海の見える家

第227回コバルト短編小説新人賞応募作品

 まだ何も入っていない空き箱のような家の二階の窓から、ぼんやり遠くのほうを眺めていた。眺めていたといってもなにかを見ていたわけでもなく、ただ目を開けて遠くのほうに目を向けていただけ。その目線の先には青い空と青い海が広がっていた。そのどちらの青も、言葉にしてしまえば同じ青なのだけれども、目に映る空の青と海の青は、あきらかに違う青色をしていた。その二つの青色を水平線がきっちりと分けていた。
「わたし、ここに住んでもいいよ」
 ベランダの手すりにもたれた奈波のほうを見ると、こちらを向いてはいなかったがほんのりと微笑んで口唇の動くのが見えた。健人もサンダルを履いてベランダへと出ていき、奈波と並ぶようにベランダの手すりにもたれ掛かった。履いたサンダルは少しじゃりっとしていた。
遠くへと向いた視界の右の端のほうに、お隣さんの家が見えていた。お隣さんの縁側では、おじいさんが団扇であおぎながらなにかを食べていた。そのすぐ横で猫が昼寝をしていた。おじいさんの頭の上の風鈴が、ちりちりん、と、こだました。
「お隣さんに、ちょっと挨拶していこうか」
「そうだね。タマになにか持ってってあげようよ」
奈波は、おじいさんの猫を勝手にタマと呼んでいた。
 お隣さんのおじいさんの家まで、ふたりで歩いた。自転車を漕いでいくほどではないにしても、歩いていくにはちょっと遠くに感じてしまう距離だった。奈波は鮭のトバが入ったビニール袋を左手にぶら下げていた。ぶらぶらと揺れるトバの入ったビニール袋を見ながら、健人は少し後ろを歩いた。歩くふたりの陰が細長く伸びていた。


「こんにちはぁ、今度、隣に引っ越してきます、片岡です」
お隣の垣根越しに、奈波がよそ行きの笑顔でおじいさんに挨拶をした。健人も奈波の隣に立って、ぺこりと頭を下げた。
「おぉぅ、それは、それは。どうぞ、どうぞ」
おじいさんは食べていた枝豆をザルに戻し、両手を膝について「よっこいしょ」っと勢いをつけて立ち上がろうとするも、「あたたたたた」と腰を押さえながら中腰のままで止まってしまった。
「じゃあ、すみません、お邪魔しまぁす」
庭に入るなりタマが寄ってきて、奈波の左手に付いて歩いてきた。
「あの、これ、もしよろしければ食べてください」
奈波はタマのことを左の端のほうで見ながら、ビニール袋から鮭のトバを取り出し、おじいさんに手渡した。
「あらららら、これはご丁寧に」
おじいさんは中腰のまま、両手で拝むようにして鮭のトバを受け取った。タマがしきりに、にゃあにゃあ、とおじいさんを見上げるように鳴いていた。奈波がしゃがんでタマの頭をなでてやろうと右手をだすと、タマは飛びのいて縁側の下に隠れてしまい、なぜだか健人をじっと睨みつけるようにして見ていた。突然タマと目が合ってしまった健人は、訳もなくきょろきょろと慌ててしまった。おじいさんは縁側に腰を下ろし、残っている枝豆をからの中から探して食べていた。すずめが一羽、おじいさんの目の前に飛んできて庭の土をつついていると、タマの視線が向いているのに気付いたのか、またどこかへ飛んでいってしまった。タマはまた健人に視線を戻した。
「おじいさんは、お一人で暮らされているんですか」
「いやいや、孫娘も一緒に暮らしてるんですよぉ。うちの孫娘も、どこほっつき歩いてんのやら」
「あら、お孫さんもいらっしゃるんですね」
「なんだか、派手な孫娘でねぇ」
「んじゃ、今度はお孫さんにもご挨拶に来ます。それじゃ、お邪魔しましたぁ」
奈波はおじいさんに頭を下げ、タマに小さく手を振りながら、おじいさんの家を後にした。健人は、じっとタマとにらめっこをしながら奈波の後をついていった。
「なんか俺、タマに嫌われてんのかな」
「あんた、タマにライバルだと思われてんじゃないの」
ふたりで笑い会いながら、海の見える家へと歩いた。


「おーい」
日曜の朝、軽トラックの窓を全開にして、ぶんぶん手を振りながら秀和がやって来た。
「手伝いに来たぞ」
「おお、ごめんな、忙しいのに」
「いいんだって、お互い様だろ」
「あっ、秀和君、おはよう」
「ああ、奈波ちゃん、おはよう」
庭に停められている引越しセンターのトラックからは、てきぱきとした動きで荷物がどんどん家の中に運び込まれていく。その邪魔にならないように、乗ってきた「秋吉水産」と書かれた軽トラックを庭の隅のほうに停めた秀和は、右手を大きく振りながら軽トラックから降りてきた。よく日焼けした首には手拭いが巻かれていた。着ているティーシャツも、まだ朝の八時を過ぎたばかりだというのにすでに汗でぐっしょりとしていた。
健人と秀和は、中学生の頃からの友人であった。秀和の両親は水産加工の工場を経営しており、長男の秀和はゆくゆくその工場を継ぐべく、水産加工のノウハウをピンからキリまで叩き込まれていた。そして健人も、友人のよしみでその工場で働かせてもらっていた。
「それでは、これで以上になります。こちらにサインを頂けますでしょうか」
「あ、はい、ご苦労様でした」
健人が手渡されたボールペンで、バインダーに挟まれた完了書にサインをした。それを受け取った引越センターの作業員は、帽子を取って深々と一礼し「ありがとうございました」とはつらつとした挨拶を残して引き上げていった。朝からなんて爽やかなんだ、と健人は感心しながら引越センターのトラックを見送った。秀和は、そう広くもない庭をぶらぶらと歩き回っていた。
「これだけの庭があれば、なにかできそうだな」
「ん、そうかもな。でも、先ずは草刈りからだな」
そこいらじゅうに伸びきった草がぼうぼうと生えていた。その中に、すこしうねるように曲がった幹の木が一本だけ植えられていた。それほど高く伸びているわけでもなかったが、なにかこの庭の主のようにでんとしていた。その幹からは四方八方に枝が伸びていて、生い茂った木葉がくっきりとした影を庭に映していた。
「秀和君も、おにぎり食べる」
奈波が厚手の生地でできたトートバッグを左手に持って、家の玄関から出てきた。その右肩には大きめの水筒が掛かっていて重そうだった。
「おお、食べる食べる」
木陰でぶつぶつ話し込んでいた健人と秀和も奈波のほうへと歩み寄っていき、三人で縁側に腰を下ろしておにぎりを食べ始めた。奈波が水筒から麦茶を水筒の蓋に注ぎ、先ずは自分が一口飲んでその残りを健人に手渡し、そして水筒の内蓋に麦茶を注いで秀和に手渡した。健人と秀和はそれを一気に飲み干してしまい、おかわりを催促するように右手に持ったカップを奈波に向かって突き出した。その二つのカップに、にこりと笑って奈波が麦茶を並々に継ぎ足した。継ぎ足された麦茶も、いかにも美味しそうに飲み干してしまい、今度は左手の掌を上にして持ち上げ、おにぎりのおかわりを催促した。おかわりしたおにぎりも、むしゃむしゃとあっという間に食べてしまった。具は全部が鮭だった。奈波もつられてもう一つ食べようかと思ってしまったが、やめておいた。トートバッグのなかには、おにぎりがあと五個残っていた。これはおやつ代わりにとっておこうと、奈波はトートバッグの口を折り畳んで自分の脇へと隠すように置いた。
「庭からは、海、見えないんだな」
おにぎりを食べ終えた秀和が立ち上がり、周りをぐるりと見渡していた。
「二階の窓からだと見えるんだ」
健人も立ち上がり、秀和の横に並んで家の二階を見上げた。そのまま健人と秀和は、引越しの荷物がそこいらじゅうに散乱する家の中へと入っていき、二階へと上がっていった。二階にも、かなりな段ボール箱の山が連なっていた。ベランダには二足のサンダルが揃えられていた。そのサンダルを履いて、健人と秀和はベランダへと出た。
「おお、なかなかの眺めだな」
「だろ、海も見えるし」
「ああ、でも、あんな遠くに見えるだけなんだな」
「まあ、それは仕方ない。見えればいいんだ」
「そうだな」
健人と秀和はベランダの手すりにもたれながら、しばらくそうして遠くに見える海を眺めていた。海はなにも動かず、そのままただ止まったままだった。微かに波の音が聞こえるような気がしたが、気のせいだったのかもしれない。下の方からは段ボール箱から取り出される台所用品のぶつかり合う音が、確かに聞こえていた。
「ねぇっ、ちょっとぉ」
奈波の大きな声が呼んでいた。健人と秀和は階段のほうに目をやり、一目散に一階の台所へと駆け降りていった。
台所へ行ってみると、奈波が冷蔵庫の前で項垂れていた。
「冷蔵庫、こっちに寄せたいんだけど」
ちょうど奈波の背丈ぐらいある食器棚の右側の側面を左手でぽんぽんと二回叩きながら、健人と秀和に向かって目配せをした。
健人と秀和が冷蔵庫へと歩みより、秀和が冷蔵庫の右側で手を掛けるところを探っていると、左側では健人が手を掛けるところを探りだした。するとなんの合図もなく、扉が三つある冷蔵庫が床から数センチ持ち上がった。
「おおっ、ずいぶん重いな」
「中身、もう入ってるからね。気を付けてよ」
「えぇ、だからじゃねぇか、余計に重いの」
「ははは」「ふふふ」「へへへ」と笑い顔を溢しながら、冷蔵庫を食器棚のぎりぎりまで寄せた。
「もうちょっとだけ離したほうがよくないかな」
奈波が冷蔵庫と食器棚の隙間に掌を縦にして入れていた。奈波の掌がぎりぎり入るくらいの隙間しか空いてなかった。
「なんか、熱くなりそうだよね」
「確かに、そうかもな」
健人も頷いていた。
「秀和、ちょっとだけ引っ張ってくれよ」
秀和が冷蔵庫の右側から、引き摺るようにして拳ひとつ分だけずらした。健人が冷蔵庫の正面に立って、食器棚と面一になるようにほんの少しだけ右側を奥に引っ込めた。奈波は腰に両手を当てて、にんまりと頷いていた。健人が無造作に冷蔵庫の扉を開けると、「おっ」とビールの缶を見つけてしまい取り出そうとするも、仁王立ちの奈波の視線を背後に感じて、そのまま扉を閉めた。
「俺、テレビ、つけてくるよ」
ばつの悪そうな健人が、居間のほうを見ながら言うと、
「テレビは俺に任せておけよ」
秀和が右手の親指を立てながらリビングに入っていった。奈波が健人に笑いかけながら、ぽんぽんと肩をたたいた。少ししょんぼりした顔で健人が奈波の方に向くと、健人の右肩に置いた奈波の左手の人差し指がにょっきり突き出ていて、健人の頬を奈波の人差し指が突っついた。健人は「うっ」と痛い顔を奈波に向けた。奈波はいたずらっ子のような表情を浮かべて、してやったりな顔を健人に向けていた。
「あんたは電気系、弱いもんね」
「ん、まあ、な」
以前にテレビを買い換えたときにも、健人が設置しようとしたテレビはいつまで経っても画面は真っ黒のままだった。そしてその時も秀和に来てもらい、無事にテレビを見ることが出来るようになったのだった。
「秀和君、テレビ終わったらさ、ミニコンポもみてくれない」
「ああ、いいよ。テレビはすぐ終わるから」
健人が段ボールからミニコンポを取り出し、小さなタンスの上に一応、設置だけしておいた。ビニール袋にひとまとめになっている配線は、そのままにしておいた。そして「CD」と書かれた段ボールのふたを開け、中身を物色し始めた。CDは段ボールで二箱もあり、ゆうに百枚は超えている。あれもこれもと取り出して見ていると、メロディが頭の中で鳴りはじめてしまい、そのジャケットに見いってしまう。今度暇を見つけて、この大量のCDを並べる棚を作ろうかと考えていた。散らかってしまったCDを元に戻し、「CD」と書かれた二箱の段ボールのふたを閉め、部屋の隅のほうに重ねて置いた。そして重ねた段ボールの上のふたをポンとひとつ叩いて後ろへ振り向き、テレビの設置をしている秀和のほうへと歩み寄っていった。
「健人、そっち持ってくれねぇか」
テレビの台の向きを整えようと、秀和がテレビの台の左側に手を当てていた。健人は右側に手を当て、「せーの」と声をかけあい、壁からちょっとだけ離して設置した。
そして健人は、テレビを少し離れたところから眺めた。このあいだ買い換えたばかりのテレビは、両手をいっぱいに広げてもとどかないくらい画面が大きく、やっぱりテレビは居間の中心だよな、と奮発したことを誇らしく思っていた。
秀和が首に巻いた手拭いで、額からだらだらと今にも滴り落ちてきそうなほどの汗を拭いていた。ティーシャツは汗でぐっしょり濡れていて、ズボンのベルトを通すところまで汗で変色していた。そんな秀和を、健人は横目で見ていた。
「なんだよお前、汗もかいてねぇじゃねぇか」
健人が汗ひとつかいてないことに秀和が気づくと、じゃれるように健人に抱きついてきた。そして汗でびしょびしょの顔を、さらさらの健人のティーシャツの背中に拭ってきた。
「やめろよ」
健人は必死に離れようとして体だけは離れたが、ティーシャツだけは離さなかった秀和が、顔の汗を健人のティーシャツの背中で拭っていた。健人のティーシャツは、べろんとのびて、汗臭くなってしまった。開け放たれた窓から、生温い風が吹き込んできた。窓から差し込んでくる日差しが畳に当たり、その部分だけを浮き上がらせているようだった。部屋中を仔犬のように駆けずり回る健人と秀和は、その日差しに射される度に焼かれてしまいそうだった。まだまだ荷物はそこいらじゅうに散乱していた。
「ちょっと、あんたたち、なにやってんの」
奈波が、どたばたとした騒動に気づいて居間に顔を出した。奈波に気づいた健人と秀和は、途端に動きを止めた。
「健人のティーシャツ、タキシードみたいになってるじゃない」
奈波と秀和は、健人を指差しながらげらげらと笑いあった。健人だけは首を捻って自分の背中を見ながら、むすっとふくれていた。
「もう、テレビ見れるの」
「おお、ばっちり見れるよ」
秀和がテレビの電源を入れた。すると画面がぱっと明るくなり、カキィーン、と快音が聞こえてきた。「わあーっ」という歓声が大きく広がり、吹奏楽の演奏が激しく大きく鳴りはじめた。画面には泥んこまみれのユニフォームを着た高校球児がボールを追いかけていた。何気なしに画面を眺めていると、ヒットを打った選手が二塁ベースで力強く右手でガッツポーズをしていた。リモコンを手にしていた奈波は、野球にはさして興味もなかったのでチャンネルを変えてしまった。「あっ」と秀和がこぼしたが、そのままチャンネルを次から次へと変えていった。が、また高校野球に戻ってしまい、そのままテレビを消した。
「そろそろ休憩しようか」
奈波は振り返って台所へと向かった。健人は縁側に出て行き、ぼんやりと庭を眺めていた。秀和はミニコンポの配線をしてしまおうかと思っていたのだが、ぼんやりしている健人を見てしまい、なぜだか引き寄せられるようにして縁側へ出ていった。そして健人と秀和は縁側に並んで庭を眺めていた。
「あの木に、ブランコ作ろうかと思ってたんだ」
健人が突拍子もなく、庭の片隅に植えられた木の上のほうを見ながら言い出した。
「ああ、いいかもな。健人、そういうの得意だしな」
「奈波がブランコ好きなんだよな。なんで好きなのかは分かんないんだけど」
「いいじゃねぇか、作ってやれよ。落っこちたりしないように、頑丈に作らないとな」
「奈波は軽いから大丈夫だろ。それより、立ち漕ぎとかされるとやばいかもな」
「確かにな、奈波ならやりそうだ」
健人と秀和はお互いに向き合い、ちょっとだけ背中をすぼめながら、まるでいたずら作戦の打ち合わせでもしているようだった。
そうして健人と秀和がひそひそ話をしていると、奈波が麦茶の入ったグラスを三つ、お盆に載せて持ってきた。グラスの中に入っている氷がカランコロンと音を立てていた。グラスはあっという間に空っぽになってしまった。
「俺はミニコンポの配線してしまうよ」
秀和は「ごちそうさん」と空いたグラスをお盆に載せて、ミニコンポの配線に取り掛かった。健人は縁側からサンダルを履いて、庭へと出て行ってしまった。そして庭に一本だけ植えられている木の枝をぐいぐいと揺らし始めた。奈波は空いたグラスが三つ載ったお盆を手にしながら、それを目で追っていた。いったいぜんたい、また何をしようとしてんだろう、と胸のうちでため息混じりに囁いていた。「よっこいしょ」と奈波は縁側に腰を下ろしてしまった。そしてお盆を傍らへ置いて両の手を後ろにつき、夏の空を見上げた。木の下で健人はよく分からない意味不明なことを繰り返していた。背後からはミニコンポの配線するカシャカシャした音と秀和の独り言が混じりあいながら聞こえてきていた。奈波は少し汗の滲み始めた顔を、にっこりとほころばせ「うーっ」と両手を上に向かって伸ばし、精一杯な伸びをした。そして、グラスの中の少し溶けた氷を口にふくんだ。その氷には味もないはずなのに、なんだかとても美味しく感じた。
健人が届きそうで全く届きそうもないちょっと太めの木の枝に向かって目一杯右手を伸ばし、つま先立ちまでしても全然届かないので、垂直跳びのようにして跳び跳ね始めた。その滑稽な動きの一部始終を縁側から見ていた奈波は、右手を口に当て、左手でお腹を抱え、何度も吹き出しそうになるのをぐっとこらえていた。何度やっても届く気配すらないことにやっと気付いたのか、健人はふらっとどっかへ行ってしまった。
「どうした、どうかしたのか」
ぴくぴく震える奈波の背中に気付いた秀和が、縁側に忍び寄ってきた。それにちょっとだけびっくりした奈波の顔は、ほっぺをぷくっと膨らませ、にんまりとにやけていた。
「健人は、どこ行ったんだ」
「さあ、どっか、その辺、うろうろしてんじゃない。そろそろ、そばでも湯がいてこようかな」
「お、いいな」
「じゃ、あと適当にお願いね」
奈波は「よいしょ」と立ち上がり、「うぅー」と両手を掲げて伸びをして、台所へと行ってしまった。取り残された秀和は、そのまま縁側に置きっぱなしにされたお盆に載ったままの三つのグラスから、小さくなってしまった氷と溶けだした僅かな氷水を一緒くたにぐいっと飲み干した。あまりに美味くて、全部のグラスを飲み干してしまった。いつの間にか蝉が鳴いていた。夏だな、そう思った。


健人がちょっと太めのロープを肩に掛けて、庭に戻ってきた。そして木の下までとぼとぼ歩いて来て、ロープを肩から外し、上を見上げた。そしてそのロープを、まるで西部劇に出てくるカウボーイの様に振り回し始め、「それっ」と木の枝に向かってロープの片方の端を放り投げた。するとそのロープは、どこにも当たることもなく、そのまま地面にばさっと落ちてきた。
「おーい、なにやってんだよ」
じりじりと照りつけてくる真夏の日差しに顔をしかめながら、秀和は縁側に揃えてあったサンダルを履いて健人のいる木の下へと歩いて行った。
「おお、秀和、ちょっと手伝てくれよ」
健人は地面に落ちたロープを拾い上げ、また上を見上げていた。
「もしかすると、それでブランコ作ろうとしてんのか」
「おお、そうそう。やっぱ分かっちゃったか」
「そりゃ分かるだろ。さっき話してたんだから」
秀和も上を見上げた。だが、健人と秀和の見上げる先は、微妙にずれているようだった。
「あの枝に掛けようと思ってんだけどな」
健人が木の上の方で伸びている枝を、右手の人差し指で指していた。
「あれか、あれよりこっちのほうがいいんじゃないか」
秀和が、健人が指差しているよりも、少し下で伸びている太めの枝を左手の人差し指で指していた。その枝は、秀和が背伸びをすれば届きそうな高さに生えていた。
「ほら、けっこう頑丈そうだし」
秀和が背伸びをして右手を目いっぱいに伸ばすと、実際に届いてしまい、その太めの木の枝を右手で握って揺すり始めた。それでもしなるだけで、折れそうな気配はなかった。
「ん、そうかもな、じゃ、その枝に結んでくれよ」
健人がロープの端を秀和に手渡し、秀和がその枝にぎちっと結びつけた。そして秀和が結んだロープを引っ張ってみたが、ぐわんぐわんと枝がたわむだけで問題はなさそうだった。
「ちょっとぉ、なにやってんのぉ、そんなとこで。そば、出来たよぉ」
縁側から奈波が、ざるにあがったそばを両手で抱えながら叫んでいた。ざるの上のそばは山の様に盛られていた。
「わお、山盛りだな。いま行くよ」
健人と秀和は、木にぶら下がったままのロープをそのままにして、縁側へと上がっていった。そして食卓に着き、「いただきます」と三人で手を合わせ、山盛りのそばを平らげていった。冷えた麦茶が、喉を潤していった。
「そば食べたら、二階片付けちゃおうか」
奈波が健人と秀和を交互に見ながら言った。
「そうだな、一階は片付いてきたしな」
健人が答えると、
「おい、お前が言うなよ」
秀和からすかさず突っ込みが入った。
「ま、まぁな」
健人は下を向いてしまい、そばを啜った。奈波は、けらけら笑ってみていた。
「さっき、木のとこでなにしてたの」
「ああ、それは、まだ内緒だ」
「秘密だよ」
健人と秀和はふたりとも、したり顔を奈波に向けていた。
「ふぅん、まぁいいわ」
その隙に奈波は最後に残っていた、ひとつかみのそばを食べてしまった。
「ごちそうさんでした、美味しかったね」
奈波が箸を両の掌で挿んで手を合わせた。
「あぁあ」
健人と秀和は、どちらも同じような不満気な顔を浮かべていた。そしてコップに入った麦茶を飲み干して、三人で二階へと上がっていった。


二階はまだ、ほとんど手付かずのままだった。何から始めようか。三人が三人とも、辺りを見回すだけで、どこにも手を付けられずにいた。ベランダからは陽射しが強く照り付け、畳を熱く焼いているようだった。そこだけやけに明るくなっている畳を、健人がじっと見つめていた。そして奈波がそれを見つけ、「わっ」と健人の背中を押した。「うわぁ、熱いぃ」と健人がぴょこぴょこ飛び跳ねた。そして健人は、その勢いでベランダへと出て行ってしまった。それに連れて、奈波と秀和もベランダへと出ていき、三人で並んでベランダの手すりにもたれ掛かった。奈波と秀和はサンダルを履いていたが、健人だけは裸足のままだった。その三人の視線の先には、青い色がいっぱいに広がっていた。そこに動いているものは、なにもなかった。


「こんにちはぁ」
なにか声が聞こえてきた。
「はぁい」
とっさに奈波が答えて玄関のほうを見ると、そこには真っ赤な髪をしたヘビメタ風な女の子が猫を抱いて立っていた。その猫が「にゃぁ」と鳴いて、健人をじっとみていた。

海の見える家

海の見える家

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-12-21

Copyrighted
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