本質的な話

 ふと、彼は気付いた。俺はここにいる。
 ここはどうやらオフィスのようだ。スーツ姿の男女が自分の前にデスクを並べて、何やらパソコン画面に見入りながら文字らしきを打ち込んでいたり、電話を片手におよそ顧客対応みたいなことをしている。彼の背後は窓でこれ以上にデスクはなく、まるで俺はこいつらの上司であるかのようだ。それにしても、彼は思う、揃いも揃ってウスノロそうな連中ばかりだ。いや、自分の机の位置により、そういう風に見えるだけだろうか。何か分からないが一生懸命に何かしている姿を遠目に見ているとそういう風に見える。きっと、こいつらは俺の部下なのだろう。
「吉岡課長!」
 一生懸命にパソコン画面に向かっている頭の一つが、ムクッと起きがった。訴えかけるような必死な目をした男が彼に向かって呼びかけたのだ。彼の背後は窓なので、この若い男はきっと俺を呼んだのだな、彼はそう合点せざるを得ない。その指向性の瞳は彼をしか捉えてはいないのだ。パソコン画面と向かい合う社員たちの椅子の背同士の間にある一メートルほどの狭い通路を、彼のデスクに向かって一直線に早足で向かってくることからもそう判断せざるを得ない。
 してみると、彼は思う。俺は吉岡などという名前なのか?
 この若い社員、幾分前屈みになった姿はまるではやる気持ちを抑えつつと言った感じだが、この若い男のデスクの位置が彼に対して二番目に遠いところにいたので、それから十人分ほどのデスクを横切ってこなければならないので幾分のタイムラグがある。この社員の座っていたデスクは今は当然に空席になり、その両隣が若い女社員が座っている。「吉岡課長!」と男社員が叫んだとき空間的には何かしらの波紋が起きたが、彼女たちは距離的にもっとも近くにいるものの我関せずパソコン画面に見入ったままで、全くウスノロ風だ、彼は思う。ぼんやりとした眼差しでパソコン画面から目を離さない。よく見ると、座り方が義務教育風で、男の隣に女が座りその隣に男で、きっとこれは決まっているのだろう。並びは四列で列により男女の並びは互い違いになっているのも義務教育風だ。
 彼から見て一番奥に見えるのが入り口で、小さな磨りガラスの嵌まった扉がある。その扉から四列のデスクを囲うようにみっちりとある書類棚がまるでそれらしくなるために設けられた雰囲気作りにしか、彼には見えなかった。あの一つ一つの棚に収められた書類フォルダーに何が記録されているのだろうか。書類棚の上には段ボールが積まれあれも誰かかえりみる者があるのだろうか。入り口に近い書類棚には段ボールでなく、通函と書かれた箱があるが、あれは返さなければならないものなのではないだろうか、『ドラボット』に。立体的なロゴでドラボットと書かれている。両端が膨らみ真ん中がすぼまって、金曜の夜7時風に画面から飛び出してきそうな文字だ。小さな文字で副題のようなものが見える。彼は目をすがめてそれを読もうとするが、英…合体…伝説……
 ……英雄合体地球電撃伝説……ドラボット、通函、悪の化身マズモデーデは配下の死神皇帝率いる六連牙軍団とともに富士山の奥深くで悪の大号令をかけた。無敵大将の決死の努力も甲斐無くドラボットが目を覚ます。君はドラボットによって選ばれるのか!?今始まる、ザーク・デミ・ドラボット・ゼオン!!!!!……
「吉岡課長!」
 通路をようやく横切って彼のデスクにまで到達した社員が立っている。はやる気持ちを押し殺しつつも興奮は鼻穴から漏れ出し、興奮が圧迫されているために奇妙なほどの震える声でこう言った。
「トイレに行きたいのですが……」
「何!トイレにだって!?」
 彼はこの社員が何かしらの情報をもたらすと思ったのだ。そしてその情報に対して自らはどういう判断が迫られるのだろうと危惧していたものが、逆にほっと息もついたのだった。一体、この会社は何をしている会社なんだろう。
「も…漏れそうなんです。どうか……」
 彼は、深く椅子に腰を落とし、両腕を机に突いて絡ませた両指同士の上に顎を載せると、しばらく考え込み、そして虚空を睨んでようやく言った。
「よろしい……」
 彼は自らに纏っている権力を如実に感じられた。トイレに行くのにも俺の許可がいるとはな、再びパソコン画面と向かい合う社員たちの椅子の背同士の間にある一メートルほどの狭い通路を、今度は反対に扉に向かって歩いて行く男性社員を見詰めながら、彼は思うのだった。
「田辺主任!」
 彼のデスクのすぐ前の位置にいる女性社員がスクッと立ち上がって、彼に向かって呼びかけた。彼のデスクから見て一番近い位置なので全く今度はタイムラグがなく、椅子を引いて方向転換してから、たった三歩ほどで彼の前に立っている。
 彼は混乱している。今、この女は俺に向かって田辺主任って言ったよな。俺は吉岡課長だと思うぜ、と声には出さないものの、批難するようにこの女の顔を注視すると、女の視線は彼から離れ、まるで彼に対して示唆を与えるかのように、彼の机の左端、何やらクイズ番組などでよく見る三角形のかまぼこみたいなものを彼女の視線が示している。彼は感ずるところがあり、何気ない風を装ってこのなめらかな細長い三角形の反対面を覗き込んだ。すると、そこには確かに『田辺主任』と書かれている。確かに、田辺主任だ、してみると俺は田辺主任に他ならないな。この状況から見て明らかに俺は田辺主任だ。田辺主任ではないか、それだのにさっきあの男は何故、俺を吉岡課長などと呼んだのか。丁度扉を開けて廊下へと立ち去っていく男の後ろ姿、ただ一つ空席になった正面真ん中左手の列の端から二番目の席を、そして彼は見詰めた。やつは気になる。
 途方もない大海の上に何かしら人工のもの、彼方に浮かんだヨットを発見したように彼は思ったのだった。ここは何か、抜け目のないものを感じる。全体的に欺瞞的なものに満ちているような気がしてならない。そうか、俺は田辺主任なのだ。このデスクに座る俺はこのネームプレートのおかげで公然と『田辺主任』であることを宣言している。
 ところで俺はこの田辺主任であるところの俺は、トイレに行くのにも俺の許可をいることの権力を有している俺は、少なくともこの会社において一つの体現者でもあるだろう、俺の裁量において一体どのような判断が迫られるというのか。そのことは人間が集まりその総体として擬似的な人間となる、いわゆる組織の運命を占う大きな問題でさえある可能性ですらあるのだ。しかし、そもそも俺はこの会社が行っている仕事すら知らないのだ。それだのに、公然とこの会社の『田辺主任』であると宣言している場所に、明らかに人がそうに違いないと思う場所に、座っているのだ。果たして、このことは良いことなのだろうか。
 それから彼は思う。しかし、そうすると新たな問題が浮上してくる。俺が『田辺主任』ではないことをどうやって証明するのか。一体、俺は誰なのだ。ああ、ここはとても抜け目ないぞ。
「あの、田辺主任?」
 彼の机の前で女性社員が立ったままだった。深く沈思に耽っていた彼の頭の上から覗き込むように声かけた。彼の沈思の内容をあたかも知っている全て理解しているかのような、奇妙な冷笑が、彼には感じられる。そう思っている彼にそう思われているように感じたかのように女は、一瞬間の垣間見えた冷笑的な表情から一転して、真剣な表情へと移り変わり、もっと相手をおもんぱかる表情へと変遷すると、顔を近づけて、小さく耳打ちするようにこう言ったのだ。
「先程、見知らぬ男から電話があり、主任さんはいるかね。おっと替わらんでもいい。ちょっとした伝言でよ。例の件が片が付くまでお前の息子は預かったままだぜ、いいのかい、例の件、よろしく頼むぜ……、と」
「何!?例の件だって!?私の息子!?」
 思わず声を上げた彼である。その声は室内に響き渡り、今の今まで仲間たちの行動とは没交渉そうに一心にパソコン画面にのみに見入っていた連中が一斉に顔を上げたのだった。みな一様にぼんやりとした眼差しをしているが目の奥に何かを捉えてやろうと、まるで矢のように彼を突き刺してくるのだった。
「主任……」
 女は彼を見下ろし、何かしら見下しているのは明らかな眼差しである。そして、先程一瞬間垣間見えた、冷笑を浮かべたものの、すぐにも真剣な、他人をおもんぱかる表情へと変遷する。
「このことは内密にしておいた方がいいのでしょう」
 そして、人は人、自分は自分、といったキリッとした表情をして更に付け加えた。
「私はただの伝言役ですので、何かに巻き込んだりしないでくださいね。誰にも言いませんから……」
 当然、この場合においてまるで負け犬的な、明らかに何かに失敗して取り繕うとして更にぬかるみに嵌まり込んでいっている状態的な『田辺主任』であるところの彼は、幾分軽侮する部下の言葉に肩を落として、こう言うしかなかった。
「……分かった」
 それは流れがそうさせたのだろうか、この女性社員の高潔性のモチベーションがそうさせたのだろうか、しかしながら身に覚えのない何かしらの背徳を背負わされたとて、身に覚えのないことであるから、心には堪えるものではない、彼であった。むしろ、彼は、彼に出来事の接触を持ってきたこの女性社員が気になるものとなった。トイレに行ったやつは何か、もっとも拡大的に言うと、この世界の、疑惑の急先鋒であるが、未だ空席のままだ。「吉岡課長!」、だと?
 一体、やつは何処からそんなものが出てきたというのか!?
「すまない。ええと、それはそうと君は誰だったかな。ちょっと」
 少し飛躍しすぎたかと彼は思ったが、むしろ、何か分からない疑惑的な例の件なるものとそれがために人質にされているという息子と、その伝言役である女性社員の高潔性の彼を突き放す言葉が、空中に浮遊していて、いやがましに彼は素であった。彼は普通に名前を聞いたのだった。
 彼に名前を聞かれた女性社員は、席に戻ろうと半歩進んだところで立ち止まった。ピンッと張り詰めた鋭い緊張感が彼にも伝わった。
「あなたのような人間に私の名前を名乗る必要はない!」
 鋭利な刃物のような視線を彼に向け、一閃稲妻のような言葉を叫ぶと、その勢いのまま席に戻り、パソコン画面と向かい合う。
 女は更に飛躍していた。彼は思う、この女性社員は、自分のような人間に名乗る必要はない、のでなく、単に名乗れないだけではないのか。彼は普通に思うことが出来た。
 彼は椅子から立ち上がった。自然に伸びをしながら身体をひねったりしながら、ふう、などと息を吐いた。パソコン画面に見入っている社員たちがこちらを見ないまでも、明らかに目の端で、耳で、肌で、こちらを覗っているのが感じられる、彼である。そう、俺は『田辺主任』であり、このデスクの配置、肩書き、全てにおいてこの室内において一つ抜きん出た権力を有しているのは、明らかだ。そう、俺は『田辺主任』なのだ。
 何気なくそこらを歩き回る彼であった。彼以外の社員たちのデスクには例の三角形のネームプレートがなかったのである。入り口からもっとも奥、窓際のまるで住民たちの崇める祭壇風に、ひしめき合う世俗から隔てられた聖域のように、あのデスクがある。ネームプレートは室内の殆どの空間から見えて、高らかに『田辺主任』であることが示されているデスクに座っている俺だ。四列の机の並びは一つの列の前部同士はくっついており、異性同士が異性同士で囲んでいるために、大きく分けると二列で、その二列の真ん中に互い背中合わせの一メートルほどの空間があり、デスク十人分の通路になっている。先程、彼のことを「吉岡課長!」、と呼んだ男性社員が通ってきた狭い通路を通る。机と椅子、そして人間が形作る壁に囲まれた通路だ。遠目から見えなかったが、通函の青い箱に書かれた小さな文字を確認したりする彼であった。彼は何気なく書類棚のガラス扉を開け、中から書類ホルダーを取りだして、ペラペラとページをめくった。

 1983年2月27日
 先方の図々しさにはもううんざりだ。もし白富の件でそこまで傲慢さを表してくるなら、こちらもいよいよ、「我が社」などと言う虎の威を借るかのような言動をすら検討せねばなるまい。
 1983年3月9日
 その社訓において私たちの行動の一端に影響を与えるものならば、両端の意味を見込んでおかなければならない。この業務日報からは幾分逸脱するかもしれないが、革命において意味するのは、革命そのものより革命後の世界の方であると思うからだ。もし今の情勢が続くようなら、ドワーフの世界銀行の破綻も夢物語ではない。おお我がインカ帝国は不滅なのだ。
 1999年10月20日
 もう薬がない。シェルターにはもう健常な人間が私を含めて二人しかいないのだ。もう一人は明らかな内部通報者だ。だれがそんな人間を信用できる?やつは私がパンを掠め取っていることを知っている。
 2012年8月2日
 売掛金の回収が不可能なら革命政府に頼るしかないというのは誤謬だ。月の裏に隠れた本当の政府の存在を認めさせるべきなのだ。彼ら自身に。彼らは直接に軍団を率いることもやぶさかではあるまい。直接の債権回収を行うのは彼らでなければならない。一千万の軍勢が暗黒の空から駆け下りてくるはずだ。
 2080年4月16日
 調和の到来とともに今年は恵みの年となりそうだ。特に根菜類の豊作には目を瞠るものがある。百年越しに醜き娼婦の子が金色の処女となったからであろう。豊かな生き物たちの躍動が感じられる。美しき生命がこの地に充溢している。こんな日に貸借対照表だなんて馬鹿もやすみやすみに言え。ジックラトは崩壊しているぞ。
 2135年9月236日
 この一日3896時間という途方もない経済時間を享有しながら、生産者、消費者ともによく頑張っている。一秒以上に細分化された一秒はまるで永遠のように見える。ピラミッドの建設労働は多くの出稼ぎ労働を生み出したが、到来することのない完成により更に多くの求人を生み出している。我が社としてもベルトのバックルに好機がある。トライデンサーを広告塔にし、変身機能を有したガリニアン製のものであることを周知すべきだ。しかしもし彼らが固辞するなら、誰かが何かを失うことになるだろうことをガリニアンどもには教えてやらねばならない。
 
 書類ホルダーに収められた業務日報らしい文面を流し読む彼であったが、どれ一つとて有意義に思える情報はない。時系はすぐに飛躍し、前のページに書かれていた日付とその出来事に基づいて次の日の出来事が記されたりはせず、長い時間を隔てて思い出しては記述する、誰かの秘密の日記風だ、業務日報とは毎日の出来事をつまびらかに何が誰がどういうことがあったかを記述するべきものだろう、彼は思うのだった。
 ただ、この誰かの日記風の業務日報の断片的な情報から、この世界には何度とないカタストロフが訪れていたことを示唆するものがある。2135年9月236日には一日が3896時間となり一秒は細分化されてしまったようだ。その一秒の細分化により時間がまるで永遠のようになり、ピラミッドの建設は完成することはなく、完成されないピラミッドの建設に多数の建設労働者を必要とし、そこで我が社はどうやらその建設労働者の腰に巻くベルトのバックルに商機を見いだしたようだ。トライデンサーなどいう人なのか何かしらの物体なのかを広告塔に用いというが、変身機能を有するというこのバックルはガリニアンとかいう国なのか他社なのかの、製品で、ひょっとすると彼らはそのバックルの納品に関して首を縦に振らない可能性があるらしい。脅しのような文言で、誰かが何かを失うだろう、と強い口調が窺えるが、それはこちらなのかあちらなのかは、これだけでは定められない。
「ちょっと、君」
 彼は何気ない風を装い、近くにいる社員に声をかけた。当然、誰の名前も知らないので、抽象的なその周辺にいるパソコン画面を注視し続けている、誰か、に対して呼びかけたのだ。視線が揺らぎ、誰か良い標的を見定めながら、どれも似たり寄ったの服装、髪型の男女、天体観測のレーダーのように首が巡り、左端の丁度、彼の正面からは殆ど死角になっていてパソコンが遮蔽となってその額のみが窺える列の角に座る女子社員を、捉えたのだった。
「君だ、君だ」
 丁度、大別すると二列になるデスクの間にある椅子の背と背の間の通路の端にいた彼であったが、デスクの前部と前部をくっつけた列は厳密には四列で、その四列の外側の片方、一番端に座る女性社員の元へすぐにも走り寄る、彼であった。
 パソコンのモニターが遮蔽となっていたその顔が見えるにつれ、彼の視線に呼応するようにその顔の視線も彼の動きに呼応するように動く。獅子鼻、切れ長の目、意思の硬さを如実に示すかのようなへの字と言うより左右対称のくを180°下に傾けた口。
 どっしりとした体型、その椅子に重しのように腰を乗せている。そそり立つような首を上げ、彼の挑戦を受けるように顔を彼に向けている。一切、視線を避ける素振りすらない。
 彼は一瞬、息を呑んだが、俺には権力がある、と心を落ち着かせる。俺の権力を俺は肯定すべきだろう。全的なものとして、俺は聞きたいことがあるのだ。それはこの会社にまつわるところのものだ。そのことは権力として容認される。しかし、ここで彼にも疑念が生じる。この女子社員の決然とした視線にひるんだ彼は内向的になり、ひょっとすると、俺の聞きたいことが俺の知らないとむしろお話にならない、権力の体現者として良からぬことに繋がるのではないか、と。今現在進行中のプロジェクトなのではないか、いや、むしろ今現在進行中のプロジェクトなら、何度も何度も聞くべきことかもしれない。ゆらめきながら、やはり、探りを入れてみよう。女子社員はそそり立つような首を上げ、角度のついた顔の輪郭、一切逸らすことない視線。まるで、永遠のような思索をしている、俺は、彼は思う。ひょっとすると今日はまだ、2135年9月236日なのかもしれないぞ。
 彼は思う、この女子社員を見ると、遠い暗い教室を彷彿させる。おい、では次は七の段だ、六までは出来たんだろう、おい、九九を出来ないと将来ろくでもないぞ、おい、何か言って見ろ……そそり立つ首、反抗的な一切そらすことない視線、固く結ばれた口。
「おい、君だ!」
 彼はその女子社員から視線を逸らさずに、すかさずに、隣の男子社員の肩に手を置いた。ビクッと明らかな動揺が彼の手を伝わった。
「ガリニアンとの取引の件、どうなったっけ」
 そそり立つ首、反抗的な一切そらすことない視線、固く結ばれた口から、彼は視線を移動させた。ひょっとするとこいつはずっとそうして何かの危機を切り抜けてきたのかもしれないな、と思いながら、彼は隣の驚愕に満ちた表情で顔を上げた男子社員を見る。
「ガリ…ニアン」
 男子社員は初めて口にするように何か頭の中でたぐるように繰り返した。
「そうだ、ガリニアン製のバックルの件だ」
「ガリニアン製のバックル……」
 再び、頭の奥で記憶をたぐるように、片眼をすがめて、繰り返す。まるでその表情は口中の微妙な味を噛み締めるように、甘いと言ったら甘いし、ちょっと最後に若干、カレー風のスパイスの味がするような、といった風に俯きながら頭を小刻みに動かしているものの、明らかに記憶にはなさそうである。
「そのことは……ええっと……ああ……えー……」
「何!君は知らないのか!」
「ええ……勉強不足です。申し訳ありません」
 彼は念を押すように聞いたが、権力の名のもとに聞いたわけではなかった。しかし、権力はこの男子社員から謝罪をもたらしたのだった。しかし、この謝罪は何の意味をもたないものだった。彼自身、ガリニアン製のバックルなど知らないのである。ただ、この男子社員とのやりとりをこの室内いる誰もが聞き耳を立てていることは明らかであった。
 全く、意味のないやりとりだった……、彼は思う。俺は全くガリニアン製のバックルなどどうでもいいのだ、何かしらの手掛かりのような情報がそこから、あるいはその側面からでも、得られればと思ったのだが。

 ガリニアン製のバックル……

 室内は沈黙していたが、彼の耳には確かに囁き合うような言葉がそこかしこから聞こえた気がした。それは、何か未知の世界においてたった一つ、与えられた意味のあるキーワードのように囁かれているような……

 ガリニアン製のバックル……

 ガリニアン製のバックル……

 パソコン画面に向かい合う頭はどれも微動だにせず、誰も頭をもたげたりしなかったが、明らかに、『ガリニアン製のバックル』という言葉が、さざなみを起こしている。未知なる世界にもたらされた有意義な言葉のように沈黙し微動だにしない頭の内面を、『ガリニアン製のバックル』が揺れ動いているかのようだが、彼には明瞭に感じられるのは、この場合、無意味な言葉だということだった。お前らが知らないのなら、ここにおいて、全く意味はない。ひょっとすると、彼の頭に一つの疑念が生じる。
 俺はまるで、この世界に『田辺主任』であることを背負わされて降臨したかのようだが、俺は全く『田辺主任』ではないだろうことは、自分自身がよく知っている。今さっき、俺は、ここにいる、と気付いたからだ。そして、パソコン画面に向かい合い、業務らしきを行っている社員をこの世界の、既知の、元からある、俺とは別に連続したものであると認識していたが、こいつらの内面も、ひょっとすると、入れ替わっていたとしたら?
「ところで、君は今は何の業務を行っているのだね?」
 そして、君の名前を教えてくれ、とその流れに乗せて口から出かかったが踏みとどまった。幾分の飛躍があったからだ。何かしらの本質、のっぴきならない本質にぶち当たりそうな危険な予感もまた感じられたからだ。何かしらの断罪のような、犯人捜し的な、心臓を直接に突き刺すような、そのことは、また逆も然り、だと咄嗟に彼は思ったのだった。
 少なくとも、この場合に特に問題にはならない、この場合にありがちな、上司が部下に聞く言葉として、何気ない風のもので、探りを入れたのだった。それは、『ガリニアン製のバックル』について問うた男性社員にだった。彼に何かを聞かれそうになった時、この社員の肩に手を置いた時に振り返った驚愕の表情、また質問の続きとして。
「ああ、……ええと、それは……」
 男性社員は、歯に何か挟まったように口ごもる。『田辺主任』である彼は、すぐにも疑念を捉える。抜け目なく。まさに上司のように。
「ん?君は今、一所懸命にパソコンで何かしていただろう」
「すいません……」
 また謝罪がもたらされた。いや、そうじゃない。欲しいのは謝罪ではない、もっと俺は歩み寄りたいのだ、彼はむしろ思うのだが、俺は『田辺主任』でこいつは名も無き社員で、上司と部下として、認識がなされる。何故、俺の机にだけ、ネームプレートがあるのだろう。窓際の際奥、あそこは祭壇風で、城下町の城風だ、そして当然、あそこは今空席だ、あの椅子に座っていた俺が今、ここにいるからだ。
「じゃあ、今の今、君は何をしていたのだね」
 彼は抜け目なく、引き絞った矢のごとき視線を男性社員に向けた。本質を捉えたかのごとく。まさに流れに身をおきながら、制圧する、勝つ。とりあえず、勝とうとする彼であった。制することで、自らに有利の状態を築こうとする、一つの手である。君はどうするのだね、口には出さなく、本質的な視線を男性社員に向ける彼、また自らの本質でもあることをも併せ持っている視線である。お前は俺と一緒だ。しかしお前は先に立て。
「……いや、ソートフォンの一部地域における分析結果についてですね」
「何!?」
 彼は初めて耳にする言葉に、驚くのだった。見ると、視線をパソコン画面に転じると、何かしらの機械の設計図のようなものが映し出されている。『ソートフォンの一部の地域の分析結果』と脇に記され、全く、それらしい。それらしくオフィス風の背景といったものに溶け込んでいたのだろうか、専門的なものが、確かなる業務的な様相をともなって彼の前に具現している。こいつは今の今までこんなことをしていたのだろうか!?
「分析結果について若干の食い違いがあるようなんですよ」
 そして、こう付け加えた。
「その点で……」
 彼は顔をしかめる。くそ、本当なのか。激しく動揺する、彼であるところの『田辺主任』。そう俺は『田辺主任』なのだ。しかし、俺はこの『ソートフォン』なるものは知らない。初耳だ。もし、上司として部下からこの『ソートフォンの一部地域における分析結果』そのもの、のみならず、その若干の食い違いなるものに意見を求められた場合についての危惧が更に芽生える。これは相手が悪かったというべきか。
 ここにいることは非情にまずい、と自らの席をかえりみるに、あの人里離れた風の我が席も、実際的にはネームプレートまで用意された責任者の席なのだ。あそこに座っていると、そのうちに、『ソートフォン』やら何かしら専門的で、実際業務的な、問題が転がり込んでくるのは明白だ、彼は思うのだった。
「ああ……、頑張ってくれたまえ」
 と、これ以上の接触は無用だ、と言わんばかりにすぐにもこの男性社員の席から離れた彼であった。そして、書類棚とデスクの間の大外の通路を歩きながら、再び、自らに用意された風の席に戻るのも逡巡する彼であった。戻るに戻れず、かといって何処にも落ち着き場所のない彼は、再び、書類棚のガラス扉を開けて、それらしく、書類ホルダーのページをめくるしかなかったのである。何事か起こらないだろうか、と思いながら。
 彼の肉体、容れ物でしかない、この肉体を呪う彼であった。何故なのだ、彼は神を呪うのだった。やつの仕業だ。神よ。原初的な怒りに震えながらページをめくる彼。そして、自らこの職場において責任者である『田辺主任』である、そういう認識がなされるしかない彼は、部下らしき社員の視線を背中に浴びるのを如実に感じられている。まるで、一羽だけ黒い白鳥のような気分だ。何故なのだ。神よ。

 1923年3月3日
 アーノルド・ツヴァルセン氏の電撃理論から導かれる一つの帰結としてガンボット試作機を政府に納入することは断固反対すべきだ。アズガルド、テッサ、オブレンなどの連合と手を組むべきであると、ボヘのウーラスト婆からの宣託を重視するべき少ない根拠がある。風の剣、火の鎧、そして、水の盾などがすでに、険しきテッフロン山脈の悪の魔道士どもの手に渡ってしまった今となっては。
 1941年4月26日
 算盤勘定にどんぶり勘定。蕎麦粉だけの問題ではない。
 1831年7月21日
 悪徳パーシェルの鉄の天秤には大テッサ金貨四つに対してゾイボット右手が等しいという。何故ならば、ゾイボットの右手から放出されるアクロイドパワーは数千ダマンの冷凍放熱があり、そのダハラは優にバンブレン卿のアクトマイザー艦隊にすら及ぶからだ。
 1950年5月5日
 19世紀のドラキュリ伯爵はドラゴンに変身するという。名前が体を、仄めかしているからだ。ドラという頭の言葉からして明らかにドラゴン族に違いない。そのことを我が社の誰も理解していない。我々はダーブラ財団でもなければ、南洋の秘密結社アキニスでもない……
 
 すると、1950年5月5日のページに挟まれていた一枚の写真が彼の足元に落ちる。
 相変わらず、業務日報というより、中学生か、誰かの秘密の創作日記か何かのような記述が並び、思いつくままに日付すらバラバラ、誰もかえりみないのを前提に誰かのいたずらのようですらある業務日報である。
 そして足元に落ちた写真を取り上げる彼であった。その写真は白黒で非情に古びている。
 長屋っぽい間口の大きい民家に袢纏のようなものを着た五六人ぐらいの男たちが腕を組んでこちらを見ている。その傍らに和服を着た女たち、民家の上には『寅屋電撃社』とあり、道は舗装されておらず土埃が舞っているようだ。皆いかめしい顔をして、カメラを見詰めている。遠近感の感じられる従業員らしい並びは右から左へ中心に向かって重なり合うようにずらっと並び、その消失点から再び『寅屋電撃社』の額のかかる屋根から今度は左の中央から右に向かって戻ってくる、ソリッドな角度のつけ方のされた撮影をされている。
「なるほど……」
 彼はうなった。そうか。分かったぞ。この会社の名前が。ようやく情報が得られた。この情報は俺にとって有意義なものだ。誰がこの会社において役職を有している『田辺主任』が、人に自分の会社の名前を聞けるだろうか。この雰囲気、この白黒の感じ、間違いない、と人に思わせる説得力、何か裏打ちされたものがここにある。ここは『寅屋電撃社』だ。まるでまがい物の中から真実を発見したような、奇妙な昂揚を彼は覚えたのだった。

 しかし、その昂揚も長くは続かなかった。
 まるで、自分が赤ん坊のような気がする彼である。俺は決して『田辺主任』などではないことを彼は知っている。では何者なのかと問われればそれに明確な答えも持たない。まるで見ず知らずの異世界にいることだけを理解している。そして、それに対する上での情報は一切持たない。彼はまた疑っている、自分は最初、自分だけがこんな異世界にいると思えたが、馴染んでくるに、どうも他の連中も、自分と等しく、そうなのではあるまいか。
 ただし、自分だけが名前があり、一個だけ別に用意された何か特別な肩書きを持つ『田辺主任』であるために、またこういうオフィス風のシチュエイションが物事の本質的な理解を妨げているのではないか。実のところ、先程の接触した男子社員は口からでまかせを述べていたに違いないと疑り始めた彼である。そして、もし自分があの男子社員であるとするならば、この場合、自らが見ず知らずの肉体に乗り移りながら、見ず知らずの世界にいる、と感じ、それを他者から指摘されそうになったとしたらば、それからは逃れようとするのではないだろうか、と考えを巡らす。ここは、何か開放的な場所ではない。規律が感じられ、抜け目がなく、異分子は排除されそうな気振が強い。何か本質を妨げる壁が感じられる。
 森だとか、無人島だとか、そういう場所ではない。何かしら連続した厳しい世界の只中だ。ここではおよそ、自分は自分ではない、などということは口には出してはならない、という本能的な危惧が感じられる。
 ここでは俺の知らない間にも物事が動いている。先程、女子社員を通して、誰かが問題を持ち込んできた。それは自分の一身上の問題で、焦点された俺、というより『田辺主任』に属する問題だが、一先ずそれは置いておくにしても、俺は『田辺主任』として、この見ず知らずの連中の長として矢面に立たされる可能性がついて回る。彼は強く意識する。この見ず知らずのオフィス風の異世界は、俺に対しての強い圧迫が感じられてならない。もし、彼ら、あの連中、ウスノロみたいなあの社員が、俺と同じく今さきほど、ここに自分はいるぞ、と感じたとしても、そのことについて彼らもまたそれについて語る言語をここでは持たないに違いない、とは言え彼らは、彼らなら、この状況だけなら潜んでいられる。
 彼は、業務日報らしいファイルから頭を上げて、背後を振り返る。パソコン画面に向かい合って沈黙した頭は非情に排他的なものを感じる。自らの、今ある状況、この居場所。群れの中。俺は、逆に『田辺主任』という明確な名前を持ち、明らかな責任者としての相を持たされている。あの今は俺が離れたことにより空席になってはいるが、先程まであそこに俺は座っていたんだ。このことは非情にのっぴきならないぞ、と影法師のような社員たちを交互に見遣る。あの頑なそうな感じ、私語もせずに、ただひたすらにパソコン画面を見詰める者たち。
 今では、仕込まれただけのようにしか見えない、古びた写真を見て、怒りさえ覚える彼であった。こんなもの俺とどう関係があるのだ。真実らしい、この会社の黎明期を写し取った感じはある。このことを知っているのは俺だけなら、俺は更に上司風になるだろう。
 しかし、『寅屋電撃社』は今は違う名前なのかも知れない。バージョンアップを図っている可能性がある。その時代時代に応じて。単に寅屋だとかローマ字でTORAYAだとか。
 またもや彼は奇妙にも自分が世界に順応していくような感じがしている。やつらは、この会社の名前を知っているのだろうか、彼はパソコン画面に向かい合う頭たちを見遣りながら思うのだった。破り捨てて目に物を見せてやろうかと思えた写真が、先細いが一縷の貴重な情報にも思えてくる。今は、それに寄り添っておくしかあるまい、と写真をページに戻す彼であった。そうだ、やつと接触してみよう、彼は思い立つ。
 自分のことを始め『吉岡課長』と呼んだやつのことだ、彼は思い出した。未だ世界が自分を『田辺主任』と密着のなされる前、何が何なのか状況が飲み込めぬ時に、やつは当然のごとくに俺を『吉岡課長!』と呼んだ、今もっとも気になるあいつのことだ。トイレに行くと言っていたが。
 俺もここから一先ず離れたいというのもあるし、俺はトイレに行こう、と彼は文語的にも明確に考えを引き出すと、その考えに基づいて行動を起こす。そうして、トイレに行き、未だに小便器の前にいるかもしれぬやつの隣にゆっくりと近づきズボンを下ろして何気ない連れションをしながら、何気ない会話から何かしら有意義な情報を引き出すのだ、という明確な文章になされはするもののさしあたりの文章にするとこれぐらいの考えが引き出され、それに基づいて行動を起こす彼は、自分もトイレに行こうとする。やつはトイレへの退席の許可を自分に求めたが、自分は誰の許可を必要とするのか、さしあたりその自分の更なる未知なる上司はここには見当たらないので、そのままトイレに行くために退室しようとしたが、なんとはなく、その無言はよろしくないと思い、通路の最後尾にいる、例の女子社員、決然として刃向かうような一歩も引かない視線と頑固そうに引き結んだ口をした彼女に、許可を求めるのではない単なる伝言として、
「ちょっと、トイレに行くから」
 一方的に言い置くと、扉を開けて出て行く彼である。

 小便をしているやつの、隣からスッと現れて、俺は吉岡課長ではないんだぜ俺は田辺主任なんだよね、とさも何気ない風でありながら本質を突き入れているシチュエーションを想像し、相手の出方を読みながら、廊下を歩く彼であったが、しばらくして気付いたのはトイレは何処にあるのかだった。
 当てずっぽうに、一種の感覚的な歩行を持ってトイレへと向かいながら、とは言っても、白を切られたらどうしようもないではないか、レコーダー等で録音していたわけでもない、証拠はないのだ、彼の考えは深まっていく。あの近くの席に座る俺に好もしからざる伝言をもたらした女子社員、そうあいつがまさに俺のことを『田辺主任』であると呼び、その根拠を視線で指し示した女だが、あいつは俺が吉岡課長だと呼ばれたことを記憶しているかもしれん、いやだが連中がグルになって白を切られると、俺はとても太刀打ち出来そうにもないな、廊下を歩きながらトイレを探す彼である。
 そうだ、俺は吉岡課長ではないんだぜ俺は田辺主任なんだよねって、後ろの句を言わない方がいいぞ、そんなことを言うとやつは、ああそうかこの人は田辺主任なんだ、と認識されることになる、そして白を切り、そんなこと言ってないですよ田辺主任、などと言って逃げ切られてしまう。扉しかない、長い廊下を歩く彼。どうやら回廊になっているらしい廊下で、元の場所に戻って来たように感じた彼であった。
 目の前に階段がある。さっき扉を開けて出てきたとき、目の前に階段があったように感じる。やつのことばかり考えて、トイレなど行き当たりばったりでだいたい見つかるものだと高をくくっていた彼であったが、おそらくこの廊下は回廊で元の場所に戻ってきたと瞬間、平静に戻って、感じたのだった。だが、あれ、しかし、ここはさっきの部屋だろうか、とも思える彼である。というのも、景色が似ているだけで、全体に質素な、あるいは古びたコンクリート建築風、学校風、役所風、の感じの内装は何処が何処だか分からない。
 階段があるというだけで元の部屋かも定かではない。大体、何課とか、部署を指し示す看板的なものがこの扉の横に掛かってもいない。しかし、そもそも看板が掛かっていたとしても、自分が何課に属しているのかは定かではないから、分からない彼である。また、さっき出てきた時にしっかりと看板等の確認もいちいちしてこなかったのは、やつのことばかり考えていたからで、これは盲点だったと彼は思うのだった。
 やつがトイレの場所を知っているのなら当然、俺にだってすぐにわかるはずだ、彼は言語化される以前の感覚的なものに基づいていた強気な姿勢を今更に思うのだった。大体、トイレなど明示され、誘導的に作られているものだという固定観念があったのだ。ここは見ず知らずの世界で、そう言えば、それのみならず、俺はここが何処だか分からないが、以前何をしていたかも思い出せないのだ。しかし、トイレだとか会社だとか、一般的なものは知っている。何かしらベーシックな知識だけは持ち合わせてきているぞ、彼はちらっと、そのこと自体を思う。俺は元々、何かしらの人間だったはずだ。まさか吉岡課長だったりしてな、いや、そもそも田辺主任なんだが、記憶喪失に突如としてなったのかも。しかしすぐに忘れられ、当面の目的が彼の頭に現れてくる。しかし、それもすでに歪に変形しつつある。
 右に曲がって、また右に曲がって、それからまた右に曲がって、もう一回右に曲がったはず。ただ、厳密に何回ぐらい曲がったかはちょっと思い出せない、やつのことばかり考えていたからだ、彼は思う。同じ方向に簡単に考えて曲がってきたのだ、トイレを探して。ただし今の今までトイレらしきは見当たらなかった、トイレというのは大体、記号的なものがあり、黒か青か男的なマークで示され、また近くに対になった、赤色で女的なマークで示されているのが常だろう。
 しかし、事実として全て扉のみしか見当たらなかったのだ。それらはまた会社的な何かしらの部署で誰かが働いているに違いないので、当然開けなかったのだ。当たり前だ、彼は思う。しかし。
 ひょっとすると、そこのいずれかにトイレがあったのだろうか。だとすれば、だとすればだ、なんと不親切な、彼は思うのだった。しかし、彼は更に考えを深める。
 確かに、あの扉のどれもトイレらしい、独特の湿った臭い、アンモニア臭とそれを覆い隠そうとする芳香剤の匂い、扉で覆い隠しても隠しきれない湿った感じの臭いのする場所はなかった、と彼は断言できた。あの感覚的に察知される臭い。こう言った場所にある、彼は以前の記憶と呼べるものはなかったが、ベーシックに言うと、と前置きするなら、こう言った古びた建築物のトイレの場所はなんとなくトイレらしさがあるものだ、トイレだぞという強調性があるはずなのに、そのトイレ臭さはあの扉のどれもになかった。少なくともこの階にはトイレはないと彼には思える。とすれば、下か?それとも上か?
 下と上に続く階段を呆然と見詰める彼であった。奇妙な薄暗い陰影のある階段を見詰める。彼は思った。やつを追いかけるとますますやつから離されているような気がしてならない。まるでぬかるみに嵌まり込んでいくようだ、と。
 この際は、深追いはせずに、一旦振り出しに戻ってはどうだろうか、彼は内面に語りかける。これでは、やつの思うつぼだ、彼はこの一人語りの流れでまるで件の男性社員が宿命の敵であるかのような錯覚を覚える、やつめ、などと言いながらまるで翻弄されているようだが、あの男子社員自身はただただトイレに行っただけに過ぎない、今のところ、彼を吉岡課長と呼んだだけの話だ、ただの言い間違いかもしれないのだった。
 それにしても、彼は思う。ここが元いた場所かは分からない、景色が似ているだけだ、曲がった大体の回数から回廊であると思われるが、違うかも知れない。廊下を挟んで互い違いに扉があったということは、おそらく立方体か、ロの字のような構造をしているのだろう、この建物は、彼は考えを巡らす。薄暗く沈む階段の暗がりから視線を反転させ、果たして、この扉の向こうは元々俺がいた場所であろうか。この異世界に対して彼は非情に用心深くなっている。確固たる、彼の足元を支えるべき重心は、未だ見つからない、あやふやな、水面の葉っぱのように翻弄され続けているのだ。
 扉の前に屈み、耳を近づけて様子を覗う。何も音はしない。そっと覗いて見ようか、彼は思う。廊下は全くの無人で、誰にも出くわさなかった。まるで、遠い暗い記憶がもたげてくる。ベーシックな記憶、遠い暗い教室、冷たい薄暗い廊下、まるで授業中の学校の廊下のようだ。その間は生徒のみならず教師もまた一所の空間に拘束されているものだ。せいぜい風紀担当の屈強な体育教師が誰もいない廊下を彷徨しているのみだろう。今は、授業中なのだろうか、馬鹿な、ここは会社だ、俺は今まで明らかなオフィスにいたんだぜ。俺は主任なんだ、例の件なることをある悪しき男からそそのかされ、息子が人質に取られているようなんだぜ。
 例の件も何も、自分の属する部署すら知らないのになあ、彼は溜息をつくのであった。彼の認識は移ろう。自分も含めた誰もが肉体を容れ物的に、突如として、宿された状況、その場合の自分だけ名前を与えられた特別感からくる危惧、とは言え物事は絶えず生起しているだろう予感、だとすれば元々この世界が真実としてあり自分だけが異質なのかもしれない、俺は本当に田辺主任で一時的に記憶喪失になっているだけなのか、などなどと移ろっていく。「吉岡課長!」やつが叫んだ言葉、この言葉は俺に対して向けられたものだ、ここにこの世界のほころびを感じられる、やはり、やつは何らかの鍵を握っているように思える、彼であった。
 振り返って薄暗い階段を見遣る。上か下か、二者択一そうに見えるがそこから無限大のものが見えてきてならない。途方もないものが感じられる、一旦、策を練ろう、落ち着いて物事の生起するのを待った方がいい、彼は焦燥的に思うのだった。とりあえず用意された椅子に座っていたほうがまだマシなのかもしれんぞ。しかし、この扉の向こうは果たして、俺が元いた場所なのだろうか。
 彼は慎重にドアノブに手をかける。そっと覗いて見るだけだ。確かめるだけだ。確かめるだけなのだ、彼は心に念じる。ゆっくりとノブを回す。それにも関わらず、ノブを回すことで発動する扉の内部機構による確かなる音がこだまする。こだました。思いのほか大きな音で、ある方向に回転させると、それに繋がった栓状のものが別の方向へと動く音、カチャッ、という金属的な音が。彼はゆっくりと回したので気付くわけもない、思いのほか大きくも感じられたが、大体室内とは別空間で、彼はそんな音ぐらいは自分の狭い領域に属するものだと思い直して、ノブが回されたことで上下を反転させた亀頭風の扉の開け閉めを左右する扉の取っ掛かりが、凹み、それによって開くことが可能となった扉をゆっくりと、丁度、片眼で覗えるほどの隙間まで開いた。
 そして中を覗う一個の視線は、室内からの無数の集約された視線に照射されたのだった。
 室内はさっきの部屋ではなかった。明らかな会議の真っ最中という感じで、丸テーブルがあり、その丸テーブルを囲うように人々が座っている。そして、その丸テーブルに座った誰もが一心に扉の隙間から覗える顔を見詰めているのだった。恐ろしいほど室内は沈黙していたのである。正面は言うまでもなく、横向きになった者は首を90°に曲げ、また背中を向けている者も180°上半身及び首を回転させ、丸テーブルに座る全ての者が猫のように瞳を丸く、無言の凝視を扉の隙間から覗える闖入者に対して向けているのだった。
 このことはすなわち、ノブを回したときのカチャッから、室内の全員が振り返り、それから息を潜めるようにゆっくりと開かれていく扉までありありと見られていたに違いないかった。彼はそう思わざるを得なかった。そっと背後から見ようとしていた者が、逆にずっと見られていたことの動揺が彼を硬直させた。その五六人ぐらいの瞳に当てられて、まるでその瞳が五六個ぐらいの杭のように彼を制圧しているのである。まるで、彼の脳裏に遠い暗い台所、隠されたお菓子をすでに見当を付けていた箇所から盗み出し、頬張っていると、「あんた、何してんの!」、突如として母親の声というベーシックな記憶がもたげてくる。
 彼はその五六人ほどの瞳に当てられて、まるでその瞳によって精神的な苦痛が感じられた。ずっと見ているのである。無言のまま、俺を見ている、彼は光にあぶり出され、隈無く自らがが晒されていた。そして、それを見る者たち、観察する者たちの存在。その観察する者たちの身なりからや物腰は高次の存在を、彼に予想させた。その観察する者たちの一人、扉に近い一部背中を向けていた者が、ゆったりと手を差し伸べる。
「やあ、お待ちしていましたよ」
 招き入れるように、手を差し伸べてきたのである。
「木曜日の方ですね」
 円卓の観察者たちのまた別の一人が引き取って声を発する。そしてすぐに扉の隙間にうずくまった彼の凝視に戻る。
 やあ、お待ちしていましたよ、と言ったまま招き入れるように手を差し伸べた状態のまま凝視している円卓の観察者の隣に座っている者が、これも上半身を曲げて、椅子の背もたれに手を置いて声を上げた。
「みんな集まってます、あなたで最後なんです」
 そして、再び、止まり、凝視を再開する。
「こちらへ」
 そしてその隣で凝視していた者が、ゆったりと動き、椅子の背に背中をあずけると彼に見えるように身体を反らせ、隣の椅子を指し示して、止まるものの、首だけをやはり扉口に向きなおして、凝視した状態で止まった。
 そこは空席になっている。こちらへ、と言ったまま止まっている者の隣は空席で、指し示した腕は未だにその椅子を指し示している。全部で六人いる。そして円卓の一つは空席になっている。そして、円卓の観察者たちは、彼を招じ入れる言動をした後の動きのまま、硬直したように止まり、再び凝視だけを行っている。
 それぞれの円卓を見ると、先程の部屋において自分のデスクにあったネームプレートと同じ造りのものがそれぞれの席にあり、『月曜日』、『火曜日』、『水曜日』、『木曜日』、『金曜日』、『土曜日』、『日曜日』と名前でなく、曜日が書かれてある。まるで秘密の会合風だ、彼は思う。『木曜日』は空席で、あそこは俺が座るものなのか、隣の『水曜日』の札の掛かった席にいる者が椅子の背に背中をもたせたまま空席を手で指し示したまま止まっている。凝視している。凝視してくる。木曜日以外の全ての曜日が扉口の彼を凝視しているのだった。しばらく沈黙。全く、動きのない世界が続き、土曜日がふいに片手を上げて、声を発する。
「さあ」
 彼の着席を促してくる。それから沈黙、凝視。入るべきか入らないべきか、彼は戸惑う。しかし、先程とは違い、ここには自分の特別感はなさそうだ。名前を曜日で表す抽象性は没個性的なものに思える。それぞれに抽象的な名前があるだけにも思えるが。
 何かしらのゲーム的な日常生活の側面に位置する、そういうちょっとした別の顔的な。
 彼らは俺を木曜日であると、認識している。顔と名前が一致しているのだろう、とすれば俺は『木曜日』なのではないか。また『田辺主任』でもある、あの机に座っていたのだから。また『吉岡課長』である可能性もあるが、これは単なるほころびである解する。
 この際だから俺は『木曜日』として振る舞いながら、認識を広げるべきではないか、彼は思ったのだった。
「どうしたのです?」
「あなたがいなくては始まらないではないですか」
「木曜日」
 首を動かしたり、両手を小刻みに動かしたり、実際に喋りながら喋っているかのような身振り、そしてピタッと止まり、喋り終えると凝視を再開する彼ら。観察する者たち。その瞳には光が宿っている。人間以上に人間的な物腰で、彼に着席を促す。彼は意を決して扉口から一歩踏み出す。
 彼の歩行につれて彼らの首も回る。彼に追随する凝視する視線、観察する者たち。彼が隣まで来ると、水曜日は奥ゆかしそうに視線を若干下げるのも、人間以上に人間的な仕草。彼は『木曜日』の席まで来ると、この者たちに向かって、頭を下げる。
「遅れて申し訳ありません」
 人間以上に人間的な彼らの前に立つと、彼はまるで自らが確かに『木曜日』に違いないという実感が出て来るのだった。そして、彼が着席すると、先程まで穴の空くほどの凝視をしていた視線が彼から離れ、上を見たり、互いに喋りはせぬが身振りで何か交感し合ったり、ゆっくりと肘掛けに手を置いて頷いたり、などする彼らであった。

 ああ、彼は思うのだった。まるで、俺たちは同士みたいだ。
 どれもこれも身なりは良いが、まるで没個性的な顔をしている。まるで、人間に似せた顔、いや人間以上に人間的な顔、互いに顔を見合わせたり、頷き合ったり、なめらかに腕を動かしたり、全く自然で、違和感はない。一対四十、先程の明らかに徒党を組み、部下たちとの一悶着ありそうな反目の気振はない。誰も彼もフレンドリーで、何処か実生活から離れた開放的な気分に充溢している。この抽象性、この抽象性が逃出的になりがちな都会の経済人にとっての避暑地風の心やすさに繋がっているのか。彼は思うのだった。
 みんなきっと実際は俺が『田辺主任』であるように役職があり、例えば某部長であったり、某所長であったり、某エグゼグティブなんたらであったりするのだろうなあ、彼は感慨に震えるのだったが、おっとここではそういう実際的な事柄はきっと無用だな、などといらぬ詮索の考えを退けると、互いに腕を動かし何を喋っているのか分からないが何か喋っているっぽい彼らに溶け込むように自らも、気安く隣の水曜日や金曜日に対して、同じく腕を動かして微笑みかけるのだった。
 しかし、水曜日や金曜日が彼が微笑みかけているのに先程のように凝視しているのに彼は気付いた。椅子の肘掛けに手を置いて、推し量るような凝視をしているのである。その人間以上に人間的な瞳、肉体の分泌液によるものというよりそれ自体の素材のなめらかさによるものかと思える、肌のつや。あれ、どうしたのだろうか、彼は思う。見ると、水曜日や金曜日だけでなく、他の曜日たちも沈黙し、再び彼に対しての凝視を始めたのである。
「木曜日、なにも僕たちは君を疑っているわけではない」
 片手をなめらかに上げて、土曜日が言った。そして上げた片手をゆっくりと下げながら、凝視してくる。
「君が、木曜日だという確証を得たいのだ」
 隣の水曜日が引き取って、あの奥ゆかしい視線を若干下げて言うのだった。言いにくいことを言うときに直接に凝視をするのでなく、陰影のある視線を宙空に移すのも人間以上に人間的だ、彼は思いながら、どういうことか、考える。
「合い言葉を言いたまえ」
 両手を机に置いて、日曜日が幾分、前屈みの姿勢になり言う。そして、円卓の全ての視線が彼に集まる。そう彼らは観察する者たち、動きの止まった彼らの瞳だけが彼に、『木曜日』に集中される。彼は思うのだった、合い言葉なんて知らないぞ。それは反則だ。何が反則なのかは分からないが、この場合の連続性はないので、合い言葉など知りようがないではないか、と思わず想起された反則という言葉の厳密な解析をして、彼は置かれた状況を把握してみる。情報は全くゼロだ。合い言葉など知りようがない、知らないぞ。情報は全くゼロ。
「左様」
 月の裏側から人類へのメッセージを伝えるような声が響き渡る。日曜日が前屈みの姿勢から身体を起こした。身体を仰け反らせながら眠たそうな眼を彼に注ぐ。人間以上に人間的な思索的な瞳だ。引き結ばれた口は外部からの作用を必要としそうな膠着が感じられるが、ゆっくりと開いたり閉じたりしている。まるで息をしているのだろう。
「沈黙だ」
 土曜日が引き取る。そして彼も凝視から、若干視線を下げて眠たげな瞳を宙空に移す。円卓の観察する者たちが奇妙な彫像のように、若干の向きを変えながら、視線が『木曜日』から離れていく。そこには安堵のようなものがある。
「僕らは沈黙で結ばれているんだ」
 隣の水曜日がいつもの身振りで、肘を曲げた両手を上下に揺らしながら、答え合わせするように彼に言うが、彼にはいまいちピンとこない。よく見ると、この『水曜日』の首が若干ずれている。動く度に取れそうな、微妙な均衡で付け根の目地から何センチか迫り出したり退いたりしている、それを左右にスライドさせながら、『火曜日』と安堵に包まれた室内で、例の気安そうな身振りで喋っているかのような交感を行っている。全くもって取れそうな首をした『水曜日』は全くもって取れそうな首をしていそうな観察者たちなのだ、彼は思うのだった。
 円卓にはそれぞれの席に冊子が置かれていることに彼は気付いた。何か知らないが、合い言葉に合格したらしい、と息をついて、それを手に取って彼は表紙を眺めた。

『我が結社は我が社における唯一の非合法組織である』

 何か、物々しい組織だな、彼は思う。しかし、よく見ると、我が結社だとか我が社だとかあるのだが、肝心の組織の名前がなく、それ以上に気になるのは我が社としか言わないことだった。『寅屋電撃社』か、それが前身になった例えばTORAYAだとかと思っているのだが、彼は思う。そう言えば、ここは会社だったな、きっとここは自社ビルなんだ、隣の『水曜日』の取れかかった首を見ながら、こいつらも、この会社の社員だったわけか、と取れかかった首を見ながら彼は思うのだった。一回、外に出てみようか、大体、玄関口に看板があるはずだ、ここは何何です、と明示されているはずだ、自社ビルなら尚更だろう。高々と誇りたいもので、大きく、でかでかと書かれているだろう。
「ちょっと木曜日、僕ちょっと首が妙に気になるんだ」
 くるっと振り返った『水曜日』が言った。その動作により首が前よりもひどくスライドして、まるで急な赤信号で停止線に止まれなかった車のようだ。
「近頃、肩こりがひどいんだよ、それが首にきているんだろうか」
 片手を首の近くまで持ってきて、宙空へ向かって遠い目をしている。もし、その片手が首に触れていたら、断崖に傾いたマイホームのようにその一押しで一直線に下降していたことだろう。
 
 第一条
 我が結社は我が社において沈黙を旨とする。これは鉄の結束であり破りたる者は打ち首と処す。

「ああ、木曜日、僕はね、祖母がひどい肩こりでね、遺伝形質だろうか、今日も何か首がね」
 隣の『水曜日』が、まるでかなわんよ、といった体で首を横に振る。氷上の物体のように滑りはするのだが、微妙に落ちない首。おちょくっているのだろうかこいつは、彼は思うのだった。まるで、この世界は異常だ。何もかも巧妙な感じがするぞ、彼は思うのだった。

 第二条
 我が結社の目的は我が社における理想主義を標榜することにある。この理想主義は鉄の結束であり破りたる者は打ち首と処す。
 第三条
 我が結社の信条として理想主義があるが我が社においてのその信条を広く深めることで鉄の結束を生みだすこと、鉄の結束を生み出せないのは鉄の結束を破りたる者で鉄の結束を破りたる者は打ち首と処す。
 第四条
 我が社といえば理想主義だが我が結社もまた理想主義である。沈黙は金であって金は沈黙である。これは鉄の結束であり破りたる者は打ち首と処す。
 第五条
 我が社と言えば我が結社でありそれは鉄の結束であり破りたる者は打ち首と処す。

 要するには、我が社に我が結社があり、それ自体が鉄の結束となりそれを破る者は打ち首になるということか、彼はふうん、と納得しながら冊子を読む。この文面は絶対に最後は打ち首に処されるようだな、彼は読みながら思う。そうすると、こいつは打ち首に処された後だろうか、取れそうな首でなかなか取れそうにない頑なな首を気にする『水曜日』を見ながら、彼は思うのだった。いや完全に外れていないから打ち首ではないのでは、とも思う。ああ、ここは何もかもが巧妙だな、彼は独りごちた。
「何だって、木曜日」
 金曜日が彼がぽろっとこぼした独り言を捉えて、今の今まで土曜日と身振りを交えた何事か喋っている風であったのを振り返って聞く。
「何が巧妙なのだ」
 前のめりになった日曜日が眉間にしわを寄せたような可動部を動かし、これがために瞳に鋭さがともなう。
 再び、沈黙。円卓の全ての視線が彼に、『木曜日』に集中する。凝視する。奇妙な険悪すべきものがにわかに感じられる彼である。冊子を読んだ彼には、今こぼした言葉に何か鉄の結束に抵触すべきものがあったのではないか、と自ら疑う。鉄の結束に破りたる者は打ち首に処されるという。皆からの視線を一身に浴びて、何も言うことはできない彼であった。
「左様」
 重々しい観察者からのメッセージが届く。日曜日が前のめりの姿勢から身体を起こした。身体を仰け反らせながら眠たそうな眼を彼に注ぐ。人間以上に人間的な思索的な瞳。
「沈黙あるのみ」
 そして土曜日が引き取る。そして彼も凝視から、若干視線を下げて眠たげな瞳を宙空に移す。円卓の観察する者たちが奇妙な彫像のように、若干の向きを変えながら、視線が『木曜日』から離れていく。そこには安堵のようなものがある。何か知らないが大丈夫だったようだ、彼はほっと息をつく。
「諸君」
 そして日曜日が円卓に座る全員を見渡して言う。ここは一応、抽象的な曜日の名前によってそれぞれ公平的な立ち位置にあるが、若干に日曜日が日曜日ということだけあって幾分支配的である。それに続いて土曜日が副リーダー的であった。
「そろそろこの会合もお開きとしよう」
 どうやらお開きらしい、彼は思った。一体、何が話し合われ、どんな結論が出たのかも彼には分からなかった、むしろこれから始まるのだろうと思えた彼であった。皆、ぞろぞろと立ち上がり、冊子は置いたまま、部屋を出て行く。首を気にしながら歩く『水曜日』は、身振りを交えながら会合の話の続きを聞こえない声で話し合いながら歩く『火曜日』と『月曜日』の会話に頷き、また一方でこれも身振りを交えた聞こえない声で何事か話し合いながら歩く『金曜日』と『土曜日』、最後にある種の威厳を感じさせるゆったりとした歩みで出て行く『日曜日』、それぞれのネームプレートも円卓に残されたまま、室内は『木曜日』だけが残されたのだった。

 室内には彼のみが一人残された。円卓には曜日の書かれたプレートがそのまま残され、冊子も置かれたままだ。あの人間以上に人間的な者たちの醸し出していたある種の重力のようなものから解き放たれ緊張が一気に弛緩するのを感じる彼。非合法組織としてのその領分から来るのであろう猜疑が全体に底流していて、その独特な空間が彼を濃縮的な気分にさせていたのが、濃縮は希釈へと変わり、まるでサウナ風呂から出てきたような晴れやかな心地がしている彼である。
 ふう、などと辺りを見渡す彼。この部屋は円卓が中央にあるきりで、他にはなにもない。扉の反対側に窓がある。椅子から立ち上がり、窓に歩み寄り窓外を眺める彼。
 傾いたビルディング、あるいは傾いていない無傷のビルディング、などが見える。眼下は一部舗装の剥げた道路、焼け焦げた車と焼け焦げていない無傷の車、ところどころに残土が盛り上がっていたり、残土の盛り上がりの何個かは植物が繁茂し、その区画的な生え方からして栽培されたものに思える彼。業務日報から示唆されるカタストロフの片鱗が窺えるようだ、と彼は思う。眼下の距離からして大体ここは十二階ぐらいだろう、彼は見積もってみる。遠くに何か人の顔のようなものが見える。相当に巨大で、丁度十二階の上空から眺めるから認識できる顔、髪があり、目があり鼻があり口がある、それが上空に対して地上から半面を向けている格好だ。あれは気になるな、彼は思う。あれは絶対に行くことになるだろう、彼は思うのだった。しかし、ちょっと遠いな、歩くと随分あるぞ、などとも思う彼であった。
 それから窓から離れ、再び『木曜日』の自分に用意された椅子に座る。そして円卓の他の席を見渡す。今では空席となった席に曜日の書かれたプレートだけが残されている。ああ、あいつら今頃何をしているんだろうな、頬杖をつく彼。きっと肩書きのある何者かなんだろうなあいつらって、何かしらこの世界における先行者なんだろう、在来の者たちなのかな、でも俺だけ何で急にこういう風なんだろう、彼は思うのだった。俺は自分が誰かも知らないんだぜ。
 そうだ俺は『田辺主任』であることを予定されている、いや、そもそも俺は『田辺主任』なんだ。一時的に記憶が失われているというだけなのさ、彼は思う。俺はこの我が社における唯一の非合法組織の我が結社の一員である『木曜日』で、そして何より肩書きのある『田辺主任』なんだ。
 そして椅子から立ち上がる彼、俺は『田辺主任』だ、扉を開ける。おそらく、ここは多面体に違いない、彼は廊下を引き返していく。曲がり角は一つだから、今度は左巡りに行けばいい、そしてそこに階段があれば、その対面の扉が元いた場所となるだろう。そして俺は『田辺主任』だ。しかし、彼は思うのだった、階段のある廊下の扉の前に立った彼であるが、この扉が元の場所であるかは確証はないんだ、いやが上にも慎重になるのだった。超常的なものが先回りしているのではないか、と思わざるを得ない。
 しかし、ここは明らかに元いた場所だ、この室内には四十人ばかしの社員がいて黙々とパソコンを操っており、そしてその並み居る社員を束ねるあるいは睥睨する位置にデスクがあり、そこには俺の名前『田辺主任』と明示されている、あの場所だ。論理的に間違いない、いくら超常でも論理の壁は越えられまい、そうなると世界が崩壊するからな、など思うのだがそう思った彼にこのとき奇妙な引っかかりを感じたのだった。
 そして超常の裏を読む彼であった。二回目はないだろうという鋭い読みで扉の前に屈み、息を潜める。先と同じようにドアノブをゆっくりと回す、するとやはりその内部機構による小さな、あるいは思いのほか大きな音がするものの、さすがに見知らぬ誰かたちがその音に耳を澄ませているだろうとは思わない。だが、視線に対してそれを上回る量の視線を浴びるのを危惧して、その隙間を覗くのにしばし躊躇する彼であった。
 そして、そこには扉の隙間から覗う視線に対して集約された無数の視線はなかった。先程と同じように四列になった机が並び、パソコン画面のみ向かい合う男女の姿があるのだった。そして、真ん中の通路の丁度端から二番目の椅子だけ空席なのは前と変わりはなかった。やつめ、未だ、と思う束の間彼は見たのである。
 奥のデスク、逆光になって見えにくいが誰かが座っているのが。そこは間違いなく『田辺主任』が『田辺主任』だけが座ることを許されるべきものだ。彼は口から心臓がこぼれ落ちそうなほどのショックを受けた。
 あそこに誰か座っている!
 裏切られた、彼は思った。そういうことまでしてくるのか、彼は一気に身体が冷え、全身から内部に宿っていた無数の鳥たちが羽ばたいていくように感じた。まるで魂のようなものが、音を立てて散っていくような感覚がするのであった。思わず扉を叩きつけるように閉めていることにも彼は気付かなかった、ただ闇雲に叫びながら廊下を走るのみであった。もはや、論理もない、ただあるのは悔しさ、どうすることもできない無力さだけであった。
 彼はしかしこの時に冷静に考えれば、空いている椅子に対して埋められた椅子を認識できたことだろう、あるいはベーシックな記憶、遠い暗い教室、教師が別用で席を離れ教室を出て行ったとして、クラスに大体に一人はいるだろうひょうきん者はその時どうするか、動く者、動ける者がいるのである。彼の緊張の糸がふっつりと途切れたのは仕方あるまい、世界において唯一の寄る辺、生まれたての赤ん坊の巣、僕の家だったのだから。
 あんなところ、俺の家なんかじゃない。彼は怒りをぶちまけながら廊下を走る。角を曲がり回廊風の廊下の反対まで来ると、階段があって、先程秘密の会合が行われた部屋の前に来る。俺は『木曜日』なんかでもない。すぐにもその扉から醸される空気を感じて即座に否定する。彼は怒っている。俺は、俺は、俺は……、とそのまま階段を駆け下りていく。
 何故、登らなかったのだろう。彼はふいと冷静になる。俺は階段を降りている。次第にゆっくりとなり、俺はこれから何処へ向かおうと言うのだ。あの顔か?
 歩くと随分遠そうなのだ、徒労ではあるまいか、せっかく歩いて行ったのに単なる巨大モニュメントに過ぎず中に入れない、とか。神聖な何かパワーのようなものが得られるというのか、神よ。
 彼は立ち止まる。階段の手すりに手を置いて、踊り場から片足だけを降ろした格好で。そうだ、どうせなら外へ出て、この建物の名前でも拝んでやろう。そして奇妙な焦燥に駆られる。そんなもの拝んでどうするんだ、そんなことをしたって何の解決にもならない。
 様々な声が彼の脳裏に現れる。考えが、要素が、方向が、相反するものが衝突し合っている。ああ、そして、彼は思うのだった。俺は病気だ、病気なんだ。
 足音がする。彼は震えながら踊り場に座り込んでいる。足音がする、それは階下から登ってきている。女だ。服を着ている。あの服、あの室内で部下たちの女の方が着ていた服と同じもの、スーツだ。あの服を着ているが、若干異なる色味、若干異なるデザイン、何か年季の入った感じの服、なんとなく思われる前の服といった感じのやつ。古株そうな服を着ている、と彼は直感的に思うのだった。
 うつろそうな眼差しをしながら階段を登ってきて、彼を一瞥する。書類ホルダーを小脇に抱え、そのまま踊り場で障害物となった彼を迂回して、階段を登ろうとするのを、彼は呼び止める。
「医者を探しているんだ」
 うつろな眼差しで彼を見詰める女。生命的な反応といったものがなく、ただうつろ、彼が見詰めると、その女の瞳が遠くに退いていくようにすら感じられる彼。
「私は何も知らないのです」
 消え入るような声で女は言った。あまりにも弱い生命反応としか感じられないそのか細い感じが逆に彼の火に油をそそぐ。
「お前は先行者なんだろう!」
 彼は立ち上がって叫んだ。女のうつろな瞳が揺らぐ。
「先行者?」
 女の瞳に奇妙な生命反応が宿る。うつろであった瞳ににわかに光が反射する。瞳の奥のもう一つの瞳が開いたかのように、その奥の瞳からまくれていくように彼を見る。
「先行者!? 誰がですか? 私がですか!?」
「そうだ、お前は先行者なんだ、そうに違いないだろう!」
 彼女の瞳に更に光がきらめく。驚愕するように大きく口を開け、うつろであった瞳は今では見開かれている。
「先行者!」
 女は叫んだ。
「それは一体何処で入手した情報ですか!? 本当にそんなものがいるのですか!?」
 女は興味深そうに彼に対して逆に質問をする。何かくわえ込もうとするような嫌らしさが表情に現れ、それを自分を馬鹿にし始める兆候と感じる彼。
「だまれ、医者だ、何処にいるか教えろ!」
「でもあなたさっき言いましたよね、先行者って」
 何もかも抜け目なく、一つの現象が誰かを制するものとなる、誰かそれに終止符を打つ者はないのか、永遠に堆積される墓場だ、彼は思いながら声をかけた。
「やめたまえ、私は医者だ」
 階段の踊り場で男と女が言い争っているのを階下から白衣を着た男が声をかけた。
「医者が入り用だってね、そうさ私が医者だ」
 と彼は言うのだった。階段の踊り場でつかみ合う男女はその白衣の男を呆然と見詰める。
「医務室はこっちにある。あなたはもう業務に戻りなさい。君はついてきたまえ」
 彼はこう言い、踊り場の彼らはそれに従う。何故ならば彼は医者だからだ、医者が入り用だという時は医者の言うことに従う、彼に医者が現れたことでまた彼女は彼に対する興味を失うかのように、再び瞳はうつろに宙空を移ろい、そして書類ホルダーを抱えなおして階段を登っていくのだった。一体、彼女はあの書類ホルダーを抱えてどこに何をしにいくのだろうか、彼は思うのだった。そして、患者を促して、廊下を歩き、角を曲がり、その扉の一つを開けて中に入る。
 そこは全くの医務室である。薬品棚があり、診察台があり、カルテの束が机に並んでいる。
「先生、一体、ここは何処なんですかね」
 彼は促された椅子に座り、医者を見上げて言う。
「何かの実験ですか?」
 彼はそう言って頭を抱える。医者は彼を椅子に座らせると、自分は立ったまま薬品棚の前で棚の中身をしげしげと眺めている。
「ああ、何もかも誰もかも、そう言うべきなんだろう、ひょっとすると2142年の8月23日アブレファサーの遠心放射によるファナゴッド到来からきたカタジマ崩壊によるものという報告があるようだな、実験という意味では」
「なんですか、それは?」
「分からん、何処かに書いてあった」
「分からんとは何だ、あなたは医者でしょう」
「そうだな、私は、医者だ」
「いいですね、あなたは、医者で」
 彼は棘のある言葉で医者に言うとつくづくと室内を眺めるのだった。錠剤の詰まった薬瓶や連続性が幾重にも重なったかのようなカルテの束、ちょっとした万年筆まで、全てがもっともらしく医者で、そこにはすべきことが明確にある。そして自分のように誰かが欲し求めて訪ねてくるのだろう。
「そう思うかね、君はどういう症状があるのかね。私に出来ることがあれば手助けするがね」
「僕はね、多分、記憶喪失なんですよ、一時的な」
「記憶喪失か、それについては私も何度も考えたものだ」
「さすがだ、もう結論は出ているのでしょう、さあ、その処方箋を」
「ああ、処方箋か……」
 うつろな顔で医者は薬品棚のガラス扉を開ける。ええとこれは、プロメタミン、あふあふアファラーピリン、ポコン、てくてくテックリニン、などとまるでその名前を馬鹿にするように言いながら薬品を手に取っているが、読んですらいないようだった。そして、最後に手に取った薬瓶を棚に戻すと、手を後ろ手にして、気絶するように俯いた。頭を小刻みに揺らしながら奇妙なリズムを取っている。その姿はまるで逆向きの傘の柄のようだ彼は思った。まるで取りたいものがなかなか取れない、といった風で、幾分不気味に思う彼だった。
「誰も訪ねてなど来ない、私は気付いた時からずっと一人だ」
 彼は言うのだった。薬品棚をしげしげと眺める医者として彼は続けた。
「全く訳の分からないカルテの束、用途の分からない薬類、見ろあの何処からあんなに集めたのか色取り取りに置かれた薬瓶の数々を。ただそこに唯一の救いがあるとすれば、あの上から二番目の左手奥に見えるだろう、あの茶褐色の瓶が。そうだ『ジャック・ダニエル』だ」
 医者は言うのだった。彼もまたおそらく彼とおそらく同時刻ほどに気付いたのだろう。あるいは肉体の中に宿ったというべきか、それとも突如として現れたのか。ああ、そうか、なるほどな、彼は即座にも理解した。やっぱりみんなそうなのだ……。
「ベーシックな記憶を私は持っている。あれが『ジャック・ダニエル』だということだけは私はすぐにも勘付いたのだ。あの薬品棚の全く訳の分からない瓶の裏でもっとも意味を持った存在として列の後ろにやつはいたのだ」
 医者としての彼は続ける。今までまるで無言の中で生きてきた人のように言葉が堰を切って出て来るかのようだった。
「この薬品などにしても、特別な要素として自分以外の誰かにとっては有意義なものとしてあるに違いないがね、遺物としてそこにあることはそれは確かなる仕込みであることなんだから、もっとも私には全くの無用だ、この『ジャック・ダニエル』を呑むためには誰か共犯を必要としたんだ、私の場合は。しかし誰も来ないんだよ。ここには。誰も……」
 彼は医者として生きるつもりはさらさらないようだった、彼はウィスキーらしい瓶が『ジャック・ダニエル』などいう名前であることは知らなかった。明らかに彼はベーシックな知識でなく、何かしら特殊的な知識を持ち合わせているようだった。彼は医者ではないが、医務室に置かれたその『ジャック・ダニエル』に導かれたかのようだ、彼は思うのだった。
 ひょっとすると、この医務室はあの薬品棚の奥にひっそりと置かれたウィスキーにこそ本質があるのではないか、と。そう思うと奇妙な感動が彼に押し寄せるのだった。
「私は廊下を歩き回ってばかりいたよ、ずっと君みたいなやつを探していたんだ」
 さあ、とうとう開けることが出来そうだ、と彼は嬉しそうに薬瓶をかき分けて、仰々しくその『ジャック・ダニエル』を取り出した、検尿に使うカップを机の引き出しから取り出すと、ようやく医者である方の彼も椅子に座り、その茶褐色の液体をカップ二つに注ぐ。
 さあ君も呑めと一つを片方に渡して、そして一口、口に含んだ医者の彼の動きが止まる。
 顔色が一気に蒼白へと変わる、そしてそのカップを取り落とした。
 医者は床に突っ伏した。
 低いうなり声が遠く何処か彼方から聞こえたかと思うと、だんだんに声が高鳴り、獣の咆哮のようなものに変わる。
 医者は床にうつ伏せたまま、初めて声を発した獣のようなうなり声で床を叩いている。泣いているのだった。これ、違う、違う、と聞き取れないぐらいの言語の片鱗で叫びを上げているのだった。
 彼もそれを一口含んでみると、それはウィスキーではなかった。麦茶だった。彼は確かな味を確認して、伝言としての役目もある言語で、しっかりと識別したことを意味して念を押した。
「これは麦茶だ!」
 そして言葉にならない絶叫を上げて医者である彼は立ち上がると、手当たり次第に物を壊し始めた。どれだけ巧妙なんだ、と獣のような声で椅子を持ち上げ薬品棚に向かって投げつける。診察台は蹴るし、机は引き倒すし、どうにもならないので、彼は医者であるところの彼を取り押さえるが、互いもみ合っているうちに、一方は薬品棚の角に頭をぶつけ、もう一方は壁に頭をぶつけた。
 彼は見た、医者である彼の首が宙空を舞うのを。
 また医者であるところの彼も見た、この会社の従業員らしい彼の首が宙空に舞うのを。

 彼は無数の要素、一つの要素が制してそれが前提となってまた第二第三の要素が融合しまた排除され、彼が出来上がっていく、あるいは出来損ないで終わる。そしてまた何処か新たなる彼がふいに現れるだろう。それは今度は森かも知れない。草原かも知れない。野営地の一団の一人、その時彼は気付くだろう。俺はここにいる。手に何か持っているかもしれないぞ。それは武器で、剣かもしれない。剣には何か文字が刻まれ、それは彼の分かる言語で書かれている。きっと誰かの名前であるに違いない。俺は『イニオスのハベス』なんだ。向こうから軍勢が押し寄せてくるぞ。そう俺は『イニオス』なんだ、誰にも負けないぞ。軍勢の中でまた誰かが気付くことだろう。俺はここにいる。手には武器を持ち、それは槍だ。その槍には何か文字が刻まれ彼はそれが読めるだろう、『バアレルのコギト。オムブレの頂きより下賜されるボゾゾ神の右手』と書かれているな、俺は『バアレルのコギト』でしかも『オムブレの頂きより下賜されるボゾゾ神の右手』の持ち主でもあるんだぞ。あそこの野営地のやつはきっと敵だぞ。先史時代の秘匿文字も石板には埋め尽くされているはずだ。まるで空間を埋めるために予定されたもののように。歴史のために仕込まれたかのようだ。

 そして彼の首が飛ぶだろう。
 そして彼の首が飛んだのだった。

 彼は床の上で首だけになった彼を見る。
 そしてまた彼も床の上で首だけになった彼を見る。
 そして互いに見合いながらこう言うのだった。
「俺たちは首だな」 

本質的な話

本質的な話

突如として見知らぬ場所に置かれた場合、人はどうなるのか。またどうするだろうか。前提は絶えず否定され、取り巻く世界は彼を裏切ろうとしてくるのであった。

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  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-11-27

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