事実は後で決まるもの

 文字の素晴らしさと、文字を教えてくれたEに敬意と称賛の意を示します。特定の誰に向けるでもなく、再びペンを取ることになるとは思いませんでした。
 目論見通り、僕とEは物資調達の船に乗って本土へ渡りました。しかしお館様のネームバリューとでも言うべきか、それとも僕たちが身寄りのない使用人風情の子どもだからか、大人たちの動きは芳しくありませんでした。親身になって話を聞いてくれる人もいましたが、真面目であれば真面目であるだけ、その優しい人をも騙すことになります。お館様が悪いことをしていたのは事実のはずですが、これという証拠もないですし、僕に至っては自ら慰みものになり果てたのです。こうしてぐずぐずと悩むことを見据えて覚悟をノートにしたためてきたというのに、心はずっと鈍く痛んでいました。
 事態が動きそうにないことを案じて、被害届を取り下げました。お館様の遺体は発見されておらず、呑気なことに、お屋敷ではお館様のまたもやの気まぐれ旅と認識されているようでした。
 そんなどうこうとは別に、一度病院に行っていました。屋外ではないが寒空の下に一晩いたことや、僕たちふたりとも年の割に身体が小さかったことが考慮されたのです。
 その入院期間、いろいろな立場の大人と話しました。みんながEとは会話にならないと困っていました。例のとんちんかんぶりか、ずっと夢うつつで、寝ぼけたようなことしか言わないので聴取にならないとのこと。話を聞かれたのはそれぞれでしたが、病室は同じだったので、夜も更けて消灯時間になろうかという頃、僕はEに「もうバカのふりをしなくていいぞ」と声をかけました。Eは既に毛布にくるまっていたので、ちゃんと聞いていたかどうかはわかりませんでした。
 こうして僕たちは勤め先から逃げてきただけの子どもになったわけですが、警察も一時絡んだことですし、役場としては冬の町に放り出すわけにもいきません。そういうわけで、寮のある学校より、少しくらいお給金が安くても良いので、住み込みで働かせてもらえるところを探して欲しいとお願いしました。Eはともかく、最低限の読み書きしかできない僕が今更学校になんて通えません。Eと僕をセットで考えている大人は神妙な顔をして、Eの希望を聞きたがっていましたが、何分Eは眠ってばかりです。このあたりでEの身体に本当に悪いところがないのか再検査がありましたが、平均よりも小柄であること以外は何ひとつ目立つ点がなく、採血のときさえも痛がるでもなく、ただ眠そうに針を見つめていました。
 とりあえず僕の希望に沿って、役場の方が勤め口を探してくれました。港があり発展しているこの町とは少し離れたところですが、学校経営をしておられる方がおありのようで、あまり弾んだお給金を出せなくてもよければ雇っていただけるというのです。その方は子どもの教育と救済に熱心で、もし希望するなら、いつでも入寮の都合をつけてくれるというお計らい付きでした。それならEにもと役場の方が気を利かせてくれ、僕とEは一緒に引っ越すことになりました。引越しと言っても、Eはいったん近くの病院への転院でしたが。
 新しいご主人様は、**様と仰います。僕たちと同年代のお嬢様がおられるので、ここでは旦那様とします。前にいたところと比べて格段に小さなお屋敷ではありましたが、旦那様は片隅の一部屋を与えてくださいました。
「大変だったね」
 ぴんと伸びた背筋や精悍な顔つきから、年若さに不釣合いなほど数多の経験を経た教育者の威厳が滲みだしています。しかしその中には確かに柔和な優しさが潜んでおり、僕の頭を撫でようとして引っ込めたところを見ると、権威者だけが知っているあの作家の裏の顔、といった具合で、悪い噂を聞き齧ったことがあったのかもしれません。
 目に関しては特に触れられませんでした。良くも悪くも旦那様にとっては問題にならないようです。
「もし学校に入りたいならいつでも言ってくれ。そうなるとお給金は発生しないが、必要なものはすべてこっちで準備できる。君はひとつ下になるようだが、娘とも仲良くしてくれると嬉しいよ」
「ありがとうございます」
 学校に入る気はありませんでしたが、Eのためにもそうお返事しました。ともかくEを使用人で終わらせるのはもったいないことです。Eと一緒にいられないのは嫌でしたが、ここにいれば会うことはできます。Eの可能性を摘まず、自分にも希望を残せたことで、僕はほっとしていました。
 お勤めの後にEを見舞う許可をいただいて、なんでもない日々が過ぎていきました。Eは相変わらず昼夜問わず眠りこけていましたが、ときどき起きて本を読んだり、看護士さんに付き添われて庭を散歩したりしていました。しかし良いことばかりではなく、存在しない特定の内線の音に怯えたり、食べたものを戻しては誰ともなく謝っていたり、ひどく泣くためか頭痛で結局一日寝ていたり、却って状態が悪くなっていきました。
 旦那様と一緒にEを訪ねることもありました。混乱して疲れ果て眠っているEの姿を見るや否や、旦那様は指で目元を拭いました。
「可哀想に。私の名前がもっと強大だったら、あの男に実刑を食らわせてやれるのに」
 僕は何も言えず、黙っていました。少なくとも僕は被害者ではないからです。むしろ僕がお館様の悪趣味に拍車をかけたと言っても良い。旦那様の一言におざなりの同意さえ許されない気がして、僕は口を噤むほかありませんでした。実刑も何も、肝心のお館様は海の底に沈んでいるのですから。
 被害者のふりを続けることがこうも苦しいとは。あのノートに気持ちを置いてきたつもりが、書くことによって捨てきれない気持ちが一層はっきりとしてしまったようです。これではただ発覚のリスクを増やしてきただけ。つくづく行動が裏目に出ます。
 罪の意識に苛まれることから逃れるために、そう、つまらない自己満足のためだけに。殺人の目撃とその隠匿という熱に魘されて真相を綴ったあのノート。本土に亘る途中、さすがにそのままで流すのは無謀すぎると思い、運よく荷台の隅に転がっていたナイロンを巻きつけていました。あんな気持ち程度の防護がどれほどの意味を成すでしょう。でもそれさえしなければよかった。誰かに暴いてもらうことは本望とさえ書いたのに、今ではあれの行方が気になって仕方ありません。 
 この優しい旦那様を騙すのは正しいことなのでしょうか。そんな疑問が胸を掠める度に、騙してなんていないと言い張る自分もいます。現にEはお館様のせいでこんなにぼろぼろです。僕はEの味方なのですから、被害らしい被害を直接受けなかったとしても、あっちが悪いという態度を取るのは不思議ではないはずです。それに、今更どこに訴えかけることもできませんが、思い出したくもない最後のあの日、Eが部屋にいたことは本当に堪えました。
 放浪癖のあるお館様ですが、さすがにお屋敷から通報があったのでしょうか。ある日のこと、かの有名作家が失踪か、という見出しが新聞に踊っていました。最初こそ大々的に取り沙汰されていましたが、日を追うごとにその記事は小さくなり、やがて消え去りました。当然ながらお館様の裏の顔に関する記載は少しもなく、海から遺体が打ち上げられたという話もありませんでした。
 時間をかけ、Eは少しずつ取り乱す回数を減らしていました。殺人などという大それたこととは無縁の人にはきっと想像さえつかないのでしょうが、Eの中ではすべて過去のことになりつつあるのです。どれだけ時間が経っても僕は割り切れずにいましたが、そんなEの姿に、僕も僅かながら気持ちに踏ん切りがついていました。Eは最早お情けで入院延長させてもらっていたようなものだったので、仕事にしろ学校にしろ、まともな生活ができる目途が立ったと僕も旦那様も喜ばしく思っていました。
 ×××・Rが新刊発売、というニュースが飛び込んできたのは、そんな折のことでした。


 紙面には、新しい書籍を両手で持った姿のお館様の写真が掲載されていました。文章では失踪疑惑にはごく短く言及されているのみで、あとは新刊の刊行に至るまでの簡単なインタビューといった構成です。今度久々の新刊発売の記念として、町でいくつかサイン本を配るというイベントの告知がされていました。
「忌々しい。よくのこのこ出てきたものだね。海にでも沈んでいればよかったのに」
 ティーカップに口をつけながら旦那様は朝刊を握り潰さんばかりでしたが、僕は激しい動悸に息を乱さないのがやっとでした。何が起こっているのかわかりません。ここは夢の中でしょうか。しかし何度目を見開いてみても、新聞に載っているのはあのお館様でした。しかも、ああ、これは何を意味しているのでしょう。書籍を手にこちらを見つめるお館様は、左目を白い眼帯で覆っているのです。記事にはうっかり目を傷つけたというようなことが書いてありました。
 まさか過去の朝刊なのではと薄褐色の紙面を凝視しましたが、そんなことがあるはずありません。日付は確かに今日のもので、年号も曜日もしっかり明記されています。
 これが地位のなんだのとか、名前がなんだかんだとか、お嬢様はとっくに学校に出られて話し相手がいなかったためか、旦那様はひっきりなしに喋っていましたが僕はそれどころではありません。そのうちにお給仕の手を滑らせてしまい、はっとした頃にはもう遅く、熱い紅茶がテーブルから絨毯に滴っていました。
 幸いにも旦那様のお洋服は無事でした。慌ててハンカチを片手に屈もうとした僕を、旦那様は止めました。
「謝るのはこっちだ。無神経にいろいろ喋ってしまってすまない。君にとっては二度と見たくない顔だろうに」
「いえ、そんな」
「本当に大丈夫だから。そうだ、庭の花に水をやってきてくれないか。今日は庭師が遅れるんだ。申し送りを忘れていたよ」
 僕のような後ろ暗い人間には、あまりにも過ぎた旦那様。この人にとっては、僕は残酷な毒牙にかかってしまった可哀想な子どもなのだ。否応なく脳裏をよぎり、また心がしんと重くなりました。
 気取られないようにお辞儀をして、言われた通りに庭に出ました。かつて勤めていたお屋敷より一回りも二回りも小さい邸宅ですが、それでも僕には途方もない敷地に思えます。すべての花々にそれとない水を与えるだけでも、なかなか時間を使いそうです。
 とは言え、気にするべきはそこではありません。お館様は僕の目の前で絶命したはず。Eと2人で絨毯で包んで海へ運んだあの重みは手に残っているし、暗い海に漂う潮や砂浜のにおいも今にだって嗅ぎ取れます。まさか2人同時に見た夢でもなし、いや、夢だったらどんなにいいかと思うのは間違いないのですが、とにかく今日新聞で見たお館様は、まさしく本人その人でした。
 新刊を手に微笑むお館様。左目を隠していたのは本当に偶然なのでしょうか。あれは僕とEに対する何らかの暗示ではないでしょうか。でもそう考えると、お館様は生きていたことになります。あの滅多刺しの身体で、あの季節で、冷たい海から這い出してひとりで生き永らえたというのでしょうか?
 お館様の帰還のニュースは、瞬く間に世間を座巻しました。これは隠し通すのは至難の業だと思っていた通り、僕がその日の午後にEを見舞う頃には、もうEはラジオで情報を仕入れていました。
「よかったね」
「え?」
 Eは役場の方が持ってきてくれた図書館の本に栞を挟むと、珍しく嬉しそうな顔を見せました。
「ずっと行方不明だったんでしょ? 見つかってよかったね。E、お屋敷に戻りたい」
「……」
 Eは自分が何をしたのかも、何をされてきたのかも覚えていませんでした。もし本当の意味で日常に戻れたなら、良いことだと言えたかもしれません。身勝手にも僕たちは日常に戻ろうとしましたが、結局阻まれてしまったのです。
 こんなことを暴露するのは、さすがに躊躇われます。だけどもうここに至っています。正直に打ち明けると、僕は、Eが夜ごとコールを鳴らして錯乱したり、とうにこの世にいないお館様の影に慄いている事実に安堵していたのです。もうバカのふりをするな、という僕の一言でとまでは言いません。でもそれがきっかけのひとつとなって、無理矢理押し込めていたEの本当の感情がやっと出てきたのだと思っていました。やたら眠り込んでしまうのも、自分に嘘をつく必要がなくなったことによる急激な心の変化が体調に現れているのでしょう。それらが流れきってしまったら、きっとEは本来の賢い子どもに戻れる。僕はそう信じて疑っていませんでした。
 それがまさか、こんな信じられない事象で、こんなにもあっけなく覆るなんて。またあのお屋敷に戻りたいなんて。僕が画策してきたことは一体なんだったのでしょう。
 危惧する点はほかにもありました。現状、正気とは言えないEのことです。何がどう刺激となって、何も思い出さないとも限りません。Eとお館様を絶対に会わせないようにしなければ。
 Eを言い含めるのは簡単です。幸か不幸か復活したバカっぷりで、僕の言うことをなんでも信じます。問題はお館様がEに会いたいと望んだ場合です。持ち前のコネと権力をフル活用して、きっとすぐにこの病院に辿り着くでしょう。もちろん新しいご主人様のご配慮により、個室であることも把握した状態で。
 想像するだけで全身が粟立ちました。Eは能天気にも手元の本の話を始めています。お館様の話題にはそれきり触れませんでした。
 Eに見えないように拳を強く握りました。Eを守らないと。何が起こっているのか確かめないと。こうして僕は、確かに殺したはずのお館様にひとりで会う覚悟を決めたのです。


 当該のイベントの日、お休みをいただく申請をすると、案の定旦那様は眉を顰めました。例の日とは説明しなかったのですが、その日取りをちゃんと覚えていたようです。
「その日じゃないといけないのかい?」
「買い物なら私も行っていいだろう」
「娘も年近い君やEと仲良くなりたがっているんだ。出かけるならいい機会じゃないか」
 旦那様からすれば、実害を出しておきながらのうのうと暮らしているお館様に、僕が文句のひとつでも言いに行きたくなっていると思ってしまうのは無理のないことです。しかし実際はそうではありません。その面だけは紛れもない真実ですので、違うと言い張り、ようやく旦那様は折れてくださいました。僕は子どもですが、四六時中目を光らせておかなければならない幼児とは違います。ちゃんと自分の意思を持ち、それを言葉にできることを鑑みて、旦那様は僕を信じ尊重してくださったのでしょう。僕はそんな信用に値する人間ではないのに。
 雲ひとつない快晴の空でした。電車を乗り継いで簡易的に設えられた会場に赴くと、そこにはもう年端様々な人だかりができていました。僕よりは少し高い年齢層ではありますが、見るからに学生も多いので、学校を休んでこちらに来たのかもしれません。列に並び、或いは列から逸れて件のハードカバーを片手に、やや興奮がちに語らう彼らの無邪気な表情が、僕にはとてつもなく遠いものに思えました。
 いや、何を考えてるんだ。しっかりしないと。僕は自分を鼓舞するつもりで頭を振ると、軽く息を吸って背筋を伸ばしました。左目の白い眼帯は、列の最後尾からでもよく見えました。
 その眼帯が強烈なインパクトを放っていたからでしょうか。あの日最後の通りだと思っていたお館様が、列が進むにつれ、どうやらそうではないかもしれないと疑問が芽生えてきました。今新刊にペンを走らせているお館様は、以前より若いような気がするのです
 お館様は28歳、もともと中性的で年齢のわかりづらい印象だったとは思いますが、この距離で見る限りもっと若い肌をしています。20を超えてほんの1、2年といったところのような。仕種も声も雰囲気も間違いなくお館様のものなのに、年齢だけが僕の知っている姿とは異なっているのです。
 判然としない恐怖が沸き上がってくる中、列は進んでいきました。Eが馬乗りになって何度もナイフを振りかざす様が、瞼の裏で止めどなく再生されました。息が乱れる。心臓が胸を破って出てくるような。気付けば両手でぎゅっと押さえつけていました。
「大丈夫?」
 顔をあげると、僕は知らないうちに最前列、長机の席に着くお館様が目の前にいました。やっぱり若すぎます。それにこの、これ見よがしの眼帯は。顔も声もあのお館様なのに、何度計算し直しても同じ数字にならないような、あの苛立ちとも不安とも言える感情が込み上げました。
 不意に背後に人の気配はしないことに気付き、浅く振り返りました。目に映る人々は、もう既に本を持っているか、少し離れた場所で羨ましそうにこちらを見ていました。
「最後の一冊。今回は記念イベントだからお代はいただいてないんだ。来てくれてありがとう」
 慣れた手つきで内表紙にペンを滑らせ、僕にそれを差し出してきます。拒むわけにはいかないので受け取り、書かれた名前をよく見ました。気取った崩し文字でしたが、確かに×××・Rと綴られてました。
 とりあえず、数に間に合ってよかったと感じました。この機会がなければ近付くチャンスもありませんし、違和感にも気付けませんでした。こういうところ、案外僕は幸運なタチのようです。
「あの」
「体調が悪いんじゃないかい? もしかして緊張しすぎた? 嫌だなあ。私はちょっと運が良いだけの、この年で添い遂げたいと思ってくれる女性のひとりもいない哀れな男だよ」
 しゃあしゃあと何を言うのか。舌打ちしたくなりましたが、今はそれよりも目の前で優雅に構えるお館様という謎を解かねばなりません。
「今まで、どうされていたんですか?」
 どう訊いたものか、道中いろいろと考えました。考えついたものは、ことここに至ってすべて消し飛び、直球でそう訊ねるほかありませんでした。口の中は乾ききり、動悸もしていました。とても目を見られず、首元を見るのがやっとでした。Eがナイフを振り上げた瞬間がまた脳裏をよぎりました。
 離れた位置で会場を仕切っていたらしい運営の方が、お館様に何やら耳打ちしました。お館様は頷き、一言二言交わすと立ち上がりました。運営の方はまた離れていきましたが、イベントは終了したということなのか、持ち場とは違う方向へ歩いていきました。
「君くらいの少年が興味を持ってくれるのは珍しいからね。いい機会だから少し話をしたい。すぐそこが私の家だから、よかったらお茶でも飲んでいかないかい」
「家?」
「ああ。お屋敷暮らしには飽きてしまった。新刊の記念に美味しい茶葉をいただいていてね」
 ここにいるだけで驚愕なのに、家まであるなんて。最早どの疑問から片付けていけばいいのか、Eほどではないにしろ、僕まで錯乱しそうでした。この記憶はすべて嘘なのでしょうか? 自分で作りだした悪夢の炎に自ら炙られているのでしょうか。言葉を失い、またもや呼吸がおかしくなりかけている僕に、お館様は淡く笑いかけました。
「私を知っているんだろう? 私も君を知っているよ」
 知らない人が聞けば何気ない一言、知っている人が聞けば意味ありげな一言。含みのある言い方でした。
 お館様は僕と目の高さを合わせ、ゆっくりと左目の眼帯を撫でました。
「私を知っているから、会いに来てくれたんじゃないのかい?」
 その瞬間、雷にでも打たれたようでした。こんな単純なこと、どうして気付かなかったのかと自分が不思議でたまりませんでした。いや、気付かなかったわけではありません。とっくに頭のどこかで思い至っていましたが、まさかそんなはずがあるわけないと否定しきっていたのです。ですがいくら否定しようと、事実は小説よりなんとやらと言うではありませんか。
「お名前をお聞きしたいのですが」
「もちろんだ。私は×××・R」
 そして細い指を唇に当て、目の前にいる僕にだけ聞こえるような小さな声で言いました。
「今はね」

 会場の片付けは、運営の方ですべて行ってくれました。お館様は堂々と僕を連れ、ときどき声をかけてくる道行く人にも律儀に笑顔を返していました。僕のことは、かつてうちに勤めてくれた子だと紹介していました。
「まだ仮住まいなんだけどね。本当はお屋敷に住んだほうがそれらしいと思ってはいるんだけど、ひとりで気楽に暮らすほうが合っているんだ。慣れてもいるしね」
 庭も2階もないひとつづきの小さな家は、キッチンや収納がちゃんとあって、ひとりで生活する分には十分といったところでした。
 お館様は――便宜的にそう呼びますが、僕をテーブルに案内すると、自分はキッチンに立ってお茶の準備を始めました。
 ついてきてよかったのかと、僕はまた後悔し始めていました。僕はいつでも後悔しているような気がします。だけどその分冷静にもなっていて、あれだけ激しかった動悸は収まっていました。
 眼前のお館様は、以前お仕えしていたお館様とは別人です。これだけ平然と振る舞っているのですから、本物のお館様は死んでいることを知っているのでしょう。それをどう知り得たかと言えば、あのノートしかありません。そしてそのノートを書いたのが僕だということも完全に確信しています。
 おそらく証拠の意図があったのでしょう。お館様は、家に着くなり眼帯を外してしまいました。
「ビニールに入れて捨てたのはまずかったね。海の動物たちが突いて食べてしまう。消化されずに苦しんだり、最悪は死んでしまうんだ。次からはやめてくれると嬉しいよ」
 次なんてあるはずありません。犯罪の確証を得て上に立った気にでもなっているのかと歯噛みしましたが、もしそうなら自分が別人になりすましていることを明かすのは不自然ですし、他人を騙り既にいくつもの利益を得ているのです。考えていることがわからず、目の前に出された紅茶にも口をつける気がしませんでした。
「冷めても美味しいんだ。飲んでやってもいいかと思ったら飲んでおくれ。私は先にいただくよ」
 自分の分のカップを傾け、お館様はわざとらしく目を閉じました。甘く上品な香りが漂っています。そういえばここに来るまでの間、水の一口も飲んでいません。ゆっくり動く喉元に、つい視線を奪われました。
「オリバー・テイラー。オリバーでいいよ」
 顔を上げると目が合いました。僕は咄嗟に下を向いてしまいましたが、年若い青年らしい無邪気な笑い声が降ってきました。
「23歳。だから年は多く言っていることになるね。女なら発狂するかもしれないが、私は得した気分だよ。早く箔が付いた気分だ」
「名乗ってよかったんですか」
「名前を聞きたいと言ったのは君じゃないか。咄嗟にあれだけの文章が書ける君のことだからね。ここで偽名を使う意味がないことだってわかるだろう」
 賢いと言われているとわかると、不思議な心地になりました。そんなことを言われたのは初めてのような気がします。
「それに、君だって私を信用してここに来てくれたわけだからね。大人も子どももないよ。そもそも偽名なんて失礼だ」
「信用……」
 信用と言えば妙な感覚にもなりますが、確かに僕は目の前の男性が別人のふりをしていることを知っているし、目の前の男性は僕が殺人に関与していることを知っています。それはお互いだけが知っている秘密であり弱味です。
「じゃあ、オリバーさん」
 大人も子どももないなんて、本当にそうでしょうか。僕がもし、右目を失ったあの事故の段階で大人だったとしたら。当時の記憶はあまりないですが、あの惨事の最中、僕は優先的に救助されたと聞いています。それは怪我の大きさもあるでしょうが、見るからに家のない幼い子どもで、行き場なく彷徨っていた上での不運だと見做されたからこそだったのではないでしょうか。
 ノートに書いた顛末にしてもそうです。僕たちが子どもだという時点で、少なくとも社会経験のある大人よりは救済の余地が多いはず。どうやるのかはまだわかりませんが、彼にはできなくて、僕にはできる弱味の使い方があるはずです。
 鬼だ悪魔だと糾弾されても構いません。どうせ道なんてとっくに踏み外しています。この人に会いたかったのは、今後Eに関わる意思を絶対に持ち得ないことを確かめたかったからです。それともうひとつ。
「貴方はどうしてお館様のふりをしているんですか? それからノートはちゃんと焼き捨ててくださったんでしょうね」
「ノートはまだ持っているよ。そこの机の引き出しにある」
 ああ、そうしたよ。それが君の望みだったんだろう?
 お館様そのものの棘のない物腰から、僕は勝手にそんな答えが返ってくるものと想像していました。動じてはいけないと無反応を装っていると、オリバーさんは当然のように目を細めました。
「大人も子どももないと言うのは、あくまで私の持論であり理想論に過ぎない。君もそう考えてくれているならいいが、そこまで確信できないからね。お守りみたいなものだ」
 動じてはいけない。まるで頭の中を見透かされているようでも。
「まあ、私がこうして存在しているんだから、誰かに見つかったとしても創作の域を出ないさ。仮に私が作家ではなかったとしても。作家まがいのことをしている人間はたくさんいるんだ」
 オリバーさんは紅茶を一口飲みました。
「私のようにね。……お茶ばかりでは味気ないか。お菓子でも出そう」
 そうして出てきたどこかのお土産らしい焼菓子は、箱を開けるとそれぞれが個包装になっていました。直接用意したお茶とは違って、手を加えることは不可能です。あくまで僕を敵とは思っていないのか、思案を巡らせる僕をよそに、オリバーさんはお菓子をひとつ取りました。
「ひとつずつ話そう。私はもともと×××・R先生の大ファンなんだ。私も作家を志していたんだよ。だから弟子にして欲しくてね」
「お弟子さんがいたなんて話は聞いたことありません」
「聞く耳持たずだったよ。まあ興味がなかったんだろう。試作のひとつも読んでもらえなかった。だからこっちも意地になってしまってね」
 目の前に美味しそうなお茶とお菓子がある。それを美味しそうに飲み、食べている人がいる。情けないことに、こんな状況でもそんな様を見ていると羨ましくなってきます。お茶はやめておくにしても、個包装のお菓子なら大丈夫なのでは。
「先生が男の子を海に捨てているのを見たことがあるんだ」
 その一言で凍りつきました。僕が静止していることに気付かないのか、オリバーさんは続けます。
「驚いたよ。すぐに目を逸らしてしまった。何かの見間違いだと思っていたんだが、また見てしまった。さすがに後悔したよ。一度目はともかく、二度目は助けられたはずだってね」
 ここでオリバーさんは僕の様子がおかしいことに気付きました。思い至ったように「そうか」と呟きました。
「うちはそこそこに金持ちなんだ。能天気に作家まがいのことをしていても困らず、ある程度の額も動かせた。私もこっそりあの島で暮らしていたんだよ」
 僕はそんなことに硬直したのではありません。どうやら相当前からこの男性がお館様を尾けまわしていたことは、確かに驚きました。でもそれ以上に、やはり僕の推察は間違っていなかったのだということに衝撃を受けました。お館様は殺人犯だった。Eは殺される寸前であり、お館様が逆に殺されるのは当然の報いだったのです。
「だけどね。私はこうも思ったんだ。ただただ偉大だと思っていた憧れの人。その人のとんでもない秘密を、世界で自分だけが知っている。本人は隠し通していると思っている」
 ノートに綴った内容を頭の中でなぞる途中、違和感にぶつかりました。誰も認識していない人間が島に住み着いていたことは、今はどうでもいいです。どうやらお金があるようですし、僕が知らないだけで、いろいろな道具や方法や技術があるのでしょうから。
「なんて愉快なんだろう。醜悪なその秘密の中身を、是非もっと深く知りたいってね」
 その言葉が意味するところに辿り着くまで、数秒かかりました。頭の中の靄がぱっと晴れると同時に、すっかりまるごと何もかもが消えてしまったようです。時間差で再び浮き出してきた情報を繋ぎ合わせました。形を持った事実は、やはり先程と同じものでした。
 目の前にあるのはお館様の温和な顔です。よくよく見れば、記憶より肌が若いことの他に、ほんの少しだけ細身の気がします。服の下を知らなければ気付かない程度のものでしょう。
「そういうわけで、私は先生の本ではなく、先生自身に魅了されてしまったんだ。あの海に捨てるまでの間に、一体どんな醜いことをしたんだろうかってね。想像もしたよ。何せこっちは作家志望で妄想は大得意だ」
「……」
「でも、さすがにそう短いスパンで起こることじゃなかった。もうふたり殺してるなら、満足しているのかもとも思った。だけど名残惜しくてね。設備も整っているし、ここなら静かで執筆も順調だからと粘っていたんだ。そうしたらあの子が来た」
「Eが?」
「ああ。彼は元気かい?」
 答えませんでした。Eの前にいた拾われて来た子はふたりだと聞いていましたが、その間に、使用人ではなかったけど被害に遭ったというパターンの子がいなかったことはよかったと思います。ここで意味のない嘘は吐かないでしょう。
「Eは君に自分のことを話した?」
「どこかのお屋敷にひとりでいたのを、お館様が連れ帰ったと聞いています。予想はつきます」
「可哀想だよね。妾腹で邪魔にされてたらしい。君の生活も酷かったと思うけど、また違う意味でEの生活も酷いものだったよ」
「お屋敷に来る前のEも知っているんですか」
「すべて先生が調べたことだ。入念にリサーチしていたからね。上品で可愛い子どもなんて貴族にはたくさんいるが、中でもEは特にお人形さんのようだったよ。それに買いやすい条件だった」
 例の朝刊を見た日の旦那様を思い出しました。あの腹立たしそうな顔。地位のなんだ、名前のなんだと仰っていました。今にしてみれば、あの反応はお館様の後ろ暗い噂ひとつのみに向くものではなかったように感じます。名前に強大な力を持つ人たちの中では、殺人こそ犯さないのでしょうが、警察沙汰にならないよう意識している秘密事は珍しくないのかもしれません。もしくは警察ごと抱きこんでいるのか。
「Eは素直について来たんでしょうか」
「渡されたナイフを大事に持ってるような子だからね。家族の言うことは聞くだろう」
「でも家族の扱いを受けてなかったんですよね」
「だからこそだよ。良い子になろうとしたんじゃないかな」
 僕はまた言葉が出なくなりました。Eが可哀想すぎます。良い子も悪い子もなく、Eはただ生まれてきただけです。
「で、Eはお屋敷に来た。もとからいた使用人の子たちは、ちょっと面白くなかったかもね。なんでもすぐに自分より要領よくこなしてしまうんだから。しまいには、これはEが一番年下だったからというのもあると思うけど、お館様に直々にご褒美やお土産をもらっていたりして」
 オリバーさんは手元の焼菓子をつまみ、ひらひらさせました。
「まあ、そんな感じで毎日が過ぎた。だんだんEは孤立していく。家族のことがあってか、人との関わり方自体あまりわからなかったようだ。先生がそれを気にかける。Eは少しずつ先生にだけは心を開くようになる。学校にも行っていなかったEは、先生の話を面白そうに聞いていたよ。実に微笑ましかった。それなのにあんなことになって、可哀想だった」
 語尾がにわかに薄れ、熱を帯びたように感じました。オリバーさんはカップを置き、暴発しようとする感情を抑えつけるように両手で身体を摩り始めたかと思うと、突然笑い声を上げました。
「あっははっ! 本当に可哀想だった! 時間をかけて安心させきって突き落とした! どんな気分だったんだろう? あんなに泣いて嫌がってたくせに、あるとき急に従順になったんだ。人が変わったみたいにね。どうして? わからないけど、あれも可哀想だったなあ」
 火照った吐息ごしの声、紅潮した頬、歪んだ情熱にうだった瞳。それらすべて見覚えがあるように思いましたが、こんな得体の知れない狂気や薄気味悪さはお館様にはありませんでした。おぞましく群がり這い回る羽虫のような不快感が足先から駆け上がりました。
 Eは見世物じゃない。こいつの話が本当なら、殺されて当然の相手だったとは言え、Eが人を殺してしまったのは――僕たちが罪を背負うことになった原因は、ほとんどこいつじゃないか。目の前の存在こそ消し去ってやりたい気持ちを、僕は必死に押し殺しました。
「Eの話はもういいです。貴方がなぜお館様になり替わっているのかを教えてください」
「ああ、これは失礼したね。つい話が逸れてしまった」
 オリバーさんは嘘のようにあっさり居直ると、再びカップを手に取りました。
 そして、オリバーさんは、自分がお館様になりすましているのは、僕に会うためだと言ったのです。
 

「そう驚かないでおくれよ。順を追って話そう。どうせそれを説明しないと、私が君を招いてまで伝えたかったことが言えないんだ」
「伝えたかったこと?」
 ますますわからず、怪訝に繰り返すしかできませんでした。
「観察を続けているうちに、君がお屋敷に来た」
「続けてください」
「自分から先生の書斎を訪ねたよね。私がお屋敷で見ていられたのはあの部屋だけ。あの夜、Eではなく君が来たことに驚いた。もし気を悪くしたら申し訳ないんだが……私は君の言う通り、本当にただ衣食住の保障をもらったお礼のつもりなのかと思ったんだ」
「構いません。そういう身の上ですから」
「ありがとう。君はやはりとても賢い。身の上は正しく理解してこそだ」
 一度、Eとお館様が書斎にいるのを目撃してしまったことは、オリバーさんは知らないようです。わざわざ訂正しなくても、行き着く結論は同じでしょう。
「あのときは辛そうだったね。可哀想だった」
 事件が起きた日の、厳密にはその直前のことでしょう。僕は返事をしませんでした。すると、オリバーさんは今度は純粋におかしそうに笑いました。
「ごめんね。私にとっては重大なことなんだ」
「可哀想な子を眺めることがですか」
「そうじゃない。そもそも自分から言い寄ったくせに、辛そうながら拒まなかったのがわからなかったんだ。しかもEの前で、あんなに悔しそうにして。もしかして先生のことを知っているのか、何か意図があったが逆手に取られでもしたのかと考えていたとき、Eがナイフを取り出した。そこからは追うことに集中したよ。君たちはずっとある種の興奮状態だったんだろうから、そう難しくもなかったが」
 僕とEが絨毯にくるんだお館様を外に運び出してから、オリバーさんは、少し離れたところをずっとついてきていたようです。
「行動を見ているうちに、君はおそらく先生がEを殺すつもりなのを知っていたんだと思った。守ってやると言っていたし、海への先導もスムーズだったしね。お屋敷に戻らず船に乗ったのは想定外だったが、興奮状態だったのはこっちもそうだ。何時間でも待とうと思ったよ。君が何かを海に流したのを見たときは心躍る心地だった。このタイミングでそうするんだから、きっと相当秘密めいたものだって」
 そしてノートを開くと、真新しいインクで綴られたすべての全容が、といったところでしょうか。気休め程度に薄くビニールを巻いただけのものでしたから、かなり早い段階で拾われたことはわかっていましたが、まさかそんなに直後だったとは。
「私は君に敬意を表する。トニー・J・J。自覚はないかもしれないが、君は自分がどう動けるのかを理解している。頭の回転も速い」
「本当にそうならEを守れたはずです」
「守っただろう。身の上は正しく理解してこそだと言ったが、プライドや価値観を優先する人間は多い。その点君は己の美学に囚われることなく、自分の特性をよりよく活用し、途中トラブルはあったが、露見させることなく新しい日常を手に入れたじゃないか」
 オリバーさんはどことなく優雅に紅茶を飲むと、噛んで含めるように言いました。
「事実は後で決まるものだ」
 僕は紅茶にもお菓子にも手をつけませんでした。Eが壊れていく様を楽しんで視聴していたような人間とは、永劫仲良くできません。
「これも持論、そして理想論でもあるが――確定したり、存在しているから事実なんじゃない。事実とは選ぶものなんだ。大人も子どももない、というのよりは現実的だと思っている」
「意味がわかりません」
「言い方を変えよう。Eは元気? 酷い境遇も人殺しであることも忘れてるんだろう? 思い出させてあげるかい? それか私が出ていって教えてもいい。今の身分なら、見知った子の居場所を割り出すくらいは造作ない」
 Eの名前が出た途端、僕はオリバーさんを睨んでいました。オリバーさんは満足そうに微笑みました。
「ほら。君だって都合の悪い事実は伏せる気だ。それに君は私が偽物だと世間に告発する気もないだろう? 大衆は私が×××・Rと信じているんだ。失踪したと思っていた有名な作家が久々に陽の下に出てきて、待望の新作を発表したというのが彼らにとっての事実なんだよ」
 わかるかい、と一拍置いて、
「そしてその事実を作ったのが君というわけだ。それを知っているのは私だけ。私は君を本当に尊敬しているんだよ」
「自分だけが知っている秘密、というのがお好みなんですね」
「茶化さないでおくれよ。君を軸にしていろいろなことが動いたのは間違いない。それにね、私だっていつまでも相手にしてもらえない生活を続けるのはやめたいと思っていたんだ。どうせ自分は先生のような作家になんてなれない。諦めて親の政略結婚にでも使われることにして、その中で自分なりの意義を探すほうがよっぽど健全だとね」
「政略結婚?」
「三男なんだ。もともと私の存在理由なんてそれだけさ」
 悲観ではなく達観しているような言い方でした。まっとうな親というのは、どうやら僕の周りでは相当珍しい存在のようです。
「だけど君が現れて、あんなことになったのを見て、ノートを拾って気が変わった。これを焼き捨てるのが君の切実な願いなら、そうしようと思った。でもあまりにもったいないと思った。できるものなら会ってみたいと思ったんだ」
「なぜです」
「尊敬したからだよ。これには大人も子どももない」
 何度も話に出たじゃないか、と言いたげな口調でした。
 と、ここで嬉々としていたオリバーさんの表情が沈みました。作家志望だったというだけあって、感情豊かな方なのでしょう。
「でも君が大人を信用していないことは明白だったからね。いきなり出て行っても相手にされないと思った。相手にされないのは辛い。どうしようか考えて閃いた」
 オリバーさんは胸に手を置くと、
「そうだ、先生になり替わればいいってね。本物が死んだのはこの目で見た。遺体が見つかりようのないところに処分されたのも。しばらく身を潜めておいて世間に登場すれば、この身分だし必ず注目されるはずだ。君なら絶対に近づいてきてくれると思ったよ」
 不意に目が合い、僕は一瞬身動ぎました。先ほどと同じ歪な熱に煮えた視線に見えましたが、もう一度見てみると素朴な色のようにも思えます。
 心を殺されていく少年を楽しんで鑑賞し、悦楽にかまけて殺人をも見逃すような人です。オリバーさんは極悪人のはずなのに、妙に純粋なところも見受けられます。
 僕は自分が今どんな感情を持っていればいいのか、わからなくなってきました。
 オリバーさんは続けました。
「あと、単純に嬉しいと思ったんだ。先生は私の憧れだった。先生のような、退屈な文字でしかなかったキャラクターに命を吹き込み、物語を紡がせていく作家になりたかった。小説はずっと書いてきた。先生の物語に憧れて書いてきた物語だ。大博打ではあったが、勝負に出て正解だった。正直毛嫌いしてきたこの身の上が、ここで役に立つとは思ってなかったよ」
 顔と声のことを言っていると思いました。とすると、その施術をした人は本物の×××・Rが亡くなっていることに気付いているかもしれませんが、そういう仕事をする人です。口は堅いでしょう。
「左目の眼帯はアピールだ。あり得ないとは思うが、Eの例があるからね。現実と非現実の区別がつかなくなっては困る。想像力次第では件のノートが拾われたことまで伝わるかもしれないと思ってね。そしてそれは正しかった。だから私は君に救われたようなものだ。お礼を言いたくてね」
 お礼、と口の中で呟きました。人殺しとは言え人が死んでいるのに、お礼。この人は自分のことばかりです。僕はいろいろなことを後悔しているのに。
 結局Eは、現実とおかしな妄想を判別できない異常な状態に戻ってしまいました。でも傍目には健康体ですから、もうすぐ僕と一緒に旦那様とお嬢様に仕えることになるでしょう。それは虐待や犯罪とは無縁の、間違いなく平穏な生活なのです。
 事実は後で決まるもの。先ほどのオリバーさんの言葉が、すっと胸におりてきました。この人と話していると頭がおかしくなりそうです。
「先生を殺してくれてありがとう」
 息が詰まりました。殺したのは僕ではありませんが、オリバーさんの解釈によれば、Eの行動は僕によって生まれた結果です。ならば僕が殺したと言っても間違いではありません。
「いろいろ話したが、私が伝えたかったのはそれだけなんだ。私にきっかけをくれたのは君だ。君が私の夢を叶えてくれた。ネズミのような汚い生活をやめられたのも、作家になれたのも、すべては君のおかげだ」
 ありがとう、トニー。オリバーさんはそう言って立ち上がり、お館様そのものの優しい笑顔で、僕に手を差し出しました。


「本当にどうしてもと言うなら、あのノートは責任を持って焼き捨てるよ。今そうしようか」
 大人も子どももないと言いながら、オリバーさんはそんな優しい提案をしてきました。僕はもう、その件は完全にお任せすることにしました。僕がこの人の本名を知っているなら、この人が僕の書いたノートを持っていないと不平等な気がしました。
 オリバーさんの家を後にする前に、確認したいことがありました。
「貴方はお館様の人生を引き継いだということですよね」
「そうなるね」
 律儀に玄関先まで僕を見送ってくれました。さすがに外でこの会話はできません。
「どこまで忠実に?」
「というと?」
「良いご趣味をお持ちのようですから」
「ああ」
 合点がいったように頷くと、オリバーさんはざっと家を見渡しました。
「それはこの家で説明になると思ってた。私は先生のようになりたかったが、先生になりたかったわけじゃない。今こんな姿で信用できないかもしれないがね。今後人殺しになるつもりはないし、私自身が秘密を持った。余計なことはしないでおくよ」
「過去のことがばれたら?」
「そんなことがあるとしたら、その前に先生の遺体が上がるさ。もう何年も前のことだ。死んでいった子たちは可哀想だけどね」
 可哀想、と言ったときだけ、オリバーさんの目はけだるげに蕩けました。
 オリバーさんと会った日以降は、何事もなく過ぎていきました。サインの入った本は自分の部屋に隠してあります。直筆のこの文字から素性がばれるのではと今更ながら思いましたが、あの人は、お館様が島にお屋敷を構える前からの異常なファンです。口調も仕種も筆跡も真似することくらい、なんてことないのでしょう。それに、島のお屋敷はどうするのかと訊ねたところ、こんなことを言っていました。
「解体するよ。要らないからね。勤めていた子たちの引き取り先は斡旋済みだ。ツテのある業者があってね」
 僕が知らないだけでいろいろな方法がある、とは思いましたが、それにしても随分込み入ったことができたものです。ここで僕は、オリバーさんが「身の上を正しく理解すべき」というようなことを再三言っていた意味がやっとわかったのです。正しく理解するとは、正しく活用するということ。僕のことをやたら絶賛していたのも、その理論に沿っているからでした。
 Eは退院し、旦那様に地頭の良さを見込まれ、お嬢様についている家庭教師の授業に同席するようになりました。同席と言っても机があるわけではなく、ただ同じ空間に立っているだけなのですが、Eはそれで十分です。ついでに僕もと声をかけていただき、今のところは参加させていただいていますが、折を見て抜けるつもりです。お嬢様がEに恋していることは明らかです。お似合いだと思いますし、旦那様は一人娘の意思を大事にしています。身分の違いを理由に引き離すようなことはしないでしょう。
 事実は後で決まるもの。日を追うごとに、頭の中でオリバーさんの声が大きく響くようになりました。確定したり、存在しているから事実ではない。事実とは選ぶものである。
 事実はEを救いません。事実はEを壊すから、僕がそれを選ばなかったからです。
 だからこそ、僕だけは事実を覚えていなければならなかったのに。今までは消えないように記憶の糸を掴んでおけましたが、今はふとした瞬間にその先端を見失いそうになっています。あれは事実だったと肯定する前に、オリバーさんの言葉によって、選ばなかった事実など忘れてもいいことを肯定しかけている自分がいるのです。いずれ殺されゆくEを守ろうとして、自分を差し出したあの夜のことも否定するなら、そもそも僕がEと一緒にいること自体おかしいのに。
 全身を掻きむしりたくなるような衝動に蓋をして、僕は努めて穏やかに仕事をこなし、日常を送りました。頭の中は絶えず暴風が吹き荒れていました。 
 もし何も起こっていないとするなら、既に壊れていたEをずっと正気だったと認定することにもなります。それは悪いことなのでしょうか。事実がEを壊すなら、壊れたEにE自身が気付いていないなら、もうそれでいいのではないでしょうか。あの日Eが正気だったら殺人など犯していないという矛盾には、気付かないふりをしていれば済むのではないでしょうか。
 いくら考えようとも結論は同じです。嘘ですべての説明をつけることなんてできません。それが通るのは、結局本当のことなんてわからないからです。だから後から決まった嘘の事実が穴を埋めていき、本物の事実へと変化していくのです。
 この薄気味悪い平穏に、僕は吐き気がしてきました。こんな日常を望んだのは僕で、だから最初、被害者のふりをし続けようなんて言い出したのに。こんな形容しがたくえづくような思いをするなら、最初からあんな計画を立てなければよかった。しかしそれを語れる相手はいません。唯一すべてを打ち明けられるとしたらオリバーさんなのでしょうが、会う気はしません。Eの心が壊れきるのを阻止できたのはあの人だけだったのに、自分の愉悦を優先したのですから。
 いいえ、違います。オリバーさんに会いたくないと思う理由は、それだってもちろんそのひとつですが、もうひとつあります。今僕がこんな心境でオリバーさんに会ってしまったら、きっとここに戻れなくなってしまうからです。あの人は僕を嘘偽りない本心で肯定してくれるでしょう。そうなったら、今度こそ心まで差し出してしまうかもしれません。今の僕が安寧を保つために求めるものは、吹き荒ぶ感情の嵐を鎮めるために必要なのは、この意味不明で支離滅裂な日常を間違っていないと認めてくれる存在ただひとつなのですから。
 頭がおかしくなりそうです。いっそEのように壊れることができたらどれだけ楽でしょうか。間接的にはほとんどすべての原因とも言えるオリバーさんに会いたいなんて。Eが泣き叫ぶのに頬を蒸気させて魅入っていたオリバーさんが、心底憎くてたまらないのに。
 やっと手に入れた穏やかな暮らしです。Eやお嬢様や旦那様のためにも、僕が口を閉ざして守っていかなければなりません。
 僕の地獄ではないこの場所。幸せを享受できない毎日。オリバーさんは僕を賢いと褒めましたが、やはりそんなことはありません。賢ければ、今のこの身の上を理解し、正しく幸せになるはずだからです。それこそお館様から顔と名前を引き継いで、自分がそうしたいと思う部分だけを抜き取ったオリバーさんのように。
 だから苦し紛れにノートに書いて、僅かな憂さ晴らしをしているのです。僕が壊れたらこの日常は終わりです。それはとても困ります。僕はもうどうしようもないとしても、やっぱりEだけは守りたいのです。僕もそのうち壊れてしまうというなら、なるべくそれは遠い未来になるように。そして本当に壊れてしまった後でも、それはここに書いたようなこととは無縁の、何か別のそれらしい理由と結びつきますように。
 少なくとも、こうして文字を書けるうちは、破滅の未来を先送りにできるでしょう。物語として悪くない事実が後から決まることを祈って、僕は今日もこれを書いているのです。

事実は後で決まるもの

事実は後で決まるもの

文字の素晴らしさと、文字を教えてくれたEに敬意と称賛の意を示します。 【とある青年作家を告発する】の続き。

  • 小説
  • 短編
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-11-23

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