光っている。
 輝いている。
 雲間から覗く太陽が川を照らして、私はそれを眺めている。
 ああ、この「きらきら」の中に入り込んでしまいたい。
 土手の草むらに座っていた私は立ち上がり、ゆっくりと「きらきら」に近づいていった。ただまっすぐに、私は「きらきら」になろうとした。石畳は歩きにくい。気づけばサンダルが水に浸かっている。足首、脹脛(ふくらはぎ)太腿(ふともも)、下から順番に輝き始める。もっと、もっと、もっと。
 ふいに地が無くなった。私の全身は「きらきら」の中に入った。これで私の望みは叶う。酸素がなくても、喜びを感じることはできるみたいだ。
 しかし、何故だろう。せっかく「きらきら」になれたのに、手足をばたつかせている。
 その時。
 ぐいっと右腕が引っ張られた。顔が水面の上に出て、空気を手に入れた。私はそのまま、力ずくで石畳の上に載せられる。
「川は急に深くなりますよ。」
 ハンドタオルで髪を拭いてくれる。このお方は誰だろう。見知らぬ男性だ。
「どこからいらっしゃったんですか?」
 ああ、「きらきら」から現実へ、戻ってきた。
「僕の家、すぐ近くなので、とりあえずうちへ。それで良いですか?」
 私はそっと頷いた。

 車の種類はわからないが、高級車ではないらしいということはなんとなく分かる。私は助手席に乗せられて、男性が右側で運転している。シートを濡らしてしまって申し訳ない。
 すぐ近くだと言ったわりには案外遠い。停まった場所は、建てられてからいくらか年月が経っていそうなアパートだった。車に乗っている間、何度か男性を見た。この人は偽善者ではない、という気がした。

 導かれるままに付いてきてしまったが、これで良かったのだろうか。一階の一番奥の部屋に入ると、すぐに洗面所に通された。
「お風呂、使ってください。」
 そう言い残して、男性、いえ、萩森と表に書いてあったので、萩森(はぎもり)さん。彼は戸を閉めた。
 濡れたワンピースを脱ぐと、鏡は下着姿の私を映す。痩せすぎている自覚はある。
「扉の前に服を置きますから、これを着てください。」
 萩森さんの声。
 シャワールームに入り、蛇口を捻る。熱すぎず冷たすぎず、ちょうどいいお湯が肩にかかった。両手を使い、髪を梳かし、全身にお湯を塗るように丁寧に浴びた。
 借してくれた服は、ずいぶん派手だった。

「ありがとうございました。もう帰ります。服は必ず洗って返します。」
 私は頭を下げて、一息に言った。
「そうですか。もしかしたらお腹が空いてらっしゃるかもしれないと思って残り物を温めたのですが、必要ありませんでしたね。」
 その時、グウ、という音を立てたのは、私の体だった。萩森さんがニヤニヤ笑っている。
「お口に合うかどうかはわかりませんが、召し上がってください。」
 小さなダイニングテーブルの上に並べられた料理は、なんだか茶色い。この人が作ったのか、と思うと何と言えばいいかわからない気分だったが、ほんの少し取って、口に運んでみた。
 味が濃すぎる!
「お、おいしいです……」
「笑ってますよ、ほんの少し。
 僕、顔を見ればわかるんです。その方が何を思っているのか。わかりにくい方ももちろん少なくないですけど、あなたはわかりやすい。今、悪い気分ではないでしょう?
 良かったら、お腹いっぱい食べてください。しょうが焼きはパワーをくれますから。」
「お言葉に甘えて。」
 それからしばらく、黙って食事をとった。どれも濃い口だが、これも悪くない。何より、このテーブルの向こう側に人がいる。手料理なんて久しぶりだ。
 私は、皿洗いを手伝ったら、綺麗に去ろうと思った。萩森さんは慣れた様子で食器をひとつひとつ磨き、私はタオルでそれらを拭いた。何度か指先が萩森さんに触れた。
 この場所にいれば、少しは……
 いや、それはだめだ、甘えすぎだ。

「何から何まで、ありがとうございました。今度こそ、帰ります。」
「どこに帰るんですか?」
「……」
「家はどこですか?」
「……」
「家出、ですよね?」
 言ってはいけないと思っているのに、口が勝手に動きだす。
「泊めて頂けないでしょうか……」
 やはり、困らせてしまったようだ。眉間にしわが寄っているのが分かる。
「信じて頂けないでしょうが、家出ではないです。本当です。
 とにかく、遠くへ行きたくて、電車に乗って、車窓から見えた綺麗なところで、降りたんです。ただそれだけです。
 一週間、いや、三日。今日を入れて三日。そしたら、必ず出ていきます。」
 私は腰を折り曲げた。この姿勢では見られないが、きっと困り果てているだろう。事実、黙っている。
「では、三日間、あなたは僕の同居人です。
 女の子を泊める、と言うのはよろしくないですので。」
「ありがとうございます。」
 さらに深く頭を下げた。
「そこのソファを使ってください。今日はだらだらしましょう。今日電車で見たものとか、聞かせてほしいです。」
 顔を上げたら、薄くて白いカーテンがオレンジ色に染まっていた。

 あれ……?
 時計を見ると、午前十時。久々に、よく寝た感じがした。ベッドではなくても、ふかふかのところでは体が休まる。私、疲れていたんだ。
 昨日の夕食のように、テーブルには食べ物が並べられ、それらはまとめて大きなラップで覆われていた。何やらメモも置いてある。
「仕事に行ってきます。七時くらいに帰ります。」
 字は人柄を表す。
 昨晩、かなり早い就寝だった。
 話しても意味なんかないのに、ペラペラと。でも、やはり言えることと言えないことの境界線を、越えることはできなくて。
 何度も苗字が変わった。何年も実質一人暮らし。日中は働き、夜になると必ず帰ってきた母親は、時が経つほど、なかなか戻ってこなくなった。ただ気がないというだけで、自分で学校に欠席の連絡をした。いつしか毎日の電話すらなくなった。
「フッ」
 心配してくれていた子たちは離れていった。人はいつか離れる。わかっているつもりなのに、ときどき、無性に寂しくなる。
「無理して笑わなくていいです。」
 そう言って、萩森さんは布団をかけてくれた。そして、電気を消し、彼自身も寝室へ消えた。

 私は手を一回叩き、立ち上がった。
 家事なら得意だと思う。仕事が終わって疲れて帰る時、待っていてくれる人がいる。それは何よりも幸せだって、母が昔言っていた。
 まずはピカピカに掃除する。洗濯機も回した。そして、料理。冷蔵庫にあるものの中から材料を選び、やや薄味で仕上げる。薄い方が健康的だし、野菜も多めに添えてみた。
 喜んでくれるかな。
 書き置きの午後七時を少し過ぎても、萩森さんは帰ってこなかった。もうすぐ十一時、やっと玄関から声が聞こえてくる。
「床がスベスベだな。ん?」
 目を丸くして、私に訊いた。
「これ、全部、美麗さんが?」
「余計でしたか?」
「そうじゃなくて!」
 美味しそう! 散らかってない! と子どものようにはしゃいでいる萩森さん。
「いただきます!」
 もう冷めているのにガツガツ食べている。
「待っててくれたんですね。」
 下手くそだけど、私は笑った。萩森さんは、もっと笑った。

 僕はまだやることがあるので、と言われて先に休んだが、深夜に起きてしまった。本を読みながら寝落ちしてしまったようで、萩森さんは机に突っ伏している。周りにはくしゃくしゃのティッシュが散乱していた。
 あまりにも無防備で、私はそっと近づいてみた。顔を寄せてみても、起きない。ベッドで休んだ方がいいですよ、と言って起こすのも忍びないので、その場にあったブランケットを掛けた。椅子の背もたれが邪魔だったが、横から背中に寄りかかり、お疲れ様、と言ってみる。何やってんだか、と思うと虚しくなって、またソファに戻ろうとした。
 ゴトっと背後から音がして、暖かな体温に包まれる。
「……」
「……」
「……」
「ありがとう。」
 彼は寝室へ向かった。
 掃除した時、寝具がやたら大きいことに気づいた。ベッド下収納を開けてみると、コンドームを見つけた。
 女性の出入りがあるらしい。つまり、貸してくれた派手な服は、その女性のものだろう。
 どうせこの人も明日で離れるんだ。

 目が覚めたら8時だった。昨日と同じように、テーブルには朝食が並んでいて、萩森さんはもういない。食べたら食器を片付けて、掃除、洗濯、夕食の支度。ずいぶん前には自分のためだけに米や汁物を用意していたが、長らく料理はしていなかった。それでも感覚は残っていて、そして、作れば二人で食べられる。
 もうやることはないかな、と確認をしていた時、ガチャっと音がした。まだ明るいのに、と思いつつ「おかえりなさい。お疲れ様です。」
「美麗さんごめんなさい、今から近くの居酒屋に来てもらってもいいですか。友達がどうしてもと言うので。」
「分かりました。」

 連れていかれた店は確かにすぐ近くだった。赤い暖簾がかかっていて、もう他のお客もいる。お友達さんは、私を一目見て「意外だな」と言った。

「お前、ペース早いぞ。」
 私は萩森さんの普段を知らない。
 ただ居るだけになるだろうと予想したけど、私も輪の中に入れた。楽しい時間はあっという間に終わるもの。萩森さんは酔いつぶれてしまい、お友達さんに背負われて帰宅した。ベッドまで連れていってから、私はお茶をだす。
「ところで、馴れ初めって聞いちゃってもいいですか?」
「馴れ初め……」
 さすがに言えないな、と思う。
「私たちは何でもないですし、今日が最後なんです。」
「え?」
「本当ですよ。」
「あいつがこんなに飲むなんて、葉月さんを手離した時以来ですよ。だから、」
「ハヅキさん?」
「知らないっすか、元奥さん。
 あれ以来、ずっとここで独り暮らし。男一人には広いっすよね。遊びまくってたのに、すっかり大人びやがって。」
 この方も酔っていて、饒舌だった。

 きっとあの居酒屋が最も繁盛しているであろう時間に、私はそっと出ていく。来た時の服はとっくに乾いていて、いつもの姿に戻った。道のりは長い。窓の外は暗くて、街がよく分からない。
 いつかまた逢えたら。
 いつかまた会えたら。
 コンビニで菓子パンを買い込み、少しづつ消費していく生活に戻った。料理しても、食べてくれる人はもういない。あの人の家は掃除したけど、この家にはモノが散らばっている。あれっきりで、たった3日で、離れた。
 どこか遠くへ行きたい。変えてくれる何かがあるかもしれない。いつも通りの考えが頭を巡り、でも、どうやら私は違うみたいだ。

「どこか」を思っていたはずなのに、あの川の光を想い出す。まためぐり逢えるような気がする。この世は広いのに、そんなわけないのに、また会える気がする。
 私は駆け出していた。あの時はちょうどよかった服装が、今は寒く感じる。夜の電車は遅かった。今乗っている電車はもっと遅い。早くしてよ!

 駅名は覚えていなかった。風景だけが頼り、だけど、はっきり覚えているから大丈夫。

 あの日降り立ったあの場所で、私は萩森さんに出逢えた。
 適当に車を走らせていたあの場所で、僕は美麗さんに出逢えた。
 「きらきら」は、一層輝きを増していた。
 ただの川の景色なのに、綺麗だ。
 石畳の上に座る萩森さんは、「きらきら」よりもきらきらしている。
 川を眺める僕を見て、心から笑っていて、それは美しくて麗しい。

 私たちは、
 僕たちは、
 離れないんだ。

カクヨムWeb小説短編賞2023応募作

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-12-30

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