猫とヨットで日本一周記

猫とヨットで日本一周記

猫とヨットで日本一周放浪記
2023年2月吉日
安井 翔

目次
エピローグ
ヨットを購入する前の僕。
ヨットとの出会い
購入してからの一年間
トラブル
瀬戸内海脱出
安定を捨て夢を追いかける
四国九州一周旅行
本州一周、北海道一周
九州、トカラ列島、奄美諸島、沖縄離島への旅
日本を周り終えてからのこと

エピローグ

これは僕の体験記で、六年ばかりのヨット生活を纏めたものです。メモや航海記録も少しはありますが、ほとんどが記憶を頼りにこの文章にしています。ですから、もしかしたら時系列は前後していることや、勘違いしている事があるかもしれませんが、最大限事実に基づき、忠実誠実に記載するよう努めていますので、どうぞ最後まで読んでいただき、これからヨットに乗りたい人の参考になったり、生活の知恵として参考になれば幸いだと思います。

ヨットを購入する前の僕。

 僕はヨットを購入する前。このころ32歳で平凡な会社員をしていました。高卒で就職してから真面目に働き、休日はバイクに乗って旅をしたり、大型連休には海外旅行も年に2度ほどしたりしていました。
 僕の旅の目的は秘境にある絶景の景色や、神社仏閣に城などの古い建造物や、美術館や歴史資料館などに回って見聞を広げることです。
 いろいろな小説や歴史書など読むのも好きですが、実際に現地に赴き、自分の目で見てみると本を読んでイメージとのギャップがあったり、老若男女の方々と現地の話しをしていると、また新しい発見があったりするので、やはり、ネットや本で得た情報は手軽ですが、足を運ばないと分からない事も多いと思いますし、五感のうち、本では目だけ、動画で目と耳だけしか使用していませんが、実際に行くと郷土料理を味覚で、風が運ぶ稲や川の匂い、いろいろな物に触れたり、五感全体で感じる事ができるので、僕は時間を見つけては国内外問わず縦横無尽に旅をしていました。
 真面目に働き、と最初に書いてしまいましたが、勤務中は真面目でしたが、旅のために有給と連休を組み合わせて、1か月まるまる会社を休んで旅をしたりするので、そんなに真面目な社員じゃなかったかもしれません。しかも社員数が全体で130人くらいの中小企業の一般社員が、です。

 その1か月有給中の、僕が北欧のフィンランドを旅をしていた時の事なんですが、ラップランドには先住民のイヌイットという方々がおられ、厳しい冬の暮らしや文化を後世へ伝える博物館を訪れた時に、姉妹提携(?)をしている北海道のアイヌ民族のコーナーが目に留まりました。

 僕は日本人でありながらアイヌの事の存在は知っていても、詳しくは勉強していなかったものですから、自分の教養のなさを恥ずかしく感じました。日本から遠く離れたフィンランドでまさかアイヌの事を学ぶ機会があり、そして自分は、自国の文化や歴史の知識の浅さを思い知らされたのです。
それから僕は海外旅行は減らし、国内旅行が多くなりました。自分の生まれた国の歴史や文化をもっと知りたくなったからです。歴史書だけではなく、古事記や日本の伝承の本を読んだり、動画では「日本昔話」のアニメをずっと見たりしていました。
その国内旅行の時なのですが、バイクで旅をしていたら気付くのです。小豆島へ行ったり、種子島や屋久島なんかへバイクをフェリーに乗せて島巡りなんかをしていると、日本は島国なのだと。何を当たり前の事を言ってるんだと、これを読んでいる方は思われると思います。しかし日本人の大多数の方はフェリーには乗ったことがないけれど、電車には乗ったことがあるよ。って方がきっと多いのではないでしょうか?
 後で調べたことなんですが、日本には国内に島が1万4152島あり、人が住んでる島だけでも421島あるそうです。
 学生の頃授業は割と真面目に聞いていましたが、そうゆうことは教えてもらった記憶がなく、47都道府県と県庁所在地や主要な川や山を学んだくらいの記憶しかありませんで
したので、大変驚きました。そして日本の国土面積は世界で61番目の38万キロ平方メートルしかありませんが、日本の海洋面積は世界6位の447万キロ平方メートルで、陸地の12倍も海が広い、世界でも有数の海洋大国なのだということを知りました。
 離島には本土と隔離された古い風習や文化が残っていたり、驚くほど美しい自然が残っていたり、物のない生活の知恵や、古き良き日本を体験させてくれることが多々ありました。僕は離島巡りの醍醐味を知り、魅力に取りつかれました。
 しかし、先ほど記載しました通り、日本には有人島だけで400島以上あり、47都道府県制覇どころではありません。1日にひとつづつ島を回った所で1年以上かかりますし、大きな島ですと1日や2日の滞在では知った気になるぐらいの浅い経験しか得られません。そしてフェリーは出航数も少なかったり、値段も高かったり、日数もかかったり、会社員をしながら離島巡りをするのには限界があるなと感じていましたが、ロマンや夢は広がる一方でした。

ヨットとの出会い

 僕はいろんな本を読むのですが、離島や海に興味が沸いてから、今まで気に留めてなかったジャンルの、海洋冒険記やヨットの本を書店にてたまたま目に留まりました。彼らはプロの物書きではなく冒険者なので、本は少し読みづらい所もありましたが(これを書いてる僕も物書きではないので、ご迷惑をおかけしています。)、その溢れる生命力や熱き血潮の興奮は読むものに凄い衝撃と感動を与えてくれるものでした。
 僕は中でもヨットにて世界中を冒険した方々の本が好きになり、20冊以上読んだのですが、こんなにも日本には凄い人たちが多くいたことを全然知りませんでした。そして、その冒険者の方々は大金持ちとか、何か特別な職業だったり、凄い能力がある一部の人ではなく、ごく普通の冒険心を持った純粋な少年のような印象を受けました。
 もちろん海という自然の中を、小さな個人のヨットで旅をされるのは金銭的にも肉体的にも精神的にも多岐にわたる苦労があり、死にかけるような危ない目にあった記載もありました。飛行機や電車、フェリーのような安全が保障された旅ではなく、自己責任のもと多大な苦労をされて海を渡った勇者の記録であり、誰に褒められるわけでもなく、自分への完全なる自己承認欲求と感じました。
 僕も二十代の頃に探求心から北米、南米、アジア、中東、北極圏など色々な旅をカバン一つ持ってしたことがあり、安全ばかりな旅ではなかったので、似たような価値観と言ったら冒険者の方々に失礼ではありますが、多少なりとも共感できることがありました。
 僕はヨットでの冒険が気になって仕方なくなり、毎日調べるうちに、1か月後、僕が住んでいる兵庫県でヨットに乗せてもらえる人と知り合うことができました。
 その人は70歳すぎの老人でしたが、かつてはヨットの製造の仕事の経験もあり、若いころ仲間数名で30ftのクルーザーヨットにて海外のヨットレースにも参加されたことがある方でした。僕はその方のヨットに乗せてもらい、二時間ほどでしたが体験航海をし、ティラーという操舵の経験も少しさせてくださいました。日本も1970年代や1980年代はとてもヨットが盛んな時代があったらしく、その全盛期にたくさんヨットを乗った人なので、今は海へ出てもずいぶん寂しくなったと嘆いておられ、僕のような若者がヨットに興味を持ち、次の世代へ伝承していってくれたら嬉しいとおっしゃっておられました。
 船を持つ苦労や、費用に心構えなどを聞くのに時間はいくらあっても足りないくらい質問したいことは山ほどありました。
 車やバイクの免許所得や購入、所有することは誰にでも相談できる人が周りには多くいましたが、船のことになると今まで聞ける人はいませんでした。
 その70代の老人が、自身のヨットを売ろうかと提案もあったのですが、大変申し訳ないのですが、船齢も古く、ぼろぼろ過ぎてお断りしてしまいました。その節は本当にすみません。
 実際に乗ってみて、話しを聞いて色々なことを学びました。少し考えたら分かるように、車も軽自動車と普通車や大型車などサイズの違いだけではなく、スポーツカーやセダン、ワンボックスにオフロード四駆があるように、ヨットと一言で言ってもサイズだけではなく色々な種類があり、自分が求める種類がどんなタイプのものかとか、保険や維持費、免許取得の方法に月極の駐車場にあたる、港の契約など具体的に船を持つための知識を蓄積していきました。
 二人目のヨットオーナーと知り合えたのは、一隻目の方から僅か一か月後で、その方は50代のリホーム会社の社長さん、お住まいは神戸の方で、のちに僕のヨットの師匠と呼ばせてもらう方と出会いました。
 師匠のヨットは船齢40年ほどのヤマハ製26ftのヨットですが、手入れをされており、ソーラーパネルや自動操舵にナビゲーションなど計器も色々ハイテク化の改造をされており、帆も展開しやすいようにジブファーラーやスタックバックという装備があり、手軽にセーリングクルージングができる、僕の理想に近いクルーザーヨットでした。
 僕は高卒の中小企業の平社員でしたが、残業や夜勤もしていたため給料は多めで、一人暮らしながら自炊もしていましたし、お金は車やバイク、国内外旅行には使いましたが、できるだけ質素倹約に18から32歳まで生活していたため貯金は多くありました。
 結婚もしていなく、する予定もなかったので、人生一度きり、未練を残すような生き方はしたくなかったので、ヨット購入するためにまずは免許所得することを決意しました。この時、ヨットの冒険記を書店で見かけてから、まだ僅か二か月ほどでした。
 調べると一か月後に船舶免許の試験日というのが分かりまして、すぐに申し込みをし、免許取得のための教習所のような所へ勉強しに行くことにしました。確か一級船舶免許と小型特殊(ジェットスキー)の二つセットのコースで二十万以下だったと思います。そんなに高くない印象でした。
 二級船舶の選択肢は最初からなかったです。なぜならヨットで世界一周などの冒険記を20冊以上読んで、いずれは僕も。と、考えていたからです。試験まで一か月なのですから、かなり勉強頑張りました。海図の書き方、海の道路標識、法律、潮のこと、普通に生活していたら全然知らないことばかりで、少々苦労しました。僕は乗り物の運転は得意なのですが、船は海が動き、風で流されたりするものですから、ブレーキをしても自然に流れていくので、同じ位置に留まる事すら困難で慣れるまで少し時間を要しました。
 学科は過去問を何度も解き、満点とれるまで頑張り、操船の事はイメージトレーニングを何度も脳内で繰り返ししたため、無事に試験は一回で合格することができました。
 そして、免許がとれて一か月後には岡崎造船の30ftクルーザーヨットを兵庫県内の中古船売買業者より購入しました。これが僕の行動力で、良くも悪くもあるところであります。
 国内には主にヤマハ製、ニュージャパンヨット、岡崎造船があるとネットの情報で知りました。1980年くらいまでは日産とか他のメーカーも沢山あったようなのですが、現在はヤマハも撤退し、ニュージャパンヨットと岡崎造船くらいしか無いようです。外国製のヨットは沢山あるようなのですが、なんとなく最初は外車より国産車が安心する日本人の心理と、故障をしてもすぐに対応してくれそうという勝手なイメージにより、ぼくが住んでいる兵庫県から一番近い、香川県小豆島にある岡崎造船の中古ヨットを選択しました。
 そしてヨット乗りの人から聞いた話しや、ネットの口コミなど見る限り、岡崎造船のヨットは大変頑丈に作られており、長持ちするし、良い船だと評判が良かったのも決め手でした。
 岡崎造船のPION30というクラシックなヨットなのですが、悪天候にとても強いらしく、PIONというのはチェスのポーンの由来があるそうです。僕は将棋の有段者なのですがチェスのポーンは将棋の歩にあたります。歩のない将棋は負け将棋なんて格言がとても好きなので、ますます気に入りました。定員数は十名登録でしたが、12名に登録の時に変更しました。ライフジャケットを人数分搭載し、船の検査の時にお金を払えば乗船人数をある程度自由に変更できるようです。
 広さは実際には船内には船首に二人ほど寝れるスペースと、船中央に四人が座れるソファーが左右にあり、その中央にテーブル、後ろに一人が寝れるスペースがあるので、ソファーに一人づつ寝たら最大で五人くらいは寝れる場所があります。詰めたら船内に10人くらいは入れますが、狭いので余裕ある空間としては船内は6人くらいで食事したりするのが丁度いいスペースでしょうか。荷物はソファーやベットの下が荷物入れになっておりますので収納スペースは割とあります。そしてトイレとオーディオ、キッチンなどの装備がありました。
船外にはデッキではコクピットに4人くらいが余裕あるスペースがあり、デッキ中央や船首には10人くらいは座れるので天気のいい日にエンジンだけで走るのであれば定員の12人乗れますが、帆をあげて操船し、ヨットとしてクルージングする場合なら、4人くらいが丁度いい定員なのかもしれません。
装備としてはジブファーラーやメインセールカバーが最初から装備されており、旧式ながら一応オートパイロットも一応ありました。

購入してからの一年間

 築年数が35年ほど経過している中古ヨットだったため、いろいろ手入れが必要でした。師匠にアドバイスを得ながら、友達にも手伝ってもらい、まずエンジンオイルを交換し、エンジンフィルターを交換し、トイレを電動式の新品に入れ替え、ソーラーパネルをメインバッテリー用に100ワット、アクセサリー用のサブバッテリーに30ワット取り付けました。バッテリーもそれぞれ100アンペアのメンテナンスフリーの新品バッテリーに交換しました。
 音楽に少しばかりこだわりがあるため、最初からオーディオはついていましたがカロッツェリアの車用のデッキに交換し、スピーカーも増設し、アンプをつけてウーハーも取り付け5,1chホームシアターセットにしました。よい音楽を聴きながら海を眺め、沸かしたてのコーヒーを飲む。それは最高の時間です。
 船体のほうは損傷あるところはエポキシ樹脂にて補修し、デッキを専用塗料で全塗装し、木部はニスを塗り、船内の床板などは合板などで張替え、ソファーやベットも全部新品に張替ました。
 何度か友達と近場の海をクルージングし、夕日を眺めたり、一緒にお茶をしたり、理想のヨットライフが現実になってきて、まるで貴族のような休日を得ることができました。
 5月の連休には船を上架し、今回も師匠のアドバイスを聞いて、防蝕亜鉛、船底塗料やプロペラ用塗料にマスキングテープに刷毛、ローラー、シンナー、金属ヘラなどを揃えて、友達8人ほど助っ人にも来てもらい手伝ってもらいました。もちろん友達へのお茶や食事など色々とかかったお金はオーナーの僕の支払いなので結構かかりましたが、上架費用や飲食費と備品代で15万ほどでした。
 これは車検にあたる船の検査費用ではありません。毎年必要な点検整備費用です。その他に保険料や港の駐車場代など毎年かかりますが、そんな費用は実は大したことなく、ヨットの部品はいちいち高価で、何本も船に張り巡らされているロープでさえ一本数万円、ウィンチなどの金属部品は十万円単位だったり、船の部品はなんでも高いので、やはりヨットは金持ちの道楽というのは、あながち間違っていないと思いました。保険代の事ですが、プレジャーボート保険というのに入りました。五トン以下の船は保険料が安いのですが、五トン以上になると途端に保険料が高くなるようです。PION30は船の重さは4トン程なのですが、船舶検査証には8トンと書いていました。これは意味不明だったのですが、どうやらいい加減なもので、県ごとだったり年代や測定方法などにより、同じ船でも重さがバラバラのようです。調べてみると国内で、実際に実重の4トンで登録されているPION30もあるようでした。しかし僕は8トンなので保険料がとても高いです。船舶検査をしている団体に申請して再度計測依頼をし、検査証書をやり直してもらえば五トン以下の登録をしてもらえるかもしれないのですが、それには申請料やら時間も手間でしたので、泣き寝入りをしました。
 それでも初めての上架作業も終わり、点検整備も一通り終わったので、一安心しました。
 整備も終わったことですし、五月で温かくなってきましたので、手伝ってもらった友達と毎週クルージングをしたり、家島や男鹿島などに遊びに行ったりしました。初めて自分の船で、自分の運転で離島へ行った感動を、僕の語彙力でここで伝えることが難しく歯がゆいのですが、ただただ感動しました。その日の瀬戸内海はベタ凪で風速4mほど吹いており、上架整備した後のため、帆をあげると美しいそのヨットはすいすいと走って行きます。僕はこの時の感覚を緩やかな坂道をずっとペダルも漕がずに進む自転車のように感じました。帆に風を受けて進むヨットはエンジンもかけなくても動き、変なエンジン音や振動もなく、海の真ん中では都会の雑踏もなく、ただ美しい景色と最高のオーディオからホイットニーヒューストンの美しい歌声だけが響き、ほどよいそよ風が僕たちを包んでくれるだけ。

 師匠に紹介してもらった男鹿島や家島の桟橋に船を泊めて、目の前のビーチ前で美味しい海鮮料理を堪能し、至福のひと時を得る。僕と同じように友達も凄く喜んでいて、それを見て僕もより一層嬉しい気持ちになりました。
 しかし良い面と同時にデメリットにも気付いたのです。ヨットは最高の乗り物ですが、なんせ遅いのです。自動車やバイクは時速50キロ、高速道路だと100キロなんかが普通ですが、ヨットでは時速10キロくらいしかでません。モーターボートや漁船でも時速30キロくらいなものです。そう、ヨットはランニングくらいの速度で、自転車よりも遅いのです。
 ヨットの速さは主に水線長の長さに起因するらしく、師匠の26ftでは平均的には時速10キロすら走りません。僕のは30ftなのでなんとか平均時速10キロくらいなのです。
 お金も時間もある富裕層の乗り物で、週末しか無い会社員の僕達は淡路島や家島諸島が精いっぱいで県外など、なかなか行けない事がわかりました。
 しかも風が強かったり、波が高い日も乗れないので、毎週末必ず乗れる訳でもありません。
 これでは船を購入した理由の最大の目的である、日本中に400以上もある有人島を周ったりすることは時間の問題があり難しいです。
 それと書き忘れていましたが、僕は17歳の時に家庭崩壊してみなしごになった為に、それからずっと一人暮らしだったので、寂しさのあまりに30歳の時にマイホームを購入し、その時から2匹の猫と暮らしています。
 猫と車やバイクで旅行は難しく宿泊先も猫たちと旅館やホテルに泊まるというのは困難なため、海のキャンピングカーであるクルーザーヨットであれば、船で猫と一緒に暮らせるというのも、ヨットを購入した理由になりました。
 猫をペットホテルに預けて、自分だけ旅行に行くなどという事はできませんでした。
 友達やペットホテルに預けた時に猫たちに何かあったりしたらと思うとそんな責任のないことはできないと思ったからです。もしも船で猫と旅をしているときに、沈没などになれば無理心中みたいで、猫には申し訳ないですが、一蓮托生で、預けていたとしても僕が死んでしまえば猫もその後きっと保健所で殺処分などになるかもしれないので、仕方のない選択肢でした。ごめんなさい。でも一緒に冒険して、素晴らしい世界を一緒に見て、一緒に美味しい物を食べようね。

トラブル

 家島諸島には何度も友達とクルージングをしましたし、一人でも操船の練習を沢山しました。7月より男鹿島で海水浴をしましたが、同じ瀬戸内海とは思えないほど海はきれいで、須磨海岸や赤穂海水浴場とは全然比べ物になりません。
 ビーチで海鮮を食べて、泳いで、シュノーケリングをして美しい魚たちを水中カメラで撮影したりして、海の家でかき氷を食べたり。本当に素敵な時間を友達らと共有しました。

 そしてお盆休みになり、1週間ほど休みがあったので、充分に練習もしたので一度徳島や香川県へ行ってみようと思いました。初めての日帰り以外の船旅だったので、今回ばかりは猫は友人に預けました。大海原への大冒険ではないですが、なんせ初めての事なので何かあった場合に猫の面倒まで見る余裕がないかもしれないと思い、宿泊クルージングとはどんなものか経験するための練習クルージングとして四国を目指す事にしたのです。
 飲み物、食料など多めに積み込み、燃料の予備や衣服、トラブル時の工具一式、船の整備も考えつく限りしましたし、準備万端で出航しました。
 初めての長距離航海で、今まであまり気付かなかったのですが、瀬戸内海は改めて潮の影響が凄いのだなと思いました。潮が2から3ノット流れているので、巡行5ノットのヨットは潮の恩恵を受けているときは7ノットとかですいすい進むのですが、逆潮になったら3ノットとかしか出ないのです。1ノットは時速1.852キロなので、3ノットはたった時速5.5キロの事です。歩いてるような速度では、近くに見えている淡路島ですら全然近づいてはきません。これはエンジンをつけていて、帆も張った、2つの動力で走っている機帆走でのことです。僕はまるで車のように目的地まで100キロだから平均時速10キロ(5.4ノット)なのだから単純計算で朝の6時出発で16時に目的地到着ぐらいの感覚でしたが、これは大きな誤りだと、この時に理解しました。前に船の速度は水線長で大体決まるといいましたが、それと共に船の設計スピードというものもあり、PION30では最大速度が7ノットくらいと決まっているので、それ以上のスピードは船体に負担がかかったり、そもそも怖くて、それ以上スピードが出せないものなのです。ですから最大速度は7ノットでも、巡行は調子が良くても6ノットくらいで、逆潮で風もなければ、帆は役に立たず、エンジンだけの動力だったり、向かい風だったら2ノットというのもありえることだったのです。だから下手をすると、というか、甘めに計算して平均時速4ノットとかで計算しなければならなかったのです。遅い乗り物だと気づいていましたが、時速7.5キロというのは想像以上でした。
 今日は全然四国なんかに到着しっこないと、出航から6時間ほど経過した昼過ぎに理解をし、今日は淡路島中部くらいの港で一泊することにしました。ヨットはキールという横流れ防止のヒレみたいなのが船底についており、それがPIONの場合は喫水より1.8mほどあるので干潮時で最低でも水深2メートル以上深い港を探します。淡路島くらいで干満差が2mくらいはあるので、満潮時で4mあればまぁ大丈夫という計算です。
 海図で条件に当てはまる近くの漁港を探してとりあえず水深計器に注意して行ってみます。そして空いてそうで邪魔にならなさそうな所に船を係留してみて、周りを散歩してる地元民や漁師っぽい人に声をかけ、挨拶をして、軽く雑談をしたのち、あのヨットの者なのですが、あそこは邪魔にならないですかね?と聞いてみて大丈夫かどうか尋ねてみました。
 いいよ。という返事をもらった後で、こんな事でもなければ人生で来る予定もなかった地なので、ちょっと周りに何があるかとか、スーパーや銭湯、観光地や神社仏閣なども聞いたりして情報収集したのち、町を探検してみます。銭湯やスーパーはどうやらちょっと遠いらしく、特に観光地もないそうで、それらは残念でしたが、静かな港に静かな町でとても平和でした。2時間ほど散歩をしたのち船に戻って、近くにガソリンスタンドはあったので、免税軽油を使ってポリタンクに補給をしたりしました。免税軽油というのは、ガソリンや軽油には道路の補修するための税金などが含まれているらしく、海を走る船に道路の補修のための税金は払わなくても良いだろう、だからその分は免税してくれ、というようなシステムらしいのですが、ディーゼルエンジンの軽油には免税軽油があるけれど、ガソリンエンジンの船には適応しないらしく、よく解らないシステムです。でも僕のはディーゼルエンジンなので1リットルあたり約30円安くなります。本来軽油が130円でしたら100円で買えるというような感じです。
 燃料補給だけして、船内のキッチンで米をフライパンで炊いて、缶詰やインスタント味噌汁にお湯を注ぎ、質素に食事を済ましました。
 船の食事は朝や昼間は運転をしながらなのでカロリーメイトやパン、カップ麺を食べたりし、港についたら米を炊いて缶詰や汁物を食べ、多めに米を炊いて次の日におにぎりにして食べたりなどします。
 炊飯器は便利ですが、船に荷物が多いと狭いので、必要最低限の物だけ積むようにしています。そして電気の問題もあり、僕はフライパンで米を炊いていました。コツは無洗米で水を節約し、水に30分以上漬けて、後は弱火で湯気がでてからもしばらく炊いて、最後に少し強火にて水分をとばし、多めに蒸らすことです。蓋はガラス製にしたら、米が立ってるのを目視でき、火が入ったか確認しやすいので便利です。運転中はシングルハンドのため、オートパイロットがあるとはいえ、見張りもできませんので自炊はしません。港に到着してから落ち着いて料理をします。この頃のPIONには冷蔵庫はなく、クーラーボックスだけでしたので、食料も常温で大丈夫な物ばかり積み込みました。夏はクーラーボックスの氷は半日で効果がなくなりました。
 食事を終え片付けが済んだら、天気予報をスマホで見てから、ラジオを聴きながら相変わらずヨットの冒険記など読んでいました。船の運転はとても疲れます。1日中ずっとバランスボールに乗っているようなもので、絶えず揺れている中、両足に力を入れ、手で物に捕まったりしてバランスをとっている全身運動のため、すごくお腹が空きます。 
 お腹がいっぱいになり、疲労のため、家にいる時では考えられない21時とかには、本も読み始めたばかりなのに泥のように眠りました。
 予定通り目的地には全然到着することはできませんでしたが、良い港には入れて本当に良かったです。
 2日目は6時に起きて、港の周りを散歩して、海を眺めて大丈夫か目視点検し、暖機運転や一通りの点検をしたのち、7時には出航しました。
 今日は鳴門大橋を超えて徳島県の海の駅を目指しています。初めての他県、鳴門を超えて瀬戸内海脱出を目指しています。
 この日は快晴で波も50cmほどしかなく、風は西南西から風速7mほど吹いていました。僕は南に向かっているので、右舷40度から7mの風の登りいっぱいです。登りいっぱいというのは、ヨットは風で走るものですが、後ろからの風を帆に受けたら当然前に進みますし、横から吹いてもキールで横流れを防止し、推進力を前に替えて進みます。前はというと、正面から左右40度づつは前に進む事ができませんが、キールのおかげでベルヌーイの定理にある揚力を使ってジグザグ走行にはなりますが、前からの風でも前へ進む事ができます。もっと専門的なことを言いますと、ジブセール(前帆)がトップリグではなく、フラクショナルリグであるため、PIONは細身の船型もあり登り角度は良いヨットでした。興味がある人はググってみて下さい。
 登りいっぱいで機帆走で鳴門大橋を目指していると、段々と風は強くなってきたなと感じていましたが、昨日は3とか4ノットでしか進んでいませんでしたが、今日は6ノット以上と快調だったのでフルセール(前も後ろも帆全開)で走っていました。
 風は東南へと変わっていましたので、淡路島沿いの島影に隠れながら南へ進んでいますと、目前に鳴門大橋が見えました。島影から出たら風はかなり強く、ヒール(船の傾き)は40度で、右舷のデッキは海水に浸かって、運転席まで海水が飛んできます。どうやら淡路島と四国の間の海峡は風が集約されており、突風が吹くようです。
 こりゃやばいな。と感じていましたが、ヨットの冒険記だと横倒しになっても、転覆してもヨットにはキールがあるので船は元に戻り、だるま起こしのようになると知識があったので、一度どこまで傾けても大丈夫なのか瀬戸内海にいるうちにテストしてみようかな。なんて呑気なことも考えていました。
 突然の、しかも初めての強風で船は傾きすぎて、帆を小さくする余裕などなく、少しばかり興奮によるハイにもなり、パニックにもなっていたと思います。
 スピードも8ノット近くでて、ヒール計という傾きがわかる計器は45度を超えてからは、計器を見る余裕もなく、船にしがみついていることで精一杯でした。
 13時頃、鳴門大橋目前にて突然「ばきんっ!!」と破裂音のような大きな音が響き、そのあと目の前が真っ白になりました。これは比喩表現とかではなく、本当に目の前が真っ白になったのです。それはマストが吹き飛び、真っ白な帆が目の前に広がったからです。マストが折れても沢山のワイヤーやロープがいくつも張り巡らせているため、セール(帆)は風をはらんで、空に凧揚げのように舞います。ほとんど体感的には真横に近いほど傾いていたヨットは水平に起き上がり、僕は凧揚げを、口をぽかんと開けて見ています。体感時間的には長かった凧揚げも、実際には三秒とか五秒とかだったのではないかと思いますが、すぐに重いマストやブームがデッキに、まるで下手くそなダーツのように突き刺さり、その後ロープやワイヤーが繋がったまま、マストやブームは帆を付けたまま海に沈んでいきました。当然風も強いままで、風に比例して波もそれなりにあります。

 僕はパニックのまま沈んだマストを呆然と唖然と見る事しかできず、マストにつながったロープを引っ張ってもみましたが、上がる訳もありませんし、揺れている甲板では力も入りません。
 波に叩かれてマストがハル(船体)の横っ腹に突き刺さり穴でも空けたら次は船が沈没してしまうので、僕は機走で鳴門から離れて淡路の島影へ向かい、波風が少ない場所へ避難しました。もちろんプロペラにロープなどが巻かないように細心の注意をはらいましたが、これは一か八かの賭けでしたが、その場でずっと漂っている事もできませんでしたのでやるしかありませんでした。本当はワイヤーカッターという専門道具でワイヤーやロープを切り、マストを海底に破棄するのがセオリーなのでしょうが、波風ある場所ではワイヤーカッターがあった所で転落し海へ投げ出されていたかもしれません。
 なんとか安全地帯に避難した後、師匠に14時頃に電話してみました。師匠は「とりあえずタバコを吸って落ち着きぃー。」とアドバイスをしてくれ、「海上保安庁に連絡するか、近くの港へ緊急避難しなさい」と言ってくれました。
 僕はタバコを五本ほど吸って考えました。マストぶら下げたままだといつプロペラに絡まるかもわからないし、マストは12mくらいあるので海底に引っ掛かって港なんかに行ける訳がないことに気づきました。海上保安庁に連絡するかも考えましたが、いずれ大冒険を目指している僕がこんな事で救助を求めたら、おかしくてヘソでお湯が沸いてしまいます。できるだけ自力的解決を目指したいし、セールやマストは大変高価で、新調するとしたら一年分の貯蓄はかかりそうなので、なんとかマストを引き上げる事にしました。先ほどまでは揺れる船の上で力も入りませんでしたが、今は凪で作業もしやすい環境にありました。
 マストやブームの中は空洞になっており、中に水が入り込んでとても重いです。セールも水の抵抗で重いのですが、一気に引き上げなどできませんので、まず部品ごとに分解して、パーツごとに引き上げることにしました。まずは前帆のジブセールを回収し、次にメインセールを回収。後はマストとブームの金属製品。軽い物から徐々にということで、続いてブームを、セールを上げる時に使う手動ウィンチを上手に使って引き揚げ、そして次は最大の難関のマスト。重労働すぎてレッドブルやドデカミンなどガブガブ飲み、タバコを五分や十分置きに吸いながら確実に徐々に引き上げます。マストトップから前後左右にワイヤーやロープがデッキに繋がっているので、それらを順番に20cmづつとかのペースですが巻き上げて、12m程の長さのマストなのでバランスを崩して再び海へ落ちていかないように、こまめにロープでデッキに固定したりします。PIONは30ftなので船の全長は9mくらいです。だからデッキに載せたらはみ出すので、前に1m、後ろに2mはみ出した状態で船に積み、固定をしました。17時前だったと思います。作業中に、たばこは二箱吸って、栄養ドリンクは2リットル飲んでいました。
 昨日宿泊した淡路の港へ戻るかとか、兵庫の母港へ帰るかとも考えましたが、マスト修理しないといけないので修理ができる香川県小豆島の岡崎造船に行こうと思いました。
 お盆なので19時半までは明るいし、地図で見たらなんか近そうな気がしていました。岡崎造船とは付き合いは全くありませんでしたが、電話してみてマストが鳴門で折れたので修理に持って行っていいですか?と伝えました。それはまるでタイヤがパンクしたので直してくださいと言うように軽く・・。電話に出られた方は「気を付けてきてくださいね。」と、とても優しく返事をしてくださいました。岡崎の船を選んで良かったなと僕は改めて思い、進路を小豆島へ、エンジンをまわして向かいました。
 地図では近そうに感じていましたが、改めて見ると50キロ以上ありました。ヨットってマストがない状態では弥次郎兵衛のバランスをとる横棒がないようなもので、全然バランスが取れなく左右にどんぶらこどんぶらこと大変揺れます。18過ぎからは向かい風8mくらいになり、波は1m以上で顔にバンバン波が当たって、真夏でもさすがに凍えるように寒かったのを覚えています。スピードは3ノットがやっとで、時速5キロちょっとしかでていません。到底岡崎造船に到着するわけがないとわかり、電話で明日到着になりますと電話で、さきほど話した方に伝えました。海の上で携帯が繋がったのはラッキーでした。
次第に日は落ちて20時なってやっと小豆島の福田フェリーの灯台の明かりが見えましたが、見えていても時速五キロなんかでは全然近づいてきません。姫路からバイクを載せて福田港には何度かフェリーで行っていた事があったので、土地勘があり、現在地から一番近い小豆島の福田で今日は船を泊めることにしました。重労働をし、波風などもあり大変疲労をしていたので頭もあまり働いていなかったと思います。だから夕方の鳴門から小豆島の岡崎を目指すなんてアホな事をしたんだと思います。少し考えれば到着するわけがないですし、僕はこの時、初めての夜間航行でした。街の明りは少なく、星がやけに綺麗で、水面を見ると夜光虫がキラキラと光っていました。福田港の航路標識の灯りが心強く、とても有難い存在でした。初めて船での入港なので水深計を凝視し、21時すぎになんとか最後の力を振り絞り船を係留できました。
 港に着岸してから心配をかけた師匠へ電話で港に入れたことを伝え、疲労も凄かったですが空腹で何か食べないとマズイと思い飲食店を探しました。飲食店はどこもなく、とりあえずスナックが一軒だけ開いてましたので、そこに入りました。スナックに食べ物なんかあるはずも無いのですが、人に会えた事で生きている喜びに感謝する事はできました。おばちゃんと一時間雑談し、ビール二杯で三千円だったので高いなとは思いましたが、そこは素直にすっと払って船に戻り気を失うように眠りました。

 朝五時頃には漁師たちの朝は早いので、他のエンジン音やら引き波で起きました。せっかく起きたので、岡崎造船を目指します。今日は波風もなく天気が良かったので、マストが折れていなければ最高のクルージング日和だったことでしょう。潮が逆流だったせいかスピードは相変わらず鈍足ですが、それでも九時には岡崎造船に到着することができました。岡崎の船を買ったので一度は訪れたいとは思ってはいたのですが、まさかこんな形で来るとは夢にも思っていませんでした。造船所の人にマストとかを直して再びヨットとして走れるようにして欲しい事を伝え、福田港まで車で送って貰いました。

 福田港から姫路行きのフェリーに乗り、姫路のフェリー乗り場に到着するとヨット仲間が「良くケガもなく無事に帰ってきた。」と迎えに来てくれて、僕はとても嬉しくなりましたが、同時に心配をおかけして申し訳なく思いました。
 自宅に帰って猫たちを抱きながら、しばらく放心していました。いつ頃修理が終わるのかとか、一番の心配は修理代で一体いくらになるのか想像もつきませんでした。
 少しでも修理代を安くなるようにと、造船所に相談して、僕ができることはしたいと伝え、修理を手伝わせてもらうように常識外れなお願いをしたのですが、OKを貰えました。懐の広さというか寛大さに感謝です。
 連休を利用して、猫たちを車に乗せてフェリーで小豆島にわたり、岡崎造船で猫とPIONで住みながら、船の修理を開始しました。いろいろな経験ができて本当にお世話になりました。マストを塗装して据え付けするだけの段階になり、仕事もあったので猫と車でフェリーに乗り、自宅に帰り、一か月ちょっとして据え付けも完了し、直ったよ。という電話を聞いたときは本当に嬉しかったです。僕にとってPIONは大事な相棒のような存在だったのです。
 自転車をフェリーに乗せて小豆島にわたり、造船所で支払いや受け渡しを終え、自転車をPIONに乗せて母港へと帰りました。
 結局、マストが吹き飛んだ理由はチェーンプレートというサイドリギンを繋いでるステンレスのプレートが、電蝕などで腐食していたからだそうで、普通はそんな風くらいではマストは飛ばないそうです。そこはFRPの船体に貫通しているため、目視点検などできる箇所ではなく、古い船だと要注意な場所なのだそうです。今回、造船所でしっかり直してもらったので帰りは安心してセーリングすることができました。
 母港へ戻るとヨット仲間や師匠が出迎えてくださり、お祝いにシャンパンをあけて皆で乾杯しました。
 今回の旅は失敗でしたが良い経験になりましたし、船はしっかり直ったし、身体は元気なので、また冒険することができます。さっそくワイヤーカッターや雨風でもタバコに火が点けれるガスターボライター、防寒着はスキーウェア上下をカッパ変わりに、予備のボルトやナットに工具とかロープなど今回の経験を生かして必要そうな物は買いそろえました。

 それからまた土日は友達と日帰りセーリングなどを楽しんでいました。いた、のですが、たったの一か月か二か月後くらいです。エンジンがかからなくなってしまいました。
え?いくらヨットは風で走るといっても、現実的にはヨットはエンジンありきで、風向きが良ければ帆でも走れるよ。と言った感じで、ほとんどのヨットマンはきっと機走か帆機走であり、帆だけで走るクルーザーヨットの人なんか、ゼロではないだろうけども、ほとんどゼロで、最低でも港への出入りはエンジンが無ければ話になりません。
 僕は若いころからバイクのエンジンのボアアップやらエンジン交換とかしたことがあり、技術系の仕事もしていたので、メカは割と得意な方ですが、ディーゼルエンジンは全くガソリンエンジンと構造が違うので、点検しても全然分かりませんでした。
エンジン詳しい友達や整備士とか、専門の修理屋さんも呼んで、色々部品交換などもしてもらいましたが、15万以上経費がかかっても全然エンジンはかかりません。
 僕はこのまま何十万もお金だけ使ったとしても結局直らなければどうしようと不安になりました。そしてこんなにも整備をして愛着のわいたヨットなのだから、新品のエンジンに載せ替えようと決心しました。決意をすると僕は行動するのが早くて有名ですので、すぐに代理店を通して2YM15というヤンマーディーゼルの最新型の新品のエンジンを発注しました。船のエンジンを買うために、僕はまだ走行距離が2000キロしか走ってないピカピカのドゥカティ1198sという大型バイクを売りました。僕はバイクをこの頃六台持っていましたが、ヨットのためにバイクを売るのは実は3台目でした。ヨットは壊れたり、トラブルが起こると本当に高額な修理費が必要なのです。しかし、なんせバイクを売ってエンジン購入資金ができましたが、エンジンを交換するのはエンジン代だけあればいいのではなく、配線やケーブル、エンジンマウントのワンオフ制作とか必要ですし、ユニックとか配送料も高額です。もちろんほとんどの事は自分でしたので、素人工事かもしれませんが、自分でやったので構造など把握し、何かトラブルがあれば原因究明や、応急処置などは業者任せの場合よりも、その経験がきっと有利に働くはずだと思いました。
 まだヨットを購入してから一年も経過していなかったのですが、その間にデスマストやらエンジン載せ替えやら、普通のヨットマンの一生分くらいの経験をしたような気がします。

瀬戸内海脱出

 新品のエンジンと、綺麗なマストになったPIONで上架作業を春にしました。瀬戸内海は海苔やら牡蠣の養殖が盛んなので、船につく貝も半端ではありません。一年に一度しか上架メンテナンスをしない海上係留の人の船は貝でびっしりです。僕は春と秋の年に二回上架作業をすることにしました。また同じように友達を何人も呼んで手伝って貰って、ばっちりハルもワックスがけなんかもしています。

 ピカピカになったヨットでクルージングするのは本当に気持ちがいい事です。友達も特別な海での時間を一緒に楽しんでいてくれています。仲間との最高の時間。これだけでもヨットオーナーになって良かったと感じます。金銭的には本当に大変ですが。
 五月の連休に今回こそは鳴門超えを再トライすることにしました。前回の反省も生かして、自転車も載せましたし、ワイヤーカッターなどもあります。考え限りの万全の装備で猫と一緒に初めての旅をしました。今回は無理をせず最初から全開行った淡路島の漁港へ行きました。15時過ぎには到着することができ、前回行けなかった銭湯やスーパーやにも自転車があるので行くことができました。潮と汗でべとつく身体を洗い、湯舟に浸かるとそれは極楽浄土です。スーパーで明日の朝食や昼飯のパンとか弁当を買ってから、銭湯に行く途中に見つけた焼き肉屋で、リッチな夕食をとり英気を養い、お土産に赤みの刺身を猫に買ってから船に戻り、猫と幸せいっぱいで眠ります。
 五時すぎに目が覚め、六時には出航しました。今日も快晴です。今日は鳴門を超えて徳島県ケンチョピアを目指します。ヨットが走るのに丁度よい風で波も穏やかな日で、前回のトラウマから緊張していましたが、今日はすんなりと鳴門大橋を潜り抜け、いとも簡単に瀬戸内海を脱出することができ、少々拍子抜けだったほどです。陸で生活していると今日は風が強いから車に乗るのは止めようなんて思いもしませんが、海の乗り物はこんなにも気象条件に左右されるのだなと感じました。天気が良いので前回などは一隻も鳴門大橋の周りに船なんかいませんでしたが、今日はプレジャーボートだらけで皆さん釣りを楽しんでおられます。僕はシングルハンドで、まだ釣りをしながら操船をして見張りとかの余裕がないのと、そんなに釣りが好きではないので、釣りをするのはおいおいです。
 15時にはケンチョピアに到着しました。美しい港で、超都心部の真ん前に船が並んでいるので景観も良く、若いカップルたちがたくさんデートをされておりました。羨ましいなぁ。と、汗と潮でベトベトになった34歳のおじさんが、ヨットのデッキでコーヒーを飲みながらタバコの煙をバルサンのようにまき散らしています。彼女ができない理由はこの辺にあることでしょう。
 二日連ちゃんで今日も焼き肉屋に行きました。栄養をつけるには焼肉とビールが一番というのが持論です。カルビやロースばかりではなく、ちゃんとレバーとかホルモンもバランスよく食べますし、キムチ盛り合わせをサラダと言いながら食べます。
 ケンチョピアの船着き場は夜景が美しく、焼肉から船に戻ると、より一層多くのカップルがそこら中にいました。僕はデッキでタバコを吸いながら猫を抱きしめ、僕は雲一つない星空を曇り空にできる魔法使いなんて、くだらない事を考えながら空に煙りを吐き出しました。
 次の目的地は別に決めていませんでしたが、なんとなく室戸岬に行こうと思い、南へと進みました。ポルトガルの航海者ディアスが喜望峰を見た気持ちはどんなのだったかわかりませんが、きっと「おおお」となったり、感動するのではないかと思いました。室戸や足摺岬はオートバイでは行った事がありましたが、上から見るのと下から見るのでは、違って見えるはずなので楽しみでした。 
 朝の五時にケンチョピアを出航し、室戸岬を目指します。波は多少ありましたが、風は北風だったのでランニング(後ろからの風)で進むことができ、帆は観音開きで7ノットで南下していきます。

途中の蒲生田岬のちょっと南の方ではイルカの群れを見る事が出来ました。ヨットで初めてイルカウォッチングいいものですね。良く観察していたのですが、イルカたちは集団で狩りをしていたようです。10匹ほどの集団のイルカは時計回りに円形に泳いで真ん中に魚に集めていており、だんだんと円が小さくなると中心部から行き場を無くした魚は空中に飛び跳ねて必死に逃げようとしますが、イルカに一網打尽にされ食べられていきます。貴重な観測ができて感動しました。なんだか凄いものを見た気がします。
17時頃になり、室戸岬近くの要塞のような港へ入港することができました。近くにいた漁師さんに許可をもらい、空いている岸壁に船を係留させてもらいました。120キロほどの長い距離でしたが順調な航海をすることができました。漁師さんに話しを聞くと自転車で行ける範囲に温泉もあり、居酒屋もあるようでしたので早速風呂へ向かいました。
 人もほとんど住んでいない集落なのに、不相応な立派な施設があり、露天風呂もあり、最高の場所を見つけました。そして料金も安かったです。大満足な風呂で疲れが癒えましたので、紹介して頂いた居酒屋へ向かいました。新鮮な美味しい魚料理がこれもまた格安料金で堪能できました。そして近くのテーブルに座っていた立派な体格の持ち主が、この町で見かけない僕に話しかけてきてくれて「お遍路の巡礼中?」と尋ねて来られました。あぁ、四国にはそうゆう風習があったんだなと思い出しながら僕は否定をし、ヨットで室戸岬を見に来た事とか、この近くの漁港で船を係留させて貰っている事を伝えました。すると歳も僕とそんなに変わらなさそうな立派な体格の人は僕が泊めている港の漁師で、今日俺が釣ってきた魚だと、刺身の盛り合わせをご馳走してくださりました。すでに刺身盛り合わせ二人前食べていましたが、追加で三人前ほど貰ってしまったのですが、人の好意を踏みにじる様な事はできないので全部美味しく頂きながら、少しの雑談を共にさせてもらいました。「明日から海は荒れるだろうから、まぁゆっくりして行きなよ。」と話されて漁師さん達は帰られて行きました。「え?そうなの?」と思って大慌てでタバコとビールを置いて携帯で気象情報を確認します。風速30m?なんじゃこれ??二日前に見ていた天気予報ではそんな事は無かったのですが、爆弾低気圧が発生したらしく台風並みの大時化になるようでした。唖然としましたが天気はどうすることもできないので明日起きてから考えようとビールを飲みすぎた僕は考えるのを止めてお会計をしました。女将さんが「あんた、あんなによく食べたね。」と半分あきれ顔でお見送りしてくださり船へ戻りました。
 朝は轟音のような風の音で起きました。船の中に居て外を見なくてもこりゃあきまへんわ。ってのが良くわかります。最初に要塞のような港と書きましたが、その港は防波堤の高さが15m近くあります。それはPION30がマスト長さ12mで水面からマストまで150cmくらいあるのですが、ヨットのマストトップよりも少し防波堤の方が高かったからです。はっきり言ってこんなに高い防波堤を見るのは初めてで、こんな立派な防波堤があるのはそれに相応しい波風が来る事も予想が難しくありませんので恐怖しました。
 港の近くの高台まで散歩して海を見ると白波で海は荒れ来るっていて、こんなの出れる訳ないと一目瞭然です。まぁ今日は近くに温泉や良い居酒屋もあることですし、昼間は船内でゆっくり読書でもする事にしました。船内で猫を愛でながらゆっくりして、昼飯は昨日の居酒屋のランチ営業に行き、また船に戻ってゆっくりして、夕方にお風呂に行き、夜はまた同じ居酒屋で晩酌をします。すると昨日お世話になった同年代の漁師さんがやっぱり出れないよね。ってなって、また魚をご馳走になったりしました。すみません。
 二日目は昨日以上に荒れていて、15mの防波堤を超えてマストの上から波が落ちてきて船のデッキを海水が叩いたので驚きました。こんな波は見たことがありません。室戸岬って恐ろしい所だなぁと思いました。しかし港は要塞化してるので、防波堤の外は荒れ狂う地獄絵図ですが、港の中は静かなもので、たまに空から海が落ちて来る事以外は静かなものでした。今日も同じパターンで居酒屋に昼も夜も行き、同じ風呂屋でゆっくりしました。船旅がこんなにも予定が立たないものだと改めて思い知らされた旅でした。話は変わりますが、居酒屋でこの日は珍しい物を食べました。マンボウの串カツです。マンボウって食べれるのですね。そして美味しい。マンボウ串カツ一本千円だったので少し高かったのですが、これも大事な旅の思い出です。
 三日目も天候は同じ感じでしたので、さすがに参りましたが、自然相手にはどうしょうもなく、いくらヨットは嵐の中でも沈没しないという、にわか知識があったり、何とかなるだろう精神旺盛な僕でも心が折られるような天気でした。まず港から出た瞬間に風と波で操船なんか不可能で座礁してしまうのがオチだと思いました。
 嵐の四日目は少しは収まって来ましたが、それでも風は10m以上は吹いており、波も2mはあります。漁師は誰も出航なんてしませんが、なんとか出航できない訳でもなさそうとは思っても、普通ならこんな日に無理はしません。しかし、室戸に来て五日目なのでそろそろ一般会社員の僕は限界で、兵庫を出航して七日目ですので、残り休みを考えると今日出航しないと、どうしても仕事に間に合いませんでした。無理をして事故でもあればと考えたら、そんな事は言ってられないのはよく分かっていましたが、僕は出航して徳島のケンチョピアを目指そうと決心しました。
 出航してすぐに後悔するような航海でしたが、まぁこれぐらいなら「ぼくは」死にはしないかと思いました。しかし猫は別です。前後左右上下にバーテンダーがカクテルを作るときにシェイクするかの如く激しく揺れて、船内はぐちゃぐちゃで、猫はドラム洗濯機で洗われているかのようです。猫はゲロまみれで吐いて、出航して三時間後には泡を吹いて倒れているので、舵をオートパイロットに任せて、猫を介抱しようと船内に駆け付けます。
 船酔いで死んだ人間は世界で誰もいないと何かの本で書いていましたが、猫もそうなのだろうかと心配になりました。抱き寄せると気分は悪そうですが、死にはしそうもなさそうだと思いました。しんどそうなのは良く分かり、僕もさすがにバテていましたが、とにかく何とか徳島まで戻りたいという思いでした。船内で猫を介抱するためにオートパイロットをセットして二分ぐらいでしたが、外で変な音が聞こえました。めちゃくちゃ嫌な予感がしてコクピットへ戻るとオートパイロットさんが煙りを吹いて、天国へ召されておりました。強烈な波の力でメカが粉砕し、海水がかかってトドメまで刺されているようでした。すぐに電源を抜き、手でティラーを握り操船し北上して行きます。まだ11時にもなっていませんでしたが、ここから何百キロも自動操舵もなしに手動で兵庫まで帰らないといけないのは大変困りました。オートパイロットがあるお陰で、シングルハンドでも船を風上に向けてセールを上げたり下げたりできるのです。うちの船長や機関士の猫たちの手はそんな雑用のために借りる事はできそうもありませんので、二等兵水夫の僕が頑張るしかありません。
 波や風が激しいのも、蒲生田岬を北上してからはずいぶんマシになりました。高知県というのは恐ろしい所なんだなと思いました。そしてケンチョピアに到着したのは21時前でした。夜間航行でしたが、一度行った港というのは夜とは言え、かなり安心感がありました。しかしケンチョピアは新町川橋を通過してからが結構遠いなと思いました。到着後に猫たちに慰謝料のチュールを二本づつあげました。なんとか元気にしています。
ここ最近は室戸で魚料理ばかりだったので、深夜までやっている焼肉を食べに行きました。風呂まで浴びる余裕はなかったので、船に戻ってから濡れタオルで顔や身体を拭いて、歯磨きをして、船内はぐちゃぐちゃなままでしたが、寝るところだけ確保して眠りました。
 日程的に今日中に兵庫の母港へ帰港しないとマズイので、四時に起床しました。起きてすぐに鳴門を目指します。オートパイロットがないとは言ってもセールをあげてないとエンジンだけだと燃費も速度も遅いので上げないと仕方ありません。ティラーを風上に立ててからロープで固縛したりして工夫をしましたが、オートパイロットが有るときのように上手くはいきません。苦労しながら何とかメインセールを上げました。シングルハンドで運転するにはオートパイロットは必須道具で、予備も必要だと感じました。兵庫に戻ったらすぐに購入することを決意します。一日中ずっと舵を握っていては飲食もろくにできませんし、すごく疲れますし、何より真っすぐ進む事ができません。手動だとどうしてもジグザグ運転になり、その分ロスしてしまうのです。
 ケンチョピアから鳴門大橋まで30キロほどなので三時間ちょっとで到着しました。が、潮向きは南から北へ反転してきており、ぎりぎりで間に合いませんでした。鳴門では北から南へと潮が流れると最大で10ノット以上の速度で、この日でも8ノットほどの速度で流れていました。繰り返しになりますが、僕のPIONは6ノットぐらいしかでませんので前に進んでも、実際には2ノットづつバックして行きます。何とか潮の流れの遅そうな所を探したり、フルパワーのエンジンで突っ切ろうとしたり、あの手この手で突破しようとしましたが、どうしても跳ね返されていました。次に潮が反転するのは7時間後とかです。
 大阪湾の方からぐるっと西播地区へ向かうのは移動距離が多すぎて不可ですし、明石海峡も潮のタイミングを間違うとここと同じ事になります。一番の有力候補は小鳴門のほうですが、潮は緩やからしいのですが、浅瀬があり、狭いらしく、あまりにもヨットの座礁事故が多いらしいので、海上保安庁がヨットの人は小鳴門行かないでと呼びかける程と聞きました。
 僕は諦めて鳴門大橋を七時間もボケっと指をくわえて眺める事にしました。ヨットの旅は本当に大変で陸上生活者の感覚では考えられない事ばかりなのだと、またしても思い知りました。
 七時間後の潮止まりに北上し、鳴門を通過したのは14時過ぎでした。母港まで残り70キロほど、運がよくて七時間なので到着が20時。どうやら今日も夜間航行です。救いは鳴門大橋をくぐってからは湖のような水面で、瀬戸内海の平和さには驚くばかりで、なんて自分は恵まれた環境でヨットに乗れていたのだろうと思いました。
 母港に到着し、船の片付けをさっとして、猫を車に乗せて帰宅できたのは23時くらいで、明日は朝から仕事です。家のシャワーを浴びて、久しぶりの自宅のベットに入ったのですが、揺れてないはずの家がなぜだかずっとフワフワと揺れているような気がしました。なんだか真っすぐも歩きにくく、これが噂に聞く陸酔いというやつなのかと思いました。猫たちは久しぶりの我が家で、いつも一緒に寝てるのに、この日は怒って一緒には寝てくれませんでした。 
 また僕は会社員を頑張って、オートパイロットは二つ新品を購入し、会社員をしながら週末は湖の様な瀬戸内海で、友達と素敵なクルージングをしばらく楽しみました。
 ちなみにオートパイロットは一台十万円くらいしますので、二台で二十万円です。しかもこれは消耗品感覚です。波や風が強いと簡単に壊れます。しかし、室戸でオートパイロットが壊れた時は一台二十万円したとしても欲しいという気持ちになりました。油圧式の頑丈で強風でもほぼ壊れないオートパイロットも売っていますが、それは60万円とかします。十万円の物でも新品が、さすがに五台も六台も壊れないだろうという期待と、油圧式でも機械である以上絶対壊れない保証はないので、僕はこの選択をしました。
 母港から日帰りで友達と海水浴や釣り、セーリングをしていると、確かに楽しく、室戸岬クルージングは悪夢のような困難との遭遇でした。しかしながら、あの室戸を経験したからこそ、イルカの狩りも見れましたし、美しい景色も見たり、様々な事を経験することができました。上手く表現も説明もできませんが、僕はあの冒険を忘れる事ができません。
 お金は結婚の予定もないので定期をおろしたり何とかなりますが、時間だけは会社員であるため何ともなりません。

安定を捨て夢を追いかける

 その後も瀬戸内海でのデイクルーズや、一泊二日くらいのクルージングなどはしていましたが、当然物足りません。海洋冒険の虜となった僕は自分に素直になることにしました。
 僕はこの頃35歳です。この年になると結婚式への参加は減りますが、葬式の参加することが何度かありました。死についても考えるようになりました。年老いて寿命で亡くなられる人もおられましたが、病気で50,60代で亡くなられる人もおり、20代で知っている方が自殺や事故で亡くなられる人もいました。
 定年後に悠々自適にヨットで旅をされている人もおられます。しかし定年まで事故や病気に合わない保証はないし、気を付けていても死んでしまう可能性はゼロではありません。
 定年後というと65歳とかで、その時まで健康で体力もあり、持病がないというのは難しいかもしれません。自分でも段々と体力の衰えは感じます。35歳の僕は体力は20代ほどはないですが、バスケットやテニスなどスポーツを毎週していたので、筋骨隆々修己治人であるよう鍛錬していたし、金銭的余裕もあるため冒険するなら30代だと思いました。人生は一度きりでタラレバで思い残すことはしたくなく、今後の人生で今の自分が一番若いのです。
 僕は室戸の経験を生かして船の改装準備をしだしました。メインセールの新調し、縮帆のワンポン、ツーポンはセールエリアが通常よりも小さくなること。スタックバックを装備し、セールカバーよりもセールの展開をスムーズにすること。ステンレス製でコクピットに波が当たらないような大きなハードドジャーで、アクリルなどのプラスチックではなく、車のガラスに使われてるのと同じ素材であること。そして窓は開閉式で、暑いときは窓も開けて、コクピットに風が流れるように。日焼けも体力を奪うし、雨には結局は濡れるのですが、直接的に濡れるのと、間接的に濡れるのでは疲労が違いますのでオーニングもステンレスパイプで作りました。オートパイロットをリモコンで操作できるようにすること。それと上架作業をしてペンキ塗り。船底のペンキは新しくないとスピードが体感できるほど違うものなので、どこか遠くに行く時の前は必ず塗りなおしが必要です。スピードもそうですが年中海上係留なので、46時中見張っている訳もいかなく、見てない間に漂流物が当たったりして傷ついているかもしれないので、船底の点検目的でも必要事項なのです。後は猫たちが少しでも快適になるようにペットショップで高級な爪とぎやマタタビやキャットフードやトイレを買いそろえたりなどでしょうか。
 ヨットのパーツはほとんどが外国製のため、注文したから届くまで二週間とか一か月とかかかります。セールやスタックバックを特注で作ってもらうのは二か月とか三か月も必要でした。ステンレス&強化ガラスのハードドジャーも二か月必要としました。ですから会社員をしながら、部品が届いたら週末に取り付けや工事といった感じで、改装工事が終わるまでは仕事をしておりました。目処が立てば会社を辞めて、食料品や衣類など積み込み出航の準備をしました。

 まずは新品のセールやドジャーなどのテストとして、僕は九月の台風シーズンに和歌山県の潮岬を目指すことにしました。台風発生のことをニュースで知ってから、その経路である台風銀座の難所で有名な潮岬に向かったのです。船旅冒険記を読んでいると、どうやら皆さん嵐には何回かは絶対遭遇するようです。太平洋のど真ん中でマストが折れたり、転覆したり、ハルに穴が開いたりなどしたら処置が大変すぎるし、遭遇してみないと何が必要なのか分からないので、嵐で船はどうなるのか、大冒険に行く前に近場で似たような経験する必要性を感じました。もちろん知り合いのヨットマンは唖然とされておりましたが。
 問題は猫も一緒なことです。ヨットに宿泊クルージングの時や、病院に行く時だけ猫をゲージに入れるのですが、その両方共が猫にとって地獄であるため、最近ではゲージを見るだけで逃げ出します。チュールやご馳走で誘い出そうにもゲージを見た後では、「その手にはのりません。」と、猫の目がはっきり訴えております。頑張って追いかけっこの鬼役をしてゲージに入れてヨットに乗せますが、猫は家に帰らせてと、普段は全然鳴かないのに、この時ばかりは必死な叫びをします。動物愛護団体の方がこの本を読まないことを祈るばかりです。
 僕はなんで昔からこんなに冒険をしたがるのだろうかと考えました。思えば僕の初めての冒険は、小学生の時に自転車で片道70キロほどある、山を何個も越えねばならない祖父母の家に一人で行った事が始まりだと思います。その後の中学生になってからは通学用の、普通の自転車で他県にカバンひとつでキャンプに行ったりして、おこずかいも無いのに下手したら一週間も家に帰らないとかを何度もしていました。昔からずっと冒険少年、今は冒険中年なわけです。きっと頭のネジが何個か外れているのでしょう。人はひと、僕は僕なので人に迷惑をかけないようにだけして、やりたいことをやります。とは言え、猫には多大な迷惑をかけているので、猫が日本語を話せなくて少し安心しております。

 大阪湾の方は交通量が多くて船も多いので、今回も鳴門をこえて潮岬を目指します。いつもの淡路の港に行き、田辺市に行きました。残念ながら台風が早まり、田辺市沖で台風に遭遇しました。風や波は室戸岬で経験したよりも大したことはありませんでした。台風のために他に船もなく海は広々としていて助かりました。
 数時間トレーニングしていたら、エンジンもバッテリーも新品ですのに、エンジンがかかりませんでした。原因を調べると船が揺れすぎてバッテリーの固縛が外れて、ターミナルが抜け、ショートしたために煙りがでていました。でもバッテリーはアクセサリーとメインの二つあるので、一個ダメになっても大丈夫です。猫は女の子なのにゲロまみれですし、悪天候時にバッテリーの固縛が甘いとショートして火災の危険ありと学べたので、収穫ありです。今日は田辺市で居酒屋にて飲む事にしましょう。二日目に田辺で神社仏閣や史跡など一通り観光して、船に戻って猫を撫でながらスマホを見ていると、新しい台風が発生し、もうすぐ潮岬に来るそうです。なんてラッキーなのでしょうか。昨日の感じだと、ドジャーやマスト、セールなどは全く問題もありませんし、セールの角度設定も下学上達です。僕もさすがに荒れている海は数時間なら何とか耐えれますが、酷く疲れますし、猫は瞬殺されておりますので、船は大丈夫でも生物はそれほど耐えれないのはどうしたものかと悩みます。
 とりあえず串本町の港へ行き、風呂や観光に焼肉とか居酒屋を楽しみます。台風が近づくにつれて、他から避難してきた船でいっぱいになりました。そして台風の日の朝に、他の港からやってきた船が、ここはワシの台風があった場合の指定席だから、どっか行けと言われました。まぁ今から台風に向かって出航する気だったからいいのですが、何か釈然とできない態度だったのが引っ掛かりました。今日がもし僕の最後の日だったら、最後に会った人間は、このイケズの爺さんかと思うと少し嫌なので、絶対戻ってきて場末のスナックでも行こうと自分に誓うのでした。
 今は朝の八時くらいで、台風は夕方からの予報でした。串本町は広い港ですが、避難してきた船で満席です。台風が去ったとしても、すぐにはヨットが入る隙間は無さそうなので、どこか別の港を探さなければなりません。
 ぼちぼちと南下していると、すぐに波は3mはあるし、風も15m―20mは吹いていました。陸に近いとかえって危険なので10キロは南下します。セールは一番小さくしています。全部畳んでしまうと船の安定が悪いので少しはセールを出していなければなりません。滝のような雨になり、ジェットコースターのコースかの様にグネグネと、船は上下左右前後にシャッフルされます。海が塊で空から落ちてきます。室戸で避難していた時の最大の暴風雨の時と同じくらいでした。

風と波の間をできるだけ縫って陸に近づかないように気を付けながら操船しました。それは朝まで続きました。エンジンは日の出の前に停止しました。原因は何かわかりませんし、こんな状況下では調べる事はできません。朝になり天候も落ち着きだしてから調べました。するとハッチはちゃんと閉じていたのですが、滝のような雨のため、排水の限界を超えてハッチの隙間から浸水したようでした。メインバッテリーは出入口のすぐ横にあった為に、場所が悪く、海水がおもいっきりかかってショートしていたようです。船内は猫のゲロと海水でびちょびちょでした。田辺市でもバッテリーをダメにしたので、これで二つ共おじゃんです。エンジンはかかりません。バッテリーを買いに行かなければなりませんが、串本は港がいっぱいでしょうから新宮市へとセーリングのみで向かいました。意外と黒潮の影響と風向きが良くて、エンジンを巡行で走らせているぐらいのスピードは帆走のみでも出ていたのはラッキーでした。バッテリーがダメでオートパイロットも新品が二つあるのに使えないのは不便を感じました。不幸中の幸いで、夜明けまで航海灯(車で言うとヘッドライトやウィンカー)が点いていたのはラッキーでした。無灯火では他の船にぶつかってしまうかもしれません。快調に新宮市に近づいてきました。しかし、広い場所だけだとセーリングだけでもいいのだけど、帆だけで着岸するのはしたことがなく、したくないので困ったので、悪あがきでテスターにて外していたバッテリーを測定しました。すると一つはなんとか回復しているぽかったので、接続し直してエンジンをかけてみましたら、無事にかかりました。とてもラッキーでした。
 僕のスマホは防水でしたが、海水は別なようで完全に死んでしまいうごきません。ですから新宮市でバッテリーとスマホは最低でも買えないと困ります。今回のことでバッテリーは二つだけでも足りないし、スマホも予備がいることを学びました。そしてそのバッテリーとスマホの予備は袋に入れて防水処理をして、濡れなさそうな所に隠していなければならないと思いました。ハッチも排水能力を超えてしまうと、船内に浸水すると分かったのは良い発見でした。
 新宮市の港で若い漁師さんが岸壁でなにか作業されているので、係留させて欲しい事を伝えました。案内して頂いたところに船をつけて、昨日の台風で壊れたスマホとバッテリーが壊れたので買える所がないかと聞きました。そうです、スマホがないとググる事もできないのです。若い漁師さんにとても親切にして頂き、わざわざ車で買いに付き合ってくれました。すごく感謝しています。船が直ってからは新宮市の観光もしました。神社や城跡がとても立派でした。漁師さんにはお世話になったのでお礼に、漁師の手伝いを申し出しました。漁師さんは伊勢エビ漁をされており、網にかかった伊勢海老を網から外して、籠に入れていく作業を手伝いました。三日くらい滞在しました。船の近くに、伊勢エビ漁師の知り合いが経営されてる居酒屋に毎日通ったのですが、すごく美味しく、安かったです。ついでなのに尾鷲市にも観光に行き、神社仏閣など見た後に、いろいろ寄り道をしながら兵庫へ帰りました。
 兵庫に帰ってからも船内の掃除や片付けを二日でし、次は西へ向かいました。香川県多度津港でヨットマンの集まりに参加するためです。八隻ほどの集まりで、皆さんはほとんど数名で乗っておられ、20名ほどの宴会となりました。居酒屋で食べた後に船で二次会をしましたが、沢山の楽しい話しを聞くことができました。中でも参考になったのは、瀬戸内海でどこの島が素敵か、お気に入りの港や食事、風呂があるところなどの話しでした。
 僕は瀬戸内海のほとんどの島に行ったことがないので、次々と先輩方の話しから次への候補地を決めていきました。多度津二日目は海の安全祈願で20名全員で金毘羅参りに行きました。昼からはヨット六隻でツーリングをしました。今日の夜は六隻のメンバーで別の島へ行き、そこでまた宴会です。僕は船を買うまではほとんで肉食で魚はめったに食べませんでしたが、船旅してからは港へ行くばかりなので魚ばかり食べるようになりました。
 この日でヨットマンの集まりは終わりで、朝になると皆さんそれぞれの港へ帰っていきました。無職ナウの僕は西に向かいました。二日間の宴会で情報収集をした島々を周るために。一番西は大分県の姫島です。伊勢海老が美味しい居酒屋が何件もあり、景色もよく、何日も居たいと思いました。十分に満足してからは進路を東へ兵庫方面に向かいます。行は瀬戸内海の四国側を、帰りは本州側を寄りながら帰りました。
 瀬戸内海は和歌山や高知県に比べたら本当に海が穏やかで、風も風向きを見て島影に隠れながら進めばなんともありませんが、潮の速さや干満差は要注意です。例えば来島海峡は潮向きによって走る場所が違うとかも要注意ですし、来島海峡も潮の速さは10ノットほど流れますし、干満差はひどい所で3以上もあるため、係留ロープで船を止める時は十分注意が必要です。ハシゴをもっていないと船と岸壁の乗り降りはできませんし、干満差で船が大根おろしにかけられる大根のようになるので、防舷材というクッションも必要です。普通のフェンダーなどのクッションではあまり役には立たない事も今回の旅で学びました。TOKIOの番組でやっているダッシュ島というのも見てきました。上陸許可は得られませんでしたので、島の周りをぐるっと回っただけですが、テレビで見たよりも、海岸は漂流物でゴミだらけだったという印象でした。ダッシュ島だけではありません、そうです。瀬戸内海はとくに海岸線はゴミが多いという事に気づきました。これは心が痛くなります。
 今回の旅での経験で、僕のおすすめの場所を皆さんに紹介してみたいと思います。女木島、北木島、伯方島、大久野島、祝島、姫島、小豆島、男木島など他に10島ほど周ってきました。甲乙つけがたいし、どこも魅力的でした。
 大久野は野生のウサギがいましたし、真鍋島や祝島には猫がたくさんいました。景色は姫島の黒曜石とか、小豆島の寒霞渓なんか素晴らしいですし、女木島の鬼の洞窟なんかは楽しかったです。歴史が好きなら囲碁で有名な本因坊秀策の因島や村上水軍の史跡がある能島、神社でしたら日本三景の厳島神社。男木や豊島、直島とかはアートの島だったり、楽園の弓削。どこも楽しかったです。本当にヨットで旅ができて幸せで、ウチのにゃんこも瀬戸内海の平穏な海で毎日赤みの魚をたくさん食べれて幸せそうです。

四国九州一周旅行

 僕は前回の旅で学んだことである、どこにも繋いでいない予備バッテリーや携帯の予備を袋に入れて濡れないところに保管。ケーブルに繋いでるバッテリーはガスか何か発生するらしいのでダメ。それと漁具に使われる大きな俵の発泡スチロールを二つ買ってフェンダー代わりにする。後は無線の免許をとって、無線機を装備し、ついでに船舶の特定免許もとっとこうか、とうことでした。アマチュア無線は四級を取得し、八重洲無線機を購入し、免状登録する。海上特殊無線は2級を取得して、VHFを買ってこれも免状登録する。特定免許は特に用がありませんでしたが、船に関係する勉強の一環というつもりで取得しました。すべての経験を最大限にいかして、いつも出航前はこれで万全と思えるまで思考をこらしているのですが、行ってみると、これがない、こんな物が欲しいという事ばかりです。
 十分に準備をし、寄港地のピックアップもし、いつものように旅前の上架作業でペンキを塗り、整備が終わると僕は5月に時計回りで徳島、高知、宮崎、鹿児島、種子島、屋久島、甑島、熊本、長崎、五島列島、対馬、壱岐、福岡、大分、そして瀬戸内海を通って兵庫へ帰りました。
おおまかに書けばこんなものですが、実際には例えば屋久島から甑島への間には硫黄島や黒島へ寄ってから枕崎に行き、そして甑島のような感じですし、熊本や長崎の離島もずいぶん周りましたし、五島列島も何島かいきました。五島列島と言えば、僕は名前の通り五つの島だろうと思っていたのですが、五島列島と言っても129島あり、主な有人島だけでも十島もあります。いやぁ行ってみないと分からないし、調べる気にもならないものです。そんなのは僕だけかもしれませんけども。
 この九州四国一周旅行で少し自慢したいことがあります。それは総距離数が2500キロほど走りましたが、ほとんどセーリングをし、燃料給油は熊本県で一度のみ、全部で100リットルも使いませんでした。時には八時間くらいずっと2ノットしか出なかった日もありましたが、タバコを吸ってのんびりずっと海を眺め、猫を愛でて、暇すぎて釣りをして釣れたら料理して食べて、音楽を聴いて過ごしていました。
 たばこを吸ってその吐き出した宙に舞う煙りを見ると、こんな事を思い出します。それは僕がまだ会社員の頃、新卒の十歳くらい若い男の子の教育係をしている時の事です。一日に二箱くらい吸う割とヘビースモーカーの僕は、仕事中もずっとタバコを吸っています。後輩の男の子は「安井さんはなんでそんなにタバコを吸うんですか?」と尋ねてきた。僕は戸惑いながら考えて答えた。「ストレスから逃げる為かな。」後輩はこう言います。「そんなんに頼って逃げるなんてマジ弱くないっすか?」と、僕は「俺は俺が弱い事を知っている。自分の弱さを知っているのは強さだ。」と、真面目な顔して、それっぽい(?)事を言うと後輩は「何言ってんすか?」と、呆れ顔を僕を見た。後輩は騙されなかった。あの後輩や同僚たちは元気でやっているかなぁ。

 知り合いや旅先でほとんどの人が僕に尋ねることがあります。「ここまでくるのにどれぐらいかかった?」とか「そこまで行くのにどれくらいかかった?」とか、「いくらするん?」とかお金の質問が定番です。
 これらを説明するのは難しいです。例えば今回の旅でいうと兵庫を出発してから三週間後に甑島に到着しています。しかし、兵庫から直線的に甑島に来た訳ではなく、色々な島などで観光地に寄ったり、天候が悪くて港で何日か滞在した日が含まれています。兵庫県から甑島だけを回航屋さんのように、他に無駄な寄り道などせずに向かったなら、たぶん一週間では到着するでしょう。皆さんも旅行したことがあると思います。東京から大阪へ新幹線や飛行機で行ったとしましょう。それはほとんど「どこでもドア」と変わりません。東京から大阪に行くまでに、静岡や名古屋に岐阜に京都にとか、素晴らしい地があるのに、そんな事は知らずにすっ飛ばして来ては、少々勿体ない気がします。もちろん時間がない現代社会人にとっては仕方のないことですが。次は東京から大阪まで高速道路で車で行ったとします。少なくとも二時間おきにはサービスエリアには寄るでしょう。そしてサービスエリアでご当地物のグルメを買ったり、お土産などに触れて、飛行機や新幹線で移動するよりは、東京から大阪の間にある、本来の目的外の新しい発見があると思います。これが全部下道で、いろいろ宿泊しながら大阪へ向かったなら、それはもっと素晴らしい旅になるでしょう。僕はオートバイクを愛しています。それは車よりも視界がパノラマで、匂いや音など、車よりも、もっと五感でその地の事を感じることができるからです。本当はもっと良いのは自転車です。あの峠を越えるのはしんどかったとか、もっと旅を感じさせてくれるでしょう。そして究極の旅はきっと徒歩でしょう。時間をかけて移動するほど、本来想像もしていなく、知りえなかった感動に出会えるでしょう。大変な思いをして勉強したことはずっと忘れないし、苦労したことはずっと記憶に残る。そんなものです。ヨットの旅というのは自転車や徒歩のようなものです。実際にスピードは風向きが悪ければ時速4キロくらいですし、最高でも10キロちょっとしかでません。多大な苦労もあります。僕は山下清の裸の大将のように、野に咲く花のようにを口ずさんで旅をします。時には本当に知らない人から、おにぎりを貰った事も何度かあります。(物乞いをしたことはありません。)残念ながら絵を描いてあげたりはしませんが、船からビールや釣れた魚をあげたりはします。ギブアンドテイク、持ちつ持たれつつを大事にしたいと思います。
 今までの旅でも夜間航行は何度かしていましたが、もっと長距離をオーバーナイトでのセーリングも経験してみたかったので今回の旅でチャレンジしてみました。徳島の小松市から高知県の土佐清水市まで280キロほどをワンレグで航行しました。夜はうとうと眠くなりますが、アラームをセットして15分に一度は最低でも360度ワッチをしました。この15分というのには理由があり、水平線ぐらいに見えるタンカーなどの輸送船とかの巡行速度でこちらが5ノットでているとしたら、15分置きくらいじゃないと衝突してしまうと先輩からアドバイスしてもらったからです。僕はこれを肝に銘じてずっと守りました。10分づつウトウトはしますが、栄養ドリンクやバナナや缶詰を食べながら何とかなりました。夜にセールコントロールなど、なかなかなので、日没には縮帆をしていたので夜は本当にゆっくりしか進みません。それでも徳島県小松市から高知県土佐清水まで36時間ほどで到着したので平均時速7.8キロ、4.2ノットほどは出ていました。黒潮の逆流もいくらかあったので十分な結果でした。しかし、寝てないので一度のレグは36時間が最大だなと経験することができました。前回の室戸で相当ビビッていましたが、あの爆弾低気圧の体験は稀のようです。土佐清水ではジョン万次郎資料館に行ったり、海老洞などが良かったですし、古くからの漁師町なので銭湯が港近くにあったり、居酒屋やスーパーも充実していたので良かったです。船乗りならジョン万次郎資料館は是非訪れてみてください。僕はジョン万次郎の本を持っていたので、資料館のスタンプを押してもらい良い記念になりました。それからは宮崎市に寄って都会の有難さに感動したりして、宮崎のヨット乗りの人とお話しをしたり、観光したりして、数日後に種子島へ向かいました。
種子島の鉄砲伝来博物間に行きたかったのです。しかし浦島太郎に近い僕は世間知らずで、第1回目のコロナ発生による非常事態宣言とかいうのを知りませんでした。島民以外は居酒屋にも行けなかったり、博物館とか資料館などの施設は全て閉鎖されていました。えええ???という感じでした。出発するまえの2月頃にダイヤモンド・プリンセス号とかいうフェリーで横浜の方は大騒ぎをしているのはテレビで見たことはありましたが、普段テレビも見なくて、俗世にほとんど興味がないものですから、日本でこんな非常事態宣言なんてなるなんて想像もできませんでした。友達に電話したり、スマホを見たりして情報収集をしましたが、当分収まる気配はなさそうでした。よそ者というだけで、警戒している島民は、まるで僕は魔女狩りの対象で、火あぶりにでもされそうです。あまり観光もできず大人しくしておりました。
僕には鉄砲伝来の資料館の他に、もう一つ目的がありました。僕が会社員をしていたときに、JAXAやNASAの宇宙関連部品の製造をしていて、来週飛び立つロケットのエンジンも製造に関わっていたのです。それにロマンチストな僕は、家に本格的な天体望遠鏡もあり、今まで国内のいろいろなプラネタリウムも30回は行ってたぐらい宇宙に魅力を感じていたので、どうしてもロケット発射は是非見たかったです。発射場は種子島最南端にあるのですが、そこは普段は観光できる宇宙科学技術館は、残念ながら当然コロナ閉鎖されておりました。僕は職員がいたので話しかけて、三菱重工の下請けで、ロケット製造に関わっていたので、個人的に一度発射を実際に見たくて来ましたと簡単に伝えました。そしたらお偉いさんが数名名刺を持って来られて、宇宙の事やロケットの事で話が盛り上がりました。レンタカーやホテルも手配してくださり、最高の見学場所も教えて頂けました。
夜になり、僕は種子島で知り合った他のヨットマンと一緒にロケット発射を見ました。種子島の西之表市は割と栄えています。しかしロケットの発射場付近の南部は本当に何もありません。人も住んでなく、近くのコンビニまで車で30分とか、かかります。ですから観測所の高台から見渡す限り、灯りは何もなく、星もでてなかったので漆黒の闇です。自分の手の平すら見えません。一時間ちょっとでしょうか、ヨット仲間や、同じホテルの他の宿泊者とずっとその時を待ってました。
ハンディ無線機からJAXAの交信が聞こえてきます。なんかバタバタしてるなという印象です。そしてカウントダウンをしだしました。3,2,1,0、点火!!と無線が聞こえた瞬間に、漆黒の闇だったのに、周りが昼間のように眩しいほど、ロケットから大量の爆炎が噴射されました。想像していたよりも何だか遅いような、スローモーションに見えるような気がしました。ぴかっと光ってから時間差ですごい轟音と地響きを感じました。とてつもない爆音と振動で、僕は口を開けてぽかんとしながら、皆と一緒に空へ真っすぐ上がっていくロケットを見ています。分厚い雲を突き抜け、点火より50秒ほどで見えなくなりました。凄いものを見た!!の一言でした。ホテルに戻ってからロケット凄かったなぁと皆と酒を飲みながら話しました。僕はこの感動は一生忘れないでしょう。みなさんも機会があればぜひ一度、とてもお薦めします。

ロケット発射を見てからは、屋久島は以前大型バイクをフェリーに乗せて来たことがあり、特にどうしても観光したい場所がある訳ではないのですが、近いし、せっかくなので行くことにしました。屋久島もいい所なので、何度行っても癒される確信がありました。種子島から屋久島まで40キロほどしか無いので、軽いクルージング気分でした。しかし、屋久島は月に35日雨が降ると云われるぐらい雨が降ります。種子島はずっと晴れているのに、どう見ても常に隣りの屋久島だけ雨雲がずっとかかっています。違和感しかない光景です。ヨットで屋久島に近づくと当然雨が降っていました。オーニングやドジャーがあって、いくらかマシと言っても雨の操船は嫌なものです。
 前に来た時もずっと屋久島だけ雨だったので不思議なものです。きっと住民はドラム洗濯機の乾燥機能付きを皆さん持っていることでしょう。屋久島は縄文杉とか弥生杉は有名ですが、他にも紀元杉とか大王杉に龍神杉など他にもいっぱい立派な木があり、滝も多く見どころたっぷりです。まだ行ってない所を周って行くことにしました。前回は大型バイクで移動してましたが、今回はヨットに積んでいた普通の自転車です。起伏が多いので、ほとんど押して上って、下りはブレーキのワイヤーが切れそうなぐらいの急な坂道にビビりながら冒険をしました。それも五月、梅雨の雨の中を。松任谷由美の「雨の街を」、を聴きながらサイクリングをします。急激な坂道と雨に打たれて、別に頼まれてしてるのではなく、自分で勝手にしてるだけなのですが、時にはちょっと辛い時もあります。しかし絶景の大木や美しい滝の自然の雄大さに接すると、すべての苦労が報われる気になりました。
 数日観光のため滞在し、晴れ間を狙って鹿児島の硫黄島へ向かいました。先輩ヨットマンのお勧めのアドバイスを受けたからです。こんな旅でもないと一生存在も知らなかったし、行くことは無かった島です。硫黄島の港に入ると同時に、あの美しかった青い海は茶色で10cm先も分からない透明度となりました。水深計と海図だけが頼りです。種子島はコロナ警戒が激しかったのですが、屋久島はそんなことは感じされなく、今度の硫黄島はまた一段と厳しく、島民との接触は禁止というのが入港条件でした。もちろん、飲食する店はなく、売店にも行くことはできません。鬼界カルデラの山からずっと火山の煙が噴き出しており、有害だそうで、立ち入り禁止エリアがあります。ランクAの活火山があるので、港の岸壁からも温泉が湧いていました。ヨットのハルは硫黄で出航前にワックスバフがけをしたのに、すぐにまっ黄色になります。島中で椿が咲いていて、住宅エリアの道路では野生の孔雀が散歩されており、それを見て日本も広いなぁと思いました。島民とは残念ながら交流はできませんでしたが、夕日を恋人岬公園から見ながら、はやく平和な日本に戻るようにと願いを込めて、希望の鐘というのを鳴らしてきました。

 枕崎市などに寄ってからは甑島へ向かいました。こしき島の漢字の読み方も僕は知らなく、車でこんなところに島があって、人が住んでいる事も知りませんでした。居心地の良い港で、何日か居酒屋に通っていたのですが、この島はコロナを警戒している様子は感じられませんでした。港の近くの居酒屋に通っていたら三人の若い男の子と、二人の若い女の子と仲良くなり、一人の男の子は僕と同い年で凄く仲良くなりました。居酒屋の後の二次会は僕のヨットで宴会という日もありました。島民の皆さんすごくフレンドリーで、甑島の思い出は全てが宝物です。とくに突出した観光地がある訳でもないですが、普通の自然が普通に美しいし、何より人が良かったです。居心地が良く、一週間以上長居をしたと思います。すごくのんびりと平穏に過ごさせて頂き、本当に感謝しています。
 天草や島原にも行きました。僕は歴史が好きなので有名な乱の史跡や博物館、古城巡りなどをしました。教科書や僕の読んだ本よりも壮絶な戦いがあったのだなぁという印象でした。島原の乱の、その後の隠れキリシタンの事も学びたかったので、五島列島にも向かいましたが、その前に軍艦島とか、高島へ炭鉱の勉強もしに行きました。軍艦島は小さい島ですが、全盛期は日本で一番の人口密度で、そして多くの人が亡くなられた、英子衰退そのものの島でした。軍艦島という韓国映画がこのころ話題にはなっていましたが、あまりにも反日映画色が強すぎて、日本では視聴することができないとか、なんとか。

 キリシタン虐殺や、軍艦島の凄惨な歴史などちょっとダークな観光ばかりしていましたが、癒される事もありました。端島の近くで大量のイルカの群れに遭遇したことです。50-70匹はいました。イルカたちはヨットと並走して泳ぎ、元気にジャンプを披露してくれたりします。船の1m、手の届きそうな所で僕の様子を伺っています。僕はその絶景を動画撮影したりして楽しみます。20分ほどイルカショーを楽しませてくれました。ちょっと良い事があったので、単純な僕は元気に五島列島の福江港へ向かいました。

 福江にはその人口からは思ってた以上の、立派な教会やお城などがありました。しかし、資料館や史跡を周ると、やはりキリシタンの弾圧に虐殺など、ダークな歴史の一面にも触れることになります。学べば学ぶほど、自分の無知を思い知らされます。民族統一の宗教利用は世界中でありますが、どこも血が流れていますね。
食事ではクジラのカレーやクジラの串カツを食べました。関西圏でもたまにスーパーでクジラの刺身は購入することができるので、刺身は食べていましたが、カツやカレーなどは初めてでした。クジラは魚ではなく哺乳類らしいので、動物の肉に近い感じがします。北極圏で食べたトナカイが一番近い感覚だったと思います。そういえば昨日大量に居たイルカも哺乳類。食べれるのかしら。なんて妄想もします。福江には面舵いっぱいという焼き鳥屋があり、こちらの店名が気に入って二度ほどお世話になりました。やっぱり焼き鳥とビールは最高です。店主のダンディなおじさんはとても良い人でした、ただ今思えば、焼き鳥なのだから、店名は「取り舵いっぱい」の方が・・。
 天気も良く平穏な海、風の時に優雅に島並を縫うように北上し、最高のセーリングをします。潮が南から北に緩やかに流れていたので、風が少なくても、勝手に5ノットほどでて、すーっとヨットは進んで行きます。オートパイロットを手元のリモコンで操船して、優雅なひと時です。

 宇久島のスゲ浜ビーチはとても美しい海でしたが、コロナの影響か、観光客は誰もいません。というか、兵庫を出航してから、どこでも観光客らしき人と遭遇しませんでした。僕は非国民でしょうか。島民はだれもコロナを警戒してる様子はありませんでした。港で親しくなった漁師さんが珍しい漁をされていました。僕たちヨットマンの敵のホンダワラという海藻を大量に船に積んでいました。海の掃除をしていてくれるのかと不思議に思って尋ねると、ヒジキみたいに炊いて食べるのだそうです。ホンダワラって食べれるんですね。ホンダワラには、沢山泣かされているので、どんどん食べて、海からホンダワラがなくなりますようにと祈りを捧げました。

 対馬を目指しました。対馬は日本と韓国が一番近い島で、島の北端から韓国まではたったの50キロしかありませんが、南端から九州に一番近い平戸までは70キロ、唯一フェリーがでてる博多までは120キロあります。日本なのに、韓国の方が近いせいか、島に入ったらハングル文字に朝鮮人ばかりです。僕は対馬が舞台のアンゴルモア戦記というアニメは全話みましたし、コミックも全巻持っています。元寇の物語なのですが、元寇の歴史は授業でも少しだけしか習っておらず、ロクに勉強していませんでしたので、この機会にいっぱい勉強し、史跡をほぼ全て観光してきました。日露戦争の時の歴史にも触れることができました。ここはかつて日本の玄関口で、戦場の最前線だったので、すごく立派な軍事施設跡などを見る事ができます。最北端には韓国展望所があり、天気がよければ朝鮮半島を目視することができます。そして、その近くにある豊砲台跡には当時世界最大の巨砲があったらしく、跡地からでもその規模は伺えるほど立派な物でした。対馬は南北に70キロほどあり意外でした。兵庫県民の僕は淡路島が一番大きいと思っていたのですが、調べたら淡路島の592km2より、対馬の695km2の方が大きいのですね。淡路島の南北の距離は50キロくらいでした。そういえばこないだまで滞在していた、屋久島や種子島も500km2づつくらいあるので、淡路島とそれほど変わらないのですね。自分が世間知らずで学がないのが恥ずかしく思います。
 十分に観光してから壱岐へ向かいました。壱岐も歴史ある島です。とても立派な神社仏閣がたくさんありますし、観光地も多いです。塞神社に祭ってあるご神体をここで紹介できないのですが、とても「立派」なご神体が飾られていました。真面目な方の観光地ですとツキヨミ神社に壱岐国立博物館、松永安左衛門記念館などいかがでしょうか。猿岩が有名みたいですが、僕はそれほど好きになれませんでした。湯ノ本温泉や平山旅館の温泉はすごく良かったのでお勧めです。
 福岡市に行きました。ここはヨット友達の住んでいる町なので、友達に是非会いたかったのです。一緒に酒を飲んで、何件も店をハシゴして飲み明かしました。もちろん友達は仕事があったので、平日はレンタカーや自転車などで博多市内観光や玄海国定公園などにドライブに観光などを楽しみました。博物館にはコロナで休館されたりしていました。友達に他のヨットマンを紹介してもらったりして、日曜日開催しているホワイトセールヨットカップというのにクルーで参加させてもらったりしました。そのヨットはレース用のヨットで船内は35ftなのにドンガラで、船内は壁紙もなく、FRPがむき出しです。本格的なレース艇に乗せてもらうのは初めての経験でした。

その日は風速6mくらいの穏やかな風の日でした。博多湾は波もなく気持ちの良い青空の天気でした。ちなみに僕のPIONだったら6mの風でセーリングしたらフルセールでも4ノットくらいでしょう。しかしそのレース艇はそんなそよ風でも最大12ノットとかでます。全然意味が分かりませんでした。10m以上の風だと20ノットを超えるらしいです。20ノット以上?ちょっと意味がわかりませんでした。クルーは僕を入れて八人、僕はバックステーのタックを担当しました。PIONだとバックステーなんてサイドリギンの点検の時についでで、半年に一度くらいしか調整することはありません。色々と衝撃的でしたが、そんな速い船でもレースでは一番になれなかったので、ただレベルの高さに凄いなぁとしか言えませんでした。
 友達は僕の乗ったのとは別の船で、共同オーナーたちと自艇で参加していましたが、成績はふるわなかったようです。ちなみに後日談ですが、一年後にここのレース名はその友達のトライマランの船名のレース名になっていました。有名人は違いますね。
 しばらく福岡観光したあとに、友達や世話になった人に礼を言って、関門海峡を越えて瀬戸内海にはいりました。関門海峡では少しでもセールを上げていたら保安庁に無線で注意されました。そこにはそこのルールが色々とあるようです。来島海峡では潮向きによって左側通行か右側通行に変わったりとかもありますし、国内の海路のルールまとめブックが欲しいです。まぁ、そんなことがあり、関門海峡ではエンジンをつけて機走をしました。関門海峡超えて九州側でその日は停泊したのですが、そこは干満差が4m近くありました。到着時は満潮で係留し、乗り降りしやすかって、岸壁と船のデッキの高さはそんなに変わらなかったのに、ご飯や買い物に行って帰ってみたらスプレッターが目線の高さで、船は遥か下にあり、とてもじゃないけど船に降りる事はできません。僕はずっと満潮になるのを岸壁で六時間ぐらい待つよりありませんでした。ただ緩めに余裕をもってロープを張り巡らしていたのが救いでした。ピンっと張っていたら首吊りになるか、クリートがもげるかの二択で、どちらも想像しただけで恐ろしいです。

 瀬戸内海に入ってからは、去年行ってなかった島にも寄りつつ、主に去年仲良くなった人たちに会いながら、ゆっくり兵庫へ帰りました。しかし、コロナ発生中のため海の駅などは全部入港禁止となっていましたので不便もありました。瀬戸内海の海の駅は全て閉鎖されているのに、道の駅や高速道路のサービスエリアは閉鎖されないのは何故でしょうか? 

本州一周、北海道一周

 九州、四国へのセーリングの旅は僕にとって大きな自信と経験となりました。すでに日本一周された方のアドバイスや、寄港地の素敵な思い出などを聞いて参考にさせてもらいました。しかしながら時代が悪く、コロナ二年目で収束するようには思えません。兵庫県内でもマスクをしていないとコンビニやスーパーも入れないようになっていました。博物館や美術館などほとんど閉鎖されています。去年種子島や鹿児島硫黄島、瀬戸内海の海の駅では不便な思いもしました。去年は東京オリンピックも延期になるという前代未聞な事も世間ではあったようですが、それから感染者は増える一方、死者も増えるばかりなのに2021年は本当に東京オリンピックをするのでしょうか?国民に自粛を押し付け、政府は自由にしている印象で、多くの国民が不満を抱えている、2021年はそんな年でした。
 僕は非常事態宣言が解除されたら出航しようと心に決めていました。準備や整備だけはしっかりし、虎視眈々と出航に備えていました。しかし非常事態宣言は何度も延長に延長されています。国民も我慢の限界で、五月ごろ一度解除されました。またすぐに非常事態宣言が発令されてしまうのは火を見るよりも明らかですが、もう自粛は誰もが無理だと感じていました。
 色々なヨットマンと話していたのですが、どうやら本州一周するのは時計回りの日本海側を北上するルートが潮の関係上有利なようです。僕もそれに習う事にしました。
 猫たちはゲージを出した途端に悲鳴をあげてベットの下やソファーの下へ隠れて、猫缶やチュールを出しても全然でてきません。猫はお風呂とヨットは嫌いなようです。僕はせめても罪滅ぼしに、風呂を上がった後とか、航海中はいつもより豪華な食事を猫たちに献上しています。それでもいつも不機嫌ですが。
 猫たちを強制連行し、PIONに乗せます。物置の奥に隠れて全然でてきませんが、きっとまたすぐ慣れて出てくるでしょう。
 さぁ出航です。瀬戸内海から出航というだけで最高です。ひと時の楽園のクルージングを楽しみながら、友達のいる島や陸に寄りながら、着実に関門海峡を目指します。あいも変わらずですが、非常事態宣言中ではないのに海の駅は閉鎖されていて入港できませんでした。他にも入港禁止の港も増えて不便さは増しました。日本人の海への理解をなんとか向上してもらえたらいいなと願うばかりです。海の駅を閉鎖するよりも電車やバスの営業を禁止するほうが、感染者が減るのではないかと思うのは僕だけでしょうか?
 そんな理由から停泊できない所が増えて、潮待ちをするのに海で漂っていた来島海峡の手前のことです。僕は夜中の零時に潮が東から西になるタイミングで来島海峡を越えました。するとVHS無線がやたら飛び交って何やら慌ただしい様子です。今治市の海上保安庁の巡視船がサーチライトを灯して総動員でやってきます。最初は何事かよく理解できませんでした。巡視船は僕のヨットのすぐ傍でサーチライトで海面を照らして叫んでいますが、よく聞こえません。無線をよく聞くと輸送船が衝突して沈没したようです。乗組員が数名船内に取り残されているようです。どうやら外国の韓国船が来島海峡の潮の変われば通行方向が変わるのを知らなかったかどうかのようで、日本船に追突し、日本の船を沈めたようです。こんなややこしいルールは日本人でも周知されていないのだから当然このような結果にもなりそうなものです。結局は日本人2名の方が亡くなられたそうです。僕ができることは何もなく、ただ邪魔にならないように、すぐ離れて無線を聞きながら救出を祈るばかりでしたが、結果は残念なものとなりました。目前の船が衝突し沈没死亡事故。僕はすごい目撃をし、衝撃を受けました。船に乗るのが怖くなったのも事実です。しかし、車やバイクも交通死亡事故なんか毎日のように日本中で発生していますし、飛行機も墜落したり、電車も福知山線脱線死亡事故など記憶に新しい所です。まだ兵庫を出発して数日ですが、できることはできるだけするので、後は僕と猫の運命は人事を尽くして天命を待ちましょう。
 関門海峡を越えてから福岡の友達に会いたいのはやまやまでしたが、福岡は都会でコロナ発生が多いので今回は見送る事にしました。孫子危うきに近寄らずです。僕は角島大橋を海から見たくて、角島へ向かいました。そこでは他の旅人ヨットマンがおられました。久しく旅人ヨットマンをコロナのせいで見かけていなかったものですから、非国民は自分だけかと心細く思っていていましたので少し安心(?)しました。その方は3人で旅行されており、アメリカ製の41ftの大きなクルーザーヨットで、船のデッキにオートバイを積んでおられました。バイクがあれば確かに行動範囲は広がって、わざわざ毎回レンタカーを借りなくて済むし、良いなとは思いましたが、僕の30ftにはバイクを載せる余裕はなく、自転車が精一杯です。
 一緒に持ち寄りで夕食することになり、乾杯をしました。僕以外のセーラーはだいたいが社長さんか医者か、公務員を退職され、その退職金で。という人が多かったです。その41ftのオーナーは車関係の社長さんで、オフに仲間とクルージングされているそうで、北海道の函館を目指してると聞きました。僕も北海道を目指していたので、色々な情報交換や、起業の成功談話などのお話しを聞かせて頂きました。一緒に北海道に行こうと言って貰えたのは嬉しいのですが、ぼくの船は2ym15馬力30ftの巡行5ノット、社長さんのは4jh50馬力41ftで巡行8ノットですから、全然一緒に走れるよう性能ではありません。またどこかの港でお会いできたら一緒に飲みましょうと言ってお別れをしました。
 僕は角島サイクリングをしてからは見島を目指してみました。距離は60kmくらいなので、早朝に出航して昼過ぎには到着することができました。そもそも観光客が少ないみたいなので、島民以外入店禁止などと書いてる店はなかったので助かりました。見島ご存じな方おられますか?僕は今回の旅で初めて知りました。とても大きなマグロとか魚が沢山釣れる、釣り人にとっては夢のような場所らしいのですが、僕はそんなに釣りをするわけではないので、普通にレストランで食事をしたり、自転車でサイクリングするくらいでした。もちろん伝承や史跡は周りますが、特に記載するほどのことは無かった印象です。ただ長閑で、ゆっくり流れる時間を楽しむ事ができました。
 浜田市は大きくて立派な港でした。船を係留した横では釣り客が多く、一人で何百匹も釣られている人がいたので、そんなに釣ってどうするのですか?と、思わず聞いてしまったほど大量でした。その方は居酒屋の店主らしく、店で出すアジフライや南蛮漬けを客に出すためだそうで、こんなにも釣る理由が聞けました。ウチの猫への差し入れのアジありがとうございました。僕も美味しく頂きました。
 出雲大社の方を目指していたのですが、日本海は荒れる時には本当に荒れて、天候は急変します。昨日の夕方にちゃんと天気予報を見たのですが、どう見ても風は15m以上でなにより波が三角波の3mでありどうしょうもありませんでした。猫は蟹のように泡をぶくぶく吹いてゲロまみれで、これではこれ以上進む事はできませんでした。近くの漁港に避難したのですが、海図に書いてある水深と、実際の水深は違う事があります。それは既に何度か経験したことがあるのですが、ここもそうでした。キールがずずっと砂に埋まりました。初めての地では最徐行を心掛けているので、キールはすぐに抜けました。他の港は遠いですし、海は時間が経つにつれて白波は酷くなるばかりで、猫はすでに限界です。困っていたら港の漁師が僕の状況を察して「あそこは水深が深いから、あそこに停めな。」と大きく手を振って案内してくださいました。僕は船に積んでいた一番上等な酒を持って礼に行き、深々と頭を下げて命の恩人に感謝しました。
 天候は次の日も悪かったので、もう1日滞在し、せっかくなので観光もさせてもらいました。次の日はようやく天候回復したので、出雲大社に向かいました。
 結婚祈願をするためです。出雲大社は縁結びで有名ですから、神頼みです。バイクでは何度も来ていましたが、自転車で走ると見える景色も違って見えて、今まで気づかなかった美味しいランチをしている穴場やなども見つけることができました。今回お賽銭は奮発して500円いれたのですが、結婚できなかったので、どうやら少なかったようです。地獄の沙汰も金次第でしょうか。コロナのせいか観光客も今まで見たことないほどいなく、閑静としていました。コロナ中は神様も自粛中なのかもしれません。
 隠岐の島の西ノ島、中ノ島、島後島へ行きました。ここは本当に素敵な所で、僕の旅先TOP5に入ります。島のその辺で馬や牛が放し飼いされていて、自然が本当に美しいのです。道には馬や牛の落とし物もあったりしますが、それはご愛敬。鬼舞展望台や隠岐国賀海岸からの景色は絶景で、後鳥羽天皇御火葬塚や黒木御所跡では歴史や文化に触れることができました。

サイクリングしていても初夏の風は寒くも暑くもなく、ただ心地よくて幸せな時間を過ごすことができました。隠岐自然館は閉鎖されていて、政府はどうやらまた非常事態宣言をされているようでした。八百杉は確かに立派なのですが、屋久島や対馬の方がもう少し貫禄があったでしょうか。食事は港町なので魚をまた堪能しました。安くて旨い新鮮な海の幸が、内地の三分の一ほどの価格で食べることができるのは嬉しいのですが、やはり肉が食べたいので、食後のデザートとしてスーパーで肉を買って船で焼いてたべました。次の日に海岸線を散歩していましたら、透明度がよくて底がよく見えます。よく見ていたら足がやけに長いタコが三匹ほど散歩していたので、そのまま三匹共素手で鷲掴みして船に持ち帰り、塩焼きで頂きました。地元ひいきな僕ですが、明石のタコより美味しかったです。
 知り合いからヨットマンを紹介して頂き、鳥取に向かいました。ヨットで境港は初めてですが、バイクで丁度良い距離なので10度は行ったことがあったので庭のようでした。バイクだと四時間の距離なのに、ヨットだと三週間かかるんですね。その紹介して頂いたヨットマンの方はシングルハンドで太平洋を往復された方で、すごく貴重な体験談を聞くことができました。若いセーラーを応援したいと申されて、差し入れや食事をご馳走になり本当にありがとうございました。境港には港の近くにプラント5という大きなホームセンターがあるし、温泉も近いので助かりました。焼き肉屋さんも何件かありました。ただ本当にコロナのせいで、水木しげるロードは活気ある頃を知っているので、今の姿は本当に寂しく思いました。丹後や加賀、能登などを観光しながら北上すると、地図をよく見ると舳倉島というのを見つけました。へぐら島と読みます。こんな場所に人が住む島があるなど、友人のヨットマンに聞いても誰も知りませんでした。僕は好奇心で、どんな場所なのか気になって行ってみることにしました。島民は50人くらいでしょうか。周囲五キロくらいの小さな島なので自転車にのるとすぐに終わるので、歩いて回りました。海女さんがいるとネットに書いていましたが、女性を一人も見る事ができませんでした。買い物はできないので船で自炊しました。食事をしていると漁師さんがやって来ました。何かなと思ったら、舳倉島の岸壁や海周辺では釣りをしないように言われました。権利やらの関係があるそうです。僕は「大丈夫ですよ。僕は旅人であって、釣り人ではないんですよ。」と伝えるとそうか。と帰って行きました。
 佐渡ヶ島へ来ました。僕は以前よりずっと行ってみたかった島の一つでした。港に着くと島のヨットマンがどこからかすぐにやって来て、水や電気はいるかと聞かれましたが、僕はまだ余裕があったので、係留だけさせてもらいました。佐渡ヶ島は干満差が50cmほどしかないので、もやいを取るのはずいぶん楽です。海も穏やかだったので、安心して船を泊める事ができました。佐渡ヶ島も想像より大きな島で855km2もあるようで、北方領土を無いものとしたら、沖縄本島の次に大きいようです。とても自転車で回れないのでレンタカーを借りることにしました。寿司屋に行っても、レンタカーを借りても、観光地巡りをしても凄く物価の安い島だなと思いました。佐渡ゴールドパーク、佐渡歴史伝説館、佐渡博物館、佐渡金山跡、50mシックナー、千畳敷、両津など一通りを数日間をかけて観光しました。なかでもシックナーと北沢浮遊選鉱跡地はすごいの一言で壮観でした。夕日は万畳敷は人生最高の夕日を見る事が出来ました。島の北端では大亀野ではヨーラメとかいう黄色いユリのような花が沢山咲いていました。綺麗な景色をずっとぼけーっとしていたら、親子で観光されていた人に写真を頼まれたので撮ってあげました。親子と言っても60歳すぎのお母さんと40歳前ぐらいの息子さんでした。息子さんが離島暮らしを突然しだして、お母さんが様子を見に来たそうです。写真を撮っただけですが、その縁で仲良くなり、長く一緒に景色を見ながら雑談をしました。面白かった話しは、お母さんは運転免許とか何もないそうですが、人生で一つだけとった資格があるそうで、それは医師免許だそうです。とても愉快な元内科医のお母さんでした。僕がヨットで数年旅を続けている事を話すと、興味を持って頂けたようで、そんなつもりでは無かったのですが、もっと話を聞きたいとおっしゃられて、ランチをご馳走にまでなってしまいました。
 週末には島のお祭りにも参加できました。ライブや無料のたらい舟体験があり、さざえのつかみ取りや格安の魚介類販売があり、たくさん買って船でバーベキューすることができましたし、猫もお土産のマグロに喜んでいました。観光地や飲食店はどこもあいていましたし、終始コロナの影響を感じなく、いい思い出だけになった島でした。

 次に行った粟島も新潟県だそうです。粟島名物わっぱ汁というのはエプロンを持って行って食べたほうがいいですよ。1800円は少し高めの印象でした。乙姫の湯では自販機に地元の酒が売っていますので、風呂上りにいっぱいやらずにはいられないです。
 飛島はすこしコロナを警戒されているようだったので、大人しくしていました。猫が多かった島で、岸壁には漁師から差し入れの魚が配給されるようで、野良猫たちは岸壁に船が着くと出迎えてくれます。僕は釣ってなかったので、船にあるキャットフードをあげました。うちの猫も島猫と交流を楽しんだ様子でした。

 秋田県の男鹿市の方はすごく良かったです。レンタカーを借りて、寒風山回転展望台の広場でナマハゲのイベントに行き、ナマハゲに仮装した十人組が太鼓やダンスを披露してくださり、屋台なども沢山出店されていました。雲昌寺であじさいを見て、なまはげ館で実演問答を見たり、たくさんの資料があり、見ごたえ十分でした。
 なまはげの問答って本当にコメディで面白かったです。なまはげの銘台詞は「悪い子はいないか?」ですが、勉強しなかったり、パチンコばかりしている大人を戒めたりする良い神様だったのは今回初めてしりました。実演問答で浮気した嫁のお話しがあり、それをなまはげが戒めるストーリーはとても愉快でした。皆さんも機会がありましたら、聞いてもらいたいです。

 次の行き先は日本一周を先にされたトライマランの友達のお勧めで艫作という所へきました。読める人おられますか?「へなし」と読むんですよ。何度見ても僕は読めないです。目的は不老不死温泉というのに入りに来たからです。この時は珍しく日記を書いていましたので、この日の日記をそのままここに書きたいと思います。

 僕は期待に胸を躍らせ、夢に胸を膨らませ、ドキドキで胸がいっぱいで不老不死黄金温泉に向かった。そう、ここの露天風呂は混浴なのだ。期待せずにはいられない。テレビで以前紹介されたとあって平日でも、なかなかの賑わい。期待できる。料金は600円。吉野家なら牛丼大盛りが食べられる。しかし男の子なら牛丼の大盛りよりも偉大なロマンがあるのだ。そう、それはここ不老不死黄金温泉。

 駐車場に着く、6:4くらいの割合で女性も温泉に入っていく。僕の胸の高鳴りを誰が止めれようというのか。いざ、露天風呂に行かん!!ん?到着すると混浴と、女湯がある?どうゆうことだ?女性は全員女湯へと向かっていく。混浴場は自然とただの男湯だ。温泉の効能?僕はそんなんどうだっていいんだ、、。夢を追いかけたい気持ちから、僕は倒れる寸前まで露天風呂で粘ったが、女性はついに一人も来ることはなかった。
 こんなハズではなかった。こんなハズでは。日本海の荒波が岩にぶつかっては消えていく。ここで一句「青い海 淡い期待は 泡と消え」ともぞう心の一句。2021年6月28日
 こう記されていた。本当は航海記録とか、たくさん日記は書いていたのだけど、旅の途中で紛失してしまったので、今は記憶を頼りにこの文を書いているのだけど、すでに二年前の事を今、書いてるので少し自信がありません。しかし、まぁ上記の通りくだらない日記ばかりだったような気がします。
 艫作で道草を食いましたが、こうゆうのも大切。しかし、トライマランの三人は混浴で良い思い出があったから、勧めてきたのだろうか。今度聞いてみましょう。
 深浦では歴史民俗資料館、北前船に風待ちで有名な史跡を訪ねて。そういえば書き忘れていましたが、石川県の橋立漁港の近くにあった北前船の里資料館は立派で当時の繁栄ぶりがわかる素晴らしい展示内容でした。昔の人は科学的に裏付けされた現代の船と違って、感と経験による手作りの船作りであり、航海も天気予報やGPSナビゲーションなど何もなく、磁石で北の位置が分かるぐらいなものであって、正確な地図もなく、資料館では船乗りの手書きで記された、目的地付近の山の形や、岩に大木のメモがあるだけでした。僕はこのメモと磁石だけでは到底目的地に到着できせん。時には当然、岩場に座礁したことも、嵐にて帰らぬ人となった記録などもありました。水深は誤差があることもありますが、僕は正確な海図にGPS、スマホ、高性能な船に乗り旅をできる感謝を深めると共に、セーラーとなって、より一層その先輩方の偉業に最大の賛辞を称えました。
 深浦で資料館など回って、焼き肉屋や居酒屋にて海鮮と酒を堪能したのち、かつての偉人もそうしたであろう風待ちをし、いよいよ次は北海道入りです。

 津軽海峡冬景色を聞きながら、松前に向かいました。対馬海流の潮に乗れて、風もランニングで走れたので順風満帆で航海することができました。
 僕は北海道に旅行もしたことがありますが、函館、札幌、旭川くらいしか行った事がありませんでしたので、松前は初めて訪れました。
 まだ兵庫県を出航して二か月ほどだったのですが、出航前に新品の六段変速の折り畳み自転車を購入していたのですが、潮風の影響で持っていた自転車はポンコツとなっていました。僕は船旅で自転車を積むようになって、だいたい半年くらい持てばいいかなと思って、毎年自転車を買っていたのですが、今回はたったの二か月でした。油を差してカバーをかけてるのですが、波が基本的に高く、潮のスプレーもかかるので船内に入れでもしないと完全にはカバーでは防ぎきれないです。30ftの船内に自転車を入れてしまえば居住空間が狭くなりますし、出し入れも大変なので、ほとんど無理な話しです。それで仕方なくセーリングの邪魔にならないようデッキとスタンションに固縛し、カバーするくらいしか手立てがありませんでした。何にせよ自転車がないと観光地巡りも困りますし、サイクリングも楽しいですので、すぐに松前で自転車を購入し、ぽんこつ号は廃棄処分してもらいました。折り畳み自転車はタイヤサイズが20インチの六段変速だったので、漕いでも漕いでも速度はそれほどでません。今回はスポーティーな27インチの六段変速の自転車を購入しました。それほど展示コーナーに種類がある訳でもなく、ママチャリや子供用自転車以外ではこれが一番マシな車体でした。良いなと思ったのはノーパンクタイヤだと書いていた事でした。秘境でパンクなんかしたら困るのでパンクしにくいというのは魅力的に感じました。せめて兵庫県に帰るまでは、この旅の間だけでも持って欲しいです。
 自転車を手に入れた僕はさっそく観光をします。旧屋敷跡や寺、松前城に郷土資料館などを周りました。そこではアイヌと和人との闘いの歴史などを学ぶ事が早速できました。かつて和人の最前線拠点だった松前は、その人口や土地の広さからは想像できないくらい立派な城がありました。国の歴史は侵略戦争の勝ち残った歴史で、負けた方は言葉や文化なども灰となってしまします。日本という国はアイヌ共和国や琉球王国を滅ぼして成り立っています。過去には朝鮮半島や台湾、樺太、満州、シンガポール、ラバウルなども。国に不都合な物は情報統制されるので、現地に行って古い伝承を調べたりや地元民の話しを聞いたりしないと分からない事ばかりです。軍艦島の韓国映画が日本国内で視聴できない話も前回少し触れましたが・・・。話しが逸れてしまいましたが、今回一番勉強したかった北前船やアイヌの歴史などに、さっそく触れる事ができたので嬉しかったです。しかし北海道は広大です、四国と九州を合わせた面積より大きいらしいので、気を引き締めて航海を続けます。
 北海道を時計回りに北上していると、凪の海面に水柱のように波がバシャバシャと立っています。何事だろうと双眼鏡を覗くと、それは大量の黒マグロの群れでした。まるでイワシかアジのナブラのようにマグロがうじゃうじゃいます。はへーぇー、と言うしかないほど圧巻で、これを全部網でとれたらヨットを買い替えれそうだなとか馬鹿な妄想をしていました。
 奥尻島へ到着しました。港まわりに飲食店は沢山ありましたが、結構大きな島なのでレンタカーを借ります。奥尻津波館で地震の資料を見て、奥尻ワイナリーで北海道のワインを全種類購入し、神威温泉にひたり、賽の河原公園で石を積みをし、宮津弁天宮で階段ダッシュをしたりしました。来る途中にマグロの大群をみたので期待はしていましたが、マグロ丼は大盛りでも千円しかしません。そしてとてつもなく美味しかったです。奥尻でセイコーマートというのを知りました。北海道だけで展開するコンビニらしいのですが、総菜や弁当など食品が安くて美味しかったです。この北海道一周の旅ではセイコーマート様々で本当に終始お世話になったコンビニのファーストコンタクトがここ奥尻でした。
 奥尻から小樽までは230キロくらいあるのですが、朝に出航したら、次の日の朝に到着するだろうの感覚で次に小樽へ目指しました。北海道に入ってからゴールデンカムイという漫画を見始めました。アイヌの文化や日露戦争後の話しなのですが、北海道を周る上で大変参考にさせて頂きました。残念ながらまだ連載中で北海道一周が終わるまでに漫画は完結しませんでしたが。
 奥尻から小樽に向かっている途中で初めての北海道の洗礼を受ける事になりました。すごく荒れるんです。島根から鳥取の時に緊急避難したことがありましたが、それぐらい荒れて本当に困りました。残念ながら今回は近くに港がないので我慢です。デッキは常に水浸しなので新しい自転車はカバーをし、油を塗っていましたが大丈夫か心配になります。猫もゲロまみれでしんどそうです。僕も初めてヨットを購入した頃は船酔いが激しかったのですが、徐々に慣れて、普通の航海では何もなく、荒れてもしんどいなってくらいです。猫は船酔い慣れないのでしょうか。島武意海岸を超えてからはブイも浮いていたので岸には近寄らないようにしていました。新日本海フェリーが僕のヨットを追い抜いていきます。あれだけ大きい船だと、この無茶苦茶な天候でもそれほど揺れないのでしょうか。ぼくの小舟では洗濯機の中に放り込まれた糸くずのようです。その暴風雨は小樽に到着してからも数日続きました。船で宿泊していても、本を読んだり、自炊などはとてもできませんでした。猫はずっと揺れる船での留守番で、本当に申し訳ないですが、僕は揺れない陸上で小樽観光をさせてもらいました。港の前にはどでかいショッピングモールがあり、ホームセンターも全て揃っています。ここで自転車買えば良かったなと少し後悔はしましたが、自転車カバーは新しい物を買いました。給油もしました。兵庫県を出航してから鳥取境港で一度したので、小樽で二度目の給油です。一度の給油でだいたい100リットルほど入れます。船の燃料タンク自体は40リットルなのですが、予備に20リットルのポリタンクが5個あります。もう少し早めに給油したらいいのでしょうが、レンタカーを借りた時にポリタンクをガソリンスタンドで入れてもらうスタンスをとっています。小樽でレンタカーを借りて札幌とかにも行きました。小樽から札幌は思ったよりも近かったです。クラーク像と一緒に写真を撮ったり、北海道の開拓の歴史を学んだり、札幌雪祭りの過去の作品の写真や模型を見たりしました。今はコロナ中なので雪祭りは中止されているそうです。種子島のように居酒屋も施設も全面閉鎖し、観光できない状況じゃないだけで僕は幸せです。小樽に来るまでに今も続く悪天候で大変だったので北海道神宮で旅の安全祈願をしてきました。すごく大きな神宮で驚きました。白い恋人パークでお菓子を買って、帰りにスーパーで猫用にマグロの刺身を買って帰りました。猫は怒っていました。すみません。
 小樽には五日くらい滞在しました。天候待ちの間はずっと観光していました。その観光先の一つに博物館に行きました。小樽総合博物館は総合と書いてるのですが、電車や汽車ばかりでした。僕は電車には残念ながら興味が持てないのですが、好きな人にとったら楽園なのでしょうけど、総合博物館ではなくSL博物館に名称変更をされてはどうかとは思いました。朝市というところでは北海道の海の幸がたくさん売っていました。お世話になった方々へ、北海道の海の幸を送ってあげました。蟹とか鮭とか瓶ウニなど高級食材をたくさん送ったのですが、意外にも一番人気なのは、皆口を揃えてホッケでした。僕はこっちに来てからホッケを食べてなかったのですが、連絡が来てからホッケを食べると本当に美味しかったです。高い物だけ送っていたらいいだろうなんて自己満足をし、僕は大事な心を忘れていることに気づきました。反省です。
 小樽で太平洋横断された経験のあるセーラーと仲良くなることができ、数度一緒に食事をしました。貴重なお話しをありがとうございました。ジンギスカンも食べに行ったのですが、地元の人が知っている店は観光客用とは違って本当に美味しかったので、ジンギスカンは大ハマりしました。北海道滞在中は多分週に五日はジンギスカンを食べていました。具材はラム、マトン、ネギ、もやし、うどんだけです。タレが最高に良くて、どこのスーパーやコンビニ(セイコーマート)にも有るんですが、なぜ北海道以外では売ってないでしょうか。僕が北前船の船長でしたら、ニシンではなく、ジンギスカンとタレを大阪の秀吉どんに献上したことでしょう。
 ニシンと言えば、ニシンで有名な留萌にも行きました。それほど観光できる資料館などは少なかったのですが、小樽でニシンがあまり獲れなくなってからはだんだん留萌とか北前船の船団が北上してニシン貿易をしていたようです。アイヌの展示もありました。和人は松前を足掛かりにだんだんと北海道を侵略して行った事など、地域民に話しを聞く事もできました。
 それにしても七月だというのにこちらはとても寒く、夏なのに海水浴場などは全然見かけません。五月に出航したころはクロックスに半ズボン、半そでだったのに、北海道入りしてからはあまりの寒さに、札幌で長袖、長ズボンを何着かとジャンバーも新調したほどです。山口から石川県あたりまでは本当にホンダワラが多くて一日に何度も海に潜ることもあったのですが、北海道ではホンダワラがなくて助かります。

 焼尻島、天売島では多くの野鳥を見ることができました。鳥には詳しくないのであれですが、かわいいな、綺麗だなと素直な心で眺めていました。小さな島だったので自転車でのサイクリングが丁度楽しい距離でした。もっと大きな島だったら楽しいサイクリングも修行になってしまうので、これくらいだと助かります。両島共に島の最も西に展望台があり、そこからの眺めはとても良かったです。とても印象に残っているのは丼に山盛りのウニ丼です。今思い出しても唾液で口がいっぱいになり、こんな贅沢は今後もなかなかできないでしょう。なかなか行けない場所ですが、もう一度行くことがあれば真っ先にウニ丼を食べに行くのは間違いないです。日本で一番美味しいうに丼はここにありました。

 次に向かったのは利尻島です。海から見る利尻富士が美しく、夏なのに山頂にはまだ雪が残っていました。山梨の富士山でも五月には雪が解けるというのに、ここでは残雪の山からの吹きおろしの風で本当にまだまだ寒くて、昼間でもジャンバーを着ていました。利尻島は北緯45度あります。ちょっと詳しいヨットマンには分かると思うのですが、「吠える40度、狂う50度線。」というのがあります。これはたぶんチリ南部のマゼラン海峡だとかホーン岬のことを言うのでしょうが、北でも南でも緯度が高くなりにつれて、険しくなっていくのは多分一緒でしょう。猫は胃袋が空になって吐くものがなると、涙を流すようになっていました。猫も鳴くのではなく、泣くことがあるんですね。ごめんなさい。島についたら直ぐにマグロ買ってきます。

 何年か猫と船旅をしていると、猫のストレスレベルが行動で分かるようになってきました。第一段階は酷い環境下によるストレスで僕に威嚇してきます。第二段階にヨダレをたらして倒れ込みます。第三段階で吐きます。第四段階で蟹のように泡をふき、目はうつろになります。第五段階で泣きます。白目を向いて意識不明などは一度も無かったので、MAXが涙を流す事態でしょう。
 利尻島ではレンタルバイクを借りました。こんな素敵な島をバイクで走れるなんて凄い幸せです。観光した箇所は大まかに言うと利尻博物館、沼浦展望台、オタトマリ沼、利尻郷土資料館、野塚展望台、姫沼利尻山神社、夕陽丘展望台など周りました。北緯45度の海の疲れから、サロベツ国立公園の利尻富士登頂まではすることができませんでした。沼浦展望台からの景色は白い恋人の表紙にモデルになった場所だったことは行って初めて知りました。利尻郷土資料館や利尻博物館では島の暮らしや生き物などが学べ、中でも両方とも大きなトドの剥製が印象的でした。島では美味しい食事ができる場所が沢山あったのでグルメも十分に堪能できましたし、セイコーマートにもお世話になりました。旅を堪能してからは利尻富士温泉で体を癒されました。温泉の休憩所で設置されていた自販機はサッポロビールが並んでいましたが、バイクだったので僕はヨダレをたらしながら見送りました。
 次はお隣りの礼文島です。北海道一周されたヨットマンは数人知り合いがいたので情報を聞こうと連絡したのですが、皆さん利尻や礼文島は海が厳しくて全員入島は断念して、普通に陸つたいにそのまま稚内に行かれたそうです。なんて勿体のでしょうか。中には稚内までヨットで行って、フェリーで島に行った人もいました。そんなの反則では?ある意味賢いとも思いますが。

 礼文島は利尻と隣ですぐ近くなのですが、島の雰囲気は全く違います。秘境ここにありって感じでした。ここでもレンタルバイクを借りたので、まずは島を一周してみました。北のカタリナパークという所に初めに行ったのですが、この映画は見たことがなかったので楽しみは半減でしょうが、景色良い所でした。桃岩展望台にメノウ岩の元地海岸、澄海岬、スコトン岬、金田岬など、どこへ行っても絶景が広がっていました。特に北端に行けば野生のゴマアザラシが50匹くらい近くの浅瀬で昼寝していて、ここは同じ日本かと思いました。そして売店でもアザラシやトド料理が数百円で食べる事もできます。アザラシを見ながらアザラシを食べるのは気が引けますが、私の地元の六甲牧場でも牛を見ながらBBQが食べれますから、同じようなものでしょうか。売店の人に話しを聞くと、今は夏だから50匹くらいですが、冬だと海岸がずっと埋め尽くすというと話されていました。

 桃岩展望台の方は沢山の野草や花が見れます。北緯が高いので、低い標高でも高山植物が観測できるのだそうです。僕は美しいとは思いますが、それ以上の物の価値は分からないので少々勿体なかったかもしれません。そういえば山なのに気が全然生えてないので、草原がより一層景観が良かったように感じ、海からの風が吹けば草原がささーっとなびいて、それを丘から見下ろしながら吸うたばこが美味しかったです。禁煙の看板は無かったのですが、もし禁煙でしたらすみません。一応携帯灰皿は持ち歩いております。
 天候待ちをしながら稚内を目指そうとしたのですが、なかなか天候は良くならず、これがここの普通なのかと、ある程度の波風で妥協して稚内市へ向かいました。しかし、本当に毎日寒くて、特に日が暮れてからは一層冷えて、夏なのに寝る時は毛布が必要です。猫たちは僕なんか嫌いですが、五月に出航してるので、船にストーブなんか積んでいません。寒いので猫は僕を湯たんぽ代わりに引っ付いて一緒に寝てくれます。猫を抱きしめて日本最北端をヨットで旅。今はロシアの樺太の島影を遠くに見ながら稚内市の海の駅へ入りました。すごい形のドームの様な形をした巨大な防波堤が海の厳しさが伺えます。

稚内では自転車で観光しました。樺太が近いということで樺太記念館に行ったのですが素晴らしくて、この記念館だけで一日中居ました。稚内公園では九人の乙女の石碑を見ました。あの映画は僕も見たことあります。「みなさん、これが最後です。さようなら、さようなら。」
 自分の最後を悟った若い人間がこんなにも冷静に、最後まで職務を全うできるのでしょうか。北の厳しい環境や、時代の軍事教育でしょうか。僕には想像すらできません。僕は海辺でタバコを吸いながら白波を見渡します。北海道一周のうち、こんなに走ってまだ三分の一くらいでしょうか。もうちょっと天候が良くなれば良いなと思いながら、僕は宗谷岬を目指すのでした。
 宗谷岬を超えて、猿払を超え、天候の悪化から江幸港では10日ほど長居をしました。しかし稚内から知床までぐらいは網漁が盛んなようですね。時には陸から漁具がびっしりと張っていて、陸地から20キロくらい沖を走ることが多かったです。沿岸5海里などの船検登録では漁具に引っ掛かるのが怖くて僕は走れなかったので、ずいぶん沖出ししました。
 江幸では四人ほど地元民と仲良くなれました。僕は手料理が得意なので関西料理を道民にふるまったりしたのですが、困った事がひとつ。羊や豚、鳥などはどこでも売っていますが、牛肉はほとんどの店で扱っていなく、ハンバーグを作ろうにも牛肉のミンチ肉はどこにも売っていません。関西人の好物のすき焼きしようにも牛肉も種類無く断念し、豚肉は手に入ったのでお好み焼きとか、煮込みとか、豚汁、あとは洋食をふるまったりしました。僕は料理を提供し、代わりに友達には家に泊めてもらったり、風呂を借りたりしていました。
 休日にドライブに連れて行ってもらったりしました。江幸は近くに観光地や遊ぶ所もないので、旭川まで行きました。片道170キロもあり、車で往復6時間くらいかかります。江幸の友達はまるで隣町のような感覚で、旭川まで遊びに行こうと言いましたが、170キロと言えば神戸から名古屋まで行けます。とても軽く日帰りでドライブの距離ではないのですが、江幸の友達はたくましいです。僕のわがままで旭川の科学館でプラネタリウムを見たり、旭川市博物館や川村アイヌ記念館でアイヌの勉強をし、北鎮記念館でゴールデンカムイの漫画巡礼をし、マイルドセブンの丘でタバコを握りしめ記念撮影をし、かんのファームで花を見て、白金青い池や白ひげの滝、十勝岳などを観光しました。
友達の希望でショッピングモールや雑貨屋で買い物をしたりもしました。僕は思いもよらない珍しいお土産も買えたので良かったです。お昼ご飯に「これ食べきったら料金無料」という大食いの店でハンバーグを食べたのですが、時間内に食べきれず罰金払ったりしたことも良い思い出です。ハンバーグはもちろん豚肉でした。
旭川市が北海道第二の都市とは言いますが、人口40万人くらいなので、兵庫県の姫路より規模が小さいので、それほどの都会ではありませんが、見どころは多かったです。帰り道には道の駅びふかや、音威子府村で北海道命名の碑を見て、名寄市などにも観光に寄りました。江幸にこなければ一生行くことがなかったであろう場所ばかりで、友達には感謝、感謝です。楽しい10日間をありがとうございました。

 別れを惜しみつつ紋別に来ました。海洋交流館、オホーツクホワイトビーチ、流氷科学センター、蟹爪オブジェ、紋別博物館、まちなか芸術館、神社と滝観光をしました。
 一番の見どころはガリンコステーションでしょうか。氷を砕きながら戦車のように流氷の海を進む事ができる船で、設計者はゴレンジャーやウルトラマンの影響を受けているのではいかと想像しました。実は僕がヨットを買う前に強い憧れを抱いた本はブルーウォーターストーリーという本なので、南極にヨットでというのはロマン満点です。僕のヨットにガリンコ号のようなドリルがあれば南極に行けるかな、なんて馬鹿な妄想をしつつ、隣にあるトッカリセンターでアザラシショーをぼんやり見ていました。この日の昼間は天候が良く、珍しく温かい日でした。ロングティシャツと短パンで流氷センターに行き、中の展示室を見てから、下の階にある厳寒体験室で真冬の紋別疑似体験をしたところマイナス20度でして、鼻水が氷りそうで、中の展示をじっくり見ることはできず、早々に退散してしまいました。みなさんが行かれる時には完全防備で行ってみて下さい。
 ホタテの養殖の網は陸地から20キロ沖までつづくので、相変わらず岸が見えないくらい沖出しして、さらに東へ向かいます。ゴールデンカムイで熱い描写のある網走刑務所を目指しています。ここにヨットやプレジャーボートで来るには入港の関係で少し難しいので、行く前にちゃんと事前申し込みをしてください。また、このまま知床半島を周って進むと北方領土問題もあるので、網走の海上保安署に北海道一周中の旨を伝えに挨拶行くのもしていた方が良いでしょう。
 松前から始まり、和人はどんどん北へと侵略して行ったので、網走ではアイヌの最後の方の文化を学べる機会もありました。ニヴフ民族、ウィルタ族という民族も明治まではおられたそうです。残念ながら詳しくはわかりませんでしたが。
 網走監獄博物館はコロナ中でも、多くの観光客がおられました。北海道は札幌雪祭りが中止とかはありますが、博物館とか美術館、資料館が閉鎖されたりは無かったし、観光客が冷たい目をされることも無かったのはありがたかったです。僕にとって網走監獄博物館は北海道の観光地でトップ3に入る楽しい施設で、見どころが多く、朝から閉館まで一日中居ました。また沢山の映画のロケにも使われるので景観も良かったのですが、ほとんど霧で視界は悪かったです。江幸町から東へ行くほど霧が深くなってきました。土地柄なのでしょうか。僕のPIONには水上レーダーはなく、目視だけです。AISという他船の位置が分かる装置は装備していましたが、養殖が盛んなので、海上にある浮遊物やブイは目視に頼らないといけないので、霧が深いのは困ったことでした。
 網走での観光を堪能し、休息をし、買い物の荷物を積み込んでから知床半島を加藤登紀子さんの知床旅情を聞きながら進んでいます。風波が強くて霧まで深い。この一年後にカズワンという観光船が沈没し、大勢の死者がでるのですが、この時は知る由もありません。実際僕も何があってもおかしくは無かったと思います。とても厳しい海でした。羅臼の方で漁港に入りました。漁師さんに熊がでるから気をつけろよと言われました。岸壁でもやいの調整をしていましたら、キタキツネが二匹、ヨットの2m先まで遊びに来ました。野生のキタキツネは瘦せていていますが、動物好きなのでとてもかわいかったです。うちの船長のキャットフードをあげてみると嬉しそうにもぐもぐ食べています。PIONの船長と機関長がデッキに出てくると、キタキツネは縄張り意識なのかどうか、すごく猫に威嚇してきました。狐はコンコン鳴くとばかり思っていたのですが、高い声でわんわんと犬のように鳴くのですね。うちの猫たちはすっかりおびえて船内に隠れました。キャットフードよりもドッグフードの方が良かったかな?被害がなかったのは今思えば良かったです。野生の獣に餌付けしてはいけなかったかと少し反省しました。

 さきほど熊の注意をしてくださった漁師さんが一緒にジンギスカンをしようと誘ってくださって、夕食を一緒にすることになったので船から酒を二本持って参加させてもらいました。ジンギスカンは本当に良い。セイコーマートはほとんどどこにもあり、コンビニにジンギスカンセットは売っているので、ずっと食べていたのですが、ここでしたジンギスカンパーティーは少し味付けや食べ方が違っていて、表現は難しいですが、とても良かったし、すごく楽しかった宴となりました。なんの漁をするのか尋ねてみたら明日はタコ漁に行くのだそうで、ここで獲れるタコは20キロとかあるそうです。兵庫の明石もタコは有名で僕も今まで明石で50匹くらいとってきましたが、一番大きい物でも二キロくらいです。平均は500グラムくらいでしょうか。僕の知り合いも明石で三キロのタコが釣れたら自慢するほどなので、兵庫県民からしたら20キロなんてタコは恐ろしいですね。

 標津町へ来て、明日より北方領土海峡を抜けて浜中町の方へ目指す事を、海上保安署に行くと、網走署から連絡が来ていたよと話されていました。今でも、たまに拿捕されるので十分気をつけて、GPSは絶対外さないように気を付けてとアドバイスをもらいました。
 標津町歴史民俗資料館でアイヌのことを学び、湿原木道を散歩して、サーモン科学館でサメに指パク体験もし、ごはんは鮭いくら丼。北方領土館で悲しい戦争の過去を学び、貴重な写真や文献をたくさん見ることができました。もっと日本人は竹島、尖閣諸島、北方領土について考えなければならないのではと思います。話は変わりますが、これを書いてる時に公衆浴場くすのきにも行ったというメモと写真がでてきましたが、ちょっと思い出せないです。航海記録や日記が紛失したことはとても痛手です。この次に行った、落石港にも行ったメモもありますが、何をしたかちょっと思い出せません。
 北方領土海峡を渡った記憶だけは強烈で、その他の小さな事は忘れてしまったのかもしれません。国後島と歯舞群島の近くを航行していた時の事なんですが、拿捕が怖くて北海道の陸近くを航行したかったのですが、それは不可能でした。なぜなら漁師が仕掛けた網が陸から領海内ぎりぎりまで設置しているので、船は国境ギリギリを嫌でも航行しなければならないからです。もう少し考えて設置してよと涙目になるほど、航行できる道幅は少ないです。恐る恐るGPSの位置情報を信じて、漁具にも注意して進みます。この日は霧がなく晴れ渡っていました。北方領土側を見ると、目視でロシア海軍の軍艦が見えます。なんだか大砲がこっちに向いているような気がして、すごい見張られている気がして海上保安庁に「目の前にロシア軍艦が居て、こっちを見てるのですが。」と無線をいれます。すると保安庁から「大丈夫ですよ。こっちも見ています。そのまま進路を外さないように。」と返事が返ってくるのですが、生きた心地がしませんでした。ロシア軍艦は127mm砲でミサイルや魚雷もあるけど、保安庁は20mmもしくは12.7mmが一門しか無いでしょう?本当にいざと言う時は助けてくれるのでしょうか。海上自衛隊の北の守りは青森県の大湊。どう考えても遠すぎます。600kmくらいなので最大速度30ノットのスクランブルで向かっても10時間は必要でしょうか。それにしてもウチの船長と機関長はこんな時も堂々としたものです。キタキツネにはビビるようですけど。

 何事もなく、北海道最東端を超え、南下していきます。憧れの霧多布にきました。ここはルパン三世の生みの親のモンキーパンチが生まれた町で有名です。ルパン三世やシティーハンターの冴羽亮には少年時代とても憧れたものです。今のずっと好きです。その霧多布に来れたのでモンキーパンチ・コレクションという展示場(?)に行きました。行く途中も仮想店舗の次元BARや不二子PUBなどが町中にあり楽しませてくれます。ルパン三世ファンの方にお勧めです。
霧多布岬では放牧されている馬が闊歩していて、岬から見る景色がまた絶景でした。グルメで記憶にあるのは蕎麦でしょうか。蕎麦と言うと僕は茶色とか黒っぽい物しか食べたことがなく、関西人はほとんどウドン文化なのですが、霧多布の有名な蕎麦屋では、蕎麦が白色でそうめんのような細いウドンのような感じでした。味も食べなれた物ではなかったので、ちょっと違和感はありましたが、味はまぁまぁでした。寿司屋は立派な寿司を握ってもらったので、値段もそれなりでした。漁港料金の格安料金に慣れた僕には三倍くらいの支払いだった記憶があります。霧多布というほどあって霧が激しく、視界が悪いので何日か天候待ちをしました。出向中に沖を走るのはGPSで浮遊物が無いのを祈ればいいですが、港を出る時に視界が悪ければ、他船と衝突や、土地勘がない為に座礁などの危険が多い事から、せめて出入港では天候を気にします。地元の漁師さんともずいぶん仲良くなりました。近くにセイコーマートがあるので毎日ジンギスカンが食べれるのも嬉しかったです。記憶が不確かですが、ラム肉が600グラム800円くらいで、うどん二玉で150円、もやしが50円で、卵つけても合計1200円もあれば、お腹いっぱいジンギスカンが北海道の港のどこでも食べれた記憶があります。セイコーマート万歳。どうか兵庫の地元にも出店よろしくお願いします。

 モンキーパンチのルパンはここで生まれたのかと思いながら、霧がマシになったタイミングで釧路へ行きました。釧路は大きな港で久しぶりの都会だと感じました。ただ北海道最大の霧の町で、スプレッターもバウも見えないぐらい真っ白です。釧路に向かっているとカモメが僕のヨットに休息に降り立ちました。2時間くらい羽を休めておられました。船長はカモメさんが気になってチラチラ見ている様子がかわいく、機関士も珍しいお客さんにそわそわされていました。僕の50cm先にカモメがおり、触れそうな距離感だったのですが、こんなに近くで見たことは無く、うちの猫くらいの大きさだったので、思ったよりも大きいなと思いました。
 
 釧路に立ち寄った際のメモはいくつか残っていて、ガソリン給油100リットル、散髪したこと、フィッシャーマンズワーフで買い物、焼肉食べ放題でランチ、鳥取神社でお参り、二日目は釧路市立博物館、ランチはしゃぶしゃぶ食べ放題、港文館観光、イオン買い物など書いていました。鳥取神社には横に鳥取藩士移住の資料館があり、開拓や寒さによる過酷な文献を学びました。博物館はすごい立派な博物館で展示内容も素晴らしく、ゴールデンカムイコーナーみたいなのもありました。もちろんアイヌ資料などもありましたので大変興味深く勉強させてもらいました。給油は港から少し遠い所のガソリンスタンドが特別サービスで配送料無料にしてくださり、とても感謝です。セーラーの端くれとして、できるだけ帆走を心掛けていますが、冷蔵庫やGPS、オートパイロットなど稼働させるのに電気は必要です。北海道の稚内からここまではほとんど曇り空で網走からは霧が多いので130ワットのソーラーパネルはほとんど発電しない為に、発電機としてエンジンを稼働させる事が多かったのです。夜は本を読むために照明も必要でしたし。それでもざっと1500km前の小樽から釧路まで100リットルで済んでるのは、大したものだと自画自賛です。北海道半周ですから。
 釧路を超えて広尾町、浦河町など寄りながら、白老町に来ました。白老ではアイヌ民族博物館があり、ここまでの旅もアイヌ勉強してきましたが、こちらの白老では北海道で一番大規模なアイヌ民族を後世へ伝える最新の施設などで、以前より一番来たかった場所でした。事前にネットで申し込みなどが必要なので、その辺は少し面倒でした。
 ゴールデンカムイ特別展示室別料金の入場料が必要でしたが、漫画が好きな人は価値のある展示でした。アイヌの食事を作る体験教室や、アイヌの伝統的な舞いや踊りを見たり、多くの展示があり、丸一日楽しめる施設でした。
 白老から隣の登別に移動し、こちらでは休息のために温泉巡りが目的です。レンタカーを借りて湯元さぎり湯、大湯沼、登別地獄谷を楽しみ、閻魔大王のからくり時計を見たりしました。幌別で買い物をしてから、次は室蘭にも行こうかと思ったのですが、北海道クルージングは広大過ぎて、温泉でも疲れが取れきれず、アイヌも十分に満足できたので、早く本州の地に帰りたくなったから飛ばすことにしました。山背泊から対馬海流を逆らって西へと向かっているのですが、これには参りました。潮は絶えず西から東へ流れているのですが、風はずっと東から西へと吹いているものですから、ずっと三角波が立っていました。どんぶらこ、どんぶらこと猫も第三ステージの船酔いをされている様子です。
 津軽海峡の大波を超えて、函館港へ到着することができました。函館ヨットクラブに挨拶に行き、入港届けを提出します。

僕のPIONの隣りにラグーン43が停泊されていました。空母のように大きく、マストも20m以上ありそうです。同じヨットと言えども軽自動車とロールスロイスほどの差があります。凄い船だなぁと思っていたら、裸足にサンダル、半そで半パンの気さくなおっちゃんが出てきました。その姿を見て、あれ?そう言えば函館に到着して暑いぞ?気づきました。同じ北海道でも温度差が凄いですね。冬服はすっかり必要なくなりました。函館到着は八月半ばくらいでした。ラグーンのオーナーが暑いから、うちの船でも涼みにおいでよ。と誘ってくださったので冷蔵庫で冷えている缶ビールを全部持っていきました。書き忘れていたかもしれませんが、今回の日本一周の前にキャンピングカー用の12v冷蔵庫容量20Lを購入していました。「おそま」などの調味料が入っているので、ビールや酎ハイは6本くらいしかはいりませんが、シングルハンドにはこれで十分でした。
 ラグーンの船内に入ってビックリでした。エアコンの冷房がギンギンに効いていて、お嫁さんは若くてモデルのような美人でした。一生縁の無さそうな環境です。僕は山下清のようなルンペン風貌なので、曲がりなりにもセーラーでなければ、このようなご縁が無かったのでしょうから、良い経験をさせてもらいました。
 函館は十年前にも来た事がありましたが、あの時はグループで来たものですから、自由に観光することができなかったので、時間をかけて沢山観光をします。
 五稜郭、北洋資料館、土方歳三最後の地、金森赤レンガ倉庫、市場、教会、旧領事館、ペリー提督記念碑、旧函館区公会堂、八幡宮、温泉巡りなどをしていました。
 ラグーンのオーナーや函館ヨットクラブの皆さんに良くして頂き、毎日食事やパーティーなどに誘って頂き、とても楽しかったです。オーナーは旭川の人ですが毎年のように夏は函館クルージングをされているそうです。しかし途中で急に仕事が入ったそうで船を置いて旭川へ帰ると、会社の部下のひとがロールスロイスのファントムで迎えに来られました。桁が違います。翔くん暇だったら猫も一緒に旭川の家に遊びに来てみないか?と誘われて、なぜかファントムに座って旭川まで車で450kmのドライブをしました。めちゃくちゃ遠いのですが、全然疲れないし、腰も痛くなりません。
 家はすごく大きく立派な洋式のお屋敷で、城のようでした。車はファントムの他にランボルギーニやハマーやその他・・・。函館ではさんざん食事をご馳走になったので、僕は得意の手料理を振る舞いました。冷蔵庫と洗濯機の調子が悪いという事なので修理もしてあげました。ラグーンでも洗濯機や炊飯器が稼働しなかったので、ちゃんと動くようにしてあげました。少しは恩返しができたでしょうか。オーナーの用事が済んでまた四日後に函館へ戻りましたら、今度は小樽へラグーンを持って帰るそうなので回航を手伝うことになりました。二度目の小樽です。今度は豪華なカタマランで。
 貴重な経験をさせてもらって、無事に小樽まで回航をしてから、やっとPIONは青森県を目指します。狭くて小さなヨットですが、僕には落ち着きます。最近大規模な土砂災害があったらしく、大間のほうはパスしまして、白糖港に寄ってから八戸市に行きました。
 途中でワタリガニが泳いでいたので網ですくって頂いたりもしました。

八戸の港の前では三菱の船が最近沈没していたので、二つに折れた船体に気を付けながら入港しました。八戸城観光をして焼肉行って、蕪島神社に参拝に行きました。かぶしまと読みます。風呂は極楽の湯に行きました。この日は9月26日だったので風呂の日で安かったです。青森に来て重大な事に気づきました。セイコーマートがもう無いのです。僕はがっかりです。宮古市に寄ってレンタカーを借りました。目的は遠野物語の館と遠野市立博物館、達谷窟毘沙門堂、中尊寺金色堂でした。盛岡市の宮沢賢治や石川啄木の歴史も学びたかったのですがコロナ休業をしていました。遠野物語が好きだったので大満足の観光ができました。毘沙門堂や中尊寺金色堂は立派なのはもちろんのこと、周辺の森も大変美しかったです。久ノ浜や岩城、北茨城、大洗、大原、東安房はそんなに良い思い出がないので省略させて頂きます。コロナ警戒でつらい目に合いました。東北では震災の爪痕もまだまだ残っておりました。
 伊豆大島に来ました。東京湾が近くにあるので大型船の往来が多かったのと、黒潮の逆流により、平均二ノットしか出なかったのは辛かったです。

 大島って貞子のリングのロケ地だったんですね。売店のコロッケ屋で貞子の記念撮影やサインが飾っていました。少し違和感のある色紙でした。伊豆大島で登山客が何人かおられましたが、僕は疲れのため登山はしませんでしたが、サイクリングを楽しみ、博物館や青い海を眺めたりしていました。久々に透き通った青い海を見ました。十月になっていましたが、長らくご無沙汰だった海水浴もしました。

 東海沿いから紀伊半島までずっと黒潮の逆流にて千葉からずっと和歌山まで平均二ノットとかでしたが、伊勢志摩くらいまで来てからは土地勘があったので、余裕で兵庫まで帰りました。
 残念だったのは、串本の潮岬で台風セーリング後に避難したことのある、新宮市の何日も通った居酒屋は、コロナの影響なのかどうかは分かりませんが、無くなっていたことでした。船旅をしていたら会いたい人ができて、また行きたくなる。その楽しみが無くなるのはとても寂しいことです。

 今回の旅では携帯をまた海へ水没させたりして、携帯を買いなおし、航海記録や思い出の写真が消え去ったりするトラブルがありましたが、大事な思い出はずっと胸にあり、一生忘れることはないでしょう。
 船自体のトラブルはなく、万全のメンテナンスをしていた甲斐がありました。北の海は厳しい事もありましたが、それも含めてとても貴重な体験ができました。
 しかし、ヨットを買う時に、検討に検討を重ねて30ftで十分と思いましたが、もっと大きな船でないと厳しい海を超えるのは大変だなぁとも感じました。
 マストも、セールも、特注のドジャーやオーニング、オートパイロット二個体制、ホンデックスのGPSやソーラーなどの電子装備に、エンジンまで新品にして、すごく大金をつぎ込んだヨットですが、もう少し大きなヨットへ乗り換えて世界を目指したくなりました。
本州と北海道一周より帰って一か月後にPIONを売ることにしました。運が良く、つぎ込んだ金額の3分の1の値段でしたが、すぐに売れました。次はどんな船にしようか検討をし、僕は頑丈で34ftから40ftまでのサイズ、温水シャワーがあり、強度のあるマストで年式が新しいヨットを探しました。
コロナ中でキャンプや釣り需要が増えて、ヨットやプレジャーボートの中古は球数が少なくなっていた背景があるので、そのお陰でPIONはすぐ売れたのですが、需要と供給のバランスの問題で、良いのは買うのは難しくなっていました。そういえばと思い、ヨットを引退しそうな知り合いがいたので連絡してみましたら、売っても良いということになったので、見に行きました。そのヨットは三度ほど見たことがありましたが、購入をしようと見ていた訳じゃないので十分に品定めをして、知人のオーナーと売買契約を結び、無事に名義変更をしました。
新しいヨットはアメリカ製で全長は10.85m、高さは15.5mで重さは荷物を全部下して、水も燃料タンクも空にして9トンほどありました。
母港の関係で16mまでしか橋がくぐらない事。メンテナンスをいつもしているハーバーでは上架クレーンが10トン以下じゃないと上がらない事を考えると、ほぼ最大のヨットを買うことができました。年式な2001年製で温水シャワーも船内とデッキの二種類あり、マリンエアコンやドジャーにオーニングなどもありました。
追い金は数百万必要でしたが、充分満足できるヨットを手に入れる事が出来ましたので、後は自分好みにメンテナンスや改造をして行きます。

改造箇所は新品のメインセールに、スタックバック新調、ソーラーパネルを100ワットをアクセサリー用と、メインエンジン用に、バッテリーはメンテナンスフリー密封式100アンペアを二個づつ並列で、合計四個400アンペア、オイル交換やフィルター、インペラ交換などのメンテナンスに防腐対策、掃除や上架作業でペンキ塗りやハル磨き、スタンチュウブ交換し、対候性のある滑り止めを兼ねたマリンデッキシートをコクピットに設置に、マリンエアコン稼働するための発電機のジェネレーターのメンテナンスをして、整備後に何度かシェイクダウン航海をしました。
そして旅の相棒の自転車なのですが、北海道で買ったスポーティーな自転車は兵庫に着く頃には、いくら油をさして、カバーをしていてもダメでしたが、よく持ってくれました。次の旅のために自転車を買いなおしたのですが、次は20インチの折り畳み電動自転車でした。やっぱり坂道は辛いですので。そして大容量バッテリータイプを選択したので移動範囲も増えるでしょう。以前山口県で会ったセーラーはバイクを船に搭載していましたが、さすがにそこまではできませんでした。岸壁の段差もありますし、海に落としてしまいそうになります。いくら力持ちでも揺れる船で重いものを下ろしたり積んだりは大変です。ですから重量にも気を使いました。今回買った電動折り畳み自転車は重量が20キロです。これだと給油のポリタンクと同じ重さなので、なんとかなりそうでした。

九州、トカラ列島、奄美諸島、沖縄離島への旅

 新しい36ftのヨットは整備を思いつくだけしましたので準備オッケーです。コロナも三年目、ワクチンも接種しましたし、そろそろ世界情勢も落ち着きそうなので、日本を南下してそのまま西回りで世界一周をしたいなと思いました。新しいパスポートを取得し、海外旅行を沢山していたころのユーロやドルや貯金通帳なども船に積み込んで、夏服や冬服の一年中の衣服も積み込みました。
 一人暮らしの家のガスや電気、水道、郵便物も全て止めて、当分帰ってこない決意をしてから、とりあえず瀬戸内海の海に癒されながら九州を目指しました。
 雪が舞う2022年2月出航で、瀬戸内海クルージングしていて、コロナが落ち着いてきたはずなのに、まだ港は数か所閉鎖されているままの場所もあります。コロナは良い言い訳に利用されていると、感じた事もあります。だって、こないだまで東京オリンピックもしていたし、ゴートゥーキャンペーンもしていましたから。お役所仕事や給付金詐欺だろうと感じる旅もありましたが、猫と海が癒してくれるので、僕は落ち着いて(諦めているだけ?)、できることの中だけで楽しもうとしていました。
 だいたい寄る場所は固定化されてきました。やはり、行ったことがある港というのは安心感が違います。新しい場所をどんどん開拓していきたいのですが、旅先で知り合った友人に、また会いに行き、一緒に酒を飲みたいのもあります。今回新しく立ち寄った場所で驚いた場所は愛媛県の伊予長浜です。長浜大橋というのがあるのですが、戦争中に戦闘機から機銃掃射をされた弾痕の跡などがあります。愛媛は柑橘類が有名なのでミカンやレモンを大量に買いました。壊血病は船乗りの大敵なので、これで安心です。僕はシングルハンドと猫2匹なので、健康や栄養について気にしています。自分に何かあれば途端に旅が終了してしまいますし、運が悪ければ死んでしまいます。栄養についてはカロリーメイトを段ボールで大量買いをして、野菜ジュースも一日500cc必ず飲んでいますし、虫歯も歯磨きをちゃんとしています。運動はずっとヨットはバランスボールに乗っているようなものですし、自転車で旅先に着いたらサイクリングも楽しんでいます。とは言っても、今回からは電動自転車なので少しズルいですが。
 伊予長浜の港でボケーっと海を眺めていたら釣り客が話しかけてくれました。地元でミカン農家をされているそうです。ミカンを数個差し入れてくれたので、ビールを船から出して来て、一緒に海を見ながら釣り客と飲んで、地元の歴史や文化のお話しが聞けました。
 北海道函館で知り合ったヨットマンが二人、大分の別府マリーナにいるそうなので、別府に向かいました。マリーナの前は本当に都心部なので、近くで何でも揃い、とても便利な所でした。温泉があちこちにあり300-500円で入れるので、毎日温泉巡りをしていました。
僕はこの頃36歳でしたが、年式の割と新しい綺麗で大きめのヨットに乗っているので、マリーナで知り合った他のオーナー達は、僕をどこかの御曹司か、IT企業の社長さんか何かだと思っていたそうです。以前は普通の会社員で、今はただの無職ですと伝えると、危ない事している人じゃないかと疑われました。ヨットは維持費がかかりますので、若い普通の会社員が36ftのクルーザーヨットなど買えるはずがないと、オーナー達は皆知っているのです。読者の方もお金について気になっているかもしれません。ここで少し生い立ちを。
僕は高校生の頃に家庭崩壊をしました。一応おばあちゃんに助けてもらったりはしましたが、お昼ご飯の弁当が無く、たまにカロリーメイトひと箱と水だけが一日の食事だったことがあります。アルバイトをして金策もしましたが、時給は当時650円でした。コンビニでアルバイトをし、賞味期限切れの廃棄弁当を店長から貰ったのが当時の最大のご馳走でした。18歳から就職をしますが、最初の基本給は15万だったでしょうか。アパートを借りて家賃や光熱費もあるのでギリギリでした。それからどんどん出世はして二十歳には月給30万を超えて、ボーナスも年に80万ぐらい貰えるようになるのですが、海外出張が多く、中東で仕事をしているうちに祖父が死んだのですが、どうしても事情があり、帰国は許されませんでした。家族が死んでも帰れないような、こんな環境では仕事を続けることはできないと思って、その一年後に退職し、再就職をしました。高卒なので選べる仕事は決して多くはないですし、賃金も安いです。次は月給18万円からスタートしました。仕事は真面目に、全力で毎日頑張りました。そして頑張ったら頑張っただけ昇給をしました。仕事が慣れると会社員とは別に、副業でアルバイトもしだしました。土日も仕事、会社員が終わった後もアルバイトをして、生活はアルバイトの賃金で、会社員の給料は全額貯金し、ボーナスがでると、ボーナスは旅費にしていたので、会社員の給料と残業代はまるまるずっと貯金していきました。23か24歳くらいから株や為替などにも手を出すのですが、最初は300万くらいの軍資金でやりくりしていました。始めてから一年間は月に20万から多いと50万円もプラスがでて、ほぼマイナスにはならなかったです。調子にのって掛け金は多くなる一方です。300万は1000万になり、最後はほとんど全部の貯金を突っ込んでいました。するとサブプライム問題だとか、リーマンショックが起こりました。株は紙切れのようになり、為替も120円が80円とかになりました。一か月で700万も一気に失い、その後に戦場をヨーロッパに移すもギリシャ問題やスペイン暴落などがあり、何をやってもマイナスにしかなりませんでした。一か月で700万も失うと会社員なんてやってられなくなり、死にたくなるほど落ち込みました。しかし、株で失った損失は株で取り返はトータルで開始してから100万ぐらいのプラスになることができたので、これで辞めることにしました。5年以上も神経すり減らして、全部で100万だったら二度としたくなくなります。株で儲けたんじゃないの?とかも良く聞かれますが、全然株はダメでしたと一貫して答えています。ただずっとアルバイトで生活費をまかなって、会社員の給料は手をつけてなかったので、株の損失も取り返せたことですし、30歳の頃には数千万円の貯金がありました。それがヨット購入費になり、旅の資金になっています。宝くじも当たったことがありません。ただ、自分の頑張りだけで、ボンボンと言われる事もありますが、親の援助は17歳から一切ありません。会社員の給料といっても、頑張っていたし、残業もしていたので、大卒の同級生が上場企業に就職したのには負けないくらいの給料はありました。全ては自分の頑張りしだいです。

 話を大分県に戻します。観光した場所は血の池地獄や地獄めぐりなどの温泉巡りや神社仏閣めぐり、電動自転車で遠くも行けます。大分県美術館、府内城跡、南蛮BVNGO交流館、大友庭園跡、などです。県立美術館で庵野秀明展がしていました。エヴァンゲリオン世代ですし、ナディアはずっと放送を見ていました。もちろん通常展示もあります。府内や交流館などでは大友宗麟の勉強しました。戦国ファンなので九州と言えば、島津や宗麟、龍造寺、立花なんかがアツイです。
 ハーバーの友達と連日宴をしましたし、北海道や福岡のヨット友達も数人遊びに来てくれたりして、僕の買い替えたばかりのヨットで、一緒にクルージングしたりして遊びました。クルージングをしていると、シャフトを支えているカットラスベアリングの振動が気になり、兵庫で上架作業してまだ一か月しか経ってませんが、船をあげることにしました。
 カットラスベアリング交換し、フェザリングペラのプロペラ角度を調整し、業者に来てもらってエンジン脱着メンテナンス、調整などをしてもらいました。

 ライフラフトも搭載し、国際信号機、火薬類、消火器など揃えて、船検の航海区分変更をし、国際航海ができるように登録を受けなおしました。
 船検も無事発行され、パスポートにドルやユーロもあるので準備万端となりました。しかしコロナはなかなか収まってくれません。もう少し観光しながら、様子を見ることにします。熊野磨崖仏が結構良かったです。別府で連日食べすぎだったのと、ちょっと運動不足だったので良い運動になりました。後は将棋をしていました。公園でおっちゃんらが将棋を指していたので、缶ビール持って仲間に入れてもらったのです。僕はこの時は将棋が初段だったのでそれなりには指せるつもりでした。しかし、皆さんとても強くて全然勝てません。聞けば三段、五段の人たちで、かつては全国大会で戦ったり、県代表だった人たちでした。駒落ちでしようかと提案されました。ハンデをもらうなんてこの上ない屈辱です。惨敗後に船に戻ってコンピュータで研究し、翌日に平手で一度勝つことができました。元県代表に10回して一勝九敗、7手詰めを読み切りました。まぁ今日はこの辺で許してあげましょう。

 大分県を十分に満喫してから、南下して行く事にしました。沖縄から台湾は近いし、台湾からフィリピンとかシンガポールなんか良いよね。なんて吞気でいい加減な計画をたてました。
 別府湾から脱出する手前でオートパイロットのベルトが切れました。この日は風速13mくらいの波が150cmくらいでしたが、そんなに荒れている訳ではありません。近くの佐賀関に避難しようとしたのですが、オートパイロットが壊れて36ftサイズで、それなりの波風があると、全然セールを片付ける事ができませんので、とても苦労をしました。PIONはティラーでしたが、今回のカタリナはラッドハンドルで、ティラーのように予備のオートパイロットを準備することができませんでした。舵輪は見た目はカッコいいですが、少しだけ不便です。
 ST4000のベルトを二個注文して、一個は取り付け、一個は予備で持っているつもりでした。しかしベルトタイプのオートパイロットは弱いようです。PIONのST2000も弱くて、波があれば自分で舵を握っていました。カタリナも波風あるときは自分で舵輪を握っていなければならないようです。さっきまで海外渡航を目指していたのに別府湾から出る前に別府へ戻ることにしました。ベルト交換するのにプーリー抜きを使ってハンドルを抜こうにも全然抜けなく、ガスバーナーで炙りまくってようやく抜け、無事にベルト交換ができました。船が重くなるからと、不要そうなものは兵庫の家に置いてきて、ドライバーやボルト類も検討を重ねて、選別しましたが、やはり色々道具は置いていないと不便で、結局はホームセンターなどで買いそろえる結果となるのでした。こうなれば、やはり大量の瓶のウィスキーや日本酒などを、ペットボトルや紙パックにしたりするのを検討するくらいしかありませんね。
 別府の友達には「お早いお帰りで、」なんて言われましたが、自動操舵の修理を終えて再び南下しました。九州沖15キロくらい離してゆっくりセーリングし、宮崎などに寄りながら、肝付によりました。肝付は今まで寄ったことがなく、内之浦銀河アリーナ観光などをしました。それほど見るものはありませんでしたが、宇宙関連の施設が肝付にあったんだなぁ、と初めて知りました。ただ図書室は古い文献が多くあり、志布志や肝付などの伝統や風習などを学ぶことができました。海がきれいで、漁師さんが優しくしてくださり、奄美大島まで、ここからノンストップで行こうと考えていたので、念のため燃料は満タンにしておきました。
カタリナは冷蔵庫が大きく、後付けポータブル冷蔵庫もあったので、新鮮な食糧が充実していました。燃料タンクも100リットルも入りますし、予備に更に100リットル搭載し、水タンクは250リットル搭載していました。毎日船で温水シャワーができるのは良いのですが、こうゆうのが船の重い原因と分かっているのですが、生活レベルは一度上がってしまうと、PIONレベルに落とすのは難しい事でした。
 それと別府での生活が極楽過ぎて、猫も僕も結構太ってしまいました。でも、まぁクルージングしてると、自然と僕たちはきっと勝手に痩せることを経験で知っているので、たぶん大丈夫でしょう。知らんけど。
 肝付から種子島などには寄らずに一直線で南下をします。黒潮にはずいぶんと舵をとられて、スピードはそれほどでません。今は三月で時より北の風が吹きますので、ランニングや、悪くてもアビームで航行することはできます。ただホンダワラが多くて、一日に三回から八回くらいは海に潜ったりしていました。水温は十度ちょっとだったでしょうか。船のシャフトはフェザリングペラでロープカッターがありますが、ホンダワラは強力で強大なので負けてしまいます。プロペラ畳んでも巻き付くのは参りました。ロープカッターでホンダワラ対応品の特許が取れたら、きっと僕はお金持ちになれます。
 種子島くらいで夜となりましたが、夜はセーリングだけです。暗くなるとホンダワラは見えないので避けれません。雲が深く、月もないので真っ暗です。タバコの火だけがやけに眩しいです。セールは一段階だけ縮帆しています。ジブも少しだけ小さめにしています。風向きはウィンデックスは良く見えないので、コクピットの風向風速計だけ確認していますが、よっぽど向きが変わったり、風が強かったり、弱くなったりと変化しなければ、セールはほとんど調整したりしません。だいたい一時間から二時間に一度だけ、一分ほどの作業時間でロープをちょっと引いたり、出したりするくらいでした。長丁場なので体力はできるだけ温存しないとしんどいです。体力が落ちると注意力が落ちます。それはとても危険な事です。あくまでも一番注意が必要なのは見張りです。他船にぶつかったり、進路からずれてないかの心配に神経を注ぎ、セールの調整で早くなったり、遅くなったりはそれほど重要ではありません。レースではないので。この辺はオーナーによって色々価値観があるところでしょうから、僕はあまりわかりません。我流のセーラーですから。師匠がいると最初の頃に書きましたが、師匠はヨットが26ftの40年前の船で、瀬戸内から出たこともなく、免許も二級です。師匠の教えは①困ったらタバコを吸って落ち着くこと。②場末のスナックは楽しい。③海を眺めていたらそのうち目的地に着く。でした。僕はこの三つの教えを座右の銘にしています。年間に船を出す回数も少ないですし、セーラーとしては優秀な師匠ではないかもしれませんが、心構えとしては大事なことをしっかり学べたので、僕の師匠は今後も一生変える気はありませんし、ずっと尊敬しています。
 僕は①と③の教えを実行しながら、朝日が昇るのをまっていました。目的地まで370kmほどです。潮の影響などもあったし、夜間はわざと速度も落としているし、ホンダワラで潜ることもあったり、外洋のうねりが酷くて、色々な問題があるので、実質的に時速4ノット平均ぐらいでした。時速7.5kmなので50時間の航海ですね。
 奄美大島もバイクで行って、一週間滞在したことがあるので、少しばかりは土地勘はありました。鼻歌で久しぶりの奄美大島を九州肝付より目指していたのですが、海図を見ていると奄美大島の横に何か島があるのに気付きました。よろかいじま?なんて読むのかも知りませんでしたが、調べたら喜界島きかいじま、と読むようです。観光マップやWikipediaを見ていると、興味が沸いて急遽目的地変更することにしました。
 3日目に島が見えて来ました。種子島のように山はなく、平たい島のようです。ここまで来ると海もかなり青く美しいです。島に近づき、下を見てみると岩がゴロゴロみえてきて、ぎょっとしましたが水深計を見ると10m以上の水深がありました。透明度が異次元に綺麗です。僕のカタリナはウィングキールで、ショートキールなので、水深が140cmくらいなので、PION30の1.8mよりもかなり短いため、水深の心配がずいぶん減りました。それでも海がきれい過ぎて目測で水深が良くわからず、汚くて水面下が分からないのも困りものですが、やはり水深計のは大切です。今回買ったカタリナは元々水深計が備わっていましたがキール付近に設置してありました。これでは現実的に困るので、僕は最初からあるのはそのままにしておいて、別に船首にも新しく水深計を設置しました。ゆっくり走れば、船首の水深計が浅くなったら、すぐのバックで回避できることができますが、キール付近にセンサーがあれば手遅れになってしまいます。しかし一応の確認にもなるので、ダブルチェックの意味合いで二つ体制にしていました。
 喜界島は港の中も珊瑚があり、海底の砂が太陽に反射していて、今までで一番美しい港だと思いました。昼ぐらいに港に係留し、係留許可をもらいました。色んな島の住民が話しかけてくれて、誰も嫌そうな顔をしません。すごく接しやすい島民性のようです。

15時くらいに僕より少しだけ年下の女性が話しかけてくれました。「カッコいいヨットですね。」と、カタリナを褒めてくれます。そして夜に近くでライヴがあるから、良かったら来てくださいよと、誘ってくださいました。女の子に誘われたら嬉しくなります。ちょっと電動自転車で観光して、そのへんで外食をし、指定時間になったのでライブ会場へと向かいました。客は20人くらいでしょうか。島の規模から考えると結構立派な広さと、ライブ施設があります。そして音楽が始まりました。ライブが始まると「あれ?」ここに誘ってくれた女の子が歌ってます。僕は入場料二千円を払い、酒代が五千円と、まんまと営業に引っ掛かったわけで、しかも後で聞いたら、ライブハウスも誘ってくれた女の子の親戚が経営しているという事ですが、楽しい時間を与えてくれたのには間違いないので感謝しました。女の子のライブが始まると、女の子の友達が合いの手をしたり、応援をされていました。その友達も僕と年齢が近くて話しかけて下さり、一緒に飲む事にしました。これは素晴らしい出会いとなりました。ライブ後にはその同年代の人ら四人で二次会に行き、ビリヤードやカクテルを楽しみました。
 次の日、船を漁港の水道も電気も引ける一等地に引っ越しさせて貰えたので、僕はお土産と電気代を漁港に支払いました。島の人がヨットに色々遊びに来てくれたので、僕はデッキに招いてコーヒーをご馳走します。昨日一緒に飲んだ友達が今夜は一緒に夜釣りをしようと誘ってくれました。彼の名前は大ちゃんと言います。釣果は小魚な少々。
 同年代の友達が六人もできたのと、喜界島の居心地が良すぎて、三週間ぐらいも滞在してしまいました。その間に何度も釣りに行き、縁があり、四月に東京から二十代の観光客の男の子や女の子と喜界島クルージングをし、クジラウォッチングや海水浴などもしていました。四月でも天気が良かったので、気温も25度くらいあり、少し冷たいですが、小時間の海水浴はとても気持ち良かったです。大ちゃんや他の友達と船でバーベキューをしたり、魚を釣っては刺身とか海鮮料理なども何度もしました。すごい魚が釣れる島でビックリしました。すごく名残り惜しかったのですが、漁港の一等地でずっと電気とかひかして貰う訳にもいかないので、三週間後に出航しましたが、いろんな島民が見送りに来てくれたので、有難かったです。


 八時間ほど西へ進んで奄美大島の古仁屋へ到着し、別府で一緒だった二隻の船長たちと合流しました。
 給油と食材を買って、別府で一緒だった船長たちと一緒にもちよりで夕食をし、酒を一緒に飲みました。次の日は一緒に並んで加計呂麻でアンカリングをし、海水浴をし、焼肉宴会をし、次の日はヨット二隻で徳之島へ行きました。七時間ほどで到着することができました。今日も海水浴を楽しみ、一緒に居酒屋へ行きました。一人旅もいいですが、他の船長と一緒に旅をするのも楽しいです。彼らは定年退職後に40ftのヨットを購入し、夫婦で日本中旅をされてます。僕にも嫁がいたら倍楽しかっただろうなとは思いますが、無い物は仕方ありません。
 次の日も一緒にクルージングをします。沖永良部へ行きました。平穏な海面と風で、七時間で到着することができました。夜は食べ物持ち寄りで一緒に夕飯をし、次の日は三人でレンタカーを借りて、西郷どんの記念館行ったり、鍾乳洞に行ったり、歴史資料館、買い物をして、シュノーケリングなどをしました。潜ると綺麗な魚ばかりで、もうほとんど沖縄のような美しい海でした。夕方はすごいスコールが降って、僕たちは居酒屋で飲み会をしました。
 六時に出航し、十時に与論島に到着、無風でしたが、うねりはまぁまぁありました。観光をして、一緒に焼肉ランチを食べに行き、夜は買い物をして、いつものように船で宴会をしました。外で飲み過ぎるとお金が高くてかないまへんので、できるだけ船で飲むようにしていますが、地のものや、美味しいものは高くても食べに行きます。地酒はスーパーやお土産屋さんで買って船でゆっくり、安く飲みます。これが僕の節約旅行。なんせ四年間ぐらい無職ですので。
 梅雨なので、凄く与論島は海が降ります。毎日雨です。アホみたいに降る豪雨なので一週間ぐらい出航を見送りました。

 航海記録が残っており、4月25日6時に出航し、伊江島に14時半に到着と書いてあり、ほとんど向かい風のため、帆機走で5ノットくらい、やっとの沖縄県入りなのでオリオンビールを飲んでいたと書いてありました。沖縄の梅雨が凄くて、毎日雨が降っていましたが、4日間の滞在中に、島の城山へ毎日登っては、売店でジュースやアイスを食べたり、お土産Tシャツを買ったり、電動自転車で晴れ間があれば、海水浴や、戦争資料館や米軍基地を見に行きました。海はすごくきれいです。
 与論島くらいから、この伊江島に来てから、梅雨といっても桁違いの豪雨が降ります。1日中は降りません。だいたい1日12時間とか多くて18時間の降雨です。晴れ間があるので観光できるのは良いのですが、雨の時はほとんど船に閉じこもって、本を読んだり、タブレットで映画を見たりしていました。すると気になるんです。雨漏りが。
 船はステンレスやアルミ、FRPで作られており、手入れや掃除に気を付けていたら、耐久性は何十年も持ちます。しかし、窓はプラスチックであり、パッキンはゴムで防水処理がされています。プラスチックは紫外線に弱いですし、ゴムも硬化などがあり、耐久性は10年ほどです。パッキンも専門品で結構高いですし、僕は梅雨の間は窓にガムテープで覆って、雨の侵入を防いでいました。僕のヨット友達では、開閉窓をコーキングで完全に塞いで雨漏り対策をしている人もいましたが、それでは暑い日に窓を開けることができなくなってしまうので、僕はその方法は採用することができませんでした。ガムテープは見た目は悪いですが、安いし、簡単ですぐに貼ったり剝がしたりができるので手軽でした。
 伊江島では広大な米軍基地があり、今でも島中を軍用車が我が物顔で走っております。反戦平和資料館では太平洋戦争の事や、米軍に占領されてから、島民が島を取り返そうとする苦労を知ることができます。占領下に使われていた古い紙幣の展示を拝見しました。Bドル札です。円でもドルでもなく、占領下の沖縄だけの紙幣。残酷な支配と苦痛が痛いほど伝わってくる展示内容に、他にも観光客はおられましたが、皆が沈黙し、静粛に資料を見学されております。教科書に載せて欲しいと思いました。北海道のアイヌの資料館を回っている時も同じ様なことを思いました。僕たち日本人はあまりにも日本の歴史を知らないことに気づきます。

 少し暗い気分になったので、サイクリングで綺麗な景色を堪能し、心は癒されていきます。リリーフィールド公園ではユリが咲き誇り、とても美しい風景に本当に癒されました。ハイビスカス園も行きたかったのですが、残念ながら訪れた時は閉まっていました。

 雨の晴れ間をチャンスと思って、次は粟国島へ目指しました。だいたい6時間ほどで到着しました。波が高くて荒れていたので、デッキに結んでいた係留ロープが海にさらわれてしまいました。太さ14mm50mロープを二本なので、数万円分でしょうか。固定が甘かったようです。ヒールは40度くらいして怖かったです。僕のカタリナはショートキールのウィングキールで水深135cmくらいなので、あまりヒールしてしまうと、キールが海面から抜けていないかとても不安になります。キールが海面を捕えてないと転覆しやすくなるのではないかという不安があったからです。
 荒波にもまれて、やっとの思いで到着しましたが、係留条件はよくありませんので、アンカーを打ったりして船を止めてから上陸しました。
 飲食店はコロナ休業が目立ちますが、夜になるとリーズナブルなビアガーデンがあり、僕はこの店に滞在中毎日通って、昼間は船で自炊したりしました。観光地は洞寺とマハナ展望台が良かったです。海が綺麗なのでダイビング客もおられるようでした。
 次は久米島へ行きました。ずっと前から一回来てみたかった島です。それは旅行雑誌で天国のようなビーチと謳われるハテの浜のポスターがあまりにも美しかったのと、僕は酒飲みなので、久米島酒造に魅力を感じていました。
 粟国より久米島までは波はあいかわらず高めでヒールしていましたが、アビーム13mで、フルセールで走っていましたら、速度が10ノットでました。これはカタリナで今までで一番速い速度でした。しかしカタログで見た設計スピードが8.5ノットを上回っていたため、少し怖かったですが、船体がきしんだりとか、船に対しての不安はありませんでした。カタリナは良い船だなぁと思って、これを買って良かったなぁと改めて思いました。10ノットはずっと出てる訳ではなかったですが、8ノットはずっとでていましたので、久米島へはあっという間に到着することができました。海から久米島を見ているだけで素晴らしい島だなと思って、この景色をもっと見ていたかったので、ハテの浜の東をぐるっと回るコースの時はあえてスピードを落としたほどでした。

 今日は快晴でした。岸壁係留時にはアンカーを入れ、マークブイを打ちました。フェリー乗り場で、入港届けを書いた後にさっそく観光しました。観光した箇所はイーフビーチ、奥武島、ハテの浜、真泊、ウティダ石、ミーフガー、具志川城跡、おばけ坂、ヤジャーガマ洞窟、バタフライドック、ホタル館などです。ハテの浜は想像以上に良い景色でした。電動自転車で回っていたので宇江城跡は山すぎて断念しましたが、具志川城跡は立派な城郭でした。お化け坂は登り坂なのに何故か下って行くということでしたが、自転車をいくら実験しても、上り坂を下ったりはしませんでした。お化けがいなくて良かったと思ったのも束の間、ヤジャーガマ洞窟ではお化けがおりました。この島の風習では割と近年まで死体は風葬の文化があり、洞窟に遺体を置いていくという文化があるそうです。だから髑髏が洞窟を探検しているとゴロゴロありました。洞窟後にお祓いして貰おうと、近くの報徳神社へ行きましたが、日本の神社とは見た目が全然違うのですね。初めて見る形容し難い神社ですが、一応お祈りとお賽銭は置いておきました。なんの神社か分かりませんが、縁結びも追加料金のお賽銭でお願いしました。すみません。罰当たりな雑念でお祈りしていました。すみません。
 コロナ中でもダイビングの観光客は多かったです。僕はシュノーケルの素潜りばかりでしたが、深いところの景色も気になってきました。ダイビングのライセンスは久米島でも取得できますが、値段が結構します。与論や喜界島とか色々な島でダイビングライセンスの広告を見ていましたが、結構します。沖縄本島は離島と比べたら三分の一の値段で取得できるみたいなので、数万円の差額に負けてライセンスは本島に行った時に取得しようと思いました。それまではシュノーケリングで楽しみます。

 海は十分に素敵でしたが山も素敵でした。ホタルがたくさん居るんです。一人でホタルを見ていたら、綺麗なんですが、昼間見た骸骨を思い出して、ホタルが火の玉のように思えてきて僕は、せっかくのショーを逃げ出してしまい、居酒屋に行くのでした。
 観光で有名な島なので、飲食店は沢山あります。一週間くらい久米島に滞在していましたが、地酒(泡盛)とご当地グルメを十分に楽しませてくれました。
 二十代の頃は石垣諸島や沖縄本島など、離島も色々観光していましたが、沖縄の離島は本当に素敵です。いつまでも居たくなり、本土から転入者が多いのも納得です。逆に沖縄人は本土の便利さや、収入のために引っ越すのも多いため、人口の推移は少ないそうですが。
 毎日豪雨が凄すぎて、昼間にどこにも行けない時は船内で、本を読んだりしているのですが、天井を眺めているとカビがあって、僕は大慌てしました。すぐにアルコールで吹いて掃除します。しかし、船内の湿度計は99%を示していたり、時には振り切って計測不能と表示されます。

沖縄の梅雨は異次元です。洗濯物なんですが、僕はいつもコインランドリーで五百円くらいの洗濯をし、それを船のデッキにロープを張り巡らし、まるで満船飾(満艦飾)のように、シャツもズボンもパンツも干していましたが、こんなに雨が多いと干せなく、湿度99%の船内ではどうにもならないので800円も払って乾燥機にかけ、畳んで、船の引き出しにしまっていました。洗濯は基本3日に一度くらいですが、800円あれば昼飯代になるので、少し辛かったです。本当はマリンエアコンがあるので、エアコンかけたら湿度はマシになり、湿度計も70%くらいになるので、湿度計が壊れてないことも分かるし、快適なのですが、マリンエアコンを起動させるにはバッテリーとインバーターでは電力が足りなく、発電機(ジェネレーター)を稼働させるんですが、これがガソリン発電機で一時間に2リットルは必要です。離島ではガソリンは一リットル200円でしたので、一時間400円の電気代でしたので、一日8時間稼働で3200円、もしも24時間でしたら9600円なので、すぐに破綻してしまいます。ですから、できるだけ、バッテリーで扇風機をまわして、ドジャーで守られて雨が入らない出入口のハッチを開放し、換気をおこなって耐えていました。しかし、我慢できない時はさすがに数時間マリンエアコンを稼働させていましたが。

 ここでマリンエアコンの話しも、もう少ししたいと思います。カタリナには最初から大容量のマリンエアコンが設置されていました。これは本体代だけでも50万し、設置費用でまた数十万する代物で高価なものです。単体で最低1500ワット以上でないと稼働しません。陸電が引けても普通の延長コードでは稼働できませんでした。家庭用コンセントは1500ワットですが、延長コードをかますことによるロスが発生するためです。ジェネレーターはガソリン発電機を前のオーナーから貰いました。船のエンジンは軽油なので、本当はディーゼル発電機だと燃料が共用できて便利ですが、ディーゼル発電機は重さがガソリン発電機の何倍もあるし、値段も何倍もします。そして音や振動もガソリン発電機のほうが、かなり静かです。ディーゼル発電のメリットはエンジンと燃料が共有でき、燃費が良いことです。しかし、せっかくあるガソリン発電機をディーゼル発電機に買いなおす費用だけで、何百時間もエアコンをかけることができるし、振動や音も比較にならないことから、僕はそのままガソリン発電機を、燃料代が高くてたまにですが愛用していました。
 去年は寒いくらいの北海道の旅で、北海道には梅雨みたいなのが無かったのもあり、気にしていませんでしたが、南では梅雨と湿度がすごいのを知りました。そして扇風機をバッテリーで稼働させるにも問題があります。PIONの時よりもソーラーパネルを大容量にして、バッテリーも倍ほど積んでいましたが、雨だとほとんどソーラーは役に立たないので、バッテリーもすぐ減ります。船のエンジンをかけると、ディーゼルは高温なので部屋が暑くなってしまい、梅雨でエンジンかけて船内にいると、ただのサウナ状態でしたので、そんな中では扇風機は熱風を送るだけで余計にまいってしまい、やはり発電機を愛おしく思うのでした。今はソーラーが役立たずのように書いてしまいましたが、やはり有る方が断然に良くて、例えば晴れた日の海水浴日和の時、泳ぎ疲れて船に戻ると冷蔵庫のビールはキンキンで、冷蔵庫は晴れていたらソーラーだけで稼働してくれます。もちろん夜もソーラーで蓄えたバッテリーで冷蔵庫が動きますが、やはり天気が悪ければ無かった物として諦めて、エンジンか発電機を回す必要があります。
 カタリナには様々な電気装備がありますが、発電機でないと動かないものはマリンエアコンだけです。冷蔵庫や電子レンジ、掃除機にナビやテレビとか音楽は全てエンジンをかけると動くし、時間的制限はあるけれども、ソーラーとバッテリーだけでも動くようにしていました。
僕の知り合いに発電機を載せたくないから、すべてエンジンかバッテリーだけで稼働するようにしているヨットがいますが、エンジンとかでは発電能力が低いので小容量のエアコンや家庭用のスポットクーラーや、ウィンドエアコンみたいなのしか稼働することができません。動くなら小さくても良いじゃない、となりますが、小さいと冷却能力が少ないので、エアコンかけているのに船内で汗だくになるということでしたので、やはり大きさは船の規模に見合ったものが必要だと思います。20畳のリビングに6畳用エアコンでは意味がないのと同じですね。
 カビ対策としては水取り象さんとかいう、塩化カルシウムが水分を吸い取って捨てることができる除湿剤を大量に船に陳列しました。十個置いても一週間で水が満タンになるので、お金をドブに捨てているような錯覚をしました。だから結局は僕もエアコンをかけていました。島にいれば高くてもガソリンスタンドは一応はありますし。船内をカビだらけにする訳にもいきませんでしたから。
 しかし、「雨でも潜ったら一緒だから。」と言って、ヨットの隣のダイビングショップのボートは毎日出航していました。お客さんは主に関東からで、ショップの店員さんも関東人らしいです。連日豪雨の中10人ほどダイビングをされていて、みんなタフだなぁと思いました。僕も沖縄本島に行ったら格安料金プランでダイビングライセンスを取得したいと思っていましたが、僕は晴れた日しか泳ぎたくないなぁ。雨がシャワーかわりに海水流してくれるから良いのかな?
 本当はね、久米島から石垣島に行って、出国届けをだしてから、台湾行って南下して世界をヨットで周りたかったんだ。でもね、未だにコロナは収束せず、ワクチン接種証明書もとったし、国際航海ありの船検証もパスポートなどなど万全な準備はしてたけど、鎖国されていて外国は入国させてくれないのです。もうね、コロナも三年でワクチン接種しても収まりが見えず、最初はワクチン打てば大丈夫というような感じだったのが、今ではワクチンは重症化を抑える効果があるとかいう、あやふやな役立たずで、今後もどうなるか誰もわかならい状況でしたので、僕は心が折れてしまい、沖縄の旅を楽しむことへとシフトすることにしました。石垣島方面はたくさん観光したことがあったので、まだ行った事が無かった座間味諸島や色々な離島を観光しようと、カタリナは進路を東へとUターンしていきました。梅雨のせいで頬に水滴がしたたりながら。
 渡名喜村が久米島から目視できていたので気にはなっていましたが、島の周りがどう見ても浅そうなのと、港が狭そうで、近くを通ったら港内がいっぱいそうでしたので、見送りました。阿嘉島と慶良間島、座間味島、渡嘉敷を周りました。僕は海外旅行も国内旅行もたくさんしてきまして、今まで小笠原の父島やオーストラリア、カナダなんかが歴代一位の景色でしたが、久しぶりに記録を塗り替えることができました。
 それは阿嘉島のクシバルビーチです。異次元の美しさでした。

人生最大の感動を得ました。息を飲む風景にずっとシュノーケリングをし、たばこを吸うのも忘れて丘から海を何時間も眺めていました。座間味島ではいろんな観光客の人と仲良くなれました。僕も楽しかったし、皆も幸せそうにしていて、楽園だなぁと思いました。ただ悲しい歴史もあります。太平洋戦争末期の沖縄上陸戦の頃に集団自決の地で有名な側面もあるのです。悲しいその戦史にも訪れた後では、海はまた違った景色に見えるのでした。
 慶良間諸島のグルメはカジキマグロが有名です。漁港などで刺身や漬け丼を600円や800円などで楽しむ事が出来ますし、座間味には飲食店が色々あるのでステーキや沖縄料理も楽しむ事が出来ます。港でもヨットでのんびりしているとプレジャーボートが人間の背丈ぐらいあるようなカジキマグロを釣って戻って来たりしました。夜になると海では女のすすり泣きのような何とも言えない声が聞こえてきます。ウチの猫は海の向こうをずっと見てそわそわしています。クジラの鳴き声でした。クジラは一晩中鳴いて、朝になると静かになりました。なんて言ってるのかは当然わかりませんが、苦しそうな、悲しい声にしか聞こえませんでした。それに渡嘉敷ではホタルもたくさん飛んでいるんです。綺麗なんですが、すごい幻想的な素敵な景色なハズなんですが、昼間に集団自決の地を訪れて、大量のホタルを見てクジラたちの鳴き声を聞いていると、ね。今はウクライナでも戦争しているし、中東やアフリカ、南米なんかはいつも争いが絶えません。理不尽に命を奪われる人も毎日たくさんおられるでしょう。僕は何もできないけど、何かできないでしょうか。
 雨はどんどんと強くなり、豪雨になり、風速は20mを超えてきました。フェリーも全部欠航しています。昨日まで賑わっていた喫茶店にランチに行くとガランとしていて、カフェの窓から見える美しい昨日までの海は、今日では魔物が暴れているような光景になっています。さすがに今夜はクジラの声も、ホタルも見えません。その代わりに風の切り裂く音と、波の打ち付ける轟音が港に響いていました。
 数日そんな天気でしたが、風速15m波が150cmくらいで、雨が小降りになった所で沖縄本島へ向かいました。宜野湾マリーナを予約しました。ちょっと荒れているので、速度はそれほどでてませんが、50kmくらいと近かったので六時間ほどで到着しました。
 入港手続きをし、ダイビングショップにスクール予約をしました。久しぶりの都会だったので買い物をたくさんしました。何か楽しい事がしたくなり、本当は三線でも買おうと思っていたんですが、すごく良いギターが売っていたので思わずギターを買ってしまいました。

宜野湾マリーナのビジターバースは最大二週間までしか契約することができなかったので、ダイビングスクールはオープンダイバー一週間、アドバンスダイバー一週間と詰め込んだ日程を組みました。ジョンレノンの反戦ソングをギターで歌いながら、楽しい沖縄を精一杯満喫しようと決めました。分厚いステーキを食べたり、飲み歩いたり、港で知り合った船長さんと宴会をしたりしました。沖縄がまだ米国下にあったときに仲間数人とヨットで太平洋を渡りサンフランシスコに行った人とも出会えました。今は80歳すぎですが現役で40ftの大きなヨットを操船されています。元気すぎるだろうと思っていました。翌日ラーメン屋でのんびり麺をすすりながらテレビを見ていると、そのお爺ちゃんはにんにく卵黄のCMにでておられました。僕もこんなスーパー爺さんになりたいものです。
相変わらずほとんど毎日雨でしたが、ダイビングの実習中に、ああ、なるほど。久米島で聞いていた話しの「潜ったら雨関係ないよ。」は本当だったんだなと知りました。
 僕は泳ぐのは得意でしたので、素潜りは沢山してきました。最大で80秒くらい息を止めている事ができましたが、運動を伴えば5mくらいの深さ、最大深度は8mほどの素潜りしかできなかったので、ボンベの恩恵により10m以上潜れることは世界観が変わりました。僕はアドバンスダイバーまで取得したので深度30mも潜りましたが、ここまで深い世界はまるでテレビの世界で、想像以上の景観でした。ヨットでいつも眺めていた海面の下には、こんなにも楽園が広がっていたのだなぁと思いました。沖縄本島の海も本土と比べると段違いの美しさではありますが、値段をケチらず、久米島とか慶良間諸島とかもっと綺麗な海でダイビングしていれば、もっと感動したかなぁとも思いました。しかし、これから帰り道に、伊江島や与論島とか奄美諸島など沢山の水底世界の感動が待っているハズと胸が躍りました。

 学科は両方とも満点合格で、実技も全て一発パスすることができました。しかし、機材一式買いたかったのですが、ボンベタンクはなかなか購入するのが難しかったです。なんとかダイビングするための道具を買いそろえる事ができて、タンクも酸素を満タンに充填してもらえました。結構高かったです。だけど、いつでも深くまで潜れる機材があれば、船にトラブルがあった時とか、錨が抜けない時に潜って対処できるので、お守り代わりにも良いし、いつでも綺麗な海底の世界が楽しめるのが魅力でした。僕は機材一式購入しましたが、皆さんは体験ダイビングとレンタルだけでも良いので、ぜひ沖縄旅行の時は海底の世界を楽しんでみてくださいね。
 二週間はあっという間に過ぎました。宜野湾マリーナは最大二週間までしか係留できないことと、ビジターバースには陸電設備も給水設備もなく、いろいろと不満も少しはありましたが、すごく楽しい時間を過ごせました。また、港で知り合った方々には本当にお世話になりました。一か月くらいの契約がとれたなら、レスキューダイバーとかのライセンスもとりたかったし、もっと遊びたかったなぁ。
宜野湾で奄美大島古仁屋以来の給油を100リットルしてから、また伊江島に向かいました。伊江島で先月仲良くなった友達に会いたかったからです。明日からまたそっち向かうので一緒に飲もうぜと連絡を入れると、快い返事がきました。お土産をたくさん買っていざ行かん。昨日見た天気予報とは違って、南西の風10mで縮帆して5.5ノット、波もあり、午前中は結構な雨に打たれましたが、五時間で到着することができました。午前中に到着して本当に良かったと思いました。それは到着してから30分後には猛烈な豪雨が降ったからです。夕方には雨はあがったので、テラスのある雰囲気の良い店で友達と三人、三線ライブなんかあったりして、楽しい時間を過ごせました。それから数日間を伊江島で過ごしましたが、夜は友達と遊んだりして、昼間は毎日山に登っては、帰りに売店のおばちゃんと雑談したりしていました。観光客がコロナから減って大変な思いをされているそうです。飲食店のコロナ給付金は多く手厚いものでしたが、観光業などは大ダメージだったと話されていて、税金の使い道については公平性が無いとは僕も以前より感じておりました。その対策としては選挙などなんでしょうが、僕は選挙は長らく行ってないです。非国民なので批判する資格はないのは自覚しております。旅をしていると、ほとんどの離島や僻地は過疎化とか衰退に悩んでおられ、話しを聞く機会が多くなっていましたが、やはり僕は無力でどうすることもできないのでした。僕にできることは本土で稼いで、旅先の居酒屋や場末のスナックに行ったり、観光地で少ないながらもお金を落とすことだけです。
僕はそうやって、地方を周りながら少しばかりのお金を落としつつ、伊江島の皆に別れを告げて、伊是名へ向かいました。別れはいつも寂しいものです。

伊是名島は来るときには寄らずにパスした島でした。あまりにも毎日雨が降るので、もう慣れてしまいました。本当は出航くらいは晴れている時しか出なかったのに、今では滝のような雨でなければ出航するようになっていました。雨の中四時間ちょっとで伊是名に入港すると、小降りになったタイミングで電動自転車で観光したり、夜はまた居酒屋をふらふら回っておりました。与論からは鹿児島になるため、伊是名、伊平屋島が最後の沖縄県です。沖縄県も終わりが近づいておりますので、昼間から売店でワンカップ泡盛を飲みながら、現地のおっちゃんと雑談して、夜は居酒屋で三線ライブを聞きながら泡盛とずっと飲んでいました。伊是名は尚円王という琉球王国の初代王様の生誕の地とあり、絶景スポットも多いので見どころは多かったです。
伊是名から伊平屋は隣りなので、三時間ほどの軽い航海で到着することができました。近くに民族資料館などがあり、展示内容は多くはありませんでしたが、興味深いものばかりでした。ここは元々日本ではなかったので、色々な風習の違いを学ぶことができますし、戦後のアメリカ占領下時代の歴史を学ぶこともできました。
居酒屋で珍しい食事をしました。南部でしか食べれないそうですが、皆さんはジーティーという魚をご存じでしょうか?アジ系のお化けみたいな巨大魚なのですが、現地ではガーラとか呼んでおられました。これが大味かと思っていましたが、とても美味で、僕は初めて食べましたが、お代わりをするほどでした。その土地の料理を楽しむのは旅行の醍醐味であり、本当に大きな喜びです。
伊平屋島の岸壁は波が入り大きく揺れるために、長期間の滞在は不可能でした。僕はたったの二日の滞在で脱出することにし、また雨の中出航するのでした。
次の目的地は来る途中にいった与論島です。沖縄で買った機材と取得したてのライセンスでダイビングを楽しみました。ダイビング業者が多いので、タンクの補填も格安でしてもらえました。ちなみにタンク一本充填するのに兵庫県では2500円するのですが、与論島では一本あたりたったの500円でした。海を楽しんでは、その辺の暇そうにしてるおっちゃんと一緒にビールを飲んで、島の事とかの話しを聞いたりしていました。次の日は避難指示がでるくらいの豪雨で道路は冠水していました。道路がプールになり、豪雨は数日つづきました。というか、もう一か月くらいずっと毎日半端じゃない雨ですが。与論島ではお金を払えば水や電気の使用することができるので船でシャワーをし、エアコンつけて映画を見たり、読書をしていました。かわいそうなのは観光客です。東京から二泊三日で与論島まで来てずっとホテルに閉じこもっていたという人とランチで一緒になったりして、ご愁傷様と思いました。風来坊で無職の僕は時間に縛りがないので、天気が良くなるまで何日も滞在することができますから。
十分に二度目の与論島を楽しんだあと、10時間かけて徳之島へ来ました。沖縄へ向かう途中にも寄りましたが、その時は船二隻でほとんど観光らしい観光などしなかったので、今度は十分に探検します。
波が2mで風は向かい風で10m以下にならないので、大いにヨットは揺れて、猫たちは嘔吐が激しくいつもながら申し訳なく思いました。クルージング日和な天候は長らく遭遇していません。順風満帆の楽しい旅ばかりでないけど、猫にはたまったものではないだろうけども、健やかなるときも病める時も共に付き添ってもらいますね。
翌日は久しぶりの晴れでした。最高のサイクリング日和でしたので、電動自転車で闘牛場や日本最高齢だった泉重千代記念館とか、アメリカから独立運動をした泉芳郎記念、絶景広がる犬田布岬にメガネ岩、歴史資料館のゆいの館、島で子供たちのIT化推進英才教育施設である未来創りラボ見学などをしました。闘牛場はとっても立派なコロッセオがあります、島に何か所もありますが、半分は廃墟となっています。しかし、その廃墟の規模から全盛期だったころの熱気が伝わってきました。威風堂々とした古城と同じような空気感を僕は感じました。年に二回闘牛がされているそうですが、僕はタイミングが今回合わずで残念でしたが、資料館などでビデオを見る事はでき、勉強になりました。旅をしていると何度か地方新聞の取材を受けることがあるのですが、徳之島で取材を受けた時の一文を一部抜粋して書かせて頂きます。「闘牛は最初は野蛮で荒っぽいようなものを想像していましたが、知識不足でした。島民の方々から話を聞いていますと、牛への愛や情熱などが良くわかり、素敵だとかんじました。」と僕は話しました。その通りで、徳之島の人たちは牛が大好きで、大きな喜びを感じて普段から生活されていると痛感しました。高知県では犬や鳥を戦わせたりするのは有名ですが、僕も子供の頃はカブトムシやクワガタが大好きで、戦わせたりしていました。徳之島では牛だっただけで、似たような文化は世界中であります。実際に見学してみたら僕はこれが残酷だとか、動物虐待だとかは思いませんでした。

他の見どころは、景色が美しいのはもちろんのこと、二人の泉さんにも話したいと思います。世界長寿の泉重千代さんは愛煙家でお酒も凄く飲む人だったそうです。僕も愛煙家で酒を飲む方なので、飲んで吸ってても長寿になれるのだから、と安心ができると分かり、すごく安心しました。もう一人の泉芳郎さんです。沖縄や奄美は太平洋戦争後は占領されていて、もともとは学校の先生であり詩人だったそうですが、日本復帰に尽力され、奄美復帰に多大な貢献をされた人です。偉大な先生の文献は涙なしでは読めませんし、ここに来るまで全然知らなかって、最初に訪れたきっかけは泉重千代さんと間違えて訪れたという恥ずかしい間違いによるものでした。これも歴史の教科書に掲載してほしいぐらいの、本当に皆さんにも知ってもらいたい偉人でしたので、ぜひこれを見てる人だけでも一度調べてみて下さいね。
徳之島にはウンブキと呼ばれる日本最大の水中鍾乳洞があります。そしてその海底から見つかった土器は7000年前から1万1700年前に制作されたものだそうです。ユイの館で資料を見る事ができますが、こんなに立派な土器が縄文時代始まったくらいの時にあったのなんて凄いなぁと感心するばかりです。僕も土器を探したかったですが、水中鍾乳洞は熟練ダイバーでも危険らしいので、新米ダイバーの僕はスタコラサイサイと次の港へと向かうのでした。
朝の5時半に徳之島を出航して17時過ぎに喜界島へ到着しました。今日も相変わらず波に揉まれたのでニャンコたちはゲッソリ、待っててよ。すぐに魚買ってくるからね。平日の夜なのに、友達が集まってくれて嬉しかったです。連日昼も夜も島民が遊びに来てくれたので、茶菓子にチンスコウをだして、アイスコーヒーやドクペを振る舞いました。二度目の喜界島も一か月近く滞在していましたが、途中からは梅雨も終わり、カラッと暑くなりました。エアコン無しでは生きてはいられません。日差しが強くなる度に、海はどんどん輝いています。シュノーケリングもダイビングも最高で、夜は友達とパーティーをして、幸せな時間は続きます。が有限な時間です。僕は無職なもので貯金はどんどん減る一方なので、通帳残高を見ると正直焦りを感じます。とは言え、一度は外国を目指していたのでこの旅があと三年、五年くらい続けれる蓄えがまだあるのですが。
喜界島では魚を釣ったり、友達のセーリングしたり、宴会をしたり、潜ったりと本当に楽しい時間を過ごせれて、皆さんに感謝し、また必ず来るからと別れをし、ぼくはトカラ列島に進路を向けました。

吐噶喇列島は宝島、悪石島、中之島を訪れました。キャプテン・キッドの財宝で有名な宝島で宝探しをし、綺麗な貝殻を拾って、悪石島ではボゼを見て温泉に浸かり、中之島では民族資料館に寄ってから馬や底なし沼を見学。吐噶喇列島では週に一度か二度のフェリーしかないようで、それも港が悪くてすぐに欠航します。島には物資はほとんどなく、買い物ができないので、船で米を炊いて缶詰や釣った魚を食べていました。悪石島のボゼというのは、島の神様で、南米の部族かのような特殊な衣装が特徴的です。島民の方から話を伺うと生と死の神様で悪霊も払ってくれて、女性は子宝に恵まれるそうな。この島だけの特殊な風習みたいです。

どの島も険しいので、例えば中之島の民族資料館に行くにしても電動自転車のモーターも悲鳴をあげる坂道でした。何より港内もよく揺れるのでロクに寝れず、また猫たちには迷惑をかけましたが、僕は居酒屋や食堂も売店もない吐噶喇列島を後に北へ進みました。
三島村などに寄りながら、二年前にずいぶん滞在した甑島に再びやってきました。二年前は下甑と上甑の橋が建設中でしたが、今回来たら橋はできていました。たった二年なのですが、友達は全員太っていました。飲みすぎです。そして僕も一緒になって連日飲み過ぎました。一か月ぐらい滞在しようと思っていたのですが、あいにく一週間ぐらいで台風が来てしまいました。台風を過ごすには少々不安があるので、僕は長崎市の方面に台風避難することにしました。もっと一緒に遊びたかったけど、また来るよ。マイフレンド。
台風はそれほど酷くはなりませんでした。沖縄や北海道の日常の方が辛いくらいの程度でした。感覚が少々麻痺しているのかもしれません。台風後は長崎市の離島を四か所ほど観光しました。中でも沖之島とか伊王島なんかは楽しかったです。高倉健さんの遺作である「あなたへ」僕が大好きな映画なのですが、この映画にでてくる灯台は伊王島の北端にあります。すごい景色がいいし、伊王島がすごいリゾート地で楽しかったです。

佐世保で米軍なんか見た後に平戸にも寄りました。「あなたへ」のロケ地巡りとか、城に歴史資料館とかオランダ館などを見る為です。平戸はヨットは四隻くらいしか入れませんが、空いていたら良い所です。水も電気もありますし、港もすごく平和です。生月島へは電動自転車でサイクリングしながら行きました。こちらにも博物館があり、キリシタンや昔の暮らしや捕鯨文化を学ぶ事が出来ます。春日の棚田など見たり、海を眺めていたら缶コーヒーとタバコがあれば他に何もいりません。何も考えずにのんびりと平和を満喫していました。先週の台風以来、雨も降らず、猫も毎日機嫌が良さそうです。

トライマラン三人組の一人である友達が壱岐で働いているので、僕は友達に会いに壱岐へと向かいました。四時間少々で到着しました。港に着くと他にも知っているヨットがいたものですから乾杯したりします。ロングクルージングしている人はそれほど多くないので、結構何度も会ったりするのはヨットあるあるかもしれません。一週間ほど島を観光したり、飲んで食べて遊んでからは博多へと向かいました。

前に博多でのヨットレースのクルーで乗せてもらった船に乗れて、レースにクルーとして再び参加させてもらえました。レースは相変わらずのバカッ速いです。同じ車といえどもキャンピングカーとGTRくらいは違うのと一緒で、感覚がおかしくなりそうです。
二年前はコロナ休館だった資料館や博物館は今回は全部あいてるようなので、前に行けなかった所は全て網羅しました。蒙古襲来の歴史や金印など特に興味深く見ていました。すると不思議なもので、何百と言う博物館や資料館などをずっと回って一日中いると、そのうち古文書の原文がなんとなく訳がなくても読めるようになっていることに気づきました。考古学者なんかカッコいいですよね。マスターキートンとか憧れます。僕は低学歴みなしごの高卒ですけども。
 ヨットレースや観光をして、友達と会って、また関門海峡を越えて瀬戸内に入って、瀬戸内海の友達にも会いながら僕は兵庫県に帰りました。雪の降る二月に出航して帰ったのは九月前でしたので、結構長い旅だったので、自宅の庭は雑草で森になっていました。電気やガス、水道を再契約し、家の掃除が終わるまでは、兵庫県に帰ってからも二日くらいは船で暮らしていました。家に帰ると猫は本当に嬉しそうにしていました。

日本を周り終えてからのこと

 2022年9月の段階でコロナの出入国はまだまだ不安定であり、近隣国も入国を許可したり、不可だったり安定していませんでした。発展途上国はまだまだワクチンもいきわたらずで、ワクチン接種率の高い日本も、ワクチンを打ってもコロナにかかって、死者も毎日でておられます。まだまだ元の平和な世界に戻りそうもありませんでした。僕は北海道一周、本州一周、四国一周、九州二週、沖縄などの離島めぐりができただけで御の字とし、もう少し世界が落ち着くまで準備や経験を積み、それからいずれは世界に出たいという夢があります。このまま出ずに終わるのか、行けるのかはわかりません。今はインターネットで何でも分かる時代で、冒険という時代ではなくなっているかもしれません。秘境も存在しないかもしれません。それでも僕はこの海の向こうに何があるのか自身の目で見て回りたいという欲求があります。もしかしたら世界は実は四角かも三角かもしれませんから。
 グーグルマップで行った場所に星マークが打てて、旅の記録になる機能を北海道一周の時に気づきまして、それから記憶がある限り思い出してピンを打ってみました。もちろん海外も多く旅しましたが、今回は日本マップだけで、世界のマップはまた次回に・・。

 僕は学歴もないただの人間で、ヨットのって日本中周っていたら、もう38歳になっていました。就職活動も難しいご時世です。知り合いの社長に電話してみて、雇ってくれませんかと聞いてみると、「来週からおいで」と言ってもらえて、研修期間もなく、一日目から正社員として雇ってもらえることができました。僕は期待を裏切れないし、恩返しのために今は毎日全力で仕事を頑張っています。正直それほど給料は多くはありません。
 それでもまたコツコツ貯金をして、夢に向けて歩いて行きたいと思うので、どうぞ応援よろしくお願いします。

猫とヨットで日本一周記

猫とヨットで日本一周記

  • 随筆・エッセイ
  • 長編
  • 冒険
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-12-25

Copyrighted
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  1. エピローグ
  2. ヨットを購入する前の僕。
  3. ヨットとの出会い
  4. 購入してからの一年間
  5. トラブル
  6. 瀬戸内海脱出
  7. 安定を捨て夢を追いかける
  8. 四国九州一周旅行
  9. 本州一周、北海道一周
  10. 九州、トカラ列島、奄美諸島、沖縄離島への旅
  11. 日本を周り終えてからのこと