幽霊になりたい


 灰色の階段を登っている。踊り場から見える街路樹の緑があまりに美しいので、あいつは僕を贄にして輝いているんだという空想を抱く。
 夏って何?――修行。
 西山がこの五階建てマンション(エレベーターなし)のよりによって五階に住んでいるという事実を、今日という今日は許せそうになかった。

 やっとの思いで登り切って、目の前に現れたのは、スプーンが貼り付けられている扉であった。

 ドアスコープの出っ張りを支えに、セロハンテープで固定されている。軽いプラスチックのやつじゃない。それはぴかぴかの金属製で、酷く発汗した僕の間抜け面をしっかりと反射していた。
 しばらく呆けていると、扉が開いた。
「どしたの。ピンポンしろよ」
「なんで分かったの」
「足音、ここで止まったから」
 無用心が。
「ああ。いや、それよりさ」
 僕はスプーンを指差す。
「これ何?」
 そう問うと、西山はただ一言「魔除け」と答えた。

「やばい奴から身を守るには、自分もやばい奴になるしかないと思ったのよ」
 しょうゆせんべいを袋の中で四分割しながらそう話す西山は、相変わらず大きさの割に覇気のない目をしている。
「なんでスプーンなの」
「それに関しては、特に理屈はないよ」

「…でもさ、そこらへん不明瞭な方が、なんか怖くない?」

 いまいち意味の分からないことをへらへら話し続ける西山を見て、なんだか脱力してしまう。そうだ、こういう奴なのだ。ならばもう楽しむのが賢明である。
「魔除けってことはさ、あれは、霊的なものにも効いたりするの?」
「多分」
 間の無い返事。そして西山はいつになく真剣な面持ちで言う。
「幽霊だってそもそもは人間なわけだから、やばい奴とは関わり合いたくないって考えは持ってると思うんだよね」
 西山は四分割したせんべいを口の中に入れ、ばりばり咀嚼した。
「百均の食器って、結構ちゃんとしてるよな」
 わざわざ新しいものを買ったのは、西山なりの誠意だろうか(百均だけれども)。
「ところでさ、今日なんでこんな暑いの。いつもクーラーガンガンなのに」

「壊れた」

 扇風機のややぬるめの風が、僕らの湿気った髪を交互に揺らしている。ああ、やっぱり許せないな。


「律はさ」
 西山の声。眠たげなような、震える糸のような声。
「幽霊になったらどうなると思う」
 僕はしばらく考えを巡らせた。暑さでどろどろに溶けた思考を、なんとか言葉に製氷する。
「人間ってさ」
 壮大な言い出しにしては軽薄な口調だな、と内心自嘲した。
「人間ってさ、慣れる生き物じゃん。今だってこのよく分かんない世界に生まれて、なんとなくのまま生きてるし。
 だから、幽霊になってもそんな感じなんじゃないかな。あの世なんてなくて、目覚ましたらいつものこの街。んでまじかーってなりながらふらふらすんの。そしたらなんだかんだ」
「慣れる?」
「そう」
「なんか怖いよ、それ。行き場失うみたいで」
「そう?幽霊になってからの方が、自由にやれてるってこともあるんじゃない。幽霊になって初めて、本当の自分になれた、的な」
「じゃあ、律は幽霊になったら何したいの?」
 きかせてよ、第二の人生計画。
 西山が悪戯っぽく笑ったように見えた。

「そうねぇ、バスただ乗りして映画観に行くね。みんなと違うとこで大泣きしても大笑いしても誰にも気付かれないし、何も言われない。いろんな人のポップコーンちょっとずつ食べて、どうせ見えないんだから席移動しまくっても迷惑になんないしね。なんなら途中で抜けて別の観に行ってもいいし。よくない?」
 西山が「あ」と「う」を混ぜたような声を出しながら天井を仰ぐ。

「一緒に観ような」

 首すじに滴る汗を拭う仕草がやけに遅く感じられる。日に焼けて、少しざらついていそうな質感のそれがわずかに震え、それと同時に西山の笑い声が響いた。
 狂おしいような、よく冷えた牛乳のような声。
「幽霊になってまで出会える保証なんて、ないでしょ」
「……そうですか」
 今日はおかしな日だ。スプーンを魔除けと言い張って、僕は僕でくだらないことをべらべらと。僕も西山も、暑さで気が触れたのかもしれない。
 行き掛けにコンビニで買った煙草に火をつける。
「あ」
 その一音は怒気を帯びていた。
「煙草禁止」
「は、また?」
「いや、今度こそはやめるからね。いい加減金ないし」
 苦笑し、僕ははたとテーブルから灰皿が消えていることに気付く。

「煙って、魔除けになるんだよ」
 携帯灰皿を取り出しながら、最後にそう嘯いておいた。


 夕立が帰宅途中の僕を濡らした。


 あの五階の部屋が好きだった。ぐだぐだとオールをした午前四時に、ベランダで空が白んでいくのを眺めていると、どこか遠くの知らない街に来たみたいな気分になれた。
 そういえば、僕はあのベランダで人生初めての煙草を吸ったのだった。
 一本、また一本と吸う度、僕自身も煙となって消えていく。それは火葬場から立ち昇る煙のように。地上に降り注いだ雨が、やがて(そら)へと帰っていくように。
 西山がとうとう禁煙に成功したら、僕が帰る場所はどこにも無くなってしまうな。ふとそんなことを考えた。 

 家に帰り、いつものようにベランダで発泡酒を飲む頃には、辺りはすっかり夜の空気で、夕方の湿った雨の気配などなかったことになっていた。
 一階のベランダというのは本当に情緒がない。

 あの五階の部屋が好きだった。

 僕は今すぐにでもあの五階から飛び降りて、幽霊になりたい。
 幽霊になったら、いの一番に西山の部屋へ行こう。きっとそこにはスプーンがあって、僕は中に入れない。
「まだこんな訳分かんないことを」
 そう呆れながら、僕は長い長い灰色の階段を下る。そして二度と、あいつに会うことはないだろう。

 あそこの夜間工事がそろそろ終わりを迎えるらしい。少し寂しいかもしれない、などと感傷に浸りながら、僕はまた一口酒を嚥下した。缶を握り締める左手は、もう痛いほど冷えている。

幽霊になりたい

幽霊になりたい

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-10-29

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