羊の瞞し 第3章 REALISTICな羊

羊の瞞し 第3章 REALISTICな羊

(1)羊は歩き出す


 国内最大手の楽器メーカー『KAYAMA社』の特約店である興和楽器は、県内最大のフロア面積を誇る総合楽器店だ。ピアノはもちろん、管弦楽器やLM楽器など様々な楽器を販売し、それらの教則本や周辺アクセサリー、専門書まで、総合的な販売業務だけでも全国有数の大型ショップとして周知されている。
 また、ピアノ調律をはじめとした楽器のメンテナンス業務、貸しスタジオや音楽教室の運営、楽器レンタル、防音室の施工、音楽ホールの経営など、物品販売以外のコンテンツも充実しており、「音楽のコンビニエンスストア」という創業コンセプトに見合う大型楽器店として全国的に名を馳せている。

 響が入社した年、興和楽器の新卒採用は、本店だけで二十名近くもいた。不景気に傾きつつある世情にあった楽器店としては、例外的な大人数と言えよう。だが、その大半は事務職や営業、店頭販売員などの採用で非正規雇用も数名含まれていた。
 しかも、技術者の新人は僅か五名しかいなかった。そのうち三名が管楽器のリペアマン、一人はLM楽器のリペアマン……ピアノ調律師の採用は、響だけだった。
 正社員の調律師として採用された響だが、研修期間中から挫折と屈辱の連続だった。中でも、最も期待外れだったのは、「ピアノ調律師」とは名ばかりで、ほとんどピアノに触れることがなかったことだ。もちろん、直ぐに外回り調律を任せてもらえる程甘い世界でないことは知っていた。それでも、調律師(ヽヽヽ)として採用された誇りは強く、先輩の鞄持ちとして業務に帯同し、技術や接客を学び、研鑽を積めるものだと期待していたのだ。
 しかし、いざ蓋を開けてみると、調律師になった実感なんて全く得られない、座学研修の連続だった。中でも、真っ先に取り組まなければいけなかったことが商品知識の徹底だ。これは、響の精神をジワジワと蝕んだ。

 先ず、大原則として、興和楽器はKAYAMA社の特約店なので、最低限KAYAMA製ピアノのラインナップは詳しく覚えておかないといけなかった。数種類の現行機種だけならまだしも、問題は何十とある歴代の機種やスペックについて、全て叩き込まないといけなかったことだ。
 ピアノの大きさや重量は勿論のこと、当時の定価、現在の二次流通市場での価値、製造されていた年代や製造番号など、数値化されているものを覚えるだけでも歴史年表の暗記より大変だ。それにプラスして、使用されていたパーツや設計のコンセプト、外装の仕様、音色やタッチの特長など、視認出来ない感覚の領域についても、言語化して覚える必要があったのだ。
 興和楽器では中古ピアノの販売業務は行っていないが、お客様からの問い合わせなど、そう多くはないシーンの為なのに、過去のKAYAMA製品については、何を聞かれても淀みなく答えられるように準備をしておかないといけなかったのだ。
 しかし、実際のところ、本当に調律師にそんな知識が必要なのか? という疑問は拭えないでいた。暗記しないといけない合理的な理由の説明は一切ないままに、会社は響にそれを求めた。つまり、「座学」と言う名の下、ひたすら監禁状態での暗記作業を積み重ねていただけだ。

 それでも、ピアノだけならモチベーションを保てた。そもそも、調律師はピアノの専門家でないといけない。その為に役に立ちそうな知識の習得は、本当に必要なのか否かには関係なく、積極的に取り組む動機にもなったのだ。
 しかし、大変だったのは、興和楽器は「総合楽器店」である為、取扱いのある全ての楽器に対し、最低限の専門知識を備えておかねばならなかったことだ。
 例えば、ピアノ展示のフロアでは、様々な電子ピアノも販売しているのだ。KAYAMA社の特約店とはいえ、電子ピアノは様々なメーカーの商品を取り扱っていた。それら一つ一つの機種について、詳細な説明を即座にお客様へ提示出来ないといけなかった。
 価格や寸法は当然のこと、同時発音数や音色の種類、メトロノームや伴奏機能、MIDIやUSBの接続、その他様々な内蔵機能や周辺アダプタの知識を覚えておかないと、お客様に対応出来ないのだ。
 他の楽器も、鍵盤楽器ほどシビアな要求はないものの、必要最低限の習得はノルマとされた。ほとんど何の前知識もない楽器も多く、部品名称以前に楽器名すら見分けが付かない所からのスタートは、苦行にも近いものがある。
 管楽器のことを何も知らない響にとって、マウスピースやリードの違いなんてアラビア語を解読するようなものだったのだ。

 最悪なことに、暗記の対象は楽器だけではないのだ。
 楽譜は出版社や難易度などを知っておく必要があったし、アクセサリーや雑貨、メンテナンスグッズなども、仕入先を把握し、類似品の説明が出来ないといけない。覚えても直ぐに忘れてしまい、また覚え直して……を繰り返す毎日。中学生の頃のテスト勉強のような毎日に、心身ともに疲れ果てていた。思い描いた調律師の日常とは程遠い「業務」に、響は何度も心が折れそうになった。
 せめてもの救いが、LM楽器のフロアがその特殊性から別棟になっていた為、習得の必要がなかったことだ。この上にギターやドラムの知識なんて、響には容量不足でインプット出来なかっただろう。

 在学中から続いた過酷な研修は、正式に入社した後も継続された。
 しかし、流石に給与を貰う身になったこともあり、店内での様々な雑用も(こな)さないといけなくなった為、少しずつ重心は研修から外れつつあった。勿論、響が課題を次々とクリアしていったこともあるが、何より店内が忙しかったのだ。いつまでも、暢気に座学を行っている暇なんてなかったことが、逆に響には良い方向に作用した。
 そして、ゴールデンウィークが明ける頃、ついに響の座学研修は終了した。厳密には、打ち切られたと言うべきだろう。何かをやり遂げた達成感もないままに、単に上層部が「もう止めよう」と判断しただけだ。
 そうなると、そもそも何の為の研修だったのか分からなくなる。担当の上司も、ただ加虐的な扱いを楽しんでいただけだったのかとも思えてくる。ともあれ、ようやく退屈で過酷な座学からは解放された。
 しかしながら、入社以来、今尚調律師らしい仕事は何もしていない現実は変わらない。相変わらず、ピアノに触れる機会さえないのだ。
 調律学校の同級生の中には、既に毎週十件以上も外回り調律を行っている人もいる。それなのに響は、店番、電話番、接客、発注、在庫管理……と、何も調律師である必要なんてない業務に追いやられていた。

 それでも腐らずに、命じられるがままの仕事に没頭していた甲斐があってか、七月に入ると、響は突然レッスン室のピアノの調律を命じられた。
 興和楽器は、本社だけでなく市内至る所に計九件ものレッスン会場を持っている。それぞれの会場にレッスン室が数部屋ずつあり、メーカー独自のカリキュラムによるピアノ教室を始め、ギターやヴァイオリン、フルートなど様々な楽器のレッスンや幼児の為のリトミック教室、その他ダンスや英会話まで、様々な教室を開講している。各部屋に一台ずつ、グランドピアノが設置されており、その数は全部で六十台にも及ぶのだ。
 興和楽器では、三ヶ月に一度、「備品調律」の名目でレッスン室の一斉調律を行っていた。ただし、一気に全六十台を行うのではなく、三十台ずつ二つのグループに分け、交互に実施しているそうだ。つまり、ピアノから見ると半年周期で調律されることになる。
 そして、今回実施する三十台を響が行うことになったのだ。

「松本、今月中にレッスン室のピアノ三十台、出来るか?」
 技術部長の梶山茂(かじやましげる)にそう聞かれた時、響は嬉しくて舞い上がりそうな気分になった。
(やっとピアノに触れられる! しかもグランドピアノだ!)
 新人調律師にとって、グランドピアノに触れる機会はなかなかない。それを一気に三十台も出来るなんて、技術者としてこんなに嬉しいことはない。
「ありがとうございます! 頑張ります!」
 込み上げる喜びを抑え切れないまま、響は梶山に頭を下げ、感謝を伝えた。

「リストは今朝、社内メールに添付しておいた。後で確認して、自分でそれぞれの教室にアポ取ってスケジュールを組め。大事なのは、レッスンの邪魔をしてはいけないことと、絶対に今月中に終わらすこと。この二点だけは何があっても守れ。分かったな?」
 そう告げると、梶山は足早に去っていった。

 興和楽器のトップ調律師だけあり、多忙な梶山は滅多にショップには顔を出さない上、いつも慌ただしく動いている印象だ。話によると、梶山は月に六十台以上、多い月は百台近くも調律をこなしているそうだ。
 身嗜みもいつも整っており、顧客からの信頼も厚く、コンサートやコンクールも担当し、かなりの販売実績も残している梶山のことを、響は密かに憧れ目標にしていた。
 梶山は、父宗佑より幾つか歳下とはいえ、優に一回り以上は離れているかのように若々しく見えた。容姿や立ち居振る舞いも父とは雲泥の差で、とても紳士的でエレガントなのだ。
 梶山こそ本物の調律師、理想的な調律師だと思っていた。その憧れの上司から、直々に命じられた仕事だ。このチャンスを活かすべく、自然と気合が入った。ありったけの力を投入し、実力を評価されたいと思ったのだ。

 梶山と別れると、響は急ぎ足で事務室に戻り、メールをチェックし、添付されていたピアノのリストをプリントアウトした。
 今月はまだ始まったばかりだ。残りの出勤日を数えると、今日を含めてまだ二十日近くもある。つまり、三日で五台ぐらいのペースで実施すればいい。毎日三〜五台家庭周りをしている梶山と比べると、かなり余裕のあるタスクだ。
 ただ、梶山と違い、響は調律だけしていればいいわけではない。普段の雑務の合間にやらないといけないのだ。しかも、長らく調律から遠ざかっている上、いきなりのグランドピアノ、作業が可能な時間帯も制限されている。
 でも、そういった懸念を差し引いても、ゆとりのある仕事だろう……。
 後に、それが大きな誤りだと気付くのだが、その時は楽観的に考えていた。

(2)初めての実践


 響は、梶山から送られたリストに再度目を通すと、幸いなことに本社のレッスン室が五部屋分も入っていることに気付いた。先ずは、慣れることも兼ねて、この五台からやってみることに決めた。
 教室担当者にレッスンの空き時間を教えてもらうと、今すぐ取り掛かれるピアノが三台もあった。但し、どの部屋も調律が可能な時間は15:30までとのこと。今はまだ十時前。なので、午前中に一台終らせ、午後からもう一台やりたいと伝え、許可を得た。なかなか幸先の良いスタートだ……とその時は思った。
 響は、早速指定されたレッスン室に入り、ピアノをチェックした。KAYAMAの現行モデルだ。奥行186cmのスタンダードタイプ。これなら楽勝……と思ったのも束の間、試弾してみた響は耳を疑った。尋常じゃないぐらいに音が狂っていたのだ。
 直ぐに外装を取り外し、メンテナンスの履歴を確認すると、この三年間、半年毎に木村という嘱託の調律師が調律していたようだ。彼は、元は興和楽器の社員調律師で、嘱託契約に切り替わってからも殆ど社員のような立場で出入りしており、気さくで優しい中堅調律師だ。噂を聞く限りでは、技術的にもかなり優秀らしい。なのに、僅か半年で、その木村が調律したピアノがこんなに狂うなんて……響には理解出来なかった。
 何より、こんな状態でレッスンを行なっている子ども達を思うと、鬱々たる気持ちが込み上げてきた。もっと良い状態をキープしてあげないと……と思ったところで、現実の壁にぶつかった。
 そもそも子ども達は、音楽を学ぶという看板に釣られたカモに過ぎないという側面もある。少なくとも、指導に当たる先生方とは違い、場所と環境の提供が収入源となる会社には、子ども達に真剣に音楽を教え育てる熱意なんてほぼない。経費の掛かるピアノのメンテより、生徒の勧誘を重視する。
 つまり、レッスン室の運営は、会社にとっては利益を追求する商売の一形態に過ぎない。そして、響はその組織の歯車の一つ。「子ども達の為」という名目も少しはあるだろうが、本質的には会社の為に行うに過ぎない。
 それでも、精一杯やるしかない。そこに違いはない。
 調律学校では経験したことのないような狂い方のピアノだが、逆にチャンスと捉えることも出来る。これを上手くまとめ梶山に見てもらえたら、少しは外回りの仕事も回してもらえるかもしれない……そんな期待を胸に、響は気合を入れ直した。

 ピアノの調律は、音を合わせる技術以前に、全体で20トンにも及ぶ張力のバランスを上手く取り、落ち着かせることが重要だ。
 ここまで大きく狂ったピアノは、いきなり調律をしても張力バランスが崩れ保持出来ない。なので、先ずは出来るだけ短時間で、すぐに狂うであろう「量」を見越した、大雑把な準備調律を行う必要がある。この工程を、業界では「粗律(あらりつ)」または「下律(したりつ)」と呼ぶ。ここで適切な張力バランスが取れないと、この後に行う本調律も上手く纏まらない上、後々狂いやすくなる。なので、とても重要な工程だ。
 響は粗律を行うに当たり、まずは現状のピッチを確認した。すると、なんと443hz以上もあった。履歴を見ると、毎回442hzで調律されている。つまり、音が高く跳ね上がっているのだ。
 そこで、響は疑問に思ったことがある。ピアノの弦は鋼製だ。金属は高温になると伸張し、低温では収縮する。つまり、弦が伸びようとする夏場は張力が低下し、音程が下がるのだ。もちろん、冬はその逆になる。今は七月……なのに、目の前のピアノは、冬場のピアノのようにピッチが跳ね上がっていた。
 いかなる時も、何故? という追求こそ、技術者としての成長に必須のファクターとなろう。しかし、その時の響には、考える余裕がなかった。目の前のピアノが、想像とは比にならない程に大変そうな状態だと知った焦りと、何とか仕上げてみせるという気負いが交差し、冷静さを見失い、軽いパニック状態だったのだ。調律を実施することだけで頭が一杯になり、判断力を失っていた。

 ピアノの調律は、中音部のオクターブに平均律を作ることから始める。この作業を「割振り」と呼ぶのだが、一番最初に合わすA音は外部から取るしかない。
 一昔前まで主流だったこのA音の音源は、調律師のシンボル的なアイテムでもある音叉だった。しかし、実は音叉にはデメリットも多く、今は使わない調律師の方が多数派だ。響も、0.1hz刻みで正弦波を発する高性能のチューナーを携帯していた。
 最終的に442hzで仕上げたいのだが、跳ね上がっているピッチを一気に下げようとしても、元に戻ろうとする力が働く為、粗律は0.5〜1.0hz程低目に合わす必要がある。この反発力を見込んだ匙加減こそ、技量の見せ所だ。経験と作業スピード、設置環境、ピアノの個性、ピッチの移動幅などを総合的に判断し、下げ幅を瞬時に決めないといけない。
 響は、自身の経験は未熟ながら、父の体験談を沢山聞いて育った。新しいグランドピアノが跳ね上がっている場合、復元力が強く働くので下げ幅は大きく取る必要があると聞いていた。なので、粗律のピッチは、思い切って440.5hzまで下げることにした。

 実際に粗律に入ると、中音部の跳ね上がりは想像以上に大きかった。こういうところで大きな誤差が出てしまうのは、経験が浅い証だろう。思い切って低目に設定して正解だった……と安堵した。
 しかし、懸命に「下げ調律」を行っていたのだが、ベース部に突入すると事態は変化した。何もしなくても、殆んど音が合っていたのだ。
 ここでも、本当なら「何故?」という探求が必要だ。しかし、響はこの不思議な現象もポジティブに受け止め、作業が楽になったことを喜んだ。と同時に、精神的なゆとりも生まれ、初めて部屋が蒸し暑いことに気付いた。実際、七月上旬の午後に近付こうとする時間帯だ。ベースを終え高音に取り掛かる前に、エアコンの電源を入れた。
 冷風が微かに首筋に掛かると、汗ばんだ身体に涼感が走り、心地良く感じる。心身共に、ホッと一息付くことが出来、緊張が少し和らいだ。
 僅か数秒の休憩後、今度は次高音から高音へと調律の範囲は拡張していくのだが、こちらもピッチは安定していた。ということは、グチャグチャに聞こえた最初の状態も、実際は中音部だけが異様に跳ね上がり、乱れて聞こえたのだろう。
 本当なら、瞬時にそこまで見抜かないといけないのだが、新人調律師にそこまで要求するのは酷な話だ。ともあれ、響が当初覚悟した時間の、半分程度しか要さずに粗律を終えることが出来た。初めての実戦の一つ目の工程は、順調に消化出来た……はずだった。

 本調律に入る前に、響は改めて試弾した。そして、直ぐに顔が青ざめ愕然とした。
「グチャグチャだ……」
 おそらく、粗律を行う前よりも酷くなっていた。何が起きた分からずただ困惑し、パニックになった。そんなはずはない……打ち消したい思いを胸に、何度も聞き返してみるが、目の前のピアノは正確な音律とは程遠く乱れ切っていた。
 基準音のピッチを確認すると、またしても驚愕の事実が判明した。
 最初は音が高く跳ね上がっていたピアノを、440.5hzに下げた筈だ。予定では、復元力で下げたピッチが少し押し戻され、粗律後には442hz辺りで落ち着いているという計算だった。
 ところが、今確認すると、最初と同じの443hzまで戻っている。少なくとも、中音部は下げたはず……元に戻るなんてことは有り得ない。狐につつまれた気分だ。
 チューナーの故障?
 音の取り間違い?
 それとも、無意識にとんでもないことをやらかしたのか?
 何かがおかしい筈なのに、それが分からない。

 レッスン室は、いつの間にか冷え切っていた。エアコンの設定温度を上げ、風量を抑えた。何が起きたにせよ、現状のままではいけない。再度、粗律からやり直す必要がある。現実的に、今は443hzまで跳ね上がっているのだ。何としても1hz下げないといけない。
 響は、今度は440hzで粗律を行った。すると、先程は触らなくても大体合っていたベース部や高音部も、今度は明らかに高い位置にある。必死の思いで音を下げ続けた。ピンはとても固く、嫌な粘りがあるが、とにかく急いだ。粗律は、早く終わらす程、安定を得る。
 二度目の粗律を終え試弾してみると、今度こそバランスは取れていた。だが、調律を始めてから既に一時間も経過している。午前中に終わらす計画は、修正せざるを得ない。それでも、少しでも早く終わらすに越したことはない。
 そのまま本律に差し掛かるべくピッチを確認すると、またしてもとんでもないことが起きていた。今度は、A音が440hzに下がったままだ。復元力が全く働かず、下げた状態で落ち着いたのだ。
 これはマズイ……響は、もうどうしていいのか分からなかった。

 狭いレッスン室は、エアコンを弱めると一気に気温が上がってしまう。いつの間にか汗ばんでいた響は、再度エアコンの温度を下げようとして、ようやく初歩的なミスに気付いた。
「エアコンの風がピアノに直撃している……」

(3)羊の親分

 何度繰り返しても、調律が思うように収まらない原因は、すぐ目の前にあったのだ。この部屋は、エアコンの吹き出し口が天井にあり、ピアノに直接冷風を吹き付けていたからだ。
 特に、調律中は屋根を全開にする為、弦が剥き出しになり、より影響を受けやすくなる。金属は温度変化により伸縮する。夏なのに、ピッチが高くなっていたのも、冷風による影響を日常的に受けていたからだろう。そう、最初からヒントがあったのに、気付けなかったのだ。
 確かに、一回目の粗律では寒くなるまでエアコンを強め、二回目は汗ばむまで弱めた。小さな防音室ならではの、短時間に大きく上下動する気温変化に、ピアノが過敏に反応したのだ。
 だが、原因が分かったところで、粗律からやり直すしかない。その為には、先ずは室温を安定させるべきだろう。エアコンを弱目に設定し直し、風量も抑え気味にして、部屋の温度が安定するまで待つことにした。逸る気持ちを抑え、十分経過するのを待った。

 結局、響は昼食も取らず、15時まで掛かってこのピアノの調律を切り上げた。そう、「出来た」のではなく「切り上げた」のだ。まだ三十分残っていたが、これ以上手直しする余力はなかった。心身ともに疲弊し切った響は、レッスン室から逃げ出したかったのだ。
 あの後も、何度やっても上手くまとまらず、繰り返し粗律を行った。何とか442hzに収まった時に、一気に本律を行ったものの、とても良いとは言えない仕上りだ。学生時代、ずっと成績トップに君臨していたプライドも、たった一台の実戦の前で打ちのめされ、自身の無力を思い知らされた。
 プロの調律師として、記念すべき一台目の調律は、響に大きな失意を与えた。練習と本番は、あまりにも違い過ぎた。
 残り29台——。
 こんな感じだと、余程効率良く消化しないと終えられないだろう。
 兎に角、予定を組むしかない。各教室へ電話を掛け、今からでも空いている部屋があるか確認した。ところが、少し予想はしていたのだが、夕方から閉館までは何処の教室もフル稼働している。勿論、本社もこの後は閉店まで空いていない。なので、響は各教室の明日以降の空き時間をリストアップしてもらうように依頼し、初日はたったの一台で終えることになった。

 その日の夕方、珍しく営業時間内に帰社した梶山に響は声を掛けられた。「今日は何台出来た?」と聞かれ、正直に「一台しか出来ませんでした」と答えると、素っ気なく「そうか」と返ってきた。
 梶山に、今晩付き合えるか? と聞かれた響は、躊躇なく「大丈夫です!」と答えた。尊敬する梶山からの誘いは、ネガティヴな内容が想像出来るとは言え、有難かった。午後七時半の閉店後、響は梶山に連れられ駅前のファミレスに入った。

「今日やったのはどのピアノだ?」
 やはり、梶山の要件はレッスン室の調律のようだ。
「はい、本社のA室をやりました」
「あぁ、あの狭い部屋か。大変だったろ?」
「恥ずかしながら、五時間以上も掛かりました」
 そう告げると、梶山は爆笑した。
「ハハハッ、五時間だって? そりゃ、意味ないぞ。まさか、何回も粗律を繰り返したんじゃないだろな?」
「いえ、実は……そのまさかでして……。恥ずかしながら、何回やっても落ち着かせられなくて……」
 すると、急に真顔になった梶山は、やや厳しい口調で冷たく言い放った。
「あんなピアノはさ、粗律なんてしなくていいんだ。ざざっと一時間で終わらせればいい」

 響は、梶山の口からそんな台詞が出るとは思ってもいなかった。どんな状況でも最善を尽くす調律師だと思っていたのだ。あの状態のピアノを一時間で、しかも粗律無しでやるなんて、とんでもない話だ。
「なんだ? 不満そうだな? レッスン室のピアノなんてな、時間掛けても掛けなくても、仕上がりに大差はない。自己満足の違いだけだ」
 梶山は、説教じみた論調で新人調律師を突き放すが、響もつい言い返してしまった。
「でも、出来る限りのことはすべきだと思いましたので……」
 すると、梶山は、今度は真顔から仏頂面になり、怒気を孕ませながら響の言葉を遮った。
「お前はまだ学生のつもりか? 理想論は必要ない。もう、アマチュアじゃないだろ? 俺は、結果の話をしてるんだ。これは調律だけの話じゃない。社会人なら、何であれ結果が全てだ。馬鹿みたいに五時間掛けて必死にやろうが、一時間で手早く終わらせようが、仕上がったピアノの結果には大差ない。どんなに良く仕上げも、あんな部屋、誰かがエアコン掛けたらお仕舞いなんだよ。一週間も経てば、誰がやってもめちゃくちゃになるんだ。違いがあるとすれば、お前は四時間も無駄にしたってことだけ。自分の時給を考えてみな。いいか、今お前に任せてるレッスン室の調律はな、練習じゃない。仕事だ。分かったか?」
 厳しく叱責された響は、しかしながら全て的を射ているだけに、何も反論出来なかった。悔しいが、梶山の言う通り結果が全てなのだ。確かに、ピアノ一台に五時間も掛けていてはいけないだろう。そう、練習ではない。仕事なのだ。

「明日は、何処をやる予定だ? アポ取ってんだろ?」
 言うことを言った為か、一転して柔和な表情に戻った梶山は、今度は親しげにそう問い掛けた。コロコロと表情の変わる人だ。
「はい、明日は栄町センターと三原池センターが15時半までどの部屋もOKと言われましたので、朝から栄町センターに行こうと思っています」
 響も辛うじて気を取り直し、そう報告すると、梶山は少し考え込む仕草を見せた。
「そうか……もし変更可能ならさ、三原池にしないか?」
「え、はい、大丈夫です……けど、どうしてでしょうか?」
「俺、明日の朝、三原池の近くの現場なんだ。でも、昼一予定の客からさっきキャンセル食らってな、ポッカリ予定が空いてさ、二時間ぐらいなら付き合えるぜ。一回、お前の調律みてやるよ」
「マジっすか? うわ、ありがとうございます!」
 ついさっき、酷いことを言われたばかりだが、梶山を尊敬する気持ちは変わらない。なので、彼に直接指導頂けるなんて、響にとってはこれ程嬉しいことはなかったのだ。
「11時45分ぐらいには、三原池センターに行けるから、昼飯付き合えよ。時間ないから近くの牛丼だけどな、それぐらい奢ってやるよ。で、その後、調律みてやるけど、あ、それか……一回俺の調律を見るか? 何なら、一台やってもいいぞ」
 響は、調律学校の同級生を除くと、父の調律しか見たことがない。ハンマー操作や打鍵のリズムなど、大先輩から学ぶことは沢山あるだろう。これは、滅多にない機会だ。
「ありがとうございます! 梶山さんの調律が見れるなんて、光栄です。是非勉強させて下さい!」と威勢良く返答すると、梶山も悪い気はしないのだろう、和かに微笑んでいた。
 往往にして、技術者は自分が一番だと内心では思っているものだ。プライドを(くすぐ)られると嬉しいものだし、否定されると怒り出す人も多い。
 ある偉人の言葉に「賢者は学びたがり、愚者は教えたがる」とあるが、梶山はどちらなのか、盲目の響には分かるはずもなかった。

 響の自宅では、殆ど仕事をしないニートのような父宗佑が響の帰りを待ちわびている。
 美和に出て行かれてから、間も無く四ヶ月になる。週に多くても三件程度調律に出向く以外、何もやることのない生活を、宗佑は何を思い過ごしているのだろうか? 自らが招いた末路とは言え、妻に逃げられ、転職するには歳を取り過ぎ、隠居には早過ぎる五十六歳の宗佑を、響は実の親ながら哀れに思うこともあった。
 四月からは、家のローンや光熱費も響が支払っていた。美和がまとまった額の貯金を残してくれていたが、今のところ手を付けずに乗り切っていた。と言っても、新卒一年目の響には大した給与もない。宗佑の収入なんて、粗利はせいぜい数万円程度だろう。全く当てにならない。だから、響は夜も会社に内緒でアルバイトをしていた。閉店後の店舗清掃の仕事だ。
 時給や勤務時間の条件だけで選択したバイトだが、それなりにやり甲斐があり、職務は楽しくさえ感じていた。清掃業が向いていたのかもしれない。
 専用の機械を使って床を洗浄し、モップできれいに水拭きし、ワックスをかける。状態によっては、大型バフ機で床を(厳密には床に重ね塗りされているワックスを)研磨することもあれば、ワックスを全て剥離し、一から何層も塗り直すこともある。いずれにせよ、数名によるチームワークが大切な仕事だ。響は、僅か数ヶ月の経験とは言え、殆んどの技術をマスターし、現場によってはリーダーに任命されるほど重宝されるようになっていた。
 教室の調律が始まるまで、ピアノに触れることのなかった響にとって、持って生まれた体格の良さは、調律師より清掃屋の方が向いているのでは? と自虐的に疑うぐらい、アルバイトに精を出していた。

 実際には、経済的な事情で止むを得ず続けていただけだが、労働と引き換えに得たものはお金だけではなかった。毎日のように大型バフ機や自洗機、ポリッシャーといった清掃機械を取り扱うことは、筋トレと大差なかったのだ。いつしか響は身体的な健康を手にし、更には隆々と筋肉質に鍛え上げられ、持って生まれた長身と相まって格闘家の様な体型になっていた。
 興和楽器に出入りする運送屋にも、響の体格はよく褒められた。運送屋の連中は、例外なく筋肉質な体型を誇っているが、そんな肉体派の彼らから見ても響の体躯は突出しているようで、「よっ、レスラー」などと愛情を込めて揶揄われたものだ。
 中でも「アキさん」と呼ばれている中年の運送屋スタッフは、いつも響に親しげに話し掛けてくれ、「俺の代わりにピアノ運んでくれよ」と冗談とも本気とも取れる口調で懇願された。いや、実際に手が空いていれば店内移動や搬入搬出などの作業でアキさんを手伝うこともあり、皮肉なことに、その時が唯一ピアノに触れる機会でもあった。
 そのことを知ってか知らずか、「お前、調律がダメになっても運送屋でやっていけるな」と、アキさんによく揶揄われたものだ。

 しかし、この日は初めてアルバイトを欠勤した。毎日数千円の稼ぎを生み出す仕事の放棄は、今の響にとっては痛手だ。だが、それ以上に梶山の誘いは貴重な体験で、調律師としての誇りを思い出させてくれた。
 実際、厳しいことも言われたがとても有意義な時間となり、梶山の作業を見学させて貰える約束も取り付けたのだ。これは想定外の大収穫だ。
 技術は盗むもの。何故なら、技術屋は、技術を隠したがる人が多いからだ。調律師も然り。そんな中、梶山のオープンな対応はとても有難く感じた。

(4)備品調律


 梶山との食事を終え帰宅した響に、宗佑は大して関心もなさそうに「今日はバイトは?」と問いかけた。その様子が、あまりにも呑気で緊張感がなくて、響は少し苛立った。
 そもそも、正社員として定時まで働いた後に、何故バイトをしなくてはいけない状況なのか? 誰のせいで、響がこのような境遇に陥ったのか? その一番の要因である宗佑が、家計や収入に無関心なことに響は腹が立った。同時に、少しだけ、父を見限って離婚した母の気持ちも理解出来た気がした。
「今日は、急に上司に食事に誘われたから休んだよ。家計が心配なら、お父さんもバイトすれば?」皮肉交じりにそう答えると、いつものように宗佑は黙してしまう。
 おそらく、自身の不甲斐なさは十分に感じているのだろう。そこから何も手を打つことも出来ず、行動に移すこともない。全くもって、ちっぽけな男だ。親として、社会人として、そして男として、響は実父に侮蔑と憐憫以外の感情を抱けなくなっていた。
 しかし、唯一調律師として、宗佑は響の師でもあり、今尚尊敬の念を抱いていた。響にとって宗佑の存在価値は、父でも家族でもなく、調律師だけに集約されていたと言っても過言ではない。
 きっと、母が一人で出て行った理由の一つとして、宗佑と響の「父子として」よりも「師弟として」の関係にポジティブに転じる可能性を感じたから、というのもあるのかもしれない。実際に、技術の話は父に聞けば何でも解決するのだろうし、父の奮起に繋がる可能性も0ではない。
 それなのに、「師」としての父と話をする機会は、めっきり減っていた。仕事とアルバイトに追われ、時間的にも精神的にも、更には経済的にもギリギリの平衡を辛うじて保って生活していた為に、響にはこの数ヶ月に「ゆとり」を感じる瞬間が殆んどなかったのだ。
 常に苛つき、追い立てられ、辛うじて乗り切る毎日。そもそも、自宅には寝に帰るようなもので、寛ぐ時間なんてほとんどなかったのだ。そんな中で、緊張感のないダラけた父に、まともに向き合う気になれないのも当然と言えるだろう。
 しかし、この日は違った。父に対する感情は変わらないものの、少なくとも時間にはゆとりがあった。それに、初めて調律を任され、ようやく本業にやり甲斐を見出し始めたのだ。だからだろうか、「調律師として」の宗佑と少し話をしたくなった。

「今日さ、やっと調律やらせてもらえたよ」
 ボソッと呟くように話すと、宗佑は間髪入れずに「教室か?」と食い付いてきた。
「うん、なんで分かったの?」と聞くと、新人が最初に触るピアノは備品調律か展示品に決まってる、と言った。つまり、それほど責任を負う必要のないピアノだ。
「で、上手く出来たか?」調律の話になると、宗佑は普段の無気力な目から一転し、少しだけ輝きを取り戻したように見えた。
「それが……粗律に何回も失敗して、五時間以上も掛かっちゃって部長に笑われた」
「まぁ、五時間は掛かり過ぎだな。どうせ、空調が落ち着かなかったんだろ?」
「そうそう、流石だね。でもさ、部長はこんなピアノは粗律無しで一時間で終わらせろって言うんだ。そんなことしたら、後からグチャグチャになると思って反論したら怒られちゃってね。ねぇ、お父さんならこういうピアノ、どうやって調律するの?」
 灯台下暗し……響は、こんな近くに技術の相談が出来る人物がいることを、今の今まで忘れていた。そう、分からないことは宗佑に聞けば良かったのだ。
「こんなピアノって、グランドピアノのことか? それとも、空調が効き過ぎる部屋のピアノなのか、大手楽器店のレッスン室って意味か?」
「そんな細かいことはどうでもいいよ」
「どうでもよくないさ。ピアノしか見てない調律師は、ろくな仕事が出来ないぞ。ユーザーや設置環境、与えられた時間や予算など、常に総合的な環境条件に目を向けないとダメだ」
 いつにない宗佑の強い口調に響は少し気押されて、妥協を余儀なくされた。
「……分かったよ。じゃあさ、興和楽器の狭いレッスン室にある現行機種のグランドピアノ、空調が効き過ぎる部屋ってことで。こういうピアノはどうやって調律すればいい?」
「調律のやり方は、どんなピアノでも同じさ。違うのは取組み方だな。逆に聞くが、そのピアノは何故調律するか分かるか?」
「何故って……まぁ、しないといけない時期なんだろうし、半年周期でって決められてて、それに音も狂ってるし……」
 何故調律するのか……考えもしなかった問い掛けに、しどろもどろになりながら答えを捻り出していると、宗佑はそれを遮り被せてきた。
「いやいや、そういうことじゃない。時期なんて、大幅にズレなければいつでもいいはずだ。それに、音が狂ってるって言っても、そういう部屋にあるピアノは常に狂ってるさ」
「……うん、確かにそうだけど……じゃあ、どういうこと?」
 そう問い詰めると、宗佑は、一呼吸おいてゆっくりと語り出した。
「そもそも調律の目的なんて、ピアノの為だけとは限らない。むしろ、大手楽器店の場合はそうじゃない方が多いぐらいだ。レッスン室のピアノも定期的にメンテしてますよ、っていう外部向けのアピールの方が大事だし、技術部門の調律ノルマってのもあるはずだ。台数ベースか売上げベースか知らないけど、月毎、半期毎などで区切って数字を残さないといけないんだ。いつまでに何台やれって言われなかったか?」
 そう言われてみると、梶山に今月中に三十台必ず終わらせろと言われたことを思い出した。
「確かに、絶対に今月中に終わらせろって言われたけど……」
「だろうな。それが最優先だろ? つまりは、実績と既成事実の為の調律だよ。だから、五時間も掛ける必要はないし、誰も精度なんて求めてない。質だってどうでもいい。要は、やりゃあいいんだよ。で、質問に戻るけど、俺だったらどうするか? って話だったよな。お前の上司と一緒だよ。適当に一時間ぐらいで終わらすさ。いや、もっと言えば、そんな仕事をしたくないから、独立したようなもんだ」
 これが現実なのだろうか……響は、少し失望した。業界に。そして、父の話に。何より、どこも間違っていないように思える実感に。

 だとしたら、調律師は何の為に存在するのだろう?
 ピアノと正面から向き合い、ピアノの保守を第一に考え、そこに向けて技術を注ぎ込むという理想は、実際には求められていないのだろうか?
 必要なのは、見せ掛けの実績、売上げと台数を稼ぐ為だけの調律……父の言う通り、やればいいだけの調律なのだろうか?

「明日、部長が調律を見せてくれるって」
 そう伝えると、宗佑は響の期待とは全く異なるアドバイスをくれた。
「そうか。技術はともかく、いかに誤魔化し手を抜くか、そういう所は勉強になるだろう。皮肉で言ってるんじゃないぞ。大手楽器店の調律師というのはな、技術以外の部分が長けていて、言葉や態度でピアノを仕上げる職業なんだ。そこでやっていくなら、そのやり方をしっかり見ておけよ」
「そんな……確かにそういう人もいるけど、梶山さんは違うよ。技術のトップグレードを取得してるし、コンサートとかコンクールも担当してるし、クレームも殆んどない方なんだ」
「まぁ、流石にトップともなれば、それなりに技術面でも優秀な筈さ。それは俺も認めるよ。でもな、その優れた技術が仕事に活かされてると思うか? 楽器店の調律師はな、そんなものなくてもやっていけるんだよ」
「でも、技術は必要じゃないの?」
「もちろん、あるに越したことはない。ただな、最低限あればやっていけるって話をしているんだよ。知ってるか? 調律師のクレームの殆んどは、技術以外のことだ。言葉遣いとか身なりとか、外装の手垢とか……音がどうのこうのってクレームはほとんどない。あるとしても、技術力に関係のない共鳴とか雑音ばかりだ。つまり、クレームが少ないからって、技術が優れてるわけではない。接客マナーが一流なだけだ」
「だからって、接客マナーが一流の人は技術がないってことにもならないでしょ?」
「もちろんだ。でも、逆も言えるぞ。技術がどんなに優れていても、接客マナーの悪い人はやっていけないよ。そっちの方が重要じゃないか? つまり、俺が言いたいのは、大手楽器店の調律師には、技術力なんて大して意味がないってこと。接客マナーに長けているだけだって話だ」

 珍しく、宗佑も折れなかった。大手メーカー、特約店、社員調律師……どうやら、これらのワードを宗佑は毛嫌いしている。なので、全てを満たす梶山は、宗佑にとってはもっとも敵視する存在なのだろう。響から見ても、確かに宗佑と梶山は真逆の存在に思える。
 でも、今の社会的な地位を見て、二人の格差が目を覆うほどに大きいことは、疑いようのない事実だ。梶山の言っていたように、何であれ、結果が全て。調律師としてのスタンスも同じはずだ。どうしても、結果の伴ってない人による、結果を出している人への苦言は、響の胸の奥までは浸透しなかった。
 同時に、実際には見たことがないにしろ、二人の接客マナーを想像すると、皮肉にも宗佑の言っていることも正しいような気もするのだ。技術が優れていてもマナーの悪い人はやっていけない……まさに、宗佑自身に当てはまる話ではないだろうか?

 翌日、三原池センターに九時前に到着した響は、午前中一杯掛けて何とか一台調律を終えた。一台につき、一時間での作業を目標にしていたが、結局三時間近く掛かったことになる。前日の半分強とは言え、まだまだ及第点には程遠いだろう。
 工具を片付けていると、約束の時刻ピッタリに梶山がやってきた。いつも通りの隙のない整った身嗜みに柔和な笑顔、スマートな身のこなし。父と同業者とは、とても思えない。
 しかし、昨夜の父との話のせいか、響にはほんの一瞬だけだが、梶山の外見が作り込まれたハリボテにも見えた。完璧な外見とは裏腹に、内面から滲み出るものがないことに気付いたのだ。
「取りあえず、メシ行こうか」
 挨拶もそこそこに、梶山は響を近くの牛丼チェーン店へと連れ出した。
「午前中、何台出来た?」
 歩きながら、梶山は聞いてきた。正直に一台しか出来なかったことを伝えると、「ま、昨日よりは良いじゃん」と素っ気なく答えた。
「すみません、何とか一時間でやろうとは思ったのですが……」
 我ながら言い訳っぽくなるかな、とは思ったが、嘘ではない。それに、一時間でやれと言った梶山の指導を無視したと思われたくなかったので、どうしても伝えたかった。
 しかし、梶山は言い終わらない内に言葉を遮り、やや厳しく響に言い聞かせた。

「お前が真面目に仕事に取り組んでいることは、ちゃんと分かってるし、評価もしている。でもな、昨日も言ったが、技術の世界は結果しかない。どんな心構えで取組もうが、どれだけ頑張ろうが、三時間掛かったという結果は変わらない。午前中に一台しか出来なかった。その結果が全てなんだ。あとは、何を言っても言い訳にしかならない。分かったか?」
「はい、申し訳ありません。肝に銘じます」
 響は、この日は梶山の話を深妙に受け止めることが出来た。確かに、一般家庭であれコンサート会場であれ、調律師の評価は結果だけに委ねられるだろう。
「ともあれ、先ずはメシだ。仕事の話は、後のお楽しみってことでな」

(5)Träumerei


 昼食を終え、三原池センターに戻った二人は、先ずは午前中に響が調律したレッスン室に向かった。調律のチェックだ。
 ピアノ椅子に腰掛け、無言で試弾する梶山の傍らで、響は緊張の面持ちで講評を待った。梶山は尚も無言のまま、長三度、完全五度、オクターブ、2オクターブなど、様々な検査音程で唸りを確認する。そして、(おもむろ)にピアノの演奏を始めた。バッハのインベンションだ。
 お世辞にも上手いとは言えない、辿々しい演奏だ。声部の弾き分けがメチャクチャで、ポリフォニーが台無しだった。反面、当の本人は恍惚とした表情で悦に入っている。トップ調律師の梶山も、演奏技術は大したことないんだな……率直に響はそう思った。
 梶山は、曲の途中で弾き止め、調律の評価を語り出した。

「全体のバランスはなかなか良い。高音がちょっと上げ過ぎだが、許容範囲だ。でも、次高音のユニゾンは甘いな。合わそうとし過ぎだ。無理に合わすんじゃなく作るんだ。ピッタリ合うと音が詰まるから、伸びる音を作るように心掛けるといい。三時間も掛かったのは減点対象だけど、仕上がりは上出来だ」
「ありがとうございます!」
 酷評を覚悟していた響は、意外な高評価に安堵を通り越し、少し拍子抜けさえした。しかし、喜びの感情も湧いてこなかった。と言うのも、客観的に梶山のバッハを聴いていて、自身の調律のバランスの悪さを実感したのだ。それに、高音よりも低音のバラツキが気になった。ユニゾンも、次高音より中音の乱れを指摘されると思ったのだ。
 つまり、梶山の指摘は、響の感想と一致しなかったのだ。そこに説得力を見出すことが出来ないぐらいに——。
 褒められたことは嬉しくても、正直なところ、その評価はハッタリで語ってるのかと勘繰るぐらい、的外れな意見に思えたのだ。もちろん、梶山の実力に疑いはない。だからこそ、このギャップがどこで生じたのか……全く分からない。また一つ、課題を与えられた気がした。

「さてと、じゃあ、サクッと一台やってやるけど、どの部屋だ?」
 そう促された響は、隣のレッスン室へ梶山を案内した。
「すみません、こちらの部屋をお願い致します」
「OK、じゃ、外装外してもらえるか?」
 響はグランドピアノの屋根を開き、譜面台と鍵盤蓋を取り外した。その間に、梶山は工具鞄を開き、必要な道具を用意しながら話し掛けてきた。
「聞いていると思うが、この建物はセントラル空調システムとやらになってるそうだ」
「はい、聞きました……でも、それってどうなんでしょう? 使ってない部屋も、廊下とか事務室もエアコン付いちゃうんですよね? なんか、すごく勿体無いような……」
「さあな、単に電気代だけの問題じゃないだろうから、損か得かなんて分からないよ。それに、俺たちが考えることじゃないさ。大事なことは、ピアノへの影響だ。おそらく、他のレッスン室に比べると、エアコンの影響は受けにくい。つまりは、ここのピアノはそんなには狂わないはずだ」
「確かに、昨日のピアノほどは狂ってなかったです」
 すると、梶山は「だろう?」とニッコリと微笑んだ。どうやら、どんなことでも肯定されると喜ぶ性格のようだ。

「お前、履歴書に特技はピアノ演奏って書いていたよな?」
 はい、とだけ答えると、何でもいいから弾いてみろと言われ、響は選曲に悩んだ。先程の拙い演奏を聴いた後では、リストやラフマニノフは嫌味に受け取られるだろう。しかし、調律前の確認を兼ねた試弾だろうから、初歩的な曲も適していない。悩んだ挙句、響はシューマンのトロイメライを選択した。
 この曲は、ただ弾くだけならそこまで難易度は高くないが、美しく響かせ歌い上げるには、それなりに高度な技巧を要する小曲だ。音域も狭過ぎず、細かいパッセージもないので、和音の点検にも適しているし、嫌味にもならないだろう。何より、響の得意なレパートリーの一つだった。

 梶山という特異な聴衆(ヽヽ)を前に、響はトロイメライを紡ぎ始めた。だが、いきなり出だしのF-durの和音で躓きそうになった。F-A-Cで構成されたシンプルな和声なのに、グチャグチャに濁った唸りがぶつかり合い、ピントのズレたユニゾンがさらに調和を掻き乱したのだ。
 同じ「音を聞く」作業でも、調律師として音律をチェックする時と、演奏者としての捉え方は、こんなにも乖離しているのかと新たな発見に繋がった。これは、悲惨な状態のピアノから生まれた、唯一のポジティブな結果として受け止めてもいいだろう。つまり、調律の確認では気付かなかったのだが、曲を弾いてみると予想以上にメチャクチャに狂っていると感じた。先程の課題の答も、ここにあるのかもしれない。
 曲は、中間部に差し掛かった。やや短調気味に転じ、少しだけ荒々しく盛り上がる場面でも、音が狂い過ぎている為、思ったような表情の変化を生み出すことが出来なかった。
 もっと言えば、タッチも重く、ダイナミクスのコントロールが効かない為、どうしても平坦な演奏に陥ってしまう。僅か二分程度の曲なのに、響はもどかしく感じ、早く終われとばかりに、曲想の変化に乗じて微かなテンポアップを試みた。
 しかし、あまりにも音が狂っている為、ミスタッチを犯したような錯覚を起こし、指使いを間違えそうになる。感情や表現を盛り込む次元には、到底達することがない流れ作業のような演奏だ。こんな響きは、シューマンの望んだ音じゃない。ただ記憶の中の楽譜をなぞるだけ、機械的に音へと変換することだけに集中した。
 辛うじて最後まで弾き切ると、梶山は無表情のまま「お前、結構ピアノ習ってたんだな」と呟いた。響にとっては、自身最低ランクの無様な演奏だ。ただ弾いただけ、音符を音にしただけの棒読みだ。音声ガイダンスと大差はない。それでも、演奏は初級レベルであろう梶山には、上手い演奏に映ったのかもしれない。

「じゃあ、始めるけど、俺も次の現場があるからそんなに時間はない。幸い、お前も弾いて分かっただろうけどさ、このピアノは大して狂ってない(ヽヽヽヽヽヽヽヽ)。なので、粗律なしの一回取りでやる」
 梶山のこのセリフに、響は無条件に反応してしまった。
「えっ、……すみません、ものすごく狂ってる思いますが……確かに、昨日のピアノ程ではありませんが、これぐらいの狂いなら粗律は必要ないのですか?」
 すると、梶山は見る見る間に不機嫌な表情に変貌し、口調も厳しくなった。肯定されると喜ぶのとは反対に、否定されると烈火の如く怒るのだろう。
「お前さ、何の為に弾かせたと思ってんだ? この程度で粗律する気か? だから、バカみたいに何時間も掛かるんだ。もう一度言うが、これは練習じゃない。調律なんてな、時間掛ければ学生でも綺麗に仕上がるんだ。これを一回でまとめられないんじゃ、仕事にならねぇよ。まだ練習したいんなら、学生からやり直せ!」
 梶山の急変に戸惑い、怯えた響は、すぐさま謝罪した。しかし、それは社内での立場の違いを鑑みた上での謝罪であり、梶山の話を認めたわけではない。仕事だからこそ、キッチリとやるべきなのではないのか? そう考える響には、どうしても納得出来なかったのだ。
「もういい、とにかく始めるから時間計りながらよく見ておけ」
「すみませんでした。勉強させて頂きます。よろしくお願いします」
 果たして、梶山は響に調律を教えたいのか、或いは見せつけたいだけなのか、若しくは、それ以外に何らかの意図があるのか……その真意は掴めない。

 梶山の思惑は何処にあれど、実際にその調律作業をライブで目の当たりにすると、驚きの連続だったことは認めざるを得ない。何よりも、まるで早送りのような作業スピードには驚愕した。
 そして、一つ一つの打鍵がとても強く、小刻みに激しく連打する激しさにも唖然とした。しかし、ややもすれば、せっかちで雑な印象を与えかねない作法とは裏腹に、右手のハンマー操作はこれ以上ないぐらいに繊細で簡潔だ。チューニングピンの回転を必要最低限に留めていることは、上げ下げする音の動きが証明している。つまり、ピンに無駄な負荷を全く掛けていない。この理想的なチューニングハンマーの操作技術は、宗佑と同レベルと言えよう。
 一方で、音の捉え方は褒められたものではない。少なくとも、響は参考にしたくなかった。激しい小刻みな連打では音尻を捉えることは出来ず、ユニゾンもオクターブも音の立ち上がりだけで合わせている。長六度、長短の三度、十度といった検査音程はほとんど無視し、2オクターブやオクターブ五度といった振動数比のシンプルな和音だけを重視するようだ。

 また、慌ただしい梶山の調律に慣れてくると、時折疑問を抱く瞬間が通過することに感付いた。オクターブもユニゾンも、詰め切れていない内にOKとすることが何度かあったのだ。
 つまり、「もうちょっと合わすべきでは?」と思える音が、結構な割合で残ったのだ。更に、最高音部に入ると全く手を付けない音もあった。明らかにズレているユニゾンも、そのまま素通りだ。
 梶山は、最後に軽く試弾し、幾つか目立つユニゾンを手直しして調律を終えた。時計を見ると、開始から五十分しか経っていない。確かに、速い。とてつもなく速い。響の粗律と大差ないスピードで、本律をやったのだ。その点は、心底凄いと思う。凄いとは思うのだが……さて、スピード以外に見習うところはあっただろうか?
 最初は感心した最小限のハンマー操作も、強い打鍵や最低限の検査音程と同じく、時間短縮だけに特化した作法に思えてくる。だからと言って、誰もが簡単に真似ることなんて出来ない最上級の技術には違いない。ただ、似たようなハンマー操作でも、宗佑の場合はピンへの負担や音律の安定を極める目的に感じるのだが、梶山はそうではない印象なのだ。
 つまり、早く終わらせるだけの調律。

「要は、やりゃあいいんだ」
 昨夜の父の言葉を思い出した。この世界に抱いた理想なんて、まさにトロイメライ(夢想)に過ぎないのだろうか。

(6)ウルトラマンにはなれなかった


 激しく、猛スピードで駆け抜けた梶山の調律。その是非はともかく、極度の集中力を維持しながら、爆発的に体力を発散させたかのような調律だ。心身共に消耗し切っているのでは? と思いきや、梶山は何事もなかったかのような涼しい顔で鍵盤の乾拭きをしていた。その表情からは、疲れた様子なんて全く感じ取れなかった。
 彼にとっては、アレが普通の調律なのだ。きっと、日常の一コマに過ぎない。おそらく……見た目からは想像出来ないが、上手く脱力しているのだろう。

「チューナー持ってるか?」
 調律を見せてくれた梶山に、何をどう言葉にすべきか迷っていた響は、逆に不意に話し掛けられた為、ビクッとバネ仕掛けのような動きで慌てて工具カバンから愛用のチューナーを取り出し、梶山に手渡した。同時に、調律の開始時にピッチを確認しなかったことを思い出した。
 ピアノを調律する際、真っ先に必ず行うべき作業が、「音叉取り」と呼ばれている基準音のピッチ設定だ。もっとも、本物の音叉を使う調律師は減り、チューナーの使用が一般的になっているが、「音叉取り」という言葉だけは慣習的に今尚使われている。
 梶山は、この最も大切な工程まで省いていたのだ。

「おっ、良いチューナーじゃないか。えぇと、443.2hzか。跳ね上がっとるな……松本、記録カード書いてくれるか? これ、俺のシャチハタだ。A=442hzって書いて押しといてくれ」
 工具を片付けながら梶山はそう命じたが、響はつい聞き返してしまった。
「えっ? ……443じゃないのですか?」
 悪気のない響のこの一言は、不用意だったようだ。とにかく、梶山には些細なことでも反論してはいけないようだ。急激に、不穏な空気に変わるのが分かり、響は自分の軽はずみな発言を後悔したが、既に手遅れだった。
「何か問題か?」
「いえ、そのぉ……カードは正確に書くべきと習ったもので……すみません、学校でそう習っただけです」
「あぁ、正確に書くべきだろうな。で、今この仕事で442って書いて、何か問題があるのか? って聞いてるんだ」
 予想以上に怒気を含んだ声に、響は黙り込んでしまった。それに、現実的な問題は、確かに思い浮かぼない。

「お前さ、この音聞いて何ヘルツか分かるのか?」
「いえ……分かりません」
「偉そうな口利くんじゃねぇぞ。ピッチなんて、こういう環境じゃ常に変わるもんだろ? 今この瞬間の正しいピッチを書いて、何の役に立つんだ? それより、レッスンの先生に443hzでやったなんて思われたら、どうなると思ってんだ? 中にはな、ちょっとでもアラを見せたら、突っ掛かってくるバカもいるんだ。1hzぐらい鯖読んで、何が悪い? それに、下手にピッチ動かすと、無駄に時間が掛かるし落ち着きも悪くなるだろ? お前もそれで五時間も掛かったんだろ? 精度より時間優先の調律だ。それを教わりたかったんじゃないのか? これは、コンサートの調律じゃねぇんだよ!」
「申し訳ございません……仰る通りです。それに、とても勉強になりました」
「勉強になりました、だと? 言うのは簡単だ。本当に勉強になったんなら、今からもう一台終わらせてみろ。分かったな?」
 梶山は、普段の仕事中に見せる柔和な表情とは程遠い、冷酷で皮肉っぽい笑みを微かに浮かべ、冷たく言い放った。
「え……でも、ここは、今日は三時半までしか空いてないって……」
 ささやかな抵抗を試みる響を遮り、梶山は冷たい言葉を被せてきた。

「それがどうした? あと百分もあるじゃねぇか。コンサート調律でも、九十分も貰えたら良い方だぞ? 幾ら新卒でもな、レッスン室が九十分で出来ないようじゃ、調律師なんて止めろ。誰もコンサート向けの精度なんて求めてない。きっちり仕上げろ、なんて要求してないだろ? 九十分で終わらせろって言ってるんだ」とトドメを刺した。
 これで、完全に退路を塞がれた。やるしかない。もし、出来ないと……おそらく技術部から外されるのだろう。
「知ってるか? 調律学校を出た新米調律師はな、最初の一年間で半分以上が辞めるって統計が出てるんだ。三年続くのは、三割もいないらしいぞ。理想論だけじゃ、実際の業務なんて乗り切れないんだ。悔しいなら、先ずはその三割に入ってみろ!」
 そう吐き捨てて、梶山は足早に三原池センターを出て行った。次の現場に向かうのだろう。何であれ、響の為に時間を割いてくれ、実践を見せてくれたのは有難いことと受け止めなければならない。
 同時に、調律師という職業のリアルな姿も知らされた思いだ。そう、理想を追求してるだけじゃダメなのだ。いかに誤魔化し、手を抜き、強引に終わらすのか……きっと、雇われ調律師とは、そういう一面も切り離せない職業なのだろう。それが出来ないなら、梶山の言う通り調律師を辞めるか、父のように一人でやるしかない。

 すぐにもう一台の調律に取り掛からなければ……と思いつつも、響は梶山の調律したピアノを弾いてみたい衝動は抑えられなかった。ものすごい勢いで、適当に手抜きしながら一時間弱で仕上げたピアノ。粗律を省き、ピッチすら決めずに強引にねじ伏せた調律。果たして、この楽器からどのような音楽が出来るのか、自分の演奏で確かめたかったのだ。
 大屋根を全開にし、響は再度トロイメライを弾いてみた。出だしのF-durは、なるほど調律前のカオスな濁りは改善され、スッキリと調和した唸りが溶け合っていた。右手の上昇音型も、ゆるやかなクレシェンドを伴いながら豊かに音を膨らませ、随分と表現力が付いている。僅か一時間弱でこれ程まで激変させた技術は、素直に感嘆するしかない。
 しかし、調律を終えたばかりのピアノに特有の音の「締まり」はなく、むしろ、決壊しそうな「か細さ」と「脆さ」を感じた。それは、決して繊細なのではなく、砂を盛って出来た山のようにただ頼りない。強く弾こうものなら、一気に崩壊してしまうような錯覚に陥る。どんな和音を重ねても、不安定に設置された不規則な形状の造形物のように、危なっかしくて、タッチに自信を持てないのだ。
 そして、一番の欠点は「音の伸び」の欠如だ。細かく動くパッセージは、それなりに音の粒が揃い心地良く転がるが、ロングトーンは全て沈んでしまう。音に「詰まり」こそないものの、全く「伸び」もない。殊更、トロイメライのようなしっとりと歌う音楽には、全く不向きな調律と言えるだろう。

 ただ早く終わらせただけの調律……ピアノのポテンシャルを引き出そうともせず、保守を見越したコンディションを作るでもない。
 ユーザーへの満足の提供、教育ツールとしての適性、何より音楽的な表現力の保持。数時間の削減と引き換えに、それら全てを犠牲にする調律が、ここでは求められているということなのか?
 果たして、それは正しいことなのだろうか?
 ならば、調律師の存在意義を何処に見出せばいいのだろうか?

 本質的な疑問が芽生えた響だが、それでも今から一台終わらせないといけないという生々しい現実から、目を背けることは出来ない。モタモタしている猶予はない。三時半にはレッスンが始まるのだ。
 一方で、この程度の調律なら出来るかもしれない、と思い始めていた。
 少しでも良い音、しっかりと保持する為のチューニングハンマーの操作、適正なピッチ、バランスの取れた和声、丁寧なユニゾン……そういった仕上がりの精度は、全て無視していいのだ。少なくとも、梶山の実演では全く重視されていなかった。
 ただ、時間内に終わらすことだけを考えればいい。それなら出来るはず……そう信じて、隣室のピアノの外装を取り外しに掛かった。

 結論から言うと、調律はギリギリでレッスンに間に合った。いや、無理矢理「打ち切った」感じだ。致命的なミスは、三時半からレッスンが始まるということを、三時半に終わらせればいいと勘違いしていたことだ。
 ピアノの先生が三時過ぎに到着し、調律中と気付くと露骨に不機嫌な表情を浮かべた。
「あとどれぐらい掛かります?」と聞かれ、三時半には終わりますので、と答えると、先生の表情はみるみるうちに曇り出した。

「それは困りますわ。聞いていないのかしら? 三時半からレッスンが始まるので、二十分ぐらいには生徒さんが来ますの。グループレッスンなので、いつも席で待たせてるのでね、遅くても二十分ぐらいには終わって下さらないと……その、いつもの方……木村さん? 今日はいらしてないの?  梶山さんもいらっしゃらないのかしら?」
 遠回しに、何故木村じゃなくアンタが調律をやってるの? と言いたげだ。興和楽器において、ベテラン調律師のネームバリューは、想像以上に大きいのかもしれない。
「すみません、木村は多忙でして、今回は私、松本が担当させて頂くことになりました。三時二十分には必ず終わらせますので、ご安心ください」
 響は平静を装いながらそう伝えたものの、自分自身が一番安心出来ない状況だ。

 片付けの時間も含め、残された時間は十五分ぐらいしかない。調律の終盤になってからの十分短縮は、とてつもなく辛い。ただでさえ、理想を無視して限界ギリギリのスピードで行っており、何とか間に合うかも……と目星が付いたところだったのだ。なのに、ここにきてのゴール地点の変更、しかも、前倒しはかなり厳しい。
 それでも、何がなんでも終わらせないといけない現実は打ち消せない。それこそが、最低限クリアしないといけないミッションなのだ。レッスンを遅延させることだけは、何としても避けなければならない。残された工程から優先順位を瞬時に判断し、中音部のユニゾンを大急ぎで合わせた。
 小刻みな強打鍵を繰り返し、チューニングピンを強引に()じり、微妙な狂いは無視して次に進む。打鍵する左手の中指と薬指の関節が痛み、感覚が麻痺してきた。
 それでも、叩くペースも強さも維持し、いつもの倍以上のスピードで中音のユニゾンを合わせた。だが、十分以上は消費しただろう。響に出来る残された時短手段は、まだ調律をしていない高音には一切手を付けないでおくことだ。もう、それしかない。調律師として、こんな手抜きは気が引けるが、中途半端に触ると収拾がつかなくなる。
 躊躇し、思案を巡らせる間も、カウントダウンは止まらない。いよいよ残り三分を切った。もう、悩んでる時間もない。
 外装を取り付け、工具を片付ける時間もみておかなければ——。
 三分間で怪獣相手に死闘を繰り広げるウルトラマンを、響は心底尊敬した。あんなの、絶対に無理だ。三分なんて、瞬く間に過ぎてしまう。怪獣と違い、動くことも反撃してくることもなく、ただ腰を据えて鎮座しているだけのピアノを相手にしていても、三分では成す術もなかった。

 響は、時計を見ながら全体の発音をチェックし、特にズレの目立つ音を手当たり次第に合わせ直した。スペシウム光線なんて決定的な武器のない響にとって、これが精一杯の抵抗だ。冷静な判断なんて出来やしない。秩序も法則も見失った手直しは、とても合理的な手段とは言えないだろう。
 残り一分を切ったところで、大急ぎで外装を取り付け、工具をカバンに押し込み、部屋を飛び出した。何とか呼吸を整え、「お待たせいたしました」と強張った笑顔で先生に告げ、約束時間ギリギリで教室を開放した。
 間に合ったとは言えども、まだ怪獣は生きているかもしれない。確実に仕留めた実感なんて、全くないのだ。
 更に言えば、ペダルのチェックや最終の試弾さえしておらず、どのように仕上がったのか本人さえも分かっていない。決して良くはない出来映えには違いないが、その中でもランクはある。きっと、底辺に近い仕上がりだ。
 こんな調律だと、直ぐにクレームがくるかもしれない。不満に思われつつ、有耶無耶に乗り切れるかもしれない。意外と、普通に受け入れられるかもしれない。いや、そもそもが、誰もピアノのコンディションには関心がないかもしれない。何であれ、今更どうしようもないのだ。
 それより、鍵盤や外装の乾拭きも出来なかったことを心配するべきかもしれない。こういうところから、クレームは発生しやすいと聞いている。
 その上、記録カードの記入さえ忘れてしまった。カードの記入漏れは、ピアノのコンディションとは無関係だが、事務上の記録として後々問題になるかもしれない。閉館後に再訪するしかないだろう。今日もアルバイトは休まないと。
 片付けのチェックも不十分。細かい工具を、ピアノ内部に置き忘れた可能性もある。何かしら、致命的なミスを犯している可能性もある。

 今から出来ることは、ただレッスン中にバレないことを祈るだけ——。
 欠陥修理のまま引き渡すリフォーム業者って、毎日こんな思いを味わっているのだろうな……と嫌な汗をかきながら部屋を後にする。そう、結果が全て——梶山の言っていた意味が、ようやく本当に理解出来た気がした。
 後はもう、受け入れるしかないのだ。

(7)アキさん


 レッスン室の三十台の調律は、最初に抱いた期待とは裏腹に、とても過酷な業務となった。苦痛と言ってもいいほどに。それでも、何とか期限内には終えることが出来た。成果らしい成果はそれだけだ。
 いつしか調律師を目指すようになり、ようやく調律師になれた響にとって、初めて任された「調律師の仕事」なのに、あんなに嫌だった座学の方がマシと思えるぐらい、苦しく辛い仕事になったのは皮肉な話だ。

 それまでの響は、入社直後の座学研修に始まり、五月からは店舗スタッフとしての接客や事務ワークが主な仕事だった。調律以外のことなら、何でもやらされていた。座学で徹底的に叩き込まれた商品知識を武器に、どんな質問や要望にも澱みなく応えられるようになり、期待以上の販売実績も残していた。客観的に見ても、おそらく優秀な新人という評価は得ていただろう。
 他には、在庫管理も重要な任務だった。特に注意が必要だったのは、楽譜の仕入れだ。ヒット曲のピアノ版簡単アレンジ集などは、タイミングが合えば飛ぶように売れした反面、発注が数日遅れると出版元で在庫切れになり、ようやく店頭に並んだ時にはブームが過ぎているのだ。こうなると不良在庫にしかならず、フロアマネージャーに叱責されたものだ。
 その為、常に流行を知るように心掛け、各出版社と密な連絡を取り合える関係を築き、情報の収集に努めた。今ほどインターネットが普及していなかった時代なので、最新の情報は良好な人間関係から仕入れる方が確実だったのだ。
 様々なレッスン教材用の楽譜も、売れ筋の商品は常に最低三冊は棚に並んでいるように心掛けた。その他、アクセサリー類のディスプレイ、フロア全体のコーディネート、POPやプライスカードの作成、棚卸など、響の業務は多岐に渡り、多忙な毎日を過ごしていたのだ。
 そんなぎゅうぎゅう詰めの業務の合間に、レッスン室のピアノ三十台の調律を命じられたのだから、厳しい業務になることは分かりきっていた筈だ。それでも、ようやく調律が出来る喜びが何よりも勝り、またスキルを向上させる機会としてポジティブに受け止めたのだ。
 だが、実際に取り組んでみると、教室のピアノは、教材としてあまりにも不適当だったのだ。その上、精度を求めるのではなく、手早く済ます調律を強いられたのだ。終わらせることが最優先の調律。つまり、実施したという既成事実作成の為の調律だ。
 次第に技術者としてのやり甲斐と向上心を根こそぎ削がれ、ストレスと心身の疲弊、そして、言い知れぬ「虚しさ」だけが残された。

 スケジュール的にも過酷を極めた。梶山が実演した一台を含め、最初の二日で四台実施出来たが、順調に消化出来たのはここまでだったのだ。三日目からは店舗業務が多忙になり、教室の空き時間とのタイミングが噛み合わず、思うように調律の予定が組めなくなり焦り始めていた。
 更には、新商品の説明会でメーカーへ研修に行かされ、数日を棒に振った。期日まで残り二週間になった時点で、未調律ピアノが十六台も残っていた。それなのに、間も無く始まる夏休みに向け、サマーセールの準備にも取り掛かっていた。実質的に、もう全て終わらすことは不可能な所まで追い詰められたのだ。
 最後の手段として、社長直々に許可を取り、閉店後にサービス残業として調律を行わせてもらうことにした。月内に終わらせるには、そうするしかない。会社側は、最初からそれを狙っていたのかもしれない、ということに気付いた。
 必然的に、既に休みがちになっていたアルバイトは当面行けなくなり、アッサリとクビになった。折角身に付けた清掃業の技術も、もう活かすことはないだろう。それに、生活費の捻出も苦しくなる。
 何故、こんな生活を続けないといけないのか? そこまでして、調律師でありたいのか? ……響は、自身の存在価値を見失いそうになっていた。

 ◯市の外れに、興和楽器の喜多島センターという教室会場がある。ある日の閉館後に、響は調律を行いにやってきた。車を停め、関係者出入口の鍵を開けようとしていると、見知らぬ車が駐車場に入ってきた。不審者か? と警戒し身構えた響に、「よぉっ、レスラー!」と気安く声を掛けながら、意外な人物が車から出てきた。
「あれ? アキさん?」
 アキさんは、興和楽器に出入りする運送会社の作業員だ。皆がアキさんと呼ぶので響もそう呼んでいたが、本当の名前は実は知らない。響のことをよく揶揄い、可愛がってくれたのだが、この数週間全く見掛けなくなっていた。人伝に、退社したと聞いたのはつい先日のことだ。
「たまたま通り掛かったら、巨人が建物破壊しようとしてるから止めに来たんだ……お前、まさかこれからまだ仕事する気か?」
 呆れた顔で、響はそう聞かれた。やりたくてやってるわけじゃないし、本当なら副業で稼がないといけないのだ。
「仕事と言うか……僕も好き好んでやってるんじゃないですよ。って言うか、アキさん、運送屋辞めたんですか?」
「おぅ、辞めたぜ!」
「マジっすか? 最近会えないから淋しかったっすよ」
「お前はえぇ奴やなぁ」
 アキさんは、懐っこい笑顔で大袈裟に泣く演技をしている。
「それで、今は何やってるんですか?」
「丁度、開業したばかりでな、何かと忙しく動き回ってるところ」
「すげぇ。アキさん社長じゃないですか! どんな仕事ですか?」
「アホ! 一人でやってるのに、社長もクソもあるか! 恥ずかしいわ! ……まぁ、仕事はな、俺、運送業しか出来んからな、自販機とかコピー機とかレジとか、大型機械の運搬をやってんだ」
「アキさんらしいっすね。一人で運ぶの大変じゃないですか?」
「あんなもん、一人じゃ運べねぇよ。その都度バイトに手伝わすけどさ、主に夜間に動くからバイトの確保が大変なんだ……お前、やるか?」
 もちろん、冗談のつもりで投げ掛けた軽い言葉のつもりだろうが、響にとっては渡りに船だ。
「僕で良かったら……マジで使って欲しいです。実は、会社に内緒でバイトしてたんですけど、今月は忙しくてしばらく行けないって言ったら、即クビになって……会社にバレたらヤバイんですが、雇ってくれますか?」
 切実にそう訴えると、アキさんは少し狼狽した様子だ。
「お前、まさか借金じゃないだろうな? それならお断りだ」
「違います借金なんかしてませんよ! あのぉ、実は両親が離婚して、親父が実質無職みたいなもんなので、家のローンとか光熱費とか、僕が支払ってるんです。でも、興和楽器の給料だけじゃやっていけないので……離婚するまでは、全部母が払ってたんですけどね、愛想尽かして出て行ってから、僕が稼がないといけなくなったんで……お願いします。力仕事は得意なんで、手伝わせてください!」
 身上を正直に話すと、どうやらアキさんは同情してくれたのか、事務所の場所を教えてくれた。そして、明日から毎晩仕事帰りに来い、何時に来れるか毎日連絡しろ、来れない日、遅くなる日は七時までに教えてくれ、と言ってくれた。つまり、採用してくれるようだ。
 そして、アキさんに名刺をもらい、初めて本名が「榊昭人(さかきあきと)」であることを知った。これで家計は何とかなるかもしれない。その引き換えに、定時まで通常の業務をこなし、閉店後に一〜二台調律し、そこからアキさんの手伝いをする生活に肉体も精神も耐え抜かねばならないのだが。

 八月に入ると、教室の調律が無くなった分、少しは時間的にゆとりが出来た。意外なことに、レッスン室の調律では苦情らしき声は一切聞こえてこなかった。あんなに雑な仕事に終始したのに、それでもクレームは出ないものなのだ。こんなものでしょ、という諦めなのか、マシになっただけで良しとされるのか、そもそも関心すら持たれてないのか……クレームがない事実を前向きに受け止めることは容易だが、評価が正しく反映されたわけではないことは肝に銘じておくべきだろう。
 梶山とは、あれ以降殆んど接触がない。直接の上司なのでメールで逐一業務の報告はしているが、殆んど会社に顔を出さない梶山とは、元より会う機会も滅多にないのだ。

 しかし、お盆休みを終えた頃、唐突に梶山からメールが届いた。内容は簡潔だ。
「急で悪いが、明日午後一時、調律工具と外回り用の簡易掃除機を持って岩成中学校に来ること。西門右手の来客用駐車場で待つ。スーツ、ネクタイ着用、昼食は済ましておくように」
 店舗の先輩にそれとなく探りを入れてみると、つい先日、嘱託調律師が一人クビになったそうだ。どうやら、興和楽器の顧客を個人の客として調律し、売上を横領していたようだ。なので、梶山と彼が行く予定だった明日の学校調律に、急遽響が呼ばれたらしい。
 何であれ、響にとっては初めての外回り調律だ。レッスン室の仕事で、調律師であることの意義、調律師であり続けることの必要性に疑問を感じた響ではあるが、いざ外回り調律が出来るとなると、自然と期待も芽生えていた。やはり、この仕事を続けたい自分も確実に存在しているようだ。
 ただ、「梶山と一緒」に……というのが辛いところではある。かつては心底尊敬し、憧れた大先輩だが、その評価に疑いが芽生え、人間性にも疑問を持ち始めていた。
 それでも、実戦の経験は大切だろう。また一つ、ステップアップする為に前向きに取り組もうと気を引き締め直した。

(8)体育館のピアノ


 岩成中学校に時間通りに到着すると、梶山は既に車を降りて待っていた。「すみません」と言うより早く、1時って聞いて本当に1時に着いてどうするんだ? と皮肉られた。確かに、少しぐらい早く到着するべきだったかもしれない。一瞬ムカつきはしたものの、何気なく外回りのちょっとしたノウハウを教えてくれる梶山には感謝しないといけないだろう。
 確かに、響に対する言葉の選択や、コロコロと豹変する態度など、パワハラっぽい側面も否めない梶山だが、基本的には正しいことを言っている上司かもしれない。実際に、今度からは気を付けようと思うだけでも成長に繋がるのだ。

「木村のことは聞いたか?」
 歩きながら、梶山が話し掛けてきた。木村とは、例の横領が発覚した嘱託調律師だ。響は、何も知らない風に装うことにした。誰に聞いたんだ? と聞かれるのが面倒だったからだ。
「木村さんがどうかされたのですか?」と逆に質問を返すと、梶山は、「アイツとの嘱託契約は破棄した。要はクビだ」と吐き捨てた。予め聞いていたものの、知らないフリをした手前、それ以上聞くべきか悩んだ。とりあえず、驚く素振りを見せ、「そうなんですか……」と言葉尻を濁しておいた。そうすると、梶山が勝手に喋ってくれるかもしない……。
 案の定、梶山は響が聞きたかったことを話し始めた。
「アイツ、うちの客をコッソリ取ってたんだ。たまたまスリープを掘り起こしてたら、ある客がさ、毎年木村さんにやって貰ってますよって言うもんで、即アウト」

「スリープ」とは業界用語で「スリープカード」のことを言い、要はピアノを保有したまま調律をしなくなった客を意味する。調律する意志のない人に、毎年電話を掛けても迷惑でしかない。翻意を促し調律の実施に繋げるよりも、反感を買う可能性の方が高いと判断すると、スリープカードとして管理されるのだ。
 スリープの客には、数年に一度、気まぐれのように探りの電話を入れることになっている。このことを「掘り起こし」と言う。家庭環境の変化や子どもの結婚などで、再度ピアノの使用を検討している場合もあるし、その電話を機に、買取に繋がることもあるのだ。
 また、既にピアノを手放しているケースもある。その場合は、顧客リストからも完全に消去すべきなので、「掘り起こし」は顧客管理の整理という点でも役に立つのだ。
 もちろん、現状維持のケースが多いのだが、何らかの仕事に繋がる可能性がある掘り起こし作業は、調律師の重要なデスクワークに位置付けされている。

「でも、木村さん、何故スリープに入れたんでしょう? 絶対バレるじゃないですか」
 率直な疑問を梶山にぶつけると、お前、よく気付いたな、と具体的に話してくれた。
「アイツ、本当はスリープじゃなくて休眠にしてたんだ。カードにはハッキリと休眠って書いてたよ。でも、事務員が間違えて、スリープの棚に入れちゃってたみたいでな。俺も、普段は皆んなに、絶対に休眠には電話するな、と口煩く言ってるクセに、完全にスリープって思い込んでたからさ、よく見たら休眠って書いてるのに気付かずに電話しちゃったんだよ」
「なるほど……ってすごい悪質じゃないですか。木村さんってそんな人だったんですね。何か、すごいショックです」
 休眠とスリープなんて語学的には同じような意味だが、ピアノ業界では——いや、厳密には会社により多少の呼び方の違いは生じるが——もう一切調律をしない、若しくは、一切電話を掛けないで欲しい、という意思を明確に表明した顧客のことを休眠と呼んでいる。
 つまり、休眠はスリープよりも更に調律の実施から遠のいた顧客のことで、簡単に言えば、縁を切られた客と言えよう。そして、トラブル防止の為、休眠の客にはこちらからの電話掛けを禁止しているのだ。
 それでも、記録カードは保管しておく必要がある。実際、休眠の方から数年振りに連絡が入り、再び定期顧客になったケースもあるのだ。或いは、買取の査定を依頼されることもある。どちらの場合もカードが残っていると、機種や製造番号だけでなく、最後に実施した時期やメンテの内容も直ぐに把握出来るので、記録は保管しておくに越したことはない。
 ちなみに、顧客管理がデジタル化され、データ管理されるようになった現代でも、アナログの紙製の記録カードによる管理も、ほとんどの会社でデジタルと併用しながら継続されている。ちょっとしたメモ書きによる記録は、やはりデジタル管理だけでは不十分だし、そのメモ書きこそが重要になるケースが実に多いのだ。

 木村は、どうやら興和楽器の顧客を個人の客として調律を行い、売上げを全て横領していたのだ。しかも、カードは「休眠」として興和楽器に返却し、発覚しないように細工していた。明らかに意図的、且つ計画的な偽装工作だろう。
 たまたま事務員のミスで、スリープに紛れ込んでしまい露呈したが、実に巧妙な手口と言えよう。

「でも……それって、一件だけとは限りませんよね?」
「なかなか鋭いな。そうなんだ、他にもアイツのカードを徹底的に洗ってるところだ。既に、怪しいのがチラホラと出てきている。それに、備品販売も会社を通さずやってたらしい。乾燥剤も、やたら売上が悪いなと思ってたんだが、個人で仕入れて売ってたらしいな。社長もカンカンで、訴訟になるかもしれんぞ」
 そう言いながらも、梶山はどこか寂しげでもあった。木村は、元は梶山の部下として働いていたのだ。十年程前から本人の希望で嘱託契約になったものの、社員に近い感覚の人物だったし、梶山も信頼していたのだろう。
「嘱託であれ、フリーの調律師にはロクなヤツがいないな。アイツらは、仕事量が安定しないから、苦しくなって悪事に手を染めるんだろうな」
 悪いことに手を出せるなら、危機感を持ってるだけまだマシでしょうね……父宗佑のことを思い浮かべ、響はそう口に出し掛けた。そう、宗佑の一番ダメなところは、危機感の欠如だろう。
 法や道徳に反する行為は推奨出来ないが、何としても仕事を取ってやるという気概や意欲は見習うべきだ。少しでも宗佑にそういう強い意志があれば、仕事が好転したかもしれないし、離婚することもなかったかもしれない。
 しかし、その感情の起伏が平坦な宗佑も、梶山がフリーの調律師を軽蔑しているのと同じように、楽器店の社員調律師を毛嫌いしていた。確かに、この職業は社員かフリーかにより、仕事量や内容、仕事への取組み方、その形態まで、何もかもが全く違うベクトルを示すのだ。大切にするものと犠牲にするものが、時として相反するのだろう。
 宗佑は、頑なに技術に拘ったが故に、仕事量や収入は犠牲にする結果になっている。反対に、興和楽器のトップとして君臨する梶山も、ひょっとしたら仕事量や収入の安定と引換えに、多くのものを犠牲にしているのかもしれない。
 では、全てを望み通りに手に出来る調律師って、果たして存在するのだろうか?
 その場合、どういった形態で存在出来るのだろうか?
 響は、多少の妥協は伴ったとしても、その姿に近いものが見出せない限り、自身の将来も見えてこないだろうと薄々気付いていた。

「さてと、木村の話は終わりだ。今日は、木村がやる予定だった体育館のグランドをお前に任せる。先ずは、一緒に職員室に挨拶に行くから、姿勢良く横に立ってろ」
「はい、よろしくお願い致します」
 梶山は、何度もこの学校に来たことがあるようで、一直線に職員室へ向かった。来校者受付で挨拶を交わすと、音楽の先生と思しき女性教諭がやって来た。響は、つい母を……同じ音楽専科の教師をしている美和のことを思い出してしまった。ほんの一瞬だけ生まれた懐かしさや温もりの後に、嫌悪と憎悪の念が巨大な波のように押し寄せてくる。
「梶山さん、お久しぶりですねぇ。今日はご苦労さまです。もう一年経つのですねぇ、早いわねぇ」
 女性教諭は、定期調律の客がよく言う定例文のようなセリフを口にした。美和も、同じことをしているのだろうか?
「音楽室のはすっごく狂ってますので、よろしくお願いしますね」
「こちらこそ、今日はよろしくお願いします。綿矢先生、今日は新人を連れて来ましたので、体育館は彼にやらせて頂きますね。松本、綿矢先生だ」
 梶山にそう促され、響はピンと背筋を伸ばし自己紹介した。
「松本と申します。本日はよろしくお願い致します」
「松本さんね、綿矢です。よろしくお願いしますね。体育館は暑いけど、昼前に窓を全開にしておきましたから、多少は風が通ると思いますわ。あと、扇風機も出しておきましたので、宜しければ使ってくださいね」
 響がお礼を言おうとすると、遮るように梶山が話し出した。
「いやぁ、先生、お手数掛けちゃって申し訳ございませんね。ほら、松本、お前の為に準備してくれたってさ」
 どうやら、響と綿矢が直接話すことを避けたいようだ。わざわざ梶山が、緩衝材のように隙間に入り込んでくる。
「ありがとうございます」
 敢えて無駄な装飾を付けず、響は簡潔にお礼を述べた。
「じゃあ、体育館に案内してやるから付いて来い。あ、先生はこちらで大丈夫ですよ。場所は把握していますので」
「あら、そう? では、ここで一旦失礼しますね。では、終わったらまた職員室に鍵を持ってきて下さいね」
「承知しました。じゃ、行こうか」
 そう言って歩き始めた梶山の後ろを、響は黙って付いて歩いた。

 体育館に着くと、梶山は手慣れた様子で鍵を開け、備え付けのスリッパに履き替えた。そして、マニュアル化されているかのような無駄のない動きで、入り口横のパネルを開き、照明を点けた。
 どこの体育館もそうだが、舞台は入り口から一番遠い対面にある。思ったより涼しい体育館を、慣れないスリッパで梶山と無言で歩いた。舞台袖には、古い大きなグランドピアノが鎮座していた。遠目に見ても外装は傷だらけで、塗料も艶消し仕様のように(くす)んでいた。外見が内面を表すのなら、きっと状態は良くないのだろう。

「この学校はな、グランドが三台ある。ここと音楽室と、音楽準備室だ。入札なんで単価はしれてるが、もう十年ぐらい木村と二人で来てたんだ」
 梶山は、どうでもいい説明を始めた。いつもそうだが、この上司は時折必要のない話に逸れることがある。自己顕示欲か承認欲求が強いのだろう……と響は評価をしている。
「体育館は、ずっと木村に任せてたので、俺は状態を知らないんだ」そう言いながら、梶山は軽くピアノを試弾した。
「おっと、すごいスティックだな……松本、センターピン交換は出来るよな?」

 ピアノは、鍵盤から得たエネルギーが内部の打弦機構を通じハンマーへと伝達され、そのハンマーが弦を叩くことにより発音する楽器だ。この打弦機構(アクションと呼ぶ)は、たくさんの部品から構成される集合体となっている。この中の可動部品は全て回転運動を行い、それらが連動することによりエネルギーは伝達されていく。
 この回転運動の軸になる部品がセンターピンだが、このセンターピンを咥えている羊毛素材のブッシングクロスが膨張すると、回転運動が鈍くなり、正常に動かなくなるのだ。その場合、タッチが重く反応も鈍くなり、酷い場合は発音不良や止音不良を引き起こす。そうなった場合は、一般的にはセンターピンを交換することにより、改善をはかるのだ。
 そして、このセンターピンの交換作業は、調律師にとっては最も初歩的な修理でもあり、調律学校でも一番最初に習う修理である。しかも、響に至っては、小学生高学年の頃にはマスターしていた技術だ。もちろん、梶山には言えないが。

「はい、大丈夫です。工具もピンも持ってます……が、全部替えるのですか?」
「まさか! 全部で350本あるんだぞ。俺がやっても三時間は掛かる。それに、そんなに沢山持ち歩いてるヤツはいねぇよ。音が出ないような致命傷のヤツだけ替えればいい。ちょっとぐらいのスティックは無視だ」
「連打に支障は出ませんか?」
「出るよ、もちろん。でも、このまま使っていたんだ。それで問題になってないんだから、無理に直すこともない。今よりマシになればいいんだ。ちなみに、グランドピアノは1秒に何回連打出来るか知ってるか?」
 これは、学校の授業で、アップライトピアノとの比較数値として覚えさせられた。確か、アップライトピアノが7〜8回、グランドピアノは……
「12回でしょうか?」
「機能上の数値としては正解。じゃあ、実際に、1秒に12回の連打が出来る人ってどれぐらいいると思う? そんなのはな、一流のピアニストぐらいだぜ。ちょっと上手い人でも、せいぜい十回が限界だろうな。こんなピアノは、アップライト並で十分だ。誰も困らない。その程度動けば良しとしろ」
「分かりました」

 全く同意出来ない考えだが、ここで梶山と言い争うつもりもない。梶山は、少しでも自分を否定されると、瞬間湯沸かし器のように怒りが沸点に達する。そのことは、レッスン室の調律の際に痛いほど経験し、学習していた。
 それに、梶山によるこの指示は、予め予想していたことだ。実は、昨夜、宗佑に学校の調律をやることになった話をした。すると、「どうせ体育館のグランドだ。スティックだらけだが、直すなって言われるぞ」と父は言ったのだ。見事に予想的中だ。

「調律も、先月の教室と同じような出来で良い。ただ、掃除は念入りにやってくれ。特に、外装は見た目で分かってしまう。こんな状態でも、水拭きとワックス掛けはしっかりやるように。分かったか?」
「はい……でも、綺麗にしても、こんな所に置いてたらすぐ汚されますよね。いえ、勿論ちゃんとやりますけど、何か切ないですよね」
「まぁ、気持ちは分かる。でも、あまりデカい声で言えないことだけどな……特別に教えてやるけど、ここだけの話だぞ。学校に限らず一般家庭でも、汚いピアノを見たらチャンスだと思え。ピカピカのピアノはな、ちょっと指紋を残してしまっただけでクレームになるんだ。でも、こういうピアノはな、適当に綺麗にするだけで喜ばれるし、それだけで、調律師としての信頼にも繋がるんだ。手抜きするヤツも多いけど、俺は逆にラッキーと思ってる」
 響は、黙って頷いた。下手に口を出すと、また機嫌を損ね兼ねない。それに、腑に落ちない部分もあるとは言え、梶山の話も間違ってはいない。
 残念ながら一般のユーザーにとっては、いくら音やタッチを改善しても伝わらないこともある。それよりも、外装が綺麗になると誰でも分かる上、喜ばれる確率も高いのだ。

(9)ピアノのカルテ


「終わったらどうしましょうか?」
「そうだな、窓を全部閉めて照明を落とし、ドアの鍵を掛けて音楽室に来てもらおうか。扇風機は、コンセントを抜いてコードだけまとめといてくれ。音楽室は、さっきの職員室の校舎の四階の端っこだ。来れば分かる……しかしさ、学校の音楽室って、何故最上階の角部屋って決まってるんだろうな。この歳になるとな、四階まで階段で上がるのも足腰にくるのに、道具を運び込むにはちょっと辛いんだ」
 梶山にしては珍しく、冗談めかした軽口を叩いた。興和楽器では、学校調律の際は、通常の工具以外に携帯用の掃除機を持ち込むことになっている。そのことを、軽くとは言え自虐ネタにしてくるなんて、全くもって梶山らしくない。ひょっとしたら、機嫌が良いのかもしれない。

「そう言われてみると、僕が通ってた学校も全部最上階の角部屋でした」
「ほとんどの公立学校は、そうみたいだな。音対策だとしたら、逆の方が良いのに、まぁ、役所仕事の思い込みなんだろうな」
「逆ってどういうことですか?」
「音は、基本的には上から下に流れるからさ、俺に言わせれば、音楽室は高い所より低い所にある方が周りの教室や周囲の住民の迷惑にならない筈なんだよ。それに、楽器の搬入も一階の方が安く済むのにな。なのに、間違った思い込みで、高い階の角に押しやられて、俺たちが苦労する羽目になってるんだ」
「そうなんですね……」
「ま、そんなことはどうでもいいか。そろそろ仕事に取り掛からないとな」
「やっぱり、調律は一時間を目安でやらないとダメですか?」
 梶山の機嫌が良いことを予想して、恐る恐る聞いてみた。
「バカ、外の仕事ではそれなりに時間を掛けるんだ。手抜きと思われるだろ。でも、時間を掛け過ぎてもサボってると勘違いされるんだ。二時間ぐらいが丁度いい。調律に二時間って意味じゃないぞ。外装磨きと掃除を念入りにやってくれ。それと、仕事中は上着は脱いでいいぞ。ネクタイも外せ。その方が、一生懸命やってるように見えるんだ」
 こういう話を聞いていると、やっぱり梶山は調律の質や仕上りよりも、見た目やポーズといった営業スキルを重視しているんだな……と再確認出来た。
 経験豊富で顧客からの信頼も厚い梶山は、おそらくは宗佑の言う通り、技術レベルも相当高いに違いない。本能的には、もっとスキルを活かし、目の前のピアノを少しでも良くしたい願望もある筈だ。
 しかし、その欲望を封印し、調律師として生き抜く知恵の結晶として出来上がったスタイルが、今のやり方なのだろう。果たして、それは梶山の望んだ調律師の姿なのだろうか……その辺は疑問だと思った。少なくとも、最初からそれを望んで調律師を志す人は、ほぼいないだろう。
 理想と現実。希望と実務。ひょっとしたら、梶山は相反する狭間で生きているのかもしれない。だとすれば、正社員の地位にしがみつき、安定を選択したことと引き換えに、失ったものも沢山あるに違いない。
 ほんの少しだけ、響は梶山に同情した。

「あ、お前外回り初めてだよな? 終わったら、調律カードにちゃんと記入しておけよ。書き方は履歴に倣えばいい。見れば分かる」
 そう言い残し、梶山は音楽室へ向かった。一人残された響は、仕事に取り掛かる前に、まずはオーソドックスな手順に則り試弾してみることにした。
 ピアノは、KAYAMA製の2mを超える大型のグランドピアノだ。機種を確認すると、スペックが頭に蘇る。四月の座学のおかげだ。確か、この機種は三十五年程前に発売され、二十五年ぐらい前まで作られていたはず。響の私見に照らし合わせても、製造から三十年以上は経っているように見える。製造番号から製造年を正確に割り出す表も持ち歩いているが、そこまで調べる必要性も感じない。多少の誤差があったところで、まだまだ使用可能なピアノには違いない。だが、学校の体育館という特殊な環境に晒されたピアノは、中も外も激しく傷んでおり、とても現役で使用されているとは思えないような風貌だった。
 とりあえず、半音階で全鍵鳴らしてみた。タッチは、重いというより硬い感じだ。しかも、不揃いな為、粒を揃えた演奏は求めてはいけない状態だ。強弱のコントロールは諦めるしかない。特に、ピアニッシモは無いものと考えるべきだろう。もちろん、高速の連打やトリルも不可能だ。
 続いて、調律の検査音程と呼ばれている様々な和音を鳴らしてみるが、音に関しては意外と狂っていないことが確認できる。褒められた場所ではないとは言え、何十年も同じ環境にて調律を繰り返した為、張力バランスだけは安定しているのだろう。

 屋根を開き、外装を外した響は、内部のポケットに収められている調律カードを取り出し、メンテナンスの履歴を見た。すると、このピアノは29年前に納品されたことが分かった。響の大凡の予想は、ほぼ正解だった。だからと言って、何もご褒美なんてないし、もし梶山に言っても、それぐらい分かって当たり前だ! と一蹴されるだけだろう。
 再び、調律カードに目を通す。日本の調律業界では、メンテナンスを実施した調律師はハガキサイズの調律カードと呼ばれる紙に、実施日と作業内容、そして担当者のサインを記入し、ピアノ内部に保管しておくしきたりがある。そのカードの記録によると、このピアノは毎年夏休み期間中に調律を重ねてきたようだ。
 ここ七年は、毎回木村のサインが手書きで書かれてある。その前は、六年続けて梶山のシャチハタが押してあった。サインが手書きじゃない調律師は、梶山だけのようだ。梶山は、十年ぐらい通ってるようなことを言っていたが、実際は十四年目ということだろう。それ以前は、毎年のように担当者が変わっていたようだ。知らない名前も多いし、興和楽器の嘱託調律師の名前もある。S.Kというイニシャルだけの人もいれば、乱筆で読めない字の人もいる。
 響は、じっくりと調律カードを見ていた。すると、丁度二十年前の欄に全く予期せぬ名前に出くわした。まさか? とは思ったものの、フルネームでサインしてあったので、まず本人に間違いないだろう。
(そうだったんだ、アキさんって元は調律師だったんだ……)
「榊昭人」と丁寧な字でサインされているのを見て、響は心底驚いた。

 そして、ずっと興和楽器でメンテされているピアノだと思っていたが、どうもそれも違っていたことが判明した。
 調律カードは患者のカルテ……とよく言われるのだが、これは単なる比喩ではなく、まさにその通りの役割を果たしている。そのカルテによると、このピアノを納品した業者は、「愛楽堂」という聞いたことのない楽器店だ。納入調律から最初の数年は、同じ調律師が担当していたらしい。残念ながら、これまた読めないサインが書かれている。アルファベットの筆記体を崩したサインで、頭文字すら読み取れない。NかMかWっぽいのだが、その先は全く分からない。
 しかし、その調律師は毎回様々な調整を試みていたようで、詳細な記録を記していた。他の調律師は、A=441Hzと書いているだけ(それすら書いてない人もいる)だが、この調律師だけは毎回のように作業内容を書き込んでいたのだ。

「打弦距離47で揃える」、「高音レットオフ1.5mmに」、「ダンパー総上げ、Wダンパーをカット」、「働き微調整、黒鍵あがき」、「スプリング(弱→強くした)」、「鍵盤フロント調整」、「Bホール(スティック)」、「ならし/あがき(微調整)」、「バックチェック調整(くわえ角度修正)」……など、整調の行程名と詳細を細かく書いてあった。楽器店勤務の調律師で、しかも入札制度の学校調律で、これほど丁寧な作業をする人は珍しい。いや、それを許容する楽器店が珍しいと言えるだろう。もしかすると、この楽器店なら響が漠然と望んでいるような「調律師の形」が見出せるのでは? と希望を見出せる気もした。
 愛楽堂とは、どんな店だろうか? 梶山に後で聞いてみよう……響は、湧き上がった興味に一度蓋をして、調律に手をつけ始めた。

 梶山に言われた通り、上着を脱ぎネクタイを外すと、スッと身体が楽になるのが分かった。快適とまではいかないが、八月下旬とは思えない程度には涼しく感じる。それほどピアノに不適合な環境には感じないが、今この瞬間を切り取っただけでは設置環境の判断は難しい。
 実際の所、さほど狂ってないはずの調律は、予想以上に難航した。アクションの動きが鈍く、細かい連打に反応しないキーもあり、何本かはセンターピン交換も行った。それでも、音色もバラバラなので、思うようなペースで進行出来なかったのだ。やはり、環境に起因するトラブルを、多々抱えているのだろう。
 また、チューニングピンの感触に粘るような嫌なクセがあり、響の技量では調律の作業そのものに難儀してしまう。結局、適当に終わらすつもりの調律が、九十分以上も掛かってしまった上に、大して出来も良くはない。
 ただ、ポジティブに捉えるなら、自身最高の調律からは程遠くても、何とか時間内に終わらせることは出来そうだ。適度に手抜きしつつ、それなりにはまとめた。
 本当なら、ここからタッチの改善の為の修理や調整も行いたいし、音色も綺麗に揃えてみたい。しかし、響の今の力量では、理想を語る前に調律だけで精一杯だと認めるしかない。梶山の言う通り、これは練習ではなく仕事なのだ。
 そこから、響は大急ぎでフレームや棚板の掃除を始めた。そして、外装を徹底的に水拭きし、ワックスを塗り込むと、ボロボロなりに明らかにサッパリと綺麗になった感じになる。なるほど、これなら見た目だけで喜ばれるというのも分かる気がする。
 といっても、このピアノが持つ本質の部分は、多少音合わせが揃ったぐらいで何も変わっていない。でも、ぱっと見がこれ程変わると、仕事は評価されるのだろう。逆に言えば、調律師の評価なんてその程度の基準で測られるのだ。調律師は、よく医者に喩えられるのだが、美容師の方が適している気がしてきた。

 カードに記入し、外装を取り付けると、館内全部の窓を閉め施錠した。律儀に二階通路の窓まで開けてくれていたので、舞台裏から階段を上がって閉めに行かねばならなかった。それからピアノに戻るとカバーを掛け、工具を片付けてネクタイを締め直すと、急に身体が汗ばんできた。窓を閉め切ると、ものの数分で蒸し風呂状態になるようだ。なるほど、これだとピアノに良いはずはない。アクションがスティックするのも当然だ。
 梶山の見よう見真似で出入り口横のパネルを開き、照明を落とした。そして、スリッパを所定の場所に戻し、梶山が作業している音楽室へと向かうことにした。響の胸中には、期待と緊張と嫌気が混在していた。

(10)社員、嘱託、自営

 響が音楽室に到着した時、梶山は、既に準備室のピアノを終え、丁度隣の音楽室へ入ろうとしていたところだった。
「おぅ、意外と早く終わったな」
 響の姿を見るなり、梶山はそう話しかけて来た。
「二時間ぐらいでやれって言ったけど、どうせ三時間近く掛かるんじゃないかって思ってたんだ。疑ってすまんな、上出来じゃないか」
 やはり、今日の梶山は不思議と上機嫌のようだ。木村の件があったばかりなので、ギスギスと苛ついていてもおかしくないはずなのに、むしろ、ホロ酔いしているかのように浮かれているようにも見受けられる。寝不足な日に、妙にハイテンションになるような感じなのかもしれない。
 ある意味、話が出来るチャンスかもしれない。響も懐っこく返答してみることにした。
「ありがとうございます。せめて、梶山さんの二台分よりは早く終わらせないと、と思って、気合い入れてやりました! あと、最初に具体的なご指示を頂けましたので、迷わずに取り組めました」
「まぁ、厳しいこと言えば、調律師でメシ食ってくのなら、それぐらい出来て当たり前だがな、初めての外回りにしては合格だ。体育館の鍵、そこに置いといてくれ。あとは、職員室には寄らなくていいから、そのまま帰っていいぞ。ご苦労さん」
 しかし、響はまだ帰りたくはなかった。帰社したところで、急を要する仕事もない。どうせなら、梶山の仕事を見学したかったし、色々と聞きたいこともあったのだ。
「あのぉ……すみません、折角ご一緒出来たのに、このまま帰りたくありません。梶山さんも、三時間掛かると想定されていたのですよね? なので、一時間で構いませんので、見学させて下さい!」
 一か八か、そう直訴してみたが、梶山は渋い表情を浮かべた。
「お前さ、熱心なのは良いけど、仕事をサボることと混同してはダメだぞ」
「分かっています。でも、今からショップに戻っても、急ぎの仕事はありません。バイトも二名入っていますし、むしろ、何もしないのに店にいる方が仕事をサボってるようなものです。それよりは、ここで何かしら学ぶ方が有益ではないでしょうか? お願いします!」
 すると、梶山は苦笑いを浮かべ、「少しだけだぞ」と渋々許可してくれた。おそらく、響の熱意に打たれたのではなく、慕って貰える優越感を満たしたいのだ。

「と言ってもな、ちょっと三十分ぐらい休憩するつもりだったんだ。木村のことで色々調べないといけないことがあって、昨日はほとんど寝てないんだよ。疲れててな。雑談だけなら応じよう」
 色々(ヽヽ)とは、おそらく顧客リストの洗い直しや帳簿のチェックだろう。不正が発覚したのは偶然だが、その裏付けの調査はやらないわけにはいかないし、生産性のない骨を折る作業に違いない。
 実際のところ、梶山自身がどこまで手を出しているのかは分からない。おそらく、大半は事務員に指示を出し、報告を受けるだけだろうが、そうだとしてもその心労は察するに余りある。
「そもそも、木村さん……に限らずですけど、何故嘱託になるんですか? 会社が嘱託にさせるのですか?」
 これは、社会人一年目の素朴な疑問だ。
 一方で、響は「何故社員を続けるのか?」ということも聞きたかったのだ。それぞれのメリットとデメリットは、真逆のベクトルを示すのだろう。なのに、殆んどの調律師が嘱託や独立を希望する。しかも、その大半は、父宗佑もそうなのだが、失敗に終わるらしい。
 そこまで分かっている筈なのに、少なくとも木村は嘱託を選択し失敗した。リスクを犯してまで嘱託になろうと思う動機があるのか、或いは、社員を続けるぐらいなら……と考える程、社員調律師には魅力がないのだろうか。その辺りのナイーブなバランスを、響は純粋に知りたかったのだ。

「際どい質問だな。その内分かるようになる……ってのは、卑怯な回答かな?」
「いえ、仰る通りだと思いますが、分かるようになる前に知っておいた方が……なので、差し支えなければお聞かせ頂ければ……と思っただけです」
「ははは、お前は素直だな。あのさ、興和楽器の定期調律代って幾らか知ってるだろ?」
「はい。税別でUPが¥13,000、GPが¥15,000です」
「俺が月に何台やってるか知ってるか? 少なくても五十台、多い月は、備品を入れて百台近くになる。でもな、何台やっても給料は一緒なんだ。それに、調律だけじゃない。ピアノとか付属品の販売もしてるよ。でも、何をどれだけ売ろうが給料は固定。それが面白くないヤツもいるってことさ」
 いつになく饒舌な梶山は、具体的な話をしてくれた。
「面白くないって、不満ってことですか?」
「そりゃそうだろ? 個人でやってたら、五十台やれば、ざっと七十万、そのまま自分のものだろ? まぁ、そこまで顧客持ってる自営調律師はそういないけどな。だから、楽器店の嘱託調律師になりたがるんだ。嘱託は完全な自営ではないけど、興和楽器の場合は65%で卸してるから、五十台やれば四十万円以上の収入になる。その合間に取り分が百パーの自分の客も増やせるかもしれないし、もし誰かにピアノを売れば、利益がそのまま懐に入るしな。何より、やった分だけ収入になるってことに魅力を感じるんじゃないかな」
 しかし、響は父がフリーの調律師だからだろうか、そこにはたくさんの落とし穴があることに気付いていた。おそらく、その穴に気付き、埋める自信のない人は、社員を続けるのかもしれない。

「でも、嘱託やフリーだと、ボーナスなんてないし、保険や年金も自分持ちですよね? 車もガソリン代も、電話代も、全てそうですよね? 事務処理とか顧客管理も自分でやらないといけないし、フリーならまだしも、嘱託で五十台やって四十万入ってきても、出て行く経費も大きいですよね?」
 そう伝えると、梶山は驚いたような表情を浮かべ、響を見つめ頷いた。少しの戸惑いを隠そうともしない。若いというだけで、圧倒的に見下していたのだろうか。若干、響に対し、畏怖の念さえ抱いているように見受けられる。
 そんな上司に、響は更に質問を被せた。
「当たり前ですけど、会社も嘱託より正社員を大事にしますよね。新規の客を嘱託に回すなんてことはないでしょうし、嘱託に割り当てるカードなんて、年々減るだけじゃないでしょうか?」
「松本……逆に、お前は何故そんなことまで分かってるんだ? 最近の調律学校は、そんなことまで教えるのか?」
「いえ、学校じゃそんなこと習わないっす。梶山さんは、全てを見越した上で、社員を続けられたってことでしょうか?」
 今度は、ストレートにぶつけてみた。すると、梶山はあっさりと認めた。
「随分前に、会社から打診はあったよ。頑張れば、毎月優に五十、六十は稼げるぞ、って飴ぶら下げてな。会社にとっては、嘱託にした方が利点も大きいからさ」
「でも、断られたのですね?」
「まぁな」
「その理由はお聞きしても……」
「それが聞きたいんだろ? あくまで俺の考えだけど、雇われる側から見たら、嘱託には殆んどメリットがないように思えたんだ。主な理由は、今お前が言った通りだが、他にもある。例えばメーカーへの技術研修。俺は何度か会社の金で行かせて貰って最高グレードまで取得したけど、これも社員だからこそだ。もっとも、研修ぐらいは嘱託でも受けさせてもらえるけど、実際に行くヤツはなかなかいない。どうしてか分かるか?」
「いえ、分かりません。嘱託でも行けるのなら、行くべきと思うのですけど……」
 そう答えると、梶山はうっすらと冷笑したように見えた。
「研修を受けるチャンスがあれば、絶対に行くべきだろうな。でも、もし嘱託が研修に行きたいと言っても、会社は手配はしてくれるだろうけど、正社員じゃないヤツの為に研修費なんて出すわけないだろ? だから、受講料も滞在費も全て自腹になる上に、2〜3週間の研修期間中は無収入になるんだ」
「それは、キツイですね……」
「あとは、社員と嘱託だと住宅ローンも違うな。嘱託やフリーの調律師だと、そう簡単には住宅ローンなんて組めないんだ。でも、俺は三十過ぎには難なく組めた。大手の正社員ってだけで、社会的な信用に繋がるんだ。木村なんて、もう四十近くにもなって奥さんも子どももいるのに、今でも安アパート暮らしだし、車も買い換える度にグレードダウンしてるぜ」
 梶山は、木村の話になると、今度ははっきりと冷笑を浮かべた。でも、心なし、少し寂しそうにも見えた。

「木村さん、そんなに仕事がなかったのですか?」
「さあな。でも、うちからは毎月三十件ぐらいは卸してるはずだ。個人で取る仕事がどれぐらいあるのかは知らないよ。でも……もう十年ぐらい前だったかな、アイツが嘱託になった頃は、興和楽器からだけで六十件あったんだ。その頃は俺の倍近く稼いでてな、同じ現場に行った時に昼メシ一緒に食ってたら、先輩、たまには奢りますよ〜って言われたこともあったぐらいだ。でも、続かなかったんだろうな。嘱託でUPを一台やって、興和楽器に納める分は4500円ぐらいだ。たったそれだけの為に不正を犯してたんだから、余程苦しかったんじゃないかな」
 そこまで一気に語ると、梶山は考え込むように黙り込んでしまった。
 響は、まだ聞きたいことがあった。社員を続けることのデメリットだ。しかし、それは質問というよりも確認に近かった。つまり、おそらくそうだろうという予想は、響なりに出来ていたのだ。

 梶山が黙り込んでしまったので、響は意図的に話題を変えてみた。
「あ、そうだ、愛楽堂って何処の楽器店なんですか?」
 すると、梶山は少し微笑み、教えてくれた。
「そうか、カード見たんだな。愛楽堂はもうないよ。この間一緒に調律した三原池センター、あそこがな、元は愛楽堂だったんだ。小さな楽器店だけど、一応KAYAMAの特約店で、うちとも友好関係にあった店だ。でも、二十年ぐらい前かな、経営が苦しくなって興和楽器が買収したんだよ。三年前までは、興和楽器三原池店としてショップも残ってたけどな、改装してショップをやめて、レッスン会場になったんだ」
「聞いたことないと思ったら、そういうことだったんですね……どうして経営難になったのですか?」
「あそこは、業界の時代の変化に、上手く対応出来なかったんだよ。いつまでも昔気質のまま、クソ真面目な仕事をしててな。そう言えば、嘱託の菊池さんはな、愛楽の調律師だった方だ」
「菊池さん? そんな方いましたっけ?」
「あぁ、そうだった、そのぉ、篠原さんのことだ。彼女俺の一つ先輩でな、調律学校時代からよく知っててずっと旧姓で呼んでたから、結婚されてからも呼ぶ時はそのままなんだ」
「そういうことですか……って、篠原さん、梶山さんより歳上だったんですね……あ、そうだ、アキさんも調律師だったんですね?」
「アキさんって、榊か? そうそう、アイツは興和楽器の調律師だったんだ。木村と同期じゃないかな。確か、愛楽堂を買収する前年ぐらいに入社したんだ思う。榊は、当時の社長に可愛がられててな、まぁ、アイツって人懐っこくて可愛げあるだろ? だから、一年目から外回りさせて貰えてて、結構優遇されてたんだ。アイツは博識で頭も切れるし、技術的にも人間的にも、木村なんかよりずっと将来性もあったのに、二年ぐらいで突然辞めて、で、何故か運送屋に入って……最近、運送屋も辞めたらしいな。そうか、二人ともいなくなったわけか……」
 最後は独り言のように、遠くを見るような目で寂しげに呟いていた。
 響との会話は、梶山にとっては無意識のうちに自身の調律師人生を振り返る機会になったのだろう。それは、たくさんの犠牲の元に成立した、ベテランの社員調律師という立場を、そして、そこに至るまでに経た過去の選択を、ようやく肯定出来た瞬間だったのかもしれない。

「おっと、もうこんな時間だぜ。悪い、仕事はまた今度見せてやる。ちょっと休み過ぎたな。サボるなと言いながら、俺がサボってたらダメだな。やることなくてもショップに戻れ。俺が怒られちゃう。お疲れさん」
 響は、今度は素直に従った。でも、作業は見学出来なかったが、収穫はあった。それに、技術を盗むなら、宗佑からの方が得るものが多いことは確かだ。おそらくこの現場では、梶山は技術水準の高い仕事はしないだろう。それぐらいは、容易に想像出来る。だからこそ、梶山からは知識や作法や業界のしきたりなどを吸収すればいい。

 そういう観点では、梶山は宗佑とは比にならないぐらい、優れた教材と見なすことが出来る。逆に言えば、宗佑の言う通り、やはり梶山は技術以外に長けた調律師なのだ。

羊の瞞し 第3章 REALISTICな羊

羊の瞞し 第3章 REALISTICな羊

  • 小説
  • 中編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-02-06

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  1. (1)羊は歩き出す
  2. (2)初めての実践
  3. (3)羊の親分
  4. (4)備品調律
  5. (5)Träumerei
  6. (6)ウルトラマンにはなれなかった
  7. (7)アキさん
  8. (8)体育館のピアノ
  9. (9)ピアノのカルテ
  10. (10)社員、嘱託、自営