慣用的な言い回し(毒吐く独白)

 比喩や湾曲的な表現、寓言、メタファーなんてのも含めていいのかな、慣用的な言い回しとかもそう、擬人化もそうかな、そういった広義での「たとえ」の表現を理解出来ない人は、文芸作品を楽しめないと思いますし、そんな人が書く作品はつまらないでしょう。

 実際、慣用句にも数え切れないほどそういった表現があります。
「油を売る」と聞いて、今の日本にそんな奴いないだろうとか、「足が棒になる」と聞いて、身体の一部が棒に変化するわけない、と思う人は、リアリストでもなんでもなく、単なる偏屈者か馬鹿のどちらかで、教養と知性を疑うレベルなのです。
「目が点になる」「生き馬の目を抜く」「木で鼻を括る」「身を粉にする」……挙げていくとキリがありませんが、これらの「たとえ」を理解出来ない人に、読解力は求められませんし、イコール、小説を書く才覚もないでしょう。
 仮に、そういう人が小説を書こうとしたところで、単なる「文章」が精一杯で、文字通り「話にならない」のです。

 どうして突然こんなことを書くのか? と思われるかもしれませんが、答は簡単で、ある方に怒っているのです。
 その人、私は口を挟まないようにしましたが、最近あるユーザーさんとの間にも、クリエイターとしてあるまじきレベルの問題を起こしました。
 具体的に書きますと、ある方の作品のアイデアを勝手に転用し、作品を作り、投稿したのです。しかも、元ネタの帰属表記やリンクの添付、説明も何もなし。後になって、元ネタのコメント欄に、「この作品が面白かったので、私も同じネタの作品を書きました。盗作ではありません」と書き込んだことがせめてもの救いですが、決して許される行為ではありませんし、明らかな盗作を加害者側の判断で「盗作でない」と言い切る無神経さに呆れ果てました。後からでも申告すれば、盗作でなくなるとでも思っているのでしょうか?
 万引きをした後に、後になってやっぱり代金を支払い、万引きじゃないです、と言っているようなものです。(実際にそういう人はものすごく多いのですが)
 表向きは、被害にあわれた方の良識的で温厚な対処により、穏便に収束はしましたが、私の中ではある発言を理由に、「この人最後まで理解していなかったんだ」と判断しました。件の作品を削除し、元ネタを書いた方に謝罪をしたのですが、最後の最後になって、「同じオチを使ったのは良くなかったですね」と書いていたのです。

 違う違う違ーう!
 問題はそこやないっ!

 その出来事により、その方への見る目が変わっていた(実際に目は変わらないので、これも慣用的表現ですね)のですが、その後、つい数日前のこと、全くの別件によりまたまた疑問を持ってしまったのです。
 それは、私のある記事へのコメントで、ちょっと悲しくなるような質問をされたことです。
 直情的に、正直ムカつきましたけど、後から考えて、私なりの解釈には辿り着きました。要は、この人は私の記事を全く読んでいなかったんだなと思ったのです。
 じゃないと、一見さまや知り合ったばかりの方でもない限り、「この猫の絵は貴女が書いたのですか?(原文ママ)」なんて失礼な質問はしないでしょう。
 ちなみに、この場合は「描く」が正解ですけどね。

 別に、「私に興味持て」とか「私の記事を読め」なんて言うつもりは一切ありません。フォローしてくれている方に、それを条件にするつもりも強要するつもりもありません。そういう意味じゃないのです。
 ただ、まず大前提として、絵を投稿した人に、「貴女が描いたの?」って聞く神経を疑うのです。私が人様の絵を、自作のように投稿しているとでも思ったのでしょうか?
 noteで誰かの小説を読んで、「あなたが書いたの?」と質問しますか? それと同じことです。
 もし、その人にとっては予想外なことで「えぇ、すごい!こんなことも出来るのね!」という意味を込めて「貴女が描いたの?」という表現になった可能性があるとしても、私が下手なりに鉛筆画を描いていることは、多分皆さん知ってくださっていると思いますし、実際に何度もアップしてきましたし、プロフにも書いていますし、スキのお礼画像も全て自作の鉛筆画ですから、それはそれで余程興味なかったんだ、という裏返しに他ならず、悲しいことです。
 しかも、シリーズ七作目での質問ですし、シリーズ五作目では彼から「スキ」もいただいております。知らなかったわけがないのです。

 どちらにしましても、「貴女が描いたの?」という質問は、あまりにも失礼過ぎると思うのです。しかも、もっと言いますと、それに対して私は返信しましたが、その後、四日経ちますが何の反応もありません。不快な質問だけして、あとはどうでもいいのでしょうね。何がしたかったのか、本当に謎です。

 でもって、話を戻します。
 私が「note創作大賞」の「ミステリー小説部門」に応募した作品のタイトルは、ある有名な唱歌のタイトルをそのまま使っています。
(厳密には、この唱歌のタイトルは不確定な要素もありまして、ソースにより幾つかの表記があるのですが、その中の一つを作品タイトルにしました)
 その原詩に込められている作者の想いを、作品のモチーフの一つとして大きな意味を持たせている作品です。
 なのに、今朝、その作品タイトルを冗談のつもりかもしれませんが、愚弄する、或いは小馬鹿にするようにも受け取れることを呟やいており、それまでの悲しみが完全に怒りになりました。

 いや、遠回しに書くのはやめましょうか。
 私の応募作品のタイトルは、『歌を忘れたカナリアは』です。これは、西条八十の「かなりあ」という詩に成田為三が曲を付け、「歌を忘れたカナリヤ(諸説あります)」というタイトルで有名な唱歌を由来としています。

「歌を忘れたカナリア、って云うけど、カナリアに歌える訳なでしょ!リアリストの私はその様に思う。(原文ママ)」

 これが彼のつぶやきです。脱字はともかく、『歌を忘れたカナリアは』は、私にとっては全身全霊を注ぎ込んだ思い入れの大きい作品ですし、西条八十の原詩を暗記するぐらい読み返し、作品のモチーフに取り入れています。
 もちろん、タイトルにも大きな意味を持たせています。
 それを根本から否定して、茶化して、自称のリアリストを盾に正当化して……彼のこの発言は原詩に対して向けたものなのか、私の作品に対してなのかは分かりませんが、どちらにしてもとても看過出来ません。

 いや、誰が何を考え、どう思い、どの様に発言しようが自由です。でも、それにより、信頼や交友関係は構築されるものと思います。
 ここまで感性を共有出来ない人とは、とても友好的な関係は築けませんし、前述した色んなことを鑑みても彼が私に全く興味がないことは明白です。また、私も(返報性の原理でも書きましたが)そういう人には全く関心を持てません。
 もっと言うなら、故意に挑発された可能性も否定出来ないでいます。いや、高い確率で本当にそうなのだろうな、と思っています。

 noteでは、創作活動を通した交友として、楽しく友好的に皆様とお付き合いしていきたかったので、こんなことはしたくないのですが、初めてブロック機能を行使することも検討しています。
 宴にもご参加くださった方だし、私は友好的な関係を維持したかったのですけど、人間的に響き合う部分がありません。ぶっちゃけ、彼の「作品」を幾つか拝読しましたが、私の好みのものは一つもありませんでしたので(もちろん、それは足掛かりにはなることはあっても、実際の交友は別と考えていますが)、お互いフォローしている意味がないのでは? と考え始めていた矢先でした。
 とりあえず、私からのフォローは解除しました。
 どうせ、彼はこの記事さえも読まないでしょうから(長文記事は読まない方というイメージです)、いつかフォロー解除に気付いたとしても、理由は分からないままでしょうね。そのことに関しては、申し訳ないとは思います。

慣用的な言い回し(毒吐く独白)

慣用的な言い回し(毒吐く独白)

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-01-11

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