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 3月、少しだけ温かみを含んだ潮風が私の頬を掠めていく。磯の匂いが鼻腔を刺激し、私はちょっとだけ顔を歪めた。正直言うと、あまりこの匂いが好きでは無い。この匂いは嗅覚の一種のイメージとなって、容赦無く記憶の奥底の扉を叩く。私が、無理矢理に私の脳の奥底に閉じ込めた記憶は、私が思うよりもでしゃばりらしい。ノックの音に誘われた私の記憶は、その、私が閉じ込めている扉から、強引に漏れ出し、私の正常意識を侵していく。私がそれを閉じ込めようとするには、まあそれなりの理由があるわけで、そう言った理由で、私はあまりいい気がしない。
 手に持った花束に少しだけ気を遣いながら、その辺りのフェンスに腰をかける。ふう、と一息をついてみる。なんだか、先程から私の中に、潮風と一緒に、不可視の、それでいて黒い靄(もや)のかかった何かが溜まっていくようで、私は気が気でない。この黒い靄が何なのか、はっきりと言語化するのは難しい。しかしながら、これで私が満たされた時私に何が起こるのか、いやおそらく、私は正気でないのだろう。そんなことを考えつつ、私の細胞の中の靄を吐き出さんとし、私は深く息を吐き出した。しかし、肺に溜まっていた若干量の二酸化炭素が排出されるだけで、私の体は依然として靄を蓄積させたままである。
 どうしてこんなことになったのか。語るには、まずは一昨年の話からしなくてはならない。語るのもためらわれるほど長い話になる。が、私に関しては今現在、ため息のように深く息を吐き出す他にすることがない。ので、少々お付き合い頂ければと思う。

   ◇◇◇

 去年の春先のことだった。大学受験が一息ついた私は、祖父母の墓参りに母の実家まで一人で来ていた。両親のいない遠出は久しぶりで、やけにうきうきとしていたのを覚えている。私は宿泊先のホテルに荷物を置き、祖父母の墓に手を合わせると、そのまま近くの海辺をぶらぶらとしていた。あてもない旅だったが、そことなく歩いていくのは楽しかった。岸壁で釣りをする人を眺めたり、遠くの方で網を手繰っている漁師を眺めたり、水平線へと飛んでいく海鳥を眺めたり。何か特別がある浜ではなかったが、海辺の日常というのが私にとって、とても新鮮で鮮烈だった。昼食を食べ終わった頃には、時刻は二時半を回った。ちょうど空腹も満たされて、全身を睡魔が循環し始めた頃のことである。

 ―――2011年3月11日 午後2時46分。

 その瞬間を最初に伝えたのは、人間の文明の利器だった。最先端のテクノロジーが詰まった、電波を授受する箱が、その瞬間の到来を告げる。突如、携帯の、聞いたこともないようなけたたましい音が、私の神経を逆撫でした。無機物から垂れ流される出処のしれない恐怖と不安のために、私は嫌な汗を流す。本能が警鐘を鳴らす。これはやばいぞ――と。そして。
 地面があり得ない方向に傾いた。私はバランスを保てず、膝を折り曲げた。ぐおん、ぐおんと、足元が大きく縦に揺れる。それに合わせようと私の膝はかくんかくんと揺れるが、もう立つことさえままならない。この瞬間、太平洋沖130km、深さ24kmで生まれた、歪みという形のエネルギーが、ここら一体の地域に渡るまでを揺らした。私は地面に跪き、そのエネルギーが収束に至るのをじっと待った。依然として、ポケットの中の白い箱は警告音を叫び続けている。じとっと、嫌な汗が流れてきたのを自覚する。何か、自分の体験したことのないことが、今現在ここで起こっているという感覚が、私に多大な緊張と、少しばかりの高揚をもたらした。
 それからの出来事は、ある一つのことを除いてあまり鮮明に覚えているわけではない。突然の異常事態に興奮した私の脳は、全身の血流を強烈に循環させ、脈拍を高鳴らせた。私はどこか、自分が自分でないような、自分ではない誰かが私の目を通して物事を見ているような、そういった妙な感覚に襲われた。目の前の景色が、白い霞のフレームにかたどられているような、現実味のない感覚のまま、私は動いていたのだ。そのため、今からの話は少々曖昧である。
 沿岸にいた私は、地元住民が避難するのに従って小高い丘に登った。そしてそこから海岸線を眺めていた。あたりには老若男女問わず、様々な人が、心配そうな目で遠くを凝視している。消防車が大きな音で、津波警報の発令を告げながら街中を駆け回っていた。
 あっ。そう口にしたのが誰だったのか、あまりはっきりとはしない。もしかしたら隣にいたご老人かもしれないし、私かもしれない。もしくはそこにいた全員が、異口同音に発したのかもしれない。それくらい、同時多発的に、皆があることに気づいた。
 遠くの水平線がモコっとゆがんだ。かと思うと、モコ、モコ、モコ、とそれに連なって隣の波も高くなっていく。
 やがてそれは、大きな何かになった。波と表現するにはあまりにも仰々しく、まるで何か、塊、水の塊、もしくはひとつの意志を持った怪獣のようになってこちらに向かってきた。それは海の青ではなく、海底の泥から何からを全て巻き込んだ黒々とした怪獣だった。そしてその怪獣は、周りの海水を飲みつくしながら、全速力でこちらに向かってくる。どっぷりと大きな口を開けて、この街すべてを飲み込まんとしてこちらに向かってきた。
 私の脳みそが機能し始めるよりも先に、私の足が動いていた。少し離れたところにある、より高い避難所に向かって。今いるここは、あの怪獣から身を守るにしては少々高さが足りない。周りの人もほぼ同時に動き始めていた。悲鳴とサイレンと、自分の鼓膜に共鳴する心音が、やかましくぐちゃくちゃになって私の心を掻き毟る。だがいくら心乱されようとも、足が止まることはない。止まることなどできない。後ろから、恐怖が目に見える形になって追いかけてくるのだ。乱れる息も気にせずに、私は高台へとひたすらに走った。脇目もふらずに一目散に走った。周りの人も皆、そこへ向けて、全力で足を回転させる。
 さて、ここまで淡々と語ってきたのだが、あまりはっきりとした記憶ではない。私自身、どこか夢の中にでもいるような、そんな妙な感覚の中にいたのだから。しかしながら、一つだけ。一つだけ、今でもはっきりと覚えていることがある。きっとこの先も忘れることはできないし、忘れることなど許されない。私が一生背負っていかなければならないであろう、それを。
 ごごご、と、地響きが聞こえるようにもなってきた。私は後ろを振り返りはしなかったが、先ほどの怪獣が、もっと目に見えるほどの距離まで来ていたのは明らかだった。先程までよりずっと早く足を回す。あとこの坂を登りきってしまえば、おそらくあそこまで波はこまい。私は安堵と不安を同時に抱えたまま、ひたすらに走っていた。
 その時だった。不意に、甲高い悲鳴が耳を劈(つんざ)いた。小さい子供のような、大きくて高い音。それが私の意識の膜をぶち破った。意図的にシャットアウトしていた外界の情報が、私の中に流れ込んできた。足を止めてはいけない。そう分かっていながらも、私は後ろを振り向いてしまった。
 ―――女の子が、転んでいた。
 おそらくは、誰かと一緒に逃げてきたであろうその子。この雑踏で離れ離れになってしまったのか、その子の周りには誰もいない。その子は泣きじゃくり、必死に母親の名前を呼びながら、地面にへたりこんでしまっていた。
 何をすべきか、それは明らかだった。目の前で転げ落ちようとする命を、易々と見過ごすことはできない。私は自身のベクトルを変え、その子の方に向かおうとした。
 したのだ。
 だが、私の腑抜けた足はピクリともしなかった。突如として視界に飛び込んできた、迫り来る恐怖におののき、私は微動だにできなかった。怪獣が、どす黒い大きな、海の怪獣が、少女の背後に見えてしまったのだ。私は決めねばならなかった。救うために前に進むのか、救われるために後ろへ引くのか。私は一瞬の決断に迫られていた。今考えたとて、小一時間たっても結論なんぞ出やしないだろう。それをあのたった一瞬で、コンマ一秒の神経パルスで判断しなければならなかった。
 結果どうなったか。
 私は今でも、あの瞬間を忘れない。
 私は。
 踵(きびす)を返した。
 どんな批判も、雑言も、甘んじてうけよう。私には少女救うことはできなかった。もう、思考が許される時間はなかった。命懸けで少女を救うという選択も、選べないことはなかった。しかし私は、自分の命をこれ以上危機に晒すなどできない、利己的な臆病者だったのだ。
 未だにあの時の映像が消えない。少女は恨めしそうな目でこちらを見ていた。いや、本当に恨めしそうな目をしていたのかはわからないが、少なくとも私の記憶の中ではそういうことになっている。もしかしたら、私の中の罪悪感が私の記憶に上書きをしているのかもしれない。真実には、もしかしたら少女は泣いていただけか。恨めしそうな目をしていなかったか。私だって、たくさんの見捨てた人たちのひとりなのだ。そう自分に言い聞かせても、少女は私の記憶の中から恨めしそうにこちらを見ている。私はその目から逃れようと、少女から逃げようとひたすらに走った。ひたすらに、ただ一目散に。
 その時、誰かがうわっ、だとかひっ、だとか悲鳴を上げた。多くのノイズに紛れて、それだけがやっと私の耳に届いた。それと同時に、少女から逃れようとしていた私の意識が、夢と現実に狭間から引き戻され、今まで霞(かすみ)がかっていた視界が一気に澄み渡った。今まで遮断していた外界の様子が、冴え渡った頭にぐるぐると入ってくる。迫り来る波の音が、ゴゴゴ、という地鳴りのように、私の背後から迫ってくる。突然、だった。これが現実だと、今まさに目の前で起こっていることだと、脳天に強烈に刷り込まれた。そして。
 少女はいない。
 少女がいたはずのそこは、もう水の底で。
 急に私は、心臓を締め付けられた。もう、逃れられはしなかったのだ。先刻までの、自分を遠隔操作していたような、どこか現実離れした感覚ではなく、きっちりとした自覚として、リアルとして、私は自分の判断を受け入れねばならなかった。
 私が殺したと。
 見殺しにしたのだと。
 彼女を助けられたとは限らなかった。だが可能性はあった。私はその可能性を見捨て、自分可愛さにひとりの少女を殺した。私は、いや私の無意識は、そこら中から言い訳をかき集めて持ってくる。ほかのやつも、あの子を見捨てただろう。多分助けられなかっただろう。そうやっていろいろ並べたところで、だ。私は許されることはない。誰に、さあ?だが、意図せず私が摘み取ってしまった、一人分の命の質量が、間違いなく私の心の上に無造作に乗せられた。そうして、今でもきっと乗り続けている。
 きっと許されたいのだと思う。私の良心が、こうやって彼女を背負い込むことで、私は罰を受けたのだ。私の罪に対する罰は受けたのだ。だから許せ。利己的な私を許せ。臆病な私を許せ。許せ。許せ。
 私は今でも、そう思っているに違いない。

   ◇◇◇

 まだこの辺りには、瓦礫が無造作に積み上げられ、家の基礎が立ち並ぶ元住宅街からは、ぼうぼうと草がその背を伸ばしている。まるで、3・11から時が止まったようだった。自然だけが刻々と時間を刻み、だがその土台にある光景だけはあの日のままで止まっている。ひょっとすると本当に、あの瞬間から、人々の心は止まったままなのかもしれない。私たちの時計はまだ、少なくとも私のは、3月11日の昼すぎを指したままだ。秒針すら凍りつき、永遠にその時間を指しているかのようである。
 ただ一つだけ、あの日から変わったことがある。私の中に、少女が住み着いた。そんなおかしなことをと思われるだろうが、事実なのだから仕方がない。彼女はいつ何時でも、少し遠くの方から私を眺めているのだ。楽しい時も、嬉しい時も、悲しい時も、少女は私の記憶の中の少し遠い方から、曖昧な表情でこちらを覗き込んでいる。そうしてその度に、現実をまじまじと見せつけられた私は、心臓を素手でギュッと握られたような、そんな感覚に陥るのだ。私のそんな表情を見るたびに、少女は少し満足そうな様子で去っていく。表情は見えないのだから、ある程度私の想像であるが。
 少女は幽霊か。それとも私の良心が作り出した虚像か。
 どちらにせよ、定期的に現れる彼女はまるで呪いのようで。その都度、私の心の隅の方を、爪を立ててカリカリと引っ掻いてくる。これが命の重さなのか。私が背負い込んだ命か。そうして私は、今にもその重さに押しつぶされそうになりながら、かろうじて一線を保っている。
 あれが、私の罪なのか、今でもよくわからない。正しかったとも思うし、それと同じくらい間違っていたとも思う。未だに私の心は、結論が出せないままでいる。
 せめてもの罪滅ぼしにと、半年に一回こうやってこの場所に来て、海の近くで、花を供えている。めいいっぱいの少女への手向け。ただ、あの坂の途中でなく海の近くに供えるのは、未だにあの場所を覗き込むのに恐怖と抵抗があるからだ。今日だって、結局そちらの方には近づこうとせず、海辺で漠然としているだけだった。

   ◇◇◇

 もうひとつだけ、話をさせて欲しい。
 私が今こうして、海岸線で項垂れているのにはもう一つ理由があるのだ。
 今日の昼間の話である。私はすでに習慣と化した御参りにと、またこの浜辺でモヤモヤとしていた。いつものように、整理できない心を抱えたまま。頭の中ではあの日の光景が、狂ったフィルムのように何回もリピート再生され、その度にやはり少女はこちらを覗き込んでいる。そうやって、どうにもできない何かを抱え、それを発散させんとばかりに私は亡霊のように海岸線をうろうろしていた。高く昇った太陽を水面が不規則に反射させ、それが私の心に歪な形の影を形成する。
 その時ふと目に止まったものが、さらに私の心をどうしようもなくさせた。
 私の前方、300mほど。海辺にあった公園に献花台が置いてあり、その上には様々な花が置いてあった。だが私の目を奪ったのそちらではない。その献花台の前、手を合わせている母親と少女。
 あの時の少女が、そこにいた。
 生きていたのか。私はそう思う前に、私の頭が取り返しのつかなくなってしまったのだと思った。嫌な汗が頬を伝う。あの時死に、私の頭の中で亡霊へと化した少女が、夢と現の垣根を越えてこちら側に現れたのだと思った。命の重さに耐えられず、私の心が擦り切れてしまったのだと。
 しかし、少女は輪郭がはっきりとしていて、私の妄想の産物にしては立体的だった。よくよく見るとあの少女より少し幼げで、髪も短い。そしてそのつぶらな瞳をパチパチとさせ、献花台に向け何やら話しかけている。ねーちゃ、ねーちゃ。ああそうか。私はそこで初めて合点がいった。
 目の前にいる彼女は、少女の妹だ。そして、横にいるのはその母親だろう。
 妙に納得したのとにもかかわらず、私はまだ心臓を握られたような気持ちでいる。私が見捨ててしまった少女。彼女が死に、私が生き残ったという事実が、非情な罪に思えて仕方がなかった。
 彼女たちは長いこと献花台に手を合わせ、そのままこちらを振り返った。私に気づいた母親が、至って普通の笑顔でこちらに会釈をくれたのだった。私はもう、我慢することはできなかった。すでに足は彼女の方へ向かっている。
 失礼ですが、どなたか亡くされたのですか。
 分かりきった事を聞く、と私に中の私は嘲笑している。母親は、急に尋ねられたことに戸惑い、こちらの意図を探るように考え込み、それから少し悲しそうな顔をして、そしてそれを繕うように笑顔を見せた。
 「娘が津波で・・・。」
 そういう彼女の声は、笑顔に反比例して悲しみが滲みでたような声だった。弱々しくか細い、線のような声で。
 「どこかでお会いしたことが?」
 「いえ、その。娘さんに似たような子を、あの日見かけたもので。」
 精一杯に動揺を隠そうとしたが、私の声は震えていたと思う。そうして彼女はそれを聞くなり、目を丸くし何も言わなかった。その足元で、少女の面影が不思議そうにこちらを見ている。
 これを彼女に話すことが、どんなことかはわかっているつもりだった。だが、そうせずにはいられなかった。私は、話すことで、私が背負っているものをおろしてしまいたかった。
 「女の子を、公民館の前の坂で見ました。」
 「・・・そう。」
 彼女が、目をうるませながら絞り出してきたのはたったの二音のみだった。それは、彼女からのサインかもしれなかった。ストップ、ここでこの話は終わり、と。だが私は言葉を紡ぎ続ける。
 「もうそこまで波が迫ってきていて、私は・・・」
 まるで、私の中身をすべてぶちまけてしまうかのように。
 「私は、その子に手を伸ばすことができませんでした。」
 そう言い切ると彼女が少しだけ目線を落とした。そう・・・と力なく発すると、そのままうつむいている。正直、どんな仕打ちだって覚悟していた。私は、目の前のこの人の娘の終わりの瞬間に立会いながら、何もすることができなかった弱虫なのだから。どんな言葉だって、ましてやビンタの一つぐらい受けていくつもりだった。
 ところが。
 しばらくして顔を上げた彼女の言葉は、予想だにしなかった言葉だった。
 ―――ありがとう。
 私の最初は聞き間違いだと思った。だが彼女は頬に光の一筋を作りながら、確かにそう言った。
 「あなたは生きていてくれてありがとう。」
 その言葉が、激しく私を揺さぶる。全くもって訳が分からなかった。なぜ私は、感謝されたのか。そして彼女は、細々としかしはっきりと言葉を紡いでいく。
 「命てんでんこ、だから。娘を助けていたら、きっとあなたも死んでいたと思うもの。でも今こうして、私の前にこうしている。だから、ありがとう。」
 彼女はそれだけ言うと、もう一度会釈をして去っていった。私は一人、ぽかんと取り残されて、ただ漠然と私の周囲では時間が過ぎていったのだった。

   ◇◇◇

 こうして私は今、ここにいる。穏やかな波の音に囲まれながら、ここにただ単に存在している。何か割り切れない、黒い大きな靄は、相変わらず私の専有体積を徐々に増やしてゆく。
 「命てんでんこ」
 皆それぞれ命はひとつであるから、津波の時には一人で逃げなさい。誰かが転んでいても、誰かが動けなくなっていたとしても、まずはあなたが助かりなさい。何度も大津波を体験した、この辺に伝わる教訓である。随分冷酷で、それでもって合理的な教訓だ。私でさえ、祖父母から何度も聞かされたものだ。
 私は、自分の命を優先させた。これは間違っていない、誤った判断ではない、きっと。だって命てんでんこなのだから。私は私が助かるように行動すべきだったのだ。
 そう、頭では理解している。
 あの映像を、忘れることができたら。どれだけ楽になることだろう。脳幹に焦げのようにこびりついた記憶を、それこそクレンザーでも買ってきて洗い落とすことができたなら。

 私は花束を持ったまま、岸壁に来ている。
 その理由は何か。
 分かってる、消すことなどできないのだ。消せないから、少しでも救われようと来ているのだ。忘れることなど、多分私には許されていない。
 いやきっと、私だけではないのだ。
 あの日、死者行方不明者、24717名。
 私が見たのは、その中の一つ。
 1/24717の魂。
 いくら分数で書いてみたところで、その重さは軽くはならない。分母がどれだけ増えようが、命の質量は1なのだ。1は1のまま、命は命のまま。そこに差異などあるはずもなく、私も少女も、1であり、1であった。
 私に乗っかっている、この命の重さに私は押しつぶされそうになる。自分自身の命を最も優先すべき、そう頭では理解していたとしても。心はそれに追従しない。もしかしたら、人間は頭じゃない、脳みそじゃないどこかに本体が隠れているのではないか、私はそんなことを考えながらまだ海岸線を闊歩(うろうろ)している。
 目の前には穏やかな波が、テトラポットを優しく撫ぜる。とても、あの日の怪獣の姿とは思えない。でも今は、その穏やかな姿が私の心をくすぐり、些(いささ)か不快にさせる。やがてその不快感は、ふつふつと怒りへと変貌する。
 あの日から割り切れない。私の中でぐるぐると回って消えない、疑問。
 いったい誰が悪かったのか。
 私か。少女か。それともこの海か。
 いっそのこと罵られたのなら。お前が悪いのだと、あの母親が声を荒げてくれたのなら。ひどく傷つくと同時に、スッキリとはしただろう。
 だが。
 私は自分を責めることも、誰かを責める事も許されず。ただひたすらに割り切れないものを自分の中に抱え込んだままである。
 ぎゅっと、花束を握る手に力が入る。
 あの日の面影さえも覗かせない波間は、まるでこちらへ微笑みかけているようだ。ニコニコと、こちらを見て。
 嘲笑っているのか。
 足掻いている私を見て、愉快に思っているのか。
 ふざけるな。
 右手を思い切り振り上げ、そのまま数歩のステップの後に振り下ろした。右手から放たれた花束は、放物線を描いて着水する。それは水面でぷかぷかと漂いながら、やがて沈んでいった。
 私は叫んだ。自分の中の靄を、全て吐き出さんとばかりに。その咆吼(ほうこう)は声の体(てい)をなさず、ただの音という一つの記号でしかなかった。それでも構わない。周りのことなど全く気にならない。ただ私は救われたい。この得体の知れない何かを開放し、少しでも楽になりたい。そのために叫んだ。意味のない音を羅列し、ただ私の中身をぶちまけた。
 ずっと、ただただ、叫んだ。
 叫んだ。
 やがて、空気が枯れた。息を継ぎ、また叫んだ。
 ずっと、叫んでいた。

 どれほどの時間が経ったか。腕時計を確認する。短い時針が下の方を向こうというところだった。私の声は枯れ、この口から漏れるのはもはや空気の抜ける音だけだった。
 これだけ吐き出そうが、まだスッキリとはしない。
 ぼんやりと、ただ水平線を眺める。酸欠で空っぽになった頭の中に、沈みかけた太陽の光が突き刺さる。
 私はやがて立ち上がった。そしてそのままフラフラと歩き出す。何か、両足が地についていないまま。
 背負うしかないのだ。私は。この先一生、24717分の1つの命を抱え、その重さに苦しみながら生きていくしかないのだ。
 きっと、誰が悪いという話ではない。
 ただずっと命を見つめていかなければならぬというだけだ。
 理不尽だと思う。
 生きていくことは。
 だが歩みを止めてはならない。
 生きているのだから。
 私は一歩ずつ、その重い足を進める。
 カチッ、カチッと。
 秒針の音だけが、時が進んでいくのを知らせてくれた。

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最後までお読みいただきありがとうございました。

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東日本大震災、あの日からおおよそ2年。 まだ、私の中の時計はあの日で止まったままで。

  • 小説
  • 短編
  • ミステリー
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-01-15

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