Sea you / 立花莉都 作

【僕だけの物語】
自殺を考えていた男が死ぬ前最後に行った場所で出会ったのは、幼き彼にとっての唯一の光であった老婆だった。思いがけない再会を果たした老婆と幸せなひと時を過ごした男が最後に下した決断とは……

 僕は明日、自分の人生に自らの手で終止符を打とうと思う。
 だがその前に一つ、僕にはどうしてもやりたいことがあった。
 世間で聞く「死ぬ前にやりたいこと」なんて、僕にはないとずっと思っていた。ところが、いざ死のうとした時、突然頭の中にいつか見た写真が浮かんできてどうしても離れなくなったのだ。
 いつ、どこで見た写真なのか、上手く思い出せない。だが、僕はそこに行かなければいけないのだと直感して、最後にその場所へと行くことにしたのだった。
 本当にこれが死ぬ前にするべき最後のことなのか、自分でもよく分からない。でもだからといって、他にしたいこともするべきことも思いつかなかった。別れを告げたい人も、最後に会いたいと思える人も僕には特にいないし、死ぬ前にやっておくべきだと思ったことは、もうしっかりと済ませたつもりであった。
 この世に未練など一つもない。そうだったはずなのだが、僕には今一つだけ未練のようなものができてしまっている。
 まあ、他の人から見ればそんなことが最後でいいのかと思えることを、死ぬ前最後にするのも悪くはないか。そんなことを考えながら、僕は電車に揺られて目的地へと向かっていた。
 電車の中で、自分の人生について今一度考えてみる。
 僕の二十三年の人生は、実際の年月よりもさらに重く、長く感じられるようなものであった。そして、そんな僕の人生は、(はた)から見れば壮絶だと言えるようなものであると思う。
 昔は自分でもそう思って、自分の人生を悲観し、自らの境遇を恨んだりもしていた。でも今では、正直そんなことはどうでもよかった。慣れてしまえば、日常となってしまえば、もう何も感じなくなっていた。
 そして今、僕が命を絶とうとしている理由も、仕事上の悩みだとか、誰かから深刻ないじめを受けているとかそういうものではなく、自らの境遇のせいである。
 だが僕は自分の人生や境遇に絶望を感じて、命を絶とうとしているわけではない。自分の人生を、自分が今まで必死に生きて紡いできた日々を肯定したいからこそ、これ以上誰にも自分の人生を振り回されたくないからこそ、僕は自分で自分の人生を終わらせようとしているのだ。
 そう、僕が死ぬのは、決してあの人たちなんかのためでもせいでもなく、自分のためであり、自分のせいであるのだ。だから今の僕に、何の迷いも躊躇(ためら)いもあるはずなんかないのだ。
 自ら命を絶とうと決めてから、何度自分に言い聞かせるように言ったかも分からない、この呪文のような言葉たちを僕はまた心の中で唱えたのだった。
 そんなふうに色々と考え事をしていると、いつの間にか乗っている電車が目的の駅へと着いていたのに気が付いた。ちらほらと降りていく人々に続いて、僕は電車から急いで降りた。
 電車から降りると、僕は駅のホームに一つだけ置かれたベンチに腰かけた。ベンチに座って一息つきながら、スマートフォンで目的地までのルートを今一度確認する。ここに来る前にも何度もルートを確認してきたつもりであったが、初めての土地であるという事実がどうにも僕を不安にさせた。
 何度も何度も、スマートフォン上に映し出された地図の上をなぞって確認して、やっと不安も和らいできた頃、僕はまたあの写真について考え出していた。
 マンションの屋上から飛び降りようとしたまさにその時に、突然頭に浮かんできたあの写真。何故だか、死ぬ前最後にその写真が撮られた場所に行かねばならないのだと僕は思った。そしてその場所に行こうと決心したものの、いつ、どこで見たかも覚えていない写真からその場所を特定するなんて、当初の僕は無理だと思っていたし、何を無謀なことを考えてしまったのだと思っていた。だが、奇跡的に、特徴となるような建物である、灯台が対岸に写りこんでいたのを思い出したおかげで、そう苦労することなく目的の場所を見つけることができ、今こうやって実際に来ることができていた。
 今考えても、本当に運が良かったなぁと思う。もし全然見つからなかったら、それこそ新たな未練ができ上がってしまうところだった。それだけは絶対に避けたかったから、本当に良かった。そう思って僕はその場で大きく息を吐き出した。
 その他にも色々と考え事をしたい気分ではあったが、駅のベンチでこれ以上時間を無駄にするわけにはいかないため、僕は出発することにした。
 いつもとは仕様が違う駅の改札を、少しだけ緊張しながら無事通過すると、僕は一度大きく息を吸い込んで吐いた。そしてそれっぽく「やっぱり都会よりも空気が美味しいな」なんて言ってみる。言ってみて何だが、あまりにもその言葉は今の自分には似つかわしくない気がして、僕は思わず苦笑してしまった。
 そんな駅でのくだらない一幕が終わった後、今度こそ僕は目的地を目指し、駅を出発することにした。駅から数歩出て、周りの風景を見渡してみただけで、来たことのない初めての土地の雰囲気に僕は()まれてしまっていた。何度も行き方を確認して不安を無くしてきたつもりであったが、実際の地に足を踏み入れただけで、僕はだいぶ心細くなっていた。だが、ここまで来てこんな弱気になっていてはいけない。そう思って、なんとか自分を奮い立たせると、スマートフォンの地図と実際の風景とを何度も慎重に見比べてゆっくりと目的地へと向かった。
 余計なことを考えている余裕なんかないはずなのに、目標の地まで歩いている間に、僕はいつの間にかまた考え事をし始めていた。
 あの写真を、僕はいつ、どこで見たのだろう。なぜ僕は、あの場所に行かなければいけないと思ったのだろう。必死に何か思い出せないかと考えてみるが、頭がズキズキと痛んでくるだけで、全く何も浮かんでこない。
 そうやって必死に考えて、結論が出ないうちに、ルートの終わりが近づいていた。まあ、そこに着いてみれば何かを思い出すだろう。そう思って僕は思考を放棄すると、とりあえず目的地まで行ってみようとそのまま歩を進めた。
 少し歩いたその先に、目標としている場所である海岸はあった。僕は思わず海岸の方へと駆け寄っていく。
 眼前に広がる光景は、いつかに見た写真とほぼ同じで、思わず感嘆の声が漏れた。僕は写真が撮られたと思しき場所で立ち止まると、目の前の景色だけに意識を集中させた。
 僕の目の前に広がる海は、太陽の光を反射してまるで宝石のようにキラキラと輝いており、その水は青緑色に透き通っていてとても綺麗だった。
 でも、それだけだった。
 ここじゃなくたってそんな海はどこかにはあるだろうし、何もここにこだわるような理由は無いように思われた。ここに来てみれば何か思い出すと思ったのに、余計に自分がここに強く()かれた理由が分からなくなってしまった。
 ああ、無駄足を踏んだなあ。そう思って帰ろうとした時、ふと海の中に人影があるのに気が付いた。僕が驚いて見つめている間にも、人影はどんどんと小さくなっていた。
 どうしようかと考えるより前に、僕は無我夢中でその人物の元へと走り出していた。途中、砂浜で足を取られそうになりながらも、僕は急いでその人の元へと向かった。
 太陽の光が(まぶ)しすぎてきちんとは分からないが、着ている服などから見て、海へと入っていっているのはどうやら老婆のようだった。
 僕は急いで老婆に追いつくと、「何してるんですか!」と声を荒らげながらその腕を思いっきり(つか)んだ。
 老婆は僕が腕を掴んだのに気づくと弱々しい力でそれを振り払おうとした。
「放してくれ。もう死なせてくれよ」
 僕は思わず固まった。
 ただの認知症か何かかと思っていたら、まさかこの老婆も自分と同じく自殺を望んでいたとは。
 僕は一瞬躊躇いながらも、結局老婆の自殺を阻止することにした。
 これから自殺をしようとしている男が、これから自殺をしようとしている人間を止めるなんて、滑稽(こっけい)な話だとは思うが、それでもどうしても止めずにはいられなかった。
 僕は老婆を無理やり海から引き戻すと、とりあえず砂浜にあった流木へと座らせた。
「あなた何してるんですか?! なんで自殺なんてしようとしてたんですか?!」
 僕は半ば怒鳴りつけるようにして、そう問いかけていた。
 僕の問いかけに、老婆は答えなかった。ただ「なんで止めたんだ」とぼそぼそと(つぶや)くばかりであった。
 やっぱり認知症か何かなのだろうか。僕がそんなふうに考えていると、老婆の独り言のような言葉がふと耳に入ってきた。
「ごめんねぇ、助けてあげられなくて。私はここで待っていることしかできなくて、ごめんねぇ」
 僕は思わず目を見開いた。僕ではない誰かに向けられたであろう言葉なのに、僕の心は大きく揺さぶられていた。なんで……。
 僕が自分の心の変化に戸惑っていると、老婆が再び口を開いた。
「私は何もできなかった。ただ見ていることしかできなかったんだよ。あの子と一緒に来ようって約束したのに。私が連れ出してやるって言ったのに。私は何一つあの子にしてやれなかったんだよ」
 老婆のその言葉を聞いた瞬間、僕の頭が再び激しく痛んできた。
 ズキズキ、ガンガンと痛む頭を押さえながら、僕は目を閉じる。その時、僕の頭の中にいつ見たかも思い出せない光景が次々と浮かんできた。あと少し、もう少しで何か大切なことを思い出せる気がする。そう思った瞬間、僕の口は自然に動き出していた。
「いいんだよ、フミ婆。だって今、僕はここに来られてるんだから」
 思い出した。僕がここにどうしても来たかった理由。それはこの老婆、フミ婆と約束したからだった。両親から逃げ出して、見事自由になれたなら、一緒にあの写真の景色を見に行こうって、僕たちは約束したのだった。
 なんで今まで忘れてしまっていたのだろう。僕の人生に希望をくれた人だったのに。僕を絶望から救い出してくれた人だったのに。
 僕は、今まで忘れてしまっていたフミ婆との記憶をゆっくりと思い起こした。

 確か、フミ婆と初めて会ったのは、僕が小学三年生の時だったと思う。
 僕は両親からひどい虐待を受け、家にはほとんど入れてもらえない、食べ物もたまにしか与えてもらえない、といったような日々を送っていた。
 そんなある日、空腹によって家の前でうずくまっていた僕を偶然見つけて助けてくれたのがフミ婆だった。
 その日は丸一日ほどろくにご飯を食べられていなかったせいで、空腹が限界に達し、激しい腹痛が僕を襲っていた。しばらくは家の中でただただ耐えようとしていたのだが、とうとう耐えきれなくなって、とにかく何かお腹に入れられるものを探そうと家を出たところで、僕は空腹のあまりその場にうずくまったまま動けなくなってしまった。
 早く動き出して何か食べられるものを探したいのに、体は思うようには動いてくれなかった。だが、お腹の痛みだけはどんどんと激しくなっていくので、僕はその場でぐっと体を丸め込んで耐えることしかできなかった。
 そんなふうに苦しんでいた僕を、偶然近くを通りかかったフミ婆が見つけてくれたのだった。フミ婆は僕を見つけるなり、すぐにその異変に気が付いたようで、「ボク、大丈夫かい?!」と声を荒らげながら、僕の元へと駆け寄って来てくれた。
 フミ婆からの問いかけに対し、僕は何とか声を絞り出しながら、「お腹が……空いて……」ととりあえずの事情を説明した。言いたいことすべてを上手く声に出して説明することはできなかったが、フミ婆は僕の発した言葉だけで何となくの事情を把握すると、僕を抱きかかえて、自分の家へと急いで連れて行ってくれた。
 フミ婆の家に着くまでの記憶は朧気(おぼろげ)にしか残っていない。だがそれでも、助けてもらえたことがあまりにも(うれ)しくて、とにかくずっと泣き続けていたことだけはよく覚えている。
 家に着くと、フミ婆はリビングに置かれたソファに僕をそっと寝かせて毛布を掛けてくれた。そして、「今何か食べられるものを作ってあげるからね」と僕に対して優しく声をかけた後、急いでキッチンへと向かい、料理を作り始めた。
 フミ婆が料理を作ってくれている間、僕はいつの間にか眠ってしまっていたようで、次に目を覚ましたのは、フミ婆が作ってくれた美味しいご飯の(にお)いを()いだ時だった。
 なんだか良い匂いがすると思って飛び起きると、僕の目の前には美味しそうな料理がたくさん並べられていた。その料理たちに思わず見とれていると、フミ婆は僕の頭をそっと()でながら、「ここにあるものは全部君のために作ったんだ。だから、なんでも好きなものを、好きなだけ食べていいんだよ」と優しく言ってくれた。
〝僕のため〟に作ってくれた、というその言葉が本当に嬉しくて。そしてフミ婆の作ってくれた料理がどれもとても美味しそうで。僕は涙を流しながら、その料理たちを(むさぼ)るようにして食べたのだった。僕のために作ってくれたという料理は、どれもほんのり温かくて、とっても美味しくて、とても感激したのをよく覚えている。
 その日から僕はフミ婆の元に密かに通うようになった。
 僕は家での事情をフミ婆に正直に話し、その上で誰にも言わないでほしいとお願いをした。あの人たちが怒りだしたら何をしでかすか分からないと思ったからだ。他の人を巻き込んだり、下手に抵抗してよりひどい仕打ちをされるくらいなら、まだ今の状態に我慢する方がましだと、あの時の僕は思っていた。僕が、僕だけが我慢していればそれでいいのだ。そう思って僕は、フミ婆にも一種の我慢を強いたのだった。
 フミ婆の元で、僕は色んな美味しい食べ物を食べさせてもらい、色んな話を聞かせてもらい、色んなものを見せてもらった。
 食べたことのない食べ物をたくさん食べさせてもらい、この世界にはこんなにもたくさんの美味しいものがあるのだと初めて知った。
 行ったことも見たこともないような場所についての話を聞くだけで、自分もその場所に行った気になってとても楽しかった。
 見たことも触ったこともない品々をたくさん見せてもらったり、それについて話を聞かせてもらったりして、自分が物知りになったような気になった。
 僕がこの海岸に来るきっかけとなった約束の写真も、フミ婆の亡くなった旦那さんが撮ったという写真を見せてもらったときに、僕が一番気に入ったものであった。僕が何度も何度もその写真を見ているので、フミ婆が「その景色をいつか見に行こう」と約束をしてくれたのだった。「約束」なんてしたのはあの時が初めてだったが、僕はこの「約束」だけは絶対に守ろうと、そして(かな)えようと心に決めたのだった。
 その他にも、フミ婆と僕は一緒にトランプなどをして遊んだり、絵を描いたりと、とにかく色んなことをした。フミ婆と過ごす日々や時間は、僕にとって新しいことばかりで楽しかったし、何よりもとても幸せなものだった。両親から毎日与えられる暴力にだって、フミ婆との時間を考えれば何とか耐えることができた。
 そんな僕の「幸せな時間」は、結局ほんの数か月で終わりを告げることとなった。
 両親に、フミ婆の元に通っていたことがバレたのだ。
 いつも通りフミ婆の家に向かおうとした僕の様子を不審に思った両親が、後をこっそりとつけていたのだ。そして両親にフミ婆の存在が知られてしまい、フミ婆の家にもう少しで入ろうとしていたところを、僕は捕まってしまったのだった。

 僕が両親に無理やり連れ戻されそうになった時、フミ婆は僕を助けようとしてくれた。でもこれ以上両親を怒らせたくなかった僕がそれを止めたのだ。だからフミ婆は何もできなくて当然なのだ。
 なのに、今でもずっと悔いているフミ婆の様子を見て、僕はただただ胸が苦しくなった。
 僕はどれほどの苦しみをフミ婆に背負わせてしまっていたのだろうか。僕はフミ婆のことをすっかり忘れてしまっていたけれど、目の前のこの人は十五年もの間ずっと僕のことを考えて、悔やみ苦しみ続けていたのだろうか。
 そんなことを思いながら、フミ婆の方を見た。
 フミ婆は先ほどの僕の言葉に驚いたようにしばらく固まっていたが、僕が見ているのに気が付いたのか、ゆっくりと口を開いた。
「あんた、カイくんなのか。本当にあの、カイくんなのか」
「うん、そうだよ。約束していたのに、なかなか来られなくて、待たせてしまってごめんね。やっと、この場所に来ることができたよ」
「そうかそうか。いやぁ本当に大きくなったねぇ。あれから十何年も経っているんだものねぇ。いやぁ時間の流れは早いねぇ」
 そう言うフミ婆の雰囲気は十五年前とほとんど変わらなくて。僕は思わず少しだけ泣いてしまう。
「本当に何もしてあげられなくてごめんねぇ。ずっと他に何かできることはあったんじゃないかって思っててねぇ」
「いいんだよ。フミ婆は僕にたくさんの幸せと思い出をくれたじゃないか。それに、フミ婆に何もするなって言ったのは僕の方なんだから。もう悔んだり、そのことで苦しまないで。ね?」
 僕のそんな言葉に対して、フミ婆は少しだけ考えるような仕草を見せた後、しぶしぶとでもいうような様子でうなずいた。
「カイくんが言うなら分かったよ。それより、カイくんはもう大丈夫なのかい?」
 フミ婆からの唐突な核心を突くかのような問いに対し、僕は思わず固まった。だが、フミ婆に動揺しているのが気づかれてはいけないと思い、あくまで平然としているように装いながら、小さく首を縦に振った。
「そうかそうか。それは良かったなぁ」
 そう言ってフミ婆はとても嬉しそうに笑った。その笑顔はとても明るくて、僕はこれでよかったのだと思った。
 本当は、僕はあの人たちから解放されてなどいなかった。
 今でもずっと、僕はあの人たちの格好の奴隷であり、所有物なのだった。
 大人になれば、就職すれば、仕事で活躍すれば、あの人たちから距離を置けば、僕はあの人たちから解放されるのだと、僕はずっと信じていた。
 でも現実は、そう甘くは無かった。
 僕があの人たちから離れようとするほど、別の素晴らしい人生を送ろうとするほど、あの人たちからの呪縛は強くなっていった。産んでやったんだぞ、育ててやったんだぞ、などと言いながら、僕に様々な要求をしてきた。僕が働いた分の給料を、ほぼ全額口座から抜き出していることなんてしょっちゅうだった。
 本当はそこで誰かに頼ったり、声を上げるべきだったのだと思う。
 だがずっと「我慢する」「我慢させられる」人生を送ってきた僕は、誰かに頼るのが特に苦手になってしまっていたし、誰にどう頼ればいいのかも全く分からなかった。
 だから結局、僕はずっと、両親に振り回され束縛されるような人生を送ってしまっていたのだった。
 そんな人生に、いや、正確に言えば、親からの呪縛や束縛に対して、心の中で毒づくだけで表立っては何の行動も起こすことができなかった、非力で臆病(おくびょう)な僕自身に対して嫌気がささなかったと言ったら嘘になる。だが、僕にはどうしても両親に盾突く方法も、周りに助けを求める方法も分からなかったのだ。
 本当はフミ婆に嘘なんてつきたくなんて無かった。だがこれ以上、フミ婆を僕のせいで振り回したくも無かった。
 振り回され続ける人生を送ってきた僕だからこそ、他人にはそんなこと絶対にしたくなかった。
 僕は、これでいいんだ、と自分にもう一度言い聞かせるように心の中で言ってから、フミ婆に向けて笑いかけた。
 それから僕とフミ婆は、会っていない間にお互いにあったことについて話をした。といっても、認知症が進んでいるせいか、フミ婆の話はあまり要領を得ないものだったため、ほとんど僕の話を聞いてもらうだけになっていた。
 でもその時間はとても楽しくて、幸せで仕方が無かった。
 フミ婆に会えて、こうやって話せているだけで、やっぱりここに来てよかったと感じた。
 しばらく夢中で話し込んでいると、いつの間にか夕暮れを迎えているのに気が付いた。
 海へと入っていくように沈んでいく夕日はとても綺麗だった。
「綺麗だねぇ。今まで何度もこの景色を見てきたけど、今が一番綺麗だ。この景色をカイくんと一緒に見ることができて幸せだねぇ」
 そう言って老婆は、柔らかい笑みを浮かべながら僕の方を見た。
「そうだね。僕も今日、フミ婆に会えて、話せて、そしてこうして一緒にこの景色が見れて、本当に嬉しかった。昔も、今日も、僕にたくさんの幸せをくれてありがとう。本当に出会えてよかったよ。十五年も経っちゃったけど、約束を果たせてよかった」
 そう涙ぐみながら言う僕の背中を、フミ婆はゆっくりと撫でてくれた。その手が本当に温かくて、僕は思わず笑顔になる。
 僕が落ち着くまで、フミ婆は僕の背中を撫で続けてくれた。
 僕がやっと落ち着いたとき、フミ婆がふいに口を開いた。
「どうする? 今日はもう遅いし、すぐ近くだから私の家に今夜は泊まっていくかい?」
「え?! フミ婆引っ越したの?」
 僕が目をまん丸にしながら驚いているのを見て、フミ婆はふふふっ、と声を出すようにして笑った。
「ああ。いつかカイくんが来るかもしれないと思ってねぇ。何年か前にこの近くに引っ越したんだよ」
 僕との約束のために、わざわざこの海岸の近くまで引っ越してきてくれていたのだと知り、僕は感激して泣きそうになった。だが、一度泣きだしたら止まらなくなってしまう気がして、僕は涙が(あふ)れそうになるのを必死に(こら)えた。
「そうだったんだ……じゃあ、フミ婆のお言葉に甘えて、今日はお(うち)に泊まらせてもらおうかな」
 高まる気持ちを顔全体で表現しながらそう言う僕を見て、フミ婆はただ微笑んでいた。
「またこの場所に来て、一緒にこの景色を見れたらいいねぇ。いや、また一緒にこの景色を見よう。約束だ」
 フミ婆は突然、僕に向かってそう言った。僕はその言葉に、すぐには答えられなかった。
 フミ婆が不審に思って、どうしたのかと僕の顔を(のぞ)きこもうとしたところで、僕は声を発した。
「うん。またね」
 僕がそう言うと、フミ婆は納得したかのように西の方角へと歩き出した。僕は一度だけ大きく息を吐くと、その後をゆっくりと付いていった。
 フミ婆の家は、海岸からほど近いところに建っていた。その家は、前に僕が通っていた家よりもこじんまりとはしていたが、風情があってとても良さそうな家であった。
 フミ婆にぴったりだな、なんて少しのんきなことを思いながら、僕は招かれるままに、家の中へと入った。
 フミ婆は晩御飯にと、昔僕が好きだった、コロッケやハンバーグなどの料理をたくさん作って振る舞ってくれた。結構な量ではあったが、久しぶりのフミ婆の手料理だから残すなんてことはしたくなくて、無理やりお腹にねじ込んだ。
 こんなに腹いっぱい食べたのはいつぶりだろうか。思わずそんなことを考えながら、僕はフミ婆と晩御飯を食べたのだった。
 食事が終わると、フミ婆がお風呂を沸かしてくれた。
「ゆっくり入っておいで」
 そうフミ婆は言ってくれたが、さすがにのぼせてしまうような気がしたので、「ほどほどにするね」と返事をしておいた。
 だが、こんなにしっかりお風呂に入るのも久しぶりだったので、結局長風呂になってしまった。
 お風呂を出ると、僕用の布団をフミ婆が敷いてくれていた。
ふかふかの布団に僕は思わず、無邪気な子供のように飛びついた。
 そんな僕の様子を見て、フミ婆は笑っていた。なんて幸せなひと時だろう、と僕はしみじみ感じた。もし僕に、自分のことをとても大切に思ってくれる家族がいたならば、こんな気分を味わえたのだろうか、と思わず考えていた。
 フミ婆がお風呂から出ると、僕たちは布団で寝ころびながら思い出話をすることにした。
「そんなこともあったね」とか「そうだっけ」とか言いながら、初めてする「思い出話」はとても楽しかった。
 認知症かな、と思われたフミ婆も、僕とのことはほとんど覚えてくれているようで、それがとても嬉しかった。
 話し始めて一時間ほど経った頃、フミ婆は急に黙りこんでしまった。どうしたのだろう、と思って覗きこんでみれば、フミ婆は幸せそうな顔を浮かべながら眠ってしまっていた。その寝顔を見て、思わず僕も笑みがこぼれた。
 そしてそんな幸福な状態の中で、僕も眠りについた。
 はっきりとは思い出せないが、夢を見た。フミ婆が僕の本当のおばあちゃんである、といったような夢だったと思う。
 夢の中で、僕たちは一緒に遊園地に出かけたり、手をつなぎながら散歩をしたりと、とにかく色々なことをした。僕が両親と、「家族」というものと、本当はやりたいと思っていたことばかりだった。叶わない願いだったはずなのに、夢の中だけでも、しかもフミ婆と叶えることができて、僕はただただ幸せだった。
 だがそんな幸せな夢は、突然現れた両親によって壊されてしまった。現実と同じように、僕の幸せは、両親の登場によって一瞬で壊されてしまったのだ。
 夢の中で、僕は絶望に暮れるようにしてただただ叫んだ。夢の中だから上手く声は出せず苦しかったが、それでも絞り出すようにして僕は叫んでいた。
 とそこで、僕は目を覚ました。僕は近くに置いてあったスマートフォンで時間を確認する。もうすぐ日が昇り始める、といったような時間だった。
「もう少しだけ夢を見ていたかったな」
 そう一言だけ僕は呟いた。布団にくるまりながら、布団ってこんなにもあったかくて、ふわふわで、気持ちがいいんだな、と考える。
 そんなことを考えながら、僕は少しの間だけ布団の中で目を閉じた。だが、僕はふと思い立って体を起こすと、フミ婆の方へと少し体を寄せた。
 そして、寝ているフミ婆を起こさないくらいの声量で、フミ婆に向けて語りかける。
「僕ね、思い出したんだ。なんでフミ婆とのことを忘れてしまっていたのか。あの日、両親に家まで連れ戻されたときにね、母さんが僕の頭を何度も壁にぶつけたんだ。『この虫けら! あんなババアのことなんか早く忘れろ!』なんて言いながら何度も何度も。そしたら本当に忘れちゃったんだ。あの人のお望み通り、僕は大切な人を、思い出を忘れてしまったんだ。でも昨日、あの場所に行って、フミ婆に会って全部思い出した。思い出してやったんだよ。あの人の思い通りになんてならなかったんだよ。また一つ、あの人たちの思い通りにならないことを起こせたんだよ。だからね、もう一つだけ、あの人たちの思い通りにならないことをするんだ。あの人たちに僕の全てを決定させないために、僕の人生は僕のものであるということを証明するために、僕は最後の抗議をするんだ。フミ婆なら分かってくれるよね」
 もちろん、フミ婆からの返答は無かった。でも僕は、伝えたいことを、一方的ではあるが伝えられたため、十分満足すると、そっと寝室を出た。
 そして居間に移動すると、そこに置いてあったメモ用紙に「僕の全財産を近藤(こんどう)(ふみ)()さん、フミ婆に譲ります。◇◇駅の十七番のロッカーに入っているので、好きに使ってください。暗証番号は僕の誕生日です。」と書いて、机の上に置いた。
 よし、これで今度こそ本当にやりたいこととやるべきことは終わったぞ。そう思いながら、僕はもう一度だけフミ婆のいる寝室の方を見た。かすかにフミ婆の寝息が聞こえてきて、僕は思わず微笑んでいた。
 そしてその後、僕はそっと玄関へと移動をして、フミ婆の家を出ようとした。玄関の扉を開いて、家の外へと出る直前に、僕はもう一度だけフミ婆のいる寝室の方へ振り返ると、フミ婆を起こさないくらいの声量で言葉を発した。
「ごめんね、フミ婆。行ってきます」
 そう言って僕は、ゆっくりと玄関の扉を閉めた。
 冷たい朝の風に当たりながら、僕はあの海岸までの道をゆっくりと歩いていた。歩いている間に、僕はまた考え事をする。
 今度こそ、僕には未練など一つもない。
 当初の目的であったあの写真の謎だって解くことができたし、忘れていたことをきちんと思い出せたし、フミ婆に会って、言いたかったことをきちんと言うこともできた。
 死ぬ前最後の食事はフミ婆の作ってくれた好物ばかりのご飯だし、死ぬ前最後に大切な人と幸せな時間を過ごすこともできた。
 これ以上ないくらいの締めくくりではないか。
 ここに来る前は、最後がこんなことでいいのかとか思っていたけれども、今になってみれば、これが良かったのだと、胸を張って言うことができる。
 人生最後にこんな幸せなことが待っているとは思わなかったな。そんなことを色々と思いながら、僕は海岸に向かってただただ歩いた。
 海岸に着くと、僕は躊躇うことなく海に向かって歩いていった。一歩一歩踏みしめるようにして、僕はゆっくりと海の方へと近づいていく。
 あと一歩踏み出せば海の中へと入るという時、僕は立ち止まった。恐る恐る海の水に足をつける。早朝の海の水はひどく冷たかった。だが、今ではそんなことどうでもよかった。
 そのまま僕はやはり躊躇うことも無く、海の中へと入っていった。
 海の奥へとゆっくり歩を進めながら、僕は考え事をする。
 もし僕がこの海で死んでしまったら、フミ婆はまた自分を責めてしまうだろうか。心にひどい傷を負ってしまうだろうか。せっかくの美しい景色をもう美しいと思えなくなってしまうのだろうか。
 それは嫌だな、と思いつつも僕の足取りは止まらなかった。
一歩ずつ足を踏み入れながら、僕は叫ぶようにして言葉を発する。
「ざまあみろ、クソ親ども! もうお前らの好きなようにはさせない。保険金目当てのお前らの生贄(いけにえ)になんか僕はならないぞ! 残念だったな、馬鹿野郎! もうお前らに、僕の人生を振り回されてたまるか。これは僕の、僕だけの人生だ。他の誰でもない、僕だけの物語だ。分かったか!」
 僕のその声は、風に乗ってどこまでも飛んでいくような気がした。
 全てを言い切った僕は満足して、さらに海に入るスピードを上げようとする。
 とその時、ふと風が大きく吹いた。その風にのって、小さく「カイくん」と言うフミ婆の声が聞こえたような気がした。
 僕は思わず振り返って海岸の方を見たが、フミ婆の姿は無かった。
 僕は、気のせいか、と思って海の方に向き直ろうとした。だがふと思い立って、今一度後ろを振り返った。
「またね」
 僕のその声は、波音にかき消されてしまった。

Sea you / 立花莉都 作

Sea you / 立花莉都 作

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-02-14

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著作権法内での利用のみを許可します。

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