クロスロード / 中野弘樹 作

トラフィック

 交差点の信号が青になっていることを確認して、橋本(はしもと)は徐々にブレーキを掛けた。適度なタイミングで右ウィンカーを出し、交差点の中央付近で停車する。対向の直進車が途切れた頃合いを見計らってハンドルを切り、交差点から出る。ウィンカーがカチッと切れるのとほぼ同時に、後部座席に座っている女性客が口を開いた。
「今、交際って、されてますか?」
 ウィンカーが切れる小気味よい音を聞きながら、橋本はすっと目線を上げ、バックミラー越しに女性客の様子を窺った。
「ええ、一応していますよ」
 普段なら橋本は客の顔を盗み見たりはしない。というか客に対して必要以上の関心を払うことをあまりしない。もっとも客の方は、二十代半ばで、しかも女性がタクシー運転手をしているのがそこそこ珍しいのか、時折「どうしてこの仕事に?」と聞いてくる。ピチピチの新人の頃はいちいち律儀に答えていたが、時が経つにつれ面倒くさくなり、「まぁ、成り行きですね」などと返すようになった。
 で、そんな橋本がなぜ彼女のことを気にしたのか。それは外見と発言のギャップである。この手の発言の形は大体「ねえ君、彼氏いるの?」で、発言者は良識と節度を、ネクタイと一緒にどこかに置いてきた酔っ払いであることが大半なのだ。
 まあ、要するに若い女性を乗せたはずなのに、思いがけない質問が飛んできたので、思わず確かめてしまったというわけだ。あれ、素面の女性だったよね、と。
 バックミラーに写ったのは、黒髪のショートカットに、水色のシャツを身に着けた、美人というわけでは無いが、清々しさを周囲にまとっている二十代後半ぐらいの女性だった。色白なのがそう思わせるのだろうか。もちろん、酔っ払っている様子は無い。
「……そうですか」
女性客が静かに言葉を返した後、再び車内に静けさが訪れた。まだ早朝とは言え、やはり八月の朝は早く、もう日は上っている。が、高架下を走っているせいで車内は暗いままだ。ビル群に当たる朝日が、波打ちながら反射して、橋本の目を刺激してくる。朝日はしっかりと街に差し込んでいるようだが、今朝の天気予報では朝から雨になっていた。さて、本当だろうか。最近の天気予報はどうも当てにならない。確か先々週も同じ様なことがあって、干してあった洗濯物が全部雑巾みたいになったんだっけ……そんなことを頭の隅の方で考えながら、遠くに突っ立っている信号機の色を確かめる。青だった、が、おそらくこの青はもうすぐ黄色になる青だ。
ブレーキペダルを優しく踏みつけると、徐々に背中がシートに吸い付けられるような感覚になる。もの凄いスピードで後ろへ走っていた街路樹たちが段々と落ち着きを取り戻し、やがて立ち止まると、橋本の背中もシートからポンッと押し出された。
目の前の横断歩道を何気なく眺めていると、視界の左端からワイシャツ姿の若い男性が走り込んできた。社会人二、三年目のサラリーマンと言った格好で、必死の形相をして走っている。まだ遅刻するという時間帯でも無いのだが、何か拠ん所ない事情でもあるのだろうか。橋本がその拠ん所ない事情を適当に想像して遊んでいると、サラリーマンが車道と歩道の段差にけつまずいたのか、かなり派手に転んだ。履いていた靴の片方と鞄が、放物線を描いて前方に吹っ飛んでいき、本人ももんどり打って一回転した、チャップリンもかくやという転び様だったので、本当は心配しなければいけないところなのだろうが、橋本は思わず吹き出しそうになった。
いけない、いけない、耐えろ私。と、橋本が必死に笑いの波を自制心の防波堤で押し殺していると、後部座席で誰かがふふっ、と小さく笑い声をあげたのが聞こえた。当然女性客が笑ったはずなのだが、「声を出して笑う」という行為が彼女のイメージとかけ離れていたのと、咄嗟にバックミラーで彼女を見た時には、既に真顔になっていたので、そよ風の精が微笑したのかと勘違いしかけた。童話でよくある話だが、そんなわけは無い。
そよ風嬢は笑ったのを悟られたく無いようだが、彼女の笑いで車内に漂っていた、緊張感とまでは言えない変な空気が消えていったのを橋本は感じていた。そよ風嬢にもその感覚は伝わっていた様で、真一文字に結んでいた口をふっと解くと、
「その、変な話をしてもいいですか」と言った。
出たな、変な話。と橋本は思った。この世の話の前置きは大体はったりだ。「これは本当にあった話で……」から始まる怪談は殆ど嘘だし、酒の席で聞く「マジですごい話なんだけどさ……」は大体つまらない。当然「変な話」も右に同じくで、確かに珍しくはあるが、「へぇ……それで?」となるようなレベルの「変な話」か、もしくは自分語りを謙遜して「変な話」と言っているかのどちらかだ。
さて、どっちだ。どうせ聞くなら滅茶苦茶長い渋滞に捕まって、暇で暇でしょうがない時に聞きたかったな、などと考えていると、目の前の信号が青にパッと変わった。左右を確認してからアクセルを段々踏み込んでいく。あの転がっていったサラリーマンがその後どうなったのか、確認し忘れたのを思い出して、橋本はちょっともったいない気分になった。またあの調子で走り続けたのだろうか。今度は転ばないといいけど。
「私、今から海外に行くんです」そよ風嬢が再び口を開いた。
 知ってるよ、と橋本は心の中で答えた。彼女が行き先に指定した場所は、空港への直通バスのバス停があるところだ。こんな朝早くに行くということは大方空港に用事があり、そして空港への用事なんて一つに決まっている。国内か国外かは、さすがに分からなかったけど。
「海外旅行に行かれるんですか?」
 多分違うだろうな、とも思っていた。載せた荷物が海外旅行にしては少なすぎる。荷物は先に目的地に郵送してあるんだろう。留学か、後は何だろう、国際結婚とかかな?
「いえ、旅行じゃなくて、転勤です。保険関係の仕事で」
 うーん、残念。
「大体どのぐらい転勤先に」
ここまで言って橋本は発言の後半部分を飲み込んだ。車内の空気がなんとも言えない、微妙な雰囲気になったことに気付いたのだ。どうやら「変な話」の尻尾を踏んづけてしまったらしく、そおっとバックミラーを見ると、そこには硬くなったそよ風嬢の顔があった。
 彼女は少し息を吐いて、車窓を眺めながら、尻切れトンボになってしまった橋本の質問に答えた。
「……普通は五年ぐらいだそうです。長い人だともう二,三年プラスされることがあるみたいなんですけど、どちらにせよもう頻繁には日本に帰れなくなるのは間違いないんです。それで、先々週ぐらいから友人とかお世話になった方々に連絡したり、会って話したりしていたんです。」
 ほう。それで?
「それで、あらかた連絡し終えたのがちょうど先週で、かなり疲れていたんです。大学時代の友達に会いに行ったりして、結構動いた一週間だったので。もうそのぐらいには出発当日の予定、というか今日の予定ですね、それもあらかた決まっていて、その日夜に、何というか、こう……」
 彼女は言葉を途切れさせ、適切な表現を探すように虚空を見つめた、様に思われた。なぜ想像なのかというと、橋本はその時、目の前の横断歩道を渡る老婆に、気が気ではなかったからだ。もうすぐこっちの信号、青になるけど、大丈夫かなこのお婆ちゃん。
「魔が差した、というより、ふっと思いついて、三年ぐらい前に別れた彼氏に、当日乗るバスの出発場所と時間だけをLINEで送ってしまったんです」
 老婆が無事に反対側に渡りきったことに安堵していた橋本の意識は、一気に車内に引き戻された。なんだって?
「……なぜ、そんなことを」
「自分でも、よく分からなくて。送った時の記憶もはっきりとは無くて、翌朝スマホを確認して初めて気付いた感じなんです。送信取消しようかと思ったんですが、もう既読になっていたので、止めました」
「返信は来たんですか」
「いえ、来てないです」
 ん、ということは、だ。
「もしかすると、目的地のバス停に」
「そうですね。私の元彼がいるかもしれない、ということになります」
 三度車内に静けさが訪れた。聞こえるのはタクシーの低いエンジン音と、どこか遠くから聞こえてくるクラクションの音だけだ。
「本当に、何考えてたんでしょうね。伝えたいことも特にないのに。もし彼がいたら、私は何を話せばいいんでしょうか」
 橋本は思った。これは「変な話」じゃない、相談だ。
 彼女の言葉は橋本に問いかけているわけではなく、自問自答のようだった。単純な、なぜ? どうしよう? という戸惑いと若干の自責の念、そして不安がブレンドされた声色が、車内を漂う。
 橋本は少し首を曲げて、空の色を見た。朝日がやや弱まり、雲が出ている。灰色に染まりつつある空からは、雨の気配がした。どうやら天気予報は的中しそうだ。そよ風嬢に悟られぬように静かに息を吐き、橋本は口を開いた。
「もし、ご迷惑じゃなければ、その元彼さんのお話を聞かせて貰えませんか?」
重苦しい沈黙が数秒間続き――後もう少しで橋本は「ジョウダンデスゴメンナサイ」と言うところだった――彼女はゆっくりと語り出した。

 彼はいい意味でも悪い意味でも、常に夢を追っている人でした。大学の同じ学部で出会ったのですが、その頃から「夢は自分の曲を出来るだけ沢山の人に聞いて貰うこと」だと堂々と公言していました。……あぁ、そうですね、言い忘れていましたが、彼は一応シンガーソングライターをやっていました。多分今でもやっているはずです。「一応」というのは、自分が作った曲を聞いて貰えるなら、別にどんな肩書きでも良い、と言っていたからです。なんで自分の曲を大勢に聞いて欲しいかというと、本人曰く、誰かの人生に爪痕を残したいんだそうです。どんな形であれ、赤の他人の人生を少しでも揺るがすことが出来るかもしれないなんて、なんだか素敵だよね、みたいなことをしょっちゅう言っていました。どんな評価でも良い、でも褒められたら嬉しい、「言葉に出来ない良さがある」とか言われたら最高! みたいなことも言ってましたね。私が言うのも何ですが、少し変わった人でした。
 話がそれましたね。そんな彼と付き合い始めたのが……、大体出会ってから半年後ぐらいなはずです。別れたのは確か社会人三年目なので、約四年間交際してました。とは言っても、社会人二年目から徐々に距離を感じるようになってはいたんです。原因は、今考えてみると、多分人生観の違いだと思います。彼は、やっぱり社会人になっても、夢を諦めていませんでした。というよりも、夢が人生そのものだったんだと思います。学生の頃に、シンガーソングライターになりたいなら、なぜ大学に入ったのか、と聞いてみたことがあるんです。専門学校に入った方が良いんじゃない、と。そしたら彼は「経験のため」と答えたんです。「より良い曲を書くためには、キャンパスライフが必要なんだ」と言っていました。その時はひどい偏見だって二人で笑ったんですが、彼が普通に就職したのも多分同じ理由です。本人がそう言っていたわけではないですが。
 兎に角、彼には「そういうところ」がありました。別にそれ自体は嫌いでは無かったです。むしろ、私とはほぼ反対の生き方をしているので、今思えばそこに惹かれたのかもしれませんね。私はどちらかと言えば、安定したいというか、堅実に人生を歩みたいタイプなので。ただ、社会人になって、人生を長い目で見るようになってくると、どうしても私と彼の生き方の食い違いが、目につくようになってきたんです。今の先に見ているものが余りにも違うというか。あと、私が少し怖くなってしまった、というのもあるかもしれません。私と彼の交際も、彼にとっては所詮作曲のための経験でしかないんじゃないか。そんな風に考えてしまうんです。自分以外のものが、そういう扱いを受けていても笑っていたくせに、自分のこととなると急に怖くなるなんて、ずいぶん虫のいい話ですが、それでも不安だったんです。
 それでも、まだ彼と別れるという選択肢は、ありませんでした。このすれ違いもどうにかなる、とその時は思っていたんです。逆に好きな人といえど、赤の他人と一切のすれ違い無く生きていける人間なんて、いるわけないじゃないですか。だから大丈夫、そんな感じで誤魔化すみたいに関係を続けていました。
 別れるきっかけは、社会人三年目の秋頃に、彼が勤め先を辞めたことです。理由はもう察していらっしゃるかと思いますが、作曲活動に専念したいから、でした。この半年前ぐらいから、YouTubeなんかの動画投稿サイトに投稿していた曲が、少しずつ伸びてきていたので、そっちに集中したいと言っていたんです。正直私は反対でした。何よりまず、リスクが高すぎる。もう少し作曲の方が安定してからでも遅くはなかった。あと、辞める時に少しぐらい相談してくれても良かったのに、という感情的な反発もありました。一方彼は、安定したいとかそういうことは関係ない。やりたいからやってるだけだ、と。こんな感じで思いっ切り意見が対立し合って、何度か話し合ってから、別れました。いえ、別れたというか、ほぼ口喧嘩みたいな話し合いの後に、「もう一回時間をおいて、話し合おう」って言ってから、一度も連絡を取り合ってないという状況です。正確に言えば自然消滅というやつですね。
 後悔は、……そうですね、どちらとも言えないというのが、正直なところでしょうか。別れるべくして別れた、とも言えますし、あのすれ違いを放っておかなければ、という思いもあります。まあ、はじめから生き方が違う、っていうことは承知だったはずなんですけどね。こうなることを覚悟し切れてなかったというか、そんな感じです。

 遂に雨粒がフロントガラスに落ちてきた。そよ風嬢が話している間、空はどんどん不穏な色になっていき、雨雲はむくむくと膨れ上がっていたのだ。ハンドル脇のバーを上げ、ワイパーを働かせる。ワイパーはこれから始まる長時間労働に不満があるらしく、左右に振れる度にキュキュッと抗議の声を上げた。
車外が雨音でやかましくなるのとは裏腹に、そよ風嬢の話が終わったことでタクシー内は、静けさに包まれた。先程の重苦しい沈黙とは打って変わって、落ち着いた静かさだった。彼女が思うところを吐き出せたからだろうか。勇気を振り絞った数分前の自分を橋本は心の中で褒めちぎる。偉いぞ私。
薄暗い空と湿り気を帯び始めた車道を見つめながら、橋本は見たことすらない、そよ風嬢の元彼氏のこと考えた。知っている。彼によく似た生き方をしている人を、私は知っている。というかその人は今頃大急ぎで干してある洗濯物を取り込んでいるはずだ、多分。彼なら、なんと言うだろうか。橋本は慎重に言葉を選びながら、沈黙を破った。
「先程、何を話せば良いのか、とおっしゃってましたけど」
「はい」
「話すこと、決める必要ないと思います」
「え」
「別に私は深層心理とか、そういう心理学的なことは全然詳しくないんですけど、わざわざバスの場所と時間を教えるなんて、本当は二人きりで話したいことがあるんじゃないですか? 普通こういう時の見送りって空港とかでするイメージがありますし、お客さんも多分お友達にはそっちの時間を教えたと思うんですけど、どうなんですか?」
彼女は虚をつかれたように少し黙り、
「そう……ですね」と言った。
「話すことなんて、元彼さんを目の前にしてから考えれば良いじゃないですか。そもそもこうやって会いもしないのに、何を話そうか悩んでたから、ずっと連絡出来ずじまいだったんですよね。こんなタクシーの中で話題が思い浮かんだら、それこそ苦労しないと思いますけど」
「でも」ほんの少しだけ、苦しさの滲んだ声で彼女は言った。
「彼には……もう大切な人がいるかもしれない。そうじゃなくても、今彼は本当に自分の道を歩んでいるはずです。だとしたら、そこに私は関わらない方がいい気がします」
 役目を終えた役者は、舞台袖に退く、そういうものでしょう?
 橋本はハンドルを右に切り、車線を変えた。あと数分で目的地に到着する。
「話が少しそれるんですけど」そよ風嬢が何か言う前に、橋本は言葉を継いだ。
「人生において大切な人間関係って、恋人とか夫婦とか両親とか友人とか、つながりが強くて太いものがよく言われると思うんですけど、私はそうでもないなって考えてるんですよ」
「どうしてなんですか?」
「私たちって、一生の内にそれこそ数え切れないほどの人と出会いますけど、その中で親密な関係になれる人ってごく僅かですよね。だからこそ、そういう人たちとの関係を大事にしますけど、じゃあそうじゃなかった人たちとの出会いが、人生において無意味だなんて寂しいじゃないですか」
「……」
「それに取るに足らない出会いが、意外にも人生を支えたりすると思うんです。例えば、今の私とお客さんみたいな。あと、疎遠になった友人とか」橋本は言葉を句切って力強く言った。「元恋人とか」
 橋本はバックミラーを見つめると、まるで示し合わせたかのように、そこにはそよ風嬢の両目が写っていた。漫画や小説ならば、彼女が何を思っているのか、この瞬間にでも分かるのだろうが、非常に残念なことに橋本には何も伝わってこなかった。
彼女はふっ、と息を吐くと「ありがとうございます。励ましていただいて」と言った。
「いえ、偉そうに色々言いましたけど、私がこの仕事を始めるきっかけもこれなんですよね」
「きっかけ?」
 橋本は言葉を句切って、控えめに提案してみる。
「……今度は私が『変な話』をしても良いでしょうか」
 そよ風嬢は、ふふっと笑って「どうぞ」と答えた。

 多分大学一年生の秋頃だったと思います。高校時代の友達に会いに日帰りで旅行をした帰りでした。車の免許は持ってはいたんですが、運転するのがまだ怖くて、在来線を使って行きました。で、行きは良かったんですが、帰りの特急が人身事故か何かかで二時間ぐらい遅れてしまって、結局目的の駅に着いた時には終電が全部行ってしまっていたんですね。その駅から自宅までは、車でも下手すると一時間かかるぐらいの距離で、しかも次の日の朝からどうしても外せない用事があり、とりあえず一旦家に帰らなきゃ行けなかったんです。まあ、そんなギリギリの予定を立てたのが駄目だったんですけどね。
 そんなわけで、タクシーに乗り込んで帰路についたんですけど、予定が狂ったのと旅行の疲れが思いの外あったのとで、かなりイライラしていたんです。それが丸わかりだったのか運転手さんに、
「かなりピリピリしてらっしゃいますけど、何かあったんですか」って聞かれたんです。「良ければお話聞きましょうか」って。
 それを聞いて、なんかこう、一気に気持ちが落ち着いたんです。それからは色々話しましたね。と言っても一方的に私が喋ってただけでしたが。友人に会いに旅行に行ったこと、しばらく会わない内におしゃれを覚えて、彼氏も出来ていたこと、すごく楽しかったのに、帰りの電車が遅れに遅れてタクシーを使う羽目になってしまったこと、そのせいで気持ちが沈んでいたこと、色々話しました。私が話してる間、運転手さんはずっと相槌を打ったり、頷いたりしてくれて、気付いたら家の前についてました。それで、料金を払って、荷物を下ろして貰って、タクシーが行ってしまった後、家の前でキャリーケースと一緒にボーッと立ちながら、「こういうのもいいな」って思ったんです。
 これまでの人生、自分はずっと大切なつながりを求めて生きていました。さっきも言ったような、両親、兄弟、友人、恋人、そういうつながりを作って維持するのに必死でした。当然常に上手くいくわけじゃなくて、そもそもこの日友達に遠路はるばる会いに行ったのも、大学でなかなか友人が出来ないのを、彼女に会うことで埋め合わせしようとしてたんです。
 でも、さっきのタクシーの運転手さんは違った。私は彼の顔はおろか名前すらちゃんと覚えてない。私の人生において、たまたま道ですれ違っただけの人とそんなに変わらない。それでも私の心は彼に出会う前より確実に軽くなっていました。私が今まで求めてきた、深く強い誰かの人生への関わり方とは真逆の、他人の人生にちょっとだけ顔を出して「お邪魔します」って言って帰って行くだけの関わり方、こっちもなかなか捨てたもんじゃないな。そう思ったんです。
 よく質問されるんですよ、「どうしてこの仕事に?」って。この業界には私みたいなのはそれなりに珍しいので。そうやって聞かれる度に、今の話を適当に端折ってお客さんにしてたんですけど、皆さん微妙な反応ばかりなんですよね。だから最近はあんまりしないようにしてたんですけど、今日久しぶりに話しました。聞いて下さってありがとうございます。……いえ、とんでもないです。

 話し終わった頃には、目的地の停留所が目の前に迫っていた。依然として雨は降り続き、一向にやむ気配はない。そよ風嬢はと言うと、窓の外をじっと眺めていた。多分、来ているかもしれない元彼を探しているのだろう。
 まだ時間が早いせいか、停留所には他のタクシーは停まっていない。徐々にスピードを落としながら後部座席の彼女の様子を窺うと、いつの間にかまた能面のような顔になっている。
「いました」短く感情を押し殺した声で彼女は言った。
「そうですか」
 タクシーを停め、料金の支払いを済ませると、橋本は荷物を降ろすため、そよ風嬢と一緒に車外へ出た。トランクルームを開け、小さめのキャリーケースを取り出すと、停留所の屋根の下にいた彼女が「あ、ありがとうございます」と言って受け取りに橋本の前に立った。
 初めて、しっかりと彼女の姿を見た。思ったよりも背が高かった。可愛らしいピアスをしていた。高そうなヒールを履いていた。橋本は思った。ああ、他人だな、と。
「頑張ってきます」彼女は笑った。素敵な笑顔に見えた。もっと笑えば良いのに。
「頑張って下さい」橋本も笑い返した。
 彼女は軽く一礼すると、踵を返して小走りにバスターミナルの方へ向かっていった。遠くに傘を差した人影が見える。何か大きな荷物を背負っている。ギターケースだろうか。
 橋本は運転席に急いで戻った。最後まで見届けるべきではない、そう思った。あくまで「ドライバー」と「乗客」であるべきだ。あの夜、橋本と名も無き運転手が、そうだったように。
サイドブレーキを戻し、ブレーキから足を放す。軽くアクセルを踏み込むと、タクシーは雨の中をゆっくりと進み出した。

ダブル

「お疲れ様でーす!」佐藤(さとう)はそう言って駅の方へ走って行った。街の明かりを反射している水たまりを軽快によけながら、黒のパーカーの背中は、あっという間に金曜日の人混みの中に消えた。
「元気ですよね。俺なんてもうくたくたなのに」俺はゴンさんに向かってぼやいた。実際今日のリハーサルは照明にとってかなりキツかった。これを本番でやることを考えただけでぞっとする。
「まあねえ、あいつまだ二十四でしょ。若いって良いよね」そう言った後ゴンさんはジロリと俺を見て、
「それに引き換え宮川(みやかわ)、お前は音を上げるのが早すぎる!」と言い放ち、女性のものとは思えない、強烈な平手打ちを俺の背中に見舞った。すごく痛い。
「いや、でも今日のシーンはかなり動きましたよ。ゴンさんも結構忙しかったじゃないですか」
「それを言ったら佐藤だってそうだろうが。しかもあいつこの後にバイトもあるんだろ? お前がへこたれてたら本番どうするんだよ」
「え、バイト?」俺は思わず佐藤が去って行った方向を振り返った。当然影も形もない。
「聞いてないのか。あいつ金曜にやっと新しくバイト入れたんだってさ。だから今さっき駅に行ったんだよ。先月まで一緒に帰ってたじゃんか」
「でも、佐藤って『バイトは絶対入れません』みたいな宣言してませんでしたっけ」
 ゴンさんの怪訝そうに俺を見てくる顔が一瞬フリーズした。さしずめデータロード中と言ったところだろうか。
「そう……だったな」
「ですし、あいつ俺には確か『ちょっと用事が』とか言ってましたよ。バイトのこと用事って言いますかね」
 ゴンさんはすごく難しい顔をして夜空を見上げた。梅雨の合間が到来しているようで、降り続いた雨は二日ぐらい前から止んでいる。この季節に雨を気にせず上を見て歩けるのは、おそらくここ二、三日ぐらいだろうが、人通りの多い時間によそ見をして歩くのは、あんまりよろしくないので、声を掛けようかな、どうしようかな、と俺が迷っていると、
「変だな」と難しい顔を続けながら言った。ちょっと拍子抜けした。
「まあ、どうせ大した事情じゃないと思いますけどね」
「ん、いや、私が今『変だな』って言ったのはその話じゃないぞ」
 今度は俺が変な顔をする羽目になった。「え? 違うんですか」
「佐藤と言えば、この前あいつがタクシーに乗ってるのを見かけたのを思い出してな」
「タクシー? 見間違いでは」
「いいや、あれはどう見ても佐藤だったね。運転手と楽しそうに話してた」
「でも、なんで」
「知らんがな。だから変だって言ってるんだよ」

 なぜタクシーに佐藤が乗っていると変なのか。そもそも佐藤の職業は劇団「スキライズム」の舞台俳優だ。たやすくイメージの出来る仕事だが、その懐事情は殆どの場合、かなり厳しいものになっている。入団して舞台俳優を名乗るのは勝手だが、そもそも舞台に上がらなければお給料は発生しないのが普通だ。「スキライズム」はその辺りの事情が少し特殊なのだが、仮に場数を踏んだ先輩たちを五人十人抜いて、舞台で演技できたとしても、貰える金額は大して高くない。それこそ春夏秋冬の総称が名前になっている超有名劇団などは別だが、最早それらはレアケースと呼んでも差し支えないだろう。
 当然こうなってくると舞台俳優だけで我が身を養っていくのは、かなり難しくなってくる。結果として彼らの多くはバイトを掛け持ちすることで、どうにか生活しているのだ。が、好条件のバイトは基本的にすることが出来ない。なぜかと言えば、舞台俳優は日々の生活の多くをリハーサルや自主練習に充てる必要があるため、時間帯がかなり制限されてしまい、まともなバイトはしたくても出来ないのだ。結果夜勤などをどうにか続けて、体力を削りながら本業に精を出しているわけである。
 で、当の佐藤はどうなのかというと、彼は入団二年目にして既に舞台に立っている。正直言ってかなりの才能だ。俺は職業柄人よりプロの演技を生で見る機会が多いが、その中でも頭一つ抜けているように思う。それは良いのだが、珍しいことに彼はバイトをしていない。『可能な限り練習をしたいから』が本人の弁だが、どちらにせよ不要な贅沢が出来るほど、彼の財布は潤ってはいない。
 と言うわけで、こんなかつかつな生活をしている人間は普通タクシーに乗ろう、などという思考にならない。だから「変」なのだ。
 じゃあ、俺やゴンさんはどうなんだ、となるかもしれないが、そもそも俺こと宮川と、ゴンさんこと今野さんは、佐藤と違って舞台俳優ではない。劇場「サブマリン」に勤める、彼らのサポートをする裏方、所謂スタッフと呼ばれる人たちの中で、照明スタッフに当たる人間だ。「スキライズム」は劇場「サブマリン」のお抱え劇団なので、スタッフと団員は結構仲が良い。そして、この「スキライズム」は劇場「サブマリン」のお抱え劇団、というところが少し特殊な部分になってくる。
 実は日本においてお抱えの劇団というのはかなり少ない。で、お抱えの劇団になると何が良いのかというと、基本給が出るようになる。と言っても、これも大した額ではない。逆にデメリットはというと、入団の際のハードルが若干上がる。「スキライズム」の場合は「サブマリン」のスタッフを同伴しての面接がそれに当たる。
 因みに俺と佐藤が初めて出会ったのは、この面接の時だった。本来ならば、全スタッフのリーダーであるゴンさんが面接官として出席すべきだったが、娘が発熱したとかで欠席していたのだ。言っておくが彼女は二児の母である。で、スタッフルームでゆっくり弁当を食べていた俺に白羽の矢が立った。多分一番暇そうだったんだろう。

「まあ、どうせ」今度はちゃんと前を向いてゴンさんは呟いた。
「大した事情じゃないと思うけどね」
「それ俺が言ったんですけど」
 正直、なんてことは無い、日常に起こるハプニングの一つだろう、そう思っていた。そもそもゴンさんの見間違いということもあり得るし、じゃなくても拠ん所ない事情の一つや二つ、誰にだってあるじゃないか、まあ今度会ったら聞いてみよう、そう、思っていた。


 二日後の午後、俺とゴンさんは劇場「サブマリン」の最寄り駅のホームへ地下通路を、黙々と歩いていた。この日は午前に全体リハーサルがあったのだが、その最中に舞台装置のいくつかに不備があることが判明したのだ。更に修理に必要な部品の在庫がないことに気付き、青ざめながら舞台装置の販売元に電話したところ、先方の専務が直々に「幸いこちらに在庫がある」と伝えてくれた。が、
「運転出来る人間が全員出払っちまって、配達は無理だとよ」
「電話に出て下さった方は駄目なんですか」
「専務と社長はもう年で、両方とも事故が怖くて先月免許返納したらしい」
「……まあ、結構なことじゃないですか」
「良いことなんだけどな、今じゃないだろ、今じゃ」
 と言うことで、俺とゴンさんで先方に電車で向かい、向こうの社用車で部品を劇場に届けた後、社用車を返して、また電車で帰ってくるという、何ともまどろっこしい方法で部品を調達する羽目になってしまった。もの凄く面倒くさい。で、なぜ俺がついて行くのかと言えば、在庫管理の責任者が俺だったからだ。みんな、ごめんね。
 そんなわけで、ゴンさんはとっても機嫌が悪かった。ゴンさんのポニーテールもイライラしているのか、地下通路の生暖かい風に吹かれて、左右にゆらゆら揺れている。それなりに人がいるのに、スイスイ歩けているのは身長百七十センチ後半の女性が、俺の前で怖い顔をしているせいだと思う。そろそろ機嫌を直して欲しい、だってスタッフルーム出てから一回も口きいて貰えてないんだぞ。
 何か会話のきっかけになるものはないか、と意味もなく無機質なタイル張りの壁を見渡し、そしてあることに気付いた。
「ゴンさん、なんか」
「ん」ホームへ降りるエレベーターの前で立ち止まったゴンさんが、低い声で返事をしながら、ボタンを押した。駄目だ。まだ全然機嫌が直ってない。「ん」か「おん」で会話するゴンさんは腹を立てているのを、俺は知っていた。
「なんか、あれ、多くないですか」俺はそう言って、ゴンさんのすぐ横に貼ってある「盗撮に注意!」と印刷されたポスターを指さした。ゴンさんはチラリと横目でそれを見てから、おもむろに振り返って、
「ん」と呟いた。
 今まで俺とゴンさんが歩いてきた通路の壁には、結構な頻度でそのポスターが貼られていた。ちょっと病的な何かを感じるほどの枚数だ。
「しかもこのポスター、ちょっと変じゃないですか?」
 何が変なのかというと、全体的に雑なのだ。デザインが、明らかに鉄道会社が公式で発行したものではなく、この駅の関係者が勝手に作成してそこら中に貼り付けたのだろうな、と容易に想像できる出来だった。具体的に言えば、黄色と黒が主に使われているせいで、無駄に毒々しくなっているし、出没している盗撮犯の背格好が詳細に記載されているためか、どちらかと言えば、注意書きと言うより人相書きみたいになってしまっている。
「……この犯人の特徴、佐藤に似てるな」
 ゴンさんに言われて、俺はもう一度ポスターを眺めた。身長は百七十センチほど、痩せ型、黒っぽいパーカーとカーキ色のズボン、なるほど佐藤の外見によく似ていた。が、俺はそれよりも重大なことに気付いていた。
 ゴンさんが自分から喋った! 一旦「日本語使わないモード」に突入すると、少なくとも半日はまともに口を利いてくれなくなるので、これはかなり珍しい。やったね、今日はついてるな。
「ですね、この服装なんて、一昨日あいつが着てたのとほぼ一緒じゃないですか」
 調子づいていた俺は、ニヤニヤ笑いながら話していたのだが、ものの二秒でそのアホな笑顔を引っ込める羽目になった。犯人の特徴の下にある括弧書きを読んだからだ。

(これは六月十八日に確認されたものです)

一昨日の日付だった。
「え」思わず声が漏れた。慌ててゴンさんの表情を確認すると、さっきとはまた違う、険しい表情を浮かべている。どうやらとっくの昔に気付いていたようだ。
 いやいや、そんなわけないだろ。一昨日のあいつの服装、ほんとにこれだったか? 上は、間違いなくパーカーだった、色も確か黒だ。待て、下はどうだった。確か……、チノパンだった気がする。違う。大事なのは色だ。あのチノは何色だったっけ?
 頭の中で記憶の反芻に必死になっていると、自分の真後ろに人が立っている気配がした。その人は、聞き覚えのある、今正に思い出していた声でこう言った。
「今野さんに宮川さん、奇遇ですね!」
 全身の関節をフル稼働させ、高速で振り向くと、そこには当の本人である佐藤の姿があった。服装は紺色のパーカーに、カーキ色のチノパン、無邪気な笑顔を浮かべながら、俺とゴンさんの顔を交互に見ていた。
 ゴンさんがさりげなく横へ一歩動き、身体の向きを変えた。佐藤からポスターを隠したのだ。俺は冷や汗をかいているのを悟られないよう、佐藤に話しかけた。
「あれ、お前、もう帰ってたんじゃないのか」
「ちょっと自主練してて、遅くなったんですよ。お二人は何を?」
「ほら、リハーサル中に機材トラブルがあったろ。その修理に必要な部品のお遣いだよ」ゴンさんが答える。
「あー、なるほど」そう言ってから佐藤は改めて俺とゴンさんの顔を見て、クスクス笑いながら、
「二人ともなんか変ですよ。なんで緊張してるんですか」と言った。
 さあ、なんて答える、俺。下手な返事は出来ないぞ。どうにか適当な理由を、と思っていると、「チンッ」という音とともにエレベーターのドアが開いた。助かった。
「とりあえず、乗ろうぜ」
 二人を促して、俺たちはエレベーターに乗り込んだ。「下に参ります」という機会音声さえも、今は天使の声に聞こえる。
「そういえばさ」俺は逆に仕掛けにいくことにした。すごく怖いけど。
「この前の金曜、お前どこ行ってたの」
「どこって、リハーサルしてたじゃないですか」
「ああ、違う。その後だよ」
「それなら、バイトですね。先月ぐらいからちょっとずつ入れてたんですよ」
「でもさ」さあ、これが聞きたいんだよ。「俺に『ちょっとした用事がある』って言ってなかったっけ」
佐藤は数回瞬きした。ゴンさんはボタンの前で仁王立ちをしながら、俺と佐藤のやりとりをじっと見ている。
「駅の方に、ちょっとした野暮用があって」
 その野暮用って何だよ、そう聞こうとした瞬間、エレベーターの扉が開いた。ホームに着いたのだ。俺が一瞬躊躇したその瞬間、ジリリリリリ、というやかましい警告音とともに「まもなく発車いたします」という駅員の声がホームに響いた。
「あ、済みません! お先に失礼します!」
 そう言うと佐藤は止める間もなく走って行き、あっという間に地下鉄へ乗り込んでしまった。後に残されたのは、ポカンとしている俺とゴンさん、それから「駆け込み乗車はおやめ下さい」という苦情めいたアナウンスだけだ。
 とりあえず俺とゴンさんはエレベーターから降りて、空いているホームのベンチに腰掛けた。ゴンさんは腕組みをしながら、
「ルパンに逃げられた、銭形(ぜにがた)警部みたいな気分だ」
と呟いた。俺もそれには同感だった。


 数日後、俺は劇場「サブマリン」の舞台上の、照明器具の裏に腰掛けていた。二週間ほど続いたリハーサルもいよいよ大詰めで、今日が最終調整日だ。今、舞台では主人公の少女が、地下室に住み着いている怪人に会うために長い階段を降りている。言っておくと怪人役は佐藤だ。クライマックスなのだが、幸か不幸か照明係の仕事は殆ど無い。次のシーンまでやることがないので、ボーッとステージを眺めながら、俺は先週の日曜日のことを思い出していた。

 あの後、俺とゴンさんは予定通り部品を届けた帰りに、例の駅の駅員室を訪れた。盗撮被害がどのぐらい前からあったのか、確認するためだ。奥の方から出てきた白髪の駅長は、快く被害が一ヶ月前から続いていることを教えてくれた。
 話を聞いて他に分かったことは、盗撮犯は女性の下着を狙っていること、場所は電車の車両、ホーム、エレベーター、エスカレーターなど多岐に渡ること、小型カメラを使ったり、人の多い時間帯を狙っていたりと、かなり慣れている様子だということなど、色々聞き出すことが出来た。
「こんなこと言って良いのか分かりませんが、ヤツはプロですよ」
 駅長はたるんだ顎を人差し指で掻きながら、しゃがれ声で続けた。
「内の駅員と鉄道警察さんが何回も実際にヤツを見つけて、追っかけてるんですがね、土地勘があるのか知りませんが、上手ーく人混みの中でまかれてしまうんですよ」喋りながら駅長はチラリとゴンさんを見て、俺に向き直った。
「ところで」
「なんでしょう」俺は答える。
「そちらさんは本当に盗撮被害に遭ったのかね」
「そうですが」ゴンさんはすました顔で答えた。
 なわけがない。照明スタッフの作業用ズボンを履いている人が、どうやったら下着を盗撮されるというのだ。
 このやりとりの後も、どうやら話を聞きに来た鬼子母神みたいな面をした大柄な女性と、若干血の気の引いた顔をしている男性のコンビにいたく興味を示したらしく、逆に根掘り葉掘り話を聞こうとしてきたので、とっとと退散した。

「しかしなあ、一ヶ月前か」駅員室から脱出した帰り道、ゴンさんは軽くのびをしながら渋い顔で言った。
「あいつが、バイト始めた、って言って駅の方に帰りだしたタイミングとぴったりですね」
 ゴンさんは少し黙った。六月の中頃の夕日は午後五時をまわっても、辛抱強く西の空にしがみついている。薄い橙色に染め上げられた歩道を制服姿の学生たちが、若さをそこら中に振り撒きながら自転車で駆けていった。
「宮川」
「はい」
「このことは、一旦保留だ」
 正直ほっとした。ゴンさんのことだ、「明日会ったら縛り上げて、警察に突きだそう」などと言い出しても、おかしくはなかった。
「まだ、そうだと決まったわけじゃないですもんね」
「そうだな」グッと顎を引いて、力強くゴンさんは言い放った。
「次だ」
「え」
「次あいつが何か言い訳して、駅に向かったら、走って追いかける」
「……」
「で、マジでそういうことをしてたら、叩きのめして駅長の爺さんに、身柄を引き渡す」
「引き渡すって」そこは警察じゃないか?
「これで行こう」再びゴンさんは力強く言った。

 果たしてどうなんだろう。涙を流しながら少女に迫っていく怪人を見下ろしながら、俺は腕を組んだ。現状、状況証拠はもう揃いきっていると言えるんじゃないだろうか。背格好は全て一致しているし、時期的な矛盾も無い。追っ手をまく運動神経も持ち合わせているし……、ん、土地勘の話はどうなる? 誰よりも駅周辺を見慣れている駅員に土地勘があると言わしめる程に、周辺地理に明るいのか。と言うか、あいつに隠しカメラなんて扱えるのか?
 いや、そもそも職場の友人を疑ってかかるって、人としてどうなんだ。佐藤とは面接官として出会ってから、ずっと仲良くしてきた。忙しい合間を縫って飲みに行ったり、お互いに悩みを打ち明けたり、舞台俳優とスタッフという関係以上に理解し合えていると思っていたが、それは俺だけじゃないはずだ。あいつは盗撮とか、そういうのに手を染めるタイプじゃない。
 ……待て。感情論に走るな。悪いことしたやつが捕まった時に、そいつをよく知る人間の証言ランキングがあったら、堂々の一位は「あいつそんなことする様なタイプじゃない」で、僅差で二位が「落ち着いた、挨拶のよく出来るいい人だったんですけどねえ」だ。間違いない。ここは確実な情報のみで考察するんだ。
 仮にあいつが盗撮犯だったとしよう。とすると「カメラの扱い」と「土地勘」の二つの矛盾点が出てくる。「カメラの扱い」は正直俺もよく分からないので一旦保留にするとして、問題は「土地勘」だ。思いつく理由は①一ヶ月の間に徐々につかんでいった、もしくは②元から持っていた、の二つぐらいだ。
 ①は無いんじゃないかな。あの駅は地下鉄が二本、地上ではJRが通っているせいか、結構ごちゃごちゃしている。一ヶ月も使えば抜け道や近道の一本や二本ぐらい見つけられるだろうが、ここを職場にしている駅員を出し抜くのは、運や偶然を総動員しても、ちょっと無理がある。
 ②に関しては、正直はっきりとは分からない。佐藤は今、劇場から電車で二十分ほどの所に住んでいるはずだが、以前に駅周辺で暮らしていた可能性もあるし、犯行以前に駅の下見を済ませていた、ということもあり得る。①か②、どちらかと言えば②だ。
 逆に、だ。佐藤が犯人じゃなかったら、どうだろう。問題は当然、ほぼ完璧に一致している背格好だ。偶然にしては余りにも出来すぎている。となると、わざと服装を盗撮犯と一致させていた、ということになる。じゃあ、何のために?
 舞台上では、主人公の少女の恋人でもある青年貴族が、少女を助けようと勇んで地下室に向かったが、まんまと怪人の罠にかかり、もがき苦しんでいる。怪人はというと、なぜか地下室に置いてあるパイプオルガンの演奏にご執心だ。なかなかに脈絡のない場面だが、それに違和感を与えず、哀愁漂う雰囲気を作り出せるほど、佐藤の演技は上手い。もう五十回以上同じシーンを見てきた俺ですら、ちょっとしんみりするレベルだ。
 もし、俺があいつだったら、この才能を発揮するチャンスをふいにする様なことは、絶対に避ける。そう考えると、佐藤は誰かに頼まれて、もしくはそうせざるを得ない状況に陥って、わざわざ盗撮犯のフリを一ヶ月もやっていることになる。また、なぜ? なんのために? の登場だ。分からないことが多すぎる。それとも根本から発想が間違っているのか。名探偵某(なにがし)とかなら、ここで「ひらめいた!」と声を上げて頭上に電球を点灯させそうだが、俺にはさっぱりだった。分からんものは、分からん。

「くぉら宮川! 何ボケッとしてんだ!」
 唐突にゴンさんの怒声が、内線イヤホンを通して俺の鼓膜に跳び膝蹴りを決めてきた。もはや五月蠅(うるさ)いとかではなく、痛い。何事かと反対側の照明機材の後ろに陣取っているゴンさんを見ると、鬼のような形相で舞台を指さしている。今度は慌てて舞台を見下ろすと、今正に場面が変わろうとしていた。
 やばい。本来なら次の場面になる前に、既に照明の準備は万端にしていなければいけないのに、色々考えている間にタイミングを逃していたみたいだ。冷や汗を滝のようにかきながら、どうにかこうにか間に合わせると、また内線イヤホンから、
「お前、終わったらスタッフルーム来いよ」というゴンさんの低い声が飛び込んできた。さっきよりも落ち着いた声色だが、それがより一層恐ろしさを際立てている。
 ああ、やっちゃったなー、三十分、いや四十分は反省会だ。少々落ち込みながらも、これ以上ミスをしないために、可能な限り手際よく作業を続けていく。左手で光量と範囲を調節しながら、右手で椅子に深く腰掛け、着けている仮面をなでながら嘆き悲しむ怪人にスポットを当てる。集中しなければ、と思いつつも、やはり頭の片隅であのことを俺は考えていた。なんで? 怪人はむせび泣き続けている。お前の目的は、一体何だ?

「宮川さん、怒られてたでしょ」刑の執行を待つ死刑囚のような心境で、スタッフルームのパイプ椅子に腰掛けていた俺に、佐藤がニヤニヤ笑いながら話しかけてきた。佐藤は基本的にスタッフルームに用事は無い身分なのだが、よくここに来ては俺と無駄話をしている。
「ああ、ばれてたかー。そんなにミス目立ってた?」
「全然気付かなかったですけど、リハーサル終わった後に、すんごく怖い顔した今野さんと一緒に歩いてるの見たんですよ」
 ここで佐藤はニヤニヤ笑いを急に引っ込めて、
「で、何かあったんですか」と聞いてきた。
「何かって、何が?」
「だって、宮川さんああいうミスあんまりしないから、何か困りごとでもあったのかな、と思って」
 ご名答、お前だよ、と俺は心の中で答える。
「いや、まあ、色々とね」さて、どう答えようか、と考えながら適当に言葉を濁していたが、俺はあることを思いだした。
「そういえばこの前ゴンさんから聞いたんだけどさ」
「はい」
「お前二週間ぐらい前にタクシーに乗らなかった?」
 佐藤は数回瞬(まばた)きして、天井を見上げた。
「そう……ですね。確か先々週です」
「何かあったの? あんまりタクシーなんて乗らないだろ」
「それは」
 と、スタッフルームのドアを乱暴に足で開けながら、「宮川、待たせたな」とゴンさんが登場した。両手に機材の部品が色々入った段ボールを抱えている。リハーサル中の例のミスを不問にする代わりに、ガタの来ている機材の修理を頼まれたのだ。
「いえ、大丈夫ですよ」全然良くないよ。タイミングが悪すぎるぞ、ゴンさん。
「どうしたんですか、これ。」佐藤は段ボールの中を覗き込んだ。
「これはな、そこにボケッと座ってる男の」ゴンさんは俺を力強く指さした。「罰ゲームの道具だ」
「へえ」佐藤も俺を見てまたもやニヤニヤしながら「罰ゲームかぁ」と言った。こんにゃろ。
「本番で似たようなことしたら、承知しないからな」俺をにらみつけながらゴンさんは、部品の入ったプラスチックのケースとケーブル二、三本、それから説明書を手渡してきた。
「本当に申し訳ないです」本日十二回目の謝罪をしながら、部品類をゴンさんから受け取る。佐藤は俺とゴンさんのやりとりを見ながらニヤニヤ笑いを続行していたが、ふと時計に目をやるとごそごそと荷物をまとめだし、
「僕、用事があるので、お先に失礼します」と言った。
 ゴンさんは俺に小言を言うのに忙しかったし、俺は俺で次から次へと飛んでくる小言をどうにかいなしていたので、結構な生返事をしてしまった、と思う。よく覚えていない。
 一通り小言を俺にぶつけ終えると、ゴンさんはため息をついて、
「で、なんでボーッとしてたんだ?」と聞いてきた。
「そりゃ、佐藤のことですよ」
「あのなあ」ゴンさんはあきれたように笑った。「一旦保留って言ったろ」
「でも、気になっちゃうんですよね。だってあいつが盗撮なんてするわけ無いのに、証拠だけ見るとどう考えても犯人になっちゃってるじゃないですか」
「普通に考えたら、誰だって盗撮なんてしないよ」
 そう言ってゴンさんはパイプ椅子から腰を上げ、
「はい、もう無駄話は終わり。とっとと片付けちまうぞ。次に『何か動きがあるまで、一旦保留』を破ったら、一日中駅で張り込みさせるからな」と釘を刺した。で、部屋から出ようとして、何かに気がついたような顔をして、俺を見た。
「あれ、佐藤は?」
「さっき帰りましたよ」と返してから、俺も気付いた。あいつ、帰り際になんて言った?
「お前ちょっとそこで待ってろ」ゴンさんはそう言って、スタッフルームを駆けだしていった。どうやらエントランスホールの警備員に話を聞いているらしく、「佐藤」「走って行った」「駅の方」という言葉の切れっ端がこっちにまで聞こえてくる。すぐにゴンさんは戻ってきて、
「宮川、佐藤のやつ駅に向かったらしいぞ」と勢い込んで言った。
 俺は財布とスマホを引っ掴んで椅子から立ち上がった。俺の様子を見てゴンさんは無言で走り出した。当然俺も後に続いた。


 数分後、俺とゴンさんは息を切らして例の駅の改札口の前で立ち止まった。勢いで走り出したまでは良かったが、結局ここに来るまでに佐藤は見つけられず、何をどうすれば良いのかも分からない。それはゴンさんも同じのようで、肩で息をしながら、
「これからどうする」と言いながら辺りをぐるっと見渡した。帰宅ラッシュ真っ只中、というわけではないが駅はスーツ姿の男女でごった返している。
「とりあえず佐藤を見つけましょう。あいつに話を聞かないことにはどうしようもない」
「そうだな」
 というわけで俺とゴンさんは捜索を開始した。が、見つかる気配が全くしない。時間が経つに連れ徐々に人も多くなり、逆にゴンさんとはぐれそうになる。駅構内をうろうろしていると、いやぁな想像が頭をもたげてきた。あの駅長の爺さんは「犯行現場は駅構内とは限らない」と言っていた。今俺たちは必死に改札前を探し回っているが、もしあいつが電車の車両内や改札の内側に既にいた場合、無駄骨にならないか?
 これはゴンさんに伝えておくべきだろう。そう思って振り返った時、何やら前方二百メートルほどで人だかりが出来ているのに、俺は気がついた。ゴンさんも気付いたようで、つま先立ちになりながら目をこらしている。何かのトラブルか、誰かが倒れたのか、と思って見ていると、人だかりの中から急に黒っぽい服装の男が飛び出してきた。ほぼ同時に、「逃げたぞ!」「誰か捕まえて!」「盗撮犯だ!」という声が上がり、駅構内は一気に騒がしくなった。
 俺の脳ミソは「盗撮犯」というワードに一瞬で反応した。考えるより先に足が動き、気がつけば男の後ろを猛然と追いかけている。途中でゴンさんが呼んでいるような気がしたが、かまうものか。今は緊急事態だ。
 逃げる男は、妙な走り方をしていた。若干右足を引きずるようにしているが、だからと言って遅いわけではなく、むしろ上手く人混みを利用してスイスイと距離を離していく。逆に俺は、最初の勢いはどこへやら、もうバテ始めていた。既に一分以上追いかけっこをしているように感じていたが、多分二十秒も走っていなかったと思う。
 俺は走りながら、男の素顔をどうにか確認しようと頑張ってみたが、振り切られないようにするのが精一杯だった。黒のパーカー、カーキ色のチノパンの他に、紺色のキャップを深くかぶっているので、髪色も分からない。現状こいつの見た目は佐藤に瓜二つだ。
 少しずつ俺との距離を離していた男は急に向きを変えて、目の前の人だかりに突っ込んでいった。当然俺も後に続きながら、
「そいつ盗撮犯です! 誰か捕まえて下さい!」と叫んでみたが、わらわらと人混みが散っていっただけで、誰も動こうとしない。が、人がある程度いなくなったおかげで、前方に何があるかはっきり分かった。駅の三番出口の看板の下を男が走り去っていく。こいつ、駅の外に逃げる気だ!
「ちくしょう!」
 思わず声が漏れた。後もう少しなのに。どうにか出来ないかと辺りを見渡すと、盗撮犯が逃げていく直線上をちょうど横切る進路で歩いている、中肉中背の男の姿が目に入ってきた。スマホをいじっているようで、目前の騒動に気付いていないようだ。盗撮犯もそれに気付いたのか、若干走る方向を変えた。
次の瞬間、歩いていた男が、素早くスマホをしまい、盗撮犯目がけて猛然とダッシュを開始した。ちょっと後ろから走りながら見ていた俺ですら、理解が追いつかなかったのだから、盗撮犯は反応すら出来なかっただろう。男はものの見事なタックルをぶちかまし、盗撮犯は駅の柱に叩きつけられた。
ハリウッドさながらの急展開に驚いて転びそうになりながらも、俺はタックルを食らってのびている盗撮犯のもとに駆け寄った。仰向けになって泡を吹いているその顔は、

佐藤じゃなかった。

 緊張が一気に解け、疲労と安堵で震えながらどうにか俺は立ち上がり、通りすがりのタックル男に向かって、
「済みません。警察呼んで貰えますか」と言った。別に自分で通報したって良かったのだが、非日常を直に体験した後だったので、これ以上日常から外れたことをしたくなかった。せめてあんたが肩代わりしてくれよ、というわけだ。
「えー、ちょっと無理かなぁ」
 当然、「分かりました」という返事が来るものだと思っていた俺は、
「え」と言って思わずタックル男の顔をまじまじと見てしまった。そしてもっと驚いた。だって、ニヤニヤ笑っていたタックル男は、
「あれ、宮川さんじゃないですか、奇遇ですね」
 佐藤だった。


「何があったか、私たちにも分かるように説明しろ」
 ゴンさんはテーブルについさっき到着したばかりのアイスコーヒーをものの五秒で飲み干すと、そう言い放った。喉が渇いていたらしい。
 タックル男が佐藤だと判明した後、ゴンさんがやっとその場に到着し、俺たち二人を駅のタクシー乗り場のすぐ近くにある喫茶店に連れてきたのだ。俺は警察が到着するまで待っていた方が良いと言ったのだが、夜のバイトに遅れたくない佐藤と、早く話が聞きたいゴンさんの反対に押し切られた。
「僕はただ、盗撮犯のフリをしてただけですよ」
「何のために」俺はアイスコーヒーにガムシロップを入れながら聞いた。
「まあ、順を追って話しますから、聞いて下さい」

 お二人はさっき、「盗撮被害は一ヶ月前から」っておっしゃってましたけど、それは間違いです。僕の知る限り、三ヶ月ぐらい前からあいつは盗撮をしてました。で、どうにか止めさせたいな、って思ってたんですけど、ある時「僕があいつに変装して、頻繁に駅に出没すれば警戒が厳しくなって、盗撮がやりづらくなるか、上手くいけば警察に逮捕させられるかもしれない」と思ったんです。それが大体一ヶ月と二週間前のことで、そこから駅内部と周辺の地理を頭に入れたり、盗撮犯の服装とか時間帯の傾向を調べたり、色々やりました。……いえ、結構楽しかったですよ。なんか小学生に戻った気分でした。今度一緒にやってみます? ……ああ、そう。
 まあ、兎に角、その後は変装して、盗撮っぽいことをしたりして、たまに駅員さんから疑われて、追いかけられて、の繰り返しでした。なんだか、途中から役者魂に火がついちゃったんですよね。どれだけ犯人っぽい雰囲気を出すことが出来るか、みたいな。疑われる度に「上手くいったんだ!」ってなっちゃって、困りましたけどね。僕がそうやってる間にも、本当の犯人の方も性懲りも無く盗撮をやってたみたいですけど、その内に駅にポスターが貼られたりとか、鉄道警察が見回りを強化し始めたりして、徐々に効果は上がってきてました。それで今日、見事お縄になったっていうのが顛末(てんまつ)です。
 ……うーん。残念ながら三番出口にいたのは偶然です。偶然というか、まあ一種の賭けですね。いつも通りトイレで変装しようとしたら、なんだか駅の中が騒がしくなっていたので、もしかしたらと思って待機してたんです。結果オーライってやつです。

「先生、質問です」俺は挙手した。
「はい、宮川君」佐藤は俺を指さす。
「盗撮したフリって、具体的には何をしたんだ」
「そうですね。例えばエスカレーターで、ミニスカートを履いている女性の後ろに繰り返し立つ、とかですね」
「それだけなのか?」ゴンさんは意外そうに聞き返した。
「最近の盗撮は結構凝ってて、自分の靴のつま先の部分にカメラを仕込んだりするんですよ。そうすると、スカートを履いている人の後ろに立つだけで盗撮が出来るって言う寸法です。あの犯人も確かやってましたよ」
「ああ、なるほどね」だから走り方がおかしかったのか。
「私からも一つ質問がある」ゴンさんが慣れた手つきでポニーテールを結び直しながら、質問した。
「どうぞ」
「お前はどこで『盗撮被害が三ヶ月前からある』という情報を手に入れた?」
 俺もそれには引っかかっていた。俺とゴンさんが下手な芝居を打ってまで、駅長から聞き出した情報も「一ヶ月前」だった。どこで被害を知ったのかは説明されてない。
 佐藤は少し頬を赤らめた後、
「実は僕、少し前から付き合っている人がいまして」と口を開いた。
「ほう」とゴンさん。
「へぇ」と俺。
「彼女は度々この駅を使うんですけど、三ヶ月ぐらい前に『盗撮にあったかもしれない』と僕に相談してきたんです。その頃はまだ付き合って間もなかったので、『僕がどうにかする』みたいな虚勢を張ってしまったんですよ。それがこの変装ごっこのきっかけみたいなものです」
「じゃあ」ゴンさんは微笑しながら、「バイトを始めたのもそれが理由だな」と言った。
「あ、分かりますか?」佐藤も照れくさそうに笑った。「同棲することも考えてるんですけど、どう考えても今の収入じゃ目当ての新しい部屋を借りられないので、始めたんですよ」
 俺はまじまじと佐藤を見つめてしまう。へぇ、こいつ彼女いたのか。

 そろそろ出発しないとバイトに間に合わなくなる、と佐藤が言い出したので、俺たちは喫茶店を出た。気付かない内に小雨が降っていて、少しだけ憂鬱な気分になる。
「お前、バイト先までなにで行ってんの?」ゴンさんが空を見上げながら訪ねた。
「タクシーです」佐藤は事もなげに言う。
「タクシー?」俺は思わず声を上げてしまった。「どこにそんな金が」
「あれ、言いませんでしたっけ。僕の彼女、タクシー運転手なんですよ。バイト先が最寄りの駅から遠いって文句言ってたら、タダで乗せてってあげる、って言ってくれたので、お言葉に甘えてるんです」
俺は抗議の意味も込めて「職権濫用だあ」と(つぶや)く。
少し歩いたところで佐藤が「あのタクシーですね」とタクシー乗り場に止まっている一台を指さした。小走りに向かおうとする佐藤をゴンさんが「ちょっと待ってくれ」と言って呼び止めた。
「何でしょう」きょとんとした顔で佐藤が振り返る。
「最後に一つだけ聞きたいことがある」
「いいですよ」
「途中で警察に相談しようとは思わなかったのか?」
 佐藤は数回瞬きをして
「そうですね、最初はそれもありかなって思ってたんですけど、かなり上手くことが運んでたので、もったいなくなったっていうのと」
 言葉を句切ると、ニコッと笑って、
「演劇みたいで面白かったからです」と続けた。
 ゴンさんは「そうか」とだけ言った。
「じゃあ、また明日」そう言って佐藤は軽く一礼すると、今度こそタクシーに駆け寄っていき、助手席に乗り込んだ。すぐにタクシーは雨の中でライトを光らせながら、走り去っていく。

 雨の中に消えていったタクシーを見届けた後、ゴンさんはしみじみと
「要するに私たちは、あいつのお芝居に乗せられてたってことか」と呟いた。
「まあ、そうなりますね」
「ああいうやつが、きっと演劇に人生を捧げるんだろうな」
「うらやましかったりします?」
「いや、私は何かに人生をかけて生きるのは、あんまり好きじゃないんだけど、ああいうのを見てると『なんかいいな』って思えるから不思議だよ」
「そうですね」俺もしみじみと呟いてみる。「なんかいいですよね」

ソング

「ラジオ、つけてるんですね」林はタクシーに乗ってから、初めて口を開いた。別に気に障ったわけではなく、単に意外だったのだ。
徐々に秋が深まり、風も冷たくなってきたので、思い切ってマフラーを巻いてきたのだが、暖房の効いたタクシーの中では、ただの熱を持った毛糸の塊と化しており、もう外しても良いかな、と林は思っていた。
「ああ、済みません。切り忘れてました」運転手が、慌てて手を伸ばしてスイッチを切ろうとするので、林は「いえ、聞きたかったので大丈夫ですよ」と止めた。
「済みません。ありがとうございます」自分と同年代ぐらいの男性運転手はバックミラーの中で頭を下げた。
「本当に大丈夫です。私この番組好きなんですよ」マフラーを(ほど)いて、スカートの上に置きながら林は答えた。
 ラジオから流れているのは、リスナーからのアンケートを元に、最近の人気曲の順位を百位から一位まで決める、という内容であり、実際にこの番組は林のお気に入りだった。MCの語りや曲に関するエピソードが面白く、ついつい時間を忘れて聞いてしまう。
 番組ではちょうど二十位までを紹介し終えたようで、小休止のようなMCの語りが始まっている。
『今日の話題は、両親、についてでーす!』
 林は一気に憂鬱になった。わざわざタクシーなんかに乗って地元に帰ってきた理由をきっちりと思い出したからだ。一旦息を吐いて、落ち着きを取り戻す。あの二人になんと言えばいいのか、頭を抱えたくなるのをこらえながら、林は窓の外の流れていく歩道を見つめていた。


 『今日の話題は、両親、についてでーす!』
 佐藤はハンドルを片手で回しながら、もう何年も会っていない両親の顔を思い出した。別に大喧嘩をしたわけでもないのに、年を重ねる内に少しずつ関わることが少なくなり、今ではすっかりこんな関係だ。自分と両親との関係を知る友人たちには「仲が悪いのか」とよく聞かれるが、別にそういうわけでもない。強いて言えば、佐藤は両親の生き方に、若干の反発を覚えていた。
 父は舞台俳優、母はタクシードライバーだ。誰しもが人生で一度は両親に向かって「なんでおしごとしてるの?」と質問する、あのイベントを佐藤もしてみたことがある。結論から言えば二人の返答は「人生に合っていたから」だった。
幼い頃からそういう両親の元で育った佐藤は、当然いずれ自分も天職と呼べるようなものに出会えるのだろうと、そう思っていた。残念ながらそう上手くはいかず、母と同じタクシーの運転手をやりながら、日々を過ごしている。悪くはない、と佐藤は思っていた。実際車の運転は得意だったし、好きでもあった。
でも、時々思ってしまうのだ。この仕事は、俺の人生に合っているのかな、と。


 大学を辞めよう、と思ったのは決して思いつきではない、林は確信している。ただ、それを他の人間が、特に自分の親が受け入れられるかどうかは、また別の話だと言うことも重々承知だ。
 林が画家になりたい、と意識し始めたのは大学三年生の夏だった。今でもよく覚えている。友人と一緒に何の気なしに出かけた美術館でちょうど特別展示をやっていたのだ。そして、当時展示されていた一枚の絵に林は衝撃を受けた。荒野に、ポツンと椅子が一脚置かれており、その上に真っ白な女性の生首が鎮座している。圧倒的な存在感を放ちながら、生首はその真っ黒な目でどこか遠くを見つめていた。不快感と神秘的な雰囲気が絶妙に共存しているその絵に、強烈なメッセージが込められているように林は感じた。
 その時はまだ、画家になろうとは真剣に考えてはいなかった。ただ、就活を進めていく内に、これでいいのか、という思いが少しずつ、少しずつ膨らんでいった。そうして、ある日林は決心したのだ。画家になろう、と。
 そうして今、「大学を中退して、美大に行かせて欲しい」という思いを伝えに、タクシーに乗って実家に向かっているのだ。


 後部座席の若い女性客は窓を眺めたまま動かない。考え事をしているのだろう。佐藤はバックミラーから前方に視線を戻し、ハンドルを握り直した。ラジオのMCは相変わらず自分と両親の思い出について、語っている。
 佐藤は幼い頃、父親の舞台を見るのが好きだった。ああいう風になりたいと思っていた時期もあったように思う。演技など何も分からない子供の目から見ても、父の演技は上手く、舞台の上で輝いていて、佐藤はそれが誇らしくもあった。
 しかし、その輝く父の姿が、佐藤の心を妙にざわつかせた。高校生ぐらいからか、自分の人生に自信が持てないと思うようになったのだ。今思えば、世間一般の悩みの一つと片付けられるが、父や母のように胸を張って、「自分という人間に、ぴったりだ」といえるようなものに出会えなかった。
 だからなんだ、と言ってしまえばそれまでだ。というか、そういう風に考えた方が良かったのかもしれない。そのせいで、自信を持って生きている両親との間に、妙な溝を感じてしまったとも言えるからだ。
 佐藤は頭を振った。らしくないな、と自分でも思ったからだ。いつもはこんな風にネガティブになることはあまり無い。多分このラジオのせいだ。佐藤は手を伸ばしてカーステレオの切り替えボタンを押した。


 急に車内が静かになった原因に気付くのに、数秒かかった。運転手がラジオを切ったのだ。
 両親といえば、林の両親は現実的な人たちだった。というか今もそうだ。確か、二人は母の海外の転勤先で出会ったのだった。断片的に聞いた両親のなれそめを林は思い出していた。
 二人とも保険関係の仕事をしており、子供の教育に熱心だった。そして林も両親の期待に応えるようにして生きてきた。中学受験をし、進学校に通い、難関大学に合格し、学歴を積んできた。それが分かりやすい幸せへの道だと言うことを林は十分すぎるほど理解していた。そしてそこに驚くほど自分の意志が関わっていないことも。
 だから、いいじゃないか。そう言い聞かせる。例え馬鹿なことを言うなとはねつけられても、一度ぐらい、思いつきだと笑われても、人生に自分の意思を貫こうとした跡を刻みつけるのだ。
 でも、やはり怖いものは怖い。心に決めたことが、一笑に付されるかもしれないと思うことは苦しかった。だからだろうか、林は思わずこう言っていた。
「少し、話を聞いて下さい」と。


「少し、話を聞いて下さい」
 自分に向けられた言葉だと気付くのに、少し間があった。佐藤は慌てて
「はい」と言った。
 後部座席の若い女性客はもう窓の外を見ておらず、フロントガラスを緊張した面持ちで、眺めていた。
「私は、人生を変えたい、そう思って、今あるところに向かっています。多分上手くいきません。それでもあがいてみたいんです。何かが変わるかもしれないのなら、出来ることはやってみたいんです。私がやろうとしていることは無駄でしょうか」
 はっきりとは分からなかった。冗談かもしれない、そう思った。けれど、後部座席の彼女は、真剣だった。
 数秒の沈黙の後、彼女ははっとしたように顔を赤らめて、
「済みません!」と慌てて言った。おそらく思わず口をついで言葉が出てしまったのだろう。意味もなくバックの中を触っている彼女を見て、佐藤はおもむろに口を開いた。
「無駄じゃないですよ」


「無駄じゃないですよ」
「え」思わず素っ頓狂な返事を林はしてしまった。あんなうわごとみたいな話は、当然聞こえなかったことにされ、自分のいないところで笑いものにされるのだ、と勝手にいじけていたからだ。若い運転手は続ける。
「無駄じゃないです。むしろ誇りに思って良いと僕は思います。自分の人生に何かかの意思を持って臨むことは立派ですよ」
 運転者はそう言ってから、
「済みません、出しゃばったことを言って」と言ってから、少し笑った。林も笑い返した。根拠のない勇気や元気が身体の奥底からわいてくる、なんてことは無かったが、心が少し温かくなった、気がした。
「ラジオ、つけてもらっても良いですか」林は聞いた。
「いいですよ」運転手はボタンをカチッと押した。
ランキングのカウントが再開されている。林は少しほっとした。

 そろそろ目的地が見えてくる、というところでラジオがランキングの一位を発表した。MCが声高に曲名を言い放ちイントロが始まると、女性客は「あ」と声を上げた。重く優しいドラムのリズムに乗せて、海の底から響くような柔らかいベースのメロディーが車内を包む。
「この曲好きなんですよ。今流行ってますよね」
「らしいですね」佐藤は相槌を打つ。この失恋ソングは作成したシンガーソングライターの、若い頃の体験を元にしているのだったか。NHKの歌番組に出演した彼が、照れくさそうに、それでいて懐かしげな表情を浮かべながら、そのことについて話すのを見て、曲を聴いて想像していたよりも老いているな、と感じたことを佐藤は思い出した。
 後部座席の彼女も同じ感想を抱いていたようで、そのシンガーソングライターの名を口にし、「私の親と同じぐらいの年齢なのに、こんな新鮮な曲を作れるなんて、すごいなあって」と言った。
「僕も好きですね。ああいう曲にありがちな未練がましさみたいなのが無いので」
「そうなんですよ! 曲調とかも素敵で、なんだか言葉に出来ない良さがある気がします」そう言ってから彼女は「『言葉に出来ない良さ』って下手な感想ですけど」と苦笑した。
「そんなこと無いと思いますよ。『言葉に出来ない』なんて、最高の褒め言葉じゃないですか」
 彼女は少し笑って「ありがとうございます」と嬉しそうに言った。

 改めて曲を聞いていると、さっきからざわついていた心が、凪いでいる海のように、すーっと落ち着いてくのを感じた。久しぶりに自分の不安を誰かに打ち明けたからなのか、この曲のおかげなのかは定かではないが、間違いなくいつも以上に穏やかな心になっていた。バックミラー越しに後部座席の彼女を見ると、切羽詰まった先程までの表情は薄らいでいて、微笑しながら窓の外を眺めている。

 佐藤は「言葉に出来ない」と小さな声で呟いてみた。あの老いたシンガーソングライターはどんな気持ちでこの曲を作ったのだろう。去って行った恋人に届くよう願ったのだろうか。それがかなったかどうかは分からない、でもこの曲を聴いたまるで無関係な自分たちが、彼らの過去に思いを馳せているこの瞬間を、佐藤はなんかいいな、と感じた。大丈夫だよ、あなたの思いは少なくとも俺たちには届いているよ、と彼に言いたいとも思った。

 遠くに見えていた交差点の青信号が徐々に迫ってくる。左ウィンカーを出しながら、ブレーキを掛け減速するのに合わせるように、ラジオから流れる曲も終わりに近づいてきた。交差点に入り左ハンドルを切って、すぐに交差点から出る。 ウィンカーがカチッと切れると同時に、

曲が終わった。

クロスロード / 中野弘樹 作

クロスロード / 中野弘樹 作

【交わる、人生】 何気ない出会いが場所や時間を越えて誰かの背中を優しく撫でる。そんな3つのお話です。ラストを読めばきっとあなたもそんな出会いに思いを馳せるはず

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-02-14

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 1
  2. 2
  3. 3