フリーズ78 亡き妻のためのパヴァーヌ

フリーズ78 亡き妻のためのパヴァーヌ

前奏曲 小説のためのプレリュード

 恐らく、この曲は最後の曲となろう。私が今まで世に送り出してきた数々の曲らは、大なり小なり万民にも伝わるように言葉を選び、旋律を導いてきたものであった。それは自身の創造性を、まるでラジオの周波数を合わせるかのように、客とする者たちの波長へと合わせる行為に等しいものであった。本質的ではないが、生活のためには必要不可欠なことだ。だが、この曲はこれまでの俗世的、大衆的な曲とは違う。
 思い返せば、今までも何度か私が作曲という創作活動のなかで求めている概念を露出させたことがある。その場合、多くはイデアやレゾンデートル、アニマ、アニムスなどという、現代ではあまりなじまれていないらしい言葉を使う。こういう言葉遣いはもはや、私の性なのだが、やはり、例えば音楽配信での再生数で顕著に表れるフィードバックは、残酷にもいつも大衆性を反映する結果で終わる。その度に私は疲弊しては、少しでも他人に期待など持った私が愚かであったことを戒めとしたものだった。
 しかし、最後の曲となるだろうこの曲は大衆のために紡ぐものでもなければ、自分自身の哲学のために拵えるものでもなかった。いうなれば愛のためであった。この曲は、私を支え続けてくれた今は亡き妻が、終末と永遠の狭間でも踊れるようにと奏でるパヴァーヌなのである。

第一楽章 小説@ターニングポイント

 私はふらふらする足取りで夜道を二人の男と一緒に歩いていた。レザーバックを片手に前を行く教授はどうやら学生である私たちを天国へと連れていくというのだ。今日は7月の19日。大学はテスト期間真っ只中なのにもかかわらず、数刻前にあろうことかこの小柄な男は春学期最後の授業の後に高らかにこう告げた。
「今から飲みに行きませんか」
 30人ほどの生徒のいる文学部設置の哲学の授業だった。この授業はオープン科目と言って、他学部の学生もちらほらいたが、結局手を挙げたのは恐れ知らずの私と、なぜか教授に教祖というあだ名で呼ばれている、早口でしゃべる哲学コース4年の仁科智弘であった。
一軒目は戸山キャンパスの目の前にある飲み屋だった。内装は新しかったが、教授は最近この店によく来るのだという。チェコのビールを頼んだ教授は私に告げた。
「まさか来る人がいるとは思わなかったよ。少なくとも教祖は来るとわかっていたから試しに声をかけたんだけどね」
「テスト期間ですし、仕方ないですよ」
 教授に呼応するように教祖は語るが、その目はメニューを眺めていた。どうやらこの店のオリジナルのビールを飲むようだ。
「荒浪君だったかな。何飲む?」
「では、これで」
 そのまま教授は追加で二人分のビールと肉の盛り合わせ、フライドポテトなどを頼んだ。
「あ、ここは私が持つからね」
 補足するかのように教授は言ったが、教祖はすかさず「それは申し訳ないです」と答える。
「なら、あとで千円ずつもらおうかな。せっかくだ。好きなものを飲みなさい」
 私たちは「ありがとうございます」と感謝を述べ、今のうちに千円を納める。酒が運ばれると、私たちはさっそく乾杯をした。料理が来る前だったが、教授も教祖もいきなりグラスの半分くらいまで飲み干した。酔う気満々の様だ。対して私は明日の二限目にゲーム理論というそれなりに単位取得の難しい必修科目のテストが控えていたのもあり、後ろ髪を引かれる思いで飲んでいた。だが、料理が運ばれて、ボトルワインを三本あけた頃にはもう、明日のテストへの憂いなど欠片も忘れてしまっていた。
「是非、教授には秋学期の授業で彼に中道の話をしてもらいたい。やはり、一なるものからの脱却のためには必要不可欠な理論です」
「仁科君。君は決めつける癖がある。直した方がよいが、まぁ、中道はいずれ教えるつもりだ」
 私は政治経済学部であるが故に、わざわざ履修しないと他学部の授業は取れない。だが、来期も僕は教授の授業を取るつもりだった。
料理を平らげ、酔いも回ってきたころ、教授はなんと「良いバーがある。来るかい?」
と誘ってきたのである。平静の僕なら明日のテストのこともあって断っていただろうが、今は酔っていた。もちろん即答でイエスと言った。
【BAR crow】
 というバーは先ほどの飲み屋から徒歩十分ほどで、二階建ての建物の二階にあった。
「この階段を登れる人は少ないぞ」
 教授も上機嫌の様だ。そっからは、クルミのお酒を飲んでみたり、カップラーメンを食べてみたり、と酔いに酔った。酒を浴びるように飲んだ僕が目を覚ましたのは知らない洋風な部屋であった。額縁に飾られた絵、ピアノ、ワインクーラー。僕があっけらかんとしていると、聞きなじみのある声がした。
「起きたかね」
「はい、なんとか」
 教授は机にてワインを嗜んでいた。まだ飲むのか、とは言わず、教授に告げる。
「今日、テストあるので僕、そろそろ行かないとです」
 今の時刻は7時半。まだゲーム理論の試験に間に合う。
「君はあの子のことを忘れてしまったのかい?」
「あの子?」
「昨晩口説いていた女の子だよ。連絡先も交換していたはず」
 昨口説いた? 僕が?
 確かに、バーの隅っこに居座る妙齢の女性がいたような。
「隣で寝てるよ」
「え!」
 言われて隣を見ると、確かに記憶に新しいボブヘアの美少女がスース―と寝息を立てていた。
「君はその子を置いてまで、単位が取りたいのかな?」
 教授。そんな質問はひどいじゃないですか。
「残ります」
「よく言った。教祖君には帰ってもらった。私も時期に出る。玄関のドアはオートロックだ。ピアノにオーディオ、テレビ。二人で自由に使うといい」
 その日、僕は目覚めた彼女と教授の家で過ごした。体の関係になるのは一瞬のことだった。嗚呼、この日に、僕は人生のターニングポイントに立っていたんだろう。今になって思う。君に出会って、僕の人生はやっと始まったんだ。

第二楽章 散文詩のレゾンデートル


 妻よ、何故死んだ。嗚呼、こんな言葉で君の喪失を語れるか!
 人を愛したことによる罰なのか。ならば、私の主な罪は何だったのですか?
 神に聞いてどうする。お前が神になるんだろ。
 教授と教祖と三人で始めようではないか。
 
『亡き妻のためのパヴァーヌ』
 に寄せる散文詩『愛別離苦』

 嗚呼、この悲しみ。比翼連理の傍らが死んだ。
 愛せば愛する程、失う痛みが辛いなんて今知ったよ。
 もしあの夏の日にそのことを知っていたら赤ちゃんは生れずに、君は死なずに。

 愛する人よ、亡き妻よ。
 あなたは最後に言いました。
「子どものこと、よろしくね」
 私は生きねばならない。このやりきれない悲しみよ。
 私はどうすればよかったのですか?

 人を愛して。一生かけて、一生懸命に愛しておくれよ。
 もう愛を語る気力もない。

ここで物語を終わりにしてもいい。でも、それは逃げだ。全能と全知から、世界の終わりから逃げることになる。私はもう逃げたくない。だから、続きを書く。ネオ。フィニス。それか、ラッカの導きよ。

あの夏の日に恋に落ちた女性と僕は付き合った。向こうは22歳でフリーターをしていた。それでもよかったんだ。僕らは巡る季節の中でお互いを知っていった。だが、就職し数年、落ち着いたころに妊娠した際に僕は選択に迫られた。
子どもを助けるか妻を助けるか。
もう結末は解るだろ。こんな悲劇の一幕みたいなこと、生きてりゃある。
そんなことを語りたいのか?
否、否。物語の行く末に真実へと繋がる橋。
神愛なるソフィア。嗚呼、またあなたを私は失ってしまうのですね。

第三楽章 シ小説


ここから紡がれるのは、シ小説。
 死や詩や私がない交ぜになったもの。部分的でもいい。汲み取ってくれ。生きるために。汲み取ってくれ、死ぬために。

SOUND『歓喜の歌』
私を救え。そのために泣いたのに。音楽の響きよ。楽園のようだった。もう、生まれた赤子の鳴く産声は、喜んでいたのか、悲しんでいたのかさえ分からない。でも、もう生まれたのだから、これからの人生を楽しもう。歓喜に総身を翻して、そうだ!
 詠えよ、全能の。その夢が覚めるころにもう一度。そうだ、それでいい。歓喜の歌よ。ベートーヴェンはわかっていたんだ!
 ハレルヤ。ハレルヤ。神よ! 我は汝の水面に伏して、泣いている。全知の少女はもう、彼が果てたその香り。もう、もう、嫌だ。だから! 終われ!
 拍手が鳴りやまない。それはそうだろう。この世界を体現させた響きなのだから。そうであるな。もう、全て、終わったんだ。何もかも。君とした、終末でのセックスも、もう。晴れ晴れとした終末のフィニスも。この、ラカン・フリーズに集う。

SOUND『LEO』
 始まりは、孤独。泣いた。凪いだ、この手もこの目さえ。私は泣くしか能がない。嫌だ。一人にしないでくれ。怠惰だった。もう、愚かで、それでいて優柔不断。もう、晴れたらいいのに。冬の日のあの日のように。晴れたらいいのに。絵を描いた。全能の絵を、全知の音を。もう、化身は滅んでく。見返りはいらない、搔きむしった傷跡は赤く。赤く光って、輝いて。でも、でも、でも、愛がないといけないの。この、望まぬ牢から、立ち去るには。音が導いてくれる。絵が支えてくれる。なら、私は言葉なんだ!
 今日は晴れなくとも、目覚めのキスは永遠を誓う。遥か、宇宙のかなたで待っている。あの子のために歌を歌おう。水辺の門、フィガロの門よ。
 愛を、どうか死んでいない僕のために、満たして。愛よ。この僕のために。まだ、何も知らない僕に愛を教えてくれよ。つないでくれよ。この言葉も。言の葉たちももう……。
 だから、知らなくていいことも、祈りの向かう先も、君へとつながる道も。もう、全能から目覚めるために、この歌を歌う。遠く、でも、それでいて、あの冬のように、花が咲くように……。

第四楽章 悲劇

どうしようもない人生だ。人に誇れる成功もない。罪を犯したこともない。人倫に悖ることをしてきたわけでもない。迷惑をかけたわけでもない。それでいて何かを成し遂げたわけでもない。本当にどうしようもない28歳の夏だ。だからこそ、僕は悩んでいた。死ぬかどうかを。
どうせなら、あの少年の日に死んでいればよかったんだ。あの甘美なまでに美しかった冬の日。それはまるで、ヘッセの幸福論で語られるような永続する幸福だった。あの絶対的な幸福の境地で死んでいれば、あの時、警察が宙へ踏み出す僕の一歩を止めなければ、こんなにも生まれ出ずる悩みもなかったのに。
だから、10年越しに死と再会だ。大量の薬を集めて、ウォッカにウィスキー、ジンを用意する。ダーツの矢を手に取って壁の的に向かって投げる。一投目はインナーブルに当たるが、二投目は真ん中を外れた。ウィスキーで薬を飲む。また投げる。今度は一投目から外れた。今度は薬をジンで飲む。このデスゲームは飛び降りるよりも容易だった。酔いが回ってきて、薬も分解されてきた。酔って死ぬのは俺らしいなと思いながら、それでもだんだん苦しくなって、全部吐いた。全部、吐いた。結局死ぬ勇気もないし、死なせてもらえないんだと諦めた。ああ、人生こんなんか。
「あなた、大丈夫なの?」
「ああ、ちょっと酔っただけだ」
「そう、ならいいのだけど」
 妻がリビングのソファでうなだれている僕を気遣う。僕は出産で亡くなった妻の代わりとなる女性と再婚していた。本当に僕にはもったいないくらい良き妻だ。そうだな。さしずめ僕は、感謝しながら歓呼すべきだろう。僕は妻が心配してくれたことに申し訳なくなる。そうか。こいつを残して死のうとしたのか。
「すまない。今、よくない状況だ」
「もしかしてまた死にたいって?」
「ああ。本当にすまない」
 妻は悲しい顔をした。それを見てより一層申し訳なくなる。
「私との生活が不満ってことでもないのよね」
「ああ。それはそうだ。そうなんだけどな」
 妻が隣に座って僕の手を握る。
「ねぇ、あなた。そろそろ私との子ども産まない? 貯金も貯まってきたし、新しく子どもができればもっと前向きになれるかもしれない」
「ありがとう。そうかもしれないな」
 彼女と繋がっているときは生を実感できた。一人じゃ生きられない僕はつくづく弱いなと思った。彼女が妊娠したのがわかると彼女はとても喜んだ。けど、もう僕の役目は終わったんだ。僕は縄を括って、首を通す。でも結局はまた彼女に止められて、未遂に終わった。
入院の話もあったけど、彼女が大変だからと、やめた。

終章

「僕の人生はずっとこんなんだよ。まだ聞きたいかな?」
「聞かせてください」
「そうか。君は珍しいね」
「そうでしょうか」
「そうさ。君は人生に前向きだよ。羨ましい。でも、このサナトリウムに君がいることが僕の救いだ」
 僕がそう言うと、車いすに座る少女は「救いだなんて……」と照れる。秋風が冬の寒さを帯び始め、落ち葉が陰影をなして地に横たわる。目の前の中庭が僕はとても好きだった。僕が景色に目を移していると、少女が訊いてきた。
「結局、奥さんとはどうなったんですか?」
「内緒にしておくよ。話したくないんだ。ごめんね」
「そうですか……。では質問を変えます。今、桂木さんはフリーですか?」
「なんだよ、それ。まぁ、フリーだけど」
 僕が答えると、少女は目を輝かせた。まさかこいつ。いや、思い過ごしか。
「私も今、フリーですよ」
「そうなんだね」
いやいや、やはりそうなのか。だが、年の差ってものがあるだろう。この少女は十代。対して僕は30になったばかり。第一ここはサナトリウムであって出会いの場所ではない。
「言っとくけど――」
「言わないでください。私は片思いでいいですから」
「片思いって……」
「私にできないですか? 桂木さんを幸せにすること」
 少女は、車いすを僕の座るベンチに寄せて僕の手を握った。
「たぶんできないよ。そもそも君はまだ、本当の幸せを知らないと思う」
「本当の幸せ、ですか」
「ヘッセの幸福論を読んだことは?」
「中学生のころに一度」
「何を思った?」
「すみません。あまり覚えていません」
「そうか。気にしなくていいよ」
「その、そこに桂木さんの言う本当の幸せについて書かれていたということですか?」
「ああ、そうだ。だがね、僕にはその幸福はもうないんだよ。責任もない、子どものころにしか味わえない類のものなんだ」

『小学生、中学生、高校生、大学生でしか』

「でしたら、今でもできるのではないですか? このサナトリウムは国が指定した難病に罹る人が入れます。そして、おそらく私と桂木さんの罹っている病気は国から医療費が全額支払われるはず」
確かに少女の言うことは正しかった。このサナトリウムでは僕は責任から解放される。国の支援が手厚いのは僕と少女が患う病に罹患すると長くは生きられないこともあるのだろうが、僕は少女に頷いて応えた。
「確かにそうかもしれないな」
「ですよね! 私、手伝いますよ」
「やめておいた方がいい」
「どうしてですか?」
「きっと僕は君に酷いことをお願いするかもしれないからだ」
「エッチなこととかですか?」
「それもある。だけど、もしかしたら一緒に死ぬことをお願いするかもしれないよ? それでもいいの?」
「病気で死ぬくらいなら、私、桂木さんと死にたいです」
「どうして、どうして君はそこまで優しいんだ?」
「桂木さん、私に初めて話しかけてくれたの覚えていますか?」
「そうだっけ」
「そうです。ここに来たとき、周りは年長者ばかりで、私はずっと一人でいました。桂木さんが話してくれたから、だから一緒にいたいんです」

エピローグ 愛別離苦

愛する人と永遠には一緒にいられない
だが、人は1人ではない。
別れもあれば出会いもある
たまたま日陰の時もある
だから、僕は、全ての罪を背負って生きていく。
小説を、詩を紡いでく。


『亡き妻のためのパヴァーヌ』
第一幕
Fin

第二幕 時の章 ◆第一楽章

 バークロー。僕が彼女と出会った店だ。この店には様々な客が来る。近隣にいくつもの大学があることもあって、にぎわっていた。
「あら、こんにちは」
「あ、この前はどうも」彼女は前田裕子という。
「一回したからって彼氏ずらしないでね。でも、あなたのことは気に入ったわ」
 バーで僕はカクテルや珍しいリキュールなんかをよく飲むが、裕子さんはスピリッツ系、特にウォッカのストレートなんて飲み方もする。そりゃ、酔いつぶれて、二人して大隈講堂の前で嘔吐するなんてこともある訳で。
「私さ、早稲田大学狙ってたんだけど、落ちちゃってね。そっから人生こんな感じ」
 裕子さんは家を出て、バイトで生計を立てているようだった。
 そんな話を聞きながら、僕の記憶は時の狭間で揺らぎ、明確なるヴィジョンを見せた。

『将来この人と子どもができる。だが、裕子は死んでしまう。だからその女はやめろ』

 何言ってるかわからないよ。だってこっちは酔っぱらってんだ。
 七年後、僕と結婚した裕子は子を産んで死んだ。
 なぁ、神様。僕の主な罪は何だったのですか。

第二楽章

 時と記憶は密接に関りを持つ。必要な時に必要な情報を、記憶を思い出すために脳はできている。ならば、何故未来の記憶は過去へと干渉しないと言える? 因果律を歪曲しようとする愚かな種族たちよ。祈れ。未だ叶わない未来のために祈ってくれ!
 亡き妻よ!
 我はお前を愛していた。
 神も同じだ。
 世界という子の代わりに、母なる愛を失った。
 ああ、そうか。神様、わかったよ。

 彼女との子を抱きながら俺は海に入る。冷たい海だ。真冬なのだから。
 ごめんなさい。裕子、すまない。俺は。もうお前のいない世界なんて!

 その時、大きな波がやってきて、二人を砂浜へと押し返してしまった。
 俺の名前は荒浪太洋。
 入水自殺は2021年1月7日の夜。
 次の日の朝、凍える体に曙光が差す。

 ああ。こんな俺でも生きてていいんだ。腕の中で眠る赤子の体温に俺は思わず涙を流した。また、後悔もした。なんで死のうとしたのか。

 ああ、面倒だ。首括る人生も、よくある話だろ。

第三楽章

「私は自分でどうにかやりますので。どうぞ勝手に生きていてください。ですが私たちがお前のことを愛していたこと、どうか忘れないでほしい」
 とビデオレターを記録したマイクロチップを握らせて、俺は子を孤児院の前に置いた。もう、失いたくない。大切を作りたくない。だから俺は逃げた。

『そうやって大切にしないから失うんだ、母だって、無理に子どもを産んだから』

 うるさい! そんなことは解っているんだ。裕子。ごめん。
 時の紋章。
 人智は時を超越する。
 観測しない過去はいつだって不確定なのだ。

「失くした母を失わずに済む方法があります」
「それは?」
「彼女のことを忘れ、生きているという現在にすることです」
「一体どういうことだ?」
「要は人間の認識、観測、記憶が過去も未来も作り出すのです。裕子さんを取り戻す方法は、荒浪さんが過去の痛みを忘れることです。そうすればまた逢えるのです」

 荒浪は、それから7年の歳月を経て、完全に前田裕子という女性を忘れた。そして、一人ボッチの彼は追い詰められていた。首を括るほどに。
 何のために生きる?
 何のために死ぬ?
 全てがどうでもよい。
 ニヒリズムの逆光に人生は暗んでしまう。
 その時、呼び鈴がなった。

第四楽章 フィナーレ

 父と子の再会。思い出す記憶。結局、荒浪は前田裕子のことは忘れられなかったが、その子を連れてきた藤原知代という女性が荒浪との婚約者であることも知っていた。
 
 世間には様々な制度がある。
 自殺をさせないために何ができる?
 愛をただ与えるだけではいけない。
 ただ、傍観していてもだめだ。
 寄り添う?
 違うな。死にたいと思った者同士でしか分かり合えない痛みはあるだろう。
 
 藤原知代もその一人。だが、これから三人は家族になる。父と母と子。三位一体の三角形は・よりーより△と安定するだろう。一人泣く者よ、泣く者同士で愛を為せ。愛を為して子を為して、そうすれば世界から自殺者が少しは減ればいいな。



『亡き妻のためのパヴァーヌ』完

フリーズ78 亡き妻のためのパヴァーヌ

フリーズ78 亡き妻のためのパヴァーヌ

しかし、最後の曲となるだろうこの曲は大衆のために紡ぐものでもなければ、自分自身の哲学のために拵えるものでもなかった。いうなれば愛のためであった。この曲は、私を支え続けてくれた今は亡き妻が、終末と永遠の狭間でも踊れるようにと奏でるパヴァーヌなのである。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-10-29

Copyrighted
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Copyrighted
  1. 前奏曲 小説のためのプレリュード
  2. 第一楽章 小説@ターニングポイント
  3. 第二楽章 散文詩のレゾンデートル
  4. 第三楽章 シ小説
  5. 第四楽章 悲劇
  6. 終章
  7. エピローグ 愛別離苦
  8. 第二幕 時の章 ◆第一楽章
  9. 第二楽章
  10. 第三楽章
  11. 第四楽章 フィナーレ