蒼月の隷下

蒼月の隷下

1.

『…――』
ウィンドチャイムが風に揺られている。きらり、きらり。光が輝き、瞬く。ころり、ころり。優しい音色が耳を擽る。瞼越しに暖かな日差し。幸せの色。
 『…――いずるちゃん』
 生暖かい風が睫毛を撫ぜる。
 もう朝が来たのだろうか?もう少し眠っていたい。不意に刺すような光にうなされて、ぎゅっと瞼に力を籠める。
 音色が遠ざかる。幸福の風船がしぼんでいく。瞼越しの世界は、突如として鈍色と化してしまったみたいに色彩を欠いていく。
 目を開けてごらん、と誰かが囁いた。その眼で夜明けの世界を確認してごらん、と。いやだ、と意識が反射的に拒む。なにか不吉なものを感じ取ったかのように。
けれど意志とは裏腹に、次第に瞼は持ち上げられていく。
 焦点のようやく適合した視界は、けれど闇に覆われていた。暖かくて重たい物の下敷きになっていることに気づく。体にかぶさるそれからどうにかしてどかそうとすると、生暖かい何かが溢れてきて、溺れそうになる。苦しさから逃れるように這い出すと、鈍色の空が視界一杯に広がった。絶望の深淵。その入り口の色。大きく開いた瞳から、大粒の涙が零れた。
俯いた視線の先には、ぼやけて見える艶やかな赤。そっくりに並ぶ小さな(べに)葉が、二つ。



突然の目覚めに、サクヤは目を瞬かせた。随分と嫌な夢を見ていたらしい。額から脂汗がにじみ出ていた。
上半身だけ起き上がり、サクヤは俯き加減に両の手を見やった。何かがフラッシュバックするように意識が点滅して、しんと静まる。サクヤは眩暈のする頭を切り替えるように何度か瞬きを繰り返し、一度、ぎゅっと拳をつくった。
華奢な掌が額の汗をぬぐう。大きくため息をつくと、隣で寝ていた男がふわりと目を開けた。
「どうした。眠れないのか」
「…いや」
曖昧に、けれど故意に外された二人の視線。少年は虚空に、男は右肩から背中にかけて。焦点はそこに合わさっていた。
目を合わせない見つめ合いは、しばらく続いた。
「…もう、痛まない」
サクヤが沈黙を破る。囁く程度のごく小さな声は、広くも狭くもない寝室にやけに大音量となってこだました。
「ああ」
男は相槌をうっても、その視線の先が変わることはなかった。
彼が自分の何を見ているのか、サクヤは知っていた。同情だろうと思った時期もあった。けれどそれにしてはあまりにも深みのある眼差しが、サクヤには少し怖かった。
サクヤは男に背を向け、ベッドを降りた。
「もう少し寝てろ」
男は諭すように呟くが、サクヤは聞かなかった。
その様子にどういう感情を抱いたのか、男は更に続けた。
「…仕事か」
サクヤは緩慢な仕草で振り返り、再び前を向いた。
「…いちいち詮索をするな。そういう約束だろう」
華奢な背中には、右肩から斜め下へかけて続く大きな裂傷の跡が、まるで刺青のように刻まれていた。

この世界に安寧などないと知った。
だから復讐してやろうと思った。
一人残さず殺して、残ったこれはなんだろうか。
死の(あぎと)へ誘われるように、いつだって命を捨てるように生きてきた。鼓動はどくどくと早鐘を打ち、いつだって本能は一つ。殺す、殺したい。けれどそれは同時に、この世界で生きることを意味していた。
疲れれば惰眠を貪り、腹が減ればそれを満たした。切り裂く肉の弾力を知り、飛び散る(べに)のぬくもりを知った。
紅蓮(ぐれん)の業火が燃え盛る心、それが導くままに殺し続けて、残った自分はなんだろうか。
命を捨てるように、今日も生きる。



白い蛍光灯が寒々しく古びた部屋を照らす。焼き切れる寸前まで酷使され続けている電球が、断末魔のように時折ちかちかと不規則に光を痙攣させている。
白くもないが黒くもない壁は厚く、噂では防音設備がされているらしい。よく観察すると目につく両端から伸びるひび割れが、その噂の信ぴょう性を表していた。
ロッカーが壁の全面に備え付けられている部屋の中央には、小さなパイプ机と椅子が一つずつ置かれている。珍しいことに、酒のボトルが数本適当に並べられていた。
入った瞬間に覚えるのは、薄汚れた部屋に対する不快感だ。無数にあるうちの一つとはいえ、ここも拠点である。傷ついて帰ってくる人間の血や吐しゃ物がいつまでも片づかないのでは困るのだと上がいう。そのような理由で、週に数回掃除係が拠点を出入りする。噂でしかないが、掃除係の人間は小石が転がるように変わるのだという。同じ掃除係を三回以上見たことがないという話も耳にする。元掃除係の面々がどうなったかは誰にでも容易に想像がつく。斯くある事情のなかで、けれど掃除係がいてもこのありさまである。消えない汚れは、戦時から使われ続けた部屋のせめてもの反抗だろうか。それとも、かつてはここで幸福な人生を過ごしていた、今は亡き人々の悲しみが壁のシミとなって現れたのだろうか。
その夜、妙にまぶしく殺風景な部屋を、赤いドレスが彩っていた。ロッカーの一つに背を預け、女はまるでこの世のものとは思えない艶やかさでもって微笑んでいた。
「サクヤ」
(べに)の唇がしなやかに動いた。
 「琴姉さん」
 サクヤの引き締まった表情が少し柔和になる。女はテーブルを指さし、肩をすくめた。
 「クロノスが持ってきたらしいのよ。自由に飲んでいいらしいわ」
 テーブルに置かれたボトルは、栓すらあけられていないようだった。
 「あのひとのことだから絶対なにか裏があるって、みんな警戒しているの。実際、以前にクロノスの携帯食を嫌がらせのつもりで食べた仲間は、血泡を吹いてその場で死んでいったものだから、余計に、ね」
 「酒に細工するなんて、罰当たりですね」
 「そうよ、こんな高級なもの」
 かちん、と女は指先でボトルの先端をはじいた。
 サクヤはクロノスという男のことをあまりよく知らなかった。知るつもりもなかった。悪い噂は絶えなかったし、はたから見ていても殺しを快楽とする節があるようにうかがえた。携帯食にまで細工をするなど、常人からは考えられない行動である。
 戦中から食糧難になっていた国は、必要最低限のエネルギーを補給することのできる安定した食べ物を探していた。その技術が確立したのはごく最近のことで、それまでは点滴や注射による必要な養分の注入、または大金を出して固形物を食べることを人々は強いられてきた。人口栄養物の入った携帯食は大量生産ができ、安価で手にいれられるようになった。多くの人々はその小さなキューブでなんとか空腹をごまかして生きている。路上を歩けば、携帯食を購入するべく手押し車一杯の硬貨や札を手に交換場所を目指す人を見かけることもある。大戦以降、国の通貨の価値が暴落した結果だ。安価なキューブですら、この国の貨幣にとってはラグジュアリーなのである。斯くしてほとんどの人は外国の通貨を持ち歩き、これを使うことが定着した。信用性の高い大国の通貨のみ、交換所で認められたからである。自然淘汰により、老人のほとんどは死に絶えた。たとえ若くとも、心身ともに強くなければ虐げられ、憔悴して死んでいった。このような世界でも、自殺の話は聞いたことがない。それは、死を強烈に意識させられる環境下で生活しているからかもしれないとサクヤは思った。死ぬのは簡単で、自ら努力せずとも命は滅んでしまうことを知っているからだろう。つまり人は、この極限の状況のなか、命を燃やし、より良い人生を送ろうと、妄執的に、けれどある意味では前向きな生き方をしている。過去もなく、未来もない。刹那を生きる人々の生活は、捉え方を変えれば、健全な社会かもしれないとサクヤは思った。
 そのように生と死の瀬戸際をくぐりぬけて手にした貴重な食糧に細工を施すなど、とても不健全である。ある種病的なものを感ぜざるをえなかった。
 サクヤは指定されているロッカーを開けた。無造作に側面に張り付けてある幾枚かの紙を手に取る。
 恐らくは、組織を統べる男の伝言係が行っていることだろうが、仕事はこのようにして上層部から割り振られる。仮初の政府が立ち上がった際、電子機器を介した通信により大きな暴動が世間を揺るがした。以降、なけなしの権力を振りかざした政府による電波傍受が行われ、斯くして国は電波通信をいうものを失った。伝令は係による口頭のものか、こうしたペーパーベースのものの二種類が主流である。サクヤの手にした紙には、ターゲットの写真と行動パターン、名前や役職などか記載されていた。一度見た顔を忘れることのほうが難しいサクヤにとって、殺しのために名前や役職といった情報は必要ない。サクヤは情報にさっと目を通し、顔写真をじっくりと眺める。次の出勤日の記載がないあたり、伝書鳩直々の訪問を予感させた。給金は普段から伝言係によって無造作に渡される。決まった給料日というものはなく、また渡される額も出来高制である。無論、彼らから渡されるのは外国の貨幣だ。母国の通貨をいただいところで、世界的に価値を失った紙切れは何の足しにもならないからだ。
 サクヤの手元を見て女は表情を曇らせる。
 「随分な人数ね。…重宝されるのは悪いことではないけれど、なんだかこき使われている感じでいやね」
 「その分多くの金を頂戴するわけだから、お相子ですよ。重用されれば、その分もしものときにトカゲのしっぽはまぬかれる」
 少年は仮面の笑みを浮かべた。
 「…最近、だれかと同居しているそうじゃない」
 女は独り言のように言った。
 「あまり、入れ込みすぎないようにね。足をすくわれるかもしれない」
 少年は紙の束をライターで燃やし、灰皿に置く。白煙が舞い踊り、天井の隙間へ逃げていった。いよいよ出かけようというときに、女は小さく祈った。
 「くれぐれも気を付けて」
 サクヤは、この瞬間に人生で一番幸福に近いものを感じる不思議さを思案した。だれかの命を奪うべく歩き出す殺人者の背中。誰に命令されたでもない、殺しを仕事として選び自ら死の(あぎと)へ近寄ろうという場面に、いたわるような、心配するような言葉。これは矛盾なのではないか。或いは皮肉か。自分には必要のないぬくもりを、赤いドレスの女は与えようとする。抗えず、享受することもできず、女が求めているであろうものを何一つ返すことのできない自分が、少し腹立たしい。これは依存と呼ぶのだろうか。女は与えることによって、なにが満たされるのだろうか。そして、あえて抵抗しないことによって自分は一体なにを得ているのだろうか。けれどサクヤは、そんな女を嫌いにはなれなかった。
 「琴姉さんこそ、気を付けて」
 サクヤは緩やかに微笑んだ。華やかな顔立ちが一層咲き誇るように華やぐ。仮面の笑みではなく、偽らざる本音の表情である。
 「…同居人のことは気にしないでください。ほとんど顔を合わせないし、会話もないので」
 それでは、と会話を打ち切って、サクヤは黒いコートを羽織った。
黒一色に身を包んだ少年は、今日も命を捨てるように生き続ける。寒空の下歩き出すべく扉を開け、地上へ続く階段を上る少年の後ろ姿を女は複雑そうに見つめた。
「あなたは少し変わった。…あの男が来てから」
女の顔に影がさした。それは嫉妬ともいえる表情だが、色濃くにじむ心配の面影が、別のなにかに作り替える。
「…危なっかしいのよ、あなたは」
その言葉は、誰もいない部屋のなかでぽつりとつぶやかれた。

2.

「どうしてそうして笑うのかしら、あなたは」
思わずでた言葉に、相手同様に目をみはる。
「どうして?俺が笑っていてはいけませんか」
 虚を突かれた表情のあとには、少し警戒した声で少年は言った。
 「いいえ。でも、なんだか不自然に笑うから」
 「そうですか」
 少年は肯定とも否定ともとれる返答をした。綺麗な少年だった。少しだけ目じりの吊り上がった、アーモンドアイ。それをたたえるかのような、柔らかな質感を醸し出す薄茶の髪の毛。少女のような華奢なつくりをした体に、その白い肌に、黒いコートがよく映える。まるで闇を背負った天使のような、そんな神々しさえも感じさせた。
 ここで会ったからには、決して綺麗な人生を歩んではいないであろう。けれどどうしてか、琴にはその少年が無垢な赤子のように思えた。潔癖、とでもいうのだろうか。どこか達観した、冷めた印象を受けた。それでいて、心に決めた正義を貫いているような、そんな生き方をしているような気がした。
 「見かけない顔だから、もしかすると初対面かしら。私は琴というの」
 少年は少しの反応も見せず、酒をあおった。容姿に似つかわしくない仕草にほろ苦い感情が生まれる。
 「…あなたのお名前は?」
 「サクヤ」
 「そう。とてもきれいな名前ね」
 琴は艶笑して、目を瞑った。
 「朔夜だから、一日の夜…きっと満月の浮かぶ、澄み渡った空ね。夜なのに、明るくて。けれど明るすぎなくて、心が落ち着く」
 「大げさですね」
 サクヤと名乗った少年は呆れたようにいった。
 「名前は大切よ。名は体を表すってね」
 「くだらない」
 少しも靡かない様子が、むしろ琴の歓心を買った。久々に心が解れる気がした。少年は驚くほどに、建前を並べたり媚びを売ったりすることをしなかった。案外とまともに相手と向き合って、自分の考えたところを述べていた。茶を濁すようなしゃべり方はせず、話し相手の言葉をきちんと聞いた。
 以降、琴はことあるごとに少年に話しかけた。少年は嫌がりもせず、かといって歓迎するでもなく、琴の相手をした。サクヤのこなす仕事の量は圧倒的だった。生き急ぐかのような有様が、琴には解せなかった。
 「サクヤ、あなた働きすぎよ。それでは、いつか失敗するときがくるわ」
「…そうかもしれませんね」
 そのときの少年の、歪に嗤う瞳のなかに渦巻くおぞましい何かに琴は怖気づいた。少年は失敗することを望んでいる。ただ死にたいのであれば、自ら命を絶つことはたやすい。けれどそうしないことに、尋常ならざる執念が感じられた。
少年の心はまるで、崖から絶望の淵を眺め下すように深いと思った。そして深い分だけ、澄んでいるとも思った。少年の心は永久に閉ざされて触れられない場所にあると知った。
その日から、琴にとってサクヤは守るべき対象となった。
いつからか、琴はサクヤに特別な感情を抱いていた。どこか頼りない華奢な体つきに、ある種の危うさが、色香となって少年から滲みでていた。しかしその色香に群がる蟻たちを、彼はいつまでも拒みつづけるであろうことを、琴子は悟った。事実少年は言い寄るすべての人間を蹴散らしながら歩いた。
サクヤという人間は、生きることを呪縛のように受け止めている。だから彼はそれに付随する事象には目もくれず、ただ生を全うすることにだけに集中していた。
それならば自分は、せめて少年の盾となろうと決意した。安心して帰ることのできる場所になろう。もしもの時に逃げ込める場所として。少年が壊れることのないようにと祈るあまり、琴は自分のなかに芽生えた感情を忘却した。
 自分の見つけた大切な宝石が、輝き続けることができるように。
 琴はただ、それだけを願って生きていた。
 
 

 宝物のような時間がある。
 幼子の手が触れる。軽い体を高く持ち上げると、小さな顔がほころんだ。陽だまりのような幸福のなかで、穏やかな日々を過ごした。あの瞬間だけは、後ろ暗いすべてを忘れられた。
 その夜、物陰から見た少年をすぐに識別できた。
 優しい薄茶の髪の毛、大きなアーモンドアイ。でもあのころとは打って変わって、冷酷な表情。
 血の雨が降りしきる中、複数の敵の間を乱舞する姿は蝶が舞い踊っているかのようだった。
 頭から血をかぶり、人を殺めるその様子を、どうしようもなく綺麗だと思った。



最後の大戦以来、国は燃えている。
 先進国による待遇がいけなかったのか、降伏したことがいけなかったのか、それとも、最初に戦の幕を切って落としたことがいけなかったのか。国は世界の覇者となるはずだった。覇道を進むことに多少の犠牲はつきものである。だから、あれほど残忍な所業を重ねたというのに。残されたものは、がれきの山と、飢える民と、蔑ろにされ続ける政府という名の形骸。そして、国にとっての世界は荒廃し腐敗した。
国は未だに戦禍から復興できずにいた。死体が片付いても、建物は直ることはなかった。畑に豊穣は訪れなかった。国は一時北と南で分断され、それぞれが別々の先進国によって支配された。一時的にでも分裂され、互いを敵国として扱わされた国は、もはや再び一つになることはできなかった。たとえ先進国の冷戦の吹雪に春がこようとも。たとえ国が独自の統治権を認められ、南北に分かれた国が融合されたとしても。過去改変などを行えない限り、国は統一国家になどなりはしない。
国の民は、北と南で随分と生活に差異があった。北は南よりも貧しく、そんな民は南の民を憎んだ。資産のある南の民は栄え、また暫定的な政府がつくられた際に大半の役人は南から選出された。政府を施行した先進国が、南を支配していた勢力だからだ。北の民は怒り、反乱を起こした。長きにわたる内紛の始まりだった。そして政府の力は衰え、反政府組織や闇組織が台頭した。暫定的な政府は統治力を取り戻すべく、必死の足掻きをみせた。財政の繁栄と技術の発展を成し遂げる世界から切り離されて、一国、国内にはびこる醜悪と闘っていた。外交能力など皆無な国は、海外支援を望む余地すらなかった。資源もに搾取され、利益としての旨みを失った国は、もはや他国の誰からも興味を抱かれない。
そんな現実で、それでも民は辛苦を重ねて生きていた。たくましくなどない、ただ、そうするほかの選択肢がないだけだ。大洋に浮かぶ島であるその国から、逃げる術などないだけだ。風の便りで耳にする異国の豊かな暮らしなど想像もつかないから、命を懸けてまで大海原を冒険しようという気が起こらないだけだ。
民にとっての世界とは、とても残酷なものであった。けれどもそれを理不尽だとは、民は思わなかった。それが世界のあるべき姿なのだと信じていた。それ以外の世界を知る由もないから。
大戦以来、国は燃えている。


ならば大戦以前の国とは、どのようなものだったのだろうか。


そのようなこと、考えたところで時間の無駄だとサクヤは思った。
その日、三件の仕事を終了してサクヤは拠点に戻った。人の目を忍ぶように細道を幾度となく曲がり、壁と同化したような扉に鍵をさし、地下へ続く階段を下る。
光の点滅する部屋は無人であった。
少年は息をつき、上着を脱いだ。黒い服は血痕が目立たなくていい。組織の大抵の人間は仕事の際、黒を基調とした衣服を身に着けるようにしていた。
 静寂のなか、ちかちかと音を立てる電球だけがこだました。サクヤは耳をそば立てた。空気がかすかに揺れる。それは、誰かが入室した知らせだった。
 もしも部外者ならば、すぐに始末して上に報告しなければならない。無音で階段の壁に隠れる。サクヤは腰に括り付けてあるナイフに手をやり、臨戦態勢をとった。
 「おやおや、お姫様は大層ご立腹とみえる」
飛び出す寸前、聞き覚えのある声に、サクヤは止まった。
皮肉を携えた表情。膿のような、なにか汚いものを感じさせる笑みの張り付いた顔。クロノスは、痩躯から伸びる長い手足が印象的な男だった。誰に対してもその声音なのか、しかしサクヤはこの男の妙にわざとらしい猫なで声が心底不愉快でならなかった。
「…こそこそと入ってくるあんたが悪い」
「俺の気配をわからないなんて、胸が張り裂ける思いだね。俺とお前の中だってのに…」
 そう言って、クロノスはサクヤの頭からつま先までを視線で撫でまわした。
 サクヤは汚いものでもみるように眉根に皺を寄せた。同時に、頭のすみで考えていた。どうした風の吹き回しだろうか。この男とは、初対面に「お姫様」と軽口をたたかれて以来、ろくに口もきいていない仲であった。クロノスにとってサクヤとは、少し顔の目立つ、けれどどこにでもいるありふれた殺し屋であったはずだ。なにも興味を抱かれることなどした覚えはなかった。であるからこそ猶更、サクヤは警戒心を強めた。
 「あんたも仕事で来たんだろう。俺は帰る」
 荷物を拾い上げ、サクヤは階段を塞ぐように立つ長身の男を押しのけて出口を目指した。
 「風の噂でしかないんだが」
 ことさら声を張り上げてクロノスは言った。
 「お前この頃、男と住み始めたんだって?」
 心底楽しいというような、鬱屈した笑いを含んだ声だった。それは、サクヤにとって急所となる話題だ。無情に歩いてきた人生のなかで、初めて心の揺らぎを覚えた相手について、琴にすら触れられたくないところである。それを、どうしてこの男が触れていいわけがあるだろうか。
煮えたぎる頭のなかで、サクヤは冷静に考えた。そもそもこの同居話を知っていた人間は限られている。まずは、琴。しかし琴がむやみやたらとサクヤの秘密を暴露するとは考え難い。ならば彼女が情報を入手した先はどうだろうか。サクヤの身辺の変化を知るために、琴が情報屋を雇ったことは明らかである。その動きを嗅ぎ付けて、クロノスがやってきたとでもいうのだろうか。金さえ渡せば、情報屋の口は軽い。
サクヤは氷冷に言った。
「俺が誰と住もうが俺の勝手だろう」
振り返ることをせず、サクヤは止まっていた足を動かした。
「驚いたな。随分入れ込んでいると見える」
さして驚いた風でもなく、クロノスは続ける。
 「その男のこと、たいして知りもしないんだろ?精々気をつけろってな。猫だと思って拾ったものが、実は牙を隠した猛犬だったなんて、この世間じゃあよくある話なんだから…」
 男のせりふの後半は、サクヤの想像である。クロノスの言葉を最後まで聞かずに少年は拠点の扉を閉めた。
 非常識な行動かもしれない。拠点を出入りする際には、大概細心の注意を払う。扉の先に人の気配はないか、外にこちらの音は漏れていないか、確認をすることになっている。が、実際にどれほどの人間がそれを守っているかは判断に迷うところだった。情報屋のはびこる世の中で、秘密など存在できないといいう諦念も人々の間にあった。拠点が都合の悪い人間たちに知られてしまっても、その人間たちを殺してしまってから場所を移せばいい。そういう考え方もあった。サクヤはその考え方について、しばしば思案した。
 クロノスは殺し屋としては、目立つところのない人間であった。依頼の数も人並みにしかこなさなければ、愛用する刃渡りの長いナイフの腕前も並であると聞く。尤も、あの男が人前で披露する腕前は彼が見せたい夢幻の腕前でしかないというもっぱらの話であった。クロノスという男が脅威と目されるのは、その常軌を逸した行動の数々である。仕事とは関係なしに人を殺めることのある彼は、巧みに毒物を使用して拷問のような緩やかな死をただ傍観したり、言葉巧みにだまし込んだ殺し屋に特攻隊のような無謀な反逆を強いたりして遊ぶ。要は、究極に悪趣味な男である。殺しを仕事としていても、サクヤたちにはサクヤたちなりのモラルというものが存在する。クロノスという男は、それらを完全に無視した、無秩序な人間であった。そしてそれらの行動を卒なく行えるだけの様々なつてや能力が備わった人間であり、また実際の戦闘能力が未知数なだけに、手の出しづらい相手でもあった。
「あれあれ、サクヤさんじゃないですかー」
サクヤははじかれたように振り返った。自分の思考にとらわれすぎていたのか、彼の気配に少しも気づかなかったのである。
「なあんだ、兄貴が妙に楽しそうにしてたのはそのせいかー」
大きな体に、まだあどけなさを感じさせる。無邪気そうに笑う青年は、最近クロノスが飼い始めた新しい犬だと、もっぱらの噂である。
「おれのこと覚えてます?やだなー、サクヤさん。(べに)ですよ、(べに)。あ、でも実際に会ったのはこれで三回目だから、忘れられててもおかしくないですねー」
へら、と更に笑顔を大きくして(べに)は頭をかいた。
実際に、サクヤは青年の名前までは覚えていなかった。過去に顔を合わせたことがあるか疑わしいというほどに記憶に残っていない。それでも一目でその青年が件の犬であることがわかったのは、地下室にあるクロノスの存在のほかに、(べに)につきまとう暗い陰のようなもののせいだった。そういえば、初めてちらりと見かけたときに、妙な気配のする青年だと感じたものだとサクヤは思い出した。感心するほどに記憶しづらい顔と印象。サクヤにとって、(べに)は瞳に宿す暗影でしか識別することのできない人間だった。
 「何しに来たんだって言いたそうな顔ですねー。えへへ、おれ、兄貴に頼まれごとしたんですよー。ほら、これ」
 これ、と言いながら青年は布袋を顔の高さまで掲げて見せた。掲げられたところで中身は見えないが、おそらく食料だろうとサクヤは思った。それよりもサクヤの目を引いたのは、布袋を見る(べに)の業火のような視線だった。熱を帯びた眼光がなにを意味しているのかまるでわからない。けれど、サクヤは今にでも破裂しそうな(べに)のなにかを垣間見た気がした。
 「おれ、偉いでしょー。えへへ――って、サクヤさんもう帰っちゃうんですかー?」
 さらにしゃべりだしそうな青年を嫌って、サクヤは踵を返した。一言も口を開くことのなかった年下の少年に対して、けれど(べに)は無邪気に「ばいばーい」と両手を大きく振り続けていた。



 微細な空気の揺れに、クロノスは背中越しに扉の方を見た。階段に腰かけた細面にはにたりとした笑みが張り付いていた。
 「(べに)か」
 「あれー、おれ気配消してたのに。兄貴にはすぐ気づかれちゃうんだよなー」
 ぽりぽりと頭をかきながら青年は階段を下り、クロノスの横を通って部屋の床を踏みしめる。
 「まだまだ詰めが甘い」
 クロノスは気だるげに片手を振りながら言う。
飼い主よりも低い位置を陣取った(べに)は、布袋を笑顔で差し出した。
「はい、いつもの通り、買ってきたっスよー。もー、兄貴もたまには贅沢して、生のフルーツなんか買っちゃえばいいのに」
「俺がそんな無駄遣いするような人間に見えるか?食べ物は燃料に過ぎねえよ。食えりゃいいし、効率がいいに越したこたぁねえだろ」
「そういわれると、反論のしようもないけど」
むー、と青年は眉根を寄せた。
「それにしたって(べに)、いつもいつも、食料のお使いにしちゃやけに時間かかってねえか」
「えー。おれは魔法使いでもなんでもないんスよー?市場はいつも人で満杯だし、現地通貨使う人なんかのお金勘定でてんやわんやなんですから」
クロノスはそれもそうか、とため息で返事をした。
「食料の買い物にだけは死んでも行きたくねえ理由の一つだな」
「そうやって自分だけは楽しようとするんだからー」
青年はころころと笑った。
(べに)は知っていた。クロノスは仕事でもなんでもなくこの拠点を訪れたことを。昨夜自分を早く帰らせて、調べものをしていたことも。そして適当にお使いなどを言いつけて自分を追いやり、サクヤと二人きりの空間を作り出したことすら。(べに)は綺麗な少年のことを思い返した。
 「サクヤさんって大人っぽい人ですねー。おれなんかとは全然違う」
 クロノスはふっと笑った。
 「そりゃ、そうだな」
 「なんだか兄貴、すっごく楽しそう。きっとサクヤさんのおかげっスねー」
 (べに)は瞳をきらきらさせて言った。サクヤがどうなろうと、青年の知ったことではない。クロノスの思惑も、正直なことをいえばどうでもよかった。
 けれどそのとき、痩躯の男はくつくつと押し殺した笑いを漏らした。ひときわ楽しそうな、とてつもなく屈折した声だった。
 「まあな」
 青年は驚いたというふうに両目を見開き、そして、目元を緩ませた。
 「それでこそ兄貴っス。おれ、たった今惚れ直しましたよー」
 (べに)は思った。自分は煌々と黒光りするような鬱屈したこの男の気概が奮起する瞬間がたまらなく好きなのだ。青年にとって、それを誘発する事象は憂慮するに足るものではなかった。
ほくほくとした気持ちで、(べに)は拠点を後にした。クロノスはなにやら計略を練っているようだった。邪魔をするまいと、青年は建物の影に控えていようと決めたのである。
 永遠などないとわかっていた。けれど今の時間だけは、ずっと続けばいいと(べに)は思った。



その夜、サクヤは仕事とは関係のない責務についていた。
とある男を探し出し、あとをつける。サクヤにとってそれは別段難しいことではなかった。昔から行ってきたことだった。
人気のない路地までつけたところで、背後から男を襲った。男は悲鳴を上げることはない。騒げば、突きつけられたナイフが容赦なく喉を捌くことを知っているからだ。サクヤは男を顔ごと壁に押しつけ、凍えるような声で言った。
「さぞ儲かったことだろうな」
暗がりの中で、男は必死に目をぎょろつかせた。凝らした視界にぼやけて映り込む人影、その人相を見て、男はあっと小さく声をあげた。
「す、すまなかった、あんたに迷惑をかけた…っ。か、金ならある、いくらでもやる、だから…――っ」
ごふ、ともびしゃ、ともつかない音が漏れた。命乞いは途中で断ち切られた。男の首から噴き出した血が、落書きのように壁面に模様を描いていた。
 サクヤはナイフについた血を振り払う。どの道いつかは摘もうと思っていた芽だった。特に不都合はない。
 刃物を鞘に納め、少年は殺害現場を去った。
 ぽつぽつと水滴の零れ落ちる空の下。その瞳には、一点の曇りもなかった。

3.

 糠雨が本格的な土砂降りになり始めたころ、サクヤは大通りを歩いていた。戦禍の亡霊が今もなお祟る街のなかでも、この通りはひときわ多く、破壊された建物がたち並んでいる。かつては華々しい中心街として栄えていただけに、集中砲火を食らったのだという。散乱した瓦礫は撤去されて久しいが、屋根をこそぎ落とされた家々の修復は一向にはかどらない。これがこの街の恒久的な姿だと、誰もが諦観していた。それでも首都という形骸化した概念は、この街に留まり続けた。どこにあるかもわからない政府とやらがこの街のどこかに潜伏しているのかと思えば、いささか不愉快な気分になる。それは共感されるだろう思考であり、だからこそ政府という抜け殻は地下に潜った。電波を傍受することで反乱因子の融合を阻み、殺すことで国の治安を改善しようとする。雑草を排除するためには、根こそぎ引き抜かなくてはならない。そういう論理で政府は動いていた。正しい思考回路なのかもしれない。けれど雑草はきっと荒れた土地にはびこり続けるだろうとサクヤは思った。所詮は鼬ごっこである。
人気のない通りを、黒塗りの車両が通った。大変珍しい光景である。車などを作る工場のない国で、普通の人間はそれを購入するだけの財力はおろか、そもそもお目にかかる機会というものがなかった。多くの場合、街で見かけるままばらな車たちは密入船によって持ち込まれたものであり、その違法性は確固たるものだった。
けれどサクヤにはその車に見覚えがあった。やはり路肩に停車した様子を見て、少年は複雑な表情を浮かべた。
 のぞき込むと、車窓が静かに降下した。
 「乗れ」
 ぶっきらぼうに告げられた言葉は、轟きのような雨音に掻き消えることなく、サクヤの鼓膜を揺らした。



 濡れたコートのまま、サクヤは車に乗り込んだ。
 「どこか行きたいところがあるか。それとも、帰るか」
 帰る、という言葉はこの男が口にすると妙な響きだとサクヤは思った。すれ違うことの多い生活のなかで、住処を同じくしていることを強く実感させる一言だった。
 サクヤは改めて男について考えを巡らせた。名前は久我(くが)、少なくとも、そういうことになっていた。年齢は見たところでは30手前という印象。職業不詳。当然ながら、久我(くが)にまつわる情報は極めて少ない。確信できるのは、サクヤに対する強い執着心。理由は無論、不明。
 雨粒が水流となって窓からの視界を塞ぐ。シートの座り心地を確かめながら、サクヤはしばらく無言だった。
 車が動くには燃料が必要である。そして、この国の資源は枯渇している。密輸入された燃料は現実味を欠く値段で販売されると聞く。ならば久我(くが)は一体、どこからどうやってそれを入手し続けているのか。久我(くが)の正体、それについて考えようとするも、豪雨のくぐもった濁音のせいだろうか、頭が妙に飽和状態である。結局、その思考は断絶せざるをえなかった。
 「…海は荒れているだろうな」
 ぽつりとサクヤがつぶやくと、車は滑るように走り出した。



 ジンはその晩も、余命のことを考えながら生きていた。死の裁きは、主の気まぐれで、いつでも起こりうる。そう思うと、この辛気臭い世界の裏路地に座る落ちぶれた自分の状況も、建物の隙間から顔をのぞかせる蒼い月も、割れた窓に映る不景気な顔も、妙に愛おしく感じられた。いずれ来る死を確認しながら、けれど自分はそれでも血の通った体のなかに強烈に息づく生を意識していた。これほど生きた心地がするのは、やはりあの断罪のおかげだろうと、ジンはいやに矛盾した考え方をした。
 とはいえ、主以外の人間に命を狙われる可能性も十分にある。自分は数多の仲間を売って命を繋いだわけで、逃げ延びた仲間などがいれば、即座に報復の魔の手が襲い掛かってくるだろう。けれどジンは、奇妙に主を信頼していた。主は狙った獲物を逃すほど詰めの甘い人間ではない。そして自分の仲間たちの居場所に関する情報は、一つも抜かりはなかった。要するに、ジンが脅威に思うべき人間は、主のほかに誰もいなかった。
 寝泊りする空き家の壁の外壁に背を凭れかけながら、ジンは大きく息を吐いた。主との約束で、自分はここから一歩たりとも移動してはならない。否、見たところ監視する人間はいないので、夜逃げしようと思えばいくらでもできる状態である。しかし主の実力と執念をもってしてならば、すぐに見つかり処分されてしまうだろうことは知れていた。動けないことで、多少の不安もあった。もし主が不用意に仲間たちとつながりのある人間にこの場所を喋ってしまえば、自分は確実にお陀仏である。けれどもジンはそういう面でも主を信頼していた。主の口は堅く、また主は相当に慎重な人間である。この世で誰よりも自分に恨みをもっている人間が主であることが、ジンにとっての最大の救いといえた。
 『ジン、だな』
 冷徹な眼差しに、地獄を這うような声。ジンは今でも忘れられずにいた。
 主がどうやって自分を探し出したのか、それは単純明快なことだった。情報屋とのつながりを持つ仲間は多いだろう。少し金を出せば、自分のような情報屋の口は軽い。他に稼ぎようのない自分たちは、裏切ることでその日の糧を得る。他人の命と自分の命。単純な計算である。そうして狙いをつけた仲間を脅し、或いは拷問をかけ、他の仲間の情報を手繰る。仲間たちは、意外にも密に連絡をとりあっていた。一度は同じ釜の飯を食べた間柄であるからだろうか。否、ただ不安で仕方がなかっただけだ。手綱を握られることに慣れきってしまった人間たちが、騎手の手を食いちぎったのである。これからどうするのか、互いに互いの様子が気になったというのも大いにあるだろう。ジンは、仲間たちの中でもひと際気が弱かったのかもしれない。臆病だったのかもしれない。仲間意識という概念が欠落しているのかもしれない。脅されるよりも拷問されるよりも早く、ジンは口火をきった。
 『情報ならある…。…だから、殺さないでくれ』
 あれからもうずいぶん経つのに、ジンは主のことを一目で思い出した。ひどく後悔した。同時に、ひどく安堵した。これがこの世界のあるべき正しい姿だと、秩序のようなものを感じたのだった。ジンは仲間の名前と居場所を一つずつ、回数をわけて主に提示した。そうすることで、余命は引き延ばされていった。
 仲間の命と、自分の命。究極の選択を迫られたとき、ジンが感じたのは、ただただ生きたいという渇望だった。だからジンは、自分の心に従った。
 『これで最後だ。俺は、これ以上誰の名前も居場所も知らない』
 死が訪れると覚悟したとき、ジンは頭をうなだれて言った。それは本当のことで、嘘でもあった。実際には、最後にもう一つだけ名前をもっていた。けれどその人物だけはどれほど探しても影すらつかめず、居場所も当然ながらわからない。それでは不十分な情報で、命を食つなぐことはできないとジンは踏んだ。足掻くよりも、いっそ潔く殺されたいと思った。
 『…なぜ、仲間を売った』
 主は抑揚のない声でジンに問うた。もう会話はないと踏んでいたジンは、大層驚いたものだった。なぜ、このタイミングでそのようなことを聞くのだろうか。仲間を売ることを、理不尽にも叱責されるとでもいうのだろうか。
 『俺は、生きたいと思った。…ただ、それだけだ』
 ジンは重たい口を開いて、言葉を絞り出した。裏切りに、特に深い考えなどなかった。
 そのとき主は、初めてジンの前で表情を崩した。少しだけ口元を歪め、瞳が悲しげに揺らいだ。主にも心があるということを、ジンは失念していた。向けられる怨恨と機械のように殺す所作ばかり見てきたせいか、ジンは自然と主を無機物のように思うようになっていたのだ。
 『そうか』
 主は短くつぶやき、右手にあったナイフを鞘に納めた。
 『お前はよくやった。余命をくれてやる。…ここを動くな。動いたら、必ず見つけ出してその場で殺す』
 くるりと向けられた背中に、ジンは神でも見たかのようにひれ伏して泣いた。
 『忘れるな。お前の命はこの手が握っている』
 その言葉は、言霊のようにジンの脳裏に反響し続けた。
 以来、主がここを訪れることはあまりない。定期的に、或いは気まぐれに、ジンの存在を確認しにくるだけだった。街はずれで闇市からも遠いこの場所には、基本的にだれも寄り付かない。なので、ここをわざわざ訪れる人間は、特に目立った評判のない情報屋のジンを尋ねにくる客か、主くらいのものだった。
 だからその晩、薄雲が月を覆い始めた頃の靴音が聞きなれないそれであっても、ジンは特に危機感を抱かなかった。主の足音とは異なるそれは、客か、行きずりの人間のものだろう。
 けれど確実に自分の方角に近づいてくる音を、その晩はなぜか不気味に思った。重みのある音、そしてわざと響かせるように歩いているようにもとれるそれはやけに怒りを帯びているようにも思えた。
 背筋を伸ばし、耳をそば立てて、ジンは靴音の近づいてくる方角を向いた。
 曲がり角から、大きな体躯が褪せた月光を浴びて現れた。靴音の正体を視認した直後、ジンは胸倉をつかまれていた。足の速い男だ。ジンは妙に感心して、それからはたと目を見張った。古い記憶が疼く。
 けれどジンが口を開くよりも早く、男は腕をジンの体ごと高く持ち上げた。首が閉まり、言葉は泡となって口から噴き出した。
 月が本格的に陰り、先ほどまで明るかった景色も薄闇に包まれた。血の上って火照る頭に、ぽつりと水滴が滴った。
 男は一言も発しなかった。黒光りする拳銃をジンの体に押し当て、躊躇なく引き金を引いた。銃声が響き終わる頃には、男は現場を去っていた。
 激痛を感じたのは一瞬で、それからは痛覚がショートしたように何も感じなくなった。ジンは三発も食らった腹に手を当てた。指の感覚すら消えてしまったかのように、なにも感じ取れない。ただ、倦怠感だけが募っていき、息が切れた。体から力がぬける。奇妙に悪寒がした。
 ジンは朦朧とする意識のなかで、主について考えていた。主は裏切ったのだろうか。自分の居場所を、誰かに告げ口したのだろうか。それならそれでもいいとジンは思った。生きるために裏切った自分が、他人に裏切るな、などと言えた口ではない。けれど不思議と、ジンは主のことを信頼し続けていた。主は無実である。あれほど人間的な表情を浮かべることのできる主が、そのような非情なことを行えたはずがない。矛盾したような思考を抱えたまま、ジンは意意識を手放そうとしていた。脳裏には、最後まで主の顔が張り付いて離れなかった。

 静寂の満ちた車内は、サクヤにとって居心地が良くもあり、悪くもあった。この男に根負けしたあの夜、最初に言いつけた約束事が自分について一切詮索をしないということだった。男はそれを快諾した。そしてこの沈黙は、約束を厳守していることの証だとサクヤは思っていた。けれど静けさの満ちる密閉空間では、どうしてか久我(くが)の存在を強烈に感知する自分に、少年は戸惑いを感じた。
自分のなかに踏み込んでくるなと言ったあの日、サクヤは久我(くが)を詮索しないことを心の中で誓った。だから、サクヤもあえて沈黙を破ろうとはしなかった。そうでなければ不公平だと思った。尤も、この男はそのような不平を一言も口にしなかったが。
雨粒の集中砲火を食らい続けるフロントガラスの上を、ワイパーが忙しなく動いている。拭ってもぬぐっても終わらない作業を、淡々と続けている。それでも何も感じることのない機械を、サクヤは少し羨んだ。
 ちらほらと灯りのついた建物群を抜け、車はやがて更地を走りはじめた。久我(くが)はぬかるんだ土の上を迷うことなく進み、ほどなくして眼前に大海原が広がった。
 そこは、街に寄り添うように広がる海沿いの崖、その中でもひと際張り出した部分だった。サクヤは無言で車を出た。久我(くが)もそれに続いた。
 生活排水の垂れ流しになっている海は、お世辞にも綺麗とは言えないものだった。大戦は国の豊かだった水道施設を壊滅させた。この街ではかろうじて下水道が使える状態だったため、とりあえずそれを利用して汚物は海に流すことが常習化していた。
水の出る施設は貴重であり、例えばサクヤなどは組織の運営する建物や拠点を利用し、有料でシャワーを浴びている。唯一の救いは、国が決して過ごしにくい地理にはないというところである。気温は季節によって上下しようとも、耐えられないほどの極暑や極寒になることはまずなかった。厚着をする必要はなく、服の分だけ生活用品にかかる金が浮く。また、凍え死ぬことも、ひからびることも人々はまぬかれていた。穏やかな気候は虫たちにとっても快適で、だから困ることといえば、蚊による伝染病にかかりやすいことだった。とはいえ、金さえあれば予防薬はぼったくりの藪医者から入手することは容易い。上からの命令で、サクヤも自費での服用を強制されていた。
広く河川が分布している国では水不足に苦しむことはない。尤も、内陸では川の水に汚物を流しているともっぱらの噂である。サクヤは外国の水を購入して飲み水にしていた。それが不法に輸入された水かどうかなど、どうでもよかった。
結局、金と多少の判断力さえあれば、如何様にでも生き延びることの可能な世界だとサクヤは思った。
そうして自分は、目的を達成して生きる意味すら見失った中でも、叫ぶ本能のままに生き続けている。浅ましいだろうか。傲慢だろうか。否、生を求めることが美しく映える瞬間はない。人々は平等にその卑しさを抱え持っている。それが罪だというのならば、神が自ら人々を断罪し殺しに来ればいい。早急に。圧倒的な力と正義でもって、この命を捻りとっていけばいい。ひょっとしたら自分はそれをこそ待ち望んでいるのではないかと少年は思った。
風雨に打たれながら、サクヤは崖の淵まで歩いた。岸壁を打つ大波は黒々として、そして奇妙によく泡立っていた。
「汚いな」
眺め下した海を、サクヤはそう評した。久我(くが)はやはり三歩ほど後ろに佇んでいた。サクヤの気まぐれに気を悪くした風でもなく、久我(くが)はそうだな、と頷いた。
「お前と初めてどこかへ出掛けた」
久我(くが)は少しだけ柔らかな声音になった。サクヤはそれに気づいてしまう自分が不思議でならなかった。
 果てのない大海原はまるでがっぽりと開いた奈落の入り口のようで、希望はおろか、感傷すら湧き上がることはない。この境界線の先に別世界が存在することなど、誰に想像できるというのだろう。誰がそんな夢見がちな思想を抱く心の余裕を持てるというのだろう。人々はその日を生き延びるだけで精一杯であるとサクヤは思った。
「…俺たちの世界は孤立している。この海に阻まれて、どこにも行けない。生きてたって死んでたって同じで、もしかしたら生きるほうが苦しい世界で。それなのに、俺たちはどうしようもなく生きている」
サクヤはおもむろに振り返った。疲れ果てた表情に、あきらめの色が浮かんでいた。普段隙を見せることのないサクヤが、唯一、久我(くが)にだけは見せるようになった顔だった。
「それでも俺たちは、生きていくしかないんだ」
くしゃりと、小づくりの顔が歪んだ。大きな雨粒が髪を濡らし、頬を伝う。
久我(くが)は言葉もなくサクヤを抱きしめた。華奢な頭を胸に押しつけるようにして、久我(くが)はサクヤの柔らかな髪に唇を寄せた。
「そうだな」
低く響く優しい声が、サクヤの鼓膜を撫ぜた。
「それでも生きていく。それのどこが悪い?」
鉛色の空から、ひと際夥しい量の降雨が始まった。遠くで雷音が轟いた。
「俺はそれでいい。お前さえいれば」
 いつからこの男はそんな睦言を口にするようになったのか。最後の言葉は、迫りくる轟雷の音に紛れて聞こえないふりをサクヤはした。


 街はずれにある朽ち果てた薬局に華奢な影がうろついていた。ここは中心地から一番離れた場所に位置する交換所で、本当かどうかは疑わしいが、一応認可を受けているらしい。ここの最大の売りは、医薬品も取り扱っているというところである。少し値の張る、手に入りにくい痛み止めや抗生剤も置いてあり、人々は大概それらを目当てに立ち寄る。
 サクヤは多少の医薬品と携帯食料を購入して、手に下げた黒い鞄に詰めた。しゃがんだ際に視界に入るコートの裾のほつれを見て、そういえばそろそろ衣類も必要だな、などととりとめもなく思う。市に商品として出ている衣類品では、華奢な体に合うようなものはなく、サクヤは仕立て屋へ行くことを余儀なくされていた。
 しかし、今はそのときではない。水の容器が二つ入った少々思い鞄を手に下げ、サクヤは更に中心地から離れた場所へ向かった。
 目的はとあるぼろ家だった。適当に間隔をあけて、そのぼろ家の住人に生活必需品を届けるという、傍からみるとなんとも慈善的な行為をサクヤは行っていた。無論それは物事の表面的な部分に過ぎず、ことはそう単純でもなかった。
 サクヤは刈るべき命を刈り取らずに放置していた。それも、もうずいぶんと長いこと。それは、確信を持てないからだった。自分の復讐の旅はもう終わったのだろうか。存在意義というものを見失うことが怖くて、あれを永らえさせているのだろうとサクヤは思った。あれを見る限り、まだ秘密を隠していそうな気がしてならない。かといって、脅せば口に出すような人間でもないと思われた。だからサクヤは餌としてあれを利用することにした。仮にあれが殺されでもしようものなら、まだ自分にとっての敵は存在することになる。殺すことでしか生きられない自分にとって、殺すべき対象がいたほうが、理性的に考えれば良い。けれど心のどこかで、あれの無事を確認する度に安堵している自分をサクヤは知っていた。生きたいという願望が強く宿るあの目に、まだ光が灯っている事実に、ほっとする自分を。結局のところ、サクヤは自分が何を望んでいるのかわからなかった。
 目的地に近づくにつれ、サクヤは違和感を覚えた。空き家の周辺がなんだか騒がしい。甲高い声がして、それが子供のものだと気づいた頃には、空き家は目の前まで来ていた。
 「…なにがあった」
 サクヤは見覚えのある女に声をかけた。状況は一目瞭然である。死体があったので、死体処理係の女、レイラが仲間を連れてやってきた。それだけのはずなのに、サクヤにはどうにも解せなかった。なぜあれが始末されることになったのか。死因は何なのか。一体だれがこのような罪業をしでかしたのか。
 「サクヤさんではありませんか」
 気の抜けるような間延びした声で、レイラは応対した。
 「おい!死体の場所を教えてやったんだから、対価をよこせよ!」
 そこで割って入ったのは、十歳ほどの子供だった。レイラはスーツの内ポケットから多少の外貨を出し、子供に差し出した。子供は紙きれをちぎらんばかりの勢いでそれを受け取って走り去った。
 「やられたのか」
 紙幣をもぎ取られた手を見つめ続けるレイラをよそに、サクヤはもう一度問うた。
 「ええ。推定三十五歳前後の男性が」
 レイラは次に懐から小さなノートを取り出し、情報の書き出しを行っていった。業務の報告用かなにかだろうとサクヤは踏んだ。
 「下腹部に弾丸三発。後頭部に軽い打撲。他に外傷なし。死因は失血死。死亡推定日は三日前。死後硬直が完全に解けている具合から、時間帯は三日前の深夜から早朝にかけてと思われる。男の身元は不明」
 すらすらと口にしながら、女はノートに書きいれていった。業務上の規定であっても、これほど馬鹿正直に規約を守って行動する人間も少ないだろうとサクヤは思った。ほとんど目も通されることもないだろう資料を作成することに、いったいどれほどの意味があるのか。
 「書くのは趣味です。様々な人の死因を特定して日記にすることが、私の喜びとなるところなのです」
 相手の心を読んだかのようにレイラは言った。
 「あれも市場に出すのか」
 「ええ、当然です。たとえ三日経った肉であろうとも、肉は肉です。涎を垂らして待ち望む市民は多いでしょう」
 レイラの所属する組織は、政府ともつながりのある、死体処理を請け負う業務を行っていた。確保した死体は部位ごとに切り離し、闇市場で食用肉として売りさばいている。牧畜といった技術や、そもそも牧畜を行うだけの秩序も資金もない国の民にとって、肉はどんなものであっても貴重であった。それで食中毒となり命を落とそうとも、それはむしろ本望とする人間も随分と多いことだろう。
 死体を運搬するには、力が必要である。そんな業界で女のレイラが生き延び続けている裏には、彼女のずば抜けた医学的知識と解剖技術があった。多くの女が商館やバーで勤めざるを得ないなか、これは大業である。あの琴でさえ、殺し屋といえども、自分の体を囮に使って獲物を仕留めることのほうが多かった。レイラの過去を知る人間など存在しないが、彼女はまず間違いなく外で医学の専門的な訓練を受けているに違いないというもっぱらの噂であった。無論、市場に出すために肉をさばくのも、レイラの仕事である。
 「周辺に薬莢は落ちていたか」
 「ええ。ちょうど三つ、転がっていました」
 サクヤは今しがた運ばれようとしている死体を見て、短くため息をついた。
 「悪いが、一つもらえないか」
 なんにせよ、賽は投げられた。あれの死を悼む理由もなければ、供養してやる義理もない。このことは一旦頭から排除しようとサクヤは決めた。
 「高くつきますよ」
 レイラは薄ら笑いを浮かべた。
 「払う」
 レイラはやはり内ポケットから一つ、小ぶりの薬莢と、恐らく体内から摘出したのであろう弾丸をサクヤの手に渡した。
 サクヤは生活必需品を買ったあとの持ち金をすべて支払いにまわした。あれにもう必要がなくなったのであれば、当面の生活品は手に下げた鞄の中身で事足りる。金は当分あまり必要ない。また、金などいくらでも住処に眠っているサクヤであった。
 仕事に戻るつもりなのか、レイラは運搬係の男たちの元へ戻っていく。死体に穴が開くほど視線を浴びせながら。
 ふと思いついて、サクヤはレイラに告げた。
 「外を…ここじゃないどこかを、想像したことはあるか」
 噂を全面的に信じているわけではない。けれどレイラはきっと、少年の知らない何かが見えている。そんな気がした。
 レイラは少しだけ睫毛を震わせて言った。
 「地獄は環境ではないのです。いつだって、それは私の中にあります」
 立ち止まり、死体の顔に鼻先を近づけてレイラは続けた。
 「どこへ行っても地獄なら、一番地獄らしい地獄に住みたいと願うのです」
 指示に従い、男たちはほかの死体ものせられた滑車を前後で挟むようにして動かし始めた。レイラはそれにつかず離れずの距離でついていく。
 サクヤはその姿を最後まで追わなかった。用は済んだ。これ以上レイラに関わる必要はなかった。
 血だまりのできた地面を見つめながら、サクヤはしばしあれについて思案した。あれは忠実に命令を守ったということになるのだろう。危険が迫っていると知りながら、ここに居続けたのだろうか。否、あれほど生に執着した目つきをしている彼ならば、虫の知らせには鋭く反応するはずである。ならば、奇襲をうけたということだ。
 サクヤは手のひらにあるものを固く握りしめた。賭けはサクヤの粘り勝ちだ。殺すべき人間は、まだ生きている。あれを餌として置いていただけの費用が一気に報われるというものである。
 それでも何かを払拭できずにいる自分の心を、サクヤはごまかした。重要なのは、新たな敵、死ななければならない人間がまだいたという事実である。今はそれだけを考えていればいい。
 「裏切り者には死を」
 サクヤはけれど弔うように、死体が倒れていただろう血だまりを眺め続けていた。

5.

 中心地からわずかにはずれたところは、いわゆるスラム街となっていた。もとは住宅街であっただろうものから屋根や壁の一部を排除し、それを傘やビニールシートで補強してあり、足を踏み入れると、腐った汗のにおいや住人たちが集めてきたゴミ類のにおいがたちこめた。現在国が使用している旧式の下水道はここでは機能していないが、川が近くを流れていることがせめてもの救いだった。それでも糞尿の異臭はぬぐえず、今しがた横を通って行った酔客が傘めがけて放尿していた。
 スラムの建物の多くが、地下室に飲み屋や風俗を隠し持っていた。隠し持っている、と表現するのは間違っているかもしれない。このことは、生きてさえいればいつかは必ず知ることのできる事実である。政府も例外ではない。とはいえ、名ばかりの政府はこれらスラムや風俗を公に認めるわけにもいかず、かといって断ち切るべく酒類の禁止を言い渡したところで、それは何の効果ももたらさなかった。裏のルートならいくらでもあった。たとえ抜け殻の政府の手もとにあるなけなしの巡廻船をもってしても、より優れた馬力とレーダーをもつ外の違法船はいともたやすく潜り抜けてしまうだろう。
 サクヤは一つのバーに通じる階段を下るべく、道を右に曲がった。建物の間で多くの若者が煙に燻されている。大麻や覚せい剤といった類の薬物である。政府が禁止している多くのことのなかの一つがやはり薬物であったが、大量に漂着してくる売人をせき止めるなど、到底できないであろうと思われた。
薬物は殺し屋にとっては極上のおまじないみたいなものだった。恐怖が消え、アドレナリンの噴出とともに活力が湧き、力が倍くらいになった気分になる。実際、痛覚が消えるのか、多少の傷でひるまない、いつも以上に早く長く走れるようになる、などという話は良く聞くものだった。仕事をする上で覚せい剤を欠かせない殺し屋は多い。
斯くいうサクヤも、薬物とは多少の縁があった。尤も、あのように煙を吸う手法はとっていなかったが。服に匂いがついてしまっては殺し屋もお終いである。
地下に通ずる、壁と一体化したように目立たない扉をわずかに開き、サクヤは滑るように中に入った。
相変わらず汚いところだ、というのが第一印象だった。薄暗い空間には煙草の煙が立ち込め、内装は間に合わせのもので溢れていた。恐らく市で定期的に出品されるテーブルや椅子をとりあえず配置しているのだろう。家屋も多少は漁ったかもしれない。傷物の内装品は一つとして同じものはなく、人々が煽るグラスも、どれも欠け、或いは向う側が透き通って見えないくらいに汚れている。
サクヤはバーカウンターもどきの長机に金を適当に放った。テーブル越しの大男がそれをかすめ取るように掴み、長机の下からグラスと酒を取り出した。良く見ると、長机には鉄製の板がはめ込まれており、サクヤの方から酒の置いてある机下はうかがえない様になっていた。
差し出された薄汚れたグラスを受け取り、サクヤはちびちびとそれを飲み始めた。喉を伝い、胃にかけて火が灯ったような感覚に陥る。味わいも何もない、安い酒なのだろうとサクヤは思った。尤も、サクヤ自身もこのような酒しか口にしたことがないが。
レイラと別れてから、サクヤは一度住処に戻った。驚くことに久我(くが)は在宅で、二人は特に会話もないままに寝た。短い眠りから目覚めると、隣にいたはずの久我(くが)は姿を消していた。恐らく仕事だろうとサクヤは思った。
久我(くが)に続くように支度をして、サクヤも街にでかけた。とはいえ、特に行くあてもなかった。ただ、あの薄暗い部屋に一人で呆けているというのも、嫌に思えた。改めて考えると、随分とそっけない部屋である。装飾品はもちろんのこと、家具すらほとんどなく、唯一存在感を放つ物といえば睡眠のためのベッドだけだった。そのためだろうか、一人の居住スペースとしては広すぎる部屋は、サクヤには妙に肌寒く感じられた。久我(くが)と出逢う以前は、住処に籠ることのほうが多かったというのに。侵食されるように状況に馴らされていく自分が、サクヤは恐ろしかった。
そうしてたどり着いたスラムの酒場にも、久我(くが)の影がちらつく。あの男と初めて出会った場所がここであるということに、サクヤは遅ればせながら気が付いた。丁度このように、一人酒を煽っているときだった。深層心理がこの場所へサクヤを導いたとでもいうのか。サクヤは心のなかで嗤った。そのようなことがあるはずがない。否、あってはならないことである。


情報収集にはうってつけの場所として、その頃のサクヤはよくこの界隈の酒場を利用していた。それをどうして久我(くが)が聞きつけたのかは不明だが、個人情報など漏洩しまくる時代である。居場所を嗅ぎ付けられたからといって何の不思議もない。
久我(くが)はことあるごとにサクヤを見つけだしては、話しかけに来た。サクヤがそれに応じてやる必要などどこにもなかった。だから、初めて声をかけられた時は適当にあしらっておけば良いと思った。けれど、久我(くが)の顔を一目見た瞬間、サクヤの決心は揺らいだ。古い記憶が疼き、思い出せない心の奥底の感情が帳を開けて溢れ出る感覚がした。幼い頃の記憶の多くが欠如していたが、その男は封印されたそれらをこじ開けてしまいそうなほど、強い既視感をサクヤに与えた。既視感ばかりではない。懐かしさと、暖かな何か。サクヤには必要のないものばかりである。久我(くが)はそれ以降も、サクヤが酒場を利用する際には必ずといっていいほど待機しており、しつこく話しかけてきた。はじめは相槌すら打たなかったサクヤであったが、ただ無言で隣に座る男の、たまの話題くらいならば、と次第に相手をするようになっていった。初めて相対したときの抽象的で曖昧な感情は日に日に増し、どうにかしてそれを忘れようと努力した。サクヤにとって過去は死んだもの同然だった。何も思い出せないのであれば、それでもいいと思った。この世に対する憎しみだけが強く心に残るのであれば、どうせ碌な過去などないであろう。思い出せる最も古い記憶ですら、ひどいものである。飼育環境ともいえたあのむごたらしい子供時代の風景が、サクヤの怨恨の根源であると、当時は思っていた。だからサクヤは久我(くが)を拒もうとした。今で手一杯のサクヤに、これ以上の重荷をもたらすような存在は、遠ざけるべきである。
けれどサクヤはついに久我(くが)を拒絶することはできなかった。酒の席を同じくするなかで、互いに無言ながらも居心地の良い距離ができてしまった。久我(くが)の気配も馴染みのものとなっていった。
だからだろうか、あのようなことがあったのは。
いつだったか、サクヤはやけに酔いの回った日に、久我(くが)に余計な情報を与えてしまったことがあった。
その日、サクヤは街はずれの飼い犬に物資を届けに行っていた。相も変わらず約束を守り続ける忠犬に、複雑な思いを抱きながら。いつからか信頼の絆のようなものが二人を結んでいた。サクヤにはそれが薄々わかっていた。だからこそ、早く始末しなければならないと思った。けれどその晩も、犬を延命させるべくせっせと餌を運んだのであった。
自分を制御できない苛立ちを抱えて帰ってきたサクヤは、珍しく深酒をした。久我(くが)が店を訪れたころには、すでに十杯目のグラスに突入していた。いくら水でかさ増しされた安っぽい酒でも、十杯ともなれば酔いも回る。
二人はしばらく隣り合わせで言葉を交わさずに飲んだ。サクヤは十一杯目のグラスを注文した。
「飲みすぎだ、サクヤ」
顔には出ない体質のサクヤが泥酔していることを見破った男は、諭すように言った。
「あんたには関係ない」
 サクヤは冷たく切って捨てた。
久我(くが)はサクヤの顔を改めて観察した。サクヤの目尻はわずかに赤みを帯びていた。久我(くが)は何を思ったか、グラスを傾けながらしゃべり始めた。
「俺も、お前にたどり着くためには色々な情報屋を当たっていてな。嫌でもお前が殺し屋をしていることは耳に入る。それも、かなりの腕前だと聞く」
サクヤは相手の真意を測りかねるようにいぶかしげな表情を浮かべた。
久我(くが)は構わずに続けた。
「お前、殺しを初めて何年だ。…それほどの腕前だ。浅くはないんだろう」
殺しに関わって何年、と聞かれれば恐らく十年ほどの歳月が過ぎた。しかし殺し屋を生業として始めたのはごく最近のことである。サクヤはけれど久我(くが)の質問に明確な回答を与える気はなかった。
「こんな世の中だ。誰だって生き延びることに精一杯で、生き残るためならどんな努力だってするだろう。それに加えて、俺は幼い頃から躾けられているからな」
皮肉を含んだ声音に、久我(くが)の表情がわずかに揺らいだ。それを意外に思いながら、サクヤは十一杯目のグラスを空けた。すかさず次のグラスを頼む。
サクヤはもはや自分が何を悩んで飲み始めたのか忘れかけていた。普段ならば周囲を警戒してこれ以上の飲酒はしない。しかし久我(くが)の存在が、妙にサクヤを安心させた。そして何故か強烈な喉の渇きを覚えさせた。まるで体が緊張でもしているかのように。
会話を頻繁に行わない二人は、こうしてひとしきり言葉を交わすとすぐにまた寡黙になることが常であった。ところが、その日のサクヤは饒舌だった。
「気が付いた頃には、飼い殺しの生活だった。捨て駒のように使われて、命を落としていく子供も多かった。俺も、そう遠くないうちに同じ末路を辿っていただろう。…だが、そんな悪意に満ちた組織も、結局は殺し屋に壊滅させられた。因果応報というべきか」
サクヤはそこで言葉を区切り、更に酒を喉に流し込んだ。
「残された俺たちは、監視のいなくなった部屋から脱出して散り散りに逃げた。尤も、あの頃には人数もたった三人となっていたが」
サクヤは、脱出時に拾った薬莢をいつの間にか指の間で転がしていた。それは、肌身離さず持っているものだった。自由の身になった際、月光を浴び凶器のように煌くそれが、その時やけに心に響いたのだ。サクヤにとって、独立して初めて見た物であり、まさしく自由の象徴のように映った。それ以来、癖のようにそれを持ち歩くようになっていた。
そこまでして、らしくもなく懐旧譚を語っている自分に、アルコール漬けになった脳がようやく警告を発し始めた。
もしかすると、この男はサクヤの警戒心の間を縫って自分を詮索しているのではないか。やはりこれ以上関わるべき人間ではないとサクヤは思った。この男は危険な存在である。接していると自分が自分ではなくなるようで、不気味だった。サクヤは復讐を生きがいとした機械的な自分でいたかった。それ以上のものはもはや抱えきれないことを自覚していた。
サクヤはグラスに残った酒を一気に飲み干し、冷ややかな眼差しで久我(くが)の方を向いた。
「昔話はこれまでだ。つまらないことを聞かせたな。…忘れてくれ」
サクヤは立ち上がろうとして、急激な眩暈に襲われた。やはり飲みすぎたのだろう。宙に浮いたみたいに地面の感覚が掴めず、サクヤは思わずよろけた。久我(くが)はすかさずそれを支え、足元の覚束ない華奢な体を包み込むように抱え込んだ。
「サクヤ」
妙に気分を落ち着かせる声だと少年は思った。
「俺と生活を共にしろ」
麻痺した思考を乗っ取るように、忘れようとしていたあの懐旧の念が強烈に疼いた。
その命令ともとれるような申し出は、出会いがしらから久我(くが)が言い続けていることであり、またサクヤが拒みきれずに答えを引き延ばし続けていることだった。
初対面から不定期に会い続けて随分と時間が流れた頃。
久我(くが)の腕の中で、サクヤは僅かに頷いた。

蒼月の隷下

蒼月の隷下

第三次世界大後、崩壊した国土は世界に取り残されたまま、人はそれでも生きていく。 置き去りにされた狭い世界。喉を締め付ける閉塞感に時折、息を詰まらせながら、少年は生きるために武器を取った。 荒廃と傷跡を抱えてなお、人は人と出会い、感情の芽生える生き物だから。 救いようのない人たちの、救われない、これは「愛」の物語。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • SF
  • 青年向け
更新日
登録日
2023-12-23

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