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ギィ、と音を立ててドアが開かれる。
「お疲れ様」
「……まだ帰ってなかったんですか」
「帰るついでに会計部覗いたら一人で作業してるの見えたから寄っただけ。まだ終わらないの?」
「いいえ、俺も終わって帰るところでしたよ。にしても10時まで残業なんて広報部も大変ですね、お疲れ様です」
「今の時期はもうどこも忙しいでしょ」
呆れ笑いを浮かべながら窓の外を見遣る先輩の視線につられて窓の方を見ると白い雪が降り続いていた。そういえば今日の夕方から一晩中雪が降り続く予報だった気がするし、この調子なら明日の朝には薄っすら積もっているかもしれない。
「あぁ、ホワイトクリスマスだ」
「え」
「……まさか、忘れてたんですか? 今日がイブだって。本当に?」
やってしまったと言わんばかりの表情で頷く彼女を軽い調子で煽りながら俺は内心安堵感に包まれていた。恋人同士にとってイブは重要なイベント日だというのに彼女は今、俺の目の前にいて一緒に雪を眺めてる。デスクライトの明かりで薄っすらと照らされている彼女の表情には諦めの影が落ちているのを確認して気付かれないように安堵の息を吐く。
「帰ろうか、積もってしまう前に」
「そうですね」
ライトを消し鞄を手に取り歩きながら取り留めのない会話を続ける。会社での出来事や昨日見たドラマの感想、今ハマってる音楽のこととか、そんな何気無い会話のひとつでも彼女の声で語られると愛おしさが募っていく。

「はぁ、サラッと積もってる。こういう時が一番滑るのに。もう遅いし駅まで送りましょうか」
「ううん、大丈夫。 じゃあ、また――」
歩き出そうとする彼女の手を掴む。屋内の名残でまだ微かなぬくもりが残る絡んだ指先から体温が分けられて段々と俺の冷えた手を温めていく。行かないで、離れないでほしいと浅はかな願いを込めて、三本の絡んだ指に軽く力を込める。
「――今日は帰らないと」
「……分かってます」
「…………じゃあ離して」
離せない、離したくない。今日は何故か無性に帰したくない。
帰り際に会計部に寄って俺を見つけてくれたから?
今日がクリスマスだったから?
雪が降ってしまったから?
一緒に雪を眺めてしまったから?
浮かぶ理由のどれもが彼女の手を引き止める直接的な理由には当て嵌まらない、けれど一つでも欠けていたら俺はいつものようにあなたを黙って見送っていた気がした。

音もなく雪が降り続く。
このまま新雪の中に俺の裏切りを隠してしまえ。
傷付くだけのこんな想いを無に帰してしまえばいい。
そうしたならもう、こんな遣る瀬無い行き場のない想いに苦しまなくてもいいだろう?
「もう、無理ですよ。今から帰ったって部長はあなたを待ってませんよ。……いつものように残業だって諦めてるよ」
「でも、今日は――」
俺は視線を白く染まった地面に落としたまま、彼女は俺に背を向けたまま、絡んだ指先の温もりだけが俺と彼女を繋ぎ止めている。この手を離してしまえば彼女はすぐにでもあの人の元へ走っていく。俺から走り去り別の男の元に行くあなたを俺は引き止められない。
(だって、知ってるから)
あなたが心の底から望んでいるのはあの人から与えられる愛だって知ってる。
部長があなたを愛しているのも知ってる。
今もあなたの帰りを今かと待ってるのも知ってる。
部長が結婚後初めて過ごすあなたとのクリスマスを楽しみにしてるのも全部知ってるから。
だから、この浅ましい欲だけで繋いだこの手を離してしまえば俺は二度と彼女を捕まえられない。
「イブだからですか? 今日って日がそんなに特別ですか、世間一般のイベント事がそんなに大事ですか? そんなにあの人に会いたいですか? あなたをこんなに求めてる俺を捨てて待ってるかも分からない旦那の方が大切ですか……っ」
最低だ。
あなたを傷付けたくないのも困らせたくないのも紛れもない本心なのに、口を衝いて出るのは哀願する言葉ばかりで自分が嫌になる。こんなのは癇癪を起こす子供そのものだ、みっともない。
けど、みっともなくてもいい。あなたが俺を選んでさえくれるなら、情けない俺をあなただけが知ってるなら、同情でもなんでも彼女が手に入るなら俺は恥も外聞もかなぐり捨てて縋り付くことが出来る。
「…………っ」
――愛しています。
喉元まで出掛かった言葉を飲み込むといつの間にか振り向いていた彼女と目が合う。
「……ごめん」
「、っ」
冷えた空気の中でシトラスが薫った。
彼女に抱き締められているとすぐには気付けなかった。小さく何度もごめんと繰り返す彼女にただ涙が溢れた。想い人に謝らせていることが不甲斐なくて、自分の欲であなたを苦しめてしまっていることが悔しくて、抱き締め返すことなんか出来るはずがない。
(今までずっと我慢出来てたのに、馬鹿だ……)
自分が卑劣極まりない人間だと自覚していたからこの二年間、俺はあなたに対して与えるだけの存在として居続けていたのにこれで全部台無しだ。
部長が妻であるあなたを深く愛しているのを知った上で俺は彼女の悲しみにつけ込む真似をして、あなたをこの深淵へと引き込んだ。俺の不道徳な想いに巻き込んでしまった。傍に居続ける為に彼女にとって都合のいい存在であり続けた。優しいあなたが俺とあの人の間で苦しんでいるのを知っていながらそれでも俺を手放せないように誘導してしまった。
入社してからずっと憧れで好きだった人、そんな人に下劣な手段で手を出してしまったことをこれでも後悔しているんです。あなたは俺のような人間が触れていい存在じゃなかったのに、俺はあなたに触れられる現在(いま)をどうやっても手放せない。

「……雪、止みましたね。一晩中降り続くって言ってたのにな」
たった数分の温もりは雪が止んだのと同時に簡単に消え去ってしまう。まだコートを握ってる手に自分の手を重ねて離してやると、俺達を繋ぎ止めていた温もりが最初から存在していなかったとでも言いたげに冷えた風があなたとの間をすり抜けていく。
「帰りましょうか、先輩」
「………………帰るって、どこに――……」
「先輩? どうしました、立ち止まって」
「……ううん、帰ろう」
歩き出した彼女を確認して息を吐くと白く染まり闇に溶ける。そんな一瞬の出来事が無性に哀れに見えた。
この歪んだ想いも跡形もなく消えてしまえばどれだけ楽になれるだろうか。

一生叶わない恋に俺はこれからも囚われ続けなければいけないのだろうか。
早く解放されたい、そう願うのに彼女の一挙手一投足に振り回されてる今が一生続いてほしくなる。あなたと何気無い会話をして笑い合って慰め合って抱き合う、そんな瞬間がこの世に存在するどんなモノよりも尊くて愛しいから。
あなたと過ごす破滅は甘美な音を響かせながらこの心を追い詰め壊していく。
それでも俺は愛しい破滅をただ受け入れることしか出来ない。
(もし、こんなものが愛だというのなら)
人生でただ一度だけ訪れる愛であるなら。

この愛が終わるのは、この心が壊れる瞬間に他ならないのかもしれない。


(了)

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罪を自覚した女と罪の最果てを望む男の話

  • 小説
  • 掌編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-12-21

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