あめふる大陸 / 双月意沙 作

ちゃぷん、ちゃぷん、……と、水の波打つ音がする。
 私は眠ったまま、耳もとでこだまするその音を聞いている。
 包むようにゆったりと揺蕩(たゆた)う、冷たく豊満な水の波に、私の身体は浮かぶでも沈むでもなく、ただ静かに揺られていく。全身をだらりと弛緩させて、波に導かれるままに漂いながら、私は言いようのない幸福感で満たされていた。
 ずっと。
 ずっと、ここに居続けたい。
 漫然と光を(たた)えた清水のひんやりとした感触に、体温が溶け合っていく。そのまま大きく息を吸って吐くと、深いところから天井まで、ゆっくりと循環する透明な流れの一部になれた気がした。
 そのとき、底の方から突然現れた激流が背中を押し上げた。私は目を開く。そして、はっと息を呑む。眩しく透き通る視界の向こう側に、それはいた。
 神龍。激しい水の深さごと、飲み込んでしまうような、巨大な水の生きた塊。深く深く響きわたる唸りを上げて、躍り上がり、私を通り抜けてなおも止まらない。水と水がものすごい勢いでぶつかり合い、轟音を立てて砕け散る様が、山を、街を、世界を震わせては通り過ぎた。龍の滑らかな肌を幾重にも覆う透明な鱗が、乱反射のようにきらきらといくつも輝いていた。
 私の喉からは、声にならない叫びが無数の泡となって漏れ出るばかり。それは瞬く間に水流に掻き消され、光の中に虚しく溶けていく。
 ひとすじの弧を描いて駆け抜けた力強い唸りは、しかし、どことなく苦しそうな響きをも含んでいた。私は舞い上げられた反動で沈み込みながら、龍の向かった蒼穹(そうきゅう)の彼方へ必死で手を伸ばす。
 ――待って!
 掴みかけた水は手から零れ落ち、龍の姿はあっという間に見えなくなった。一瞬の嵐が去ったあとで、いっそう冷たく仄暗(ほのぐら)く影を落とした水の街が、茫然と佇む幼い私を憐れむように見つめていた。


 気がつくと、青い水面の代わりに頭上にあったのは、朱や金色で豪華に装飾された天蓋だった。いつの間にか私は、柔らかい布団に背中を沈めて仰向けに転がっていた。そこから目線だけを動かして周囲を窺うと、寝台のそばには色鮮やかな花がこれでもかと飾られ、壁にも絨緞(じゅうたん)にも手の込んだ曲線模様が煌びやかに這っている。寝室にしてはやや広い室内は程よい湿気に包まれていて、微かに香る甘美な匂いも相まって妙に心地よい場所だった。
 夢なのか現実なのか判断がつかず、転がったまましばらくぼうっとしている。ここはどこなのだろう。自分がなぜ、いつからここにいるのかもわからない。記憶の糸は気を抜けばふつりと途切れてしまいそうで、慎重に、僅かに胸に残るところから少しずつ手繰り寄せていく。
 あの時。深く響く、水の音。天に駆け上がっていった巨大な龍。そして――。
 はっとした。
 世界は。
 寝台から飛び起きて急いで部屋を抜けると、しっとりした甘い空気は乾いた冷風に変わってしまう。悪い予感がして足を早めながら、私は階段を駆け下りた。建物はよほど高いらしく、想像以上に長く階段が続いている。いったいどのくらい眠っていたのだろう。動き方を忘れた足は何度ももつれて、転びそうになる。構わなかった。愛していた世界が、あの時、本当に、消えてしまったのだとしたら。
 長い階段を半ば転げ落ちるように降りた先に現れたのは、黄色く渇ききった一面の大地。それは、全ての希望が、ひとつ残らず去ってしまった跡だった。

第一章 駆り立てるもの


 そびえ立つ建物の影に色濃く染まる荒原を、進む。仰々しい人工物の(むくろ)がひしめき合う街には、どこを見渡しても雑草ひとつ無く、木は完全に枯れたものがまばらに残っているだけだ。
 虚ろな音を発して荒野を渡る風に、秋の匂いがしていた。
 それでも、快晴の日差しが若干傾いて照らす日向に出れば、熱せられた地面からの照り返しに肌が焼かれる。辺りを見渡すと、寝室のあった塔を中心に、ざっと見ただけでも数十軒の大小の建物が一緒になって城壁に囲まれていることがわかった。平原にぽつんと建つ要塞のような出で立ちだ。奥のいちばん大きな建物は城か、それとも宮殿か、とにかく偉い人がかつて住んでいた場所に違いない。華美な装飾に似合わずひび割れた外壁が、長らく手入れされていないだろうことを思い知らせる。
 自分はなぜこんな場所にいて、なぜ他に誰もいないのか。困ったのは、それが何ひとつとして心当たりの無いことだった。人か、食糧か、もしくは何か状況を掴む手がかりになるものがあればよいのだが、あいにくそういったたぐいのものは未だ見つからない。
 左手で汗を拭い、建物の陰に腰を下ろす。久しぶりに動いたからか、妙な疲労感が全身を侵していた。これからどうしたらいいのか。答えを出すには頭が重すぎる。膝を抱える手のひらには、ちょうど蛙の水かきのような薄い膜が広がっていた。それを何とはなしに眺めながら、とりあえず飲み水を探そう――と思い立つ。
 立ち上がろうとする前に、私は思わず顔を上げた。砂混じりの空気の中に、微かな人の匂いがしたのだ。微妙な気配はすぐに乾いた足音に変わり、まっすぐに近づいてくるのが壁越しにわかった。一歩、一歩と砂を踏み分けてこちらへ向かう。どうやら先に気づかれていたらしい。
 まだ、人がいたんだ。
 私は安堵の息をついて、足音のする方へ駆け出す。夕陽の沈みかけた方角に、砂色の外套に身を包んだ小柄な人間が立っていた。逆光に隠れて表情まではわからない。近づくと、その人は足を止めて短剣の柄に手をかけた。はっと気づいて、私も歩みを止める。
「何者だ」
 頭まで覆った布の下の、紅い唇がまっすぐに問いかけてくる。(とび)のようによく通る、凛とした少女の声だ。
言葉は、わかる。しかしその問いに対して、私は何も答えることができなかった。声が出なかったのだ。たとえそうでなくとも、記憶の大部分は未だどこかに埋もれていて、自分がいったい誰なのかすら思い出せない。
「答えろ。なぜ生きている」
 二十歩は離れているが、ものすごい剣幕だ。手のひらがじわりと湿ってくる。何か話さなければと焦るだけで、固まった喉は言うことをきかない。
「――、少し、話を」
「物の()のたぐいめ!」
 人間の少女は腰に携えた短剣を抜き放ち、その勢いのままに突っ込んできた。とっさに跳びすさって避けようとするが、反応が遅れ、身体をわずかに引くくらいが関の山だった。その瞬間である。
 砂地に踏み込もうとした(かかと)が、空を切った。何が起こったのか悟るより早く、地面に不自然に開けられた穴に落ちてしまう。衝撃とともに軽いもの同士が軋む音がして、尖った物体が背に当たる痛みに私は思わず呻いた。
 しまった、と思った。これでは完全に身動きがとれない。しかし、とどめの斬撃の代わりに降ってきたのは、少女の冷たい視線だった。外套の布に収まりきらない分の髪が淵から垂れ下がっている。目が合い、ひとまずほっとして立ち上がろうとするが、足場は不安定で思うように立てなかった。
 嫌な感じがして、おそるおそる自分の足元に目を落とす。そこに無数に転がっていた物体を見て、肌がぞっと粟立つのを感じた。
「……骨」
 穴の底を埋め尽くしていたのは、大量の人骨だった。目を見開いて外に視線を向けると、彼女も同様に驚いた表情でこちらを凝視している。
「それは」
 少しの沈黙の後、やにわに手首を掴まれた。
(みず)()りの一族……?」
 目が合う。一瞬何を言われているのかと思ったが、その言葉にうっすらと聞き覚えがあった。
 水守り。人間界では、自分はそう呼ばれていたらしいことを思い出した。なんだそっちか、と勝手に(すか)された気分になった私をよそに、少女は私の手についた水かきを食い入るように見つめている。
「名は?」
 研ぎ澄ました剣先のような視線を、改めてこちらへ向ける。私はそのまなざしから逃れるように空を仰いだ。記憶すら曖昧なままで新しいことが次々と起こるのだから、頭が痛くなりそうだった。
 名前は、確か……そう。
「――ジウ」
 そう、確かそんな感じの名前だった。口をついて出た響きはどこか懐かしいけれど、同時に、すごく大事な部分に(もや)がかかっている気がする。最後に呼んでもらったのはいつだったか、誰にだったか。なんにしても、遠い昔のことのように感じてしまう。
 少女がしきりに何かを呟いているのに気づいて、意識をこの場に戻す。いつの間にか手は離されていた。
「あの一族は二年前に滅亡しているはず。まさか生き残りがいたというのか?」
 彼女は独りごとのようにそう言ってから、しかも、と付け加える。
「……なぜおまえのような水守りが皇帝の居城にいる? 今までどこにいた」
「皇帝?」
 聞き返すと、「知らないのか」と少女はわずかに驚いた調子で言った。そして、その名を口に出すのも嫌だというふうに苦々しげに続ける。
琅関(ろうかん)(てい)だ。世界をこんなにした張本人で、稀代の暗君――人の心がわからないクズさ。奴は取り返しのつかない大罪を犯し、神龍に見放され、果てはこの世からほとんどの生命を奪って消えた。二年前の話だ」
 ほう、と少女はため息をつく。彼女が言っていることの大半を私は理解できなかった。それより、早くこの気持ち悪い場所から抜け出したくて、足をかけられそうな凹凸(おうとつ)がないか探ってみる。
 おもむろに少女が立ち上がった。穴から這い上がろうと試みる私に手を貸すこともせず、城壁の方へひとりで歩き去っていく。
「おまえのことを詳しく聞かせろ。私には、ここで起こっている全てを知る必要がある」
 そう聞こえたときには、小さな影は視界の端に消えかかっていた。

  *

 中心の塔のさらに奥に、床が一段高くなったひときわ大きな建築がある。ユンファと名乗ったその少女が語るには、琅関帝という人物が二年前まで政治を取り仕切っていた拠点が、この建物だということだった。一国の司令塔というだけあって、目眩がしそうなほどに立派な宮殿だ。
 ユンファは先立って宮殿に上がっていくと、慣れた様子で廊下を進み、突き当たりの広間へ入っていった。広間には円卓といくつかの椅子があり、そのひとつに私を座らせて自分は向かい側に腰かける。
「詳しい話を聞かせてもらう。おまえはどこから来た? (ぞく)(こく)の方か、それとも山脈の向こう? 歩いてきたのか、外の様子は――」
 卓に身を乗り出してまくし立ててから、はっと気づいたように口をつぐんだ。
「……すまない、こうして人と話すのは久しぶりでな」
 話せることは何でも話してほしい、とユンファは言うので、私もゆっくりと口を開く。
「……私は、ここの向かいの、高い塔の中で眠っていました。目が覚めたのは、ついさっきのことで。気づいたら知らない部屋にいて、いつから眠っていたのか、全く記憶が無いのです。だから、今がいつなのか、ここがどこなのかも、わからない」
 いざ言葉にしようとすると、うまく繋がらずにぎこちなくなってしまう。それを、彼女は黙って聞いていた。
「それで、他に覚えていることは無いのか。以前に暮らしていた場所とか、会った人間のこととか」
 神妙な面持ちでユンファが尋ねる。さっきより幾分か落ち着いているものの、表情の真剣さは変わらない。
 私は記憶をたどる。以前に暮らしていた場所。その風景に、ひとつだけ心当たりがあった。
「ふるさとは、冷たく、美しい街でした。泳いでいると、大きな龍がいて、街を飲み込んで、空に上がって、それで――」
 そこで言葉に詰まってしまう。夢はその時点で終わりだった。しかし、それは夢でありながら確かに存在する過去の断片でもあり、それが唯一の記憶ともいえた。あの時感じた心地よさと高揚感はただの幻でないことを、私は確信をもって言うことができる。掴もうとして零れ落ちた、水面の向こうの青空の光。その感触がわずかに残る水かきを指でそっと撫でると、世界を揺らす咆哮が再び響いてくるような気がした。
「そういうことか」
 彼女は目を伏せて、ただそれだけ言った。その後、立ち上がって奥の透かし窓の方へ歩み寄る。窓の先では、昇りかけの細い月が白々と浮かんでいた。外は庭園風にしつらえられているが、池には月光を映す水も無い。
「少し、嫌な話をする」
 ユンファはそう切り出した。
「――今からちょうど二年前、神龍が突然姿を消した。そのことが意味していたのは、すなわち人の世の滅亡だった。その日から二度とこの世界に雨が降ることは無く、土は砂に、人は骨になった」
 広がる砂地と、窪みの底で見た大量の人骨が脳内をよぎる。
「神龍って」
「ああ、おそらく、おまえが昔見たというそれだ」
 巻き上がる水流と、街を揺るがすほどの咆哮。生物というよりは、水の塊と言っても差し支えないだろう。あの日、駆け上がる巨大な影を追いかけることすらできず、私は街にひとり取り残された。もしかすると、あれが人と龍の最後の邂逅(かいこう)だったのかもしれない。
「知っているだろうが、万物の根源は水だ。そして、水を創造し、水からありとあらゆる物質を創造する役割を担うのが、神龍という存在。古来、人々は神龍と心を通わせることで、その恩恵にあずかってきたのだ。しかし、もはや人と龍の絆は断ち切れてしまった。つまり、私たち人間は生存するすべを失くしたのだ」
 知らない単語が多すぎて、私は曖昧に頷く。ただ、人は龍がいないと生きていけなくて、その龍がいなくなり雨が降らなくなった途端、みんな死んでしまった――とだけは理解できた。唾を飲み込んで、次の質問を投げかける。
「それで、もう世界には誰もいないの」
 ユンファの他に、生き物の気配は無かった。静寂の街。がらんどうの城。彼女はここで、二年もひとりきりで過ごしてきたのかと考えると、気が遠くなってしまう。
「私ひとりだけだ。いや……おまえがいるから、ふたりか」
人間が水無しで生存できる期間は、せいぜい五日ほどといわれている。それなのにおまえが二年も生きていられたのは、特別な力で守られた空間にいたからだろう。そう彼女が解説してくれた。
謎は、ひとつ解けた。それじゃあ、と私はさっきから気になっていたことを問うてみる。
「ユンファは、二年間どうやって生きてきたの?」
 彼女は何か言おうとして、それから黙った。もはや夕陽の残滓(ざんし)だけがほのかに照らすだけになった部屋に、私の声だけが取り残されたように響く。まずいことを言ってしまったか、と焦りが生まれたとき、ユンファは小さくかぶりを振った。
「……今は、まだ訊かないでくれ」
 温度のない声に、つんと背筋が冷えるのを感じた。しかし彼女を見るほどに、切実に知りたいという思いが次から次へと募っていく。この二年間で、世界に何があったのか。私はなぜこの場所にいて、何をなすべきなのか。
 私は再び窓の外を見やった。遠くに見える東の山脈はすでに闇夜に飲み込まれている。そのどこかに、故郷はあるのだろうか。もし願いが叶うなら、もう一度、あの美しい水の街に帰りたい。生かされた意味を知りたい。深く暗い静寂は、切なる願望さえ飲み込んで消してしまいそうで、手のひらを胸の上で握りしめるのが私には精一杯だった。水かきの輪郭を指で何度なぞってみても、記憶は何も教えてはくれない。

 唐突のことだった。
 ある夕暮れ、ユンファが私に「世界を救済する気はないか」と尋ねてきたのだ。
 塔で目覚めてから数日、私と彼女は城にとどまって暮らしていた。日中は宮殿の書庫などで過ごし、眠るときだけ塔の寝室に戻る。朝起きる頃には、身体は潤って体力も回復しているのだから不思議だった。
 私は突然の提案に面食らってしまう。
「それって、どういう」
「この、全てが消えてしまった大地をおまえも見たはずだ。二年前までこの大陸はもっと美しかった。だから、世界をもとの姿に戻すために手を貸してほしい」
 ユンファの言い方はどこか白々しく、本当かなと思ってしまった。彼女がここで嘘をつく理由も思い当たらなかったから、気のせいだと思うことにする。
「ところで、(たん)(すい)の場所はわかるのか」
「湛水?」
 そう聞き返すと、ユンファは「ああ」と短く唸って言った。
「前に言ってたおまえの生まれ故郷のことを、人間界ではそう呼んでいる。山間(やまあい)にある集落だとは聞いているが、なにせ皇帝家が詳しく話したがらなかったから、私もあまりよく知らないんだ」
 今度は私が唸ってしまう番だった。記憶の中には確かにあるけれど、それがこの城とどういう位置関係にあって、私がどうやってここまで移動したのか全くわからないのだ。記憶が抜け落ちてしまっているのかもしれないし、もともと知らないだけかもしれない。どちらにせよ、答えは判然としなかった。
「わからない」
 正直に口にすると、「そうだろうな」と彼女は頷く。思いがけず故郷の話題が出たので、私は我に返ってせっついた。
「私の街が、世界をもとに戻すのに関係あるってこと?」
 彼女は、呼吸ふたつ分を置いて、答えた。
「ある」
 その表情は少しだけ笑っていた。私は彼女が笑った顔をその時初めて見た、気がする。
「いいか、これはリガイノイッチだ。おまえは故郷に帰りたいと願っている。そうだろう? で、私は世界を復活させたいんだ。そのためには湛水に行くことが必須。だから私たちはそこへ向かう。簡単な話さ」
 幼子を諭すような声色のわりに、難しい言葉を次から次へと連発する。掴みどころのよくわからない人だな、と思いつつ、私は気づけば頷いていた。
 準備はしておけよ、と釘を刺して少女は広間を後にする。窓の外では、山脈もそれに続く街道も、完全に黒く染まってその影を夜闇に沈めていた。

第二章 神代の随


 宮殿の裏側の抜け道から壁の外に出ると、荒涼とした世界が際限なく広がっていた。城壁を囲う堀は完全に干上がっていて、底には砂が積もっている。城の裏手には土堤の痕跡が長く伸びていた。ここからしばらくは平原が続いて、やがて川はその先の小さな交易街へと至るようだ。
記憶にある湛水の街は、切り立った崖のあいだの深い谷にあった。そのため人間社会からはほとんど完全に隔離されていて、外部の者が来ることも無いに等しかった。数年に一度降る豪雨が街全体を水で満たすとき、水守りたちはその中を泳いで暮らす。雨水は崖からあふれて、川を伝って下界に流れていく。その川の跡をさかのぼって上流へ行けば、やがて湛水にたどり着けるかもしれない――。私がそのことをユンファに伝えると、彼女は「わかった」とだけあっさり言って、すぐにでも先へ行こうとした。その表情は、少しだけ焦燥しているようにも見える。
 城を出るとき、大きめの皮袋をひとつ持たされた。その中身は主に干し肉や穀物などの保存食で、ユンファも同じものを携えている。彼女はまた、綺麗な細工の施されたガラス瓶を持っており、驚くべきことに中には水が入っていた。決して触らせようとはしてくれなかったものの、その瓶があればしばらくは大丈夫だとユンファは言う。
 城下町は賊国と呼ばれる地域に面していて、関係が悪くなりつつあった賊国を見張るために構えられた戦争のための設備だったそうだ。つまり、要塞というのは本当らしい。
 実は、本来の政治の中心地は別にあって、朝廷がここを拠点に活動していたのは直近の数年だった。そうユンファが教えてくれた。
「あの琅関帝は、馬鹿げた計画のためにこんな辺境地に住居を構えたのさ。この地に移ったときから気が違っていた、という者もいたが、いずれにせよ計画は大失敗。所詮はその程度の人間だった、ってことだと私は思う」
 ユンファはそんなことを言っては笑う。話の内容から察するに、彼女は皇帝のことをひどく嫌っている。何か並々ならぬ事情があるのだろう、と思ったが、深くは訊けなかった。

 (てん)(りん)と名のついた交易都市に到着したのは、すでに陽が高く昇った頃だった。昼前後は日差しが強く体力を奪われやすいから、朝や夕方の間に歩を進めて昼と深夜は休憩しよう、という話になった。
 街道を通り抜けて街へ一歩踏み入れると、舞い上がる砂埃が視界を遮る。砂が目に入らないように片手を上げながら、私はユンファの姿を見失わないよう後に続く。
 街は吹きさらしの風にかなり浸食されていて、人はおろか虫一匹の影さえなかった。道の縁石に腰かけ、私たちは同時に息をつく。
「疲れた顔してるな」
 微笑しながら、ユンファが鞄から瓶を取り出した。促されるままに両手を差し出すと、冷たい水が手の中に小さく溜まる。零さないように慎重な動作でそれを飲み干すと、一瞬にして旅の疲れが吹き飛んだ気がした。彼女もまた一口飲んで、まだいるか、と瓶を細かく揺らす。
「なくなってしまう」
 私は心配になって、手のひらでそれを押しのけた。目指すところの山脈はまだ遠く、水が無くなれば旅を続けられないばかりか、生きてすらいられないだろう。第一、瓶の中身はふたり分にしてはどう考えても少なすぎだ。
「まあ、見てるといい」
 機嫌がよさそうにそう言って、ユンファは道端に転がっているこぶし大の石を拾い上げる。何をするのかと見ていると、彼女は石を瓶の口に当て、そのまま片手で石を思い切り握った。
 私は絶句した。まるで果実を絞ったかのように、石は透明の液をぽたぽたと垂らしながらみるみるうちに小さくなっていく。気づけば彼女の手から石は綺麗に消えていた。
「石では、ほとんど増えないな」
 呟きとともに瓶の蓋が閉められるのを、私は茫然と眺めることしかできなかった。ユンファは私の表情を見て、しかたないというふうに解説を始める。
「神龍は水を創造し、水からあらゆる物質を創造する――そう、前に話したな。鉄や木や、地面の石ころに至るまで、世界のおよそ全てのものは水を元素として神が創ったものなんだ。そして」
 瓶に入った水を空にかざす。白昼の光を透かして輝く瓶は荘厳な龍の形をしていて、今にも動き出しそうだった。
「龍使いの血を引く私は、神龍が創った物質を水に還す能力をもつ。その力を使うには、この瓶が必要だ」
 初めて聞く話に、ふうん、と感心する。それなら、飲み水にはよっぽど困らないではないか。彼女が生きてこられたのだって、たぶんこの力のおかげだろう。思ったが口に出すのはやめた。なんとなく、それだけではない気がする。
「水守りと龍使いは、どう違うんだろう?」
 代わりに、私は率直な疑問を口にした。ユンファはしばし考えて、それからゆっくりと答える。
「水守りとは、人里離れて暮らし、神龍が創った水を人間界に届けるための存在。限りなく人に似ていながら、人とは一線を画す、あえかな民……寿命は約十年で、身体が弱い代わりに水中・陸上どちらでも暮らすことができる――と宮殿書庫の文献にはあった」
「確かに水でも息ができる、けど、ずっとは居られないよ。それに、最近では十一年くらいに命が延びてる」
 私は細かい部分を訂正した。ユンファは「どっちでもいいだろう」と軽くあしらって、話を続ける。
「我々龍使いは、神龍と対話することで神々に人間界の意思を伝える役目を担う。転じて、さっき話したように神の創造をもとに戻す行為を許された一族だ。少し前までは皇帝家がその役割を負っていた、しかし今は違う。代々選ばれた者だけが、一族に伝わるこの瓶を受け継ぐことになっている」
「それじゃ、ユンファはそれに選ばれたんだ」
「……私は盗んだだけだ」
 彼女はぶっきらぼうに吐き捨てた。繊細な曲線形から漏れる光が、先ほどより少し(かげ)っている。
「龍使いと水守り、ふたつに共通しているのは、どちらも神々と人間界の中間を取り持つということだ。神と人の絆が切れたのは、果たしてどちらの仕業か――それとも」
 それきり黙って、ユンファは立ち上がった。ふうと息をついて振り返り、「食事にしよう」と呼びかける。腹が減っていたことを急に思い出し、歩き去っていく彼女の姿をあわてて追った。


 いくらか日差しが和らぐのを待って、私たちは再出発した。北東へまっすぐ伸びる土堤に沿って、ひたすら歩いていく。
 道すがら、私はユンファから聞いた話を思い返していた。
 世界の全ては、水から創られている――。
 にわかには信じられないほど、ユンファの話には驚きがあふれていた。建っている家も、干からびた倒木も、彼女の手にかかれば一瞬で水に還すことができる。私はそれ以来、水とはなんなのかと何度も考えるようになった。水とは、神の意思。万物のエネルギー。世界、そのもの。ユンファは様々な言葉を並べたが、どれも私にはピンとこなかった。
「人間の言葉は、難しいね」
 荒れ果てた夕暮れの田園地帯を並んで歩きながら、私はそう言ってみた。ユンファは微かに眉を上げてこちらを一瞥したあと、視線を前に戻して小さく答えた。
「ああ、難しいさ。どんなに伝えようとしたって、全部が伝わることは無い……。なんなら、半分も伝わらないことの方が多い」
 長い後ろ髪が、夕焼けの橙色に照り映えるのを私はなんとなく見つめていた。砂地を踏みしめる足音は、なかなかそろわない。
「私が考えていることは、どれくらいきみに伝えられているのかな」
「さあ。……知らない」
 さえずる鳥も、ざわめく木の葉も無い。死んだように渇いた大陸の真ん中を、私たちは無言で歩く。
 川は、農村の跡を抜けた地点でふたつに分岐していた。山脈の北と南、両方の小川が合流して大きなひとつの流れになっていたようだ。
 どうする、とユンファが問う。私はそびえ立つ山へじっと目を凝らした。故郷のありかは、こうして外から眺めてみたところで、全く見当がつかなかった。
 仮に間違えたとしても、また別の方へ向かえばいい。しかし、あの険しい山脈を何度も登るのはなかなかに骨が折れるだろう。早くたどり着けるに越したことは無い。
 私はあることを思いついた。雨が降らなくなって二年、と彼女は言っていた。ということならば、可能性がある。
「少し待ってて。……水の匂いが、まだ残っているかもしれない」
 私は崩れかけた土提を乗り越えて、川の分岐点に降りた。身をかがめ、土の表面に鼻先を近づけてみる。
 違和感が訪れたのは、その直後だった。
 匂いを確かめようとした瞬間、何かが頭をもたげる感覚がしたのだ。妙に気分が悪くなって、意識が宙に浮く。
「ジウ!」
 ユンファが呼びかける声を辛うじて認識する。が、何も見えていないことに気づいたときには、いつの間にか川底に突っ伏していた。必死に起き上がろうとする気持ちが、全く動かない身体から離れて遠くに行くような感覚。形容するならば、恐怖だった。
 無意識のうちに抑え込んでいた過去のことを、たった今思い出しかけたような気がして、それがとてつもなく恐ろしかった。目の前を塞ぐ闇に、しかし、抵抗するすべは無い。

  *

 人は、その街を湛水と呼ぶ。湛える水と書いて、湛水。
 数年に一度、神龍が豪雨をもたらすときには、その名の通り街全体がたっぷりと雨水で満ちるのだった。水守り一族の手にある水かきはその時のためにある。心臓が鼓動を打って全身に血液を送り出すように、この街は、大量の雨水を大陸中に行き渡らせる役割を担うのだ。
 神々と人間界のあいだに立って、神が創った水を人々のもとに届ける――。それがこの街に住む一族の役割だと、誰かが言っていた。しかし、私たちはそんな使命感を抱きながら暮らしてきたわけではない。ただ、外界から隔絶されたこの地で、何も知らずに生きていた。一つで生まれ、五つになれば一人前、十になれば死ぬ。それほど短命なのは、この世界について何も知ってはいけないからだ。
 私は、この街がただただ好きだった。とても美しい街。波に揺られながら、自由に泳ぎ回るのが好きだった。神龍の身体は大きくて、優しくて、全てを包み込んでくれるみたいに温かかった。神龍が去ったあと、次に来てくれるのはいつだろうか――とずっと心待ちにしていた。
 その日が来るまで知らなかったのだ。
 終わりは、一瞬にして訪れるものだと。

 一面、黒々とした炎が蠢く。煙に染め上げられた熱風を幾多の雄叫びがつんざく中、幼い水守りの子は一心不乱に駆けていた。
 美しかったあの街は影も形も無く、一緒に暮らしていた人々は血を流してそこら中に倒れている。息を切らして走る水守りの子の両目に、涙がにじんでいた。
「やめてよ!」
 覚えたての人間語で、ひたすら叫ぶ。息は激しく上がり、煙に侵された喉は悲鳴を上げるように痛んでいた。小さな身体でどんなに一生懸命に叫んでも、その声は誰にも届くことなく、争いの渦に揉み消されてしまう。
 土煙の舞い上がる中、限界を超えてもまだ走る。
 誰でもいい。誰か、この戦いを止められる人を探さなくては。このままでは街はきっと無くなってしまう。その前に、言葉で説得することができるなら――。
「あ……っ!」
 木の根っこに(つまづ)いて、水守りの子の身体は跳び上がり、前のめりになって地面に叩きつけられた。思わぬ痛みに唇をぎゅっと噛み締める。我慢したはずの涙は、すでにとめどなくあふれていた。
 涙にゆがむ視界の先から金属の擦れ合う音が徐々に近づき、すぐそこで止まった。顔を上げると屈強そうな人間が数人立っていて、何やら話をしている。特に真ん中にいる背の高い大人は、まるで剣のような鋭い目つきをしていて怖かった。
「ねえ、」
 絞り出した声は力なく震えていた。鋭い剣が睨んでくる。
「嫌だ。やめてよ。すごく………痛くて、怖い、んだ」
 この時のために必死で覚えた、人間の言葉。まだうまく話せたことは無い。それでも話せば、きっと伝わる。きっとわかってもらえる。そう信じて、震える声を懸命に張った。
「街、無くなる。やめてよ。神さま、が、帰って……これなく、大変。もう、やめて」
 涙で視界がぼやけ、もはや何も見えなくなっていた。膝を擦りむいたのか、地面に触れたところがひりひりと痛んだ。祈るような気持ちで、血に染まった土を握りしめる。
「何か喋っているぞ」
「忍びないが、連れていけ。若君には内密にな」
 はっ、と複数の声がして、水守りの子の小さな身体は軽々と宙に浮いた。待って。やめて。全力で抵抗しようとする気持ちとは裏腹に、なんだか眠くなってくる。人間の肩越しに見えた街の惨劇から逃れるように、重いまぶたはとろりと落ちた。

  *

 ――あれ。
 今、夢を見ていた?
 固まった砂の上に顔を伏せたまま、私はぼんやりと考える。黒い炎と血みどろの光景は、未だまぶたの裏に居座っていた。
 頭をもたげていた気持ち悪さはいつしか失せ、代わりにひんやりした秋の夕凪が素肌の上を吹き抜けていく。私はユンファの姿を探して視線を彷徨(さまよ)わせたが、辺りはすでに薄暗く、目を凝らしても見当たらない。
「あ、」
 声が上がる。少し先の方にユンファが立っていた。寒そうな下衣に覆われた腕に、小枝の束を抱えている。
「意識が戻ったのか」「うん」
 見ればわかるような内容をややぎこちなく会話して、私は立ち上がった。
 心配したんだ、と彼女はそれらしい表情も見せずに言った。「息はあるのに、呼びかけても返事が無いから」
「ごめんね。ちょっと眠っていただけ」
「……そうか」
 ユンファの反応は、微妙にそっけない感じがした。いや、たぶん気のせいだろう。その証拠に、うつ伏せになっていた私の背中には砂色の外套が丁寧にかけられていたし、彼女が提げている瓶の中身はいつの間にか空になっている。彼女なりに様々な手を尽くして、助けようとしてくれたのだ。私には、そのことがとても嬉しかった。
 私が言った「ありがとう」を遮って、ユンファは運んできた小枝について訊いてもいない説明を始めた。焚き火をしようとして枯れ枝を探しに林へ入ったこと。落ちている枝はほとんどが朽ちていて使い物にならなかったこと。
 ユンファの話に適当に相槌を打ちながら、私は思索にふける。あれは夢にしてはとても鮮明で、忘れていた過去をそのままに映し出していた。今まで、あれほど強烈な体験を、記憶から失くしてしまっていたのだ。自分でも何が起こったのか飲み込めてはいない。でも、あの夢から覚めて、あることがわかった。
 彼女の話題は急に倒れた私への愚痴に変わっていた。苦笑いして、話の切れ目に割り込む。
「ユンファ」
「何だ」と剣のような視線で彼女は睨む。
 あえて笑った表情のまま、腕を伸ばした。
「今から、少しだけ信じてくれるかな」
 私が指さした方角に、影絵のような青白い山脈が佇んでいた。

  *

「本当にこっちであっているのか?」と後ろから訝しげに少女が尋ねる。
 私たちはユンファが集めてくれた小枝で即席の松明を作り、山のふもとを目指して進んでいた。私の直感が正しければ、あと少しで湛水にたどり着けるはずだ。たぶんね、とわざと澄まして返す。
 道中、ユンファはずっと私の後ろを少し離れたままで歩いていた。理由を尋ねても彼女は曖昧に言葉を濁すばかりで、私は勝手に疎外感を抱いてしまう。
 手に持った明かりがパチパチと弾ける音だけが、夜風に紛れて飛び去っていく。荒れた畑の続く赤茶けた風景は、いつしか寂れた住宅街へとその姿を変えていた。旅の始めに立ち寄った典臨の市街に比べ、建物の造りはいくらか簡素に見える。おそらく狩猟民族の村だったのだろう、とユンファは言った。
 食べ物を探してくるよ、と言って、私は村の探索に出た。
 かつて人が暮らしていた場所には、日持ちする食糧や調理用の道具がたくさんあるのが大抵だ。全部、この旅で知ったこと。今までにこれほど物知りな水守りは自分くらいしかいないだろう――とちょっと誇らしくなる。
水守りにとって、何かを知ることは犯しがたい禁忌だ。私たちに求められたのは、生まれたての子どものように、無知であり、無垢であること。そうでなければ、神さまから賜った大切な水を(けが)してしまうと信じられてきたからだ。
幼かった私を育ててくれた人は、それでも知ることを怖がる必要は無いんだとしきりに教えてくれた。そして、次第に私は新しい知識を手にするよろこびを覚えていった。躍起になって、小さな頭に人間語を詰め込んだあの日々も、きっと無駄ではなかったのだと思う。だって、現に私はこうしてユンファと言葉を通じ合えている。
 適当な民家に上がりこんで、まだ食べられそうなものを貪る。その様はさながら泥棒のようだ。というか、泥棒である。ユンファの目論み通りに世界が復活した暁には、こうしてめちゃくちゃになった街を一から建て直すことになるだろう。あるいは、もう人間が誕生することは無いのかもしれない。とりとめなく想像を膨らませながら、両手いっぱいの干し肉を持ってユンファのもとに戻る頃には、すでに細い月が天高く昇っていた。彼女は空になった瓶の水を補給するのに忙しかったらしく、やけに疲れた様子だった。
「また鹿肉か」
 少女は不服そうに零す。見ただけでは私には何の肉なのかさっぱりわからないが、ユンファはどうやら食べ物事情にも詳しいようだ。
 松明から移した火を焚いて、私たちは夕食にありつく。疲れは自然と人を沈黙させるもので、これといった話題も浮かばず、黙って硬い鹿肉と格闘するふたりの泥棒が焚き火にてらてらと浮かんでいる。躍動する炎の向こう側で、ユンファの表情が揺らめいていた。その様子をぼうっと眺めているとき、さっき思い出した私の過去を話してみよう、という気が起きたのは、気まぐれに違いなかった。
「あのさ、……夢を見たんだ」
 小声で切り出す。明かりを映すユンファの瞳がゆっくりとこちらを向く。
「ふるさとが、焼かれていく夢。硬い服の人間がたくさんいて、人がどんどん殺されていって、止めようとしたけど……何も、できなかった。それで、全部……思い出した。街はもう、無くなってしまったんだって」
 また、沈黙が下りた。幾分か勢いを失った焚き火の音だけが、周辺にこだまする。
「そうか」
 彼女は目線を落としたままで、呟く。それから肉を片手に持ち替え、残り少ない枯れ枝を火の中に投げ入れた。炎が再び大きく立ち上る。
「おまえの故郷を滅ぼしたのは、この世で最も罪深い男だ。私の父を殺し、この大陸に生きる人々が何百年の時をかけて築いてきた神龍との絆を、一瞬にしてドブに捨てた。人間の心が無い、大悪党だ」
 夜に沈むような声で彼女は語る。低く零れる言葉は、昼間の夢に見た光景を自然と思い出させた。あの殺戮の向こうにいたという、私の街を崩壊させた人物――それが。
「それが、あの宮殿に住んでいたという皇帝?」
「そうだ」言うと、ユンファは眉間にしわを寄せた。
 少女がおもむろに語り始めたその話に、仮に名前をつけるとしたら。
 全ての始まり、といってもいいかもしれない。

第三章 頬伝わる言葉


 琅関、賊国、()(しき)(じん)()(げん)(こく)紅来(こうらい)(しん)(かい)……俗に『七雄(しちゆう)』と呼ばれる七つの国。
 琅関帝はそれを統一支配しようとたくらんで、手始めに琅関の山脈にある、それまで未開だった湛水の街を手中に収めようとした。
 側近の娘だった私は奴を止めようと、必死で説得を試みた。なぜだかわからないけれど、まずいことが起きてしまうと直感したんだ。あれこれと言葉をかえて、でも、私の思いが皇帝に届くことは無かった。
 本当にそれがきっかけかどうかは、わからない。だが、奴が湛水を侵攻した時期を境に、神龍が人間界に姿を現すことは無くなってしまった。世界は干ばつに苦しみ、街の様子も人々の心も、確実におかしくなっていく恐怖は忘れもしない。
 奴もまた、おかしくなっていたひとりだった。後で聞いた話では、皇帝家に忠節を誓っていた龍使い――つまりは私の父に責任を問うといきなり言い出したらしい。
 ……どういうことか、もうわかるだろう?
 ある日、父は仕事に行ったきり帰ってこなかった。

 私は失望した。もう、どうすることもできないのだと。
 それから私は、父が大切に持っていた龍使いの瓶が皇帝の手元にあることを知った。ものすごい怒りが腹の底から沸きあがるのを感じて、奴から瓶を奪い返すことを決めたのさ。
 盗みが成功するとははなから思っていなくて、私も父親と同じように処刑されるのだろうと覚悟して行ったのに、気づいたときには宮殿から脱出したあとだった。
 街を抜けて最初に私が見たのは、干からびた人間の死体の山だった。それを見た途端に死ぬのが怖くなって、私はこの瓶だけを頼りに各地を逃げ回った。生への諦めが、いつの間にか生への執着に変わっていたんだ。
 最初は、岩とか草花なんかを水に還元して喉を潤していた。しかし、すぐにそれでは足りなくなった。
 生身の人間を使えば、一度に大量の水を得ることができる。そう知ったときから、私は龍使いの娘のユンファではなくなった。そこにいたのは、必死で生にすがる人々から無情に命を奪う、ただの化け物――。
「その気になれば、生き残った人々を渇きから救うこともできたはずなのに……」
 言葉の端を少しだけうわずらせて、ユンファは俯いた。まだ何か言おうとしていた。
 私は焦って、続きを遮ろうとする。これ以上、彼女を喋らせてはいけない。そう、第六感が告げていた。
 気づいてはいけないことに気づいてしまうような。
 眠っていた化け物が目覚めて、暗闇の中をゆっくりと這いずり寄ってくるような、そんな感じ。
「たぶん、――」
 正体不明の恐ろしさをかわすのに必死だったから、そう叫んだ口の両端が引き()っていることに気づかなかった。
「たぶん、誰も、間違ってはいなかったんだよ」
 焚き火の音が、一瞬だけ遠くに聞こえた。
 陽炎の向こうにいる少女と目が合う。驚いた顔をしていた。
 瞬間、我知らず駆け出していた。いや、逃げ出したと言った方が正確かもしれない。
 自分の口から出た言葉のはずなのに、意味がわからなかった。
 辺りはすでに真っ暗になっていた。

  *

 明かりの完全に届かない場所まで来てしまってから、どうして逃げ出してしまったんだろう――とぼんやり考えていた。透明な風がさらっていったみたいに、あの(おぞ)ましい感覚は駆けている間に消え去って、幻だったのかと思うほどだ。
 ひとりになったのは、久しぶりだった。
 気持ちを切り替えるために深呼吸して、再び歩み出す。
 こうしてひとりぼっちになると、故郷の湛水にいた頃を思い出す。夜風が肌寒く沁みるこんな夜は、鈴虫や(ふくろう)がわびしげに鳴いているものだった。私はそんな些細な音色が好きで、どこからともなく聴こえてくる音の主たちと会話ができたらいいな、なんて思いながら、毎晩のように小さな声で歌を唄っていた。唄っていると、街や自然がひとつになって、心地よい律動が生まれていくようで。
 それが今では、朽ちかけたあばら屋の戸を風がときおり揺らす音以外、何も聞こえてこない。
 消えそうに佇む月を見上げ、ゆっくりと口ずさんでみる。
 フォン、ジュオ、ニィナ、サン。イーツァン、ミ、ムーティル、ピオ……。
 水守り族の言葉だ。響きは人間のそれと似ているけれど、単語も文法も全然違う。幼い頃から聴かされてきた水守りの歌は、最も自然と調和する音で、大地や植物や空、そして水を唄う。懐かしい旋律に、不思議と心が凪いでいく。でも同時に、後悔も湧いた。こうして全てを失うことになるのなら、色々なものをもっと大切にしておくべきだった、と。

 小道からさらに細い路地に入って、ふと立ち止まる。森へ続く林道を右にそれた辺りに、大きな箱のような何かがあるのを辛うじて認める。小屋かな、と私は呟いた。道はすぐそこで途切れており、波打つような起伏のある地面だけがそこに残っている。
 いつか見た景色にもこんなものがあったな、と途端に懐かしくなり、吸い寄せられるように動く。そして、すぐそばまでたどり着いた。力を込めて引き戸を開け、中に入ると、埃っぽさとわずかに残った木材の匂いが鼻をくすぐった。
 部屋には保存食と狩りに使うような弓矢、さらに簡素ながら寝台もあった。ユンファのもとに帰るのはなんだか気が引けて、ここに居てもいいかと思い直す。身体を少し伸ばして横になると、なんだかこのまま眠ってしまいたくなった。
 そうしてしばらく眠気に身を預けていると、思考の遠くから、夢の続きが手招きしているように感じられた。今度は思い出すことを怖がらなくてもいい気がしたから、そっと手を取る。
 指先がじわりと温かくなる。
 その温もりは、あの人のものだった。

  *

 湛水が戦いに巻き込まれたあとのこと。
 大きな人に担がれてたどり着いたのは、見たことも無い立派な街だった。
「やだよ。帰りたいよ」
 腕の中で、身じろぎをしながら訴える。口を塞がれた。息の通り道が無くなって苦しく、私はまた涙目になっていた。
 気を失っている間に、硬い服を着ていた人たちはボロボロの恰好に着替えていたらしい。数人で、石壁のそばを誰にも見つからないように早足で歩いていく。
 そうして、街の隅にある小さな家に入った。木材の床が軋む音を立てて、部屋に入れば隙間風が吹いてくる。
「怖がらせてすまなかった」
 椅子の上に私を降ろしながら、大きな人は穏やかに笑う。
「ねえ、ここはどこ。帰りたい……よ」
 私はもう一度言った。また口を塞がれるかなと思ったが、彼は眉尻を下げて、私を抱きすくめるだけだった。
 すまない、と低い声が繰り返す。
「残念だけどきみは、もうあの街には居られないんだ」
 不気味に燃える黒い炎が、頭の中に広がった。その中で街は跡形も無く壊れている。
「みんな、は」
 私は涙をポロポロと零していた。
「……きっと救われるよ。大丈夫。だから、それまではここで暮らすんだ。いいかい」
 言いながら、親指で涙を拭ってくれた。そうして彼は子守歌のように続ける。
「寝床も、食べ物も、きみが望めば何でも用意しよう。言葉だって好きなだけ教える。それに、何があっても守るから。だから、約束してくれるか」
 私は彼の両目を見上げた。彼は再び顔を耳もとに寄せて、囁く。
「決して人には見つからないように。特に、皇帝は何を考えているかわからないお人だ。それだけ、どうか」
 言葉の意味はよくわからなかったが、止まらない涙のせいで何も言えなかった。うん、と頷く。
 その日からしばらくのあいだ、私は言われた通りにその家で暮らした。私を連れてきた大きな人は、皇帝のもとで龍使いという仕事をしているらしく、留守にしていることが多かった。本当の家は別にあって、ここは倉庫として使っていたところだと言っていたのをなんとなく覚えている。
 龍使いがいない間は、使用人という人たちに世話をしてもらっていた。人間語もたくさん覚えた。故郷に帰れないのは寂しく、眠れない夜を過ごすことも何度もあったけれど、それでも新しい生活は楽しかった。
 龍使いは時々帰ってきて、その度におみやげをくれた。思わず目を丸くしてしまうようなものばかりで、なかなか外に出られない私にとっては全てが新鮮に思えた。
 それから、数十日も経たない頃だっただろうか。
龍使いが突然、姿を見せなくなったのである。
それからほどなくして、私も皇帝の部隊に捕まった。「誰にも見つからないように」という、龍使いとの約束を破ってしまったのだ。

それから、皇帝――琅関帝と、私は初めて会った。
広間で謁見することになったとき、なぜだかとても怖くて何度も逃げ出したくなったのを思い出す。しかし、実際に現れた皇帝は深々と頭を下げたまま、いつまでも顔を上げようとしなかった。やっと私の方を見たかと思えば、その瞳は力なく濁り、頬は死体のように青白くやつれている。
茫然と見上げる幼子を静かにまなざすと、語った。
 おまえたちの一族に、私はとんでもない仕打ちを働いてしまった。そのせめてもの償いに、とっておきの場所をあげましょう、と。
 
 朱や金色で、装飾された天蓋。色とりどりの花。横になった私のそばに座るその人は、こうして近くで見ると思ったより老けているな、という印象だった。
「この寝室は、もとは私が妹のために造らせた部屋だ」
 妹、と聞き返すと、彼はそうだと優しく頷いた。
「妹は昔から、いつも病気で寝込んでいた。それにも関わらず芯の強い子で、大陸を統一して平和な世を築いてほしいと、事あるごとにそう訴えてきた。私は国中の医者を集めて彼女を診させたが、それでも妹が生気を取り戻すことは無かった。それで造ったのがこの寝室だ。この部屋の空気には常に新鮮な水がめぐっていて、ここに居ればこれ以上病気が悪化することは無い……、そう思っていたのに」
 琅関帝は、そばに飾られていた深紅(しんく)の花を手に取ると、おもむろに握りつぶした。瞬時にバラバラになった花弁は骨の浮いた指から、まるで血が滴り落ちるように零れていく。
「今や、世界から神龍は消えた。今になってやっとわかったが、それは、私が湛水を無理やり支配しようとした結果だ。世界を司る湛水を攻略すれば、『七雄』は、世界は私の下でひとつにまとまるに違いない、そう信じていたんだ、愚かな私は。それで彼女との約束を叶えられるのだと」
 ひと呼吸おいて、彼はどこか吹っ切れたように淡々と語った。
「そのとき、この計画を止めようと説得してきた者がいた。それは龍使いの娘で、意志の強い、まっすぐな目をした少女……しかし、その時の私は聞く耳を一切持たなかった」
 何て言って跳ねのけたと思う、と訊いてきたので、私は考えた。
「『誰も間違ったことはしていない』と。彼女の失望した顔が今でも忘れられなくて、ひどいことを言ってしまったのだと随分経ってから気づいた。情けない話だ」
 彼は哀しいため息をついて、貼り付けた笑みで自嘲する。
「そして、私はさらなる過ちを犯した。神龍が消えたのを、側近だった龍使いのせいだと勝手に疑って、殺めてしまったのだ。龍使いから瓶を奪って、自分が代わりに神龍を呼び戻すことができればよいのだと。
 そのくらい何としてでも、……何としてでも私は、この過ちを無かったことにしたかった。能力が無いにも関わらず、だ。それがどれほど愚かしい考えなのか、当時の私にはわからなかった。今考えれば、正気を失っていたのだと思う。結果、瓶は何者かに盗まれてしまったし、飢え渇いて死んでいく民たちを救うことさえできなかった。全て私が悪いのだ」
 俯いて静かに懺悔(ざんげ)する皇帝の横顔は、いたたまれなくなるほどに惨めだった。私は寝そべった姿勢のままで目を閉じ、そして、ふたりがここで巡り会った運命のいたずらに思いを馳せる。
 私はこの人に、故郷の街を焼かれてめちゃくちゃにされたはず。それなのに、恨みの感情は不思議なくらいに浮かんでこない。――違う。恨み方も、憐れみ方も、わからないだけだ。だから、私は彼を恨むことも憐れむこともせず、ただそばにいるだけだった。それしかできなかった。
 ――ねえ、わたしはどこへいくの?
 気づけば、そう口に出していた。
 僅かに開かせたまぶたの隙間から、そっと様子を窺うように再び見上げる。彼は少し表情を緩めて、答えた。
「どこへでも。好きなところに行ったらいい」
 確かにそう、言った。
 皇帝の手が顔に近づく。空気を漂うとろりとした湿気が、その声を妙な響きで鼓膜へと伝える。
 最後の水守りであるきみに、残りの全てを託そう。
 幸せな夢を見たまま死ぬか。地獄と化した世界でもう一度生きるか。どちらを選んでもいい。選択の権は、おまえにある。どうか、私がこれ以上の罪を重ねることを許してほしい……。
「――おやすみ」
 かさついた手が、なぞるように額を撫でた。甘ったるい眠気に誘われて、また意識が遠のく。ぼやけた光の中で最後に見えた彼の顔は、もはや一国の皇帝のそれとは思えなかった。自分で自分を罰する前の、全てを受け入れたかのような表情。覇気の無い瘦せこけた頬はただ、疲れたように、笑っていた。

  *

 全身の肌が何かを感じたように粟立ち、その上から荒い吐息が被さる。驚いて目を開くと、そこにユンファの顔があった。身体にかかる重みにあわてて視線を動かすと、ユンファが寝ている私の上に馬乗りになっていた。
「ユンファ」
 反射的に身体をよじった瞬間、私たちはもろとも床へ転がり落ちてしまう。がらん、という音がして、短剣が落下するのが視界の端で見えた。
「ユンファ、どうしたの。しっかり!」
 彼女は息が荒く、その目は底知れない狂気に憑かれていた。這いつくばったまま、鬼のような形相でこちらを睨みつける――と、その場にうずくまった。長い髪と両手で顔を覆い、うう、と苦しそうに呻いている。
 私は彼女の背中をさすりながら、その名を何度も呼び続けた。呻き声はだんだんと弱々しい嗚咽に変わり、やがて激しい慟哭(どうこく)となった。
「ごめん、違うの」
 泣きながら、ユンファはそう繰り返した。激しく声を上げて感情をあらわにする様はまるで別人のようで、私は当惑してしまう。落ち着いて! となだめつつ背中をさすり続けるくらいしか、私にはできることが思いつかなかった。
 喧嘩の後の子どものようにしゃくりあげながら、やがて彼女は話してくれた。
「ねえ、私、ジウを殺そうとした」
 ごくり、と唾を呑み、傍らに視線を投げる。そこには役目を果たすことなく、無力に転がった一本の剣。
「――どうして」
「……信じられなく、なった。ジウのこと、味方に……思えなく、なった。だから、うっ、疑って、……っ、それで……」
 薄い唇から再び嗚咽が漏れ、彼女は顔を覆ったまま絶叫した。
「同じなんだ。私も、あの皇帝も! 何の罪も無い人を、疑って! 殺して! あああああ……!」
 ユンファの手が瓶を引っ掴む。しまった、と直感したときにはすでに遅かった。瓶は絶叫の勢いのままに床へ叩きつけられ、無残にも粉々に散ってしまったのだ。
 はっ――と息を呑む音が、辺りを静寂へと引き戻す。彼女は泣き腫らした顔のまま、茫然と立ち尽くしていた。壮麗な龍の立ち姿はガラスの破片となってあちこちに散らばり、薄汚れた木材の床はびしょ濡れになっている。その異様な光景を見て、自分が何をしてしまったのか遅れて気づいたようだ。
「今、私――何を」
 掠れた声が呟き、ユンファはとうとう崩れ落ちてしまった。我に返り、あわてて駆け寄る。伸ばした手で何とか抱き止めた。
 胸元で、また荒い息づかいが聞こえた。震えていたから、それが止まるようにと腕の力を強める。今、私にできることは、何だ。思考は脳内を駆けずり回るが、正解は見えない。聞こえない。私は彼女の肩越しに、息を吸う。闇の中で言葉を探す。
「……皇帝は、自殺したんだ」
 咄嗟に出たのは、あまりに的外れなセリフだった。
「あの人は、自分のしたことを悔やんで、悔やんで……食事もとらずに痩せ細って、最後には私ひとりを生かして、静かに死んでいった」
 (おぼろ)げな微笑が、脳裏を過ぎる。月明かりを閉じ込める水も、散らばったガラスの欠片も、今は残忍なまでに、綺麗だ。
「すごく、優しかったんだよ。だから」
 不意に、ふっと笑った。もちろんわざとではなく、無意識だ。
「大丈夫」
 こんな細い腕では、あまりに頼りないかもしれない。それでも、
「大丈夫」
 こんなことしか、言葉をかけることしかできない自分が情けない。ユンファはまだ震えていた。
「大丈夫」
 こんな無力な自分には、言葉しか、言葉しか無い。だからこそ、

「大丈夫。――きっと救われる」

終章 遥かなる幻想郷


 北西から南東へ、大陸を縦断するように伸びる山脈は、夜明けの訪れを少しだけ勿体ぶっているようだった。ようやく顔を出したまばゆい朝陽は、板壁を乱雑にくり抜いただけの窓から差して、埃っぽい部屋の中をほのかに白く照らしている。
「おはよう」
 私は努めて明るく笑ってみせた。まるで何事も無かったかのように、昨晩の出来事など忘れ去ってしまったかのように。
 あの事件の後、ユンファが自分の寝床に戻っていくことは無かった。うずくまったまま動かないので、私は寝台で眠るよう何度か勧めたけれど、彼女は拒否した。ひとりだけ横になるのはなんとなく気が引けて、私も板壁に寄りかかって眠り、長い夜の終わりを待っていたのである。
 ユンファは寝ているのか起きているのか、相変わらず黙ったままで膝に顔を(うず)めている。相当、ショックを受けているようだ。私の精一杯の慰めが少しでも彼女の傷を癒せたのか、どちらにしても彼女を元気づけるには全く無力だったのだ。
 思い返せば昨晩、私が彼女にあんなことを言ってしまったのが彼女を傷つけてしまったのかもしれないと悔やまれる。私には、詳しいわけを訊くことすらできないが。
 誰に聞かせるでもなく、私は息をつく。
 私たちの挑戦は失敗した。たとえすぐそこの山に湛水の街があったとしても、飲み水無しであの断崖絶壁を登るのは無理だろう。そして、仮に登り切れたとして、街に着いたら何かが変わるという保証もないし、私たちがやがて干からびて死んでいくという運命は揺るがない。まして、そこの山に行けば湛水にたどり着けるというのだって、ただの勘でしかない。『大丈夫』の根拠などあるはずが無いのだ。
 世界の復活など幻想にすぎないことも、自分が死ぬのにそう時間がかからないことも、旅の始めの段階ですでにわかっていた。それでも、一縷(いちる)の望みをかけてここまで歩いてきたのだ。もう一度故郷に会いたい、と。むしろ、こんなに遠くまで来れたことが奇跡だと思う。
 行こう。心からそう思った。たとえ無駄足に終わったって、その先で行き倒れになったって、ユンファの気を紛らわすことくらいはできる。何より、彼女がこれ以上思い詰める姿を見るのは嫌だった。
 まだ言葉にできていない気持ちが山ほどあるから、ひとつずつでも渡していけたらいい。そうしたら、最後の頼みを彼女は聞いてくれるだろうか。
「――ユンファが本当の思いを伝えてくれたことが、嬉しかったんだ。何よりも」
 私はいつになく真面目に言ってみる。部屋の隅が僅かに反応を見せた、気がした。
「だからさ」
「……行かない」
 くぐもった声が小さく呟くのを聞く。布の隙間から微かに覗く瞳は、床に散乱したままのガラスの破片を映し出していた。
「もう世界は救えない。それに」
 彼女は、すっと目を伏せた。か細い光が消え、黒い睫毛が影色の中に沈む。
「……私には、もうおまえと旅を共にする資格が無い」
「そんなことないよ。行こう」
 ユンファは頭を振って、そんなことなくない、と言った。
「殺されかけたんだぞ。私のことが信じられなくなって当然だ。おまえにとって、私がいない方が本当は都合が良いんじゃないのか」
 彼女は畳みかける。再び顔を上げたその目からは、苦悩や激情が今にも溢れ出しそうだった。それを受け止めてあげるだけの覚悟を、私は今ここで示さなければならない。それができるかどうか。
「人間の感覚はよくわからないけれど――、」
 ひとつ息をして、彼女の方へしっかりと向き直る。
「私はユンファを信じている。これは私からユンファへの頼みなんだ。だからさ」
 私は、いちばん大切な最後の頼みを彼女へと告げた。力強く、できるだけまっすぐに。重い陰の中でうずくまった少女はしばらく動かなかったが、ついには砂色に埋めた顔をこくんと縦に振った。
 私はもう一度微笑む。旅の終わりはすぐだ。

  *

 何重にも張り巡らされた獣除けの柵を越えて、集落の外に出る。平原をしばらく進むと、低く立ち並ぶ岩の結界が見えた。ユンファによれば、おそらくこの岩は禁足地を示すものだということだ。
 積もった砂から頭だけを出した岩は、山脈の裾の輪郭をなぞる形で等間隔にどこまでも並んでいた。ユンファは手近なひとつから砂を払いのけつつ、独りごとのように話す。
「昨日話したように私の父は龍使いで、側近として琅関帝に仕えていた。その関係で私も幼いときから奴と顔見知りでな。遠く南の紅来の着物をもらったり、宴席に呼ばれたりと何かと贔屓(ひいき)に……要は、大切にされてたんだ」
 えっ、と声が漏れる。ユンファがそういうふうに皇帝のことを話すのは初めてだったからだ。彼の話をするときに決まって見せていた苦虫を噛み潰すような表情も、少しだけ柔らかくなっている。
 その表情のまま、ユンファはため息をつく。朝陽に照らされた横顔が少しだけ、その陰に光を溶かす。
「昨日おまえが私に言ったことが、皇帝に昔言われたことと重なる部分があって――」
 すぐに、謝らなくていい、と遮られた。どうやら心は読まれているようだ。口をつぐんだ私を見て、それからユンファは黒い睫毛を伏せて言う。
「だから、あの時みたいにまた裏切られてしまうんじゃないかと怖くなって、そうしたらもうどうしようも無かった。気づいたときには抑えきれずにあんなことを――。本当に、悪いことをした。たとえおまえが私を殺したって、もう何も文句は言わない」
 彼女は語ったが、冗談を言う口ぶりではなかった。
「な――……」
 何言ってるの。私は怒っても恨んでもいないし、味方でいるに決まっている。と、叫びたいことがいくつも浮かんでは消えて、結局何も言わなかった。きっと今なら、言葉にするまでも無いだろう。
 岩に覆い被さっていた砂が一通り落ちると、彫られた文字のようなものが浮かび上がった。ユンファは手を払いながら屈んでそれを凝視する。
「この先の土、何人たりとも踏み入るべからず。掟破りし者には、神の鉄槌あるべし。……か」
 ユンファはすらすらと読み上げたが、私には全くわからなかった。
「どういう意味なの?」
「……さっさと行け、ということだ」
 ニヤリと笑った。それなら禁足地でも何でもないじゃないか、と突っ込みかけて、私も笑う。並んで結界の中の土を踏むと、心地よい爽籟(そうらい)が白い砂と一緒に吹き上げていった。

 人が滅多に踏み入れない山は獣道さえまばらで、頂上に行けば行くほど急峻(きゅうしゅん)な崖になっている。どの経路で登るのがいいだろうかと話し合いながら、私たちは徐々に山道へと進み出した。
 緩やかに続く坂道は次第に勾配を増して、やがて足が痛み出すのに時間はかからなかった。ふたりのあいだに交わされる言葉の数は次第に減っていき、肌寒さが一段と増す中腹を越える頃には、私もユンファも無言でひたすら歩を進めていた。太陽の方角と、後ろを歩くユンファの様子を時折確かめながら、枯れ木だらけになった道なき道に分け入っていく。
 喉が渇いた、なんて口に出そうものなら、急に限界が来て死んでしまいそうな気さえしていた。せめて頂上にたどり着くまでは耐えていなければならない。そのためには、ひたすら時間と体力とに賭けるしかなかった。
 両足と、乾燥した手のひらとで身体を支え、一段上の空間まで這い上がろうとする。露呈する木の根に指をかけようとした瞬間、風が舞い上げた砂を思い切り吸い込んでしまった。渇いた喉の奥に砂が張り付く経験したことの無い苦しさに、むせ返りながら嗚咽してしまう。
「ジウ」
 声がした。涙目のままで振り返ると、後ろの方でユンファが跪いていた。よく通る声だから近くに感じただけで、思っていたよりも距離があることに今さら気づく。
「この先は、ひとりだけで行けるか……」
 そう言った次の瞬間、唸りとも叫びともつかない声を上げて、彼女が苦しむ。
「どうした」
 崩れかけの急勾配から滑落しそうになるのを何とか耐えていた私は、あわてて身を翻す。長い髪をかき乱したユンファは、顔を紅潮させ、滝のような汗を流している。
「最後の水を、おまえ、に……早く!」
 違う、汗じゃない。水だ。恐ろしくなって彼女の右手を見ると、その中から鮮血が滴り落ちていた。ガラスの破片を握りしめていたのだ。
「ユンファ 何やって――っ」
 私はユンファの手に指を突っ込んでガラスを掴む。そして、一息に奪い取った。噴き出した赤い血が勢いよく宙に舞う。彼女は空になった右手を押さえ、掠れた声で訴えた。
「人間の身体は極めて多くの水から成っている。私は、自分が生き延びるために多くの人を殺して水を奪ってきたんだ。そう言っただろ」
 城で、無造作に打ち捨てられていた人々の骨。彼女が奪ってきた命。それが背中に当たって軋む音が脳内で再現された。水を完全に絞り取られた人間の成れの果てがあれだとするならば、彼女は。
「……それを返してくれ。その罪を、今ここで償わせてくれ」
「何言ってるかわかんないよ!」
 限界まで声を張って、喚く。確かに彼女は罪を負っているかもしれない。だが、そんなことを許すわけにはいかなかった。そんな理屈は身勝手だとわかっているが、構わない。
「ねえ、行こうよ。せっかく、ここまで来たんだよ。今いなくなってどうするの。街、もうすぐだからさ」
 自分でも何を言っているのか曖昧で、それでも伝わってほしいと懸命に祈る。そうしてユンファの反応を待つより先に、私はその手を取って歩き出していた。視界にはもう何も入ってこない。持っていたはずの瓶の欠片は、いつの間にかどこかへ行っていた。

  *

 いったいどのくらい登ってきただろう。体力が限界を越えて指先が痺れ出した頃、永遠のような勾配は急に終わりを迎えた。尖った山の頂点はすぐそこが崖になっていて、その先が不自然なほどに深くえぐれている。
 山の頂点から垂直に掘り下げられた谷は、淵から覗くと深い奈落の底のような様相を呈していた。間違いなく、ここが湛水の街だ。
 くたびれた足を止めると、私は街を見下ろした。
 あれだけ待ちわびていた瞬間なのに、湧き上がってきた感情は喜びとは少し違っていた。ただ、ほっとしていたのだ。
 言葉も無いまましばらく立ち尽くして、それから、一歩ずつ谷の奥へと踏み出した。落ち着いた心とは裏腹に、砂を踏む足がガタガタと震えている。
 ゆっくり、ゆっくりと私は街へ降り立っていく。
 ふっくらと熱をもっていた土は渇いた砂に変わり、水に沈んでなお腐らない豊かな木々も、今は力尽きたまま無力に佇んでいる。笑い声にあふれていた街並みさえ、跡形もなく灰となり消え去っていた。
 意識が朦朧としはじめ、痙攣(けいれん)する足を引きずりながら、懐かしさすら消えた街を私はただ歩き続けた。身体は熱く、五感さえあるのか無いのかわからない。
 がくり、と膝が不格好に曲がり、私はそのまま崩れ落ちた。見上げると、ユンファと共に登ってきた山が空を切り取るようにそびえている。ふと思い出して辺りを見回すけれど、ユンファの姿はすでに無い。
 ――ああ。
 笑った。今、あの皇帝と同じ顔をしているのだろうか。
 ああ、全て幻想だったんだな――。
 夢見ていた美しい街も、駆け上がる神龍の勇姿も、知らず知らずに取っていた彼女の手も。もう、ここには何も無い。
 いつの間にか、涙があふれていた。身体はとっくの昔に干上がっているというのに、不思議と後から後から流れてくる。頬を伝い、渇いた世界にひとつの水溜まりが生まれる。私は、それを他人事のように眺めていた。
 ひとしきり泣いてから、目をすがめて見る。ふと、谷に吹き込んでくる風の向こうに、砂色の外套が見えた気がした。たぶん、幻だろう。それでも私のもとに再び現れてくれたのだから、ちゃんと話しておかなければ、と。そう思った。
 膝は震え、もう立ち上がることすら叶わない。代わりにこの距離でも届くように、喉の奥にめいっぱいの力を込めて呼びかけた。
「ねえ、ユンファ」
 影は振り返って見つめてくる。表情は、見えない。
「きみが私に力を貸してくれたのは、どうしてだろうと思って」
「……利害の一致だ」
「そうなのかな」
 嘘だ。
 本当に世界を救いたかったのなら、私が目覚める前に彼女はひとりでもここへ向かっていたはず。
 世界のことなんか、どうでもよかったんだ。本当は。
「私がここへ帰りたがったから、協力してくれたんだよね」
 ユンファは何も言わず、そっぽを向いた。私は確信する。彼女は肯定しなかったが、否定もしなかったのだ。
ありがとう、は何か違う気がして、代わりの言葉を探す。気の利いた表現を見つけられるほど、私は人間語に長けていなかった。
 ああ。幻想でも、何でもいい。
 だから、これだけを願う。
「いつまでも共にいられたら――なんて」
 微笑んで、手を伸ばす。ぼやけた視界は白くかすみ、強風が吹き込む街の真ん中で、そっと目を閉じた。

  *

 水の波打つ音がする。
そこにいる私は、鳥が空を駆けてゆく要領で、深く澄んだ水の中を自由に泳ぐ。清らかな青を湛えた街には、束の間の白昼の光が柔らかく降り注ぎ、生い茂る木々の葉からは零れそうな緑が輝く。どこからともなく聞こえてくる明るい笑い声は、質素ながら暖かい街並みにいっそう華を添える。
 私はあの時、地獄と化した世界で生きることを選んだ。今度は、幸せな夢を見たまま死のうと心に決めた。
 今、自由だ。
水を蹴って、一度、二度、旋回する。
 その時だった。
 波の向こう側に、揺らぐひとつの影が見えた。私は目を凝らして、水をかき分けながら近づく。
 そして、驚いた。
 影の正体は、脱力してぐったりとする人だったのだ。ふとその手を見ると、水かきがついていない。人間がなぜここに、と思ってから、はっとした。
「ユン……ファ?」
 頭が真っ白になる。血の気が引いていくのが自分でもわかった。
 夢、じゃない?
 思った瞬間、水が勢いよく渦を巻いた。それが蹴った水だと気づいたときには、すでに私は一心不乱に駆け上がっていた。外套に(くる)まったままの身体を腕に抱える。
 水守りと違って、人間は水中では息ができないのだ。
 恐ろしさで狂いそうになりながらも、片腕だけで必死に水をかき、水面までの最短距離を目で測る。
 頼む、持ちこたえてくれ。
 もう何が何だかわからず、翻弄された頭は激しく混乱していた。それでもなりふり構ってはいられず、ユンファを抱きながら全力でもがく。彼女は目を閉じて全身を脱力し、気を失っているようだった。
 間に合わない。そう直感したときのことだった。
 ふと、身体が下の方から持ち上げられる感覚がした。水流、と思った瞬間、底からの激しい波が轟音を立てて私たちを飲み込む。
 街が揺れ動く。
 私は叫んだ。まるで全て飲み込んでしまうような、巨大な水の、生きた塊。力強い咆哮は山を揺らし、世界にその存在を響き渡らせるように広がっていく。私はユンファを離さないようにいっそう腕に力を込める。透き通る急流は私たちをとらえ、やがて勢いよく崖の淵へと放り出した。
 泥の混じった水に押し流されて、私は山の斜面を滑り落ちた。何とか止まろうとして地面を掴んだが、あちこちを擦りむいてしまう。黒い空からは大雨が降っていた。
「ユンファ!」
 滝のような雨に打たれながら姿を探す。それから、立ち上がって走り寄る。襤褸(ぼろ)のようになった砂色の外套は、弱々しく蠢いてやがては私の方を見た。
「……この野郎。私が泳げないの知ってるくせに、目を離しやがって」
 目つきは怒っていたが、その声は微かに笑っていた。その様子に思わず吹き出してしまう。体力なら少しは残っているはずなのに、なぜか震えすぎて立つことができない。
 ばーか。紅い唇が動きだけで怒鳴るのを、見ていないフリをして、私は空を見上げる。雲が切れて光の注ぎ始めた夕焼けの彼方に、大きな大きな透明の龍が、どこまでも天高く泳いでいた。

あめふる大陸 / 双月意沙 作

あめふる大陸 / 双月意沙 作

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-02-14

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