落日の再会 5

落日の再会 5

回復

 風呂に入れた。車椅子だが自分で立ち上がる。会話に不自由はない。無口だが。あの頃はかけていなかったメガネをかけていた。髪はごま塩で薄くはない。優しそうだ。脳梗塞に軽い認知症。75歳では早いと思う。
 裸を見た。長く運動していたのだろうか? 75歳の介護を必要とする男の体は崩れていなかった。無駄な肉がついていない。
 自分はどうだろう? また肉が付いてきた。若い頃からどれほど努力しても腰の位置、足の長さは努力のしようがなかった。この人は歳を重ねてもなお……
 
 頭を洗う。背が高い。座高が高い。頭が大きい。
「痒いところ、ないですか?」
「……大丈夫、よ」
優しい答え。顔を洗わせた。素直だ。体は? 
「洗えない、よ」
大きな体を洗う。痛くない? 何を聞いても
「大丈夫、よ」

 娘さんの名を聞いた。ファイルを読んで知っていたが。娘に私の名をつけたりはしなかった。文学的な名前だ。息子の名は教えてくれない。連絡先は娘になっている。ファイルに息子の住所はなかった。
 うしろから支えると、またいで浴槽に入った。ゆっくり浸からせる。
「ぬるくない?」
「大丈夫、よ」
そればかりね。

「……頼朝の頼子ってのがいたな」
「……なに、それ?」
「オヤジさんの初恋の女だ。ハッハッハッ」
初めて笑った。声を出して。
 覚えてくれていたの? 私が話したこと……

 上がる時は少し大変だった。体が大きいから支えるのが大変だ。
「いいよ。倒れても。そのまま……死にたい」
死にたい……無縁の言葉だったろうに。
 体を拭きボディーローションを塗る。広い背中は乾燥してはいない。ふくらはぎにはまだ筋肉が付いていた。
「運動やってたの?」
「……やってないよ」
爪が伸びていた。切りながら言った。
「お昼は手毬寿司ですよ。ひな祭りだから」
「……食べたいものなんかないよ」
「桜が咲いたらお花見に行けますよ」
「花を愛でるっていう気分じゃないよ」
否定的だ。何を聞いても。
 
 娘は父親が大好きなようだ。面会も多い。私は昼で帰るから会ったことはない。孫の中学生の男の子がひとりで来ることもあるようだ。慕われているようだが、息子が来たことはない。
 プライバシーは聞かない。自分も話してこなかった。話さなければそれ以上は聞かれない。

「おかしなやつだよな」
風呂に浸かりながら言った。
「ママについていかなかった」
「……」
「ま、金があったからな」
今は? ないの? こんなところに入れられて……
「全部捨てやがった」
「……」
「……」
「何を捨てられたの?」
「石川達三の本」
「……」
脚本家になりたかった……45年すぎても同じことを言った。

 ロカさんは湯船からなかなか出ない。気持ちよさそうだ。
「ああ、おなかすいちゃった」
浴槽に浸かる男に言った。
「……俗っぽいな」
「え? 俗っぽい? 俗っぽい、か」
何を食べようか? そればかり聞いていたくせに。
 おなかがすく……その感覚を忘れていた時期があった。あれほどダイエットに振り回されていたのに。
 入居者の何人かにその感覚はないのだろう。食事の時間になれば起こして食べさせる。高栄養のゼリー。それだけで生きている。

 次の日、ロカさんの部屋には鍵がかかっていた。明け方救急車で運ばれた。たぶん脳梗塞。戻らないかもしれない。様子はわからない。私は週3日の午前中だけの契約社員。
 胃ろうにするかも……胃ろうは拒否してたんじゃ? 娘さんがね……パパが大好きなのよ。

 戻ってきた。あんなに食べることが好きだった人が10キロ痩せて戻ってきた。高栄養のドリンクとペースト状の食事。口から垂れる。飲み込めずに垂れる。尿が出ず、すぐに病院に戻された。もう戻っては来ないかも……

 やがて戻ってきた。今度は回復した。飲み込めるようになり、食べられるようになった。
 左手でカップを持ち自分で飲む。食べるのも早くなる。回復が早い。
 寝浴だから私の担当ではなくなった。食事のあとはベッドに寝かせる。私の出番はなくなった。見守るだけだ。
 こんな状態でも息子は面会に来ないようだ。誰も余計なことは言わない。聞かない。会いたいだろうか? おそらくは行方不明の息子……借金だろう。父親は返済のために貯蓄も家も手放した。息子はおそらく日本にはいない。
 探してあげようか? 金ならある。惜しくはない。だが、愛したわけではない。私は慈悲深い女ではない。それに……さらにひどい結果を知らされるかもしれない。

 回復はそこまでだった。次に救急車で運ばれたのは連休の間だった。私は夫と出かけていた。

 回復していたのだ。徐々に。
 回復していたのだ。30年経っていた。夫は何事もなかったように接してくる。退職金もすべて寄越した。老後の心配はない。息子に迷惑をかけることはない。

 夫は私の布団から出ていかない。私は追い出す。長年独り寝に慣れきっている。夫の捨て台詞。
「朝、死んでいるかもしれないぞ」
あり得ることだ。お互い様だ。そろそろ同じ部屋にしたほうがいいだろうか。死なれていたら面倒くさい。
 いずれ死んでもらう。私が先に逝くわけにはいかない。息子に迷惑はかけられない。金は充分貯めた。2人で施設に入れるだろう。あの子は父親の面倒を見るだろう。父親が大好きなのだ。
 近頃思う。死なせてやる。私と結婚してよかった、と思わせながら。私と一緒になってよかった……そう思わせながら逝かせてやる。それが私の勝利。

落日の再会 5

落日の再会 5

  • 小説
  • 掌編
  • 青年向け
更新日
登録日
2024-03-05

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