卒業 5
入居者
三沢英幸と別れたあと、部屋を借りにきた男がいた。最初日本人だとは思わなかった。日焼けして髪と髭もボサボサだった。
汚すぎてありえない……
アジアの各地を旅してきた男は1銭も値切らず決めてくれたのだ。
いい間借り人だった。朝晩店で弁当や飲み物、雑貨や下着まで買ってくれた。家賃も遅れたことはない。毎日1度は顔を見る。レジで話をする。
気さくな男だ。入居した時は大学生だった。美登利に興味を持ったようだ。口が悪い。
キャバクラなら稼げるだろうに、と。
毎日朝はおにぎりとサンドイッチ。夜は弁当。
「野菜不足ね」
「たまになにか作ってくれよ。サービス悪いと出ていくぞ」
出ていかれたら困る。美登利はスープを差し入れした。丸ごとの鶏肉、ジャガイモ、玉ねぎ、にんじん、カブ、大きく刻んだキャベツ。
「ハサミで切って食べてね」
それがうまいと絶賛された。1度で食べてしまうほどうまかった。
お礼に……抱いてやろうか、と軽口。
翌年は就職した。髪も髭もさっぱりしたら別人のように見えた。就職先は株式会社ミサワ。
えっ?
知っているの?
ええ、いいえ……
この男のために何度か料理した。今度のリクエストはきんぴらごぼうだった。太くて硬いのが食べたいと。
君も食べたいだろ?
美登利は作って持っていった。部屋には入らない。玄関で味見させた。
「いい歯ごたえだけど少し味が薄いな」
「自分で作れば?」
なんだろう? この男は? なぜこの男のために得意でもない料理をしたのだろう? 褒め上手だ。軽口も楽しい。
信也はすねる美登利がかわいかった。知り合って2年か……
偶然ではない。失恋してから3年以上経つのか……
失恋して自殺をあいつに止められ旅に出た。
ベナレスで夜明けのガンジス川を見た。素晴らしかった。あいつの言った通り。
貧しい村でかわいそうな子供を見た。悩みなどちっぽけなものだ。苦しかった恋は終わった。もう未練はない。熱病にかかっていたのだ。もう完全に治った。
半開きのドアが開けられた。恋の後遺症が残っていた。
「マサル……」
恋した女の息子は14か? 13か? ひとつの違いで全然違う。勝はナイフを握りしめていた。
「先生、久しぶり。もう新しい女か? オレの家をめちゃめちゃにしておいて」
美登利は……この女は落ち着いていた。
「新しい女じゃないわ。家賃の取り立てに来ただけよ」
「勝、いくつになった?」
「13だよ。ぎりぎり」
「そうか、では、やれよ」
勝の家庭教師をしていた。あの女はよく苦情を言った。ドア越しに聞いていたのだろう。国語や算数ではなく社会に熱が入ってしまった。受験とは関係ないことを質問され……時間の無駄ではないのに。
そのうちあの女は信也の熱弁を楽しむようになった。自分も勉強したいと言い出した。とりあえず英会話。海外ドラマを字幕なしで観れるように……
教える場所が変わっていった。あの女は、近くまで来たからと信也の部屋に来た。
勝は信也が誘導した心臓の場所めがけ、ナイフを突き刺した……
美登利の腕から血が流れた。勝は怖気ずく。
信也が手当てをした。ガーゼで押さえ止血した。
「たいしたことないわ」
「縫わなきゃだめだ。オレがやったことにしてくれ。オレのせいなんだ」
信也は勝を逃がそうとした。
「最低の男ね。あなた、帰りなさい。こんな男のためにつまらない……」
「どうしてそんな男をかばうんだ?」
「家賃が入らなくなると困るの」
信也がタクシーを呼んだ。
「勝、オレを刺すのはあとにしてくれ。離れろ。警察沙汰になるかもしれない」
「帰りなさい。私があなたのことは守るから」
美登利は腕を見せた。ほかにも傷つけた跡が何か所かあった。
「自傷行為の常習者だから大丈夫よ」
勝を置いてふたりはタクシーで病院へ行った。美登利はひとことも喋らない。信也も言い訳はしない。家庭をめちゃくちゃにしたのは……
元々めちゃくちゃだった。中学受験が終われば離婚すると、そんな話を信じた……
病院で美登利は見事に演技した。この人が離れていくから引き止めようとした……捨てないで、と。
電話をしたときあいつは、勝手にしろ、と言った。
どうやって死ぬんだ? 電話してきてオレに後始末をさせる気か? 手首切るのはやめてくれ。オレは血は苦手なんだ。首吊りも嫌だ。感電死はどうだ? 電線巻きつけて。待て。義母に薬もらってやる。安楽死させてやる……
あいつはずっと喋りながら車を走らせてきた。死ぬ気なんてないくせに……たかが1度の失恋で死んでたらオレなんて10回は死んでる。
おまえは失恋なんか経験ないだろ?
あるよ……
あいつは長々と自分の失恋話を1度目……高校の同級生。出会いから初体験まで、こまごまと。
2度目、小学校の同級生……時間稼ぎに……
ベナレスで夜明けのガンジス川を見たんだ……
おまえもそうしろ。おまえの悩みなんてどんなにちっぽけなものか……
信也は聞くだけになった。あいつは部屋に着くまで喋り続けた。顔を見るとホッとしたようだ。
あいつの言う通りにした。
あいつの言う通りだった。
傷を癒し帰るとあいつは最新の失恋話をした……
病院から戻ると勝が店の外で待っていた。タクシーから美登利が降りると駆け寄った。信也のことは無視した。
美登利は勝を自分の部屋に連れていった。信也には口もきかず。小1時間、勝は美登利の部屋にいた。
信也は何度もドアの前まで行った。なにを話している?
勝と美登利と、あいつは同じ境遇になった。母親が不倫した。子を捨てた。勝の母親は子ではなく信也を捨てた。父親も不倫していた。修復できないはずなのになぜ別れない?
ようやく勝が出てきた。ドアの外の信也を見ると床に唾を吐いた。怒りが沸いた。
「美登利が止めなければ今頃は……犯罪者だ。おまえの家庭は……」
「美登利さんがかばってくれたのは僕だ。おまえじゃない」
美登利は無視して勝を駅まで送り戻った。腕をつかみ問い詰める。
「なにを話していたんだ?」
「身の上話よ」
「君の、そのリストカットのわけか?」
「あんた、知ってたの? 傷跡見ても驚かなかった。冷静だった。止血するの上手だった。まるで私が切るのわかってるみたいに」
「……」
「あんた、三沢さんの知り合い?」
「……鋭いな」
「三沢さんの会社に就職した。あの人がいなくなったらあんたが現れた」
「頼まれたんだ。君が心配だから様子を知らせてくれって。君が自分を傷つけないか心配で」
「なんであんたみたいな男に? 敵じゃないの。私たちの」
「本気だった。純情だったんだ。振られて死のうとした。三沢に助けられた」
「助けることないのに」
「お節介なんだ」
「……あの人はどうしてる?」
「どうして別れた? あんな条件のいい男」
「あの人は?」
「元気だよ。幼馴染みの子と結婚するだろうよ」
「やっぱりね」
「身を引いたのか? 愛してたんじゃないのか?」
「……自己犠牲、快感だった」
「もっと愛してる男がいるんじゃないのか?」
「……どうして、そう思うの?」
「2年も観察してた」
「勝君と結婚する。あの子が18歳になったら」
「……バカなことを」
「約束したのよ」
次の日の夜、勝は店で品出しをしていた。
「15歳にならないとバイトはできないぞ」
「手伝ってるだけだよ。彼女、腕痛いから」
「彼女か?」
「高校生になったら家を出てここでバイトしながら高校へ行く。卒業したら彼女と結婚する」
「バカなことを。そのとき美登利は26歳だ」
「あんただって10も上の女と……」
「結婚するつもりだった。おまえも引き取るつもりだった」
勝の目に涙が浮かぶ。
そのあと勝は店先の花の手入れをした。花がらを摘み丁寧に水やりをしている。
あの女も、勝の母親も園芸が趣味だった。洒落た家、センスのいい庭。幸せに見えた家庭……
「勝、駅まで送るわ」
犬を散歩させながら美登利は勝を送っていく。
戻るとまた口論になる。
「18になるまで、やらせるなよ。淫行になるぞ」
美登利はにらむ。
「あの子はママが大好きだった」
信也はなにも言えない。10歳の勝は幸せだった。
何回か勝は来た。店を手伝い美登利が送っていく。土日は朝から来て花壇の手入れを手伝っていた。信也を見てもなにも言わなくなった。
圭
勝も信也もいるときだった。弘美が訪ねてきた。
圭が事故を起こした。
重体……
よろける美登利を勝が支えた。
「お願いです。うわ言でドリーって。お願い。付いててあげて」
美登利は部屋にこもった。
部屋には圭に借りたままの本がある。DVDもある。返す日などこないのに捨てることはできなかった。
あの残酷な出来事から4年経つ。もう立ち直っていた。圭の親友だった三沢が立ち直らせた。そのあとは信也が……
美登利は部屋から出てこない。信也は三沢に電話した。しばらくぶりだ。ここ数日の出来事は知らせていない。
圭の名を出すと衝撃を受けているのが伝わってきた。
30分もしないうちに三沢は来た。美登利の父親に部屋の鍵を借り強引に美登利を連れ出した。三沢に抱えられ美登利は車に乗せられ去った。
残された伸也と勝はタクシーで追いかけた。後部座席にふたりで座った。
「あの人は誰? ケイって美登利さんの彼氏?」
「彼氏ならすっ飛んでいくだろ?」
病室で美登利は圭の手を握った。握れた。怖かった。拒否してしまうのではないかと。
「圭、目を開けて。大好きな圭」
圭は目を開けない。
美登利はなにも飲まず食べない……
「圭、辛かったね。ごめんね。そばにいてあげられなくて……」
美登利はずっと圭の手を握っていた。三沢が水を飲ませようとしたが美登利には聞こえない。
「口移しで飲ませるぞ」
大声で言われようやく我に返った。
「圭、死ぬの?」
「死なないよ。再手術する。必ずうまくいく」
三沢が美登利の、世話をした。病室を離れない美登利の着替えを取りに行き、近くの銭湯に連れていった。食事を差し入れし目の前で食べさせた。
手術の朝、三沢と美登利は輸血した。
手術の間、三沢と美登利と弘美がロビーで待った。長い時間待たされた。三沢が弘美を励ましている。
弘美……
まだ小学生だった。
海に行った。弘美の両親と、圭と。あたたかな家族。圭を慕い美登利に嫉妬していた。
ずっとそばにいてくれたのだろう。圭の辛い時期、家族は圭のことを親身に心配して面倒をみてくれていたのだろう。
集中治療室にはふたりしか入れない。弘美は三沢と美登利に譲った。ずっと身近にいたのに。1番会いたいだろうに。
手術はうまくいった。うまくいくと回復は早かった。体から管が次々に外れていく。
圭の意識が戻ったとき、そばにいたのは弘美だった。
夢を見ていたのか? ドリーの声が聞こえた。懐かしい声だった。
(血をあげたからね。私の血が圭の中に入ったのよ。やっとひとつになれたね)
「輸血してくれた。ドリーと三沢さん。ずっとついててくれたわ」
(弘美ちゃん、ずっと圭のこと好きなのね。ずっとそばにいてくれたのね。弘美ちゃんならいいよ。
圭、弘美ちゃん、大事にしてあげてね……)
信也は部屋を出ようと片付けた。美登利が止めた。
「家賃入らないと困るの」
「なぜ圭とはだめなんだ? 障害はない」
「譲ったの。弘美に。それに他に好きな人がいる」
「三沢か?」
「三沢さんは夏生に譲った」
「バカか?」
「あんたは誰にも譲らない。ずっとここにいて店で買って私の料理を食べるの」
「勝はどうする?」
「……いつか誰かに譲る」
「そうか、そうなるだろうな。勝は、もう来ない。圭さんを看病するおまえを見て諦めた。悲しむのは嫌だって。おまえが悲しむのは嫌だ……」
親友
夏生と結婚した年に家を2世帯住宅に建て替えた。外溝工事に来ていたのが圭だった。圭は親方と仕事をしていた。
僕は飲み物を差し入れした。事故で入院していたとき以来だ。
手術から目覚めた圭は弘美から、美登利が輸血をしてくれたことを聞いた。美登利は圭の意識が戻ると去って行った。弘美に看病を頼んで。
美登利は弘美に譲ったのだ。夏生に僕を譲ったように。輸血したことで、美登利は圭と結ばれた。僕の血も混じったわけだが……
美登利は圭が弘美と結ばれることを望んでいた。
「夏生と結婚したのか? そうなるとは思っていたが」
高校入学の前の春休みに圭と初めて会った。あのときと同じように僕は手伝った。ブロックを壊し、車に運ぶ。あのときと違うのは、父親の代わりが親方であること、それに……
小型のミキサー車が入ってきた。降りてきた男、いや、女を見て驚いた。病院で圭の世話を焼いていた弘美だった。真っ黒に日焼けし、男に混じって引けを取らずに働く。
「かっこいいなぁ、弘美ちゃん」
僕が言うと圭は優しい目で弘美を見た。
圭は知りたいだろうが聞いてはこない。美登利がどうしているかを。
美登利は信也と付き合っている。教えると圭は安心したようだ。
「三沢さん、釣り行かない?」
弘美が誘った。
「海釣りか?」
「ヒラマサよ」
「ヒラマサを、君が釣るの?」
「女も多いのよ」
「じゃあ、夏生も誘うか」
「奥さん、仕事してるの?」
「ああ。ウェディングドレス作ってる。プレゼントしようか?」
卒業 5