霞ゆく夢の続きを(5)

霞ゆく夢の続きを(5)

(36)

「おい赤井、ボーッと突っ立って、どうした。魂が抜けちまったのか。まさかウチの古女房(ふるにょうぼう)見惚(みと)れて釘付けになってるわけじゃあるまいな」
「いえ、ちょっと‥‥‥」
「夏空や身は空蝉(うつせみ)の心地して‥‥‥ってか? 気取るなよ。いつから俳人になったんだ。虚脱状態か。そういうところがO型なんだよな」
 いつの間にかO型にされている。前々からO型のような気はしているが、調べたことがないので自分の血液型は知らない。勝手に決めつけんなよ。
「コイツ、家内な」
「よろしくね」
 赤井君はその時はじめてタコ女の生の声を聞いた。鈴を転がすような声。あの女と同じ声だ、幻覚のなかで見たあの女と。声がそっくり‥‥‥‥それって単なる偶然なんだろうか。最初に駅で見かけた女の記憶が鮮明に甦ってくる。頭のなかに吊り下げられた無数の鈴が一斉に鳴り始める。やっぱりこの女の声だ。間違いない。
 駅、そしてあの怪しいボックスの中で見た、散らばった彼女の映像と感覚の欠片。それらピースの一つ一つを掻き集め、無意識に合成しようとしている自分がここにいる。ピースが埋まっていくにしたがって、平面に過ぎなかった彼女の記憶が徐々に立体化していく。
 誰かに似ている‥‥‥‥赤井君はその時初めて、そのことに気づいた。誰だったけな、カナちゃんじゃないし‥‥‥‥
「赤井です。初めまして‥‥‥‥‥でもないですね」
「赤井っていうのペンネームよね、本名は何ていうのかしら」
「いえ、名乗るほどの者では」
 花ビラと蝶がまだ彼女の周囲に舞っている。花色がいまだ(あた)りを染め上げている。高まる鼓動が彼女に聞こえてしまうのではないかと、なぜか気恥ずかしくなった。
「なにかお侍さんみたいなセリフ回し‥‥‥‥時代劇のドラマシリーズでも好きだったの? 時代劇、今は少なくなっちゃったわね」
「CSにまだ時代劇専用チャンネルがありますよ」
 赤井君がそう言うと、彼女の顔に涼しげな微笑みの花が咲いた。神秘の微笑みとでも形容すべきか。細い茎と葉を風に揺らす、爽やかなコスモスのイメージが、そのまま口許に漂っている。ひんやりと気持ちよさそうなそよ風が、(ささや)きとなって僕の心を吹き抜けていく。二人を結ぶ風の通り路ができる。笑みの余韻が蝶となって、風にまかせてヒラヒラ舞っている。花の香りが何もかも輝いていた幼い日々に自分を連れ戻す。
 思わず僕はこの場面を切り取り、描きだす。カンバスの照り返しと絵の具の匂い。まるで絵本の中にいるかのようだ。この美しい女のどこがオバタリアンなのだ、冗談はよしてくれ、箱村さん。射抜かれてしまいそうだ。
 

 あ、思い出した。母だ。この声だ。むろん生き写しとまではいかないが、彼女は声と容姿がどことなく母に似ている。遠い昔でもう記憶があやふやになっている母の顔。
 こうして彼女の顔をまじまじと見つめていると、ゲシュタルト崩壊が起こったのか、各パーツがバラバラに知覚され全体性を失っていく。それら散らばった顔の断片が、幼き淡い想い出のフィルターを通して、()め絵さながら、忘れかけた母の顔に再構成されていくのが分かる。
 僕は意図的に母の顔の輪郭をほどいて彼女の顔に編み直しているのだろうか。
 ああ、もう二度と聞けなくなってしまった、母のあの「おかえり」という声が聞きたい。そこには手の平にのった蛍のような、(いと)おしい家庭の灯りと(ぬく)もりがあった。もしかしてこの人は母の生まれ変わり? 違うな。母が死んだ時には、彼女は既にこの世に生まれ出てきているはず。
 母が死んで十数年たつ。いまだにしつこく母親の死後の軌跡をなぞりながら生きている赤井君である。
「いいんだよ、赤井はペンネームの赤井のままで!」
 箱村が割り込んで二人の会話を遮ったため、我に返った。
 なぜだか分からないが虫の居所が悪そうな顔だ。なにが気に食わないのだろう。のっけから窮屈な雰囲気だ。
「ペンネームのままでいいって、どういうことなの? そんな失礼なこと‥‥‥なに子供みたいにぐずってるの? この人、大きな図体のくせして、いい子いい子って、あやしてもらいたいのかしらねぇ」
‥‥‥おっと、アナタみたいに美しい人にそんな憎まれ口は似合わない。
 彼女の言葉に箱村はグッと苛立ちを押し殺し、努めて平静を装ってこう返す。
「いやな、コイツは人との付き合いがほとんどないんだ。顔見知りは俺と花菱ぐらいだよ。二人はいつも赤井、赤井となぜか小説のペンネーム呼ぶ。だからもう自分の本名なんて忘れてるかと思ってよぉ」
 いかにも取ってつけたような屁理屈だ。それだけでも感情を抑えているのが感じとれる。
「でも‥‥‥」と彼女はまだ納得がいかなそうだ。
「だから、いいって言ってんだろう。コイツの本名が振り仮名をつけなきゃ読めないようなキラキラネームだと思うのか。ありふれた名前で、お前だって聞いてもすぐ忘れちゃうよ。な、赤井、お前もそれでいいよな」
「そりゃいいですよ、お好きな方で呼んでもらえば」
「どうだ、素直でいい子だろう。ニューフェイスだよ。ちっこくて可愛いしな。ただしね、山椒は小粒でもピリリと辛いって言うけどコイツはチビでもちっとも辛くなくて甘々で危なっかしいんだ。こう並んでみると、さすがに女のお前よりちっとは背が高そうだな。おい赤井、お前は背丈の低いホビホビだけど、顔ならイケメンの俺に負けてないぞ。顔といったって大きさのことだけどよぉ。その顔のデカさ、はみ出しちゃって顔認証もできないんじゃね?」
 箱村はそう言うや高笑いを宙に響かせた。何をおちょろけてるんだろうか。
 それから彼女に向かって、
「な、コイツこんなこと言われても腹たてないだろう。若いくせに自分の容姿に執着していないんだ。大したもんだよ、悟ってるんだ。腹が立つことがあっても、体から脱け出して魂だけになることができるから、平気なんじゃないかと思うぜ。癒し系の権化(ごんげ)だ。そうさなぁ、家電に例えればだな‥‥‥」
「いいわ、もう例えなくて! 赤井さん、ごめんなさい」
 彼女が済まなそうな目線をこちらに送る。箱村の横柄な言い草に驚いて、ドギマギした表情だ。恐縮している。
「家電に例えりゃ冷蔵庫だな。どんな怒りやイライラも急速冷凍、癒し系ならぬ()やし系‥‥‥なんちゃって。鈍臭くても人柄だけはいいから、いっしょに連れて歩くとハンディファンみたいに感じのいい風も送ってくれる。ちょっと(しこ)りがあるときに(ほぐ)してもらうのにちょうどよい人柄だよ。言ってみりゃ、俺の人生ドラマの脇役みてぇなもんだな。俺の金魚の(ふん)‥‥‥おっと失言、俺の理想的なカバン持ちだぜぇ」
 冷蔵庫やらハンディファンやらと次から次へよくペラペラと口をついて出てくるもんだ。それにしても鞄持ちとは。いよいよ本格的に部下にされてしまったようだ。まあ太鼓持ちと言われるよりは幾らかましか。
「え?」
 と、一瞬彼女が戸惑った顔をする。
「驚くこたねぇ。俺だって半分お前の家来じゃねぇか。年下のコイツが俺の家来だったとしても別におかしかぁないだろ?」
 自虐ネタでいい味を出したつもりなのだろうか。平静を取り戻しつつあるらしい。箱村はまったりとした表情を崩さない。僕を自虐ネタの道づれにしないでもらいたいものだ。
「赤井さん、この人といると大変でしょう? ごめんなさいね。いい加減、わたしは振り回されるのに慣れたけど」
 しばらくしてソムリエらしき男が席にやって来て、「アペリティフは何にされますか? お食事前にシャンパーニュなどはいかがでしょうか」と訊いてきた。遺影のように顔に笑顔が貼りついている。
 ───何、訳のわからない外来語をくっちゃべってんだ。シャンプーはいかがだって? お前がカナちゃんみたいに頭を洗ってくれると言うのか。野郎は嫌だよ、野郎は。
 そうお馬鹿丸出しなことを考えながら、カナちゃんの面影がどんどん霞んでいくのを感じる赤井君である。箱村の奥さんの美しさを目の前にしては無理からぬことだ。
「そうね、シェリーで」
「かしこまりました」
 そつ無く返す彼女。手馴れたものだ。その一挙手一投足に、早朝あけゆく空を眺めているような、心がすがすがしく晴れ渡っていく思いの赤井君である。
「俺は水でいい。それからコイツにはオレンジジュースな。いっそボトルごと持ってきてくれ。野菜や果物もたっぷりとな。コイツは特別メニューだ。普段くってねぇだろうからよ」
 と、箱村は僕の意向もきかず勝手に決める。特別メニュー? 何とも図々しい。そんなのが通るんだろうか。
「赤井、今日は食えよ、遠慮すんなよ」
「ご馳走になります。かたじけない」
「あら? またお侍さんになってる」
 彼女が再び微笑んだ。そよ風が花を揺らし花粉を散らす。微笑みが宙を舞う。すべてを見透かされているような微笑だ。心の底の悪魔を知られまいといくら避けども、どうしても惹きつけられてしまうモナリザの謎の微笑。
 なんという魅惑的な笑顔だろう。笑顔の周囲にまばゆい光を感じる。陽だまりのようだ。完全に魅了されちまった。
 それにしても“かたじけない”が口から出るとは。情けない、まだ相当緊張しているな。
「赤井、おまえジャンクフードしか食ってないだろう。フライドチキンばっか食ってんじゃねぇぞ、野菜や果物もいっぱい食わなきゃな。しまいにゃカーネル・サンダース人形みてぇに道頓堀川に投げ込まれるぞ」
 あん? なんのこっちゃ。それで面白い事を言ったつもりなんだろうか。どっ(ちら)けぇ〜~~~。
「どうしたお前ら。ここ、抱腹絶倒ポイントだぞ」
 と、箱村は笑いの押し売りである。
 赤井君はなんとか愛想笑いで答えたが、彼女は全くの無反応。軽蔑の色すらうかがえる。そんな彼女に向かって箱村が当てこする。
「なんだ、今日はえらく(めか)しこんでるな。ふん、若みえメイクか。この夕食会はオシャレするための口実か。これからお前のディナーショーでもはじまるのか。それに何てエモい顔してんだ。そんな顔すんな。なんで赤井に向かって余所行(よそゆ)き声なんだよ。いつもより半音高いんだよ、半音。普段通り話せ、普段通りに。上品に見せようとするほど、かえって下品に見えるぞ」
 彼女にギャグが受けなかった腹いせだろうか、ずいぶんと居丈高(いたけだか)な物言いだ。もしかして彼女の投げかける僕への微笑みに嫉妬したのかもしれない。
「悪いの?」
 確かに今の声、半音下がった───と、思わず心の五線譜に音符を書きこんでしまう赤井君である。
「悪かない、身だしなみだからな。悪かないけど、それってファッションショーだろ。そんな短いスカートはいて。これからお立ち台で扇子もって踊るつもりなんか。それ、ド派手ババアの狂い咲きだぞ」
 ───この美しい人を前にして、いくらなんでもババアはないだろう。
赤井君は箱村の言葉に多少イラつく。
「その短いの何とかならんのか、目のやり場に困るじゃねえか。赤井が発情したらどうすんだ。女は中身が肝心なんだよ、中身が。包装紙に金かけてどうすんだ。そんなに色気だしたいんなら、家で出せ。たまには俺のために化粧しろ。パジャマじゃなくてランジェリーぐらい着て寝ろや」
 今度は彼女が箱村の憎まれ口タラタラにカチンときた顔をする。
「大きなお世話よ」
 語尾が震えている。(わめ)き散らしたいところを、じっと抑えているに相違ない。
「いくら化粧して露出度あげたところでさ、俺らの小説みてぇにヌカに釘だな。いくら美しい言葉で飾りたてたってよォ、どいつもこいつも感性がパサパサ。誰の心にもぜんぜん響かねぇ。日本人は全員、ジジババ化しちまった。赤井、俺たちのセンスがピタッとはまる世の中にはもうなってくれそうもないぜ。おい、いくら化粧に凝ったところでよ、性欲モリモリ野郎がここにいなけりゃ駄目の皮だぞ。俺は爺さん、赤井はノホホンとインポ顔‥‥‥あ~あ、誰かさんも精が無くなりますこって」
 彼女は仏頂面のまま、あえて箱村の悪態を意に介さないふりをしている。口は真一文字、無言だ。ますますギスギスした空気になってきた。先ほどから二人は鋭角の目立つやり取りを続けて(はばか)らない。火消し役にならなきゃあ。さりげなく話題を変えて何とかクールダウンさせないと‥‥‥。
 二人の間に挟まり、平常心を失う赤井君。翻弄されている。すっかり巻き込まれてしまった様子だ。自分の顔がこわばっているのが分かる。中古パソコンのように固まっちまった。随意筋が不随意筋に早変わりしている。こんなときは固まった表情筋をいい具合に調節するのに難儀する。
 あえて冷静さを装い、ぎこちない作り笑顔で「また遇いましたね」と水を向けると、
「そうね」
 と彼女もあっさり認めた。
「お前ら遇ったことがあんのか」
 箱村が頭のてっぺんから調子はずれの声を出す。顔に驚きの表情を浮かべている。
「あるわよ、二回。一回目は遠くから、二回目は近くから。話したのは今日が初めてだけど」と彼女。
 二回? はて、どういうこと? ───と赤井君が意味をつかみかねていると、 
「こりゃまた、びっくり、ぎっくり、坊主めくりだ」
 箱村が間の抜けた声をあげる。
「また変な語呂合わせ、言ってる。それを言うなら、驚き桃の木山椒(さんしょう)の木でしょう」
 彼女は邪険に突き放す。
「どっちでもいいよなあ、そうだろ赤井。そんな陳腐なのより俺のがよっぽどオリジナリティーがある」
 ♪(しら)け鳥、飛んでいく南の空へ~~。みじめ、みじめぇ~~♬ アンタは小松政夫かぁ! (・_・) ン? ダレ?
「それにしても、お前らが遇ったことあるなんて、おったまげたぜ」と箱村。
 そんな箱村を彼女は無機質に冷たくあしらう。
「ごめんなさい。この人、アホなの」
「いえ、そんな」
「で、お前ら、まだ話したことがなかったってことは、ただ目と目が合っただけのことか。なんかの歌であったな、♪目と目が合ったらミ~ラクル‥‥‥‥(^^♪)」
 相変わらずひどい音痴だ。ともあれクールダウンは成功したようだ。ひとまず脱力する赤井君である。
「箱村さん、それ、竹内まりやでしょう」
「赤井、お前は懐メロよく知ってんなあ。この曲はどうなんだ、そんなに古くないのか?」
「そんなデカい声はりあげて歌わないでよ。ああ恥ずかしい。馬鹿まる出しじゃないの。馬鹿だからしょうがないけど‥‥‥」
「いいじゃねえか、いちいち目くじらを立てるなよ。歌は世につれ世は歌につれだ。最近の曲は何が何だか分かんねえ。世の中も変わっちまったな。歌謡曲は古いのに限るよ。若い頃のときめきや夢をいっしょに運んで来てくれるからな。懐メロという名のタイムマシンに乗れば、楽しかったあの頃に帰れるんだ。いいよなぁ、懐メロはいいよなぁ、懐メロは思い出動画を再生してくれるもんなぁ。メロディーに乗って時間旅行だ。若い頃の竹内まりやとデュエットしようや。若かりし俺たちにも会えるしな。おい、若い頃はよかったな。なあ、お前と俺の楽しい思い出も一杯あってよぉ。昭和はよかったよな。いつの間に昭和はあんな遠くに行っちまったんだろう、昨日のことみたいに思えるのによ。時計の針を戻せないかなぁ。お前と俺は一心同体だった。互いのソウルを貼り付けちゃってもいいぐらいだ。俺たちゃ、二つの体が合体して一つになってもやってけんじゃねえの? なあ」
 箱村の問いかけに、彼女は黙って答えようとしない。態度は冷ややかなままだ。“何でアンタの体と一緒にならなきゃいけないの、気色悪い”ってな顔をしている。
 それも無理もない。男は過去が大事、女は今が大事。男が悠長に過去に浸っている間も、生活者である女はしっかり今の現実に生きている。
「なあ赤井、お前は男だから理解してくれるよな、この気持ち」
 と、赤井君がそれに答えるのを遮り彼女が、
「ちょっと前に生まれたばかりの赤井さんに昭和にタイムリープした話をしてもピンとくるはずないじゃないの!」
 箱村は妻のつれない態度と発言にムッとした様子で、
「まぁそれはさておき、お前、赤井に色目つかうなよ。いくら目と目が合ったらミラクルったって、まだオボコだ。そのうえコイツは真っ先に結婚詐欺に引っかかる口ときてる。もう甘々でなあ。たらし込むなよ、いいか」
 ジョークなのか本気なのか、先ほどから箱村は棘のある際どい言葉の連発だ。道連れになって地雷原を歩くのは嫌だよ。さすがの奥さんも、そろそろ臨界点に達するぞ。ビッグバンでも起こるんじゃないか。おお、怖い怖い。
 箱村は男も女も、親しい間柄なら全部『お前』ですましているようだ。いや待てよ、僕も初対面から『お前』って呼ばれてたな。ふつう初対面なら、年下でも慣れるまで敬語ぐらい使うもんだが。
 親しいも親しくないも関係ないんだ。名前もずっと赤井と呼び捨てだし。会った人には誰でもかれでも『お前』なんだな。相手によって投げる球種を使い分ける人ではないんだ。なかなか図太い神経だ。こういう分け隔てのないところは人間が大きい。図体のわりにやたら気の小さいとこもあるくせに。
 ───なんだオッサン、あんたはいつも俺、俺と連呼するから「オレオレ詐欺」野郎だと警戒していたら、実は間抜けな「オマエオマエ」野郎だったんだ。いつも騙されるのはアホなアンタのほうなんだ。
 と、口に出せないほど下らない妄言を心に描いては、笑い出しそうになる赤井君である。江戸っ子は五月の鯉の吹流し。無礼な口をききながら、腹の中は風が通るだけでサッパリしている。箱村さん、博多っ子も似たようなもんなんですね。
 人は(うわ)(つら)の言葉遣いや態度で本質を見誤る。色眼鏡をかけてアイツはどうのコイツはどうのと言ってはいるが、それはたんに先入観に色づけされているだけのこと。大事なのは言葉遣いや態度の底流に何があるかということだ。その人の心の底に流れる川の水は、温かいのか冷たいのか。それが本質、それが全てなのである。
 これは名の知れた会社や組織だっておんなじことだ。そこに流れている血液は温かいのか冷たいのか。見た目や評判は当てにならない。実際に自分の手の平で感じてみなければ分からない。温かいのか冷たいのか、肌にふれて確かめてみなければ分からない。さて、僕が小説を送り続けているその場所は、はたしてそのどちら側なんだろうか。
 すると不意に、どういう訳かアイツのことを思い出した。アイツというのは、言わずと知れたアイツのことだ。そう、お手製の小説を作るために小学校の印刷機を使わせてくれたアイツ。アイツも福岡県職員である以上、いっぱしの組織人である。アイツの属している組織はどちら側なのだろうか。温かいのか冷たいのか。ふとそう思う赤井君である。

(37)

 朝の巨大な瞼がゆっくりと開いた。それは印刷機を使わせてもらいに行った、あの日のことだ。
 未明。まだあたりは薄暗い。だだっ広い無人駅とでも形容したらいいのだろうか。昼間ならさぞや(かまびす)しかろうマンモス小学校も、早朝ともなれば、こうして眺めみる校庭が闇に浮かび上がる無声映画のように思えてくる。観客はこのだだっ広い学び舎の中にアイツと僕の二人だけだ。
「おい、暗いから足許に気をつけろよ」
 懐中電灯をかざしながら進むアイツの後ろに続く。
「君はいつもこんなに早く出勤するのかい?」
 そう訊いたのはチビの片割れだ。その音声がモノクロサイレント映画の中に一点、色彩をつけた。
「ああ、どういうわけか校舎の入り口のロックを解除する役目が自分になっちまってな」
 それにしてもこうも静かだと、空気のこすれる音さえ聞こえてきそうだ。
「警備員さんはいないの?」
「いまどき学校に警備員さんを配置する予算なんてあるかよ。警備会社に完全委託だ。ホントはこんなの校長か教頭がしなきゃいけないんだろうけどね。いつも僕が開けるから、たぶん解除する暗証番号も忘れちゃってるんじゃないだろうかね、お気楽なもんだ」
 ロックを解除して校舎内に入る。懐中電灯を頼りに廊下を進み、事務室に入る。事務室に入るとアイツが何かのスイッチを入れた。途端に周囲が明るくなる。
「これで普段はパッとしない僕たちも脚光を浴びることになったわけだ」
 洒落たことを言ったつもりなのだろうか、見ればアイツは得意顔である。
「このパネルで学校中の照明を管理できるんだ。スゲーだろう。この緑のランプが点いていたら、そこは点灯しているってことだ。ほら、いま事務室のところだけ緑で他はみんな赤だろう。これをだな‥‥‥‥」
 と言いながら、彼は他の場所のボタンを次々と押して赤ランプを緑にしていく。
「どうだ、学校内の照明という照明がどんどん点いていくんだ。お前、ちょっとこの部屋を出て見てみろ。廊下の照明はもちろんのこと、各教室のなかまで薄っすらと明かりが届くんだ。正面玄関前にソテツだかフェニックスだか何か分かんない、椰子(やし)の樹のお化けみたいなのが植わってるだろう。そこに、これまたデカい水銀灯がヌッとたってるよな。あれが照らすんだ。照明はぜんぶ事務室で集中管理だよ。おかげで児童や教職員が消し忘れても、わざわざ消しにいくには及ばない。ここで切りゃいいんだ、ここで。おい、ちょっと表に出て見てみろ、きれいだから」
 アイツはさも自分の家であるかのように、自慢してみせる。お前がその設備を作ったわけじゃあるまいに。作ったのは請負業者(うけおいぎょうしゃ)サンで、金は税金でっしゃろ。
「そ、そんなことより早く印刷機をかして。もう消しちゃってくれ、誰かが来ると困るから」
「こんな真っ暗なときに誰も来るもんか」

 明るくなったとはいえ校舎内は依然うら寂しく閑散としていて、幽霊でも出てきそうだ。どこか‥‥‥教室か、体育館か、理科準備室なんかで惨劇でも起きていそうな雰囲気である。
「もういい、分かった分かった。消しちゃって」
「そうなのかぁ。きれいなんだけどな」
 なんだか不満そうだ。アイツが緑ランプをどんどん赤に落していき、また辺りが暗くなっていく。
「一番乗りの御出勤なんて、なかなか真面目じゃないか。胡麻(ごま)スリスリかい?」
「馬鹿いえ。最果ての地に飛ばされてる僕が、なんで胡麻なんかすりゃなきゃいけないんだ。だいいち校長には管理権はあっても人事権はないんだ。いやね、早朝はガヤガヤ雑音が入らないし、電話もかかってこないから仕事がはかどるんだよ。八時間で全部やろうとするから慌てふためくんだ。朝を利用すりゃ、ちょうどいいぐらいの仕事量になるのにね。この仕事、自分のペースで何でもできるのがいい。狭い事務室ながら一国一城の主はいいよ」
 お世辞にも広いとは言えない部屋に事務机が四つ、あと書庫と金庫とコピー機とやたらデカくて目立つホワイトボード───めぼしい備品はそれぐらいだ。二人いるだけでもこれだけ手狭なのに、日中、職員や児童や来客など多くの人が入室すれば、ますます狭く感じられることだろう。
 ホワイトボードには月間スケジュールが、コイツの字かどうかは知らないが、ひどい悪筆でぎっしり書きこまれている。部外者に見せるものではないにせよ、こんなんで後から読みかえして理解できるのだろうか。
 辛うじてエアコンは設置されているものの、花が活けてあるわけでもなく、絵画が掛けてあるわけでもなく、殺伐としていてとても理想的な勤務環境とはいえない。
「あとの机は誰の?」
「ああ、市役所職員の人と、臨時のオバチャンと、シルバー人材センターの校務員の爺さん。三人とも年上だけど上下関係はないな、相棒だよ。三人は勤務時間ぎりぎりにこの部屋に飛び込んでくる。それでも通るんだよ、なんせタイムカードがないからね。いまだに来たら出勤簿に印鑑を押すんだ。やっぱり親方日の丸だな、時代錯誤も(はなは)だしい」
「校長はどんな人? 見つかったら超ヤバイ人なんじゃないの?」
「人のいいタダの初老のオッチャンだよ。オッチャンが背広を着て歩いているだけだ。市町村の教育長になろうとか、県に行って偉くなりたいとか、そういう欲がまるでない。“子供、命”ってな感じの人だ。子供をどう教育したらいいか、それしか考えていない。寛大で教育者に一番むいているタイプだな。安心しな、立派な人ほど頭が低いの典型だよ。“実るほど(こうべ)を垂るる稲穂かな”と言うだろう。あれだよ、あれ。むやみに人の罪を暴きたてたりしない」
「君はどうしてここで働いてるんだ。君は県庁の教育委員会で事務作業してただろう? そっちの方がいいんじゃないの? 君だって少しは偉そうに見えるじゃないか、対面上」
「おいおい、世間体のこと言ってんのか。未熟だな、呆れたねぇ。外から僕たち、そんなふうに見えてるのかな? そりゃ意外だ。部外者は何にも分かってないんだな」
「そうなのかい?」
「中に入って潰されそうになってみりゃ分かるさ。すべては見かけ通りじゃない。外から見るのと中にいるのとは大違いなんだ。違わない神経の図太い愚物も、そりゃいるがね。人というのは往々にして自分が幸せになることより、自分を幸せだと人に思わせるために無駄な努力をするだろう。そんな努力がかえって幸せから遠ざけている。それを自覚していない奴が世間体を過度に気にして、県では県庁にいる者が一番偉いんだなんて錯覚するんだよ。いつも見栄のメガネで見ているから本質が見えないんだ」
「それ、夫婦なんかにもいえるかな。幸福な夫婦生活を送ってないのに、対外的には努めて仲のいいカップルを演じて見せる、いわゆる仮面夫婦なんてのがいるよね」
「いるだろう、あれさ。内実は違うのさ。県の職員なんて、中に入ったらどこへ行こうがおんなじなんだ。給料も同じだよ。給料が同じならプレッシャーの小さい職場のほうがいいじゃないか。ま、どこへ行こうと公務員への目が厳しい今の世の中、それなりのストレスに苦しむことになるけどな」
「なるほど」
「そこに組織があれば、必ず支配される者と支配する者とが生まれる。いいかえれば損する者と得する者だな。得する者がいるのは損する者がいるおかげだ。僕はどこまでいっても損するタイプだよ。得するタイプは人格がちょっと異質な奴でないとな、そういう奴でないとなれない。組織とはそういうところじゃないのかな。だけど同じ組織でもこっちの方が温かい。不思議だ。組織は小さければ小さいほど温かい、下に行けば行くほど温かい、中心から離れれば離れるほど温かい。ひがみに聞こえるだろうが、それと反対に品性下劣な奴ほど中枢に上りつめていく───僕が今まで接した連中から推察すると、県というのはそういう逆立ちした組織だよ」
「で、くどいけど何で今ここで働いてるの?」
「何でって、僕が決めたことじゃないんで分かるわけないじゃないか。地方公務員なんて、とくに若いうちは指示されたことをより正確かつ迅速に再現できる奴ほど評価される。たぶん言われた通りにしなかったせいだろうな。だから怒鳴られまくった。使えない奴だったんだろうぜ。どんどん端っこに追いやられ、流れ流れて今ここにいる。ここは最果ての職場だから、これ以上向こうに追いやれないよな。ざまあみろだ。似た仲間は一杯いるから別に淋しいことはないよ。どこにいようと公務員は安定してるしな。組織にいれば、そりゃ理不尽だと思うことにも加担しなければいけない。それは分かる。だけどその理不尽さに本心から染まってしまうかどうかは当人の魂の清らかさによるな。本人次第だ。公務員は悪いことをしない限りクビにはならない。地方公務員も仕事に疑問を投じたり、別のやり方を考えだしたり、改善点を主張したりする奴らがもっと日の目を見るようにならなきゃ、どんどん沈没していくよ。こんなペーペーが言ったって誰もきいちゃくれないだろうがね」
「どうしてその公務員様でもクビになりかねない悪事を僕なんかのために働いてくれるんだい」
「ああ印刷機のことか。いいってことよ。だってお互いたった一人の友達だったじゃないか。心のうちを警戒せずに吐露できるのはお前ひとりだったからな。学生時代、一番やさしかったよ。その恩返しだ。何があったか知らないが、途中で休学しちゃっただろう。宙ぶらりんのまま一体何年大学にいるつもりだ? 今のお前はあまりにも気の毒だ、だからだよ」
「それだけの理由で? でも、いいのか? スターリンは“最も信頼できそうな人が最も疑わしい”と言っていたそうだ。僕だって何かの拍子にペラペラと───」
「悪趣味な冗談を言うなよ。お前の悪い癖だ。(ちぢ)みあがるじゃないか。僕はただ自分の限界というものを分からせてやりたいだけなんだ。そのために敢えてお前に、現実がどんなものか思い知らせてあげようと(たくら)んだのさ。これは友情としてだ」
「友情?」
「そう、友情だ。採用されたての頃、いっぱい煮え湯を飲まされたよ。社会人になればゾッとするぐらい汚い奴らと関わらなければならなくなる。そのとき悟ったんだ。こんなにも自分の思い通りにならないことが続くのは、傲慢にさせないための神様の粋な(はか)らいなんだってことをな。たしかにあの頃、エゴが肥大し、少し我儘(わがまま)になっていたかもしれない。神様は僕に謙虚さを学ばせようとしてたんだろうな。お前にも是非このことを体験として学ばせてやりたいんだよ」
「それはそうと、早いとこ印刷機を使わせてよ」

(38)

 ───と、なんやかんやアイツの回想に(ふけ)るのはいいが、考えてみれば今はそんな場合ではない。過去に思いを()せている余裕などないのだ。
 箱村と奥さんのこの緊張関係。危険ゾーンに入りつつあるのではないのか。忘れてはいけない、赤井君には場の空気を和ませる役割があるのだ。箱村の彼女への面当(つらあ)てをかわすべく、あわてて割って入る彼であった。
「ずいぶんと待たせちゃった感じですね」
「いいのよ、スマホで夜景の写真撮ってたから。今日は綺麗なものしか見たくない夜ね」
「お前、夜食だけに夜色が綺麗ってか? 語呂合わせにもなってないぞ。単なる同音異義語じゃねぇか」
 箱村がまた余計なちょっかいを出す。彼女は「夜食だけに夜色が綺麗」なんて一言もいってないじゃないか。
「遅くなったのは、どうせこの人が下らない長話(ながばなし)しながらノロノロ運転してたんでしょう。もともとあの車、古すぎてぜんぜん動かないのよ、エアコンもきかないし。もう廃車にしたらいいのに」
 出た! 彼女の面当て返し。箱村は威信を傷つけられたといわんばかりに御大層な表情を見せる。
「馬鹿かぁ、車をすぐ取っ替える男は女もすぐ取っ替えるんだ。俺はそんな薄情者じゃねぇ、分かったか!」
 とはいえこの夫婦、少なくとも仮面夫婦ではない。仮面夫婦なら人前で口喧嘩を見せたりしないものだ。むしろ仲のいい夫婦を演出するだろう。彼らはそれと逆で、僕を前に仲の悪い夫婦をさらけ出すことに何の躊躇(ためら)いもない。
 実のところ喧嘩をしている時はむしろ演技に近く、実際は愛情たっぷりの(ねんご)ろな間柄なのではないのだろうか。二人とも仮面ならぬ実面をかぶっている。それが本来の嘘偽りのない姿なのだろう。
「スマホで動画を撮ってたらね、あの窓明かり一つ一つに何千何万の人たちの生活があると思うと、なんだが胸がしめつけられるような気がしてきちゃって‥‥‥」
「ふん、(がら)にもねえ。いつから夜空の星と語り合う聖少女にもどったんだ。ヘッ、今宵も星の雫に濡れるのかぇ? ロマンチックでよござんすね。お前、『おねえさん』と後ろで聞こえたら、いまだに振り返るだろう。“あたし花なら(つぼみ)なの”ってか? 冗談言わないでくれ。歳を考えろ、歳を」
 彼女は揶揄(からか)う箱村を無視したまま続ける。
「ここ、何度来ても綺麗ね。高いところにあるから街全体が見渡せて‥‥‥」
「いえ、街の景色より奥さんの方が綺麗です」
 清水の舞台から飛び降りる気になって、気障(きざ)なセリフを口にした赤井君であるが、言ったそばから顔が赤くなっていくのを感じる。
「夜と街灯り、それは君と僕」というフレーズも浮かんだが、さすがにそれは時期尚早(じきしょうそう)だ。
 耳朶もどんどん熱くなってきた。駅ではじめて彼女を見かけた時と同じで、顔から火が出そうになっている。
 だが予想に反して彼女は顔をほころばせた。満面の笑みがこぼれ落ちる。素直に喜んでいるらしい。なんて飾り気のない人だ。そう思うと、どうにも我が胸の高鳴りを収めようがない。その鼓動の一つ一つが今を実感させ、時間がより重く、そしてより濃密に流れる。
───もしかして彼女も顔が火照ってきたんじゃあ‥‥‥まさかな、化粧のせいか、照明の具合か。
 ふたたび追慕の念をつのらせる赤井君である。彼女の顔が、幼いころ亡くなった母の面影とだぶりはじめる。記憶が色づく。想い出が映える。あの日は小雨が降っていた。僕はクルクルと傘を回しながら歩いた。はじめて小学校に通学する日、振り返る度まだ忙しく手をふっている母親の優しい笑顔‥‥‥‥風光るありし日の姿。
 今はもう手の届かない、目眩がするほど遠くの場所に行ってしまった。この想い出も人生の秋には忘却の彼方に落葉してしまうのだろうか。
 なにげなく赤井君は自分の手をじっと見つめる。石川啄木ばりの哀感だ。
 手をつなぎ母の歩幅に遅れじとチョコマカと歩いたあの日。赤井君は母と過ごした限られた日々を()しむ。決してもどることのない日々を。日記に細かい文字でぎっしり書きつづけられたような、あの短いけれど濃密な日々を。
 ───お母さんがここにいる気配がする。お母さんが。
 見えなくても聞こえなくてもその温かさは分かる。わざわざ霊魂がここまで来てくれたんだろうか。僕の中に今、二つの意識が流れている。
「オッ、お子ちゃまが一生懸命、人妻を口説いてやんの。おめでたい奴だ。年がら年中、お前の頭は正月か。お屠蘇(とそ)気分で発情しちまったのか。十年はやいよ、十年。まさか脳細胞レベルで化学変化おこしちまってるんじゃねえだろな。ま、それもありか。もとはと言えばビッグバンからブラックホールまで全部、化学反応だもんな」
 箱村がガハハと笑いながら冷やかす。せっかくのいいムードに横槍を入れんなよ、おっちゃん。そこで黙って宇宙遊泳でもしててくれ。
「駅で僕がお手製の本を配ってたとき、奥さんはもらってくれたんですよね。無視する人も一杯いたのに」と、照れ隠しに話題を変える赤井君。
「どうしてそれ知ってるの?」
「花菱社長から聞いたんですよ。でも変だな。奥さんみたいに綺麗な人だったら、きっと覚えているはずなんだけど‥‥‥」
「あの時スッピンで会社の制服きてたから。わたし、戦闘モードに入ってないときはあんまり塗りたくらないの。面倒くさいから」
 ───そうか、二度目に駅で見かけた時は綺麗に化粧していた。一度目と打って変わって戦闘モードだったんだ。
 赤井君は彼女が自分のために化粧をしてきたんだと思い込み、天にも昇る心地である。
 一瞬、脳裏をよぎる一枚の写真。桜の散る校門の前で手をつなぐ母と僕。大樹が頭上で花のパラソルを広げている。母の手の柔らかさと温もり。写真は笑っていた。貧しくとも幸せだった日々。
 アルバムの写真は色()せていた。いま残っているのは僕ひとり。あの写真はもう記憶の中にしかない。思い出の写真がセピア色に(にじ)んでいく。
 これじゃ写りが悪くてインスタ映えしないな───赤井君は淋しげな笑みを浮かべた。
「コイツ、見かけによらず男っぽいんだ。だから化粧して着飾っても、大笑いしながらドカドカ街を闊歩するテロンテロンの振り袖お転婆娘となんら変わりゃしねぇ」と箱村が分け入ってくる。
 そうか、彼女の化粧の話の最中だったんだな。箱村さん、アンタはいい、アンタには訊いてない。
「女ってずるいわね。化粧でつくるから」
「そんなこと‥‥‥化粧も女子力の一つですよ。それに女の人って化粧で元気をもらえるんでしょう? いいんじゃないかなあ。化粧してネオンサインがキラキラ、ってな心でいられるのなら」
「都会っていろんな顔があるわよね。人それぞれ、十人十色だわ。朝方化粧して夕方落とす女がいる。夕方化粧して朝方落とす女もいる。表があれば裏もある。都会ってリバーシブルコートをはおってるわね」
「おまけに化粧する男まで出てきますよね。僕が都会を服にたとえるならポケットだらけの服だな、どこから何が出てくるかわからない」
「いいじゃないの、男が化粧したって。それで美しくなるんなら」
「赤井、コイツ今、シャレたこと言って恰好つけてるが、普段ぜんぜん化粧しないんだ。ジーパン姿で寝っ転がってポテチばっか食ってんだ。家でもたまには化粧しろってんだよ。家でも今みたいに余所行きに演技して、しおらしくしてろ。おい、じゃじゃ馬おばさん、赤井は化粧でいくら()かしたっていいんだぞ。狐や狸に化かされるのが得意なんだからな」
 ふたたび箱村が隙をついて茶々を入れてきた。だからあんたには訊いてないって!
「コイツは女子力ゼロだよ。たまにシチューをつくると、煮てる時よくかき混ぜないもんだから、鍋の底がいつも焦げついてんだ。うまそうに焼き上がったクレープやホットケーキやお好み焼きもいつも裏が焦げてる。今のコイツみたいに見てくれだけは美味しそうなのにな。それにさあ、この前なんかよぉ〜~」
 彼女はフウと嘆息をもらすと、箱村の話を遮るように「さっきペンネームの話がでたけれども、小説家になりたいんですってね。この人から聞いた」と一言。
「でもダメです、一次でおとされちゃうから。せめて二次までは、っていつも思うんですけどね。出版社も当選作以外はぜんぶ次点ってことにしてくれればいいのにww」
「作家は名乗った時から作家だ、とよく言うよな。赤井はインディーズ作家で、いいんでぃ~ず‥‥‥なぁんちゃって。生涯アマチュアざあますわ」
 箱村が下らない駄洒落をぶちこんできた。ちょっと軽すぎですぞ。紙飛行機の上にのっかり、どび回るのはよしてくれ。せっかく彼女といい感じなのに、そこ、黙っててくんないかなぁ。
 やむなく「それ、シャレですか?」と合いの手を入れれば、
「まぁまぁまぁまぁ‥‥‥‥♪笑って許して、ちいさなことと(アッコ!)(^^)♪‥‥‥ぽてちん」と返ってきた。
 箱村のお家芸、毎度おなじみのパターンだ。いい加減にしてくれ。笑っているのは箱村だけで、あとの二人はシラ〜ッとしている。
 彼女がガン無視のまま続ける。
「いつも一次で落とされちゃうってホントなの? おかしいわね、よっぽど他の応募作のレベルが高いのかしら。それって、普通では考えられないことだわよ」
「ルールも知らず大谷翔平めあてだけで大リーグ観戦するようなお前に、小説の何が分かるってんだ、一人前の口をききやがって。どうせ大谷がホームラン打って、(かぶと)をかぶる姿が見たいだけなんだろう。兜かぶるなんてアイツはガキか」
 また、箱村が口をさし(はさ)んできた。
「ちょっと、アナタ黙っててくれない! 身長以外、大谷とは似ても似つかないくせして!」
 同感である。図体にまかして、いちいち力ずくでネジ込んでくんなよ。
「おっかねえ、鬼が顔を出してらぁ。へぇ、そうですか、そうですか、ご立派なこって」と、半笑いの箱村。小馬鹿にしている。
「おい赤井、大谷はWBC決勝戦の前に『(あこが)れるのをやめましょう』って言ったんだろう? お前も小説家に憧れるのはやめな」
 やれ、とばっちりを食っちまった。
「わたし、主要な文芸誌の新人文学賞当選作はほとんど読むことにしてるの」と彼女。
「え! おまえ、そうなの? 『星の王子さま』しか読んだことないんじゃなかったのか」
 箱村の声が裏返る。顔から笑みが急角度ですべり落ちた。面食らった表情である。笑いすぎた骸骨の(あご)が外れたみたいだ。
 箱村は息を呑み、彼女に探りをいれる。
「ほんで受賞作、読んだ感想は?」
「どうかしら、作品によるわね。わたし変なのかな、みんな気の抜けたサイダーみたいに思える。なんか作り物って感じで。だからって別にマズくて飲めないわけじゃないのよ。上手だと思った作品もあったけど、なぜか印象に残ってないの」
「ふん、一丁前(いっちょうまえ)に。印象に残らないのは、たまたま好みに合わなかっただけのこった。お前、目利(めき)きぶってると高くつくぞ。嘘だと思うんなら、骨董屋(こっとうや)に行ってみろ」
 鼻で(せせ)ら笑う箱村。
「みなさん方、どうしてあんなに賞を欲しがるのかしら」
「そりゃ、誰でも描けそうな絵画でも、作者や値段を聞いた途端よく見えてくるってあるじゃないですか。ピカソの作品と知らなきゃ、ただの下手くそな子供の落書きでしょう」と、赤井君から思わず本音が出る。
 それを受けて、「ね、それに多くの人が作品の価値より値段にしか興味ないでしょう」と彼女。
 言っていることはその通りなのだが、今ひとつ会話が赤井君と噛み合っていない。とはいえ、すれ違う彼女とのやり取りも今の赤井君にはとても心地よい。
「あくまでも想像の話なんですけどね、もし偶然に偶然が重なって僕が村上春樹と全く同じ内容の作品を書いていたとする。でもその作者名が村上春樹でなく赤井カサノだったとしたら、はたして最後まで読んでくれる人が何人いるんでしょうか。誰も読まないんじゃないのかなぁ。それどころかそんな作品、誰も気にも留めないでしょう。入口のドアノブすら握ってくれない」
 すると箱村が、
「村上春樹は二人もいらねぇんだ。作品は作者も丸ごと含めて作品なんだ。村上春樹って若いころジャズ喫茶やってたんだろう。尻の青い赤井に深煎りコーヒー豆の渋さはないよな。雰囲気も人間力もまるで違うんだ。赤井は逆立ちしても村上春樹にはなれねぇよ。お前ら、外堀(そとぼり)から文学賞の当選作を腐してるだろう。感心しねぇな、外野からそんなこと言うのは卑怯だ」
 と、珍しく至極まっとうな意見を言う。けど、どの口がそれを言うのだろうか、散々これまで受賞作を腐していたくせに。もう外れた顎はもとに戻ったのか。
「一応読んでるから私、“ああ当選する作品はこんな感じなのね、新人文学賞の水準ってこれぐらいなんだ”というのはだいたい分かってるつもり。答えは正解なんでしょうけど、途中の計算式はどうなってるのかしら。小説って答えより解く過程のほうが大事だと思うの。計算式がぐちゃぐちゃなのに何故か答えだけは合ってるとしたら───もしそうだとしたら、これってどういうことなんでしょうか、って思わない?」と彼女。
「え? それ、どういう意味なんですか? 結び目がかたくて解けません」
 と赤井君が怪訝(けげん)な顔をすれば、訊かれてもいない箱村が無理やり割り込んでくる。どうやら外れた顎は完全に元に戻ったらしい。
「おッ、結び目がかたくて解けませんってか。それ、久々のポテンヒットだ、ポテチンといいところに落ちたぞ、ポテちん。お前って低能なくせして、そういう言い回しだけは妙にうまいんだよな。けどよ‥‥‥おい、赤井にレトリックやアナロジーをきかしたセリフは通じないんだ。もったいつけたらダメなんだよ。思わせぶりもダメ。コイツは馬鹿で(やわ)なんだから、会話にひねりを入れると捻挫(ねんざ)しちまうぞ。赤井、俺が噛み砕いてやるよ。このオバチャンはお前が以前いっていたことと同じことを言ってんだよ。地検特捜部みたいに初めにストーリーがあって後からそれに合わせて事実を組み立てていく‥‥‥‥お前、このまえ最初から受賞者が決まってるのかも、なんて突拍子もない戯言(ざれごと)を言ってただろう。あれを気取ってハイカラに言いかえてるだけなんだ。途中の計算式は隠されて見えないから、問題と答えの辻褄(つじつま)さえ合っていれば誰も文句は言えない。つまり、はじめに答えありき───問題を解いて答えを求めるんじゃなくて、答えを先に決めちゃってんだ。答えだけが最初にあって、それにあわせて問題を後から作ってるんじゃないかって言いたいんだ。粉飾決算だよ。小さいものを大きく見せる、ブスに化粧ぬりたっくて美人に偽装するってこった。でもこの粉飾決算は別に法律に触れてるわけじゃないけどな」
“ブスに化粧をぬりたくって”のくだりが気に障ったのだろうか、彼女は箱村を敵意の(まなこ)(にら)みつけている。眼力(めじから)の強さも(あい)まって、射抜くような視線の鋭さがある。もとに戻った箱村の顎を、瓦割りよろしく真っ二つにしかねないほどの迫力だ。
「なんのことですか? もっと分かんなくなりました」
 赤井君には迷いの色が見える。箱村当人は噛み砕いたつもりなのだろうが、一層ガチガチに固まって聞こえる。こっちの顎までおかしくなりそうだ。
「お前って奴は体重は軽いが頭の動きはとことん重いな。つまりだ、もっと単純に一言でいえばこうだ。答えのないクイズってことだ。だから前もって好き勝手にどんな答えだって用意しておける。クイズを解く過程にはモザイクがかかっているからな、誰にもバレやしねえ」
「????」
「じゃ、これを芝居になぞらえて言えばだな‥‥‥」
「ああ、もうなぞらえなくていいです。もっと分かんなくなっちゃいますから」
「おう、分かんなくたって別にいいんだよ。どうせ女房の言ってることはスカタンなんだからよ。にわか知識で偉ぶってるだけだ。天気図を読むみたいに作家サンの小説読んで、自己流の変な分析すんじゃねえ。答えが合ってたらいいじゃねぇか。過程なんてどうだっていい。出版社が儲からない本を前面に押し出して、みすみす損するような事するかよ。これが一番儲かりそうだから、その答えなんだ。これだからド素人はいけねぇ。犬が西向きゃ尾は東──そんな道理も分かんねぇんじゃ話になんねぇな。ズレまくってるぜ、このオバチャンといったら」
「あなただって素人でしょう! 何十年素人を続けるつもりなのかしら。あらまあ、ずいぶんと年季の入った素人だこと」
「だてにあれだけ落とされたわけじゃねぇぞ。おかげでメンタルも強くなったぜ」
「強くなりすぎよ、厚かましい。どうせ死ぬまで玄人になれないくせに。素人へぼ文士! あなたの小説が幾らかでもお金になったの?」
 彼女の言葉は手厳しい。ちぇっ、と舌打ちした箱村はそのまま押し黙ってしまった。ふて腐れている。返す言葉がないらしい。
 右隣の少し離れた席にはカップルが肩を寄せ合って仲睦まじくしている。カウンター横並びの背中がその親密さを見せつけている。こちらで怒鳴り合っている夫婦とは対照的である。こっちの喧嘩の大声が届いていないのだろうか。恋愛に夢中になり過ぎて聞こえないってか、コンチクショウ!
 やっかむ赤井君、心が水面(みなも)のように揺れ出す。こうなりゃ色気より食い気だ! 睦まじきカップルの背中を羨ましげに眺めながら、フルーツをフォークで口に運ぶ。

 うん、こりゃ美味い。スイカも今が旬で美味そうだ。
 スイカを切る母の後ろ姿。亡き母がそこに来ている───帰ってきてくれたの?
 なぜか再び母の思い出がよみがえる。
 ───アアそうなんだ、これは幻なんだ。
 スイカの種だけわざわざ()けてくれた母。カップルにあてつけられ、悔しいのやら悲しいのやら。そぞろに母親の面影に追いすがる赤井君である。スイカの種を見つめたまま目がしらを熱くしている。母の姿は今もここにある。すぐ近くにいる。思い出があふれて(こぼ)れ落ちてしまいそうだ。
 すると彼女が、
「ごめんなさい。変な言い方して。言いたかったのは赤井さん、あなたの作品がいつも一次で落ちちゃうなんておかしいってことなの。あけすけに言っちゃうと品がないでしょう、だから‥‥‥。二次で落ちるんならまだしも、一次で落ちちゃうなんて絶対おかしいわ」
 その美しい声の響きに、幼き日々の追想から一気にこの場に引き戻される。
 どうせ買いかぶりだろうと思う反面、自分の作品が美しい彼女に褒められたことはすごく嬉しい。(はな)やぐ心、赤井君は天にも昇らんが心地である。心が花回廊に舞い踊る。
 いま泣いた(からす)がもう笑った。彼は赤ん坊みたいだ。鼻高々につられて、チビ助の彼もいくらか背が伸びたんじゃないだろうか。
 赤井君、その意気だ! チビは背伸びして生きていかなくっちゃ。姿勢もよくなるだろうしね。
「赤井さん、商品を高く売ろうと思ったらどうします?」
「え? それ僕の作品と何か関係あるんですか?」
「いいから」
「さあ、急に言われても思いつかないなぁ」
「これは売り物じゃない、って客を()らすのはどう?」
「じらす? “得るのが難しいと思わせるほど相手は欲しがる”ということですか?」
「そう。安っぽい女が男を惹きつけるためにやる手口よ。それだと思う」
「そんな手口が出版界で通用するかなあ」
「うろ覚えだけど、アメリカの研究でこんなの聞いたことない? ある心理学者が実験をした。被験者は全員女性。彼女たちがあるサークルに入会するのに、無条件で入会できるグループと厳しい条件をクリアしないと入会できないグループとに分けた。その結果、無条件で入会を認められたグループより、厳しい入会条件を課されたグループの方がこのサークルが高い価値を持っていると信じこみ、熱意もあり、入会できたことの満足度も高かった」
「あ、それどっかで聞いたことあります。テレビで見たのかな、本で読んだのかな」
「入会したサークルが無価値だと考えてしまうと、自分がサークルに入るためにした努力が無意味になっちゃうでしょう。だから自分が費やした努力を正当化するためにサークルにはそれに見合うだけの価値があると思い込もうとするのね。出版社もそういう心理戦を仕掛けてきてると思うの。めぼしい作品の応募者は、特に一回目はあえて落とす。賞をとるのが難しいと思わせるほど、相手はその賞の価値を信じ、より発奮するだろうってね。応募者の多くは作品を仕上げるためにつぎ込んだ労力が無意味だったと考えたがらない。その労力をなんとか次につなげようとするはずなの。そしてそう思えば思うほど彼らにとって賞の重みは増していく。つまり出版社は相手を突き放すことでより扱いやすいようにターゲットを変造していこうと目論むってわけ。心理的にね。これってちょっと穿(うが)ち過ぎかな」
「さあ、どうでしょうか。あの人たち忙しいんでしょう。いちいちそんな面倒くさい事するだろうかなあ。でも確かに女の人で、優しくて謹厳実直な男より、女に辛く当たる我儘(わがまま)でオラオラ系の男に惚れて結婚する人っていますよね。ふつう女の人って自分に利益をもたらさないであろう男に恩恵をほどこしたりしませんよね。ましてや結婚なんかしない。だけどオラオラ系の男の強引な要求に屈していったん恩恵を与えてしまうと、そんなことをしてしまった自分を正当化するために、その男を好きになろうとする妙な心理が働くのかもしれませんよね。自分に何の利益をもたらさないばかりか害すら与えかねない男であっても。今までこの男にこれだけ苦痛を味わったんだから結婚して元を取らなきゃ損だって感じで‥‥‥実際にソロバンをはじくことはないにもせよ、無意識的に行動はそっちに向かっちゃうんじゃないでしょうか。自分で自分を騙して相手の男に陶酔しちゃってる。もちろんオラオラ系の男は女がそうなることを最初から見込んで近づいてきた。で、そのオラオラ系の男が出版社で、心理的に操られる女が僕だと‥‥‥あっ、結婚詐欺なんかもこれと同じですよね。結婚詐欺師が何やかんや理由をつけて女に金を無心する。押しに負けていざ金を渡してしまうと、女は自分の行為を正当化するために一転して詐欺師を好きになろうとする。自分で自分を偽るんだな。そうして最終的には身ぐるみはがされてしまう。な〜るほど、奥さんの言うこと、一理ありますよ」
 すると───、
「いや、いや、いや、いや‥‥‥‥そりゃ、ない、ない、ない、ない、ない」
 二人のやりとりを聞いていた箱村が噴き出した。
「ふたりで何、寝ボケたこと言い合ってるんだ。二人ともそんな世迷(よまよ)(ごと)を並べて、とうとう馬鹿が露呈したな。ぬる過ぎだ。(まき)でもくべてやろうか。なにが“一理ある”だ、くだらねぇ。赤井、ずいぶんと薄っぺらなコメントだな。薄口評論家、杉村太蔵か。プーチンの肩を持つためなら、どんなスカタンでも吐きまくる鈴木宗男か。いかにもド文系野郎の思いつきだ。そんな思いつき、この場かぎりで明日になりゃ忘れちまうだろう。なんで出版社が結婚詐欺師なのかよ。ぶっ飛びすぎだぞ。お前ら、火のない所に煙を立ててどうすんだ。それってあくまでも女の話だろう。いくらお前が男性ホルモン不足のホビホビだからって、そりゃないわな。いっしょくたにすんな。そういうのを言いがかりとか、でっち上げとか言うんだぞ。んで、お前が言う心理的に操られる女ってのはドM女で、オラオラ男に“()ってぶって”といつまでも興奮しっぱなしってわけか? たいしたドすけべ女だぜ。有望そうなのはあえて一回目は落とすったって、じゃあソイツが次の作品を別の出版社の新人賞に応募したらどうなるんだ。元も子もないじゃないか。釣った魚をもっと太らせようとして海にもどすのか。そんなことしてたら別の漁師に釣られちまうぞ。それとも他の出版社が落とした人の作品は、別の出版社も一回は落とさなければならないという業界の不文律でもあるのか。馬鹿々々しい。純文学なら純文学同士、全出版社がつるんで、そういうのを決まりにしてるとでも言いたいのか。だいたい他の出版社の応募者情報が別の出版社にどうして分かるんだ。事務連絡でも交換し合ってるのか」
 笑いが店内に響き渡る。不本意ながらも、そう言われてみればそうだ。箱村にからかわれた赤井君は穴があったら入りたい気持ちになる。
 ねえ恥ずかしいから、その笑い声、ちょっとボリューム下げてくんない?
「さあ、赤井、なんとか言ってみな」
 なんとか言えといわれてもなぁ。
「どうした、永眠したのか。そりゃご愁傷さまで」
 死人にされてはたまらない、なんとか取り繕わなきゃ。
「グルとまでは言いませんが、あの、いろんな雑誌社にまたがって下読みしてる人も少なくないんじゃないでしょうか。この前、箱村さん、同じ作品を色々な出版社に送って全部一次で落ちたって言ってたでしょう。バレたわけですよね。横の繋がりで何となく分かっちゃうんじゃないでしょうか。そしてそういう事例がいろいろ積み重なって、暗黙の了解が次第につくりあげられていくという───なんちゃって」
 本当はさっきから繃帯(ほうたい)で顔をグルグル巻きにされたいほど恥ずかしいのだが、赤井君は無理にカラ元気を装い、辻褄(つじつま)合わせの苦しい言い訳を並べる。
 だがこの世の中、へんに常識にあてはめた思い込みより、“そんな馬鹿な”と思える見方のほうが、実はかえって真実に近い場合が多いものなのである。
「そんな世間知らずの、なんちゃって分析が通るとでも思ってるのか。そんな眠たいことを言っていると、そのうち目覚まし時計が鳴るぞ」
 勝ち誇る箱村。いよいよ赤井君は、恥ずかしさのあまり液体かなんぞになって、地べたに滲み込んでしまいたい気持ちである。
 と、すかさずそこに彼女が背中を押してくれる。
「そういうことだって絶対ないとは言い切れないでしょう。世の中って意外に“まさか”ってことがあるものなのよ」
 僕の側に立とうとしてくれてるんだ。オーバーな表現だが、そのとき彼女が死にゆく人の口に聖水をふくませる天使に思えた。性格のきつい女にはあまり魅力を感じないが、こういうとき弱きを助け強きを(くじ)く姉御肌を見せてくれるのはうれしい。
 とはいえ助け舟をだしてくれるのはいいが、如何(いかん)せん声が小さい。自信が全くないのだろう。彼女も心の中では “そんな馬鹿な”と思っている。なんせいかにもショボい、なんちゃって分析だもんな。
「アホなのかぁ、おめぇら。小説を選考する人はそれでメシ食ってるんだ。おめぇら素人なのに、占い師の的中率を占ってどーすんだ。だいたいだな、罠にかからないためには罠にかけられる立場で考えてちゃダメなんだ。罠にかける方の立場になって考えなきゃあな。問題を解かされる側でなくて、問題をつくる側にいなきゃよぉ。選ぶ側の身になって考えてみろ。選ぶ方が選ばれる方より大変なんだ。教えるより教えられる方が大変なのと同じだろう」
「それ、逆じゃないすかぁ。生徒より先生のほうが大変じゃないすかぁ」
「頭のこんがらがるような事、言うな。そんなのどっちだっていい。枝葉末節を突っつくな。お前は爪楊枝か。そんなことより、選考者が赤井の熱意をさらに煽るためにわざと一次で落としたって、おまえら言うのか! それってわざと“ペンキ塗りたて”の紙を貼って、触らせようと(たくら)んでるイタズラ坊主といっしょだぞ。ホビホビ赤井はオカマのうえにノータリンなのか。どこのアホが触るってんだ。出版社が赤井と恋愛ごっこでもしてるって言うのか。あらまあ思慮が浅いこって。出版社の連中はそこまで幼稚だってのかぁ? 少女漫画でも読んでるのか。冗談きついぞ、まったく。大笑いだぜ。なあ、赤井、なんとか言え。大笑いだろう」
「いえ、僕はもう半分諦めかけてますから何とも‥‥‥‥」と赤井君。あのカラ元気はどこへやら、どっちつかずの態度である。
「なにコチョコチョ小声で喋ってんだ、糸電話でもしてんのか」と箱村。勝ち誇った様子がますます鼻につく。
「ねえアナタ! 私たちのいうことのどこが少女漫画なのよ。具体的に説明してちょうだい!」
 と、ついに彼女が気色ばむ。
「なにガキみてぇに(とん)がってんだ。ウザがらみしてくんな。いちいち面倒なオバハンだな。少女漫画で王子様がヒロインにたまたま巡り遇うシーンがよくあるだろう。この広い世界で男と女が偶然再会するなんてことがそうそうあってたまるか。ヒロインは王子様が出没しそうなところをあらかじめリサーチして、その辺りをずっとウロウロしてたんだよ。待ち伏せだ。馬鹿な王子はこの女は運命の女だなんてのぼせ上がってしまう。ヒロインは王子をたらしこんで生涯甘い汁が吸いたかっただけのことだ。お前、このヒロインが出版社の連中だと言いたいんだろう。そんでもって出版社が赤井と恋愛ごっこして面白がってるってな。ほんだから有名作家が赤井が出没する場所でわざわざ待ち伏せしてたりしたんだと言いたいんだろう。赤井の学生アパートのドアの前とか、大衆食堂とかで。おまけに﨑田を送り込んだりしてな。そういう非現実的なことは少女漫画のストーリーの中にしかないんだよ、分かったか」
 彼女は“エッどういうことなの?”といった表情をした。
「何? なんのこと言ってるの? 有名作家? サキタ?」
「ああそうだった、(わり)い、悪い。まだお前この話、知らなかったんだな、赤井のこの話」
「あなたの言ってること、私の話とぜんぜん繋がりないじゃないの。繋がってるのは少女漫画ってとこだけ。呆れた、それでよくそんなに偉そうにしてられるわね」
 赤井君は箱村の話を聞きながら、“僕だったらヒロインにたぶらかされることなんてないな、すぐに見破る”などと余裕ぶっこいている。
 ───けど金目当てでもいいから、この王子様みたいに一度モテまくってみたいな‥‥‥なんて言っちゃったりして。
 ついでに鼻の下を伸ばすことも忘れていない。いい気なもんだ。思い起せば、ブラウンのカナちゃんからも自分が“馬鹿王子”もどきに見られていたことも知らずに。カナちゃんにとって赤井君など不審者にちょいと毛がはえた程度の代物だということが未だに分かっていないのである。いつの時代もしたたかで一枚上手(うわて)は女のほうだ。
「いい加減、アナタのその間抜け話、スクロールさせてちょうだい。ともかく彼、すごく才能あると思うの。鮮烈に印象に残った。逸材だわ。まだ原石で将来は未知数だけど。若いから伸び(しろ)はいっぱいあるわ」
 めったに作品を褒められることのない赤井君は、それを聞いて鼻高々(たかだか)。天の川を泳いで渡らんがごとき幸福感である。
「なんとまあ、赤井に大作家様々の素地があるってか! 読んだ人全員に感想を聞いて回ってみろ。きっと寄ってたかってボロカスに言われるだけだ」
 せっかく褒めてもらったばかりなのに、さすがにこうまで言われると、蛍光灯の赤井君も黙っているわけにはいかなかった。
「それは分かっているんですよね。僕がどういう作品を書こうと、必ず批判する人は出てきます。これは誰が何を書こうとそうです。必ず批判があることを前提にすれば、どの批判が自分にとって役に立ち、どの批判が役に立たないか見極めることの方が大事なんじゃないでしょうか。役に立つ批判だけ取り入れて、他は無視すりゃいいんですよ。役に立たない批判の特徴はだいたいこうです。その批判を聞いたり読んだりすると、自信や自尊心が揺らぎ、たいていネガティブで嫌な気持ちになるんです。批判に有害な毒が含まれているのを本能が嗅ぎ分けるからでしょうね。批判のための批判で、人を不安に陥れ自信をぐらつかせる意図が見え隠れしているんですよ。反対に役に立つ批評は自分を発奮させ、やる気や勇気や希望をもたらしてくれます。なんだかポジティブな気分に導かれるんですよね。タダで役に立つ発想がいただけるのなら、ボロカスもそのいい面を利用しないと損ですよ」
「赤井、なんで突然、聖人君子みたいな正論を吐くんだ。お前はボケ役なんだぞ。あんまり()(とう)すぎること言うな。ツッコミ役の俺に恥をかかせる気か。俺は“なんでやねん”が言いたいのによ。このオバチャンがいくら才能があると持ち上げようが、才能なんてのはな、自分のエゴのために使うぐらいなら無いほうがいいんだ。才能は世間さまを喜ばせるために使わなきゃ自分の幸せに寄与しないんだよ。赤井は自分が注目されることしか考えていない。だから赤点だ」
 たまさか箱村が(ため)になることを言った。
 ───僕ってそうなのかなぁ。確かにそういう嫌らしい気持ちもないことはないな。
 赤井君は胸に手を当てて反省してみる。こういうところは妙に素直だ。
 一方彼女はといえば、
「あら、よろしゅうございますわね、彼に比べてあなたは才能ゼロで。ボケ役はアナタの方でしょう。分かってないのかしら」
 と、なかなか辛辣(しんらつ)だ。
 続けていわく、
「赤井さんの作品には一途(いちず)さがあるもの。それから詩情もある。孤独な人たちには詩が必要だわ。人を揺さぶり、そして癒す」
「え? その言葉、すごくうれしい」とホクホク顔の赤井君。(^-^)ホクホク
「赤井、料理を褒めず器だけ褒めてもらって何がそんなに嬉しいんだ。コイツに詩情なんて分かんねぇよ」
「分かるわよ!」
「いいや、分かってない。うどんや茶漬けは余計な具材が入ってないほうがウマいんだ。赤井の小説は比喩とか遠回しな表現とか余計な具材が入り過ぎている。イメージ描写のごった煮だ。文体に無駄な修飾が多すぎんだよ。文体にも節度がなきゃな。言葉で読者を溺死させようってのか。おいオバチャン、お前はそういうのを詩情と取り違えてんだ。シンプル・イズ・ベスト。モノクロ映画で見るからイングリッド・バーグマンは美しいんだ。おい、それから赤井」
「なんでしょうか」
「お前さんは言葉で読者に情景を見せたいんだろうが、もっと少なく語らなきゃな。お喋りはダメだ。アナウンサーの実況中継か。言ってみりゃ、お前の文体はな、余分な分量を紙に塗りたくるもんだから押さえるとはみ出しちまう糊だよ。あんなゴテゴテのイメージ・カクテルを読者に一気飲みさせんなよ。あんなの、一息で飲み干せないだろう。急性アルコール中毒になるぞ」
「はあ?」
 アンタの例えの方がよほどゴテゴテしていて悪酔いしそうじゃないか。お喋りの張本人はアンタだろう。何を言っているのかサッパリ分からない。消化できず胃もたれを起こしそうだ。
 そこで彼女が、
「あ~ら、赤井さんに嫉妬してるの? そう言うアナタの作品こそ、ただ長ったらしいだけで、悪ふざけとお笑いでしかないでしょう! 他になにかある?」
 箱村が固まった。眉間のシワが今の心境をあらわしている。急所にグサッと突き刺さったらしい。ビンゴ!
「それにしてもうれしいな、詩情があるなんて言ってくれて。社長さんも評価してくれたし」
 かたや赤井君は彼女の言葉の余韻にまだ浸っている。夢見心地のまま箱村の批判は素通りだ。
「ああ、あの下品なデブおじいちゃんネ。変わった人でしょう」と彼女。
「強烈ですね、あの個性」
 そこでほぼ同時に三人がドッと笑う。全員同じ印象を持っているようだ。
 変人花菱を出しに使えば、箱村のしかめっ面も思わずほころぶ。さっきまで不穏な雰囲気だったこの夫婦にも白い歯がこぼれた。渋面が一足飛(いっそくと)びに笑顔へ───みんな、たいしたお天気屋さんぶりである。
「あの阿呆さ加減には誰も太刀打ちできないな。アイツが本物の高木ブーやカトちゃんといっしょにドリフやりゃいいんだ。あの超ド馬鹿ぶりで茶の間に爆笑の渦が巻き起こるぜ。ドリフ再結成。往年のドリフの復活だ。志村や長介や仲本工事がいなくたって大丈夫だ」
 彼女に一太刀あびせられ項垂(うなだ)れていた箱村が、打って変わって上機嫌になる。喋りながらまだ笑っている。笑い上戸というか何というか‥‥‥酒びたりの呑兵衛(のんべえ)よろしく、ちょっとしたことでもやたら笑いまくる。
 ───アンタの個性だって花菱とドッコイドッコイだよ。花菱だってスケベ話で笑い出すと止まらないじゃないか。これぞ目糞鼻糞を笑う、だな。花菱が花菱なら箱村も箱村だ。花菱がここにいれば、アンタに向かって「それはこっちのセリフだ!」と怒るに違いないでしょね。
「それにあのお爺ちゃん、ちょっとエッチでしょう」
 彼女が恥ずかしげにそう言うと、
「どスケベ根性丸出しでボケ防止ってわけだ。アイツの発言の一つ一つに前バリはらなきゃな。股間のついでに、あの減らず口にもペッタンコだ」と箱村がまた笑い出す。
 受けて彼女は「な〜に、それって。いやらしい」とキッパリ。
「あいつは両刀使いの太ったジャニー喜多川だよ。最近では体がついてこなくて、多分に口だけ番長の(きら)いはあるがな。さすがにあいつでも本物のジャニーにゃかなわないのか。上には上があるな。いやそうじゃなくて、下には下があるな」
「男色の方は確かに口だけです。からかって面白がるだけのようですよ」
「赤井、なに分かったようなこと言ってる。スケベはお前もいっしょじゃないか。そういうのを目糞鼻糞を笑うってんだ」
「は、はあ」
 それを聞くや、赤井君は恥ずかしくて穴にでも入りたい気持ちになる。彼女の前だ、そんな話題は早くすっとばしてほしい。
「それにな、アイツ、やたらしょぼいギャグを連発するだろ。そんなに笑いが欲しけりゃ、みんなをくすぐって回れっつーの! アイツとは反りが合わないんだ。アイツも俺のことを虫が好かないに違いない。俺の作品をいつも“なんて変な作品なんだ”と駄作呼ばわりしやがる。腐すだけ腐しやがって。花菱みてぇな変な奴から“変”だと言われるなら、それは真面(まとも)だってことじゃねぇか。そうだろう。最近じゃ夢にまで風船みてえにプカプカ浮かんで出てきやがる。悪夢だよ。夢のなかまで追いかけてくるなんざ、アイツは借金取りなのか。誰だって老いてくりゃ、多かれ少なかれ認知症にかかわってくるのによ。あのジジイ、それが見えてないんだよな。ボケてそのうち俺のことも『あんた、誰?』って言い出すんじゃねぇのかよ」
「僕、もう『あんた、誰?』って言われてますよ」
「ああ、そうだったよな。お前をはじめて職場に連れてったときな。あれは傑作だった。あれは笑いが欲しくて、ボケ老人のフリしてたんじゃない。やっぱ正味の話、ボケが入ってきてるぜ」
 箱村は笑い過ぎて、()せている。
「グォッホン、ホン、ホン‥‥‥失礼。この前なんかよぉ、夕陽にのびる自分の細長い影を見て『ワシって最近やせたかな』と呟いてんだ。もう救いようがねぇな。アイツ、自分が落ちてきてるのが分かんねぇんだよ。それが分かんないから、現役にいつまでもしがみついて周りに老害をまき散らしてんだよ。ヨボヨボ老人のくせして、なに背伸びしてんだ。糞ジジイが無理してズボンからワイシャツ出して若いフリすんな」
「それも認知の衰えで入れ忘れていたりして」
「そうそう、実際そうなんだよ」
 赤井君はギャグで言ったつもりなのだが、箱村は本気にしている。
「あの加齢臭ジジイが。お前はドリアンか! 加齢臭というのはな、異性に“もう自分は生殖行為に適した体でないですよ”と知らせるためのものなんだ。なのにアイツ、いまだに女漁(おんなあさ)りばっかしやがって」
「う~ん、老いらくの恋が不幸に終わるのはそういうことだったのか。深いですねぇ」
 そう膝を打つ赤井君に対して箱村が言う。
「お前は浅いけどな」
 あらら、褒めたらコツンとやられでしまった。佐々木小次郎のツバメ返しかぁ?
「浅いならスキューバダイビングでも始めまひょか」と赤井君。
「うん、グッドアシストだ。着実に腕を上げてるな」
 なんでそうなるの? 支離滅裂だ。別にアシストしたつもりはないが。
「なあ、各界にもいるだろう、地位や権力に胡坐(あぐら)をかいて部下や若者を怒鳴りあげてるアホが。アイツら自分が耄碌(もうろく)してるのが分かってねぇんだ。いや、分かってるからこそ認めたくないのかな。昔できたことが今はできない‥‥‥その焦りや恐怖から周囲を怒鳴りちらかしてるのかもしんねえ。もういいかげん自叙伝でも書いて引退しろ。あのホラ吹き野郎が自叙伝を書いたら、どうせ正直には書かない。嘘字ばっかし連ねるんだろうな。あの(なま)ハゲ、ハゲ、ハゲ、ハゲおやじがぁ!」
「作り物の包丁かざして『悪い子は居ねが~』ですか。悪い子はズル剥け本人だったりして」
 赤井君も調子ぶっこいて、ちと悪ノリが過ぎるようだ。おかしくて腹がよじれる。馬鹿笑いに腹筋崩壊だ。
「ちょっとアナタたち、少しは節度がないの? いいお爺ちゃんなのにそこまで言って」
 やっちゃ場みたいに騒がしい二人を、彼女はそうたしなめた。いかにも気に入らないといった風情である。
「あたし、あのお爺ちゃん嫌いじゃないわよ。優しいところもあって、押しくら饅頭したら温かそう」
「うぇ~暑苦しいだろう、あんなデブ。お前は会うたび『お美しい、お美しい』とベタ褒めされるから、そう思うよな。女だったら誰にでもそう言うんだ。最近じゃ、可愛い男の子にも‥‥‥」
 と、箱村はこっちをチラ見しながら意味ありげにウインクした。
(^_-)-☆パチッ!
 ───おいおい、いくら何でもそれはないだろう。冗談じゃないぞ。
「言う通り人は悪くないジジイではあるんだが、いずれにしても哀れだよ。ガタがきたならガタがきたのをさらけ出しゃいいんだ。いくら片方の足だけで体重計にのったって、お前の体重は減らないってんだ。基礎代謝カロリーが違うんだよ、基礎代謝カロリーが。いっそのことお相撲さんになって、ゴッツァンって言うか? だっせぇ〜。笹くってるだけでブクブク太れるパンダか〜~い🐼! パンダの着ぐるみでもかぶってろ。ガタがきたって誰もナメたり馬鹿にしたりしねえよ。する奴がいたら、そっちの方がもっと哀れじゃねえか。花菱の野郎、恥ずかしくないのかねぇ。もっともあんなデブなら穴があっても入れないだろうな。少しは悟れ、鼻糞ジジイが!」
 箱村はもう抑制がきかない。
「うわ、汚い、やめてよ。いま食事中なのよ。どうしてアナタって人はお年寄りをそう口汚く罵れるの?」と彼女。
 それにしても、言うに事欠(ことか)いて“鼻糞ジジイ”とはな。さすがにそれはないだろう。そのうち耳の穴から鼻水が出てくるんじゃね? 
 やっぱり正解だった、あんたは目糞鼻糞を笑うだよ。花菱の体型を虚仮(こけ)にして重い重いとからかうが、自分はどうなんだ。その悪ノリ、軽くて軽くて、フッと吹いたら綿毛のように飛んでっちゃいそうじゃないか。
 箱村は喋りに喋る。アンタにとっちゃ、お喋りは呼吸と同じなのか。喋り続けないと息絶えちゃうのか。まるで回し車のなかでクルクルまわって遊んでないと退屈で死んでしまうハムスターだな。
「こんな図体のデカいハムスターがいるか!」と言い返されるかな? だったら泳ぎ続けてないと死んでしまうカツオやマグロなんじゃねぇ?
「いくらなんでもお爺ちゃんをそこまでこき下ろすことはないでしょう」
 と、彼女が一瞬の隙をついて不満げな気持ちをつたえる。
「なんだ、餅を焼いた時みてぇな(ふく)れっ面しやがって。そんなふうにいつも擁護してやるからだめなんだ。アイツの取り柄はしみったれでないことだけだ」
「ほんとに社長は気前がいいですね。見るからに大黒様だ。だから打ち出の小槌を持ってて、金がどんどん出てくるんでしょうかね」
 赤井君も隙をついて、さっき落とした分を持ちあげれば、
「ホンマやで。アイツ、大黒天みてぇにデブりやがって。年寄りのくせに太り過ぎなんだよ。デブのくせに夏になるとピチピチのTシャツ着るから、年ごとに水玉模様が大きくなってやんの。そのうち重みで変形性膝関節症になっちまうぞ。いくら体がカロリー・栄養たっぷりといったって、頭が知性・教養スッカラカンじゃな。からっぽ人間だよ。袋だけ空気で目一杯ふくらまして中身がちょろっとしかないポテトチップスかぁ? あの体型で何で病気にならないのかね。アイツを蚊が刺したら、蚊も成人病になるんじゃねえのか? この前なんか“ワシの若い頃は痩せてて、ロビンフッドみたいに俊敏だった”だとよ。奴の自慢話はたくさんだ。あのトボケ(づら)のどこがロビンフッドだってんだ。(へそ)が茶を沸かさぁ。猿の尻笑いだ」
 箱村は調子にのって言い(つの)る。彼女にとがめられたところで聞く耳はもたない。
 ───猿はアンタの方だろう。花菱社長も「箱村は桃太郎の二番弟子、猿だ」と言ってましたよ。キャッキャッとウルさい猿なら、黙って露天風呂にでもつかっときなさい。♨イイユダナ‥‥🐵サルサルサルサル
「赤井にだってよぉ、空世辞言ってみんなで甘やかすから、つけあがって小説に見切りをつけることができねえんだ。“まだ原石で未知数だけど”って、お前に小説の何が分かるってんだ。何も知らないくせに、なんちゃらかんちゃら口を出すな。赤井は原石でなくて化石だよ、小説家の夢に凝り固まった化石人間だ。みんなで寄ってたかってコイツを不幸にしたいのか。ヨイショすんな。猫は猫のままでいるのが一番しあわせなんだ。猫が猫でなかったら何になるんだ、化け猫か」
「招き猫ですかねぇ。ところでそれって狐や狸でもおんなじなんですか?」
 赤井君も赤井君で、本筋とは全くズレた()っとんきょうな質問をする。
「お前、なに言ってんだ。なんで狐や狸がここで出てくんだ。スカタン言って俺を煙に巻くつもりか。そんな小芝居すんな、演技が下手すぎて観客からヤジられるぞ。お前の猫パンチなんか怖かねぇ、ミッキー・ロークか!」
 😿👊‥‥‥ネコ、パンチ!
「いえ、ただアイツらこのまま野放しにしといていいかと思って‥‥‥‥」
 赤井君、いったい何、素っ頓狂なことを言っているのか。ズレまくりの君は息巻く箱村とは熱量が違いすぎる。
「そんな見え透いた撹乱(かくらん)戦術には乗らんぞ。なんで家内に加勢すんだ。やたら(かば)い立てするのは、家内のミニスカートや胸元のあいた服に悩殺されたからだろう。これだから若い男はいけねぇ。デレデレすんな。シャンとしろ、シャンと。鼻の下をのばしてんじゃねえぞ。おい赤井、お前が一花咲かせたいわけでも、一旗揚げたいわけでもないこたぁ分かってる。まったくギラギラしたとこがないからな。ただ自分の本を残したいだけなんだよな。そんな野心のないコイツが奇跡的に賞を取ったとする。目に浮かぶぜ。喜ぶのは一瞬。すぐに自分みたいな凡人以下の人間がこんなに祭り上げられてしまっていいんだろうか、と悩み出す。本当は他にもっとこの場所にふさわしい力のある人がいるんじゃないのか、ってな。もしかしてこれで一生分の運を使い果たしてしまったんじゃないか、なんて思えてくる始末だ。で、後に少しでも不運なことがあると『やっぱりそうだった』ってなる。こんなの明らかに錯覚なんだけどな。コイツはそんな呪縛されやすいヤワな奴なんだよ。守ってやろうと思わないのか。まっ、心配しなくたってどうせ一発屋なんだ、奇跡は二度と起こらない。死ぬまで鳴かず飛ばずだよ。必ずそういうふうになる。その後は、周りにたかるズルい連中にトイレットペーパーみてぇにカラカラからみ取られて、痩せた体がますます細くなっていく。身も細る思いってか! そんなの目も当てられんだろう。赤井、小説は今のお前にとって、悪魔が仕掛けた落とし穴だ。悪魔の落とし穴はさけて通れ!」
「悪魔って、それ、ちょっと大袈裟すぎません?」
「大袈裟なもんか。悪魔が嫌なら神でもいいぞ。いいか、運命は神の手の中にある、これに異論はないな。神様は俺たちを見守っているんだ。そこで“小説家への道を選んでいいですか?”と尋ねる。けど、いくらそう問いかけようが神様は答えてくれないだろう。沈黙だ。ただ見守っているだけ」
「学芸会だったら、神様が形あるものとして登場して、話し出すんですけどね。動物も樹も、お空や雲にまでセリフがある」
 つい小ボケを挟んでしまう赤井君だったが、箱村は気に入らないらしく、
「そういう受けないギャグはいらない。学芸会は学芸会だ。神様は霊体としてそこにある。形があったら変じゃねえか。大事なところなんだ。いいか、そういうふうに神様の答えがどっちか分からないときは、もう問いかけずに、何もしないでじっとしてろ。実際に神様の答えがどうだったとしても、お前の運命は定められた通りになっていくだけだからだ。裁判で証言者がイエスと言えばお前は有罪になり、ノーと言えば無罪になる。相手はどちらを言うか分からない。そんなときは証言者に質問なんかしちゃいけないんだ。何も問わず、何もせず、そのままじっと黙ってじっと動かないでいることだ。それがいちばん傷つかずにいられる方法だよ。お前、死んだお母さんやお父さんの行き先を知りたいか?」 
「知りたいです」
「なら神様に教えてもらうか?」
「知りたいけど‥‥‥でも‥‥‥」
「そうだろう。知らないほうがいいんだ。お前の親ならたぶん天国に行ってるだろうが、“まさか”ってのがあるからな。だから神が沈黙してるのなら、行動を起こさずこっちも沈黙していろ。それが一番いいんだよ。小説なんかもう出さずに、じっとしてろ。小説を出しては落とされ、また出しては落とされ‥‥‥お前のしてることは砂漠に水を撒いているような‥‥‥いけね、このマンネリな比喩は前にも使ったか。お前のしていることは、コップで水を海に足してるようなもんだ。いくら水を足しても水平線は近づいてこないぞ」
「まだちょっと意味が‥‥‥飲み込めません」
「アホか。この斬新な切り口が琴線に触れないってのか。こんなのニュアンスで分かるだろう。日向(ひなた)ぼっこでもしてんのか。脳ドックに行ってスキャンしてもらえ!」
 傲慢な言動に業を煮やしたのか、彼女が割って入る。
「アホはアナタのほうでしょう。話がトンチンカンだから意味が分からないのは当然よ。“神様が見守ってる”ですって? お賽銭箱(おさいせんばこ)を見守ってるのは神様じゃなくて防犯カメラでしょう!」
 うまい、ナイスぼけ!──と思わず(うな)りそうになった。さすがぁ、絶妙なタイミングで押し込んできたんじゃな〜い?
「ナイスぼけ? 赤井、何ごちょごちょ言ってるんだ」
 しまった。知らず知らず声に出してしまっていたらしい。僕の悪い癖だ。
「ボケてるのはお前のほうだぞ。小説家になって自己実現とか言ってるが、いつまで自分探ししてるんだ。それこそ道に迷ったボケ老人の徘徊だ。じゃ、もっとシンプルに言い換えてやるよ。人生に目標をたてることでそれが重荷になるなら、そんな目標は設定しちゃいけねぇってことだよ。小説家になるなんて目標を設定したら、目標に拘束されて、たださえ不幸な今がますます不幸になっちまうってことだ。お前は人形遣いに操られるままでいいんだよ。いまは目を閉じてろ。そうすれば苦しみの時間は(おの)ずと過ぎ去っていく」
「まだピンときません。半分理解できて半分理解できないというか」
「あらあら、アホの二乗だな。ぜんぶ話が素通りしちまうのか、お前は吹き抜けの風か。こんな分かりやすいニュアンスも汲み取れないとはな。しゃあない。もっと単純に言えばこういうことだ。あるところに赤井というアホがいました。彼は才能がないのに、苦しみに耐えながらせっせと小説を書いては色々憂き目を見ている。やめればいいものを一向にやめようとしない。それを空から眺めていた神様は、“彼は苦しむことが好きなんだな、それが証拠にあれだけの目に遭ってもまだ続けている”と思う。だったら、もっともっと苦しみを与えてあげようじゃないか。それが今のお前の泥縄人生の本質だ。もっと人生を楽しめ。嬉しいことで胸を満たせ。そうすれば神様もこの人は“楽しむことが好きな人だ”と思って、ハッピーな出来事をどんどん与えてくれるようになるんだ。この世の中、精一杯努力しても報われないことのほうが多いだろう。自力でダメなら他力でいこうぜ。もうちょいと神様仏様に寄りかかった生き方をしてもいいんじゃねぇか」
「だからさっきから賽銭箱を見てるのは神様じゃなくて、防犯カメラだって言ってるでしょう」
 と、たまりかねた彼女が再び。おっとスリップ事故だ。さすがに二回目は見事にダダすべりである。これもご愛敬か。
「あたしなんて、残酷な殺人事件が起こる度、神様なんていないと思うわ」
 名誉挽回、ひっくり返った彼女がむっくと起き上がった。
「‥‥‥それに、お賽銭目当ての神様なんかに魅力は感じないし」
 さすが転んでもただでは起きぬ、だな。
「お前、神様をおちょくってると御利益(ごりやく)が逃げてくぞ。いちいち俺の話の腰を折るな」
 一方、箱村の返しはどっ(ちら)けだ。もろズッコケて、転んだままずっと起きてこない。寝たきり老人ならぬ、寝たきりオッサンだ。
「箱村さんの話にはついていけるんですけど、ちょっと内容が抽象的すぎて‥‥‥」
 赤井君は相変わらずだ。
「ア~ぁ、家が貧乏だったのかもしれないが、地元の地味な公立大に何年もくすぶってるよな脳ミソじゃな。理解できねぇのも無理ないのか、こんなの当たり前田のクラッカーやないかい」
 あたり前田のクラッカー? 超古くさっ! “てなもんや三度笠”のCMじゃないか。なんで六十年以上前のギャグがここで出てきますねん。
「そんな言い方ってないでしょう! 人を見下げて! それを言ったらおしまいでしょう。失礼にも程があるわ! なんでそんなこと言うのか説明して頂戴!」
 ふいに、口をつぐんでいた彼女のマグマが噴出した。激昂(げっこう)している。
 ───「それを言ったらおしまい」って、そっちの方がもっと失礼なんじゃないの? フーテンの寅サンじゃあるまいし、そんなぁ、身も(ふた)もない。昔はどうだったかは知らないけれど、これからの日本はどこの大学行ってようと、そんなこと背の高低とかイケメン・ブサメンとかと同じで、大して変わんないと思うけどなぁ。
「ふん、激おこプンプン丸か。怒りジワがふえるぞ。“そんな言い方ってないでしょう”って、そんな言い方ってどんな言い方なんだ。ノッポの俺はチンチクリンの赤井を見下げるしかないだろう。身長がちがうんだよ、身長が!」
 箱村は即答したものの、答えになっていない。ただギャグを言っただけだ。
「なんなの? その古臭いジョーク。赤井さん、騙されないで。この人、いつもダラダラと長話するだけで中身が何にもないんだから。いつもこうなのよ。都合が悪くなったらボケで逃げる。職場でこの人と(たわむ)れてたら大変でしょ? ウザすぎて」
 話を向けられたのは赤井君なのだが、反応したのは箱村の方で、
「お前ら二人グルなのか! 俺だけ蚊帳(かや)の外に置くつもりか! 蚊帳ったって、赤井、古くてお前には分かんないだろうけどな。俺はただお前が若い頃の俺そっくりだから居ても立ってもられないだけなんだ!」
(`□´)ホビホビィッ!
 大声をはりあげる箱村。ほとんど意味をなさない空疎な言葉で防戦している。興奮したのだろう、声の調子が一オクターブほど高い。今にも裏返ってしまいそうホビ‥‥‥。
 これが昼間、「歳を取るほどに心の平安を保つため思考訓練が必要だ」などとドヤ顔で(のたま)っていた男のザマであろうか。あのドヤ顔はハッタリか。ただの水戸黄門の印籠だったのか。その印籠だってきっと贋物だろう。小説ばかりでなく、あらゆることが理想と現実は違うんだな、と改めて思い知らされる赤井君である。
 ───さてはこの勝負、最初から旗色が悪いと踏んでるな。きっと家庭内でもこうなんだろう。くんずほぐれつの名勝負とはいかず、いつも返り討ちに違いない。だいたい脳のつくりから言って、言葉で男が女に勝てるわけがないのだ。
 威嚇する者は恐れている。あえて大声を出すのは理屈で言い負かされるのを知っているからだろう。時に怒りと見えしものが恐れの反動だったりする。それは表面上では分からない。
 国家間でもそうではないか。威嚇する国は恐れている。どこの国とは言わないが、不安な国ほど、やたらミサイルを発射したり核実験をしたりと、相手国に軍事的優位を示すことに躍起になる。やたら吠えまくり、力のあるところを誇示したがる。怒って相手を威嚇さえしていれば、身の安全が確保されると思っているのだろうか。
 小説家のウォルター・スコットや劇作家のジョン・ウェブスターは「臆病な犬ほど大きい声で吠える」と言っている。なるほど。ではなぜ犬は臆病になったのか。
 周りの人たちにずっと愛されて育った犬は安心しきっているのであまり吠えない。一方おびえている犬はよく吠える。それは過去に危害を加えられた経験があるからなのではないのか。そんな犬は周囲が敵だらけに思える。だから加害を寄せつけないように必死で吠えまくるのだ。
 人も同じなのではないだろうか。怒りで威嚇する人は、一定期間、他者からひどく害されつづけた体験がある。明るく振る舞い隠しているが、箱村にもそういう過去があるのだ。
 彼は昨日こう言っていた。
 ───妻がギブ・アンド・テイクの打算の女でなかったからよかったものの、妻がいてくれなきゃ今ごろ橋の下で野垂れ死にだ───と。
 けだしこれは本音なのだろう。箱村の場合、その感謝が屈折した形で彼女に対して表現されている。好きすぎる女の子に、なぜか意地悪してしまうガキみたいなもんだ。
 生まれつきそういう(たち)で照れ臭いのかも知れないが、女には正直が一番。ちゃんと包み隠さず、本心を口にしないと伝わらないよ。心の底では彼女を頼みの綱にしているくせに。
 彼のこれまで辿ってきた道のりは、あの言葉によく透けて見える。若くて血気盛んな頃には、社会の底辺に這いつくばりながらも、食うか食われるか、生きるか死ぬかの覚悟で小説に取り組んだ時期があったに違いない。だがそんなもの、いずれ限界に達するに決まっている。当然夢破れ、打ちひしがれて、明日をも生きていけるか怪しいほどに土俵際に追い込まれることになる。
 そのあたりだろう、彼が自分の立場の弱さから多くの心ない人達の言動に害され出したのは。無駄に図体がデカいだけに、人の嘲笑が骨身にしみた。屈辱の大きさに人生を呪ったことだってある。
 そうしてその屈辱の時がはるか昔のものになってしまった今でも、ときおり過剰防衛本能が誤作動してしまうのだ。決して害されるはずもなく、感謝すらしている自分の妻に対してすら。
 これらはたんなる想像に過ぎないことだが、もしかすると彼はこれまで僕など足元にも及ばないほどの苦杯を()めてきたのかもしれない───そう思うと、この箱村の醜態にも一抹の同情を禁じ得ない。
 ともあれ、こんなことばかり詮索していると、またいつ箱村の思いがけない言葉に息を呑む破目(はめ)になるやもしれない。
 お前の知ってる俺が本当の俺だと思うのか?───耳朶(じだ)に残るあの言葉。今更ながら気になる。
 また得体の知れない不安に突き落とされるのは嫌だ。くわばら、くわばら。
「いいか、よく聴け。赤井は小説から足を洗うんだ。なあ赤井、約束したよな。その心に積もりに積もった小説という(ほこり)をきれいサッパリはらい落とそうぜ。俺に言わせりゃ、コイツはようやく稚魚から幼魚になった段階だよ。今みたいに人の評価軸に惑わされてるようじゃ、小説なんか書いちゃいけねえ。まだしっかりした自分の評価軸が確立していない間はな。主体性がないんで、画策して周囲に現れる亡霊どもに踊らされるばかりだ」
「あ~らアナタ、さっき赤井さんのこと、『人形遣いに操られるままでいいんだよ』って言ってませんでした?」
 彼女も負けてはいない。揚げ足とりで一刀両断に切り捨てる。
「なんでお前は、そんな片言隻句(へんげんせっく)をとらまえてグチャグチャぼじくるんだ。知ってるか? そういうふうに相手の話をいい加減につまんで、本筋から離れたところから反論するインチキ論法を、案山子(かかし)論法とか(わら)人形論法とか言うんだ。憶えとけ」
「あなたの話はツッコミどころ満載で、藁人形と五寸釘が幾つあっても足りないわ───(ワラ)(ワラ)(ワラ)
 うまい! ワラあり、じゃなかった、(わざ)あり!‥‥‥( ˘ω˘ )オモロナ~
「お前はお服装も恥知らずなら、いちいち言うことも恥知らずだ。()っせえヤツだな。体も小さいが、肝っ玉も小さいぞ。赤井を見習え。赤井はチビでも心は大きいぞ。コイツはポチだ。だからコイツがそばにいてくれると幸せホルモンがドバドバ出てくる。お前と違って聞き上手だろう。“聞き上手”というのはだな、正確に言えば“聞くふり上手”ってことだ。コイツを見てれば分かるだろう。いつも人の話をボケーッと聞いているふりをしてる。実は聞き過ごしてるだけで、内容は半分も頭のなかに入っていない。理解できなくてもできたふりしてウン、ウンと生相槌(なまあいづち)を打つ。そういうふうに余計なことはいわずに聞くふりをしてもらう方が、話し手はよほど気持ちがよくて嬉しいんだ。馬耳東風でいいんだよ。お前みたいに何でもかんでも批判的に聞いて、いちいち議論をふっかけてこられたら誰だって不愉快になる。お前も時には壁テニスの壁になって聞き流せ。お(しと)やかに見られたかったら、お花さんみたいに黙ってちょこんと咲いてろ。そうだよ、少しは肝っ玉カアチャンになってみろってんだ。ホンマに人ができていないよな、まったく」
 そう悪態をつくや、箱村は黙りこくってしまった。お喋りラジオが喋り過ぎて故障したのか。人ができていないのはどっちだろうか。黙して語らず、貝になっている。煮えたぎった感情を()ましているのかもしれない。仏頂面で料理を口に運ぶのみ。三度の飯より話すことが好きな箱村にしてこの姿、ざらに見れるものではない。
 やれやれ、御両人は子供なのか。さっきから大人げなくスイカの種の飛ばし合いばかりしている。この言い争いを何とか丸く収める手立てはないものだろうか。亀裂は広がるばかりだ。
 ほどなくして箱村がようよう口を開く。
「ほんで赤井、なんで黙ってんだ。脳死か。なんか言いたい事ないんか。ボケっとして、エイリアンみてぇに宇宙と交信してる場合じゃね~よ。うわの空のままゆらゆら揺れる遊覧船か。今お前のことを話題にしてるんだかんな。スイカばっか食ってる場合か、お前が丸ごとスイカになっちまうぞ。この真空からっぽニイチャンがぁ。少しは頭を働かせろ! 頭は頭突きのためにあるんじゃねぇぞ!」
 なんでやねん、言いたい放題だ。困ったからって急に前面に押し出してくれるなよ。やれ、流れ弾が当たっちまった。何もこっちにお鉢を回さなくてもいいのになあ。さてさて波風を鎮めるいい方法はないものか。漫才よろしく、ここで下手な突っ込みを入れるわけにもいかないし。
「あぁ、それでスイカなのかぁ。それを言いたいんですね、プロの小説家なんかになろうとしたら、仔虫(こむし)どもが寄ってたかって甘い汁を吸いに来るってわけだ」
「おいおい、お前のギャグのセンスは分かったから、さっさと本題にはいってこい」
 本題といわれてもなあ。面倒くさい人だ。
 赤井君は板挟(いたばさ)みに苦しむ。せっかくのスイカの味がしなくなった。何なんだ、この浮き上がった感じは。
「なに当惑した顔をしている。厄介(やっかい)な奴だ。質問でもいいぞ、何でも答えてやる」
「さっき箱村さん、僕の評価軸がまだ確立していないと言ってましたね。それってどういうことなんですか?」
「いい質問だ。ナイスフォロー、やるじゃないか。ジャストミ~~~ト! (さく)ごえホーマーだぞ」
 箱村の顔が満面の笑みをたたえる。別にフォローした覚えはないが。いい質問だとニコッとするところを見ると、どうやら箱村の喋りたいこととピッタリとマッチしてしまったらしい。
 失敗した。しまった、しまった、島木譲二(しまきじょうじ)のポコポコヘッド!(パチパチパンチもあるでよォ٩(ˊᗜˋ*)و)
 バカさ加減に自分の頭を叩きたくなる。これは長いぞ。迷路の扉を開いちまった。いつまでも出口が見つからないぞ。今さら気づいたところで後の祭りだ。
 はたせるかな、振ったシャンパンの栓を抜くように箱村の口から言葉が噴出した。
「俺が言いたいのはこういうことだ。誰がどう思おうが、たとえ多くの人の求めるものと違っていようが、赤井カサノ独自の価値観さえしっかりしてりゃいいんだ。そこに上下なんてない。だけどコイツにはそれがない。あってもグラグラしてる。赤井の小説のモチーフは何だ? お前も食い入るように読んでたから分かるよな。旗印は“人生は砂漠、こんなにも辛いのになぜ生きるのか”だ。それなのに、小説書いて賞に応募することが砂漠に水をまくに等しいことすら気づかない‥‥‥‥てか、気づこうとしていない。だから駄目なんだ。軸がしっかりしていない。錆びついて動かない自転車を無理やり押して歩こうとしている。これじゃ、いいように利用されて潰されるだけだ。あれだけの応募数があるんだから、賞が誰のもとに降りてくるかなんて神様にだって分からないよ。なぜ分かんないかってぇと、賞を誰のところに降ろすのか決めるのは神様でなくて悪魔だからだ。今の赤井は弱っちいから駄目だ。とても耐えられない。いいか赤井、いつまでも(かたく)なに同じ道を歩き続けていちゃぁいけねぇ。行きなずんだら道を変えなきゃな。道を変えてたくさんの人とすれ違わなきゃ。そうしないといい人には出会えない、いい運命も向こうから歩いてこない。小説への思いは瓶にでも詰めて、栓してどっかに仕舞っとくんだ。道を変えろ。コイツは今、公務員試験の問題集を読んでるんだぞ。馬鹿だから滑るかもしんないが、受かんなかったら馬鹿は馬鹿なりにフリーターでも何でもやったらいい。お前ってレジで端数までちゃんと数えて小銭で払おうとするだろう。小銭が足りなくなってはじめて、しぶしぶ札を出すタイプだろ。後ろに何人ならんでいようがお構いなし。そういうとこだけ変に図太いんだよな。そんな渋ちん体質ならフリーターで充分やってけるよ。堅気な仕事だったら最低限食いつないでいくぐらいはできる。俺を見てみろ。これまでずっと行き当たりばったりだ。自慢じゃないけど、この年になるまで一度も正規社員になったことがない。でも立派にここに生きてるじゃないか。少なく働き少なく消費する生き方こそ人を幸福にするんだぞ。お前はそんな一番賢い生き方をすることになるんだ。多く働き多く消費する有名人や上級国民どもを観察してみな。見てると自分の自由になる時間がほとんどない。奴隷といっしょだな。しかも奴隷であることに気づいていない。これからの日本はどうなっちゃうか知んないが、お前には自由な時間がたっぷり与えられるだろう。お前は歳とっても相変わらず貧乏だが、歳をとるほどに欲望が小さくなり思うほど生活に金は要らなくなることを知った。お前の生き方は正解だった。そうして年月が経ち、初老にさしかかったとき、コイツは自問するんだ。“スティーブ・ジョブズの人生と僕の人生とどっちが幸せなんだろうか”と。ニッコリ笑いながらコイツは呟くだろうよ。“僕だ”ってな。お前は華やかな大輪の花を咲かせなくてよかった、道端に咲くちっちゃなタンポポにすぎなくてよかったんだ。当然だよな、ジョブズは56歳の若さでガンで死んだ。『ハングリーであれ、愚か者であれ』と語ったジョブズは、実際にこれまでずっとハングリーで愚か者の人生を歩み続けてきた未来の赤井に負けている。口先だけで言う奴と、それをこれまで実践してきた奴とでは勝負になんねぇわ。なんたって赤井よりずっと短命じゃねぇか。言ってることとやってることが矛盾してたんだよな。大金持ちで、天才の名をほしいままにしたジョブズのどこがハングリーで愚か者なんだ。笑っちゃうよな。だけど彼は世界長者番付の上位常連であり続けるためには過酷な競争に勝ち抜かなければなんなかった。そのためにどれだけの怒りや不安や苛立ちや恐怖に心が痛めつけられてきたかことか。若くしてガンになったのはそのツケを払わされたんだ。(かた)や赤井はジョブズよりずっと歳をくってるのにまだ生きている。たいしたストレスもなくノホホンここまで来れたおかげだ。誰の人生も見通しのよい直線じゃない。それなりにグニャグニャ曲がりくねっている。だがコイツの人生は幸いなことに、狭すぎる小道だけどギリギリいっぱい何とかまっすぐ続いていた。たしかに波瀾万丈ではない。四捨五入したところで大して変わりばえしない俗人の人生。されど、安倍首相が銃弾に倒れた年齢を過ぎてもコイツは健在だ。まだピンピンしていて、『安倍さん、頑張って日本の頂点に立ったのに、若くして気の毒でしたなあ』などと半ば他人事。そして自分が何の変哲もない凡人であったことに感謝する。日本版『イワンのばか』だよ。人の寿命の長さは健康診断の数値で決まるわけじゃないぞ。生きているうちに、怒りや妬みなどのネガティブな感情をどれだけ刻んだかで決まるんだ。高木ブーを見れば、それ、分かるよな。そうだ、本物の高木ブーの方だ。偽者のアイツじゃない。太ってて、いかにも数値が高そうなのに、御歳(おんとし)九十歳を超えてるだろう。超繊細な赤井に高木ブーみたいなボヤーッとした生き様ができると思うのか。かりに有名になんかなれば、日々怒りや不安や苛立ちや恐怖などのマイナス感情でどんどん寿命が削られていくよ。動物だって同じだろう。いつも人間に追いかけられ、せこせこと逃げ回るネズミは寿命が短い。亀や象みたいにゆっくりとしか動かない動物は長生きだ。ダラダラしたモノグサで、ストレスさえなければ長く生きれるんだ。交感神経より副交感神経の優位な奴ほど長生きするんだ。お前、ナマケモノだろう。ほんらい長生き系なんだ。なのに作家になって、ストレスまみれで常に時間に急き立てられる人生を選ぶのか。なぜ自ら自分の命を()ぎ落す。絶望的行為だぞ」
「あの~ぉ、そろそろお(あと)がよろしいようで‥‥‥」
 と、眠くなりだした赤井君がそっと探りをいれれば、
「何を言うか! さっき聞き上手と褒めたばっかしじゃないか。話の途中で高座から引きずり下ろすつもりか、これからなんだよ、これから」
 逆に勢いづかせてしまった。箱村のテンションはいよいよ上がる。
「赤井、今のグダグダ人生をまっさらなノートに差しかえろ。手垢にまみれた過去のノートは破り捨て、白紙のページから新たに書き始めろ。お金や名誉や権力をたくさん与えられるより、時間をたくさん与えられる方が人生にとってよっぽど大切なことなんだ。お前、二人分の財産を持つのと二人分の寿命を持つのと、どっちを選ぶ? 最後には一番鈍くさい奴が幸福になるのさ。トルストイも泣いて喜ぶぜ。起承転結、人生の四コマ目はいつもハッピーエンドだ。 “過去と未来とどっちに行きたい?”とそのとき問われたら、赤井は即座に答えるだろう。“どこへも行かない、今がいい”と。小説に打ちのめされていた若き日の思い出は、もはや遥か遠くに響く雷鳴の音でしかない。そんなもんは古い日記帳の、破り捨ててしまいたい数ページに過ぎない。もう若い頃のように泥の中を這いまわらなくてもいい。そうだよ、現在さえよければ、過去のどんな辛い出来事も懐かしい思い出になる。それからだよ、コイツが再び小説を書きはじめていいのは。知らぬ間にコイツはジジイになっていた。光陰矢の如しだ。いよいよ瓶の栓をぬく時が来たんだ、仕舞っておいた瓶を取り出せ! 初老になったコイツはちんたら気が向いた時に小説らしきものを書いて、たまにネットの小説サイトに掲載してもらい始めた。水木しげるの幸福論よんだことあるか? 水木しげるは『幸福の七か条』ってのを言っていて、その第六条は『怠け者になりなさい』だ。若い時はよくないけど、年取ったら怠け者でいいんだよ。お前はもともとナマケモノだから分かるよな。若い頃は身の程を知らず、自分で自分を追いつめて、それが小説を書くことを地獄にしていた。そんな日々はすでに遠い。今はどうだ。今はすっかり肩の力が抜けて、小説はボケ防止の脳トレの一つに成り下がっている。若い頃は日常の全てだったものが、今じゃ日常のほんの一部になってしまった。にもかかわらず“僕って歳とっても若い頃からあんまり力が落ちてないんじゃないのかなぁ”などと厚かましく自惚れたりする時もある。錯覚だよ、錯覚。プロになって継続して書き続け、老いを技術でカバーしていけば、そういうこともあるかもしれないがな。そういう人には長きにわたっての積み上げがある。けど、ずっと書くことをやめていた赤井にはそれがない。ぜんぜん違うんだよ。いい気なもんだ。せいぜいもともと力のなかった者が歳をとっても、これ以上力を落としようがなかったってところだ。亀は歳をとっても亀。本気をだした兎には勝てない。でも物語では勝つことになってるんだ。そう信じてりゃいいよ。寄る年波に勝てないで、やめちゃうのは時間の問題だろうが、今んとこ細々と続けていく気はあるようだ。趣味ってぇのは、そういうもんだよ。平和だな。幸せなお爺ちゃんだ。どうだ、物語の世界に入って玉手箱でも開けてみるか。ジジイになったそんなお前の姿が浮かんでこないか? エスカレーターの最初の一歩が怖い、そんな老いぼれた赤井がその時どんな自画像を描くか楽しみだよ。プロの作家になる? 若い頃、なんてアホなことを考えていたんだ。どんなに好きなことも、強制され自分のペースでできなければ苦痛に変わるに決まってるじゃないか。小説を書くことがいくら好きでも、それを職業にしたら金銭上のことや人間関係や、その他アレコレで途端に書くことが苦痛になる。そんなこと当り前だよな。けれどもある程度歳をとるまで気づかなかったんだ。何やってたんだ、僕は。赤井はそう言いながら頭を掻く。なあ赤井、それがお前の将来だぞ。ハピネスはなるもんじゃなくて、やって来るもんなんだ。知ってるぞ。お前いつも夕方、スーパーのなかをウロウロして、惣菜に値引きシールが貼られるのを待ってるだろう。小説もそれとおんなじだ。待てるよな、その時まで。お前はまだ若い。前途には人生の大半がまるごと広がっているじゃないか。なるほど今が未来への不安でじっと運命線を眺める毎日だというのは分かる。されど人生、シャカリキになって急いだところで危ないだけだ。安全運転でいけ。どっちにしたって毎回信号待ちで、(きし)む自転車のペダル音に追いつかれるんだ。同じことだよ、同じこと。赤井、耳をかっぽじってよく聴け。人生はモザイク壁画だ。近すぎては理解できない。離れてみて初めて理解できる。赤井、お前も実際に歳をとってみれば、俺の今いってることを身に沁みて納得するようになる。今の不安も懐かしい思い出となる日がきっと来るんだ」
 やたら長い文章にようやく句点を打ったか。饒舌ぶりはいつも通り。ちょっと蛇口をひねっただけで、箱村の口から銀河がほとばしり出てきた。
 滔々(とうとう)と弁ずるのは結構だが、僕の質問に答えたのは最初のほうだけ。あとは話があっちに飛んだり、こっちに飛んだり。あらぬ方向にどんどん広がっていく。口を開いて熱がはいってくると、その口が閉じるまでに相当の時間を覚悟しなければならない。
 なんとか長丁場(ながちょうば)をこっくりと居眠りせずに乗り切ったものの、悪くすれば高木ブーよろしく途中で寝てしまいそうになる。
「まぁ〜いろんな話が出てくること。もう、うんざり。そのうち鳩が出てきたり、ステッキが花に変わったりするんじゃないのかしら。何かと言えばオレオレと自分の言いたいことだけ話さないでよ、振り込み詐欺に聞こえてくるじゃない。ペラッペラッな人ね。そんなに長く話すのなら少しぐらい厚みのあることも話せばいいのに。ホントにお花畑男。だらだらと語っていながら実は何も語っていない。中身スカスカね。独活(うど)の大木だわ。“沈黙は金”って慣用句しらないの? 自慢げに(なが)ながと喋るだけ喋って。男のくせにベラベラと、みっともない」
 たまりかねた彼女が口を開いた。言葉にはかなり(とげ)がある。箱村との不協和音は相当なものだ。
「また噛みついてきやがって、ゾンビ女がぁ! そのうち悪霊に憑りつかれて、ゆっくりと首だけ回るんじゃねぇだろな」
「それってゾンビじゃなくてエクソシストでしょう」
 と、赤井君が間抜けな突っ込みを入れども箱村はガン無視で続ける。
「あのなぁ、“沈黙は金”ってことわざには続きがあるんだよ、“沈黙は金、雄弁は銀”ってな。わざと端折りやがって」
「あ~ら、雄弁だって言ってもらいたいの。辻立ちして選挙演説でもしたら? 有権者はみんな逃げ出すでしょうねぇ。あなたのオツムの引き出しはどれもこれもガラクタをいっぱい詰め込んで、今にも(あふ)れ出しそうだわ。少しは整理整頓しなさい!」
 なにやらバカ息子を諭すお母さん口調になっている。強い筆圧で上から抑え込む腹だろうか。
「なんやて?」と身を乗り出す箱村。色を()している。
「おんどりゃあ、小馬鹿にしとるんじゃなかろうな!」
 頭の中で怒りの花火が()ぜたようだ。煮えくり返っている。思わず寄せ鍋の具材を入れたくなるほどだ。
 さては彼女、意図的に起爆装置を踏んだな。どうやらバカ息子呼ばわりが箱村のアキレス腱らしい。そう言やぁ、さっきから見てるといかにも駄々っ子やドラ息子の雰囲気プンプンだもんな。そろそろ消火活動開始の準備をしておかないと。
「わたしは(めす)よ。メンドリゃあ!」と笑いながら彼女は反撃だ。本当に小馬鹿にしていた。
 うまい! 座布団もう一枚! 言い争いばかりでなく、ギャグの切れでも箱村は奥さんに負けている。
 図星を指さされたらカッとなるというのは、人の標準的な反応だ。自己保存本能が相手の攻撃を抑止するために、怒りの衝動を自動的に発動させるからである。
 突発的に怒りがこみ上げたときは、相手の言うことの方が客観的に正しいことが多い。それを認めたくないから生理的に拒絶反応が生ずるのだ。
 他人の言葉にカチンときたら、自分を守ろうと潜在意識が機械的に怒りを生成したんだな、と内観する余裕がほしい。なぜならこういう時こそ冷静になることで得られるメリットが大きいからだ。
「そうか、そういう見方もあったのか」と自分の考えと並列的に比較検討し、相手の言うことが正しければ修正し、やはり自分の方が正しいというなら、いよいよ自分に自信を持てるではないか。むしろ別の角度から考察できたことを喜ぶとよい。
 また立場を入れ替えて、自分のちょっとした言葉に相手が瞬間的にカッとした場合を考えてみる。図星を指されたら怒り出すというのが人の平均的行動パターンであるとすれば、自分のその言葉は一面、相手の本質を突いていると見ることもできよう。相手の人となりを分析するのに資するところ大である。
 ともあれ怒りという感情からは、自分相手を問わず、察知しうることが少なくない。大いに活用しなければ勿体ないのである。
「お前、俺が話してることが実は全部つながっていて、全体として一つの物語になってることに気づかないのか! 赤井はもう薄々気づいてるぞ。お前は何年俺と一緒に暮らしているんだ!」
 箱村は赤井君に心理分析の標本されているとも露知(つゆし)らず、自分の世界にはまり込んでいる。
「あらまあ、また妙ちくりんなこと言い出した。赤井さん、そんなことに気づいてる?」
「いえ、まあ、その、ちょっと‥‥‥」
 赤井君は言葉に窮する。
「おい、気づいてるだろう。正直に言え!」
 興奮がおさまらないようだ。完全にいっちゃってる。いくら火消しに走ろうが、鎮火するのはもう無理だ。(らち)が明かない。消火用バケツの汲み置きが(から)になっちまった。
 板挟みにあう赤井くんを尻目に、彼女が間髪を容れず反論しはじめた。早口だ。舌プロペラが回る。島田紳助ばりの速射砲だ。
 テンポが速すぎる。こりゃ、速記録がいるな。モタモタ口調の箱村と違って、よどみなく滔々(とうとう)と話す。これじゃ日常生活で二人の波長がズレてくるのも当然だよな。
「なんて滑稽な夢物語、話してるの? 起承転結って言ってたけど、あなたの思考も全く起承転結がないのね、前と後ろ、最初と最後がくっついちゃって中間がない。あなた、自分の話している内容、きちんと把握できてる? 思いついたことを思いついたままにダラダラならべてるだけじゃないの? 自分が話してるくせに、自分が何を話してるのか分かってないんじゃないの? 頭で考えるんじゃなくて、舌先で考えて喋ってる。池上彰みたいにもっと要点をズバッと言えないのかしら。どうしてスティーブ・ジョブズがここに出てくんのよ!」
 赤井君の戸惑う一方で、彼女は語気を強めて箱村に食ってかかる。真顔だ。
 二人の間にさらにバチバチと火花が散り始めた。
 自分のことで真剣になってくれるなんて‥‥‥‥と、赤井君にはちょっぴりそれが悦ばしい。彼女の口から“池上彰”という名前が打ち合わせでもしたかようにスルリと出てきた時は、花菱の的はずれな得意顔を思い出してしまい、思わず失笑しそうになった赤井君である。火消し役を半ば諦めた彼はお気楽なもんだ。観客席から模様眺めに徹している。
“池上彰”はいいかげん耳に馴染んだワードだ。同じワードを何度も聞くと、刷り込みでホントに相手が池上彰レベルの人間に思えてくるから恐ろしい。実際に花菱が池上彰レベルなら、地球が逆回転してしまうことだろう。
 それにしても僕の小説なんてそんな夫婦喧嘩するほどの大きな問題なのだろうか? 二人とも、ちょいとのめり込み過ぎてないかな? 
「赤井さんがお爺ちゃんになる頃には、みんなスティーブ・ジョブズのことなんか忘れてるわよ! 小説ってどんどん売れなくなってるでしょう。漫画や映画やゲームや‥‥‥そういう他の娯楽媒体にどんどん埋没しちゃってる。(すた)れていくんじゃないの? 町の本屋さんもどんどん潰れていくし。あ、消えた、また消えたって。たとえ本屋さんが一店もなくなったって町はスカスカにならない。前と同じように活発に動いている。本って元来そういうもの。小説なんて今じゃ、時代にとり残されて、どんどん間引(まび)かれていく郵便ポストみたいなもんでしょう。赤井さん、そう思わない?」
「たしかに。消えていくスピードは、もうそれ、ポストどころか公衆電話なみかもしれませんね」
「そうでしょう。小説を延命させようと関係者がいくら頑張っても、赤井さんがお爺ちゃんになる頃にはどうなっちゃうんでしょう。ほとんどの若者が漫画の吹き出しや映画の字幕やSNSぐらいでしか活字を読んだことがなくて、『小説って何?』って訊いてくる子ばかりになるんじゃないかしら。国語の教科書にももう小説なんて載ってないかもしれない。そんな時に小説を書こうとしてどうするの?」
 なるほどそう問われれば返す言葉がない。宇宙は無限に膨張していくと言われる。けれどこの世の出来事は宇宙のようにはいかない。かつてバブル期の日本人は、経済も宇宙と同じで無限に広がっていくと信じていた。
 しかし膨張はいつか止まり、必ず縮小に転ずる。バブルは必ずはじける。バブル崩壊が起こったのは、皆が一斉に同じ投機対象に群がりはじめて程なくしてからのことである。皆が一斉に土地投機に向かってから、すぐにバブルははじけた。皆が同じ方向に走りはじめたら、それはもう崩壊していく前兆だとみてよい。
 多くの人達が小説の新人賞に作品を応募し始めたのもこの頃だったのではなかったか。ベストセラーが矢継ぎ早に出始めたのもこの頃だったのではなかったか。
 銀行や金融アナリストが「これほどの実績がある」と金融商品をいくら勧めようと、皆がそれに飛びついた段階ではもう遅い。はじける一歩手前なのだ。
 小説は宇宙ではない。かつてあれだけ膨張していたとしても、すでにピークを越えてからかなり経つ。あとは縮小していくだけなのだ。小説の勢いはこれからも衰え続けていく。
 時の流れは残酷だ。町内盆踊り大会に出てくるのはいつも同じ顔ぶれ、年寄りばかり。若者はまるで関心がない。そんな年寄りも一人欠け、また一人欠けと、そのうち誰もいなくなる。小説の読者もこれと同じなんじゃないのか? 彼女の言う通りだ。いま書かなければ手遅れになる。
「そうですね、小説って町内盆踊り大会みたいに集まってくる人が毎年少なくなっていきますもんね」
 また思ったことを無意識のうちに口に出してしまう赤井君である。彼のオツムは一体どうなっているのだ。
「この際、いっそ死んだ人も呼んで、いっしょに踊ってもらおうかしら」と彼女。
「そうかぁ、お盆だから死んだ人もみんな戻ってきてるんだ。あの時期はあの世がこの世に近づいてくるんですよね」
 彼女が微笑んだ。かわいい! 空にアイ・ラヴ・ユーの熱気球がのぼっていく。
「私たちの人生も盆踊りね。踊りの輪に加わったと思ったら、知らないうちに誰かが抜けている。一度ぬけた人はもう戻ってくることはない‥‥‥」
 そう言いながら彼女は脚を組みかえる。意識して組みかえているようにも見える。赤井君の瞳はその色気にらんらんと輝きだす。
 ───この雰囲気、なかなかいいんじゃないの? 恋の盆踊り大会に二人して大フィーバーしちゃいたい気分だ。
「ふん、しょぼくれていくのは小説だけじゃないわな。まるごと日本もそうじゃねぇか、するっとまるっとオワコン・ジャパンじゃねぇのか」
 箱村は小声でごちょごちょ独り言である。忘れていた、そういえばアンタもここにいたんだな。なにをスネているんだ。二人のいい雰囲気に嫉妬でもしたのか。
「アナタ、赤井さんが年取ってから小説書いて“僕って若い頃と比べてもあんまり力が落ちてないんじゃないのかなぁ”って思うと言ってたわね。だけど赤井さんの若い頃の作品なんて、その時にはもうこの世に残ってないでしょう。だからそんな勘違いをしちゃうんだわ。現に実物を読んで今書いてる作品と比べようがないからそんな錯覚するの。タイムマシンに乗って若き頃の作品を読みにいけば、そのエネルギーにはとてもかなわないことを思い知らされることでしょうよ。言葉はいくらでも並べることはできるかもしれない。でも晩年になれば誰でも感性は(しお)れていくの。人のハートを揺さぶるものなんて、もう書けない。書けるのは毒にも薬にもならない水っぽいものだけ。赤井さん、あなたみたいに感性で勝負する人の最盛期は今だけなのよ。今が旬、今がピークなのよ。世にいう“歳を重ね円熟してどうのこうの”なんて話は嘘。感覚は鈍ってくるのよ。せっかくの才能が。ああ、もったいないったらありゃしない。老少不定(ろうしょうふじょう)のこの世の中、私たちより赤井さんの方が早く死んじゃうかもしれない。赤井さん、もし明日がなかったとしたら今書かなくてどうするの?」
 たいした口八丁(くちはっちょう)ぶりだ。まくしたてるスピードが速すぎて、字幕を入れてほしいぐらいだ。どちらの話が説得力があるかは別として、この舌鋒の鋭さからして、あらかた勝敗は見えたな。
 とはいえその一方で、「こういう立て板に水はちょっと嘘臭くもあるな」との印象をもってしまう赤井君なのであった。
「おうおう“老少不定”だとよ。下着だけではあきたらず、学までチラ見せしやがって。このパンツ女!」
 パンツ女? なんだ、それ? 誰でもパンツは穿()くだろう。そんな言葉は生まれて初めて聞くぞ。せめてパンティー女とでも言え。無茶苦茶だ。もういい加減にしようぜ。耳を(ふさ)ぎたくなる。ここに来て二人の積りに積もった日頃の鬱憤が噴出しているに違いない。
 箱村さん、早いとこ白旗をあげなよ。どこから見ても敗北の色が濃いですよ。こうなりゃ代わって、チャットGPTにでも反論してもらいましょかねぇ。それとも論破王ひろゆきに加勢に来てもらいますか。
 自分のことが話題になっているにもかかわらず、赤井君は傍観者的にそんな冗談を思い浮かべている。二人の熱量とは大違いだ。
 冷めた目で見れば、彼女の話も箱村とどっこいどっこいで、むしろ絵空事に近い。にもかかわらず色香に眩惑される赤井君は、断然彼女のほうが説得力があると感じている。文学賞が依怙贔屓(えこひいき)どうのこうのなどと、みっともないことを言っていた割には、自分こそ究極の依怙贔屓人間ではないか。
「せっかくの才能がもったいない? お前、そう言ったよな。今の赤井はパンツ‥‥じゃなかった。今の赤井はパンダなのか〜~い🐼! コイツが自分自身のスゲー値打ちも知らずにボケっと笹食ってるだけのパンダだって言うのか。買い(かぶ)りもいいとこだ。なるほどパンダは貴重な動物かもしんないが、残念でした。赤井はナマケモノなんだ。ナマケモノも希少動物になりつつあるが、まだワシントン条約の規制対象外だ!」
 箱村はやたらめったらアクセルを踏み込む。パンダ? ナマケモノ? いきなりそんな突拍子もないことを。何でここに珍獣たちが出てくるんだ。荒唐無稽もここまでくれば大したものである。
「パンダ? ナマケモノ? な〜に、それ。全く意味不明なんですけど。それがどうしたって言うのよ。アナタって、“大男総身に知恵が回りかね”の見本みたいな人ね。図体だけで、頭はスカスカ!」
 彼女が語気鋭く突っぱねる。
「なんだと!」
 箱村は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「デカくて悪かったな! コイツは純粋なんだ、見て分からないのか! 心が真っ白だから、ほんの少しの汚れが我慢ならなくて、の、の、のめり込んじまうんだよ。カ、カ、カルトにはまっちまう信者みたいにな。ど、ど、どっちの未来が明るいか、よくよく考えさせ、させ、させなきあゃな‥‥‥えい、くそ! 口が回らねえ」
 彼女の早口につられて、箱村の話すスピードが少し上がったかと思うが早いかこの有り様だ。アクセルを踏み込むのはいいが、ギヤを切り替えた途端ガクンとエンストである。あんたはペーパードライバーか。
 つっかかりもっかかり、戸車(とぐるま)の錆びついた引き戸。滑舌が話すスピードに追いついていない。噛みまくりだ。大地震でも来なけりゃ、その引き戸は直りそうもないな。妻から侮辱されたと受け取り、動揺しているのかもしれない。
 ───あららぁ、そんなに舌がもつれちゃって。外国人ホームステイじゃないんだから、たどたどしい日本語で話すのはよしましょや。いつも僕相手にノロノロとダラケて喋っているせいだな。アンタにマシンガントークは無理だよ。どうやら言いくるめられるのも時間の問題のようだ。
 それにしても僕が純粋だって言うの? それはすごい見当違いだ。箱村さん、大丈夫なんですか。
「あらあら、またまたお得意の視野狭窄(きょうさく)だわね。自分だけの考えに凝り固まっちゃって。あ~らそう、小説ってカルトなの? どこのどなた様がそんな支離滅裂なことをいってるのかしら。宗教を質すのが小説ならまったく正反対の世界じゃない、あきれた。どうして彼がいま小説書き続けちゃいけないの? 小説書いたらスティーブ・ジョブズみたいにガンで若死にするの? どうしてそれがあなたなんかに分かるのかしらねぇ」
 彼女は(かたく)なに譲ろうとしない。強硬姿勢は変わらずだ。
「クレマー女が、偉そうにいちいち言いがかりをつけてきやがって。俺は苦情係じゃないんだぞ。ずいぶんと挑発的な言いっぷりじゃねぇか。浅知恵女がずらずら並べやがって。なんだ、そのスカタンの提灯(ちょうちん)行列は。ちっとはゆっくり話せ。倍速で漫才きいたら倍速で笑わなきゃなんないだろう。俺には分かるんだよ! 赤井が生前書いた人生ストーリーの番外編も読ませてもらってるからな。間違って小説家になっちまった場合のヤツだ。プレッシャーに押しつぶされるんだよ。それはそれはガンよりもっと悲惨な死に方だよ、それもジョブズよりずっと若く」
「それって自分で自分に“ご冥福をお祈りいたします”って話ですか。縁起でもない。その言い方、ちょっと趣味悪くないですか?」
 と、赤井君が無理やり会話に割り込めども、箱村は取り合ってくれない。
「どうせこの世なんか、毒気の強い悪趣味なゲームだ」と涼しい顔をしている。
 一方彼女はといえば、
「この世は悪趣味なゲームだって。この人、うまいこと言ったつもりなのかしらねぇ。言葉に酔ってるだけで中身カラッポ」と冷ややかだ。
「どこが空っぽなんだ」
 箱村は眉をひそめる。
「“この世は悪趣味なゲーム”ってのがよ。中身があるなら具体的に言ってみて! どこがどう悪趣味なゲームなの?」
 彼女は容赦なく(まき)をくべる。
「それはだな‥‥‥‥それは、その~、アレだあ、アレ。その~“人生はオムツに始まりオムツに終わる”と言うことだ。これって悪趣味なゲームだろう」
 しどろもどろになっている。箱村は虚を突かれて動揺の色を隠せない。
「なに言ってんの! 介護はゲームなんかじゃない、厳しい現実よ。アタシ、アナタみたいな大きな人を介護するの嫌よ! ああ考えただけで腰が痛くなりそう。おまけにオムツまで‥‥‥」
「オムツだけにオツムにくるってか? それじゃぁ座布団はやれねえな。安心しろ、俺の方が長生きする。お前の(しも)の世話はしてやるよ。お前の骨壺かかえて霊柩車にも乗ってやる。お前がくたばりゃ、その減らず口も少しは懐かしく思えるかもしんねぇな。心配すんな、お前が死んでも合コン気分でデイケアセンターに行くから(さび)しかねぇ」
 なんで介護や葬式の話になるんだと思いきや、
「ガッハハハ‥‥‥冗談はここまでだ。そもそも悪趣味なゲームというのはだな‥‥‥」
 トンチンカンを言っている間に何か話すネタが(ひらめ)いたらしい。動揺していた箱村の態度が変わった。
「そもそも悪趣味なゲームというのはだな‥‥‥つまりだ、つまり赤井が若くして小説が入選したとすれば、才能があると自惚れ、そのおかげでプロの物書きとして地獄の日々を送ることになるということだ。その時はゲームに勝ったと錯覚している。いずれ負けてゲーム・イズ・オーバーになること必至なのにな。一方いくつ球を投げようが(まと)にかすりもしない人は、遅い早いはあってもそのうち“この世は悪趣味なゲーム”であることを悟る。『こんなギャンブル性のあることは損するに決まっている。もうやめてしまおう』と堅実に人生を歩み始め、的に球を命中させた人より最終的に幸せになる。それというのも普通の人が人生で実際に球が的に命中するのは、百回投げて一回くらいだからだ。十年修行して三十回に一回ぐらいになり、二十年修行して十回に一回、死ぬまで磨いたとしてもせいぜい三回に一回当たるぐらいがやっとだからだ」
「それで?」と彼女。
「それでって、これが全てだ」
「何よ、それ。具体的なこと一つも言ってないじゃないの。やっぱりカラッポ。私に突っ込まれたから、今までインスタントに思いつくままデマカセ並べただけでしょう。だって質問と答えがちぐはぐでリンクしてないもの」
 かまわず箱村は持ち前の支離滅裂な議論を展開し続ける。ベラベラと喋るのは結構だが、そのベラベラが強風に今にも飛びそうなトタン屋根だから困る。この話、何とか倍速でコマ送りできないものか。
「お前は他の人とは毛色の違う狭い世界に住んでいた。あるときお前の家庭に不運が襲う。生活に困り果てたお前は、小説という釣り針に食いつく。目ざとい釣り師は、隙あらばお前の特異性を何とか大衆化して金にできないものかと考えて、前もって釣り糸を垂れていたんだ。この風変わりな作風は、一発屋芸人みたいに、短期的にはゲテモノ好きな大衆の目をひくのではないかと。ひそかに近寄ってきたのはそれを狙ってのことだ。当然お前は鼻先の餌にまんまと釣り上げられる魚になる」
「魚って鼻ありましたかねぇ」と話の腰を折る赤井君。
「なんでやねん。なんでそんな(ちっ)せえ事にこだわるんだ。そりゃ、あるだろう。どうやって匂いを嗅ぐんだ。熱帯魚みてぇに薄っぺらい奴だな」
「魚だけに、ですか?」
「そうだ、ペランペランに薄くて体が透けそうだぞ」
「いいんです、それで。僕、この先つらいことがあっても透明人間になって耐えていくと決めたんです」
 二人は漫才師なの? 横で聞いている彼女は、やり取りの下らなさに今にもへたり込みそうだ。
「情けねぇこと言うな。話を続けるぞ。小説家のなかには運だけで上りつめる人もいないことはない。だが普通、力があっても運がともなわず消えていく。大勢の中から白羽の矢が立ったそのときのお前は、たまたま運に恵まれただけってことだよ。釣り師の読みは(あた)らずと(いえど)も遠からずだった。お前は何も分からぬまま駅長にされてしまった猫だ。猫駅長は自分が駅長だという確かな自覚もない。けど猫駅長は何故かニュースや雑誌やYouTubeなどに取り上げられ話題になった」
「僕、魚なんですか? 猫なんですか?」
「ほら、またつまらん茶々を入れる。そんなこたどうでもいい。要するに狭い世界から這い出たお前は、猫駅長のように何故か時流にのり、ほどなくして幾らか名が売れたんだ。だが注目を浴びていたのは一瞬、話題性などすぐに跡形もなく消え去る。いっとき行列ができたが、リピーターが来ないので、今では閑古鳥が鳴くラーメン店だ。無理もない。作品が売れたのは、出版社がしかける広告宣伝ビジネスにたまたま乗っかれたからに他ならない。才能で売れたわけではない。宣伝力に操られた熱狂は偽物、長くは続かない。どのみちそれは企図して作り上げられた虚像、ただの見掛け倒しに過ぎないからだ。出版社が糸を引く人物や媒体が、機会をとらえてお前の作品を“凄い、凄い”とはやし立てる。だからコイツは調子に乗って作品の秀逸さで売れたと錯覚した。どうせ業界の付き合いや利害関係で誉めそやしてるだけなのにな。無知なお前はそんなことも分からない。本来どんな優れた作品であろうとも宣伝しなければ通常売れない。なのにどうして見せかけだけで内実がないお前の作品が売れたのか? そんなことにも気づかない。愚かにも、駅で配った小説が見向きもされなかったことから何の教訓も得ていなかったんだ。ホントは出版社が宣伝にばら撒いた金で売れただけなのによ。大衆をだまくらかして祭り上げられただけなんだ。内容は空疎。一読した人は『なんだ、この程度か。また商魂たくましい奴らの印象操作にやられちまった。金、損した。何度おいらは騙されるんだ。誇大広告を真に受けるのはもうたくさんだ』と溜息をつく。正体がバレた。お前は週刊誌の袋とじだったんだ。期待して買ってハサミで開いてみたらガッカリってな。メッキはすぐに剥げ落ちるもんなんだよ。束の間の夢だ。結果は最初から見えていた。分かる人だけ分かってくれればいいと、限られた狭い世界にそのまま住み続けていればよかったのさ。笛吹けど踊らず、でよかったんだ。けれどお前は苦しまぎれに踊ってしまった。金に困って釣り糸に食らいつき、狭い世界から表舞台に出てしまった。全部お前が悪いんだよ。さあ、それからが大変だ。小さなブームが去った後は朝から晩までひっきりなしに書き続けなければならなかった。本が全く売れないお前は、量産が生きていくために必須。“かの葛飾北斎だって春画を描いていた時もあったんだ”とばかりに、生きていくため書かせてもらえるんならエロ小説だろうがグロ小説だろうが何でも書く。書かせてもらえなくなったら終わりだからだ。締め切りに追いまくられながら常に尻に火が付いている。そんな生活がしばらく続く。最初のうちはあの角さえ曲がれば美しい景色がひろがるに違いないと、僅かながらも希望は持てた。だがいくら角を曲がろうが同じ灰色の風景が続くばかりだ。見通しは少しも明るくなってくれない。無理だよ、人生のクライマックスはとっくに過ぎてんだ、後はしぼんでいくだけなのさ。いくらがむしゃらに書きまくっても、技量は少しも高まらない。いつまで経っても量が質に転化してくれない。それどころか、書くほどに自分の中身が薄まっていくような気がする。固形石鹸だよ。出版社に使ってもらうほど才気が小ぶりで薄っぺらなものに擦り減っていく。小説家になる前、いくら読んでも、読むほどに満足いくものが書けなくなったのと同じ図式だ。今は書くのに忙しくて読む時間さえ全くとれない。結局この業界、生まれつきどういうものを持っているかだけが全てなのだ。自分は壊れたってどうってことない、ありふれた百均グッズだったんだ。百円の商品は他にも(あふ)れるほどある。出版社にとって自分なんていつでも断捨離できる人材にすぎなかったんだ。今になってそれを知ったところで、生活はかえられない。なんとか飛躍できないものかとお前はあせる。バッタじゃないんだ、いくら助走をつけようが跳べないよ。仕事柄、不愉快な連中と接するのも避けられない。どうせお前は都合よく利用していずれ捨てられるはずの駒だったんだ。当然彼らは落ちぶれたお前にそれ相応の態度で接してくる。かといって仕事関係を全部ほっぽり投げて逃げ出す勇気もない。今さら他の仕事で生きていける自信がないんだ。苦心惨憺の結果がお払い箱では困るというのが本音。あの人は何万冊本が売れた、この人は何とかという賞を取った‥‥‥そういう競争にも辟易する。百貨店の年末商戦じゃあるまいし、どうして物書きどうしで(しのぎ)を削り合わなきゃなんないんだ。擦り減っていく神経。嫉妬の渦。心はどんどん醜く汚れていく。この精神的ダメージをなんとか最小化できないものか。これがかつては世間に少しは波風をたてたこともある作家の成れの果てなのであろうか。それに加えて、常にコスパやタイパに追われるギリギリの毎日だ。小説を書いているつもりで、小説に書かされてる。時間がほしい、時間が足りない。そういう毎日が続いていく。自分は時計の秒針のように一刻も休むことが許されないのか。人は生きるために働くのに、働くために生きている。金で自由を買うのではなく、金のために自由を奪われている。蛸が自分の足を食べているのと同じ。こんな人生、お先まっ暗じゃないか。自分は擦り切れたボロ雑巾なのか。気が遠くなりそうだ。もっと効率化できないものか、もっと、もっと───。お前は問う、この生活システムを極限まで最適化する方法はないだろうかと。そしてついに苦渋の選択を迫られるときがきた。ある日、お前は思いつく。そうなんだ、自殺すりゃいいだけなんだ、自殺ほどこの泥縄(どろなわ)状態を効率化できるプログラム設定はないじゃないか。心が醜く汚れたなら、きれいサッパリ拭き取っちまえばいいだけだ。ここらでケリをつけなきゃ。断捨離しちまえ。運の尽き、もはやこれまで。事ここに至ってはそれしかない───これがお前の書いたシナリオだよ。元はといえば、最初に自分の人生に火をはなったのはお前自身だ。最後、熱さに逃げ回ることになったとしても、そりゃ仕方ねぇな。こんなシナリオを書いて、お前が人生から何を学び取ろうとしていたかは不明だけどな。どや、もう一つの赤井の人生ストリー、掌編小説の出来上がりだ。おい、そこのオバチャン、お前にもやっと分かったか、俺が話してることが一つの物語になってるという意味が」
 最後そう大見得を切った箱村ではあったが、彼女はプイッと横をむいたまま知らんぷりだ。
 他方、聞き捨てならないのは赤井君である。
「その掌編小説、僕が死んで完結なんですか? そんなぁ〜、絶対死ぬわけないじゃないですか。死んで終わりなんて真っ平です。人の命は地球より重いんですよ」
「もともと地球は軽いんよ、なんせ浮かんでるからな」
「そんなボケはいりません。土壇場に追い込まれたら誰だって絶対ケツまくりますって。小説ほっぽり出して逃げ出すに決まってますよ!」
 珍しく赤井君のヒューズが飛んだ。ムキになっている。彼はどうしても死ねないと考えている。なぜなら死ねば母との大切な思い出も一緒に死んでしまうからだ。
「お前はホントに自分自身のことを分析できてないな。コンビニおにぎりの包装フィルムを開封するのにあれだけ手こずる不器用なお前に、途中で逃げ出すことなんてできるわきゃない。ふつう作家としてのキャリアを自力で切り開いていけるような人は、如才がない。普段から作家としてポシャった時の逃げ道も用意している。そういうあざとさがあるから何とかやっていけるんだよ。いくら偶然が重なったからといって、なんでお前みたいに不器用なのが作家になった。だいたい小説稼業にまつわるアレコレなんて食レポと同じだ。うまい嘘がつけるようでなきゃ務まらない。関係者に『すみません、もう書けません』と土下座しながら舌をペロッと出すような真似が、お前にできるか。『もうやってられるか! 断筆宣言だ!』とド派手にぶち上げる演技力がお前にあるか。お前は嘘が不得意だ。ついてもすぐにバレる。あざとさとも無縁。ゴーイング・マイ・ウエイ。いくら言っても性善説を曲げずに生き続ける。いつまでたっても信念で運命を操れると錯覚している。現実をありのままに見ようとせず見たいように見ている。高倉健でもないくせに、なんでそんな辛抱強い男になりたがるのかねぇ。そんなウルトラ不器用な奴が、途中で(とん)ズラなんかできるかよ。必ずドライフラワーになる道を選ぶ。ないしは選ばされるかだな。だけど死んで世間を騒がしたのはちょっとの間だけ。みんなそんな花があったことなんてすぐ忘れる。尾崎豊じゃないんだ、レジェンドになれると思ったら大間違いだ。本人は夢を追い求めたその果てに殉死してしまったぐらいに考えているが、実際のところはただの犬死(いぬじ)にだ。夢は霞ゆく夢だったんだよ」
「‥‥‥‥」
「いいか、幸いにして台本修正が神様に認められ自殺を免れたとしてもだな、心労からガンで死ぬのは確定だ。そういうストレスで早死しちゃう作家さんはいるだろう。たとえば、そうだな、中島梓。小説書くときは栗本薫ってペンネームだったかな、テレビのクイズ番組なんかによく出てたろう。赤井は分かんねぇだろうが、お前は顔ぐらい知ってんな。昔いっしょに炬燵(こたつ)、入ってテレビ見てたもんな。彼女の小説なんか全く興味ないだろうけどよ。あの人、五十代半ばでガンで逝っちゃたろう。それでも女だから、あそこまで持ったんだ。赤井なんてもっとずっと若くしておっ()ぬぞ! 人ってのは一度死んだら二度とは死ねないんだぞ。一旦(いったん)あの世に行っちまったら、もう死ねねぇんだ。一回こっきりの死なんだから、ずっと先に延ばせるだけ延ばさなきゃ嘘じゃねえか」
 彼女は開いた口が塞がらない。長らく魂不在のまま放置された廃屋のような顔をしている。そりゃ、誰でもこの話を聞いたらそうなる。どう考えても的を射てない空想物語だ。
「浅知恵ならべてるのはアナタの方でしょ? なに、その人生の台本って?」
 彼女の問いに、箱村はボソッと答える。
「お前、いつからはねっかえりお嬢に若返りしたんだ。だから言ってるだろう、ぜんぶお芝居なんだよ。芝居には台本があるに決まってるじゃないか」
「あらあらアナタこそ、いつからシェイクスピアになったのかしら。どうして赤井さんの人生の台本をアナタが読めるの? 赤井さん、そんなストーリーを書いてるの?」
「いえ、そんな感じの自分史はまだ。若輩者ですから。たしか先輩も歳食ってから書けっておっしゃっていたと」
「先輩? ああウチの亭主のことね、先輩風ふかしてばっかりでしょう。そうよねぇ赤井さん、書いてもいない筋書きをアアだコウだと言われても、迷惑なだけよねぇ。それにそんな自殺願望のあるような人には見えないわ、おっとりしてて。赤井さんのどこを取り出して破滅型だって言うのよ」
 彼女はあくまで食い下がる。
「違うんだ、その人生の台本ってのは生まれる前に本人が書くんだ。さっき赤井に言ったじゃないか、聞いてなかったのか。俺たちの人生に一切偶然はない。全員そうだ。だけどこの世に生まれた瞬間、自分が書いた内容はすっかり忘れちゃうから、本人にそれが偶然のように感じられるだけなんだ。俺だってお前だって、そうなんだぞ。台本の筋書きを忘れちまうのは、それが決まりだからしょうがねぇよ。もし台本があらかじめ分かっていたら、そこに感動も学びもないだろう。俺は赤井のそれをこっそり神様から読ませてもらったんだよ。俺はコイツを守ってやる役目だからな。だから本人の赤井にはそのあらすじは絶対に教えたらいけねぇんだ。たまに口が滑ることはあるけどな」
「あ~ら、あら。こんな馬鹿旦那と添い遂げないといけない私こそ、死んじゃいたいわ」
「今まで一度も死んだ経験がないくせに、デカい口を利くな!」
 確かに。
「何よ、それ。意味、分かんないんですけどぉ」
 彼女にはギャグが通じていない。
「そこまで言うなら試しに一度死んできな。死んだつもりでも、自分が死んでいなかったことを、とことん思い知らされるだけのことだからな」
 ギャグじゃなかった、本気らしい。箱村さんは前にも同じようなこと言ってたな。まったく往生際の悪い性格だ。
「アナタ、ますます意味、分かんないんですけどぉ」
「そんなに死にたいのなら、お坊さんに戒名の準備でもしてもらうか? 笑われても知らんぞ。だいたいやな、お前のようなジャジャ馬は体が丈夫すぎて、なかなか死ねないよ。死ぬのがヘタクソなんだ。“死が死にたいほど怖い、だから耐えられなくて死ぬの”───お前って、そんな死の不安に苦しむほど繊細な女じゃないだろう。首を吊ってもガス管ひねっても、その度ごとに息を吹き返し、せいぜい病院に運びこまれるぐらいがオチだ。死ぬかわりに(はす)の花でも見とけ」
「だから何よ、それって。ややこしい、単純な男のくせして!」
「だってあの世には蓮の池があるんだろ?」
「あらまぁ~、それが言いたかったの? 面白くないうえに回りくっどいお話だこと」
 皮肉、嫌みの応酬だ。そこで、やむなく赤井君が割って入ることに。
「箱村さん、もし僕が生まれる前に生涯ストーリーの台本を書いているとしたら、箱村さんも奥さんも花菱社長もみんな、僕が書いた台本のキャラクターということになっちゃいますよ。それでいいんですか?」
 その言葉に箱村はウッと息を呑む。冷や水を浴びせられた格好だ。じっと動かぬ神社境内のでっかい御神木になってしまった。瞑目して思いを巡らせること数秒。
「実はそうなんだ、赤井、お前の言う通りなんだよ」
 口を開いた箱村がもごもごとそう言う。なんだか弱気になっているふうに見える。
「そうそう、そうよ、赤井さんの言う通りだわ」
 ここぞとばかり、彼女が尻馬に乗ってまくしたてる。
「何、アナタの話って。矛盾と継ぎはぎだらけじゃない。そうねぇ、それって“罰ゲームのどこがゲームなの? どうして罰とゲームを混ぜ合わせるの? 罰はどこまでいっても罰でしょう、ゲームとは関係ないわ”って感じ。現実と作り話を無理やり縫い合わせているだけでしょう」
 彼女は意味不明な理屈で勢いづいている。これはどういう目くらまし戦法なのだろう。あきれるよ、二人ともトンチンカンな理屈で言い争って。狐と狸の化かしあいか。
「なに訳の分からないことゴチャゴチャ言ってるんだ。意味が全く通んねぇぞ。俺は今どきの器用なニイチャンじゃない。裁縫ができねぇから、継ぎはぎもできねぇんだ!」
「だったらホッチキスで留めたんでしょう、ろくでなし!」
 ───こんな小ボケが彼女から出るとは。ここでコントしてどうすんだ。どうせホッチキスで留めるんなら箱村さんのお口の方にしてくれ。
「六でなかったら幾つなんだ、七か八か!」
 それ、言うと思ったよ、まったく。
 でもこれ、漫才だったらアウンの呼吸じゃね? 夫婦漫才だ。コンビ名は何にしましょうかねぇ‥‥‥‥そんなことを考えては、またもや笑い出しそうになる赤井君である。
「おい、オバチャン。何、おちゃらけた言葉遊びしてんだ。罰ゲームが何だって? 罰とゲームを混ぜ合わせたらいけねぇって? トイレ洗剤、混ぜると危険、サンポールか。“ねえ先生、神様の主人でもないのになぜ神主って言うの? ねえねえ、神様の父親でもないのになぜ神父って言うの?”ってか。幼稚園児のお遊戯か。付き合いきれねぇよ。そんなの、“そういう言葉だからそう言う”に決まってるじゃないか。アホじゃないのか、いったい何が言いたいんだ。要点を言え、要点を!」
 箱村はいきり立つ。怒りでまなじりを決している。目を大きく見開き、たいした顔芸だ。もう始末に負えない。
「ね、赤井さん。この人、いつもこうなのよ。言ってること、無茶苦茶でしょ? ただ口が動いてるだけで、まるで内容がないの。否定されると、こんなふうに全然チグハグなこと無理矢理おしこんでくるのよ。ただ意地はって(わめ)いてるだけ、大人げない。もっと冷静に頭を働かせられないのかしら」
「アッそれ、分かってます、分かってます」
 と思わず口を滑らしてしまい、直後“しまった”と後悔する赤井君である。
「いい歳なんだから少しは角が取れたらどうかしら。いつも変な例え話や絵空事ばかり。人生の台本? それって架空の話よね? SF小説? タモリの『世にも奇妙な物語』じゃないの? 何が言いたいのかサッパリわからない」
「例え話一辺倒(いっぺんとう)で悪かったな。この口達者オバチャンが。お前の減らず口には投資詐欺師も真っ青で逃げてくんじゃねぇか。なら具体的に言ってやるよ。コイツは世に出て注目されるのに適していないんだ」
「あなたが赤井さんの何を知ってるっていうのよ。どうしてそんなこと、自信満々に言いきれるの?」
「コイツのことは何でも分かるんだ。昨日だってよ、職場で腹へったからコンビニにオニギリ買いに行って、ちょっと油売ってから戻ったら、コイツ、昼寝してんだ。勤務時間中に呑気に居眠りとは国会議員サンかよ、って思った。けど見てるとソファーの上で青い顔して唸ってるんだ。血の気が失せている。体を揺すって無理やり起こしたからいいものの、起こさなかったらあのままずっと起きれなくなったかもしれない。“寝る子は育つ”と世間で言うわりには、コイツはホビホビのくせにやたら眠りまくるんだ。でもどうして眠り込んだのか経緯(いきさつ)は手に取るように分かるんだぜ。ソファーに寝っ転がって天井の汚れの跡を目でなぞっていたら、急に汚れ跡がアニメみたいに動き出して、お前を悪夢の中に引きずりこんだんだろう。たいした奴だよ、天井の染みともお友達になれるなんてな。そんなことだから“風や木霊(こだま)のように目に見えぬ何ものかがやってきて自分を乗っ取ろうとしている”などと奇妙奇天烈なことを言いはじめるんだ。Jポップか。♪風に~なりた~い(^^♪ってか? THE BOOMか」
「♪ゴーゴーゴー、風が泣いているゴーゴーゴー、ゴーゴーゴー風が叫んでるゴウゴゴゴー♩(◜◒◝)♩」
 赤井君もつられて歌い出している。呑気な音痴二人組である。二人とも何を考えているのか。
「おい、なんでお前も真似して歌い出すんか。それ、往年のGS、スパイダーズじゃないか。なんでお前が知ってんだ。この若年寄が」
「そう言うアナタこそ、トッチャン坊やじゃないの」
 彼女がすかさず(はさ)んでくる。
「あの、つい物の(はず)みで。いつもの悪い癖です」
 人が歌っているのを聞くと意識が飛んで自覚なく行動してしまうのは、どうやら僕の特性らしい。パブロフの犬だ。誰かに催眠術にかけられたまま未だに解けていないんじゃないだろうな。
「アアいつものアレだな。急に意識が飛んで無意識のまま行動してしまうのは、お前の特性だ。自分で自分をきちんと分析できていないんだろうけどよ。お前はアホだし、毎度のことだからそりゃいい。鼻歌はストレスを癒す効果があるって言うからな。そりゃいいんだけどもよぉ‥‥‥要するに俺が言いたいのはだな、お前は神経の繊細な幻覚妄想体質なんだよ。夢と現実が簡単に入れ替わり、混ざり合っちまう。自分と異なる何かとすぐに心が溶け合っちまう。一度鏡を見つめがら“お前は僕なのか”と問い詰めてみろ。誰が何と言おうが正真正銘の僕だろう。そこをはっきりしとけ、いいな。なあ赤井、俺には全部みえてるんだぞ。そんな弱っちい人間が、世に出て注目されるのに適していると思うのか」
 ───そうか、ぜんぶ分かっていたのか。冗談で煙に巻きながら、実はぜんぶ見通している。道化を装いつつも、相手を緻密に観察しているのだ。
 これまでも「何故そこまで僕のことを知っているんだろう」ということが何度もあった。まるで四六時中ドローンで上から監視しているかのようだ。僕が行くとこ行くとこ、壁に無数の耳や目がはりついているとでもいうのか。
 赤井君は箱村の隠された奥底に少し触れた気がして、何か背筋にゾクッとするものを感じた。箱村という男、まれに心の深淵をのぞかせる。推理ドラマの善人キャラと同じで、真の姿はうかがい知れない。最後にどんでん返しで「真犯人はお前だったのか」ってことにはならないでくれよな。
 ふざけているのか本気なのか。箱村という生身の人間の中に、ときどき陽気な天使と悪魔の素顔が見え隠れするからいけない。彼は多面体だ。この複雑怪奇な立体パズル、どの面に光を当てればどの面に影ができるか予想できない。
 今の奥さんとのドタバタ茶番劇も、文字通り劇を演じているに過ぎず、本当の箱村は一皮も二皮も剥かなければ出てこないのかもしれない。
「お前の知ってる俺が本当の俺だと思うのか?」
 箱村のあの時のセリフが何かもっと深い意味があるのではないか、と妙に気になりだす。さっさと(さじ)を投げてしまえばよいものを、小さなことに固執してその意味をどこまでも解き明かそうとしてしまう悪い性分である。
 ひるがえって考えれば、箱村の言っていることはそんなに不自然ではない。赤井君が経験したようなことは程度の差こそあれ、誰にでも起こりうるに違いない。なぜなら、脳内のさまざまなプロセスのうち、本人が意識的にコントロールできるのはほんの一部でしかないからだ。だから脳は自分の意思にあらがって色々な現象を生じさせるのである。その意味で人間には大なり小なり幻想体質がどこかに隠されているものなのだろう。
 赤井君と箱村が「どうしていつも一次ではじかれるんだ。意地悪されているんじゃないのか」と(うら)(つら)みを並べ立てる。これなども幻想とは言わないまでも妄想症の一種なのではないか。もとより誰だって軽い被害妄想に悩んでいるものなのだ。こんなことを言えば、幻想と妄想は違うと()げ足を取られそうだが、どちらも本人の意思にあらがって生じてしまうことに変わりはないではないか。
「君の心臓を動かしているのは君かね?」と問うてみれば、何か自分の意思以外の力によって生かされていることが実感される。その力は、自分にこの世で学ぶべき課題がある限り、生かし続けようとしているかのように思える。
「今ここに現に生きているということは、まだ僕は生きている価値があるんだな」───と、赤井君は自信を失った時いつもこのことを思い出すのである。
 ところで、「心は脳の働きに過ぎない」ときっぱり断言できる人はいるが、赤井君が軽々にそう断言できない理由もここにある。自分の精神世界には脳の働き以外の何かが宿っていると赤井君は感じているからだ。そもそも物質である脳が非物質である心をつくりだすこと自体、納得がいかない。
「脳が死ねば心も死ぬ。死んだら全て終わり」───箱村ほど確信をもっては言えないけれども、どうしてもそんなふうには思えないのである。光があれば影がある。明暗は並存している。だから生の世界があれば死の世界もあるはずで、その二つの世界を貫く本質的な何かが人にも備わっているのではないかと思えるのである。もちろん確かめようがないので、単なる想像なのだが。
「心は脳の働きだ」というよりは、「心が脳という道具を使っている」という言い方のほうがより正確なのではないのだろうか。コンピューターは操作する人がいなければ動かない。同様に脳も心によって動かされている。
 これはよく言われることだが、体の細胞は、脳細胞はもちろんのこと、骨細胞も筋肉細胞もどんどん入れ替わっていき、数年で別物になってしまう。にもかかわらず今の自分は数年前の自分と何ら変わらない。脳の細胞がぜんぶ入れ替わっても心のありようは以前と変わらない。このことからも脳と心は別物と言えるのではないか。
 さてここからが重要なのだが、ここに魂というものが登場する。赤井君は考える。肉体がぜんぶ入れ替わっても変わらない本体、それが魂と呼ぶものであると。
「心が脳という道具を使っている」とすれば、神様は心が正しく脳を使っているかどうか監督する機能も別に創造しているはずだ。それがきっと魂なのではないか。
 心と魂は重なってはいるが同一ではない。魂は心より一段高いところに存在していて、心の状態とそれによって引き起こされる善い行いや悪い行いを、生涯にわたって観察し記録する。
 たとえ心が脳とともに消滅したとしても魂は残る。だからあなたの魂の記録は、心と肉体がいくら入れ替わろうと、永遠にむかって鉄壁な因果律を常に刻み込み続けるのだ。そしてこの魂こそが、真実のあなた自身なのである。心も肉体もいずれ蝉の()け殻になる宿命(さだめ)、より高い視座から見れば真実のあなたではない。
 誰も魂に触れたことはない。触れることができなければ、その形は分からない。だが形が無くとも、また見えなくとも、あるものはある。空気だって音だってそうだ。宇宙とその混沌も、その外形は認知できなくともやはり実在することに変わりがない。魂もそうだ。もしかしたら魂には、ただ人が見えないだけのことで形があるのかもしれない。空気や音のように不定形で、また人の五感と交わることこそ滅多にないが、魂がそこに存在している以上これはありうることだ。
 赤井君はそう信じている。いくら非科学的だと揶揄されようが何を信じるかは個人の自由だ、と開き直っている。見ているものや見えているものが全てではない。
 私たちはせっかくこの世に生まれ出てきたのだが、この世が何処だか真に分かっている人は少ない。多くの人にとって、いま現に存在しているこの世界が夢だなどとは到底思えない。だが死ぬ間際、すべては反転する。この世界こそ全部夢だったことを思い知らされるのである。豊臣秀吉が辞世の句に詠んだように「夢のまた夢」だったことを。

「だからぁ、どうしてアナタがそんなふうに赤井さんことが分かるのって訊いてるの!」
 彼女の金切り声にハッと我にかえる。彼女は暑さにキュルキュル悲鳴をあげる室外機になっていた。奇声を上げ食い下がっている模様だ。もはや議論と言うより(ののし)りあいである。
 箱村はそれに全く答えようとせず、われ関せずと自説をたれ流す。
「コイツが世に出るのに適していないもう一つの理由は、コイツがズバリ超情緒的だからだよ。男のくせに女性ホルモンがドバドバじゃねえのか。若いから仕方ないかも知んないが、超感傷的で感受性も鋭く、いつも人の言動にピリピリしてる。顔にはそれをあらわさないけどよ。コイツは水に字をかくようにストレスやマイナス感情を流してしまえる人間じゃないんだ。普通の人とぜんぜん違っている。いつもガリガリと岩に字を刻んで、指から血を流している。そういう人間なんだよ。だから万一有名になれば、マスコミに好き放題ふり回された挙句、心を徹底的に破壊され、ついには潰されるんだ」
 箱村はドヤ顔で続ける。
「だけどコイツはアホなのか間抜けなのか、今も小説という名の卵を後生大事に温めてるんだ。周りから火事の炎が近づきつつあるのも気づかずによ。そりゃ自分にとってとても大切なモンだから温めるよな。それは察してあまりある。だけどこれは言いたくないんだが、その卵はかえらないよ。もう死んじまってるんだからな。ああ、これって俺たち夫婦にも当てはまるかもな。きっついな、もうッ! 嫌になるよ、まったく!」と吐き捨てた。いつの間にか話が、また例え話調に戻っている。
「え、あの、それは‥‥‥‥」
 彼女が何か言いかけて、言いよどんでしまった。さっと表情が曇った。口ごもったまま(うつむ)いている。そのまま唇を噛んでいる。今にも嗚咽してしまいそうだ。悲しみが堆積して地層をつくっていくかのような空気を漂わせている。しんみりと口をつぐんだまま、目にうっすらと涙さえ光っているのではないのか?
 そのとき赤井君はあることに思い当たり、一瞬、心の湖に薄氷がはる。薄暗い無人駅に独りで降り立った心地だ。
 そういえば初めて箱村と会ったとき以来、子供が流れてしまった話をたびたび聞く。二人はそのことで過去、相当辛い思いをしたに違いない。とくに彼女は。
 ホイッスルだ。いくら何でもこれはいけない。辛い経験があろうとなかろうと、それが何であろうと、あまりにもひどい。冗談のつもりでも、言っていい事といけない事がある。箱村さん、どうしちゃったんだ。口にチャックでもしとけ。
 彼女の深刻な表情にまたしても重なる母の面影。赤井君は過去に思いをはせる。
 あの時、二人の息は白かった。病院の待合室の椅子は堅い。診察室から出てきた母の悲しそうな顔。この子はこの先どうなるんだろう。◇□ちゃん、お母さんがいなくなっても、強く生きていくのよ。分かった?‥‥‥‥何もわからず(うなず)く僕を母は強く抱きしめた。瞼の裏と胸の奥に、今でもしっかり残っているあの情景。
 お母さんを助けなきゃ、お母さんを助けなきゃ、助けなきゃ‥‥‥‥。
 遠い過去への奥行きを感ずる。あれからどれぐらい経ったんだろうか。
 母の腕の中で僕は泣いて笑って、そして育った。

 ───魂や母と乳房(ちぶさ)と腕の中

 彼女は「ちょっと」と断って、席をたってしまう。刹那、彼女の落ち込んだ心の動きが伝わってくる気がした。後々しこりを残さないといいが。
「どうしたんでしょう。このまま帰っちゃうんじゃないでしょうね」と心配する赤井君をよそに、
「トイレだろう、興奮し過ぎてチビったんとちゃうか?」
「え?」
「冗談だよ、化粧をなおしに行ったんだ。可憐な女を装いたいんだろうよ。女優になった気でいるんだ」と箱村はポツリ。
 気にも留めない風である。しばらく黙ったまま口を開こうとしない。ゼンマイのとんだ人形になっている。
 赤井君はもどかしい思いのまま問いかける。
「どうしたんですか、いじけて。心の隅っこに小っちゃな箱庭でもつくってるんですか?」
「箱村だけにか。ズッコケたこと言うな」
 箱村はまた押し黙る。腕組みをしたまま無言───そのまま数分。どことなくしょんぼりした様子だ。
 ───病床の母の冷たい足をさすり続けたあの長い夜。朝寒夜寒(あさざむよざむ)、痩せた足をさする‥‥‥‥このままほうっておくことはできない。いくら年上の箱村でも一言、苦言を呈さねば。
「箱村さん、あれはNGですよ、あれは」
 と、すっかり情にほだされてしまった赤井君がやんわりとたしなめども、
「あん? アレってドレだ」
 箱村は蛙の面に小便、一向に動じない。
「あれですよ、卵を温める話。あんまりですよ」
「あんまりって誰に? お前にか。”女性ホルモンがドバドバ”は撤回する、スマン」
 いったいどういう心理状態なんだ、イケしゃあしゃあと。
「奥さんに決まってるじゃないですか、いくら夫婦でも言い過ぎですよ」
「ふん、子宝に恵まれない夫婦がどれぐらいいると思ってんだ。“そこ、地雷、見っけ”みてぇなドヤ顔しやがって」
「そんなつもりじゃ‥‥‥‥」
「お前を誘惑しようとした報いだ」
「誘惑? どこで誘惑したって言うんですか。奥さん、そんなことしてませんよ」
 箱村はそれには答えず、
「お前、牛丼チェーン店のまつ屋で店員に『最寄りの吉野家へ行く道を教えてください』って()けるか?」
「訊きにくいですね」
「今お前がしてることはそれと同じだぞ。人に道を尋ねるのは別に悪い事じゃない。だけど尋ねられたくない場合だってあるんだ。言ってることには理があるかもしれない。けどお前が気象予報士だったら、いま雨降ってるのに傘を持ってこなかったことを周りの人に知られたくないだろう。他人(ひと)の家庭には、その家庭の事情もあれば立場もある。夫婦間のことは夫婦間にしか理解できない。入ってきて欲しくないんだよな。分かるよな」
「すみません。出すぎた真似して」
「俺は歳で白内障が進行しているけど、目の不自由な人の気持ちは自分が不自由になってみなけりゃ真に分かんないってことだな」
「なるほど」
「お前の優しさは察してるよ。物の弾みで言い過ぎちまったのは反省してる。でも言わなきゃなんないんだ。アイツも痛いが、俺はもっと痛いんだ。もう歳くってるし、仲も悪いし、子供は絶望的だな。まあいいよ、俺がちっちゃい子供を連れて歩いてたら誘拐犯だと思われちゃうもんな」
 そうおどけた口調で語る箱村の表情には、自嘲気味な色合いがにじんで見える。
「一人暮らしで、レジでもらうスーパーのレシートがいつも短いお前にゃぁ、夫婦のことは分かんねえよ。うちは飲み終わった缶ビールは、そこらへんにそのまま転がしとく主義なんだ。酔いが醒めたどっちかが、そのうちゴミ箱に片づけるよ。ちゃんと分別収集してもらわねぇとな。ほんでもって、空っぽになった二人の気持ちも時間が経てば元どおりってわけだ。それともお前、子供できなきゃ結婚した意味ないって言うのか」
「いえ、滅相もない」
 多少不本意に感じられるものの、未婚の者に夫婦のことがなかなか理解できないというのは、確かに道理だ。箱村と赤井くんの認識が平行線をたどり、どこまでも重ならないのは無理もない。
「アイツほどではないにしろ、お前も俺が前々から言ってきたことを完璧には把握していない。結婚というのは生まれる前に二人で決めてくるんだよ。その筋書きも必ず生まれる前に書いているはずだ。俺たち自身のことなんで、どういう学びを得るために、どんなストーリーを書いてきたんだか分かんねぇけどな。だから、子供に恵まれなかったとしても、それを受け容れなきゃなんないんだよ。自分たちが書いた台本なんだからね」
「いつもこんなに仲が悪いんですか? 最初からのべつ幕なし毒づきあい、(とげ)のある言葉の応酬合戦じゃないですか」
「最近はな」
「箱村さんがのっけから(から)むからいけないんだと思う」
「いつ頃からだったかな、最初に絡み始めたのは家内のほうが先なんだ。何が気に食わないんだか、顔を合わすだびに文句タラタラ節だ。はじめは我慢してたんだ、男は黙ってナントヤラというだろう」
「男は黙ってサッポロビールですか。(ふる)っ!」
「けど俺にだって限界がある。もうビール腹が張り裂けそうだ。だからこっちも腹の底をぶちまけたんだ。そしたら当然あっちも輪をかけて腹の底をぶちまけてくるわな。喧嘩にならないのがおかしい」
「箱村さんが甲斐性なしだとか、あまり家事をしないとか、そういうことが不満なんじゃないですかねぇ」
「いや、どうもそうでもなさそうなんだ。その意味で家内は普通の女とはまったく違う。やっぱり原因は子供だろうな。いつも喧嘩しているわりには、どっちかが離縁状をたたきつけるといったような修羅場には発展しない。少なくとも俺から三行半(みくだりはん)を突きつけることはないし‥‥‥」
「そりゃ、そうでしょうw」
「‥‥‥向こうからもなさそうだ。離婚したなら権利、財産の半分を俺にもっていかれるからなのかな? 違うな、そんなケチな女じゃない。だったら文句はただのガス抜きか。分かんねぇな。しかしなんだよ、大の男が半ば女房に養ってもらうみたいな感じじゃな。俺はヒモかよ。情けねぇし、恥ずかしいよ」
「いいんじゃないですか、夫婦それぞれで。蟻だって蜂だって働いてるのは雌でしょう。蚊だって命がけで血を吸いにやって来るのは雌でしょう。ライオンも狩りをするのは普通、雌でしょう。箱村さんの収入が少なくても何ら不自然じゃない」
「そうだな、あの百獣の王だってそうなんだ。なんだな、ライオンの雄はやたら頭がデカいから、バランス悪くて狩りするとコケちゃうからじゃねぇ? お前みたいにデカいからよ。なあ、頭のデカい日本版金正恩同志、そう思わない?」
「またまたぁ、それを言う。男は中身ですよ、中身」
「中身? お前がそれを言うとはな。でもいいよなぁ、令和の若者はよ。男の恥とか沽券とか、そういったもんがなくてよぉ」
 そこで箱村は黙り込んだ。腕組みして考え込んでいる。難しい顔だ。何を考えているのだろう。単細胞にもアレコレ思索にふけることがあるのだろうか。いつも考える先から喋り出しているくせに。あんたに沈思黙考は似合わない。
 その間、赤井君は所在なさげだ。どうやら彼も箱村につきあって、夫婦についてつらつら掘り下げてみることにしたようだ。
 ───誰だっただろうか、大多数の結婚生活は「喜び」「楽しみ」より「怒り」「苦しみ」のほうが多いと語っている人がいた。だからこそ結婚は学びがあり価値があるのだと。「喜び」「楽しみ」より「怒り」「苦しみ」の方がたくさん学べるからだ。
「似たもの夫婦」とよくいうが、どうやら違う者ほど互いに惹かれあい夫婦になるというのが大方の現実のようだ。たしか今日、車の中で箱村もそんなことを言ってたんじゃなかったっけ。箱村夫婦も魂を磨くために結婚生活を営んでいるのであるから、喧嘩ばかりしていないで、彼もそろそろその点に目をむけてもいいのではないかと思う。
 違う者どうしの男女が結びつくのは、学びの効果を最大限ひき出すためなのではないだろうか。より強い種を将来に残すために、最も遺伝子の型の違う者どうしが最も生物学的に惹かれ合うという研究仮説があるそうだ。遺伝子が異なるほど環境により幅広く対応できる強い子孫が残る。よって男女は細胞レベルで異なるほど惹かれ合うのだそうだ。
 遺伝子が違えば価値観も違ってくるだろう。だから、これは遺伝子レベルのみならず精神レベルにも当てはまり、魂を向上させるという意味でも一役買っている気がする。結婚の多くが厳しい修行の場になるのもこのためなのか。
 箱村は車の中で、ショウペンハウアーとかカントとかキルケゴールとか生涯独身だった哲学者を引き合いに出し、彼らをやたら持ち上げた。なんの確証があるのか僕を生涯独身だと決めつけている。たぶん僕に対する優しさなのだろうが、終始こう(ほの)めかしているように聞こえた。
「自分ひとりでは学び足りない人に、神様はあえて結婚という厳しい試練を与えて学ばせるのだ。お前の魂の感度は鈍くはない。だから結婚するまでもない。魂の学びにそこまでの刺激は必要ないのだ。ただし、お前にはそれに代わる別の試練がやってくる」と。
 なるほどスピリチュアルでは独身の方が霊格が高いとよく言われる。神様は魂に試練を与えるために、性欲や甘やかな幻想を駆使して人を結婚に引き込もうと仕組む。だが霊格の高い者は早々とその意図を見ぬく。霊格が高いというのは、もしかするとそういうことを言わんとしているのだろうか。
 でもほんとに独身の方が優れているのか? そんな馬鹿な。人それぞれだろう。

(39)

 しばらくして彼女がかえってきた。トイレだったようだ。“よかった、心配して損した”と言ったところだ。
「尾行されてることなんて、ホント、ぜんぜん気づかなかったですよ。まいったなあ」
 慌てて口火を切る赤井君。箱村が余計なことを言う前に、意識的に話題をかえて事態の収拾をはかる。燃えだす度に消火する消防隊員にすっかりなりきっている。
 やや間があって、
「ごめんね、この人がどうしても頼むって言うから」と彼女が受ける。あえて平板な口調を装っている。
 とりあえず話題がかわったので、まずまず消火活動は成功か。我ながらうまく取り成せたものだ。
 赤井君は胸をなでおろす。
「御免。デカすぎて目立っちゃうから俺が跡付けるわけにはいかないだろう。『私は探偵じゃない!』とか『一歩間違えばストーカー行為よ』とか言って、ずいぶんとご機嫌斜めだったが、そつ無くこなしたじゃねえか。結果オーライだ」
 言い過ぎてしまったことに身の置き場がないのか、急にヨイショしだす箱村。一転して低姿勢だ。そのまま話を蒸し返さないでくれよ。
 やっぱり読み通り、最初から奥さんとの言い合いには敗色濃厚と踏んでいたな。部下の前で恥をかかされてはたまらんと、やたら虚勢をはっていたのもこのためだ。僕がひょっこり割って入って、話題をかえたのが助け舟になったろう。議論に勝算がないなら、ここいらで頭を冷やして、しばらく黙って反省してなさい。
「ホントぜんぜん気づかなかった。ひょっとして住んでる倉庫まで見られちゃったとか」
「あの倉庫に入るときオーブンを開けた気持ちになるんじゃない? 真夏の夜なんか暑くて寝られなかったでしょう。ちゃんと冷房はきくの?」
「やっぱ見られちゃったんだ。クーラーはないけど、僕、いつも懐が寒いんで結構涼しいですよ」
「お、鉄板自虐ネタが出たじゃねぇか。腕をあげたな、もっと俺から盗めよ」
 と箱村。いい気なもんだ。
「熱中症ならないように気をつけるのよ。熱帯夜が続いてるから、水分をちゃんととってね、若いから大丈夫だと思うけど」
 彼女は母親口調である。どういうわけか赤井君はそれにもゾクッと(しび)れてしまう。ナゼナゼしてもらいたい気分だ。
「お前、赤井のポッケに後ろからそっと発信器でもいれたんじゃねえか。赤井はボーッとしてるかんな、気づかねえよ」
 しおらしくしていたのは一瞬、反省の色はない。懲りない奴だ。この立ち直りのはやさ。あんたの心の浮力はたいしたもんだ。それだけ鉄面皮なら、鉄らしくもっと底に沈んでなさい。
「そうですよね。アップルのAirTagなんか五百円玉ぐらいの大きさですもんね。ポケットに入れちゃえば、はぐれちゃっても後からアイフォーンで居場所を探り当てることができる。隙を狙って、ただ相手のポッケに忍ばせるだけだから、難易度はたいして高くない。もしかしたら駅員に怒られてたときに背後からこっそりと‥‥‥」
 と軽いノリで箱村に付き合う赤井君に、
「そんなことしたら、どうやって追跡装置を回収するの? ポケットに入れるのは簡単でも、取り出すのは大変よ」と彼女はサラリ。笑みがもどっている。
 一蹴されてしまった。内心、「なんて馬鹿なの、この子」と思ったに違いない。
 物知りを演出しようとしたスケベ心が裏目に出て、アホをさらけ出す結果になった赤井君。彼女につられるかのように、笑って照れ隠しである。ともあれ彼女の情緒が安定したのは嬉しい。
 一枚の写真が脳裏をよぎる。桜の花弁散る校門の前、手をつなぐ母と幼い僕の写真。アルバムはその後二人に降りかかったどさくさに紛れて、どこかへ行ってしまった。今はもう記憶の中にしかない。ありがとう、お母さん。
「赤井、おめぇ、ちょっとしたことですぐ幻覚妄想の世界にとんじゃうだろう。普通の人間じゃねえよ。人造人間なんじゃねえ? ワン公みてぇにさ、どっかにマイクロチップが埋め込まれてんじゃねえのか。いつも電波を発しながら生きてんだよ。だからビビビと追跡できるんじゃんか」
 僕以上のアホがここにいた。箱村は飲んでもいないのに、酔っ払いでも言わないような突飛なことを平気で言う。恥というものがない。この傍若無人ぶりに彼女がいつまた逆上しないかとビビビならぬ、ビビりあがる赤井君である。
「ああ、赤井だけじゃなくて、おめえも俺のカッコよさにビビビときて、ついて来たんだもんな。神田正輝に惚れた聖子ちゃんみたいによォ。しかしあの二人も娘が先に死んじまって、かわいそうだよな。どんなに羨ましがられるセレブだって同じなんだ。人間なんて皆、辛くて悲しいんよねぇ~~~~ポロリ、涙がちょちょぎれるぜ」
 たしかビビビ婚って、神田正輝じゃなくて聖子ちゃんの次の相手じゃなかったっけ?‥‥‥と赤井君がどうでもいい細かい点にこだわっている一方で、彼女は箱村の痴れ事にまったく取り合わない。無視してこちらに話しかけてくる。完全に黙殺だ。相手にされない箱村は“なに居留守を決め込んでんだ”ってな顔で、奥さんの態度に不満げである。
「あなた、公園のベンチに本を積み上げてふて腐れてたわね」
 おっ、彼女もアナタときた。やっぱ似た者夫婦だ。この夫にしてこの妻ありか。しかしこの人からアナタと気安く呼ばれても、あまり気にならないのはどうしてだろう。この人の色香にデレデレになっているからだろうか。なんだか旧知の間柄のような気がする。
「あんな公園なんかで、水をがぶ飲みしちゃあダメよ。体に悪いわよ」
「そうか、たぶん()きっ腹を水で満たそうとしてたんだろう。最初に会った時、コイツ腹ペコだったもんな。赤井、そんなことしたって、ただでさえ薄い血をさらに薄めるだけだぞ。お前、血圧低いだろう。きっと体温も低いはずだ。さっきの話じゃねえが、歳くったら癌になるぞ。コイツには若死にしてもらいたくねぇんだ。俺が死ぬまで話し相手になってもらわなきゃな。もっと食え、今日はたらふく食え」
「おかしいな、あの公園には誰もいなかったはずですが。夕方、子供が遊びに出てきて、後からおっかない子供の母親が出てきて‥‥‥‥ほかに誰もいなかったと思うけどなあ。どこに隠れて見てたんですか。『実は私、透明人間なのです』なんてのはよしてくださいよ。♪‥‥‥透明人間、あらわる、あらわるウ‥‥‥(^^♪」
 と、箱村夫妻が急に笑い出した。抱腹絶倒だ。なにが可笑しいんだろう。アッそっか、歌い出しちゃったからだ。また悪い癖が出た。おいおいコイツ、ここでまた挿入歌いれてやんの、ってな感じだろう。まったく笑ったり泣きそうになったり忙しい。
「僕、この先、辛いことがあっても透明人間になって耐えていくんです」
「おい、またなに訳の分かんねえ事いってんだ。笑わせ過ぎんな、腹がいてえぞ。それ、ピンクレディーのつもりか。ヘソが茶を沸かしちまうぜ、まったく。お前ミニスカートはいてきてるから、ちょうどいいぞ。なんなら赤井の歌に合せてここで踊っちまえ。ダンスパーティだ。おい赤井、お前もそんなかわいらしい声で歌うな。ノリ悪いぞ。もっと男らしくデカい声で歌えよ、コイツが踊りやすいようにな」
「なに恥ずかしいこと言ってんの。セクハラよ、セクハラ。夫婦でも言っていいことと悪いことがあるのよ。それも若い子のいる前で」
 箱村はまたぞろ奥さんの機嫌を損ねてしまったようだ。
「いいじゃねえか、若い頃踊ってみせてくれたじゃないか。ほら、UFOとかペッパー警部とか。こんど家で見せてくれ」
「いやよ、馬鹿々々しい」
「なら、俺とデュオでいっしょに踊ろう。俺がミーちゃんでお前がケイちゃんな。お前、若い頃とぜんぜん変わってないぞ。美人のままだ。いま踊っても十分魅力的だ」
「うわぁ、それってもっと嫌」
 そう言ったものの、褒められたせいなのだろう、箱村の奥さんも「私まだ意外といけるんじゃない」ってな顔をしている。『それってもっと嫌』というセリフが何か嘘くさく聞こえる。
「お前、嬉しそうな顔してるぞ。なにルンルンランラン気分になってんだ。パンダか! ラリルレロンロン気分のパンダか〜~い!🐼」
「アナタ、なに訳の分かんないこと、言ってんの」
 彼女が微笑んだ‥‥‥‥薄日が差してきたようだ。いい空気感である。二人の仲は木枯らしピューピューのビターな関係ってな話だったけど、箱村さん、そんなこともないじゃないですか。ほどよい苦味のチョコレートって感じで。もしかして、あれはおノロケ? 喧嘩するほど仲がいいの典型だったりして。な〜んだ、一時はどうなるかと思ったけど、“口でけなして心で褒める”のことわざ通りだったんだ。
 安心した赤井君が「箱村さんに合うサイズの衣装なんてあるんですか」と突っ込みを入れると、
「あるさ、女もののラージサイズを買うんだ。あのさ、スカート丈の長いのを俺が着たらちょうどミニになる、ってなぁ」
 と、超気色悪いセリフが箱村から返ってくる。大男がコスプレで踊るってか?仮装ハロウィーンの乱痴気騒ぎかよ。軽トラをひっくり返すなよ。
「うぇ、ひげ面の大男がホントに手足露出のキラキラ衣装を着るつもりなんですか。ゾッとするな。グロテスク過ぎる」
「そういうのがおもろいんだよ。ハチャメチャであればあるほどストレス解消になる。赤井、今度ウチに来い。ダンスパーティはウチでやろう。セクシーダンスを三人で踊ろうぜ。振付が覚わらなきゃ無茶苦茶踊りゃあいい」
「この人にストレスなんかあるんでしょうかねえ。それ、赤井さんにはパワハラなんじゃない?」
 彼女はあきれ果てた顔をしている。
「しかし家内と赤井が踊ったらどうなるんだろうかな。女と骸骨が社交ダンスしてるみてぇになるんじゃね? そういうの古い白黒映画であったよな。美男美女がホールの真ん中で踊ってるが、じつは男は亡霊で骸骨と踊ってるだけだった、なんてのが。赤井、もっと食って太れ。男は骸骨みたいに痩せっぽちじゃだめだぞ。コイツ、上品ぶって食わないから、家内の分も食っちまえ、ほら」💀‥‥コッアンデス
「ところでさっきの話なんですけど、どうして僕が公園でフテ腐れてたの知ってるんですか?」
「風の便りで知ったの」
「え? まさか」
「世の中は広いようで狭いのよ。とくに変わった事をする人の噂はすぐ広まるものなのよ」
「え?‥‥‥しかしそんなことがあるもんなんでしょうか」
「あら、本気にしてる。冗談よ」
 ふたたび彼女の魅惑的な微笑みが僕を包み込む。
「公園って公団高層住宅の中にあったでしょう。あそこの一つが私たちのお(うち)なの。ベランダからちょうどあそこの辺りがよく見えるのよ」
「え! そうだったんですか。なんだ、見下ろされてたんだ」

【電線にとまった一羽のカラスが、そんな男の哀れな姿を見下している。そしてそのカラスのずっと向こう、遠く公団住宅最上階の一室からある女もまた、その男の動きをじっと見つめていた。
はてさて、あなたって誰? 《霞ゆく夢の続きを(1)より》】

「謎解きって答えをきけば、ナ~ンダってね。いつもそんなふうに相場が決まってるのよね」
「ぜんぶ見られちゃったってことですか? 靴、洗って乾かしてたのも」
「そうよ」
 赤井君は目をしばたたく。
「まずいなあ、それ。僕そういうおっちょこちょいなこと、よくするんですよ」
「近づいてきた子供にからかわれて、腹を立ててたわね。面白かった」
「そんな細かいとこまで、よく見えましたね」
 ハッとして答えようとしない彼女に、
「なに生娘みたいに恥ずかしがってる。全部ぶちまけちゃえ」と、箱村が大声で無理すじのエールを送る。
「双眼鏡で覗いてたのよ、ちょっと興味があったから。あたし、男みたいでしょう」と彼女が小声で囁けば、
「女でそんなことするの珍しいよな。女のぞき魔だな。赤井と逆で、女のくせして男性ホルモンがジャ~ブジャブかよ。最近の男どもがみんな女性化してるってのによ」
 と、箱村は奥さんをおちょくって楽しそうだ。なんともデリカシーのない物言いである。彼女はカチンときてるに違いない。
「しかし赤井のその時のふくれっ面、見てみたかったな。糞にはまり込んで、ヤケ糞になったってか! そりゃクソ面白(おもしれ)えや。だいたいだな、糞ッタレたってな、この世に糞をたれねぇ人間なんているのかぁ。いねぇだろう。おい赤井、そのとき自分はウンの尽きだとでも思ったのか? どんでもねえ、逆だな。おかげで向いてる仕事にもありつけたじゃねえか。かえってウンが付いて、ラッキー、ラッキー、ラッキィ池田ってなもんだ」
 今度は赤井君をいじりだした箱村。品のない駄洒落を羅列して、馬鹿笑いしている。大笑いし過ぎて顎関節症にでもなるんじゃないのか。
 ただし馬鹿笑いしているのは箱村一人。二人には全くうけていない。食事中にそんな下ネタとは‥‥‥。少しは時と場所を考えてほしいものだ。さっきからその口、いいかげんマナーモードにしとけ! せっかくの料理だ、喋ってばかりいないで少しは料理を口に運んだらどうだ。
「こいつ、怒ってもぜんぜ怖くないもんな。ニタニタしてる時の方が“これから何を言い出すんだ”って、かえっておっかねぇぐらいなんだからよ。何よりめったに怒んないもんな」
「アラあなた、あまり怒らない人がいたら、その人に甘えすぎてはダメよ。よほどの人格者でない限り、感情を無理して抑えてるだけなんだから」
「部下がたくさんいるお偉いさんは、人心掌握術がお見事なこって。ああ、そう言えば赤井、夢茶すすめた時ちょっとだけ怒ったな」
「夢茶って何よ」と彼女が訊く。
「いい、それは。うっちゃっとけ、女の出る幕じゃない」
「まさか幻覚剤みたいなモンじゃないわよね、あなたは(とき)どき訳のわかんない物に凝っちゃうことがあるから。赤井君、変なの飲まされてない?」
 いつの間にか“さん”が“君”になっている。赤井君にはこの変化が嬉しい。心の中でヤッターと叫んでいる。
「ぜんぜん変なモンじゃないです。今まで見えていなかった物が見えるようになるだけです。前より健康になったし。ちょっと味は落ちるけど、効果バカありの栄養ドリンクですね」
「え? それってかなり危ない話じゃないの? どうなのよ、あなた! 酩酊して窓から飛び降りでもしたら、どうするの!」
「うっせえな、そんなことあるもんか。バーナードショーの名言があんだろう、『アルコールは人生という手術に耐える麻酔薬』とかなんとかいうのが。アレだよ、アレ。赤井も俺も人生の荒波に耐えてんだ」
「それってお酒なの? ほんとなの、それって」
「似たようなもんだ。赤井のことはちゃんと考えてるよ。可愛いたった一人の部下なんだからな。お前なんか何も知らなくていい。男の仕事にいちいち口出しすんな!」
 箱村の言い様に奥さんは相当おかんむりだ。そのままディナーを黙々と口に運ぶこと、しばし。さすがの箱村も、これは言い過ぎたと思ったのか、神妙な面持ちだ。
 それでも気を取り直したのだろう、彼女は赤井君にむかって、
「あなた、駄目ですよ。自治会外部の人が、私たち公団住宅自治会のゴミステーションに勝手に本の束を置いたりしたら」
「反省してます」
「誰も気づかなかったようだから大丈夫だけど。ごみ収集車の人もしれっと持って行っちゃったのよ。バレるといけないから、ずっと見ててあげた」
 そこで、またしても箱村がカットイン。いらない横槍(よこやり)を入れてくる。
「そんな細かいことコチョコチョ言うなよ。あん時、赤井は落ち込んでたんだよ。自分の本の山を前にして、夕焼けにむかって空しく紅涙(こうるい)に沈んでいたわけだ。大目にみてやれよ。だから女ってぇのは‥‥‥」
「何よ。あんたが口を開くたび、いちいちイラつくわ。うちに組長が回ってきたとき、何にもしてくれなかったじゃないの! 全部わたし一人でやったのよ! 仕事が無くて家でゴロゴロしてたくせに。いいご身分ね。あなたっていう人は、ここぞという時に役立たずの粗大ゴミなんだから!」
 いやはや、今にもゴミステーションに箱村を運んでいきそうな勢いである。
「え? いま何て言った? 聞こえねぇな」
「まあ、この人、いつも都合が悪くなると耳が遠くなるのね。もう補聴器のいる年なのかしら? 老けたわねぇ」
「そう言やぁ人間も可燃ゴミだなぁ、火葬場で焼却されちゃうもんな。粗大ゴミだろうが何だろうが、しまいにゃ灰になっちまうんだから同じこった」
「ちゃんと聞こえてるじゃないの!」
 またしても夫婦で噛み付き合いがはじまってしまった。どうにも手に負えない。またまた人間消火器の出動なのか? 勘弁してくれよ。
 ほとほと呆れる赤井君である。    
 (^_^; ダミダコリャ‥‥‥‥
「ちょっと待ってください。ここ、高級レストランでしょう。お二人とも、そんな大声はりあげなくてもいいじゃないですか」と仲裁に入れば、
「高級なもんか、証明してやるよ」と(りき)む箱村。人間消火器どころかバケツ・リレーにもならなかった。
 箱村が手を挙げかけると、近くにいたウエイターが気づいて、
「お客様、何か」と尋ねる。
「俺、見た通り日本人なんで箸もらえませんかねえ、デカいんで外人にみえるかもしんねえけど、エヘヘ‥‥‥」
「かしこまりました、ただいま。何人分ご入用ですか?」
「俺の分だけ」
「僕も」
「僕も何だ、赤井」
「僕も箸もらおうかな」
 テーブルにずらりと並べてあるフォークやナイフ。外側から取っていくのか内側から取っていくのか、そんな基礎的なマナーにすら迷っていた赤井君にとっては渡りに船である。これで箱村の奥さんの後追いで食べる必要がなくなる。
 ───猿真似しながら食べてるんじゃ、せっかくの料理が旨くもなんともなくなっちゃうもんね。それにしてもフランス料理を箸で食べるなんて暴挙じゃないの?
 意外な申し出にてっきり面食らうんじゃないかと(おもんぱか)る赤井君であったが、あに図らんやウエイターは平然と箸を取りに行く。この程度の変わり者なんていくらでもいるのだろうか?
「ほら、ちゃんと取りに行ってくれたぞ。高級レストランが、フランス料理を箸で食うようなマナーを許してくれると思うのか?」
「客が快適に食事できるように、箸もちゃんと準備万端用意してあるから高級店なんじゃないの。粗相なく良い雰囲気を提供できるのが高級店の証。気配りが行き届き万事そつが無いから、アナタの非常識な申し出にもすぐ対応できるのよ。そんなことも分からないなんて恥ずかしいったらありゃしないわ」
「なんか? 俺が箸をたのんだのを恥ずかしがってんのか?」
「そうじゃないわよ、別にマナー違反じゃないし‥‥‥‥でも、いつになったらアナタってテーブルマナーが身につくのかしらねぇ」
「なにがテーブルマナーだ。日本は伝統的に箸文化なんだ。俺がインド人だったら、箸でなくて手づかみで食うぞ。カレーみたいにな」
「この、ガラパゴス男‥‥‥」
「ヘッ、ガラパゴス男でようござんすよ。日本はガラパゴス携帯の国だ。俺だって最近ガラケーからスマホに乗り換えたんだ。時代にとり残されてるもんか。俺のこだわりだよ、こだわり」
 ムードがますます険悪になりそうなので、赤井君が割って入る。
「あの、箸を取りに行ってくれた人、正式には何て言うんですか? 僕、常識ないんで。ウエイターでいいのかなぁ」
「給仕だろう」
「それって、ウエイターをただ日本語訳しただけなんじゃないですか。それに、ここフランス料理店だし」
「ギャルソンでしょ、フランス語で男の子って意味の」と彼女。
「じゃ、給仕が女だったらどうすんだ」
 奥さんは押し黙ってしまった。まずい、まずいなあ、この空気。またまた割り込む赤井君である。
「いいんじゃないですか? ギャルソンのギャルで。ギャルって女の娘でしょう。♪ギャル、ギャルギャルギャルギャル、ギャ~ル~‥‥‥‥♪」
 和ませるつもりのギャグがズルッと滑った。完全に誤爆だ。二人とも沢田研二のこの歌を知らないらしい。それに笑いのタイミングもずれてしまったようだ。反応がはかばかしくない。御両人、ポカ~ンとした顔をしてこちらを見つめている。
 しばしの間。だしぬけに箱村が()れ事を言い出した。
「ギャルソン、ソン、ソン、ソン、孫正義は大赤字。誰かYモバイルに乗り換えちくれぇ〜~~! ダメよ、ダメダメ。損はダメ。ドコモだもん。ぽこちん‥‥‥じゃなくて、ぽてちん」
 なんの話やねん。こんな締まりのないギャグは聞いたことがない。頭に浮かんだことを咀嚼(そしゃく)もせずに、そのまますぐ口に出すんだな。ひとりで声をはりあげ、ひとりで受けて、ひとりで馬鹿笑いしている。孫正義がこれを見たら「ふざけるな!」と腹をたてるぞ。これで素面(しらふ)なんだろうか。酒を飲まずにこんなおバカが言えるとは見上げたもんだ。
 しかし赤井君にはこれが心底、箱村の本性だと信じきれない部分がどこかにある。箱村は酔ったときも本当は酔っていない、実はぜんぶ演技で冷静沈着な観察者としての箱村がいつも別にいる、と。
 たぶん深読みに過ぎると思うが、初めて会ったときから、心の隅っこにそんな理屈にあわない気持ちがある。
 もしかして箱村は鏡か。僕は箱村という鏡に自分を映し出しているだけなのか。僕は箱村を見ているようでいて、実は自分を見ているのか。自分の何を? 自分でも気づいていない二面性をか?
 そんなこんなで、フランス料理のコースと洒落込んでみた三人ではあるが、なかば夫婦喧嘩の薬味をピリッときかした田舎料理の風情で、あっさり会食はお開きの運びに。それもこれもフランス料理を箸で食べるという箱村の反乱があっさり奥さんに鎮圧されってしまったせいだ。
 それにしてもあれだけ悪態をついてもなお、いまだに離縁状を突き付けられない箱村は幸せである。(ひじ)鉄砲は何度も食らわされていたようだが、つまるところ仲睦(なかむつ)まじいオシドリ夫婦である。
 赤井君などは夫婦(みょうと)漫才を見るために客席にいただけで、何と言うか、刺身の褄と言うか、ページの片隅に使われる小さな挿絵と言うか、そんな脇役然とした存在感のなさである。
 何よりタコ女が箱村の奥さんだったことの衝撃が大きすぎて、ずっと尾を引いている。とても展望レストランの夜景に見とれる余裕はなかった。
「どうだ、赤信号二人で渡れば怖くない、だな。小説も同じだぞ。評価が気になるときは、この箸の教訓を思い出せ。他人がどう思おうと知ったことか、己は己の道を行くだぞ」
 コースを平らげたこの期に及んで、未だに箱村は箸の件にこだわっているらしい。そのうえ御大層にも教訓とは。そんなに強がってみせたって、無駄な虚勢にしか見えない。
 とはいうものの「そうですね」と無理に同調して、赤井君が優しさをのぞかせたところで、
「そうね、でもやっぱり馬鹿丸出し‥‥‥‥」と不承不承(ふしょうぶしょう)同意するのは箱村の奥さんである。
 顔がほころんでいる。もうこんなことは慣れっこなのか、慌てる素振りは少しもない。
「今日はお前にちょっと辛く当たりすぎたかもしんねぇ、悪かった」
 今日はじめて箱村が奥さんに反省の色を示す。
「いいのよ、いつものことだから。でも赤井君の前で恥をさらしちゃったわよね」
「恥のかき捨てでいいんだよ。お互いに俺ら、いずれ老いてボケてきたら『あー』とか『うー』とかしか言えなくなって、喧嘩にもならないんだからよ。おい、そのときは赤井、お前が俺たちを介護しろ」
「ぼ、ぼくがですか?」
「冗談だよ、どうにもいかなくなったら二人で心中だ」
「ボケてるから自殺なんてできないでしょう。あなたの道連れなんてまっぴらよ」
「お前、車どーすんだ」
「車って?」
「早くもボケてんのか。お前のBMWだよ」
「どうしよっか、わたし飲んじゃったから」
「俺が家まで乗せてってやるよ。乗せてやるの久しぶりだろう」
「ぶつけないでよ、高い車なんだから」
 と憎まれ口を叩きながらも、満更でもない表情をしている。やっぱり深い処では夫婦仲はいいのだ。
「赤井、今日は俺の車に乗って帰れ。免許もってんな」
 と、自分の車のキーを押しつける箱村。
「どうだ、これこそ羽生名人の鬼手だぞ。俺はいつもは二十手先を読んでるんだ。ここに至って、お前に食前酒を飲ませなかった棋譜がようやく見えてきたか。筋書きどおりだ。こういうところだぞ、こういうクレバーなところを学べよ」
 美味いものをたらふく食べたせいで、ご満悦だ。ドヤ顔も堂に入っている。───今や将棋は藤井聡太の時代に入りつつあるんですよ。でも今日は奢ってもらったから、“あんたが大将”でいいよ。それにしてもキーを渡されてもなぁ。家に帰った後、どこに車を駐車しておけばいいんだ。電器屋の糞オヤジに頼み込んで、店の駐車場にでも置かせてもらうか。
 てなことをいろいろ考えているうちに、二人は早ばやと支払いを済ませて、いそいそと出ていってしまった。
───僕に支払いの心配をさせないための配慮か。有り難いこって。
 赤井君はそこはかとなく二人の温もりを感じるのであった。
 彼らが去った後は、ドシャ降り線状降水帯が通った後のような平穏さがある。なんと表現したらいいのだろう、廃校の空っぽ下駄箱の静けさというか、何というか。雪が地面に落ちるときの微かな音だに今なら聞こえそうだ。
 それにしても今日は食いに食った。腹も身の内というけれども、たまにはこういうこともあっていいだろう。またよく喋った。箱村などは昼から喋りづめだ。声帯がおかしくなりゃしないのか。付き合わされる身にもなってほしいものである。
 ぽつねんとひとり取り残される赤井君。ふと御馳走を食べ終わったテーブルの上にスマホが置き忘れられているのに気づく。黒色のスマホ。箱村のものじゃないな、色が違う。たぶん奥さんのものだ。テーブルマナーがどうのこうのと言ってたわりには、スマホをテーブルの上に置くなんて、これ自体エチケットがなってないじゃないか。
 呆れる赤井君が何げなく手にしたスマホ。あれ? このスマホの画面、さっき撮ったとおぼしき夜景を背景にテロップが流れてるぞ。こんなこともできるんだ。さすがスマートフォン、賢い電話だ。
 今度は二人だけで‥‥‥‥なんだ、これ。いつこんなの仕込んだんだ? 箱村と僕をここで待ってる間に? それしか考えようがないな。いやいや亭主から電話でこの食事会を誘われてすぐにシナリオを書きだしたのかもしれない。それとも僕を公団の最上階から見下ろしたときからこのシナリオを? まさか駅で初めて僕を見たとき? おいおい、なんだか宝箱をあけてしまったらしいぞ。

 今度は二人だけで逢いましょうよ。電話して。待ってます。あたしのビビビはあなたなの。☎〇〇〇─▼×◇◇

 ん? ビビビ? さっきの箱村の無駄話の中身じゃないか。いったいどういう時系列になってる。いつこれを打ち込んだんだ? トイレ? いや、たしかビビビ発言はトイレの後だっだはず。奇術師か。それとも音声でAIを起動させ、テロップを自動生成させたのか。
 これには唖然とするしかない。発信器を後ろからポケットに入れたという話も、あながち嘘と笑い飛ばせないぞ。
 この目の当たりにしている珍事は現実なのか? 誰かの夢のなかで作られた笑い話なのではないのか?
 がらんどうの頭のなかで風鈴がリンリンと鳴っている。
 🎐‥‥リンリンリン‥‥ランランラン‥‥🐼か〜~い! 
(残念! リンリンランランは双子姉妹の女性アイドル歌手ですねん、パンダじゃな〜~いの。代表曲は「恋のインディアン人形」ぞなもし‥‥‥‥‥‥‥ねえ、それにしてもこれって古すぎない? チョットチョットヾ(^_^) ) 
 それはさておき、女にしては大胆な行動だ。僕より長く生きている分、恋愛リテラシーも高いのか。見た限りそんなに年上でもなさそうだが。
 もしや男を手玉に取る悪女だったりして‥‥‥違うな、あんな旦那と我慢して長く一つ屋根で暮らしていけるぐらいの人だからねぇ。
 手の中にあるスマホ。レストラン店内の様子と都市の微細な灯りが二重映しになっている。多種多様な灯りが混淆、密集する小さな小箱。巨人の五本の指が、四角く切り取られた大都市を握りしめている。
 地から這い出た透明な爪が、あたかもそれがガラスの城であるかのように、この大都市全体を僕の周囲にガラガラと瓦解さす。

(40)

 彼女のスマホはずっとズボンの尻ポケットに入ったままだ。不用心であんな倉庫に置きっぱなしにするわけにはいかないからだ。それにこのスマホにいつ彼女から電話がかかってこないとも限らない。
 翌日出勤すると、箱村がスマホに気づいて、
「おう、お前、とうとうスマホ買っちまったのか。固定電話しか使ったこと無いと言ってたから、大した気骨だと一目置いたんだけどな。駅かなんかで電車を待ってる時なんか、周りを見まわしてみろ。どいつもこいつもスマホいじくってるだろう。なんだコイツら、って思うぜ。ホントの幸福はスマホ画面の中にはないのによ。どうせコイツら、スマホを忘れて出かけたら、不安で居ても立ってもいられなくなるんだろう。スマホ人間だ、スマホの奴隷だよ。スマホに脳が支配されてんだ。車に()かれでもしなきゃ、歩きスマホから目を離せないんじゃねぇのか。情けねえ。スマホなんて使うかと居直ってたお前の方が、ずっと精神的に安定してるよ。なのに何で買っちまったんだ。幻滅だぞ。買っても使い道がないだろう。どうせ天気予報をチェックするか、エロサイトを(のぞ)くか‥‥‥せいぜいそれくらいが関の山だろう。俺らの小説と同じで『コスパ悪っ!』だな。一生懸命書くわりには、読んでくれる人はほとんどいない。労働生産性、超低っ! しかも利益率ゼロってか! これだけ費用対効果が悪いモデルもないな。もっとも最近じゃ、小説っていうコンテンツ自体がコスパ悪すぎて時代遅れだと揶揄する人も少なくないけどな」
 口を開けば相変わらずの長話。スマホから自虐ネタに無節操に発展するあたりはいつもの箱村だ。だが知らぬが仏とはこのことで、スマホの所有者が妻だとは思いもよらない。これまでずっと彼女のスマホといっしょに住んでいながら気づかないなんて間抜けな奴だ。本当は箱村から奥さんに渡してもらえばすむことなのだが、まさかそんな無粋(ぶすい)なことができようはずもない。
「どうだい、含蓄のある話だろう。人生たるもの、勝ち組より俺みたいな負け組の方が中身ある話ができるんだ」
 どうやら自虐ネタが続いているようだが、赤井君は彼女のスマホのことが気になって上の空である。
 男は同時に何人もの女を好きになれると言うが、昨日から赤井君の思考の95パーセントは箱村の奥さんのことで占められている。魔法は解けてくれない。完全に(とりこ)になってしまった。どういう訳かカナちゃんへの募る思いは雲散霧消している。
 砂丘に描いた絵文字が知らぬ間に風紋に変わっているように、いつしか赤井君の心からカナちゃんの面影はかき消されていた。完全に重心は彼女の方に(かたよ)っている。どうも彼は同時に複数の女を好きになるのが苦手らしい。この極端な移り気がそれを示している。箱村の“お前は女性ホルモンがドバドバだ”はこの意味で当たっているのかもしれない。
 知らないうちに靴底に付着したガムのように、彼女への思慕の念がレストランから僕といっしょに箱村のカルタスに乗り、自宅、すなわち倉庫まで運ばれている。自宅にいても彼女の面影が心に貼り付いて取れない。四六時中、恋愛モードに気もそぞろ。浮かぶのは彼女のことばかり。立派な恋煩(こいわずら)いだ。ガムなら靴底から剥がしてしまえば終わりだが、彼女への思いは脳ミソにはり付いているので剥がしようがない。
 時間が経って自然に剥がれるのを待つしかないのか。剥がれるのを待つといっても、次の機会に本人に直接会ってあの美しさに陶酔してしまえば、再び強力な粘着度ではり付くに決まっている。それどころか電話して彼女の声をまた聞くだけで、おかしくなってしまいそうな気さえしてくる。一体はがれ落ちるのはいつなのか。
 もし“存在と時間”いう箱が今ここにあるとすれば、あの時の彼女の発言や行動の一つ一つを、過去の一連の流れの中から切り抜いて、その箱の中にいつまでも後生大事にしまっておくに相違ない。しかし、いくら自由恋愛の時代とはいえ、さすがに横恋慕だけはいただけない。最低限それは心得ているつもりなのだが。
 ───赤井くん、君の気持ちはよく分かるよ。人を好きになってしまうのは辛いよね。相手の素顔がよく見えていない間は特に。見えない分、妄想のうちに相手を理想的な女につくり上げていってしまう。それも人妻で叶わぬ恋と知っていればいるほど。いっそもう会わず無関心のままでい続けることができた方がどれほど楽か。
 早く電話しなきゃ。赤井君はさっきから、そのことだけを考えて、箱村の長話はまるで耳にはいらないでいる。こういうことは早くしなければいけないことぐらいは、いくら恋愛音痴の彼でも分かる。電話したいのは山々だが、ただその勇気がなくタイミングもつかめずにいるのである。
 噛み過ぎてパイプにできた傷跡のように、“電話しなきゃ”という焦りはいつも舌先に当たっている。気になって頭から離れないのに、恥ずかしいやら怖いやらで行動にうつせないでいるのだ。
 心のテーブルには不安の花瓶がのせられている。テーブルはバランスが悪く、ぐらぐらと揺れ動く。美しい花を()けたい気持ちは山々だが、活けた途端に枯れてしまうのではないかという恐怖心がぬぐえない。風俗店に飛び込む勇気はあるくせに、こういった勇気はからっきしだ。そんな年頃でもあるまいに、思春期にありがちな股裂き状態に苦しむ赤井君である。
 何も考えずにただ電話するだけのことじゃないか、何をそんなに悩んでいるんだ!
 外から見れば滑稽なだけだが、その原因は赤井君が自分を他人の目で冷静に分析できていないことに尽きる。つまり自分を握りしめ過ぎ、頭が取れていないからなのだ。
 人は説明できない感情に引きずられるものだ。頭では分かっていても実践できない理由である。人は感情が絡むほど正しい判断ができなくなる。判断に執着するほど、それに付随する感情もどんどん増幅されていき、判断そのものが誤った形に変容していくからだ。
 こういう堂々巡りの思いが去来するときは、現状を客観的に分析することで、いち早く感情系の刺激を思考系に変換せねばならない。たとえ判断を検証するだけであっても、そこに個人の感情が混入しないよう注意すべきだ。
 あらゆるネガティブ感情や心理的な迷いを統御するには、自分とその自分を観察している自分を、心に同時に存在させることが有効である。
 つまりこういう時こそ、SM嬢のカナちゃんが言っていた通り、宙に浮かんでもう一人の自分を見下すことが大切なのである。自分が主人公の映画を観客席から見ているかのように客観的に状況を分析すべきなのだ。
 そういう視点が、未熟な彼にはついぞ見受けられない。メタ認知ができないばかりに、的外れの不安でいたずらにパニック状態になっている。
 君の潜在意識はすでにその答えを知っているんだ。ただ感情の曇りによってそれが見えないだけのこと。君は車のフロントガラスが汚くて前が見えないとこぼす。だけど実際にはフロントガラスは汚れていない。君のメガネのレンズが汚れているだけなのだ。メガネを拭けば途端に視界は良好になるのに。だが君はそれに気づかない。
 まず君がしなければならないのは、自分の体から脱け出すことだ。君は魂となって宙に浮かぶ。見下せばアタフタしているもう一人の君がいるだろう。
 さあ彼に「赤井くん」と名前で呼びかけろ。そして問え。「この問題に対処するために君は何をするのか」と。そうすれば自分を握りしめることもなくなり、不要な悪感情は取り除かれ、自ずと解が見えててきただろう。
 電話するべきか、せずにおくか。電話したとしても断るのか受けるのか。さらに言うなら、このことを夫である箱村に伝えるべきか黙っているべきか───それらをいま下に見えているもう一人の君に問え。彼の潜在意識は正解を全て知っている。
 そういう対話型のシミュレーションをすることでしか今の君には正解を引き出すことはできないんだよ。
 そんなこと言ったって、実際に自分から脱け出して宙に浮かんで自分を客観視することなんてできるのか───と君は疑うのか。大丈夫だ。潜在意識は現実と想像を区別できない。それは正負に関係のない絶対値の自分だ。生も死も超えたニュートラルな自分だ。迷いや弱点を克服するために、潜在意識の泉から叡智を汲み上げれるだけ汲み上げろ。

 ───その時ニワトリの目にはニワトリのあの世が見えたのだろうか。

 君の質問にたいする答えはこうだ。その時ニワトリの目には、空を自由自在に飛びまわる真の自分の姿が見えていたんだ。今までずっと飛び立ちたかった。だけど本当の君は飛べるんだよ。ニワトリは死ぬ間際はじめてそのことを知ったんだ。

 長い夜、病院の一室に君はいた。君は毎日毎日、点滴の雫が一滴一滴落ちるのを目で追い続けた。ある日の早朝のこと、仰向いて死にゆく君は、死ぬ間際はじめてこの身を宙から見下ろす真実の君の存在を知った。ついに本来の居場所にもどっていく時が来たんだ。

 え? 偉そうにそんなことを言うお前は誰かって? ああ、まだ気づいてなかったのか、五十年後の君だよ。

 今回もほんの少し長くなってしまいました(8万5千字ほど)。にもかかわらず最後までお読み下さり、ワン🐕ダフル! 有難うございました。

                  赤井かさの(ペンネーム、挿絵も)

霞ゆく夢の続きを(5)

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