うみがめ

1.彼女は海亀の夢を見る

夜中にふと目を開くと、カーテン越しのわずかな光が天井に不思議な模様を描いて、ゆらゆらと揺れていた。
それはまるで、海の底から、海面に差してくる光を見上げているようだった。
緑がかった深い藍色の闇が、海の色を思わせた。ターコイズグリーン、とでもいうのだろうか。そこに、淡い光の筋が、幾重にもさざ波のようになって、天井に、壁に、映っている。
その微妙な動きに見とれていると、部屋の中にかすかな気配を感じる。
目に見えるものではない。音でもない。気配、としか呼べないようなもの。水の中でなにかがひっそりと息をしているような、うごめいているような、そんな感覚。
彼らが、来たのだ。
つい、と目の前を何かが横切る。初め見たときは、虫かと思った。でも、間髪置かずして、いくつもいくつもすいすいと走っていくその動きは、明らかに虫とは違っている。
小さな魚たちだった。海に住む魚たちだ。
そして、先触れの魚たちが一通り過ぎると、彼がやってくる。
どこからともなく現れた美しいシルエットが、壁と天井にまたがって映し出される。初めはシルエットとしてしか見えないそれは、近づくにつれだんだんと、つやつやと光沢あるものであることが、はっきり見えてくる。
海亀だった。流線型の甲羅から頭と両手と両足を突き出して泳ぐ姿がなぜこんなにも美しいのか、わからなかった。でもとにかく、その姿を見ていると、きらきらしたときめきが、胸の奥の方を通り過ぎていく。
海亀は小さな魚たちと一緒になって、彼女の部屋の中をゆったりと泳いだ。どういうわけか、夜になると、彼女の部屋は彼らの水槽に変身するらしかった。
彼女はベッドに仰向けになったまま両手を広げ、背泳ぎするようにゆっくりと回す。
気持ちはターコイズグリーンの中に漂っているのに、体は少しも浮かんでいかない。
水の中では人並みに泳ぐことができたけど、夜の闇ではそうはいかない。
体が、重すぎるのだ。
海亀は、いまや甲羅の模様が手に取るようにはっきり見えるほど、近くに来ていた。その体に触れてみたい、と必死に伸ばす手は、でも、決して海亀に届くことはない。腕はいつも、空しく空気をかくばかりなのだ。
海亀はその表情のない瞳で、すぐそこに横たわっている彼女の姿を追う。
 誘うでもなく、咎めるでもなく、哀れむでもなく、ただ見るだけのその目には、孤独で広漠とした虚無が宿っている。
 彼女は、もどかしい気持ちになる。
 海亀にとって、自分はきっと、海の底の岩のひとつに過ぎないのだ。あるいは、岩に結ばれて手を振るばかりの、海藻かもしれない。
海亀と視線を交わす間に、魚たちは、閉じられたままの彼女の部屋の窓をすり抜けて、次々と外へ泳ぎ出てしまう。
海亀も、その後に従う。
 そして彼女だけが、縛り付けられたかのようにベッドに横たわりながら、寂寥と絶望とともに残される。ターコイズグリーンの、闇の中で。

 いつからだろう、同じ夢を何度も見るようになった。
毎日ではないけど、かなりの頻度だ。
洵子は、もともと眠りが深いほうではない。
むしろ、眠るのが苦痛だといっていいくらいだった。心も体もくたくたで、これ以上ないくらい休息を求めているのに、布団に入ってから眠りに落ちるまで、気が遠くなるほどの時間が必要だった。
夢と現の境目は、紙のように薄い。でもそれはあまりに厳然としていて、簡単に超えることはできなかった。それを超えるためには、その紙にいくつかあけられている、小さな小さな穴を探し出さねばならないのだ。なんとか偶然その穴を探り出すことさえできれば、そこから夢の世界になだれ込むことができる。
でも、一度夢になだれ込んだ意識も、長くそこに踏みとどまっていることはできない。
夢から現実に戻るのは、逆に比べて、随分簡単だった。夢の中で、意識は、不運にもすぐに現実との接点を探り当ててしまう。そして、ひっくり返された砂時計の砂がガラスの小さなくびれの中を殺到していくように、意識はさらさらと現実の世界に吸い込まれてしまう。
きっと、夢の世界は気圧が高いのだ。常に風は現実の世界のほうに向けて流れていて、洵子のように要領の悪い意識は、すぐに押し出されるしかないのだ。
そして彼らは、洵子と眠りとの格闘の間にときどき現れては、去っていった。
自分をどこか、ひょっとすると心地よい眠りの世界に、導こうとしてくれているのかもしれなかった。
でも、だめなのだ。体が、重すぎるのだ。

洵子は、忙しい街の忙しいオフィスで働いていた。
コンサルタント会社に勤めていた。
たくさんの書類を読みたくさんの書類を書き、たくさんの人の話を聞いて、自分も話をする。積み重なっていくはずの知識はめまぐるしく消費されていき、まるでコンビニエンスストアで売られるレトルトフードみたいだった。
この仕事を本当に自分がやりたかったのかどうか、今となってはよく分からなかった。ただ、簡単にはここから抜け出せそうになかった。抜け出した後の自分の姿を、想像することができなかった。
昼間の活気が失われた夜の街のオフィスビルにいつまでも残って仕事をしていると、ふと、自分が水槽の中の魚になったような気分になる。
限られた四角い空間で、右往左往するばかりの小さな魚。
逃げ出すこともできなければ、逃げたいという気持ちすら忘れてしまっているのだ。
家に仕事を持ち帰ることもあった。
そして、すべての後に、長くつらい眠りとの格闘が、待っていた。

それを見つけたのは、ある週末、持ち帰った仕事をカバンから引っ張り出そうとしたときのことだった。
書類の間に挟まって、くしゃくしゃになりながら、飛び出てきたそれは、長細く折りたたまれた、青いパンフレットだった。
 表紙には、飾り文字で「アクアパーク」と書いてあった。
 なぜこんなものを持っているんだっけ、と思いながら開いてみると、内側から何かがはらりと落ちた。
 はじめは、栞だ、と思った。ずいぶん上質な、光沢のある紙片だった。
拾い上げてみて、洵子ははっとした。
紙片の片側は、ほぼ全体がターコイズグリーンに染め上げられていた。そしてその中央には、遊泳する海亀のシルエット。
紙片の片隅に、やけに控え目に、割引券、と記されていた。
そのときになって初めて洵子は、そのパンフレットがどこから来たものであるかを思い出した。
一月程前だっただろうか。
仕事帰りに人通りの多い地下鉄駅の通路を歩いていた洵子に、男が話しかけてきた。
「斎藤さんじゃないですか?斎藤洵子さん。」
 確かに自分の名前なのでつい立ち止まってしまったが、洵子は、その男のことをまったく認識することができなかった。
黒いアルファベットの入った白いTシャツにジーンズ、といういでたちだった。髪をひどく短く切り、肌がとてもいい具合に焼けている。
「やっぱり。」男が、白い歯を見せて笑った。「長屋です。高校のとき、同じクラスだった。」
長屋。
超特急で、頭の中の名簿をめくってみる。
長屋、長屋・・
ああ、と小さく言ってみるが、正直、よく思い出せなかった。
そんな名前の人がいたようにも思う。が、顔にはやはり見覚えがない。
「変わらんね。」ああ、と言ったのを肯定と受け止めたのか、長屋は嬉しそうに続けた。わずかな訛りが、自分と同郷であることは証明してくれている。
「こんなところで会えるなんて、ホント偶然。こっちの方に出て来てる人の名前は何人か聞いてたから、ひょっとして、とは思ってたけど、ばったり会ったのは斎藤さんが初めてかな。」
 適当に相槌を打ちながら架空の名簿のページをめくり続けていた洵子の頭に、突然、長屋ひろひこ、という名前が浮かんだ。
 名前が浮かぶや、目の前にいるの人は確かにその人だ、という気がしてくる。
 怪しい人ではないらしいということが分かるとともに、相手に失礼にならないうちに思い出すことができたことに内心安心しながら、洵子は長屋が話すのを聞き続ける。
「おれ、一年くらい前にこっちの方に出てきてさ。斎藤さんは、長いんだっけ?」
 急に質問をされて、面食らいながら、洵子はうなずく。「大学からだから、もう五年越えたかな。」
「なにやってんの?」
 勤め先の名前を言おうとして、洵子は考え直す。
 そんなことを言っても、目の前のこの男にはぴんとこないに違いなかった。
「コンサル系の仕事。」
 ふうん、と長屋がうなずく。「頭がいい人がすることは、分からんね。」
 どんな言い方をしても、ぴんと来ないことには変わりがないようだった。
 でも、自分を卑下するようでもなく、洵子を非難するようでもないそのさっぱりした言い方に、洵子は逆にひるんでしまう。
 結局のところ、自分でも自分がなにをやっているのかよくわかっていないのだから。
「おれ、水族館で働いてるんだけどさ、」長屋が、背負っていたリュックを下ろし、中を探った。ずいぶん使い込まれた、すすけた緑のリュックだった。「よかったら、そのうち気晴らしに来て。近くだから。」
 長屋が差し出してきたのは、パンフレットだった。
 長細く折りたたまれた、青いパンフレット。
「割引券も挟まってっから。」洵子が受け取ると、長屋は明るく言った。
 手を振って歩き去る長屋を見送りながらパンフレットをカバンに押し込んだ洵子には、長屋が自分に声をかけてきたのが、純粋に懐かしさのためだったのか、水族館の宣伝のためだったのか、よくわからなかった。
でもとにかく、別れてほんの数分もすると、洵子は長屋のことなど忘れてしまった。少なくとも、家に帰る頃には確実に、長屋のことなど覚えていなかった。
水族館のことも。パンフレットのことも。それは、川底に沈んで土になるのを待つごみのように、ひっそりとカバンの底に沈んでいた。
そこからひょっこり出てきたこのパンフレットを、そして割引券を見たとき、洵子はその偶然に素直に驚いた。
 長屋からパンフレットを受け取ったときは気がついてもいなかったこの割引券の海亀が、夜な夜な自分を訪れては悩ませたと信じたわけでは、無論ない。
 なぜ見てもない割引券の海亀が夢に現れることになったのかは分からなかったけど、きっと「水族館」という言葉が、自分の心のどこかに引っかかっていたのだ、と思った。
 だから、水族館に行ってみることにした。

2.海亀は彼女の夢を見ない

安っぽく飾り立てられた「アクアパーク」の文字の下をくぐり、やけにはしゃいだ家族連れやカップルの列に並んで、割引価格で切符を買った。
自動改札のような入口を過ぎたところで長屋に声をかけられたときは、心の底からびっくりした。
一口に水族館で働いているといっても、たくさん人がいるだろうし、いろんな仕事があるに違いなかった。まさか、こんなにすぐに顔を合わせることがあるなんて、ほとんど考えていなかった。
 スタッフからの子どもたちへの説明を、ちょうど終えたところなのだ、と長屋は言った。スタッフとして目立つようにするためだろう、あまりしゃれているとはいえない明るい黄色のポロシャツを着ている。
 わたしに気がつくなんて恐ろしく目がいいのね、と洵子がいうと、デスクワークじゃないからね、と長屋は笑った。
洵子は、割引券をもらったから、とのこのこやってきたことを気恥ずかしく思ったけど、長屋は当然、そんなことは言わなかった。
 その代わり長屋は、「彼氏と来るかと思ったよ。」といって洵子をからかった。
「割引券一枚だったじゃない。」
「一枚で五人まで割引だ。」
 切り返したつもりが、すぐまた切り返されてしまった。ちゃんと見ていなかったことがばれてしまったようで、恥ずかしかった。
「しばらくいるんだったら、一時間もすれば餌やりショーがあるから、見てってよ。次は潜るから。」長屋が言った。
「長屋くんが餌あげるの?」
驚いて言うと、長屋はなんでもないことのように、頷いた。
「そう。当番だからね。じゃあ、十五時半から、地図の六番の大水槽ね。」
長屋はいうと、洵子の言葉を待たずに去っていった。
 仕事中なのだから、仕方がない。
 でも、自分の仕事とはずいぶん違う、と洵子は思う。
長屋は、生き生きとしていた。思えば、自分の仕事を愛しているからこそ、道でばったり会ったときも、自然と水族館の紹介をしたのかもしれなかった。そんな長屋のことが、洵子は少しうらやましくもある。自分が仕事を愛しているか、誇りに思っているか、なんて、今の洵子には分からなかった。
水族館に入るなんて、十数年ぶりだった。
グロテスクな顔の魚を見ては、オフィスの誰かに似ているかも、などと考えてみた。
色とりどりの魚や奇妙な形のイソギンチャクは普遍的な魅力を放っていたけど、ほかの魚とちょっとでも違う動きをしているやつがいると、むしろそっちのほうが気になって、華やかどころをそっちのけでいつまでも眺め続けた。
しばらく経ってから、自分が思った以上に水族館を楽しんでいることに気がついた。
子どものように、わくわくしていた。
そしてそのきっかけを作ってくれた長屋ひろひこのことを考えたとき、なぜかふと、これまでぜんぜん思い出せずにいた長屋の高校時代のことを思い出した。
それは、まるでなにかの理由で水の底にたまっていた空気が、ふとした拍子にきらめきながら水上に浮上してくるのに似ていた。
 クラスメートといっても、一クラス三十何人もいては、全員のことを思い出せなくても無理はなかった。自然、よく話をする人とほとんど話さない人がいて、異性の場合それはさらにはっきりしていたから、長屋は洵子が話をしなかった人の部類に入っていたのだろう。
 長屋がなにに興味があったのかも知らないので、水族館に勤めていると聞いて、驚いてよいかどうかも分からなかった。長屋の高校のときの顔はいまだにはっきり思い出せなかったけど、いずれにしても今の顔とはずいぶん違っていたように思った。だが、子どもっぽさが抜けない高校時代から何年も経って社会人になると、すっかり容姿が変わってしまうことなどよくあることだ。自分だって、きっと人のことは言えない。
 だけど、ただひとつだけ、長屋ひろひこについて思い出したエピソードがあった。
 長屋の机のそばに洵子の写真が落ちていて、長屋がひやかされたことがあったのだ。
 それは偶然だったのかもしれないし、いたずらだったのかもしれないし、あるいは本当に長屋が持っていたものだったのかもしれない。長屋は否定したが、そのことはしばらく何かにつけて話題に上った。いずれにしても、洵子のほうは、過剰反応すれば余計にいやな思いをするから、と自然に冷却するのを待っていたら、自分の記憶からも消えてしまっていたのだった。
 なぜそんなことを急に思い出したのかわからなかったけど、今それを特に意識するつもりはなかった。
それより洵子は、高校生の頃の自分自身を、まぶしい気持ちで思い出した。
あの頃は、溌剌としていて、屈託がなかった。今の鈍重な自分とは、似ても似つかない。
そして、長屋はその片鱗をまだ抱えているように思った。
自分が失ってしまった屈託なさのようなものを。
子どもの頃、お菓子のきれいな化粧箱に詰め込んで机の下に隠してそのままになっている、名もない宝物のように。

海亀は、ほかの魚と混じって一匹だけ、大きな水槽にいた。
水族館には大きな水槽が二つあって、一つはこの海亀がいる水槽、もう一つは、餌やりショーが行われる六番水槽だった。
子どもたちに混じって、名前の通り縦にも横にも巨大な大水槽の前に立つと、目の前に海の中の世界が広がる。
海底を真似て作られた複雑な岩場の間を、数え切れないくらいの魚たちが思い思いに泳いでいる。水槽に切り取られた、本物の海に比べたら小さい世界、いや宇宙の中で、ある者は満足そうに、ある者は不満そうに、泳いでいる。
見上げると、水面に近いところで淡い光が踊っていた。洵子が自分の部屋で見たものとほとんど同じような、ターコイスグリーンをしていた。
海亀は、水槽の動物たちの中でも、際だって美しかった。
優雅に水をかく扇のような手足。角度により微妙な色に輝く滑らかな甲羅。
洵子は、夢で感じたのと同じようなきらきらしたときめきが、胸の中を通り過ぎていくのを感じた。でも同時に、自分と海亀とが、どうしようもなく隔てられていることを、実感せずにはいられない。
自分は、いつまでも沈んだままなのだ。濁った水底に。
限られた空間に閉じ込められているのは、海亀のほうのはずだった。
それなのに、海亀のほうが自由に見えるのは、なぜなんだろう。
洵子は、海亀の夢を見る。
でも、海亀は人間の夢を見ない。
それは、洵子が棲む水槽が、あのからからの四角いオフィスが、ここに比べれば少しも魅力的でないからに違いなかった。例え出入りが可能であったとしても。
海亀が、まるで洵子の顔を確かめようとするかのようにすぐ目の前を通りかかったとき、洵子はどきりとする。
鱗の中で、小さな宝石のように輝く、黒い瞳。
通り過ぎながら洵子の姿を漆黒の瞳で追った海亀は、洵子が夢で見たのと同じ海亀だった。
瞳も、顔も、甲羅の模様まで、夢の中の海亀と同じだった。だれも信じないだろうけど、何度も見たのだから、洵子には間違いようがない。
洵子は、回遊して再び目の前にやってきた海亀の、表情のない瞳を覗き込む。
 虚栄心も、貪欲さも、敗北感も、ない。陰口も、評価も、下心も、ない。
 ただ、とらえどころのない、やり場のない、逃げ場のない虚無が、あるだけだ。
すべての感情から、そして欲望からも解放された、無限の虚無。
海亀はきっと、その虚無を知らしめるためだけに、私のところに来たのだ。
そして、きっとそのためだけに、この水槽にいるのだ。

3.男はいとも身軽に境目を超える

時間ぴったりに六番水槽前に行くと、そこは人で溢れかえっていた。
前のほうは、子どもたちに陣取られている。その一回り後ろに子どもの親らしき人たちがカメラを手に立ち並んでいたが、水槽を見ているのか子どもたちを見ているのか、まるでわからない。
ショーは時間通りに始まり、解説の女性が挨拶を始めた。水槽には既にダイバーが入っていて、魚と一緒に悠然と泳いでいる。
なんとか場所を見つけて慎ましく立ち、水槽のほうを見た頃には、既に餌やりは始まっていた。
そこで起きていることを見て、洵子は、純粋に驚いた。
マントのようなひれをはためかせ、まるで孤高の飛翔を楽しんでいるようだった巨大なエイが、ダイバーのほうに甘えるように体を寄せてきた。
ダイバーが餌を与え、順番を守るよう戒めるようにエイの体を押しやると、別のエイがやってくる。
次から次と擦り寄ってくるエイたちに丁寧に餌を与えるのが一巡すると、ダイバーは順番を待ちかねていた大きなタイに目を向ける。ダイバーが、子犬でも抱きかかえるかのようにそっとタイを引き寄せ、そのざらざらの鱗が敷き詰められた体の表面を撫でると、タイのほうも子犬のように身をくねらせて喜んだ。ダイバーが餌を与えると、ほかのタイたちも我先に、餌と、そしてダイバーの愛撫を求めて、集まってきた。
魚たちが、人間に心を開いていた。無表情な魚たちが、表情豊かになっていた。絶対に越えられないと思っていた水槽の壁を、そのダイバーはいとも簡単に乗り越えていた。その人間は、魚たちにとって、もはやただの海底の岩ではなかった。
餌のおかげだ、といってしまえば、そうかもしれない。だけど、自分が行って、同じことができるだろうか?
 顔は見えなかったけど、その一人きりのダイバーが、長屋なのに違いなかった。
洵子は、自分が今長屋を見る視線はきっと、羨望の眼差し、というものなのだろう、と思った。

餌やりショーの後、人がばらけてしまうと、洵子は空いた椅子に座り込んで、ダイバーがいたときと打って変わって無表情になってしまった魚たちを、しばらく眺めていた。
もしも人魚が本当にいて、地上を歩く犬を見たら、やっぱりこんな風に無表情だと思うのかもしれない、と思った。ひょっとすると、相手が無表情なわけではないのかもしれない。自分の方に、その微妙な表情を見分ける力がないのだ。違う世界に住んでいるために。
それから洵子は、まだ見ていなかった小さな水槽をいくつか見て回ってから、水族館を出ようとした。
 長屋を探すつもりはなかったのに、出口のそばで呼び止められた。
「目がいいのね。」というと、「待ってたんだ。」と返してきた。
「仕事中なのに。」
「もぐった後は、少し休憩だ。」そういう長屋の髪は、まだ少し濡れているようだった。
よく日に焼けた快活そうな顔を見ながら、洵子は胸の奥が小さくときめくのを感じる。
それは、海亀に会うたびに感じるあのときめきに似ているようでもあったし、違うようでもあった。
「餌やりショー、どうだった?」長屋が尋ねてくる。
「よかった。」反射的に言ってから、何か付け加えなくちゃと考えた末、洵子は言った。「ありがとう。」
「いや、たった一割引だから。」
 割引券の話だと長屋が思ったようだったのが、ちょっとおかしかった。
 いろんなことを教えられた気がして、そのすべてのことに対する気持ちだったのだけど、そんなことまで長屋に伝わるはずもない。
「自分が全然違う世界だと思っていたところにあんなに簡単に入っていけるのを、うらやましく思った。」洵子が付け加えた。
「昔は、斉藤さんは別世界に住んでる人だと思ってた。」長屋が言った。「でも、ひょっとすると、水の中よりは近いかもしれないよね。」
 そうね、と洵子は笑った。自分が魚と比べられているのが、腹が立つよりおかしかった。
ふと思い立って、あの、連絡先でも、と言ったとたん、まったく同じことを長屋が言ったので、驚いた。
二人の間を、小動物のようにそそくさと、照れくささが通り過ぎていったけど、口から一度出された言葉は取り戻せない。
長屋が、白い歯を見せてふと笑うと、普段ほとんど使わないんだけど、と言って、名刺を取り出してきた。
リサイクルの紙で作られた、手作りのぺらぺらの名刺だった。
洵子も、カバンから名刺を引っ張り出してきて、長屋に渡す。
 じゃあまた、と手を振る長屋は、相変わらず、あまり似合わない黄色のポロシャツを着ていた。

ターコイズグリーンの闇の中を、小さな影と大きな影が泳いでくる。
何度見てもきれい、と心の中につぶやきながら、洵子は、伸びをするように両腕を伸ばし、そして、背泳ぎするようにゆっくりと回す。
洵子は、どきりとする。なにかが、いつもと違っていた。
体の周りの空気が、水のように揺らぐのがわかった。ついつい、もう一度、いや、何度も、腕を回してみる。
そして。
洵子の体は突然、下からなにかに押し上げられるようにふわりと浮かび上がると、宙に漂い始めた。
すべての体重が、失われていた。驚きと喜びに、子どものように夢中になって泳いでいると、やがて洵子は海亀のすぐ近くまで来た。
海亀の黒い瞳が、静かに洵子を見つめてきた。
気がつくと、洵子は、いつのまにか夜の空を漂っていた。
夜空には、すっと空を切り裂いてできたような細い月がぶら下がっていた。その周りにいくつかのはかなげな星の光が瞬いている。
眼下には、寝静まった町。ポツリポツリとにじむ町の灯りが、漁火のように見えた。
この世界も悪くないな、と洵子は思う。
どこでもその場所なりの美しさを持っている。どの生き方も、それなりの美しさを持っている。それを見るのも見ないのも、自分次第なのだ。
寄り添うように洵子のすぐ隣を泳いでいた海亀に目を向けると、海亀も洵子を見ていた。
その瞳は相変わらず何の表情も読み取れないほど澄み切っていたけど、洵子はそこに、かすかな共感のようなものを感じ取る。
目に見えるものではない。感じる、としか言えないようなもの。
後ろのほうからたくさんの小さな魚たちが泳いできて、じゃれつくように洵子と海亀の両側を通り過ぎていった。
銀色の背中が、どこからともなく漏れてくるわずかな光を反射して、きらきらと光っていた。
魚たちの数はだんだん増えていき、細い奔流のようになりながら洵子の脇を抜けていく。
その背中の銀色は、あまりにまぶしく・・・。

 気がつくと、洵子はベッドの上に横たわっていた。いつもどおりの四角い小さな自分の部屋。まぶしく思ったのは、カーテン越しに入ってくるできたての朝の光だった。
 いつの間に眠ったのか、思い出せなかった。そして、ひどくすがすがしい気分だった。
 すごくよく寝たみたい、と自分でも驚いた。
いつもと同じはずの部屋が、違う場所に見えた。わけもわからず明るい気分で、これまで長い間どうしてそんな気持ちになれなかったのか、かえって不思議なくらいだった。

うみがめ

うみがめ

なぜか海亀が好きです。あの美しさとをどのように表現すればいいのか、わかりません。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-01-17

CC BY-NC-ND
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  1. 1.彼女は海亀の夢を見る
  2. 2.海亀は彼女の夢を見ない
  3. 3.男はいとも身軽に境目を超える