ゼロの乗算 / 雪六華 作

 私がこれより先に綴る文を読んでも、大抵の人は理解しがたいと感じることでしょう。いや、誰一人分かってくれなくてもおかしくない。
 それでも、遺書とは別にこの手紙を遺しておきます。そうでないと特に際立った悩みもない男が、突然自ら命を絶ったという不可解な謎を世にひとつ遺してしまうから。誰にも分からなかったとて、誰にも話したことのない苦しみを心の外へ出してから死にたいと、そう思ったのです。
 数少ない知り合い、恐らく現場検証か何かをする警察の方、ここまでの経緯を知りたいと思った物好きな方へ。つまらない身の上話になりますが、読んでいただけるのであれば嬉しい限りです。
 私の生まれ育った土地は、郊外と言えば聞こえは良いですが、駅へ行くのにも車を使うような田舎の奥地でした。かといって、田んぼの広がる自然豊かな場所でもありません。古いアスファルトの道路には亀裂から雑草が邪魔くさく生い茂り、ガードレールは遠くからだと薄茶色に見紛う程錆びてくすんでいました。ざっと四、五十年は前に立てられたような佇まいの家がぽつぽつと並び、コンビニと称するくせに午後十時には閉まる店が、同業者がいないのを良いことに幅を利かせています。そこに住んでいたのはもう二十年も前なのに、今でも町の様子が詳細に思い出せます。そんな片田舎で、私は貴重な青春時代を食い潰していました。
 そう説明すると、生まれ育った環境のせいで人生の春を謳歌(おうか)できていないようにも聞こえるでしょうが、まるっきり周囲のせいというわけでもありません。どんな辺鄙(へんぴ)な土地に生を受けたって、学校で勉学に打ち込むなり、気の合う友人を見つけるなり、退屈な日々を充実させる何かしらの方法はあるはずですから。自分にはそれを見つける能すらないというだけの話でした。
 端的に言えば、自分は不登校と呼ばれる状態に陥りかけていたのです。陥った、と断言しないのは、一応月に何回かは学校に行くこともあったからです。といっても、そのうち教室まで行くのなんて稀なパターンで、大抵は保健室止まりでしたが。
 特にクラスでいじめにあっただとか、担任とそりが合わないだとか、明確な理由はありません。ただ、田舎の公立ゆえに、その治安は決して良いものとは言えませんでした。各学年に何人かは派手な金髪を携えた不良が肩で風を切って歩き、いじめは当然のように横行し、授業は生徒の私語でろくに教師の声が届かない有様。私のいたクラスは特に酷くて、いじめと言う名前の暴行や侮辱が平気で飛び交っているような環境でした。同じクラスの不良が窓ガラスを割って、学年集会が開かれたこともあるくらいでした。それでも、入学したばかりの頃は頑張って通っていました。その年の秋頃でしょうか。猛暑で体力を落としたせいか、風邪を引いて二、三日休んだことがありました。まあすぐに症状は治まったのですが、元気になった翌朝、布団の中でふと、ある考えが(よぎ)りました。今日学校に行っても、いつものように誰かが何か問題を起こしていて、怒り心頭の学年主任に巻き込まれる形で怒鳴られるんだろうなあって。そこから足が遠のき始め、二年生に進級する頃にはそのような惨状に陥っていました。
 幸い、両親は学校の状況も行きたくない自分の心境にも理解を示してくれました。いや、理解を示さざるを得ないほど酷い環境だったからかもしれません。とにかく、家に引きこもる息子に対し、そっとしておいてくれているのは事実でした。勉強だけはしておきなさいと言われ、買いそろえてもらった参考書で机に向かう日々を送っていました。
 だけども、たかだか十四歳の独学なんて至らないことも多かったです。はっきりと比べたことはありませんが、同級生に比べて遅れを取っているのは明確でした。そのことに対し、うっすらとした危機感とコンプレックスを抱えてはいたけど、そんな焦りに刺激されてもなお、月に数回保健室に通う程度でした。教室に行ったところで、遅れを取り戻せる程授業が分かりやすいとは思えなかったし、かえって余計なストレスを抱えることになるのが目に見えているからです。アスファルトの照り返しで蒸された暑い気候とは裏腹に、生ぬるい環境に揉まれ、両親の理解に甘える自分に苛立ち、時間を浪費するだけの日々が続いていました。
 その唯一通っている保健室でも、特別なことはしていませんでした。もはや教室よりも通う期間が長くなってしまったその部屋は、一歩踏み入れるだけで何となく窮屈(きゅうくつ)な印象を覚えます。それは生徒数が少ないせいで、保健室だけでなく学校全体が小さく、こじんまりした建物だからというのが理由なのですが。
 ただでさえ狭い部屋の真ん中に、大きなオフィステーブルが陣取っています。時々の登校では、そこで教科書やノートを広げて勉強するのが常でした。保健室の先生はよく言えば生徒に対して放任主義、悪く言えば無関心な人で、本来怪我や病気をした生徒が利用するはずの保健室を勉強に使っても小言すら言いません。これが甘えた中学生の不登校を大いに増長させました。
 二学期が始まりしばらくたった九月中旬、私は今学期で二回目か三回目の登校を果たしていました。他の生徒が教室で担任の話に耳を傾けているように、自分も一応机に向かっていたのです。シャープペンシルを走らせていたのは、前に学校へ来た時に担任からもらった数学のプリント。文章題が何問か書かれており、Aさんが値段の分からないリンゴとバナナをいくつか購入した旨が書かれていました。
 実は、と言う程でもないが、主要な五教科の中で一番苦手なのが数学でした。国語は本を読むのが好きだから苦ではないし、英語も文法書とにらめっこをしてどうにか矛盾のない文章を書くことができていました。理科と社会は単語を覚えれば壊滅的についていけなくなることはありません。でも、数学だけはそうはいきません。教科書に載っている公式に数字を当てはめてみても、どうも正しい数字が出てこないのです。困って解説を見ても、何が何だか分からない理論が展開されていて、さっぱり分かりません。おかげで、他の教科は平均より少し上くらいの成績をつけてもらっていたのですが、数学だけはどうもできが悪かった。何とか勉強についていけてることが、親に学校へ行かないことを許容してもらっている要因のひとつなので、どこかでしっかり遅れを取り戻したいとはぼんやり考えていたのですが、解決策は思いついていませんでした。
 だから勉強をしていると言っても、適当に数字を書いて、消しての繰り返し。プリントも授業で使っているものをもらっているだけで、提出義務はないのでますますやる気が出ませんでした。はあ、と誰が聞くでもない溜息を零しながら、壁に掛けてある時計を見ると、時刻は十時四十分。そろそろ二時間目終わりのチャイムが鳴る頃でしたでしょうか。保健室には、真ん中のオフィステーブルとは別にある養護教諭用の机で、先生がキーボードをタイピングする音だけが響いています。きっと、保健だよりか何かを作っているのだろう。そう思いながら、意識がプリントから逸れ、ふわりと宙に浮かびかけた時、
 コン、コン、
 と、自分の背後で硬いものを叩く音が二回鳴りました。後ろにあるものと言えば、クリーム色に塗られた引き戸しかありません。つまり、ドアをノックする音です。
 そう認識するより前に、自分の脚は立ち上がっていました。
 普段は特に気にもせずに、保健室の真ん中を堂々と占拠していたのですが、他の生徒に見られるかも知れないとなるとそうはいきません。本来授業であるはずの時間に、健康な生徒がこんなところで勉強しているなんて、その時の私にとっては恥ずかしくて仕方がありませんでした。親や先生は許してくれているのだから別に良いのかもしれませんが、そうやって堂々と居直れるくらいなら最初から教室まで行っていることでしょう。だから本来の利用者の気配がすると、大急ぎで隠れる習慣がすっかり身についてしまっていました。
 と言っても、小さな保健室の中で隠れられる場所なんてひとつしかありません。部屋の大半を覆っているベージュのカーテンを開け、飛び込みました。中には無機質な白のパイプベッドが置かれ、急病で気分の悪くなった生徒を待ち受けています。がらり、と音を立てて開けられるドアを尻目に、慌ててカーテンを閉めました。
 ノックの主は足音と共に保健室へ入ってきました。しばらく聞き耳を立てていると、養護教諭と会話している様子が窺えます。しかし、そんな時間帯に来訪者なんて、とカーテンの中で不思議がっていました。生徒が少ない分、病人や怪我人も少ないし、静かな授業中より皆が部活で動き回る放課後の方が賑わっているイメージがあったからです。担任が自分のためにここまで来てくれることもありましたが、それも大抵は昼休みでした。
 しばらく息を潜めていると、ふと違和感に気づきました。聞こえてくる声が、やけに低いのです。養護教諭の(やわ)い女声とは対照的な、低くかさついた声。声変わりの過渡期にある中学生のものとは思えませんでした。それに、カーテン越しにシルエットを見てみても、優に百八十センチはありそうです。恐らく先生のうちの誰かだろうと思ったのですが、その時の担任は女性でしたし、朧気な記憶を辿ってみても、思い当たる人物はいませんでした。
 そう思案していると、こちらへ呼びかける養護教諭の声が聞こえます。
小椋(おぐら)くん、開けても良いかな。先生がプリント持ってきてくれたみたい」
 やっぱり教師のうちの誰かだったようです。でも、いつもみたいに担任の先生じゃないのはどういうことだろう、と疑問に思いながら、恐る恐るカーテンを開けました。
 まず空けた隙間から見えたのは、見慣れた養護教諭の顔。丸く人当たりの良さそうな瞳がこちらを覗いています。その後ろで、存在感のある背丈が立っていました。
 顔を見てみても、やはり覚えはありません。男性にしてはやや伸びた髪が、フレームレスの眼鏡と相まって、どことなく大人しそうな印象を受けます。
「あ、ごめんなさい」
 先ほどまで聞こえてきた低い声が、こちらに話しかけてきます。
谷口(たにぐち)先生が忙しいみたいで。僕もこの後授業入っちゃってるので、先にと思って」
 そう言いながら、パステルグリーンが鮮やかなカーディガンの横から腕を伸ばしてきます。手には何枚かのプリントが握られていました。
 初対面の人を相手に戸惑いながらも受け取り、何とかお礼を告げると、「じゃあ、これで」とその男性はさっさと行ってしまいました。去り際、横から見たその猫背がやけに印象的でした。
 少しの足音と古いドアを閉める大きな音で、彼が部屋を出て行ったのを悟ります。すると、まだベッドの傍らにいた先生が何気ない様子で問うてきました。
「初めて会った? ヤサカ先生」
 そう聞かれるほど、訝しげな表情が出ていたのでしょうか。素直に頷くと、彼女もそうだよねとでも言いたげに小さな顎を上下させます。
「やっぱり。今年来た先生だし、授業もあまり担当してないから。確か小椋くんのクラスで、数学の担当なんだよ」
 それだけ答えて、養護教諭は自分のデスクまで戻っていきました。その後をついていくように、自分もベッドから立ち上がります。
 もらった用紙を改めて見てみると、国語や社会に混じって数学のプリントもありました。また『分からない』の感情が積み重なっていくようで、私の気分を重くさせます。とりあえず分かるものから片付けていこうと、数学のプリントはまとめて机の端に寄せていると、ふと考えが浮かびましだ。珍しく数学の先生が来たのなら、分からないところを聞けば良かったと。しかしこれから授業があると言っていたし、そうお願いするのも勇気がいるし。普段授業に出ていない生徒にわざわざ教えるなんて、面倒がられないだろうか。様々な不安がせっかくの思案を塗りつぶしていくようでしだ。
 ただ、短い時間で得た第一印象では、自分の苦手な体育会系の熱血な印象は受けなかったし、むやみやたらに叱責してきそうなタイプにも見えませんでした。一年生の時に数学を担当していた教師は、クラスが学級崩壊気味なのもあってやたらと怒鳴ってくる人だったのです。それが比較対象なせいか、あの男性はまだ穏やかそうに見えました。
 とりあえず解答できそうな国語のプリントの上でシャープペンシルを滑らせつつ、ぼんやりと考えます。
 学校に来なくなってから、先生に分からない箇所を教えてもらうといった行為は、あまりしなくなっていました。どうしてもできないところがあれば親か、時々会う担任に聞くことで間に合っていたからです。けれど、親は中学数学でも難しいと言うし、今年の担任は国語の先生だから聞くわけにもいきません。かと言って、数学が得意な生徒や教師への《《つて》》もありませんでした。
 たまには、思い切って聞いてみても良いのかな。そんな勇気のようなものが微かにあるものの、背中を押してくれるまでには至りません。
 揺らぐ気持ちを胸に抱えながら問題を解いていたけれど、人の脳はひとつのことをずっと考え続けられるほど器用にはできておらず、昼休みのチャイムが鳴る頃にはそんな思索もすっかり消え失せてしまっていました。
 その次に学校へ行こうという気になったのは、一週間以上後のことでした。
 何となく学校へ行く足が遠のいてしまったように、逆に今日は行ってみようとなるのも決定打はありません。朝早く目が覚めたから。起き上がった時に立ちくらみがしなかったから。原因は分からないけど、気分が明るかったから。そんな些細な体調や気持ちの揺らぎが、私の生活を支配していました。
 他の生徒と鉢合わせないように少し遅めの時間に家を出て、一時間目が始まった少し後に学校へ着く。音を立てないように上履きへ履き替えて保健室へ向かう。そんな、他の中学生はきっと体験していないであろう、ちゃちな習慣をなぞるような午前中。
 その日は普通に自習をしていると、あの男性ではなく、担任の女性教師が昼休みに保健室まで来てくれました。この人は幾分優しい気性の人で、時々教室に来てみないかと発破をかけてくることはあっても、無理に連れ出すようなことはしません。それが教育的な観点で正しいのかは分かりませんが、自分にとってはありがたい話でした。ただ、勉強は後れを取らずちゃんとついていけているのか、家ではどのように過ごしているのかと普段の様子を細かくチェックされることがありました。学校の先生としてそれは当たり前の責務と言えばそうなのですが、問い詰められているような気分でした。
 今日もそんな日で、問題集やノートを広げた机の側で向かいあって言葉を交わしていました。話題は、奇しくも数学の成績について。
「うーん、私が教えられたら良いんだけどね。来年は受験もあるし、あまり躓かないようにはしたいんだけど……」
 皺の入った白い手が触るのは、先週から殆ど書き込まれていない、もらったあのプリントでした。前から数学だけが苦手というのはもう知られていて、時々交わす会話も専らそれが話題を占有していました。その度に数学だけでも教室に来て授業を受けないかと言われているので、勝手ながら少々うんざりした気分もありました。幸い、断ればその場はしつこく誘われることはないのは救いでしたが。
 今日も同じように教室へ行く方へ話を持って行かれるのでは、と戦々恐々としながら女性物のブラウスの上で視線を彷徨わせていると、先生は細めた瞼の隙間からその紙面をじろじろと眺め回した後に、「そうだ」と目の前に座っている自分にしか聞こえないような声で呟きました。
「ヤサカ先生に直接教えてもらうのはどうかな」
 ヤサカ先生。この前聞いた名前です。思いもよらない名前と話の展開にやや面食らっていると、担任は構わず口を動かしました。
「ほら、この前先生の代わりにプリント届けてくださった人。覚えてる? あの先生、うちのクラスで数学の担当なの。本当はいつも言ってるみたいに授業を受けられたらいいんだけど……。実を言うと、毎回教室に行かないかって誘われるの、嫌でしょう?」
 彼女は見抜いてますよと言わんばかりに、いたずらっぽい笑みを浮かべました。思わず言葉に詰まります。
 先日の養護教諭と言い、そんなに私は隠すべき感情が顔に出てしまっているのでしょうか。
「ヤサカ先生は担当してるクラスもそんなに多くないし、確か部活の顧問もやってないはずだから、職員室に行けば大体いると思うよ」
 担任はここぞとばかりにヤサカ先生とやらのプレゼンテーションをまくし立ててきます。
「だからね、小椋くんがもし大丈夫なら行ってみるといいよ。よっぽど忙しくなければ、断られることもないと思うし」
 教室に行くよりはマシな提案に思えましたが、ほぼ初対面の相手に話しかけに行くという提案を迷いなく首肯できるほどの自信がなかったので、「考えてみます」と曖昧な返事を返すことしかできませんでした。すると、いつもよりは前向きな返答を得られたことに満足したのか、担任はニコニコと屈託のない笑みを浮かべ、その日の面談は終了しました。
 座面だけは柔らかいパイプ椅子に太ももを敷き直して、考えます。
 多少はリップサービスも含むとは言え、そんな度胸もないくせに肯定的に返してしまいました。だけど、こんな私ですら気に掛けてくれる担任の提案を蹴り続けるのも気が引けます。それに、ただでさえ良くはない成績や内申のことも気がかりでした。先週の記憶なんて既に霞の中でしたが、あの先生の穏やかそうな悪くない印象は辛うじて形を留めています。無碍にされることはないだろうし、頑張れば話しかけられるんじゃないか……。そんな脳内で蜷局(とぐろ)を巻く思惟(しい)が、一応は前向きに頭をもたげていました。
 昼休みが終わる頃、保健室の片隅で誰も気づかないほど小さな決意を固める音が鳴りました。といっても、職員室へ行く過程で他の生徒に会うことは避けたい事態でした。保健室から職員室へはそう遠くなかったと思いますが、万が一を考えると守られた箱庭から出る気にはなれなくて、結局ささくれたドアに手をかけられたのは六時間目が終わってから少し後のことでした。
 大抵の生徒は帰路に着いているか、部活に取り組んでいる時分でした。校庭からは練習に精を出す野太い掛け声が聞こえてきます。
 職員室は何度か行ったことがあったので、迷わずに辿りつくことができました。部活の指導に出ている人も多いのか、並ぶデスクの数の割には人が少ないように見えました。それでも、あちこちに積み重なった書類や教科書のせいか、そこまでうるさくはないのに賑やかさを感じる不思議な空間でした。
 声を掛けるために二、三度呼吸を落ち着けていると、近くに座っていた若い女性の先生がドアの側で立ち尽くす私に気づいたようで、大きな二重の瞳をこちらに向けました。私がヤサカ先生の名前を出すと彼女は立ち上がり、スカートの裾をひらめかせて煩雑なデスク同士の隙間を縫っていきました。しばらく待っていると、申し訳なさそうな色を浮かべた表情と共にこちらへ帰ってきます。
「ごめんね、今はいないみたい。多分煙草吸いに行ってると思うから、喫煙所かどこかだと思うよ」
 その場ではお礼を言って職員室を後にしたものの、そこからが大変でした。生徒である自分が喫煙所の場所なんて分からないくせに、そこまでの経路を聞き忘れたからです。その事実に気づいたのは数分廊下を歩いた後で、わざわざ引き返すのもと横着したのがいけませんでした。小さな中学校とはいえ、当てもなく彷徨うには広い場所です。結果として、掃除が甘く埃が薄く積もった廊下を十分と少し歩くことになってしまった。誰にも会わなかったから良かったけれど、せっかく放課後まで待った努力も無駄になってしまうところでした。
 晩夏は陽が傾くのも早く、伸びる影が気持ちを焦らせます。
 散々歩き回って脚に疲れが見え、ふと諦めかけたその時、くたびれたスーツの影が廊下の奥から歩いてくるのが見えました。
 顔はよく見えなかったけど、肩と首を前に突き出したシルエットは、保健室で会った男の人と一致していました。間違いなく、あれがヤサカ先生でした。何となく気の抜けたような顔をして、窓の向こうに目をやりながらすり足で歩いています。少し近寄ってみると、青いネクタイの結び目が緩く、皺が寄っていました。
 十数分をかけて校舎を探し回っていたのに、いざ話しかける段になると、途端に緊張が襲ってきます。普段、両親くらいとしかまともに会話を交わさないのです。ましてや、自分から他人に話しかけるなんていつぶりでしょう。しかし、ここまで来て引き返すのも、ただでさえ無駄にしている時間を余計に消費してしまったような気分になりましたので、逸る鼓動を押さえ込むようにぐっと一呼吸置いて、意を決して一歩二歩と近づきます。
 向こうは少しづつ近づく自分に気づかないようでした。あの、と声をかけてみる。すぐに反応は返ってこず、一、二秒経ってゆっくりと窓からこちらへ目線だけを動かしました。先ほどまでしていた気の抜けた表情と、呼びかけられた驚きのようなものが入り交じっているのが、半分も見えない顔から覗き見えます。まるで物思いに耽(ふけ)っていた授業中、突然当てられた生徒のようでした。
 顔がようやく自分の方を向いても、自分が誰か分かりあぐねている様子でした。名前を思い出そうとしてるのか、向こうの口からは「うーん、えっと」と時間稼ぎの感嘆詞が零れるだけです。
 この前保健室で、と告げると、ようやく合点のいったと言わんばかりに大きく頷かれた。
「ああ、そうだったね。何かあった? もしかして、プリントが足りなかったとか」
 早合点を遮って、プリントの分からない箇所を教えに来てもらったのだと告げました。頭の中ではいくらでも言葉を並べ立てられるのですが、何せほぼ初対面の人との会話は久しぶりです。浮かんだ言葉を切れ切れに絞り出すのがようやくでした。
 私が手に持っているプリントを、蜆(しじみ)のような瞳がフレームレスの眼鏡の向こうからじっと見つめてきます。
 見つめ返してみると、もう消えたと思っていた驚きの表情が、僅かに滲んでいるように思えました。ぱちぱちと瞬きを数度繰り返し、唇を少し開き、呆気に取られているような……。
 そんなはずはないのだけど、もしかしてこの人、数学の先生じゃなかった? と思わせるような反応でした。焦りが脳裏を過ぎった瞬間、
「ああ、ここね。いいよ。どこが分からないの」
 何事もなかったかのように、こちらの頼みを引き受けてくれました。びっくりしているように見えたのは気のせいだったのかと思いながらも、快く教えてもらえそうな様子に安堵の溜息をつきます。
 差し出したプリントには、数学なのにアルファベットがいくつも並んでいました。それが連立方程式という名前で、手順を踏めばXとYが示す数字も分かるようにできていることを理解できるほど、その時の私の頭と勉強時間は足りていませんでした。
 全部と答えると、前髪から覗き見える眉尻が、少し下がったのが見えました。
「一次方程式は分かるの?」
 去年くらいにそんな単語を聞いたような、聞かなかったような。思い出そうとしていると、「ちょっともらうね」とプリントを持っていかれました。先生は一旦壁側に振り返り、ポケットに入っていたボールペンでプリントの隅に何かを書き走り、再びこちらを向きます。
「これは?」
 そこに書かれていたのは「2X+3=7」という文字列でした。こんな風な計算式を去年学校に通ってたか、通ってないかくらいの時に見た気はします。まったく解き方が分からないわけではないけど、あの時教えてもらった解法は記憶の奥底で霞んでいて、思い出すのに時間がかかりでしだ。
 どう答えていいか分からず心の中で唸っていると、うぅ、と口に出していなかったはずの唸り声が聞こえました。自分より二十センチは上にある先生の口からです。いかにも困ったと言いたげに唇を歪め、僅かに天を仰いで何かを考えている様子でした。十数秒ほど待っていると、ようやく視線をこちらへ向けてくれます。
「分かった。この後、時間空いてる? ちょっと長くなるかもしれないけど、教えるよ。せっかく聞きに来てくれたんだし」
 そう言って先生はまた考えるように首を傾げた後、迷うような手つきで側にあった教室を指さしました。古びた学級表札には『理科準備室』と掠れた黒で書かれている。そこで教えてもらえるということだろうか、と首を傾げました。
「ここなら机あったし、邪魔にならないと思う」
 こんなところへ勝手に入って良いのか、と戸惑ったものの、どいうやら鍵もかかっていない様子でした。先生が開けたドアの隙間から、薬品臭い空気が鼻腔に届きます。
 忙しいであろう教師の手を煩わせてしまった罪悪感と恥ずかしさ、初めて訪れる部屋に足を踏み入れる緊張感。それらが入り交じった感情を胸に抱えつつ、長い脚に似合わず小股で歩く先生の後ろに引っ付いて、やや傾き始めた日の差す教室に入りました。

 初めて自分から声を掛けた日から幾分か経った頃、クラスの担任は受け持ってないし、部活の顧問もやっていないと言うので、理由を尋ねてみたことがあります。すると、
「俺は非常勤だからねえ」
と答えてくれました。その時はよく分からなかったけど、授業だけ担当して時給をもらう形態をそう呼ぶのだと後々知りました。
 そんな先生が教えてくれる数学は、(ことごと)く分かりやすいものでした。どれくらいかと言うと、連立方程式を見ても「何故英語と数字が混ざっているのか」という低俗な感想しか抱けなかった自分が、代入法やら加減法やらを何とか使いこなせるようになったくらいです。
 先生は、分からないを連呼する自分に、怒ったりあきれたりするようなことはありませんでした。
「この二つの式はXの係数が一緒だから……。ああ、係数はこの隣にくっついている数字のこと。この式からこの式を引くと、Yだけになって……」
と、放課後の少ない時間をギリギリまで使って、懇切丁寧に教えてくれるのです。だから、私でもどうにかプリントの例題をすべて解けるくらいには理解度が上がったと言うわけです。
 最初の日は、簡単な連立方程式を理解するだけで精一杯でした。一度授業でやったはずなのに、もう一度説明させるなんて申し訳ない。そんな心苦しい気持ちで、お礼とさようならの挨拶を告げようとした私に、先生はかさついた唇を少しだけ開きました。
「ねえ、他の単元でもこうやって分からないところがあるの?」
と。私は正直に、去年の夏から学校へ来ていないこと、他の教科は独学で何とかなっているが、数学だけはどうにもついていけていないことを伝えました。すると先生は眼鏡のレンズ越しに黒目を彷徨わせて、こう言うのです。
「もし良ければ、なんだけど。分からないところがあれば放課後に教えるよ。これからの授業だけじゃなくて、今までのところでも。どうかな」
 何故遠慮がちに言われたのか分からないほど、自分にとっては魅力的な申し出でした。勉強はしたい、でも教室には行きたくない。そんなわがままな自分にわざわざ個別で教えてくれると言うのですから。それに、矢坂先生は物静かではあるものの、それが返って私とウマが合いそうな雰囲気を醸し出していました。これほど美味しい話はありません。
 それからと言うもの、私は先生のところへ度々教えを乞うようになりました。といっても、学校に行く回数が少ないので、週に一度でもあれば多い方でしたが。
 放課後の授業は毎回、教えてもらっているこちら側が、こんなに構ってもらっていいのか、他の生徒から見たら不公平ではないのかと恐縮するような心地になるほど、丁寧な、おもでした。どうしてそんなに親切に教えてくれるのか、その時の私には分かりませんでしたが、とにかく自分の長い間積み重なった疑問を解消してくれるので、これ幸いとたくさん質問していました。
 最初の内は別れ際に次はいつ来られるか、と相談してから帰っていたのですが、何回か放課後の授業を続けていくと、予め次の約束を決めなくても良くなっていきました。気まぐれに学校まで赴いた日、昼休みに職員室まで向かい、そこで先生と放課後の予定を確認します。(一応確認の体は取っていますが、先生の予定は殆ど空いていると言っても差し支えありませんでした)
 放課後にまた職員室まで行って、二人で理科準備室まで向かって、勉強を教えてもらう。大方このような流れが定着していました。
「職員室じゃ他の先生方の邪魔になるし、教室だと誰か入ってくるかもしれないし。理科室や音楽室があるんだから、数学室があればいいのに。それだったら、俺たちはこんなホルマリン臭い理科準備室なんかに押し込められなかったのにね」
と、先生がぼやくように言っていたのを覚えています。
 普通の教室の半分もない広さのそこは、壁際を古い木棚に囲まれていました。そこには、漫画にしか出てこなさそうな試験管や三角フラスコが立ち並び、棚の傍には人体標本が棒立ちになっています。不自然に艶めく偽物の内臓を初めて見た時、放つその非現実的な雰囲気に、同級生は本当にこんな人形を使って勉強しているのかと不思議に思うくらいでした。
 数多の実験器具に見つめられた部屋の中心に、埃を被った長机が置いてあります。理科準備室を訪れる度に、机上をぱっぱっと払ってそこに教科書やノートを並べ立てるのが常でした。放課後は夏でも多少陽が傾くような時間帯ですから、うっすら差した西日に数字やアルファベット、計算記号が書き連ねられます。それがとても綺麗でした。
 分からないところを教えてもらう以外にも、時々雑談を交わしました。といっても、私は人と話すのが苦手だし、先生も勉強を教える以外はあまり喋らない人だったので、勉強の合間に挟み込むような短さでしたが。
 それも、最近は寒くなってきただとか、家に帰ったらどのテレビを見るだとか、誰相手でもできるような話でした。ただ、特定の人としか話さない私にとっては、そんな無駄話ですら新鮮に感じられました。
 合わせて印象的だったことがあります。たまに混じっている難しい問題を解いた時、時間が長引いて遅くなった時、特に何もないけど、先生の気が向いた時。先生はスーツの胸ポケットに入れた、個包装の飴をくれることがありました。
「俺が他の先生に怒られるから、内緒で」
と言いながら。飴はクッキーだったり、チョコレートだったりすることもありましたが、決まって小さい、甘いお菓子でした。それを不思議に思って、甘いものが好きなのかと聞いたことがあります。すると、
「好きじゃないけど、デスクワークしてたら糖分がないと持たないよ。大人になれば分かる」
と、妙に悟ったような表情で頷いていました。それが甘党であるということと何が違うのかと思ったのですが、まあそういうものなのかと飲み込みました。
 休憩を挟みながら解説と共に問題をいくつか解く。それだけで、放課後の約一時間はあっという間に過ぎていきました。時々熱が入って長引くこともあるけど、大抵は遅くなりすぎないように、と早めのお開きとなります。それが惜しく思えるくらい、先生の教えてくれる数学は楽しいものでした。
 驚いたのは、その特別待遇は私が三年生に上がっても続いたことです。その頃には、今までの遅れをすっかり取り戻せており、普段の授業で分からないところを聞きに行くだけになっていたのですが。
 最初に先生と会った時から半年も経っていたので、些細な変化が生まれていました。私の方は、学校に来る楽しみができたことで、登校する頻度が上がっていったこと。そのせいか、先生に忙しくて予定が合わないと放課後の約束を時折断られていたことです。
 先生はそんな時、職員室へ来訪した私に向かって困ったような、寂しそうな顔を見せていました。眉尻を下げて、
「今日は明日の授業の準備があるから、時間が取れないかも。ごめん、次はいつ空いてるかな」
と、埋め合わせのために私の予定を聞いてきました。理由はそれ以外にも、テストの採点だったり、時には家の用事でと答えることもありました。学校の教師とは、得てして忙しい者だと聞きます。それは今も昔も変わらないので、当時の私も特に不満を感じることなく、分かりましたと答えていました。
 それにしても、先生はいつも忙しそうでした。クラスの担任や部活の顧問を受け持っていないとはいえ、それなりの数の授業を担当しており、授業やテストの準備にいつも追われているようでした。
 加えて、当時気になっていたことがあります。何かの話のついでに、ここ以外の学校で勤めていたのかと聞いたことがありました。すると、
「前は大学で教えてたけど、中学はここが初めて。ちょっと親との事情があって、地元に帰ってきたから」
と言っていました。今思うと、ご病気か何かで面倒を見なくてはいけなくなった、ということだったのでしょう。深く内情を聞くことはありませんでしたが。
 学校でも家でも忙しいせいなのか、三年生に上がったあたりから、先生から煙草が強く匂ってくることが多くなりました。それに比例するかのように、飴やチョコレートをくれる回数も多くなっていったように感じられます。
 そんな忙しい中で勉強を教えてもらうのは、ありがたいような、申し訳ないような気持ちでした。
 多少の気がかりはあれど、中学最後の一年はあっという間に過ぎていきました。自宅で過ごしたり、保健室だけ行ったり。三年生は親や担任に促されて、教室まで行くこともありました。そんな自分なりの小さな挑戦と、理科準備室の楽しい時間と、迫り来る受験のせいか、それまでの人生より体感スピードが早く感じられたような気がします。
 高校は同じ中学の人とは会いたくないという理由で、遠方の私立高校を選びました。あんな散々な出席日数でよく受かったものだと、自分でも思います。
 そうして私も、卒業の日を迎えました。
 卒業式の日は、それはそれは天気の良い、気持ちの良い朝でした。
 といっても、私は卒業式すら欠席したので、あまり関係はありませんでしたが。他のクラスメイトの顔もろくに覚えてないのに、卒業式だけ出席なんて、できるわけないのですから。それに、移動や合唱の練習もまったくしていなかったので、周りと違う動きをして恥をかくのが目に見えていたからです。
 それでも、卒業証書だけは取りに行かなきゃいけないと言われ、確か式がすべて終わった後に学校へ向かったと記憶しています。今考えれば、郵送か何かでも良かったと思うのですが、直接渡したいという学校側の意向があったのでしょうか。
 青空には微かな雲が残り、開花の早い桜が風に吹かれていました。大勢の卒業生が既に去った校舎は、いつもより寂しげに見えます。
 その時の担任と学年主任、校長先生がわざわざ私を出迎えてくれて、職員室で卒業証書を受け取りました。もしかしたら教室より、こっちの方が多く訪れていたかもしれない。そんなことを思いながら、軽く会話を交わすだけの卒業式でしたが、随分と気楽でした。
 簡単な式を終えて学校を出る前に、ちょっと校内を歩いてみようかと言う気分になりました。他の生徒に比べてそこまで思い入れはないはずなのですが、もう明日からくることはないと思うと、寂しくなるものなのでしょうか。湧き上がってきた気まぐれに身を任せて、足を校門から校庭へ向け、そのままふらふらと春風の中を歩きました。誰もいない運動場に、いつからか残ったままの石灰の跡。真ん中を突っ切るのは気が引けて、校庭の端に並んだ木々の影を辿っていると、後ろから何かが聞こえてきます。最初は気に留めなかったのですが、耳を澄ませていると、音の正体は私を呼ぶ声のようでした。
 振り返ると、何度も見たスーツ姿がそこに立っていました。日溜まりの中で、その身長以上に伸びた影が揺らいでいます。駆け寄ると、先生は大きな手を肩の辺りまで上げ、まるで今日が何も変わりのない一日のように、軽く手を振りました。
 聞けばその日は式に来る予定はなかったそうなのですが、私が後で卒業証書だけもらう予定だと聞いて来てくれたようでした。
「もしかしたら、迷惑だったかも知れないけど。俺の自己満足」
と言って、先生は唇の端を少しだけ上げ、微笑みのような表情を私に向けました。それが私にとって、嬉しくないはずがありません。
 校舎の端をなぞる足跡が、二人分に増えました。
 春の日差しとは裏腹に薄暗い木陰の中で、先生は誰に聞かせるでもないような声色で少しずつ話してくれました。
「覚えてる? 最初に小椋くんがプリント持って、ここを教えて欲しいって来た時。あれねえ、実は初めてだったんだよ。放課後に、生徒にわざわざ質問に来られるの。子どもって苦手だし、仲良くもなかったから。それに、授業しかしてなくて、他のイベントには一切顔出してなかったからね。だから、嬉しかった。それで柄にもなく張り切っちゃって」
 少し上を向く先生の表情は窺えなかったけど、息づかいと、微かなタールの匂いだけが私の元へ届きます。
「結局小椋くんが学校に来なかった理由とか聞かなかったけどさ。……俺、押しつけがましくなかったかな。来る度に勉強教えるなんて」
 この人は今更何を言っているんだろう、というのが正直な感想でした。学校に来た日は必ず職員室を訪れていたのはこっちの方なのに。むしろ迷惑を掛けていないか心配していたくらいなのに。そう頭の中で考えていたのが、気づけば脊髄だけを通って口から漏れ出ていました。
 先生はしばらく何も言いませんでした。ただ、バラバラの足音が、静かに静かに凪ぐ空気の中で浮かんでは消えていきます。ふと見上げると、綺麗に磨かれたレンズから私を見る眼があります。一年半で、あんなに遠かった先生の顔が少し近くなったような気がしました。
「うん……。そうか。ありがとう。小椋くんがそう思ってたなら良かった。君に教えているのが、すごく楽しかったから」
 私たちは校庭をゆっくり一周回って、校門で別れを告げました。最後に「高校でも頑張ってね」と握手をしてくれたのが印象に残っています。
 もう行く度に会えるようなことはないんだと、苦い薬を飲み込んだような気分。それを覆い隠すように笑ってから、そっと通学路へと足を踏み出しました。

 あんなに苦労した中学時代が嘘のように、高校生活は楽しいものでした。
 流石に最初はクラスに馴染めるか、また同じ失敗を繰り返さないかと不安を覚えながら通っていました。しかし、遠方の学校を選んだおかげで、自分の過去を知る者がいなかったのも幸いし、何人かの友人にも恵まれ、順調なスタートを切ることができました。
 ハンデを背負っていたにも関わらず、勉強も何とかついていくことができました。入ったハンドボール部も自分には合っていて、夢中になっていたせいか身長も伸び、体格も変わりました。中学の同級生がその時の私とすれ違っても、きっと気づくことがないだろうと思うくらいに。休み時間中に友人と雑談に興じることも、テスト前に放って置いた課題を必死に終わらせることも、部活終わりの空きっ腹にコンビニで買ったアメリカンドッグを詰め込むことも、全部が楽しく、渦潮のように私を呑み込んでは過ぎ去っていきました。
 気づけば年齢は十八歳。大学受験も第一志望に合格し、高校生活も終わりを迎えようとしていました。
 進学先は県外にある理学部の数学科を選びました。自分の住む県に数学を学べる大学がないので、親に頭を下げて一人暮らしの許可をもらいました。そこまでして数学科を選んだのは、楽しい高校生活を経てもなお、脳髄に染みついた矢坂先生との思い出が私をそうさせたからです。
 最初は無意識でした。周りが何となく受験を意識しだした三年生の春、自分なら理学部か工学部か、と漠然と考えてはいました。
 確か夏休みに入る前、進路希望表を書かされました。志望する大学と学部・学科をいくつか書け、というものです。
 その時はまだ具体的に考えられていなかったから、この大学の理学部、物理学科、数学科……と適当に並べていました。その時に矢坂先生の顔が思い浮かんだのです。
 あんなにお世話になった先生なのだから、忘れていたなんてことは断じてありません。ただ、あまりにも楽しかった高校の思い出の数々が、黒歴史とも言える十代前半の記憶を先生ごと塗りつぶしていたのは事実でした。
 受験を機に思い起こされた先生の存在は、進路に迷う私の背中を押すのには十分でした。
 進路先を決めた動機こそ少し特殊だったものの、それ以外は至って普通の受験生活を過ごしました。学校で問題集を解き、放課後は塾に通い、帰りの電車で単語帳を開く。それなりの努力が実り、三月頭には合格発表の掲示板に張り出された自分の受験番号を見つけることができたというわけです。
 そして合格発表の一週間後、私は母校である中学へ出向いていました。
 高校最後の春休みは、人生でこれ以上暇な時はもうないんじゃないかと思えるほど、やることがなかったのです。一応友人と遊ぶ約束はあるし、大学から出された事前課題も終わらせなければいけなかったのですが、それらも一ヶ月という膨大な時間を埋めるには到底足りませんでした。
 それなら、もう一度矢坂先生へ会いに行こうと。中学を卒業して以来会っていないし、引っ越す前にもう一度顔を見てみたい。それに、先生のおかげで数学科の大学へ行きますと伝えたら、きっと喜んでくれるはず。そう思ったのです。
 中学ももう春休みに入っているらしく、フェンス越しに見る校舎に人の出入りはありません。校庭で野球部らしき男子生徒たちがランニングをしているくらいでした。
 先生は自分が卒業した次の年もここで働くと言っていたけれど、その後の行方は分かっていませんでした。しかし、ろくに友人もいないため、先生の行方を知る術はこうして直接学校に向かうしかなかったのです。
 昔は誰かに会わないかと緊張しながら校門をくぐっていたが、今は卒業生だからと違う理由で心臓がドキドキと鳴ります。それは自分が少し大人になったからのように感じられて、悪い気はしませんでした。
 一度も使ったことのなかった来客用の入り口で靴を脱ぎ、何年かぶりの職員室へ向かいます。靴下越しに踏む冷たい廊下の感触が、やけに踵へ響いていました。当時の記憶を辿りながら歩いていると、
「あれ? 小椋くん?」
 自分の名を呼ぶ声に思わず振り返ると、桜色のブラウスを着た初老の女性が立っていました。少し人相が変わっていたものの、その顔には見覚えがありました。二年の時に私のクラスを担当していた先生です。
「私のこと、覚えてる? 今日はどうしてここに?」
 彼女はパタパタとスリッパを鳴らし、こちらまで駆け寄ってきます。会うのは中二の時以来だが、白い肌の中に浮かぶいたずらっぽい笑みは変わっていません。
「随分大人っぽくなってたから、一瞬分からなかったけど。よく来てくれたね」
 聞けば、顧問をしている新聞部のために春休みも学校へ来ているのだと言います。並んで職員室まで向かいながら、高校は楽しく通えていたこと、大学に受かったことを報告しました。
 いざ職員室に着いた時、ドアに手を掛けながら先生はこちらへ視線を向けます。
「そういえば、何で来たのか聞いてなかったね。誰か呼ぶ?」
 そう聞かれ矢坂先生の名前を告げた瞬間、ドアに掛けられた手が止まりました。数秒の静寂が流れ、不審に思って先生の顔を見ると、先ほどまで明るかった顔色に寒い青の色が差しているように見えます。
 先生は開けかけていた引き戸を閉め、顔をぐいっと近づけてきました。ただならぬ雰囲気に、少し腰が引けてしまいます。
「あのね、小椋くん。落ち着いて聞いて欲しいんだけど。実はもう、矢坂先生はいらっしゃらないの」
 学校を辞めたということか、と聞くと、先生は小さく首を振ります。
「矢坂先生ね、……、お亡くなりに、なっていて」
 頭が言葉を理解するまで、永遠のように長い五秒を要しました。
「多分、小椋くんが卒業した次の年だったんだけど。その時全校集会が開かれたんだけど、卒業生に連絡はしてなかったのよね、そういえば」
 聞くと、私が卒業した翌年の秋、普段は滅多に休まない矢坂先生が突然来ない朝があったそうなのです。携帯に掛けても連絡がつかない。そこで緊急性があると判断され、警察を呼んだ結果、自宅で死亡が確認された……という経緯だそうです。
 そこまで説明を聞いても、未だ『お亡くなりに』の六文字が飲み込めない私は、唯一の情報源である彼女を問い詰めました。何故彼は死んだのか、事故か? 病気か? 死因など聞いても矢坂先生が生き返るわけではないのに、パニックになったその時の自分にはそんな簡単なことも分からなかったのです。押し問答を四、五分は続けていたでしょうか。私のあまりの剣幕に、谷口先生は折れたようでぽつんと呟きました。
「……そうね。小椋くん、矢坂先生にはよくしてもらってたもんね」
 そう言って、先生はドアから数歩離れ、私を手招きしました。そこには、他の人には聞かれたくないという意思が見られます。
「絶対に友達とか、親御さんには言っちゃだめだからね」
 谷口先生は鮮やかな口紅を引いた唇を、言いづらそうに二、三度上下させた後、ごくりと唾を飲み込みました。
「自分で、らしいの。流石に方法までは分からないけど。……私もだけど、学校の先生って残業が多いから。それに加えて、家のご都合とか色々あったって。詳しくは知らないし、知ってたとしてもそこまでは言えないけどね。とにかく、他の生徒にはただお亡くなりになったとだけ知らせてるから、絶対に口外しちゃだめよ……」
 よく頭を殴られたような衝撃、と言いますが、そんな優しいものでは例えられないショックでした。私が高校生活を謳歌している間、私を見守ってくれた恩師はとっくにこの世にいなかったのですから。しかも、自ら命を絶ったなんて……。
 私はどうにかして帰った実家の自室で、中学時代に使っていたプリントを広げていました。いつか使うかもと取っておいたもので、国語やら英語やら色んな教科が入り交じっていましたが、その中でも圧倒的に書き込みが多いのは数学のものでした。そこには自分の字も多かったのですが、所々に際立って筆圧の強い、目立つボールペン書きの文字があります。先生の書いた文字でした。数字、計算記号、時々アルファベットや日本語。そのどれもが、もう書かれることのない筆跡だなんて、とても信じられませんでした。
 あの時の放課後のような、うっすらオレンジ色の入った夕日が、部屋の窓から差して私や広げられたプリントを照らしていました。
 本当に先生は死んだのか? そう懐疑的になる自分もいなくはなかったのですが、谷口先生があんな悪趣味な嘘をつく理由も見当たりません。それに、先生は確かに学校でもその外でも忙しそうにしていましたから、谷口先生の話とも辻褄が合います。
 とにかく、亡くなったのが嘘でも本当でも確固たる証拠が欲しい。そう思い、母にひとつ頼み事をしました。近所で連絡が取れる、私と同級生だった知り合いはいないかと。母は突飛なお願いに驚いていたようですが、私と違い社交的な性格をしていたせいか、何人かの連絡先を教えてくれました。
 そして、その連絡先に片っ端から電話を掛けました。普段の私からは想像もできないほどの行動力です。とにかく、真実を知りたくて必死でした。
 最初の二、三件は同級生が留守でしたが、同じ中学に通っていた一人と連絡を取ることができました。私のひとつ下の男子高校生で、矢坂先生が死んだとされる年に在学していた子です。
 初対面でこの先生を覚えているか、と不可解な問いをしたにも関わらず、彼は丁寧に教えてくれました。
「矢坂先生? あー、覚えてますよ。数学の先生ですよね。確か授業を受けた記憶があります。あ、はい。そうですそうです。俺が三年生の時、全校集会が開かれたんですよね。その矢坂先生が亡くなったので、黙祷をしましょうって。死因ですか? 流石にそこまでは言ってなかったかな……。突然だったから全然信じられなかったんですけど、確かにその後矢坂先生を見かけなかったし、学校がそんな意味のない嘘をつく理由も分かんないかなって。まあ多分、そういうことなんだろうなって……」
 お礼を言って電話を切った後も、しばらく信じられない自分がいました。だって突然、貴方の恩師は数年前に死にましたなんて、受け入れられるはずがありません。
 何でそんな、急に死んだなんて。私が高校生活を楽しんでいる内に、自ら命を絶ちたい程の苦しみに(さいな)まれていたのでしょうか。動機が分からない以上、想像の余地もありませんでしたが。
 再び部屋に戻ると、そのままにしてあったA4の紙が散らばって、私を待っていました。そこへ書き走られた文字が、事実を否定したい心をますます揺さぶります。
 先生がいつも匂わせていた、重い煙草を思い出します。忙しいと申し訳なさそうに私のお願いを断っていたこと、よくくれた飴にクッキー、チョコレート。あれらももしかしたら、彼が自ら死を選んだことへの予兆だったのでしょうか。
 あまりにも非現実的で、涙ひとつ流れては来ませんでした。その代わりに、ただ夕焼けの中でプリントを眺めるだけの空虚な時間を貪ります。私を癒やしも慰めもしない、吹き溜まるような重い時間を……。

 それからの大学生活は、高校とは打って変わって中身のない、空気を齧っているような生活でした。
 三年も矢坂先生のことを忘れていたのに、ここまで悲しく、空虚な気持ちになるなんて。無意識下にあの思い出たちがフィルムカメラのようにくっきりと焼き付いていたとでも言うのでしょうか。
 自分で言うのも気が引けますが、そこそこ名の知れた良い大学でしたので、こんなにも怠惰な気持ちで通っているのが申し訳ないと思えるほどでした。講義で学ぶ高等な数式や理論の数々は確かに楽しくは感じられました。しかし、線形代数も、常微分方程式も、フーリエ解析も、私の心を動かすには至りません。いつまでも私の心を捉えて放さないのは、あの夕焼けの中で教えてもらったごく簡単な一次方程式なのですから。
 こんなことではいけないと、普通の大学生として世に溶け込む努力をいくつもしてきました。興味が持てそうな演劇サークルへ入って脚本を書いたり、塾講師のアルバイトにいそしんだり。幸いなことに大学でも友人に恵まれ、一時期でしたが女性と付き合うこともありました。それなりに充実した大学生活だったと思います。数学自体も嫌いではなかったので、勉強も苦ではありませんでした。就職活動と天秤に掛けて、大学院への進学を選んだほどです。親がお金を出してくれたことにも甘えて、修士課程、博士課程と二十代の大半を学問に費やしていました。
 そこまで行ったらもう突き詰めてしまった方が良いだろうと考えて、そこからは一応研究職を名乗っています。ポストドクターを経て、いまや助教授です。笑っちゃうでしょう。ろくに学校へ通えなかった私が、大学の教壇で偉そうに講義なんてしているのですから。
 ここまで書いてみて、自分でも恵まれた人生だなと思います。親は学校に行かなくても自分を応援してくれて、恩師に出会ったおかげで立ち直れて、厳しいと言われる研究の世界で職にもありつけているのですから。今から死ぬのがもったいないくらいだ。
 一年程前でしょうか、休みのついでに実家に帰りました。学生の頃はよく顔を出していたのですが、仕事をするようになるとなかなかに忙しくて、久しぶりの帰省でした。年を重ねて褪せた白壁や、角の削れた机、皺の増えた両親。すべてが懐かしく、私をセンチメンタルな心境にさせます。
 それらの中に、あったんですよ。あのプリントです。未だに置いてあった私の学習机の引き出しへ、山のように眠っていました。
 最初は懐かしいなあなんて独りごちながら、一枚一枚を丁寧に眺めていました。二十数年ぶりに見る中学数学の問題は、まるで幼い子ども向けのなぞなぞのように感じられます。
 先生の書いた文字も、未だ彼が存命しているかのように生き生きと綴られていました。
『これを二つに分ける X+1 X+7』
『サイコロの合計が7になる時』
『合同の条件 線分と角度』
 ……ふと、文字をなぞる指先が目につきました。もう若くない男の手です。浅黒い皮膚と血色の悪い爪が目立ちます。
 その時は、中学生の頃に比べて成長した部分に目が行ったんだろうと思っていました。でも、そうではありませんでした。
 それから、やたらと鏡を見るようになりました。出勤前の準備で、クローゼットを開ける時に並べられた服を数秒見つめることがありました。なぜだか毎日、気味悪く思いながら伸びた髭を剃っていました。それらの不可解な感情や行動がすべて、昔の自分と比べて、違うところを探しては気持ちが悪くなっているからだと気づいたのは、帰省から三ヶ月は経った後でした。
 私は今年で四十になります。世間一般で言えば中高年と呼ばれる年齢に差し掛かっていますし、いつまでも十代、二十代と同じ若さを保てるなどと愚かな考えを持っているわけではありません。ただ、顔に刻まれた皺や髭の剃り跡を見る度に、恐ろしく虚しくなるのです。私は随分と年を重ねてしまったんだと。先生に追いついてしまうほどに。
 先生の年齢を明確に聞いたことはありませんでしたが、大体四十前後だったように見えました。よく自分のことをおじさんだと言って自嘲していたのを覚えています。
 先生。私、学校を卒業した後に身長が百七十三センチまで伸びたんです。靴のサイズは二十六センチ。煙草も吸っています。この前は健康診断で、血圧を注意されちゃって。研究と教師の真似事で毎月お給料をもらって、時々親にご飯を奢ったりしているんです。ねえ。先生と同じ、数学の先生になれたんですよ。
 先生、こんな私じゃ、もう先生に数学を教えてもらうことなんてできないでしょうか。
 三十九歳になった頃から、次の誕生日がだんだん脅威に感じられてきました。三十代を抜けたら、これ以上年を取ったら、いよいよ先生に教えを乞うことができなくなってしまう気がして。分かってます。元々先生は死んでいるってことくらい。それでも怖かった。
 今まで先生が死んだ事実は受け入れて、普通の生活を送っているつもりでした。でもそれはとんだ勘違いでした。私は初めて先生の訃報を聞いた時のショックを、無意識下に押し込めていただけだったのです。それが四十を目前にして、春を目前にした花々のように、ゆっくり蕾が解けていくのが分かりました。
 あの理科準備室で過ごした時間が、もう二度と手に入らなくなること。それが私にとって何より恐ろしい……。
 明日の十月一日、私の誕生日です。ちょうど、大学の授業も始まる日です。学生や他の先生方を驚かせてしまうでしょうか。そこまで真似をするつもりはなかったのですが。
 馬鹿なことをしたと、笑ってやってください。最後に飴でも舐めて、それから先生に会いに行こうと思います。

ゼロの乗算 / 雪六華 作

ゼロの乗算 / 雪六華 作

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-02-14

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