唾と蜜 / 中野弘樹 作

 十月下旬にしてはやる気のある夕陽が、家路に着いた僕の体をじんわりと加熱している。僕が今朝食べた八枚切りのトーストも、きっとこんな風に焼かれたんだろう。僕が食パンなら、西の空に傾く太陽は電熱線で、地面はさながらトースターの金網だ。トーストは僕に食べられてしまったけれど、ありがたいことに僕は誰にも食べられる予定は無い。
 食パンはいつトーストになるのだろう。どうでもいい疑問が脳味噌(のうみそ)をよぎる。頭を空っぽにして歩いていると、たまにこういうことが起きるから面白い。
 トースターに入れられた時? 焼き目がついた時? トースターから取り出された時? もしかしたら僕が母さんに「今日はトーストがいいな」と言った時に、既にトーストになっていたと言えるのかも知れない。
 僕はどうなんだろう。今の中学校を卒業し、数年後僕が会社に就職したとして、僕がサラリーマンを名乗れるのは、いつなんだろう。それだけじゃ無い。僕が何者かになる時、そして何者かじゃ無くなる時。それはいつ、決まるんだろうか。考え無しに踏み出された右足は、道端の小石を()っ飛ばし、前方の丁字路まで綺麗(きれい)なアーチを描いた。
 両側を民家の壁に挟まれている路地の前で、僕は足を止めた。今日はどうしようか。念のため今来た道を振り返って、誰も見ていないことを確認すると、五時限目まで降っていた雨で湿った路地に踏み込む。
 ここは通学路に指定されていないから、本当は通っちゃいけない、らしい。何でも、事故に遭っても保険の適用外になるからなんだとか。知ってはいるのだけど、何故だか泥で薄汚れた運動靴はそっちを向いて歩き出す。
 何で僕がこの路地を気に入って、こうやって下校の度に通るのか、自分でもいまいち分からない。いつでも薄暗くてミステリアスな雰囲気が漂っているからなのか、たまに野良猫と出会えるからなのか。
 多分だけど、この秘密な感じが良いのかも知れない。(ほとん)どの人が知らないこの路地を一人っきりで通れば、その間だけ僕はイーサン・ハントで007だ。
 学ランは防弾チョッキに、雨傘はスナイパーライフルに早変わり。カラスに擬態した小型偵察機の監視を()い潜りながら、縦横無尽に張り巡らされた赤外線センサーを僕は華麗に(かわ)す。
 つまらない大人たちや不愉快な同級生が知らなくて、僕だけが知っているこの路地では、とびきり(ひど)い平日の夕暮れに、妄想に耽って好き放題したって、誰にも笑われない。
 シーズンオフの室外機たちが「おやおや、お客だ」とでも言うように、ファンをカラリと回した。側溝の(ふた)が僕の体重で、コンクリート製の体を鳴らし、音は反響して細い路地のその向こうまで跳ねていく。蓋ごとに音が違うので、気分は一歩進むごとにピアノの鍵盤(けんばん)で遊ぶ小人のそれだ。
 小人は素敵なステップと小綺麗な革靴で、グランドピアノを駆け巡る。美しい調べがホール全体に響き渡って、お客は皆立ち上がって拍手喝采(かっさい)だ。僕はタキシードの(すそ)を翻して深々とお辞儀をした。
 突然、遠くの方からバイクのエンジン音が鳴り響いた。接近してくる轟音(ごうおん)に、巨大なピアノのメロディは遮られ押し(つぶ)されてしまった。反射的に僕は顔をしかめる。
 獣の様な(うな)り声は低いところから徐々に上ずっていって、また元の低さに戻る。それを繰り返しながら、害獣は走り去っていった。
 バイクは嫌いだ。
 理由は、特に無いかも知れない。強いて言えば、全部だ。エンジン音、漏れ出した機械油の(にお)い、運転手、ブレーキ(こん)、散らばった部品の破片。どれも僕の心の平穏を乱す。
 それ以外の嫌いなものと言えば、予防注射とジェットコースターだろうか。こちらの理由は簡単、抵抗できないからだ。
 全然(うれ)しくないことが起きようとしているのに、僕に出来ることは針が皮膚を突き破るのを見守るか、重力に身を任せるかのどっちかしかない。そんなのアンフェアだし、第一人間の本能から外れている気がする。
 やめだやめだ。僕は頭を左右に振った。いつの間にやら止まっていた足を前進させながら、遠心力で雑念を頭から振り払う。
 この貴重な時間で、こんなどうでもいいことに脳の容量とブドウ糖を使うだなんて、ただただ勿体(もったい)ない。
 僕は気を取り直して、再び空想に肩まで()かろうとした。が、間もなく後方から近づく不穏な音に気が付く。足音だ。
 眉間(みけん)(しわ)がよる。公衆トイレの個室に入っている時に、不躾(ぶしつけ)に何度もドアをノックされ、その上問答無用でドアをこじ開けられたら、多分こんな気分になるんだろう。
 足音が段々大きくなるのが、(たま)らなくなる。気分が重い。
 足音が僕の背後で突然ペースを落とした。何を考えているのか、僕の後ろをぴったりと付けてくる。
 誰なんだろう、こいつ。距離を開けようと僕が歩幅を大きくした時、足音の主が僕の横に並び、ちょっと強めに肩を(たた)いた。
「やっぱり亮介(りょうすけ)じゃん。お前もこの道使うんだ」
 高橋信治(たかはししんじ)だ。僕より十センチ程高い視点から 、僕を軽く見下ろしてくる。
「ああ、まあ、たまにね」
「良いよな。なんか秘密の抜け道みたいで」
 はっきり言って、面白くなかった。それは信治がこの路地のことを知っていて、更には時折通っていた、ということを察してしまったからでもあり、信治がこの路地に対して僕と同じ様な感想を抱いていたからでもあった。他の誰かなら、まだ違ったかも知れない。何でよりにもよって信治なんだ。
 黙りこくった僕を尻目に、信治は軽薄なお(しゃべ)りをつらつらと口から吐き出していく。
「今日の体育のサッカー面白かったよな。グラウンドが滅茶苦茶(めちゃくちゃ)ぬかるんでたから、ちょっとぶつかるだけで皆転んでたじゃん。俺も転んだけど」
 僕と信治は同じ小学校出身だ。お互いが唯一の友達で、その頃は仲が良かった。身長は僕の方が二センチ高かったし、漢字テストの点数も毎回僕が勝っていた。信治が分からない宿題を僕が教えることもあった。
「あ、知ってる? 三組の大垣(おおがき)がわざとボールを泥まみれにしたの。あいつ西田(にしだ)ゴリラにすっげえ怒られたらしいよ」
 僕たちは、殆どの生徒がそうした様に、地元の中学校に入学した。そこから僕たちは色々おかしくなった。
「着替えの時間に上半身裸で廊下に引っ張り出されて、怒鳴り散らされたって。あー、西田ゴリラがキレてるの見たかったな」
 具体的には、信治の身長がかなり伸びた。足も速くなって、サッカー部の有望株になった。僕以外の騒々しい友達を沢山作って、四六時中話すようになった。
「てかさ、お前もあの泥ボールにぶつかって転んでなかったっけ?」
 変わってないのは、バカなところだけだ。あれはぶつかったんじゃない。お前のサッカー部のお友達に当てられたんだよ。
「体操服の上にボールの跡がくっきりついてて、亀の甲羅みたいですっげえ笑えた」
 信治はバカだ。バカ過ぎて自分のお友達が、僕をいじめていることにも気付いていない。僕が一緒に楽しんでいると本気で思ってる。
大島(おおしま)富田(とみた)も『亀亮介』って言って笑っててさ」
 一昨日の昼休みだってそうだ。大島たちと休み時間中ずっと僕の筆箱でキャッチボールをして遊んでいた。僕が休み時間の終了間際にどうにか取り返すと、日に焼けた満面の笑みで「楽しかったな」と言ってきた。悪気なんて一切感じさせない、最高の笑顔だった。
「あいつらネーミングセンスまじですげえよな」
 路地の終わりが見えてきた。素敵な下校になるはずだったのに。信治とまた鉢合わせるかも知れないと思うと、当分この路地は通れない。
「てかさ、お前ちょっとどんくさ過ぎるぞ。あのパスを背中で受けるって」
 僕は初めてちゃんと信治の顔を見た。半笑いで、ちょっと(あき)れたように、こっちを見ている。
「今度俺が教えてやろうか? ちゃんとしたパスの受け方」
 色んな何かが、ちょっとだけ溢れ出した。コップの縁から、表面張力でパンパンになったブラックコーヒーが、一筋伝ってテーブルクロスを汚した。
「なあって、『亀亮介』」
 信治は笑っていた。
 僕はコップをひっくり返した。
「信治は、分かんないの?」
「へ? 何を」
「僕が、さ、その、嫌がってるの」
「嫌がってるって、何を」
「上履き隠されたり、僕の本でサッカーしたり、ボールぶつけたりとか」
「え。でも、お前、笑ってたじゃん」
 僕はもう一度信治の顔を見た。心底不思議そうな顔で、首をかしげていた。僕は立ち止まる。信治も立ち止まった。
「じゃなくて、さ、本当に嫌なんだよ」
「じゃあ、笑ってないで、そうやって言えば良いじゃん」
 (いぶか)しげに眉をひそめて、信治は僕を指さした。
「お前さ、中学上がってから、なんか変だよ」
 そう言うと、信治は歩き出した。何でも無いように。
 僕はバカみたいに突っ立っていた。
 テーブルクロスは真っ黒になっていた。ブラックコーヒーはテーブルクロスの下の、立派なテーブルを溶かし始めた。
 なるほどね、と僕は納得した。そりゃああんなに苦くっても仕方が無い。何てったってテーブルを溶かすんだもの。
 しょうがないよね。そう思った。
 信治の背後に駆け寄る。その足音に気付いたのか、信治は僕の方に体を(ひね)った。振り向こうとしたのだ。
 僕は力強く右足を踏み込み、両手を目一杯伸ばす。開いた右手から傘が滑り落ちる。勢いをそのままに中途半端に斜めになった信治の腰辺りを、思い切り突き飛ばした。
 振り向きざまに突き飛ばされた信治は、後ずさりする形になって路地に面した歩道に押し出された。
 こっちを向きながら、信治は一歩二歩とよろける。
 バイクのエンジン音が、僕の耳の中で響く。
 信治は歩道の縁石に(つまず)き、縁石の車道側に出来ていた水溜(みずた)まりに尻餅(しりもち)をついた。泥水が跳ね上がり、信治はもろにそれを浴びた。
 呆気(あっけ)に取られた表情の信治は、当然のことながらその顔のまま路地に立っている僕を見た。
 僕は泥水まみれの信治を見た。
 突然くぐもった笑い声が、どこからか聞こえてきた。
 周りを見渡すと、反対側の歩道で二人組の女子高生が手で口の辺りを押さえているのが目に入る。
 その姿を見て、僕は気付いた。路地の外からは、薄暗くて細い路地の様子はかなり分かりづらい。だから彼女たちからは、まるで信治が不注意にも縁石に足を引っかけて、水溜まりの上に転んだように見えた。そういうことだ。
 二人組の一人が(つい)にはっきりと笑い出した。釣られたのか もう一人も。静閑な住宅街に笑い声がこだまする。
 自分の現状をようやく理解したのか、何か言いたげな表情の信治を見下ろしながら、僕は心の中で叫んでいた。
 笑えよ。
 笑ってみろよ。
 僕がしたように、ほら。
 信治は(うつむ)いて、小さく固い笑みを浮かべた。
 幼いプライドを押し潰して取り繕った、必死の微笑だった。
 僕ははっきりと、信治に聞こえる声で、言った。
「だっせえ」
 信治は苦しそうな微笑と困惑を()り付けた顔を、こちらに 向けた。僕は手加減無く、悪意をたっぷり練り込んで、嘲笑(ちょうしょう)で焼き上げたパイを、力任せにその顔へ叩きつける。
「だっせえ」
 水溜まりの上で座り込む信治を尻目に、僕は(きびす)を返して元来た路地を走り出した。
 笑い声はまだ止まない。
 信治は追ってこない。何故か僕はそれを分かっていた。
 細く長い路地をスキップで駆けていく。
 秋の風を肩で切って、黄金色の夕陽をバックに。
 スキップの勢いをそのままに僕は路地を飛び出すと、回れ右をして今度は坂を駆け上る。くたびれたサラリーマンを追い抜き、散歩中のおばさんとイヌを躱し、わらわらと下校する小学生の一団をすり抜けて、僕はぐんぐんスピードを上げていく。
 僕の脳の中からクイーンの「ドント・ストップ・ミー・ナウ」が(あふ)れ出し、辺り一帯に鳴り響いた。フレディ・マーキュ
リーの力強い歌声と勇猛果敢なピアノが、僕の背中を押す。
 最高だった。
 僕は走り続けた。解放感と爆発した鬱憤で、僕の足は回り続けた。
 遠くに小さく見えていた二階建ての一軒家が、あっという間に大きくなった。白い玄関のドアがみるみるうちに目の前に迫る。僕の家だ。
 肩で息をしながら、玄関を開ける。
「ただいま」
「おかえり。もうご飯できるから、手を洗って手伝ってね」
 母さんの声だけが台所の方から聞こえてきた。醤油(しょうゆ)と味噌の夕ご飯の香りがそこはかとなく漂っている。
「はーい」
 階段を上って自分の部屋に入り、電気を()ける。無秩序に漫画が詰め込まれた本棚の前に荷物を下ろし、椅子(いす)に引っかけてあった部屋着に着替える。ベッドに腰掛けて一息つきたかったが、母さんの言葉を思い出し、一階のリビングへと向かった。
 リビングのドアを開けると、味噌汁の温かい匂いが僕を包んだ。エプロンを着けた母さんはグリルから魚を取り出している。父さんはソファに座ってテレビを眺めている。
「ほらほら、テーブル()いてコップとお(はし)並べて。肉じゃが冷めちゃうでしょ」
「分かったよ、今やるから」
 母さんの小言も今日は気にならない。鼻歌を歌いながら台ふきを洗って絞る。
 包丁が食材を切り裂き、まな板に当たるリズムが台所からリビングへと流れ出す。
 とんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとん
「きゃっ」
 母さんの小さな悲鳴でリズムは途切れた。
「どうした」
 父さんが体を起こして台所を(うかが)った。
「ううん、何でも無いの。うっかりしてて指を切っちゃっただけ」
 母さんは第二関節から上がすっぱりと切り落とされている左中指を見せた。表皮と筋肉と骨で構成された断面が、はっきりと見えた。血が水っぽいトマトケチャップみたいに床を汚す。
「気をつけてね。昨日研いだばっかりだから、いつもみたいに使ってると大怪我するよ」
 父さんはそれだけ言ってテレビに向き直った。そう言えば昨日父さんが包丁を研いでたな、と僕は思い出す。
「ねえ、亮。切れちゃった指知らない?」
 母さんが洗ったばかりの食器が干されている食器かごを探りながら僕の方を見てきた。
「ええ、失くしたの」
「しょうがないじゃない。文句言ってないで探してよ」
 仕方なく僕と母さんは手分けをして、台所のあちこちを見て回ったが、さっぱり見つからない。仕舞いには火に掛けっぱなしだった味噌汁が吹きこぼれそうになり、母さんが慌てて火を止める羽目になった。
 母さんは諦めた様子で肩をすくめた。
「まあ、後で探せば見つかるでしょ。もうご飯にしようか」
 じゃあ僕が手伝わなくても良かったじゃないか、と言いかけて、止めた。僕は余計な争いを好まないのだ。
 食事をテーブルに並べ、コップにお茶を注ぐ。
「父さん、ご飯だよ」
「ああ、はいはい」
 父さんは名残(なごり)惜しげにテレビを消し、椅子に座る。母さんも席に着こうとしたが、エプロンを外していないことに気が 付いたようで、背中側にある結び目を解こうとした。
 が、中々手間取っている。
「解いてあげるよ」
「あら、ありがと」
 やっと全員がテーブルを囲んだ。走って帰ってきたせいか、 結構お腹が空いている。
「いただきます」
 僕は真っ先に肉じゃがを自分の小皿によそう。母さんは料理が上手なのだけど、カレーと肉じゃがが断トツで美味(おい)しい。
「で、今日学校はどうだった?」
「うーん、普通」
 父さんのお決まりの質問に、僕は適当に答える。
 何でこんな意味の無い質問をいつもするんだろう。そもそも何か特別なことがあったら、こっちから勝手に喋ってる。
 なんにも言わないってことは、本当に何も無かったか、親に話せないことがあったかのどっちかだ。
「もうすぐ定期テストのはずだけど、ちゃんと勉強してる?」
「ぼちぼちかな」
 母さんは的確に痛いところを突いてくる。僕はこれ以上の厳しい質問を回避するべく、味噌汁を(すす)った。
「ん」
 何かが味噌汁と一緒に口の中に入り込んできた。ソーセージみたいに細長い。()んでみると軟骨を硬くした様な気持ちの悪い食感が(あご)に伝わってくる。
「何? 髪でも入ってた?」
 母さんが心配そうに僕の顔を(のぞ)き込んでくる。
 口の中に箸を突っ込んで、異物を(つか)んで取り出した。
 出てきたのは指だった。
 味噌汁の中で()でられて、白く変色している。血の臭いが味噌の香りをかき分けて、僕の鼻の周りを漂っていた。
 ちょっとした沈黙の後、父さんが愉快げに笑い出した。
「大当たりじゃないか、亮。良かったな」
「ええ、何で味噌汁の中なんかに」
 母さんは驚いたように指を見て、
「早く生ゴミのところに捨ててきなさいよ」
 と言った。
 何故か僕は動けない。
 父さんはまだ面白がっている。
「亮、どうだった? 意外と美味かったろ」
「ちょっとお父さん。そういう冗談はやめて」
 母さんは父さんを(にら)みつけ、僕に向かってもう一度言った。
「早く捨ててきなさい。気色悪い」
 笑っている父さんを見つめた。
 しかめっ面の母さんも見つめた。
 バイクのブレーキ音が食卓に響き渡った。

 僕は目を開けた。部屋は薄暗い。
 ぼんやりとした思考のピントが少しずつ像を結び、ついさっきまで見ていた夢の内容を思い出した僕は、強烈な吐き気に襲われた。
 ベッドから跳ね起きてトイレに走る。電気を点ける余裕なんて微塵(みじん)も無い。
 ドアを開け、三点ユニットバスのトイレに顔を突っ込む。
 その拍子にすぐ隣の浴槽に肩を(したた)かにぶつけた。痛い。
 胃袋が裏返り、晩飯のカップ麺とコンビニのおにぎりが食堂を逆流して、口と鼻から吹き出た。
 母さんの中指の断面を思い出して、吐いた。
 母さんの中指の噛み応えと舌触りを思い出して、吐いた。
 父さんの笑顔と母さんのしかめっ面を思い出して、吐いた。
 徐々に吐き気の波が落ち着いていく。便器から顔をゆっくりと引き上げ、浴槽に背中を預ける。
 胃液で(のど)がかなり焼かれた。呼吸がしづらい。体をどうにか持ち上げて、洗面台に向き直る。
 吐瀉物(としゃぶつ)で汚れた口元を洗い、口をゆすぐ。蛇口に直接口を付け、冷たい水道水をがぶ飲みする。
 幾分か痛みがましになり、ようやく電灯を点けることにまで頭が回るようになった。
 蛍光灯のスイッチを押すと、さえない二十五歳のサラリーマンが鏡の向こう側に姿を現した。大きなクマを目の下に作り、皺のよったワイシャツを脂汗で湿らせている。
 あの夢は、いや悪夢は、殆ど事実だ。十二年前の出来事をそのままなぞらえている。
 違う部分はたったの二つ。母さんは指を切り落としていないということと、信治は水溜まりの上に転んだわけじゃないってことだ。
 あの日あの時、僕に突き飛ばされた信治は、縁石に躓いて速度超過と脇見運転をしていた大型バイクに、僕の目の前ではねられた。
 信治の体は吹き飛んで、大型バイクも運転手を投げ出して横転した。愚鈍で自己中心的な中学一年生の僕でも、信治がもう死んでいることは明確に理解できた。
 目撃者は誰もいなかった。僕以外は。
 僕はその場から一目散に逃げ出した。でも走ったのは路地の中だけのことだった。小賢(こざか)しい僕は他の通行人に怪しまれることを恐れ、努めて平静を保っているように見せかけるため、いつもの様に歩いて帰った。
 十数分後、気絶していたバイクの運転手が目を覚まし、一一〇を押したらしい。家でそのサイレンを聞いた母さんは、どうしたんだろう、と言った。父さんはテレビを見ながら、さあ、とだけ言った。
 僕は何も言わなかった。
 次の日、学校で全校集会が開かれた。内容は、この中学校の生徒が交通事故で死んだ。その生徒は通学路以外の道で下校していた。くれぐれも通学路以外の道を登下校に使わないこと、というものだった。
 僕は何も言わなかった。
 家に帰ると両親も既に事故の全貌(ぜんぼう)を知っていた。報道では()かれた中学生が見通しの悪い路地から飛び出してきた、ということになっていた。母さんは僕に、死んだのは小学生の頃から仲の良かった高橋信治だと聞いているが本当か、と問うてきた。
 僕は何も言わずに(うなず)いた。
 母さんは、かわいそうに、きっとショックよね、と言った。
 皮肉にもそれはその通りだった。父さんは仕事で家にいなかっ
た。
 その夜以来、僕は時折悪夢を見るようになった。
 両親が人ほどもあるナメクジとカタツムリになっていた時もあった。僕がシャープペンで両親を惨殺するのもあった。
 多種多様な悪夢が僕を度々襲った。悪夢を見るタイミングに規則性は無く、一ヶ月丸々見ないこともあれば、一週間見続けることもあった。
 洗面台の時計を確認する。五時五十分だった。
 今のうちに仕事に行く準備をしておこう。僕は鏡から目を離し、汗を吸ったワイシャツとスーツのズボンを脱いだ。家のあちこちに散らばる洗濯物を拾い集めて、洗濯機の中へ放り込む。
 あの日以来、僕は自分の中に「僕」と「人殺しの僕」が同居しているのを自覚するようになった。
 悪夢を越えた朝、昨晩の夕食と胃液の混合物で便座と床を汚しながら、「僕」は切に願う。
 これで最後だと。これで果たされたと。
 そんな時、「人殺しの僕」は「僕」を尊大に小突き、厳かに
わめき立てる。
 この凄惨(せいさん)な悪夢こそが、唯一の恩寵(おんちょう)なのだ、と。
 洗濯機に洗剤を入れ、スイッチをオンにする。
 もう一度鏡の前に立ち、顔を洗って(ひげ)()るために剃刀(かみそり)を手に取った。
 悪夢はこの十二年間、常に僕を悩まし続けた。毎夜眠りにつく前に、今夜は大丈夫だと自分に言い聞かせながら、睡眠薬を口に含む。
 悪夢を見た後の朝は言うまでも無く、たとえ見なかったとしても、それは何千何万の内のたった一夜をやり過ごしただけだということを、僕は身をもって理解していた。
 髭を洗い流し、歯を磨く。口に歯ブラシを突っ込んだまま、昨晩買い込んでおいた惣菜パンを、色んな物が乗っかっている冷蔵庫の上から一個だけ引っ張り出す。
 これだけの苦悩を抱え込みながら、一方で悪夢が今の僕にとって必要であることも、頭の隅の方で理解していた。
「人殺しの僕」が(ささや)くのだ。
 これは贖罪(しょくざい)だ。そして免罪符だ。
 ただし、「高橋信治を殺した罪」に対してでは無く。
 僕が真人間として今日と明日と明後日辺りまで生活するための。
 惣菜パンを口に詰め込み、水道水で流し込む。もう一度時計を確認し、クローゼットから比較的皺が少ないワイシャツを探し出す。
 もしこの囁き声が的を射ているのならば、悪夢は終わらないだろう。
 後ろめたい日常に、別れを告げない限り。
 ネクタイを締める。そろそろ出発だ。
 玄関に移動する。
 傷だらけの革靴に靴べらを突っ込んで、足を無理矢理ねじ込んだ。火曜日に出し忘れた燃えるゴミを避けつつ、鞄を持って玄関を開けると、ドア越しに何か重たい物を突き飛ばした
 衝撃が伝わってきた。
 その衝撃は手に、腕に、肩に、全身に伝わった。身に覚えがあった。心臓が悪魔に(わし)づかみにされ、有り得ないほど収縮した。気味の悪い耳鳴りが脳を貫いた。
 ドアを開け放つと、信治の姿がいた。
 ドアに押されてよろけたように車道へ体を投げ出している信治がいた。
 そして、今まさに大型バイクが信治に激突しようとしていた。
 その光景が僕の目の前で、粘性の高い液体に鉄球を投げ込んだように、スローモーションで展開されていた。
 思わず目を瞑ろうとするが、僕の(まぶた)もスローになっている。
 信治に大型バイクが接触する。信治の体がゆっくりとくの字になり、背骨がへし折れる音が僕の鼓膜を震わせる。
 信治の目が今にも飛び出しそうな程に見開かれ、口から舌が飛び出し、くの字の体が徐々に宙に浮いていく。
 唐突に時の流れが元に戻る。信治が吹き飛んでいき、バイクも横転して豪快に転がっていく。
 僕はどうにか一度だけ(まばた)きをした。
 目を開けると、吹き飛んだはずの信治が目の前にあった。
 首はあらぬ方向に曲がり、両手両足はひしゃげていた。どこからか吹き出した血が、色んな体液と混じり合って臭くて汚い水溜まりを作っていた。
 見上げると空は黄色と青色で渦巻いていて、翼の生えた鼻が上空を何匹も羽ばたいていた。
 全裸の中年の男が、電線にぶら下がって痙攣(けいれん)しながら煙を上げていた。
 遺影を胸に抱えた老紳士が、タップダンスを踊るちょび髭の男に拳銃を突きつけていた。
 口の中を血まみれにした歯の無い女子高生が、道端のタンポポに土下座をしていた。
 頭にゴミ袋を被った少女が、笑顔を浮かべた郵便ポストと肩を組んで手を振っていた。
 スーツ姿の若い男がカッターナイフで腹を切り裂き、傷口から名刺を取り出していた。
 花柄のワンピースを着た老婆が、泣きじゃくりながら手の爪を(むし)り取っていた。
 選挙カーが「幸せはあなたの手に!」と(わめ)きながら、注射器をばらまいて走り去った。
 遠くの方で巨大な大仏が、乳色の涙を流しながら街を踏み荒らしていた。
 僕が人生で発してきたありとあらゆる笑い声が、(はる)彼方(かなた)から延々と響き渡ってきた。
 呆然と辺りを見渡す僕の目に、一人の少年の姿が飛び込んだ。
 学ラン姿の少年は()びて赤茶けたパイプ椅子の上に直立し ている。首にはロープが巻かれていて、そのロープは天空から(つる)されていた。
 少年はおもむろに顔を上げて、満面の笑みでこちらを見つめた。右手でピースサインを作ったかと思うと、椅子を力強く蹴飛ばす。
 少年の体重で、たわんでいたロープが一気に張り詰め、「びーん」という不愉快な音を発した。
 僕はその場にへたり込む。震える(ひざ)を抱え、顔を押しつけて、一心に目を(つむ)る。

唾と蜜 / 中野弘樹 作

唾と蜜 / 中野弘樹 作

【拭えない唾と蜜に、溺れていく】

  • 小説
  • 短編
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-02-14

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 1
  2. 2