潮騒の町と朝顔の少女

全国的に有名な自殺名所の崖「朝ヶ丘」。その崖の側にある土産屋の息子、和広。彼は画家を目指し高校生活を送っていたが、将来の不安で揺れていた。そんな高校三年生の夏休みの朝、彼は不思議な少女「美空」に出会う。その出会いは、過去と今の時計の歯車をかみ合わせるものだった。

美空の章

 死の前に時間があるとしたら、それはこのような感じなのだろうと和広は思った。
 和広は、空のただ中にいた。眼前には雲海が広がり、所々もつれた霞からは、陸のない海が見える。何もせずただそこに立っていた。まるで、そこにいるのが当然のように。
 空の隙間はどこまでも遠くて、どこよりも狭い世界だった。肺に満ちる大気は甘く、仄かに潮の香りをはらんでいた。
 ここには何もない。世界を認識しているのは自分しか存在しない。全ては自分の主観によってのみ成り立っており、全ての記号は自分によって形作られていた。あらゆるものが人間にとって意味をなさない青色の空間の中、自分に相応しいのは、たぶんこんな静かな場所なのだろうと思った。
 ふと、自分が落下していることに気が付いた。何も変なことはない。そもそも、空中に浮いているという認識自体がおかしかったのだ。人は飛ぶことなどできない。空に存在し続けるためには翼がいる。孤独であるためには羽根がいる。和広は、そんな高貴なものは、持っていなかったのだ。
 海面が近づく。見えないが感じる。人の世界は空じゃない。大地の上だ。ならばそこを拒否した人間は、底のない海原に叩きつけるのがお似合いだ。
 足先が、コンクリートみたいな水の地面に触れたとき、泡のような世界は弾けた。

 いつのことだろう。夢が楽しくなくなったのは。
 どうしてなのだろう。自分のことが嫌いになったのは。

 瞼が開いていく。心の外の世界は柔らかい朝の光に包まれていた。だが気分は良くない。夏の暑さに浮き出た汗がじわりと不快を感じさせた。
 視界が広がっていき、汗の後はあるがそれなりに白いシーツが目に入った。少し認識を広げると、暑くて蹴り飛ばしたであろうタオルケットがねじれ横たわっている。その端は付けっぱなしの扇風機の風で力なく揺れていた。
 この季節はあらゆる布が憎くなる。頬に当たるシーツは体温を逃がさず。身に付けているシャツは汗で湿っていた。
 かの夏目漱石は夏を家では全裸に過ごしていたそうだが、成程、彼の文豪を非難することは出来そうにない。自分も一人暮らしだったら、そうするだろうからだ。
 時計を見る。午前五時三十四分を指していた。蝉の声はまだ浅く、どこかで鳥が鳴いていた。早起きをしたようだ。異常に健康的であるといえる。いやむしろ不健康だ。高校三年生の夏休みは、午後零時からはじまるというのに。
 上半身を起こし、何をしようかと考えた。机の上に転がっている「英単語1000」、「センター対策数学ⅠA」などの参考書や、書きかけのガラス製コップのデッサンなどは見たくないし、触りたくもない。拒否反応を克服するやる気も体力も、起き抜けの体にはなかった。そう思うと全ての受験生に尊敬の念を送りたくなる。受験を戦争に例えることはよくあるが、戦場に向かう勇敢な兵を見送る家族の気持ちが少しわかる気がした。いや、むしろ、兵役を拒否する臆病者の心持ちであろうか。
 もう布団に入っても眠れない段階にきていた。仕方がないので、近所を散歩しようと思った。心に鞭を打ち、立ち上がった。タンスの一番上にあったジャージに着替える。水色のジャージは、あまりよいデザインとは言えないが、近所を歩くだけならば、それほど問題はないだろう。
 無意識に机の上にある草臥れたスケッチブックを手に取ろうとして、やめた。最近散歩に行くときにスケッチブックを持って行かないと落ち着かない。だが、それでは心休まることなど決して無いだろう。
 空いた手で眠気眼をこすりながら、和広は階段を下りていった。
 
 


 投げた石は遙か下の岸壁に跳ね返り、海に落ちた。
 人間だったらこうはいかない。落ちた瞬間、トマトを落としたように潰れながら内容物をまき散らす。人間も石みたいに固かったらいいのにと思った。そうすれば不幸な発見者も吐き気はしないだろう。
 和広は深く息を吸い込み、チェーンを張っただけの安全柵を乗り越えた。景観を損なわないために落下防止の柵はガードレールより低い。こんなやる気のない警備だから自殺者もあとをたたないのだと思った。観光資源からの収入の方が、他人の自殺より重んじられるのだろうか。倫理に即すならば否定されるその意見が、日本でも、世界でもまかり通っていた。
 そこは潮騒の聞こえる岸壁だった。花崗岩を基調にした、海に立ち向かうようにしてそびえ立っている崖だ。風を含む波は、垂直に延びるその岩に己が全てを叩きつけている。まるで八つ当たりしているようだ。無規則で、気まぐれで、力強かった。
 ごつごつとした足場をさらに二歩進んで腰を下ろす。足先の数十センチ先は急傾斜だ。慣れているはずなのに少し恐怖で足が震えた。和広は壊れたロボットのように足を延ばす。小学生の時、足を滑らせ危うくトマトジュースになりかけたことがある。すり込まれた恐怖というものは何年たっても消えないものだ。
 午前六時快晴、周りには誰もいなかった。まるで世界中の人間が死に絶えてしまったかのようだった。風が低い笛を吹き、波は潮騒を運んでいる。汗ばんだ肌から不快感が吹き飛ばされていく。海独特の、潮の匂いが鼻をくすぐる。人が発する音は何もなかった。
 和広は少し脱力した。一人でいるとき特有の安心感があった。
 自覚していることだ。自分は、谷川和広という人間は、誰かと関わるのが下手であった。
 昔から喋るのは苦手だった。小さい頃から余り言葉を発しない方だったので、いざ喋るとなると上手く喋れない。大して早くないのに早口言葉を言っているようになってしまう。
 さらにいつも会話を反芻してしまう、自分の言葉が相手を傷つけてしまったのでは無いのか。相手の言葉には違う意味が含まれていたのでは無いのか。その度にどうしようもなく打ちのめされる。自分という存在がだんだん小さくなっていき、いっそ消えてしまいたくなる。
 だが、この世界はそんな煩わしい会話などしなくて良いのだ。和広は、潮風を深く肺に流し込んだ。
 夏といえど朝の光はまだ浅い。空を見上げる。海と空の境目の遙か上空に、真っ白い太陽が強く弱い光を放っていた。
 そこで思った。太陽も誰とも喋りたくなかったから空に一人で昇ったのかもしれない。夜空にいる沢山の星たちから逃げるように。
 しばらく波の音を聞いていた。挑むように、縋るように岩肌に叩きつけられる波の音は耳に心地よい。
 どれだけそうしていたのだろう。気が付くと日が少し高くなっていることに気付いた。あと三十分もすれば観光客がやってくる頃だ。見つかってしまえば通報されるかもしれない。十七歳の少年が自殺名所の柵を乗り越えて岩の上に寝転がっているのだ。自殺志願者と見られてもおかしくない。
 体勢を崩さないようにゆっくりと立った。前かがみになり、下をのぞき込む。花崗岩の岩場とその中で踊っている荒波は、猛獣のように荒々しく。年間三十人の死者を出している場所とは思えない程美しかった。
 覗いたことに特に意味はなかった。だが普段、視界に入らないもの程、人間は存在に気づくと確かめたくなるものだ。もしかしたら隠れているだけで、そこには異界への入り口があるかもしれない。誰かが潜んでいるかもしれない。そういった何も根拠のない思いこみ、人はあるはずのないものを見ようと、簡単に小さな危険を冒す。
 しかしここには何もない。ただ崖の上にいる自分と、荒々しさを体現した波と岩。それを繋ぐ無色透明の三次元空間、それ以外に確認できるものはない。
 和広は何もないことに安心した。そして一つの形に収束しない生き物のような海水を眺めていた。そのときふと砂利を踏む足音が聞こえた気がした。空耳ではないと判断するのに十分な程の音であり、その方向に視線を向けた。
 女性がいた。齢は十七、十八歳くらいであろうか。夢遊病者のようにおぼつかない足取りで、岩場を進んでいた。
 一目見た瞬間、おかしいと思った。少なくとも観光をしに来た出で立ちではない。彼女の服は、白いワンピースにこれまた白い長袖の上着を羽織っただけのものだった。しかし、旅行者が持っているはずの鞄類を彼女は一切持っていなかった。
 かといって、自殺志願者かと言われれば、それも違った。和広は過去に自殺に赴こうとした人を何度か見たことがある。彼らにとって自殺とは最後の手段だ。だが、絶望のただ中でも生への渇望は必ずあり、一歩一歩踏み出すのも躊躇いがちになる。その人間として当たり前の反応が彼女からは感じられない。
 そしてそれ以上に、こちらに全く気づいていないところが妙だった。その女性と和広とは五メートル程しか離れておらず、互いの姿を遮るものは何も無い。
 自殺する人間は周囲に気を配る。一見誰がいようと歩みを止めないように見えて、その実野生の鹿よりも周りに敏感なのだ。それは、誰かに見られたら、止められてしまうという恐怖と、誰かに見つけて救って欲しいという、離反し合う感情の表れでもある。
 その女性は、おぼつかないながらも躊躇いがなかった。なにも映っていないかのような瞳はただ前を向き、青が支配する空間を歩くのみ。自らにはその行為以外に可能なことはない。周りを気にする余裕はどこにもないかと言うように。
 彼女はどんどん先に進んでいく。乱雑で段差がある岩場の道を、足下に注意しながら上ったり、下ったり。後十六歩も行けば、それこそ先程和広が投げた石のように、どこまでも無慈悲に落ちていくことだろう。
 和広は動いた。柵を乗り越え、女性のそばに向かう。例え痴漢に間違われたとしても、勘違いだったとしても、最悪のケースだけは止めなければならないと判断した。
「おい」 
 声を上げた。もし、彼女が自殺を考えているのなら、近くに人間がいると認識することで、その行為を自粛するだろう。それでも歩みを止めないならば実力行使にでざるを得ない。
 ワンピースを海風にはためかせながら、彼女は振り向いた。鼻の輪郭がはっきりとしており、見る人をはっとさせるような整った顔立ちだった。その肌は色白で、纏っている白い衣装と色彩は大差ない。海風に遊ぶ黒髪は長く、どこか犬の尻尾を思わせた。
 しかしそれに感心する余裕はなかった。その顔には、どうしようない恐怖と、悲しみと、憎悪の色が張り付いていた。少女はこちらをまるで、殺人鬼でもみたように顔を歪ませていた。
 一瞬、和広の足が止まった。彼が感じたのは、恐怖とは似ても似付かない「おそれ」だった。
 彼女はこちらをまるで親の仇のように凝視した後、崖の先に向かい走った。狩人から逃げる兎の如く、足がくじけようが関係ないというように。先のない岬の先を踏み越えようとした。
「やめろ!」
 和広は叫びながら歩を詰め、彼女の腕を両手でグッと掴んだ。彼女はもう、足の先を虚空に踏み出そうとしていたところだった。掴んだ腕が万有引力の力を借りて前に向かう。そのまま掴んでいては和広も道連れになるだろう。だが、離すという選択肢は存在しなかった。
「くっ・・・あああ!」
 渾身の力を込めて引っ張る。均衡が保たれ、重心が後ろに傾くのを感じた。その瞬間を逃さず、和広は有らん限りの力を込めて少女を引っ張った。
 腕にかかる負担が急に軽くなるのを感じた。地に足が着いたまま、空中浮遊をしているかのような頼りなさだった。
 体重が完全に前方に乗っていたのを無理矢理引っ張ったので、和広と女性は勢い余って倒れてしまった。
 視線の先には青空、背中には激痛が走る。
 どうやら助かったようだ。
「いたたた・・・」
 女性は起き上がった。和広も、背中に、岩のごつごつした感触を感じながら起き上がった。
「なにやってんだ!死ぬ気かよ馬鹿野郎!」
 和広は怒鳴った。まだ言葉も交わしたこともなく、名前すら知らない女性に罵声を浴びせるのは気が引けた。だが、こうでも言わないと、再び止めてもまた飛び降りようとするだろう。
 和広は顔を上げ、女性の顔を正面から見据える。ちょうど、両手を着きのぞき込むような体勢の女性と、なんとか体を起こした和広は、互いを認識した。
「?」
 和広は少し疑念を抱いた。目の前にいる少女は、少し怯えているがこちらを正面から見据え、言葉を紡ごうとしていた。瞳は揺れていたが、確固たる落ち着きを感じさせている。先程和広を見て、犯罪者に会ったかのように顔を歪ませた人間だとは感じられなかった。
「・・・すみません。助けて頂きどうもありがとうございます」
 少女は、声音を振るわせながら、だが冷静に頭を下げた。しかし和広は怒りを覚えた。
「あんたが自分で死のうとしたんじゃないか!」
 さも自分は事故で死にそうになったとでもいうように言うな!
「・・・すいません。少し、ふらふらしてしまいました」
 確かに先程の彼女は、夢でも見ているかのように、おぼつかない足取りで進んでいた。しかし、段差のある岩をしっかり確認して超えていたし、何より、こちらを見て浮かべた表情、まるでこの世の絶望を垣間見てしまったような顔、あれには理性による狂気があった。
「・・・怪我はないか?」
 和広は身を起こし、彼女を立たせた。深く追求するのはやめておいた。それで錯乱されたらたまったものじゃない。
 朝とはいえ、猛暑まっただ中で、長袖の上着を着ていることに少し疑問を抱いたが、女性は日焼けをするのを熱中症で倒れるより嫌うので、それ以上気にしなかった。
「ありがとうございます」
 和広の手を借り、起き上がった少女は、丁重に頭を下げた。そこで、和広は、さらに疑念を募らせる。
 本当に、自殺しようとしていた人間なのか?
 先程までの彼女の行為、あれは間違いなく自死を招くものだった。和広が手を引き、肉体を岩場に引き戻さなければ、浅黄色と潮騒が満ちる崖と海の間を、重力加速度に比例して落下していただろう。そしてその行為は、彼女が望んだもののはずだ。
 だが、今目の前にいる無垢な白の少女は、命を引き上げられたことを素直に感謝している。自殺を望む人間が、本当は助けてくれる人を求めているのは和広でも分かる。しかしこうも簡単に助けた、言い換えれば邪魔をした人間に対して素直に、ありがとう、と言えるものだろうか。
 気づくと、彼女は、じっとこちらを見ていた。一見、何かを思い出すような顔に見えた。
「あなた、どちら様ですか?」
 数十秒前和広をみて血相変えて逃げたくせに、興味津々のように名前を訊ねてきた。益々妙だなと和広は思った。
 だが先程みたい叫んでは、この女の子が何をするか怖かった。
「谷川和広、さっきは怒鳴って悪かった。謝る」
「いえ、私も、危なかったですし」
 段々落ち着いてきたのだろうか。声に冷静さが出てきた。谷川和広・・。和広・・まるで咀嚼するかのように、和広の名前を呟いていた。
「君の名前は、なんていうんだ?」
 和広は聞いた。名前を聞かれたからには答えるのは礼儀だ。そしてその相手に名前を訊ねるのもまた礼儀だ。
「私は・・・美空といいます。演歌歌手みたいでしょ」
 彼女は苦笑する。確かに、死の間際まで歌い続けた大歌手を連想できるかもしれない。
 改めて彼女を観察する。麦わら帽子に白いワンピース。日焼けが怖いのかどうか知らないが、白色の上着を羽織っている。ワンピースと同じ色をしたサンダルを履いていたが、このような岩場では歩きにくそうだった。
 そしてなにより、その表情をみる。年は若く和広とあまり変わらない、一八歳前後といったところだろう。
「あなたはいくつですか?」
 美空が聞いてくる。彼女も和広と同じように、対面している人間の情報をみて、吟味していたのだろう。
「一七歳、高校三年生だ」
「あ、じゃあ、私より、年下なんだ?」
 急に彼女の口調が砕けた。どうやら、敬語を使うのが苦手な人間のようだ。
「私は二〇歳。これでも成人なの」と美空は続けた。
 美空は二〇歳には見えなかった。童顔な女性なのかなと思った。
「君は、どうしてここに来たんだ?」
 一番の問題に踏み込む。和広はこの辺りに住んでいたが、美空のような女の子はみたことがない。ならば、歩いては来られないようなところに住んでいた
はずだ。
「えっと、まあ、観光かな?」
 歯切れの悪い返事だ。
「その割には鞄とか持っていないよな」
「泊まっているところにおいて来ちゃったの」
 和広は、はぐらかされているような気がした。
「一人旅か?」
「うーん、まあそうかな」美空は少し頭をひねりながら答えた。
「ふらふらと崖から落ちそうになってしまう人間が、一人旅なんて危ないだろう」
「・・確かにね」美空は苦笑した。
 立っていたのが疲れてきたのか、美空は、手頃な岩に腰を下ろした。和広もそれに習った。
「まだ疑っている?」
 美空は、こちらをのぞき込みながら尋ねてきた。
「地元民の俺がここがどこだか知らないはずがないだろう」
 朝々丘。
 丘という文字が入っているが、何百人もの人間がここで命を絶ってきた断崖絶壁。全国的にも有名な自殺の名所。展望台や、お土産屋。それらに混じり、命の電話と呼ばれる無料で教会にかけられる公衆電話や、自殺を止める看板、今までこの場所から身を投げた哀れな人々を供養する慰霊碑。どれもが、和広が、物心付いたときからあった、馴染み深いものだった。
「そっか、和広くんはこのあたりに住んでいるんだ。崖に近いの?」
 美空は尋ねた。
「そこだよ」
 和広は、少し座っている岩場から離れたところにある展望台を指さした。実際には、展望台の少し後ろにある小さなお土産屋だ。
「へえ。お土産屋さんなんだ」
 と美空は納得した。
 自殺の名所として有名な朝ヶ丘だが、花崗岩の断崖絶壁は、県の数少ない観光資源の一つでもある。朝が丘に至るまでの道のりには、多くのお土産屋や、食べ物屋が立ち並んでいる。自殺しようとした人間に名物の善哉を振る舞うことも稀にある。
「これからも谷川商店をごひいきに」
 少し、手品を始める魔術師のように大げさに振りを付けて和広は言った。不景気の煽りなのか、売り上げは良くないのだ。
「考えておきます」
 わざと敬語で、笑顔の美空は答えた。
 美空はだいぶ落ち着いてきたと思った。今にも死ぬようには見えないが、話題を避けているところを見ると、完全にシロと断定は出来ない。
「頼むから、自殺はするなよ?」
 和広は言った。幼い頃、和広は身を投げた人を何度か見た。完全に海に入らず、それこそトマトのように赤いものをまき散らしながらバウンドして落ちたその姿を、まだ払拭できていなかった。
「大丈夫だよ。私は、でも、私たちはわからないけど」
「なんだ?近頃流行の集団自殺か?」
 和広は先週ニュースでみた、山中でワゴンにすし詰めにされた人たちを思い出す。車の中で練炭を焚いて、天国に行こうとしてどうなったか分からない。
「うーん。少し違うかな」
「どういうことだよ」
「説明しづらいんだよ」
 美空は困った顔をした。何が説明しずらいかはわからない。海風が、そっと彼女の細く柔らかそうな髪を遊ばせる。
「和広くん、あなたって毎朝ここにいるの?」
 と言った。
「・・・・まあ、いるかもな」
 もし彼女に自殺する願望があるのなら。嘘でもいると言っておけば、少なくともここで死のうとは思わないかもしれない。
 本当は早起きなんて苦手なのだが。
「そう、安心した」
 彼女は、心から、平穏を手に入れた顔をしていた。よく見ると、美空の顔には、疲労と苦悩が張り付いていた。
「なにが安心したんだ?」
「和広くんなら、死のうとしても止めてくれるでしょ?」
「あんたをか?」
 美空は、少しはにかんだ。
「さっきのは違うよ。確かに死んでしまうのも楽しそうだけど、私はもっと人生を謳歌したいしね」
 彼女の自殺願望の有無は、まだ疑念の内にあった。だってそうだろう?本当に自らの意思で、虚空に足を踏み出すように見えたのだから。だが、それよりも気になることがあった。
「じゃあ誰が死のうとするんだ?」
 美空の言葉を信じるなら、誰かが、ここで死のうとしていることになる。
「うーん、私の家族、かな?」
 少し、迷うようにして彼女は言った。
「あんたが止めろよ」
「身内だからって、何でも止められるわけじゃないでしょ?」
 まあ、確かにそうだ。和広の美術大学受験を、父親が反対している。それを和広が止められないように。
「だけど、だからって俺が止められるとは、限らないだろう」
 和広は、面倒ごとを押しつけられそうな予感がしていた。
「大丈夫だって」
 美空は立ち上がった。目で追うと、優しげな瞳をした彼女と、朝の色合いに染められられた空が目にまぶしかった。
「また来るよ。そのときはよろしくね」
 何をよろしくなのか。出来れば、別の場所を観光して欲しいと和広は思った。
「いつまでいるんだ?」
 美空は、観光に来たという。ならば宿を取っているはずだし、何日まで滞在するか決めているはずだ。
「うーん。みんなが満足するまで?」
 随分アバウトな回答だ。よっぽど無計画なのだろうか。人生は節制によって成り立つというのに。
「みんなって誰だよ」
 和広は疑問を口にした。先程、美空は一人旅といっていた。ならばみんなというのはおかしい。
「・・・私の大切な、家族だよ」
 美空は、呟くような口調で答えた。親戚の家にでも泊まっているのだろうか。
「じゃあ、またね」
「おう」
 美空は、きびすを返す。またねと言われたが、出来れば、ここでは会いたくないなと和広は思う。女性らしいヒールが高いサンダルを無秩序な岩の絨毯に捕られていて、足を挫かなければいいなとも思った。
 改めて海をみた。水平線と海の境目は、曖昧だがはっきりしていた。花崗岩の崖は、荒々しい波に噛みつかれていてもびくともしていなかった。 
 少し崖の大きさに遠近感がおかしくなって、和広は立ち上がった。高いところからみると、自分がどこにいるのか分からなくなる。それがこの崖が自殺名所たる所以なのかなと思った。
 慎重に柵を越え、入り組んだ平坦な道を歩き、背の低い木の林を抜け、展望台まで戻った。これから始まる一日の予定を反芻し、心が沈んでいくのを感じた。
 今日は、書きかけのデッサンを、顧問に見せる期日だ。それに、模試もある。模試は九時から三時までといったところだ。センター対策なので、自己採点時間もあるはずだが、そこまでするほど和広は勉強熱心でない。
 模試が終わってからはずっと美術室に籠もることになる。夏休みだというのに。すべきことが多すぎてうんざりした。しかし自分が選んでしまったものは仕方ない。
 和広はため息をつきながら両親が起きているはずの家へ歩いていった。何をしていたと怒られるかもしれない。
 空は優しい朝の色から激しい夏の色に変わっていた。夏の空は実は濁っている。空気の澄んでいる朝ならともかく、夏の昼の空は、どこか白ずんで汚れている。それは、文明社会の弊害なのかは知らなかったが、和広はこの空は嫌いだと思った。


 高校の汚れた階段を和広は下っていた。その顔には深い疲労の色が張り付いていた。三年間使い古した学ランはくたびれ、所々ボタンが取れかけている。もっともそれを直すほど、和広は几帳面ではない。
 高校三年生の夏休みは、部活の代わりに補習と模試で埋め尽くされる。青春時代の譜面は休みなく音符が書き込まれ、演奏者に休むことは許されない。
「こんなの夏休みじゃないよな」
 階段を下りながら囁くように和広はぼやいた。
 模試は勿論全く出来なかった。国語はともかく英語は長文を見た時点でやる気を無くしてしまった。なぜ米国の教育問題についての論文を原文で読まなくてはならないのだろうか。数学も似たようなものだ。専門的に学ぶ道に進まなければ使うことのないであろう記号や単語たちが、まだ頭の中で生存権を主張していた。
 少なくとも選択問題は埋めたのだから零点ということはないだろう。そう言い訳しながら廊下を歩いていく。
 和広のクラスは進学クラスで、比較的成績のよい生徒が揃っている。幼い頃からの夢に向かって難関校に立ち向かっている者もいれば、金銭的に無理のない国公立に滑り込もうとあがいている者もいた。彼らは鮮明に五年、十年先の未来を見据えている。
 そんな同年代たちに和広は隔たりを感じていた。まるで、皆の流れに正面から逆行するような頼りなさだった。
 自分だけ、まだはっきりと決まってない。美大を受けるか、一般的な大学に行くか、それとも進学せず家を継ぐか。もしかしたら全く違う未来もあるかもしれない。
 どの進路も厳しいのはわかる。そして夢だけでは食っていけないのもわかっている。
 一応夏休みの補講も受けているし、美術部の顧問に頼んで絵の勉強も続けている。しかし怠けていると言われても反論は出来ない。中途半端でどっちつかずのままだ。自分という存在が一つである以上、費やせる人生も一つしかない。
 結局、和広はずるずると、画家の夢にすがりつく形でこの人生の分岐点となる高校三年生を生きている。
 両親は絵の道に進むのを反対している。美大というのは何年も浪人して入れるかどうかという狭き門だ。私立に入るにしても、予備校に通うにしても、そのような金銭的余裕など家にはない。
 一発で国公立の美術大学に合格したなら金は出す。それが話し合った末見つけた妥協点だった。
 もし画家になるならばその道しかない。しかしその道を歩いていく自信はなかった。美術の専門クラスがある高校の生徒でも落ちるのだ。部活でしか技術を磨いていない自分が楽に合格できるわけがない。
 さらに、自分自身、そこまでして絵の勉強をする意味が、分からなくなっていた。
 室町時代の画家、雪舟は絵ばかり描いているところを住職に咎められ、柱に縛られながらも、自らの涙と足のみでさえ本物と見間違う鼠を絵描いた。一方アントニ・ガウディはサクラダファミリア建設にその半生を費やし、その情熱は現代の人々すら動かしている。
 果たして自分に、それ程の才能と情熱があるのだろうか。
 そもそもそのようなものがあるならさっきまで数式とにらめっこしているわけがない。
 夢をあきらめて大学、就職を選ぶか。しかしもう今の同級生は覚悟も偏差値も遙か上をいっている。
 いつも迷いは循環し、どうにもならない現実を突きつけられる。
 時間は三時四十分過ぎだ。試験中、問題を解く時間より惰眠をむさぼる時間の方が圧倒的に多かったが、体はとても疲れていた。
 同級生達は休みもせず自己採点をしている。センター試験のためにだそうだ。よくもまあ、そこまでスタミナが続くものだと思う。
 美術室に向かう。美術部の活動は基本自由で、作品を期日までに完成させればそれでいい。次の発表の場は文化祭だが、まだ二か月以上猶予がある。現在、美術部の部員は八名、内、幽霊部員は三人。誰も作品に取り掛かっている者はいない。
 管理室で借りてきた鍵を使う。上手くスライドしない扉を開けると、美術室特有の画材と黴の匂いが鼻についた。
 和広はこの匂いが嫌いではなかった。この場所が外界とは違う特別な場所のように感じさせてくれるからだ。
 美術室は他の教室と違い、様々な備品が剥き出しだった。机は塗装がなく、ざらざらした感触が露わになっている。イスは、背もたれがなく、太い木をそのまま組み上げましたというような、無骨でただ頑丈なものだ。
 一学期最後に使ったクラスはきちんと片づけをしていなかったらしく、長机に規定数ぴったり揃うはずの椅子は、クラスの人間関係を象徴するように、一カ所に固まっていた。だが、直すのも面倒なのでそのままにしていた。通路の邪魔になっているその椅子の集団を左右にどかしながら奥に進む。
 一番奥に置かれた石膏像とキャンパスの前に座る。ここが和広の特等席だった。
 いつものように無造作に鞄を机の上に放り投げ、デッサンに必要な道具を取り出す。
 木炭、パン、練り消しゴム、フィクサチーフ。無駄に使い古したそれらを綺麗に並べていく。
 どの大学でも美術系を志すならば、デッサンは避けては通れない。鉛筆でのデッサンは慣れていたが、木炭はまだ合格レベルとはいえなかった。
 一度深呼吸をして、ガーゼに包んだ木炭を握る。吐いた息と共に、意識を入れ替える。いつもする儀式のようなものだ。自分はこれから、二次元平面と三次元物体を繋ぐ存在になる。そんなイメージ。
 かすかな音と、キャンバスと木炭が摩擦する感触と共に、描きかけの絵に命を吹き込んでいく。目の前に映る映像をただ描くだけでは絵はぶれてしまう。特徴と本質を捉え逃さないように木炭を走らせる。
 昨日で殆ど絵は完成していた。しかしそれだけにミスも修復不可能な段階まで来ていた。影も、形も、本来あるはずのそれと微妙に異なっている、そして、それを見せつけられる度、その失敗作を力任せにぐちゃぐちゃに塗りつぶしたくなる。
 だが顧問にみせる期限は今日だ。出来映えがどうであれ完成はさせなければならない。例えそれが、自害したいほどひどいものであっても。
「谷川、いるか?」
 扉が、ぎぎぎ、という音を立てて開く。もし、この学校に金銭の余裕が少しでもあるのなら、野球部の備品よりもこの教室の扉を直した方がよいと思う。
 扉からは、眼鏡をかけた青年が現れた。青年というよりは、老けて見えるが、中年と呼ぶには幼いその人物に該当する言葉を和広は知らなかった。
「布施先生。まだ完成していませんよ」
「そうかい。でも昨日の段階でもう完成しかけてたじゃないか」
 模試だったのでと伝えると、そうか、と納得した様子で布施先生は近くの椅子に座った。
 布施崇久。三十八歳の美術教師。年齢を感じさせない肌に、幼い顔立ち、似合わない眼鏡。まるで大人社会に放り込まれたばかりの子供ような、どこか頼りない印象。
 この明らかに二十代に見える教師はその若さと子供っぽさから女子達の興味の的だった。
 本人は三十八歳と言っているがとてもそうは見えず、年齢詐称疑惑が常に付きまとっている。「威厳がでない」と本人も悩んでいるようだが。
「だがお前、美大志望だろ?それほど一般教養の試験は重要じゃないし。こっちに費やした方がよくないか?」
「まあ、クラスで俺だけ受けないのも変ですし」
 適当に流した。この後に及んで大学も考えているなんていえない。
「そんな調子だと合格できないぞ」
 無視して木炭を走らせる。やれやれと布施先生は溜息を吐いた。
「そんな素っ気ない態度だから彼女も出来ないんだ」
 はぁ?
「関係ないでしょ。なんでその話題になるんですか」
「高校教師というのもなかなか疲れるんだ。ラブロマンスの一つや二つないと面白くない」
「昼ドラでも見ていて下さい」
「あんな人間関係がどろどろしたものは嫌いだよ。心が汚れる。瑞々しい高校生の色恋沙汰のほうが単純に面白いというものだ。誰か紹介してやろうか」
 真面目に働け。
「上北と藤井の間取り持ったのも俺だし」
 教師がなにやってんだ。
「遠慮しておきます」
 意識を絵に戻す。この教師は口が上手いので、下手に続けたらこの人に言いくるめられるだろう。その後も布施先生は色々言ってきたが、全て無視し続けた。無言は力である。先生もあきらめたのか絵を見たり、外を見たりと目をせわしなく動かしている。それも飽きたのか、机にボールペンで落書きをし始めた。小学生か。三十歳後半の雰囲気など欠片もない。
 しばらく作業に没頭する。厳めしい顔の石膏像と作品を近くで見たり遠くから見たりしながら最善を模索する。だんだんと、二次元平面の偉人は生気を帯びてきた。
 最後の仕上げに首筋の辺りの影をはっきりさせていく。ふと、この石膏の哲学者は絵の中でも思索に耽ることが出来るのだろうかと思った。
「出来ました」
「どれどれ」
 難しい顔をしてキャンパスの上の哲学者を眺める。布施先生は美術教師だけあり、私立の美大を卒業している。デザイン科卒業で、絵のアドバイスや美大の後の進路について色々参考になることを話してくれる。大別すれば良い先生の部類に入るだろう。
「色気が足らん」
 性格以外は。
「分かった分かった。そんな目するな」
 和広が露骨に嫌な顔をしたせいか。舌を出して謝罪した。
 その後は真面目に絵の欠点を指摘していった。黒の置き方。構図のとり方、輪郭、影の付け方まで丁寧に。
 布施先生は絵が描き上がるまで絶対に口出しをしない。結局は自分で試行錯誤しなければ本当に上達しているとは言えない、というのが彼の持論だ。
 和広はそれがうれしかった。一度小学生のとき、図工の先生に自分の絵にアドバイスと称して描き足されてしまったことがある。賞は取ったがその作品を破り捨てた。描いている最中に自分の絵を注意されるとその絵自体を否定されたようで腹が立ってしまうのだ。
 一通り反省点を聞き終えると六時前になっていた。
 イーゼルや木炭など道具を片づける。早く帰らないと親父がうるさい。あの家に帰らなければならないと思うと気が重くなる。
「ああ、あと谷川」
 ふと思い出しように先生はこちらを向いた。
「お前、技術云々依然に構図を決めてからくよくよ迷うな。だからあんなどっちつかずの絵になるんだ」
 なるべく笑顔をそういって、美術教師は教室を後にした。
「そんなことくらい、わかってる」
 そんなことくらい、わかってる。


 父の若いときの話を聞いたことはない。ただこの町の人間ではないことは知っている。
 この町には色々な地域の人が暮らしている。勿論その人々は職を探しに来たわけでも、美しい自然に魅せられたわけでもない。元はこの町唯一の観光地であるこの崖、朝ヶ丘で人生に終止符を打つためだ。
 朝が丘というこの名称は、町の花に指定されている朝顔にもじってつけられたそうだ。またその昔、朝顔を愛した姫が、嫉妬と不幸によりこの崖から身を投げたという伝説があり、そこから朝ヶ丘と呼ばれるようになったという説もある。何の伝説であれ誇れるようなものではないが。
 そのせいか朝顔は町の象徴になっており、夏になると各家の軒先で朝顔が咲き誇り、自由研究のテーマの六割が朝顔の観察日記になる。実際和広も三年連続で朝顔の観察日記を提出した。同級生たちも似たようなものだった。
 さて、何百年も前から自殺の名所として、その名を轟かせている朝ヶ丘だが。現在でも年間約数十人が命を絶とうとしてやってくる。その為「自殺防止パトロール隊」なるものがボランティアで結成されるほどだ。毎日、町内の誰かが、朝、昼、夕と朝ヶ丘を巡回している。
 ほかにも、命の電話、といって無料で実家や教会に電話をかけられる公衆電話や、立て札を置いたりと、観光地としての景観を損なわない程度に対策が立てられている。
 とはいっても、本気で死んでしまう人は思いの他少ない。大抵の者は一歩踏み切れず、その辺りを彷徨いているところをパトロール隊や住民たちに保護され未遂に終わる。
 その内多くの者は自分の故郷に帰るが、身寄りの無い者、何らかの事情で帰ることが出来ない者は県の計らいで仕事と住居が提供され、ある程度自立できるまで援助してもらえる。
 父もそんな人たちの中の一人だったそうだ。だがこの町にどういう経緯で来たのか和広は聞いたことはない。なので、父方の親類には会ったこともない。また、そのことについて父から切り出すこともないし、聞くのもためらわれた。
 それは父の弱さであり父の強さだと思った。最近は進路の食い違いから喧嘩ばかりしている。だから、たった一人の人生の重さを再確認しておかないと、父に無神経な啖呵を切ってしまいそうで怖かった。


 谷川土産店と書かれた看板の下をくぐった。ガラス張りでの外装だが、今は準備中で、シャッターが閉められている。看板は潮風で錆びつき、匂いが鼻にまで突いてくるようだった。歴史のある店といえば聞こえはいいが、この店は老舗というより時代遅れの趣をしている。一体何十年前から、ここに居座っているのだろうと思った。
 引き戸を開けると、漬け物と塩の香りが漂ってくる。土産の匂いだ。美空に言ったように店の売り上げはよくない。老人にのみ受けの良い妙な色をした漬け物。駅でも売っていそうなキーホルダーや、お菓子。塵同然の流木で作られたアクセサリーなどの売れ残りの間を通り抜け住居に入る。
 自分の部屋に荷物を置く、一応財布は持っておいた。
 八畳ほどの居間に行くと、父がトランクスとTシャツ姿で野球中継を見ていた。ビールを飲んでいる姿がいかにも親父臭い。つまみは軽食の売れ残りの焼きイカだった。鼻につく醤油の匂いが食欲を誘っている。
「遅かったな和広。」
 とても不機嫌そうに言ってきた。出来るだけ目を合わせないようにした。
「今日は模試だっていってあったろ。」
 なるべく冷静に返した。見下されたような扱いに腹が立ったが、押さえた。
「模試なんて六時までやるもんじゃねえだろ。どうせまた絵でも描いていたんだろ。」
「それも伝えていただろ。それに高校生なんて友達とつるんで遊び惚けるもんで、七時に帰ってくればいい方だろうが。」
 正論に感情論で返してしまったらただの子供だ。しかし、そういった思考も子供の幼い意地だと思った。
 和広のクラスメイト達は最後の三年間といってよく友達同士で食事にいっている。和広自身思い出作りに興味はないが、この前午前一時まで町で遊んでいたという話も聞いたことがある。
「そういうのはいい経験になるからいいんだよ。一人で鬱屈しながら絵描いているなら友達と遊んだ方がよっぽど有意義だよ」
 親父は真っ直ぐな目でこっちを見てくる。まるで諭し、宣言するように。
 それが、とても忌まわしい。
「将来の夢のために努力してるんだ。悪いかよ?」
「別に悪いっていってねえよ。だがじゃあ何で模試なんて受ける?お前はどうせ落ちるかもしれないとか考えて平々凡々な学校に逃げようとしてるだけじゃないのか」 
「もしもの為に準備しちゃいけないのかよ?」
「そんなのもしもじゃねえよ。もしもだとしてもそんな弱気で人生上手くいくはずがねえ。そんな中途半端な奴の為に学費出すなんてまっぴらだ。そんなどっちつかずならあきらめて家継げ」
「やだね。こんなしみったれた土産屋なんて絶対ごめんだ」
「なんだと!」
 父が立ち上がった。この人が本気で手を出すことは少ないが威圧することはよくある。その程度で高校生を脅かすことが出来ると本気で思っているのだろうか。
「ちょっと二人ともそんくらいにしなさい」と母が割って入ってきた。
 食卓に料理をおいてこっちを睨みつける。会話の内容から和広に非がありと判断したのだろう。
「和広、謝りなさい」
 無条件に瞳で威圧してくる。この母は父の味方だ。この後二人掛かりで説教されるのは目に見えていた。
 逃げるが勝ちだ。そう思った。とっさに居間を飛び出し玄関で歩きやすいスニーカーを履いた。
「ちょっと散歩してくる」
 それだけいって家を出た。商品の間を通り抜け、歩道に出た。呼び止める声が聞こえたが気にしないことにした。舗装された道を歩く。
 外はまだ完全に夜になっていなかった。朱色と藍色が混じりあわない空は美しいが恐ろしい色彩だった。
 後ろを振り返ると土産屋が並んだ道の先に夕日に染まった展望台が見える。夕日がノスタルジーを呼び起こすのはやはり事実なのだなと思った。
 美しい風景にしばらく魅入っていたが、前を向き直した。
 体が空腹を訴えている。そういえば夕ご飯も食べずに飛び出してきてしまった。今日の夕飯は肉じゃがの匂いがしていただけにとてもとても残念だった。
 ここは曲がりなりにも観光地だ。二十分も歩けば飲食店はある。そこまで歩かなくても十分歩けばコンビニエンスストアもある。食事にありつく方法はいくらでもあった。文明社会万歳である。
 財布の中身を確認する。この前参考本を買ったので、心許なかった。十円玉の中から百円玉をかき集める。五百円もあれば行きつけのお好み焼き屋にいける。せっかくならコンビニの弁当は嫌だった。必死に小銭をかき分ける。
 夕焼けが世界を支配していた。こんな道の真ん中で、何をやっているのだろう俺は。
「あっ!」
 財布を派手にぶちまけてしまった。小銭が小石とぶつかり乾いた音をたてて八方に飛び散る。思ったより遠いところまでいってしまった。
 何をやっているのだろう俺は。
 小銭を拾い集める。植木鉢の近くに落ちた百円玉を拾い上げる。視線をあげると朝顔が植えられていた。
 花びらは出来ていた。きれいな水色だった。だが夕日に照らされていても花弁は閉じている。この時間はとても寂しい夏の風物詩だった。
 明日また早く起きれば、この花が開いたところをみることが出来るだろうかと思った。今朝会った美空という女性を思い出した。
 美空はまた来ると言っていた。未だに彼女がなにを考えているのかわからない。
 今どこにいるのだろう。朝の会話から推測すると、親類の家に泊まっているのだろうが、観光地で、ずっと家にこもっているとは思えなかった。
 この町には、朝が丘の他にも、海水浴場や、寺院などの観光名所も一応はあるのだ。
 夕ご飯ついでにふらりと探してみようと思った。会わなければそれでもいいし、ずっと気に掛けておくよりは早めに解決した方がいい。
 財布の中を再度確認した。ざっと五百七十九円、なんとかお好み焼きにありつけそうだった。



「じゃあその女の子を探しているってのかい?」
 熱せられた鉄板を挟んで、ママが尋ねてきた。
 ママと言っても、もちろん母親ではない。このお好み焼き屋の女主人のことだ。使い古されたシンプルなエプロンに、皺が出てきたが、表情筋が鍛えられた美しい顔をしている。
 ママは、なかなかの美人でがたいがよく腕っ節が強い。また性格も姉御肌であり、町中の人から好かれている。
 ツケを溜める者には問答無用で鉄拳制裁をし、良心的な客には心のこもったサービスを提供する、料理店の鑑だと思う。
 またママには数々の伝説がある。若い頃は不良グループのリーダーだった。暴走族の頭とタイマンで勝利した。騒音迷惑な不良の溜まり場に殴り込みをし全員を病院送りにした。素手でツキノワグマを倒したなどなど。これら以外に山とある。
 全て本当か分からなかったが、少なくとも、食い逃げしようとした不良三人を、惚れ惚れするようなワンツーでノックアウトしたところは、和広も見たことがある。親父には逆らっても、この人には逆らわないでおこうと本気で思ったものだ。
 つい先ほど店の様子をみてみると、客はほとんどいなかった。店の中にはいるとママは「そこのファミリーレストランで開店日サービスやってんのよ」と今にもその店に殴り込みそうな勢いで教えてくれた。
 客がないのはむしろ好都合だと思った。ママは顔が利く。もしかしたら美空の情報も何か知っているかもしれない。
 カウンターテーブルに座ると、ママはなにも聞かずに豚玉の用意を始めた。昔から豚玉ばかり頼んでいるので、注文という過程はすでに省略されていた。ママは「また家出したのかい、あんたらも飽きないねぇ」と呆れたように言った。
 そうしてママが豚玉を焼いている間、美空という少女のことを聞いてみたのだ。
 最初は、あんたも隅に置けないねぇ、とちゃかされたが、話をしていくにつれ、ママも真剣な表情になっていった。
「探しているってわけでもないんだけど、ただ目撃情報でもないかなって」
 ふーんと、うなりながらママは手を組んで考えている。
 しばらくママは考えていたがその表情は優れなかった。恐らくそんな話は聞いていないのだろう。
「そんな娘見たって話はないね、今日はパトロールの重野さん、店に休憩しにきたけど、近頃は平和だって呟いてたよ」
 やはりママも知らないようだった。ならばあの朝以降彼女はあの崖にいっていないということだろう。まあ、観光ならばどこもおかしいところはないのだが。
「でもまた妙な子だね。カズの話を聞く限り、いまいち真意が読めない、本当に観光じゃないのかい?」
 ママは複雑な表情をしてお好み焼きをひっくり返した。焼きあがったようでソースやアオノリをかけ食べやすい大きさに切り分けてくれる。
「それだったらいいんだけどな。あの娘のいうことを信じるなら、誰か死ぬかもしれないし」
 割り箸を割ってお好み焼きを皿に取った。焦げたソースとふっくらした生地が食欲を誘った。
「じゃあ今度、野谷さん寄ったときにでも話しておくよ」
 野谷さんというのはパトロール隊の一人で、普段は蕎麦屋をやっている。どうやらママに気があるらしく、この店にほぼ毎日寄ってきている。奥さんもいるが、夫婦仲はそんなによくないそうだ。
 しばらく食べているとママも空腹なのか、断りもせず和広の豚玉から一切れ取った。いつものことだと思った。
「ありがとう。でも俺も調べてみるよ。パトロールの人っていっても絶対止めれるとは限らないしさ」
 パトロールなんていっても見回らない時間も多い。引き留めたこともあったが、止められなかった例がたくさんあるのも事実だった。
 それを聞いてママはちゃかしていたときの表情に戻った。
「さてはカズ。その娘に気があるね?どんな娘だい?」
 ママは教えろ、といった詰問口調だった。
「なんでそうなるんだよ。一度しかあっていないんだぞ?」
 何でこのあたりの大人は思考が週刊誌なんだと思った。
「うるさいとっとと喋る。お前のお父さん呼ぶよ!」
 本気で脅しにかかってきた。ここまでくると観念するしかない。
「白いワンピースを着ていたな。顔は綺麗だけどなんか表情が子供っぽい感じだった。白いサンダルを履いていた、そのくらいか」
 しょうがないとあきらめ、思いつくかぎりの美空の特徴を並べていった。
 最初、ママはニヤニヤ顔で聞いていたが、途中からその色は失せていった。説明が終わるとママは深いため息をついた。
「あんた。まだあの人のこと引きずっているのかい?」
 その一言が眠らせていたはずの、眠らせようと努力していたはずのある人を思い起こさせた。その人は記憶の中で、白いワンピースを着て笑っていた。
 そして、その人物の記憶も忘却の中から再生された。
「違うよ、あれはもう十年前のことだ、もう吹っ切った」
 自分で言っておいて本当かどうか自信がなかった。その記憶があまりにも鮮明に蘇ってしまったからだ。
 そこで気がついた。確かあの人には娘がいたはずで、確か和広より一歳年上だったはずだ。もしかしたらと思った。だがそれを察したようにママは口を開いた。
「あんたが変なこと想像しないためにいっておくけど、あの人の娘の名前は美空じゃない。それはあんた自身がきいたことだろう」?」
 そうだ。あのひとの娘の名前は美空じゃない。美しい空じゃない。
 いつの間にか自分が席を立っていることに気づいた。ママはまたため息をついた。
「あんたがどうしようと自由だけど、あまり深追いしない方がいいよ。死にたい奴ってどんな行動を起こすか分からないからさ」
 その言葉は深く心に染み込み、昔の記憶でオーバーヒートしていた頭をゆっくり冷ましていった。
「ママ、あんたが言うとすっごいリアルに聞こえるよ」
 なんとか軽口を叩いて席に座る。すぐに話題を変え、あの思い出を遠ざけようとした。ママもそれを察してくれたのか自然に元の美空の話題に戻っていった。
「まっ、その美空ちゃんの家族とやらが暴走しないよう気をつけてね」
「気をつけるよ。つーかママ、やばいとき助けてよね」
 恐らく窮地に立たされたときこの人ほど頼りになる人はいまい。断言してもいい。暴力団に絡まれてもこの人なら何とか切り抜けてしまう気がする。
「あと一枚私の分注文してくれたら考えてあげてもいい」
「あと七十九円で注文できるお好み焼きがあるんなら」
 ちぇっ、ママはそういって自分の分を作り始めた。どうやら本当に食べたかったらしい。生地を食材をよく混ぜ鉄板の上に広げた。和広のより綺麗に仕上げ、おいしそうに食べている。
「そろそろ帰るよ」
 そういって和広はカウンターに五百円をおいた。これ以上話すとまたあの人のことを思い出しそうだった。
「そうかい。お父さんによろしくね」
 お好み焼きを食べながら、ママはそういった。お好み焼きを食べるのに集中しているようだった。
 店から出た。外は大三角を中心に銀砂を振りまいたような夜空だった。
 ウォークマンでも持ってくるべきだったなと思った。誰かと話したり、音楽をきいていれば気が紛れる。だが、静かすぎる町の音と、アスファルトを踏みしめる心地よいテンポの足音は、心を感傷に浸らせる。
 美空を少し探して帰ろう。指針を固め、どこともなく向かう。会えるとは思っていない。いや、むしろ会えない方が、今の和広には好都合かもしれない。
 



 その人とは和広が小学校四年生の時に出会った。その人も美空の様に白いワンピースを着た人だった。
 最初にあったのは商店街の中だった。母と一緒に来たが、玩具屋の店先に置いてある商品に目を奪われている間に母とはぐれてしまって途方に暮れていたのだ。
 商店街を行く社会人たちを見た。泣いても助けている身内は近くにいない。見知らぬ人たちの前で泣くなんて恥ずかしい思いをしたくなかった。ここで一人で待っていれば母親が探しに来てくれる。そう思って耐えた。だが知らない人が無視して通り過ぎていくいく中、一人孤独に耐える程強くなかった。
 涙が目の奥の方から染み出してくるのが分かった。無尽蔵な寂しさとともに押し寄せるそれを、幼い和広に止めることは出来なかった。それでも溢れ出さないよう必死にこらえた。
 通り過ぎていく人たちは、目に涙を浮かべ辺りをせわしなく見ている和広を、一瞬横目で見るが話しかけることはしなかった。まるで必死に見えないものとして扱っているようだった。ふと自分は一生このまま一人なのだと思った。母は面倒くさがりだ。探すのをあきらめて帰っていってしまったかもしれない。そう思うと悲しみが我慢できないほど瞼の奥を刺激してきた。もう涙をせき止めることは出来なかった。しゃっくりが止まらなくなり、喉が自分が意図しない情けない声をこぼす。
 そのとき彼女に出会った。出会ったというより助けられたという方が正しいのかもしてない。
 白いワンピースを着た人だった。その白はとても綺麗で、天使の服のように思えた。彼女はしゃがんで和広の顔を見た。
 お母さんは?彼女は聞いた。優しい声だった。
 はぐれたんだ。そう言おうとしたが涙としゃっくりでうまく言えなかった。それでも何度も何度も繰り返した。
 彼女は分かったみたいで頭を撫でてくれた。それだけで心の中にあった悲しみが薄れた気がした。
 じゃあここでお母さん待とうよ。彼女はそういって手を繋いでくれた。その手のひらが和広に安心感を与えた。
 でもお母さん帰っちゃったかもしれないよ。涙が少し収まった和広はそう言った。
 大丈夫、お母さんは君を必死に探してくれているはずよ。絶対の真理のように彼女は言った。
 しばらくそのまま手を繋いで待っていた。柔らかい手のひらから彼女の温かさが伝わってくる。その間少しだけ幸福を感じた。
 しばらくして息を切らした母が現れた。驚いた。こっちに気づくと名前を呼びながら走ってきた。
 ほらね?彼女は和広に向かって言った。お母さんにとって君は宝物なんだよ。とも言った。
 母は何をしていたんだと罵声を和広に浴びせた。とても怖かった。もう自分に振り向いてくれないのではないかと恐れた。
 一通り説教が終わると母は彼女の方を向いて礼を言った。かわいいお子さんですね。彼女は笑った。
 さっき自分が泣いていたことを思い出し、恥ずかしくなった。母の隣まで行き彼女の顔を見上げると、その視線に気づいたのか微笑み返してきた。
 急に気恥ずかしくなった。その微笑みをずっと見ていたかったが自分ではない自分がそれを拒んで目を逸らさせた。今まで感じたことのない気持ちだった。
 母は何度も頭を下げその人に礼を言った。彼女は観光でここに来たのだと言った。
 しばらく母と彼女は話していたが、母は腕時計をみて、すいません。そろそろ私たち行きますね。と言った。そして、お姉ちゃんにバイバイは?母はそう和広を促した。
 もう一度彼女を見た。手を振ると彼女も笑顔で手を振ってくれた。ずっと振っていたかった。彼女を目に焼き付けようと思った。しかしそれはのちに消せない記憶となって和広を苦しめることになった。


 次に彼女に会ったのはその数日後、和広がラジオ体操から戻ってきたときだった。
 朝は爽やかな色に包まれ自然に生きるもの全てが祝福されているような朝だった。
 この時間、両親は店の仕込みに追われていて和広の相手をする余裕などない。相手にされないか、邪魔者扱いにされるかのどちらかだ。
 いつもは自分の部屋に戻ってマンガを読んで時間を潰すのだが、今あるマンガはもう読み飽きてしまった。どうしようかと考え、その日は散歩をする事にした。家の横にある。小さな道に向かう。
 家の側に朝ヶ丘に続く道とは別の細い林道がある。途中で二つに分かれていて、片方には観光客も知らない朝ヶ丘の絶景スポットがある。家族で一度行ったことがあったが、一人では危ないから絶対行くなといいつけられていたのでそれ以来一度も行ったことがなかった。
 朝の木漏れ日が射す土道を歩く。足の下から葉っぱと土の強い匂いがした。カブトムシを売っている場所と同じ匂いだと思った。
 しばらく歩いていると耳元で蚊が飛んでいる音がした。虫よけスプレーはしていたが、効果が切れてきたらしい。潰してやろうと音のする方へ平手打ちをかましたが音は減るどころかますます大きくなってきた。
 キリがないと思い駆けだした。鬱陶しい吸血虫を振り払って走る。体に向かってくる風と、サンダルの裏の土の感触が心地よかった。
 朝ヶ丘に出た途端、急に潮風を体で感じた。眼下には白い岩のアートが並んでいる。上ることが困難な大きい岩もあれば、腰掛けられる小さい岩もあった。海に食い込む大小様々な岩で出来た橋は、自然のものとは思えないほど綺麗な曲線を描いていた。
 少し歩いて手頃な岩に腰掛ける。走って火照っていた体をしばらく冷ましていたが、熱が冷めると急に退屈になり、近くにあった石を投げてしばらく遊んだ。
「あれ?久しぶり」
 急に声を掛けられ、驚く。ここには自分以外誰もいないはずだ。声のふと上を見上げると、商店街で助けてくれた天使が、斜め後ろの白い岩の上に腰掛けていた。この前と同じ白い服が、朝日に輝いて眩しかった。
「・・・・こんにちは」
 何とか言葉を出した自分でも声が震えていると分かる。我ながら情けないなと思った。彼女は気にした様子もなく、和広に微笑むと視線を海に戻した。しかしその横顔がなぜかとても寂しく見えた。
「なにをしているんですか」
 迷った末に、そう話しかけた。あっちから話しかけてきたのに、声をかけてよかったのかと根拠もなく不安になった。
「海を見てるの」
 見れば分かった。そこで会話は途切れてしまう。仕方ないので彼女と同じように海を見た。
 ふとなんで彼女はここにいるのかと考える。ここは地元の人でもあまり知らない場所で、滅多に誰も来ない。この場所への道も和広は、通って来た道以外知らない。聞いてみようと思った。
「海、とても綺麗ね。世界のすべてがきらめいてる」
 ふいに彼女が口を開いて驚いた。口にしようとしていた言葉を必死で飲み込んだ。
「ねえ、海って何で青いと思う?」
 彼女は海を見たままそう言った。和広も海を見る、水平線の内側は砕けたガラスのように光を乱反射している。白と青色で作られた巨大な宝石は、一つの形に固定されることなく動き続けている。
「何でだろう」と和広は返した。今思えば小学生が答えられる問題だと思う。「それはね。」彼女はこちらに視線を移した。
「簡単に言えば、虹が海に映っているけど青色しかみれないからなの。」
 太陽光は一見白く見えるがそれは赤、橙、黄、緑、青、藍、紫の色の光が混ざり合って白色光として見えているだけで純粋な白というわけではない。虹はその混ざった日光が水滴などにぶつかって七色に分離、角度的にちょうどいい位置にいると、観測者は七色の光として見ることが出来る。一方、海中に太陽光線が入ると、赤や黄といった長波長の光は吸収され、短波長の光の青のみが海中に浮遊する微粒子にぶつかり反射されるため、青色の光のみが見に入り、海は青く見える。 
 海は鮮やかな虹色を飲み込み、たべのこしの青色だけを返してくる。
「だから、海の青はこんなに綺麗なんだと思わない?」彼女は続けた。
「いろんな色と一緒にいて透明に見えるくらいなら、一人だけの孤独になってでも、誰かの目に映ろうとしているんだから。」
 彼女の言っていることは、たかが十歳の和広には、ほとんど理解できなかった。なぜこのような話題を出すのかもわからない。ただ、一人だけの孤独、という言葉が和広の胸にずっとしこりのように残った。
 しばらく和広は黙っていた。間違えば壊れてしまうであろう何かを必死に守った。
「お姉ちゃんは海のこと詳しいんだね」
 色々なことを聞こうと思っていたはずなのに、出てきたのはそんな言葉だった。
 彼女は「まあね」と少し上機嫌で答え「お姉ちゃん、お姉ちゃんかぁ」と呟いていた。どうやらお姉ちゃんと呼ばれて嬉しかったようだった。彼女はこちらに近づき、隣の岩に座った。
「君、名前は?」
「谷川和広」
「そっか何歳?」
「十歳。小学校四年生」
「あ、私の娘の一つ下だ」
 和広は驚いた。彼女に娘がいるような年齢には見えなかったからだ。
「お姉ちゃん何歳?」
「女性にそう簡単に年を聞くものじゃない」
 軽く頭を小突かれた。
「ご、ごめんなさい」
「かわいいから許す。でも五年経つ頃には直しとかないとほんとに失礼になるわよ。」
 かわいいと言われ少し嫌な気持ちになった。
「で、何歳なの?」
「企業秘密」
「このかわいさに免じて」
「私より可愛くないからだめ」
「今日の干支占いの運勢教えるから」
「その手には乗らないよ」
 やがてどちらからともなく笑いだした。やっと場の空気が柔らかくなった気がした。
「子供がいるんだね」
「うん、かわいいよ、私に似て」
 彼女は誇らしげにそう言った。
「どんな子?」
「ちょっと変わった子だけど、優しくて、我慢強い子かな」
 気のせいかそのとき、彼女は少しうつむいて涙を我慢しているように見えた。しかしそれは一瞬でいつもの顔に戻った。
「お姉ちゃんは、どうしてこんなところにいるの?」
 この場所は町の人も殆ど知らない。観光できたのであろうお姉ちゃんがこの場所にいることが不思議だった。
「ちょっと朝ヶ丘に行こうと思って歩いてたら、気になる裏道があったの。私、結構そういう裏道気になる人間だから」
 いいところ見つけてラッキーだったよ。と彼女は微笑んだ。
 その後、彼女はこの町のことについて色々聞いてきた。お勧めの観光名所や、歴史、地理、好機心が強い人だなと思った。和広は思い至る範囲で喋った。
 ふと気づくと、どのくらいこの場所にいたのか分からなかった。
「今、何時?」
「八時前くらいかな」
 彼女は腕時計をみて、そう言った。そんなに長居していたとは思わなかった。親は怒りを通り越して心配をしているかもしれない。
「ごめんなさい。僕もう帰るね」
「そう、また明日ね」
「明日も来てくれるの?」
「どうせ暇だしね」
「じゃあまた明日」
 そういって和広は岩場を歩いていった。そういえば何故彼女はこの場所に来たのか聞くのを忘れていたことを思い出した。また明日聞こうと思った。
 帰ると、父と母にこっぴどく叱られた。もう少し帰るのが遅れたら警察に捜索願を出すところだったらしい。そこまで心配かけたことを心から申し訳なく思った。しかし明日もあの場所に行くことは言わなかった。


 それから、毎日彼女に会いに行った。ラジオ体操の帰りに林道を通り、秘密の場所にいく。彼女はいつも岩の上に座り、海を見ていた。和広がそばに駆け寄り、座るといつも話をしてくれた。
 話の内容は他愛のないことばかりだった。
 彼女は別れるとき必ず言った。このことは絶対お父さんお母さんに言っちゃだめよ。その約束を破ったらもう会えないからね。
 なんで彼女はそんなことを言うのか分からなかった。和広はわくわくするような優越感に浸っていた。誰にもいえない秘密は和広の心に深い喜びを与えていた。
「君も私の子供みたいに思えてくるね」
 ある時、ビールを飲みながら彼女は言った。朝食を食べ終え、確か、朝の十時くらいだったと思う。その日は早朝から暑かったせいか彼女はビールを手にしていた。和広にはカルピスを買ってきてくれた。
「そう言えばお姉ちゃんの子供の名前ってなんて言うの?」
 ふと和広は訊ねた。彼女の娘についてたくさん教えてもらった。好きな食べ物、口癖、そのとき流行っていたキャラクターのぬいぐるみを寝るときも決して離さないこと。
和広はその女の子と知り合ってさえいないのに、まるで友達になった気分になった。そして名前さえ知らないことを思い出し、聞いたのだ。
「名前はね。つぐみって言うんだ」
「鳥の名前だっけ?」
 学校でみた鳥類図鑑の中にそのような名前があった気がする。
「ああ、鶫ね。残念ながらそっちじゃないの。月に海、『月海』と書いてつぐみっていうんだ」
 入れ替えるとクラゲだけどね。と彼女は苦笑いをした。
 そのときにはもう習っていた漢字だったので、すぐにその二文字を思い浮かべることが出来た。
 綺麗な名前だと思った。今ここにあるのは夏空と太陽だが日が沈めばそこにあるのは月と海だ。このあたりの空気は澄んでいる。町の灯りもこの崖までくるとあまり届かなくなり、夜になると、星と月とそして海の輝きでこの崖から見える景色は幻想的になる。危ないといわれ、そのころはあまり見る機会がなかったが、近所の夏祭りのあと、こっそりここにきてその景色を三十分くらい眺めていたことがあった。
「綺麗な名前だね」
 改めて口に出した。会ったことのなどないのに、その子はたぶん可愛いだろうなと勝手に思った。写真はないの?と彼女に尋ねたことがあるが、彼女は持っていなかった。
「つぐみはなんて呼ばれているの?」
 ちゃんをつけた方がいいかなと思ったが、顔も知らないのに馴々しいかなと思った。
「だいたいは、そのままつぐみちゃん、とかあとつぐみん、つーちゃんとかかな」
 つぐみん、には怒っていたけどねと付け足した。
「ぼくがお姉ちゃんの子供だったら、そのつぐみんがお姉ちゃんになるのか」
 あまり実感が沸かなかった。彼女が語るつぐみのイメージが子供らしい姿ばかりだったので無意識に年下のように考えていた。
「だからつぐみんは言ったら怒るよ?あの子以外と頑固だから。そういえば私はお母さんっぽく見える?」
 隣に座っている彼女を見た。母と言うには余りに若く、綺麗だった。
「見えない」
「ありがとう」
「綺麗だとは言ってない」
「けち」
 そういうと彼女は海を見た。すねているのか、ふりをしているのかわからないが、会話は途切れてしまった。
「そういえばお腹空いたね」
 いたたまれなくなりでてきたのはそんな言葉だった。
「そっか、もうお昼時なんだね。家に帰るの?」
「いや、今日母さんも父さんも用事でいないから、外で食べるんだ」
 彼女は怪訝な顔をした。今思えば当然だと思う。小学生が一人で外食するのは、あまり良いものとは思えない。しかしそのとき一人で食事をするのは、ちょっと大人になったようでわくわくしていた。
「どこで食べるの?」
「いつもお母さんと行ってるお好み焼き屋さんがあるんだ」
 とってもおいしいんだよ。そういうと彼女は少し悩んだ顔をした。恐らく一緒にいこうかと悩んでいるのだと思った。しばらく海を見た後彼女は結論を出した。
「私も行っていい?」
「うん。いいよ」
 異論はなかった。岩を降りた彼女と一緒に荒波の音を聞きながら、朝ヶ丘の上を歩いていった。


 色々と思い出しながら歩いていたら意外と時間が経っていたようだ。アスファルトを踏む音は、自分でたてているのだが心地よい。
 特に家に帰ろうとも考えず当てもなく歩いていたのだが、気づいたときにはあまり聞いたことのない商店街の中をいることに気づいた。夜ということもあり、開いている店はほとんどなかった。塗装が剥がれ溝が錆び付いたシャッターが、閉店を知らせる張り紙が、救いようのない寂しさを表していた。
 道にはゴミ一つ落ちておらず、良く言えば綺麗だが、それは過疎で人から忘れ去られてしまっている寂しさも内包している。
 この辺りは、観光客があまり通らない場所に位置する。一応観光バスの降り場が商店街の入り口にあるが、滅多に降りる物好きもいない。
 昼はまだ活気があるだろうが、九時を超えると、殆どの店が閉まり所々居酒屋の明かりが見えるくらいだ。そして閉まっているシャッターには、落書きや、無期休業の張り紙が、醜く浮かんでいた。
 黄ばんで穏やかな光を放つ蛍光灯の下、和広は帰り方を考え始めた。あちらこちらに道はあるが、どこがどう繋がっているのかまるで見当が着かない。本格的に迷ったようだ。来た道を戻れば良いのだろうが、無意識のうちに、何度も曲がっていたので、来た道の反復には自信がなかった。
 戻ることもせず、考えることも後回しにし、歩いて行く。こんな性格だから、目指すべき進路すらはっきりと決められないのかとも思った。
 ふと、足が止まった。ここは来たことがある。それも最近じゃない。もっと幼い頃のことだ。
 目の前にある閉店した玩具屋の看板を見て、思い出した。この商店街は確か初めてお姉ちゃんに会った、あの商店街だった。偶然なのか無意識に来てしまったのかは知らないが、また同じ場所で迷子になるとは自分も進歩していない。神様もまた妙な計らいをしてくれたものだと思った。
 あのときと同じにならないよう、来た道を戻ろうと思った。確実に帰れるかは疑問だったがここにいるよりはずっといい。ここで待っていても誰も迎えに来てくれないし、手を繋いで一緒にいてくれる親切な人もいない。
 ゴーストタウンのような道。美空の姿を探したが、浮浪者のような老人くらいしか見あたらない。自分の歩く音がやけに大きく聞こえた。
 あの玩具屋の前に立った。シャッターに張ってある張り紙には「無期休業」と書かれている。あの頃のように子供心を弾ませる玩具は、もう店先に並ぶことはない。
 しばらく、そのまま立っていた。疲れていたわけではない。どうしようもなくやるせなかった。
 悲しい思い出も、楽しい思い出も、それはただの記録にすぎない。例え写真や映像に残っていたところでそこにはないのだ。お姉ちゃんが死んでしまったときの記憶も段々と和広の心から色を失っているようにように。
 頭を振って、柄にもない考えを振り払う。昔のことを思い出したから、こんな感傷を抱いてしまったのだ。和広がいるのはこの時間以外にあり得ない。帰宅するために足を踏み出し、砂利の混じったアスファルトを踏みしめた。
「あああああああああああ!」
 突然、悲鳴が聞こえた。感傷的な気分はかき消され、五感の全てがそれに集中する。全身の筋肉が強ばり、腹のそこから理由のないおびえが沸いてくる。
 声のした方に意識を向けた。男性の声だった。低い声だったが明らかに恐怖の入り交じったもの。どうするか一瞬迷ったが、耳を頼りに走り出した。
 商店街の入り組んだ道の間を走り、何かから逃げているその音を頼りに、場所を目指す。もうどこを走ったかさえ覚えていない。和広にはそんな些細なことに意識を割る余裕はなかった。シャッターが走る自分の影を映している。息が乱れ、運動不足の体が悲鳴をあげ始めた頃、そこにたどり着いた。
 そこには二人の人間がいた。まるで絵に描いたような酔っ払い親父と、まるで絵に描いたような通り魔だった。
 通り魔は、シルエットから察するに女性だった。暗くてよく見えないが、刃物の切っ先を、ただ、真っ直ぐへたりこんだサラリーマンに向けてピタリと固定していた。
 中年で酔っ払っていたらしい彼ははへたりこんでいた。驚愕の表情で目の前に突きつけられた刃物と、女性を見ている。すでに切られているらしく、腕から赤いものが流れている。起きあがることを忘れているのか、それとも酔いが醒めていないのか、尻をアスファルトにつけたまま動かない。
 女性の方はまるで落ち着いていた、人間の命をあと二秒あれば奪えるその体勢が、彼女の自然体のようだった。
 彼女にその気があれば、目の前の酔っ払いはすぐにただの肉塊になってしまうだろう。止めなければならない。だが、体が動かなかった。
 彼女は間違いなく、人を殺めることに慣れていた。一見しただけでわかった。女性ということも、どれほど場数を踏んでいるかも関係ない。それを出来る心が、倫理が彼女にはある。
 状況は飲み込めた、だが、打開するすべが見当たらない。
 このような気持ちを恐怖というのだろう。それはお化けなどといったファンタジーのたぐいから来る戦慄ではない。
 狂気という説明不能な感情に対する恐怖だ。触れることすら躊躇わせるような人の形をした狂気は、見えない刃のように、生命のそこからの震えを呼び起こした。
「・・・おい、やめろよ」
 やっと出てきたのはそんな言葉だった。声がかすれているのが自分でもわかる。蛇に睨まれた蛙って今の俺のことだよなあと、和広はうっすら思った。現に和広は蛇に飲まれ、粘液に絡まれているように動けない。
 女は声に気づき、視線をこちらに向けた。まるで人形のような動きだった。夜の闇で顔は見えなかったが、暖かみは感じなかった。それがまた、恐怖を誘った。
 ゆっくりとこちらに向かってくるのがわかった。酔っ払い親父は傷を負った腕を掴みながら、必死の形相で逃げ出した。こちらの身の安否を気にする余裕はないようだ。
 逃げようと思った。意識も無意識も逃げろと足に命令している。だが指一本動かない。声も出ない。
 ああ、ここで殺されるなと思った。今にも途切れてしまいそうな電灯に血に汚れた包丁の刀身が煌めいている。
 彼女は、電灯の下をくぐる。そのシルエットが露わになる。白い素肌、白いワンピース、血に塗れた包丁には不釣り合いなその姿は、何故か聖なるものを思わせた。
 顔に光が当たり、輪郭が現れる。それは今朝会った、礼儀正しくどこか子供のような、美しい空と書く名前の人だった。
「美・・空・・・」
 今朝聞いた、彼女の名を呟いた。反応はない。
 顔は美空だった。だが、その目には、怒りや憎しみや哀しみやいろんなもので歪んでいる。あの穏やかな美空のものではなかった。
「美空!」
 もう一度名前を呼んだ。相手が美空と知ったせいか、体に力が入るようになってきた。切っ先を向けている彼女が、あの子供のように微笑む美空であることを願った。
 美空の表情は変わらない。ただ、こちらを虚ろな目で見ながら歩いてくる。もしかしたら彼女はただのマリオネットで、誰かが後ろで糸を引いて動かしているような錯覚さえ覚える。
 美空は、ためらいなど微塵もなく、凶器を向け和広の前に立った。
「なんだよ、美空!なんでこんなことをしてんだよ!」
 美空は動じない。何も喋らない。まるで自分は美空なんて知らないとでもいうように、有機物を切り裂くことを想定して作られた刃を真っ直ぐこちらに向けた。 
 もう、限界だった。
 美空が包丁をふりあげた瞬間、全身の力を込めて真横に跳ぶ。月の光を反射した刃がさっきまでいた場所を薙いだ。刃は途中で方向を変え真横に弧を描き、服をかすめる。数秒動くのが遅かったなら、その刃は肉を切り裂き、内蔵まで達していただろう。
 本能的に姿勢を低くして走る。なるべく離れなければならない。背後を確認したが、美空は追ってこなかった。角を曲がり、電信柱の影に隠れ、様子を見る。
 いつの間にか美空は、禿頭のサラリーマンの前に立っていた。彼は腰が抜けているのか、追いつめられた小動物のように、四足歩行で必死に逃げようとしている。しかし冷静な二本足のホモサピエンスには、その速度など無意味に等しかった。
 美空は冷たい瞳で酔っ払い親父を見下ろす。この後何をするのか、容易に想像がついた。
 彼女は、包丁を逆手に持ち変え、大きく振りあげた。切っ先を向けられている男は、声も出せず、ただ震えている。
空の形をしたそれは、ためらいもなくその刃を脳天に・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・振り下ろさなかった。その刃は男の頭骸を砕くことはなく、直前で制止していた。
 その頭上、数センチで止まった刃の先は、震えていた。さっきまで幽霊のように何一つ音を立てなかった彼女は、今は荒々しく呼吸をし、自分を抱き締めていた。先までの彼女と様子が違う。
 呼吸が落ち着くと、彼女は周りを確認し始めた。まるで夜だということに今気づいたような挙動だった。きょろきょろと周りを見渡したあと、自分の持っているものに視線を落とし、ただ、
 やっちゃった、と呟いた。
 幸か不幸か、襲われた中年男性は恐怖から完全に気を失っていた。美空はそのことに安心した様子で、彼の体を慎重に歩道の端に寄せた。自分より大きな人間を運ぶのには時間がかかるようだった。
 今の彼女はどっちなのだろう。あの何もかもを憎んでいるような気配は発していない。大人でありながら、どこかに子供っぽさを捨て忘れてしまったような、今朝のものだ。
 彼女が今、美空に戻っているとするなら、今聞くしかないだろう。何であんなことをしたのか、君はいったい何者なのか。
 電信柱の影からわざと足跡を大きくたてて、彼女の前にでる。また刃物を向けられるかもしれなかったが、そうはないという確信があった。
 美空は驚いた顔をしていた。さっきまで切りかかってきたのに、まるでいたことを知らない様子だった。
「・・・まだいたの」
 彼女の声音は落ち着いていた。だが、それは平穏から来るものではない。絶望を悟った人間のそれだった。それはさっき痛い程感じた殺気とはかけ離れていた。舞台俳優がどんなになりきっても、ここまで変わることは出来ないだろう。表情すら違う。
 彼女は狂っているのだろうか。それとも、ただからかって遊んでいるだけなのだろうか。後者だとしたらたちの悪いことこの上ない。
「君は、いったい誰なんだ?」知らず声を上げた。
 今その手に包丁を持つ君は、いったい誰なんだ?
「私は、美空だよ。自己紹介したじゃない」
 そうじゃない。そうじゃないんだ。俺が知りたいのはそんなことではない。
 美空は、いや、君は誰なんだ。どれが本当なのか、美空があの狂気を演じたのか。それとも、さっき襲いかかってきたあれが今の美空の顔を被っているのか。わからない。
「さっきなにしようとした?」
「知らないよ」
 彼女はさも当たり前のように言った。
「しらばっくれるなよ。さっきまでそこの親父に包丁を突きつけていただろ」
「・・・人違いじゃないの?」
 苦しい言い訳だ。
「ふざけんなよ。あんなもの見せられて、そんな言い訳通用すると思ってんのか!」
 彼女は、答えず俯いた。怒られて涙を堪える小学生のようだった。彼女は本当にさっきまで人を殺そうとしていた人間なのだろうか。
「ごめんなさい。でも、人違いだよ。私にとってはね」
 囁くように、虫の鳴くように呟く。それは、祈りとも、懇願ともとれるものだった。
「・・・どういう意味だよ。それ」
 今の彼女は間違いなく美空だ。それはわかる。だから強く問いつめることは出来なかった。だがこの状況下でまだ「人違い」に逃げる美空を理解できなかった。
「仕方ないのよ。あの子が出てきたんだから、しょうがないんだよ」
 あの子?どういうことだよ。あれが美空じゃないならいったい誰だよ!
 それを聞こうとした瞬間、突然警報が鳴った。パトカーの音だ。ドップラー気味なシとソの音がここに事件があることを知らせてくれる。建物の隙間から赤色の光が断続的に漏れていた。
 美空に襲われた男性はまだ気絶している。彼じゃないならば、おそらく近所の住民が彼の悲鳴を聞き、通報したのだろう。
 彼女は、その正義の音に怯えていた。どこから来るのか、キョロキョロと視線を彷徨わせている。
 和広の背後から音は近づいてくる。正義の執行者が来る方向を彼女は認識した。
 その瞬間美空は、右側にある裏道に走り出した。サイレンが聞こえだしてからおよそ二秒、とても早い判断だった。
 和広はその道がどこに通じているのか知らない。追いかけたとしても入り組んだ裏通りの中迷わず走れる自信はどこにもない。
「待て、逃げるのかよ!」
 美空はこちらをみた。そこには、依存先を求める子犬ような頼りない色が浮かんでいた。
「ごめんなさい。本当にごめん。和広くん。嫌いにならないで。事情があるんだよ。今は時間ないけど明日、今度はあの森の向こうで待ってるから」
 耳障りなサイレンが響く中、涙声が耳に届いた。和広はその言葉を理解するのに数秒かかった。
 路地裏から三人の男が現れる、一人はこの辺りの警官のようで、先に降りた二人の後をへこへこついてきている。自殺者と、その支援が主のこの町の警官にとって傷害事件というのは慣れない事態なのだろう。
 一方、前を行く二人の男の内一人は、しっかりとしたプロらしく精錬された動きだった。その警官は小柄で、中性的な顔立ちをしていたが、まるで射抜くような眼差しが、底の深さを表している。海外ドラマで、諜報機関として出てきそうな男だった。
 もう片方は警官ではなかった。眼鏡に、ヨレヨレのスーツ、無精ひげ、曲がったネクタイという出で立ちで、推理ドラマの冴えない探偵役をもっと情けなくしたような印象の男だった。だがその瞳の奥には、優しげな輝きがあった。
 小柄な警官は、和広と腰の抜けた親父の姿を認めると、路地裏に逃げていった美空を目で追いながら被害者を保護するように間に入り、美空のいる方向にライトを向けた。それに感づいたのか、美空はその姿を光にさらす前に、闇の衣が張り巡らされている路地裏に完全に逃げ込んていた。
 ライトを向けた小柄な警官は、ついてきた田舎警官に包囲網を作るように檄を飛ばすと、自らも美空を追って路地裏を駆けていった。
「大丈夫かい?」
 思ったよりも大柄な、スーツの男が心配そうに話しかけてくる。今逃げた美空の影を見て、あちらが犯人だと判断したのだろう。この男の口調はなぜかとても安心できた。
「・・・俺は大丈夫です。それよりあっちを」
 そう言って和広は気を失っている男性を指さした。和広は無傷だったが彼は腕に傷を負っている。軽傷だが放っておくわけにはいかない。
 現場にあと何人か警官が到着し男性を保護し、さらにこの場の痕跡を調べ始めた。
 先ほどの小柄な男が近づいてきた。美空を見失って単独で探しても意味がないと踏んだのだろう、改めてみると屈強そうな体が服の上からもわかった。
「君、犯人の顔を見たかい」
 彼の声は先程他の警官に叫んだような、威圧に満ちたものではなかったが、鷹の目にように鋭いものを感じた。
「・・・いいえ、暗くてよく見えませんでした」
 和広はそう答えた。
 国家公務員たちが迅速かつ的確に行動する中、和広は身動きが取れなかった。犯人が和広ではないのは明確だったが質問責めにあった。犯人扱いされなかっただけましなのだがそれでもうんざりした。
 おおかた真実を話した。だがあの人影の人物とは無関係ということにしておいた。その顔も闇で見えなかったとして美空への手がかりを出来る限り消しておいた。
 「私を助けて」と彼女は言った。それが和広に向けられたものなのは明らかだ。だが、何から助ければいいか分からなかったし。そこまで考察できるほど、和広の心的疲労は軽くなかった。
 まだ、心臓が脈打っていた。死の顕現のような包丁の切っ先を思い出すだけで寒気がした。
 美空は何から助けて欲しいのだろう。人を殺してしまいそうな自分なのか。それとも今朝、誤魔化した自殺してしまいそうな自分なのか。
 彼女が警察に捕まってしまえば、それらが無意味に泡と消える気がしたのだ。
 そして、それとは別に疑問に思ったことがある。「森の向こう」その場所がどこなのか、覚えがあった。しかしそれはもう九年前のことであり、それはもう和広しか知らないことだ。もし彼女が偽名を使っていて、本名がつぐみだとしても知っているはずがない。
 様々な疑問に頭を抱える。人間一人分の処理能力では追いつきそうになかった。
 警察官に来てくれた礼と、有力な情報を提供できなかった詫びをした。警察官は通り魔事件とあって真剣な顔をしている。未遂であっても人の命が奪われかけたのだ。警察たちがピリピリするのも無理のないことだ。
 だが何となく、突然起こった事件にしては対応が迅速すぎると思った。
 彼らは丁寧に和広を扱ってくれた。真夜中、高校生が一人で夜道を歩いていたことはこってり怒られたが、極度に緊張している和広の体と心を気遣い、家まで送ってくれた。送ってくれたのはあの小柄な警官で、渡辺と名乗った。
「・・・災難だったな」
 送って貰っている車の中、渡辺は声をかけてきた。隣には、スーツ姿の男がいた。彼は自分は熊田と気さくに名乗った。
 和広はパトカーに初めて乗った。ハンドルの横には無線機が置いてあり、CDプレーヤーやラジオがついているはずのところに何に使うかわからない機械が並んでいる。どれも「一般人が手を触れるものではない」と無言のプレッシャーを放っていた。
「ありがとうございます。皆さんが来てくれなかったがらどうなっていたか」
「妙に落ち着いてるね」
 それまで黙っていた熊田が口を開いた。だがこちらを不快にさせるような響きは全くなく、むしろ発言しやすいような優しさに満ちていた。
 沈黙の中、妙に冷めた色をした青信号が何個か過ぎていった。それは重苦しいものではなく、和広に思いを言葉に変換する時間を与えてくれているようにも思えた。
「そうですか?」
 発言しなければならないという空気に押されて声を出した。渡辺はこっちを一瞬見た。疑っているのだろうか。そう思っている間に、彼は視線を車線に戻した。
「君はさ。さっき殺されかかったんだろう?怖くなかったのかい?」
 熊田さんが言葉を続ける。
「・・・・まあ、怖かったですけど」
「そうか。でもね。被害者、あのおじさんだけど、君の倍は長生きしている。そんな人でも死の恐怖の前には腰を抜かしてしまうんだ。それが程度は違えど同じ恐怖を味わった君は、どうしてそう冷静なんだい?」
 そこで言葉を切り。和広を見た。その瞳は決して和広から逸らされなかった。人間は瞳で会話する動物だという。彼の瞳に心の奥まで覗かれてしまいそうだった。
 この人は、言葉と間の使い方が上手い。と和広は思った。人に必要以上の不快感を持たせることなく、間を使い、必要な情報を引き出す話し方を心得ている。
 実際、和広は、この男とこれ以上会話をすると、美空の情報まで出してしまいそうだった。
「あなたは、警察官なんですか?」話題を変える。隣に座っている熊田に尋ねた。
 彼は、どうみても警察官に見えなかった。服装も、口調も違う。警察官というのは、心を奥底に鍵をかけ保管しているような堅さがあるが、彼にはそれがない。むしろある種の柔らかさがあった。
「違うよ。僕は医者だ。渡辺君とは友達でね。たまに一緒に仕事をした仲なんだ」
「おい熊田・・・・」
「いいじゃないか。別に隠しておくべきことでもないだろう?」
 恐らく、個人情報を晒すことを恐れているのだろう。警官という崩せない牙城を守るために。
「一緒に仕事って、解剖とか・・・?」
 刑事と医学を結びつけると、解剖くらいしか思いつかない。刑事ドラマでたまに出る霊安室を思い出した。なぜか解剖医は遺体をみて笑みを漏らすような人間として和広は認識していた。勿論そんなことはないだろうから世界中にいる解剖医に謝罪を申し上げる。
「ううん。僕はそういったグロテスクなのは苦手だな」
 ああやだやだ。というように手を振った。手術のビデオすらみることは出来ないよと、彼は付け足した。
「じゃあなんですか?」
「僕は、精神科医だよ」彼は、優しげな笑みを浮かべたまま答えた。
「精神科医・・・ですか?」和広はあまり合点がいっていなかった。
「精神鑑定の結果、被告には刑事上責任能力はあると判断され・・・とかニュースで聞いたことないかい?最近は嫌な世の中になったしねえ」
 聞いたことがある気がする。特に凶悪事件などがニュースのトップを飾ったときによく流れていた。昔、それで連続殺人事件の犯人が無罪になったことをうっすら思い出した。
「聞いたことある気がします。青少年の事件とかで」
 そういうと彼は満足そうに頷いた。
「うん。僕が大学病院に勤めていたときなんだけどね。そのとき渡辺くんが担当した事件の鑑定を何度か行ってから、ずっと腐れ縁なんだ」
 なっ、と熊田は運転している渡辺に同意を求めた。
「腐れ縁いうな」
 そういって渡辺は言葉を閉ざした。
「まったく。そういう態度だから全国の警察に対するイメージを悪くするんだ。先入観というのは前評判と第一印象で決まるものなんだから、もう少し愛想よくしなよ」
「愛想良くするのは他の奴の役目だ。大体俺にそういうの向いてないって他ならぬお前が言ったことだろう」
 あれ、そうだっけ?と熊田は頭を掻く。見た目は四十ほどだったが、その言動は少し子供っぽい。和広は精神年齢の低い美術部の顧問を思い出した。
「でさ、和広くん。あのときの犯人、本当に女性って以外わからなかったの?」
 声音は変わらなかった。取り巻く空気も、旧友と親交を深めている空気だった。和広も、本当のことを話しそうになる。それくらい自然な雰囲気の問いだった。
「・・・・・いえ、やっぱり思い出せません」
 和広は、その流れには釣られなかった。だが一瞬、ふいを付かれ、妙な間が開いてしまった。
「まあいいよ。でもね、和広くん。人の付く嘘には二つある。自分を守るための嘘と、他人を守るための嘘。でも嘘というのは本質として事実をねじ曲げてしまいたいという心から来るものだ。そして、それを悟られないほどナチュラルに使いこなすのはかなり難しいんだよ」
 あくまで雑学だけどね、と彼は付け足した。和広は何も言えない。今のは、お前の発言は嘘だろうと遠回しを超えてダイレクトに言っている。そして、それを言いくるめる程芸術的な話術を和広は持っていない。
 しばらく無言の時間が過ぎる。せまい、入り組んだ道を右へ左へ曲がりながら進んでいく。街灯は少なく明かりの点る家はさらに少ない。気づけばもう十一時を回っていたのだから当然だった。しばらくして海沿いの綺麗に整備された道路に出る。両側にはホテルが建ち並んでいる。今は海水浴客や観光客でそれなりに繁盛しているのだろう。
 しばらくそこを進み、朝が丘に至る道に折れさらに進むと我が家に付く。ホテルが建ち並ぶ大通りと比べて、古く、汚く、味のある店が連なっている中の一つに、谷川土産店はある。
 パトカーを降り、家に入ると、母が慌てて玄関にやってきた。家族と仲が悪いといっても、和広はそれまで十一時まで夜をほっつき歩くことなどなかったし、帰るのが遅くなるにしても連絡くらいはしていた。
 警察官に付き添われるところをみて、母は顔面が蒼白になっていた。最近まじめな十代が凶悪事件を起こすことが多いから、和広もそうなってしまったと思ったのかもしれない。
 渡辺たちの話を聞いて事情が飲み込めてきたときには今度は和広の体の心配をした。気が狂ったのではないかと思えるほど、激しい剣幕だった。和広は、改めて母に愛されていることを実感した。
 親父はもう寝てしまったらしい。母は起こしてくると言ったが、和広は制止した。ただでさえ疲れているのに、わざわざ父を起こしてくることはない。説明なら明日にでもする。
 渡辺と、熊田は帰っていった。帰り際に、熊田は、一枚の名刺を渡してきた。。熊田メンタルクリニック、と職場らしきものが書かれていた。裏返すと、個人の携帯電話らしき電話番号がボールペンで書かれていた。
「もしかしたら、助けになれるかもしれない。後、犯人について何かわかったことがあったら教えてね」
 そういって、よれよれの背広を着た男は、似合わないウィンクをした。
 恐らく、嘘を見破られているなと思った。自慢ではないが生まれてこの方嘘が最後まで露見しなかったことはない。宿題を忘れたことの言い訳も、友達との約束に遅刻したことも、取り繕うがすぐに看破されてしまうのだ。元々、根が不器用だと上手く嘘をつくこともできない。
 和広は疲れていた。母がお風呂を進めてくれた。えらく気を遣った言い方で、むしろ疲れた。最近のギクシャクした関係のままで接しては欲しくなかったが、腫れ物にでも触れるように接するのもいらつくし、疲れる。ならばどうしろというのだろうが、その問いの回答は和広は持ち合わせていなかった。
 そのまま自分の部屋のふすまを開き、出したままだった布団に着替えず倒れ込む。ドスンと、空気を含んだ音がして身体がゆっくり沈んでいくのが分かった。付けたままのベルトの金具が痛みと違和感を脱力した身体に与え、蒸れた靴下が鬱陶しさを脳髄に伝えていた。
 それらをそのままにし、ゆっくりと沈んでいく。もし、羊水の中にいるとしたらこのような感じだろうか。さらさらした、ゆったりとした何かに包まれふわふわ落ちながら浮いている。
 思考は途切れ途切れになっていく。体と心が思った以上に疲労していた。もう意識を保つことは出来ない。
 完全に途切れてしまう前に、目覚まし時計を朝の六時にセットする。五時間も経てば耳障りなアラーム音が聴覚を刺激し意識を覚醒させるだろう。
 だが、眠りは簡単には訪れなかった。心臓はまだ高鳴っていた。恐怖なのか、高揚なのか、今では判断が付かないほど純粋になった精神の高ぶりだった。
 和広は恐らく恐怖なのだと仮定した。悟りを得ようとする修験者のように心を静かにし、身体が眠りに付くのを待つ。
 しかし、その内、意識の何割かは美空についての考察を続けていた。彼女は一体なんなのか。彼女の行動には不可解で突発的な要素が多すぎる。自分本位にしては一貫性がないし、和広との関係も、拒絶を求めているのか、それとも逆を望んでいるのか区別が付かない。
 考察も段々と破綻していく。脳の回路は閉じられていき、過去か幻想かを写す夢の扉が開く。自分という確固とした認識が薄くなり、夢という物語を漂う存在になる。
 自分という存在が、どこかに消えていく。そこにいるはずなのに消えていくのがわかる。消えた果てに見る記憶、それが夢なのだと思った。
 和広は、深い深い夢の中に落ちていった。


 その日、和広はお姉ちゃんと一緒にママの店に行った。当時は商店街にも活気があり、なかなか混んでいた。道行く人々は未来のことなど考えず、今日を生きていくのに精一杯と言う顔をして進んでいる
 二人並んで歩いた。彼女は道がわからないので和広が半歩前を行く。人混みの中、離れてしまわないよう何度も振り返り、彼女が付いてきているのを確認する。今はぐれたらもう二度と会えなくなる、なぜかそんな恐怖を抱いていた。
 彼女は目があったら少し声を掛けてくれたりしたが、キョロキョロと辺りを気にしていた。誰かを捜しているのだろうか。落ち着かない様子だった。
 八本目の横道を通り過ぎると、目当ての場所に着いた。まだ新しい看板に「お好み焼き」と書かれている。ピンクを基調とした看板に黒の筆記体の文字が、夜の店を思わせた。ちなみに今はママが自重という言葉を知ったのか、至ってふつうの看板だったりする。
「ここ大丈夫なの?」
 彼女は戸惑ったように言った。今考えたら、明らかに周りから浮いている看板に戸惑うのに無理はなかったと思う。
 店にはいると焦げたソースのにおいが鼻をくすぐる。客は昼時と言うこともあってかそこそこいた。
「いらっしゃい。カズかい。豚玉でいいね」
 ママが調理をしながら言った。そのころはまだママも美しさの中にも若さを残していた。言い寄ってくる男性も少なくなかったらしい。それがまた武勇伝を増やす原因にもなっていたのは言うまでもない。
 なんども来ているせいかママは注文も聞かず目当てのものを準備し始めた。
「あれ、カズ、お姉さんいたっけ」
 和広の後ろから現れた人物をみてママは言った。この辺りをよく知っているママは、和広と姉のような彼女との関係を計りかねていた。
 一方彼女は、ここ本当に大丈夫?とまだいいながらこそこそと店内に入ることをためらっている。
「どうぞ。カズの知り合いかい」
 彼女はカウンターに座る。変わった外見と至って普通の内装の店内に驚いている様だった。
「イカ玉にネギ乗せてお願いします」
 彼女は遠慮がちに注文をした。
 ママが二人前のお好み焼きを焼いている間、彼女との出会いを簡単に説明をした。毎日、朝ヶ丘の先で会っていることを話すのはさすがにまずかったので、商店街で助けてもらったことだけを話した。
「さっき商店街で偶然あってね」
 カウンターの鉄板を挟んで、ママにはそう言ってごまかした。何も矛盾していることはないはずだ。ママは野次馬根性が旺盛で、自分に関係なくても問題に首を突っ込む性格なのは、そのころから知っていた。ただでさえ自分のことを話したがらない彼女にママが無遠慮な詮索をされたくなかった。
「この町に何しにきたの?観光?」
 ママは彼女をあからさまに観察しながら聞いた。和広自身も遠慮して聞かなかったことを、なんでこの人は簡単に聞いてしまうのだろうと思った。
「そんなところです。」
「いつまでいるつもりだい?」
「九月になるまではいるつもりですけど。」
「長いねぇ、宿代も高くなるんじゃないのかい?」
「一応貯めてましたし、この辺りの友達の家を渡り歩いたりしてますので。」
 和広は二人の会話を聞きながら完成した豚玉を食べていた。彼女はいつも和広と話しているより倍は饒舌だった。二人の年齢が近いということもあるのだろう。次々と枝分かれした話題が葉を広げていた。
 彼女のイカ玉はなかなか減らなかったが、和広の豚玉は一定のスピードで減っていった。
「ねえ私の半分食べてよ。」
 話の途中、彼女はネギのたっぷり乗ったイカ玉を半分に切り、こちらに寄せてきた。
 和広は困った。イカ玉は嫌いではなかったが上に乗っているものが問題だった。
 山に盛られたネギをじっと見つめる。焦げたソースの臭いでかなりごまかされていたが、青臭いような独特のにおいが嗅覚を刺激する。
 和広はネギが嫌いだった。日の通した太ネギはまだ食べられたが、生の細ネギなんか、なんであんなものを好んで食べ物にかけるのかわからない。
 仕方がないのでネギを避けることにした。半分のイカ玉の上に大量に盛られたネギをどさっと落としていく。ソースにくっついて残っていたネギも丁寧に取り除いた。
「あれ、和広君、ネギ食べないの」
 そう言って彼女はすっかり平たくなったお好み焼きと横にどっさりと盛られたネギを見た。
「うん。においがさ。どうもだめで」
 和広は半分のお好み焼きをさらに二つに分けた。
「だめ、食べないと。野菜は取れるうちにとっとかないと病気になるよ?」
「だから、苦手なんだ、いいじゃん別に苦手のものくらいあっても。」
 ネギは幼い頃から苦手だった。特に素麺の薬味として添えられているのがだめだった。あのネギの強烈なにおいは生理的に受け付けず、嗅ぐと頭が痛くなって吐き気がすることもある。香辛料が強くネギの臭いが気にならないものや、日を通した太ネギはなんとか食べることが出来たが、苦手なことには変わりない。もちろん家では和広のメニューには生のネギは出てこないし、外食でも出てこないメニューにしたり避けてもらったりしている。
「食べなさい。食べ物を粗末にすると罰が当たるんだから。」
 だんだんと、彼女の口調が厳しくなってきた。心なしか表情も堅くなってきている。ママはそれを口出しもせず見ていた。
「そんなに体にいいんならお姉ちゃん食べてよ。元々お姉ちゃんのなんだから。」
「そんな、和広君が育ち盛りで気を使ってあげたのになんで好き嫌いなんてするの?食べなさい。」
「いいじゃん!なんでそんなにしつこくいうの?お姉ちゃんにだって嫌いなものくらいあるでしょ?」
 むきになって言い返した。だんだんいつもの彼女じゃなくなって躾を押しつける母親のように感じ、苛立った。
「好き嫌いは直すものなの、そんなこと言っているからいつまでたっても食べられないんじゃないの?」
 嫌みっぽく言うと彼女は避けたネギと、残った彼女の分のイカ玉の上に乗っていた大量のネギを、和広のイカ玉の上に乗せて「これ食べ終わるまで帰らせないからね。」と言った。
 和広は理不尽だと怒った。なんで自分の分ではないお好み焼きを押しつけられ、大嫌いなネギを食べることを強要されるのか。彼女が言っていることもわかる。だがその言い方は動物に躾をするような高圧的で上下関係を絶対としたものだ。
 子供はそういったものに対し強く反抗するものだ。もちろん和広も例外ではない。そして一時の感情は相手が誰であろうと起こる。
「ふざけないでよ!なんでお姉ちゃんがそんなこと言うんだよ」
 なるべく強く怒鳴ったつもりだった。今にして思えば小学生が大声を上げたところで迫力などたかが知れている。だが彼女は衝撃を受けたようだった。そしていつもからは想像もつかないヒステリックな表情で手刀を振りかざし、そこで止まった。
 そのまま振り下ろせば和広の顔に大きな青あざが出来るだろう。彼女はそれを知っているのだろうか。
 彼女は耐えているようにも見えた。だから逃げることは出来なかった。多少の恐怖はあったが、これまで過ごした短い間の記憶は、和広と彼女をつなぎ止めているはずだと信じた。
「そうだよね、ごめんね。君は私の子じゃないもんね。私がやり過ぎなんだよね」
 彼女はそういって振りかざした手を下ろした。顔は俯いてて見えない。ただ何かに耐えるように震えていた。
 店内は静まり返っていた。といっても長話で一時間くらい居座った後だったので、客は和広たち以外には四人しかいない。中には和広が登校中に会ったことのある人もいる。皆こちらを注目していた。
 そのときはわからなかったが、とてもまずい状態だった。その子の親でもない女性が、体罰じみたことをしようとしたのだ、問題と思わないことがおかしい。またここは田舎だ。噂が広まるのが飛行機より早い。無責任な誇張が追加され、彼女は様々な意味で窮地に立たされるだろう。
「重さん、田中さん、友さん、畑野さん、ここでみたこと内緒にしといてくれないかい」
 急にママが口を開いた。いつも以上に冷静な口調に冷たい視線をしていた。名前を呼ばれた客たちは傍観していた立場から舞台に引っ張りあげられた。
「しかし鈴ちゃん、これはさすがにまずいだろう」
 客のうち一人が勇気を持って声を出した。鈴というのはママの名前だ。鈴と書いてりん、ママの昔を知っている客はママをこう呼ぶ。そして、その言葉は正論であって、間違っているはずがなかった。
「大丈夫。私がなんとかしとく」
 ママはそう言って胸を張った。彼女がそう言うのならなんとか出来るという気迫が漂っている。
「鈴ちゃんがそう言うのなら・・・大丈夫だろう」
 客のうちわりと若い者が口を開いた。そしてそう言うと勘定だけおいて店からでていった。
 他の三人は納得していないのか顔をしかめていた。しかしここにいても邪魔だと判断したのか、でていった一人と同じように勘定をおいて出ていった。また明日と言っていた。
 店内は昼の光を取り込んでいるのに暗かった。
「・・・ありがとうごさいます」
 人のいなくなった店内で彼女が、ぽつんと言った。
「どういたしまして、でも、あんなの気休めにしかならないよ。こういうことってこぼしたジュースみたいに広がるからね」
 しかも汚れがとりづらいし、とママはため息をついて言った。
「鈴さん、でしたね。どうして庇ってくれたんですか」
 ためらいがちに彼女は聞いた。
「庇ったつもりはないんだけどね。きまぐれって奴かな」
 和広は居づらい雰囲気を感じたが、抜けるわけにも行かないのでテーブルに座っていた。すると彼女が目に涙を貯めながらただ、ごめんね。と謝ってきた。
 別に彼女を責めようとは思わなかった。手を出そうとした彼女は悪いが、ネギを食べなかった自分も悪いと思った
し、なによりこの自分のしたことにおそれ怯えている彼女が本当の彼女だと思った。
 彼女に帰ろうといい。レジで豚玉代五百円を払った。彼女も同じようにイカ玉ネギ乗せの代金を払う。
「あなた、今夜うちにきなさい」
 ママは彼女に向けて言った。彼女の顔に怯えの色が表れる。
「大丈夫、とって食ったりはしないって、ちょっと話したいだけ。今日泊まるところもまだ決めてないみたいだし、今あなたには心を落ち着かせる時間が必要でしょ?夜十時には客もほとんど来ないし、そのときに来な」
 彼女は少し考え、小さく首を縦に振った。
 帰り道彼女とはなにも話さず歩いた。商店街の喧噪が、耳に障る。道行く人たちが、帰り道を塞いで歩いている。
 ただ黙々と歩いた。歩くことだけに集中しているはずなのにどうしてこんなに家までが遠く感じるのだろう。
 やがて和広の家の前についた。そういえば彼女が自分の家をみるのは初めてだと思った。たくさん話して、隠し事はあるがお互いのことをよく知っていると思っていたが、根本的なことはまだ何も知っていなかった。
「ここが和広くんの家?」
 視線の先に「谷川土産店」と書かれた看板がある。だが一応彼女は聞いた。
「うん。お土産屋なんだ。潰れそうなね。」
 この頃から店の売り上げはよくなかった。それくらい小学生の自分でもわかった。両親は収入を上げるため苦心している。みていてただの穀潰しである自分はいらない存在であるかのように思ってしまうこともあった。 
 一度、新聞配達のアルバイトをやる。と両親に申し出たことがあった。自分の食い扶持くらい、自分で稼ごうと考えていた。それが義務であるようにも思った。
 だが、父は猛烈に怒った。なんでそんなに怒ったのか、家族のために働けると思っていた和広にはわからなかった。父は理由も言わず、ただアルバイトなど小学生のうちにするもんじゃないとだけ言った。
「そんなことない。立派な店だよ。」
 彼女は錆びてぼろぼろになった商品台を、張り紙を張った後で汚くなったガラス戸を、商品で見えなくなった表札を見て言った。
「じゃあ、いっぱい買っていってよ」
「また今度、絶対買うよ」
「絶対だよ」
 彼女はまだ悲しそうな顔をしていた。あのことはもう気にしていないと何度も言った。でもその顔にあの笑みは戻らなかった。それが一番つらかった。
「私ね。怖いんだ」
 ふと、彼女はそう言った。
「この世の中に、私がいていい場所はないんじゃないかって、誰も私を許してくれないんじゃないかって、だって私は許されないだけのことをしたんだもの。私は人殺しよりひどいのかも知れない。そのくせ、償うこともせず逃げてきた卑怯ものに、いていい場所なんてないんだ」
 そういって彼女は振り向き、無理矢理笑顔を作った。
「ごめんね。こんなこと、君に言ってもしょうがないのに」
 彼女は背を向けて商店街の方向に歩いていった。
 夜、ママのところに行く時間まで、暇つぶしでもするのだろう。朝が丘には行かない、そのことだけで和広は少し安心した。彼女の背中を見送り、九年離れず過ごした家を見る。
 ふと、自分のいていい場所もないかもしれないと思った。自分がいていいと思っていないのだから、どこにいてもいけないのかもしれない。それは、弱い自分だけの情けない感傷なのだろうか。
 和広は、その思いを振り払えないまま、誰もいない家の中に入っていった。


 耳障りなアラームがなり、意識を覚醒させる。久しぶりに彼女の夢を見た。過去と夢が混じりあった感触が、今も心の中に残っている。
 夢を見た理由はわかっている。まとめて言うと、美空のせいだ。昨日会ったばかりだが、その行動、言動から九年前のあの人を思い出させる。
 しかし美空は、あの人とは無関係だと自分に言い聞かせる。ママが言ったように彼女の名前は美空であってつぐみではない。もし美空という名前が偽名で、彼女の名前がつぐみだったと仮定しても、その理由がわからない。わざわざ名前を偽る理由がない。それにあの人と自分との交流を知っているのは、和広が知っている限りではママと、両親と、岸だけだ。美空があの人と繋がりを持っていたとしても自分との接点がわかるはずがない。
 そこまで考えてまた睡魔が襲ってきた。ここで寝てしまうのはまずいと思った。美空との約束に遅れてしまうのもあるが、夢の続きを見たくなかった。
 昔は、夢は楽しいものだった。昔からよくファンタジーを題材にした物語をよく読んでいたせいか、夢もどこか幻想的な、例えばトトロと森で遊ぶといった夢が多かった。夢を見ている時はいつも幸せで、起きた後も名残惜しく。もう一度布団をかぶり、夢の続きを辿っていた。
 だから荒涼とした夢をよく見る今も、二度寝すると夢の続きを見てしまう。
 タオルケットをはねのけ一気に起きあがる。回しっぱなしだった扇風機が低いうなり声をあげていた。
 スイッチを切り、回転を止める。物心ついたときからあるこの扇風機は、錆びだらけながら現役でエアコンの進出を許さない。
 今日はまだ昨日に比べれれば涼しく静かだった。夏の殺人的な光が朝の空気に和らげられているせいもあるし、台風が近く風が少し強いせいもある
 布団からでると、自分が昨日の服装のままであることに気づいた。汗ばんだ感触は不快だったが、着替えるのも面倒だったので、そのまま部屋を出た。
 和広の部屋は二階にある。一階の殆どは土産屋としてのスペースとして占有されており、居間とキッチン、後風呂くらいしか、住人の生活空間はない。それも電気やガス等の関係で配置されたにすぎず、もし二階に全てを移せるのなら、父は移動させているだろう。
 和広の父とはそういう人物だった。生活的余裕の拡大よりも、営業利益を優先する。それは大局的にみれば家族に笑顔をもたらすものかもしれない。
 売り手として妥協しない。その父の姿勢は息子である和広自身も尊敬している。今も父は店の奥で軽食の下拵えをしているのだろう。昨日、息子が殺人未遂にあったはずなのに。
 いや、それは商売とは何の関係ないことだ。店の息子が事件に巻き込まれ、殺されそうになったとしても、無傷だったのだ。そんな事実は客には関係ない。息子が死んで、喪に伏すか、犯人を捜すために行動するのならともかく。事件に巻き込まれただけで、店を閉めるなんてことはしないだろう。
 両親に気付かれないように外に向かった。もしも、気付かれたら確実に止められるだろう。昨日の今日であるし、何より和広には前科がある。九年も前のことだが、あのときのことは、両親も思うところがあるようで口には出さないが心配しているようだった。
 木製の引き戸を開けた瞬間。風の壁が体に当たった。家の前の雑木林も低い声を上げ揺れていた。そういえば台風が近くなっていることを思い出した。
 家の裏手の道に入る。いつ以来だろう。小学二年の夏以来、あの場所には行かなかった。あそこは美しい場所だ。柵がない分少し危険だが、気を付ければ落ちることはない。数分の徒歩の時間を省みても、行く価値のある場所だった。
 ただ、和広にとって嫌な思い出があるというだけだ。
 道は鬱蒼と草が茂っていた。その様子はあの頃と同じだった。いや、あの頃よりも非道いかも知れない、昔はあの場所に行く道とは違う道を選ぶと、段々畑にでた。誰が何を育てていたかは記憶にないが、たまに利用されていた。
 だが、今はその段々畑も背の高い草が茂り、わずかにその名残があるだけだ。
 段々と風が強くなっていくのを感じた。海が近づいているのだろう。なんとなく、心が逃げ出そうとしていた。落ち着きがなくなる思考をぐっと抑える。
 森の出口は狭い。両脇には背の低い木が茂っていて、その木々の間も草に隙間なく埋め尽くされている。これらは岩場でもわずかな養分から育つらしく。崖にも点在している。
 視界が開ける。それまで生命力がにじみ出ていた緑がいっさいなくなり、果てしない青と、白色じみた岩のある世界に変わった。
 そこは十年前と変わっていなかった。岩の場所や崖の形は変わっていた。お姉ちゃんが座っていた手頃な岩はなくなっていたし、大きな岩はぱっくりと割れていた。地球はゆっくりとその形を変えるものだと思った。
 だが、空気はまったく変わっていなかった。激しい波音がずっと聞こえているのに、どこか静謐で、涼やかな世界だった。
  美空はまだ来ていなかった。この場所は和広の腰より高い岩はない。どこかに隠れているのならともかく、人の姿があるのならすぐに気付くはずだ。
 大きく息を吐く。安心と、緊張が吐息に漏れる。美空はまだ来ていない。昨日の恐怖が脳裏に過ぎった。
 果たして彼女と会ったとき、安全なのだろうか。
 美空は自分を嫌ってほしくないと言っていた。その言葉は本心なのか。それはわからない。だが、和広を騙す理由も見あたらない。凶行により、和広との繋がりを放棄したくないからこそ、あの台詞が出たのだろう。
 では、彼女にとって和広との繋がりを保持するメリットとは何なのか。殺人未遂を見られ信用も何もない。それでも関係をつなぎ止めようとする意図はなんなのか。明らかに情報が足りないものを和広は悶々と考えていた。
「・・・おはよう。和広君」
 そのとき、背後から透き通った声が聞こえた。その鳥の歌のような澄んだ音は、響くもののない崖によく響いた。だがその声音には、隠しきれない躊躇いが含まれていた。
「・・・こないかと思ったよ」
 振り返りながら言う。先ほどよりも、緊張は和らいだ。少なくとも話は通じる。
 そこには美空がいた。昨日と同じような、真っ白なワンピースだった。それがお気に入りなのだろうか。それともお洒落にまったく興味がないのだろうか。汚れのない白は、よく考えると薄気味悪い。汚染を恐れているというのだろうか。全てを拒絶する無垢を想起させる。イメージ的には病院に近い。傷ついたものを癒すために、外界から隔離する色彩。汚れがなさ過ぎて人間性がない。
「・・・まさか、本当に来てくれるとは思わなかった」
 美空は驚いたように言う。
「ああ、自分でも吃驚している」
 本音である。元々自分は約束をあまり守らない人間だ。不器用が正直というのは嘘だ。不器用は約束という束縛から逃げたくて必死なのだ。
「どうして?」あんな目にあったのに、と美空は問いかける。
 なぜかと言われると、答えられない。答えられる程自分のことを知っているわけではない。
「さあね。でも、大丈夫なんだろう。今は」
 不用心に背後をさらした人間ほど、殺しやすい対象はない、なんて刑事ドラマで聞いたことがあるが。隙だらけのに対し、会話を望んだということは、殺害対象ではなく、生きている人として交流を望んでいるということだ。
「うん。ありがとう。来てくれて嬉しいよ。和広君」
「とりあえず安心したよ、殺人鬼さんじゃなくてさ・・・一体どういうことなのか、教えてくれるよな。美空」
 この世にはいない誰かの悲しみが眠る地。いささか落ち着かない潮風の中、二人は再び出会った。


 美空は和広の隣の、少し背の高い岩に座った。足が地に着かず、ぶらぶらと揺れていた。まるで天使が雲の端に乗り風を愛でているようだった。かすかに憂いを帯びた瞳を、前方の朝日の満ちる水平線に向けていた。
 先ほどの言葉に対し、互いに口火を切ることはできなかった。喋りたくないわけではない。きっかけがなかっただけだ。ただ、登りゆく朝日を一緒に見ていた。
 和広は美空を横見た。彼女の表情は浮かない。親の前で自らの失敗をどう言い訳するか悩んでいる子供・・・・のようにも見えた。
「昨日のあれ、いったい何なんだ?」
 先手を打ったのは和広だった。
「何で、あんなことをした。どうして途中で中断した。どうして・・・・」
 この場所のことを知っているのか。
 疑問が矢継ぎ早に口から発せられる。思えば分からないことだらけだ。彼女の存在も出来事もだ。だから一刻も早く答えが欲しかった。
 美空はまだ考えていた。視線は海に向いていたが、意識はこちらに向いていた。
「和広君はさ。人の意識って、どこにあると思う?」
 突然の質問に和広は面食らった。全く脈絡のない。意図すらつかめない問い。
「・・・・脳か?」
 人間の思考は脳で行われる。意識、すなわち自我は脳に存在するということだ。
「普通はそう答えるよね。でも「意識」を司る器官なんて脳のどこにもないんだよ」
「え?」
「霊長類の脳は、大脳、小脳、脳幹に大別されて、さらに大脳旧皮質、大脳新皮質、って分類されていくけど、ただ、生存のための指令を出したり、判断したり、記憶を貯蔵したりするだけ。意識なんてものは。実際にはないの」
「だけど現に今、俺たちは考えて話しているだろう。意識はあるはずだ」
「でも、実際、意識を司る器官なんてものは発見されていないわ。いままでも、そしてたぶんこれからもね。
 デカルトは松果体に魂が宿るって考えていたわ。他の哲学者たちも同じように形而上学的な理論で脳の機能としての魂を証明しようとした。
 だけどね。結局はそれも間違い、松果体は性機能の発展、繁殖に大きな役割を果たしてるって最近では言われているの。
 だから、脳にあるのは、生きるための本能と、生まれてきてから培ってきた記憶だけ。意識、自我っていうものは、脳や体にある記憶と本能と、外部への接点である肉体が見せている単なる「錯覚」が連続している状態なのよ」
「・・・・・」
 意識が錯覚。そんなことは考えたこともなかった。そもそもそう考える自分自身が、存在していない錯覚だという考えなのだ。どうしようもない袋小路に似ていた。
「だから人間の自我っていうのは、案外あやふやなものなの。一分前の自分。一時間前の自分。一年前の自分。十年前の自分。それは全く同一の個体だと思う?細胞だって十年立てば入れ替わるのよ。信念も、性格も同じなわけがない。それは確かに連続したものでしょうけど、それは本当にあなただったの?」
「・・・哲学だな。そういう問題はよくわからないし、答えなんてないだろう。自分を自分でみることなんてできない。証明できないものを永遠と言い合うようなものだ」
 自分自身の証明は全ての問いの果てにあるものだ。「我思う故に我あり」とは言うが、自分自身が絶対的に確かな観測者ではなく単なる「錯覚」と仮定されている以上。自身の存在を証明することなどできない。
「それが、昨日の出来事と、どんな関係があるんだ?」
 少なくとも、今の哲学の講義が、昨日の美空の行動に直接結びつくとは思えない。意識は錯覚に過ぎない。例えそうだとしても意志はあるのだ。
「大ありなのよ。私たちにとってはね」
 彼女ははにかんだ。お気に入りの秘密を打ち明けたかのような顔だった。
「どういうことだよ」
 一方の和広はまるで訳が分からなかった。美空は普通の人間とは違い自我があやふやだから、あのような行動を起こしたのか?いや、今話している限り、彼女に可笑しいところは見あたらない。彼女にはどこか精神に異常があるのだろうか。初めて会ったときや、昨日の事件。あれらを省みると精神の異常の可能性もあるが、今の彼女は健常者のそれだ。ますます、和広は分からなくなった。だから、美空の言葉を待つしかない。
「うーん。ちょっと皆と話したんだけど。今、和広君にネタばらしするのは、やめておきたいんだ」
「なんでだよ。というか皆って誰だ」
 先ほど、美空は「私たち」と言った。彼女が指す皆というのは一体何のことなのだろう。
「私の大切な、家族だよ」
 美空は微笑を浮かべ、答えた。初めて会ったときも同じようなことを言っていた。皆、家族が満足するまで、この街を離れることはできないと。
 家族規模での異常が、美空をおかしくしているのだろうか。
「家族ってのは誰のことだ。両親か?兄弟か?それと、昨日のあんたの行動とどんな関係があるんだよ」
 疑問は尽きない。何が異常で何が正常なのかが分からない。考えようにも情報が少なすぎる。モチーフのないまま絵を描いているようなものだ。それに、一番の疑問がまだ残っていた。
「・・・・何で、この場所のことを知っているんだよ」
 これが極めつけだ。この場所は街の住人でも殆ど知らない。そして和広の過去と縁のある場所だと知っているのは、ママと和広の家族くらいだ。
「・・・・・DID」
 美空が、小さく口を動かした。あまりに脈絡のない単語だったので、聞き間違いかと思ってしまった。
「・・何?」
「DIDって単語を調べて。そうすれば、和広君が私に抱いている疑問の殆どを解決できると思う」
 DID。動詞doの過去形。ではないだろう。そんなものが答えだったら探偵などいらない。だがそれ以外に連想できる意味が和広には思い浮かばなかった。
「ちなみにdoの過去形じゃないよ」と美空は苦笑した。
「そんなことは分かってるよ」
 心外だ。と和広は返した。
「だけど、なんでこんな謎かけじみたことするんだ。全部説明すればいいじゃないか」
「うん。皆もそう言ってる。だけど、私は怖いんだ」
「何が?」
「間違った偏見を持たれることが。まあ正しい偏見なんてものもないんだけどね」
 人が見るからには偏見は発生せざるを得ない。主観的であるからこそ。人間足り得るのだ。だから偏見を捨てるのではなく、その偏りを問題のない方向へ修正するべきなのだ。
「わかったよ。それで、全部分かるのなら調べてみる」
 図書館に行けば調べられるだろうか。和広の家にはパソコンはないし。携帯電話もインターネットに繋げない仕様だった。
「お願いね」
 彼女はそう言って立ち上がった。
「それからありがとね、来てくれて。嫌われちゃったと思ってた」彼女は続けた。
「来て欲しいと言われたからな。昨日の最期のあんたも危険じゃなさそうだったし」
「・・・思ったんだけどさ。和広君って、自分で決断せずに周りにずるずる引きずられる人の典型じゃない?」
 その言葉に、うっと和広はたじろいだ。その通りだったからだ。
「自分で言うのも何だけど、私は結構危ない。昨日和広君がみたのは夢で幻でもドッペルゲンガーでもない。あの事件は本当に起こったことよ。最期にまともに話したからって。リスクも考えずに来るのは危ないと思うよ。賢い人なら、ここにこない」
 遠回しに馬鹿にされている気がしたが、反論できなかった。和広の行動は勇敢な判断ではなく。状況的に引きずられたものだからだ。
「だから、逃げるべきときには逃げて。私はそれを恨まないから」
 手を引くことに躊躇するなと、美空は釘を差したのだ。危険に関わり続けることは勇猛ではない。ただの惰性に過ぎないのだから。
「あ、それと、警察に連絡はしないで欲しい」
「なんでだよ。殺人未遂容疑者」
 和広は茶化したつもりだったが、美空の表情は暗くなった。
「まだ、私たちにはやらなきゃいけないことがあるから」
「・・・死んだりはしないだろうな」
 和広は不安になった。
「するかもね」
 こともなげにそう言った。続けて、
「だけど、和広君だったら止めてくれるでしょう」
 昨日の朝と同じように彼女は言った。
 まるで、自分の全てを和広に預けるような、全幅の信頼がそこにはあった。
「分かったよ。警察には伝えない。それでいいか」
 和広は折れた。彼女の事情はまだ分からない。だが、手を引くような決断は彼には出来なかった。
「物わかりが早くて助かるわ」
 美空は振り返った。今日の話は終わりらしい。
「もう帰るのか」
「人通りが多くなる前にね。これでもお尋ね者だろうし」
 昨日の今日だから用心しているのだろう。
「また明日ね」と美空が言った。
「明日は台風だから、やめておいた方がいいぞ」
「あれ?そうだっけ。でも大丈夫でしょう。確か直撃は深夜だったはずだし。翌朝だったら明け方より少し風が強い程度だろうし」
 だといいのだが、今回の台風は強力な上、暴風域が微妙に重なるか重ならないかというところを通過するので過ぎた後でも危ないだろう。
「わかった。でも、やばそうだったら来ない方がいいぞ。俺も怒らないし。命には代えられない」
「わかった。善処はするわ」
 崖から落ちようとした人間の台詞では説得力もなかった。言葉もお役所仕事の口上のようだ。この手の言葉は信用できない。だが当日になればわかることだ。
「じゃあね」
 美空は、帰り道を歩いていった。まるで妖精のように森の中に消えていった。
 和広はそのまま海を見続けていた。だが、潮騒も遠近感がおかしくなる景色も頭に入ってこなかった。
 彼女の背景が全く読めない。とても昨日殺人未遂を怒した人間だとはとても思えなかった。体が覚えている恐怖と、彼女の物腰が一致しないのだ。
 DID、頭の中で三つのアルファベットを反芻する。何を指しているのか検討も付かないし、予想も出来ない。
 今何時くらいであろうか。携帯電話は持っていなかったが、反射的にポケットの中に手を伸ばす。すると、堅い紙の感触があった。
 名刺だった。昨日、熊田がくれたものだった。
 しばらくその薄い紙切れを見つめていた。そこには熊田の個人用の携帯電話の番号が走り書きされていた。社会常識的に考えたなら、ここで連絡するべきなのだろう。
 ポケットに戻す。今は別にいいだろう。警察に介入されてしまい、途中で終わってしまってはむしろ後味が悪い。もう少し様子をみてもおかしくないはずだ。
 心の中で言い訳し、和広は立ち上がった。今日は走り回らなくてならない。午後は、布施先生にデッサンを見て貰う予定だから、図書館で調べるのは午前にしなくてはならない。
 少し歩調を早めながら、崖を後にした。

八雲の章

 午後、和広は不機嫌な顔で真っ白なキャンパスと向き合っていた。
 目に見えて彼はストレスを感じている。それは目の前にある石膏で出来た無愛想なブルータスのせいでも、これからも数年続くであろう不景気のせいでも、この美術室独特の黴臭い空気のせいでもない。
 厳密にいえば、不機嫌というよりは疲れているという表現をした方が適切かもしれない。その顔には、狩りで獲物を逃した肉食動物の様に深い疲労の色が貼り付いている。和広は今日全く使っていない木炭を机の上に置くと、ポケットの中から三つに折られた紙を取り出す。
 そこに書かれているのは三文字のアルファベット。
「DIDという言葉を調べて、か」
 和広はいらついた様子で、ため息とともに言葉を洩らした。疲労の色が隠せなかった。
「DIDってなんだよ。」
 掃き捨てるように和広は呟いた。
 和広の家にはパソコンはない。携帯電話も、通話とメールしか使えない旧式のもので、ネットに繋ぐことは出来ない。母曰く、そんな機能を付けたら料金が嵩んで仕方ない、だそうだ。和広にはメールを交換し合う相手も、電話をする相手もいない。携帯電話の存在意義はほぼ無いに等しい。
 学校にもコンピュータールームはあるが、自由には使えず、使用許可を申請するのには面倒な手続きが必要になる。
 つまり和広には、現代の情報の海に漕ぎ出す船はなかった。
 結果として和広は古典的な、本を漁るという方法を取ることにした。朝食を食べた後、学校までの道を遠回りして図書館に寄った。
 朝ヶ丘付近の図書館で一番の大きさの図書館だった。内蔵する本一万冊を越え、腹ぺこ青虫からカントの純粋理性批判の原文まで。ある程度マニアックなニーズになら答えることが出来る。これなら何とか見つかるだろうと和広は思った。
 しかしこれが期待ほど、甘くなかった。書名検索、内容検索、司書の人に聞いたが見つからない。今まで存在すら知らなかった書庫の中に入れさせてもらい、あらゆる方法でその類の本を探したが、それらしいものは見当たらなかった。
「こういった大文字で略す頭字語は、何らかの組織名か、病名ではないでしょうか」
 と一緒に本を探してくれた若い司書は言った。利用者から頼まれた本が見つからず、申し訳なさそうな顔をしていた。また他の図書館に問い合わせてみるらしいが、一週間以上さきになると言っていた。
 組織か病気、確かに込み入った事情としては理由になりえる。特に、病気であるならば、死への恐怖からの錯乱、という風に美空の暴力的な行動に理由を付けられないこともない。かなりのこじつけだが。
 だが、医学系の資料の棚をいくら見ても、DIDという単語に関係しそうなものは見つからなかった。高校生の頭脳では意味すら分からない題名の並んだ本棚を何度も往復したが、それらしいものは確認できない。
 そもそも、何かの略称である確立が高いならば、正式名称を知らなければ意味がないのではないかと最終的にあきらめた。
 棚の前で、数時間直立に耐え続けた足を労るために膝を折る。膝を着いて下の棚を見ていれば、探しているようにみえ、誰も咎めることはしないだろう。棚を見ると哲学の棚だった。近代の哲学者たち、神様を否定し、肯定し、人間の中に無根拠な真理を見いだす人間の戯れ言。
 その中から無造作に一つを取り出す。ショーペンハウアーだ。高校の授業では、ほとんど出てこない自殺論者。勿論和広も良く知らない。適当に紙をめくり、その中の一節に目を止める。

「すべての真理は三つの段階を経る。最初は嘲られ、次に猛烈に攻撃され、最後に自明なものと認められる。」

 なぜか、その一節が目を引いた。
 その後、藁にもすがる思いで学校の図書館に行ったが、そちらも全くの無駄に終わった。その後、自然と美術室へやってきた。図書館で見つからないものをどうして高校の埋蔵書の中から見つけることができようか。
 やはり、コンピュータールームを借りて調べるしかないのだろうか。しかし、こんな理由で許可が得られるか怪しい上に、夏休みというと十月にある文化祭の準備をもう始めている生徒会や、文化部が使っていて開いていない可能性が高い。
 そこまで考えていると、立て付けの悪い扉が耳障りな音を立てて開いた。夏休みに美術室に入るのは、美大を目指す受験生か、真面目な美術部員か、それを嫌々見に来る顧問ぐらいだろう。
「なんだ、谷川か」
「なんだ、不良教師か」
 やはり布施先生だった。別に嫌いというわけではないが、さすがに夏休み中顔を合わせていると、さすがに飽きたというか、うんざりした気分だった。それは向こうも同じだろう。
「もう少しこう、新鮮な出会いというのを求めているんだがな。俺は」
 そういって木を組み合わせただけのような椅子に座る。何故、美術室の椅子には背もたれは無いのかと思った。
「新鮮な出会いってどんなのですか」
 一応聞いてみる。
「道に迷っておろおろしてる教育実習生がここを訪ねてきて、道を教えてください。って言ってきたり、あ、もちろん女の人な。」
「そんなことだろうと思ってました」
 夏休みに教育実習生なんてこないだろう。
 この人の性格には毎回うんざりするが、今日だけは、昨日の一件以来気が張った状態が少し緩んだ気がした。同時に昨日の事件が遠い過去のような感覚だった。恐怖も、驚きも、手の震える感覚も残っている。だが、時間の密度が濃密すぎて、どこか夢のような、現実味のない出来事として記憶に残っていた。
 そういえば。昨日の通り魔事件のことはどのくらい広まっているのだろう。さすがに昨日の今日のことだから、それほど知れ渡っていないと思いたい。だが、もし広まっているなら、どのような話になっているのか、知っておく必要があると思った。
「布施先生」
「なんだ?」
「昨日の夜、なんか事件ありませんでしたか?」
「どうしたんだ?いきなり」
「いえ、昨日、パトカーの音が聞こえたような気がしたので」
「事件ねえ・・・・」
 そう言って布施先生は考え始めた。すぐに思い浮かべないということは、心当たりがないのだろう。和広は心の中で安堵した。
「たぶん何も無かったと思うが、どうした?いきなりお前から話題を振るなんて珍しいじゃないか」
「単なる好奇心です」
 まさか自分が、昨日女の子に殺されそうになりましたとは言えない。
「ま、なんか聞いたらまた伝えるよ」
「お願いします」
 昨日起こったばかりとはいえ、殺人未遂だ。口コミでもテレビでも事件の情報が広まるのは時間の問題だ。人というものは自分に被害がなければあること無いこと含め無責任に情報を流す、いずれ布施先生の耳にも入るだろう。そのとき和広が関わっていたことも伝わっているかもしれない。
「あと、好奇心ついでに聞きますけど。DIDって言葉、知りませんか」
 DIDの情報が図書館で入手できないのなら、手当たり次第、機会があれば調べた方がいい。そう考えた。
 布施先生はしばらく考えていた。教室内は、換気されているとは言え暑く。布施先生の頬にも汗が伝っている。
「お前、高三にもなってまだdоの過去形知らないのか」
「違います」
 本気で哀れみを込めた視線を向けられたので撤回した。
「大文字でDID、たぶん、何かの頭字語だと思うんですが。皆目見当がつかなくて」
 そういうと布施先生はうーんとうなりながら考え始めた。やはり分からないのだろう。
「それも知らん。インターネットで調べれば出てくるかもしれんが、どうする?」
「お願いしていいですか?」
「明日までにまでに調べておいてやるよ。昼頃には台風過ぎているだろうし」
「ありがとうございます」
「お前今日は何というか、積極的だな。また何でそんなことを調べてんだ?」
 解答に困った。和広はあまり会話をする方ではない。布施先生が疑問に思うのも無理のないことだ。しかし、和広は口がうまい方ではない。下手をしたら美空のことまで話してしまう恐れがあった。打ち明けても問題はないが、話すと色々やっかいなことになりそうな気もした。
 適当に流そうとしたそのとき、急に引き戸が開かれた。耳障りな音が美術室を一瞬満たした。
 入ってきたのは、長身の男子生徒だった。いかにもスポーツを言っているような日焼けした顔と、鍛えていることがよくわかる体をしている、スポーツマンという表現がぴったりの男だった。刈り上げられた頭、鋭い目つき、彼そのものが勝利を求めるだけの存在に思える。
 一組の岸だ。彼とは中学時代、同じ学校のサッカー部に入っていた。高校に進学し、和広は美術部に入った。
 一方岸は高校でもサッカーを続けレギュラーメンバーのフォワードを獲得していた。しかもそれまで二回戦止まりだったチームを地区予選の決勝戦まで導いたキャプテンでもある。
「布施さん、何さぼってるんだよ、早く来てくれよ」
「ん?何が?」
「面談だよ!今日は俺の番だろうが」
 ああっと布施先生は言った。というかこの人は面談をさぼってここに来たのか?
「どうせお前はスポーツ推薦だろう?面談なんかしても意味ないって」
 そういって布施先生は手のひらでしっしっと子犬を扱うようにあしらった。反面教師とはこの人のためにある言葉だとつくづく思う。
「俺、進路希望調査に就職って書いたんですけどねえ」
 丁寧な口調だったが明らかにとげのある口調だ。だが和広は驚いた。もちろん布施先生も驚いている。
「・・・・お前もったいなくないか?」
 布施先生は言った。その言葉も無理はない。岸の実力は、部内でも頭一つ抜けている。とてもこんな小さな町に収まりきる人間ではない。
「今更その言葉をかけてくるとは先生らしいと言うか何というか」
 岸は大袈裟に両手を広げ、やれやれと首を振る。ちなみに和広のクラスでは何度も進路希望調査が配られ、公募推薦、AO入試、センター利用などのありとあらゆる進学方法の資料が配られてる。恐らくこの教師はそれをこまめに確認していないのだろう。
「なんで大学に進まないんだ?」
「進路希望調査にも書いたけど、金がないんだよ。推薦でも厳しいのさ。それにサッカーはもう高校で十分やりきったしな」
 そうか、そういって布施先生は黙り込んでしまった。布施先生は、生徒に必要以上のことを強要する人間ではない。その人の能力だけを見て、人生のレールを敷こうとはしない。その生徒がしっかり進路を決めているなら、心から悩んで決断するなら。それをサポートするだけだろう。
 布施先生はしばらく考えた後机の上に置いていたファイルの中からプリントを取り出した。
「渡したかもしれんが、九月の十二日にある就職説明会のプリントだ。これ持ってないと説明会に出れないから忘れんなよ。
 ・・・・今日は親御さん来れないんだよな?」
「夏休みが一番忙しいからな。九月にある面談には必ず行くと言ってたぜ」
 彼の家は旅館を経営している。観光地なので夏は客が多いのだろう。しかし面談にこれないほど必死に働かなくては、生活を維持するのは難しいのだろうか。
「分かった。本格的な話はそのときだ。今日はこれだけでいいだろう。あと、進路指導室でパンフ取って見とけ。そこに就職の手順が書いてある。分からないことがあればまた聞きに来い」
「わかった。そうするよ。
 そういや風が強くなってきたぜ。本格的に暴風域にはいるのは深夜みたいだが、そろそろ帰った方がよくないか?」
 空を見上げると紫の色をした空を、重い色をした雲が、すさまじい早さで走っている。その先に必ず行かなくてはならないという意志が宿っている。その動きに迷いは見えない。
 なんとなく自分とは大違いだと、和広は思った。
「確かに、そろそろやばくなってきたな」
 そうは言っているが、布施先生の顔はほころんでいた。安全という根拠のない安心感は、ある程度の危険をスリルとしてプラスに捕らえてしまうらしい。
「なんていうかこう、台風が来るときって、なんか異様にわくわくするよな」
 窓越しに空を見上げながら、布施先生は言った。本当に楽しそうだった。小学生の無邪気な表情だ。風速十二メートルの空間に存在してみたい気持ちは分からないでもないが、三十八歳にもなってもそう思えることはもはや尊敬に値する。
「なんか風が強くなってきたら外に出たくなるよな。特にあの雨が降っていないときの風が轟々吹き荒れているときとか」
 岸も便乗する。この二人なら喜んで暴風の中に飛び込むだろう。子供心を忘れないのはいいことではあるが。
「二人ともいい年して、馬鹿するなよ」
 一応、釘を刺しておく。高校生と三十路後半の教師、はしゃぐには世界を知り過ぎているし。みていて耐えられない。
「ばーか。今のうちに馬鹿やっとかないでいつやるんだよ」
 そういうものかと思った。生まれてから馬鹿なことはしたことは無いと思っている。未熟さ故の失敗はともかく、若さ故の無鉄砲さは和広の中で無意味で不利益なこととして定義されている。
「馬鹿な奴なら、大人になってもやるだろ」
「違いないな。」
 和広は即座に、横に座っている美術教師をその例とした。恐らく岸もそうだろう。
「じゃあ、布施先生、失礼します」「行方不明になってんじゃねぇぞ、おっさん」
 和広と岸は美術室を出た。布施先生は仕事が残っているらしく、しばらく学校に閉じこめられる。それに和広は同情したが、岸はどちらかというと羨ましそうだった。
「カズ。進路指導室によるから付き合ってくれ」
「ああ」
 この学校は度重なる改装の末、迷路の様に廊下が入り組んだ複雑な造りになっている。初めてこの学校に来た者なら、間違いなく迷うだろう。実際、和広も入学式のとき、自分の教室に辿り付けず、四十人のうちの最後の一人として、自分のクラスに入った。
 A棟の三階にある美術室に対し、進路指導室は、B棟の二階にある。そこに至るまで、それほど複雑ではないが話をするのに不自由しない距離がある。だが、話をしないには不自然な距離だ。
「まさか、岸が就職とは思わなかったな」
 沈黙に耐えきられなかったのは、和広の方だった。誰かと話すことは苦手だったが、それ故に、誰かと二人きりで沈黙を保つこともまた苦手だった。
「まあ、しょうがないだろ。サッカーをしないと死ぬ訳じゃないしな」
 岸はさも当たり前のように言った。
 確かに死ぬわけではない。言ってしまえばクラブ活動というのは一種の趣味だ。それを職業にする人間なんて殆どいない。いるのは、類稀な才能をあらゆるものを犠牲にして研鑽した一握りの人間だけだ。
「そうだよな」
 相づちを打ち、そこで会話が途切れる。巧く話題を繋げることが出来ない。このようなとき、他人とのコミュニケーションが少ない自分が情けなくなる。もっと同級生と話していれば、今の流行の話題を出すことも出来るだろう。
「旅館を継ぐのか?」
 やっと出てきたのは、野暮な質問だった。継ぐつもりならわざわざ進路相談にきたりはしないだろう。
「兄貴が継ぐ。本人も継ぐ気満々だしな。俺もあんな重労働したくねえし。まあ都会にでもでるか、行きつけの飲食店に就職かするさ」
「そっか」
「おまえはどうするんだ?」
「えっ?」
 思わず。詰まってしまった。
「美大、受けるのか」
 岸はこっちをみていない。遠くを見ている。時間軸を通り越して未来のどこかをみているのかもしれない。
「まあ、そうするつもりなんだけどね。経済的に国立しかいけないからさ。落ちるかも」
 自信がない。それは受かるか受からないか、といった次元ではない。自分は本当にこの道を進んでいいのだろうか、という漠然とした不安すら拭えていないのだから。
「がんばれよ。自分が好きなことを一生の仕事にするなん格好良いじゃねえか」
 自分の好きなこと、本当にそうなのだろうか。確かに絵を描くのは好きだった。読書感想画を描くときも、キャンパスに向かっているときも、スケッチブックにデッサンを描いているときも、コンピューターゲームをするときのように、わくわくしたものだ。
 だが、それは今、岸が応援してくれているような、人生を懸けるべきことなのだろうか。何かを生み出す人間、何かの偉業を成し得る人間は、才能と、強い精神と信念を持っている。それを自分が持っているとは思えない。
 そもそも人生では何を成さなければならないのだろう。子孫を残すのか。この世界の謎を解明するのか。
 幸福を手にすることなのか。
 たった十七年か生きていない自分という子供。一年後、十年後、自分がどうなっているのか全く想像がつかない。この道を歩いて行っていいのだろうかと不安になる。
 俺はどうなるのだろう。
「・・・まあ、せいぜい頑張れや」
 そういうと岸は棚に掛けてあるパンフレットの一つを取った。表紙には、「就職手続きについて」と無駄に凝った字で書かれている。目の前の教室のプレートには「進路指導室」とかかれていた。岸は、興味なさそうにパンフレットの中をぱらぱらと確認する。
 一瞬、岸の目が悲哀に満ちているように見えた。しかしそれは一瞬で、すぐに自信に満ちたスポーツマンの顔つきに戻る。
「さて、帰るか」
 用は済んだようで、岸は玄関までの最短距離のルートの廊下に足を進めた。勿論、和広もついていく。
「そういえば、谷川。昨日の事件知ってるか?」
 どきっとした。確信に近いものが和広の心臓を鷲掴みにした。
「・・事件って?」
「何だ知らないのか」そう言いながら岸は教えたくてたまらないといった表情をしている。こちらの動揺が伝わっていないことを祈った。
「昨日、花道商店街でさ。傷害事件があったんだよ。まあ被害者は無事らしいけどよ。全治一週間の軽傷と、こけたときの打撲だけらしいし。だけど精神的ショックが大きいみたいだけどな」
「・・よく知っているんだな」
 布施先生が知らなかったのに、岸がここまで知っているのは少し妙だと思った。
「そら、被害者のおっさん、家の近所だし何より噂がすげーよ。なんでも犯人は十代の女性とかいう話だし。話題性十分だって」
 なるほど。しかし、一つ疑問が起こる。
「何で十代ってわかったんだ?」
 犯人の特徴のことは警察には話さなかったはずだ。和広は、語尾の強くなるのを押さえながら聞いた。
「被害者のおっさんの証言だよ。森川さんって言うんだけどな。仕事帰りの帰り道。途中でちょいと一杯ひっかけて、いい気分で帰っていたんだと。そしたら、白いワンピースを着た可愛らしい女性が商店街を一人で歩いていたもんだから、酔った勢いだろうな。ちょっかい出そうとしたらしい。
 最初はその女性、嫌がってたけど包丁出してでも逃げようって感じじゃなかったそうだが。だが急に人が変わったように暴れ出して、持ってたポーチから包丁を持ち出してきたそうだ。
 酔ってるから足下もおぼつかない。恐怖で足もすくむ。助けがこなかったらどうなっていたか。なんてバカみたいだよな。女の子襲うつもりが逆に殺されそうになったんだからよ」
 岸は笑いながら言った。その声に反射的に答えながら、彼からもたらされた情報をまとめる。
 美空は襲ったのではない。襲われたのだ。いや、襲われたという表現はおおげさだ。酔っぱらいに絡まれた。といった方がいい。
 最初は抵抗してはいたが実力行使には出なかった。彼女の性格的に何とか説得しようとしたのだろう。だが急に人が変わったように暴力的になり、包丁を取り出した。つまり和広に襲いかかってきた美空だ。和広は恐怖というものを思い出す。そのときの彼女の雰囲気は身に染みている。あれは人を傷つけることを楽しんでいるようにも見えた。
 人にはいくつもの顔があるという。普通の人のように見えてもなんらかのきっかけで大量殺人を犯すこともある。
 だがあのときの美空は、あの操り人形のような美空は、明らかに人としての本質がずれていた。
「どうした?」
 岸がこっちを向いている。自分はそんなに考え込んでしまっていたのだろうか。
「なんでもない。たださ。まだ、犯人捕まってないのかなって。」
「ああ」岸は顔を上げて笑った。「まだらしい。この国の警察は無能だな」
 本当にそうだろうか。国家権力はそんな優しいものじゃない。特に渡辺という警官。あの男を欺くのは難しそうだ。
 気づくと、玄関にきていた。ガラスの扉が風を叩きつけられ悲鳴を上げている。
「じゃあここでな」
 岸が言った。彼とは靴箱の位置も、帰る方向も違う。
「また今度ね」
 そう言ってはみたが、その今度、という場面を想像できなかった。今度、会うとき、自分はどのような立場に立っているのだろうか。
 岸が見えなくなると、和広も玄関をくぐった。思っていたよりも強い風が体を揺さぶる。一瞬しっかり立っていられない。しかし、なんとか体を安定させる。
 今から風は激しくなるだろう。そう考え、帰りを急いだ。まだ立っていられる内に。


「うぇー。おはよう。和広君。」 
 また朝ヶ丘に、彼女が来たとき、和広は心から安堵した。
 ママに呼ばれてから二日立った。彼女が一日朝ヶ丘に来なかっただけで和広の頭の中は、ママに警察に連れて行かれたとか、変な尋問されているんだろうかとか、ドラマの悪影響を受けた想像が懸け巡っていた。
「ママに何か言われた?」
 思わず聞いてしまう。見たところ彼女の表情にマイナスの要素はみれないが、大人というものは、顔という仮面の中に、人体の構造以上に複雑な思考が隠れているものだと和広は感じていた。
「別に、変なことは言われなかったわよ。逆に盛り上がっちゃってさあ。まだ二日酔いなのよ。」
 そう言って彼女は手に持っていたペットボトルから水をあおる。二日酔いというものを知識的には和広は知っていたが、実際にみたのは初めてだった。父は翌朝に響くような量のアルコールは摂取しないし、母に至っては全く酒が飲めない。
「二日酔いってどんな感じなの?」
「頭がんがんして、吐き気がして、くらくらする。」
 そう言って彼女は頭を支える。なんとなく彼女にも気楽な部分があると思う。和広は少し安心した。
「そういえばさ、何それ?」
 そう言って彼女は、和広が持ってきた絵の具とA3の画用紙を指さした。
「これ?絵の具だけど?」
「見ればわかるよ。どうしたの?」
「宿題の読書感想画。海が舞台なんだ」
 小学校の夏休み課題は、二つに分けることが出来る。日記や自由研究といった毎日、数日かけてしないと成立しないもの、ドリルや作文などの背水の陣で望めば一日でなんとかなるもの。
 読書感想画というのはどちらかと言えば後者に入るが。和広にとっては数日を費やさなければならない大物だった。本をしっかり読まなければならないと言う前提があるし、絵を描くのはその頃から好きだったから、画用紙が絵の具でへたってしまうくらい塗っていた。
「そんなの、最終日にあらすじだけ呼んでぱっぱーと書いてしまえばいいのに。」
 和広の説明を聞いた彼女はそう言った。どうやら宿題を最終日まで溜めてしまう質らしい。
「それに本なんて教科書に載ってるやつ使えばいいのに。」
 しかも、筋金入りのようだ。おそらく彼女は下書きの鉛筆の線を消していない「走れメロス」を提出していたに違いない。
 しかし自分も非難は出来ない。他の宿題に至っては落第生のそれだからだ。読書感想文はただ本のあらすじを書いていっているだけだし。ドリルもまともに計算せずに解答をみていた。
 ただ読書感想画は特別だった。本を読むのは好きだった(ナルニア国物語やハリーポッターシリーズのファンタジー系が特に好きだった)し、その中の場面を想像して頭の中で巡らすのも好きだった。
 だからしっかり絵にできる読書感想画は宿題というより遊びの心持ちでやっていた。
「どんなの描いてるの?」
「そんなうまいものじゃないよ」
 彼女がのぞき込んでいた。今回描いているのは、海を旅する皇子が、船で働いている少女と海で遊んでいる場面だ。物語は大河的だったが、圧倒的な自然の描写にうっとりしながら読んだ。海の波が上手く描けなかったので、この場所から海を見ようと思ったのだ。
「うまいじゃん!」
「そんなことないよ」
 今もそうだが、自分の絵を見られるというのは背徳的な喜びがある。例えるならば自慰行為の感覚に近いものだ。
 そのときも小学二年生のつたない絵が上手いわけがないのにほめ言葉に後ろめたい優越感を感じていた。
「下書きだけで、すごい綺麗だもん」
「そんなことないよ」
 恥ずかしながら答えた。しかし謙遜ではない。二人の登場人物は人の姿としてはアンバランスだし、波も幼稚な動きを表しているだけだった。
「いや綺麗だよ」彼女は続けた。「なんていうか。構図が凄く上手い。私、絵のことには詳しくないから上手くいえないけど。君、多分才能あるよ」
 少し驚いた。和広自身、図工の絵をほめられたことはある。しかし誉められた後、学校の階段の途中に貼ってあるバランスのとれた上級生の作品をみて、あの評価はお世辞なんだといつも思っていた。
 そういう意味では「才能がある」と言われたのは初めてだった。これまで子供の遊びとしてしかみてもらえなかった絵が自分の長所として、自慢してもいいこととして認められた気がした。なんとなくこそばゆかった。
 そのまま描いていても作業にならない気がしたので、中断した。彼女は「何でやめるの?」と聞いてきたが答えられなかった。恥ずかしさと嬉しさの中間にあるこの気持ちに和広はまだ慣れていなかった。
「ねえ」
 彼女は、口を開いた。
「何か話そうよ」
 そう言って彼女は、体育座りのように足を折り曲げ自分の膝に頭を置いた。
 その自然な、柔らかな仕草を横目にみる。直視するのははばかれたが、ああ、いつものお姉ちゃんだ。そう思った。
「つぐみのお話して」
 僕は頼んだ。つぐみは、もう僕の中で友人に近いイメージを持って、この世界に存在していた。可愛らしく弱虫なくせに、少し背伸びしていている女の子。
 またしばらくつぐみについての話をした。甘いものが好きらしく。特に羊羹がお気に入りであることや、運動会の徒競走で転んで拗ねて、途中で座り込んで居座ってしまったこと。
 毎日の一ページを、丁寧に切り取ったような思い出。彼女は本当に幸せそうに話していた。和広も幸せそうに語る彼女をみると幸福な気分になった。
 しかし、しばらく話を聞いていておかしいと思うことがあった。
 つぐみは和広の一つ上と、彼女が言っていた。ならばつぐみは十一歳ということになる。しかし、彼女は八歳以降のつぐみの話題を出さなかった。
 和広が聞いた中で一番最近のつぐみの出来事は八歳の誕生日にプレゼントのぬいぐるみに不満を漏らしたことだ。
「ねえ、お姉ちゃん」
「なに?」
「つぐみは、今、どこにいるの?」
 沈黙が空色の世界を包んだ。果てはどこまでも青く。空と海の境界は雲を飲み込みながら、曖昧にだがはっきりとあった。
 風は猛り、空は歌う。まるで悲鳴を上げているようだった。それは、果てがないのが苦しいのか。それとも高すぎる故に悲しいのか。泣くように、叫ぶように、透明な風は歌っていた。
 そこで、目が覚めた。
 汗がランニングを濡らしていた。それは夏の鬱陶しい暑さのせいだけではなかった。
 おそらく、この記憶が大切で、儚いものだからだろう。
「全く、ママの言うとおりだよ。弱々しいことこの上ない」
 和広は呟く、それは誰に向けたものでもない。意味のない言葉。
「ごめんよ。お姉ちゃん」
 それは、どうしようもない罪への懺悔。罪は消えない、だが人は忘れてしまう。だから、愚かにも思い出す。罰が無いのならなおさら、その無意味な行為を繰り返すのだ。
 嵐の音と共に、朝は来た。
 目覚まし時計の耳障りな音は、雨戸のがたがたと震える音にかき消されていた。
 雨戸を閉め切り、電気を消すと六畳の自室は、10センチ先も見えないほど真っ暗になる。基本的に和広は寝るときに常夜灯はつけないので、起きると完全な暗闇になる。
 目を開けた瞬間も暗闇というのはいつになっても慣れない。時刻が朝日で把握できないというのもあるし、なにより一瞬自分が今どこにいるのか分からない。
 自分が一瞬誰なのか、寝ぼけた頭ではどこにいるのかわからなくなる。
 一瞬混乱して、寝る前の、もしくはそこからずっと前の記憶を辿っていき、自分が谷川和広という人間であること、台風がきたので雨戸を閉めたことを思い出す。
 風は強い。樫の木でできた雨戸を揺さぶり、堅い音を出す。うるさいがそれほど耳障りではない。木材同士がぶつかる硬質な音にはまだ暖かみがあり、耳障りな目覚まし時計の機械音ほど、聞いていて不快にはならない。
 ガラスの扉を開け、その奥の雨戸をほんの少し開ける。轟々と音を立てて灰色の空と海の狭間で風が荒れ狂っていた。雨は降っていないようだ。
 この町は台風が直撃する事は少ない。日本海側にあるため、少し暴風域に入るのみで、家屋が飛んでしまったり、稲が全て倒れてしまうような生活に直結するような被害は少ない。
 あるとすれば、観光地である朝ヶ丘に来る客がいなくなることだが、毎年のことだ。確かに、出店でかき氷やイカ焼きなどの軽食を振る舞ったり、お土産を扱う和広の店のような家には影響はでるが、天気予報でも、家計簿の面でも予測と対策が立てられている。
 つまり、この町に住んでいる住民にとって台風は一時の妙な高揚、もしくは陰鬱な気持ちにさせる薬のようなものだった。
 過ぎれば僅かな、ほんの僅かな何かしらの被害。
 例えば、山の細杉が数本倒れただとか。
 暴風の音で深い眠りにつけなかったとか。
 朝ヶ丘の側面が、いつもの波よりも多く削られることとか。
 巨大な低気圧が過ぎた後は、必ず晴れる。そのときには、かすかに残された被害のことなど、誰も気に止めないのだろう。
 とはいえ、現在この町には激しい風が吹き荒れている。テレビを見たわけではないが、強風波浪注意報くらいは発令されていてもおかしくなさそうだ。今が夏休みじゃなければ、連絡網で休校の連絡が回ってくるに決まっている。
 今日は、美空は来ないだろう。
 来たら本当に死ぬかもしれない。足場の悪い崖、安全柵は一応あるが、景観を損なうという理由で大したものは立っていない。全くない場所もある。特に、約束したあの場所は柵どころか、道すら整備されていない。
 そこまで考え、部屋に電気をつける。時計は午前7時。約束の時間を決めていたわけではないが、少し寝過ごしている。
 これから、どのように美空にコンタクトを取るべきかを考える。思い出してみれば、昨日、一昨日と、すれ違い、または殺されかけと、世間一般の、知り合うことをまともに行っていない。
 今、和広にあるのは、彼女が殺人未遂を犯したこと、DIDと呼称される何かが関係していること、おそらく自分より年上であること、白いワンピースを着ていることくらいだ。
 美空がこの町の何処に滞在しているのか。そもそも警察から追われる身なのだから隠れ潜んでいるのかもしれない。
 つまり、現在、和広とあの少女との接点は、朝ヶ丘という場所しかない。
 また深夜に町に出歩いて、彼女を探すのはさすがに気が乗らない。そんなホラーゲームじみた真似をするほど、肝も据わっていない。
 布団に寝転がる。少しざらついているタオルケットの感触を確かめながら思案した。
 ふと、熊田さんに連絡をとってみようかと考えた。こちらにはDIDという有力かは定かではないが、貴重な情報がある。どうしてその情報を手にしたのかを話さなければならないが、そこは何とかでっち上げればいい。相手は詰問のプロだろうが、こっちは犯罪者ではない。逃げられるだけの「建前」があればいい。
 そう思い、携帯電話を手に取った。液晶画面が小さく、機能も充実していないが、根本的な存在意義である通話は可能だ。
 机の上に置きっぱなしの電話番号のメモをとろうと、窓際に移動する。
 風の音に混じり、石が雨戸を叩く堅く鈍い音がした。
 その犯人をを推測した和広は、立て付けの悪い雨戸を脱獄するようにこじ開ける。
 和広の店の前、正確には、和広の部屋である二階の窓が見える位置に、あの少女が立っていた。
 ワンピースではなくデニムを履いていた。上はシャツ一枚。随分と印象が違って見えた。強風なので麦藁帽子は被っていなかったが、代わりに綺麗な水色の傘をその手に持っている。どこか、閉じた朝顔のようだと和広は思った。
 彼女は少し怒ったような表情をしていた。眉はひそめられ、子供を思わせる変化豊かな唇は真っ直ぐに閉じられている。
 そこで、なぜか、和広は疑問を覚えた。別に何がと断定できるものではない。ただ、立つ姿勢。傘に添えられた手と腕の形、そしてその人としての印象に、何か違和感があった。
「おい、起きてんなら返事くらいしろ。もう少しでチャイムを押すことだったぞ」
 甲高い声が強風の中響く。一瞬、思考が止まってしまった。
「えっ?」
 素っ頓狂な声を和広は出す。今の美空の口調は、抑揚がなく、まるで男が発したかのようだったからだ。
 声の高さはさほど変わっていない。二日前の美空の声に間違いはない。それが余計、違和感を際だたせた。
「えっ?じゃない。心配してたのに、原因は寝坊かよ。美空と約束したんなら無理にでも起きろ、ナマケモノ」
 そう言って、さらに顔の皺を増やし、和広をみた。しかし和広は、ただ困惑するしかない。
「君は、美空、だよな?」
 ようやくその言葉だけ絞り出した。美空は大げさにため息を付く。
「お前、DID調べたんじゃねえのか?せっかくヒント出してやったのに」
 美空は語尾を強くして、船乗りのような威圧感のある声をこちらに叩きつけた。とても二日前と同じ人間とは思えなかったが、声音がその存在が同一であることが証明していた。
 和広は、元々強くでられるのが苦手な人格をしている為、少し尻込みした。
「調べても見つからなかったんだよ。うち、インターネットないし」
「どこの昭和時代だよ・・・」
 説明しないといけないのかよ。と美空は風に乱れた髪をぐしゃぐしゃと掻いた。
「わかったよ。和広。俺は先に朝ヶ丘に行っているから、さっさと用意して早めにこい。危ないから、なんて言い訳は無しだ。風は強いが、そんなに先端にはいかねえからな。
 そのときに説明してやるよ。だから逃げんじゃねえぞ」
 そう言い、美空は家の裏にある、朝ヶ丘に続く道へと向かった。一方の和広は狐に化かされたかのようにあっけに取られていた。
 実際に化かされた可能性も考えた。狐とまではいかなくても美空がこちらを困惑させる目的で、あのような乱暴な口調と態度を示したのかもしれない。
 だが、それにしては、あの口調は淀みないものであったし、それ故に美空との姿との不一致さが、海に浮かんだ発砲スチロールのように浮き上がっていた。
 美空は、説明してやると言った。ということは、DIDという問題を解けなかった和広に正解を提示する、という解釈で間違いないだろう。先ほどの様子を見る限り、激怒されそうだが。
 つまり、それは美空が抱える問題を見せるということになる。
 だが、彼女の口から考えてもその先があるはずだ。美空はこちらがDIDを調べたことを前提にここに来たはずだから。
 DIDという小問は、そこから発展させるであろう話、の予備知識として予習しておけ、という意味だったのだろう。その先にある発展問題を理解するために。
「考えても、わからないことだろうな・・・」
 和広は腹を決めた。。
 軽く深呼吸して、覚悟を決める。そもそも、昨日朝ヶ丘に赴いた時点で、逃げることはしないと決めていた。幼き日の記憶からか、それとも、単なる好奇心なのか。自分でも納得はしていない。だが、関わったからには途中で投げ出すことはしたくなかった。
 古びたタンスから、Tシャツと、ハーフパンツを取り出し、身につける。タンスには、シールを剥がされた跡があった。自分が付けたものに間違いはないが、何時付けたものかは思い出せなかった。


 朝ヶ丘までの道は、無秩序に吹く風と、飛び交う木の葉でまるで試練のようだった。
 元々、足場が不安定なこともあり、右へ左へ体を引っ張り、重心を安定させてくれなかった。
 しかし、なるべく急いだ。着替えている間に、美空は随分先に行ってしまった。そのうち追いつくと思っていたが、道の半分を過ぎても、姿すらみえないので、足を早めた。
 朝ヶ丘にでる。ごつごつとした岩場の先には生き物の様に崖に襲いかかる波があった。
 風には砂より少し大きい位の小さな石が混じり、たまに露出した肌に当たる。痛いというより痒い位の刺激。
 足場に気を付けて進む。岩場の歩き方にはこつがある。次に踏む足場を歩いている間に視認し、その足場になる岩が、どのような形か、どのくらいの傾斜か。不都合があれば修正し、なるべく足に負担のかからないようにする。
 下手をして足首を捻ることなどよくあることだ。誰かと一緒にいないと、捻挫したとき帰ることは出来ない。
 いや、違う。今日は一人ではない。視線を前方に向ける。
 手頃な大岩に座った美空の姿があった。あの事件以来の邂逅。もう少し互いに緊張をはらんだものになると覚悟していたが、先ほどの美空の言動のせいで出端を挫かれた気分だ。
「遅いぞ、和広。寝坊したのなら、もう少し位急いだらどうなんだ」
 強風の中、美空は言う。その端々まで、男性的な口調でありながら、声音は、女性らしく柔らかいものだ。若干声が低い印象がある。姿は美空の、起伏は少ないが女性らしい曲線がある。別人ということはあり得ない。
「君は、美空なのか?」
「じゃあ聞くが、お前は俺が美空だと思っているのか?」
 言葉に詰まる。判断が付かない。確かに、身体的な特徴は紛れもなく美空のものだ。それは疑いようがない。
 しかし、今の美空の言動や、性格は、まるっきり別人だ。まるで、美空という体に男性の幽霊が取り付いたかのように。
「・・・・わからない」
 二日前の美空は、殺人鬼のようだった。異様な気配なんて分かりやすいものではなかったが、躊躇いなく人に刃物をつきいれてしまえる自制心のなさがかいま見れた。だが、今は美空はそのような状態ではない。また、別の、不可解な異常。
 美空はいらついている、眉間に皺を寄せ、口は何か言いたげに、だが、口にすれば罵声に変わったしまうため自制して、和広をみている。
「さて、どこから、説明したらいいんだろうな」
 美空は大きくため息をついた。まるで、物わかりの悪い生徒に、どう教えるか悩む先生のようだった。
「まずは、君のことについて教えてくれよ。一昨日といい、今日といい。君には理解不能なことが多すぎる。君が美空でないならなんなのか。美空と、どんな関係があるのか。それを知らないとこっちもどう話してわからない」
 和広は言う。彼自身、これ以上わからないことだらけなのはたくさんだった。
 美空は、ふんと、鼻を鳴らした。若い世代の言葉に耳を貸さない、親世代のような態度だった。
 そして、白いワンピースを風に遊ばせながら、岩を降り、和広と相対する。
「なら、単刀直入に言おう。俺の名前は八雲。この体の中にいる十七の人格の中の一人だ」
 勿論、俺は男だ。と美空は付け加えた。
「・・・もう一つの人格?」
 和広は聞いた。まるで鸚鵡返しのように、言われたことをそのまま返す。
「そうだよ、何度も言わせんじゃねえよ」
 八雲と名乗った美空は、答えた。少しせっかちな性格なのか、和広が情報を消化する時間すらもどかしそうに話を進める。
「ということは、君は二重人格者、なのか?」
 そういうと、八雲は腕を組み顔をしかめた。
「おい、二人じゃねえよ、さっき十七の人格の一人って言っただろう?あまり言ってほしくねえが、多重人格って言った方が正しい」
「十七人・・・・」
 和広は呆然としていた。多重人格というものを知らないわけではない。だがそれは、小説や漫画、アニメーションやドラマ、創作物の中でしか存在しないものだと思っていた。
「信じていない顔だな」
「信じていないっていうか・・・」
 ついていけない。と思った。確かにそれが本当ならば、この男のような荒い言葉遣いにも説明が付く。だが、これまで多重人格の人間なんて会ったことなどない。そもそも和広自身そんなものは創作物の産物だと思っていたからだ。
「まっ、普通はそういう反応だろうな。だから美空の奴しっかり説明すりゃよかったんだ。あいつらも、何で俺に押しつけるんだよ。お前も会っておいた方がいいってどんな理屈だってんだ・・・・」
 ぶつぶつと、八雲、は毒を吐いていた。
「ちょっと待て、何で美空は多重人格者だってはっきり言わなかったんだ?」
 八雲に訊ねる。見た目は美空なので、美空本人にその人の行動の意味を他人事の様に訊ねるのは、妙な気持ちだった。
 八雲は首の後ろを掻く。風のせいで乱れた髪は直さず、そのまま絡み合い、風に踊らされている。和広は岩の上に腰を下ろした。
 DIDという単語で調べても、図書館では有力な本は見つからなかった。インターネットを使えば見つかるかもしれないが、それでも耳慣れない言葉には変わりない。
 だが多重人格と書けば、それだけでどのようなものかわかる。わざわざDIDなんて書く必要はない。
「じゃあ、和広。多重人格ってどんなイメージがある?」
 八雲は険しい表情のまま言った。
「イメージってどんな?」
「そのまんまだよ。楽しいとか、つらい、おもしろい、つまんない、そういうのでいい」
 和広はしばらく考えた。今まで多重人格者と知り合うことなんてなかった上、現実に存在することすら知らなかった。知識を得るにしても、大抵、ドラマや、漫画、アニメーションといったものでしか知らない。それらの物語の中では、大抵、人格同士がぶつかったりしていたが、最後には仲良くしていた。
「面白そう、かな。不謹慎かもしれないけど、自分の中に他人がいることって」
「ああ、とても不謹慎なんだよ。その考え」
 八雲はスカートを鬱陶しそうに整えながら、声を荒げた。
「お前は経験があるか?
 少し意識をなくしたと思ったら、自分が手に包丁を持っている。気づいたらリストカットの跡がある。起きたら病院のベットの上で拘束されている。昨日まで話していた友人の顔に青あざがあって、自分の拳には見慣れない傷がある。
 今まで普通に接していた友達や、家族でさえ、自分を怖がるように距離を置きながら、裏でこっちをキチガイ呼ばわりしている。
 そんな気持ちがわかるか?」
 八雲は、左手をこちらに向けるその手首には、いくつもの切り傷があった。今まで、長袖で近くでみたことがなかったから気づかなかった。幾重にも、まるで猫がひっかいたみたいな無秩序な格子状の傷。手首に対し真横に描かれたそれは、赤黒い血と毒々しい膿が残っていた。
「これは病気なんだよ。これでも死んでしまおうと考えたことだって何度もある。確かに珍しい病気だし、面白がるのもわかるが、そんな偏見まみれで見られたらいらつくし、迷惑なんだよ」
 嫌な偏見を持たれるのがいやだと、美空が言っていたことを思い出した。
 和広は言葉を探していた。八雲の話をどこまで信じていいかわからなかったからだ。
「信じるも何も、事実だよ。確かに心理学かじってないと納得できないかもしれないだろうけどな。だが、幽霊見つけてこれはいたずらだ。とか宣っても、オカルトは解明できねえだろ?
 もう一度いうが、俺は八雲だ。確かに俺には男性器なんてないし、胸も膨らんでて、今着てるデニムもサンダルも女物だ。だが、俺は男なんだよ。
 こんなの着たくねえし、履きたくもない。さっさとトランクスにはきかえて、さっさと寝ちまいたい。ま、俺以外のほとんどの人格は女だし、反対されるだろうけど」
 美しいソプラノを歌えそうな声で八雲は言う。
「まあ。証拠はない。俺が、美空ではなく八雲だって言う物質的な証拠はどこにもない。だって細胞の一つまで共有しているしな。
 でもな、お前も自分が自分だっていう証明はできるまであるのか?」
「なんだって?」
「怒っているときのお前、悲しんでいるときのお前。一分前のお前、一時間前のお前、十年前のお前。
 全部が今のお前と同一だったか?細胞ですら十年すれば全部入れ替わってしまうだぜ?自我なんて、信じるもの、求めているもの、生きる理由さえ数秒の間にどんどん変わる。そんなもの同じ人物なんて誰が断言できる?自我なんてものはただ、記憶が繋がっているだけに過ぎないんだ。もしそれが、記憶の連結が切断されたら、その記憶たちは同じ人間だと言えるか?
 ・・・俺たちは、そういう存在なんだよ」
 昨日美空が言ったことが繰り返される。だが、昨日よりも深く、その言葉が頭に染みこんでいった。
「・・・なあ、八雲さん。一つ聞いていいか?」
「八雲でいい。俺は十七歳、同い年だろ?確か」
「え?でも、美空は二十歳だって・・・」
「人格ごとに年齢も違う。俺らの中には三十過ぎのやつもいるからな」
 そういい。八雲は、自分の胸を叩く。
「で、なんだよ。美空に会いたいっていうのは無理だぜ?俺は人格の交代を自由自在にできる訳じゃないからな」
「あ、うん。じゃあ八雲、何で君、いや君たちは朝々丘に来たんだ?」
 八雲は、台風の潮風に髪を乱しながら、かすかな朝日の中、猛獣のように荒れ狂う波しぶきをみていた。
「・・・美空からはなんて聞いている?」
「確か、知り合いの自殺を止めるため・・みたいな感じで言っていた。だけど」
「まあ、確かにあいつにしてみればそうなのかもな、鬱陶しい。別に俺は来たいと思っていた訳じゃねえよ」
「自殺を考えている人格がいるのか?」
「ああ、それは確かだけど、あまり話題に出さない方がいいぜ。この会話が聞こえている場合もあるからな」
 和広は慌てて口を噤んだ。そして息を吐き、呼吸を整えてから問い返す。
「だけど、美空は他の皆が満足するまでって言っていた。なら、この場所にきた目的は一つじゃないはずだ。一体君たちの目的は何なんだ」
「俺はただ奴らに引きずられてきただけだよ。目的なんて知るか。俺は、他の人格とはあまり自由に意思疎通できないからな」
「そうなのか?」
 意外だ。人格同士、自由に意思疎通出来るものだと思っていた。現に先程、美空とやりとりしたとの言葉もあった。
「じゃあ君はどうやって美空と意思疎通しているんだ?」
「ああ、日記があるんだ。日記っていうべきかはわからないがな。自分が表に出ているって気づいたときに書くようにしている。それで、俺とあいつは、いくつか意見を交換している。それから夢の中会議みたいなことをするときもある、どんなのかは口では説明しずらいな。
 後起きているときも幻聴みたいなのを使って意見を交換することもあるけど。それ、結構難しいしな。
 つっても、日記に関して言えばまともなこと書いているのは俺と美空と後数人ぐらいだがな、他の奴らはもう、末期だありゃ、自分のことだがな
 まあ医者がいうには、美空はISHっていう奴らしいから、他の人格にしてみりゃ俺らが異常なんだろうよ」
「ISHってなんだ?」
「乱暴に言えば常識人、治療の協力者ってとこだ、説明面倒くさいから、自分で調べてくれ。そんな重要ではないし」
 DIDといい、耳慣れないアルファベットの羅列ばかりだ。何かの略称なのだろうが、聞いているこっちとしては理解が追いつかない。
「結局、DIDって正式名称はなんだよ。こっちもDIDじゃ、まともな情報えられなかったんだよ。正式名称とか、日本語名称を教えてくれよ」
 風が砂になりかけの石を運ぶ。ここに来たときよりも少し風が収まったように感じる。だが遙か上空の雲は、何かに急かされるように、海の向こう側を目指し、飛行を続けている。
「DIDの正式名称は Dissociative Identity Disorder 日本名では、解離性同一性障害。他にもMPDとか、色々呼び方はあるが、今ではそれが一番通りがいいんじゃないか?
 これでいいかよ。もうヒントはださねえよ。後は自分で調べろ。
 ああ疲れた。やっぱ喋るのは苦手だ。今日はもう疲れたし、また明日来るぜ。ゲーセンで憂さ晴らしでもしねえと気が晴れない」
 そのまま去っていきそうな八雲を、和広は慌てて引き留めた。
「待てよ、どうして君らはいつもさっさと帰っちまうんだよ。謎を残されたままどっか行かれても困る。せめて昼間どこにいるか位教えてくれてもいいだろう?」
 未だに、美空と同様の容姿をしたこの少女が、八雲という別人格であることには納得していない。
 八雲と呼ぶことにも違和感があり、男と喋っている感覚は全くないのだ。
「殺人未遂の容疑者に居場所を教えろってか。随分と大胆なんだな。和広」
 挑発するような口調、先程までの話を真実だとすると、一つ、考えが浮かぶ。
「・・・一昨日のは、八雲だったのか?」
「ちげえよ。いくら俺でも殺人なんてしないし、しても誰かに見られるなんてへまはしない。殺人鬼についてはまた美空にでも聞いてくれ、俺よりかは知ってるはずだ」
 そう言って、美空、ではなく八雲、は背を向けた。
「・・・あーあ、今日もだめだったか。全く、朝起きるのも面倒くさいのに、いつになったら出てくんのかねえ」
 そう、かすかに呟いた。
「おい、それはどういう意味だよ」
 和広がそう言うと、ワンピースを着た少女は、しまったという顔をした。しかし、つかみ所の無い性格を考えると、それが罠なのか真なのか、人付き合いが人より薄い和広には判断がつかなかった。
「独り言だよ、気にするな、他人の呟きにすら反応すると、小物と思われるぞ」
「話題をずらすな。あと大きなお世話だ。だいたい今日だってこんな阿呆みたいに風の強いときに出てくる必要なんて無かった。なんでわざわざ、強風吹きすさぶ朝に会おうと思ったんだ?昨日も、天気予報を見ていなくても、空をみればわかっただろうに」
「台風の風は楽しいだろう。それじゃ理由にならないか?」
「ならない」
 この八雲という人格、というべきかどうかは分からないが。妙に勝手なところがあると感じる。美空は、大事なところをたぶらかして、自分を見せないところがあったが、八雲は、面倒くさがりのくせに自分のことを積極的に話す。だが、そのかわり人の話を聞かない。
 そこまで言葉を紡ぐと、八雲は黙って、和広の横を通り過ぎようとした。
「・・・・明日、また来るのか?」
 和広は、やっとの思いで、その言葉を発した。
「たぶんな。次は誰かわからねえが、それは間違いない。もう少し予習しておけ。まさかこないとか言わねえよな。美空と約束したんだろうがよ」
 八雲は言葉を荒げた。美空のときよりわずかに低めの威圧声。
「来るよ」
「はっ。逃げるなよ?」
 八雲は、葉の音、風の音の激しい森の中を通っていった。その背中は追うことを拒絶していた。
 和広は、岩に腰掛けた。思えば、八雲の話を立ったまま聞いていたことに気づいた。
 思えば信じられないことだらけだ。いや、まだ完璧に先程の話を信用したわけではない。だいたい、多重人格などと言われても、口調、表情、仕草が変わったところで、肉体は同じなのだ。どうしても美空が他人の振りをしているようにしか見えない。
 とりあえず情報が欲しい、もう一度図書館に行き、今手に入れた情報を踏まえ、調べて見よう。布施先生も何か掴んだかもしれない。
 情報を手に入れてからでも、彼女の話の真偽を吟味することは遅くないだろう。
 それにしても何故、朝に会わなければならないのだろうと思った。和広は早起きが得意というわけでは無い。八雲、美空はどうなのか。そもそも多重人格者の睡眠がどういったものなのかわからないが、苦手なようなことをぼやいていた。
 朝の崖は、昔を思い出してしまうから苦手なのに、と和広は思った。
 風向きが変わる。台風は過ぎた。じっとしているのももう終わりだ。
 もう、昔のような思いはしたくない、と和広は思った。


 友達は大切なものだ。そんなことは知っている。だが、文明が進むにつれ、人間は一人で暮らしていくことが、欺瞞に満ちてはいるが可能になった。
 つまり、生きていく上で、友情、愛情というものは、自らの精神を守るための支えでしかない。
 だが、幼い子供にとって交友関係は自己を形成する上でとても重要なものである。だが、それが本当に重要かどうかは、心が未熟なときにはわからないものだ。
 その日和広は、夏休みだというのに学校に来ていた。学友たちが学校のグラウンドでサッカーをすることになっていたからだ。携帯電話もなく、いや、あったかもしれないが、小学生が持つには高価すぎた時代。家に置いてある手垢の付いた電話を伝い、それなりにボールに触りなれた同級生が集められる。幸か不幸か、和広はその中の一人に入っていた。
 サッカーはそれなりに好きだった。そこそこ運動も出来たし、両親が誕生日に買ってくれたボールは、一人でもドリブルをしたり、塀に向かってシュートをしたりできるので、一人っ子の和広にはぴったりだった。丁度その頃、和広の年代が読む漫画誌にサッカー選手の伝記漫画が特集を組まれ連載されていたので、サッカー少年が増えた時期でもあった。
 和広は、特に中村俊輔選手が好きだった。まだ、海外に移籍する前、横浜Fマリノスに所属していた頃だ。小学四年生でリフティング千回。黄金の左足。ファンタジスタ。チームプレーに頼りきらず、自らのテクニックとその左足でゴールを決める天才。孤独で、強い存在。
 和広はリフティングは四回しか出来なかったし、芸術的に曲がるフリーキックも出来なかったので、サッカー選手になるという小学生特権の夢は早々にあきらめた。だが、和広は、彼のスタイルをそれなりに必死に真似した。
 利き足は右だったが、シュートは中村選手と同じ左足で打った。インサイドで擦りあげ、わずかではあるが曲線を描くようにした。単独でもディフェンスを突破できるようにドリブルの練習は頻繁にやった。
 そのせいか、小学校のサッカーの時間は少し頼りにされていた。といっても和広自身引っ込み思案だったので、連れ出すのは、周りの友人だったのだが。
 その筆頭であったのが岸だった。小学校というのは、学力よりも身体能力で力の順列が決まる。そういう意味では、彼は和広のクラスの頂点だった。和広にとって幸運だったのは、普通なら高慢であってもおかしくない立場の岸が、スポーツマンの鑑ように、頼りがいのある同級生だったことだ。
 岸は和広に良く話しかけた。放課後、校庭でフリーキックの練習をしていた和広に付き合ってくれたり、引っ込み思案な和広を、よく自分のグループに入れ、遊んでくれた。
 よく二人で行ったのが、ミニゲームだ。グラウンドの小さなスペースや、公園のわずかな広場でも出来る。一対一のゲーム。
 どちらかがボールを持って、後ろに作った線や、壁のゴールまでボールを持って行けば一点、一点入るごとに、最初にボールを持つ役を交代し、ボールとゴールを奪い合う。
 三点差以上差をつけたら勝利だ。
 最初このゲームをやったときは岸に手も足も出なかった。岸の持ち味は、その圧倒的な運動量と力の強さだ。多少強引でも、和広を押しのけゴールを決めてしまえる。その能力は正にストライカーとして申し分ないもので、和広は一点も取れずに負けてしまうこともあった。
 だから和広は研究した。一番の効果があるドリブルのフェイントや、岸の強引なカットを回避できるボールコントロール。なんとか、勝率を三割程まで伸ばすことが出来た。
 その日も和広は、フォーワードのポジションにいた。シュートは並だが、ボールタッチが上手く、攻撃の中継点として優秀だった和広は、いわば岸のシュートをアシストする火薬のようなものだった。
 膝に手をつき、キックオフを待つ。いつものように、生物たちを滅ぼすような灼熱の太陽の下。蚊に噛まれかきむしった後が転々とする素足をさらし、和広は待機していた。
 ただ、一つ、違うことといえば。
「おいカズ。あの女の人誰だよ」
 岸がこっそり尋ねてきた。まるで、転校してきた女子生徒についてきくような遠慮と好機心の入り交じったものだった。
「知らないよ」
 和広は返した。なるべく素っ気なく、動揺をみせないように。
「嘘付け。お前があの人と一緒に学校に来るのを何人もの俺の下僕が目撃してんだぞ。ほらほらさっさと白状してしまえよ」
 岸は、小学生の頃、友達のことを家来だとか、下僕だとか言っていた。一応和広も、彼の家来だったらしい。さすがに中学生に上がってからは恥ずかしいのか使わなくなっていたが、心遣いができ人望もある岸が、仲間を下僕と呼んで調子に乗っているのは、不思議と嫌みではなかった。
「道聞かれただけだって」
「嘘付け、あんなに仲良さげだったじゃないか」
「ほら、ホイッスル鳴るよ」
 和広がそういうと、どこまでも青い空に、ホイッスルの音が響き渡った。
 お姉ちゃんが、試合をみたいといったのは今日の朝のことだった。
 ラジオ体操を終え、朝食も済ませ、後は、午後の試合への英気を養えばいいという状態で、和広は朝が丘に向かった。お姉ちゃんに今日がんばるよと言えば、本当にがんばれるような気がしたからだ。
「面白そう!見に行っていい?」
 しかし、こう返された。和広は他人とは関わりを持たなさそうな彼女が、小学校のサッカーの試合を見に来ることに驚いた。そもそもその日の試合は、公式のものでなく有志で行うものだった(勿論先生はついていたが)
 保護者で見に来るものもほとんどいないだろう。いたとしてもやる気のなさそうな、PTAのおばちゃんたちぐらいだ。
 しかし、お姉ちゃんの言葉には、否定を許さないものが込められていた。大人はよく否定が出来ないことを尋ねてくる。いつも和広は卑怯だと感じていた。
 和広は逃げるように朝々丘を去り、彼女が行きたいといったのは冗談だと思っておいた。しかしお昼に家を出ると、彼女が、どこから持ってきたのか水筒とレジャーシートを持って仁王像のように立っていたものだから、和広も観念するしかなかったのである
 今お姉ちゃんは、グラウンドの端っこ、丁度鉄棒あたりのところで、レジャーシートを広げていた。足を崩しリラックスした状態で、座っている。
 小学生たちが走り回り、乾燥したグラウンドに土埃巻き上げる。さっき先生が水を巻いたばかりなのに、やけどしかねない温度の土は、砂漠のように、乾燥していた。
 その中で、彼女は麦わら帽子を被り、観戦していた。ゴールが決まりそうになったりすると声こそ上げないが、悔しそうだったり、ほっとしたりと小学生の拙い試合を楽しんでいた。
「こら!カズ!」
 はっとする。気づいたときには、キープしていたボールを相手にカットされていた。
 攻撃のため、ディフェンスを除いた味方全員が前線に出ていた。小学生の、しかも本格的にクラブではない場合、攻撃も防御も選手が極端に移動する。拡散してパスを繋いで攻める方が有利なのは素人が見ても明らかだが、小学生は作戦の中に身を置くよりも、無心にボールを追っていた方が安心できるのだ。
「ごめん!」
 謝って、自分のゴールの方に戻ろうとして止まる。岸も、コートの半分あたりで止まっている。他の選手は相手チームのディフェンスを除き、ほとんど、ゴール前に集っている。まるで、砂糖菓子に群がる蟻のようだった。
 岸がこちらをみる。狩りをする前のハンターの目だった。考えていることは同じだと悟った。
 カウンターで必ず決める。
 ここまでチーム双方無得点、前半終了間際、チーム分けがよかったのか、実力は大体互角、ここで決めないと後がつらい。
「よそみしてんじゃねえよ。カズ」
「ごめん。ちょっと考えごとしてた」
「あの女の人のことか?」
 なにも言えなかった。
「まったく俺に隠し事なんていい度胸だな」
 そういって岸は笑った。ちょっとまずいなと思った。このように岸が笑うときはその対象に興味を持ったときだ。
「カズ、得点数で勝負しないか?」
「お断りするよ」
 どうせ、勝ったらお姉ちゃんと話させてくれとか、そう言ったものだろう。そしてその考えは当たっていたのか岸は、反論を許さない、協調性に満ちた声で続ける。
「俺が勝ったら、あの女の人、紹介してくれよな」
 乱戦を制したディフェンスが蹴り上げたボールが、こちらに向かって綺麗な放物線を描いた。 
 先程も述べたように、和広はストライカーのような銃弾ではなく、アシストの方が得意ないわば火薬だ。
 だが、この岸との勝負を征するためにはサポートでは駄目だった。自らゴールを決める必要がある。
 しかしここで、岸と和広の決定的な差がでる。和広にとってのゴールに至るプロセスは、詰め将棋に近いものだった。いかにキーパーから壁としての機能を奪い、ディフェンスをかわし、ゴールネットを揺らすかだ。
 だが、詰め将棋は、駒一つではなしえない。王手をかける駒に、王がその場から逃げてもしとめられる詰めの駒がいる。
 一方岸のゴールは、まさに狩りだった。雷管に電気が走り、ガスに押し出され音速を超える銃弾のように。また、獲物を見据えると、最短直線を生物最速で走り牙をむくチーターのように、ただ一人で、純粋にゴールを奪うのだ。
 その差は、単独でも為せるか否かということだ。
 互いにパスをしながら、ゴールを目指す。相手も対したもので、すぐに戻り、守りの体制を整えかけている。
 和広は、岸にパスをし、相手の一人をかわす。そしてすぐに、岸にとってパスのしやすそうな場所に走る。岸の周りには、何人ものディフェンスが取り囲んだ。
 岸といえどパスで交わすしかない。そう考え、取り囲んでいる選手の隙間の先に、和広は陣取る。
 その瞬間、岸が少し笑った気がした。
 相手の一人が押し退けられる。他の選手がボールに足を延ばし、カットしようとするが、岸は無理矢理ドリブルを続行し、他の足をボール越しに跳ね返した。
 岸を止められるものなどいなかった。
 メロスのように止まることを知らない彼は、一気にゴールまで距離を詰める。ゴールキーパーが止めるために体を精一杯使い、最後の猛獣の壁となる。
 しかし岸は冷静だった。キーパーが飛び出したのとは反対方向へ、いとも簡単にシュートを決めてしまったのだ。
 和広は、何も出来ず、ただ、岸の周りをパスをもらうために回っていただけだった。それが相手へのプレッシャーになっていたことも確かだが、岸にリードされたことには変わりない。
 ホイッスルがなる。
 前半が終了する。岸が一得点を挙げ、一対〇とリードしたところだ。
 結局和広がアシストする形になってしまった。いつもなら、岸と肩をたたき合いながら喜ぶところだが、そのような気分ではなかった。
 ハーフタイムに入り、選手たちは各々水分補給と疲労回復に勤しんでいる。
「キャプテン、これからどうせ立ち回る?」
 MFが声を上げる。このチームのキャプテンは岸だ。
「そうだな。普通なら、守りをマンツーマンとかにするべきだけど」
 岸は周りを仰ぎ見る。ここにいるのは、そんな後ろ向きの戦略をするような者たちではなかった。
「・・・・おうおうどいつもこいつもギラギラして。後半も攻めるぞ!」
 チームを鼓舞するように声を張り上げる。休憩をしているチームメイトも同調し、声を出す。この辺りが、いつも岸には敵わないなと思うところだ。岸は他人の意気を上げることが抜群にうまい。それがクラスでも頼りにされている理由の一つだろう。和広は他人と話をすることすら上手くいかない上に、他人を動かすことなど、梃子を使っても出来ないだろう。
 それが、かなり悔しい。
 無い物ねだりなのはわかってるし、人と関わる努力を怠っていた自分が一番駄目なことも分かっている。だが、この頃からもう、何をしても岸には勝てないという、劣等感を刻み込まれていた気がする。岸に非はないし、自覚も無いだろう。だが尚のことたちが悪い。勿論、それを表に出すことはないし、岸に嫌悪を抱けるはずがない。ただ自分が、誰よりもちっぽけで、何も出来ない、ただの役立たずで、いない方がましなど、極論じみたことを考えてしまう。
 ゲームが終わる。
 結局、試合には勝ったが、勝負には負けた。埋められない差というのは、漫画でもない限り、覆ることはない。
 和広は一得点も挙げられなかった。
「お疲れさま、和広君」
「ありがとう」
 お姉ちゃんが駆け寄ってきた。何もないなら彼女のねぎらいに身を固めて喜んだことだが、今はそうはいかない。
「はっはじめまして。」
 岸は珍しく緊張しながら、声を繋いだ。後で知ったことだったが、岸は年上が好みだったらしい。本人は頼りがいがあるから後輩にばかり慕われていたようだが、実際は年上とつき合いたかったと、中学校の頃に聞いた。
 あら、と、お姉ちゃんは岸の方をみた。恐らく彼女は本質的に子供が好きなのだと思う。
「初めまして、和広君の友達?」
「はい。岸健一っていいます。お姉さんは?」
 そこでふと、和広はお姉ちゃんの名前すら、自分は知らないことを思い出した。
「私はね。葵っていうの、長瀬葵、よろしくね」
「よろしくお願いします!」
 岸はうれしそうに頷いた。純粋な笑顔というのは今の岸のような顔を言うのだと思った。
 自分が歯を食いしばっていることに気づいた。何でだろう。お姉ちゃんの名前を知らなかったのは自分の落ち度だし、人当たりの良い岸が、お姉ちゃんと仲良く喋るのは当たり前のことだ。だとしたら何故、岸に勝負に負けたこと以上に、悔しいに近い思いを抱いているのだろうか。和広は理解できなかった。
 それが、嫉妬という感情だったと気が付いたのは、随分後のことだった。
 その後、和広は喋っている二人から離れて、グラウンドの片付けを手伝った。一応、気付いた岸が手伝おうとしてくれたが制した。
 彼は勝負に勝ったのだ。戦利品を味わう権利は敗者が与えるものだ。
 岸とお姉ちゃんが話しているのを横目で見ていた。作業に集中すればいいのに、そちらに気がいってしまい、手が着かなかった。
 二人が何を話しているのか気になった。不安ならば、作業を放り出して二人の会話に混ざればいいだけのはずだ。そんな勇気が無くても、素知らぬ顔で近くまで行って聞き耳を立てればいい。だがどちらも怖くてそれも出来なかった。自分はどうしようもなく臆病で、それでいて執着心が強いことに自己嫌悪する。
 二人は何を話しているのだろう。そればかり気になった。自分のことを話されていると考えると、身が強ばった。悪口を言うような人たちではないのは分かっている。相手が自分ばかり構ってくれるはずがないことも分かっている。
 だからこそ、これほど他人が気になる。他人なんて何を考えているのか分からないものだ。しかしそれを割り切るには和広は幼すぎたし、弱すぎた。
 いつの間にか、他のチームメイトたちが片づけをすべて終わらせていた。真夏の日差しで、汗が垂れることなく蒸発してしまうようなカラッとした熱さの中、和広は突っ立っていた。
 どうやらハケ掛けのブラシを持ってボーッとしていたらしい。悪いことをしたなと思った。それぞれ労いの言葉を掛け合いながら、帰りの準備をしている。和広にかけられる言葉は少ない気がした。
 クラスメイトたちがこの後誰の家でゲームをやろうか、などと話し合っている。その中誰とも話さず歩く。
 ブラシを日陰の置き場に立てかけ、二人の元へ向かう。別に勇気が出たというわけではない。一人だけ孤立しているのが耐えられなかっただけだ。
 二人はまだ話を続けていた。お姉ちゃんが微笑み、紅潮した顔の岸が笑う。
 和広と話しているときも、彼女はあのように笑っているだろうか。自信がなかった。岸の方が話していて面白いだろうし、口数も多く、退屈しないだろう。
「・・・・終わったよ」
 二人に声をかける。
「あっ悪いなカズ、手伝わなくてよ」
「別にいいって。岸が勝ったんだからさ」
 そういうと、岸は何言ってんだよ、と慌てた。どうやら勝負のことは話していなかったようだ。普段あまり見られない彼の焦った顔を見ることが出来て、心の奥で笑った。ついでに
「得点数で僕に勝ったら、お姉ちゃんを紹介するって勝負してたんだよ」
 こら、カズ!と真っ赤になりながら和広の頭を軽く叩く。後々彼は何人かの女性と思春期らしい交際をして、女性関係の問題にも強くなったが、今思えば、さすがの岸も小学生の頃は純情だったようだ。
 岸が真っ黒に焼けた顔にかすかに朱を添えながら抗議してくる。だが、してやったりのこちらにはダメージは全くなかった。
「じゃあ、岸君は私のためにがんばってくれたのかな」
 喧嘩のようなじゃれあいを彼女は近いけれど遠い隣からみていた。笑みを浮かべ、その姿は聖母を思わせたが、どこか寂しそうだと思った。
 彼女を横見る。なぜそんな印象を持ってしまったのか、そのときはわからなかった。見られる対象は、見られる目的を完全に理解することはない。
 簡単に言ってしまうと、彼女が母親だったからなのだが。
「は、はい!」
 岸が緊張した面もちでお姉ちゃんに振り返る。慣れない表彰式で初めて表彰されたかのような不自然さだった。
「ありがとね」
 何に対してのありがとうかはわからなかったが。岸は喜んだ。試合に勝ったことよりも誇らしげだったようだ。
 だが、その後岸がいくら聞いても、居場所とこの町にきた理由を話さなかった。
 しばらく、三人で当てもない話をした。その内五時を過ぎてしまっていた。
「それじゃ、和広君、帰ろっか?」
 岸は、その後もずっと、お姉ちゃんに付いていこうとしていたが、お姉ちゃんは諫めた。また会えるよと、岸にさよならをした。岸は悔しそうな顔をしていた。目が「また機会があれば連れてこい」と訴えていたが無視をした。
 和広は妙な優越感に浸っていることに気づく。それがやましい心だとわかっていたので、振り払い、お姉ちゃんに視線を向ける。
「健一と話して、楽しかった?」
 自分で言っておいてなんて情けない問いだと思った。
「うん、礼儀正しくて、元気そうで、しかも試合でも大活躍してたよね。お話も、こっちのペースに合わせてくれて、小学生であれは凄いなあ。いい子だね」
 お姉ちゃんが余りに岸を誉めるので、和広は悔しく思うよりも情けないという気持ちで一杯だった。やはり自分が岸に勝っているものなどないのだと悟った。
「お姉ちゃんは僕と、健一、どっちが好き?」
 自分で言って、とんでもないことを聞いてしまったと思った。嫉妬心丸だしな上に、聞いてしまえば、こちらが落胆するのは目に見えている。
「うーーん。和広君かな」
 しかしお姉ちゃんは和広の予想とは反対の回答をした。
「どうして?」
 和広は目を丸くした。
「うんとね。うまくいえないけれど。私たちは似ているんだ。だから、気が合うし、遠慮しなくて済むの」
 そういって彼女はこちらを向いてにっこり笑った。その表情が眩しかったから、すぐ目を反らした。その瞳に浮かぶ深い苦悩の色を察することが出来ないまま。ただ身を縮めてしまいそうな喜びを感じていた。
 夏は五時を過ぎてもまだ明るい。昼と夜の境目の中、坂道を二人歩いていった。


 彼女はどうして自分と、話をするのだろう。
 崖からの帰り道の林の中。台風が過ぎ去り、名残の風が木々を揺らしている。土と落ち葉を踏みしめる感触を確かめながら、シナプスを働かせた。
 手に入れた情報を整理してみる。
 まず美空は多重人格者であること。
 潜在人格の八雲が言うには「解離性同一性障害」という精神病の一種であり、DIDは、その英語名の略称。彼女は合計十七人の人格を内包しているそうだ。その内、今和広が把握している人格は三人。 
 まず、美空。初めて朝ヶ丘で会った人格。年齢は二十歳。性別は女性。会った印象は明るく、どこか動物を思わせる快活そうな女性だった。しかし一昨日の夜の彼女の様子や、八雲の口から聞く限り、少しネガティブな印象を受ける。また、重要なことを道化師のようにはぐらかす癖もある。
 次に、八雲。先程話した人格で、和広に自分が多重人格者だと教えてくれた。年齢は十七歳で和広と同い年。性別は男性。人格によって年齢と性別が違うことが和広にはうまく想像できなかった。怒りっぽい性格であり、和広が遅れたことに眉を潜ませていたところを見ると、少々せっかちな気性なのかもしれない。
 ・・・最後に、一昨日に遭遇した殺人者の人格。詳細は不明。性別から年齢に至るまで謎に包まれている。和広が覚えているのは、人形が殺人をしているかのような狂気と、薄汚れた蛍光灯に煌めく包丁だけ。この人格の起こした殺人未遂により、彼女たちは警察に追われている。
 これを事実とするには幾分信憑性に欠ける。事実未だに和広は半信半疑だ。美空が複数の人格を演じて自分や警察を混乱させる意図なのかもしれない。だが本当だと仮定すると、一昨日の殺人未遂や、美空の言葉に辻褄が合う。
 ここで和広は違和感を覚えた。別に矛盾があるわけではない。信憑性に欠けるとは言っても、彼女の言葉を戯れ言だと一蹴出来るほど和広は世慣れしていない。
 単純に和広は彼女という存在に違和感を覚えたのだ。一つの体に人間が十七人いる。それも奇形児のように物理的に体が繋がっているのではなく。精神が同居している不思議。
 単純に、彼女自身をなんと呼べばいいのか分からなかった。美空と呼ぶべきなのか、それとも八雲と呼ぶべきなのか。彼女という存在を定義する名前があやふやに思えた。
 ある人から見れば彼女は美空や八雲だし、警察から見れば彼女は殺人鬼という別の人間である。だが肉体は同じなのだ。肉体が存在を定義するのか、精神が存在を定義するのか、和広には分からなかった。
 手に入れた情報はこれくらいだろう。それを踏まえ、彼女たちの目的を推測してみる。
 目的については八雲も、美空も口を。だが、この場所のことを考えれば、多少想像が着く。
 数百年も前から多くの人間が身を投げてきた崖、朝ヶ丘。少なくとも彼女たちの内の一人は、ここで自殺する為にきたのだろう。そうでなくてはこんなところに一人で来た理由が分からない。
 人格が違えば自殺願望の有無も違うのだろう潜在人格の誰かは自殺を望んでいても、美空や、八雲はそれを阻止したいのかもしれない。
 和広は初めて会ったときの美空の反応を思い出した。あれは、美空ではなくまだ、会ったこともない五人目の人格だったのではないのだろうか。
 まるで親の仇でも見たような表情。恐怖と憎悪。人は言葉の他に、表情で会話する生き物だと聞いたことがある。観察眼のない和広は表情で人の気持ちなどわかるものかと一蹴していたが、彼女のあの歪んだ顔をみると嫌でも気付く。
 あれは、憎悪だ。人間の負の感情は、弱い人間程自らに向けられる。自らに自信がある人間は自分を正しいと信じ込むことができ、自分を非難する相手を糾弾することが出来る。苦悩がすぐ怒りに変わる人間は、良くも悪くも自身を確立しているのだ。
 反対に、心弱い人間が他人に負の感情を向けるのは自分の許容量を越えてしまったときだけ。その怒りや悲しみは蓄積された故に自分では制御できないことが殆どでたちが悪い。
 考えるに五人目の人格は、負の感情を外に向けてしまうほど感情が心の容量から溢れている。それは即ち内側、自分に対する負の感情も膨大だということだ。彼女は今にも自らの手首を切ってしまいそうな程、追いつめられている可能性がある。
 そこまで考えて、和広は不安になった。人間は心が追い詰められた程、視野は狭くなる。自らの精神とそれに付随する肉体が傷つかないよう、心が情報処理を内側に向けてしまう。果てのない自己肯定と自己否定に囚われてしまう。
 自分もそうだったから分かる。xが未知のまま方程式を単純化したところで、結局は未知数のままで解答にはならない。
 ため息が漏れた。そんな他人とのラインが希薄になっている人間相手に自分に何が出来るというのだ。こんなに他人との関わりが苦手な自分が。
 いつの間にか森を抜け、自宅の隣にある狭い道に出る。嫌になるほど青々しい雑草がやや強い風に揺られていた。
 ここまで来ると家はもう目の前だ。そのときふと家の店先に植えてある朝顔に目がいった。和広は小学校を過ぎると朝顔は育てなくなったが、今は母が育てている。観光名所のPRとして朝顔を育てようと観光委員会で言われているらしい。朝にしか咲かない花を昼にやってくる観光客は気付くのだろうかと疑問に思う。
 今日は台風の影響か花は殆ど開いていない。というよりもまだ蕾の花弁もいくつかあった。
 気まぐれに水をやろうと思い、店先の水道に立てかけてあったじょうろを手に取る。
 ふと、美空たちは朝顔のような奴らだなと思った。朝にしか会えず、他の時間帯では姿すら見せない。見せてもまるで花を閉じている。
 水を注ぐ。植木鉢に所々水たまりが出来、人工的に調整された腐葉土が水道水を吸収していく。
 自分は、彼女を止めたい。そう思った。年に何十人もこの崖で身を投げている。かつて自分もその内の一人を止めようと奮起したことがある。
 だが、その時の自分はあまりにも弱く、非力で、どうしようもなく愚かだった。
 そのときの罪滅ぼしだとは勿論思っていない。だが、彼女たちがその命を青の狭間に落とすのなら、拾い上げたいと思った。
 これからの行動をどうするか考える。
 とりあえず、毎朝朝ヶ丘にいかなくてはならないなと思った。
 美空たちは何故か朝にあの崖で会うことに拘っている。何の意図があるのかは分からないが、あちらのペースに合わさなければいけない予感がある。
 次に、美空たちを探すこと。
 どこにいるかが分かれば、こちらからもアプローチが出来るだろうし、また事件が起こっても対応しやすい。そもそも朝の短い時間では彼女との対話も限定的なものになってしまう。
 それから、多重人格障害についてもう少し調べること。
 八雲が大まかには教えてくれたが、もっと詳しく把握しておく必要があるだろう。前はヒントが少なかった為、行き詰まったが、今では輪郭が定まっているので調査しやすいだろう。布施先生にインターネットでの調査も頼んでいたはずだからそれも今日、学校に行ったときに回収できる。
 ふと、警察官といた医者を思いだした。大男のようだが、優しげでそれでいて全てを見透かしたような目をした精神科医。
 何故、彼は警察と一緒に行動していたのか。
 あの夜は混乱していて疑問に思わなかったが、いくら警察官と友人とはいえ、精神科医が捜査に加わっているのはいくら何でもおかしい。事件の関係者ならともかく、あの事件は警察としても突発的なものだったはずだ。関係者もクソもないだろう。
あの精神科医があの場にいたのは偶然だったのだろうか?
 熊田の携帯電話の十一桁の番号を頭の中で反芻する。多重人格障害という特殊すぎる精神病に関して専門家たる彼の協力が欲しい。でもそれで本当にいいのだろうか。
 美空は殺人未遂事件を犯している。責任能力の有無に関して法律に詳しくない和広では分からないが、少なくとも見つかれば問答無用で捕まってしまうだろう。
 空になったじょうろを、元あった場所に放り投げる。中で反響し小気味よい音を立て、青青とした草の上に転がる。プラスチックの容器は、余程ひどい扱いをしない限り割れたりしない。物質は頑丈なだけではいけない。ダイヤモンドが金槌の衝撃で意図も容易く粉砕されるように、頑丈と、柔軟さを持っていなければ人間の生活には耐えられない。
 熊田に協力を仰ぐのは後にしよう。彼を信用していないわけではない。ただ、彼に協力を仰ぐと、行動に大きな制限が与えられそうな気がしたからだ。大人というのは制限の中で生きている。それは、責任や信用がある故の束縛だが、子供が戯れるには少々邪魔なものだ。
 一段と強い風が吹く。置いていかれた台風の子供の鳴き声のようだ。近所迷惑な風の子の鳴き声は、家の側にある雑木林を大きく揺らしている。それは雲も同じ様で、上空の綿飴は、急かされるように海の向こうに移動している。これから数時間かけて、この町は蒼天に移ろっていくだろう。
 


 私は、娘の心を想うことが出来なかった。
 私だったら、あの母みたいにならず、良い母親になれる。そう考えていた。痛みを知っているからこそ、その痛みを子供に教えることは絶対にしないと確信していた。
 だけど、現実はそう甘くはなかった。身に染みた人生は、私自身をあの最悪な母親と同じ道に歩ませようとした。だから私は逃げ出した。あの子を最悪な場所に置いてきてしまった。いや、私にしては頑張った方なのかもしれない。あれ以上あの子とあの男の側にいたら、私は壊れ、なにもかも無茶苦茶にしていただろう。
 実は私はもう壊れている。そして娘も壊れてしまった。私はまるで古いブリキの人形のように転びかけながらも、死への道を真っ直ぐに歩いていた。
 朝顔の綺麗な町だった。死への道が鮮やかな花で彩られ、浅黄色の空気が町を包んでいる。
 その場所は死を望む者が最後を飾るためやってくる崖だった。遥か昔、悲恋の末とある姫が身を投げたという伝説の崖。多くの物語の舞台になった自殺名所。
 その空色と海の色が混じる空間。私が死ぬにはもったいなさ過ぎるくらいの、綺麗で雄大な死刑場。死人の怨念が潜むというよりも、天国への階段が奈落の底から延びているような気すらした。崖の上から海を除くと、遠くて近い死への扉が手招きしているように思えた。
 だけど、その青があまりにも遠すぎて、私は一歩を踏み出せないでいた。
「・・・・こんにちは」
 そこにあの子が現れた。
 それは、私にはあまりにも眩しく、可愛く、そして厳しい贖罪の使者だった。




「ほらよ。かなり量が多いから重いぞ」
 美術室に現れた布施先生は、まるで夏休み前のホームルームで配られるような大量の紙を持ってきた。それは勿論大勢に配られるものではなく、全て和広に当てられたものだ。
「・・・・よく、こんなにみつけましたね」
「台風の間暇だったからなぁ。職員室だからコピー代かからんし」
「それ職権乱用です」
 彼が言うには、和広と岸が去った後、ずっとDIDについて調べていたらしい。しかも職員室で。公務員的にそれが良いことなのかはわからない。だが、この青年のような中年は随分と熱心に調べたものだと感心すると共に感謝した。
 紙束の厚さは一センチほどはあり、研究の論文の様に見える。不思議と紙が黄ばんでいて古いような気がしたが、職員室の紙なのだから古い紙を優先して使っているのだろう。
 紙束の内容は、患者のブログの役に立ちそうな記述、ウィキペディアを始めとする辞典の項目、独自に調べた人間が発表しているサイトなど多岐に渡っている。
「なかなかそういうのも調べると面白いな。多重人格なんて本当にあるんだなあ。小説かドラマくらいだと思ってたぞ、俺」
 布施先生は美術室独特の背もたれの無い椅子に腰を下ろす。水道の付属している長机に頬杖を着いた。
 気が滅入っているときは頬杖をつくといい。というのはチャーリーブラウンの言だが、この男が気の滅入ったときなどあるのだろうかと思った。
「確かに、俺も知ったときは驚きましたよ」
 和広自身も存在は知っていても、実在は信じていなかった。というよりも、その存在を想像できなかったというのが正しいと言うべきなのかもしれない。肉体は変わらず、精神だけ入れ替わるという特異。そのような存在だとは知ってはいたが、知ることと実際に会うことには絶対的な隔たりがある。
「へえ、谷川。この前俺に頼んだときには「皆目見当が付かない」と言っていたのに、いつの間にDIDが多重人格だって知ったんだ?」
「・・・・・」
 しまったと思った。彼に調査を依頼したときには形振り構ってはいられない程情報に困窮していたからで、彼に深く突っ込まれたときのことを考えていなかったのだ。
「・・・・先生と別れた後、自分で調べたんですよ」
「嘘だな。お前、この前図書館で調べたが見つからないって言っていただろう。お前に図書館以上に情報を得られる場所はない」
「インターネットで調べたかも知れませんよ?」
「そういう言い方する事自体、調べて手に入れたものじゃない証拠だ。三年お前のこと見てんだ。その位はわかる」
 言い返せないところがつらかった。この人で口で逃れることは難しい。そして黙っていることはこちらの状況を不利に追い込む。
「お前は、冗談も嘘も苦手な朴念仁だ。何故こんなあるかどうか分からない精神病のこと調べろと俺に頼んだ?」
 これは質問ではない。尋問だ。和広は自分の迂闊さを呪った。あのときは藁にも縋る思いで情報を集めていた。布施先生に妙な関心を持たれることを予想できない程、先を見ることが出来なかった。
 美空たちのことは隠しておきたいと思った。この教師は不真面目だが信頼は置ける。だが、明らかに入り組んでいる事情に巻き込みたくなかったし。殺人未遂の件もある。不必要な情報漏洩は自身も、周りも混乱させることだけだ。
「本に出てきて、気になって調べただけです」
「嘘はもっとうまく突いた方がいいよ。ワトソン君」
 誰がワトソンだ。そしてホームズには役不足である。
「なんでですか。嘘なんて突いてませんよ」
「本で出てきたならその本に詳しく概要が書いてあるはずだよ。特に解離性同一性障害なんて誰も知らないような病名を、俗っぽく多重人格と書かずにDIDなんて正式な略称で表しているんだ。小説であれ専門書であれ中途半端な説明なんてしないだろう」
 布施先生が立ち上がる。和広はキャンパスではなく、書類に目をやった。記事の内容を読むというよりも、布施先生の視線から逃げるためのものだ。
 布施先生はこちらの情報を欲しがっている。先に交換条件を提案しなかったのは痛かった。「貸し」程価値の重いものはない。
「お前、何があった?」
 立ち上がり、和広を見下ろしながら布施先生尋ねてくる。その声音には多少の心配の色があった。だがそれ以上に、利己的な、個人的な知的欲求が感じられた。
「・・・・何もありませんよ」
 あくまでシラを切るつもりだった。生憎と人間には黙秘権がある。警察に対してさえ有効な、法律に守られた権利が存在している。
「俺の勘を言ってやろうか」
 だがそれをかいくぐるために尋問という手段が確立されている。権利をかいくぐり、目標を引き出すための誘導。それは不器用な人間に対して真価を発揮する。
「お前、多重人格者に会っただろう?」
「・・・・・・・」
 不器用な人間の損なところは嘘が苦手なことだ。嘘が苦手だという特性は他人から見れば微笑ましいが、本人からすれば、咄嗟に自分を隠すことが出来ない欠点に過ぎない。嘘というのは自分と他人を守る質量を持たない防御壁なのだ。
「多重人格者なんてそうそういるものじゃないでしょう。それは勘ぐりすぎです」
 不自然だ。嘘というのは真実との間に違和感なく紛れ込ませてこそ意味がある。川の流れにミネラルウォーターを垂らすように、限りなく自然な透明でなくてはならない。会話の流れと嘘の間に不自然な時間を置くことは最上級の愚行でしかない。
 だが。
「そうだよなあ。普通、そんな人間にはそうそう出会うことはないか」
 和広は心臓が止まるかと思った。何故、という疑問より先に、言いようのない恐怖を感じてしまったからだ。
 助かった?という安堵は不思議と無い。第一、何から助かったというのだろう。和広は彼に情報の捜査を依頼し、布施先生は、その内容について知りたがっている。何も恐怖を感じる要素はない。そもそも和広が彼に美空のことを秘匿する理由だって曖昧なのだ。
 だが、妙な違和感がある。まるで化石を発掘している考古学者が、化石を壊さないように慎重に石を削っているような、そんな印象。
 和広は、書類を用意していたクリアファイルにしまった。だが、その量が意外に多かったので、ファイルの許容量を越え、端を露出させてしまった。だがそれを和広は無理矢理鞄にしまった。
 布施先生は元の席に戻った。先程まであった妙な空気を微塵も感じさせず、学校に蔓延るゴシップをあることないこと話している。
 和広は、鞄の中から木炭を取り出し、キャンパスに向かう。周りにどんなことが起こっていても、将来への道は休むことを許されない。急行電車は止まることはなく、大人と子供の狭間の時間にとどまることは永遠に出来ない。迷いは環状線のように循環し、枝状に延びた未来への乗り換えをためらわせる。
 そんな未来への大事で疎ましい片道切符を手に入れるため、和広は石膏で出来た偉人に視線を送る。昔、何度か描いたことがある石膏像。いかめしい顔つきは変わっていないはずなのに、三次元の断面と、それに付随している空間を昔より正確にみれている気がした。それは積み上げた進歩なのか、それとも今日だけの好調なのか分からない。
 そのくっきりとした目鼻の特徴を前回描いたときとは全く違う感性でとらえながら、頭の中は全く別のことに支配されていた。
 空色と深い海と白い断崖に佇む、白いワンピースを着た少女のシルエットをずっと脳裏に描いていた。 

岬の章

 この町には、色々なものがある。博物館に、お土産屋さん。展望台に観光案内。
 そして、支援施設。
 それらは全て、この町にある断崖、朝ヶ丘に由来してできたものだ。人がいれば歴史は勝手に紡がれる。そこに珍しい何かがあれば、ただの歴史に価値が生まれる。
 始めから万里の長城が立っているような綺麗な歴史はどこにもない。あらゆる時間が人間によって練り上げられ、足跡になる。瞬間が丹念に塗り重ねられ、歴史になる。
 そのような意味ではこの町はこの場所に即した歴史を正確に刻んでいる。
 夕焼けの中、和広は、唯一の馴染みの店に入った。赤色の暖簾の隙間からはお多福ソースの焦げる香りが昼から何も入れていない胃を刺激する。和広が小学校で一桁の割り算を解いていたときから嗅ぎ慣れた匂い。
 ガラガラと引き戸の硝子が揺れる音と共に店への扉を開ける。引き戸はこうでなくてはならないと、手に残る独特の振動を感じながら思う。
 店の中は空いていた。仕事帰りらしきサラリーマンや、近くに住む独身の老人が二、三人カウンター席ではなくテーブル席にいるだけだ。
「いらっしゃい」
 ママが言う。ママはカウンターで洗い物をしていた。
 和広は何も言わずカウンター席に座る。いつもは一言二言挨拶を交わすのだが今は頭の中に様々なものが蟠っていて、そこすら考えを割く余裕がない。
「随分困っている様じゃないかい、カズ」
 ママがお冷を置く、水滴が浮き出ている硝子のコップは、夏の暑さにさらされていた喉の乾きをさらに催促する。
「まあね。そういえば、パトロールの人から何か聞いたことある?」
 この前、ママにパトロールの情報を依頼しておいた。パトロールは完全なボランティアだがそれ故に独自のネットワークを持っている。
「悪いねえ。何人かに聞いてみたけれど、その美空って子?そんな女の子いなかったって」
 やはり、彼女は和広しか知らない外れの崖にしか行っていないようだ。目撃情報の一つもあれば、彼女を捜すのに役に立つと思ったのだが。
「一応、そんな子を見かけたらすぐに保護するように言って置いたけれど」
「ありがとう、ママ」
 謝礼をほぼ条件反射で返しながら、美空たちは捕まらないだろうなと考えた。布施先生から貰った資料をみると、多重人格者というのは、他人に自分の障害を隠す。その症状を他人に信じて貰えないし、多重人格になった理由のほとんどが幼少期のつらい体験が主で、それにより他者に対する警戒心が強い。
 さらにやっかいなことに、自分が多重人格だと自覚していない人格もいるということだ。伝達された容姿だけでは、性格や行動原理さえ変わる美空たちを判別することは難しいだろう。
 やはり、明日会ったときに、どうにかして居場所を聞かなければならないと思った。
 だがそこで疑問が浮かんだ。どうやってここまで身を隠していたのだろう。警察は決して無能な組織ではない。殺人未遂という重大事件で、この町の平和ぼけした警察の包囲網でもある程度強固であるはずだ。だが、和広は捕まったという情報を聞いた覚えはない。少なくとも事件の関係者であるのだから、確保したならば連絡くらいくれるだろう。
「あんまり根詰めない方がいいよ。とりあえず腹を膨らませな」
 そう言って、ママはカウンターの上の鉄板に生地を流し込む。注文について言葉を交わす必要はない。和広がいつも何を頼み、どの食材を苦手としているのか家族よりも知っている。
 ママに美空の事情を話しておいた方が良いだろうかと考える。これから、美空を探す上で、ママの独自の情報網は非常に役に立つだろう。ママを通じてパトロールのボランティアの人たちとも協力して置けば色々と役に立つかも知れない。
 だが、和広は躊躇した。布施先生の例もある。下手に情報を伝えてしまったら、それこそ矢の如く美空のことが町にいる人間に伝わってしまうだろう。
 ママは昔からの付き合いだし、布施先生よりも余程信頼がおける。彼女には多くの武勇伝があるが、それ以上にママが慕われているのには、その凛とした性格と、竹を割ったかのようなさっぱりとした気性がその根底にある。
 だがそれでも、話というのはどう伝わるのか分からない。糸電話の糸に意志がないように、噂を伝えていく人間に悪意はないのだ。
「・・・・・」
 静かだ。お好み焼きが食欲をそそる匂いと蒸気を出しながら加熱されている。それ以外の音といえば、テーブル席に座って飲んでいる二人のサラリーマンの雑談と、音量を抑えられたテレビから流れてくるバラエティーの微かな笑い声くらいだ。
「・・・カズ、何でそんなにその美空ちゃんに気を使うのかは知らないよ。」
 ママがため息混じりに言う。その言葉に和広は顔を上げた。そのとき初めて和広は自分が下を向いて考えていたことに気が付いた。
「でもね。一人で動いても出来ることは少ないよ。少しは周りを信用しなさい。あんたが思っているよりも人間は酷い生き物じゃないんだ。
 自覚しているかも知れないけれどカズは一人で抱え込んでしまうところがある。昔からね。
 私じゃなくても家族でもいい、問題は分かち合いなさい。それは逃げでもなんでもない。むしろ一人で全てを解決しようとする方が逃げている場合もあるんだよ」
 ママは感づいているのかも知れない。美空がどうという意味ではない。和広がこの一件を七年前の事件を無意識に重ねていることに。
「・・・・そうだね。ママにだけは言っておいた方がいいのかもしれない。
 だけど、他言はしないようにして欲しいんだけれど。いい?」
 和広は心の天秤を傾けた。自分一人の力も、信念も、精神力もたかが知れている。その点ママは強く、女傑と呼ぶにふさわしい。味方に付ければこれほど頼もしいことはない。そう決断した。
「いいよ。私もその美空っていう子のことは気になっていたしね」
 よっと、ママが焼けた生地を裏返す。綺麗な色に焼けたお好み焼きはどこか満月を思わせた。ママはその真ん丸なお月様に見事な手際でソース青海苔鰹節とトッピングする。
 和広は美空のことを話した。
 彼女が殺人未遂を起こしたことは黙っておこうと思っていたが、それでは和広と美空との関係に矛盾が生じる可能性があるし、何より多重人格のイメージを掴むためにはその出来事が重要だと判断した為、和広は今持っている情報全てを偽り無く伝えた。
 ママは黙って聞いていた。時折疑問に思ったことはその都度質問してきたが、たまに仕事に気を使いながら、和広の話すことに聞き入っていた。
 全てを話し終えたのは、お好み焼きが無くなり、店内から客がいなくなった頃のことだった。
「・・・・花道商店街の殺人未遂事件は私も聞いたよ。たまにいるんだよ、ここが自殺名所の町だからやけになって変な行動起こす奴がね。今回もそんな奴らの一人だと思っていたんだけれど」
 ママはそこで言葉を切り、空になった硝子のコップにお冷やを注ぎ込む。流動する透明な水と無秩序な泡。
「多重人格ねぇ・・・・」
 押し出すようにママが言う。解離性同一性障害。確かに白いワンピースの少女は、ママの言う「自棄による傷害」を犯したかも知れない。だが問題はその加害者が、数多の人格を持つ少女の精神に存在する内の一つかもしれないということだ。
「俺はまだ完全に信じている訳じゃない。だけど、あの通り魔だったときの美空を思い出すと、多重人格だって身体が納得できてしまうんだ」
 和広はあの晩を思い出し、脊髄から身体を震わせた。
「そうかい・・・・。
 でももしそれが本当なら、尚更あんた一人じゃ荷が重すぎると私は思うよ。彼女にまつわる問題が、追い詰められての自殺だけならカズや私でも止めようがあるけれど、解離性同一性傷害だっけ?多重人格なんてもの、素人が手を出していいものじゃないと思うわよ」
 確かにそうだ。現在でも人の心の全容は解明されていないのだ。だからこそ、心理学や哲学なんて曖昧な学問が成立してしまえる。それを学んだ者ならともかく、素人が下手に多重人格者に接して、取り返しの付かない事態になってしまっては目も当てられない。
「そうだね。だからこそ、あんまりこの話は広げない方がいいと思う。
 ただでさえ殺人未遂、自殺志願者なんて物騒なレッテルを貼られかねないのに、多重人格なんておまけなんて付いたら、彼女が見つかったときにどんな扱いを受けるか分からない」
 和広が水を飲みながら言う。一方のママは何やら考え込んでいた。
「和広は知り合いに、そういう心理学とかに詳しい人はいないのかい?悪いけれどこっちはガラの悪い馬鹿ばっかり知り合いでさ。そういうインテリな人間とは縁がないんだよ」
 ママは自嘲気味に笑いながら和広に聞く。和広は脳裏に、大柄で底の見えない精神科医と、ゴシップが好きな美術部顧問を思い浮かべる。
「残念ながら」
 和広は答える。なるべく関係者は少ない方がいいと和広は思った。
 だがそれが、悪影響を考慮してのことなのか、ただの独占欲なのか、和広は疑問にも浮かべなかった。
「じゃあ、次会うときどうするんだい。また会う約束をしているんだろう?」
 次に会うときにその少女に対してどのような対応をすればいいのか。それは和広にも分からなかった。そもそも、「誰」が来るのか分からないのだ。一体どのように計画すればいいのだろう。
「とりあえず、会ってから考えるよ」
 だからそれが最善だ。そしてそれは和広にとってはもっとも困難な手段だ。人付き合いが苦手な人間にとってアドリブは、案山子が笛を吹くくらい無茶なことなのだ。
「あんたって意外に行き当たりばったりなところがあるね。まあ、話すだけでもいいんじゃないかな。会話をすることは何かを必ず進ませるからね」
 ママは和広の皿を下げた。
 会話をすることは何かを進ませる。だが、それは良い方向、悪い方向を問わない。どんなに特殊な例でも対人関係とはそういったものだ。
 だが、悪影響でも進まないよりはずっといいのかも知れない。全く進んでいない将来への決意を省み、心の中でその事実と時間制限から脱兎の如く逃避する。
 その責任放棄にも似た思考の中、和広は明日の朝日の中、庭先の朝顔は咲いているのかなと思った。




「こ、こんにちは・・・・・」
 今にも消えてしまいそうな声が、背後から聞こえた。朝の潮風にかき消されてしまいそうな繊細な声は、独特の律動を刻む潮騒には不思議と調和していた。
 手頃な岩に座っていた和広は振り返る。そこには縮こまった美空がいた。服装は白いワンピースではなく、フリルの付いた臼桃色のスカートを着ている。青空を背後に肩を狭め、軽く握りしめた右手は口の前に持ってきており、左手はお腹に添えられている。背は見事なまでの猫背で、まるで自分が占有する空間をなるべく小さくしようとしているようにも見える。
「おはようございます。じゃないのか?」
 どこか小動物を思わせる表情をした少女に和広は言葉を返す。彼女の視線はどこにも定まらず、逃げ場所を探しているようにせわしなく動いている。
「ご、ごめんなさい」
 どこか頼りなさげな彼女はこっちが申し訳なるくらいの必死さで謝罪をした。直感的に今日の美空は随分と消極的だなと思ったが、それが気分によるものではないことを和広は思い出した。
「いいよ。どうぞ座って」
 和広がそう勧めると、彼女はおずおず隣の岩に座る。
「ありがとう・・ございます」
 いつか聞いた声と比べると、少し舌っ足らずな言葉遣いだった。
 こうして観察すると当たり前だが外見は美空と変わりない。昨日の八雲は男性人格のため白黒写真の色を反転させたかのようにその違いが際だっていた。だが今日の彼女はどのような人格かは知らないが、少し調子が悪いだけの美空の様にしか見えない。本当、人間は互いの存在を外見で認識するんだなと改めて感じた。
「ほんとうに、きてくれてうれしいです」
 拙い言葉遣いで謝礼を述べる。十代後半の女性のラインとは不釣り合いな幼げな響き。
「美空とも約束したし、八雲にも釘を刺されから。・・・君は誰だい?」
 相手の性格と会話のテンポに細心の注意を払った。口に出す言葉の何倍もの情報を要領の悪い電卓のように処理している。
「わたしは、みさきっていいます。あの、わたしたちのことしんじて、くれるんですか?」
 怯えを称えた瞳でみさきはこちらをみる。それは相手が自分に害をもたらさないかを判断する行動だった。なるべく下手に出て、相手の反応を伺う。観察ではなく生存本能に近い。社会という、弱者に厳しい世界を生きるための定石。さらに彼女にとっては異常者である自分たちを守るための知恵なのだろう。
「うん。君たちが嘘ついているようには見えないしね。みさき、か。いい名前だね。どういう漢字を書くの?」
「海のさきにある岬のかんじです」
「綺麗な名前だね。何歳だい?」
「十さい、です」
 十歳。雰囲気から低年齢だとは思っていたが、実際に十八歳前後の外見で十年の月日しか経験してないと言われると、拭いようのない違和感がある。
「そういえば、はい、岬ちゃん。これ、今日来るとき買ってきたんだ」
 そう言って和広は買ってきておいた缶ジュースを岬に差し出した。どんな人格が出てきても大丈夫なようにアレルギーのない果実ジュースだ。外気と中の低温の飲料との温度差で出来た水滴が表面に浮き出ている。
 布施先生に貰った資料によれば、人格ごとにアレルギーを持っている例もあるらしい。そのような例がそうそうあるものではないとは思ってたが、念には念を入れた。
「あ、ありがとうございます」
 今まで強ばっていた表情を少し緩め、微かに笑みを覗かせながら、腕を缶に差しのばす。その一瞬の笑みからでも、この少女の無垢で優しげな本質が見える気がした。
 岬は左手を差し伸べてきた。美空が麦わら帽子を持っていたのも、八雲が傘を持っていたのも、そしてかの殺人鬼が凶器を持っていたのも右手だったので、かすかに妙だと思った。
 そんな和広の疑問に気付いたのか、岬は照れくさそうに微笑んだ。
「わたしは左利きなんです。たぶん、みんなの中でわたしだけだとおもいます。」
 岬はそう言いながら缶を受け取り、栓を開けようとする。子供人格だからだろうか、控えめな性格の割にジュースを手にとってすぐに開けようとする。だが、本来の利き手では無いためか、または単に握力が足りないのか。プルトップ相手に悪戦苦闘していた。
 見かねた和広が、彼女の分も開ける。岬は申し訳なさそうな顔をした。
「他の人の右手と同じように使えるわけじゃないんだな」
「はい・・・。利き手っていっても、ふだん他のひとはつかいませんし、たまにわたしがつかいますけど、うまくうごきません。文字とか書くと、がたがたになるんです」
 人格が変わると様々なことが変わると言っても、肉体的な経験はさすがに覆せるものではないようだ。精神が肉体のキャパシティーを越えることはありえない。
「おいしい・・・」
 一口飲んだ岬が、吐息とともに言葉を紡ぐ。
「良かったな」
 和広は自分の分の飲料を開けた。ちなみに和広は炭酸飲料だった。
「はい・・・。ジュースもだけど。かずひろさんと話せて、うれしいです」
 岬はジュースの缶をまるで包み込むように握っている。百二十円の価値しかない清涼飲料水をまるで宝物のように柔らかく持っている。時折痛みを気にするように腹部をさすっていたが、その表情には、微かな幸福があった。
「俺と?」
「はい・・・・。ほんとうは今日わたしがでてくるんじゃなかったんです。だけどいずみさんにおねがいしちゃったの」
 いずみさん?初めて聞く名前に耳を疑った。
「いずみさんって誰?」
「あっ。すみません。いずみさんは、わたしたちの中のひとりです。わたしたちのリーダーみたいな役割で。えっと、だれが表にでるかはだいたい、美空さんか、いずみさんが決めるの」
 そういい、岬は手のひらに「出海」と書いた。それが漢字表記なのだろう。
 出海という人格と、彼女の心の構造がどのようになっているのか非常に興味があった。だが、深く追求するのは止めて置いた。他人との対話で大切なことは相手が話したいことをしっかりと聞くことだ。そうしないと聞き出せることも聞き出せなくなる。和広は出海という名前を心の中の付箋にしっかりと書き込んだ。
「俺なんかと話せて、良かったのか?」
 和広は自分がいかにつまらない人間かよくわかっている。自分と話をするくらいならセキスイインコとでも話していた方が余程有意義だろう。
「はい。美空さんや八雲さんが、和広さんと話しているのをみてすごくうらやましかったんです。わたし、あんまり人とはなすのがすきじゃないんだけど、がんばってみようかなって・・・」
 かすかに緊張と好奇心が伝わってくる岬の声音と表情。和広は少し安心した。この娘は自分と同類なのかも知れない。自分の自信の無さからくる他人と話すことに対しての躊躇。おずおずと幼子が手を伸ばすようなそんな拙いコミュニケーション。
 それから、和広と岬は少しずつ話をした。岬の外見は美空と同一だったが、和広は別人として接することが出来た。
 始めに好きなもの、嫌いなもの、よく見ていたアニメーション番組。と段々と枝葉を広げていく。十歳の岬と十七歳の和広ではテレビ番組や、経験した流行に対しジェネレーションギャップがあるものだと思っていたが、意外にも経験した流行の世代はぴたりと一致していた。そのことを指摘すると。
「わたしが十歳っていうのはよく時間を失うせいもあるけど。いちばんの理由は、わたしのとしが十歳でとまっているからなんです。」
 ということらしかった。
 岬は女の子らしい少女だった。好みも、考え方も多少消極的ではあるが、少女趣味で、人形遊びが大好きだと言っていた。ピーターラビットを始めとする絵本が大好きで、グリとグラの物語を二編程丸暗記していた。美空を爽やかな朝日の女性とするならば、岬は春の木漏れ日のような少女だった。
 だが、元々、口数の少ない二人だ。すぐに言葉が枯渇することは明らかだった。和広は話題の枝葉に先端に迫っていることを感じ、覚悟を決めカードを切った。
「岬ちゃん。君は今どこに住んでいるんだ?」
「・・・・・・・・」
 岬の口が堅く結ばれる。柔らかそうな唇が真実を言ってはいけないと必死に押さえているようだった。
「・・・・ないしょ、です」
「他の皆に止められているの?」
 人格間のコミュニケーションがどのように成されているかは和広には分からない。資料を読むと、幻聴という形もあるし、脳内で会話する、さらに夜の寝ている間に心の中の会議室で人格同士が会議をするなんてものもある。十歳の岬に、誰か別の人格が口止めを要求したのだろうか。
「それもありますけど。他人に教えたらたいへんなことになるっていわれたから。」
「誰に?」
 和広は綻びに指を入れ、広げた。岬たちに大変なことになると教えたのは、今までのコンテクストから察するに、交代人格ではない「誰か」ということになる。
「あっ・・・・・・」
 岬もその失敗に気付いたのか、それきり口を閉ざした。年齢の割に聡明な少女だ。だが手は見て分かるほど震え、まだ中身の残っている缶ジュースをも揺らしている。きつく閉じられた唇は動く気配がない。
 生憎とここからは和広には術がない。ゴシップ好きな美術顧問のように、カマをかけたり、誘導をしたりして話を引き出す話術を和広は持っていない上に、それが出来る心の強さもないのだ。
「質問を変えようか」
 和広はこの問いをしていいものか迷っていた。あまりにも率直すぎる問いは相手を傷つけるからだ。しかし、今まで一緒に会話をし、彼女は大丈夫だと思った。
「岬ちゃんは、何のためにこの朝ヶ丘に来たの?」
 和広が出来る精一杯の歪曲的な質問。勿論、本質は自殺しにきたか、否かということだ。だが、この問いはどのような言葉で聞いたところで強烈な皮肉を持つことは避けられない。むしろ遠回しに言うほどそのアイロニーは強くなる。
 顔は見れなかった。怖かった。質問をした側の癖に、相手の反応を見ることも出来ない臆病者。
 ガラン、と低い金属音が聞こえた。水分を内包した金属容器独特の、低く湿った接触音。
 音のした地面をみる。岬が持っていた缶が岩の上に落ちていた、残っていたジュースが岩場に滴り、染みを作っている。和広はそれを拾おうと瞬間的に手を伸ばす。
「あっ・・・・・・。ごめんなさ・・」
 岬も同じく反射的に岬が左手を伸ばす。
 互いの手が触れる。時間が止まる。
 彼女の手は白磁のようになめらかだった。女性に触れることに慣れていない和広はすぐに手を引っ込める。その反応は本人からしてもちょっと過敏すぎると思った。岬でもこれはおかしいと感じるだろう。そう思い、岬の顔を見る。
 彼女の顔は、死人のような色になっていた。
「あっ・・・・・すみませ・・・。や、・・・・やめ・・て・・・」
 岬は岩からゆらりと立ち上がり、和広に対し後ずさる。その顔は蒼白としていた。先程まで辿々しいながらも言葉を紡いでいた口唇は血の色を失い、浅い呼吸を激しく繰り返している。瞼は不自然なほど開き、瞬き、その瞳には恐怖を越え錯乱の色を呈している。お腹を抑えている右手をまるで内蔵を引きずり出そうとするように強く握りしめていて、身体そのものも何かを拒絶するように震えていた。
「いや・・・・、やめて、こないで・・・・。もう、したくない・・・。もういやだやめて、やめて、やめてやめてやめてやめてやめてごめんなさいごめんなさいごめんなさい言うことをきくからゆるしていや・・・」
 彼女の瞳は何も映していない。焦点の合わないその眼球は可視光線ではなく、ただ有らん限りの絶望を見つめている。
 人格が変わった?和広は一瞬その可能性を直感したが、するべきことは思考などではない。
 彼女は間違いなく正気ではなかった。和広は自分の迂闊さと自分勝手さを呪った。何がきっかけになったかは判断できなかったが、情報を求めるあまり岬を労らず、追い詰めていた。
「岬、落ち着け!俺は何もしない。だから目を覚ませ!」
 和広は大声で岬に呼びかける。そうしないと彼女の耳に届かない気がしたからだ。
 だがそれがいけなかった。先程までとは違う声量。それだけで微かに増した威圧感に岬は身体をびくりと震わせる。
「いや。いや。いや。いや。いや。いや。いやああああああああ!いたいのはいや。きもちよくなんてないから、やだ。やだ、やめて」
 何に対しての拒絶なのか。もはや岬は和広を見ていない。威圧に絞られるように甲高い悲鳴に似た声を上げる。足下は覚束なく、ちょっとした岩の凸凹にすら足を取られそうになっている。
 和広はまずいと感じた。このままでは会話どころか彼女の身が危ない。一般に観光に使われる朝ヶ丘から離れた場所に位置するこの崖は、観光場所以上に安全対策が成されていない。足を取られそうな小さな石がごろごろしている上、安全柵は存在すらしていない。
「あっ!」
 岬が大きな段差に足を取られ、後ろに転びそうになる。それをみた和広の脳裏に遥か昔の記憶が蘇る。何の考えもなく身体が動く。それは歳月が刻みつけた後悔か、人間としての本能なのかはわからなかった。
「っ!」
 和広は岬の左手を掴み、引き寄せる。かなり力ずくで引き寄せたおかげで、和広が岬を抱き寄せる形になってしまった。服越しに彼女に触れる。
 人間はこんなに熱いものなのかと、和広は思った。
「いやあああああああああああああああああああああ!」
 岬が叫ぶ。いや、岬かどうかすら怪しかった。一体何が彼女のスイッチを押してしまったかはわからない。だが、完全に岬は和広に対して恐怖していた。
 どうしたら良いかわからなかった。彼女は和広から逃れようと暴れているが、彼女の身体を支えるために和広の腕は彼女の身体を固定している。
 離してしまえば、岬は最悪崖の下に墜ちてしまうかもしれない。もし岬がその行動を望んでいるとしても、それは絶対にさせない。
 悲鳴に似た泣き声が朝ヶ丘に響く。潮騒にも負けないそれは皮肉にも生ある者の証だった。和広は抱きしめていない自由な手で岬の頭を撫でた。意味のないことかもしれないが、せめて自分が危害を加える存在ではないことを知って貰いたかった。
 やがて、悲鳴も、泣き声も収まり、海鳥の声と潮騒の音が世界に戻ってきた。激しく上下していた肩も、穏やかな呼吸と共に正常に戻っている。微かに押し殺した嗚咽のようなものが聞こえた気がした。朝の日差しの中、和広は少女を抱きしめていることに今やっと意識をした。
「・・・・・もう、大丈夫。離しても問題ないよ」
 胸の中で岬が呟く。だがその声音には知性的な響きがあった。和広は気恥ずかしさを感じながら、そっと彼女と距離を置く。和広の胸には人間の温もりが残ってた。
 少女の顔を真正面に捕らえる。微かに赤くなっている瞼、どうやら少し泣いていたようだ。だが、それに不釣り合いな冷静な顔で彼女は和広の視線を受け止めた。
「大丈夫。岬は君のことを嫌った訳じゃないんだ。ただ君とふれ合ったことで少し昔のことを思い出しただけだよ。
 岬の受け持つ記憶は男性に対する恐怖が多いからね」
 先程より低い声、柔らかくも厳しさを秘めた瞳。先程までお腹に添えられた手を前に組み。まるで月日を重ねた巨木のようなどっしりとした雰囲気で和広に言葉を伝える。
「君は違う人格か?」
 和広は確信した。人格が変わる瞬間をみたのは初めてだった。
「ああ、そうか。谷川君が僕に会うのは初めてだったね。君が僕たちと対峙したとき、誰と喋っているのかわからないことを忘れていたよ。
 僕は出海。性別は男。年齢は三十五歳だ。よろしく」
 そう言って十八歳ほどの少女は右手を差し出してくる。どうやら握手のようだ。和広も右手を差しだし、手による挨拶を交わす。
「あなたが、岬の言っていた出海さんですね」
「そうだ。でも敬語はいいよ。そりゃあ僕のほうが年上だけど、肉体年齢からすれば君と同じ位なんだ。変に気を使う必要はない」
 出海は笑った。そうは言っても出海が年上だというのなら、どのような由来であれ下手に出るべきだ。和広は典型的な日本人だった。
「岬は大丈夫ですか?」
 色々と出海には聞きたいことはあったが、岬のことが気になった。
「ああ、大丈夫だよ。随分気が動転してたようだけど、君が抱きしめてくれたおかげで随分ましになった。最後なんて、彼女から恥ずかしいなんて理由で引っ込んだんだからね」
 また、出海が笑う。それは年月を経た人間が作れる深みのある顔だった。
 和広は顔が赤くなるのを感じた。母親以外の女性とあれほど密着したのはあの人以来だった。
「そ、それなら良かった。てっきり俺が岬に酷いことをしてしまったのかと思って」
 あの状態は普通じゃなかった。恐怖を通り越して狂気に近い状態だった気がする。純粋な感情は突き抜けると狂気になる。恐怖や絶望は勿論、愛や希望でさえも。
「うん。でもね。確かにスイッチを押したのは谷川君だ。害を加えた訳じゃなくてもきっかけ一つで人は壊れるんだ。そりゃあ僕たちの事情が特別なせいもあるけどね」
「はい」
「だから気をつけてほしい。君が僕たちと関わってくれるのはとても嬉しい。皆の状態もかなり変わっている。ちょうど今、色んな出来事が重なっている時期なんだよ。詳しくは言えないんだけど、ここに来たのもそのせいだ。
 今までの僕たち人格同士のシステムが変化している。それは言い換えれば崩壊とも言えるんだ。場合によっては、君があの夜彼女に会ったように、君に危害を加えてしまう可能性もある」
 出海の指す彼女は、恐らく商店街で殺人未遂を起こしたあの殺人者の人格のことだろう。
「気をつけます。あの、ちょっと聞きたいことがあるんですけど」
「僕たちの居場所のことかい?」
 和広は頷いた。
「残念だけれど、それは教えられない。色々理由はあるけれど。一番の理由は泊まっているところの人との約束だよ。泊めて貰うことの条件として、僕たちがそこに住んでいることは、君は勿論、例え警察に捕まっても言わないという誓約があるんだ」
 そう言って、出海は申し訳なさそうに俯く。
「でも、許してくれ。僕はこの町でしなくちゃいけないことがある。ああ、いくつかの人格の自殺願望とは別にね。それで谷川君。おこがましいが君に二つ頼みたいことがあるんだ」
 出海は風に舞うスカートを整える。
「なんですか?」
「一つは、岬達を救って欲しい。彼女たちはずっと死に惹かれている。自分を傷つけて、何事にも絶望している。岬がこの場所に来たのは逃避のためだけじゃないけど、どんなきっかけで、突発的な行動に出るかわからない。僕や美空では、日常生活が壊れないように人格のスイッチを管理するしかないんだ」
「・・・最初からそのつもりです。もう一つは?」
 出海は少し間を置く。それは躊躇の時間ではなく。その言葉の重みを増すための意図的な流れの中断。この人格はそういった駆け引きを熟知していると感じた。
「ある人物を探して欲しいんだ。その人の名前は――」
 出海の口からその尋ね人の名前が話される。合計六文字、漢字にして四文字の羅列。それは和広の思考を奪った。
「この町にいることは間違いないんだ。何をしているのかはまでは僕にもわからない。・・・・・谷川君、聞いているのかい?」
「あ、ああ、はい。聞いています」
「ならいいんだ。もし、情報が手に入ったら教えて欲しい」
 和広は思考をシフトした。
「わかりました。あと聞きたいんですけれど。あなたでは、他の人格の自殺を止められないんですか?」
「僕と美空は、確かに皆のリーダー的な人格だけど、だからといって皆の記憶や、意志へ自由に干渉できるわけじゃないんだ。あくまで僕たちは元々一人の人間だからね。あらゆる感情を自己完結できる人間なんてそうそういないよ。
 さらに言えば、最近皆の主張が強くなってきている。僕や美空は、皆が不用意に出てしまわないように押さえている役割も持っているんだけど。それももう限界が来ている。
 理由は色々あるし、昨日今日起こった変化でもない。でもね。谷川君。君の存在も大きな理由なんだよ」
「俺がですか?」
 和広は聞き返した。自分が彼女たちにどんな影響を与えたのか怖かったからだ。
「そう、色んな人格が君に会うことを望んでいる。今まで「僕たち」を守るために分かれたシステムに過ぎなかったのに、それぞれの感情に沿った自己を、谷川君とのコミュニケーションを核にして表に出そうとしている。
 僕としては、それがいい方向に転がって欲しいんだ。雨降って地固まるというけれど、前提から破綻しかけている今のシステムを立て直す必要がある。君に依存する形になってしまうのは申し訳ないんだけどね。
 岬なんて本当は男性に対して楽しそうな表情をすることなんてなかったんだよ?いつもならせめて愛想笑いくらいさ」
「何でですか?」
「さっきも少し言っただろう?岬は男性に対する恐怖の記憶を多く受け持っている。男性から受けた痛みや屈辱。それの管理が岬の役割だ。だからこそあの性格だし、男の人に触れられるのには異常に恐怖する。他にも先端恐怖症とかも持ってるしね」
 岬が錯乱したのも、和広が触れたのが原因だったのだろう。コンマ一秒にも満たない身体の接触。それだけでわずか十歳の女の子があそこまで壊れる痛みや屈辱を、想像力に欠ける和広は全く想像できなかった。
「一体何をされてきたんですか?」
 和広は聞く。その身体の管理者たる出海なら、その記憶も知っているはずだ。
「それは、僕の口からは聞かない方がいいよ。生理的に無理なのもあるけど。直接本人から聞いた方がいい。谷川君。絶望した人間が欲しいものは同情なんかじゃない。記憶の、想いの共有なんだ。
 この二つは一見同じだけど、主観的か客観的かの点において決定的な違いがあるんだよ。それは、他人から伝え聞いてしまえば絶対に同情になってしまう」
 まあ、僕は本人でもあるんだけどね。と出海は舌を出す。
「君は不器用で、考えが足りなくて、それでいて優しい。だからこそそんな人間らしい君に、他の人格達と話して欲しいんだ。
 ・・・じゃあ、明日ここでまた、今度は僕じゃないかもしれないけどね」
 彼女は、いや、彼は立ち上がる。まるで逃げるようだと思った。
「何であなた達は、朝にしか来ないんですか?家主との約束もあるかもしれない。でも、こんな朝早くに会う必要はないでしょう。明日は昼でもいいんじゃないですか?」
 別に朝に会うのが生理的につらいというわけではない。もう早起きにも慣れてきたところだ。だが、やはり寝坊してしまう場合もあるし、朝早くに話をして、その後一日中悶々と考えるサイクルに少しうんざりしてしまっているのも事実である。
「それは、駄目だ。他の人格が昼間に会うことを望むのなら昼に会うこともいいけれど、僕には朝だけで十分だしね。
 でも一番の理由は、君に一番会わなければならない人格と会うためには、朝じゃないと駄目だからさ」
 そう言って彼は立ち上がった。もう話すことなどないというように、すでに殺人的な日光が、岩場を照らし、荒れ狂う海をも蒸発させようとしている。
 朝じゃないと会えない。和広に一番会わなければならない人格。なぜ今までの生活の中で出会わなかったのだろうか。
「どういう・・・・」
 思考の末、導き出した質問が言葉として発せられるときは、彼はもう、森の奥に消えようとしていた。
 そのとき、彼の両手が自由なことに気付いた。岬の時はずっと押さえていたので、今日はお腹が痛いのかなと思っていた。
 和広の視線からその疑問に気が付いたのか。出海は振り返る。フリルの付いたスカートがお姫様みたいに揺れた。
「岬の痛みはね。今も続いている昔の傷だよ。身体の傷は癒えるけど、心の傷はすぐには治らない。何度も何度もね。そのときの痛みが、岬そのものだ。
 君は、少しは多重人格について調べたんだろう。女の子がこの症例を発症するとき、一番多い要因は何か、知っているかい?」
 多重人格障害を持つのは九割が女性だ。それは何故か。和広は、布施先生の資料にあった発症の原因を思い浮かべた。
 身内からの、性的虐待。
 僕が言えるのはここまでだよ、と出海は去ろうとして。ふと、思い出したように言葉を続けた。
「・・・岬からの伝言だ。今日のお昼、花街商店街で一緒に買い物がしたいって。時間は十三時くらいだ。君のことがかなり気に入ったみたいだよ。少し話をしてあげて欲しい。大丈夫かい?」
「問題ありませんよ」
 その時間なら大丈夫だ。画材も買わなければならないし、ちょうどよかった。
「ありがとう。後、頼んだこと宜しくね」
 そう言って三十五歳の男性を宿した少女は、森の奥に消えていった。和広は走って追いかけたが、途中で段々畑に繋がる道を通ったのか、姿は消えていた。
 聡明そうな彼のことだから、追っても巻かれるだけだろう。あきらめて家までの道のりを歩く。土と雑草の柔らかい感触を感じながら、出海から頼まれたことを思い出す。
 ある人物を捜してほしい。その人の名前は――
 その名前を頭に浮かべる。岬との約束も和広を苦悩させたが、出海の口からこぼれたその名前が、和広を混乱のただ中に放りこんだ。
 
 ――布施崇久というんだ。
 
 どうしてここで、この名前が出てくるんだ。


「和広、あんた、隠しごとしていない?」
 今朝、急に午前から学校に行くことにした和広に、母は尋ねた。
「隠し事ってなに?」
 和広は靴を履きながらとぼける。顔を見せると嘘がバレると思ったからだ。
「・・・この前の事件。まだ犯人捕まってないし、あんた全然喋らないから、不安なんだよ。せめて何をしているのかは教えて」
 母の勘なのだろうか。もう十七年も家族をしているのだ。和広が何かを隠しているくらい、看破しているのだろう。
「大丈夫だって、大したことじゃない」
「どうだかね。カズには前科があるじゃない」
 もう、七年も前の話だ。確かにあのときは親に内緒でお姉ちゃんと関わっていた。だが、高校生にもなってまだ信用されていないのかと思うと、多少傷つくものがある。
「お父さんも心配しているんだから。あまり無理しないでね」
 母が言う。親父は今店で仕込みをしている。今の時期は観光客もそこそこするので、食事の時にしか顔を会わせない。しかし和広は楽で良いと思った。下手に顔を合わせても、いったい何を話すというのだろう。
「大丈夫だよ。まかり間違っても親父には迷惑かけないさ」
 それは安心を促すと言うよりも拒絶だった。幼い頃は、否定的な感情を抱かず父親と遊んでいたものだ。今では秘密を相談することすら出来ない。
 玄関の扉に手をかける。使い古された引き戸、鍵もまともに閉まらない田舎独特の不用心な入り口。
「あんたに言っていなかったことだけどね」母は前置きを挟む。
「お父さんはね。ここにくる前はデザイナーだったの。美大もでて、夢に向かって歩いていた。でもこの朝ヶ丘にきた。それがどういうことだか、わからないことはないでしょう。
 お父さんは、頭ごなしに反対しているんじゃないんだよ。それを忘れないで」
 和広の手が止まる。今まで知らなかった。知るのが怖かった父の過去。その一端。父は自分と同じ夢を抱いて、そして破れたのだろうか。
「行ってきます。ちょっと商店街にも寄るから、帰るの夕方になると思う」
「あら、じゃあ、買い物頼んでいい?」
 母は、居間に行くと、冷蔵庫に貼ってあった必要な食料品のリストを持ってきた。やけに多い。これは母なりの嫌みなのだろうか。
「わかったよ。行ってきます」
 ポケットにその紙を突っ込んで家をでた。今まで遠かった父が近くなったような気がしたし、さらに遠くなったような気もした。



 美術室の扉を開ける。所々引っかかってうまく開かない。なんとか人一人通り抜けるだけ隙間を作ると、そこに身体を滑り込ませる。
 少し早かったかなと和広は思った。今時計は十時を指している。
 元々、今日は学校に来る予定ではなかった。夏休みとはいえ、毎日学校で絵や模試を受ける訳ではないし、受験生といえど、息抜きは必要だ。
 今日は布施先生に会いに来た。ただ、今日見に来るとは聞いていなかったので、いる保証は無かった。この間デッサンをみせたばかりだし、あのズボラな教師が理由もなく学校に来るとは思わなかった。早く、出海が布施先生を捜している理由を知りたかったが、焦って聞くのはまずいと思った。
 一番最後に書いた石膏デッサンはキャンパスの上に置いたままだった。片づけるのを忘れていたのだ。描いていたとき気づかなかったのが不思議なくらい荒く、才能を感じさせない白黒の絵。
 志望校の入試案内で載っていたデッサンの例を思い出す。影の付け方や構図の取り方、そんな小難しい要素が馬鹿らしくなるくらいのセンスと技術の差。凡人がいくらあがいても、届かないとあきらめるしかない天賦。
 将来のことだけ考えるなら、今、美空たちと関わっている場合では無いのかもしれない。こちらはこちらで、未来がかかっている。
 人生は一度しかない。そして分岐点は、恐らくここしかない。
『君は本当に、絵の道に進みたいのかね?』
 ふいに声が聞こえる。いや、現実にはそんな声など響いていない。和広は二次元平面に写る歪な哲学者の視線を受け止める。
「当たり前だ」
 答える。そうだ。人生をかけるべきものとして掲げた道。いつから目指したのか覚えていない、昔からの夢。
『この程度の腕と才能で?』
 辛辣に、明確に、哲学者は現実を突きつける。人生をかけたところで世間に認められるとは限らない。ヴィンセント・ファン・ゴッホは、自殺した後評価されたが、それはまだ幸運な例だ。誰にも認められないまま、名前すら知られず、世を去っていく絵描きなど掃いて捨てるほどいる。
『君はあの少女たちを助けたいと思っているようだが、それを盾にして夢から逃げているだけだろう。
 描けば描くほど、君は自分の才能の無さに絶望する。人生をかけると豪語しておきながら、心の奥底ではすでにあきらめかけている。
 だから、もっと大切そうなことを優先するようにして逃げたんだろう?自殺を止めたい。彼女を救いたいだと?笑わせる。
 自分の夢すら真っ直ぐみれない臆病者が、一体何を救えると言うのだ。君はただ、彼女を救うという名目で、自分の夢と向き合うことから逃げているだけだ。』
 これは、哲学者が喋っているわけではない。これは自分の声にすぎない。客観的に自己を分析しているもう一人の自分の糾弾だ。
「人を救うのに理由がいるのか。他人が苦しんでいるのに、それを見過ごせっていうのか?
 絵は俺の夢だ。今は躓いているだけで、あきらめてなんかいない。二つのことは全く別々のことだろう。」
 和広はキャンパスの前に座る。その自己嫌悪に捕らわれたくなかった。彼女を救いたいと願う心は純粋なものであり、夢を追う意志もまた、混じりけのない透き通った青ような願いのはずだ。
 そう思いたかった。
『夢か。君も分かっているはずだ。二つのことは根本では同じだ。結果を幻想し、積み上げる過程こそ夢であり、人生と言うものだ。過程なくして結果はなく、また結果なくして過程はない。
 君が絵描きを目指して生きて、それのみで生きていくことは不可能だとわかっている。そもそも、君の目指している画家の定義が曖昧だよ。油絵を学ぶつもりのようだが、デザイン、造形、芸術というジャンルはあらゆる方向に枝分かれしている。君は幹すら選んでいない。
 君は本当に芸術の道を目指したいのか?そもそもなんで絵が好きになったのだ?
 七年前、お前の絵を誉めてくれた自殺者の言葉だけか?』
 瞬間、和広は鞄の中から木炭を取り出し、キャンパスの上に突き刺した。脆い木炭の先端から、破片がぽろぽろと落ちる。
『君は他人にも、夢にも、そして自分自身とすら向き合えない臆病者だ。真正面から受け止めることが出来ない弱い人間、夢を叶えることも、他人を助けることも出来るわけがない。
 半端者だよ。君は。』
 強引に、木炭をキャンパスにざりざりと音を立て滑らせる。真っ黒な否定の線が、ジクザグに哲学者を塗りつぶす。
『そんな覚悟じゃ、救うことも、手に入れることも、できない』
 黒い線で切断されていく厳つい石膏像が、最後の言葉突きつけた。
 木炭が折れ、床に落ちる。乾いた音は美術室に響く。
 和広は歯を食いしばる。様々な想いが混じり合い、混沌とした色になる。
 俺は、本当に、画家になりたいのだろうか。
 布施先生に会う目的はすでに忘れ、和広は美術室を飛び出した。無惨に黒い線で塗りつぶされたデッサンをそのまま残していた。
 いつか自分の絵を誉めた。原動力となった一言を、和広は反芻していた。
 



 商店街の入り口で、和広は目眩を覚えた。ただでさえ人の多い観光地の上に、夏休みの日曜日という最大数を二乗したような休日。いくら時代遅れの商店街とはいえ、その人の混みようは、足を踏み入れることを躊躇させた。
 和広のいる商店街の入り口は、小さな公園のようになっている。バス停や、ベンチ、蛇口を逆さにした程度の勢いしかない噴水などが、県の無駄な税金で作られている。
 その中の隅っこにある目立たないベンチに、探し人を見つけた。今朝会ったときと同じ、花を思わせるフリルの付いた女の子らしい服を着ていた。
「やっと来た。遅いよ和広君。デートなんだから、女の子を待たせちゃ駄目」
 少しむくれた様子から、彼女が岬ではないことが分かった。ちなみに和広にデートという考えは全くない。
「美空か?」
 和広は思い当たる可能性を口にした。
「あたり。よく分かったね」
 美空は立ち上がった。よく考えてみると二日ぶりであった。
「ちょっと不安だったけどな。・・・・色々、他の人格から聞いたよ」
 美空であると判断したのは消去法だ。和広が知っている中では女性人格であのような話し方をするのは美空しかいない。
「うん。見てたし、聞いてた。ごめんね。隠しててさ。でも和広君と普通の私として話すのが楽しかったから。つい黙っちゃってたんだ」
 美空は舌を出す。
「別に、怒っていない。でもそっちが色々秘密にするものだから、こっちは頭の中こんがらがっているけどね」
 和広の中には様々な疑問点が浮かんでいた。布施先生のこと、朝にしか会えない人格のこと。そして何より彼女らの過去のこと。
「それはおいおいね。今日は岬ちゃんと遊んであげて、いつも凪の相手してあの子も疲れているしね」
「凪?」
「赤ちゃんの人格だよ。女の子。まあ周りに迷惑かかるから滅多に表には出ないけど」
 赤ん坊の人格。ではその子が表に出てきたら、幼児と同じ行動をするのだろうか。確かにそれは日常生活に支障をきたしかねない。
「そういや、なんで美空は今日、出てきたんだ?」
「ひどーい。私が出てきちゃいけない?」
 美空はむくれる。まるで子供のように頬膨らませる。和広は焦って弁解を口にしようとする。
「分かってるよ。ちょっと岬に頼んで交代して貰ったんだ。せっかくのデートを邪魔したくなかったんだけど。和広君に謝っておきたかったの」
 美空は改めて頭を下げた。
「ずっと黙っててごめんね。和広君に変な目で見られたくなかったの。普通の人間として、見てほしかったんだ」
 美空は顔を上げる。その目の端には涙を貯めていた。そのとき、つかみ所のない美空が、とても弱いものに感じられた。
「いいよ。別に多重人格だからって俺に遠慮することないから。元々、人付き合いが苦手なんだ。そんな色眼鏡でみる余裕なんて俺にはないよ」
 誰かに気を使われることも苦手だし、誰かに無理に気を使うと必ず裏目にでてしまう。和広はそういう人間なのだ。
「ありがとう。じゃあ、これからもよろしく。和広君。お互い良い関係を。
 ・・・岬に変わるね」
 笑みの後、美空は瞳を閉じる。それは眠っているようにも、祈っているようにも見えた。岬と出海は、美空を自分と同じ管理者だと言っていた。だが美空は、出海に比べ少し疲れているようだ。
 出海は多重人格のことを「システム」と表現していた。そしてそれが崩壊しかけているとも。多重人格の心の中がどうなっているかすら分からない和広には、それが崩壊したらどうなるのかなど想像すらできなかった。
 瞼が開かれる。先ほどよりも表情が暗くなった気がした。それだけでなく、少し肩も縮こまり、うつむき加減で、自信の欠片もない。だが緩く開かれた瞳には、子供特有の無垢さがあった。
 今朝、人格が交代をするところをに立ち会ったが、今回はよりはっきりと彼女たちの言う「スイッチ」の切り替えを見ることができた。
「・・・あんまり、美空さんをせめないでください。わるいことをするのはわたしたちですから。」
 右手をお腹に添ながら、岬は美空をかばう。
「ああ、美空が俺のために色々気を使ってくれたことは分かってるよ。
 ・・・朝は悪かった。怖がらせてしまったな」
 そう言って、頭を撫でようとしてとどまる。岬に触れてはいけない。彼女の記憶の中には、和広には想像も付かない悪漢の行為が眠っているのだろう。
「いいんです。それより、ごはんたべましょう。いずみさんにたのんでお金もらいました。いつもわたしにはつかわせてくれないのだけれど。今日はとくべつだって」
 そういって彼女は、怯える顔を見せまいと、必死に笑顔を作る。その左手の中には兎をあしらった可愛らしい蝦蟇口財布。きっと彼女専用なのだろう。右手は今なお彼女を傷つける記憶の爪痕を労っている。
「・・・阿呆。十歳に割り勘させる気はないよ。高校生に恥かかせないでくれ。」
 和広は、赤くなる顔を見せないようにしながら彼女の服の袖を掴んだ。こうすれば大丈夫だろう。商店街の人混みの中で、十歳の子供がはぐれるなんて自殺行為に等しい。
 岬は一瞬、驚きと戦慄の表情を浮かべた後、おそるおそる和広の袖を掴み返した。まるで温もりを求める子犬が、怯えながら人間に寄り添うように。
「じゃあいこうか」
「・・・はい」
 いつかのお姉ちゃんのように、和広は、岬を引いて歩き出した。


 岬と共に休日を過ごすのがこんなに難しく、楽しいとは思わなかった。
 最初、昼食をとるために入った定食屋では、彼女は箸を使えなかった。本来の利き手とは違う彼女は、箸をうまく握ることさえできなかった。いつもはほかの人格が食事をとっているそうだ。岬は悔しそうな顔をしていた。仕方ないので店員に頼んでスプーンを出して貰った。お子さまランチを左手で不器用に食べる外見十八歳の女性は、発達障害の人を想起させた。
 その後、ショッピングに出かける。彼女が好んだのはやはりというか、女の子らしいファンシーな店だった。一緒に入らざるをえない和広には拷問に等しき時間だった。異性との付き合いなど全くない和広は、堂々としていればいいという考えなど浮かぶわけはない。
 岬は、色々な商品を見て回ったが、買って欲しい、とねだることも、自分から買うこともしなかった。
「これ、欲しいのか?」
 長い時間をかけて見ていた小さなカモメのぬいぐるみを指さし、和広は言った。
「は、はい。」
「買えばいいじゃないか。お金、持って来ているんだろ?」
 岬は財布を大事そうに持ちながら俯いた。
「でも、これは、美空さんが貯めた、みんなのお金です。八雲さんがかってにつかっちゃうときもあるし。大切にしないと・・・・」
「八雲の奴、酷いんだな」
 和広は笑う。八雲。彼はこの会話を聞いているのだろうか。聞いているのならば、速攻で出てきて和広に何か言いそうなものだが。交代しないのは、岬に時間を譲っているからなのだろうか。
「いいよ。俺が買うから」
 岬は何度も遠慮したが、和広は買った。もし、恋人ができたらこのように振る舞わなければいけないのだろうか。周りから必要以上に見られているかもしれないと思うと、むず痒いどころか、痛い。
 今隣にいる岬は十歳の子供だ。恐らく、彼女が和広に抱いている感情は依存。愛情とは似て非なるものだ。そう和広は自分に言い聞かせる。
 だが依存とは、愛以上に人間が生きる上で大切で、疎ましい感情だ。
 その後は、岬の希望に付き合いながら、和広も自分の買い物を済ませようと思った。母に頼まれていた食料品の買い物、それから今朝折ってしまった木炭を含め、必要な画材も買わなくてはならない。
 先に買い物を済ませることにした。スーパーマーケットで岬を後ろに引きながら食料品を買い物かごに入れていく。瑞々しい夏野菜が見事な光沢を放っている。
 岬の方はというと困ったことに、目を離すとお菓子をこっそり買い物かごに入れようとしたことが何回もあった。目で注意すると、しゅんと落ち込むがまた同じことを繰り返す。それが可愛らしく、やっぱり子供なんだなと実感した。それと同時こちらを信頼してくれているようで嬉しかった。
 画材店で、必要な道具も揃え、商店街に出る。気付いたときには四時三十分を指していた。まだまだ夏の太陽は明るかったが、楽しい戯れの時は終盤に入っている。
 商店街の雑踏も真昼に比べると多少ましになっており、道行く人々の顔も鮮明に分かるようになっていた。
「あっ・・・・・・・・」
 岬は何かに気付いた。和広はそれが何かを察する暇もないまま、岬に袖を強く引っ張られる。
「お、おい。岬?」
 岬は今日初めて、和広を先導する。あの内気な岬が、強引に和広を自分のスピードで引っ張っている。それも歩くような早さではなく。段々と早くなり、ついには走った。
「どうしたんだよ!」
 周りに変に思われない程度の大声を出す。だが岬は答えない。大通りを曲がる。一気に人通りが少なくなる。
 気付いたときには路地だった。この辺りの地理に岬が精通しているとは思えなかった。恐らく適当に逃げていたらここに辿り着いたのだろう。
 逃げていた?何から?
「おい、岬。どうしたんだよ。いきなり」
 荒げた息づかいのまま、岬に尋ねる。文化系クラブに所属している和広の心肺機能は対したものではない。
 岬も足に左手を突き、右手を腹部に添え、浅く激しい呼吸を整えていた。その呼吸が整わないまま、顔を上げ、和広に説明をしようとする。
 そのとき、背より路地裏に入る光が、遮られた。
 一瞬、熊かと思った。勿論こんな場所に熊なんてでない。出たとすれば全国ニュースものである。それは熊のような人間のシルエットだった。
「はあ、はあ、何で逃げるんだよ・・・・」
 疲れた声が路地裏に響く。和広はその声に聞き覚えがあった。和広は振り返る。それと同時に、岬が和広の後ろに隠れるのが分かった。
「熊田さん、ですか。何ですか。いきなり」
 熊田だった。嫌なタイミングで遭遇したなと思った。彼も買い物中だったらしく。左手には買い物袋をぶら下げている。
「それはこっちの台詞だよ。君たちを見つけたと思ったら、いきなり逃げ出すんだからね。
 今は、岬ちゃん・・・かな?久しぶりだね。霧谷さん」
 和広の後ろにいた岬がびくりと震える。捕まれている服の生地からでも、その震えは伝わってくる。だがその瞳には不思議と怯えの色は少ない。
 どうしていいか分からないといった困惑の表情だった。
「あなたは、この子のこと知っているんですか?」
 今、熊田は岬を「霧谷さん」と言った。恐らく、和広も知らない彼女たちの名字。しかも、「今は岬である」という可能性を思い当たった点で、彼女たちが多重人格ということを知っている。
「そりゃあ。僕は彼女たちの主治医だからね。いや、元主治医と言った方がいいのかな?」
 熊田は岬に目をやる。岬は彼と目を合わせようとしない。
「で、この子を捕まえて、警察にでも渡そうっていうんですか?」
 この男は、警察官と一緒に行動していていた。つまり、この少女を犯罪者として追っている可能性が高い。
「いきなり酷いね、それは誤解だよ。そもそも僕と渡辺は霧谷さんを保護する目的で追っていたんだ。それに、その子は警察に渡しても刑罰は受けないよ。精神疾患を患っている被疑者は責任能力の関係で罪に問われにくいからね。
 美空、いや、夕子も聞いているんだろう?君たちはここにいちゃいけない。この町はあまりにも死に近い。それに和広君を傷つけてしまうかもしれないよ。それでいいのかい?」
 岬の震えが大きくなる。何かを思い出しているのか顔面は蒼白としている。だが、歯を食いしばるように顔をゆがめると、その瞳に強い光を宿した。
 スイッチが入ったのだと、和広は気付いた。
「熊田さん。あなたは私たちを裏切りました。いや、あなたからすれば裏切っていないでしょう。私もそう思います。だけど、私たちはそれだけで誰かを信じれなくなってしまうんです。
 私たちは皆、この町ですることがあります。それまで帰ることはできません」
 右手は架空の痛みから解放された腹部より離され、和広の前に出た少女が抗議を上げる。
「美空、だね?しかしその望みの中には自殺もあるんだろう?」
 熊田の言葉に美空は押し黙る。
「それは・・・・和広君となんとかします」
 何とか出たのは、自身のなさそうな言葉だった。
「和広君と・・・・・・か。
 いいかい?君たちは、他人に恐怖を覚える癖に、他人に幻想を持ちすぎている。それは信頼ではなく、依存だよ。他人は神様でも悪魔でもないし、願いを叶えてくれる魔法の精でもない。
 一方的な依存は大切な人を不幸にする。それは君たちが身を持って体験していると思うけどね」
 美空は返す言葉もなく。下を向いている。この二人の間に交わされる言葉を和広は完全には理解できない。だが、美空が傷ついていることは明確に理解できた。
「熊田さん。何かは知らないけど、そんな小難しい言葉並べて説教とか、大人げないと思うけど」
 論点は関係ない。この対話を中断させなければと思った。
「小難しい言葉にもしっかりした意味があるんだよ。単にそれを理解しようとするかしないかだ。
 さて、美空、帰ろう。ここは君たちにとって誘惑の多すぎる町だ。統合しようがしまいが、ここにいたんじゃ自分を傷つけるだけだぞ」
 熊田に敵意はない。まるで言うことを聞かない子供をなだめるように、柔らかい声音で父のように呼びかける。
 美空が拳を握りしめる。それは誰かを殴るためにあるものではない。向ける方向のない感情をただ握力にしているだけだ。
「ごめん。和広君」
 沈黙の末、そう囁いた。
 次の瞬間。彼女は走り出した。まるであの夜の再現だ。ただ違ったのは、彼女が紛れ込んだのは、夜の帳などではなく。日が傾き始めたのに人がひしめく雑踏の中というだけだ。
「おい!美空!」
 和広は勿論追った。右手に下げた買い物袋が激しく上下する。熊田もそれに続く。だが彼女はこういった逃亡には慣れているようで、すぐに人混みの中姿を隠してしまった。
「くそ!」 
 和広は悪態をつく。なんであいつはアルセーヌ・ルパン並に逃げるのが巧いのかと。
「全く。この国は昼も夜も人を捜すのが難しいね」
 熊田が息を整えながら、和広に声をかける。和広は熊田を一瞥する。
「あなたのせいでせっかくの休日が台無しですよ。俺はこれで失礼します」
 買い物袋をみる。別に品物に損傷はなさそうだ。和広は安心し、熊田
から逃げようとする。自分でも不自然なくらいの慌てた逃亡だった。
「待ちなさい。和広君」
 熊田は声をかける。勘の良いこの男のことだ。和広があの夜以来嘘をついてきたことくらい分かっているだろう。
「なんですか?こっちはアイスが溶けそうで早く帰りたいんですよ?」
 買い物袋を熊田に示す。勿論不透明のエコバックの中にはアイスクリームなど入っていない。
「嘘をつくんじゃない。もしそうなら買い物は最後に行くはずでしょ?のんびり画材店で買い物する時間で溶けちゃってる。
 お茶でも飲まない?とって食ったりはしないからさ」
 やはりこの人は苦手な人種だ。和広は直感した。
「とって逮捕したりするんでしょう?」
 和広は抵抗する。定置網のような言葉の罠にかかる前に、早く逃げ出してしまいたかった。
「侵害だなあ、そんなことしないよ。
 美空たちの過去。知りたくないのかい?」
 だが、彼女の主治医という最大の餌が提示され、逃げられなくなってしまう。罠だと分かっていても、考えを読まれついに網は完成してしまう。
「・・・わかりました」
 数秒の思案の末、和広は頷いた。

葵の章

 ラジオ体操のカードの空欄も残すところ十個近くになった。
 和広は、画用紙と鉛筆を持って、朝ヶ丘に向かっていた。読書感想画の宿題はとうに終わっている。ただ、また彼女に絵を誉めて欲しかったからだ。
 この前のサッカーの試合の時に聞いた彼女の名前、長瀬葵。だが、和広はそのまま「お姉ちゃん」と呼ぶことにした。一人っ子の和広にとって兄や姉というのは憧れであったし、甘えの象徴だったからだ。
 森を抜け、崖にでる。いつもの岩の上にお姉ちゃんはいなかった。そのかわり、岩場の先端、そそり立つ朝ヶ丘の死と生の境目に座っていたのだ。
 海鳥が鳴く。空は彼らの場所だ。人はそこに住むことはできない。地も天も束縛も悲しみもない自由な空に、人間はいくことは許されない。
「お、おはよう。お姉ちゃん」
 岩場の先端で泣くように座り込んでいたお姉ちゃんに声をかける。いつにもまして声をかけるのに緊張した。生と死の狭間で悲しんでいるように見える彼女がどこか触れ得ざるものに思えたからだ。
「あ、おはよう。和広君」
 お姉ちゃんは答えた。声を聞くだけで、振り返った顔を見るだけで、彼女が憔悴していることが分かった。
「どうしたの?」 
 おそるおそる聞く。月並みに鈍感な和広でもお姉ちゃんに何かあったことくらい嫌でも気付く。
「・・・・・ちょっと電話があって。月海の様子が怪しくなってきたの。私、帰らないといけないかもしれない」
 お姉ちゃんの歯切れが悪い。いつもの明るく聞き取りやすい声ではない。考えをぎりぎりまで言葉にできないまま、口にしたような不完全さ。
 だが、和広はそれよりも別のことに気を取られていた。
「つぐみ。どこか悪いの?」
 今までお姉ちゃんから月海の話は沢山聞いた。だがここ数年の月海の話はなかったし、その中で月海の体調が悪いことなど聞いたこともなかったからだ。
「そうなの詳しくは説明できないけど、つぐみは今、病気なんだ。」
 絞り出すような苦悩の声。どうしても、言いたくなかったという思いが、短い言葉に乗り潮騒に溶けていく。しかし、たかが十年しか生きていない子供はそんな些細な機微に気づけなかった。
「つぐみを助けなきゃ。今、どこにいるの?どんな病気なの?」
 和広は目の前で苦悩しているお姉ちゃんより、会ったことのない彼女の娘を心配した。移り変わりやすい子供の心。言葉一つで心配する対象を入れ替えてしまう。純粋というのは、考えのないことでもある。
「私の、せいなんだ。月海はね。壊れたんだよ。私のせいで、私がお母さんとして、いてあげなかったから」
 お姉ちゃんには和広に話しかけている意識はなかった。ただ、和広の言葉が糾弾の刃として彼女を引き裂いていた。だが、和広は自らの言葉の重さを理解してなどいなかった。
「お姉ちゃん。帰らないで、大丈夫なの?」
 お姉ちゃんは母親だ。和広の母は、世間一般で言うところの普通の母親だった。子供に世界のなんたるかを教え、教育について学校に一々抗議し、和広の中での正しさと優しさの象徴である「普通」の立派な母親だった。
 母はいつでも子供の側にいるものだと思っていた。幼い子供にとって母親の存在が占める割合は多い。だから今、お姉ちゃんが月海の側にいないのはおかしいと思った。
 大人は子供を守るものだと、当たり前のように、無責任に思っていたのだ。
 お姉ちゃんは何も言わなかった。和広もまた何も言えなかった。海鳥が青空で声を交わしあっている中、二人はただ無言だった。
 和広はお姉ちゃんに近づいた。言葉で何もできない癖に、接することで彼女の苦悩が和らぐかもしれないと、幼稚な考えを巡らせていた。
 二人の距離が縮む。だが二人の心は決定的に離れている。それは片方が察することが出来ない程幼く鈍感なせいか。それとも片方が大事なことを必死に隠しているせいか。
 和広はお姉ちゃんに抱きしめられた。
 眠ってしまうそうなくらい柔らかく。息も出来ないほど苦しい抱擁。
「ねえ。和広君は、私の味方だよね?」
 か細い声で、お姉ちゃんは呟いた。



「さて、谷川君。君が会ったのは何人で、どの人格だい?」
 喫茶店でカモミールのハーブティーを飲みながら、熊田は尋ねた。カモミールにはリラックス、鎮静作用があると聞いたことがある。
「・・・・・八雲、岬、出海、それから、美空です」
 殺人鬼の人格については勘定に入れなかった。しっかり会話をしたわけではないし、あれは和広にとって現象に等しかった。
「それだけかい?」
 熊田は猜疑の目を和広に向ける。改めて考えると和広は彼女の内包する十七の人格の内、たったの四人しか会っていないのだ。殺人鬼や、岬の話に出てきた「凪」を入れても半分にも満たない。
「はい」
「そうか・・・・。確かにその人格達は、比較的よく表にでる子たちだ。その子たちしかでてこないということは、君は随分と紳士的に彼女に接していたようだね」
 彼の視線を避けるように和広は珈琲を口にした。焦って飲んだので、カップの中には砂糖もミルクも入れていない。舌につくカフェインの苦さを我慢する。
「よく表にでる?人格は均等に表にでている訳じゃないんですか?」
 和広が彼女たちに会うときはその度違う人格だった。そのせいか和広は全ての人格が均等に表にでているものだと思っていた。
「そうだよ。元々多重人格というのは、その人が心の苦しみに耐えきれない事態に直面したとき、その苦痛を引き受けさせる役割として他人格を生み出すんだ。だから、心に苦痛がないとき、多くの人格は休眠している場合が多いんだよ。実際、彼女たちの中には五年と表に出ず休眠している人格もいる」
 五年、彼の言う休眠とはどのようなものかはわからない。だが人の心は五年も眠り続けられるものだろうか。
「勘違いされがちなんだけど、解離性傷害は、多重人格じゃなくて、苦痛や苦悩で時間を失って、記憶が飛んだり、自分も知らない間に行動してたりする精神的な遁走行為のことを指すんだよ。
 解離性同一性傷害はそれの派生。と思ってくれたらいい。心の痛みが臨界を越えたとき、彼女は時間を失って、違う人格にスイッチする。そうすることで心のバランスを保つんだ。
 勿論、日常の些細なことでもスイッチするけどね。そうじゃなきゃ病気じゃない。日常生活に支障を来さない異常は、病気じゃないんだよ。」
 岬が言っていたことを思い出す。時間を失う。痛みから逃げるために、自身を心の中に閉じこめてしまう。その間の耐え難い苦痛は、引き受ける専門の人格が請け負う。
「彼女に何があったんですか」
 駆け引きや前置きはいい。和広は踏み込んだ。心理学の講義を受けるために、彼の誘いに乗った訳ではない。
 男に触れられるだけであれほど恐怖してしまう彼女の過去を知る必要がある。
「意外に君はせっかちだね。
 その前に聞きたいんだけど、君は彼女たちの主人格に会っていないんだね?」
 主人格?美空のことだろうか。彼女たちは自分が多重人格だとは言ったが、誰が主人格なのかは話さなかった。
「美空のことですか?」
 熊田に問いかける。
「いいや、違うよ。彼女の正式な戸籍名は、霧谷月海。それが彼女の主人格であり。数多の人格を生み出した、最初の一人だ」



 お姉ちゃんに抱きしめられた日から、和広は朝ヶ丘にいくことを躊躇っていた。
 抱きしめられたとき、不思議と嬉しい気持ちはなかった。それよりも何故か恐ろしいと感じてしまったのだ。
 密着。束縛。依存。人が人を頼るとき、どちらの側も深層をさらけ出してしまう。人間の奥底は複雑なようでいて、単純で移ろいやすいものだ。
 和広は、怖かった。未成熟な心は、お姉ちゃんが自分を頼ってくるという重みを無意識に理解し、逃げたいと震えていた。
 お姉ちゃんにどう接したらいいのだろう。彼女は苦しんでいる。和広に助けを、支えを求めている。十年生きて初めて理解する、依存されるという恐怖。
 朝ヶ丘に行かず、気が付いたら三日たっていた。ただ、部屋の中で扇風機の風にさらされながら答えのない物思いに耽っていた。朝になったときが一番怖かった。
 タオルケットの中で和広は動けなかった。行かなければお姉ちゃんは落胆し、あるいは和広に対し怒りを覚えるかもしれない。だが、起きあがれない。生まれたばかりの赤ん坊のようにタオルケットくるまって、その場しのぎの安心感に包まれる。
 問題を先延ばしにすればするほど、深刻化することくらい分かっていたが、刻まれていく時間を後ろめたい安堵に変わっていくのを、心臓を締め付ける後悔とともに感じていた。
 自分は最低な奴だと思った。お姉ちゃんが好きだと言いながら小さな恐怖一つで膝を折っている。それも殺されたり、罵倒されたりする恐ろしさではなく。人と関わるという生きる上で最も大切な行為に怯えている。
 時間と共に、後悔と焦燥は大きくなる。お姉ちゃんは今も苦しんでいる。
 和広は起きあがる。足が別の意志を持っているのではないかと思える程重い。心臓は縮こまり、息をするのも難しく思えた。
 だがそれは、自分を騙すために自らが演じているにすぎない。仮病とどう違うというのだろう。
 やがて覚悟を決めて、朝ヶ丘に向かった。ただ青と岩が織りなす世界に入る。
 ふと、この場所がいつもと全く違って見えた。
 それまで朝ヶ丘とは単なる場所だった。自殺名所だと言われても、保護された人たちを遠くから見ても、そこは少し特殊な観光名所だとしか思わなかった。だがその時から、あらゆる絶望の終着駅である自殺の崖が、美しく壮厳で、恐ろしいものに感じられた。
 キリストが登ったゴルゴダへの道よりも柔らかで光に満ち。釈迦が入滅した沙羅の林よりも厳しい、涼やかな処刑場。
 お姉ちゃんはまだ、崖の先端にうずくまっていた。ひときわ大きな岩の固まりがせり出したような形をしているそこは、自らの人生を省みる懺悔の場のようにも見えた。
 和広は言葉を探した。友達と会話をしてこなかった和広のボキャブラリーは多いわけはない。
「おねえちゃん・・・・」
 やっと出たのはそんな言葉だった。彼女はずっとこの場所で待っていたはずだ。三日と言葉にすれば短いが、朝の冷めた孤独な時間。彼女は死の隣で、己の過去を自分だけで見ていたのだ。
「和広君。三日間どうして、来てくれなかったの?」
 まるで、機械のような無機質な声、だがそれは感情を押し殺したもので、漏れ出た非難に身体が締め付けられるような錯覚に陥った。
「ごめん、なさい。ちょっと宿題が忙しかったんだ」
 嘘を言った。自分でもこんなにスムーズに口に出ることに驚いた。それが一層和広を自己嫌悪に追いやった。
「そう・・・・・・。ねえ、和広君。隣に座って?」
 言われるまま、隣に座る。岩のひんやりした感触を服越しでお尻に感じた。目の前には、海と空の青が、朝の空気の中解け合っていた。
「月海もね。宿題は夏休みの最後まで残す子なのよ。去年だってそうだった」
 お姉ちゃんは口を開いた。驚きに頭が明確になっていくのを感じた。わずかに残った眠気は完全に消えた。彼女が最近の月海の話をするのは初めてだったからだ。
「私、馬鹿だから、月海が六歳のときに離婚したの。お金とか、権利とかは一切関係ないただの行き違いだったけど。若い私たちには大問題だった。恋とかは和広君にはまだ早いのかもね。でも、恋することと、愛することと、一緒に生きることは全然違ったんだ」
 お姉ちゃんが離婚していたなんて初めて知った。彼女の話の中に夫の話が出てこなかったことに疑問は思っていたが、深く追求することはなかった。
「法律は結構女性の味方で、月海の親権となけなしの養育費を貰うことは出来た。けど、身体が弱くてずっと専業主婦してた私に、一人で二人分の生活を養う力も、精神力もなかったんだ。
 だから再婚したの。仕事場で知り合った、金銭に余裕のある人と」
 語尾が震えていた。先程の、離婚の話の時もなかった怒りとも、悲しみとも着かない劣情。
「でもね。それが、失敗だったんだ」



「霧谷月海、母親が再婚する前の姓は長瀬だ。
 母親の長瀬葵と離婚した元々の父親は、お互い美大生で学生結婚だったそうだ。まあ、イメージで言って申し訳ないが、出来婚だったんだろうね。経済能力の低い学生同士の結婚でありえるのはそれしかない。両親も大反対したそうで、駆け落ち同然の結婚だったみたいだ」
 熊田の言葉に和広は呆然としていた。予感はずっと前からしていた。だが、そんなことはないとずっと考えていた。
「どうしたんだい?和広君」
 熊田は和広の様子がおかしいの察し、話を中断した。
「だ。大丈夫です」
 和広は言い。珈琲を一気に流し込む。人肌の温度になった珈琲の苦さが和広をこちらの時間に引き戻した。視線を熊田に戻し、続きを促す。
「だけど、そんな二人も仲が悪くなっていった。母親の葵さんは、元々身体の強い方ではなかったから、父親が必死になって働いた。ちょうど不景気が本格的に始まった時期でね。余程の仕事に就かない限り、共働きしないと核家族はつらい時代だった。
 母親は彼女なりに何とか役に立とうと、月海にかなり厳しい教育をしたらしいよ。結構ヒステリックで精神的にも弱いところがある女性だったからね。責任感と、夫に対する罪悪感で必死だったんだろう。
 父親の方は元々デザイナー志望だったらしい。だけどデザイン業の不安定な収入じゃ、家族を養えないのは目に見えている。だから仕事を選ばず働いたらしい。どんな仕事かは聞いてないけど、禁止されていたアルバイトの掛け持ちもやっていたらしいし。
 それで結局行き違い。娘のことを省みない夫と、夢をあきらめさせ、自分の給料を食いつぶしていく妻と子。世間は子供のことを考えろというだろうけど、心を磨耗させた人にそんな余裕を強要するのは寧ろ罪だ」
 今の時代では、夢を追いながら家族を養うことなど無理なのだ。当たり前のことだが、画家を目指す和広の心にも針のように突き刺さった。
「その時点で、月海の自我は解離し始めていた。最近零歳教育なんてものがあるけど。あれは正しくやらないと、子供に妙な先入観や恐怖心を与えてしまいかねないからね。葵さんはやり方を間違えた。
 それから、解離のしやすさっていうのは個人差があるんだ。勿論環境によって起こるものだけど。個人の資質も関わってくる。その点で、月海は多重人格に対しての適正は高かったわけだ。
 後、これは直接聞いた訳じゃないけど、長瀬葵さんは、幼い頃に親から虐待を受けていたらしくてね。半ば絶縁に近い状態で、家を飛び出したそうだ。
 白雪姫コンプレックスって知っているかな?子供の頃に虐待された母親が、自分の娘に対して同じよう虐待してしまう症候のことだよ。葵さんはその気があった。
 と、様々な因子が重なり合って、月海にかかるストレスは増えた。そして母親も、本人すらも気づかないところで、解離性同一性障害を発症させたんだ」
 自分より美しい娘の白雪姫に嫉妬し、毒の林檎を渡した王妃。王妃はその罰として焼けた鉄の靴を履かされ、命つきるまで踊らされる。親が子を傷つけることはそれ程までに重い罪なのだろうか。
 お姉ちゃんは、月海を壊してしまったと言っていた。それはつまり、自分が娘を虐待し、精神病を患わせてしまったことだろう。
 それが彼女の母としての罪のひとつ。
「主人格の月海があそこまでなったのは、その、母親のせいですか?」
 今なら、何が起こったかわかる。あのときお姉ちゃんも意味のまだ分からない和広に教えてくれた。それらが符合していく。
「違うよ。悪化させた最大の原因は、葵さんと再婚した男だ。
 娘と二人で暮らす経済力のない女性と、結婚適齢期を過ぎた男性の結婚。打算的だけど、これも愛の一つだ。
 問題は、その男は財力はあったけど。同時に小児性愛の気もあったことだ。
 再婚した相手の幼い連れ子の少女と、小児性愛者。どんなことが起こったか、ここまで言えばわかるだろう?」
 熊田はハーブティーを口に運ぶ。精神科医である彼はこのような事例など日常会話のように聞くのだろう。だが、催す嫌悪は決して慣れるものではないようで、顔にはやるせない表情と皺が現れていた。カモミール特有の心を落ち着かせる香りが唯一の救いだった。



「再婚したあの人は優しかった。前の夫にはなかった安心感があった。でもそれは見せかけだったの。人は外見で判断しちゃいけないけど。私は外見しかみれなかった。
 あの人は、私に本当によくしてくれた。悪い人じゃないんだよ。
 でも、彼が、壊れかけの月海を、完璧に壊しちゃったんだ」
 お姉ちゃんは震えていた。月海が何をされて「壊れた」のか和広に教えてはくれなかった。きっと子供には早いことなのだと和広は思った。
 それは少しずるいと思った。子供だって色々考えている。幼稚な自信だったが、自身そのものを否定されたようで、つらかった。
「それで、月海はどうしたの?」
 月海は「壊れた」その状態がどのようなものか和広には見当も付かなかった。だが、無事ではないことくらいは理解できた。
「今、月海は入院しているの。普通の病院じゃなくて、心の病院に。
 本当は私がついていなくちゃいけないの。でも私、怖いんだ。自分の娘なのに、大切な家族のはずなのに。
 あの子の何も映してない目が、私を怯える姿が、狂ったように叫んで、ものを壊して、私に包丁を向けることが!
 親なのに、受け止めなきゃいけないのに!あの子を守らなきゃいけないのに!怖かったの!あの子を抱きしめるのも、夫に話を付けるのも、全部!全部!」
 彼女は、全ての責任から逃げていた。今まで積み上げてきた大事なものに恐怖を抱いていた。
 細い指がお姉ちゃんの綺麗な顔を覆う。泣いているのだと分かった。しなやかな指が受け止めきれなかった雫を地面に落とす。余りに小さく、悲しい宝石。
 和広は言葉をかけることが出来なかった。彼女が経験した重みを和広は知らない。だから半端な慰めなどかけることができない。上辺だけの言葉など、苦痛を逆撫でするだけだ。
 言葉にできない代わりにお姉ちゃんの手を握った。人は暖かいものに触れると安心する。今は夏で、その熱さえも鬱陶しさを覚えてしまうかもしれない。だが、心が凍えたときそんな物理的な暑さなど関係ない。
 波の音が聞こえる。寄せては返し、永久に止まることはない。人間の悲しみはいつかは止まる。涙もいつかは枯れる。お姉ちゃんは長い時間をかけて、泣くのを止めた。
「和広君。人ってどうしようもないよね。
 好きだから一緒になって、耐えられないから守って、大切だから側にいて、思い通りにならないから投げ出して。誰だって自分が一番なんだ。命をかけて守ろうと思った自分の娘だって、いつの間にか、全然違う、怖い存在になってた」
 泣くことは人間のストレスを軽減させる。想いという厄介なものを背負った人間が持つ防衛手段だ。だがストレスが減り、少し冷静な目が絶望しかない世界を捉えたとき、人は何を思うのだろう。
「和広君。君の書く絵はとても綺麗だよ。見るだけで、私の心は救われたんだ。
 ねえ。和広君は私のこと見捨てたりなんか、しないよね?」
 彼女の瞳には、光がなかった。
 絶望しかない泥の中で、弱々しい藁を見つけたとき、人はどんな希望を抱いてしまうのだろう。


「・・僕が月海の病気と関わったのは、月海が学校内で傷害事件を起こしたときだ。渡辺くんがその件を担当していたから、昔からの繋がりがあった僕にお鉢が回ってきたんだよ。
 葵さんの手には包帯が巻かれていたよ。おとなしかった月海が急に包丁を持って暴れたそうでね。今でも鮮明に覚えてるよ。恐怖と愛情に揺れ動いていた若いお母さんの顔をね」
 愛娘の異常行動。母親の彼女はどんな心境だったのだろう。厳しく躾たのがいけなかったのか。再婚がいけなかったのか。たった一人の娘のために人生を捧げたのに、その娘が自分を傷つける。シジフォスの罰のような理不尽な痛み。
「解離性障害に限らず、精神病の治療において一番大切なのは周りの人間のサポートだ。他人から歪められた心は、他人でしか癒せないからね。
 彼女は間違いなく母親だった。教育の方法は間違っていたかもしれない。でも、娘を思う気持ちは本物だった。治療に対して不器用ながら熱心に取り組んでいた。
 でも障害が大きすぎた。治療の上で明らかになった再婚相手の月海に対する性暴力。月海の交代人格の異常行動。根気が必要な対話。戸惑いながらも、彼女は戦っていた。
 当時、日本では多重人格に対する認識が薄かった時代だ。僕自身も最初、月海が多重人格だとはっきりと診断できなかった。そうした症例に会った前例もなかったしね。先の見えない治療の中、彼女は本当に立派に母親として月海に接してたよ。
 ・・・だけどね。人間の心はそんな頑丈には出来ていないんだ」
 熊田が顔を歪める。精神科医にとって患者の治療より厄介なものは、患者の周りの環境の改善なのだろう。周りの環境が患者の心を傷つけてしまうのなら、いくら患者の心を直そうとしたところで、また歪められてしまう。
 医者はあくまで他人だ。特に日本では患者の家庭に深く関与することは難しい。だから、一番理解ある保護者に家庭の環境の改善は任せるしかない。
「葵さんは失踪した。愛娘を一人おいてね。でも僕に彼女を責めることは出来ない。彼女も限界だったんだ。元々、苦しみをため込む人間だった。その手の人間の心はね、曲がるんじゃなくて折れるんだ。
 夫とも険悪になったらしいし、全てを放り投げたくなったんだろう」
 そして、失踪した霧谷葵、お姉ちゃんが辿り着いたのは、この町、正確に言えば朝ヶ丘だ。
 そうして和広と、長瀬葵は出会った。全てを放り投げ、罪に怯える母親と、何も分からない少年は、皮肉にも死に最も近い場所で交差した。
「その母親は、その後見つかったんですか?」
 彼女の結末を和広は知っている。だが聞かずにはいられなかった。喫茶店の窓から見える町並みはすでに夕焼けの赤に包まれている。
「この町で見つかったよ。死体になって。君も朝ヶ丘の近くに住んでいるのなら彼女をみたことがあるのかもしれないね。
 でも、覚えていないか。年間で十数人も死んでいるこの町では」
 熊田はハーブティーを呷る。和広の珈琲は無添加のまま冷めていた。
 覚えている。セピア色ですらなく鮮やかな青を携えて、その記憶は和広の心に居座っていた。


 何かに縛られるように、その日も朝ヶ丘に向かった。何度も通った。
 行きたいという気持ちはもはや無かった。行かなければならないという強迫観念に突き動かされていた。
 だが、それも解放されるときが来た。和広が持っているラジオ体操のカード。その空欄が後一つになっていた。
 夏が終わる。ただ涼しさを感じさせていた涼風が冷たい感触をはらみ、森を支配していた虫の声が遠くなる。
 最後の日も、和広はお姉ちゃんの隣に座っていた。その距離は余りに近く、肩が今にも触れそうだった。だが完全に身体を接触させたりはしなかった。人は互いを信頼しなければならない、友情や愛情、綺麗事といわれる言葉は多い。だが和広は、段々と、人と人が関わるときに必要な距離を感じ取るようになっていた。
 お姉ちゃんは和広にもたれ掛かろうとして、躊躇う仕草を繰り返す。それは支えを失った若木のようであり、生そのものを依存する宿り木のようでもあった。
「和広君。私、生きてて良いと思う?」
「大丈夫。当たり前だよ」
 お姉ちゃんは最近、このような質問ばかりしていた。それは真面目に考えて欲しいわけではない。ただ、自分の存在が間違っていないと肯定して欲しい故の問い。
 絹のような髪が潮風に遊ぶ。幼子の舞のような無秩序な動き、彼女は乱れた髪を直すこともしない。あるがまま、風に翻弄され、波の言葉を溶かし、ただあるものとしてそこにいた。
「お姉ちゃん。僕さ、明日から学校だから、ここには今までみたいにくることは出来ないよ」
 寂しさと一抹の安心感を覚えた。お姉ちゃんと会いづらくなるのは確かに悲しい。だけど、お姉ちゃんと少し距離を置くことに安堵する自分がいることを和広は必死にみないようにしてきた。
「学校でも、朝早くすれば毎日会えるでしょ?」
「学校遠いし、宿題もあるから、毎日はちょっときついよ」
「じゃあ、夕方は?」
「店の手伝いしないといけないから」
 詭弁だ。和広は宿題に真面目に取り組むような優等生ではなかったし、店を手伝う健気な息子でもなかった。
「じゃあ、週に何日会えるの?」
 お姉ちゃんの声には余裕がなかった。地獄で見つけた蜘蛛の糸に手を伸ばすように、和広が離れないように言葉の網を必死に掛ける。
 和広はお姉ちゃんのことが嫌いになったという訳では勿論無かった。ただ、彼女と関わることが、自分の身体に鎖を縛り付けるような繋がりをずっと背負わなければならないことになると思った。
 人は他人の全てを背負えない。和広のような小学生ならば尚更だ。どれほど苦しい境遇だろうが、結局は自分で立つしかない。
「一日、二日くらいかな。実際始まってみないと何とも言えないけれど」
「和広君は私のこと嫌いなの?」
 お姉ちゃんが迫る。脈絡のない、緊迫した質問。
「嫌いじゃないよ。大好きだよ。でもぼくは小学生なんだ。学校行かなくちゃ、いけないんだよ」
 半分言い訳で半分本当だった。岸や、少ない友人がいる小学校は和広にとって普遍的な日常の象徴だった。いくらお姉ちゃんが大切な存在でも、日常を捨てることは出来ない。
「好きなら、毎日ここに来て。お願いだから。もうこの前みたいに怒鳴ったりなんかしないから。何でもするから。お願い」
 和広は答えられなかった。言いくるめられるだけの論理も、口車もなかった。
 何でもするという言葉が方便だとはわかる。だが、和広は怖くなった。お姉ちゃんが自分の決定権を和広に委ねているということだ。 
「和広君まで、私を見捨てるの?」
 お姉ちゃんの声音に浮かんだのは非難ではなく懇願だった。彼女はなぜ和広に執着するのは分からなかった。しかし、他のどんな繋がりよりもこの少年との繋がりを大事にしている。
 だが一方的な絆の押しつけは、互いの人生を狂わす。
「見捨てないよ。でも、お互いの人生があるでしょ?あんまり深く関わったら僕も、お姉ちゃんも、お互い足引っ張っちゃう」
 和広はそれをずっと感じていた。他人を背負う重さ。完全に理解はしていなくても、感じていた。
 しかしそれを他人に伝えるのは拒絶するのと同義だ。例えどんな柔らかなレトリックに包んでいたとしても。
「やっぱり和広君も、私のこと嫌いなんだね」
 お姉ちゃんは呟いた。人は物事を二元化してしまう。善と悪、右と左、世界と自分、好きと嫌い。だが二元化を咎める側も、非難することに逃げているにすぎない。
「嫌いじゃないよ」
「同じことじゃない!」
 甲高い声が潮騒を切り裂く。青空を割るような魂の叫び。
「結局皆、私とは関わりたくないだけじゃない!あの人も、月海も、和広君も、なんで私なんかと関わったの。どうせ逃げてしまうのなら、最初から会わなきゃ良いじゃない!最初から冷たくすればいいじゃない!
 希望を抱かせて、最後は逃げるの?置いていくの?私は一体どうすればいいのよ!
 もう帰ってよ!帰って!
 私から、帰って!」
 お姉ちゃんは和広を座った状態で、森の方に押した。狂乱していて、全てを拒絶する子供のようだった。
「おねえちゃ・・・」
「帰ってよ!」
 何度も同じやりとりを繰り返した。和広がなだめ、彼女が怒る。結局、彼女が和広を許すことはなかった。日は高くなった頃、ついに和広は折れた。
「・・・また、明日くるから」
 弱々しい声でそう言うのが精一杯だった。お姉ちゃんはまだ背を向け、崖から海をみている。もう何も言いたくないようで、言葉は何もなかった。
 和広は何度も振り向きながら、朝ヶ丘を去った。心の奥に突き刺さるような痛みとともに、妙な開放感を感じてしまっていた。
 人は結局、一人なんだと、心の端で気づいてしまった。



 目覚ましがなる。夏の湿気を含んだ空気はまだまだ去ることはなさそうだった。日付と月が変わってもそれは人間の事情であって、世界は区切りも曖昧に移ろっていく。
 眠気眼の和広は、窓から射す光とともに、まとめておいたランドセルを確認した。宿題は完璧に出来たとまでは言えないが、言い訳でどうにかなる程度には済ませている。
 行く。とは伝えていたが、本当に行った方がいいのだろうか。惰性のような躊躇が和広を捉えていた。
 まだ、お姉ちゃんが怒っているのなら、まだ、側に行かない方がいいのではないか。
 眠気以上に、そのことが和広を布団に縛り付けていた。
 このまま、登校時間ギリギリまで、眠ってしまおう。そうしたら、嫌なことを考えなくて済む。少なくとも今は。
 ドン!ドン!
 突然聞こえた音に強引に意識を覚醒させられる。家の、それも店の扉をたたく音だ。まだ開店する時間には早すぎる。迷惑な客か、あるいはこの家の住人に用があるのか。
 その音が止むと、次に和広の部屋の扉がノックされた。
「和広、秋月さんが呼んでいるよ」
 母の声だった。秋月というのはママのことだ。こんな時間に一体なんだというのだ。
 ガラス戸を開ける。早朝の光の中、残り僅かな命の朝顔が萎れながらも咲いている。朝顔の植木鉢の隣には、息を切らしたママがいた。
「どうしたんだよ。ママ・・・。こんな時間に」
 頭は眠気から解き放たれていたが、身体はそういかない。
「あんた。葵さん知らない?」
 せっぱ詰まった様子でママは聞いた。
「知らないよ」
 今朝はまだ会っていない。昨日の朝、別れたっきりだ。
 ママは息を整えた。
「あの人、死ぬつもりだよ」
 冷静な言葉が、場を支配する。
「え、え?」和広は情けない声を出す。
 お姉ちゃんが死ぬ?そんな、昨日喧嘩したからって。
「私が起きたら、宿泊代としてのお金と、置き手紙があったよ。」
 ママは紙を和広に見せる。


 秋月鈴さんへ
 今まで、短い間でしたけど、ありがとうございました。
 宿泊代をお返しします。
 この町にきて、鈴さんや、和広君、沢山の人に出会って、こんな私でも、救われた気がしました。
 でも、結局、私は逃げていただけでした。
 ですが、私にはもう償いをする資格すらありません。
 立ち向かう先に償いがあるのなら、逃げた先には罰があるのでしょう。
 私は、馬鹿で愚かな自分を裁こうと思います。
 止めないで下さい。
 自分で死ぬ権利くらい、許して下さい。

 本当にありがとうございました。
 
 PS 和広君へ

          ごめんね


「あの子、本気だよ」
 何度も書き直した後があった。それだけ、彼女が本気で終わらせようとしていることが伝わってきた。
「ママ、お姉ちゃんが家を出たのはいつ?」
「分からないよ。さっき私が起きたときにはもういなかった」
 まだ六時半程だ。いつも朝ヶ丘で会っていた時間だ。まだ大丈夫。根拠はないが、確信した。
「私はこの先の崖をみてくる。カズ坊も、思い当たる場所を探して!」
 ママはそう言って朝ヶ丘への道を走っていった。まだ空いていないお土産屋の閉じたシャッターが、この時間をどこでもない時空に閉じこめているようだった。
 店から、父と母が出てきた。どうやら、会話を聞いていたようだ。和広と顔も知らないお姉ちゃんとの関係を問いただすこともなく。ただ
「俺たちも探すぞ」
 ただそう言って、同じように朝ヶ丘に向かった。
 取り残された和広は、確定に近い予測をたてていた。ママや、両親が行った方向ではない。自分と、お姉ちゃんだけが知っている秘密の場所。
 間違いなく、あそこにお姉ちゃんはいる。
 迷う余地はない。和広は大人たちが行った方向とは全く違う裏道に入った。
 人は何のために生きるのか。他者の為か、自己の為か、エゴの為か。人が涙する物語は献身的な自己犠牲が多い。自分すらなげうつほどの自己犠牲で愛する人を助ける。支える。だがそれは本人にとって最良の選択なのだろうか。
 誰かの為にと人は言う。歌は歌う。言霊は紡がれる。だが、大切なものと自分を天秤に掛けたとき、大切なものを選ぶのは果たして正解なのだろうか。
 和広は狭間に立った。一歩足を出す度に、砂利の音がする。
 岩と青が境界を、地面と空が生と死を分ける境目の場所。朝ヶ丘。そこにはこの夏に出会った愛しい人がいた。
「こないでって行ったでしょ」
 お姉ちゃんは和広に背を向けたまま呟く。
「お姉ちゃん、死んじゃ駄目だよ」
 和広は言った。叫んだつもりが、弱々しい声にしかならなかった。
「あなたに私の何がわかるの」
「そんなの何も分からないよ!」
 分かるわけがない。僕とお姉ちゃんは違う人間だ。ふれ合うことは出来ても、その人自身になることは出来ない。
「じゃあ、あなたに私を止める権利はないわ」
 お姉ちゃんが振り返る。その瞳は凍っていた。涼しげに、悲しげに。
「私の人生だもの。終わりは、私がつける。誰も何も、止めることは許さない。生まれることが自分で選べないのなら。死ぬ自由くらいはあってもいいでしょう?」
 手を広げた。風を受け止めるように、世界を拒むように。
「そうだわ。あなたが私を生かそうとする権利があるのなら、あなたを連れて行く自由も私にあるはずよね」
 お姉ちゃんは後ろに歩いていく。朝日を背にするその姿は、どこか神々しかった。
「駄目だ!待ってよ!」
 和広は走り寄ろうとする。死と生を区切る境目は彼女へ残り三歩というところまで迫って来ている。その状況が和広を急がせた。
 言葉の意味も深く考えないままに。
 和広は手を伸ばした。小枝のような細い腕。届かない。死を踏み越え、青に溶けようとする彼女には、腕は到達できない。届いてくれと強く願った。
 ふいに、手首を捕まれ、前に引っ張られた。予想外の出来事に、和広はそのまま前に倒れそうになる。
 お姉ちゃんの手だった。
 バランスを崩し、和広は倒れながら、死の境界を乗り越えた彼女をみた。
 左手に激痛が走る。倒れた衝撃を左手でもろに受け止めたせいだ。肺にも衝撃が走り、咽せる。それと同時に右手にあり得ないほどの重量が貸せられる。崖で身を乗り出した体制で倒れ込んだ和広は、右手に掴んでいるものを激痛の中はなさまいとした。
 崖から落ちた彼女が、宙に浮いた状態で、和広の右手を掴んでいた。
「なん・・・で・・。お姉ちゃん・・・」
 激痛にうめきながら、聞く。右腕にはこれまで経験したこともない負荷がかかり、体中は岩に打ち付けられ、痺れていた。
「一緒にいこう?和広君」
 昨日の、助けを求める瞳で、お姉ちゃんは言った。
「やっぱり、一人は寂しいよ」
 引き上げようとした。だが上がらなかった。小学生が成人女性を引き上げる力など持っている訳もない。なんて非力なのだと和広は思った。
「何、いってるんだよ!死んじゃ、だめだ!」
 叫ぶ。彼女から動かなければ、引き上げることは不可能だ。
「ねえ。和広君。私ね。人生を間違いすぎたの。だからもう、正しく生きることは無理なんだ。誰かと関わって、弱さを打ち明けることも、娘を裏切った私には無理なんだ。
 でも、でもね。寂しいんだ。死ぬときになっても、寂しいの。もう全部おしまいなのに。
 和広君。あなたは、私と同じ、生きていても仕方ないと思っているんじゃないの?岸君みたいに人にとって必要な存在じゃない自分は、いらないって」
 お姉ちゃんを掴む手に力が籠もる。お姉ちゃんが言うような虚無感を和広はずっと感じていた。痛みとそれらがまぜこぜになって力を奪っていった。
 腕が、震える。
「和広君。一緒に、行こう?」
 お姉ちゃんの絞り出すような声。死を目前とする恐怖でかすれ震えている声。恐怖に勝る寂寥。
 震える手のひら。それは重さのためか、彼女の思いに同調したのか分からなかった。
だけど。
「・・・・僕は、死にたく、ない」
 命を絞り出した。殆ど無意識に、その言葉を発した。自分がいらない存在だと感じていても、それでも、生きたかった。
 僕は人間なんだから。
「そう、だよね」お姉ちゃんはあきらめたように吐息と言葉を吐き出す。
「おねえ、ちゃんも」生きて欲しかった。どんな理不尽な現実があっても、どうしようもなく自分が嫌いになっても。
 だけどお姉ちゃんは、首を振った。
「私は、もう手遅れ。疲れちゃった。でも和広君。君には可能性がある。君の絵は綺麗だし。君の言葉は誠実だった。
 ごめんね。和広君。ここまで、付き合わせて。でもやっぱり一緒にいきたかったな」
 お姉ちゃんは手を振り払った。限界に来ていた和広の手は、いとも簡単に離される。
 お姉ちゃんが落ちていく。潮騒の中を、遠い空間を。瞬きすら出来ない短い時間。少年は瞳に、その刹那を焼き付けてしまった。
 厳格な岩と海の間、彼女は飛んだ。
 ――ごめんね。月海
 そう、最後にお姉ちゃんは呟いたように見えた。
 ノイズのような波音の中、人が潰れる音がした。


「君は、葵さんと知り合いだったのか」
 熊のような精神科医は言った。和広は黙っていた。簡潔に、だが心をえぐり出しながら、幼い日のことを熊田に話したせいで疲れていた。
 熊田に話したのは、利があると判断したからではない。堰を失って流れ出た記憶を他人に打ち明けなければ耐えられなかったからだ。
「そうか。君が、彼女の最後をみたのか」
言葉が和広を抉る。見ていただけだ。長瀬葵という人間の最後の刻を。その命を引き上げることもできず。
「ありがとう。少なくとも彼女は最後まで孤独じゃなかった」
 なのに、熊田は礼を言った。それが一層記憶を重くした。
 あの後、和広は朝ヶ丘でずっとうずくまっていた。血の匂いもせず、いつもと同じ潮風が強く吹く中、両親とママが見つけるまで、動けなかった。
「同じことです」
 救えなかったことは変わりはない。生きてさえいればと今更言っても、この世の言葉は彼岸に届かない。
「自分を責めるべきじゃない。本来、他人ができることなんてたかがしれているんだから。誰も最良の選択肢なんて選べないよ。未来をみることはできないからね。世界には神様も、ラプラスの魔もいないのだから」
「はい・・・」
 和広は生返事を返す。たかが知れていても、可能性があったことには変わりがない。未来が見えなくても、予想がつくことはできない訳じゃない。物語の主人公ならば最良に至る機会を逃したりはしない。
「そろそろ、帰った方がいい。明日も彼女と会うんだろう?」
 熊田は和広に気を使ったのか、会話を打ち切った。
「はい。そうしますよ」
「僕も行きたいところだけどね。残念ながら、彼女たちは僕を信じていない。拒絶しているのは数人だけど、一人として彼女をみたときの僕の信用は良くない」
「何をしたんですか?」
 和広は尋ねた。つかみ所のない男だが、他人を傷つけることはしないように見えた。
「治療のときにね。深く聞きすぎたんだよ。多重人格っていうのは珍しい症例だから。焦ってたんだと思う。患者との信頼を大切にするのが、基本なのにね。」
 熊田は詫びるような顔をしていた。
「精神科医っていうのはね。マゾヒストとサディストの両方の面を持っていなくちゃいけないんだよ。じっと患者の言葉を引き出すために待ち、その苦しみを主観的に思う側面と、相手の心的外傷に惑わされない厳しい側面。僕と月海はかなり長い間一緒に治療してきたから。いつしか、彼女の苦しみに僕が同調するようになってしまったんだよ。
 長く治療するということは、患者と親密になっていくことは避けられない。彼女たちは主治医に対して好意を抱いてくれる。良くも悪くもね。人格が別れている分、人間としての深みが薄いんだ。だからすぐに他人に依存する。
 好意の種類も人格によって違う。美空や出海は親愛に近い好意を抱いてくれた。治療について賛成してくれたし、治療の最終的な目標、人格統合へのプロセスを一緒に検討したりした。
 だが他の人格は僕に患者と医者との境を越える関係を幻想していた。
 岬は僕に父親を夢見ていた。ハグをしてくれ、一緒に暮らして隣で寝てくれって頼まれたことは何度もある。断る度に泣かれたし、昔のことを思い出すと錯乱状態になった。
 八雲はこちらを逆撫でするような発言ばかりした。きっと大人の男性の象徴としてこちらを見ていたんだろうね。見捨てられないか確認するために何度も怒鳴ってきたよ。深夜二時に電話でたたき起こされたこともある。
 肉体関係を求めてきた人格もいたよ。かつての義父との痛みを再現するように、そうすれば僕が彼女を見捨てることはないと考えてね。断ると喚き散らし、こちらに暴力を振るおうとした。
 肝心の月海は、一番おとなしかった。だが一番歪んでいた。いつも怯えていて、ちょっとした物音にも過剰に反応する。僕に対して異様に下手に出る。義父や父親との関係をロールプレイすることで、無意識的に安心を得ようとしたんだろう。
 彼らと一緒に治療していく内に、治療者としての自分を見失うほど、心が磨耗していったよ。ちょうど、僕の家庭内でも問題があったしね。」
「問題ってなんですか」
「離婚だよ。今のご時世そう珍しいことでもないだろう?
 だけど彼女たちにとって離婚は不幸の象徴だ。だから八雲や、夕子っていう攻撃的な人格は、僕を見限ったのさ」
 離婚の原因については踏み込まなかった。彼も聞くなと目で言っていた。
 それより、聞き慣れない名前が出てきた。先程、美空と話しているときも出てきた名前だ。
「夕子ってこの前の殺人未遂を犯した人格ですか?」
「そうだ。八雲とは違って狂気じみた怒りを司る。八雲の憤怒はストレスの発散にも繋がるけど、夕子は壊れた怒りに分類できる。
 彼女が僕のクリニックにきたのは、小学校で傷害事件を起こしたからだけど、それは夕子がやったことだ。彼女は月海を守ろうという側面が強すぎるんだよ。岬が受け止めきれない苦痛の記憶の管理もしているしね」
 彼女は殺人未遂事件のとき、酔った中年男性に絡まれた。性的な行為が連想されるそれは、義父からの性暴行を思い起こさせたのだろう。
「とにかく、僕は彼女からの信頼を失っている。彼女たちは思い込みが激しい。それは人格自体が人間性に乏しいからだ。だから今の僕では、彼女たちを説得することは難しい。だから、月海達が今、心を開いているのは、君しかいないんだ」
 熊田は席を立とうとする。話は終わりのようだ。和広は腑に落ちない点ががあった。
「月海は何で、この場所に来られたんですか?その、父親とかは」
 月海にしてみれば、死ぬためや、それを止めるため、あと恐らく、母親の足跡を辿るためと様々な要因があるだろう。だがここにくる前の月海の居場所は今どうなっているのだろう。
 彼女に性的暴力を行ったという義父、その男はまだ彼女の父親なのだろうか。
 熊田はああ、と言っていなかったことを失念していたように言う。
「その義父なら一週間前から海外に出張しているよ。中国らしくてね。連絡をとったときかなり慌てていた。後一ヶ月は帰れないそうだ。彼は焦っている。そもそも彼は月海の治療に反対している。自分のやったことが明るみにでてしまうからね」
 和広と熊田は、店を出た。代は熊田が出してくれた。太陽と夜の境目にある空は、夕方の赤と夜の青が混ざり合って幻想的な色をしていた。黄昏を連想させる色彩に、和広は寂しい気持ちになった。
「・・・自殺って、本当にいけないことなんでしょうか」
 和広は自分の口から出てきた言葉に驚いた。だが、ずっと降り積もっていた疑問でもあった。
「自分の人生で、社会から嫌われて、どうしようもなくつらくて、どうにもならない状況で、唯一自分で選べる選択肢が、人としてのプライドが自殺なんじゃないかって、俺、思うんです」
 生きる義務があるのならば、死を選ぶ権利もあるのではないのか。
 熊田は黙った。この問いは精神科医としての根底を否定する質問かもしれない。彼はしばし考え込んだ後、顔を上げた。
「確かに、自殺する自由すら奪うのは、その人を否定してしまうかもしれない。本人にとっては屈辱的だろう。
 でもね和広君。僕たちは一人で生きているわけじゃないんだ。絶対誰かは手を伸ばしてくれている。伸ばしてなければ僕が伸ばす。絶対その人が死んで悲しむ人はいるんだ。
 何より、自殺する自分が悲しいんだよ。ただ、それに気づいていないだけでね。大切なのは、その人が悲しみに気づいて、受け入れられるかどうかなんだ。
 精神科医の仕事、人との関わりってそういうものだと僕は信じてる」
 熊田は穏やかな顔で言った。
 その言葉を臆面もなく受け入れられるか、和広には自信がなかった。
 俺は、誰かが差し伸ばしてくれた手を、素直に掴むことができるのだろうかと。

出海の章


 翌朝、美空たちは朝ヶ丘にこなかった。昨日のことを考えて躊躇しているのか。明日またくるのか、全く分からなかった。だが、お姉ちゃんはずっと和広を待っていた。自分もそれくらい待つことはできる。
 それに、今日は別の用事があった。
 黴と絵の具の混じり合った匂いが独特の空気を作り出す。朝の薄暗い美術室の明かりをつける。
 そこには、ぐちゃぐちゃに塗りつぶしたデッサンがそのまま置いてあった。
 自分でもひどいことをしたなと思う。絵は、完成したその瞬間から命を持つ。絵の中の空間は作者から離れて別の世界になる。描いた本人でも、手を加えることは無粋なことと和広は思っている。
 絵をイーゼルから離し、描いたデッサンがまとめてあるところに置く。自分でもこんなに描いていたのかと少し感心するほどの量があった。だがそれでも上達しない技量にあきれてしまう。
「なにしたんだよ。それは。何だ?色々溜まってんのか?」
 布施先生が入ってきた。和広が持っているデッサンのことを指して言っているのだろう。色々誤解を招く言い方には突っ込まないでおいた。
「ええ。これでも色々悩んでるんですよ。将来のことを」
 重い未来がずっと和広の肩にのし掛かっている。自分自身の人生だからこそ、失敗は許されない。自分でも臆病者だと思う。
「何言ってんだ。それは当たり前だろう。みんなそうだ」
 布施先生は椅子に座る。
「自分の人生に不安を抱かない奴なんていねえよ。どんな天才でも、どんなに恵まれていても、見えない未来のことは怖いんだ。
 だから努力するし。悩むんだよ。思い描いた理想や幻想が正しいのかなんて誰にもわからない。誰にも正しいなんて判断できない。だから自分が信じるしかない。疑いながらもな。
 その不安は、夢を目指す人間にとって、至極当然のことだ。だから心配するな」
 和広は、ぽんっと肩を押された気がした。確かにそうだとも思ったが、他人が乗り越えていくそれを、自分は越えられるか不安だった。
「まあ、夢は一つじゃねえし、意外と何とかなるもんだぜ?俺みたいにな。俺だって最初は教師なんてやるとは思ってなかったが、今はこれでよかったと思っているしな」
 布施先生は笑う。三十代後半とは思えないほど若々しい顔。彫りの深い輪郭。少し垂れ気味な瞳。
 朝顔が咲く時間会う少女と、面影が重なる。まるで互いの顔を参考にデザインされたかのように類似している。
 なぜ、今まで気づかなかったのだろうか。
 和広がここに来た理由。布施先生がこの町にいる理由。それはきっと偶然じゃない。
「先生。あなたに尋ねたいことがあります」
 キャンパスから目を離し、布施先生と向かい合う。教師となる前、一体何を目指していたのか。何を背負い、何を思い、何に抗おうとし、ここにきたのか。
「霧谷月海という女の子のことを知っていますか?」
 出海の頼み。彼の意図は分からない。だが、枝分かれしていた線路は合流する。和広は確信に近い思いを抱いていた。
 童顔の教師が立ち上がり、和広に迫る。
「お前、あの子に会ったのか?今、この町に月海は来ているのか?」
 肩を掴む。和広は驚いた。あの布施が狼狽している。終始相手のペースを握り、会話を進める男が、我を忘れている。
「答えろ!」
 肩を握る力が一層強くなる。逃げ出さないように掴んでいるようだった。痛みすら感じた。
「ちょっ、ちょっと落ち着いて下さい」
 和広は布施の腕を掴んだ。
「あ、ああ、すまない」
 布施先生も、我に返ったように、手を離した。
「・・・やっぱり、この町に来てたんだな」
 改めて椅子に座り布施先生はため息をつくように呟いた。
「気づいていたんですか」
「もしかしたら、程度の憶測だったけどな。商店街で起こった傷害事件。やけに解離性同一性障害について聞いてくるお前とかみてて、期待っていうか。恐れっていうか、そんなことを考えていたよ。
 じゃあ、お前、月海には会っているんだな?」
「はい。まあ厳密に言えば月海には会ったことはありませんが」
 和広は途中で言葉を切った。その後を布施先生が引き継ぐ。
「他の人格と会ったってことか」
 和広の中の仮説が補強されていく。
「布施先生。あなたは・・・」
「そうだ。俺は、月海の父親だよ」
 だまし絵のように、今まで見えなかった二人の顔の共通点が見えてくる。気づいてしまえばはっきり分かるのに、それまで気づかなかったことが不思議なほどに。
「和広、お前どこまで知っている。随分と踏み込んだことまで知っているようだが」
「話せば長くなりますよ」
 和広は前置きをおいた。拒否されても話すつもりだった。
「構わない。俺も知らないことがあるかもしれないしな」
 説明するため、今まで起きた出来事を思い返す。振り返ってみれば一週間も経っていないのだ。もう何ヶ月も彼女のことを考えていたような気がする。まるで恋人のように、あるいは家族のように。
 歩き回り、頭を使ってきたからだろうか。それとも昔の思い出を反芻したからだろうか。
 本当は布施先生に聞かなければならないことが山程あった。怒りに近い感情とともに、疑問が渦を巻いている。
 だが、先ほどの彼の剣幕に押されてしまった。それは長らく忘れていた父親だけが見せることの許される不器用な愛情だった。それは、きっと自分のお節介よりもかけがえのないもののはずだ。
 だが一つ、懸念があった。和広と月海達との関係性を説明する上で、お姉ちゃんのことを話さなければならない。すなわち、布施先生の元妻。学生結婚をしたあげく、離婚し、自殺した女性のことだ。
「布施さんこの件の前に。一つ聞いておきたいことがあります。月海達の母親、葵さんについてです」
 葵という名前を呼ぶことになぜか心が痛んだ。それは名前で呼ぶことで彼女との距離が離れてしまったように感じたからだろう。それと同時に記憶が思い出に変わったことにゆがんだ安堵を感じ、それを振り払う。
 布施は、ああと呟いた。
「君は、葵と会ったことがあるんだろう?」
「えっ」
「驚くのも、無理はないだろうな。俺は元々、葵の足跡を辿ってここに来たんだから。
 さて、どこから話そうか。知っているかもしれないが、俺と葵は、大学生の頃付き合っていた。他大学との合コンで知り合ってな。よくあることさ。意気投合して、別れて、それで終わると思っていたのに、妙に俺のことに気を掛けてくれてよ。優しい奴だった。
 それで、付き合って、子供が出来た。俺はそのとき、子供なんて遙か未来のことだと思ってたんだ。男と女がどんなことしたら子供が出来るか位理解した上でことに及んだはずなのにな。
 勿論、葵のことは愛していたけど、結婚まで考えてた訳じゃない。だが、墜ろすことは出来なかったんだ。俺たちの都合で授かった子供だが、宿った子供には罪はない。
 親にも大反対されたよ。だけど、俺たちは本気だった」
 凡そ、熊田に聞いたとおりだった。生命にとって、新たな生を授かるというのは祝福されるべきことだ。だが、人間にとって、その営みは必ずしも幸福をもたらすとは限らない。
「だけどな。覚悟って日常に埋没していくものなんだ。夢を語って、理想に向かったところで、現実と摩擦を起こしてしまう。結局俺は、元々目指していたデザイナーになることをあきらめて、持ってた教職免許で、高校の教師になった。丁度公務員の問題が叫ばれていた時期でさ。教育委員会も政治思想も、笑える程腐ってて、マスコミや地域からさんざん言われていた。給与も少なくなって、家族を養うのは困難だったよ。
 葵も最初はパートとかしてたけど、すぐ体調壊してな・・・。まあ、今にして思えばそのときが一番幸せだったよ。守る者ができて、やっと自分が大人になった気がした。でもな。そういうことを思っている時点で子供だったんだよ。
 葵も、俺も、段々と追いつめられていったよ。子供ってやたらと金がかかるんだ。葵も持病やらで病院に行かなくちゃいけなくて生活費もつらかった。今にして思えば何であんなことで喧嘩してたのかっていうくらい、怒鳴り合っていたよ。人間って、余裕がないと視野が狭くなるものだからな」
 そして二人は離婚。確かに二人にも問題はあったかもしれない。だが、坂道は本人たちが望んで通るわけではない。もう少し世界が優しければ、彼らは家族というものを壊さずに済んだのかもしれない。もし神様がいたとするなら、この哀れな家族をみて手をさしのべようとしたのだろうか。
「俺は、嫌なことからはとことん逃げちまう奴だからな。縁を切って、養育費だけ送って、結局、死ぬときまで葵に会うことはなかった」
 彼は、最小限の言葉で半生を綴る。だがその行間にはどれほどの苦悩があったか、想像できなかったが、感じた。
「その後どうしてもあいつの最後の場所に住みたくてこの町に移住したんだ。
 実は、谷川のこともずっと前から知っていたよ。新聞にも小さく載っていたしな。葵の最後を看取った人。一回話そうと思ってたが、会っても何を言えばいいか、分からなかった。聞く資格もないと思ったしな」
 美術部に入ってから、和広に気を掛けてくれたのは、彼の生来の気質もあるだろうが、死んだ妻への後悔の面も強かったのだろう。
「なんで、先生は、月海を引き取らなかったんですか?」
 親権という法制度がどのように作用するのか、和広は知らない。だが、実の父親が引き取れないことはないだろう。
「葵の再婚相手がな。がっちりガードしてたんだよ。手続きも、他も色々していたしな。
 俺も独自に多重人格障害について調べたし、義父の性暴力を理由に裁判を起こそうとも思ったが、証拠もないし、心を閉ざした月海は証言しなかった。」
 和広に渡された日焼けした多重人格障害の資料を思い出す。あれは、台風の夜調べたものではなく。彼が昔、娘のために調べたものだったのだろう。
「でもどんな障害があったとしても、俺は逃げ出したのと同じだ。結局娘も救えず、妻の死にも踏ん切りが着かない。
 正直、今もよ、会わなくちゃいけないと思っているが、娘に会うのを怖がっている自分もいるんだ。それが自分でも許せない。
 頼む。教えてくれ。月海が、いや、月海達がこの場所でどうしていたか。今、どこにいるのか」
 父親としての責務として、一人の大人として請い願う。彼に知らない権利などなかった。
 和広はこれまで出来事を話していった。
 だが和広と会ったのは、月海ではない、和広は彼とお姉ちゃんの実の娘の人格とは話してすらいない。だが、これまでふれ合ってきた人格達も確かに月海の一部のはずだ。
「・・・・その崖に俺を連れて行ってくれ」
 全てを聞いた布施はそう言った。その答えは予想できていた。彼が本当に父親であるのなら当然の思考だ。
「・・・・分かりました」
 和広は正直にいうと不安だった。彼の話ではお姉ちゃんの再婚以降、月海と会ったことはなく、解離性同一性障害について個人的に調べただけなのだ。彼女たちと交流し、何も害を与えない保証は無い。
 だが、それは、和広自身も同じことだ。出海の頼みもある。明日、彼女が来るかは断定できなかったが、いつまでも待てばいい、そう思った。
 





 人は、安心を望んでいる。それは孤高に立つものには与えられず、常に人との関わりにおいてもたらされる。孤独という安心も、対人関係を念頭において初めて成り立つのだ。
 だが、人との繋がりは流動する。愛は憎しみに、慰めは怒りに、対極にあるモノほど表裏一体である。感情は個体ではなく群体なのだ。単体で成り立つことはなく、様々な要素の中で繋がっている。表裏一体なものでも隣り合っていることには変わりない。
 美しい朝だった。夕方の世界は赤に染まるが、朝の世界は空色に染まる。澄んだ空気の中で太陽の光が真っ直ぐ延び、お土産屋が並んでいる道も、その前に広がっている雑木林も、かすかに青のベールに包まれている。
 和広は布施を待っていた。自宅のシャッターに背を預け、どこにも焦点を定めず、移りゆく時間をみている。とても静かだった。
 だが、和広の心の中は激しく動いていた。あの少女たちに、離婚した父親を引き合わせる。前置きは何もない。
 本当に会わせて良いかという困惑。時間の流れがやけに遅く感じる焦燥。今更どうにもならない決定事項を和広は何度も反芻していた。
 両親の離婚による子の重圧。精神病。今更ながら和広にとっては凄まじい程の他人事だ。生来他人に踏み込むことも、他人に踏み込まれることも嫌いな和広だ。場違いすぎて笑えてくる。
 手先が震える。それは商店街で通り魔となった月海に遭遇したときとは異なる震えだった。
 和広は、自分が嫌いだった。
 昔から思っていた。誰も心を開けない。誰にも心を開いてもらえない。それは生来自分が不器用なせいでもあるし、お姉ちゃんとの記憶も根底にある。誰と話しても相手にとってプラスにならない、終わりのない自己嫌悪をする。
 人の感情の深層に踏み込むほど、自分へのなけなしの信頼が薄れていく気がした。熊田は治療とともに治療者としての自分を保てなくなっていたと言っていた。その感覚がよく分かる。
 朝の静けさに不釣り合いな心臓の早い鼓動と格闘し俯いていると、いつか水をやった植木鉢があった。
 朝顔が咲いていた。蔓に連なる花は五。支柱に依存するように、もたれ掛かるようにして花開いている。その色は違いはあれど淡かった。他のどの種類の花も鮮やかな色であるのに対し、朝顔は水で薄めたような色だ。
 だが、その色は堂々していた。
 和広は心臓が収まっていくのを感じる。きっとみんな同じなのだ。人間って奴は、他人が強いように見えるだけで、本当は自分勝手で、自信が無いのかもしれない。
 足跡が聞こえる。虫の声もまばらだからよりはっきり聞こえた。
 布施先生だった。Tシャツと、ジーンズというラフな格好だった。だが、その表情は軽いとは言えず、重い皺を刻んでいる。十歳は老けたように見えた。
「おはよう。遅くなって悪いな」
「いいですよ」
 彼の目の下には深い疲労の色があった。恐らく寝れなかったのだろう。深く追求はせず、家の裏手にある秘密の場所への道に足を踏み入れる。
「久しぶりに子供に会うのってどんな気持ちですか?」
 和広はふと尋ねた。
「不思議なことに、うれしいと言う気持ちは少ないな。ただ、これまで何もしてやれなかったことへの後悔しかない」
 布施は答えた。



「おはよう」
 和広は、岩に腰を降ろし、背を向け海をみている少女に声をかける。まるで十年前のお姉ちゃんをみているようだった。改めてみると後ろからでもお姉ちゃんに似ていると思った。少し癖のある長い髪、小さな肩幅、自分を抱きしめるように、膝を抱えるその姿勢。当然だ。親子なんだから。
 彼女は、抱えていた膝を自由にする。その足は大きく開かれ気怠そうな座り方になる。
「遅えんだよ。和広。たまには俺らより早く来いってんだ」
 男の、しかも若い男性の口調。小さな可愛らしい口から紡がれた言葉に和広は確信する。
「八雲だな?」
「そうだよ。この前は良くも色々言ってくれたな、よりにもよって岬に・・・・」
 彼は振り返る。だが次の瞬間。その目は大きく開かれる。
「・・・・てめえ。何しにきた」
 殺気だ。和広は得体の知れない戦慄をそう感じた。
「君が、交代人格だな」
 布施は必死に感情を押さえながら答えを並べる。
「こっちの質問に答えろよ。何しにきた。今更俺たちに何のようだよ。お父さん」
 皮肉たっぷりに呟く。
「娘に、会いに来ただけだ」
「はっ。てめえに月海は会わさせねえよ裏切り者。交代して良かったぜ。俺たちを置き去りにしやがってよ」
 八雲は布施に掴みかかった。白く手首に傷が残る細い腕で、布施のシャツを締め上げる。
「待てよ八雲!布施を探してくれ言っていたのは出海だぞ?」
「あいつは、俺たちの気持ちなんか考えちゃいねえんだよ!合理的な方法ばかり選びやがる!」
 八雲は拳を振り上げる。か弱い力を有らん限り込め、布施の頬をぶん殴った。
 布施は悲しい顔のまま拳を受けた。何を言えばいいのか分からなかったのか、それとも贖罪だと思ったのだろうか。殴られた後も、彼女の前に達続けた。
「何でだよ・・・・」
 八雲はへたり込む。襟を掴まれていた布施も一緒になって岩場に膝を着く。次の瞬間、彼女は大声で泣き出した。
 まるで赤ん坊のようだった。いや、実際そうなのだろう。あれは、きっと凪だ。彼女の一番幼い人格。
 風を裂くように、彼女は泣いた。赤ん坊は悲しみも喜びも臆面無く表に出せる。だからこそ、泣いた。それは父親への怒りなのか、再会への喜びなのか分からなかった。
 布施は彼女を抱きしめた。彼には一体どの人格が出てきているのかわからないだろう。だが人格など関係ない。彼は、自分の娘を抱きしめているのだ。至らない、自信のない父親として。
 少し離れた和広に、二人の熱が伝わってくるようだった。親子ではなく、もっと原始的な、人間のあり方をみた気がした。
 やがて、泣き声が止み、少女は深みを湛えた瞳で布施をみた。
「驚かせてしまって申し訳ありません。みんなに掛かったストレスが尋常じゃなかったから、凪を出してしまいました」
 少女は、布施から離れた。いきなり他人になったかのような他人行儀。
「出海さんか?」
 和広は聞いた。自分が知る中でこのようなしゃべり方を、これ程までに冷静にする人格は出海以外に該当しないと思ったからだ。
「そうだよ。谷川君。ありがとう。やっと、この父親に会うことが出来た」
 泣きはらし、震える声でそれでも冷たく出海は言った。和広は理解した。彼は、布施の娘の交代人格であって、布施先生の息子ではないのだ。
「崇久さん。いや、お父さんと言った方がよろしいでしょうか。初めましてというべきでしょうか、僕は出海といいます。月海の人格たちの管理者のようなものです。
 僕がこの町にきたのは、あなたに会うためでした。母の昔の書類から調べ、あなたの場所を知るまで随分とかかってしまいましたが」
 この町は彼女たちにとって不自然な程縁のある場所だ。母が死に、父が逃げ、そして自分が死のうとしている場所。
「どうして、俺を」布施は訊ねた。
「あなたに義父に裁判を起こして、僕たちの親権を得て貰いたいのです」
 出海は、こともなげにそう言った。
「義父は、自分が娘にした行為が明るみにでることを恐れています。だからこそ、義父は虐待をしたし、異常者である僕たちを恐れました。だからこそ、暴力を以て、従順に無力になるように躾けたのです。
 そのかいあって、今義父は遠くへ二ヶ月ほど出張しています。怯え従う僕たちに気を許したのでしょう。もしくは異常性に恐れて距離を置いたか。何であれ僕はこの隙を好機として、親権を持ってくれる希望があるあなたを探しました。」
 出海の目にはかすかにおびえがある。十年以上離れていた実父に命を預けるような懇願をしているのだ。精神が三十五歳と設定されていても恐れるところはあるのだろう。
「わずかな手がかりを伝い、この場所を確定しました。ですが、正直この場所は避けたかった。母が身を投げた場所。僕たちの中の何人かも、ここで命を終わらせることを望んでいます。義父からのプレッシャーや、主治医の熊田先生への不信感で、僕たちのシステムも崩壊しかかっている中、僕と美空の力ではみんなを抑えきれることは困難でした。
 その辺りは、谷川くんに頼らせて貰いましたが」
「裁判を起こすといっても、大丈夫なんですか?前は義父が厳重にガードされていて駄目だったんだでしょう?」と和広は外野ながら訊ねた。
「それは、たぶん問題ない。治療もだいぶ進んだし、なにより守ってくれる父が見つかったからね。前と違ってはっきりと証言できる。僕たちの証言について熊田さんが弁護してくれるはずだ。
 なにより、この件を報道機関に流せば、多重人格障害っていう餌に食いついて大きく取り上げるだろう。そのことをあの義父は望んでいないはずだ」
 児童に性暴行。この国はその辺りの事件について容赦がない。それ故にマスメディアの格好の話題だ。しかも多重人格を発症している。裁判の結果はどうあれ、世論は義父を裁くだろう。
「僕は守護者です。霧谷月海という存在を守るためのシステムの管理人の一人。月海が脳内に作り上げた理想の男性保護者。その僕から、失礼ながら本当の父親に改めて希います。どうか再び、月海の父親になって下さい」
 お願いしますと、さらりと滑らかな黒髪が揺れる。女性らしく滑らかで、男性のように力強かった。
 布施は下げられた少女の頭の前で黙っていた。恐らく彼に拒絶する選択はないだろう。きっと誰かを背負う覚悟、一度は投げ出した肉親をもう手放さないと誓う時間。
「わかった。俺でいいなら、誓う。もう娘を離さないと」
 神聖な沈黙の後、布施は頷いた。出海は顔を上げた。
「よかった」
 そういうと、出海は糸の切れたように崩れ落ちた。布施が慌ててそれを抱き留める。
「大丈夫ですか?」焦りながら和広が声をかけた。
「あ、ああ、僕は大丈夫だ。体の方は、結構無理しているけどね。最近色んな人格が出てきて余り寝ていないんだ。ずっと気を張っていたしね。でも心配ないよ。僕という人格自体は疲労していない。僕は痛みを感じないし疲れない。ちょっと身体の方がガタがきてるだけさ」
 力なく少女に宿る男は笑った。
「君は大丈夫かもしれないが、休んだ方がいい。俺から見ても今の君の身体は疲弊しきってるぞ」
 布施は娘の身体を支えている。
 出海はまだ笑顔を浮かべている。大仕事を成し遂げた顔だった。無理もない。彼はこの時間の為にこの町にきたのだ。
 しかし、すぐ彼の表情が崩れる。それは恐怖とも焦燥とも付かない顔だった。全くの不意に驚いたかのようにも見えた。
「離れろ!」
 出海が叫んだ。珍しいなと呑気なことを考える。次の瞬間、布施が突き飛ばされた。
 不意を突かれた布施は、背と頭を大きな岩に打ち付けた。鈍器同士がぶつかったような重い音が響く。うめき声と共に布施は沈黙した。
 和広は動けなかった。思考が液体窒素に浸されたように止まっていた。その隙に、少女は和広を押し倒した。背中に衝撃が走り、石によるごつごつした感触を確かめた。
 殺気という概念を理解した。時間は隔離され、ある種の絶望の感触と共に、魂のそこから震えが起こった。
 彼女は、馬乗りになって、和広を見下ろしていた。その顔に生気はなかった。人形のような生気のなさの中、殺意だけが明確に視線となって降り注がれていた。
 この感覚を和広は覚えていた。忘れられるわけがなかった。途切れかけの街灯の下、血に塗れた包丁の切っ先を向けられたあの夜。マリオネットに形容できる狂気。
「君は・・・」
「夕子」
 即座に答えが返ってきた。微かに安心した。少なくとも会話は成立している。
 身体は動かなかった。少女とは思えない力の強さだった。
「どいてくれないか」
 一応聞いてみる。夕子の表情は動かない。捕食者は的を追いつめることに何の感慨も浮かばない。
「退くと、思う?」
 勿論思わない。耽美的な感情も浮かばない。何が起こるかまでは分からなかったが、本能的な恐怖があった。
「どうして、こんなことをするんだ」
 和広は聞いた。
「あなたのせい」
 と夕子は答えた。
 どうして、と言いながら、和広は起きあがろうとした。想像もしていなかった力だが、所詮は女性の体だ。筋力にも限界がある。
 その瞬間、力を込めた右手に砕かれたような激痛が走った。和広は呻いた。痛覚で思考が塗り潰される。
「が、あ・・・」
 目の端に右手をみると、拳大の石が、右手に妙にめり込んで置かれていた。夕子はそれを両手で不器用に持ち上げる。
「あなたは、みんなを傷つけた。岬を泣かして、美空を追い込んで。そこまでは私も大目に見た。
 だけど、あなたはお父さんを連れてきた。私たちを傷つけて、逃げたお父さんを。絶対に許すわけにはいかないのに」
 もう一度、少女は和広の右手に向かい、石を振り下ろした。鈍い音が細波の中響く。手首から先が捻切られるような激痛を味わった。
「あなたは、私たちが、何をされてきたか、わかっていない」
 息を切らし、言葉を途絶えさせながら、夕子は淡々と言う。 
「これは私たちが耐えてきた痛みの、一部。もっとしてあげようか?でもあなたは、男だから無理か」
 今度は肩に痛みが走る。倒れたところに肩を石で殴ったのだろう。
 もう五感が薄くなってきている。激痛に対しての自己防衛なのか。ただ単に痛覚の許容範囲を超えているのかわからない。
「あなた、は、私たちを壊した。今まで、私が、私たちがずっと、守ってきた月海を、私たちを」
 かすれていく音の中。頬に水滴の感触がした。涙だった。
 夕子は泣いていた。
 なんで泣いているのか分からない。朝日が眩しいからかもしれないし。だけど、その雫は温かに感じた。
 彼女は月海を守るための存在だと、熊田は話していた。初めて会った日の夜を思い出す。彼女は危害を加えるかもしれない男性に躊躇いもなく刃を向けた。人が人を傷つけるときに躊躇する本能が、彼女には欠けている。
 夕子は天秤なのだと思った。自分か、他人か。どちらを尊重し、どちらを切り捨てるか。どちらを優先するかを普通の人間は迷う。答えは自分と決まっていても、他人に意識を向けてしまうのが人なのだ。
 だが夕子という人格にはその躊躇がない。人が心の深奥で行う他者を切り捨てるという判断を瞬時に行う天秤。人に傷つけられてきた「月海」という人間にとっての、最後の守り、それが夕子なのだ。
 自分を守るために他者を拒絶する。当たり前の心の所作。その顕現である夕子が今。他人を傷つけて、泣いていた。
 なぜだろう。
 もう、意識が保てなくなってきた。なぜ、こんなに痛いのか、どうしてこんなに悲しいのか。
 自分と空の間には、美しい少女がいた。人形のような堅いその顔は世界の全てに憎悪しながら、悲哀の涙を流していた。それが、意識をかき消すどの痛みよりもつらかった。
「大丈夫」
 和広は言った。少しでも彼女の怒りが消えるように。僅かでも心安らかになるように。痛みと霞んだ視界の中、そう願った。
 夕子は何かを言っている。顔を歪ませて泣いている。謝ってはいない。ただ悲しい。そして夕子はそれを自覚できない。彼女は他人を傷つけなければならない。そういう役割なのだ。当然だ。誰も他人を傷つけずにはいられない。拒絶することで守られる世界がある。彼女はそういう存在なのだ。
 世界が薄れていく。右腕の痛みも、背中の石の感触もなくなって宙に浮いているようだった。
 あらゆるものが遠い。夕子の声や、他の誰かの声が聞こえる。ああ、この声は誰だったか。聞いたことのある声音だった。
 何も感覚がなく、朝の柔らかな光だけを感じる。空の中にいるみたいだ。海と宇宙の狭間。人との関わりも、身を千切る痛みもない。世界の全てを俯瞰する場所だった。
 意識が落ちていく。人間という存在を縛るそれらから、解き放たれる。青に溶けてしまいそうな孤独。自由だった。ただ自分自身としての存在だけがあった。
 和広は理解した。ああ、だから皆、崖から落ちるんだ。
 死と生の狭間の、刹那の永遠。何者からも解き放たれるこの一瞬、人は孤独に、救われるのだ。
 和広は落ちていく、人は翼を持たない。故に墜落する。待っているのは死という救済。空っぽの空に潰されるような感触に押され、墜落の先の、安らぎをみる。
 和広は知らずその場所を目指した。そこはあまりに涼やかで甘く、静かだった。他人の声もない。ただ風の音と、荒々しい波の音、世界のもっとも青に近い音が満ちている。自分という存在すら曖昧になる場所。
 だが網膜の裏に雫の感触と、陽の光を感じた。その光が和広の体に楔を打ち、虚空のただ中に固定した。
 和広は、そのまま、時間を失った。

潮騒の章

 青と白しかない世界だった。
 眼前には雲海が広がり、下をみることは叶わない。空はどこまでも高く、星ですら見えてしまいそうだ。上空に点在する雲は何かに急かされるように、前方に吸い込まれていった。
 この世界に果てはない。かつて航海士たちが目指した世界の最果てなどどこにもない。海がそうであるように、空もそうである。無限ですらない。無限と言うことは、すなわち有限と言うことである。無限という定義がある時点で、終わりを想定しているからだ。
 強い風が吹いている。甘く涼やかで、音は風の音しかない。静謐で、やさしい場所だった。
 どこまでも広がっている空。終わりはない、だけど狭い世界。誰もいない。空の真ん中で和広は一人だった。
 だけど居心地は良かった。誰もいない。何もない。思考を巡らす必要もない。ただ、この空に溶けていけばいい。自分は、どこにもいない存在なのだ。それが快かった。
 一瞬、空気が揺れる。雲が沸き立つ。視界の端に、霞の先を歩いている人をみた。
 白いワンピースを着た女性だった。柔らかな髪を踊らせ、雲の中を、風がゆく方向へ進んでいる。
 間違えるはずのない。幼き日、瞳の奥に刻まれた初恋の人だった。
 気が付くと和広は走っていた。追い風に押され、雲の間におぼろげに浮かぶその人を目指す。
 だが、距離は縮まらなかった。どれだけ息を切らしても、霞がかるその後ろ姿に追いつけない。
 和広は気がついた。雲を蹴っているからいけないのだ。ないものを蹴ったって、先には進めない。和広は大きく跳んだ。
 空の上だからか、思いの外高く跳べた。風に押され、彼女に近づく。もう少し、あと少しで手が届く。
 着地に失敗し転がる。雲の中転がりながらも、あのときと変わらないお姉ちゃんの姿を見失わないようにした。
 起きあがり右手でお姉ちゃんの腕を掴む。驚くほど白く細い腕だった。
 もう離さない。もう、一人にしたくない。
 だがその瞬間。和広の右腕はビスケットのように崩れ落ちた。
 和広は唖然とした。粉々の感触に気が付いたのか、お姉ちゃんは振り返った。
 彼女は微笑んでいた。悲しみも喜びも全て受け入れた顔だった。
 ――和広君まで、落ちちゃだめだよ
 そんな言葉を、確かに聞いた。
 お姉ちゃんは和広の頬を撫でた。白磁のような、冷たい手だった。
 雲が踊り、風が巻き上がる。それは死を包む凩であり、生を謳う春風でもあった。
 風は変化の証だ。気圧は停止することはない。死を運び、命を降らす。星の循環。それは輪廻にも似ていた。始まりは終わり、巡り巡る命の連鎖。
 命と死を分ける風が和広とお姉ちゃん間に割り込む。和広の右腕は、風圧で粒子となって粉々に砕けていった。
 お姉ちゃんの姿が、霞んで雲に溶けていく。プリズムのように光を乱反射しながら、目の冴える雲の冷たさと共に。
 バイバイ、と風の音の中、お姉ちゃんは言った。
 強い風が吹く。お姉ちゃんの姿は、霧散し、雲の欠片になって、完全に空に掻き消えていった。
 和広はうずくまっていた。ビスケットになって砕けた腕は、風に乗り千々となって飛ばされていった。
 偶像は消えた。終わりが決定的となって、和広の心に新しい風を通した。
 少年は泣いた。嗚咽すら漏れない、静かで重い涙だった。
 風の欠片が雫をさらう。それは幼年期の終わりを告げる西から吹く始まりの風だった。


 
 
 和広が目が覚めて最初に見たのは、真っ白な天井だった。上空を彩る白は自宅の鋪板ではないと和広はすぐ判断した。それと同時にこの場所が病院だと理解した。
 病院には独特の匂いがある。薬品と消毒液、そして無臭。これらが程良くブレンドされる。不衛生で清潔な白と相俟って独特の雰囲気を形作る。
 どこかでみたアニメーションのように、この場所にいることに困惑はしなかった。心は脱力し怠い。身体のどこからとも判断の付かない鈍い痛みが、先程から断続的に続いていた。
 だが、この病院にくるまでの前後の関係が分からなかった。どうして自分は病院の個室で、かつては誰かの血か汗かを吸ったかもしれない清潔なシーツの上に寝ていたのだろうか。記憶がはっきりとしない。過去が明瞭でない。
 とりあえず、外に出ようと思った。痛みもけだるさもあったが、動けないほどではない。両腕に力を込め、立ち上がろうとする。
 その瞬間、右手が粉々になるような痛みが走った。
 和広は呻き寝台に倒れ込んだ。声ならぬ声を上げる。痛みが落ち着き右腕をみると、幾重にも包帯が巻かれた右手と固定された右肩があった。よくみると、右手の指に針金が突き刺さっていて、一瞬血の気が引いた。
 途端、朝ヶ丘で起きたことが走馬燈のように蘇った。夕子に右腕を何度も殴られ、痛みから意識を閉じたのだ。だが、そこから病院で治療され横になっている今までのプロセスがわからない。なぜ、自分は助かったのだろう。目を覚ました布施が助けたのだろうか。
 とりあえず、身体を起こそうと思った。世界に片腕が動かない人間など掃いて捨てるほどいる。右腕を使わなくても、生きることはできるのだ。身体を起き上げることなど、手間はかかるが不可能ではない。
 左腕で起き上がることに悪戦苦闘していると、病室の引き戸が音を立てて開いた。
 両親だった。母親は二次発酵を終えたパンのような大きく膨れたボストンバックを脇に抱え、父が板のように薄く、大きなビニール袋を持っている。
「目が覚めたんだね」
 母が声を上げる。余程心配させたのだろう。持っていたバックを放り投げ、和広の側に駆け寄った。そして、ただ、掠れるような声で、良かったと、呟いていた。母に余計な心労を追わせてしまったことを心から申し訳なく思った。
「母さん。俺、何日寝ていた?」
「二日だ」
 母ではなく父が答える。続けて。
「お前は自分がどうなってるのかわかっているのか?」
 父が言う。声は静かだったが、音色は震えていた。初心者のフルートが奏でるヴィブラートのようだった。制御できないそれは隠すことのできない感情の表れだ。心のカテゴライズは潜在意識への冒涜かもしれない。だがあえて言葉に当てはめるとしたら、怒りと、悲しみがカクテルされた声の震えだった。
「わからないよ。けれど、右手が吃驚するくらい痛いことは把握している」
「当たり前だ馬鹿野郎」
 震えが大きくなった。ビブラートは不規則になる。感情というものは大きくなればなるほど抑圧される。弾けてしまえば爆発になってしまうことを知っているからだ。
「お前は、変な好奇心のせいで、自分の未来を失ったんだって、わかっているのか?」
 弾ける寸前だった。だが、和広は言葉の意味が理解できなかった。未来を失う。未来はやってくるもので、失うのだったら、それこそ時空が崩壊してしまうのだろうか。
「そこまでにしてしておいて上げてください」
 落ち着いた口調で病室に入ってきたのは、白衣の眼鏡をかけた人だった。普通に考えると医者であり、和広の治療をしてくれた主治医であろう。
 だがそれだけではなかった。大柄の熊のような精神科医に、鷹のような目つきの小柄な警官だった。言うまでもないが、熊田と渡辺だった。
「大丈夫、じゃなさそうだね。和広君」
「へえ、おかげさんで」
 頭がはっきりせず、時代小説に出てくる町人のような返事を返す。だが、父はそんなユーモアも通じないのか、周囲に憤りの余波を放っていた。
「大丈夫じゃ、なさそうだ?ふざけるなよ。元はといえばお前等が、精神異常者を野放しにしているのがいけなかったんじゃねえか。自然な交流を尊重したいだ?そのせいでこいつが何を失ったかわかっているのかよ」
 父は熊田につかみかかった。万力のように締め上げ、今にも命を奪いそうな瞳で睨んだ。
「お父さん。やめてください。ここは病院ですよ」と母がいう。医者も、同じような言葉をいい。父に対し殺意の停止を促す。病院は静かな場所だ。もっとも死に近い場所の一つであり、怒りとは縁の遠い場所。怒りとは生より起こる。故にその色は際だっていた。
 熊田は何も言わなかった。謝罪も、反論も、彼の口ならばいくらでもでるはずだ。それでも、父の視線を受け止め返しているのは、結局のところ言葉など単なる記号としか意味をなさないことを知っているからだろう。
「そこまでにしてください。一応こちらは個室ですが、大声を出されてはほかの病室にいる患者様に迷惑がかかります」
 医者が言う。若い男だった。いかにも親の言う道を言われるがまま歩んできましたというような、行儀の良さと、存在のもろさが感じられる。
「この藪医者が。お行儀よく注意する暇があるなら、こいつの腕を完璧に治せって言っているだろう」
 灼熱の怒りを携え、今度は医者に詰め寄る。父は必死だった。怒りの矛先を度々変える。正論のみでせめるいつもの父ではない。冷静さの失いかたが壊れていた。
「さ、先ほども申し上げましたが、完治は困難です。骨折どころか神経が傷ついています。後遺症が残ることは避けられません」
「何のための医者なんだよ。何のための医学だ。治療に金を大量に巻き上げるくせに、本当に治してほしい傷はできませんってか?ふざけんなよ」
 医者は引け腰だった。和広の父親は烈火の如く怒りを振りまいていた。なぜ父はこれほどまでに怒っているのだろう。いつもの父の憤怒は炎ではなく、静かな岩のようなものだ。押しても引いても動かない父の感情が基盤から揺れている。
 一つだけ、それを成し得るファクターが、医者の言葉に混じっていたのに和広は気づいた。
「・・・俺の腕は、具体的にはどうなんですか」
 和広は聞いた。先程医者は言っていた。後遺症を残ることは避けられないと。日本の医者は真実を患者に伝えないことを優しさと考える。だがその行為は間違いだ。分からない恐怖。未来が見えないというよりも、自分のことがわからない。自分の体にすら隠し事をされる。嘘に殺されると形容できる不安。
 医者はいいのかと、両親に視線を送る。それを父は射殺すような目で返し、母はちらりとみて顔を伏せる。それは了承という合図だが。それだけで、よくないと言っているようなものだ。
「・・・何度も執拗に石で殴られたことが伺えます。肩は脱臼していますし。指の骨は基骨どころか中手骨まで折れています。肩は填めましたし、指もその程度でしたら針金などによる矯正と、リハビリで完治する余地があったでしょう。
 ですが、なによりも神経が損傷しているのです。手は尽くしましたが、神経が切断ではなく、潰れているのです。今、神経縫合の専門医を市から派遣して頂くよう依頼していますので、数日後にその手術を行うことになります。しかし、完治するのは絶望的です。何かを持つ程度には回復するとは思われますが、細やかな作業となると・・・」
 医者はそこで言葉を切った。その先は言いたくないのか、はたまた察してくれと言っているのか。どうせなら、明言してほしい。
 もう、絵を描くことはできません。と。
 右手に力を込める。握るというほどでもない。ただ指を内側に持って行こうとしただけだ。だが、たったそれだけで電流が流れたような痛みが走る。幼い頃、誤って畑の電気柵に触れたときのことを思い出した。感覚を凝らすと痛みの奥に痺れがあるのが分かる。
 絶望より先に諦観に似た重さが和広の心を押し潰す。なぜ、どうしてといった責任転嫁よりも。もうどうでもいいという思いが強かった。
「そうですか・・・」とだけ言葉を吐き出す。とりあえず、左手で拳を握ってみた。強く、堅く。だがその行為に怒りの感情が乗ることはなかった。
 一体何に怒りを覚えればいいのだろう。憎悪とは悪意に対し発生するものだ。その悪意がたとえ錯覚であろうと、その意志には憎悪をもって相対するのが人の世の常だ。
 だが、彼女に何の悪意があったというのだろう。憎悪というには幼すぎ、殺意というには脈絡がない。彼女たちは、ただ自分を守っただけなのだ。
 不幸にも大人に人生を破壊された人間の自己防衛。そのとばっちりを自分は受けたに過ぎない。だから、彼女たちに罪はあっても、責任はない。
 そこまで考え、和広は自嘲する。だから自分は弱虫なのだ。自分の傷の咎を他人に押しつける勇気すらない。怒りというのは自分があって初めて生まれる。自分という存在を地につけ根を張り葉を広げ、現実に抗う怒りを作り出すのだ。
 だが、今の和広にあるのは喪失感のみ。怒りなど見えない。何故自分がという疑問すらない。ただ失い、呆然としているだけ。単なる思考停止。その場でするべき嘆きもない。年月を掛けなければ、その傷の重さすら理解できない愚か者なのだ。
 つまり、自分の人生などその程度のものだということだ。あまりの馬鹿らしさに、無理矢理笑みの一つも作ろうと思ってしまう。
「・・・なんで、お前は平気なんだよ」
 呟きは煙のように、白い部屋に広がる。父の声だった。それが自分に向けてのものだと知るのに数秒かかった。
 父に向かい合う。いつものように眉間に皺を作り、和広をみている。その瞳には怒りとも、悲しみとも付かないものが宿っていた。
「なんでって・・・・」
 和広は押し黙る。平気ではない。ただ虚ろなだけだ。伽藍洞に心すら押しつぶされる感覚。だが父はそれを叱咤した。
「お前が積み上げてきたものは、失って虚しくなるだけのものなのかよ」
 積み上げてきたもの。青春の半分を使い、ただキャンパスだけを積み重ねていた。積み上げて、積み上げて、ただ呆然と見上げているような。そんな磨耗した夢。お前の夢は、そう簡単に色あせてしまうようなものなのか。
 劣化しないものはない。夢も幻想も、愛でさえも。美しい理念は遠くから眺めるからこそであり、側にいる当事者にとってはただ重く、現実と理想の摩擦に苦しめられる。やがて、興味を失い、意義を忘れる。確固たる夢は疲労と現実の壁に阻まれる。
「そんなことは・・・」
 ないと言い切れなかった。特急電車に乗って、後戻りはできないのに行き先に不安を抱く。そんな焦燥をずっと心の中に抱いていた。だけど心ははその事実をマリオット盲点に隠してきた。見ないようにしてきた。
 父は苛立っていた。母の言葉を思い出す。このかんしゃく激しい父はかつて自分と同じ未来を思い描いていた。だから、息子の煮え切らない様子にどんな感情を抱いたのか想像に難くない。
「お前はこれに人生掛けてたんじゃないのかよ。悩んでも、こんな頑固親父に反対されようと貫いてきたんだろうが!」
 父は今にも掴みかかりそうな勢いだった。それを、母よりも先に渡辺が制した。
「親父さんには悪いが、和広君も起きたばかりで混乱しているだろう。それに警察の仕事って奴もある。少しばかり席を外してはもらえないだろうか」
 丁寧な言葉だが鋭さが感じられた。触れれば切れるような言葉の色をこの男は出すことができる。
 父は渡辺を睨みつけていた。こちらに背を向けている父は、どのような表情をしているかわからない。ただ一度だけ、涙を拭うような仕草をした。
 父が振り返った。その目は赤くなっていた。声をかけることはできなかった。自分よりも、事態を正確かつ重くみている父親に一体どのような言葉を掛けることができるというのだろう。
「おい」
 そう言って、父は持っていた大きく四角の形をした薄いビニール袋を和広に向かって放り投げた。何とか左手でキャッチしようとしたが、うまく掴めず寝台の下に落としてしまった。
 それから何も言わず、病室をでていった。母も何度も振り返りながらそれに続いた。父の大きくも小さい後ろ姿を、病室の引き戸が閉じるまで見送った。その背中にどれほどの苦悩がのし掛かっているか、想像もできないまま。
 引き戸が大きな音をたてて閉められると、病室に静寂が漂った。
「夕子がやったのかい?」沈黙を破ったのは熊田だった。
 和広は頷いた。時間がたつほど記憶は鮮明になっていく。出海が離れろと叫んだ瞬間。布施は突き飛ばされ気を失い。和広は右腕を何度も殴打された。
「布施先生は大丈夫ですか」和広は聞いた。
 あのとき布施は完全に気を失っていた。今まで和広は気絶などしたこともない。気絶した人間を見るのも久しぶりだ。昔、岸がふざけてジャングルジムの上に立ち上がり、そして綺麗に足をはずし芸術的に落下したとき以来だった。
「大丈夫だよ。頭を強く打ったみたいだが軽傷だ。本当は入院する程でもないが。色々事情を聞かないといけないからな。別の個室にいてもらっているよ」
 渡辺の言葉に和広は胸をなで下ろした。だが、少し違和感があった。
「あの、俺たちどうやって」
「どうやって助かったんだ、かい?」
 熊田が言葉を継ぐ。和広は頷いた。
「秋月鈴。っていう女性が、君たちを朝ヶ丘で発見してね。警察に連絡してくれたんだよ」
「ママが・・・・?」
「そう。朝ヶ丘は電波が届きにくいらしくてね。君を目が覚めた布施君と担ぎながら電波の届く場所まで運んでくれたんだ」
 重症患者の前で「電波の届かない場所にあるか・・・」と電話のアナウンスを聞き続けるところを想像したが、中々シュールな絵だった。それはさておき。ママが見つけ、運んできてくれたということらしい。確かに彼女なら長瀬葵の事件であの森の先の場所を知っている。だが、あのとき朝六時という早朝な上に、あの場所に赴く理由は分からない。彼女自身も独自に月海のことを調査していたのだろうか。どうも納得できなかった。 
 ふと、一番重要なことを聞いていないことに気が付いた。
「月海は今、どうしていますか」
 月海は捕まったのか、逃げたのか。最悪の筋書きを考え、背筋を寒くした。
「まだ捕まっていないよ。だけど何故か。目撃証言はよく聞くようになったがな。公園にいたとか、食べ物を購入したところをみたとか」
「目撃証言があるのになんで捕まっていないんですか。警察はそこまで無能じゃないでしょう」
 皮肉ではない。この町はそれほど大きくない。目撃証言があるのならば、捕まえるのは容易のはずだ。
 それに対し、これはあまり言いたくないんだが、と渡辺が口を開く。
「上はこの事件をなるべく小さく葬りたいらしい。幸い、この町は自殺名所だしな」
 その言葉を理解した途端。和広の中に憤りの炎が灯った。
「何故ですか。まさか、容疑者が自殺してしまえば、全てが丸く収まるとでもいうんですか」
 その言葉に、渡辺は首肯した。
「そもそも、この一件は、月海が行方不明になったという熊田の話を聞いた俺が独断で動いた事件だ。殺人未遂なんて事態になったから地元の警察も動いてくれたが、上は事なかれ主義だ。精神異常者の事件。しかも勝手に自殺するのなら、手間をかけるよりも死んでくれるのを待った方が楽だとね」
 渡辺は息を吐く。それは組織との軋轢による疲労の色がかいま見えた。
 日本の警察機関は優秀だという評価はたまに聞く。だがそれは様々な無駄を省いた結果だと言うことを、今、思い知った。
 社会は複雑だ。故にあらゆる無駄を省こうとする。もつれた糸をほどきもせず鋏で無理矢理切るかのような、そんな不合理さと、冷酷さ。それは苦しみを背負った人間を厄災の元と断じ、蓋をする行為だ。
「俺も出来る限り、自分の足を使って動いている。だが上は情報を出し惜しみしている。あまり俺に期待しないで置いてくれ」
 渡辺は冷たい言葉の中にも焦燥を覗かせていた。彼は過去の月海の事件を担当したのだ。恐らく、そのときからずっと気を掛けていたのだろう。和広は頷いた。
「わかりました。こっちも、地元のパトロールの人たちに言付けておきます。」ママに言えば、それくらい伝えてくれるだろう。
 渡辺と熊田は最善を尽くすことを約束し、病室を出ていった。
 空はまだ高かったが、眠気がした。医者が言うには、まだ麻酔の効果が残っているそうだ。
 ふと、ぼんやりとした意識の中で、ふと父が持ってきたものが気になった。寝台の下に左手を持って行き、ビニール袋に包まれたそれを拾い上げる。
 普通のものより少し厚めのビニール素材に包まれたそれの感触を確かめる。大きな長方形の板状の物体だった。ビニール越しでも表面はつるつるしていて、力を加えると、多少の反発とともにぐにゃりと曲がる。四角の内一つの辺にはリング状の針金が連なっている。
 スケッチブックだ。ビニール越しに和広は理解した。袋を止めていたテープを千切り、それを取り出す。A3サイズの、標準的なスケッチブックだった。
 はは、と乾いた笑みが漏れた。父はなぜ、こんなものを渡そうと思ったのだろう。リハビリに使えとでも言うつもりだったのだろうか。はたまた、怪我など乗り越えて再び夢を目指せという励ましなのだろうか。何であれ、腕が完治しないと通告された今、それは冒涜に等しい皮肉にしかならなかった。
 スケッチブックを握る左手に力が籠もる。それは怒りだとは理解できたが、何に対しての怒りかは理解できなかった。
 閉ざされた夢に何の感慨も浮かばない鈍感な自分に対してか。はたまた、自分の人生にお節介にも干渉してくる父親にか。
 和広は、病室の壁に左手でスケッチブックを叩きつけた。使ってもいないのに右手に激痛が走った。
 医者の言葉が頭をよぎる。
「無理をしてはいけません。少なくとも手術が終わるまでは絶対に安静です。まだ脱臼した肩も危ない状態なんですから。無理に動かそうとしたら、それこそ腕が上がらなくなりますよ」
 若い医者は何度も念を押した。彼の立場からすれば当たり前だ。医者は患者を治すこと、あるいは悪化させないことに最善を尽くす。あらゆる事柄をないがしろにしてでも、患者の傷を癒す。それが医療に携わるものとしての正しいあり方だ。だが、その意向に従うつもりなど、和広は毛頭ない。
 しかし、今は動けない。体は重く。腕は鈍痛が絶え間なく響いている。和広は寝台に倒れ込んだ。心も様々なことが起こりすぎて、完膚無きまでに動かない。とりあえず今は休息が必要なのだと判断した。なるべく意識を沈め、体にも心にも負担をかけないようにする。
 しかしその選択は間違いだったことに気が付く。月海のことを頭から離すと、今度は腕と将来のことが頭を支配する。
 視界が、世界が灰色に染まるような錯覚に陥った。目の前の世界はシーツを挟んで病室を越え広がっているはずなのに、どこにもいけないかのような感覚がした。停滞し続けることを定められた路傍の石になった気分だった。
 早く寝てしまおうと考える。だがそう思えば思うほど眠りは訪れなかった。荒涼とした未来の幻視と、今にも死んでしまうかもしれない少女たち。どちらを振り返っても重い顔を擡げている。
 夢に沈んでいく中でもその重圧は変わらなかった。むしろその束縛は強くなっていくように思えた。あの青と白しかない世界に逃げることができなくなっていた。
 逃げるわけにはいかない。耳を塞ぐことは出来ない。心に廃墟の砂塵が吹いているようだった。早く、夢より深いところに潜ろうとした。結局は、逃避してもなにも変わらないことは理解していた。
 向き合わなければ、いけないのか。


 無理矢理閉ざす思考の中で、その思いだけが唯一言葉になった。
 目が覚めたとき、すでに日は高くなっていた。病室には時計がない。患者が持ってこなくてはならないのか、それとも医学的に時計をみることは避けたい行為なのか。はたまた全ての病室に時計を配置するだけの予算はないのか。とにかく和広には起きたときの時間を正確に確認することは困難だった。
 すでに正午に近いことは日の高さから分かったので、朝ヶ丘に行くことはあきらめた。外にでるとばれるだろうし、月海も、この時刻には崖にいないと思ったからだ。月海の安否が気にかかったが、まだ生きていると確信に近い思いがあった。
 それに、和広には確かめなければならないことがあった。
 時計がないと、時間の感覚というのものがまるで分からなかったが、昼食が運ばれてきたときに、初めて午前が終わったことを認識した。同時に、昨日から何も食べていないことを思いだし、猛烈な空腹を感じた。
 病院食はまずいというイメージがあったが、味が薄いだけで、まずいということはなかった。ただ、空腹を全て満たすこと量はかなわなかった。
 しばらくぼんやりと外をみていた。何も考えることはしなかった。無我の境地などと格好良いものではなく、考えるのが怖かっただけだ。
 医者の話によれば、神経の手術が出来る外科医がくるのは三日後になるらしい。それまでは絶対安静だそうだ。
 夏も佳境にはいった昼下がり、外の風景は笑える程明るかった。和広が腕を負傷したことなど世界には何も関係ないのだ。太陽は東から昇り、ゆっくりと西を目指している。群をなした鳥が、同じようなところをぐるぐると飛んでいた。笑えるほどいつも通りの日常だった。
 静かで長い時間は忙しい時間からすれば甘く魅惑的なものだが、何も出来ない時間というのは、とてももどかしく歯がゆいものだった。
 そんな瞬間が丹念に塗り重ねられ、時間に達した頃、病室の扉が開く音がした。和広が振り返った。
 そこには、岸とママがそれぞれ手に見舞い品らしきものを持って現れた。
 和広は少し驚いた。この二人の間には互いに面識は無かったはずだ。
「おい、カズ。こんな人がいる店を知ってて何で紹介しなかったんだよ」
 岸が言う。なるほど、どうやら初対面らしい。
「さっきナースステーションで会ってね。カズに会いに来たって聞いたから、声をかけたのさ」
 ママがいう。その手にはフルーツの盛り合わせがあった。葬式か見舞いの機会位にしか注文されることのないであろう果実の盛り合わせを、ママは寝台の脇の机の上に置いた。ビニールに包まれ、籠からこぼれ落ちそうなそれを、デッサンのモチーフとしてみてしまい、あわてて和広は視線を逸らした。光の角度と影の濃淡、モチーフと空間のバランスを計算してしまっていたのだ。
「おいおい。大丈夫なのかよ。指から針金がでてるのなんか初めてみたぜ。」
 岸はそう言って、和広の右腕をみる。針金を通されたその上からギプスを填められていた。腕自体は脱臼のみで包帯が巻かれているのみだったが、手、特に針金が飛び出ている指は、みる人間にとって奇怪なことこの上ないだろう。
「見れば分かるだろう。どうみても大丈夫じゃない」
 和広は言葉を返す。自分自身もグロテスクなこの手には現実味がなかったが、それが一層、この怪我が取り返しのつかないものだと実感させられた。
「そりゃ、そうだろうな。それで大したことのない傷なら、ドッキリもいいところだ」
 岸がイスに座る。彼が持ってきた見舞い品は小さな包みだった。それを彼は盛り合わせのフルーツの隣に置いた。コトリと硬質な音がした。
 ママは、花も持ってきていたようで、花瓶に花を入れていた。ガーベラの花だ。あの花瓶には水は入っていなかったので、おそらく造花だろう。昔なんとなく読んでいた花言葉の図鑑を思い出す。この花は色によって花言葉が違ったはずだ。ママの手にあるのは白と赤の花だ。その言葉を和広は思い出せなかった。
「・・・・で、治るのか?」
 岸が聞いた。だが先程の言葉より、重みが増した気がした。十代だからか気恥ずかしいような気がしたが、空気が変わったことを和広は感じ取った。
「・・無理らしいね。神経がイかれているそうだ。数日の内に手術をするらしいけど、痺れや、痛みとか、後遺症が残ることは避けられないってさ」
 医者から言われたことをそのまま言う。改めて聞くとひどいものだと思う。現代医学では治せない病気は少ない。だから万能だと思われる。命さえあれば、現代の技術では元通りになると誤解される。それは現実を知らない楽観主義に過ぎないのだ。
「・・・絵は続けるんだよな?」
 岸が尋ねる。それには日常を確認するような響きがあった。当たり前の事実を確認せずにはいられなくなり、口に出た。そんな印象だった。
「わからないよ。利き手がこうなったら、どうしようもない。リハビリすれば多少は良くなるかもしれないけれど。あきらめるしかないかもな」
 自分はどんな声音で話しているのか分からなかった。そもそも自分の気持ちが把握できていない。今、自分は絵が描けなくなり、悲しんでいるのだろうか。怒っているのだろうか。
 それとも、安心しているのだろうか。
「おい」
 岸の言葉で思考の世界から現実に引き戻される。岸は顔を歪ませていた。元から厳つい顔をしている為、それが怒っているのか、悲しんでいるのかすら分からなかった。
「頼むから、お前まで、俺みたいにならないでくれよ」
 それは心より絞り出された言葉だった。岸は続ける。
「俺みたいにさ。現実見てそれに負けて、夢から逃げることは、だめだ。お前はいつも真っ直ぐだっただろう。いつも見てた俺でもそう思う。ずっとキャンパスに向かい合って、親の反対すら押し切って、だからさ・・・」
 岸は言葉を切る。だがそのイメージは、過大評価以外のなんだというのだ。和広はいつも迷っていた。このままでいいのかと自問し、惰性で絵筆を走らせ、迷うことすら放棄しようとし、結局、迷い続ける。その繰り返しだ。誇らしい足跡はない。夢遊病者が、偶然前にのみ進んでいたことと何も変わりない。
「買いかぶりすぎだ、岸。そんな真っ直ぐな人間じゃない。たぶん俺は、この程度で終わる人間なんだよ」
 もし神様とやらがいるのなら、これは罰なのだろう。中途半端のまま、夢を目指し、覚悟もないまま人を助けようとした、愚鈍な子供への罰なのだ。
 そして、今確信した。自分は道が閉ざされたことに安心していた。夢を歩む限り永遠について回る、自分の人生のあり方への疑問。それから解放されたことに安堵感を覚えている。
「違う。馬鹿かよ、お前は。悩むことは当たり前だ。それでも前を見ているから、お前は凄いんだ。だからお願いだ。絶対、浅い考えで夢を放棄することはやめてくれ」
「だけど・・・・・。」
 自分に前を向いて歩く価値なんてあるのだろうか。やりたいことをやって先に進むことは周りに多大な迷惑をかける。
「だから、まずお前はそういう後ろ向きな考えをやめろ。前を向ける機会があるのなら、迷っても後ろを向くんじゃねえ。前を向きたくても出来ない人間もいるんだ。俺はひどいこと言っているかも知れない。だけど、俺はお前が羨ましいし、尊敬しているんだよ」
 語尾をかすかに荒げ岸が言う。それが、岸自身を指していることに気づいたて、和広は何もいえなくなった。彼は、家の問題。おそらく、金銭的な理由で、大学進学をあきらめた。恐らく彼なら、大学のサッカーでも高い成績を残せるだろうし、岸自体もサッカーというスポーツが嫌いなわけがない。だが、岸には選択肢すらなかったのだ。
 努力をすれば夢は叶うと誰かがいうだろう。金を貯め、進学するなり、社会人チームに入ればいい。最後まであきらめるのではないと。だが、それは本人からすればお節介もいいところだ。
 人生は不可視であり、未来は不確定なものだ。確かに然るべき努力と、ある程度の運と、眠っているかもしれない才能を最大限に活用できれば、それはかなうかもしれない。だが実際にそれらが奇跡的に作用し、夢を叶えられる人間は世の中にどれだけいるのだろう。
 沈黙が過ぎる。和広は下を向き、岸と目を合わせることは出来なかった。岸が今、どんな表情をしているのか、怖かった。ママは口を出すべきじゃないと判断したのか。立ったまま、何も言わない。
「・・・・俺、帰るわ」
 岸が口を開いた。今まで下に落としていた視線を岸に向ける。岸は目線を、机の上に置かれた包みに向ける。つられて、和広もその包みをみた。柔らかい黄色の布に包まれた細長い何か。それが何かを考える前に、岸が立ち上がった。
「カズがどんな風に考えようが自由だけど。もし、夢をあきらめるのなら、俺は、残念に思うよ」
 そう言って、岸は病室をでていった。
「あんたも色々大変だね」今まで黙ってたママが口を開いた。
「・・まあな」
 そう返し、岸が置いていった包みを開く。そこには、和広が画材道具をまとめていた入れ物が入っていた。中を開くと、筆や、鉛筆、練り消し、そして折れた木炭が入っていた。鉛筆はどうやら岸が補充したらしく長かった。2Bの鉛筆の文字が綺麗な金色をしていた。
 こんなものを持ってくるのなら、もっと気のきいた品がよかったと心の中で悪態を付いたが、気分は晴れなかった。
 俺の夢は、俺だけのものじゃない。初めてそのことを認識したような気がした。
「林檎でもむいてあげようか」とママが言う。恥ずかしかったが、昼食の量が少なかったので、喜んでその申し出に承諾した。



「さっき、布施さんの病室に行ってきたよ」
 ママは、林檎の皮を器用に向きながら言った。和広は真っ赤な果実の側面をなめらかに削るナイフに見とれていた。その芸術的な動きによって生まれる、一定の太さで皿に垂れていく皮。和広は思わず拍手をしそうになった。
「どうだった?」渡辺の言うところによると、大した怪我はしていなかったらしいが。
「外傷はなかったし、大丈夫そうだったよ。申し訳程度に、包帯が頭に付いているだけさ。普通に起きあがって病室内を暇そうに歩いていたからね」
 和広は安堵した。ママから聞くと、渡辺から聞くよりも安心感を得ることが出来た。
「よかった。じゃあ、警察が良いと言えばいつでも退院できるわけだ」
 そう言って、和広は疑問に思った。退院したら布施は迷わず、月海に会いに行くだろう。しかし、この間の月海、というより夕子の態度を見ると、彼が会うことは強烈な影響を与えることは避けられないだろう。その場合どのように転ぶかは、和広には想像も付かなかった。
「ああ、でも、熊田さんだっけ。あの人に、あなたが下手に動けば月海を殺してしまうことになりかねないって、病室に押しとどめたよ。あなたの役割は彼女を止めることじゃない。彼女の居場所を作ることだってね」
 なるほど、熊田が止めたようだった。出海の言葉を思い出す。確かに、彼の役割は、月海が居られる場所を整えることかもしれない。
 和広は本題に入ることにした。
「そういえばさ。俺を運んだのって、ママだけ?布施先生も手伝った?」
 あくまで自然に、会話の隅に本当に欲しい情報の要素を入れる。
「そうだよ。私が駆けつけたとき、布施さん足は覚束無かったけど、意識ははっきりとしてたから。電話が繋がる場所まで一緒にカズを運んだの」
「どうして、あそこで何かがあったって、気が付いたんだ?」
「私もね。月海のことを独自に探していたの。まあ、美空って子が、あの人の娘の月海とは知らなかったけどね」
 美空たちの主人格については、警察に聞いたのだろう。ママは先を続ける。
「それで、朝ヶ丘に向かう途中。悲鳴が聞こえたのさ。何かと思って崖に向かったら、カズが女の子に馬乗りされて、石で殴られているんだから驚いたよ」
 ママは森の先にある崖を知っている。もし、月海を探しているのだったら、そちらに足が向いたのは自然のことなのだろう。
「悲鳴って俺の?」
 悲鳴を上げた覚えはない。もし悲鳴を上げていたとするのならば、少々恥ずかしい。
「いや、女の子の声だったよ。たぶん、月海が言ったんだと思う」
 和広は最後まで意識を保てなかった。意識が途切れた辺りで夕子は悲鳴を上げたのだろうか。ひょっとしたら別の人格に変わったのかもしれない。
「それから、急いでカズの元に駆け寄ったんだけどさ。月海、いや、夕子って言えばいいのかな。その子はすぐに逃げちゃって捕まえることは出来なかったの。それからすぐに布施さんが目を覚ましてね」
 意識がとぎれる寸前。月海とは違う声が聞こえたことを思い出す。確かにあの声はママのものだった。
「なるほど。布施先生とは面識があった?」
「いや、そのときが初対面だったよ。だけど二人でカズを運びながらだいたいの事情を聞いたよ」
 林檎を切り分ける。和広は皮むきも苦手だったが、それ以上に、切り分け、中身の種をとることが苦手であった。いつも果肉を必要以上にとってしまう。妙な形に完成してしまうのだ。
 ママはさすが飲食店の主だけあり、最後まで滑らかにナイフを運んだ。食べやすい大きさに切り分けられた小皿をテーブルの上に置く。カタリという音がした。
「ママ、嘘ついているだろう」
 和広は聞いた。これは賭だった。そしてこの行為に対した意味はない。何も生産的なことはなく、ただ、疑問が晴らすだけの問いかけだった。
「・・・どこが嘘なの?」
 ママは怪訝な顔をした。それが見当はずれの言葉についての反応なのか、真実を突かれた故の困惑なのか分からなかった。和広は続ける。
「あの崖はね。実は森の道を通る以外の道はないんだ。左右にいっても崖は途切れているし。あの道以外から森に入ると、背の低い草に隠れた蝮がいるし、害獣に対して仕掛けられた罠がある。迷いやすい上に、目に見えない段差で慣れない人はすぐ動けなくなる」
「だからなに?」
「つまりね。森の道からしか入れないママが、森の道からしか逃げることが出来ない月海を逃がしてしまうことはあり得ないんだよ」
 森の入り口は車も通れず、人が三人ほどの幅しかない。身体能力の高いママが、精神的に不安定で、肉体的にも劣る月海を逃がしてしまうことは考えにくい。
「もし、月海が完全に逃げることができて、その後にママが俺を助ける状況があるなら、それは一つしかない。
 ママは、俺たちが話しているときにはすでに朝ヶ丘のどこかに隠れていて、一部始終を最初からみていた」
 すぐに助けにこれなかったのは、何が起こったのかすぐには分からない程遠かったのか、気が動転して、朝ヶ丘の岩場に足を取られたかと言ったところだ。そこは和広にはわからない。
「カズがひどい目にあってて、驚いたんだよ。月海に気を向ける余裕がなかったの」
「それはない。だって俺が悲鳴をあげたわけじゃないってママ言っていただろう。それに俺は腕を折られているけど、出血は少なかったはずだ。遠目に見て、気が動転するほど重傷じゃない。何より、遠く倒れている男よりも、悲鳴を上げてママのいる森の入り口に向かう女の子の方に気がいくはずだ」
 森の入り口から和広が倒れた位置までは遠い。走って駆け寄るのならさほど時間はかからないが、倒れている和広は岩に隠れて見えにくくなっていたはずだ。叫んでいたのは月海、逃げ出したのも月海。なら意識はそちらに向かうほかない。
「・・・・・・」
 ママは黙っている。表情は冷ややかだ。見当はずれの推理にいわれのない嘘の糾弾を受け怒っているのか。はたまた図星なだけなのか。
 男性は、女性よりも他人の表情から感情を読みとる能力が低いと言われている。人との繋がりを重要視している女性と、食料を得るために走り回っていた男性。それはいつの時代も変わりがない。
 そう言った意味では、和広は、男性に間違いなかった。いや、別に和広はオカマだという話ではない。他人から、心を受け取ることが苦手なだけだ。
「ママはさ。月海を匿っていたんじゃないか?」
 和広は続ける。ここからはただの証拠のない妄想だ。パズルのピースらしきものがあって合ってそうだから填めてみようという程度の、そんな推論だ。
「その根拠は?」
「岬と出海と話したときあいつらは「君は勿論、警察にも」話さないように言っていたんだ。ただの言葉の綾かもしれない。だけど、もしかしたら匿っている人間が、俺のよく知っている人間なら、そう言い含められていたとしても納得がいく。
 それに何より、あいつがこの町で長時間潜伏できる場所っていうのが想像できなかった。父親に黙ってきたのなら金銭もそれほど持っていないだろうし。持っていたとしても、ホテルや民宿は通報されたり、警察の捜査によってに捕まる危険性がある。
 なら、答えは簡単だ。月海は、誰か個人の住居に身を寄せた」
 月海は何をあてにここにきたのか。最初は、民宿などに拠点を構えるつもりだったのかもしれない。行動原理は人格によって違うが、ここにくるのは全体の総意だった。そして、民宿や、ホテルに泊まっていたのなら、簡単に足が着いていただろう。
 月海たちは、殺人未遂を犯す予定なんて無かったはずだ。すなわち、あの殺人未遂事件は彼女たちにとっても想定外の事態だった。だが、警察は足取りを掴むことは当時出来なかった。
 すなわち、犯罪が起こっても、彼女を匿うだけの信頼性がある場所に彼女たちは滞在していた。
 ならば、彼女と関わりのある人間は誰か。匿うだけの信頼関係が生まれ得る他人とは誰か。
 布施はありえない。そもそも、出海は彼を捜すためにここにきた。ならば他に接点を持つ人間二人しかいない。
 岸か、ママだ。彼女とは直接関わりがあるわけではないが、母である葵とは深い関わりを持っている。ならば、何らかの要因で接触した彼女に対し、親身になる可能性は大きい。そしてママなら、和広でさえ知らなかった解離性同一性障害について葵から聞いていた可能性もある。
 沈黙が病室を支配する。息苦しいものでは無かったが、違和感は充満していた。この空気が和広は嫌いではなかった。変化する前の躊躇するような沈黙。雰囲気も人生も、変わるには大きな労力を要する。とても疲れる。だから、その前にうだうだ悩むことが好きだった。
 そうして、後ろめたく甘い沈黙が秒を刻んだ頃、
「・・・当たりだよ。カズ」
 小さく、ママは呟いた。
「・・・あーあ。だまし通せると思ったんだけどなあ。別にしらばっくれても良かったけど。面倒だし」
 自分を嘲るように、道化のように。ママは明るい声で言う。
「何で黙っていたんだよ」
 責める気はない。別にそんな権利はない。ただの好奇心だ。
「理由なんて、ないさ。ただね。強いて言うなら、子供が欲しかったからかな」
 ママはため息とともに言葉を吐き出した。今まで見たことのない、憂いと諦念に満ちた表情を、和広はママにみた。
「どういうことだ?まさか養子とかに迎える気だったのか?」
 まさか。とママは困った顔で首を振った。
「私がさ。若い頃、随分好き勝手やっていたことは知っている?」
 確認するようにママは尋ねた。和広は頷く、ママと関わると耳を塞いでもその手の噂は聞こえていた。
「馬鹿だったと自分でも思うよ。でも楽しかったことは覚えている。熱に浮かされたみたいにさ。喧嘩して、先生やら親やらにいちゃもんつけて、馬鹿やって。今思えば自分を自尊心を満足ことでしか、肯定できなかったんだ。
 同じような馬鹿やってる奴とつるんで、愚痴ばかり言い合って、いつも誰かを馬鹿にしていた。そうする奴の方がどんなに馬鹿かすらわからないままね。
 だけど、私は女だったんだ。いつも男とつるんでいた。まあ恋愛感情とかあったときもあったしなかったときもあったけど、裏でどれだけ毒をためているかわからない女より、男の方が気は楽だった。
 でさ、そのとき、付き合っていた男がいた。私はね。そいつの子供を妊娠した」
 笑い話のような口調でママは続ける。彼女は強い人間だと、改めて思った。自分の不幸を笑い話に出来る。不運を笑い飛ばすことが出来る。
 だが、ママの瞳が揺れていることも気が付いていた。
「・・・・世界が、変わった気がしたよ。私は命を宿している。分け与えている。慈しんでいる。この感覚は、男の人にはわからないだろうね。最初はおろそうと思ったよ。彼にも言われた。でも、そんな選択肢はすぐになくなったよ。自分が死んでも、この命は守ろうと本気で考えていた」
 彼とはそこで別れたよと、ママは言った。和広は申し訳なくなった。男性は女性の苦しみなどわからない。命を宿すのも、生み出すのに、苦しむのもいつも女性だ。分かち合うことも出来ない。そしてあまつさえ、逃げようとする。
「でもね。流しちまった。赤ちゃんも、こんな女の子供として生まれるのは嫌だったんだろうね」
 ママは今はない生命を慈しむようにお腹をさすった。痛みに苦しむ岬とは違い、優しさに満ちた触れ方だった。
「・・・朝起きるとさ。お腹が、重いんだよ。妊娠してると重いのは当たり前だけど、そういうのじゃないんだ。生きようとする意志がなくなったみたいに、お腹が冷たく、重くなるんだよ」
 淡々と、あくまで冷静にママは語る。それが一層、ママの絶望を思わせた。
「それから、私はセックスすることも、恋愛することも怖くなった。逃げちまったのさ。あんなに犬みたいにセックスしていたのに、全くしなくなった。自分に恋をする資格なんてない。セックスするのも怖い。自尊心だけは高かったから心が折れることはなかったけど。それが一層苛ついた。子供と一緒に、私も死んでしまえば良かったのにとさえ思ったよ。
 ああ、でも昔の話さ。今はもう元気に堕落しているよ」
 ママは和広の顔に気が付いたのか、笑ってそういった。
「葵さんと会ったとき、私は苛ついたよ。子供がいるのに、逃げている彼女にね。だけど、それは同族嫌悪以外の何者でもなかった。私の子供が流れずに育ったとしても、真っ直ぐに育てられるとは思えなかったからさ」
 親になるというのは、どういうことなのだろう。和広には想像すら付かない。だから、ママの深い瞳も、わずかな表情の揺らぎも、完全に読みとることはできなかった。
 だが和広は、その不明瞭さが怖かった。子に対しての接し方。それはいつか、自分も体験することかもしれないのだ。子を持つということ、その命を、人生を、存在意義を守る義務を持つ存在。ロゴスとして、エロスとして、立たなければならないときがくるのだ
「カズは覚えているかな。カズが葵さんと店にやってきたこと。刻み葱を残したことを凄まじく怒ったときのこと」
 和広は頷いた。あのときのことは鮮明に覚えていた。強烈な記憶はいつまでも忘れないものだ。
「あのとき、たぶん私も、彼女と同じようなことをしてしまうんじゃないかとも考えた。心が子供のまま、親になることに憧れていたんだ。だから葵さんを、放っておけなかった。家に泊めたし。面倒も見た。
 ただあの人は私ほど図太くはなかったけどね」
 ママは少し羨ましそうだった。自分もいっそ壊れて、死を選んでしまった方が楽だったのに考えているのだろう。大切な自分の子供を生まれる前から殺して。それでも平気でいる自分が許せないのだ。
 風にカーテンが揺れた。この個室は東側に位置していて、西日が入らないように作られている。朝日を大切にし、夕日をないがしろにしていた。カーテンを挟んで、わずかな光が、電灯の薄い個室に染み入るかのように広がっていた。西日が入らないことは、ベットの上から動くことの出来ない患者にとっては嬉しかった。
 だが、まるで自分が太陽から逃げ、隠れているように思えた。
「もし、月海が私の子供だったら、葵さんの分まで優しくしてあげようと思ったの。でも今思えばそれはただの口上だったかもね。ただ、自分がまともな女性だって、しっかりした大人なんだって、証明したかったのかな」
 その苦悩に、和広は口を開けなかった。言葉を紡いでしまえば、それが意見になってしまうだろう。それは、テレビが無責任に流している糾弾と何が違う。そんな意味のない潔癖さを和広は持っていた。
「月海とはいつ会ったんだ?」
 ママが月海を匿う理由はわかった。では問題はどのように接触したしたかだ。
「月海とあったのは、全くの偶然だったよ。七月の下旬だった。駅のバス乗り場でうろちょろしている女の子がいてね。
 昔、葵さんのお葬式にいた子を、そのまま成長させた子供がいたから、声をかけたんだ」
 和広は、お姉ちゃんの葬式には出席していない。和広自身、行くのを躊躇していたし、親も行かない方がよいと判断していたからだ。
「あのときは、美空ちゃん。だったかな。本当の父親を捜すために勢いできたけれど、どこに泊まるか決めていないっていうのだから、笑ったよ。意外と大ざっぱな子なんだよ。
 それで私は、うちに泊まることを勧めた。幸い、彼女も私のことを覚えていたみたいで、何とか信用してくれたよ。まあ他の人格の反応は様々だったけどね」
 八雲辺りは大反対したそうだ。だが、主に表にでているのは美空や、出海だったため、それほど、大きなトラブルはなかったらしい。
「あの子たちと一緒に過ごすのは楽しかったわ。凪ちゃんは泣いたり、いろんなものを口に入れようとするし。岬ちゃんは、私のことを怖がって、一週間くらいまともに話せなかった」
 ママの顔に、なんともいえない幸福の色をみた。そしてそれが、どうしようもなく欺瞞であることを理解していて、憂いを含んでいた。
「だけど、あの事件があっても、匿い続けたんだな」
「ええ。美空ちゃんがね。警察に捕まるのは構わないけど、養父の元に返されることだけは避けたいって土下座までしてね。彼女たちの最期のチャンスなんでしょう。この脱走は」
「いつから見張っていた?」
「岬ちゃんが会いに行ったとき。出海さんに頼まれてたの。他の人格たちがおかしな行動しないように見張って欲しいってね。カズだけじゃ頼りないから」
 余計なお世話である。しかし、夕子のときはそれに助けられた訳なので避難することは出来なかった。
「でも、今は私のところにはいないよ。どこで何しているかも分からない。彼女はここに来て一ヶ月近く経っているわけだし、それなりに土地勘も得たんでしょ。」
 ちゃんと食べているのかなと。ママは呟いた。母を夢見た女性として、彼女たちは娘にも等しい存在なのかも知れない。
 ママはもう話すことがないようで言葉を閉ざし、変色しかけた林檎を口に運んだ。和広も口が水分を求めていたので、左手を伸ばした。うまく爪楊枝をつかむことが出来ず、いらいらした。
 ふと、小さな疑問が胸に浮かんだ。
「月海は、どんな奴なんだ」
 和広は尋ねた。考えてみれば、自分は主人格である月海に会ったことすらないのだ。
「あの子は、私も、そんなに会った訳じゃないわ。だってあの子は」
 ママは言葉を一度切った。
「あの子はね。朝にしか現れないの」
 心の中でパズルの最期のピースがはまる音がした。
「どういうことだ?」
「幼い頃、彼女の中の安息の時間は、朝しかなかったの。あの子学校でも若干いじめられがちだったらしくてね。昼もおびえながら過ごすしかなかったし、夜は夜で、義父に性的暴行を受けていた。必然的に彼女が落ち着いて過ごせるのは早朝しかなかった。葵さんも、治療時はなるべく朝は彼女に優しく接するように心がけていたらしい」
 出海は言っていた。君に一番会わなくてはいけない人格は朝にしか現れない。美空も言っていた。和広とは朝会わなければ意味がない。他の人格に攻撃的な八雲でさえ、朝に会うことに固執していた。
 つまり、彼女たちの中で、一番死を望んでいるのは・・・・。
 かつて、慕っていた愛しい人の顔を思い浮かべる。彼女は自分の娘のことを誇らしげに語っていた。その行為がどれほど彼女の心を削っていたか、和広には想像することしかできない。心を壊してしまった娘のことを語るのだ。親として、どれ程の苦痛に苛まれたのだろう。
 だけど、彼女は、幸せそうだった。自らの愛娘を語ることを嫌う親などどこにいるというのだろう。彼女は娘を思っていた。罪の意識に苛まれ、耐えきれずついには逃げだし、青の崖で、自らの業を見せつけられ、それでも・・・・。
 ――ごめんね。月海
 意味にもならなかった儚い言葉。もしかしたら和広の聞き間違いだったのかもしれない。崖に逆巻く潮騒の上澄みだっただけかもしれない。だけど、確かにそこに鳴った音だった。
 声は世界を変えることはできない。人を変えるだけだ。だがそれは決してよい方向とは限らない。現に和広はずっと縛られていた。その不器用で、純一な愛に。
 だからこそ、正しい人に、その愛を返さなければならないと思った。
「少ししか話していないけど。月海は、自分はいつも逃げてきた臆病者だと言っていたよ。自己否定がどの人格よりも強かった。
 ・・・たぶん。あの子が一番危ないと思う」
 ママも同じ考えなのだろう。和広は頷いた。
「明日、行くつもりなのかい」
 和広の表情で全てを察したママは心配気に聞いた。
「ああ。たぶんこれは、俺がやらなくちゃならないことだから」
 和広は、右腕の痛みに耐えながら答えた。

月海の章

 朝がきた。白い病室が柔らかい光で包まれる。早朝の光は冷ややかだ、微かに青を帯びた色彩が昼も夜もない世界へと、世界を染め上げる。
 和広は身を起こした。なるべく右手を使わないようにしたが、それでも痛んだ。微かに痺れもある。これから一生この右手の違和感と付き合っていかなくてはならないのかと思うと気が重い。
 刹那の死痛と、一生の鈍痛。どちらがつらいかと考える。前者は潔いが、後者の計算したくない程長い時間の方が、先を見据えたときうんざりした。
 太陽はまだ光を薄くしか放っていない。まるで空に薄膜が貼ってあるようだ。時計を見ると、いつも朝ヶ丘に向かうときよりも早い時間だった。この時間に起床することができて、少し安心する。この病院は朝が丘から少し離れたところに位置している。だから、早く起き、早めに外に出なければならない。
 左手を使い起きあがる。日常においても、片手が使えないのは不憫なものだ。無意識に右手を使おうとすれば、その度に激痛が走る。無意識の存在をこれほど呪ったことはなかった。
 母親が持ってきた荷物は最低限のものばかりだったので、学校のジャージしかない。だが病院の寝間着でいるよりはましだと思った。考えてみたら、彼女と初めて出会ったときもジャージだった。品がないなあと自分で笑った。
 片手のみで苦戦しながら着替え、病室を出ようとする。そのとき、昨日壁に投げつけたままのスケッチブックが入った紙袋があった。和広は、今はもう人生に関係のないそれを丁寧に拾い上げた。
 振り向くと、寝台の脇の机に、岸が持ってきた画材道具の包みがありそれを開ける。中には丁寧に並べられた己の分身だった一式。かつてのように握ることの出来ない身体の延長線。その中からただ2Bの鉛筆を取り出しスケッチブックの入っている袋に入れた。
 自分で馬鹿らしくなってくる。どこかに行くならばスケッチぐらいしようとする癖が抜けなかった。もうそんなことをする意味は無く、意思もないはずだ。
 病院を抜けるのは意外と簡単だった。もっと厳重なセキュリティが施されているものだと思っていたが、受付も見たところ無人で、あっさりと通り抜けることが出来た。楽で良かったが、この病院の管理体制に少々不安になる。意見箱があったら赤鉛筆で書いて入れたいくらいだった。
 朝独特の、浮き足だった澄んだ空気が体を包む。病院から朝ヶ丘までは大まかに考え三十分。駐輪場にある他人の自転車を拝借する度胸はないので、当然歩かなくてはならない。幸い足に異常は無かったが、疲れそうだなと思った。
 道は空いていた。この町でも比較的大きな道路で、歩道と車道が段差で区切られていた。だが歩く人間も、走る車も少なかった。
 朝は静かだ。涼しく、孤独である。早起きは苦手だが、世界中で生きているのは自分だけと錯覚するような静けさが愛しかった。
 街路樹を挟んで、遠くに海が見える。朝ヶ丘ではなく、真っ白な砂浜が広がる海水浴場だ。病院は高台にあるため、ガードレールから先の斜面に生えた木に視界を遮られている海岸が途切れがちに見えた。多くの観光客が寝静まっているため、人は少なそうだった。
 歩いていると不思議と寝ているときよりも多くのことを考えることが出来た。歩く律動が思考と似ているからだろうか。様々な考えが枝のように広がり枯れていった。
 そしてその幹は必然的に崖にやってくる少女のことだった。
 これまで会ってきた人格を思い出す。短気で自己中心的な八雲、父親のような出海、深い傷を持つ岬、赤ん坊の凪、殺意と怒りに満ちた夕子、そして強がりだがその実弱い美空。
 それぞれが違う感情と記憶を核とし、別々のアイデンティティを獲得している。確かにこれらが一つの身体にあり、生きているのは異常なことだ。神秘であり、恐怖である。
 だが、それでも彼女たちは一人の人間だと和広は思った。人の心は一枚岩ではない。怒りながらでも慈悲を、悲しみながらでも喜びを、絶望しながらでも希望を心に宿すことが出来る。
 そもそも人間同士の認識など、その人の数%をみて判断しているに過ぎない。もし和広の中に違う人格が居座ったとして、誰が和広ではないその人を認識するのだろう。分かりやすい記号がなければ、違和感程度は起こるものの他人だとは考えない。
 気づいてやらないと、相手を思うこともできない。
 何も変わらない。同じ人間なのだ。むしろ月海たちは自分より余程人間らしいと思った。様々な感情が、記憶が、生々しく残って、分かってほしいと叫んでいる。
 だからこそ、誰かが彼女たちの叫びを見つけないといけないのだ。
 自宅の前に立つ。幸運なことに警官も両親もいなかった。そういえばママはあの場所から和広を運んでから警察に連絡したのだ。この路地裏から繋がる崖を、警官も想定していないのだろう。
 家の脇にある朝顔の植木鉢をみる。この間みたとき閉じていた最後の一つが咲いていた。水色の、今にも空気の中に溶けていきそうな淡い色彩の花びらだった。しかしその色は己が存在を示すように、弱々しくも凛々しく咲いていた。和広は心に芯が通ったような気持ちになった。
 人の関係は変わっていく。現状を維持しようとしても時間と共に摩擦が重なり、結局は変化せざるをえない。だからこそ、その変化を良いものにしなくてはいけない。
 森を抜け、朝が丘に出る。少女はまだ来ていなかった。考えてみれば、最後にあったとき、彼女は実の父を突き飛ばし、和広の腕を潰したのだ。警察にも追われている彼女がこの場所に来る方が間抜けなのかもしれない。
 それでも待とうと思った。和広は岩のひとつに座る。極々自然に、無意識に。袋の中からスケッチブックと鉛筆を取り出した。右手の激痛とともに激しい自己嫌悪に襲われる。だがその手を止めることは出来なかった。
 無駄だと分かりながら、スケッチブックを開き、左手で固定する。無意味だと悟っていながら、痛みと痺れで震える手で鉛筆を握りしめた。右手の動作をするたびに、神経がすり鉢で潰されたような激痛が走った。
 そういえばこの場所でスケッチはしたことなかったと思った。すぐさまその牧歌的な思考を打ち消す。
 この腕で一体何が出来る。このあきらめた心で一体何が描けるというのだろう。今更、絵を描いて何を得ることが出来るというのだ。
 鉛筆を持った右手が上がる。腕は三十五度以上開くことが出来なかった。手首を動かし、指を操作するたびに、手首からちぎられるような激痛が襲う。それらに耐えながらスケッチブックに鉛筆を走らせた。
 弱々しく、蛇行した線だ。蛇が通ってもこんな間抜けな線はしていないだろう。それ程までにあきれる線だった。
 それでも和広は線を重ねた。無意味な行為、無価値な線。左手に持ち替え描いたが、同じように弱々しいものしか連ねることが出来ず、なによりスケッチブックを支える右手が恒常的な痺れと痛みに苦しむ。
 手を変え、姿勢を変え、あらゆる形を試した。スケッチブックを辿る線は、海を描くことも、景色を映すことも出来なかった。
 ――どうして。
 和広はいつの間にか涙を流していた。不器用な線を描くたびに涙がこぼれ、視界をにじませた。
 ――どうして俺は泣いているんだろう。
 何故俺は、それでも鉛筆を走らせようとしているのだろう。
 もうあきらめたはずなのに。無理だと、理解したはずなのに。
 腕がひきつり、鉛筆が落ちる。乾いた音を立て岩場に落ちたそれを拾い上げようとする。
 その硬く細長い感触を感じたとき、和広の口から嗚咽が漏れた。
 ――もっと絵が描きたい。
 なんて単純な理由。無様な程に幼稚で、馬鹿らしいほど簡単。まるで、三つの音しかない純正和声。だがそれは絶対の真理だった。
 ――俺は、
 それは欲望にも似ていた。禁断症状だった。夢に未来に摩耗し閉ざされた今、それは虹のように鮮やかな色を携え和広の目の前にあった。
 ――ただ、絵を描くことが好きなんだ。
 もっと描きたいものがあった。家の傍らの路地裏の日陰も、岩の間の踊るような浪合も、命を飲み込むような森も、なによりも美しい人間を。
 もっと筆を走らせたかった。キャンパスに恋い焦がれ、デッサン用の木炭に愛狂う。
 何で今更と漏らす。何故今になって、こんなにも激しく愛おしい最初の感情を思い起こさせるのだ。
 いや、今だから分かるのだ。夢を閉ざされ、その残骸をみているからこそ。その輝きが目を焼いた。
 和広は泣いた。嗚咽を漏らし、声を憚らず涙を流した。涙は潮風に溶け、嗚咽は潮騒に乗って崖に広がっていくようだった。自分がこんなにも泣くことが下手になっていることに気が付いた。
 それは間違いなく、夢見る人間の慟哭だった。


 砂利を踏む音がした。既に涙は止まっていたが、鼻は充血して詰まっていた。
「・・来てくれたんだな」
 自分の発した声若干上擦ってしまい、少し恥ずかしくなる。女の子の前だというのに随分と情けない姿があったものだ。
 呼ばれた少女はびくりと身体を震わせる。和広が振り向くと、そこには白いワンピースを着た無垢な少女がいた。
 白は何も無い状態と共に神秘的な感情を想起させる。白は何色にでもなれる。朝顔の中心も白だ。そこから様々な色に染まっていく。三原色とは外れた始まりの色。
 彼女は一定の距離を置いてこちらにこれないようだった。生理的にこれないようではない。心の壁が邪魔をしている。こんな反応は他のどの人格にもなかった。
「月海、だね」
 存在する可能性から一番高いものを選ぶ。それ以上に、お姉ちゃんの娘である彼女に会うことを和広は望んでいた。
「・・・はい」
 今にも消え入りそうな声で少女は言った。自尊心も、自信もない小さな声。自分の全てを否定しているような瞳。他者との対話を恐れ食事の時にしか使いたくないと主張している唇。それだけでわかった。この子と自分は同類だ。
 どうしようもなく、自分という存在が嫌いなのだ。
「こっちに来なよ」
 そう言って和広は隣の岩を指さした。月海は随分と躊躇っていたが、おずおずと時間をかけて到達し、腰を下ろした。
「会うのは初めてだよね」
「・・いえ、実は、谷川さんに初めて会ったのは私なんです」
 途切れがちに少女は言った。
 彼女に初めて会ったときのことを思い出す。あのとき彼女は、和広を見てまるで殺人犯に相対したような恐怖に歪んだ表情をしていた。
「あのときは、ちょっとびっくりしたよ」
「・・・・ごめんなさい。母が死んだっている場所にいた人に、みつかったって考えたら、急に怖くなったんです」
 それだけ、たったそれだけの理由だ。死のうとした場所であり、母が死んだ場所に人がいた。まるで母を殺したかのように。
 いや、実際殺したようなものだ。お姉ちゃんの手を離したのは紛れもない和広自身だ。
「俺と、葵さんの関係。ママから聞いてる?」
 和広の言葉に月海が首肯する。
「だから、その、教えて欲しいんです。お母さんが、この町で最後の時間どう過ごしたのか」
 一世一代の言葉のように緊張していた。きっと人にものを頼めるような子ではないのだろう。
「それはいいけど、条件がある」
「なんですか?」月海は震えながら問い返した。
「君の絵を描かせて欲しい」
 意外な申し出に彼女は困惑しているようだった。
「でも・・・・・その手・・・・・」
 ああ、と和広は先程まで生死よりも悩んでいたことを再確認する。まだ心の裂け目は縫合されていない。だがそれを女性の前でみせるのは愚以外の何物でも無い。それに少し答えも見えかけた。
「大丈夫」
 和広は晴れやかに微笑んだ。
「描ければいいんだよ」


 最初の数分は静かだった。和広が左手で描く上での理想的な姿勢を見つけるのに手間取ったからであるし、月海はそんな和広に対して声をかけようにも躊躇ってしまっていたからだろう。
 やがて和広が不器用に運ぶ鉛筆の音が一定になる。世界は調停され、潮騒が戻ってきた。
「・・・お母さんは、最後笑っていましたか?」
 初め、月海が聞いたのはそんなことだった。
「あんまり覚えていないよ。そのときは必死だったから、ただ」
「ただ?」
「君に謝ってた」
 少女の瞳に涙が溜まる。人の死は、特に自殺に至るプロセスは決して美しいものではない。死は自殺を除いて己の意思とは何の因果のないものから起きるものだ。だからこそ人は長く生きることを望み、死を理不尽で平等なものとして捉える。
 人間は内面を裏返し、自らすら嫌悪する本性をみたとき、自らを殺すのだ。そんなものが美しいわけがない。
 彼女は涙をこぼしながらそれでも座っていた。拭うこともせず、しゃっくりを我慢してそれでも人間として泣いていた。
 そこからぽつぽつと話を続けた。七年前の忌まわしい記憶。ずっと和広を縛り付けていた一人の母親の記憶。それは何よりも代えがたく、棄てることの出来ない物語だった。
 一緒に朝々丘で話したこと。話していたのは娘の話ばかりだったこと。お好み焼き屋で好き嫌いを咎められたこと。サッカーの試合を観戦されて恥ずかしい思いをしたこと。幼い一夏の短い間に凝縮された思い出たち。和広は胸をつくような痛みと共に、記憶が思い出に変化していく様を感じた。
 少女は言葉は少なめだった。喋ることに慣れていないわけじゃない。話すことを恐れている。自分の汚れた指先が、発した言霊が、全てを台無しにしてしまうとでもいうようだった。
 彼女の姿勢はとても綺麗だった。他のどの人格とも違い佇まいに洗練されたそれがある。お姉ちゃんは月海に随分と厳しい教育をしていたことを思い出す。故に何も見たくないと地面を向いていることが際立った。
 表情には色がなかった。夕子のように負の感情により外界との繋がりを拒絶しているのではない。自らの存在を許さない故に、自らが世界に働きかける行為を最小限にしようとしている。それは外界を守るためであり、自分を否定という形で認識するためだ。
「・・・あの人はよく笑ってた。俺の行動が幼稚だったからか、そのときをかけがえ無く思ったのかは分からない。でもいつも寂しそうだった。君を大切に出来なかったことを悔いていた」
 だから彼女の存在を肯定するようにした。孤独な人間にとって必要なものは眼に見える承認であり、言い方を変えればお節介でもある。
 バストアップのスケッチを描いていた和広は、左手の感覚との格闘と喋った疲れのため少し手を止め視線を落とす、彼女の手首には新たな包帯が乱暴に巻かれていた。
 その視線に気づいたのか、一瞬彼女は隠すようなそぶりを見せる。だが、被写体が動くのは良くないと思ったのか。それとも、本当は誰かに見て貰いたかったのか、和広から視線を外しながら口を開いた。
「昨日、カッターで切りました。私が切ったのか、他の誰かが切ったのか曖昧なんですけど、私が望んだのは確かです」
 治療は万全なものではないのだろう。継続して付けられている傷跡には新しい血の跡があり膿があった。
「それってさ。痛くないの?」
「痛いです」
「それでもするの?」
 途端、彼女は押し黙った。しまったと和広は思った。言葉は選んだつもりだったが、彼女を責める形になってしまった。
「・・・・傷を付けると安心するんです」
 長い沈黙の後、月海は口を開いた。
「心が痛くて、身体が痛くて、自分が嫌いで堪らなくなったときに、どうしても傷つけたくなるんです。気持ち良いというのとは少し違うんです。
 傷の痛みで、心の苦しみを塗り潰すんです。
 許されたような気がして、現実を変えた気がして、癖になってしまうんです」
 その気持ちが和広には分かる気がした。
 世界にはあらゆる苦しみがある。苦悩は人間にとってマイナスの感情しか与えられないが、痛みは違う。傷つける人間、対象、程度、手段、理由により傷による痛みは快楽になる。
「君は、死にたいの?」
 和広は問う。人格の一人である美空は言った。大切な人が死のうとしている。八雲は自殺願望がある人格に毒を吐きながら、それでも朝にこの崖にやってきた。きっと他の人格も同じように行動していただろう。死に焦がれる己の半身を守るために。
「・・・はい」
「どうして」
「もう、生きていたくないんです」
 あまりにも単純な理由。それはあらゆる苦しみを濾過し、不純物のない段階まで純正化されたものだった。
「・・・私が、自我を認識して、最初に記憶があるのは父と母の喧嘩でした」
 苦しみの吐露には堰がない。ため込んだ故にその苦悩は巨大で、止める術など本人にもない。
「お父さんが殴って、お母さんが高くて耳に付く声を上げる。布団に中に潜って、耳を塞いでも声は聞こえました。人の耳って本当不完全です。聞こえたくないものまできいてしまうんだから。
 それで私は、頭の中に友達を作って、その友達とお喋りするようになりました。その子は男の子で、勝ち気で、いつも両親を罵っていました。
 一応そのときには頭の中にお姉ちゃんと、お父さんみたいな人はもういたけど、よく喋ったのはその男の子、八雲でした」
 空想上の友人。外国ではよくある症例だ。そしてその友人は自分の持っていない憧れの姿を具現したものが多い。彼は実父に対して強い嫌悪の態度を示したのも、そういった成り立ちが原因だろう。
「その内、お父さんは私とお母さんに、関わらないようになりました。好きの反対は無関心ってよくいったものだと思います。互いの家族としての存在意義をロールプレイするぎこちない共同生活でした。
 でもさすがに離婚するとき、泣きました。苦しくて、相手が怖い時って、その人が優しかったときのことしか思い浮かばないんです。もう一度、お父さんに抱き締めて欲しかった、それだけだったのに」
 子供の世界の大部分を占めるのは親であり、父は安寧や秩序といったものを司る。家族が壊れると言うことは世界が壊れることを意味する。
「私はその頃から臆病だったから、言われるままに生きていました。言われるままに勉強して、食べて、泣いて、寝る。引き取ったお母さんが再婚することになっても、迷惑をかけないように普通の女の子として、望まれるままに。・・でも」
 少女の声は震える。独白は止まらない。人は他人に自分を伝えたいと衝動を持つ。告白という行為は相手に自分を分け与え束縛したいからでもあり、自らの心の安定を保つためのものだ。だからこそ、この少女の言葉の一つ一つが重かった。
「新しく、お父さんになった人は、優しかった、最初は。でも、あの人の目は、私じゃなくて、私の身体を見てた。何で、お母さんは、あんな人と、確かに生きなきゃ行けない、だけど、汚されて、傷つけられて、そうまでして・・・」
「落ち着いて。無理にしゃべらなくてもいい」
 和広は月海の言葉を遮る。過呼吸に陥りそうになった彼女の側に行き、左手で背中をさすった。治療を必要とする段階ではなかったが、不安になった。
「もういい。そこまでつらいことを思い出さなくてもいい」
 和広は言葉を繰り返す。
 人格が出てこないことが妙だと思った。ここまで苦しんでいるのなら、それを代替わりするために人格を分離させたはずなのに。
「いいんです。話させて下さい」
 精一杯力を込めて月海は言った。呼吸も安定し、精神も通常値に近い。それにある種の覚悟があった。和広は元の場所に座る。
「私は義父に性的暴力を受けました。母には上手く隠していたようで、言っても信じてもらえませんでした。その頃から、よく時間を失うようになりました。夜だったのに気がついたら朝だったことも沢山有りました。そのことがうれしかった。夜の、つらい記憶を覚えていないで済んだから」
 この頃に恐らく岬が生まれた。義父から受ける痛みを代替わりするために、弱々しい幼子のままで、成長することなく従順に。
「しばらくして、私は小学校で傷害事件を起こしました。同級生をカッターで切りつけたそうです。小学生が傷害事件って結構当時報道されていたんですよ?
 軽くいじめられてはいましたが、傷つけようと思ったことは一度もありません。それは私が時間を失っている間に発生しました。夕子でした。
 私の知らない間に、私の中に、私のためのコミュニティが出来上がっていたんです」
 その後、彼女は熊田のクリニックに連れていかれた。そこで自分が沢山の人格を内包する存在ということを知った。
「私は、怖くなった。この身体に別の誰かがいる。知らない間に知らないことをしている。でも、現実はそれより厳しかったんです」
 精神の治療は、捜査に似ている。何があったか原因を調べ、解決する。それを快く思わない人間もいる。
「治療を進めるに連れ、義父のやっていたことを話すようになりました。熊田さんは、岬や夕子とも話しました。熊田さんから話を聞いた母は義父に問い詰めました。
 義父は最初、心病んだ娘の戯言だと一蹴していましたが、徐々にそれも言えなくなってきました。なんせ、実際に心が分裂するまでなっているんですよ。何もなかったと考える方がおかしい。
 義父は私とお母さんに対し、暴力を振るい、治療を辞めさせることを強要しました」
 他人を従わせるのに暴力ほど効果的なものはない。恐怖をすり込み、精神を摩耗させる。尊厳は削れ、傀儡となってしまう。
「しばらくして、母が全てを投げ打ち、この崖から自殺しました。ずっと支えてくれた母が死んだときはさすがにおかしくなりました。記憶はありませんが精神病棟にも入ったようです」
まだそのとき月海は小学生だったのだ。和広では考えられない程過酷な幼少期だった。
「それから、ずっと隠れるように生きていました。義父におびえながら、熊田さんのところに通いました。特別にお金は免除して貰いました。払うなら義父にばれるし、熊田さんにとっても私みたいな症例は珍しかったのでしょう。
 何より熊田さんがここで見捨てることは出来ないって。そうして七年間過ごしました。」
 日常は埋没する。どんな過酷な暮らしでも、それが長く続けば適応してしまう。そして精神は時計の歯車のように少しずつすり減っていく。
「七年間、私は、ずっと死にたいって思ってきました。
 でもそれは本当に死にたいと思っていた訳じゃなかった。いつも全てが嫌になって、喚き散らして、時間を失って、死んでやるって、熊田先生に言っていました。だけど、それは本当じゃなかった。そのときの私は、ただ先生の気を引きたかっただけです。
 それが自分で許せない。気を引くために他人を追いつめて、ただ喚いて時間を失う。それが自分で気持ち悪かった。どうしようもなく浅ましくて、自分を傷つけました。
 熊田先生が家庭の事情で離婚したとき、私なんて言ったと思います?「私は先生の子になるの、なんで離婚なんてするの、信じられない」って言ったんですよ。笑っちゃいますよ」
 月海は自嘲の乾いた笑みを浮かべた。端に涙が溜まっている。
「どうしようもなく、自分が嫌いになりました。この崖で海をみていると自分のそうした醜い部分が見えてくるんです。どうしようもなく幼稚で、論理性に欠けていて、異常なんです。
 それで何より嫌だったのは、そんな自分とこれから何十年も付き合わなくちゃいけないことでした。人生の乗り換えなんてできない。幼稚で、誰が何をしでかすかわからない「私」から逃げることができない。優しくしてくれる人に、罵詈雑言を投げ、知らない間に殴って、気味が悪いほど依存をする。自分のことながら気持ちが悪いです」
 岩場の間で波がはじける。遠近感がおかしくなるこの崖は、自分を見つめてしまう魔力がある。 
「・・・・それで、もう、いいんじゃないかって思ったんです。
 もし生きることが義務だとしたら、それを放棄する資格があるはずでしょう?いても異常者である私は誰も困らないですし、人も社会も重荷が経るだけでしょう」
 彼女の声には様々な感情が交じっていた。
「それだと他の人格も死ぬよ」
「別にいいじゃないですか!」
 月海は持ちうる全ての声を出した。
「私はお母さんを殺した!お父さんも怪我させた!熊田さんにも、酷いことを言ってしまった。
 ・・・谷川くんの未来も、奪ってしまった!
 こんな人間、生きている価値がどこにあるんですか!誰が、人として接してくれるっていうんですか!
 私は狂っている。そしてそれに逃げようとしている。それが自分で許せない。
 確かに皆は私を守ってくれた。だけど、そのせいで、どれだけの人を・・」
 最後に残った怒り、それは自分を傷つけたものへ向かっていなかった。自分という存在、そのものに対しての憎悪だった。
「もう疲れたんです。周りも、自分自身も、これで全てが綺麗になるんです。この身体は私のもの、生きるか、死ぬか選ぶ権利すら私じゃないものに縛られたくありません!」
 その言葉は、お姉ちゃんの最後を想起させた。どれほどの苦しみが彼女を縛っていたのだろう。どれほどのつらさの中、彼女は月日を積み上げてきたのだろう。
 月海は立ち上がった。急に波の音が耳に戻ってくる。
「絵は描けましたか」
「・・・・まだだよ」
「棄てて下さい。あなたに描いてもらえる資格なんて、私にはない」
 他者の価値観を彼女は放棄した。自らの心の領域、聖域とも表現できるそれは自分を確立させるための意思と記憶の概念。そこへの他者の介入を拒否した。
「最後に、あなたに会えて良かった。お母さんの最後を、私たちを知ってくれた人」
 振り向き、彼女は崖の先端に向かう。初めて会ったときと同じように、よろめきながら、夢に浮かされるように、ただそこを目指した。それが唯一の救いだというように。自分としての存在のまま生涯を完成させられるたった一つの冴えたやりかただと主張するように。
 何をしようとしているかは明らかだった、だが、和広は動けなかった。
 ・・・他者に生を強制する権利が自分にはあるのか?
 生まれてくることには意志はない。感情を持つことに理由はない。ならば死を選ぶことすら出来ない人間の自由は一体どこにあるというのだろう。
 社会は雁字搦めだ。他者と関わるだけで社会は生まれ、社会は構成要素である人間を否応なく縛る。だから和広は人との関わりが嫌いだった。他人が自分の意志を束縛することが怖かった。逆もまた同じだった。
 死が社会からの離脱する唯一のというのなら、この世にまつわるあらゆる苦悩から救い至らしめる最後の道だとするならば。関わりを放棄してきた和広に彼女を止めることなど出来ない。
 本当に、それでいいのか。
 四歩、七歩、生と死を区切る青色の境界が、彼女に迫る。死という概念は何も拒んだりはしない。母なる海と同じように、全てを平等に包み込むだろう。
 また、見殺しにするつもりなのか。
 右手が激痛を以て、孤独を愛する自我に叱咤する。彼女によって壊された未来。人との交わりによって破棄された夢。
 血流が酸素を際限なく運ぶ、全ては反射的に、だが絶対の意志の力によりそれは起こる。
 彼女の足はすでに境界を越えかけている。安らぎは眼前、朝の澄んだ空気の中どこまで開け広がった世界の中、彼女は、
「――駄目だ!」
 和広は、落ちた。
 朝日に目が眩む。それとほぼ同時に、両の手に凄まじい負荷がかかる。だが和広は手放さない。右手が粉々になりそうな痛みを爆発させる。それでも渾身の意識で耐えた。
 視界が慣れる。そこには、互いの右手を以て宙に繋がれた真っ白な少女がいた。
「どうして・・・・・・」
 月海が呟く。自らが繋いでいる右手に対してか、それとも左手を崖の端にかけ包帯の巻かれた右手で少女をつなぎ止めている和広に対してか。
 和広は崖に左手をかけていた。右手で月海を支えながら。
「くっあっ」
 和広は呻く。痛みで言葉すらでない。思考すら裁断され、記憶が断絶する。だがその手は絶対に緩めなかった。
「どうして助けるんですか!」
「死なせ、たくない、からに決まって、いるだろう」
 痛みに意識が途切れがちになりながら、答える。
「手を離してください!あなたまで、死んじゃう!」
「それはごめんだ。だけど君をお姉ちゃんと同じようには、したくない」
 あのとき、和広は恐れていた。人に踏み込むことを、人の生死を左右してしまうことを。何よりも他人を背負うことを。だが今は違う。
「あなたは私から、死ぬことすら奪うの?」
「違う。君は死にたくないはずだ。君たちは生きることを望んでいるのだから」
 彼女たちは様々な理由のためこの場所に来た。ある者は父親に会うため、またある者は母の最後を知るために。だが彼女たちは主人格である月海を思い、死ぬことを止めようとしていた。
「・・・・みんな、私をずっと追い詰めてきた。義父も、お母さんも。他の人格も。
 私の中の夕子はあなたを傷つけた。夢を閉ざした。あきらめざるを得ない身体にした。あなたは私を憎んでいるはずでしょう。許さなくていいし、許されちゃ駄目なんです。
 私はいらない存在なんです。私は歪で異質な人間。私はこの世界にとっての不純物なの」
「違う。早く岩肌を掴め」
 腕がちぎれるように痛い。二人分の体重を支える左手が悲鳴を上げる。
「・・・・でも、私がいても、誰も私を」
 そこで和広の感情は堰を切った。
「他人に君がどう思われているかなんて聞いちゃいない!君がどうしたいんだってき聞いてんだ!」
 和広は叫んだ。大きく、彼女と彼女たちの聖域に踏み込んだ。
「俺は絶対夢をあきらめない。右手が駄目なら左手を使う。腕が駄目なら足を使う。四肢が動かないなら口を使ってでも絵を描いてやる。こんな怪我、君が気にすることじゃないし。君ごときで潰えることじゃない、
 他人の言うことも、他人の人生も、結局は他人事だ。確かに他人との繋がりは大切だよ。友達のいない人生なんて意味も価値もない。だがな、生きるのに他人に迷惑をかけるのは当たり前だ。自分の意志すら他人のために決定するのは間違っている。
 君は本当に自分に価値はないって、死にたいって思っているのかよ?
 君の中にいる皆は、自分を、君を死なせたいと思っているわけないだろう!」
 和広は彼女を引き上げることができない。腕は既に限界で、今にもビスケットになって崩壊しそうだ。だから月海が引き上げなければならない。他でもない月海自身を。
 彼女は生を願っているはずだ。交代人格は彼女自身の思いに他ならない。無意識に彼女は自分を救おうとしている。それを他でもない月海が認めなくてならない。
 意志は肉体を凌駕することはない。針金が飛び出た指の感覚はもうない。だが、もう少しだけでいい。今和広が握っているのは命だ。意志が足りないならば覚悟を上乗せするだけだ。全身の神経で右腕を支える。あらゆる心を総動員して命を繋げ。
「私、は・・・・」
 彼女の声には躊躇いがあった。絶望の中、なおも希望を思う正しい人間のカタチだった。
「いいか。生きることは問答無用なんだよ。君もずっと、皆と一緒に、生きてきたはずだ。貪欲に、自分がどれほど嫌いな存在でも、呼吸をしてきたはずだ!
 悩むのなら、苦しいなら生きろ。一人でも、一四人でも無理なら俺も背負ってやる。不器用で甲斐性なんて皆無だけど。他人を背負うくらい出来るようになったんだ」
 幼年期は過ぎた。己を無力と罵る時期は終わった。一人で立ち、他人を支えられる。その覚悟を和広は得ていた。
「私は、」月海は涙を浮かべながら、岩肌を掴む。その手は震え、怯えていたが、何よりそれを渇望していた。
「・・・・・生きたい」
 そう絞り出した。
「生きたい。死にたくない。死にたくなんてない。つらいけど、資格無いけど、誰かに迷惑をかけることになっても、それでも、」
 それでも、生きたい。
 止め処なくあふれる願望。誰も認めなくても自らは認めなくてはならない意志。生命として、当たり前の欲望。
 和広は頷いた。
「上がれ!」
 体力の全てを費やして、和広は自分と少女を引き上げた。腕の感覚はもうない。だが、それでも力を振り絞った。月海も自ら動き、和広が上がるのを手伝ってくれた。二人とも、縋り付くように、生と死の狭間をよじ登った。
 朝ヶ丘に上がった二人はしばらく呼吸が整わなかった。和広は右手が砕けてしまいそうな程の痛みに意識を途切れさせる。それでも、後悔はなかった。
「ふ、ふふ」「ははは」
互いに自然と笑みがこぼれた。その後二人は涙を流しながら笑いあった。何故か分からなかった。だが、腹の底から、生きていることがうれしかった。
 波の音と、高い崖、どこまでも青い。その場所で二人はかすかに、しかし高らかに笑った。
「絵の続きを描いていいか?」
 和広は尋ねた。生まれ変わった自分が初めて描く絵をどうしても完成させたかったのだ。
「・・・はい」
 優しく、涙ぐみながら、あの人に似た笑みで月海は頷いた。


 岩の上に座り、彼女と対峙する。拙いタッチで目の前の美しい少女を描いていった。
 月海はすっかり落ち着いたようで、穏やかに、だが緊張した表情で、和広に指定されたように遠くを見ている。
 ふと、和広は思った。今、彼女は誰なのだろう。
 外見から今、彼女がどの人格かは判断が出来ない。和広に見えるのは白いワンピースを着た少女であり、腕に先程、落ちかけたときの擦り傷が腕と足に少しある。
 少し垂れた瞳、形の良い睫毛、少しやせ気味の頬、どれも両親の面影を彷彿とさせる。だが各人格を判別することが出来る記号はどこにもない。目の前にいる少女はもしかしたら美空かもしれないし、岬かもしれない。ひょっとしたら夕子で、こちらに襲いかかるタイミングを計っているかもしれない。
 結局、他人からみたら彼女たちは一人なのだと思った。記憶と感情が苦痛によって分離しただけ、たったそれだけで社会には不適合になる。
「・・・・不便だよな。人間ってさ」
 誰に向けた言葉でもなく和広は呟く。人は互いの心に真にふれあうことは出来ない。群体ではなく個が尊重される今の時代ならなおさらだ。
「違いますよ。和広くん」
 少女が答える。彼女は誰だろう。月海か、美空か、あるいはまだ会ったことのない人格か。だがそんなことは、主観的な視点にとって些細なことでしかないのかもしれない。
「分からないからこそ。触れあおうとするんです」
 完全に分かり合えないからこそ、触れあい、そこに個が生まれる。人が互いを認識して初めて自己を認識することが出来るように。
 人間の意識というのは儚く、不確かなものかもしれないと思った。いつか美空と八雲が言ったように、一分前の自分、十分前の自分、一年前の自分、そして現在の自分。これらは記憶として連綿と続いてはいるが、信念も感情もそのときにより大きく違う。それらに由来する自我もまた違うものだ。
 故に人間は脆い。だからこそ、他人に自らを許す。心という聖域への介入を許可する。脆いからこそ支え合い、傷つけあい、自我を確立させる。互いの存在を、認め合う。
 人と関わるのは、実はどうしようもなく利己的な行為なのかもしれない。
 依存、投影、親愛、憎悪、嫉妬、恐怖。他人に向かう心は、どうしようもなく汚らわしいものばかりだ。
 それでも、人が関わり合うことは、例えようもなく素晴らしいことなのだ。
「・・・ありがとう」
 月海は言った。それは深みのある、不思議な響きをしていた。 
「迷惑をたくさんかけるかもしれないけど、もし許されるなら、これからも一緒に、いて下さい」
 親愛どころか、恋ですらない契約。朝の光の中、始まりの時間にいるこの二名はきっとまだ人との距離を知らない。
 一人は一途に夢を目指し、一人は複数に分かれた自己に埋没する。そんな二人の関係は今から始まるのだ。
「ああ、こちらこそ」
 和広は鉛筆を置き、出来た絵を差し出した。おずおずと少女は受け取る。
「私こんなに美人じゃありませんよ」
 月海は笑った。その絵よりも余程美しい少女は、朝顔のような綺麗で眩しい笑みを浮かべた。

エピローグ

 出発の日だった。荷物は何度も確認した。特に財布の中は念入りにした。美しい光沢を放つゆうちょカードは十回ほどみた。
 鞄の中には着替え、本、そして大部分を占める画材。後の必要なものはすでに向こうに送ってある。家具は向こうでゆっくり選ぶ予定だ。
 谷川土産店の前には早朝だというのに人が集まっていた。両親は勿論、岸にママ、布施先生、そして月海。
「ついにカズが上京かあ、予備校だけど」岸が呟いた。
「それをいうなし」と和広は言った。
 結局、右手は完全には治らなかった。腕は肩より上に上がらなくなり、少し痺れも残っていた。あの日から和広は必死に左手で絵を描く練習をした。
 右腕が壊れても画家になる夢をあきらめないことを両親は承諾し、都内の予備校に通うことを父はあっさり許可した。良いのかと聞いたら。
「そんな迷いのない顔で息子に言われたら、何であろうと断れねえよ」
 と父は笑った。
「まあ、もうすぐしたら俺たちも行くからな」
 と布施先生は言った。
 この半年、彼はずっと月海の虐待に関しての裁判を義父に対して起こしていた。月海の珍しい症例は世間の目を浴びることは必死であり、義父は親権をゆずり、多額の慰謝料を払う代わりに内密にして欲しいと交渉してきたそうだ。月海も別に義父を監獄に入れたいわけではなかったし、それを承諾した。
 だが主治医である熊田の診療所は都内にあり、この町から通うには遠い。なのでこの春、布施親子は通院しやすい都内に引っ越すことになった。ちょうど和広の通う予備校と近い。
「和広くん。忘れ物はない?保険証とか、予備校の書類とか」と月海は言った。といっても今は月海じゃない。美空だろう。
「当たり前だよ」と和広は苦笑した。
 最近やっと、仕草や、雰囲気、口調から誰が表面人格として表に出てきているか分かるようになった。今はピンとした背筋と、後ろに置かれた手。美空の仕草だった。
 半年という時間は、不器用な二人でも理解し合うには十分だった。和広は彼女たちと様々な交流をしてきた。完全とは言わないが夕子とも和解しかけていた。多重人格というものは思い込みが強い。どんな溝があっても時間をかければ埋めることが出来た。
「どうかしら。和広くんはどこか重要なところで抜けているんだから」
 美空を初め、人格たちはよく笑うようになり、安心した顔をすることが増えた。それは父親が側にいて不器用ながらも愛しているせいかもしれないし、和広という友人ができたせいかもしれない。
「これ、みんなから。受け取って」と美空は一枚の封筒を渡してきた。
 和広は受け取り、封筒を開く。そのことを美空は咎めなかった。きっとすぐに見て欲しい内容だった。
 手紙だった。様々な筆跡で書かれ、寄せ書きのようでもあった。


 あなたの夢が現実を打ち破り、大きな果実を結実することを祈っています。美空

 かずひろさんなら、だいじょうぶ。きっとすごい絵かきさんになれます。だから、がんばってください。岬

 凡人なりにせいぜいあがけ 八雲

 応援しているよ。和広くんの人生に幸あれ 出海

 手形(注:凪)・・・・


 各人格からの激励の言葉だった。全部を読むのはやめておいた、涙が出そうだった。
 彼女に向き直る。美空に声をかけようとして、違和感を感じた。きっと人格がスイッチしたのだろう。
「あなたと会わなかったら私はもう死んでいました」
 月海だった。珍しいなと思った。月海は複数の人間がいるところで表にでることは少ないのだ。
「俺じゃなくても、会ったら誰でもつぐみんを救ったよ」
「つぐみんはやめてください」月海は怒ったので和広は笑った。ニックネームでからかうと必ず怒るのだ。見ていて飽きなかった。
「和広くんだったからこそです。あなたは私みたいに自己否定の面が強かった。だからこそ、自分を愛することと、他者を大切にすることの難しさと愛しさを誰よりも知っていた。
 そして何よりも不器用だった。だから不器用な私たちも怖がりながらだけど、触れることができた」
 二人は歪だった。人に関わることを恐れ、反面それを何よりも渇望していた。だからこそ、触れあうことが出来たのだろう。恋でも、友人ですら違う、原初の人間関係なのかなと和広は思った。
「買い被りすぎだよ。俺こそ、君たちがいたから、夢を研ぎ澄ませることが出来た」
 苦難こそ人を強くすると言えばおかしいが、意志を確認させる。腕は壊れてしまったが、それでも超えられない壁に挑み摩耗するまで、この火は消えないだろう。
「・・・ごめんなさい」
 月海は頭を下げた。和広はそれを制した。
「・・・きっとさ。人と関わることは傷つくことでもあるんだ。俺はそれがたまたま右腕だっただけで、他の人たちも、自尊心とか、価値観とか、そういったものを無意識に傷つけて新しいものに変えていくんだ」
 そうして学んでいくのだ。人との距離、そして自分というものを。
「だから、月海が気に病むことは無いんだ」
 人と人がぶつかり合うのは当たり前のことなのだから。
 そろそろ時間だ。新しく前をみることを強要される日常が始まる。それは人間らしい日々であり、夢には必要なプロセスだ。
「いってらっしゃい」
「頑張ってこいよ。谷川」
「なんかおいしいものでも送ってよね」
「有名になるまで帰ってくんなよ。カズ」
 各々、個性に満ちた言葉で和広を送る。優しい重圧と、溢れんばかりの親愛を添えて。
「いってらっしゃい」
 月海が、握手を求め、和広はそれに答えた。彼女の手首には自分を否定する傷がまだ残っている。だがそれでも彼女はもう生を手放さないだろう。
 だから、お互いに少しだけ強くなろうと思った。
 朝顔はすでに時期を終えた。だが季節は巡る。生と死の狭間にあるこの町でまた花を咲かせる。朝々丘はまた絶望を飲み込み、生を謳い、ただそこにあり続けるだろう。まるで夜明けのように。或いは朝日のように。
 そんな淡い場所にしばしの別れを。願わくばこの場所の絶望が、次の日に希望となりますよう。
「行ってきます!」
 優しい潮騒の中、和広は歩き出した。


     了

潮騒の町と朝顔の少女

落選した作品です。初めての長編、初めての投稿であり、出来が酷いことはもう丸わかりで、穴があったら掘り進んで腐葉土を被り土に帰りたいくらいです。
こんな作品でも読んでくれたあなた、そうそこのあなた、本当にありがとうございました。

執筆にあたり、以下の書籍を参考にさせて頂きました。


17人のわたし とある多重人格女性の記録

解離性障害 多重人格の理解と治療

自殺したらあかん! 東尋坊の“ちょっと待ておじさん”

潮騒の町と朝顔の少女

全国的に有名な自殺名所の崖「朝ヶ丘」。その崖の側にある土産屋の息子、和広。彼は画家を目指し高校生活を送っていたが、将来の不安で揺れていた。そんな高校三年生の夏休みの朝、彼は不思議な少女「美空」に出会う。その出会いは、過去と今の時計の歯車をかみ合わせるものだった。

  • 小説
  • 長編
  • 青春
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-01-14

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 美空の章
  2. 八雲の章
  3. 岬の章
  4. 葵の章
  5. 出海の章
  6. 潮騒の章
  7. 月海の章
  8. エピローグ