○【TL】怪盗キッスとストロベリー

3話放置。弟持ちヒロイン/大学生/女装美少年/軟派美青年/気紛れ美男子/etc…

1

 豪華客船ジュエルフィッシュの甲板で、|鮠瀬(はやせ)|緋鯉(あかり)は潮風に吹かれていた。弟の|蒼多郎(そうたろう)が手摺に両腕を引っ掛けて海上を楽しんでいるのに満足すると踵を返す。
 彼女はこの船に仕事で乗っていた。せっかくの豪華客船だからと雇主の厚意で、弟も帯同させた。船に酔うこともなく、レストランでは洒落た食事を臆した様子もなく平げていた。
 弟とは反対に船酔いをしている雇主の元へ戻ろうとプロムナードデッキに入ったとき、目の前を人影が横切った。口元に手を当てているところからして今にも嘔吐しそうである。若い男で、この海のような淡い青みのデニムジャケットが目を引いた。さらさらとした黒い髪が潮風に撫でられている。青白い顔が水面を見下ろした。
「大丈夫ですか」
 緋鯉が近付く。彼女は雇主の趣味でセーラー服を模したワンピースを着ている。肌触りの良い素材で、意匠が可愛らしい。この服をすぐに気に入ったけれど、かなりこの豪華客船の旅を楽しみにして浮かれているように見えるが、雇主の注文でなければまず着ない。しかし着られるとなると彼女もやはり浮ついた。
 船室から飛び出してきたかなり酔っているらしい者は海上のほうに預けていた顔を彼女に向けた。青白い顔で唇は紫になっている。
「医務室に行きますか?」
 相手のアイラインを引いたように、しかし自然な睫毛が、かっと開いた。その反応は知人を見つけたときのものに似ている。緋鯉のほうも彼の顔を不躾に見つめてしまう。一度見れば忘れてしまうほどによく整った、特徴も印象もない美男子だった。何か言おうとした瞬間に相手が|嘔吐(えづ)き、何を言おうとしたのか忘れてしまった。
「お医者さんがいますから、連れていきます」
「い、いい……」
 彼は緋鯉を鬱陶しそうにして距離を取ろうとした。そこまで拒まれたなら善意も引っ込めなければならない。小さく会釈して、今にも吐きそうな者をその場に置いていった。

 緋鯉の雇主の部屋、それはこの豪華客船のオーナーの部屋を意味する。まるで権力を誇示するようにこの船の最も高く最も不安定な位置に四方をガラス張りにして、ラグジュアリーな寝室をショールームにしたみたいな6畳ほどの狭い内装だった。船酔いすることを公言していないジュエルフィッシュ号のオーナーは隠しエレベーターで秘密の床下部屋に潜ってしまった。この1つ下の階からもこの部屋は分からない構造になっている。廊下の途中からせり出たような柱の中、壁一枚奥でオーナーが体調不良で臥している。
 緋鯉は雇主のいる部屋に降りた。一面のパステルカラーに部屋の大半を埋めるベッドは天蓋付きだった。星の飾りが天井から垂れている。
「みくる様」
 ピンク色のドレスに身を包んだ縦巻きロールに金髪の人物は大きなクッションに頬を寄せ、くりりと大きな目を緋鯉に向けた。青白い顔をしている。ドレスの色と揃いの赤みの強いピンク色の大きなリボンの頭飾りでもその血色の悪さは誤魔化せない。
「気持ち悪い……」
 緋鯉の雇主は|龍魚院(あろわないん)|美狗瑠(みくる)といった。緋鯉より4つ5つ下の17歳だが、その風貌はまだ14歳ほどに見えた。
「お外に出ませんか。下の階なら、あまり揺れませんから」
 ふさふさとした睫毛を生やした目が伏せられ、唇を噛む。
「でも……」
「お着替えしましょう。わたしも手伝います」
 美狗瑠は大きなリボンのヘッドドレスを取り、縦巻きロールの|(ウィッグ)も外した。さらさらとした栗色のミディアムヘアが現れる。その髪色に合わせたロング丈の毛先のカールした鬘をまた被った。ドレスを脱ぎ、軽装に替わる。この雇主は男である。性自認もまた男であり、異性装をしているが彼個人の趣味ではない。肉体的な性別を問われない場面に於いては世間一般に女性的な印象を与える|身形(みなり)、素振り、仕草を装った。
「お腹ちょっと空いた」
「ではレストランに行きましょう」
 みくるの身体を支え、立入制限のされた区域を出る。かなりの大人数を収容しているはずだが、このオーナーと関係者以外の立ち入りを禁止している最上階はまったく|人気(ひとけ)がない。しかし下方からははしゃいだ声がよく聞こえた。四方八方に紺碧の海が広がり、この船体の白い尾が溶けていく。
 オーナー専用のエレベーターでレストランのある区画に向かった。とにかく巨大な客船で、田舎の商業施設をひとつかふたつ、娯楽施設をいくつでも乗せ、都会の繁華街をいくつか選んできた盛況ぶりだった。
「あかりぃ」
 プロムナードデッキを歩いているとみくるが緋鯉のほうに身を寄せる。
「どうしました」
「ちょっと寒くなってきたよぉ」
 綿のプリント半袖シャツが潮風にはためく。
「ではレストランに行く前に上着を買いましょう」
 生憎、緋鯉にも今貸せる上着がなかった。雇主の肩を抱き寄せる。彼はこの年齢の男子の平均身長よりも随分と下回り、緋鯉よりも背が低かった。はたから見ると幼い弟のようだ。
「では、それまで、これを着るといいですよ」
 みくるは後ろから上着かけられた。緋鯉のほうが咄嗟に振り返る。男女2人組みで、男の方は長い金髪を後ろで結えている。額に上げたサングラスが軟派な印象を与えた。20代後半か、もしかしたら30に差し掛かっているのかも知れない。女のほうも若かった。ピンヒールを吐いているが、それを差し引いても背の高い男と並んでそう差がない。コレクションモデルに出ているような脚の長さで深くスリットの入った黒のワンピースを着ている。彼女のほうはサングラスで目元を覆い、キスマークをそのまま付けたような真っ赤な唇が特徴的だった。異様な覇気がある。それなりに金を持った善良な小市民ではないのかも知れない。
 声をかけたのは男のほうだった。みくるはその上着が気に入ったようで自分ごと抱いていた。
「顔色が優れませんのね。さっきも1人、体調が悪そうな子がいましたのよ。今日はそういう日なのかしら」
 女のほうが言った。澄んだ質感ながら妙に艶っぽい響きの声だった。
「いいんですか、お借りして」
 緋鯉は雇主の肩を上着ごと抱き寄せた。肌触りの良い毛皮のコートは触れただけでも安くないことが知れた。
「どうぞ、どうぞ。案内所に届けておいてくれたらいいですよ。明日あたりに取りに行きますから。困ったときはお互いさまですよ。ここはもう、隔絶された街みたいなものですからね」
 男のほうは恋人と思しき女の腰を抱いて颯爽と緋鯉たちを通り過ぎていく。
「みくる様?」
 みくるは男女2人の姿を見つめたまま突っ立っている。それは親切なアベックを見送っている感じではない。
「常連さんだよ。|一神(いちじん)夫妻っていうの。羽振りがよくて有名で、カジノで色んな人無一文の|素寒貧(すかんぴん)にしちゃうんだって。でも、なんかいつもと違ったな」
 船酔いから少し覚めたようにオーナーの態度には厳しさが現れた。
「あ、ボクがこの格好だからか」
「ご存知なんですか、みくる様のこと」
「知らないと思うよぉ。いつもはイチゴミルク色のドレスさんだから」
 彼は甘えた喋り方をして緋鯉に抱きつく。
「みくる様」
「さっきよりちょっと|()くなった。ごぁん食ぁべよ。牛さんがいいな。死んだ牛さんのお肉、切り刻んで焼いたやつ!」
 彼は借りた上着を抱き寄せている。室内飼いの毛足の長いネコやウサギのような滑らかな毛皮にファウンデーションを塗った顔を擦り寄せている。案内所に渡すより先に早いところクリーニングに出すのが賢明だろう。


 食事を終えるとみくるは眠気を訴えた。自室に帰るよう促したが、彼は聞かずカジノのあるほうへ行ってしまった。同行も断られる。マロンブラウンの人口毛を手で払い大袈裟に揺蕩わせると船酔いもすっかり治まった様子で行ってしまった。オーナーではなくひとりの客に扮したつもりになっているのをこの若き経営者は楽しんでいるようだった。その背中を追いかけられない緋鯉はまだケーキを食らっている途中だ。みくるが頼んだものだが手を付けずに彼は満足してこの場を去っている。チョコレートを思わせる濃いスポンジケーキにパステルピンク色の生クリームが渦巻いている。その頂点には赤黒いイチゴが鎮座していた。
 そこに注文した覚えのない苦そうなチョコレートケーキが届けられた。口直し程度のクリームにミントが添えてある。緋鯉は「えっ」と間の抜けた声を上げてウェイターを見てしまった。ドラマのバーなどでよくみる「あちらのお客様から」らしかった。示された方向には"一神夫妻"の妻だけいた。麗かに手を振っている。サングラスのない彼女の目が優しげに細まった。
 緋鯉の身の上は、まったくこの豪華客船とは縁遠いものだった。まどろっこしい書き方の求人広告を家庭教師の求人だと勘違いし、アルバイトのつもりで応募して見事受かったのが|龍魚院(あろわないん)家の屋敷のハウスメイドだった。そしてそこの若主人にいたく気に入られこのクルージングに同行しただけの成り行きである。彼女の素性は要するに善良な小市民、ごくごく平凡な女子大学生だった。豪華客船には生まれて初めて乗る。弟もそうだ。そしてそこに内蔵された高級レストランでの振る舞い方も分かっていない。この施設に入った瞬間、準礼服や民族衣装、制服に身を包んでいる利用客に圧倒され、みくるはそういう彼女のためにわざわざ壁際の席を指定した。気侭なオーナーはスタッフに対しては己の立場を明確にすることを躊躇わなかったため、彼なりの気遣いはすぐに叶った。その最高権力者とまでは|見做(みな)さずとも連れがいなくなり、緋鯉の肩身は狭い。ラフな私服でのこのこ訪れていい場所ではなかったのだ。
 オーナーの口からこの豪華客船の"常連"とまで言われている金持ちらしき女の突然の厚意に緋鯉は戸惑ってしまう。何か気分を害することになりはしないかと、華美な女が顔を背けるまでひたすらに頭を下げた。まだみくるの残したケーキも残っているが、彼女は2つ平らげる。周りの目が気にならないでもなかったが、見渡してみたところで他の客たちも自分たちの時間を過ごしていた。片隅の席のいやにラフな服装でコース料理も頼まずひとりで4人掛けのテーブルを陣取りケーキを2つ食っている女のことなど気にしたふうもない。
 ケーキを平らげ、雇主の同行を拒まれた彼女は自室に帰る途中だった。とりあえずのところは邸宅同様に甘えたなオーナーとの|同衾(どうきん)を命じられているが、部屋が用意されていないではなかった。弟とも別室だ。小洒落た空母艦に大きなマンションが乗ったような外観だが、そのマンションの上層階の隅であまり|人気(ひとけ)もない。揺れは下の階と比べると大きいけれど酔うほどではなかった。横になって少し休もうと思いながら廊下を歩いているときにふと、その不調が現れた。船自体の揺れとも思われた。立ち眩みを起こす。真横の壁に手をついた。小窓から紺碧色と澄んだ空色が上下に両断されているのが見えた。手前は波で揺めきながらも、遠景となるときっぱり水平線が断固として淡いブルーへの侵入を許さない。
 緋鯉の身体は支えられていた。だが本当に支えられていたのかは定かではない。壁から引き離されるように突進され、そのまま腕を掴まれて歩かされている。
「医務室……連れていって………」
 連れていってと言っておきながら、連れていっているのはその言葉の主だった。デニムジャケットに黒いシャツの、黒い髪の若い男だ。先程会った酷い船酔いをしていた人物だ。
「あの、……」
「こっち…………」
 まだ青白い顔をしていたが、その腕力は強く、足取りもしっかりしている。
「船酔いですか?」
「………そう………」
 薄ぼんやりとした意識で彼は答えた。その面構えを見つめていると緋鯉はまたぴん、と閃きが起こる。この男を知っている。
「あの、|鮫ヶ嶋(さめがしま)大学の方……ですか?」
 緋鯉は彼をキャンパス内で見たことがある。友人が言っていた。箸にも棒にも引っ掛からなそうな美男子、例えるなら豆腐系、調味料に足らない無難過ぎる顔、と好き放題評していたような気がする。
「…………うん」
 青白い顔はやはり薄ぼんやりとして頷いた。特に驚きもせず、そこに何かしら感慨を示すでもない。彼は淡々として緋鯉を引っ張ったかと思うと、急に船を横断する狭い廊下に彼女を連れ込んだ。同じ大学であることが判明した男は今まで来た方向を気にしていたが、緋鯉を見た瞬間、彼女は膝頭を奪われたように床に尻餅をついた。力が入らなくなっている。すっかり戸惑った。
「ケーキ…………食べたでしょ………」
 彼はまた薄ぼんやりとした態度で訊ねる。今にも寝てしまいそうだ。彼に付き合っているだけでも眠気が伝染しそうである。すでに寝ているのかも知れない。毎秒確認したくなるほどだ。
「ケーキ、食べた……でも、あれが?」
 緋鯉にこれという重大な症状を伴う食品アレルギーはないつもりだった。
「食べちゃ………いけないやつ…………」
 膝に力が入らない以外にはまったく異変はなかった。頭も回る。眠気はなく、苦しみもない。壁を頼りに立ち上がろうとするが、生まれたての子鹿も同然である。
「何か、入ってた……?」
 彼はまた今来た通路を気にしながら首肯する。脳裏に只者ではない雰囲気の女が過ぎる。優美に手を振る姿の裏に、金持ちではない、または貧乏人には分からない思惑があったのだ。
「一服………盛られた」
「え?」
 目の前のデニムジャケットもかくりと膝をダルマ落としされたように床に崩れ落ちる。
「ちょっと!」
 彼のほうは緋鯉と違う様子で、額を押さえると、倒れ込んでしまった。尻餅をついている彼女は受け止めた。
「俺のこと………守って……」
 目頭を揉み、同じ大学に通う謎の男は急に寝てしまった。しかしあまりにも唐突な入眠に緋鯉は焦る。
「ちょっと!」
 頬をぺちりと叩いた。耳を澄ますと呼吸をしていることは分かった。同時に近付いてくる足音にも気付く。人影が狭い通路に現れた。あの女だ。レストランでは外していたサングラスを掛けているが、深いスリットの黒のワンピース、夫と揃いらしき毛皮の上着、何よりも真っ赤なリップカラーが彼女だった。緋鯉は戦々恐々として特に他意はなく、勝手に膝枕の体勢のようになっている寝人を抱き締める。それがクッションやぬいぐるみならば尚良かったが生憎のところ人体は硬い。この男子大学生は痩せぎすではなかったが肥満体質でもなかった。中肉中背で引き締まっている。不安を和らげるような効果はクッションほど望めなかった。
「ワタシの可愛いワンちゃんを探しているのだけど、見なかったかしら、お嬢さん」
 嗜虐的なところのある女だった。サングラスを勿体ぶりながら額まで上げる。その下にある妙に色っぽい目は眇められ、慈しむようにも責め苛むようにも見える。
「あらあら……」
「あ、あ、あの………」
 この船がペット同伴可能だったのかどうかは緋鯉の知るところではなかった。実際顔を合わせてしまうと、本当にこの女に薬を盛られたのか強い疑問に変わっていく。むしろこのデニムジャケットのいきなり寝始める男のほうが怪しくないか。行動も言動も突発的でおかしかった。
「いいのよ、いいのよ。ちょっとうちのワンコのお|悪戯(いた)が過ぎただけなの」
 彼女はワンピースの裾に気を遣いながらそこに屈むと緋鯉からデニムジャケットの男を剥がし、壁に凭れさせた。
「お嬢さん」
 女は屈んだまま寝ている男から緋鯉のほうを見た。マロングラッセのような糖蜜的に潤んだ目に覗き込まれた。同性愛的な嗜好のない緋鯉でも、どきりとしてしまう。
「怖いわねぇ、自作自演の送り狼は。怖い、怖い。可愛いワンコほど闘犬の血筋だったりするんじゃないかしら?」
 彼女の淑やかな喋り方で、緋鯉の疑惑はこの女から、呑気に寝ている男へ移る。
「寝ている間に行きましょう。ところで小さなお連れさんはどうして?」
 一神夫人はピンヒールのサンダルにもかかわらず脚の自由の利かない緋鯉を助け起こした。
「別の場所を見に行くそうで。あの、お借りした上着は一度クリーニングに出しましたので、そのままお部屋に届くと思いますので、ご主人様にお伝えください」
「あら……この船のクルーさんたちは優秀ですのね。するとあの服を見ただけで、ワタシたちがお分かりになったということですものね。なんだか恥ずかしいわ」
 おほほ……と手の甲を口元に添えて笑う仕草に緋鯉は感動してしまった。富豪の婦人というのは本当にそう笑うのだと。漫画やアニメなどの誇張表現ではなかったのだと。
「よく伝えておきますわ」
「ありがとうございます。助かりました」
「いいのよ、いいのよ。困ったときはお互い様ですもの」
 女に支えられて歩くが、どこに連れて行かれるのかは分からなかった。医務室だろうと高を括る。
「あの、さっきの男の人は……?」
 どうするのか、という意味で問うた。素性は知れている。同じ鮫ヶ嶋大学に通っている。それが知れていれば粗方足はつく。
「ワタシの……そうですわねぇ、お使いでしょうねぇ。荷物が多くって、整理も得意じゃぁなくって」
 要は緋鯉と同じだ。彼もアルバイトか何かで雇われたのだろう。
「あのままで大丈夫ですかね……?」
「ふふふ、大丈夫よ。寝たフリが上手くて困ってるのよ。そのうち起きるでしょう」
「ところで、ワンちゃんは……?どこかで迷子になったんですか」
 彼女の糖蜜的に光る目が緋鯉を射抜く。大きくカールした睫毛は重そうだが、一度二度ことも無げに俊敏に瞬いた。それから特徴的な赤い唇が弧を描く。
「あの人が見つけているわ、きっと。誰に懐くのが最良か、分かっているのね」
 |艶冶(えんや)な調子の女はまるで緋鯉に気があるふうで、彼女自身、もし自分が男であったなら惚れてしまっていただろうと仮想した。この得体の知れない美女の夫の上着はバニラの香りがしたけれど彼の妻からは甘い薔薇の香りがする。緋鯉の知っているものの匂いでいえば少し値の張るシャンプーの香りに近い。
「お嬢さんともう少しお話がしたいわ。貴女のこと、もっと教えてくださらない?ワタシ、こうして旅の途中で出会った片方のことを聞くのが好きなんですの。人は一人ひとりが一冊の本のようです。波瀾万丈な人生であろうと、ありきたりでごくごく平凡な人生であろうと。本人の口で、本人の言葉で聞くことに大きな意味があると思うんです。他人を自分の娯楽にしているということになりますけど、もしお嬢さんが快く引き受けてくださるのなら、聞かせてくださいな。ワタシの部屋で、休んでいくといいですわ」
 濃い睫毛、その下の覗き込むマロングラッセみたいな目、綻ぶ鮮やかな唇、こてんと可憐に傾ぐ首。緋鯉に対する効果は|覿面(てきめん)だ。
「は、はい!わたしの話なんかでよければ、ぜひ」
 一神夫人の笑みは深まり、眇められた目元は穏和そうに見えながらも妖しい。
 緋鯉が案内された客室は最高グレードの次の位置にありながら、地上のラグジュアリーホテルのような大部屋だった。真っ先に目に入るベッドカバーは海軍風のネイビー地に白抜きのライン、ワンポイントの赤い|(いかり)の刺繍が可愛らしい。
「素敵な部屋ですね……」
「うふふ。でも、寝る時しか出入りしませんの。ここには楽しいところが多過ぎますわ」
 彼女にソファーを促され、緋鯉は艶々と照る革張りに座った。痺れの残る膝が休みを得て、震えているのが少し恥ずかしい。
「かわいいのねぇ」
「す、すみません……」
 夫人の細められてよく潤んだ目が小刻みに痙攣している膝頭をちらと見下ろしてから穏やかに微笑むと、緋鯉の顔をを見つめ、また異なる微笑を浮かべた。思わせぶりですらあるが、彼女は夫のある身だ。何かそこには妖異な意図を覚えてしまうが、理屈で考えれば打ち消せる。しかしやはりこの美女の眼差しは理屈を上回り、夫帯しているという点のほうに疑問を抱いてしまうほどだった。緋鯉は新たな体験に怯んでしまう。そういう好意を醸されたのは異性からのみだった。だが妖婦とさえいえるこの一神の妻ならば、そこに忌避感はなかった。
「本当に、かわいい方。鮠瀬緋鯉さん……」
 たとえばいつの間にか名前を教えていたとしても、その言い方には妙な響きがあった。緋鯉は自分が名乗ったものだと錯覚した。相手の姓を知っていたのもそこに一助した。だがやはり教えていないという気もした。どういうルートかは想定していないが、オーナーの側近であることを突き止められ、迷惑のかからないように、名は言うかもしれないが氏名セットでは誰にも教えないつもりでいた。そのために同大学の学生の登場には彼女の中にある種の印象を残した。
「おもてなし、させてくださいな」
 眼前に形の良い、絵に描いたような鮮やかな唇が迫っている。

2


 甘苦い匂いから目が覚めると、|緋鯉(あかり)の視界は塞がれていた。失明したものかと彼女は内心、そして一瞬大きく焦った途端に、自身のあらゆる違和感にどれから反応していいか分からず、ただびくりと身体を震わせるだけだった。視覚は布を被っているらしくちりちりと小さな薄明かりが透けて見えるが、そもそも布の奥がそう明るくないらしい。口には大きな飴玉サイズの球体を咥えさせられていた。頬には左右とも平たいゴムのベルトが伸びている。感触がある。秋冬春に愛用しているマスクよりもきつく、また圧迫も局所的である。さらに彼女を黙らせたのは両腕の不自由ぶりだった。頭の中で手首を縛られ、固定されているから腋を晒している。それでいて脚は自由だった。寝相が良くなかったときのように腿から爪先まで強い電流が走ったように痺れる。その感覚で閃きが起こった。
 彼女は記憶を辿る。|一神(いちじん)夫妻の妻と会ったのだ―

「目が覚めたかな」
 しっとりとした麗しい声が耳元で聞こえた。囁きだったが、おそらく男だ。耳殻に吐息が当たり、緋鯉はぴくんと震える。
「スイーツビュッフェに行ってきたのだけれど、なかなか美味しそうなものには巡り会えなくてね。これは僕の好みの問題だから、君のオーナーさんに対する文句ではないよ」
 緋鯉はまたぴくりと動いた。頭上で金属の軋む音がした。
「オーナーご厚意のスイーツビュッフェということは、君を食べてもいいということだよね」
 優しい喋り方で、上品な感じがある。身動きを取ろうとするとひとつに纏められた両手がついてこない。金属が軋る。固い床に寝ているようだが、薄い布を隔てているらしい。張られているわけではなく、肌の動きに伴って皺を作っている。
「これは極上のスイーツだな」
 皮膚に触れる空気の流れが変わった気がした。胸の辺りがむず痒くなる。柔らかなもので撫でられるようだった。

 彼女はパーティー用と思しき大きなテーブルとクロスの上に寝かされていた。衣一枚纏っていない身体中にパステルカラークリームやカットフルーツが乗せられている。乳房と陰部には特に念入りなデコレーションと盛り付けがされている。その周りを長い金髪を後ろで束ねた男が練り歩く。身を縮める女に口元を寄せたり離したりして柔和に微笑している。彼は|一神(いちじん)氏だ。
 一神氏は緋鯉の胸の膨らみに巻貝のような塔を作るパステルクリームを舐め上げた。紅い舌先が可愛らしい半固体の中に埋もれた小実を転がす。
「ぅ……んっ」
 穴の空いたボールの奥で彼女は曇った声を漏らす。
「美味しいね。器がいいと、味まで好くなるのかな」
 一神氏は舌先を引っ込めくすりと笑うと、まだ肌に残るパステルカラーのクリームを舐め取っていく。だがその目的は、果たして本当にクリームをすべて舐め拭うことにあったのだろうか。尖らせた舌はなかなか舐め取れない薄紅の実に執着する。散々その突起は|左見右見(とみこうみ)させられ、上を向かされ下を向かされる。
「ぅ……ふ、………く………」
 |(くつわ)の穴から空気が抜け、声が漏れた。片方の膨らみばかり舐め|(ねぶ)られると、もう片方の胸もじんわり滲むような痺れが微かに広がった。それは膝に感じた痺れとは違う。どこか甘く、理性を試すような陶酔の類いだ。
「これは美味しそうなクランベリーだな。早速いただくとしよう」
 べとついた皮膚の上を彼の吐いた息が通り抜け、緋鯉は背筋を反らしかける。しかし次には軽く歯を立てられた。強くはないがそれでも確かな快感が脳を突き抜ける。
「は……ぅ、」
「甘いな。とても素敵なスイーツだ。まだ物足りないよ」
 彼は口を離し、形の良い長い指が唾液に照る"美味しそうなクランベリー"を摘んだ。収穫する様子はない。品質を確かめるように小さなそこを器用に揉みしだき擂りはじめた。
「もうひとつ、いただこうかな?」
「ぁ、ふ………」
 ふすぅ、ふすぅとボールギャグの通気孔が鳴る。
「うぅ……」
 もう片方のクリームは猫が水を飲むようで、クリーム全体を食らうようなことはない。しかし緋鯉にしてみれば、そこに気配が留まりながら何の刺激もないのである。多少クリームの溶けていく感触はあったかも知れない。一神氏は焦らしているのかゆっくりと肌へ近付く。その間も、すでに飾り付けを取られた"美味しそうなクランベリー"は収穫され続け、彼女の腰が揺れるのをシーツの波紋は|(つまび)らかに語る。
 一神氏はそれこそ乳を飲む嬰児の如くクリームを柔らかく食み、泡の中で伸ばした舌が緋鯉の小苺を突つく。左右のよく熟れた箇所を捉えられ脳が緩やかに蕩ける。
「ぅ、う………」
「美味しいな。最高のスイーツだよ」
 緋鯉の肢体から力が抜けると、一神氏は見守るような優しい笑みを向けた。クリームのタワーを失った突起を捏ねる指先も決して彼女に痛みは与えなかった。絶妙な加減で悦びだけが選び取られ、緋鯉を微睡みに似た浮遊感に浸していく。
「君も美味しいのかな。少し腰が揺れているね」
 ふふふ、と笑みを溢して一神氏は両の膨らみを放した。緋鯉の身体はまるで彼の肌を追うように波打つ。その様は優しく、しかしただ甘たれているだけではない、的確な厳しさを持つ指遣いを乞うているふうにも見えた。
「これは夢だよ、緋鯉ちゃん。甘美な、夢だ。キモチノイイ夢だから、すべて忘れてしまおう?」
 一神氏は不敵な微笑を絶やさぬまま緋鯉の耳元で囁いた。そして故意的に息を吹きかけ、耳珠の触れるか触れないかというところに舌を這わせる。
「ふ、………ぅ、ん」
「|耳珠(ここ)、開発したら、|耳珠(それ)だけでイきそうだけど、どうするんだい?」
 すでに一神氏へ身を委ねていたが、この囁きと蒸れた愛撫でさらに男へ身を渡してしまう。
「イきたいよね。ゆっくり深くキモチヨクなろう。かわいいね。怖くないよ。とても、キモチノイイことだけだ」
 ふふふ、とまた優雅に笑うと氏は緋鯉から轡を外した。口が自由になろうとも彼女が言葉を発するところはない。まるで睡眠中だ。ボールで開かされていた唇はそのまま開いたままで、唾液が溢れていくのが不穏な印象だった。一神氏は彼女の口元の雨漏りみたいなのを拭うと、怪しげな意匠の栓がされた小瓶を取り出して一気に|(あお)る。とろみのついた葡萄ジュースを思わせる色味が消えていく。しかし嚥下する前にその口で緋鯉の唇を塞いでしまった。彼女の後頭部には手が添えられ、わずかに角度をつけられる。口に含んだ者がそのまま飲むわけではなかった。代わりにクリームやフルーツを纏った全裸の女が飲んでいく。
 薬品染みて苦みを帯びた甘さと人工的なグレープの風味が緋鯉の鼻を通り抜け、口腔に残った。残ったのはそれだけでなく、一神氏の舌が何か紛失物を探しているかの如く彼女の中を荒らし回り、漁っていく。
「ふ………ぁ、…………」
 態度、笑み、愛撫は穏やかだが舌遣いにはギャップがあった。寝静まっている彼女の舌を叩き起こすつもりなのか絡まっては払っていく。舌同士の質感が擦れ合い、押し合い|()し合い縺れ合う。
「ぁふ……、んぁ」
 呼吸を奪っていく口付けに無意識ながら緋鯉は侵入者を拒もうとして、金属ががち、と鳴った。渦巻くような意識がさらに沈んでいくようでいて快い感覚は研ぎ澄まされていく。素肌に乗せられたクリームや果物が傷みそうなほど彼女は火照っていた。それを濡れた粘膜から敏く感じ取ったのか、氏は深過ぎるほどの接吻を解いた。シロップをひっくり返したように互いに口唇を潤わせ、蜜柱が柔らかく長さを伸ばすがやがて呆気なく切れた。
「熱くなってきちゃったかな?涼しくしてあげる。バニラとピスタチオとフランボワーズ、マーブルキャラメルもあるね。どれがいい?」
 緋鯉はぽんやりと口を半開きにして答えない。長い指が彼女の顔に張り付く毛先を除けた。
「フランボワーズがいいね。そういう気分だよ」
 一神氏はアイスクリームディッシャーで強いピンク色のシャーベットを掬うと緋鯉の臍の上に置いた。呼吸のたびに不安定で、どちらかに転がりそうだ。
「ぁっ……」
 振り落とさんばかりに暴れかける。そんな彼女の腿を摩って一神氏は宥めにかかった。
「冷たいね。女の子の身体は冷やしたらいけないよ。でも、君自身は熱くなってきたよね?」
 地肌に盛り付けられたシャーベットは結露し、接した場所は溶けはじめている。
「あ………あ、……、」
 氏は小振りなスプーンを握って、本当にデザートを愉しむようにシャーベットを食べ始めた。薄く焼かれたクッキーに添えて自身で食らったり、紅い氷菓球を削って皿にされた女に食わせたりする。些細な動きに彼女は両膝や爪先で摩擦を生む。
「ここのオーナーはとんだ美食家だな。もう他のものは食べられなくなりそうだ。君も、このキモチノイイ夢に夢中になったらイけないよ。スベテハ|虚構(ゆめ)だから。いいね?」
 彼はシャーベットを舐めながら緋鯉の首に持参のペンダントを翳した。それは珊瑚細工らしく、ピンクともオレンジともいえない色味で花が彫ってある。形からするとダリアの花かも知れない。金色の金具を挟んで黒いベルベットのベルトが艶かしい。
「|(ゆめ)のお土産だよ」
 翳して満足したかと思いきや一神氏はこの首飾りを緋鯉の首に巻いてしまった。
 目隠しと汗ばんで乱れた髪、朦朧と開いた唇、そして素肌に佇む珊瑚のペンダント。一神氏は退廃的で倒錯的な匂いも否めない女を肴にフランボワーズのシャーベットを平らげる。スプーンの裏の丸みが彼女の皮膚を撫でもすれば、微かな|(へり)が溶けたピンクの液体を集めもした。
「君に|()ったクランベリーも素敵だよ」
 シャーベットの最後の一口を放り、氏はアイスディッシャーを手に取った。小振りで洒落た形状のスプーンを咥えているのが行儀の悪そうで、この男にかかるとむしろひとつのポージングのようでもある。彼は先程は選ばれなかったキャラメルマーブルとバニラをそれぞれ掬い取ってすでにカットフルーツでモザイクアートのようになった薄いアンダーヘアの上に盛り付ける。ぶるる、と彼女の肉体が震えた。
「は、…………ぁう………っ」
「冷やしたらいけないね。けれど君、そろそろ熱くなってくる頃だろうし、いいよね?」
 パーティー用の大きなテーブルがぎしりと鳴く。一神氏の六尺はあろう身体が飛び乗っての驚嘆だった。彼は緋鯉の腿を両脇にして、彼女の秘部を越えアイスとフルーツを直接、スプーンもフォークも箸すらも通さず食べはじめた。犬食いで、彼女の茂みやその周りの柔肌を冷やされた舌が舐め摩る。
「ここにもなんだか、美味しそうな実があるね?」
 パイナップルを食み、パパイヤを食み、キューブ状の柔らかな水晶はおそらくナタデココだ。一神氏は下腹部を食い荒らすと女の果実そのものに向かっていった。敏感な箇所に吐息と生々しい体温を覚り緋鯉の肉体が|竦然(しょうぜん)とした。しかし直接そこには触れない。
「怖がらないで。痛いことも苦しいこともない。これは|幻覚(ゆめ)で、とてもキモチノイイことなのだから」
 一神氏は緋鯉の腿に頬を寄せ、その柔らかくどこよりも滑らかな内側の肉を愉しんでいる。ときには唇を押し当て、浅く吸いもした。
「ぅ………」
「くすぐったいね。そのうちぜんぶキモチヨクなる。ぜんぶ、ぜぇんぶ……」
 まだ視界の自由は許されていない緋鯉の顔を見つめ、氏は舌をべろりと出してアイスを舐める。相変わらずその目付きも声音も優しい。
「そろそろ君を食べてもいいかな」
 長い指が肉房を割り開く。熟れた果肉が男の眼前に晒され、外気に触れただけで緋鯉の息は切なく掠れた。
「ぁ、」
 彼女の身体がまた一度ぴくんと大きく揺らめいた。一神氏はその反応に気を好くする。
「触ってないのにそんな反応をして……舐めたりなんかしたら、君はどうなってしまうんだい?」
 呆れたような口調はわざとらしく、氏は嬉々としている。今の言葉は宣言に等しく、彼は悪戯を仕組んだように女の敏感な部位を舌先で転がす。
「あっ!」
 がちがちと彼女の両手首に嵌まる銀輪とその鎖、小型の鉄柱が軋んだ。身をのたうたせ、テーブルも鳴った。衣擦れも起こる。
「試食ばかりじゃ、君のご主人様に怒られてしまうかな?」
 同じ場所を唇で甘く食まれる。小さな珠を転がされているような感触がある。
「ぁ……っう、」
 微細な動きを感知される距離だった。秘肉の収縮も一神氏には伝わってしまっていることだろう。
「キモチイイね、ここは。|(ここ)は?ご主人様以外には触らせないのかな。……………僕の―|秀妻(カノジョ)のバター犬くんにも?顔見知りみたいだったけれども?あの薄ぼんやり君がなかなか君には|()い反応をするから、飼主家族としては、少し妬けるよ」
 氏は少し乾いた唇を一舐めして湿らせた。緋鯉の潤部に顔を埋めようとして何か言いたいことを思い出したらしく急に首を引いた。
「カレシくんとか、いないだろうね。いたとしてもこれは|錯覚(ゆめ)だから。悪く思ったらいけないよ。自分のことも」
 そう言って一神氏は口淫舌戯唇撫に勤しむ。
「あっ、あっ!」
 アイスが溶け、彼女の肌を滴り落ちていく。時にはカットフルーツを押し流しもした。一神氏はそれに気付くと液状化したアイスやそれに浸った果肉、緋鯉の肌、粘膜を吸った。
「キモチイイね?キモチヨくて、堪らないね……」
 催眠ではない、錯覚ではないとばかりに彼は緋鯉の果汁を啜る。じゅる、じゅる、じゅじゅじゅ……と音を立てた。
「ぁっ……ん、ん!」
 傷を舐める獣の舌遣いに似ていた。慰められた緋鯉の秘所は嗚咽するように収斂する踵はシーツを蹴り、そこだけ皺が伸びていく。やがて彼女は腰を浮かせた。足先がシーツの繊維が伸びてしまうほど張っていた。一神氏の口の中の器官が蜜膜を貫いた。
「や、ぁんんっ!」
 浮いた腰がぶるぶると小刻みに戦慄く。男を挟む膝頭もシーツを張る爪先もそうだった。ぷし、と霧吹きされたような水気が股ぐらに頭を沈めた男にかかる。
「ぁ、は………っん、」
「暫くご主人様は遊んでくれなかったのかな」
 一神氏の口元には雫群が付着し、唇には淫猥な照りがある。彼はそれに満足した様子を示して拭う。
「緋鯉ちゃん」
 視覚をほとんど塞がれた緋鯉の耳に氏の唇が寄せられる。
「想像して。これからどんなキモチヨさがクるのか。自分がどんな風に乱れちゃうのか。恥ずかしがることはないよ。これは|虚構(ゆめ)なのだから」
 長い指が彼女の目隠しを解く。どこでもないところを虚ろに凝らしている潤んだ目が現れた。意識があるのかないのかも分からない。
「君はイイ子だから、もうイこうね」
「あっ………」
 蕩けるような穏やかな美声と耳珠を責める舌先、耳裏に引っ掛けられた唇。それらを受けて緋鯉の両胸の先はつんと上を向いて勃っていた。
「|乳首(こっち)の相手もしてあげなきゃいけないね」
 艶出しの塗られたらしき爪を乗せた指が同時にキュッと彼女の凝り二点を摘んだ。
「ゃっ、あんっ!」
 吃驚したか、突沸的な快楽を得たかして彼女は胸元まで身体を浮かせた。一神氏はただ不敵に笑い、口を閉じる気力もない唇を吸った。
「甘いね」
 キスをしながら彼は細かく緋鯉の両胸を捏ねた。
「ぁっあっ……んぅ…………」
 互いの口腔に舌が架かる。口角と二枚の舌の狭間から唾液がとろとろと滴り落ちていく。
「ふ………ぁ、んっ、んんっ……………ンく、」
 凍えたように震えて緋鯉は緩やかに、しかし深く睡魔に似た悦びに透けていくようだった。勢いのないエクスタシーは肉体的な快楽というよりも不穏な幸福感に近い。
「……僕も我慢できなくなってきてしまったよ」
 妖しく光る蜜紐を自ら千切って彼はいくらか余裕のない微笑を見せる。冷ややかな態度でありながら確かに一神氏の脚と脚の間には張り詰めた影があった。
 彼の手は口でしか愛撫しなかった秘園に伸ばされる。細くもしっかりした指が陰溝に割り入り、蜜を溜めた窪みに進んでいく。
「は、ぁ………あぅ……」
「痛くはないと思うけれど、痛いかな。少しきついようだからね。しっかり慣らそうか。キズモノには……………」
 一神氏の指は緋鯉の狭肉の機嫌を窺いながら侵入していたが、停止したかと思うと、この部屋の扉を鋭く睨んだ。両開きのドアの片方だけが徐ろに動いた。
「挿れたらイケナイのかな」
 入ってきた人物の反応を見て、一神氏は微苦笑した。
「こんなに昂っておいて……」
 ぐちゅぐちゅ、と緋鯉の潤肉が掻き混ぜられた。入室者に見せつけるようでもある。
「あっ、あっ、あっあん!」
「挿れたらダメなんだって。だから指だけでキモチヨくなってね」
 指の侵攻は再開し、数も増える。
「やっ、やっあ、ぁんっ」
 薄く汗を滲ませて腰を上げ、膝を開いていく女の様相に一神氏はくくく、と今度は邪悪なところのある笑みを浮かべた。彼の指が出入りするたびに緋鯉の隘路は|繁吹(しぶ)いた。
「あ、あ、あ、ああああっん!」
「今になって|媚薬(ポーション)が効いてきたのかい?大変だね」
「や、あっああああ、!変なの、クる、………!」
 緋鯉は自由にならない腕を動かした。淫靡な水音に鈍い金属音が加わる。響き方からいうと部屋はそう広くはないようだ。
「指だけで、|絶頂(さいご)までキモチヨくなろうね」
 感じてしまうスポットを的確に撫で突かれ、緋鯉は腰をかくかく震わせた。膝は開き、快感を受け取ることに躊躇いはない。
「あ、あ、あ、あああ、やぁんッ」
「イって」
 一神氏の声が柔らかなものから威圧的な低さに変わる。氏の指が彼女の中を抉ると、応えるように液体が噴く。緋鯉の下肢は痙攣を起こし、ぴしゃしゃっ、と水が撥ねた。
「緋鯉ちゃんの|快感(ハメ)ジュースが出ちゃったね」
 笑いながらもまだ彼は指淫する。びゅ、びゅ、と透明な液体がシーツの色を変えた。
「だめ、だめ、だめ………っぁ、ぁひ、」
 見ているだけで哀れなほどに膝を揺らし、それでいて緋鯉の肉蜜甕はしとどに濡れた男の二指を食い締めた。徐々に抽送が治まっても緋鯉の淫唇は氏の指を咀嚼し舐めしゃぶるのをやめず、咥えようと必死だった。
「かわいい……|挿入(さいご)までしたかったな」
 彼は最後とばかりに緋鯉の弱いところを撫でた。
「ぁひ、んっ」
「緋鯉ちゃん。これは|(ゆめ)だよ?だから現実で会おうね」
 ぴく、ぴく、と刺身にされたばかりの魚みたいに彼女の肉体はところどころ引き攣った。それでいて意識はすでに無いようだった。
「おやすみ、緋鯉―なんて、ご主人様が怒るかな。それとも怒るのはあのバター犬くんかな」
 緋鯉の果汁に濡れた手を舐め上げ、氏は満足そうだった。弛緩した肢体を眺め、それから金具を外した。
「すべては、一瞬の夢だよ」
 気を失った全裸に珊瑚細工のペンダントの女を抱き上げ、その額に唇を落とす。


 肩がぴく、と跳ねて緋鯉は目を覚ました。石鹸の柔らかな香りに包まれているが、石鹸そのものの香りではなく、あくまで再現された匂いだった。そこには別の要素の匂いも混ざっている。そしてそれは洗剤だけではなく、他人の家庭の匂いだとか。
 消灯された暗い部屋かと思いきや、緋鯉は手が届きそうなほどの距離にある頭上から光が漏れているのを見つけた。水平線のように直線上だった。起き上がる。彼女はバンダチに似た横長で上蓋の収納家具の中に寝ていた。黒いフード付きのスウェットシャツとデニムジャケットを着て、下半身はボンディングパンツを1枚だけ履いているところにこの船の刺繍が入った厚手のバスタオルをパレオ代わりに巻いていた。
 彼女はふいと自分のいる場所を見る。月明かりだけを頼りにした部屋で、すでに夜であることを知る。そういう中に炙り出される人影が振り返った。目の前に立っている。第一印象は|蝙蝠(こうもり)だった。マントを羽織っている。胸元のストライプのリボンとグリーンのウェストコート、異国の祭りを思わせる仮面がそこに認められた。艶やかな黒髪に月の輪を携えている。
「誰……?」
 自分はここで何をしているのか、もう夜なのか、その他さまざまに疑問が浮かんだけれども、まずは視界に入った奇妙な人物を|誰何(すいか)してしまう。それは勝手に口をついて出ていた。
「助けてって言ったよね」
 この声を知っていた。布を放り投げられ、広げてみると濃いピンク色のロングスカートだった。この船に持ち込んだ緋鯉の私服のひとつだ。何故それがここにあるのか、また新たな疑問が追加される。
「迎えに来るから待ってて」
 彼はまだ家具の中に入っている緋鯉の前に屈んで目線を合わせた。白い手袋が彼女の首に添わる。
「あとこれは貰っていく」
 緋鯉には何がなんだか分からなかった。鎖骨のあたりで珍奇な風采の知らないわけではない人物は何か掴んでいる。簡単に引っ張り、彼女は首が軽くなるのを感じた。離れた白い手袋にはゴールドの金具と黒いビロード生地のベルトが垂れた。

○【TL】怪盗キッスとストロベリー

○【TL】怪盗キッスとストロベリー

大金持ちの家でアルバイトする大学生女子と怪盗()の同大学生男子。

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 成人向け
  • 強い性的表現
  • 強い反社会的表現
更新日
登録日
2023-12-16

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