羊の瞞し 第6章 TRAGICな羊

羊の瞞し 第6章 TRAGICな羊

(1)悲劇的な序曲

 おごれるものは久しからず——。
 再び訪れた宗佑の繁忙期も、僅か数年で減衰へ転じた。最初に工房を開設した時と似たような経過を辿ったのに、失敗の経験を活かさないどころか、現状にただ甘えているだけという全く同じ過ちを繰り返したのだから必然である。
 篠原が受注するオーバーホールは、三年目辺りから急激にペースが落ち、五年目にはほぼなくなった。宗佑の開業時とほぼ同じ軌跡だ。その後、興和楽器の経営状態が急激に失速したことにより、篠原は契約を解除された為、完全に消滅した。
 篠原は、その後ピアノ専科に嘱託として雇われることになった。五十代半ばの既婚女性とは言え、興和の仕事を失うことは大きな痛手だったようだ。どうやら旦那が経営する会社も、不景気の煽りを受け窮地に陥っていたらしい。
 あれほど宗佑を尊敬し、師と仰いでいた篠原も、ピアノ専科と契約してからは全く顔を見せなくなり、詐欺の片棒と知りながら営業と調律に励んでいた。技術者として、彼女なりに築き上げた理想(ヽヽ)のスタイルも、旦那の安定した高収入の恩恵で維持出来ていただけだ。所詮は、趣味の延長に過ぎなかったのだ。
 経済的な後ろ盾を無くした篠原は、理想の具現なんて一気に吹き飛んでしまったのだろう。今の彼女に必要なものは、収入だけだ。より効率良く稼ぐ為に、理想は捨てたのだろう。現金なものである。同時に、柔軟でもあるのだろう。

 響にとって興和楽器の仕事は、辞めるタイミングを計りながら継続している感じだ。技術者としてのスタンスにズレがある上、トップ調律師である梶山へのリスペクトを失い、嘱託への憧れも消えた今では、ここでの将来に目標が見当たらない。
 更に言えば、業界自体が改善の見込みがない不景気を爆進中だ。いつまでも、この会社に残る理由はない。残り僅かな住宅ローンの支払いだけが、仕事を続ける唯一の動機になっている。
 いつしか、入社して丸六年が経とうとしていた。世間では卒業式や受験がひと段落し、在校生達の終業式が間近に迫ったある日のこと、珍しく梶山の同行を命じられた。学校の調律だ。絶対的な仕事量が減った今では、まとめて数台消化出来る学校調律はノルマ達成に有効な現場なので、興和楽器は積極的に取り込んでいた。そして、その殆んどを梶山が担当していた。裏を返すと、あの梶山でさえもノルマに追われるようになっていたのだ。
 今回は、梶山に急遽コンサート調律の依頼が入った為、どうしても一台分時間が足りなくなったようだ。なので、予定が空いていた響が指名された。
 しかし、響としても、もう彼の作業に関心はない。考え方も違う人種だ。昔の父との因縁を知り、人間的にも軽蔑するようになっていた。技術的には、これ以上彼から吸収するものはない。要するに、今では単に厭な上司でしかなく、同行は億劫でしかない。

 梶山からのメールを確認した響は、一瞬目を疑った。
「明日、13時に湊南商業高校に来るように。私は朝から音楽室と準備室、視聴覚室の順で調律をやっている。松本は、体育館のピアノをやるように。KAYAMAのフルコンだ。職員室で担当の荻村先生に挨拶をして、鍵を借りること。終わったら、私に報告するように。15時アップだ。おそらく、その時間は視聴覚室にいるはずだ。では、よろしく頼む」

 湊南商業高校……ここは、興和楽器が長年調律を担当している学校の一つだ。しかし、基本的には嘱託に任せていた現場だし、社員が伺うとしても、優先順位の低い響にはまず回ってこないだろうと安心(ヽヽ)していたのだ。
 何故、安心なのか……? 実は、この学校は、美和が離婚時に勤めていた職場なのだ。幸い、担当教諭の名字は美和の旧姓ではない。だが、美和と同じ音楽教諭だろうから、何らかの接点はあるかもしれない。でなくても、職員室に行けば顔を合わす可能性もある。
 いや、職員室に限らない。異動になっていない限り、校内の何処かに美和がいるのだ。バッタリ会ってしまう可能性も低くはない。それに、専門学科の高校教諭は比較的異動が少ない……最悪だ。響は、今更美和の顔を見たくなかった。
 当日は、慎重に行動しなければいけない。職員室の何処かから、美和は響に気付く可能性もある。しかし、もしそうなっても、こちらからは気付かない振りを通せばいい。それに、面と向かわない限りは、わざわざ美和も話し掛けてこないだろう。

 翌日、予定通り13時に湊南商業高校に到着した響は、梶山の指示通り、先ずは職員室へ向かった。途中、何人かの教職員や生徒とすれ違ったが、幸い美和らしき人物は見当たらなかった。普段より、少し緊張していることが自分でも分かった。
 職員室の入り口の横には小さな小窓があり、来訪者受付と書かれてあった。そこにあった呼び鈴を鳴らすと、すぐに小窓が開き職員が対応してくれた。
「興和楽器の松本と申します。体育館のピアノの調律に伺いました。荻村先生はいらっしゃいますでしょうか?」
 落ち着いて、紋切り型の挨拶を交わすと、ご苦労様です、少しお待ち下さいね、と小窓を閉められ、廊下に突っ立ったまま担当の荻村教諭を待つことになった。見ないでおこうと思いつつも、小窓から思わず中を覗き込み、いるかいないかも定かでない美和の姿を、つい探してしまった自分に言い知れぬ怒りを覚えた。
 数分後に職員室から出てきた荻村教諭と紋切り型の挨拶を交わし、一緒に体育館まで歩いている間も、響は緊張が解れず表情も強張ったままだ。どうしても、平常心を失ってしまう。やはり、この仕事はキャンセルすべきだったと後悔が押し寄せる。
 警戒なのか不安なのか、または苛立ちか……やり場のない感情から、響は無言で不機嫌な仮面を被ってしまう。この不審者と間違われても文句の言えない不気味な立居振舞は、外回り調律師として失格だろう。荻村は、不穏な沈黙に居た堪れなくなったのだろうか、恐る恐る話し掛けてきた。
「今日は、梶山さんがお一人で四台ともやってくださるのだと思っていました」
 それは失礼しましたね、見るからに頼りない未熟者が来ちゃいまして……響は、そう皮肉りたい気持ちを呑み込み、「あぁ、そうでしたか」と答えるに留めた。いつもそうだ、皆、求めているのは梶山なのだ。技術的な判断も出来ないクセに、梶山というブランドを無条件に信用しているのだ。その都度、「アイツはとんでもない悪人ですよ!」と暴露したくなる感情を、必死に抑えなければいけない。

 体育館に入ると、否応にもピアノが目に止まった。公立の学校では珍しい、フルコンサートグランドだ。調律師の間では、「フルコン」と呼ばれているピアノで、妥協のない2m75cm(メーカーによっては3mを超えることも!)の圧倒的な存在感は、どのメーカーにとっても自社を代表するピアノであり、製作技術の結晶なのだ。コストを考えずに設計し、良質の部品を注ぎ込み、丁寧に時間を掛けて製作する、謂わば、一切の妥協を排除し、メーカーの理念や哲学を体現したピアノがフルコンなのだ。
 荻村教諭は、黙って照明を点けてくれ、コンセントからドラム式のコードリールを引っ張ってくれた。本格的な春を迎えつつある時期ながら、まだ底冷えする体育館での作業を考慮してか、小さな電気ストーブも用意してくれた。それでも無視を貫く響に、荻村は言った。
「何か言うことないの?」
 響は、特に会話を求めていないのだが、相手の口調に微かな怒気を感じたので、気になっていたことを一つだけ質問した。

「いつ再婚したんだよ?」
「そうね……もうすぐ五年半になるかな」
 その質問を予想していたのだろうか、松本でも旧姓でもない、荻村という名字を得た美和は淀みなく返答した。
「そうなんだ……」
 宗佑と美和が離婚をして、六年が経過したばかりだ。響は、瞬時に全てを悟った。つまり、美和が離婚を望んだ理由の一つは、再婚を考えていたってことだろう。いい歳して、不倫していたのだ。
「でも……違うのよ、響、お父さんと別れたのは、そういうことじゃなくてね……」
「どうでもいいよ。悪いけど、仕事始めないと。時間ないんだ」
 仕事を言い訳に、響は会話をシャットアウトした。物言いたげな美和も、今は職務中だ。ゆっくり話し合ってる時間がないのは、お互い様だろう。それ以前に、響には話し合う動機も目的もなかった。言い訳なんて聞きたくない。

 確かに美和は、不甲斐ない宗佑とは違い、親の責任を果たしたと言えよう。とりわけ、経済的な負担は大きく、松本家の生活費の大半を美和の収入に依存していたのは間違いない。
 しかし、不倫となると話は別だ。美和がどれだけ生活を犠牲にし、経済的な負担を強いられてきたとは言え、不倫を同列で語るわけにはいかない。それに、宗佑の夫として、響の母として、他所に男を作りながらも家では普通に過ごしていたことに、嫌悪感を覚えてしまう。
「では、終わりましたら施錠、消灯して、荻村先生まで鍵をお届けします」
 精一杯の侮蔑を込めた他人行儀な態度で、響はそう伝えた。会うことに怯えていたが、会ってしまうと逆にそれで良かったと思えてきた。むしろ、妙な(わだかま)りは解消され、スッキリした気分だ。そう、母はもういない……心なしか、割り切れるようになった。

(2)悲劇的な前奏曲

 作業を終えると、響は梶山の携帯に電話を掛け、視聴覚室へ向かった。途中、職員室に寄り、体育館の鍵を返却した。美和は不在だったが、幸い(ヽヽ)なことに、そのことに安堵も未練も感じなかった。
 視聴覚室では、梶山が上着を脱ぎ、ネクタイを外して作業に没頭していた。いや、そのように見えた。実際は、アップライトピアノということもあり、手抜き満載の適当な作業に違いない。それでも、念入りに、かつ真剣に取り組んでいるように見せる技術は、いつものスタイルとはいえ、お見事と言うしかない。
「フルコンなのに、酷かっただろ?」
 労いの言葉も挨拶も省略して、梶山は開口一番にそう言った。これまた、いつものスタイルだ。
「お疲れさまです。かなり古い型なので、断線しないか不安でした」
 響は、儀礼的な回答だけ返しておいた。
「さっき荻村先生がみえてな、あのフルコン、どうにかならないか? って聞かれたんだ」
「どうにかって、処分するのですか?」
 そもそも、公立の商業高校にフルコンサートグランドが必要とも思えない。ピアノの為にも、本当ならキチンと直して、然るべき環境で活躍させてあげるべきだろう。そう思ったからこそ「処分(ヽヽ)」という単語が自然と口に出たのだ。ここでいう「処分」は業界の慣例的な言い回しで、「廃棄」ではなく手放すことを意味するのだ。しかし、美和の意図は違ったようだ。
「俺もそう思ったけど、荻村先生は、直して使えないか? って言ってるんだ。あのフルコンはな、大昔の卒業生からの寄贈品で最初から状態が良くなかったんだよ。でも、その卒業生の旦那が県会議員で、しかも県議会のドンと呼ばれてる大物なんだ。なので、そのご夫婦がご健在な間は使わざるを得ず、完全に持て余してる状態でさ。どうせ使わないといけないなら、ってことじゃないかな」

 ピアノの寄贈に纏わる不条理は、時々耳にする話だ。そもそも、本当の意味での寄贈(ヽヽ)は滅多にない。大抵は、「寄贈」という美化された響きで装飾された「処分(ヽヽ)」であることが多い。
 そもそも、ピアノは部屋の一角を占有する大型の楽器だ。容易に動かすことも出来ず、使わなくなったなら、尚更疎ましい存在になるだろう。しかし、売却しようとしたものの、査定結果に納得出来ない人は珍しくない。専門家による客観的な評価が受け入れられず、勝手な思い込みを絶対値と信じ、査定額に激怒する人も多い。
 実際に、所有者が思い込んでる価値と現実的な査定額の間に、三十倍以上の開きがあることもザラにある。古い楽器ほど付加価値が付き、査定額は上がっていくもの、と絶望的な勘違いをしている人さえいる。
 残念なことに、そういう人ほど、不要なピアノを何時までも置いておく気がない。結果、縁のある施設などに、半ば強引に「寄贈」するのだ。だが、これは専門家が介在しない個人間の取引になる。誰もピアノの状態や価値が理解出来ておらず、常にトラブルが潜んでいる。
 特に、貰った方は、後々大変な目に合うこともある。よくある例は、寄贈されてから調律を依頼して、初めて酷いコンディションだと知るケース。だが、想定外の修理代が捻出出来ず、劣悪なコンディションのまま放置するしかないのだ。貰った手前、寄贈者に文句は言い難くく、そのまま泣き寝入りするしかないのだろう。
 一番罪深いのは、寄贈した側だ。善い行いをしたと本気で思い込んでおり、それとなく感謝を要求し、自尊心を満たすのだ。自分が所有していた時には、ろくにメンテも行わず放置していたピアノだ。錆や黴、埃、虫喰いなどで不衛生な可能性も高く、耐用年数を超えた部品も多い。タッチも音も狂っており、そのまま使えるような代物ではない。
 実際、買取の査定ではろくに値段が付かなかったのだ。それを自身の願望と思い込みで価値を捏造し、「寄贈」という名の「処分」を行っているのだ。
 おそらく、この寄贈者も本質的には同じだろう。真剣に母校の音楽教育を鑑みての寄贈なら、予め完璧な状態に直すべきだ。しかし、優先したのは「処分」と自己満足……寄贈した事実は、周囲に向けた自慢のタネになり、感謝を遠回しに強要するネタにもある。だからこそ、使い続けてもらうことに意味がある。しかも、その旦那が議員ともなると、貰い手は否応なく使うしかない。

「その方は、フルコンを持っていたってことですよね?」
 もっともらしい疑問を梶山に訊いてみたが、どうやら彼もそこまでは知らないとのこと。ただ、個人でフルコンを所有している人もいないことはない。自宅用に限らず、プライベートのホールを経営している人もいる。他にもホテルやスタジオ、式場、多目的施設などを経営している人もいる。それらの施設で不要になったフルコンを寄贈することは、十分に有り得る話だ。
「どういう事情で寄贈したのかは知らない。でも、腐ってもフルコンだ。金と時間さえ掛ければ、それなりに良くなるだろう」
 この見解には、響も同意出来る。問題は、予算をどうやって捻出するかだろう。公立高校だと、自治体から予算が下りない限り、修理も買換えも出来ない筈だ。
「それでだな、うちでオーバーホールすることになりそうだ」
 予想外の話の飛躍に、響は心底驚いた。興和楽器でオーバーホールの仕事を取るケースは、ほぼない。その予算があれば、買換えを勧めるのが通常だが、確かに今回はそれが出来ないイレギュラーな状況ではある。
「マジっすか? 凄いですね!」
「まぁ、言っても窓口だけだ。作業するのはメーカーさ」
 だろうな……一転、響はガッカリと肩を落とした。興和楽器では、フルコンのオーバーホールが出来る設備もないし、そもそも技術者がいない。

「荻村先生が上手いこと働き掛けてくれて、修繕費として四百万ぐらい予算が下りそうなんだ。新品のフルコンを買うと、軽く一千万円以上するからな。それに、買換えなんて申請はまず通らない。それで、来週入札が行われることが決まった。今年度の予算から二百万、来年度から二百万捻出出来たみたいでな、年度を跨ぐ今が理想らしい。その辺の役所事情はよく分からないが、直ぐにやることになったんだ」
 久し振りの大きな仕事だからだろうか、いつになく饒舌な梶山は、機密であろう話をベラベラと話してくれた。
「でも、フルコンのオーバーホールなんて四百万で出来るものなのですか?」
「いやいや、相場は五百万以上だな。でも、KAYAMA本社に事情を説明して頼み込んでみたら、外装はやらないという条件付きだが、特別に三百四十ぐらいで請けてくれることになった。興和楽器としては、三百九十五で見積りを出す予定だ。競合相手として、草野楽器に三百九十八でダミーの入札を頼んである。他に入札するところはないだろうし、あっても予算に上限があることは知らされてない。普通に考えて、四百以下で入札してくることはないだろう。ほぼ、うちで決まりだ」
 さすがは梶山だ。こういった裏工作には抜かりがない。それには、何よりも関係者に信用されることが大切だろう。その為の処世術に関しては、梶山はずば抜けて優れている。決して、一朝一夕で纏える鎧ではない。生まれ持った才能と継続的な信頼関係から、初めて為せる一種の高等技術だ。

 フルコンのオーバーホールか……店へ戻る車内で、響は梶山から聞いた話を反芻していた。この五年ぐらいの間に、宗佑の工房では四十〜五十台ものオーバーホールを行い、おかげで響も殆んどの工程を一人で熟せるようになっていた。しかし、フルコンは未経験だ。おそらく、生涯にフルコンのオーバーホールに触れるチャンスは、何度もないだろう。そう考えると、どうしてもやってみたい。ピアノ専科から、入札に参加するべきだろうか……?
 興和楽器の入札額は分かってるので、参加さえ叶えば落札出来るはず。問題は、ピアノ専科と興和楽器の関係悪化が不可避なことだ。その辺を榊がどう判断するのか……。
 ただ、以前とは違い、興和楽器とは敵対こそしていないものの、決して友好的でもない。確かに、ピアノ専科設立当初は、地域最大手の顔を立てる為、楽器や小物の販売は全て興和楽器を通していた。だが、今のピアノ専科はショップ経営も順調に展開しており、むしろ競合店になっている。木村や篠原の雇用も、興和楽器は薄々勘付いているだろうし、決して心象は良くないだろう。両社の関係悪化は、今更懸念する必要はないかもしれない。
 ただ……根本的な問題もある。そもそも、ピアノ専科は県の指定業者に登録しているのだろうか。

 基本的に、自治体の予算で行う事業は、年度始めに登録した指定業者間による入札で施工主が決まるシステムが一般的だ。公立学校の調律や楽器販売も、指定された楽器店による入札は不可避だが、実際には楽器店同士の力関係による申し合わせが当然の如く発生し、実質的な談合で順番を回していると聞く。
 おそらく、今回の修理は、興和楽器が落札すべく根回しが済んでいるだろう。ピーク時と比べると売上げが落ちているとは言え、県内一の大型店であることには変わりなく、政治力や影響力には未だ陰りがない。ただ、単独指名は癒着の疑念を生む為、入札には協力業者にダミーで参加してもらう慣例がある。梶山の話だと、その手配も済んでいるとのこと。つまり、もうシナリオは仕上がっている。
 だからと言って、ピアノ専科が入札出来ないわけではない。興和楽器としては想定外だろうが、法的には何の問題もない。工賃も、メーカーと自営では大きく違ってくる。おそらく宗佑なら、三百万円程度で請けることも可能だ。なので、もし三百八十万円で落札出来たら、ピアノ専科は事務手続きだけで八十万円も抜けることになる。悪くない話だ。
 もし、響が機密を漏洩させたことがバレると……間違いなく興和楽器をクビになるだろう。しかし、その時は、末端社員の響に教えた梶山の責任も問われる筈。なので、梶山は個人的にネチっこく探りを入れてくるだろうが、社内で公になることはない。つまり、梶山以外にはバレない。
 それに……仮にバレたところで、響には大した影響はない。興和楽器に対する執着心は、とうに消えている。
 一か八か、動いてみるべきだろうか……響はそう迷いつつも、自分の中で答は決まっていることに気付いていた。

(3)悲劇的な譚詩曲

 翌日の夜、響は仕事帰りにピアノ専科の事務所に寄った。一晩熟考を重ねてみたものの、結果、心変わりはしなかった。大きなリスクはあるが、興和からフルコンのオーバーホールを横取りしたい……覚悟を決めて、榊に面会を申し込んだのだ。
 響は、今もピアノ専科の仕事を週に数件請けているが、最近は依頼も報告も事務員とのメールだけでやり取りするようになっていた。なので、事務所を伺うのも榊と会うのも数週間振りだった。
 急に響は、毎晩のように事務所を訪れ、榊と二人で大型機器などを運んでいた頃の記憶が蘇った。兄のように慕い、時に「レスラー」と揶揄われながらも、親しげに「アキさん」「響」と呼び合っていたこと、一緒に鰻を食べに行ったこと、オーバーホールをする為にダミー会社として「ピアノ専科」を設立したこと……などが、すべて美化された懐かしい記憶として、脳内を駆け巡った。
 その後、瞬く間に巨大組織へと成長したピアノ専科において、もう昔の「アキさん」は存在しない。人情味溢れる優しさや温かさが削除されたフォーマットに、冷酷でシビアな経営者が上書きされ、内外に恐れられている。もっとも、そうでないと務まらないのだろう。非合法で非道徳な職務を纏め上げるに当たり、いちいち感情に流されていては身も心も保たないだろう。

「お忙しい中、時間を割いて頂き恐縮です」
 見るからに不機嫌そうな——もっとも、それが最近のデフォルトでもあるのだが——榊に、響は先ずそう話し掛けた。
「お前さ、今週何件下見に行った?」
 少し予想はしていたが、榊は全く関係のない話を振ってきた。いつものルーティンだ。つまり、機嫌が悪いわけではないのだろう。
「すみません、今週は興和の仕事がギッシリ入っていまして、一件しか伺えませんでした」
「理由は聞かれた時に言えばいい。今は、一件とだけ答えればいいんだ」
 榊は、一件しか行けなかったことよりも、回りくどい言い訳を最も嫌うのだ。
「申し訳ございません。今週は一件です」
「来週は何件組めそうだ?」
「最低三件、もし市内だけに限定して頂けますと、五件可能です」
「じゃあ、市内の依頼は松本優先で回すように伝えておこう」
「ありがとうございます」
 ここで、ようやく榊の表情が、ほんの少しだけ緩んだ。とは言え、この眇眇(びょうびょう)たる変化に気付く人間は、響を含め世界に数人しかいないだろう。
「それで、お前の用事は何だ?」

 響は、梶山から聞いた入札の話を詳細に説明した。そして、もしオーバーホールを行うなら、宗佑が三百万円未満で請けてくれることも話した。
「そうだな……話は理解した。情報提供には感謝する。でもな、じゃ、やってみようかって気にはなれないな。確かに、関心はある……でもな、嫌な予感もする」
 攻撃的な戦略家の榊にしては、珍しくネガティヴな発言に聞こえた。「嫌な予感」とは、何を意味するのだろうか?
「どういうことでしょうか? 差支えなければ、教えて頂けますでしょうか?」
 しかし、榊は考え込むように腕を組んだまま動かない。
「ちょっと話変えるが、お前、ネットは見るか?」
「いえ、パソコンを持っていません」
「じゃあ、仕方ないな。ネット上に巨大掲示板サイトってのがあって、ピアノ専科の悪口が結構書かれてるんだ」
「えっ? マジですか?」
「まぁ、悪口と言っても本当のことだし、どうってことはない。ネットユーザーってのはバカでな、こっちはネットを使わない人をターゲットにしてるからさ、その啓蒙をネットでやっても全く効果ないってことに気付いてない。うちとしては、痛くも痒くもない」
 確かにその通りだ……紙媒体を見て依頼する高齢者が、ネットで評判を検索することはあり得ない。つまり、ネットに何を書かれようが、被害者予備軍の耳には届かないのだ。
 ただ、将来的にインターネットが飛躍的に普及し、もっと身近なツールになると、色んな影響が出てくる可能性は高いだろう。しかも、情報科学の進歩スピードは恐しく速い。きっと、それほど遠くない未来の話だ。痛くも痒くもないなんて呑気に言っていられるのも、今だけかもしれない。
「それより、少しは真っ当な業務実績も必要かな? とは思っていたんだ。もしネットの悪評を見た人がいても、公的機関の仕事を請けてる実績は疑念を払拭するのに利用出来る。特に、高齢者には有効だ。だから、悪くない話だとは思うが……松本は、上手くいくと思うのか?」
 榊に首尾の予想を訊かれたものの、「松本」が自分のことだと把握するのにコンマ数秒を要した。そう、響にとって「アキさん」がもういないように、榊にとっての響も、既に「響」や「レスラー」ではないのだ。

「入札すれば、興和との関係は険悪になりますが、落札出来る可能性は高いと思います。施工と利益に関しては、問題は見当たりません」
「興和との関係は、どうでもいい。あそこは、沈みかけの船だ。ただ、どうしても気になるのは、梶山が何故お前に軽々しく教えたのか? ってことだ。ついうっかり、ってタイプじゃないからな。何かの罠だと思うが、目的が見えないんだ」
 その点は、響も引っ掛かっていた。梶山は、響とピアノ専科の関係に薄々気付いている。なのに、わざわざ響に極秘情報を流したのは、何か理由があってのことか、単なる馬鹿なのか……どちらかしか考えられない。
「何かの罠だとすれば、私をクビにする計画かもしれません。興和は、調律台数も減ってますし、梶山自身、ノルマ達成に四苦八苦しています。一人減れば梶山にゆとりが出来ます。他の調律師は、皆梶山の犬ですが、私は違います。一人削るなら私でしょう」
 すると、榊はニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「お前、成長したな。実は、俺もその可能性を考えていた。嫌な予感ってのは、お前を陥れようとしてるのでは? ってことだ。でも、そこまで分かってるのなら、覚悟は出来てんだな?」
 流石は榊だ。響の事務的な説明を聞いただけで、そこまで理解したのだ。
「勿論です。ただ、先程はクビにする口実と言いましたが、正確には、自主退社へと追い詰めるだけでクビには出来ません」
「どういうことだ?」
「社長は、誰がリークしたのか躍起になって調べるでしょう。でも、私だと気付いた時は、梶山が軽々しく部下に話したこともバレるのです。そっちの方が大問題なので、梶山は口を割りません。何かと嫌がらせはされるでしょうけど、それぐらい何ともありませんし、その気になればこちらから彼を脅すことも可能です。そもそも、私以上に梶山の方がクビを恐れる筈です」
 そこまで話すと、榊は感心したような目付きに変わり、少し和やかになった口調になった。今度は、誰が見ても分かる変化だ。
「OK、入札してやるよ。うちも、指定業者登録ぐらいはしてるさ。お前、真面目な調律師やってるのは勿体無いな。もし、これでクビになっても俺が雇うぜ、お前さえ良ければな。よし、じゃあ、やってみるか。お前の話の通りなら、難なく落札出来るだろう。後は任せていいんだな?」
「ありがとうございます。準備しておきます」

 こうして、ピアノ専科によるオーバーホールへの入札は決定した。しかし、響にとっては、思いもよらない悲劇の始まりでもあった。

(4)悲劇的な二重唱

 県立湊南商業高校所有のピアノ、KAYAMA社製フルコンサートグランドピアノのオーバーホールは、三社による競合入札の末、ピアノ専科が落札した。
 興和楽器は、想定外の入札業者の参入に驚いたものの、ピアノ専科を舐めて掛かっていた。メーカーのバックアップもなく、大規模な工場がない上、予算に上限があることを知らないであろうピアノ専科だと、五百万円前後で入札してくるに違いないという読みがあったのだ。なので、興和楽器は自信を持って予定額の三百九十五万円で入札したのだが、ピアノ専科の入札額はそれを僅かに下回ったのだ。
 その日の夕方、響の携帯に梶山からメールが届いた。
「今日の閉店後、本店の会議室に必ず来ること。大事な話がある」
 簡潔な短文とは言え、有無を言わせぬ文面から、とても穏やかな心境でないことが否応にも伝わってくる。そのメールを一瞥した響は、ピアノ専科が落札したことを確信した。
 梶山の用件は、大方の予想がつく。興和楽器としては、数十万の利益が水泡に帰しただけの話ではない。長年の信頼関係から得た内密の情報を横取りされ、メーカーの好意にも泥を塗ってしまった。
 そして、何よりも梶山の、いや興和楽器のプライドが許さないだろう。

 閉店時間の少し前に、響は本店に到着した。この後に迎える梶山との面会に対し、不思議と緊張も畏怖も感じない。至って平常心だ。
 どうやら社会人は、会社への執着——即ち、勤務を継続したい事情、または継続せざるを得ない動機——がなくなると、忠誠心を失い、クビも恐れなくなるのだ。すると、上司からの説教や恫喝も何とも思わなくなる。逆に言えば、心と裏腹の会社への忠誠や上司への服従も、突き詰めると、結局は職を失いたくないという防衛本能が生んだ「我慢」に過ぎない。飼い慣らされた羊と同じだ。
 その意味では、もう響には我慢する理由がない。今、この場でクビになっても構わないと思ってる響にとって、梶山がどの様な態度で接してこようと、どうでもいいことだ。もちろん、こちらからわざわざ喧嘩腰の態度を取るつもりはない。社内での関係とは別に、一般的な社会人として、目上の人に対する常識的な態度は尊重すべだと思っていた。
 指定された会議室に入ると、既に梶山が待ち構えていた。腕を組み、しかめっ面で睨み付ける梶山が、響にはむしろ滑稽に映った。
 入社した頃の響が憧れ、崇拝し、威厳に満ち溢れていたように映った梶山はもういない。この六年の間にいつしか痩せ細り、白髪も目立ち、一回り小さくなった気がした。颯爽としたエレガントな身のこなしは、セコセコと動き回る貧乏臭い印象に変わり、貴重で糧になると思えた説法も、最近では自慢と嫌味と悪口にしか聞こえなくなった。
 おそらく、梶山だけではなく、この六年間で響も変わったのだろう。必ずしも、成長とは限らないにせよ——。

「入札の結果は聞いたか?」
 まだ着席もしていない響に、いきなり本題を切り出してきた。儀礼的であれ、挨拶ぐらいは交わすべきとも思ったが、「知りません」と答えながら適当な椅子に腰掛けた。
「ピアノ専科が落札した」
 梶山は無表情を装っているつもりだろうが、響には怒りや憎しみの欠片が垣間見える。しかし、よくよく考えてみると、落札出来なかったとは言え、響を陥れたかったはずの梶山にしてみれば、シナリオ通りの展開の筈だ。つまりは、演技なのだ。会社に従順な人間という白々しい演技を、生涯続けないといけないのだろう。梶山もまた、憐れな羊なのだ。

「そうなんですか」
 素っ気なく、響は返答しておいた。もちろん、そうなることを望み、予想していた響にとっても、計算通りの展開だ。
「疑問点が幾つかある。一つは、何故ピアノ専科が入札を知っていたのか? だ。不思議と思わないか?」
 お前が教えたんだろ? とストレートに聞かないところが、いかにも梶山らしい。いっそのこと、「私が教えました」と言ってやろうかと思ったが、わざわざ事を荒立てる必要もない。なので、馬鹿らしい演技に付き合うことにした。
「分かりません。何が不思議なのですか?」
「どういうことだ?」
「県の事業ですよね? 指定業者には連絡があるものだと思っていました」
「法的にはそうだな。でも、信頼関係と慣例というものも無視出来ないはずだ。実際、急に決まったことだし、県はこの件の情報は開示していない」
「要するに、コッソリと形だけの入札をして、事実上の談合と癒着で業者を決める予定だったってことでしょうか?」
「おい! 言葉に気を付けろ! これはな、どこでもやってることだ。今問題にしてるのは、何故ピアノ専科が知っていたのか? ってことだ。それに、予算もピンポイントで合わせてきた」
「オーバーホールなんて、似たような金額になるのではないですか?」
 響は、予算の話も梶山から説明されていたが、そんなことは忘れているように装い、惚けてみた。梶山も覚えているとは限らない。もっとも、梶山の計画が響の予想通りなら、金額を明確にする必要性は高かったはず。つまり、意図して伝えたことになる。

「おいおい、お前には言っただろう? 普通は、フルコンのオーバーホールだと五百万を切ることはない」
「あぁ……そう仰ってましたね。すみません、忘れていました」
 やはり、梶山には金額を伝える意図があったのだろう。つまり、入札に横入りさせて、ピアノ専科に奪わせたかったことは間違いないだろう。
「でも、今回は四百万というリミットがあったから、メーカーに特例で安く請けて貰うことになっていた。予算を知らない業者だと、普通に見積もれば落札出来ない筈だ」
「上限予算も、興和楽器しか知らなかったのですか?」
「言ったろ? 県は、何も情報開示していない。問合せがあれば答えるだろうが、広報誌にも載せていない案件だ。知っていたのは、社長と営業部長、俺、お前だけだ」
 いよいよ核心を突いていたようだ。疑いではなく確定事項として追求し、自白を引き出したいのだろう。取るに足らない、強引で稚拙な攻撃だ。その程度なら、幾らでも言い返す自信があった。

「知っていたのは四人だけ……ってことはないですよね?」
「どういうことだ?」
「ダミーの入札を依頼したのでしたら、少なくとも、草野楽器の担当者は知っていた筈です。その担当者が、誰にも話していないとは断定しようがありません。学校の教職員にも、何人かは知っている人がいる筈ですし、当然県の職員もそうですね。その中の誰かが、ピアノ専科と何らかの繋がりがあったと考える方が自然じゃないでしょうか? どっちにしても、特定は出来ないと思います」
「そうだな。お前じゃないなら、それも有り得るな」
「否定の証明は出来ません。色んな可能性がある中で、誰かを特定するのは不可能に近いです。それに、それを言うなら、梶山さんも、社長と営業部長も条件は同じです。御三方の誰かがリベートをもらって横流ししたとしても、誰にも証明出来ないです」
「そんなことするわけないだろ!」
「僕も含め、皆そう言うでしょうね。でも、否定の証明は出来ません。反対に、やったことの証明は可能です。梶山さんが、少なくとも部下の一人に話したことは証明出来ますよ。もし、仮に私がリークしたとしたら、社長は何故私が知っていたのか? ってことも気になるでしょうね」
「お前、俺を脅してるつもりか?」
「いいえ。でも、私にリークさせたかったのではないでしょうか?」

 すると、梶山の表情は豹変した。憎々しげな目で響を睨み付け、もうそれを隠そうともしない。
「なかなか根性座ってるな。よし、本音で話し合おうか。お前が榊と交流があることぐらい、耳に入ってる」
「それで、私が情報を売るように仕向け、それを口実にクビにする。そして、私の担当顧客を奪うって計画ですか?」
 今がチャンス、と判断し、響はストレートに予想をぶつけてみた。しかし、響の言葉を聞くや否や、梶山は笑い出した。演技でも皮肉でもなく、心底楽し気な笑いだ。
「はははっ、ちょっと待ってくれよ、お前、そんな風に考えてたのか? 笑わせるなって。お前、まだまだ会社とか組織のこと、何も分かってないんだな」
「ど、どういうことですか?」
「あのさ、俺は技術部の部長だぜ? 意味分かってるのか? 技術部門の総責任者ってことだ。俺にとってはな、技術部全体での実施台数とか売上の方が重要なんだ。だから、お前みたいに、毎月きっちり四十件回ってくれてる部下はありがたい存在でな、すごい助かってんだ。クビにするわけないだろ。それに、俺がお前の客を奪い取ってどうすんだ? そんなことしても絶対数は変わらないし、むしろ、お前の客全部なんて到底回り切れないから、逆に売上が減っちまうじゃないか。そんな馬鹿なことしねぇよ。だから、客を取るなら他社か、せめて嘱託からじゃないと意味がない。実際、そうしてるしな」
 梶山の言い分は説得力があった。どうやら、響の予想は全くの的外れだったようだ。
 では、何故リークさせたのだろう? 全く見当がつかない。響は、少し焦り始めていた。
 梶山を少し見縊(みくび)っていたようだ。人生経験も調律師キャリアも到底敵わない梶山のことを、無意識に見下していた傲慢な自分を恥じ、後悔した。これで、彼の狙いが皆目見当も付かない。上手く対処出来るか……一気に自信が無くなった。

「俺が知りたいのはな、ピアノ専科がどうやってオーバーホールするのか? ってことだ」
 やはり、梶山は自分と宗佑の関係を知っているのだ……直感的にそう思った。しかし、その後の考えが読めない。
「あそこは、普段からオーバーホールの仕事をしてますよ。工房もあるし、興和楽器とは違って、自力で出来るのではないでしょうか?」
 響は、その回答に軽い皮肉を込めたつもりだ。興和楽器のような特約店では、大掛かりな修理は全て外注に出している。
 一方で、近年は販売より修理に重点を置き、自社で対応出来る特約店も増えている。頑なに新品の販売に固執する興和楽器の時代遅れのスタイルは、近い将来置き去りにされる運命だろう。
「まぁ、うちもいつまでも外注に頼ってたらダメだろうな」
 意外なことに、梶山は響の皮肉にも理解を示した。古い特約店の在り方に、梶山自身は固執していないのかもしれない。
「じゃなくてさ、部品はどうするつもりなのか? って話」
「え? 普通にKAYAMAで購入するんじゃないですか?」
 響のその一言を確認すると、待ってましたとばかりに、梶山は薄っすらと勝ち誇ったような嘲笑を浮かべた。
「何言ってんだ? フルコンはな、メーカーの威信を懸けて作られてるんだぜ。全てのフルコンはメーカーに追跡管理されてるからな、下手な改造や修復をされないように、純正パーツも簡単に売ってくれないぞ。製番と所有者情報を添付して、正規ルートで販売された物と確認が取れた上で、担当特約店を通してようやく購入出来るんだ。もちろん、事後報告も必須だ。ピアノ専科では無理だと思うぜ」

 この想定外の話を、響はなかなか受け入れられなかった。やはり、嵌められたのだ。そして、ようやく梶山の狙いが見えた気がした。
 梶山は、宗佑がピアノ専科の下請けで修理することを、間違いなく知っている。近年再活動を始めた宗佑の噂を何処かで耳にし、好ましく思っていないのだろう。危機感なのか嫉妬なのか、若しくは過去の怨恨なのか……真意は分からないが、梶山の狙いは宗佑の破滅だ。
 響は、何も言い返せずに黙するしかなかった。自分の無知に対する苛立ち、老獪な梶山の策略への怒り、そして、現実的にどのように作業を進めるべきかという焦燥が入り混じり、闇の中に放り投げられた気分だ。全てのカードが梶山の手中にあり、彼の目論見通りの展開に踊らされていたのだ。

「因みに、メンテ以外の入札は営業の成績なんだ。会社には悪いが、正直なところ、競合に負けて個人的にはホッとした面もある。うちが落としてたら、成績は営業なのに実務はこっちに丸投げだからな、ここだけの話、馬鹿馬鹿しい仕事なんだ」
 梶山を出し抜いてやったという達成感は、最早コテンパンに打ち砕かれた。彼は、入札なんてどうでも良かったのだ。ただ、その機を利用して、罠を仕掛けたに過ぎない。部品の供給が不可能なことを知っており、どうもがき苦しむか見届けたいのだろう。見事に、彼の罠には嵌ってしまった。
「そうか、お前じゃないなら、学校か県の職員から漏れたのかもな。って言うか、それしか考えられん。草野楽器には、うちに喧嘩売る勇気なんてあるわけないしな。残念だが、まぁ、ピアノ専科さんがキッチリ直してくれるでしょ」
 皮肉混じりの歪んだ笑みを口元に浮かべながら、余裕の表情で梶山は言い捨てた。この「余裕」こそ、梶山の凄さかもしれない。余裕の裏には、自信がある。梶山の喜怒哀楽の全ては、その自信から出た演技に過ぎず、余裕を持って相手を観察しているのだ。
「来年度もさ、定期調律はうちに決まってるから、どんな修理するのかお手並み拝見だな」
 おそらく、フルコンの製造番号は把握しているはず。メーカーに伝え、パーツ供給にストップを掛けるのだろう。言葉の出ない響に嫌味な視線を投げ掛けた梶山は、「遅くまですまんな」と吐き捨てて、部屋を出た。

 公的機関の入札事業は、落札後にキャンセルは出来ない。もししようものなら、信用の低下に繋がるだけでなく、違約金や指定業者取消などのペナルティは避けられない。新学期が始まると、否応でもオーバーホールに着工し、七月上旬に納めないといけないのだ。それに、キャンセルさせることこそが、梶山の本当の狙いなのかもしれない。だからこそ、彼のシナリオ通りの展開だけは避けたい。
 その為にも、部品をどうするか……タイトな予定の中で、初歩的な段階で止まっているわけにはいかない。

(5)悲劇的な間奏曲

 その夜、響は専門学校時代の恩師や同級生に、片っ端から電話を掛けた。しかし、梶山の言う通り、KAYAMAのフルコンのパーツは簡単に供給されないようだ。榊へは、どう報告すべきだろうか……知らなかったで済まされる話ではない。ダメ元で宗佑に相談すると、「じゃあ、ランネルでやるか」と、全く意に介していないようだ。おそらく、事の重大さが分かっていないのだろう。
 ランネル社は、ドイツにあるピアノのアクションメーカーだ。クルツマンを始め、世界の名だたる名器の大半は、ランネルアクションを公式に採用している。材質と設計と精度に優れた、世界最高のアクションと評価されているのだ。
 因みに、世界中のピアノメーカーの中で、ピアノの全てを製造しているメーカーは、日本の二大メーカーを含め、僅か数社しかない事実はあまり知られていない。殆んどのメーカーではアクションは自作しておらず、専門メーカーに作らせているのだ。
 その中の一つ、ランネル社のアクションは、互換性に優れ製造の自由度も高く、どのメーカーの設計にも合わせて作ることが可能であり、それこそが一番のセールスポイントだ。また、材質と精度、信頼性の高さから、タッチや音質、そして保持力に高い評価を得ており、わざわざランネル製のアクションへの交換を望むユーザーもいるぐらいだ。
 ただ、一つだけ大きな欠点がある。それは、とても高価なこと。他メーカーのパーツと比べると倍程度、物によっては三倍以上も高い。KAYAMAの部品が入手出来ないからと言って、簡単にランネル社製へ切り替えられないのも、コスト面でネックになるからだ。
 しかし、今回は時間の猶予がない。おそらく、どれだけ手を尽くそうが純正パーツは手に入らないだろう。梶山がKAYAMAにピアノ情報を流し、供給を止めている可能性が高い。つまり、これ以上模索しても時間の無駄でしかない。

 こうなると、もう他に手段はない。事態の深刻さを全く分かっていない宗佑の意見に従うのは癪だか、最初から他に策がないのも事実なのだ。唯一の救いは、改めて原価を計算し直したところ、思っていた程の違いがなかったことだ。比較的安いと思っていたKAYAMAの純正パーツも、流石にフルコンとなると結構高額なのだ。通常のピアノなら三倍ぐらいの差があるランネルのパーツと比べても、フルコン用に限ると二倍弱しか変わらない。パーツよっては、ランネルの方が安いものもある。
 結果的には、部品代総額で十万円程度の損失に過ぎなかったのだ。しかも、フェルトやブッシングクロスなど、互換性の高い凡庸パーツは在庫として所有している。この程度なら、見積もりを変更せずに進められるだろう。
 響は、榊への報告も見送ることにした。変な勘繰りを生むリスクがある分、何も報告しない方が得策だと判断したのだ。それに、宗佑の話では、ランネルを使うと純正仕様よりもずっと良い仕上がりが期待出来るそうだ。概ね、宗佑のこういった直感は外れない。予算に変更なく、元よりも良くなるのであれば、何も問題はあるまい。
 しかし、響のその考えは根本的な間違いを含んでいた。

 予定通り、七月の上旬にKAYAMAのフルコンはオーバーホールを終え、湊南商業高校へ納品された。
 その二日前、響は自宅工房で、搬出ギリギリまでピアノを弾いていた。とても国産ピアノとは思えない、恐ろしく鳴り響く楽器が仕上がったのだ。宗佑が行ったオーバーホールの中でも、最高の出来栄えだろう。以前に実施したクルツマンさえ遥かに凌駕し、世界中のどこのコンサートホールに持っていっても驚かれるであろうピアノが完成した。
 ダイナミクスのレンジはとてつもなく広く、粉雪がシンシンと舞い降りる静寂に近いピアニッシモから、雷鳴が激しく轟くような力強いフォルテシモまで、奏者の意図通りに操ることが出来た。音色の変化も素晴らしく、ピアニストの感情を忠実に音へと変換してくれた。オーケストラを自在に操る指揮者になった気分だ。指と鍵盤が一体化したかのように意のままに操ることが出来、自分の声で歌うように音を紡ぐことが出来たのだ。

 篠原が行った納調も滞りなく終え、ピアノ専科は期日通りに県の事業を遂行し終えた。見た目も中身も蘇ったピアノは、教職員からの評判も良かった。
 試弾した美和は、音とタッチのセットアップからして、これは元夫の技術だと確信した。ピアノ専科という聞いたことのない会社が落札したと知った時は、美和は気が気でなかった。情報の漏洩による横取りだと悟り、それでも合法的な手順を踏んでいることに入札制度の限界を感じ、公的事業の矛盾に憤った。
 しかし、仕上がったピアノに触れてみて、漏洩元は響だろうと推測した。響とピアノ専科との関係は分からないが、間違いなくこのピアノを修復したのは宗佑だ。少なくとも、これはKAYAMAの音ではない。KAYAMAのタッチでもない。この音とタッチを創れる技術者は、宗佑しかいないのだ。そう断言出来るぐらい、美和の好みを熟知したかのような仕上がりになっていたのだ。

 予定通りの期日と予算で、想定を遥かに超えた仕上がりで遂行した事業……そこに、何の問題も発生する筈はないように見えた。しかし、その数週間後、別件で湊南商業高校を訪れた梶山により、内包されていたトラブルの種が穿り出されたのだ。
 興和楽器は、総合楽器店だ。当然ながら、管楽器も取り扱っている。むしろ、近年衰退しているピアノとは裏腹に、販売もリペアも順調な業績を上げいる管楽器事業は、興和楽器のメイン部門へと昇格しつつあった。
 夏休みに入ったばかりのある日、興和楽器の管楽器リペア技術者数名は、同校吹奏楽部の為に納めた備品管楽器の一斉メンテナンスの為来校していた。その中に、何故か梶山の姿もあった。折角なので、音楽室と音楽準備室のピアノをチェックするという名目で、強引に着いて来たのだ。
 しかし、梶山には別の目的があった。体育館のフルコンを見たかったのだ。梶山は、荻村教諭を上手く説得し、フルコンを見せて貰うことに成功した。
 ピアノ専科の修復したフルコンは、梶山の目にも完璧に映った。音もタッチも想像を絶するような仕上がりで、粗探ししようにも、細部にまで手の込んだ作業が丁寧に施されており、平静を装いつつも、宗佑の実力に驚愕するしかなかった。
「これは、見事な仕上がりですねぇ」
 梶山は、荻村に話し掛けた。実は、梶山は目の前の荻村美和が、宗佑の元妻であることを知っていたのだ。しかし、宗佑と美和は、今回の事業で互いに接点を持ったことに気付いていないだろう。つまり、宗佑は、美和の職場のピアノだと知らずに修理したに違いないし、美和も宗佑が修理したことは知るまい。
「そうですね、個人的にはとても気に入っています」
 そりゃそうだろうな……梶山は、今でも宗佑の技術力そのものは認めていた。誰が何と言おうが、個人的にどのような感情を抱こうが、このピアノの仕上がりは文句の付けようがない。技術者なら、そこは認めざるを得ないのだ。

「しかし……これって、良いのですかね? もう、KAYAMAのピアノとは言えないでしょ? KAYAMAのオーバーホールなのに、別のピアノを作ったようなものじゃないでしょうか?」
 梶山は、宗佑が完成度の高い仕事をすることぐらいは、想定していた。なので、最初から、ターゲットは別に定めていたのだ。
「私には分かりませんが……何か問題なのでしょうか?」
「どうなんだろう? このピアノは、もうKAYAMAじゃない。寄贈者は、別のピアノに作り変えられたことをどう思うのかな? ってちょっと心配になったのです。だって、明らかに部品からしてKAYAMAのパーツじゃないですからね……トヨタの車を修理するのに、規格が合うからって別のメーカーの部品使ったらダメでしょ?」
「すみません、何とも言えませんが……弾きやすくてとても素敵な仕上がりで、個人的には気に入っています」
「まぁ、それならいいのでしょうけど……すみません、変な話しちゃいまして。仰る通り、このピアノはとても良い仕上がりですよ。それに、ピアノ専科さんの仕事にイチャモンを付けるつもりは全くありません」
 梶山は、最後にはそう伝えて、その場は引き退った。しかし、これはまだ計画の導入部でしかなかったのだ。

(6)悲劇的な狂詩曲

 湊南商業高校を後にした梶山は、その足で県庁に出向いた。懇意にしている出納局長に、面会のアポを取っていたのだ。
 基本的に、県立の学校や公的機関に楽器を販売する場合、 指定販売業者による公開入札(一般競争入札)で販売業者を決定する。調律などの技術サービスも、物品扱いとなる。興和楽器も、この入札制度は度々利用している為、技術主任の梶山は必然的に出納局管理課へ足を運ぶことも多く、現在の竹原局長とも癒着スレスレの懇意な仲になっていたのだ。
 応接室に案内された梶山は、「(へつら)い」に近似した薄っぺらい笑みを浮かべ、横柄に腹を突き出して座る竹原にテイラーメイドのパターを手渡した。
「いやいや、ダメだよ梶山君。金品の受取は禁じられてるんだよ」
 ハナから突き返すつもりのない竹原は、建前だけの拒否を稚拙に演じた。
「竹原さん、何を仰ってるんですか? 友人としての手土産ですよ。聞いてくださいよ。私ね、先週のコンペで生まれて初めてニヤピン取ったんですよ。なのに、これテイラーメイドですからね。私、仕事柄 KAYAMA SPORT のクラブしか使わないんです。さて、どうしたものかと……その時、竹原さんのことを思い出しましてね、確か、テイラーメイドを愛用されてたなって……」
 この日の為、予めゴルフショップで購入しておいたパターだが、梶山は見え見えの嘘を並べ立て、強引に受け取らせた。もっとも竹原とて、言動とは裏腹に最初から受け取るつもりなのだが、苦笑を浮かべながら渋々受け取る演技は抜かりがない。まさに、狐と狸の化かし合いだ。
「いやぁ、それなら有難く頂戴しておくよ。友人としてね」
「えぇ、是非お納め下さい。これでスコアが伸びたら、少しは私のこと思い出して下さいよ」
「ハッハッハッ、そうだな、逆にパッティングが狂ったら梶山君を恨むよ」
「またまた、ご冗談を! 芝目を読む達人の竹原さんが、このテイラーメイドでパッティングを乱すわけないじゃないですか!」
 心にも無いお世辞をスラスラと並び立てる梶山は、おそらくセールスの世界でもトップになれただろう。

「さてさて、何か話があるんだろ?」
 竹原のギラついた目付きは、特権意識を振り(かざ)せる場面でのみ、大物気取りの振舞いと相まって強調される。梶山は、そんな竹原に媚び、機嫌を取り、頭を下げる。しかし、その対象は竹原という「人間(ヽヽ)」ではない。権利を行使出来る「立場(ヽヽ)」に平伏すだけだ。生憎、当の竹原は盲目で、自己評価に大きな勘違いを育むことになるのだが、そのことに一生気付くことはないだろう。官僚社会の縮図は、こんな所にも存在するのだ。
「実は、湊南商業高校のピアノの修理ですけどね、ちょっと問題じゃないのかな? と心配になって……」
 すると、どうせ入札の便宜を図りたいのだろうと予想していた竹原は、意外な話に眉を(ひそ)めた。
「あぁ、あれか、アンタの所が落とすと思ってたよ。で、心配ってどういうことだ?」
「確か、あのピアノは、県会議員の芦田先生の奥様が寄贈されたんですよね?」
「らしいな。奥様が大昔のあそこの卒業生で、何年か前に寄贈したそうだ。それがどうした? オーバーホールに不具合でもあるのか?」
「いえ、先程見て来ましたが、とても良い仕上がりでした。ただ、明らかにKAYAMAの純正ではないパーツを多用してまして……あれだとKAYAMAのピアノじゃないですよ」
 純正パーツという、本の少しの初歩的な専門用語を使っただけで、竹原の理解は置き去りにされた。要は、興味がないのだろう。怪訝な表情を露骨に浮かべ、不機嫌に聞き返した。
「待て待て、分かり易く話してくれ」
「あまり良い例えじゃないですが、自分の子どもが瀕死の病に冒され、長期間入院したとしますね。で、無事に退院しました。でも、戻って来た子は見た目は間違いなく我が子でも、性格も癖も思考も中身は全て違う人間になってたら、元通りに治ったと言えるでしょうか?」
「いや、それは困りものだな」
「あのKAYAMAも、見た目はKAYAMAのままですが、音やタッチは全く別のピアノに作り変えられています。善し悪しの問題じゃなく……もし、芦田先生の奥様がご覧になれば、とても残念がるのでは? と思ったもので、予め竹原さんには知っておいて頂いた方が……と思いまして」
 自身の立場に、少しでも影響が出る恐れのある話になると、竹原は真剣に耳を傾ける。一旦通電した回路は処理能力も早く、伊達にこの地位に登りつめたわけではないことを証明する。瞬時に竹原は、我が身に降り掛かるかもしれない、微かな危険を察知したようだ。

「しかし、どうしてそんなことになっとるんだ?」
 ピアノ専科は、何故純正パーツを使わなかったのか? これは、竹原にとってはもっともな疑問だろう。
「ピアノ専科さんはKAYAMAの特約店ではないので、純正パーツが手に入らないのですよ。だから、最初からこうするつもりだったのではないでしょうか?」
「つまり、騙すつもりだと?」
「いやいや、そのぉ、なんと言えばいいのか……オーバーホールの解釈の問題ですね。元の状態に戻すのか、別の物を作り直すのか……新品同様のコンディションに蘇らせるにしても、考え方は様々です。ピアノ専科さんは、オリジナリティを無視した修復を行い、KAYAMAの本体で別のピアノに作り変えたのです」
 竹原は、考え込むように腕を組み、黙り込んだ。ピアノや学校、梶山や興和楽器のことはどうでもいい。竹原の関心は、我が身の保身と芦田議員の機嫌を損ねないことだけに集約されている。県議会のドンと呼ばれ、知事ですら顔色を伺う芦田が、果たしてこの結果をどう思うだろうか?
 ……芦田の妻が寄贈したピアノだ。彼女が使用していた当時の状態に修復し、この先何年も使用されることこそ彼女の望みであり、芦田の希望に違いない。

「梶山君、もう一度確認するが、あのピアノは元のKAYAMAとは別物になったんだね?」
 そう問われた梶山は、ここぞとばかりに竹原の目を見据え、はっきりと断言した。
「えぇ、姿形は変わっていませんが、中身は全くの別物です」
「他に問題はあるか?」
 梶山は、ここでとっておきの切り札を投入することにした。
「これは、問題なのかどうか……今回の修理は、松本というフリーランスの調律師が実施しました」
「ピアノ専科じゃないのか?」
「まぁ、松本はピアノ専科の下請けですので、そこは問題ないと思います。うちが請けていても、実際の実施は外注の予定でした。ただ、この松本の別れた奥さんが、湊南商業高校の荻村教諭なのです。音楽専科の先生で、そもそもオーバーホールの話自体、元は荻村の要望でして……」
「ほぉ……、なるほどな、それは興味深い話だ。何らかの裏取引きがあったってことか?」
「それは分かりません。離婚した二人が現在どのような関係なのかも、私は全く存じ上げておりません。ただ……ピアノ専科さんが、今回の入札を知っていたことはずっと不思議に思っていましたし、予算もピンポイントで合わせてきました。偶然にしては、出来過ぎだと思います」
 竹原は、ドス黒い瞳を梶山に向け、大きく頷くような仕草を見せた。感謝を示したつもりだろう。実際は、梶山の話なんて大して興味はない。しかし、自己保身と芦田議員への御機嫌取りのネタとしては、申し分ない話だ。
 何より、加虐的行為を楽しむ為のターゲットも出来た。権力は、振り翳してこそ意味があると本気で信じ込む竹原にとって、真っ当な理由で民間業者を追い込むことは、何よりの楽しみでもあった。
「OK、後は任せろ。梶山君、今日はご苦労だったな。とても有意義な話が聞けたよ。また今度ラウンド周ろうじゃないか」
 竹原の言葉と表情から、梶山は計画の成功を実感した。これで、今度こそアイツを潰せる……

 調律師にとっての最大のステータスの一つは、ピアニストやレスナーの顧客の数で測られる。より多くの専門家に信頼されてこそ、一流の証と言えるのだ。
 また、専門家に限らない絶対的な顧客数も、大切なファクターの一つだ。だからこそ、他人の顧客が、自分に乗り替えてくれること程嬉しいものはない。同時に、その逆は最も屈辱的で傷付く出来事になる。自分が否定されたかのような絶望と敗北感に打ちのめされる上、実務的な影響も大きく、成績悪化に直結するからだ。

 何年も前の忘れ難い出来事が、梶山の脳裏を過ぎった。当時、若手から中堅へと差し掛かろうとしていた梶山は、沢山の先輩調律師を差し置いて、興和楽器のエース格として確固たる地位を築き、トップ調律師にのし上がっていた。
 しかし、興和楽器が同エリアにあった愛楽堂を買収すると、事態は一変した。愛楽堂のトップに君臨していた無口で無愛想な男、松本宗佑と同僚になったのだ。最初は、営業成績も大したことはなく、接客態度もぶっきらぼうな歳上の宗佑のことを、梶山は完全に見下しており、まさか自身の地位を脅かすような存在とは見做しておらず、無警戒だった。
 だが、彼には誰にも太刀打ち出来ない突出した技術があることを、直ぐに思い知らされることとなった。ピアノの構造や材質を熟知し、瞬時にポテンシャルを見抜き、音やタッチを変幻自在に操ることが出来たのだ。
 梶山に限らず、元々興和楽器に居た技術者一同は、皆魔法にかけられたかのように宗佑の技術に魅入ってしまった。高い次元のシビアな要求を突き付けるピアニストも、宗佑に任せると万事上手くいった。やがて、コンサートや発表会の調律の殆んどは、宗佑が担うようになった。ピアニストやレスナーは、宗佑のセットアップに心底満足したのだ。
 ついには、梶山が担当していたレスナーまでが、(こぞ)って宗佑を指名するようになった。梶山にとって、自らの調律師人生で最も屈辱的な出来事だ。発表会やコンサートでの宗佑の仕事を見聞きした専門家は、皆宗佑の技術を求め、宗佑による保守管理を希望した。あらゆる接客スキルを巧みに扱い、何とか繋ぎとめていた梶山の上顧客が、後からやってきた宗佑の技術に呆気なく(なび)いたのだ。
 少しずつ、懸命に積み上げてきた地位が、プライドと共に一気に崩れ落ちた。技術以外、宗佑に劣るモノは何もない自負がある。だが、調律師にとって、技術は一番の土台なのだ。梶山の地位は、所詮は軟弱な土台に積み上げられた建造物だったのだ。ちょっとした衝撃で、脆く崩れてしまった。
 やがて、屈辱の裏にある嫉妬が憎悪に代わり、復讐を模索し始めた。そう、梶山にとって、宗佑は今尚恨むべき存在であり、業界からの抹殺を望んでいた。

「ありがとうございます。是非、お供させて下さい。竹原さんのパッティングは勉強になりますから!」
 梶山は、苦々しい過去の記憶とそこから渦巻く負の感情を全て抑え込み、意識しなくても出来るようになった最上級の笑みを浮かべ、竹原にそう言った。しかも、パターを貢いだことを竹原に思い出させる為、さり気なくパッティングの話を持ち出すことも忘れていない。この辺りの人心掌握術こそ、梶山の最も得意とするスキルであり、その表情や立居振舞いと共に、全く抜かりがない。

 県庁を出たその足で、梶山は湊南商業高校へトンボ返りし、荻村教諭と面会した。入札で元旦那に便宜を図った疑惑が問題視されており、客観的事実から異議申し立ては困難な状態になってると告げた。ヒステリックに猛否定する荻村に対し、それでも状況証拠からして最早覆すのは不可能で、間違いなく職を失うことになるだろうと脅した。
 現実を受け止められず、ただ愕然とする荻村に、助かる方法が一つだけあることを伝えた。
「助かる方法ですか……お願いします。教えてください。私は、何をすればよろしいのですか?」
「いやぁ、簡単なことですよ。荻村先生が、この修理のクレームを出すことです。これはKAYAMAじゃない、他社メーカーの部品を使ってるのではないか? と、ピアノ専科や県に強く抗議すればいいのです。いいですか? 強い抗議ですよ?」
「そんな……無理です、私には出来ない……」
「嫌ならやらなければいい。貴女、あと数年で定年でしょ? なのに、今更懲戒解雇か。解雇だけで済まないと思うけどな。どっちにしても勿体ない話だ。クレーム出すだけで疑惑は晴れるのに。まぁ、どうしたところで、既に芦田議員はカンカンに怒ってますからね。オーバーホールのやり直しはほぼ決まり。貴女は共犯なのか、全くの潔白なのか——ご自分で決められるチャンスなのに。よく考えな。と言っても、もう時間はない。今日明日中には動かないと、手遅れになりますからね」
 梶山は鋭い視線を浴びせながらも、最後は不敵な笑みを浮かべ、宗佑の元妻に冷淡に言い放った。そして、茫然と途方に暮れる美和を残し、湊南商業高校を後にした。

(7)悲劇的な奇想曲

 社会人七年目のお盆休暇を終えた響は、茹だるような残暑の中、梶山と学校調律へ伺うことになった。岩成中学校……入社一年目の夏、木村の解雇により、社会人として初めての外回り調律を実施した学校だ。以来、毎年八月に梶山と担当するようになっていた。
 ここに来ると、いつも一年目の記憶が蘇る。その日の体験は、響の調律師人生に於いて最も印象的な痕跡を残した。思い描いていた理想の技術者像から乖離した、現実的な調律師の在り方を思い知らされたのだ。そこに生まれた大きなギャップは、社会人一年目の響には容易に塞ぐことの出来ない大きな深い穴となり、調律師人生の行く手に制限を設けた。通りたい道を歩きたいスピードで進めなくなり、否応なくルートを決められたようなものだ。

 あの日対峙した体育館のピアノは、新人の響から見ても酷いコンディションだった。しかし、修理や調整は最低限に抑えるようにと命じられた。調律師の根本的な存在意義である筈の、ピアノの秘めたポテンシャルを取り戻す作業なんて、ここでは必要としなかったのだ。それよりも、少しでも外装を綺麗にする方が重要だった。
 また、調律師として懸命に作業するのではなく、そう見えるようにアピールすることが大切だった。その為、スーツの上着を脱ぎ、ネクタイを外して作業をするように命じられた。
 梶山から、ピアノ業界の様々な話を聞いたのもその日だ。嘱託調律師と正社員の違い、それぞれのメリットとデメリットを聞き、どちらも何かを犠牲にしないと存在出来ないことを悟った。いや、犠牲の上だからこそ、存在出来ると言うべきだろうか。だが、響は、後ろ向きな意味でどちらも目標に設定出来ず、理想的な調律師の在り方を模索するようになったのだ。
 あれから七年……結局何も答えは見つからず、興和楽器の社員として、梶山の望むような作業スキルを身に付けつつあり、成りたくなかった正社員調律師の道を着実に歩んでいる。一方で、ピアノ専科のスタッフとして詐欺紛いの業務に携わり、これまた成りたくなかった嘱託調律師の一面も育んでいる。
 そして、自宅工房で宗佑に学びながら、本格的な修理にも手を出していた。技術的な理想の追求は、時間も予算も度外視して初めて成立する。平たく言えば、儲からない仕事だ。
 社員、嘱託、フリーランス……響はどのスタンスにも絞り切れず、全てが中途半端なまま、宙ぶらりんの状態で身動き出来なくなっていた。その理由も分かっている。どこか一つに絞ると極端な偏りが生じ、生活も収入も哲学も理想も、全てのバランスが崩れるのだ。即ち、調律師としてのアイデンティティが崩壊することを、本能的に察知していた。
 向かうべき方向が見つからず、今を拒絶し、過去を憎む。なのに、変化を恐れ、未来を志向せずズルズルと継続する……一般的な調律師なんて、こんなものだろうか? それとも、いつかの榊が言っていた通り、この国には思い描いた調律師の仕事そのものが存在しないのだろうか?
 これまた、答が見つからないままだ。

 岩成中学校の駐車場には、指定時間より早めに着いたのだが、既に梶山のステーションワゴンが駐まっていた。来客用スペースは限られている為、梶山の車のすぐ隣に駐車した響は、ステーションワゴンの助手席に知らない男性が座っていることに気付いた。まだ少年と言っても通用するような、二十歳前後の若者だ。窓越しに響を見ながら、満面の笑みで頭を下げている。見るからに明るそうな性格が、その表情から溢れている。同性から見ても、爽やかな好青年のように映る。
 響が車から降りるのを待って、その男性は助手席のドアを開けた。並んで停めた車両の間隔からして、同時に開けるとドアがぶつかるからだろう。
 響が男に話し掛けるより早く、梶山が珍しく挨拶してきた。
「おぉ、松本、お疲れさん。彼は九月から技術部で採用する新人だ。と言っても書類上の話で、今日から社員の外回りに帯同してもらうことになった。杉山龍樹君だ。杉山君、彼が松本響君だ」
「今日からお世話になります、杉山龍樹と申します。よろしくお願いします」
 呆気に取られる響を余所目に、二人は一方的に紹介を押し付けてきた。響の入社以降、新人調律師の採用はなかった興和楽器だが、この時期に突然中途採用をしたことには理由があるはずだ。しかも、いきなり外回りに帯同するとのこと。仕事量が減っており、嘱託を減らし、ギリギリのラインで実施台数をキープしている興和楽器にとって、新たな外回り要員が必要だとは思えない。
「松本、今日はお前がここを仕切ってくれ。杉山君は見学だけでもいいし、体育館ならやらせてもいい。学校調律の手順とかマナーを教えてあげるんだ。俺は、別の現場があるから、終わったら杉山君を本社まで送ってくれ。いいな?」
 いいな? も何も、有無を言わせぬ命令だ。従う意外の選択肢などない。
「すみません、彼……杉山君は、外回り経験者でしょうか?」
 最低限の質問だけ訊ねてみた。見学させるにせよ、一台任せるにせよ、彼の技量は知っておかないと責任は持てない。
「杉山君は、三月に調律学校を卒業したばかりだ。でも、成績は良かったのに、不景気のせいで就職が決まらず、専門学校に残って手伝いをしていたそうだ。一応、少しは外回り調律もやっていた。そうだろ?」
 最後の問い掛けは、杉山に向けたものだ。機転の利く彼は、淀みなく梶山の説明を引き継いだ。
「はい、専門学校傘下の楠田楽器に籍を頂き、外回りをやらせて頂いておりました。ただ、連休明けからなのでほんの三ヶ月ぐらいの経験ですし、月に二十台弱ぐらいでしたのでまだまだ未熟者ですが、こちらで学ばせて頂ければと思います」
 新卒一年目とは思えない丁寧な口調と堂々とした振舞い、そして爽やかな笑みは、技術者よりも営業に向いているキャラクタだ。響は、杉山に多少の好感は持ったものの、どこか軽薄過ぎる雰囲気と嫌味が無さ過ぎる言動に、本能的に信用出来ない人物という警戒心も抱いた。言葉や見た目と裏腹に、心が全くない印象だ。

 梶山と別れた響は、杉山を従えて先ずは音楽室の調律を始めた。この学校には毎年来ているが、体育館以外のピアノを触るのは初めてだ。音楽室のピアノは、流石に梶山が長年担当していただけのことはあり、タッチやピッチの狂いも少なく、ハードに使われている割には良いコンディションが保たれていた。個人的な感情はともかく、梶山が現場作業限定とは言え、優れた技術者であることは認めざるを得ない。
 杉山には、作業を見学させた。本意ではない梶山流の作法を教えながら、興和楽器の仕事と割り切った手順を実演した。しかし、杉山は興味も関心も無さそうだ。梶山が居なくなった開放感なのか、不遜とも思える態度で説明をろくに聞かず、響の工具鞄を勝手にチェックしている。
 響もまた、杉山に関心などない。上から命じられた仕事と割り切り、教えることは拒まないが、そこから彼が学ぶか否かまでは関与する気はない。

「すみません、ちょっとよろしいでしょうか?」
 調律をしている響に、突然杉山が話し掛けてきた。相変わらず、響の工具カバンを勝手に覗き込んでいる。
「いいけど、何?」
 無関心な態度を隠す気はない。実際、彼が何に興味を持ち、疑問を抱こうが、響には関心がなかった。
「これって、チョークですよね? 何に使うのですか?」
 瞬間接着剤の筒型のケースに、響はチョークを入れて持ち歩いている。杉山は、響の工具カバンを見ているだけでなく、中の工具を勝手に手にしてチェックしていたのだ。あまりにも厚かましく、非常識な行動と言えよう。
「お前さ、人のカバンの中を勝手に触るんじゃねぇよ。梶山さんにやったら殺されるぞ」
 軽く叱言を言ったところで、杉山は悪びれる様子もない。どうやら、モラルや罪悪感の一部が欠落している人種のようだ。
「すみません。つい目に付きましたので……それで、チョークは何に使うのですか?」
 全く反省の色が窺えない口先だけの謝罪は、すぐ後に続く質問を再送する為に仕方なく口にしただけだろう。つまり、謝意も反省も説得力も何もない。
「ハンマーとか鍵盤にマークするだけだ。調律中に不具合を見つけたり、何か気になって後でチェックしたい時に、どの音か忘れないようにな」
「あぁ、そうなんですね。てっきり滑石が何かに効くのかな? って思いました」
「それなら、専用のテフロン粉末が市販されてるよ。俺は使わないけど。ちなみに、チョークは滑石じゃなくて炭酸カルシウムと石膏だ。潤滑化には向いていない。弦楽器のペグに使う人はいるけど、ピアノに使い道はないよ。でも、マーキング用に持ってると便利だぞ」
 これらの知識は、全て宗佑からの受け売りだ。後輩相手に偉そうなことを言いつつも、響自身、滑石と石膏の違いなんて分からない。
「そうなんですね……あのぉ、黒板にあるチョーク、一本ぐらい失敬してもバレないっすよね?」
「アホか! お前、何考えてんだ? バレるとかの問題じゃないだろ! チョーク一本でも盗みはダメだ! 馬鹿なこと考えるな!」
 杉山は、響がそれ程激怒するとは予想していなかったのか、慌てふためくような大袈裟な手振りで誤魔化そうとした。
「そんな、冗談ですよ! すみません、そんなことしません」
「冗談にしたら趣味が悪過ぎるよ。調律師はな、一般家庭に数時間も上がり込む仕事だろ? 物を盗るどころか、物を傷付けたり落としたりしただけで信用を無くすんだ。盗るなんて言語道断だ!」
 そう言いつつも、響は杉山の人間性の一部を垣間見た気がした。おそらく、コイツは……所謂手グセが悪い人種だろう。確信に近い感覚で、そう評価した。
 きっと彼は、響の目を盗んでチョークを盗る筈だ。価値に魅入るのではなく、小さな興味と衝動を抑えられないだけ……物欲ではなく、好奇心と衝動による行為だろう。もっと言えば、単に盗りたいだけなのだ。性癖と同じで、これは容易には治らないだろう。
 こういう人間を外回りに出すと、いつか必ず問題を起こす。もっとも、その頃には、響はもう興和楽器に勤めていないかもしれないのだが。

(8)悲劇的な受難曲

 夕方、本社まで杉山を送る道中、榊からメールが届いた。何時でもいい、出来るだけ早く事務所に来いと……
 さて、何の用事だろうか? 
 ……訝しげに想像してみるも、思い当たる節はない。湊南商業高校のフルコンは先月無事に納品し、納調も済ませている。その他の仕事も、特に懸念される案件は思いつかない。嫌な予感を感じつつも、緊急性のある呼出しに相当するトラブルは思い付かないが、終業後にピアノ専科の事務所で榊と会うことになった。

 夜、響は予定時刻ピッタリに事務所に着いた。すると、長年の付き合いの中でも未だ見たことのない、過去最高に険しい表情を浮かべた榊が待っていた。そして、イントロもなくいきなりサビから始まる歌のように、何の前触れもなく本題に入った。激しいマイナー調の曲だ。
「例のフルコン、厳しいクレームが来た。やり直しか返金の二択だ」
 感情を排除した簡素な言葉遣いが、一層怒りを引き立たすように感じた。その為か、直ぐには榊の言葉が理解出来なかった。クレーム……クレーム……何故? あのフルコンが?
 ……宗佑の最高傑作とも言える出来栄えだ。音もタッチも元のポテンシャルを遥かに飛び越え、名器クルツマンさえ凌駕するピアノに仕上がった。なのに、何故クレームが?
「すみません、クレームってどういう内容ですか?」
 何気ない疑問を口走った響を、榊は殺意でもあるかのように睨み付け、ギリギリの平静を保ちながら詰問調で語り始めた。
「お前さ、KAYAMAの部品を使わなかっただろ? そんな大事なこと、何故俺に言わないんだ?」
「すみません。フルコンの純正部品は入手出来ないので、ランネルでやりました。でも、仕上がりはずっと良くなるので、問題ないと思っていました」
 ついに、榊は怒りを爆発させた。
「コノヤロ、何てことしやがったんだ! 良くなったから問題ないだと? 一般家庭じゃねぇんだ! 公的機関だろ! 元通りに修復する方が大事だ! 良くしたいなんて感情はな、単なる調律師のエゴだ。こんなピアノはな、純正部品で元通りに戻せばいいんだ。それを勝手に無断で……バカヤロ、お前のやったことは、修理を装った改造じゃないか! 人様のピアノを無許可で改造して問題ないだと? 良くなったから良い? 思い上がるんじゃねぇよ! なに能天気なこと言ってんだ! どう責任取るつもりだ?」
 榊の怒号に気圧され、蚊の鳴くような声で「すみません」と謝罪の言葉を口にしつつも、響にはどうしても理解出来なかった。元のピアノよりずっと良くなったというのに、違うパーツを使うことがそんなに問題になるとは思わなかった。
 それに、完成度を追求することは、調律師のエゴでしかないのだろうか? 純正パーツさえ使えば、仕上がりはどうでもよかったのだろうか?

「謝罪なんか要らん。どうするつもりだ? って聞いてるんだ。返金かやり直しの二択しかない。寄贈者の旦那が県会議員の大物だ。弁明する機会も猶予もない。もう決まったんだ。あとな、どっちにしても契約不履行のペナルティで、向こう五年間、県の指定業者登録から外されることになった。おそらく、県内全ての市町村も右へ倣えだ。これでもう、公的機関への入札は出来なくなったんだ。販売も調律もな。評判悪化による被害も考えたらとんでもない損害だぞ」
「申し訳ございません……」
 ようやく事の重大さに気付き始めた響だが、だからこそ謝る以外に成す術がないことも思い知った。謝罪は要らないと言われても、今、他に出来ることはない。
「やり直しは……純正パーツが入手出来ないので……返金させて頂きます」
「あのさ、金返せば済むとでも思ってるのか? もちろん、金は返して貰うけどな、うちの損失はどうするんだ? お前が持ち込んだ仕事に協力してやったんだろ? 尻拭いはテメェでやれよ!」
「入札に掛かった経費はもちろん、ピアノ専科が被った損害も全て賠償させて頂きたいと思います。本当に申し訳ございません。お手数ですが、総額を算出して頂けますでしょうか?」
「バカが綺麗事言うんじゃねぇよ。ザッと二千万だ。お前に払えるわけねぇだろ。入札額に関してはな、既に県に返金した。興和楽器が再修理することになった。フンッ、結局な、梶山に嵌められたんだよ。悔しいだろうが、お前の負けだ」
 梶山に嵌められた……響の頭の中で、何度もそのフレーズがリフレインする。そして、ようやく点が線で繋がった。
 純正パーツが入手出来ないことを知っていた上でピアノ専科に落札させ、不法改造してあることを大袈裟に県へ密告し、再修理を独占する。興和が儲かるだけでなく、ピアノ専科を……いや、松本親子を陥れることも計算に入れた、梶山にしてみれば一石二鳥の計画だったのだ。悔しいが、全く見抜けなかった。

「お前さ、直ぐに興和辞めてうちで働け。賠償は給料から天引き、金利も最低限で勘弁してやる。うちで懸命に稼げば、十数年で支払える額だ。って言うかさ、他に方法あるか?」
 考えるまでもない。宝クジでも当たらない限り、他に術はない。「アキさんの部下(ヽヽ)」ではなく、「榊の奴隷(ヽヽ)」として、ピアノ専科に骨を埋めるしかないだろう。
「有り難いご提案に感謝致します。出来るだけ早く、興和楽器を退社します」
 おそらく、響の潜在的な能力を買っていた榊にとっても、この件は渡りに船だろう。ついに響を、奴隷として手に入れたのだ。


 
 憤懣、憎悪、反省、無念、屈辱、嫌悪、後悔……様々なネガティヴな感情が潮の満ち引きのように現れては立ち消える。次の瞬間には、複雑に統合や分裂を繰り返し、最終的には「絶望」と形容すべき感情が形成された。そう、絶望的だ。精神的に大きなダメージを受け、まさに絶望のどん底を彷徨うままに帰宅した響は、いつになくハイテンションな宗佑に出迎えられた。
 殆んど酒を飲まない宗佑だが、この夜は明らかに酔っていた。思い返してみると、酒に酔う父を見た記憶がない。ほんの微量のアルコールは口にしても、呑んだくれることはない。人付き合いも少なく、外で飲む機会もない。しかし、この夜はまとまった量を消費したようだ。摂取されたアルコールは、寡黙で内向的な宗佑の抑制を取っ払い、剥き出しの本能を解放したかのようだ。

「おぉ、響様のお帰りかー」
 機嫌が良いのか悪いのか定かでない酔っ払った宗佑が、間違いなく機嫌が悪い響に話し掛けた。まともに相手にするのも馬鹿げてる上、会話が成立出来るのかも疑わしい状態だが、どうしても宗佑に話しておかないといけないことがある。
「ねぇ、お父さん、酔っ払ってるの? 話出来る? 大事な話があるんだけど」
「なーに言ってんだぁ? ちょっと飲んだけど、ホントちょっとだけだぁって! 酔ってねぇよ!」
 呂律の回らない口調と座った目付きで、そう主張してくる実父を、響は心から憐れに思った。本当に何の取り柄もないくだらない男だ。人生の終盤に差し掛かっているのに、彼は何を成し遂げたのだろう? 幸せな人生だったのだろうか? 
 趣味も生き甲斐もない、そして唯一の才能であるピアノ技術の仕事も上手く立ち回れず、嫁に捨てられ、体力も技術力も持て余したまま、短くもない余生をどう過ごすつもりなのだろうか?

「あのさ……七月に納めたフルコン、クレームが出たんだ。全額返金しないといけなくなった」
「あぁ、アレか。ハハ、ダメなんだってなー、しゃーないな。お母さんにダメ出しされちゃったよぉ、ハハハ……」
 宗佑の口から思いもよらないセリフが飛び出し、響は驚き戸惑った。美和の学校のピアノだと知っていたとは……しかし、何故だ? 宗佑には知り得る筈がない。
「お父さん、知ってたんだ……でも、違うよ。篠原さんがお母さんと話したけど、お父さんが修理したこと知らないはずだし、凄く気に入ってたってよ! ダメ出しするはずないって!」
 急にシラフに戻ったような真顔で、宗佑は返答した。
「いいさ、気を遣わなくて。実際にクレームが来たんだし。それに……アレだってな、お母さん、何年も前に再婚してたんだってな」
 いつからか、何もかもを知ってしまっている宗佑に、響は適切な対処を見失い黙してしまった。見兼ねた宗佑は、更に言葉を被せてきた。

「今日な、いきなり梶山が来やがってよ、今度フルコンのオーバーホールやるんですよ、だって。なーにを偉そうに、出来もしねぇくせに。でも、余所で直したばっかのピアノだっちゅうからさ、よく聞いてみたら、あのフルコンじゃねぇかよハハハッ、笑っちゃうね。音楽の先生が文句言っとるって。どんな先生だ って聞いたらさ……フフッ、湊南商業高校の荻村美和(ヽヽヽヽ)先生がイチャモン付けたんだよ。こんなのKAYAMAじゃねぇって。でさ、梶山に診断させて部品が純正じゃないってなって、それを知った寄贈者が激怒して、その旦那が県会議員の大物で……それで、あっという間に大問題になったってわけ。めでたしめでたし、って話」
 宗佑の話を聞きながら、響は梶山に対する憎悪が破裂寸前まで膨れ上がった。殺意にも近い感情が沸き起こり、爆発しそうだ。梶山は、ここまで計画していたのだ。
「梶山の言ったことなんか、気にすることないよ。アイツ、技術も話術も、全て嘘で塗り固めてるんだ。俺もこれ以上アイツの下で働きたくないから、興和楽器辞めることにしたよ。榊さんが好条件で雇ってくれるって。それに、榊さんには迷惑かけちゃったし、もう県に返金もしてくれたんだ。返さないといけない。だから、俺、ピアノ専科で頑張るからさ、お父さんもこれからもバックアップしてよ」
 宗佑は、力なく微笑んだ。まだ酔ってるのか既に覚めたのか、全く分からない。いつもとは違うことだけは明らかだ。そして、優しく笑みを浮かべながら、ボソッと呟いた。
「俺なんか、何の役にも立たねぇよ。それに、響はもう一人前だ」

 そんなことない!
 まだまだお父さんの力を借りたい!
 もっと技術を学びたい!

 ……そう叫びたいのに、響は何故か言葉を飲み込んでしまった。落胆なのか達観なのか、或いは失望とも激励とも取れる宗佑の言動に、否定も肯定も出来なくなったのだ。
 飲み込まれた無形の単語群は、未形成のまま生まれた感情と共に吐き出すことが出来ず、噛みしめることも消化することもなく、ずっとずっと何時までも引っ掛かったまま取り出せないでいた。

(9)悲劇的な終曲

 翌朝六時。技術会議の為、普段より早く出社しないといけない響は、いつもより早く起床した。しかし、いつも以上に身体が重く、気分も優れない。もう、何もしたくない。そのまま一日中眠って過ごしたいぐらいだ。
 不定期的に行われる技術会議が有意義だったことは、一度もない。しかも、今回のメインの議題は、杉山の紹介だと分かり切っている。前日に既に顔合わせを済まし、一緒に現場仕事をこなした響にとって、今日ほど無駄な会議はない。それでも、辛うじて残っているモチベーションを搾り出し、鈍い動きながらも出社の準備を始めたのは、辞表を出すにはうってつけのタイミングだと思ったからだ。
 そう、今日いきなり辞めるつもりだ。会社にとっても夏季休暇明け直後なので、実務的な影響も最小限に済む筈。それに、今日以降に組んであるアポもまだ数件しかなく、全て杉山に回せば済むだろう。
 そもそも、今この時期に杉山を雇った理由も、近々響を切るつもりだったからに違いない。梶山にとって、何かと楯突く響は、宗佑の血が流れていなくても目障りな存在だっただろう。つまり、会社にとっても響の退社は好都合な筈だ。

 それにしても、家中がやけに静かな気がした。宗佑は、まだ起きている気配がない。もっとも、何時もより三十分以上も早い朝だ。静かに感じるのも当たり前だろう。
 だが、静寂とは違う静けさを響は感じたのだ。言葉で上手く説明出来ないが、本能の奥深くで感じる違和感……音量の問題ではない。では何か? ……そうだ、生気だ。この家には生気がなく、無機質な空気が充満しているのだ。
 今日、辞表を出す……それは、確固たる決意だ。その為には、感情だけでなく、実務上の処理も必要だ。アポ取りの為に持ち帰った顧客カードが十数枚、階下の工房に置いてあることを思い出した。
 基本的に、アポ取りは会社の電話で行うことが多いが、夜遅くにしか繋がらない人や響の携帯電話に折り返してくれる予定の人など、手元に置いておく必要のあるカードもあるのだ。これらも、全て返却しないといけない。
 響は、カードを取りに一階の工房へと降りていった。階段を一段一段降りるに連れ、まるで奈落の底へ堕ちていく感覚に包まれた。言いようのない、不安や恐怖にも似た不確かな違和感が襲ってきたのだ。我が身の先行きを暗示するかのように……いや、これが所謂「虫の知らせ」だったのかもしれない。
 フルコンの修理以降、全く使用されていない工房は、それこそ生気のない淀んだ空気が満ちている。活気がないと言うべきか、流れも動きもない空気は、澱んだ水と同じようでもあり、静止した時間のようでもある。無機質の物体さながらに、時空はじっと佇んでいる。
 眠っている工房は、決して整理整頓されているわけでもないのに、無性にだだっ広く感じた。埋め尽くされているべき空間が過剰に余っている。まだまだ現役なのに使われることのない機械類は、このまま風景と化してしまうことに抗っているのか、妙な侘しさを主張する。

 工房の真ん中には、ピアノのフレームを取り外す際に使うチェーンブロックが、天井に渡されたI型鋼に取り付けられている。幼い頃の響が最も好きだった作業が、フレームの取り外しだ。チェーンブロックのフックに繋げた三本のロープで上手くバランスを取り、フレームをジリジリと持ち上げるのだ。100kg以上の鉄の骨組みも、これさえあれば小学生の響でも持ち上げられた。
 しかし、降ろす時は一転してすごく緊張した。ループ状のチェーンの上げる時の反対側を引っ張るのだが、引き始めに大きな負荷が掛かり、ガツンと一気に落ちそうな錯覚に囚われたのだ。それに、上げる側と降ろす側は、全く見分けがつかない。輪っか状になっているので、どちらが正解なのかはやってみるしか分からないのだ。恐る恐る降ろすつもりで引っ張ったのに、ガガガッと音を立てて上がってしまった体験を何度となくしたものだ。
 そして、今、チェーンブロックのフックには、頑丈なロープが引っ掛けられ宗佑がぶら下がっていた。

 生気を無くした肉体は、既に単なる物質へと変化していた。
 尋常でない程伸びきった首はドス黒く変色し、苦しそうに歪んだ褐色の顔からは、もはや生体反応は感じ取れない。趣味の悪い彫刻のようだ。既に硬直が始まっているのか、関節が不自然に(しな)ったまま凝固している。太ももや二の腕に浮かんだ痣は、死斑だろう。響は、初めて見る死斑に芸術的な美と不快な絶望を感じた。
 蘇生措置なんて取る気も起こらない程、明らかに宗佑は死んでいた。
 兎に角、降ろしてあげないと……妙に冷静な響は、チェーンブロックのループチェーンをそっと引っ張った。すると、ガガガッと軋み音を立てて、宗佑の首が更にグニャっと伸び上がった。まるで、自らの手で首を引っこ抜こうとしたかのような感覚が、響の掌全面に伝わった。そのまま頭がもぎ取れそうだ。慌てて反対側を引っ張り下げる。ガツンと大きな抵抗の後、今度はスルスルと宗佑の身体が無造作に揺れながら降りてきた。
 やや乱暴に、そして強引にその物体(ヽヽ)を床に横たえ、目に止まった古いピアノカバーをそっと被せた。

 無意識に、響は泣いていた。悔しいのか悲しいのか分からない。
 父が死んだ——。
 身体中に死斑を浮かべ、褐色に変化した顔は歪に変形し、体液が溢れ、売れない芸人のお決まりのギャグのような無様な格好で硬直していた。その時、初めて異臭に気付いた。垂れ流れた糞尿のせいだろう。臭い。そして汚い。天才的なピアノ調律師は、残酷なぐらいの酷い有様で自らの生涯を終わらせた。技術しか取り柄のない男は、これで本当に何も無くなったのだ。
 響は、救急車も警察も呼ばず、興和楽器に向かった。会議なんてどうでもいい。それより、梶山と決着を付けなくてはいけない。今の響を突き動かす燃料は、梶山への憎悪だけだ。アイツだけは許さない。ぶっ殺す……その為だけに、今の響は存在した。

 開店前の興和楽器も、静まりかえっていた。しかし、それは自宅で感じた生気のない静けさではなく、単に物理的な音に起因する。つまり、いつもは流れてるBGMや喧騒がないだけだ。
 響はショールームを素通りし、バックヤードの階段を一気に三階まで駆け上がった。このフロアの一角に、小さな会議室がある。パイプ椅子と長テーブルしかない簡素な部屋だが、この日はピアノ部門の技術会議が開店前に行なわれているのだ。
 響が部屋に飛び込むと、長テーブルを向かい合わせに並べ、社員、嘱託合わせて僅か七名にまで減った技術者が梶山を囲むように座り、馬鹿げた会議を行っていた。ズカズカと一直線に歩み寄る響に、梶山は怒号を浴びせた。
「松本、お前何考えてんだ? 遅刻するなら連絡ぐらい……おいっ、お前、何をする!」
 梶山の叱言が終わらないうちに、響は梶山に殴りかかった。
「アンタのせいだ!」と叫びながら、巨大な体躯で圧力を掛け、梶山を椅子ごとなぎ倒した。格闘技の心得はもちろん、殴り合いの喧嘩すらしたことのない一人っ子の響だが、群を抜くフィジカルの強さはそれだけで立派な凶器となるのだ。
「ぐわっ、や、やめろ松本! 頼む、やめてくれ!」

 響は逃げ惑う梶山を力づくで抑え込み、何発か蹴りを入れ、全体重を乗せて踏み付けた。呻き声を上げ、抵抗出来なくなった肉体に馬乗りになり、今度は顔面を目掛けて殴り続けた。
 固く握り締めた大きな拳を、力一杯振り下ろす。最後の力を振り絞り、何とかガードしようと(かざ)した梶山の腕が、枯れ枝のように叩き折られた。更に降り注ぐ拳の嵐は、やがて確実に顎を捉え、梶山はいつしか完全に意識を失っていた。それでも響の攻撃は止まらない。ガツンと骨が砕け、グシャッと肉が潰れる感触も次第に快感へと変わり、響はひたすら殴り続けた。梶山の鼻は歪な方向に折れ曲がり、両目の周りは岩のように腫れ上がり、顔面の至る所から出血していた。歯も何本か折れ、頬骨も砕けた。
 数人掛かりで止めに入るも、怒りに突き動かされた巨体は皆を軽く弾き飛ばす。一人冷静な杉山だけ、薄っすらと笑みすら浮かべ傍観している。他の皆は、必死で響を取り抑えようとした。開店が近付き出社する者が増えるに連れ、異変を感じた従業員が駆け上がってきて、手助けに加勢した。いつしか響は取り押さえられていた。その頃には、既に殴り疲れたのか大人しくなっていた。
 数分もしないうちに、救急車とパトカーが到着した。梶山は意識がなく、見るからに危険な状態だ。ストレッチャーに乗せられた梶山は、群がる野次馬をかき分け救急車に運び込まれた。そして、ほぼ同時進行で響は手錠を掛けられ、放心状態のまま警察に連行された。

 梶山は、幸い命には別状がなかった。しかし、激しく殴られた影響で鼻骨、頬骨、下顎骨(かがくこつ)眼窩(がんか)、が骨折し、また防御の為に(かざ)した両腕も橈骨(とうこつ)尺骨(しゃっこつ)が折れ、最初に蹴られた(あばら)は数本にヒビが入っていた。肺も酷く損傷している上、全身の至る所に内出血や打撲が確認された。
 梶山は、そのまま数週間入院することになった。歯も五本失い、視力と聴力も低下した。その後も、潰れた顔面の形成の為に、何度も入退院を繰り返すことになった。無事に社会復帰が出来たとしても、もう調律師としてやっていくのは無理だろう。
 現行犯逮捕された響は、これだけのダメージを与えながらも、ギリギリで実刑は免れた。初犯であることは勿論、日常的な素行も評判が良く、深く反省もし、意外なことに殆んどの同僚からの擁護もあったのだ。逆に、被害者であるはずの梶山に同情する従業員が、殆んどいなかったのも事実だ。
 そして、事件の日の朝、自宅で宗佑が自殺したことも情状酌量に大きく影響した。と言うのも、その原因が梶山にある可能性が高いことが判明したのだ。
 また、事件後、協力的に何もかもを供述した加害者の響に対し、被害者の梶山は何も語らなかったのだ。いつしか被害者と加害者の心象は、逆転していた。響の供述の裏付けをしようにも、梶山は無言を貫いた。前日の就業時間中に宗佑に会いに行ったことを含め、梶山には不利に働くであろう言動が多々見受けられ、黙するしかなかったのだ。

 結局、響は懲役三年、執行猶予五年の刑を処せられた。当然ながら、興和楽器は解雇処分になったが、榊はそんな状況でも響を雇い入れた。
 一方の梶山は、退院してからも長いリハビリ生活を余儀なくされ、結局は事件から丸一年間休職した。その後復帰した梶山だが、社内にはもう彼の居場所はなかった。調律師としての仕事はなく、ピアノ技術部からも籍を外され、教室事業部に配属され主に音楽教室の入退会手続きを管理する退屈な業務に従事することになった。
 しかし、無事に復元出来た顔とは言え、整形手術の影響から表情が失われ、沢山の歯が抜けた影響で滑舌も悪くなった梶山は、子ども達からモンスターのように怖がられた。
 やがて、親からの差別的なクレームも増え、梶山は表に出ることのない会計職の手伝いに回された。資格も知識も持たない数字との格闘は、二回りも年下の女性に毎日罵られながら必死に取組む屈辱的な仕事だ。衰えた視力と不自由な手付きも相まって失敗の連続だが、梶山にはそのまま働き続けるしか選択肢がないのだ。
 かつてはトップ調律師として、社内だけでなく県内全域の特約店から一目置かれ、恐れられた梶山も、今ではかつての部下や仲間達からさえ、全く見向きされなくなっていた。今の梶山に残された人生は、ピアノと無縁の業務を、ただ定年まで勤め上げることだけを考えて、これからの日々を必死に過ごすことだけだ。

 逆に、あと少しの定年まで待たずに退職した者もいた。美和だ。自責の念に駆られたのか、再び旧姓に戻った美和は、長期の休職を経て、そのままひっそりと退職した。定年まで勤めあげる為にとった自己保身の行動のせいで、定年前に辞めることになったのは皮肉な話しだ。
 その後、彼女がどこで何をしているのか、誰も知らない。

羊の瞞し 第6章 TRAGICな羊

羊の瞞し 第6章 TRAGICな羊

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-02-27

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. (1)悲劇的な序曲
  2. (2)悲劇的な前奏曲
  3. (3)悲劇的な譚詩曲
  4. (4)悲劇的な二重唱
  5. (5)悲劇的な間奏曲
  6. (6)悲劇的な狂詩曲
  7. (7)悲劇的な奇想曲
  8. (8)悲劇的な受難曲
  9. (9)悲劇的な終曲