夏 / 荒波 作

 電車の扉が開く。聞き慣れた効果音の(ざん)()が消える。私は一人でプラットフォームに降り立ち、駅の外側に広がる風景を、見知った街の見知らぬ一面として目に焼き付け、待合室のベンチに座り込む。そこは大して涼しくない。空気に含まれる熱量が、全方向から私を押し潰すように思う。
 この街に住んで十年を数える。しかし、眼前に広がる街並みも、(きつ)(りつ)する病院の存在感も、今までの人生とはほとんど無縁に等しかった。部活動の練習でJRに乗ることはあったけれど、普通電車しか止まらないこの駅は、遠く離れた故郷の千里中央ターミナルより、他人行儀な距離を保つ。
 ぎらぎらと光っているはずの太陽は雲に隠れ、コンクリートの外壁と、中途半端な背の高さの建物が不気味に映る。陽炎(かげろう)は揺れておらず、空もすでに光を弱めていたが、夏は辺り一帯に垂れ込めていた。
 研究室でのアルバイト終わり、何も考えずに来てみたはいいものの、具体的に何をするかは決めていなかった。ただ、目当ての病院と近い距離に自分が存在すること、彼がその病院の一室で眠っていること、それだけで何か救われるような気がしたのだ。
 体のいたるところに汗が伝ってきた。生まれつきの(あざ)が目立つ左腕に視線を移せば、ぬるい水がゆっくりと雫を構成し、地面へ向かって落ちていく。心の準備ができるまで、そのベンチを離れることができなかった。何を待つでもなく、自分の気持ちを落ち着けていた。
 結局のところ、それらすべての行為は徒労に終わるのだが、当時の私はまだ、僅かな可能性を信じていたのである。

 その年の夏は涼しかった。前年に比べれば。熱気の種類は例年の通りであったものの、外出が(おっ)(くう)になるほどではなく、吸い込む空気も心なしか乾いていた。
 昔の夏がどういうものだったか、すでに私は覚えていない。記憶を丁寧に探ってみると、森の中で昆虫採取をしながら暑さに(へき)(えき)していた子供の自分が、つぎはぎの動画として再生される。それは今の夏に比べて、水分の乏しい気持ちよい夏だった気がする。記憶は脆く、意識しなければすぐに消えてしまう。絵の具のかさを増やすため、水を含んだ絵筆で絵の具の塊を溶かしてゆく要領で、私は記憶を上書きする。いずれにせよ、今の夏は締め付ける暑さだ。涼しいといっても限度がある。
 大学三年生の夏は一度きりで、多くの人にとって忙しい時期だと思う。インターン、サークルの幹部、研究室配属、アルバイト。コロナ禍という異常事態ではあったものの、私も割合充実した日々を送っていた。進捗を生むことと適度に遊ぶことの両立は難しく、常に忙しない気分だった。
 唯一余計なことを考えずに済んだのは、研究室のアルバイトに勤しんでいる時。業務内容は疫学調査のデータ処理で、やり方さえ覚えてしまえば単純作業に過ぎない。成城石井の紅茶を飲み、差し入れのお菓子を食べ、書類を整理し、データに変える。働きながら統計の勉強ができる。部屋は涼しく、西日が差さない。接客、塾講師、誘導など、一通りアルバイトを経験してきた私にとって、文句のない労働環境だった。
 家に帰る頃には野球が始まる。当時は試験のストレスもなく、アイデアコンペや小説の執筆を進めながら、Jスポーツのチャンネルを見ていた。適当に野次を飛ばしながら作業をするのが好きだった。
 野球専用のSNSアカウントを開けば、顔も名前も知らない人々が、(ひい)()の選手をアイコンに据え、同じ球団を応援している。タイムラインの流れは早い。試合中に一瞬でも放っておけば、数百の呟きが通り過ぎてゆく。口調の強い人が多い。チャンスで凡退する選手に苦言を呈し、満塁ホームランを打てば喜ぶ。そういった単純な感情のやり取り。コロナで失われかけていた何かが、取り戻されてゆくのを感じた。

 野球というよりは、高校野球が好きだった。地元は野球の盛んな地域で、多くの同級生の夢は甲子園の舞台に立つこと。住んでいるマンションに現役のプロ野球選手が遊びに来ることもあった。中学校は市総体で優勝し、先輩の一人は甲子園へ出場した。二つ下の後輩は、神宮大会で優勝した。プロ野球は、どちらかといえば高校野球の延長線上にあるという認識だった。
 何よりも投手が好きだ。投手は投球の瞬間、球場という舞台の主役を演じる。芸術的なカーブ、打者を惑わすチェンジアップ。そして、鋭くしなやかに伸びるストレートに惹かれる。球速よりも球威を重んじる私は、お気に入りの投手の動画を見るのが好きだった。細身の彼らは、五万人にも及ぶ観客と、テレビの向こう側にいる全ての人の心を、支配しているといっても過言ではなかった。
 しかし、投手は短命だ。多くのファンに愛された大エースたちも、そのほとんどが怪我でキャリアを終えてゆく。野手のように、年齢による衰えで引退していく選手など、数えるほどしか存在しない。ごくまれに長い現役生活を送る選手もいるけれど、勤続疲労は後遺症を引き起こし、当人の生活を生涯に渡って歪めてしまう。投手は過酷な職業である。だからこそ、華々しい待遇を手に入れることができる。ドラフト一位で指名される選手の大部分が投手であることからも、その事実は揺るぎない。
 怪我というのは怖いものだ。どれだけ軽微なものであっても、生涯治らぬ痕跡を残す場合がある。実際私の左手の薬指は、小学校の部活動で損傷して以降、中指側に少し曲がっている。
 特にアスリートの場合、一つの怪我が人生の方向を決定づけてしまう。スポーツ推薦で進学したものの、入学前後に怪我を負い、種目の転向や引退などに追い込まれた同級生を、私は何人も知っている。長引く膝や腰の痛みで、精神を病む人がいる。行き過ぎた運動は当人から健康を奪う。それはごく当たり前の事実だった。
 怪我の中でも一番怖いのは、試合の最中に起こる類のものだ。うずくまり、苦痛に呻く選手の姿は、痛々しいことこの上ない。ブルーシートで囲われて、担架でその場を後にする。その瞬間は敵も味方も一体となり、黙りこくって負傷者の無事を願う。

 年度末、ある選手がオープン戦で肩を脱臼した。私はその動画を直視できなかった。現地にいた方々はおそらく、想像以上のショックを受けたと思う。かわいそうという気持ちより失望が勝った。もうあのストレートが見られない事実が腹立たしくて、やり場のない怒りを忘れるため、別の趣味に力を入れた。彼は当時、れっきとした戦力だった。独立リーグを経て入団した右腕は、恵まれたとはいえない身の上から這い上がり、投手王国と呼ばれて久しい球団の勝ちパターンを、ほとんど手中に収めていた。
 怪我をしたくてする選手などどこにもいない。それくらい十分承知している。けれども、また敗北の日々が続くのかと思うと、前頭葉が熱くなった。負けにはずっと慣れていたが、どうせ応援するのであれば、勝ってくれるに越したことはない。
 どうして弱いチームを応援するのか、と問われることがある。応援するのに強いも弱いも関係ない。弱ければ弱いほど、勝利の味は忘れ難い。焼け付くような感覚を胸にヒーローインタビューを聞くとき、私は純粋な幸せを感じる。現地での勝利は格別だ。私は勝負が好きで、特に勝つことが好きだった。
 かつて日本一に輝いた球団の影は見るまでもないが、今の球団も嫌いになれない。応援したい投手が何人もいる。彼らが奮闘しているのであれば、ファンとしては、応援する他ないのである。ロマンのある彼らの投げっぷりが、私にとっては大きな活力なのだ。
 惜しくも怪我で戦線を離脱し、トミー・ジョン手術を受けたその選手も、私基準では間違いなく「いい選手」だった。中里や江川、藤川を彷彿とさせる、糸を引くようなストレート。再び現地で見ることは叶わなかった。
 当時はコロナ真っ只中である。声出しの応援を筆頭として、野球に欠かせない事柄が相当数禁じられていた。延長戦も行われず、引き分けの試合が増えた。正直、野球の面白さは半減したように思う。それでも私は野球を見続けた。応援したい選手がいたから。

 コロナはさまざまな機会をぶち壊した。とはいえ、百パーセント悪だったかと問われると、私はそうは思わない。コロナがなければ、自分の人生は大きく変わっていただろう。外出できない時期は辟易としたが、我慢といえばそれくらいだった。
 元々忙しいと言われていた第二学年を比較的楽に乗り越えられたのは、時間のゆとりがあったからだ。片道一時間の通学は長い。それに加えて、時間拘束が厳しい実習の縮小や、狭い講義室での授業がオンラインへと切り替わったことは、当時家族が死線をさまよい、ひどく落ち込んでいた私にとって、ありがたい配慮だった。映画を見て、お笑い番組を見て、積読を消費した。時間は最も素晴らしいプレゼントだった。
 実害もなくステイホームを楽しんでいた私は、自分と周囲の面倒を見るので精一杯だった。世界の外側に死者が数多存在することなど、全く理解していなかったのだ。その恐ろしさを認識したのは、夏が盛りを迎えた頃だった。窓から蝉が飛び込んできて、不快な振動と鳴き声を撒き散らす、そういう時期の出来事だった。

 その日のことははっきりと覚えていないが、やけに早く目を覚ました気がする。ソファの上で体を起こすと、薄暗い空の光がカーテンに透かされ、ストライプのぼやけた模様が床に描画されていた。スマートフォンで時刻を確認しようと思ったら、通知欄のニュースが目に入った。
 重篤、という言葉があった。
 まるで現実味のない二字熟語だった。職業病なのか、深いところまで考えてしまう。危篤、重篤、重体、重態。さまざまな表現は、それぞれ違う意味を持つ。状況が芳しくないことだけは分かった。球団の上層部が口にしたらしい「大変厳しい状況」というフレーズをもって、私は異常事態を認識した。
 どうして彼が、という気持ちが先立った。苦労ばかりしてきた彼が、なぜ。放心状態でアルバイトに向かったが、始終思考はぼやけていた。数値が頭に入ってこない。何度も早退するか迷った。アルバイト中、スマートフォンは見ないようにしていたのだが、ニュースが出た日は何度もいじった。進展がないか知りたかった。起こるはずのないことが起こってしまった時、人は些細なものに(すが)りたくなる。それは私の場合、正しい情報だったといえよう。

 最初期に限れば、多くのファンが希望に満ちていた。きっと元気になる、彼なら必ず戻ってくる。不安を裏返したかのような、明け透けにポジティブな言葉で、インターネットは溢れ返った。私もできるだけ前向きに考えようと思った。健康な成人男性が突然意識を失って死んでしまうことなど、そうそう起こるわけがない。しかし、続報は出なかった。球団、選手、メディア、全てが無視を決め込んだ。一体何が起こっているのか、外野からは分からなかった。
 報道から数日後、別の選手の言葉が話題になった。先発投手である彼は、自分の投球の感想や、次の試合に向けての意気込みなどを、毎回律儀に文章で記していた。そこに彼自身の思想が滲み出たのは初めてだった。思わせぶりな内容は、初読の感想と全く違う悲壮感をもたらした。それは容易に当該選手の体調と紐付けられた。
 別の野手は、帽子に彼の背番号を書いていた。球場に足繁く向かうファンは、その姿をカメラに収めた。私は日に日に元気がなくなっていくのを感じた。何よりも怖かったのは、事実が外堀から埋まっていくことだった。どれだけ信憑性に乏しいものでもいい、ただただ生存の証が欲しかった。動いている彼の姿を求め、私はYOUTUBEで一つの動画を再生した。
 事態を察したファンの悲鳴がコメント欄に綴られていた。それらの文字の喧騒とは対照的に、動画サイトの中の彼は穏やかだった。何度再生を繰り返しても、均質的な笑みを浮かべた。不思議と聞き覚えのある低い声で、酷い怪我明けと思えない軽口を叩いた。白く厚い雲の垂れ込める球場のポール間を黙々と走り込む彼の姿は、あくまで機械的に切り取られた彼の一部分であり、決してこちらに向かって話しかけてくることはない。それが分かっていてもなお、私は再生ボタンを押した。

 冷たい人間だと思われるかもしれないが、彼の死に様と行く末について、このどうしようもなく向き合い難い感情を生み出すことになるとは、そしてその感情が一年間も持続するとは、当時は思いもしていなかった。それはあくまで一つの事件であり、事故だった。人は何もしなくても死ぬ。どれだけ若かろうと、それは同じ。戦争がないだけ、ましだろう。
 悲しみが急激に迫ってきたのは、とあるアカウントが現れたときだった。
 馴染みの薄ら笑いを浮かべたキャラクターがアイコンで、名前も可愛らしいそのアカウントは、まるで選手の行方を知っているかのような口ぶりで、不安を煽るようなことばかり呟いた。初めての呟きは何だったか覚えていない、人事不省とか脳死とか、見るだけで気の滅入る言葉だった。
 最初は誰も相手にしなかった。冷やかす人を気にしている場合ではなかったのだ。けれども事態が少し落ち着き、新規の情報が出てこなくなった時、そのアカウントは注目を浴びた。選手が二軍球場で倒れた日時を正確に記していたことがきっかけだった。
 アカウントはその後も定期的に投稿を行った。
 万に一つ生き返ったとしても植物状態。首から下は一生動かない。心臓は元気、体も大丈夫、だから家族は諦めることができないんだ。あれを事故死と片付けるなんて信じられない。
 中の人物は頭がいいのだろう、シンプルで鋭いフレーズを的確にまとめていた。私は当時、そのアカウントのことを激しく憎んでいたけれど、憎悪と同時に戸惑いも覚えていたのは確かだった。純粋な悪意だけで、あれほどの意見表明はできない。自分に実害が及ぶ可能性もあるのに。
 そのアカウントは、冷やかしと切り捨てるには真に迫りすぎていた。球団関係者、あるいは家族が運営していると言われても、疑問を覚えなかったと思う。文面から伝わる怒りは、球団と記者に注がれていた。実際、当時の対応はお世辞にも優れたものとは言えなかった。
 フォロワーは大いに増えた。苦言を呈する人も増えた。あのアカウントを真に受けるなんて気が狂っている、という人もいた。誹謗中傷の応酬が続き、それでもアカウントは情報発信をやめなかった。少なからず影響は受けたのだろう、途中からそのアカウントは、贔屓のファン、すなわち選手の所属する球団のファン以外からの接触を拒否すると明言した。

 ある日、そのアカウントは驚くべきことを呟いた。
「選手は大学病院にいる」
 私は目を疑った。遠くにいたはずの彼が、一気に自分の近くへ迫ってきたような気がした。
 県内に医学部を有する大学は四つしかない。そのうち一つは私の所属先で、もう一つは自転車で行ける距離にある。そして、彼が搬送されたのは、恐らく前者ではないだろうことも推測された。噂は容易に伝播する。もし選手の搬送などという一大事が起これば、同期の耳に入らないとは考えにくい。
 当時付き合っていた人は、私の落ち込み具合にただならぬものを感じたらしかった。私は心に余裕がない時、同じような話を繰り返す。彼が大学病院にいるかもしれないこと、おそらく自分の大学にはいないことを、詰まりながらも伝えると、予想外の返事が返ってきた。臨床実習中の学生は、電子カルテを閲覧できる。それはつまり、彼が入院しているかどうか確かめられるということだ。まだ低学年だった私は、その事実を全然知らなかった。
 彼はまた、一部のマナーが悪い病院では、有名人が入院した際、電子カルテを回覧して楽しむのだと言った。私は気分が悪くなった。自分が今頼もうとしていることは、そういう下賤な人々の願いと何ら変わらないから。
 そこまで話した後、彼は私に問うてきた。本当に調べるのか、と。聞けば、履歴が残るらしい。責任を他の人間に被せてでも、私は彼の無事を、そうでなくとも彼が実際にいることを確かめたかった。しばらく既読がつかなくなり、夜の気配が見え始めた頃、そういう名前の入院患者はいない、というメッセージが来た。外来ならいるが、入院はしていない。肩透かしを食らった気分だった。市内の大学病院に彼は存在しない。ならば、どこにいるのだろう? 残る二つの医科大学は、街からも球場からも遠く離れている。アカウントが悪ふざけでないのだとすれば、彼はこの街から消えてしまったことになる。そして、例のアカウントの口上は、とても嘘には思えなかった。
 急性期病院から移されたのではないか……その仮説を、私は真っ先に除外した。事態が手遅れであるということを認識するのが怖かった。諦めずに検索を続けた。病院の名前を入力し、彼の名前を入力し、何か異変がないか探った。検索を止めた瞬間に、彼の死は決定的なものになってしまうのではないか、そう思った。すでに入れた用事を動かす気概はなく、惰性で日々の用事と向き合い、時折アルバイトを行う中で、隙間時間を見計らっては、名前を、病状を、彼のいるかもしれない場所を探した。思惑に反して、余計な情報ばかり目に飛び込んできた。気を引きたい不真面目な配信者や、球団に関係のないプロ野球の評論家が、ぽろりとその名を口にする度、私たちは動揺した。その思いにはやり場がなかった。彼の存在は、宙ぶらりんに浮いていた。

 一軍球場の最寄り駅には、球団と所属選手を紹介する通路がある。地下鉄の出口から地上に出るまで、所属する全ての選手の顔写真が並んでいる。もちろん、彼の写真もある。誰が最初に始めたのかは分からないが、ある日を境として、選手のエリアに付箋が貼られるようになった。たった一つの付箋は二つになり、三つになり、数日も経たないうちに倍となった。付箋の種類はそれぞれ異なっていた。花や物品が置かれることもあった。その行為は、多くのファンに批判された。意見を表明すること自体憚られる閉塞感が、私たちの間に満ちていたように思う。ある人は付箋を貼るファンに向かって「承認欲求の塊」と言い捨てた。私は首肯できなかった。誰がわざわざ、己の欲求のために付箋を貼るのだろう? やり場のない思いが付箋一枚で済むのは、むしろ望ましいことではないのだろうか。
 剥がれかけたかさぶたのような付箋は、自然風の吹かない地下鉄の通路で、異様な存在感を放った。足を止めて写真を撮る通行人、選手の様態を案じる通行人、その様子を眺めている通行人。ただ一人の選手の行く末により、本来存在しない連帯を手に入れた人々。
 そんな折に、ひとつのアカウントを見つけた。まるで真実を知っているかのような口ぶりで、選手のことを案じていた。過去の投稿を遡ってみると、どうやら医療関係者らしい。私は迷わずDMを送った、そして丁寧に所属を明かし、彼について知っていることがあれば、言える範囲で教えてほしいと問うた。生きているのか、球団に戻ってこられるのか。
 目に飛び込んできたのは、そういう次元ではない、という返答だった。医学を学んでいるのであれば、当然わかっていると思うが、競技に復帰できるだけで奇跡的だ。付け加えられた言葉は、涙の絵文字で彩られていた。

 すぐに私は告発アカウントと連絡を取った。削除されるのは時間の問題だと思ったからだ。再び状況が霧に包まれれば、ともすると一生真実にたどり着けないかもしれない。アカウントを開き、彼のファンであることを述べ、真実が明らかにならない現状に耐えかねている、と書いて送った。そのアカウントは全方面に対して敵対的だったが、なぜだか球団のファンには優しかった。いつも通りの端的な口調で、私が想像していた通りのことを言った。
 何か思うところがあったのだろうか、やり取りの後、アカウントは久しぶりに新規投稿を行った。それは病院のイニシャルを示すものだった。
 私はようやく合点がいった。誰も嘘をついていなかったのだ。

 バイトが終わった後、その足で例の病院へ向かった。地下鉄からJRに乗り換え、降りたことのない駅で降りた。地図アプリに頼りながら入り口を探したけれど、時間が遅かったからだろうか、外来向けの入り口はすでに閉ざされていた。記者らしき人の姿は見えず、私はひとまず安心した。その事実は、状況が好転も暗転もしていないことを示していた。
 時折通る地元住民と、運転の荒い車以外、一帯に音らしい音は存在せず、この街にもこれほど静かな場所があるのかと思った。無駄足は嫌だったから、駅の外れにある二軍球場へ向かった。病院と球場は、駅を挟んで反対側にあったから、長い距離を歩かねばならなかった。日焼け止めが汗で流れてゆくのを感じながら、日傘を差さずにゆっくりと歩いた。それはある種の抵抗に他ならなかった。吹き出た汗をタオルで拭く。その行為を、何度も繰り返す。日傘を差せば解決する諸問題を、私は無視することに決めた。その日光は、かつて選手が浴びていたものと同じだと思ったから。ここらの夏はうだるほど暑い。暑さを理由に、夏季の帰省を見送る同期がいる。
 すでに試合が終わった球場は、寒々しいというか、活気がないというか、わざわざ見にくるほどの価値があるとは思えなかった。私は自分の気まぐれを若干後悔しながら、顎に滴る汗を拭いた。ぬるくなったお茶を飲み、再び歩き出した際、球場の周りを一周しようと思い立ったのは、やはり気まぐれのなせる業だった。歩く毎に首に汗が伝った。切るタイミングを逃した髪の毛を鬱陶しく思った。目につく壁の至るところに「選手に話しかけるのはご遠慮ください」という注意書きがあった。
 一軍と二軍では全てが異なる。待遇も、練習場所も、日差しも、起床時間も、華々しさも、全部。プロ野球選手が一軍を目指すのは、そこに放ち難い魅力があるからだ。煌々と輝く夜の舞台で活躍し、自分や家族の生活を安定させたいからだ。何重にも隔たれた壁の外で、私はただ想像した。選手たちが猛暑の中バットを振り、腕をしならせ、球場内を走り回る姿を。それはどこまで突き詰めても非現実的だった。これほどの暑さでは、歩くことさえままならない。たとえ涼しい夏であっても。私は早く、冷房の効いた車内に戻りたいと思った。

 二度目の訪問は上手くいった。併設されたコンビニから病院の中へ入ることができた。自動ドアが開くと同時に、鋭い冷気が体を包んだ。その愉悦に浸る間もなく、女の子とすれ違った。パジャマを着て、点滴スタンドを握りしめた彼女は、病院側の入り口から入ってきたらしい。小さなサンダルを引きずりながら、お菓子の棚を眺めていた。私は彼女の邪魔にならないよう、病院の方のドアへ向かった。
 病院のコンビニは工夫が多い。なかなか外に出られない患者のために、普通の店舗よりも豊富な物品が揃っているし、車椅子の患者が通れるよう、通路の幅は広く設計されている。部外者が私用で病院に入るという行為が申し訳なくなり、私はハッカアメを買った。甘みよりも苦味の目立つその味は、しばらく舌の裏側に残っていた。
 コンビニを抜けると、そのまま待合室に入ることができた。本当は院内の飲食スペースで暇を潰そうと思っていたが、かつてカフェだったはずの空間は灰色のシャッターで仕切られていた。清潔で明るい雰囲気の病院の中で、唯一その部分だけ病気が巣食っているように思った。
 広々としたソファに座り込み、周囲を静かに観察しながら、呼ばれもしない時間をやり過ごした。ここからそう離れていない病室に、彼が眠っているかもしれない。そして、この街に住む人のほとんどが、彼の辿る運命を知らずに生活している。優越感と悲しみがないまぜになったまま、私は長い間その場を動かなかった。入れ替わり立ち替わり受付へ向かう人々の姿に、罪悪感を覚え始めた頃、唐突に電話が鳴った。
「ええ……はい……はい……そうなんです」
 受付の人は困ったような、悲しげな表情を浮かべ、そう呟いた。

 数日後、様々なメディアから記事が出た、それは選手が亡くなったことを示すものだった、死因は最後まで明らかにされなかった。
 重苦しい感情がそこら中に(うごめ)いていた。テレビ番組は、死亡の事実が明らかになった途端、我先に追悼の意を示した。一説によれば事故に関連したとされる、ワクチンの話題も添えられていた。あの頃は、どこもかしこも湿っていた。特に、悲壮感に満ちたSNSのタイムライン。私はそれを直視することができなかった。むき出しの感情は、案外脳内のリソースを食う。
 何より腹立たしかったのは、彼が「ワクチンで死んだ若者」として語られることだった。彼は記号ではなく、立派な名前を持った人間なのだ。どうしてそれが分からないのだろう。

 夏の球場はとにかく暑い。暑くて日差しが照り続ける。日傘がなければ観戦もままならない。入場時に購入した清涼飲料も、試合終了後にはぬるくなっている。私は選手の死因を夏の暑さに押し付けた。熱気が人を殺したのだ。それはあながち間違いとも言い切れなかった。ワクチン接種後とはいえ、夏の暑さがまだ耐えうるものであったならば、彼は倒れなかったかもしれない。
 私はその日以来、暑さを憎むようになった。屋外球場はきっと、並の人間には耐えられないほど劣悪な環境だったに違いない。座って打球の行方を追うだけで、汗が吹き出てくるのだから。熱のこもった土の上で、日々運動を行うことが、どれだけ大変なことであるか、多少なりとも承知しているつもりだ。
 育成から支配下枠を勝ち取り、戦力として定着しようかという頃に大怪我を負った。痛みに苦悶の表情を浮かべたあの日以降、ついぞ彼は一軍で投げることが許されなかった。最後のマウンドの思い出が、あの痛々しい脱臼だったということだ。彼はつまり、訪れることのない至福の時間を……照明を浴びながら球場を支配する瞬間を信じて疑わず、リハビリとランニングに励んでいたのである。彼らしい笑顔と軽口をこぼしながら。
 自転車を走らせるのも気だるくなる熱気の中で、私は彼が最後にどういうことを考えたのか、想像することしかできなかった。

 死亡の事情や家族の意向から、献花台が設置されることはなかった。NPBの取り決めにより、ファンレターを送ることもできず、もやもやした思いを処理できないまま、私は日々を過ごしていた。募金箱に入れる小銭の量を増やしてみたり、往来の少ない場所でも赤信号を律儀に守ったりした。それは意味のない善行だった。投げやりだった人生との向き合い方について、多少真剣に考え始めた。夏は毎年必ず巡ってくる。自分が健康を損なわない確信などどこにもない。
 夏の終わりに追悼試合が催された。日程が発表されたのはチケットが完売してからだった。私はいつも通りJスポーツを見ながら作業をした。あまり画面は追わなかった。直視できるほど、感情に整理がついていなかったのだ。
 黒い喪章を腕につけた選手たちは、笑みも少なく試合に臨んだ。それはどこか陰気な印象を有するドーム球場によく馴染んだ。試合は勝利で終わった。それがせめてもの弔いだった。
 気温の低下と同じくらいの速度で、一連の悲劇は日常に吸収された。立ち直るタイミングは人それぞれだったかもしれない。吹きすさぶ風の密度が減少し、葉の色が赤らんでもなお、私は彼のことを思っていた。私だけが、真夏に取り残された。

 何をしても元の人物は戻ってこないのだから、故人の思い出にふけるのはほどほどにした方がいい、という言葉を思い出す。確かにその通りだ。私たちは忙しい。望むと望まざるとにかかわらず、人生は進んでいく。しかし、どうも思うところがあって、記憶と決別できずにいる。
 全ての物事は、時間が解決してくれるだろう。人間は忘れっぽい生き物だ。実際私も、写真フォルダを辿らなければ、彼の顔の細かい表情を思い出せなくなっている。自分の忘れっぽさが怖くて、PCの壁紙を変えた。時折私の作業に興味を持ち、画面を覗き込んでくる人がいる。彼、あるいは彼女が、画面を指さして、「これ、誰?」と聞いてくる。青色の野球帽を被った、険しい表情の青年は、投手王国の抑えとして活躍するかもしれなかった彼は、永遠に二十七歳のまま、私の画面の中でボールを握りしめている。

 少し前にインタビューを受ける機会があった。私はその場の流れで彼の話題を少し出した。「知らない」と言われることに慣れてしまっていたから、具体的な姓名は伏せた。普通の人であれば、安易な感慨にふけるところだが、そのインタビュアーさんは違った。彼女は彼の事情をよく承知していた。球団のファンでない人との会話で、彼の名前が出てきたことに、私は驚きを隠せなかった。それは彼がある文脈で生き続けていることをほのめかした。もう少し覚えていていいのかもしれない、そう思った。

 選手のSNSが更新されるようになった。アカウントを動かしているのは奥さんで、頻繁に子供も登場する。そこには彼が生きていた頃の写真、動画、彼の残した子どもたちの楽しげな姿、父親の不在に泣く家族の言葉が綴られている。悲劇として消費されない、することのできない瑞々しい日常が広がっている。

 死別に対する免疫がないわけではない。それでも私はあの日以降、ありふれた人生の隣、手を伸ばせばすぐに触れそうなところに潜む死者の影を、ふとした瞬間意識してしまう。病院の前を通る度に、その建物に凝縮した生死のやり取りのことを思い、談笑する家族連れとすれ違う度に、真っ先に失われるのは誰だろうと考える。

 彼の一件は、とあるワクチン会社の死亡事例にひっそりと掲載された。心肺停止、評価不能、未回復。軽症の患者が並ぶリストの中で、その文字列は浮いていた。本当に本人の事例なのかは分からない。真実は未だに、ベールの向こう側でぼやけている。手を伸ばせば、あるいはそれを取り払うことができるかもしれない。けれども、自分の中で確立されつつあった正義が、大学一年生の頃から研究室へ通い、文献で学んできた事実が、私をベールから遠ざける。

 加熱する報道やセンセーショナルな呼びかけにより、HPVワクチンの接種が停止されたことで、どれだけの人数が未来の子供を失ったのか、防げたはずのがんに苦しむことになったのか、私はよく承知している。適切な医療を受け入れ、それに接続されることが、健康でいられる確率をどれくらい高めるのかも。私たちは正しい側におり、わずかながら存在するリスクを「リスク」として切り捨てることの気持ちよさに浸っている。
 ところが、死んだはずの彼は地中から立ち上がる。
 彼の仲間が、名前も境遇も全て失った人々が、突然、生身の人間として現れる。数値として見ていた人間の生死、属性、一とゼロで記述されていた秩序。

 胸の内に残るわだかまりをごまかし、ファイザーのワクチンを接種した。

 私はどこまでも公衆衛生側の人間であり、彼の死は公衆衛生の限界を示唆していた。

 RやSPSSが動く画面から目を離し、後ろを振り返ってみれば、そこには数多の死者たちが立ち尽くし、じっとこちらを見つめている。私は彼らを除くことができない。ただ、受け入れる他ないのである。なぜって、それを放棄すれば、私たちは科学者ではなく、単なる殺人者になってしまうから。
 私たちの使命は、ありていにいえば彼らを弔うことだ。適切に、クリーンな笑みを浮かべながら。

 今年もまた、夏がやってくる。汗ばむ肌とだるい空気が身に染みる苦しい季節は、去年までと違い、そこはかとない痛みをはらんでいる。今年の夏は、何人の人を苦しめるのだろう? 一体どれだけの人が、やり場のない熱に歯を食いしばるのだろう? そして、どのくらいの人が、夏に責任を押し付けるのだろう? かつて私が何度もそうしたように。
 蒸散する汗の行方は誰にもわからない。残るのはただ痛みばかりだ。それも、とびきり処理に困る類の。

夏 / 荒波 作

夏 / 荒波 作

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-02-14

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted