会話みたいになっただけだろう。
人間に、俺の言葉は理解できるはずないのだから。
「おお、あったあった」
男の嬉しそうな声で我に返る。
彼は再び俺の傍らに座ると、俺の鼻先に小さく平たい朱の杯を置いた。そこへ、持っていた陶器の瓶からトクトクと透明な何かを少量注ぐ。その途端、今まで嗅いだことのない強い臭いが鼻を突き抜け、思わず眉間に皺を寄せた。
俺の知識では例えようもないが、強引に表現するならハッカやニッキといった、清涼感と辛みを感じるツンとした匂いに似ている。とにかく、この時点で分かったのは、単なる水や飲み物ではないことだけだった。
(うっ……何だこれ……)
「少々臭いは強いが、飲めば滋養が付く代物だ。これはあらゆる薬草を酒に百年漬け込んで作った“【鬼】の秘薬”……【鬼】しか作り方を知らない秘伝の薬酒だからな」
(お、に……?えっ……【鬼】だって!?)
その単語に俺は飛び上がりそうになった。
恐ろしい単語をさらりと言った目の前の男を、信じられない思いで見つめた。俺の視線を受けて、男は……【鬼】はどこか困ったように笑った。
「……黙ってたわけではないが、お察しの通り俺は人間ではない。いわゆる“妖怪”といわれる類で、俺はその中の【鬼】という種族なんだ」
【鬼】。その話は飼い主や店に来る常連客の口の端に登ったことがあった。
『【鬼】ってよ、動物だろうと人間だろうと見境なく取って喰っちまう、そりゃもう恐ろしい化け物なんだってな』
飼い主がそう言うと、客がぶるりと震えた。
『ひええ、怖いねぇ……くわばらくわばら。この前この辺に出たんだって?』
客が問うと、飼い主はああと答え、声を潜めた。
『真っ赤な体とぎらぎらの目ん玉、頭にゃでっかい角を持ってて、身の丈は七尺から八尺(約200~240cm)はあったそうだ。大きな声じゃ言えないが、うちを贔屓にしてた客がそいつに喰われたんだってよ』
話によると、その日の夜、この店を贔屓にしている客の一人が、連れと外出していた。
その際、不幸にも腹を空かせた【鬼】と出くわし、連れは一目散に逃げたが、その客は来なかった。代わりに背後からは耳を劈くような悲鳴と、骨の砕けるようなバリバリという音がしたらしい。
翌日、連れの通報でやってきた岡っ引が現場に行くと、血まみれの腕が一本転がっていたそうだ。
――――その客の着ていた着物の切れ端と共に。
凄惨な【鬼】の狼藉。すぐにその噂は千里を駆けた。
『お客さん、気をつけておくんなよ。これ以上【鬼】に、うちの客を食い殺されたら商売あがったりだからな』
『そういう旦那だって用心しとくれよ。ここがつぶれたら、誰がオレによく効く薬を安く売ってくれるってんだい?』
『違いないな』
そう言って、飼い主と客はけらけらと笑っていた。恐ろしい恐ろしい、と言うくせに完全に他人事といった雰囲気だった。明日は我が身、とは露ほども思っていなかったのだろう。
店の隅の方、しずしずと顔を洗っていた俺はこっそりその話に耳を澄ましていた。
心の中で、【鬼】なんて化け物は本当にいるんだろうか、と素朴な疑問を浮かべながら。
だが、【鬼】は実在した。目の前に、そうと名乗る男がいる。
(だからこいつ、人間にしては変な見た目だったのか)
ようやく合点がいった。人間ならまず有り得ない紅い髪や瞳、頭の突起を角と見るなら、彼が【鬼】であるという言葉は紛れもない真実なのだろう。
俺はもしかして、とんでもない奴に助けられたのではないだろうか。そう思うと背筋がぞっとした。助けてくれたのも善意からなどではなく、今夜の晩飯のためではないかと本気で怖くなり、顔が引き攣った。
「……やはり、【鬼】は怖いよな」
ふと、【鬼】が呟く。見ると、【鬼】は笑っていた。しかし、確かに笑顔とは縁遠いものを感じて俺はハッとした。
俺が一瞬でも恐れを抱いたのが表情から分かってしまったのだろう。【鬼】が浮かべた悲しそうな、寂しそうな笑顔に、無性に申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
純粋な恐怖の中に別の感情が混じった気がして、胸の辺りがきゅっと痛んだ。傷の痛みとはまた違う、不思議な痛みだった。
「信じてもらえないかもしれんが、安心しろ、お前を喰うつもりはない。この薬も、妖怪の作った薬とはいえ、普通の動物にも害はない」
だからお飲み、元気になるから。
【鬼】はそう言って、杯を少しだけ俺に近づけた。
普通なら―一般的な人間や動物なら―、疑念を抱くか、きっぱりと拒んだだろう。だが、この時の俺は疑念も拒絶の意思も無かった。
【鬼】が見せた寂しそうな笑顔に絆されたのかもしれない。或いは、尚も続くこの痛みと苦しみから楽になれるなら【鬼】の薬でも何でもいい、と投げやりだったのかもしれない。
唯一言い切れたのは、少なくともこの男には悪意など微塵も無い、ということだった。
俺はゆっくり頭をもたげると、恐る恐る液体に口を付けた。舌で液体を掬い、喉へと流し込む。
(……ま、不味い……)
表現し難い味と風味が口一杯に広がって鼻を抜け、堪らず顔をしかめた。すうっとする清涼感に加えて、苦いような酸っぱいような辛いような複雑な味、そしてどこか癖のある風味は、今まで口にしたことも嗅いだこともない感覚だった。
俺のしかめ面が愉快だったのか、【鬼】はたちまち声を上げてからからと笑った。
「はははっ、味もきつかったか。実は俺もこの薬は不味くて苦手なんだ。まあ、一口だけでも効果はあるから無理しなくていいぞ」
楽しそうに【鬼】は笑っていた。俺が施しを拒まず受け入れたことが嬉しかったのだろう。一見すると、眉が濃くきりっとしているので強面だが、笑うと目許が緩んでとても優しそうになるのが印象的だった。その笑顔は、異類のものと呼ぶにはやけに人間じみていて、むしろ温かさを感じた。
――――音に聞こえし【鬼】とは何かが違う。
それが彼の第一印象だった。
その後、俺は薬をもう二、三口啜ったが、それ以上はどうにも飲み下せなかった。そんな俺に【鬼】は、「舌が味を忘れた頃にまた飲むといい」と笑った。
それから【鬼】は、俺の体を慎重に抱き起こした。薬を塗りなおし、包帯を替えてくれるようだった。その言葉で、今まで気付かなかった体の包帯の存在を認識した。
【鬼】曰く、彼が見つけた時、俺は擦り傷と打ち傷だらけ、全身血まみれで倒れていたらしい。右前脚に至っては骨折までしていたという。獣が負うには酷すぎる怪我に、発見当初は我が目を疑った、と【鬼】は眉をひそめた。それから「普通の猫ならとっくに死んでいただろうに、お前は強いな」と微笑んで続けた。
(……ああ、そうだった)
【鬼】の話で、ようやく頭の回路が繋がった。
俺は飼い主に罰として叩かれ蹴られ、散々痛めつけられた末に外に放り出された。身を刺すような夜気に晒され、凍えながら、死を覚悟したのだ。
しかし、俺はどうやら三途の川に脚を突っ込んだだけで済んだらしい。このへんてこな【鬼】に拾われたおかげで。
(確か、俺は五日間、眠り続けていたんだったか)
それならば、飼い主も流石に慌てている頃だろう。
一晩放っておくだけと思っていたら、ぼろぼろのはずの飼い猫がこつ然と姿を消している。商売道具が消えたとあれば、血眼になって捜すだろう。俺の「力」が無ければ、緩やかに客足は衰え、儲けも減っていくだろうから。がめついあの飼い主が、「猫は攫われたか」と諦めるとは思えない。
(まあ、どんな理由であろうと、捜してもらっても嬉しくないがな)
俺は冷めた溜息を吐いた。飼い主が捜しているとしても、どうせ奴は俺が心配なわけではなく、「俺の『力』」が無くなったら困るから、俺を捜しているに違いない。いつだって、「俺」という存在は「力」のおまけでしかないんだ。
そんなふてくされた思いでいた時だった。突如ぬるりとしたものが俺の左前脚の甲に触れ、すぐにじぃんと染みるような痛みが広がった。
「フギャアアアッ!?」
「おおっとすまん。染みたか」
俺の甲高い叫びとは正反対な、呑気な声の主は【鬼】であった。見れば、俺の前脚の甲に何かを塗りつけているようだった。
『あんた一体何をしたんだ!?』
反射的に毛を逆立て、フシャーッと唸り声を上げる。体が痛くなかったら、咄嗟にこいつの顔を引っ掻いてたところだ。
「悪かったって。そんな怖い顔するなよ。これはどんな傷にも効く【河童】の軟膏だ。塗って暫くすれば痛みが引くぞ」
こればかりは、俺の言葉が分からなくても何となく伝わったのだろう。俺の怒りも軽く流し、【鬼】がそう説明する。【河童】という妖怪が作った軟膏は乳白色をしていて、人間の使うものと見た目は大差なかった。
【鬼】はそれを俺のあらゆる傷に塗ると、新しい包帯を丁寧に巻いていく。骨折した右前脚には、加えて添え木も当ててくれた。
一通り処置を終えると、俺は再び布団に横たえられた。
「これでよし。少し安静にしていれば楽になるぞ」
俺の顔を覗き込み、【鬼】が微笑んだ。
やはり、いくら見ても化け物と言うには程遠い、柔らかな笑みだ。
(……本当にこいつ、【鬼】なのか?)
【鬼】の顔を見つめ返しながら、ふと考えた。
大店より外の世界を知らない俺は、もちろん【鬼】になど会ったなどない。
だが、人間たちが噂していた【鬼】は身の丈が七尺八尺、見た目は醜悪で、血も涙も無い化け物、という話のはずだ。だが、そんな噂の姿と、今目の前にいる【鬼】の姿は、似ても似つかないことだらけだ。
確かにこの【鬼】も長身ではあるが、流石に七尺八尺あるとは思えない常識的な背丈だ(この頃の人間の身長と比べると十分長身だが)。
顔も醜悪どころか、むしろ眉目秀麗の部類に入るだろう。そして何より、凶暴無比の噂に逆らうが如く穏やかで、柔和で、優しい言動だ。
『……あ、あの』
にゃあ、と鳴くと、【鬼】は何だ?と首を傾げた。
噂が間違っているのか、この【鬼】が例外なのかは分からない。だが、たとえ人外の存在でも、化け物扱いされる存在でも、少なくとも俺を善意から助けてくれたことは間違いないだろう。どこかの身勝手な人間より、よほど信じられる。
『……あり…がとう…』
だから俺は、そう言ったつもりで鳴いた。伝わりはしないと思いながらも、言っておきたかった。
【鬼】は先ほど俺に話しかけられた時のように、黙って瞬きを繰り返した。だが、すぐに優しい微笑みを浮かべて、はっきりと答えた。
「どういたしまして」
――――また、会話が繋がった。
どう考えても、今のは俺の言葉を理解した言い返し方だ。
『俺の言葉が……分かるのか?』
訊かずにはいられなかった。すると【鬼】は微笑んだまま静かに頷いた。
「俺は妖怪だからな。人為らざるものの言葉はある程度分かるとも。猫よ、そういうお前も、人間の言葉が理解できるんだろう?」
何故分かったのだろう、と思いながらも頷く。その疑問は【鬼】の説明ですぐ解決した。
猫は元々頭のいい動物で、人語を理解できる数少ない動物の一種なのだという。人語を聞いて解する猫は多いが、その上で自身で言葉を紡ぎ、あまつさえ頭に思い浮かべる個体となると、そう多くはいないらしい。その中でも俺は、特にその能力に秀でていると【鬼】は言った。
他の猫の基準が分からないから、そう言われても実感は湧かない。俺にとって、子猫の頃から人間の言葉を理解し、思考することは当たり前のことだったからだ。そんなに凄いことなのか、と小首を傾げていると、俄かに大きな手が頭に乗せられた。反射的に体がぴくりと跳ねた。
【鬼】はその大きな手で、俺の頭をゆるゆると撫で始めた。撫でられたのなんていつ以来かも分からない。忘れかけていた感覚に、俺は若干の落ち着かなさを覚えていた。
しかし、受け入れてしまえば意外にも落ち着くもので。無骨で大きな温かい手の感触は、たちまち俺の緊張を解いた。その心地よさに、思わずゴロゴロと喉が鳴った。
「お前はとても賢そうな顔をしている……いや、実際にとても頭がいいのだろうな。猫はよく近くの町でも見かけるが、お前ほど利口な子は初めてだぞ」
(利口……俺が?)
愛おしそうな【鬼】の言葉に目を丸くして、彼を見つめた。
毛色が勿忘草の色をしているから、珍しいと言われたことはあった。
いつも店の隅でじっとしているから、大人しいと言われたことはあった。
だが、利口だと褒められたことはついぞ無かった。
嬉しいような、でも面映ゆいような。じんわりと温かいような、でもこそばゆいような。生まれて初めての気持ちに戸惑い、やけに頬が熱くなる。
褒められて嬉しくないわけがない。だが、素直に喜ぶのは何だか照れ臭い。俺はゆるゆると頭を振ると、撫でてくる手をやんわりと払った。
【鬼】はきょとんとしていたが、すぐにくすりと笑う。
「照れてるのか?」
『て、照れてないっ!気安く触られたから振り払ったんだ!』
揶揄うような声が降ってきたので、鋭い鳴き声に乗せて、気持ちとは正反対のことを吐き捨てた。本当は撫でられて嬉しかった、褒められて嬉しかったなど恥ずかしくて言えない。
「猫でも照れくさいという感情はあるのだなあ。可愛いじゃないか」
こらえようともせずに、【鬼】は軽快にからから笑った。懲りずに再び俺の頭に手を乗せる。
(ああもう、だからべたべた触るなって……!)
もう一度振り払おうとした時だった。不意に「なあ猫」と【鬼】が呼びかけてきた。
「……名乗り忘れていたな。俺の名は、イチローというんだ。紅い【鬼】のイチロー。お前の名前は何というんだ?」
(……名前?俺の、名前……)
そういえば、一応俺にも名前があった気がする。
だが、飼い主はもちろん家の者も客も、俺の名などあまり頻繁に呼ばなかったから、今の今まで忘れかけていた。
それにしても、己の名すら忘れかけていたとは、何というお笑い種だろうか。自嘲したくなる気持ちを抑えつつ、記憶を辿り、暗い記憶の海からそれを捜す。幼い頃に、恐らく親猫から授けられたであろう名前を。
『……俺の名前は……』
暫くすると、無事に見つかった。俺が「俺」として生きていることの、唯一にして最大の証明。
『……ジロー。……ジローだ』
確かめるように、ゆっくりと名前を繰り返した。
「ジロー、か。いい名前を持っているじゃないか。よろしくな、ジロー」
【鬼】……もといイチローは、何度見ても【鬼】らしくない笑みを浮かべた。それから、怪我の少ない俺の左前脚をそっと取り、軽く上下に振ってみせた。後で知ったことだが、これは一般に「握手」と呼ばれていて、親愛を意味する行為なのだという。
―――――これが、俺とイチローの出会い。
俺の運命を変えた出会いだった。
訣別
それからおよそ一週間で、俺の体はみるみる快方へ向かっていった。骨折もしていたから、少なくとも三ヶ月はかかると覚悟していたが、予想以上に早い回復だった。
脚の方は、一週間と数日もすれば包帯と添え木が取れ、ゆっくりとだが歩けるようになった。半月もすれば、問題なく走ったり、高い所へ飛び乗ったり、逆に飛び降りたりすることも出来るようになった。
常識ではあり得ないほど早い回復。イチローから後々聞いたことだが、それが実現したのはイチローが用いた【鬼】の秘薬のおかげだという。
あれは口にした者の自然治癒力を高めてくれる代物で、どうやら【鬼】しか知らない秘伝の製法で、【鬼】たちの持つ脅威の再生力を薬酒で簡易的に再現している……らしい。
理屈はよく分からないが、とにかくとんでもない薬であることは俺でも分かった。
「お前がそこまで不安に思っていたなんて、知らなかったよ」
負った怪我は確かに深刻だった。しかし、イチローの介抱の甲斐あって、あまりにもあっさり治った怪我でもある。にも関わらず、今になって不安を口にされたものだから、少々意外に思ってしまった。
「言えばお前に気を遣わせると思って、今まで言ってなかったからな。知らなくて当然だろう。百年も経てば流石に潮時だろうから、白状したんだ」
イチローは困ったように笑った。
「……話を戻すが、後天的に妖怪に化したことを、何故俺が後悔してると思うんだ?」
今のところ、一番分からないのはそこだ。
何故なら、俺が妖怪になったきっかけは、他でもないイチローの提案だというのに。そして、それを呑んだのは紛れもない俺自身だというのに。
今まで後悔を匂わせる言動を見せた覚えは無いはずだが、イチローは何に引っかかっているのだろう。
「ジローが妖怪に……【猫又】に化したのは何故だ?」
回りくどい質問。率直に言えばいいものを、と言いたいのを飲み込んで答える。
「俺が、お前に『妖怪にしてくれ』と希ったからだ」
「そうだな。だが……あの日から百年経った今だからこそ問いたい。お前は、本当にそれで良かったのか?」
問いの意味を測りかねた。どういうことだと視線で問うと、呟くような答えが返ってきた。
「分からなくなってしまったんだ。あの日、お前を妖怪に変えたことは本当に正しかったのか……お前の為になったのだろうか……とな」
「…………」
何も言えなかった。
俯いたままの彼の横顔から読み取れたのは、深く色濃い後悔の念。
それがありありと分かってしまったから、何と言葉をかけていいのか分からなかった。ただ、そっとイチローの肩に手を添えることしか出来ない。
「……俺を妖怪に変えたことを、悔やんでいるのか?」
俺は続けて「どうして?」と問わずにいられなかった。
「だって、あれは俺が頼んだことだろ。どうしてイチローが悔やまなければならない?」
分からないことが増えてしまった。堪らず問いかけると、【鬼】は少しだけ顔を上げ、力無く微笑んだ。
「分かるだろう、妖怪として百年を存えたお前なら。妖怪に為ることは、必ずしも良いこととは限らん。お前にとってもまた、良いことではなかったかもしれないと、そう思ったんだ」
普通の生物や器物が化けて妖怪に為ることは決して珍しくはない。ただ、経緯はどうあれ、本来「化ける」という現象は自然の成り行きに任せて起こることだ。
例えば、長い年月を生きたことで妖怪と為る【妖狐】や【妖狸】、大切に使われ続けて魂が宿った【付喪神】などがいい例だ。本来なら、俺の正体である【猫又】も、一般の猫が寿命を超えて生きながらえたことで化けるのが自然な流れだ。
それとは対照的に、第三者がある妖術を用いて意図的に生物器物を妖怪に化けさせることもある。俺はそんな「意図的に妖怪に化けさせられた」妖怪だ。
元は普通の猫だった……いや、「普通だと思い込んでいた猫」だった俺は、生まれ付いて体に宿った神秘の力……霊力を増幅され、【猫又】に、妖怪に為った。
そう、イチローの手によって。
自然に化けるにしろ、意図的に化けさせられるにしろ、後天的に妖怪と為ることは困難も多い。ある日を境に妖怪に変わることは、時に不幸な結果を呼ぶ。
例えば、生活習慣や生き方が変わってしまったことに耐えられず、己を見失った者。
例えば、妖怪の持つ半不老不死に悩み、苦しみ、それでも死ねずに生き続ける者。
例えば、ある日突然化け物と疎まれ、迫害を受けるようになった者。その果てに、人間に襲い掛かる存在に成り下がったり、その末に討伐されて非業の死を迎えた者もいる。
確かに百年も生きていれば、そうした先人や同胞たちの悲劇を耳にすることは稀ではない。
(待てよ、さっき『夜廻り』の途中で暴れていた妖怪をいなしたと言っていたが、まさか……)
目で訴えかけると、イチローはこくりと頷いた。
「最近ここらで、通行人を脅かして怪我をさせる輩がいると聞いていたんでな。よく目撃される時間を見計らって『夜廻り』に行ったんだ。暴れていたのは、まだ妖怪になって間もない【化け猫】だったよ」
その噂は俺も聞き及んでいた。この辺りには【妖狐】も【妖狸】もいないのに何故、と思っていたら、正体は【化け猫】だったとは。
【化け猫】は【猫又】よりも妖怪としての本能が強く、悪意の有無に関わらず人間を化かして困らせることが多いと聞く。悪意が無い場合は軽い悪戯程度で済むが、悪意がある場合は人間はおろか力の無い妖怪にも牙を剥くとあって非常に厄介だ。
イチローはいつも、悪意のない妖怪には決して手を出さず、悪戯に対しての説教だけで追い返す。それをしなかったということは、今回の【化け猫】は後者の場合だったのだろう。
イチローによると、その【化け猫】は野良猫だった頃、人間からいじめられた末に死んでしまったことから、怨念を糧に【化け猫】に為り、復讐のために人間たちを貶めていた。
だが、退治した後によくよく話を聞けば「気がついたら妖怪になっていたが、望んで化けたわけではない」「人間は憎いが、永遠の命など欲しくなかった」と涙ながらに語ったらしい。
イチローは【化け猫】の胸の内をたっぷり一時間聞いてやると、イチローが時々開いている妖怪たちの宴に参加してみることを勧めた。楽しみが一つでも見つかれば、妖怪の身も案外悪くないぞ、と一言添えて。最終的に【化け猫】は大人しくなり、どこかへ去っていったという。
事の顛末はさておき、イチローが引っ掛かっていたのはその【化け猫】の身の上話。
経緯は違えど、一般的な猫から妖怪へと変わってしまったその身の上を聞き、同じく「霊力を宿しただけの」普通の猫だった俺のことが、不意によぎったのだという。
「お前を妖怪に変えた当時、若造だった俺はお前を救った気でいた。だが、それは自己満足でしかなかったのではないか。件の【化け猫】を見ていたら、そんな思いが湧いてきたんだ。おまけにあの術は、ちょいと好ましくない代物だったからな」
過去に、妖怪の書いた書物で読んだことがある。
普通の生物器物を妖怪に変える妖術は一般的ではなく、一部の妖怪しか知らない。
一般的ではないということは、つまり外法に等しいということだ。よほどのことがない限り、使われることは無いし、使うことそのものも、あまり褒められたことではない。
自然に化けたとて苦悩が多いというのに、強制的に化けさせることがいかに尋常ならざることか、妖怪の間では自明の理なのだ。
イチローはそれを知った上で俺にその術を使った。
もしかすると、当時から若干の後ろめたい気持ちはあったのかもしれない。それが、件の【化け猫】の話を聞いているうちに蒸し返され、漠然としていた後悔に拍車をかけてしまったとしたら、頷けない話ではない。
「確かにお前は、俺に『妖怪にしてくれ』と頼んだ。でも、お前も普通の猫であることを捨てて、後悔したことがあるだろう?言うなれば俺は、お前に『普通』を捨てさせるきっかけを作ってしまったようなものだからな」
そう語りかけてくるイチローは、いつになく頼りない笑みを浮かべていた。
(……後悔、か)
考えてみた。妖怪となったことで何を得て、何を失い、何が変わったのか。
――――だが、どれだけ考えても、導き出される答えはたった一つ。それ以上もそれ以下も無く、ただそれしか思い当たらない。
「……なあイチロー。お前の問いに答える前に、一つだけ話させてくれ」
肩に添えていた手を、彼の手に重ねた。イチローはきょとんとしていたが、何だ?と先を促す。
「お前に妖怪に変わることを提案された時、確かに迷ったし、恐かった。妖怪に化けたら後戻りは出来ないし、俺の中にあった『当たり前』が全て失われる気がしたから」
再び記憶の糸をたぐる。その先に見えたそれを、俺はゆっくりと語り始めた。
怪我が治ってからも、数日間は大事を取ってイチローの許で静養していた。
その間、俺はイチローと色々な話をした。その中で俺は、イチローについて少しだけ知ることができた。それを大まかながらまとめると、以下の通りだ。
彼の住まいは、ずっと昔に捨てられた廃神社であり、そこに一人で棲み続けているらしい。それこそ何百年もずっと。だから、俺のような話し相手ができて嬉しい、と言っていた。
何百年とはいうが、妖怪にとっての百年や二百年は短い。人間で言えば五年や十年程度の感覚だという。当時のイチローはまだたった数百年しか生きておらず、【鬼】としては若者とのことだった。
他にも、自分は【鬼】でありながら、噂に反して人間に興味が無いだとか、何よりも酒が好きだとか、他にも他愛ないことも話してくれた。
他愛が無かろうと何だろうと、それでもイチローの話を聞いているのは楽しかった。誰かと面と向かって会話したことがなかった俺にとって、彼とのお喋りはとても新鮮で、不思議な感覚だった。それに、イチローのことを知れば知るほど、彼に少し近づけた気がして謎に嬉しく思えた。
とにかく、イチローと一緒にいるうちは、嫌なことも難しいことも忘れられた。彼の傍にいると、気を張らず自然体でいられて、とても楽な心持ちだった。
願わくば、ずっとこのままイチローの傍にいたいとさえ思った。
ーーーーその願いが、意外な形で実現することになるなど、夢にも思わなかった。
怪我が完治して数日経った夜。
ふとイチローは、彼の傍で丸くなってうとうとしていた俺をそっと起こして話しかけてきた。
「ジロー、眠いところごめんな」
『んぅ……何だ……?』
「お前に一つ、訊きたいことがあるんだ」
見やったイチローの顔は何だか改まっていて、俺は少しだけ嫌な予感を覚えた。それでも平静を装い、いいけど何だ、と聞き返す。
「……あの夜、何があったんだ?」
『………ッ!』
言葉こそ少なかったが、すぐに何について訊かれているのか分かった。
避けてきた話題を掘り返されて動揺する俺を、イチローはじっと見つめている。強かな光を秘めた紅の目は俺を見透かしているようで、余計に言葉に困った。俺が黙っているせいか、イチローは言葉を続けた。
「お前が負っていた傷……どう考えても、猫同士の喧嘩や野犬に襲われた傷ではない。憶測だが、お前はもしや人間に暴力を振るわれたのではないか?」
(……図星を指されたか)
言い訳のしようがない。俺はためらいがちに頷いた。イチローは何も言わなかったが、その表情は「やはりな」とでも言いたげだった。
「嫌なことを思い出させてしまうだろうが……事の経緯を教えてくれまいか?」
俺に気遣いを見せているのか、イチローは困ったように笑って、優しく声をかけてくれた。
一瞬話すか否か迷った。
自分から話さなかったのは、忘れていたからではない。わざわざ自分の事情を話すことで、改めて自分の惨めな身の上を自覚させられることが嫌だったからだ。
だが一方で、もう限界だという気持ちもあった。
誰にも気付かれず、また打ち明けられずにいたこの心。どす黒い澱みを抱え続けることが、果たしてこれから先も出来るのか。そう問われれば、答えは否。
きっとこのままでは壊れてしまう。そんな予感がしていた。
『……分かった、話すよ』
心を決めた。イチローの目を見つめ返し、恐わ恐わと口を開いた。
俺には生まれた時から、人間を惹きつける不思議な「力」があった。そのことに気がついたのは、後に俺の飼い主となる小さな薬問屋の男に貰われてからのことだった。
俺が店の隅っこにいるだけで、当時はまだ小さな店でしかなかったそこに連日客が舞い込んだ。それを大層喜んだ飼い主は「お前は幸運を運ぶお猫様だな」と俺を褒めちぎった。
やがて、店はたったの数年で大店へと成り上がり、俺は文字通り店の招き猫として人を、金を、飼い主にとっての「幸福」を呼び寄せ続けた。
だが、人間とはかくも愚かな生き物。
あまりに速く大成したゆえか、持て余した欲望はみるみる膨れ上がっていった。店が小さかった頃はまめに俺を世話してくれていた優しい飼い主は、より多くの富を得たいがために俺の「力」を酷使するようになった。
「力」の調子が少しでも悪くなれば、主人は容赦なく俺の食事を抜いた。仕置きだと言って俺を叩いて、蹴って、徹底的に俺をこき使った。
いつからか、そうして|徒に虐げられる日々が当たり前になってしまった。それでも俺は、飼い主のためにと「力」を振るい続けた。
物心が付く前から飼い猫だった俺にとって、飼い主と店が俺の世界の全てだった。俺というちっぽけな存在が飼い主の役に立っているという認識。飼い主に捨てられたくないという強迫観念。頑張っていたらいつかまた愛されるだろうという微かな希望。それが俺の原動力だった。
囲われた世界で生きていた俺が縋れるものは、それしか無かったのだ。
しかし、次第に無理が祟り、「力」が発揮できなくなった。客足は不安定になっていき、店の経営も苦しくなっていった。飼い主は当然俺を責め立て、俺への仕置きは日常茶飯事と化していた。
あの日……俺が飼い主から激しく暴行されたあの日の事件は、そうした日常の積み重なりで起きたのだろう。
順を追って話す間、イチローはただ静かに、時々頷いて反応しながら聞いていた。
全て話し終えると、はぁっ、と短く息を吐いた。最初は恐かった自分の身の上話。いざ話し終えてしまえば、少しだけ気持ちが軽くなった気がした。胸の内で渦巻いていたもやもやが、少し吐き出されたようにすっきりしていた。
その時、ぽんっと頭に手が置かれた。
少し骨張っていて、大きくて、温かな手の正体は、言うまでもなく紅い【鬼】だった。
「……よく話してくれたな、ジロー。こういう時、何と言ったらいいか分からんが……ここまでよく頑張ったな」
そう言って、イチローは俺を胸に寄せると、ぎゅうっと抱きしめた。俺を拾い上げてくれたあの夜のように優しく、でもあの時よりもずっと力強く。
――――よく頑張ったな。
その言葉が俺の中で波紋を作った。
内側へ入り込んで、熔けて、波紋を作って広がっていく。そんな感覚に、魂が震えるのを感じた。理由はすぐに分かった。考えずとも、心が理解した。
そうだ。俺はずっと、この言葉を待っていたんだ。
少しだけでいいから、「俺」自身を褒めてほしかった。たった一言でいいから、励ましてほしかった。「力」のおまけとしてではなく、「俺」という存在を見てほしかった。
俺はただ、「俺」という存在を認めてほしかったんだ。
そんな一欠片の愛情が欲しくて、俺は飼い主の許に居続けた。与えてもらえるか確証もないそれを、俺は信じて待っていた。ずっと、ずっと。
だが、それを与えてくれたのは、飼い主どころか、人間ですらなかった。
でも、そんなことは関係ない。ただただ嬉しい。やっと与えられた言葉が、労りが、ずっと凍えていた心に沁み渡っていくのが分かった。
「……お、おい、ジロー?どうしたんだ?」
イチローの戸惑ったような声に、俺は答えられなかった。
涙が止められない。抑えようとしても、後から後から、ほろほろと熱い雫が瞳から零れ落ちていく。
「……暫く、泣いていいぞ」
続けて、静かなイチローの声が聞こえた。
そのまま俺は、その腕に抱きしめられながら声を上げて泣いた。彼の手が、俺の震える背中をそっと撫でてくれていた。
救イノ言葉
――――どれくらいしただろう。俺の涙は少しずつ止まっていった。
それと同時に、コンコン、と社の扉を叩く音が響いた。
「……こんな夜更けに誰だ?」
不思議そうに呟き、イチローは俺をひとまず床に下ろした。その時、鼻を掠めた臭いに俺はひっ、と短く悲鳴を上げた。扉の向こうから微かに届いた臭いは、俺のよく知る、そして今一番相対したくない存在のものだったのだ。
「もしもし、夜分にすみません。こちらにどなたかお住まいですか?」
他所行き用の聞き飽きた猫撫で声。間違いない、扉の向こうにいるのは……!
『い、イチロー、出るな、出ないでくれ……!』
思わずイチローの羽織を咥えて後ろに引っ張った。一瞬驚いていたものの、俺の尋常ではない様子で何か察してくれたのか、すぐに合点がいったような表情に変わった。
「ジロー、お前は布団の隙間に隠れておけ。後のことは俺に任せろ」
俺はこくこくと頷くと、すぐさま部屋の隅に畳まれた敷布団の隙間に潜り込んだ。先程とは違った意味合いの震えが起き、俺はぎゅっと目を瞑った。
「はいはい、どちら様で」
ここから先は目視で確認できていないが、幸い耳が利く俺はそっと聞き耳を立てて状況を把握しようとした。
ぎい、と扉の開く音。次いで、聞き覚えのある男の声が社の中に転がり込んだ。
「へえ……本当にこんな崩れかけの神社に人が住んでいたとは……」
「ああ、色々と故あってね」
「そうするってぇと、お宅さんは神社の関係者から何かですかね?」
「まあそんなようなものです。先祖から受け継いだ社なもんで、捨て置くのも気が引けてね」
男の声からして、【鬼】であるはずのイチローの姿に疑問を持っていないのは謎だったが、イチローは難なく話を続けている。
「それで、他人の安眠を妨げてまで尋ねてくるとは、どのような了見で?」
わざとらしく皮肉めいた言い方のイチローに、男は少々萎縮しているようだ。
「い、いやあ、それは本当に申し訳ない……だが、うちもちょいと急ぎの探し物があってねえ」
「探し物とは?」
「……ここいらで猫を見かけませんでしたかね?薄青の毛並みの猫なんですけど、うちの飼い猫でして。ある時ぴゅっと逃げ出してしまって以来、随分探してるんですがねえ……」
びくんっと身体が跳ねた。紛れもなく、俺のことだ。あの男は……飼い主は、俺を探している。俺を、連れ戻しに来たのだ。ぞわぞわと、寒気にもに似た怖気が身体中を這う。
「はあ……青い毛の猫ねえ……」
とぼけたような口振りで、イチローはしばし黙り込んだ。それから「ああ」と何か思い出したかのように言葉を続ける。
「見ましたよ、つい半月前だったか……」
イチローの一言に、俺は肝がすうっと冷えた。嘘だろう、まさか俺のことを教える気か?
だが、すぐにそれは杞憂に終わった。
「ほんとですかい!?どこで、どこで見ましたか!?」
「この神社から一里ほど離れた平原でね。ぼろ雑巾みたいな有様だったのでよく覚えてますよ」
「へ、へえ、そいつぁひでぇ話だ……野犬か何かにやられちまったんかねぇ……」
白々しい。俺はぎりりと歯を噛み締めた。胸の内で何かがぐつぐつと煮えているような感覚がする。
「野犬、ねえ。この辺で犬はとんと見たことありませんが……まあ差し詰めそうでしょうな。間違っても、人間がいじめ抜いた……なぁんてことはありゃあしないでしょうし、ね?」
「そ、そりゃあねぇ、ははは……」
イチローの皮肉混じりの嫌味で、飼い主はたじたじのようだった。イチローが言葉で奴をなじるたび、不思議と溜飲が降りていく心地がした。
「で、その猫はどこにいったか分かりますかね?」
「ああ……まことに残念な話ですが、俺が見つけた時点で既に事切れていましたよ。血溜まりの中、氷みたいに冷たくなって……」
「……そ、そん、な……嘘だろ……」
飼い主の声に絶望が混じった。それはそうだろう。奴は自分の商売道具を自分で溝に捨てたようなものなのだから。尤も、俺は死んでいるどころか怪我も完治してぴんぴんしているのだが。
「いやあ、あんたの飼い猫とは知らなくて……こちらで丁重に弔ってやったんですが、余計なお世話でしたかね?」
「……い、いや、知らなかったんなら仕方ないでさあ……」
表情が分からないので何とも言えないが、声の震え方からして恐らくは顔面蒼白、今後の店の未来を憂いてさぞかし動揺しているのだろう。
「……お気の毒に。さぞかし大切な飼い猫だったのでしょうな?」
「そりゃあそうさ……だってあいつは俺の『招き猫』……俺の幸運の守り猫だってのに……あいつがいなくなったら俺は……破滅だ……」
イチローの言葉に答える声から、絶望具合は顔を見ずとも分かった。
……そんなにも俺を頼りにしていたのなら、どうして俺をもっと大切にしてくれなかったのだろうか。お前は自らの手で、幸運の守り猫を不幸に追いやったではないか。
「……死んだ場所も良くなかったやもしれませんな」
ふと、イチローが声を低めた。何だ、と耳をそば立てていると、言葉が続く。
「実は、ここいら一帯は猫の祟りで有名な土地でして……飼い主や他所の人間から辛く当たられ、苦しいまま死んだ猫たちの無念が渦巻いているって話ですよ。そんな場所でぼろぼろになって死んだその子の魂も、恨みを抱えて死んだ猫たちの怨念に飲み込まれてなきゃあいいですねえ……」
「……え、えっと、それは……」
後でイチローから聞いた話だが、この時の飼い主は先ほどの絶望とは違った意味で顔面蒼白になり、面白いくらい冷や汗を流していたらしい。そんな飼い主に、イチローはにやりと笑ってこう続けたという。
「だから……少しでも飼い猫が愛おしいと思ってるんなら、せめてその子が安らかに眠れるように祈っておいてくださいな。さもないと……いつかあんたのところに、その子が化けて出るかもしれませんよ?」
ーーーーしばらくすると、あの忌々しい臭いが遠ざかっていった。完全に臭いを辿れなくなってから、俺はもぞもぞと布団から這い出した。
見ると、イチローはいつもの【鬼】の姿ではなく、どこからどう見ても人間と大差ない見た目に変わっていた。
後で聞いたのだが、それは「変化」という妖怪の使う妖術の一つで、異類の者が人の形になるためのまやかしの術だという。
どうりで飼い主が何の疑問も持たずに会話していると思った。目の前にいるイチローは、くたくたの赤い着物に身を包むそこらの人間にしか見えない。
それはさておき。イチローは飼い主が去ってからしばらくして小さく肩を震わせた。そしてすぐに、可笑しそうに呵呵大笑した。
「あっははは!ジロー、お前の飼い主ときたら、ちょーっと脅かしてやっただけで逃げていったぞ!あんな根性無しが大店の主人とはなあ、全く片腹痛いぞ!」
落語の滑稽話でも聞いた後のように、イチローはげらげらと笑っている。そんな姿を見ているうちに、俺も段々可笑しくなってつられるように笑い声を上げた。
『はははは!そうなんだよ!あいつ、ああ見えて小心者なんだ。中でも怪談話が特に嫌いでな、さぞかし効いただろうな!』
「くくくっ、ふはは、あんな子供騙しな出任せを信じるなんてな!何ならもっと話を盛ってやれば良かったよ!」
『えっ?嘘なのか、あの話?』
「当たり前だろう!猫の祟りどころか、この百年ずっと猫なんてうろついていた試しがないからな!」
『……俺を勝手に死んだことにしただけでなく、架空の噂まででっち上げるとはな……とんだ法螺吹き【鬼】だ、恐れ入ったよ』
「あっ、と……やっぱりその下りはまずかったかな?」
『流石に勝手に殺されちゃ堪ったもんじゃないな。でもいいさ。嘘も方便、お前のはったりにたった今救われたんだから』
本当は開口一番に「勝手に殺すな」と文句を言うつもりだったんだが。あまりにイチローがけらけら笑っていたことと、横暴な飼い主に泡を食わせてやれたことが愉快で堪らず、何だかもうどうでも良くなってしまった。
それに、この法螺吹き【鬼】のおかげで、恐怖の時間は思いの外早く去った。この安心感は何にも変え難い。
とどのつまり、終わり良ければ良し、ということなのだろう。軽快な二つの笑い声は、もう暫く収まりそうになかった。
「ーーーーなあジロー」
一頻り笑った後、イチローに呼びかけられた。
顔を上げれば、大笑いしていた先程が嘘のように、今は真剣な面持ちで俺を見つめている。
「提案があるんだ」
そう言うと、イチローは部屋の隅の柳行李から何かを取り出す。俺の目の前に広げられたそれは、何かの巻き物のようだった。紙面には難しい文字や図形が踊っているが、何が何だかさっぱり分からない。
『……これは?』
「一部の妖怪にのみ伝わる、ある秘術が記された巻き物……呪文書だ」
何故そんなものを、と発する前にイチローが言葉を続けた。
「先程お前が話してくれたことと、あの飼い主の反応を鑑みて、ようやく合点がいった。ジロー、お前は『普通の猫』とは少し違うらしい」
『……どういう意味だ?』
確かに俺の「力」は普通ではないかもしれないが、それを除けばそこらの猫と大差ない。しかし、その「力」こそ、俺が「普通の猫」とは一線を画す存在である証なのだという。
「お前は恐らく、『招福猫児』という特殊な猫の血を引いているようだ」
イチロー曰く、招福猫児は妖怪ほどではないものの、少なくとも一般の猫にはあり得ない神秘の力、すなわち「霊力」を代々継承する猫の種族だという。その霊力の成せる業こそ「福を呼ぶ」こと……つまり、「人を惹きつけ、幸運を招く力」なのだそうだ。
「俺も話でしか聞いたことがなかったが、招福猫児はある人間の商人の一族がとても大事に育て、面倒を見ているらしくてな。時には、大成したいと願う商人たちに力の優れた子猫を譲っているんだという。恐らくお前は、そうして商人に貰われていった子猫の一匹だったんだろう」
そんな話は今まで聞いたこともなかった。きっと、親猫から伝え聞く前に貰われてしまったせいだろう。何だか実感の湧かない話だが、不思議とすんなり腑に落ちた。
「最初は俺も気が付かなかったよ。ただ、普通の猫より賢くて、生命力が強い子なんだろうと勝手に思っていた。だがよく考えれば、普通の猫ではあり得ないことだらけだったな」
俺が人語の理解が達者なのも、あれほどの怪我を負って尚死なずに済んだのも、霊力が宿っているがゆえのこと。普通の猫には無いこれらの特徴は、先祖から連綿と受け継がれる霊力の成せる業だったのだというのだ。
「招福猫児として霊力を宿すお前には、確実に妖怪と為る因子が存在している。俺が示すこの秘術は、お前の中の霊力を増幅させて、お前を妖怪に化かす術だ」
『妖怪に……?何でまた、そんな提案を…』
問うと、イチローは眉根を寄せて答えた。
「俺があんな話をしたからな、お前はもう奴の元に帰る必要は無くなった。だが同時に、お前は帰る場所を失くしてしまっただろう」
そうだった。俺はイチローのおかげであの人間からは解放されたが、同時に居場所も無くなってしまった。イチローを責めるつもりは無いが、途方に暮れてしまう気持ちも事実だった。飼い猫としての生き方しか知らない俺が、このまま野生で生きていけるはずはない。そのことに気がつくと、途端に焦りを覚えた。
動揺が顔に出ていたのだろう。イチローは少しだけ表情を緩めた。
「それならば……俺と同じ、妖怪に為るといい。妖怪に為ってしまえば、ようやく掴んだ自由を思う存分享受できる。猫としての短い生の終わりに怯えることなく、自分の心の赴くままに生きていけることだろう」
そう続けられた言葉に、俺はハッと反応した。
自由を享受出来る生活……縛りの多い生活を送ってきた俺にとって、それは実に甘美な響きだった。
「但し」と、しかしイチローは表情を曇らせてこう続けた。
「妖怪に為れば、もう今までの自分には戻れない。化けたら最後、お前は完全に異類のものと為り、半不老不死になる。そうすれば、逆に普通の猫として天寿を全うすることはできなくなるし、妖怪に為ったら為ったで苦悩もたくさんある」
妖怪に為ったその瞬間から、これまでの自分とは異なる者として生きなければならない。妖怪に為るというのはそういうことらしい。
(今までの俺には、戻れない……)
それがどういうことか、はっきり理解できなかった。ただ、確実に何かを失わなければいけないことは分かって、思わず身震いした。
「無理に勧めることはしない。どうしたいかは、お前が決めろ」
イチローはそう締めくくって口を閉ざした。
俺は巻き物をじっと見つめ、考える。妖怪に為ったら、俺は何を失われなければならないだろう。
(……いいや、違うな。今更失うものなんて、皆無に等しいじゃないか)
今回の一件でよく分かった。あの飼い主は結局、俺を商売道具としか思ってない。客と金を呼ぶ商売道具。それがあいつから見た「俺」だ。
最初こそ、飼い主は俺に愛情を持って可愛がっていた。それは紛れもない事実だし、育ててくれたことへの感謝の気持ちはある。
ただ、貰われた経緯からも分かる通り、俺は「俺」自身が信頼されてあの家に「住んで」いたのではない。あくまで「招福猫児の力」があるから、そのおまけとして、それこそ置き物の招き猫のように「置かれて」いたのだ。
そんなこと、疾うの昔に分かってたことではないか。ただ俺が、それを認めたくなくて、目を背け続けていたのだ。
幼い頃は確かに感じた飼い主からの愛情。
だが、金に目が眩み始めてから、突然彼は冷たくなった。幼い頃に与えてくれていた愛情は、嘘偽りだったのかと思った。
……確かにそう思ったのに、今までの俺は知らずにその不確かな愛情に縋り続けていた。それを失ったら最後、俺の心は割れ物のように砕け、壊れてしまう。そんな恐怖を、幻想を、勝手に抱いていた。
『……イチロー』
だが、失いたくないと思っていたものは、とっくに失われている。飼い主からの愛情、安心して眠れる居場所、俺が俺として存在している意義。どれもこれも、冴え冴えと冷たい月が登ったあの夜に、零れ落ちて無くなってしまったのだ。
ならば、俺が何に、どう変わろうと同じことだ。
俺は巻き物から目を上げて、イチローを真っ直ぐ見つめた。
『この術は、お前が使えるものか?』
「ああ」
『……使ってくれ。俺を、妖怪にしてくれ』
「……いいのか?戻れなくなるぞ?」
『むしろ、戻れなくていい。もう、今までの『俺』と、別れたいんだ』
自由を諦め、利用され続ける生活に甘んじていた怠惰な「俺」に。
不確かな愛情とよすがを信じ続けていた盲目の「俺」に。
そして、支配と暴力の恐怖に屈していた、軟弱な「俺」に。
永遠の別れを告げるのに、後戻りなど出来なくていい。
「……分かった。ならば、じっとしていろ」
イチローはそっと俺の頭に手を置くと、巻き物に書いてあるらしい呪文を呟き始めた。低く歌うような声を聞きながら、俺は目を閉じた。
呪文はゆらゆら揺らぐように社に響き渡り、理解もままならない言葉が紡がれていく。それに連れて、俺の体内で何かが蠢き始めた。
(ううッ――――!?)
ぞわぞわと全身が総毛立つような感覚。体がガタガタと震えだし、体の末端がすうっと冷えてきた。堪らず、俺は声を上げる。
『あ、ああッ……う、ああああッ……があああああッ!!』
気持ち悪い。何か得体の知れないものが体中をのた打ち回っている。しかし、体は麻痺でもしたかのように固まって動けない。呼吸が荒くなってきた。苦しい。苦しい。苦しい……!!
―――――歯を食いしばって耐えていると、ようやくイチローの声が止んだ。手が離れた瞬間、俺は糸でも切れたようにぱたりと倒れた。
「ジロー!」
焦ったようなイチローの声。次いで体が抱き上げられ、イチローの逞しい腕が俺の体を包み込んだ。
「すまん、苦しかったな……よく頑張った」
俺のぜいぜいと荒い呼吸の中、さっきまで頭に乗せられていた大きな手が、今度は労わるように撫でてくれた。
『はあっ……はあっ……ふ、ぅ……ど、どうなったんだ……俺……』
何とはなしに声を発して、我が耳を疑った。
にゃあ、と鳴いたはずなのに、俺が発したのは猫の鳴き声ではなく……紛れもない、人間の言葉だった。
『あ、あれ……?言葉が……話せる……イチロー、これって……!』
「お察しの通り、成功だ」
驚いている俺に、イチローがにやりと笑いかけた。尻尾も見てみろ、と言われたので、言われた通りに自らの尾を体の方に引き寄せた。
が、尻尾を見た俺は絶句した。
俺の自慢の長い尻尾は、何と根元から二又に分かれて、俺の目前でゆらゆらしているではないか。
『うわああっ!?お、俺の尻尾が……!!』
「その二又の尾こそ、お前が妖怪に為った何よりの証拠さ。妖怪ジローの誕生だな」
イチローは俺を撫でながらそう教えてくれた。
『……俺、本当に妖怪に為ったのか……』
「ああ。【猫又】という妖怪に為ったんだ」
【猫又】……それが、かつての「俺」を捨てて手にした、新しい「俺」の存在。
過去の諸々と訣別した、新しい自分。自由を享受するべく掴んだ、生まれたての自分。
だが、言葉が話せるようになっても、二又の尻尾を目の当たりにしても、まだ実感が湧かない。俺は夢でも見ているような心地で、目の前に引き寄せた尻尾を見つめた。一緒に動かしているつもりなのに、意に反するように別々に揺れる尻尾。何だか変な感じだ。
そうして戸惑っている俺に、ふとイチローが声をかけてきた。
「ジロー、妖怪と為ったお前にもう一つ。俺の個人的な提案があるんだが」
何だか含みのある口調の気がしたのは気のせいだろうか。首を傾げる俺に、イチローは悪戯っぽく笑った。自分の目の高さに、抱いたままの俺を持ってくると、はっきりと言った。
「……お前、俺と共に生きないか?」
『……え?』
一瞬言葉の意味が分からず、俺はイチローを食い入るように見つめた。
「妖怪となったお前は、もう自由の身だ。だがな、この一ヶ月近くお前と過ごすうちに、俺はお前がとても気に入ってしまったんだ」
俺の視線を真っ直ぐ受け止めながら語るイチローは、しかしどこか照れ臭そうに眉を下げた。
「同じ妖怪同士、このまま共に暮らさないか?ここでならお前の自由を邪魔するものも無いし、ここに居るうちはお前の安全な生活も保証しよう」
悪い話ではないだろう?と、イチローは笑顔を浮かべたままで続けた。
『……いい、のか?』
にわかには信じられず、念を押すように聞き返すと、イチローは強く頷いた。
「いいから言っているのではないか。むしろ、俺はお前に一緒に居てほしいんだ。一人暮らしもいい加減寂しかったところだし、話し相手が出来れば俺もとても嬉しいよ」
屈託の無い、少し子供っぽい笑顔を見つめていると、得も言われない嬉しさがこみ上げてくるのが分かった。
こんな形で、願ってもない望みが叶うなんて。顔がくしゃりと歪むのが、自分でも分かった。
『………いたい』
まぶたの奥が熱くなるのをこらえて、精一杯の明るい声で答えた。
『……俺も、イチローと一緒に居たい……!』
この【鬼】となら、永遠を共にしたいと思える。こんなにも焦がれるような気持ちを抱く誰かに出会ったのは初めてだった。
この紅い【鬼】と一緒に居られたら、何かが変わる気がした。俺の知らない世界を、この【鬼】はきっと見せてくれるだろうと、そんな確信すらあった。
「はははっ!決まりだな!今後ともよろしくな、ジロー!」
イチローは、俺よりもずっと嬉しそうな顔をして、俺を愛おしそうに抱きしめた。温かな胸に頭を擦り付け、俺も答えるようにゴロゴロと喉を鳴らした。
それからだ。俺が【猫又】として新たな時を刻み始めたのは。イチローと共に、この廃神社で暮らし始めたのは。
「イチローは、俺が妖怪に為ったことで多くを失い、過去を憂いているのではと、そう思ったんだろ?言っておくが、大きな見当違いだ」
俺はイチローの手を掬い上げ、自分の両手で包み込んだ。出会った時からずっと変わらない、大きくて、骨張ってて、温かい手。懐かしさを覚える、けれど相変わらずのその手が愛おしくて、自然に頬が緩んだ。
「俺は、妖怪に為ったことをこれっぽっちも悔いてなどない。むしろ、お前に感謝しているんだ」
箱に囚われていた俺に、新たな道を示してくれたイチロー。そうすることで、逃げ道がなくて苦しんでいた俺を引きずり出してくれた。八方塞がりだった俺は、イチローによって連れ出されたんだ。自由な世界に。広い世界に。
「あの日、お前と出会えなかったら……妖怪と為ることに恐れをなしてお前の提案を拒んでいたら……きっと、俺は誰のためにも、自分のためにもならないような、無意義な一生を送っていたに違いない」
お前は、確かに俺を救ってくれた。だから、悩む必要なんてない。胸を張ってくれ。
そう言って、俺はイチローの手を握り締めた。
「……ジロー」
何と返事していいのか迷うように、イチローは俺を見つめるだけだった。そんな彼に小さく笑いかけると、そっと体を寄せる。驚いているイチローに構わず、俺はすかさず顔を近づけ、そのまま唇を寄せた。
……ここからは、俺が今夜、彼に言いたかったこと。
今日は、百年前にイチローが、俺に「共に生きないか」と言ってくれたその日なのだ。
だから、毎年恥ずかしくて言えなかった感謝を、想いを、百年経った今年こそは、と思って酒を飲んだ。酒の力でも借りないと、恥ずかしがり屋な俺はきっと、言えず終いになってしまうから。
啄ばむような口付けのあと、唇を離して囁くように続ける。
「……お前に『共に生きないか』と誘われて、本当に嬉しかったんだ。お前にそんなつもりは無かったかもしれんが、俺にとっては何にも変えられない、かけがえのない一言なんだ」
妖怪と為ったことももちろんだが、俺を真の意味で救ってくれたのは、その一言だった。
一緒にいていいんだと言われた気がしたから。俺が居場所にしていい場所が見つかったから。一緒にいたいと心から思える人と、一緒にいられる理由が出来たから。
「だから、言わせてくれ。百年前の今日……俺を、救い上げてくれて、ありがとう」
ひとつひとつの言葉を、ゆっくりと、愛おしむように紡いだ。目の前の、【鬼】らしくない紅い【鬼】に向けて。微笑みを湛えながら。
暫くの間、イチローは黙ったままでいた。俺の言葉に驚いているようにも、俺の言葉をじっくり噛みしめているようにも見えた。
「……ふふっ」
やがて、小さく声を上げて笑った。
すっと、俺の頬に、大きくて温かなその手を添えると、顔を近づけてきた。そのまま彼の唇が、俺のそれにそっと重なる。温かく柔らかな唇の感触。イチローの匂い。それが一度に感じられて、俺の心臓はたちまち早鐘のように鳴った。
口付けは数秒の間交わされた。
イチローはどこか惜しむように、でも自分から唇を離すと、代わりに俺を優しく抱き寄せた。
「……俺、馬鹿だなあ。勝手に一人で考え込んで……ここまできて、何を悩んでいたんだろうな」
自嘲気に呟いたのは一瞬のことで。すぐにイチローは、低くも明るさと呑気さを感じさせる、いつもの声で言葉を続けた。
「ジロー、ありがとうはこちらの台詞だ。俺からも、これを機に礼を言わせてくれ」
俺はイチローをきょとんとして見つめた。イチローから礼を言われる所以が思いつかない。
「俺がお前に『共に生きないか』と言ったのは、お前を自由にしてやりたいという気持ちも、もちろんある。でも本当は……俺の我儘でもあったんだ」
イチローはほんの少し頬を赤くして、照れ臭そうにしている。珍しい彼の表情にも驚いたが、それよりも俺は次のイチローの言葉で悟った。イチローが俺に「後悔していないか」と問うた、本当の意味を。
「お前と出会う前、俺はずっと孤独だった。【鬼】としての生の時間を、この寂れた神社で一人で過ごしてきた。だから、お前が話し相手になってくれたことが、本当に……本当に嬉しかったんだ。お前を、あの意地悪な人間に返してやるものかと本気で思ったんだ」
ずっと、ずっと、たった独りで生きていた優しい紅の【鬼】。何百年も独りで過ごした時間がどれだけ辛いものか、総ては理解できない。
「あの人間がお前を連れ戻そうとしていると分かった時、思ってしまったんだ。お前を奴から救ったら、お前は俺の傍に居てくれるかもしれないって……ガキみたいだろう?」
ただ、これだけは言える。
「俺はお前を救ったつもりでいたが、本当は俺自身が孤独から救われたくて、外法を用いてまでお前を妖怪に変えたことを正当化していた。だが、化けたことで苦しんでいたあの【化け猫】を見ていたら、俺のしたことの重大さが段々響いてきて、後ろめたくなったんだ。だから、俺は悩んだ。そして、お前に訊きたかった。後悔していないかと」
――――この【鬼】は、ただ、寂しかったんだ。
平気な振りをして、数百年分の孤独を内にしまい込んで、耐えていた。そして、ついに耐え切れなくなって、隣に居てくれる誰かを求めてしまったんだ。
「でも、お前はそんな俺の我儘な言葉に『救われた』と言ってくれた。俺の方こそ、その言葉に救われたよ。俺が、確かにお前にとって良い選択が出来たのだと、ようやく思うことができたから」
その言葉は、本当に当時のイチローの我儘と自己満足だったのかもしれない。
だが、少なくとも俺にとっては確かに『救い』の言葉だった。凍てつくような寂しさから、孤独から、掬い上げてくれた『救い』の言葉だった。
「俺からも言わせてくれ、ジロー。あの日からずっと、一緒に居てくれて……俺の言葉が『救い』だったと言ってくれて……ありがとう」
イチローはそっと、優しく笑った。
あの日から変わらない、いつもの笑顔。彼の温かく逞しい腕に抱かれながら、俺は静かにその背に腕を回して抱きしめ返した。
「……どういたしまして」
微笑んで呟けば、イチローはその腕の力を少しだけ強くした。
百年の昔、如月の頃に起きた、「ひとりぼっち」と「ひとりぼっち」の出会い。
それは、些細な出会いだったかもしれない。だが、二人にとっては間違いなく、何かを変えた出会いだった。
俺はこの出会いを、己の選択を、決して後悔なんてしない。今までもこれからも、この出会いを感謝し続けるだろう。俺の運命を変えてくれた出会い。孤独から救ってくれた出会い。
もし、俺があの飼い主にもらわれて不遇の人生を送ってこなかったら。忌々しい「力」を持たずに生まれていたら、この出会いは無かったかもしれない。そう思うと、ほんの少しだけ飼い主に、あの「力」に感謝を覚える。
無意味だと思っていた過去の時間も、俺に不幸をもたらしたと思っていた「力」も、決して無駄なものではなかったのだ。
如月の夜、かつての「ひとりぼっち」たちを見守っていたのは、冷たくも、どこか温かい柔らかな光を降らせる月輪だけ。百年前の「ひとりぼっち」と「ひとりぼっち」の出会いを見守っていた時と変わらない、如月の頃の月。
相も変わらず冷たくて、でも今は仄かに温かく柔らかい光を降らせながら、濃紺の空にただ静かに白く浮かんでいた。
とある猫又、如月の頃
本当はもっとシンプルにまとめるつもりだったのに、書きたいことを盛りながら話を練って練っているうちに予想より大きな話になってしまいました。
当時は、イチ鬼とジロ猫又の出会い話のネタはリクエストを頂く前から考え付いていたんですが、ジローが作った話の中で思ったように動いてくれずに四苦八苦……反抗期真っ盛りの旦那様だったのは良い思い出。あらすじは出来ていたのに、展開が何パターンもできてしまったり、話の運びに無理があって全消ししたり、ラストでどん詰まったり、予定より時間がかかってしまったようです。
ところで、この話で何が言いたかったかって軽く補足を。
イチ鬼もジロ猫又も、出会うまではお互いひとりぼっちで、そんな寂しい者同士が出会ったから、二人はお互いの孤独を癒し合えてるんだってことが一つ。
もう一つ、アニメ原作のジローは「金持ちゆえの孤独や束縛」みたいなのが付き纏ってるイメージだったので、ジロ猫又も金持ちに飼われてた猫になったんですが……過去を重くしようとしたら虐待などという斜め上の設定になってしまったことは内緒。
当方の作品を読んでくださった方、ありがとうございました。拙文ですが、少しでも暇つぶしになったり、楽しんでいただけたら幸いです。
では、またの機会に。