花のうたをうたおう

夢を見ているときは
ほかのことを考えないでね

 それがよいとか悪いとかではなくて。ゆきちゃんの唄が流れる。Terminalの9番目。それが、良いとか悪いとかではなくて。反芻する。昔のことを思い出してみる。わたしにとっての昔は、もう1ヶ月2ヶ月前のことになってしまった。

 たとえば猛烈な一目惚れをしたとき。あれは、1年と6ヶ月前。友達と海に行ったのは、もう2年前くらい。あの人との山登り、スリリングでスタンプラリーみたいな日はいつだった。もう19ヶ月も昔。大昔。ティラノサウルス。それくらい太古の記憶。まったくふざけている。

 いろんなことがボールになって目の前を過ぎる。ひとつひとつに名前があった。ちゃんとラベルが貼られていた気がする。でもわたしが投げたからキャッチボールにはならなくて、どれも7メートルくらいでぼとりと落ちた。海の向こうまで届かない。足元には、なにもない。

 何かあったような気もする。犬の首輪。名前はなく、そばにボールペンが落ちてる。遠くをみると小学校の校庭。くすのきがあった。くすのき門と呼ばれたてらてら光る赤い門。あれが、蜃気楼になってゆらゆら揺れる様を見ていた。

「ありがとう」 まただ、と思う。たくさんの犬たちが、しかめっ面をしてそばにいる。嫌なら離れればいいのに、と思う。一番左の犬が、一番わたしを嫌いそうな顔をしていた。

 なにもかも思い出せないように、なれたらなれたで愉しい気もする。人間らしくない薄情な考えは、しかし最も人間らしくあるような。ぼんやりと。
 いつも、商店街のスーパーのことを考えている。あそこに並ぶ、生気のないバナナ。色褪せたとうもろこし。仲間はずれの季節の果物。どれも愛おしく、みすぼらしかった。手もとを見ると、緑のカゴが現れたり消えたりする。意識はすぐに、学校の図書館になる。

 ガラス張りの一室。六階、ガラスのエレベーター。脚長椅子と雨の降るグラウンド。そこでわたしは、頭が痛いと思う。パソコンを開いて、そばには無印の水筒があって、さあ、何かをするぞ、と思う。でも、頭が痛かった。

 犬。いつもそこにいたような、名前のない犬。そのひとつが、前脚を差し出す。わたしはそれを、うやうやしい気持ちで眺める。テレビの外側と内側。向こう側とこちら側。決して届くことのできない、意思疎通を拒んだ何かがわたしを見ている。まばたきをするとスーパーになった。

 カゴが消えては現れる。中に入っていた高野豆腐が消えている。あったはずのみかんはりんごに変わり、風変わりな唐辛子が静かに居座っている。わたしは今日の献立、ししゃもだと決めていたのに。
 犬がいる。もう手を伸ばしてはいない。かなしそうな顔をしている。わたしは、まただめだったと思う。父親がもってる、手の首輪、赤い。名前はやはりなかった。と思って目を凝らしたらきちんとあった。ボールペンの掠れた弱い、意志のない剥奪された筆跡で。妙子。

 もう帰りなさい。と、お帰りなさいは似ている気がする。早く帰れと急かされるたび、帰ってきてくれてありがとうと喜ばれている気になる。テレビのブラウン管。あれに穴を開けて、指を中にいれる。やはり何も思い出すことはできなかった。でも、少なくとも、勇敢になれた。あの凍った美術館で眺めた、つめたい銅像みたいだと思う。

花のうたをうたおう

花のうたをうたおう

もう帰りなさい。と、お帰りなさいは似ている気がする。早く帰れと急かされるたび、帰ってきてくれてありがとうと喜ばれている気になる。

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更新日
登録日
2024-03-09

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