「六次の隔たり」と「友達の輪」

 私の中で、今も昔も不思議なテレビ番組が「笑っていいとも」です。
 説明不要であろう国民的長寿番組ですが、随分前に放送が終了した番組なので、もしかすると、若い方の中にはリアルタイムでほとんど観たことがない方もいるかもしれません。なんせ、最終回から十年近くも経過しているのです。2014年3月31日終了だったそうです。

 その頃の私は、テレビの視聴をやめて丸三年ぐらいでしょうか。もちろん、最終回も観ていません。と言いましょうか、よくよく考えてみますと、子どもの頃からずっとやっていた番組ですけど、最終回どころか、通常の放送も数えるほどしか観たことがないような気がするのです。
 冒頭に「不思議な番組」と書いたのは、このことです。
 つまり、ほとんど観たことがないはずなのに、何故かよく知っている番組だし、「いいとも!」の掛け声は誰でも知っていますし、最初にテレフォンショッキングというゲストとタモリさんのトークコーナーがあることも、その時その時に人気のある芸人さんが日替わりでレギュラーコーナーを持つことも、何なら、放送後に小堺さんの「いただきます」が始まることも、知っているんです。でも、ほとんど観た記憶がありません。

 大体、平日のお昼十二時からの放送って、皆さんはどうやって観ていたのでしょう? 録画してまで観たい番組でもないでしょうし。
 高校生までは、普通に学校に行っていましたし、大学も専門学校も平日の十二時からテレビを観る環境はありませんでした。その後はイタリアへ渡りましたし、帰国してからもお昼にテレビを観るなんて生活には恵まれませんでした。
 なのに、知っているんです。
 まぁ、なんだかんだ言いつつ、風邪で休んだ日とか、代休取れたりとか、長期休暇中とか……きっと、ちょこちょこと観ていたのでしょうね。残念ながら、記憶に残るような場面とかがある番組ではなく、軽く流す感じの番組なので、尚のこと記憶が曖昧なのでしょう。

 さて、本題はここからです。
 いいとものテレフォンショッキングは、元々のコンセプトは、ご存知の方も多いでしょうけど、「友達の友達は皆友達だ。世界に広げよう友達の輪」です。タモリさんが小さな輪を作った後に、観覧客全員が頭上に輪を作って、声を揃えて「輪!」と叫ぶお約束、アラフォー以上の方はご存知だと思います。
 この「友達の輪」は、伊藤つかささんの大ファンだったタモリさんが、友達の友達の友達の……と繋げて、いつか本人に会って友達になりたい、という目的で生まれたそうです。
 しかし、この「しきたり」はいつの間にか無くなり、テレフォンショッキングも日替わりゲストとのトークコーナーになりました。

 ところで、友達の友達は皆友達……でしょうか?
 子どもの時から捻くれ者だった私は、ずっとこの言葉に違和感を持っていました。何故なら、友達の友達にも嫌いな子がいっぱいいたからです。なのに、大人は「友達の友達は皆友達」と煽り、「皆んな仲良くしましょう」という謎の価値観に正義と美学を見出し、子どもに強要するのです。
 おそらく、子どもの頃(と言うか、大学生ぐらいまで)の私は、誰とでも上手く付き合えるタイプだったと思います。でも、誰にも心を開かない子でした。友達はたくさんいた方だと思いますが、内心では嫌っている子もたくさんいました。
 周りから見ると、誰とでも仲良くしている(とっても可愛らしい)優等生だったかもしれません。自分で言っちゃいますけど、多分、クラスの人気者だったと思います。あくまで「自称」ですが。
 でも、だからこそ、親友と呼べる子が一人もいないことに、誰も気付いていなかったと思います。

 大人になると分かることもあります。友達の友達なんて、どうでもいいってこと。確かに、たまに気の合う人もいます。でも、その場限りの人もいます。二度と会いたくない人もいます。友達の友達ってそんなものです。
 もっと言うなら、「友達の友達の話」って信憑性に最も欠ける話として有名です。「友達の友達がさぁ……」で始まるだけで、「嘘話だな」とほぼ断定出来ます。友達の友達が言ってました。そんな「友達の友達」と仲良くなれるものでしょうか?

 ただ、子どもとの一番の違いは、大人になると人間関係を自分の意思で取捨選択出来るということです。
 子どもは勝手にコミュニティに押し込まれ、同じ学校に通わされ、クラスメイトをあてがわれ、仲良くしないといけないと刷り込まれるのです。今でこそ、子どもの意志も少しは考慮されるようになりましたけど、それでも大人のような自由選択からは程遠いです。仕方ないことではありますが。
 友達の友達とも、好き嫌い関係なく、程よい距離で付き合わざるを得ないこともあるのです。逆に、矛盾するようですが、稀に「〇〇ちゃんとは遊んではいけません」と、友達になる権利を剥奪されることもあるのです。
 要するに、子どもの人間関係は大人の都合で決められてしまうこともあるのです。今だからこそ、友達の友達は皆友達である必要なんてないと分かりますが、疑問を持つことさえ憚れてしまうのです。
 もちろん、積極的に友達を広げていく社交的な子もいます。大人の都合なんてどこ吹く風、たまたま同じ時に同じ場所にいただけで、意気投合することも珍しくありません。友達の友達ですらなく、ゼロから友情が生まれるのです。人間関係においては、大人よりずっと柔軟な対応が出来る子もいるのです。

 大人は、どうしても慎重にならざるを得ないケースもあります。
 人間関係を取捨選択出来るとは言え、無用に争ってはいけないという理性も育っています。友達じゃないのに、仲良くする振りも上手くなります。友達じゃなくても大切にすべき関係なんてものも生まれます。持ちつ持たれつ、付かず離れずの関係が、友達より大切なこともあります。本当に友達だったら、色々と楽なのになぁと思うぐらい、浅く広く交友は広がっていくものです。

 友達の友達は皆友達……これは、大袈裟に言えば、人類が共有する願望なのかもしれません。本当に、友達の友達が世界中に広まれば、平和な世界になるでしょうから。
 そこまでは求めなくても、友達の友達から交友が広まることが多いのは、自然な道理であるはずです。SNSでもそうですね。推しの推しは好みが合う可能性が高いでしょうし、現実的に、共通のフォロー、フォロワーがよく被る方は、仲良くお付き合いしている方ばかりです。
 そう考えると、友達の友達は友達になれるのかもしれない……いや、なるに越したことはないし、なれる可能性も高いはずなのです。

 ここで、ようやくタモリさんの言っていたことが、少しだけ分かるようになった気がします。そう、「皆友達だ」の「だ」は、事実を断定する「だ」ではなく、そうあるべきだ、という決意や希望を言い聞かせている「だ」なのです。逆に言えば、なかなかそれは叶わないということです。友達の友達が言ってました。
 同時に、私の疑問は「皆」にあると気付きました。友達の友達は皆知り合いにはなれるでしょう。でも、友達になれるのは「皆」ではないのです。理想とは裏腹に、単なる「知り合い」で留まる人も、間違いなく存在します。しかも、そういう人に対しては、必ずしも好意的な感情を持っているとは限りません。
 要するに、「友達の友達は皆知り合い」なのであって、「知り合い」と「友達」は違うのです。友達の友達が言ってました。

 話は飛びますが、「六次の隔たり」という言葉があります。これは、知り合いの知り合いの知り合いの……を繰り返していくと、6ステップで世界中の人と間接的に繋がることが出来るという理論です。
 仮説では、一人あたり四十五人(もしくはそれ以上)の知り合いがいるとして計算されます。例えば、私の知り合いが四十五人いるとして、その四十五人全員にも四十五人の知り合いがいるとします。しかも、重複する人がいないとします。すると、私の「知り合いの知り合い」は、45の二乗(45×45)で2,025人になるのです。これが、私の「知り合いの知り合い」の数になるのです。
 この2,025人にも四十五人の重複しない知り合いがいて……と、これをたった六回繰り返すだけで、計算上は約八十三億人となり、現在の世界の人口を上回るのです。(※現在は八十億人を突破したと言われています)

 ここでは、便宜上、四十五人としました。六次の隔たりで八十億を超えるように、恣意的に算出した数値でしょう。しかも、実際には、二次、三次と重ねる毎に重複する人も出てくるのでしょうけど、それも無視して、最後まで四十五人ずつ確保出来るという前提での算出になります。あくまで平均とは言え、そんな都合よくいくわけない、と思う方もいることでしょう。
 世界の人口も、しばらくは増えていくと予想されていますので、そのうち八十三億人を超えると、計算上でさえも成り立たなくなると思う方もいらっしゃるでしょう。つまり、「六次の隔たり」なんて信憑性に欠ける……と受け止める方もいると思います。

 しかし、実は、その逆なのです。最近の研究では、むしろ六次も掛からないとの予想が主流なのです。その一番の要因は、一人当たりの「知り合い」の数が劇的に増えていることです。これは、言うまでもなく、SNSの普及です。
 現在では、この理論計算に使われた四十五人という数値は、あまり現実的でないと言われております。少な過ぎるのです。実際は、一人平均数百人で計算すべきという説もあるのです。もちろん、「友達」ではなく「知り合い」の数ではありますが。
 その前提で計算しますと、多少世界の人口が増えようが、五次以内の隔たりで世界中の人と繋がれるとも言われています。おそらく、重複しなくても一人平均百人は、決して多い数値ではないと言われているのです。
 一般人の感覚では、平均百人だなんて多過ぎる! と感じるでしょうが、知り合いが数万人、いやフォロワーが数百万人って人も珍しくない時代なのです。仮に「知り合いが0人」という人が数万人いたとしても、フォロワー数百万人という人が一人いるだけで、平均百人を超えるのです。

 ちなみに、「六次の隔たり」を一人あたり百人で計算すると、何と一兆人と繋がれるのです。もちろん、地球人はそんなにいません。「五次の隔たり」まででも百億人ですから、余裕で世界人口を超えるのです。
 となりますと、もし「友達の友達は皆友達」ならば、世界中の人はあっという間に全員友達になるのです。タモリさんが、あれほど世界に広げたがっていた友達の輪なんて、実は、たった五回のクッションで達成出来るのです。
 なのに、戦争や紛争が起きているのが現実です。「五次の隔たり」で世界中の人と繋がれても、やはり「知り合い」と「友達」は全く別なのでしょう。この観点からも、友達の友達は、友達とは限らないことが分かります。
 実際、知り合いが百人いたとして……友達は何人いますか?
 私は、多分一桁です。

「六次の隔たり」と「友達の輪」

「六次の隔たり」と「友達の輪」

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-01-16

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