俺は死んでいない

死んだと7思われた男が5年ぶりに生きて居たことが判明

横田一夫は学生時代からワンダーフォーゲル部に所属していて、大の山好きである。しかし今は結婚して七年、家族の為に懸命に働いていて学生時代の時のように度々、山に登れる訳ではない。それに妻は山登りをあまり良い顔をしてくれない。
結婚して山に登ったのは三度しかない。学生時代なら最低年三回は登っていたのに、妻が許してくれない。正直息がつまりそうな気がする。唯一の道楽とまで行かないが、それでもその楽しみの為に横田は体を鍛えている。サラリーマンと云うより体育系のガッシリした持ち主である。

妻との間に六歳になる和義と三ヵ月後に生まれる予定の子を楽しみにしていた。そんな時に久し振りに登山する機会が巡って来た。
「貴方、もう今回だけにしてよ。いくら山が好きでも心配する私の身になってよ」
「あぁ分かっている啓子。これも仕事の内なのだと言えば方便に聞こえるだろうが、お得意さんに山好きが居てプロ級の人と一緒なら安心だと言われ俺に白羽の矢が立った訳だし断れなかった。それに今回は親友の吉野も参加してくれるから安心だよ」
「分かっているわ。でも貴方のようなベテランでも崖崩れで石に当たって大怪我をした事があるじゃない。だから心配なの……」
今でこそ啓子は子持ちの主婦だが大学時代はマドンナ的存在だった。
そのマドンナを射止めたのが横田であり自慢の妻である。
啓子も山好きの横田と結婚したが、やはり山は危険だと思っている。横田も妻の気持を考慮し結婚して三度しか山に登っていない。我慢していたストレスも相当なものだろうと承知して今回は許してくれた。それには心苦しかった。妻は妊婦であり万が一の場合があったら途方に暮れるだろう。

妻の言い分は理解しているが今回は願ってもない登山なのである。
仕事の一環とあっては、もはや家内が心配するからと会社に断る訳にも行かない。お得意様接待という会社からお墨付きで、建て前は出張と云う事で旅費と宿泊費まで会社から出張費も出るとあって、胸を張って行く事が出来た。
 心配する妊婦の妻と子供を残し、横田は山梨県南アルプス市にある標高三千百九十三メートルの山。富士山に次ぐ日本第二の高峰、北岳に登る事になった。
 六人のパーティーで半分はお得意様の三人、一人は会社の同僚そして特別参加で学生時代からの登山仲間で親友でもある吉野だった。
 五月二十日朝八時バスで夜叉神峠を出発、大唐沢出合から歩き北岳山荘に十四時到着。標高二千九百メートルにある北岳山荘から頂上まで目と鼻の先である。
 横田達パーティーはここで一泊し翌日早朝頂上を目差す。因みに山小屋といっても、ホテル並とまで言わないが三階建の立派な建物である。一泊二食付七千九百円、素泊まり寝具付きで五千二百円寝具なし四千二百円である。

 翌五月二十一日未明、山荘を出発、六時五十分頂上到達。その日の出の美しさは登った者にしか分からない感動があった。お得意さんの三人は横田の手を取って感謝した。眼下に見えるのは雲の絨毯、そして少し遠くに浮かび上がるのは富士山の雄姿だ。満足した一行は惜しみつつも下山する事にした。
 季節はまもなく春から初夏を迎えるというのに、周りは沢山の雪が積もっている。この時期、最も危険なのは雪崩と落石に注意しなければならない。
 今では素人でも登れるルートは何本かあるが、ルートを外れると危険である。
 山の天候は変わりやすい。天気予報では晴れとなっていたが下山途中で天候が悪化し空が暗くなって季節外れ雷が鳴り始めた。ベテランの横田でも想定外の事だ。横田は一時避難しようと、みんなに呼びかけたが、お得意さんの下園が見当たらない。みんなを避難させ横田は辺りを見渡しと下の方に人の姿が見えた。
横田はチッと舌打ちした。素人と云うのは困る。勝手にパーティーから離れるなんて危険極まりない。しかもあんなに離れてしまって観光地の自由行動とは違うのだ。

そんな心配をよそに雪の間から顔を出した高山植物の写真を撮っていた。
上空は真っ黒な積乱雲が近づいて来る。不味いと思い横田が大声で叫んだ。
「下園さぁ~~ん危険です。早く引き返してくださぁい」
だが聞こえないのか、こちらを見ようともしない。
仕方なく横田は下園の方へ下りて行った。やっとの事で下園が居る場所に到着した。と、突然雷が近くに落ちたようだ。それと同時に雷が落ちた振動に拠るものかは、さだかではないが、雪崩が発生した。あっと言う間の出来事だった。
横田は下園を助けようとしたが迫り来る雪崩に二人共巻き込まれてしまった。それでも下園を雪崩から遠ざけようと下園の、腰のベルトを引っ張り崖から遠ざけた。だが横田は雪崩と共に崖下に飲み込まれて行った。
異変に気付いたザブリーダーの吉野は、すぐさま雪崩のあった場所に駆けつけた。残りのパーティー仲間も救助に来た。四人で必死に横田と下園が流れた方へ転げるように雪の中を駆け巡る。

必死に探したら赤い物が見えた下園が着けていた防寒服だ。四人で必死に掘り起こしたら、微かに息はしているようだが数ケ所骨折しているようだ。
だが横田はまだ見つかっていない。もはや四人でどうにもならない。
 全員が携帯電話を所持しているけど電波が届かず山で役に立たない。
 そこで吉野が取った行動は雪の合間にある枯れ木や葉を集めて燃やし、狼煙の代わりに使おうと考えた。
 暖を取る事も出来るし一石二鳥である。遭難した時間帯が良かったのか、山小屋では雪崩が起きた事は知っていた。その為か焚き火の煙を発見するのが早かった。おそらく誰かが雪崩のあった方を注視していたのだろう。
 二時間後、救助隊が雪崩のあった付近を探している。
やがて吉野達のパーティーに気付いたのか大きな声で呼びかけている。
 吉野達は必死で救助隊に向って手を振った。

雪崩に巻き込まれて三時間が過ぎた頃、横田は岩の谷間に流され奇跡的に生きて居た。岩の隙間に空洞がありそこに押し込まれた。難は逃れたが、意識が飛んでいて気絶していたのだろうか。幸い骨折はないが覚えているのは雪崩に巻き込まれた事だ。一緒に流された下園を救いなかった責任を感じて居た。
そればかりが気になり、他の事は覚えて居ない。パーティーの仲間と一緒に来たことも家族の事も記憶に残っていない。それどころか下園を助けられず、責任上、怖いという気持ちが強く自己保身に走ってしまった。

 天候は荒れているが流石は救助隊、なんなく下園をソリに乗せ下山した。幸い下園は重症だが助かった。しかし横田の姿は何処にも見つからない。
 運悪く天候は荒れに荒れて捜索できる状態ではなく、吉野はなくなく下山するしかなかった。二次災害になりかねない状況では正しい判断と言える。
 それから数時間後、横田が勤める会社に一方が入った。会社から横田の妻へ連絡が入った。
「もしもし横田さんの奥様ですか、こちら丸菱商事ですが」
 「あっどうも主人が大変お世話になって降ります、あの横山でしたら登山に行っておりますが、何か急用でしょうか」
「実はその事なのですか……」
 流石に切り出しにくいのか沈黙が続いた。
「あの? 主人がどうかしましたでしょうか」
「誠に申し上げにくいのですが、先ほど入った情報によりますと雪崩にあってご主人の行方が分からないそうです」
 横田啓子は絶句した。夫の登山好きは分っている。しかし山は危険がいっぱいだ。それを危惧しどうぞ行ってらっしゃいとは言いなかったのだ。ついに恐れていた事が起きてしまった。これから子供が生まれると言うのに。
「貴方、生まれて来る子の顔は見たくないの。早く帰って来て」
 雪崩に巻き込まれた二日後、天気が回復し捜索隊が編制された。その中には吉野も加わっていた。上空からもヘリも飛ばした。だが無情にも横田は見つからなかった。三日間の操作でも見つからず、更に一週間の捜査でも分からず、捜索は打ち切られた。だが親友の吉野は責任を感じていた。操作は打ち切られても断念する訳には行かない。諦めきれない吉野は大学時代のサークル仲間に協力を頼んだ。

 一方横田は、命は助かったが、この時点で脳に異常をきたしていた。責任感が強い余り救えなかった事に耐えられなかったようだ。捜査隊の声が聞こえると怖くなり逃げまくった。何故か人を避ける事が生きる道と考えたようだ。幸いリュックを背負ったまま遭難したので多少の食料と寝袋、ナイフやロープなど登山道具一式が入っていた。やがて食料が底をつくと林に入り果物やキノコを採り、飢えを忍んだ。数日後また人の叫び声が聞こえた。横田は慌てて洞口の奥に逃げこんだ。叫んでいたのは親友の吉野なのにその声の主も忘れていた。

 入院中の下園も自分が勝手な行動を取ったばかりにと、責任を感じていた。
 出来るなら自分も捜査活動に加えてくれと吉野に頼んだが、例え怪我が完治したとしても、素人では逆に足手まといになると断られた。
 一ヵ月後、下園は退院し、その足で横田の妻、啓子の所へ詫びに行った。
「奥さん申し訳ありません。横田さんが雪崩に巻き込まれたのも全て私の責任です。許してくれと申しません。私を罵って気が済むなら蹴るなり殴るなり好きなようにして下さい」
「……下園さん。気持ちは嬉しいのですが自然が相手です。誰が悪いとかじゃありません。けれど横田の責任感だけは誉めてやって下さい」
「勿論です。横田さんは本当に責任感の強い方です。私で出来る事なら、なんでも申し付けて下さい。細かい事でも何でも、それが私の責任です」
 吉野達の努力も虚しく三ヶ月間の間に五度も捜索したがついに見つからなかった。そして一年が過ぎた。
 横田の妻、啓子は悲しみの中で女の子を出産していた。
 「貴方……約束したじゃない。この子の顔も見ないで何処で何をしているの」
 既に一年が過ぎているが、まだ葬儀も済ませていない。妻の啓子は生きているのかも知れないのに葬儀なんて考えられないと拒否し続けた。
やがて二年が経とうとしていた。啓子の身内や横田の親達は流石に此処まで来れば諦めるしかないと啓子を説得した。
やっと踏ん切りが付いた啓子は二年目にして死体なき葬儀を行なった。

そんな事を知らず横田は数ヵ所に住処を作り、野生動物を捕り、川で魚を捕り、山菜や果物を取る生活が続き、完全に野生化していた。時おり人の気配を感じると何カ所かある隠れ家に避難していた。もはや家族の事も何も覚えていない。ともかく人を避ける事だけを考えて生きて来た。

 更に一年が過ぎ三年の月日が流れ周りは啓子に再婚を勧めたが、啓子はあの人は生きていると断り続けた。だが二人の子供を育てるには限界があった。横田に未練を残しつつも再婚に踏みきったのであった。
 啓子を献身的に世話したのは横田に命を救われた下園だった。
下園は四十歳になるが未だに独身の身であった。
 下園は責任を感じて、この三年間、色々と啓子の世話をして来た。
 それがやがて愛情に変わっても不思議はない。自然の流れかも知れない。
 過去に区切りをつけ、再び幸せを掴んだ筈の啓子だったが……

 そして更に一年後、啓子は死んだ横田を忘れ掛けた頃テレビのニュース速報を見て驚きの声を上げた。
 『五年前に北岳で雪崩に巻き込まれ消息不明になって死亡したと見られていた横田一夫さんが、奇跡的に生きていた事が分かりました』
 それを聞いた啓子は絶句した。自分も周りも誰もが死んだと思っていたのに……。忘れようにも忘れられず、やっとの事で区切りをつけ過去の苦しさから立ち直ったのに……今、彼の元に飛んで行きたい。しかし二人の子持ちの私を救ってくれた下園の愛を裏切る訳にも行かない。
 そんな苦悩とは関係なくマスコミが押し寄せた。
 ニュースを見て下園も同じく驚く。テレビ放送には自分の家の前から中継されていた。下園は会社を早退して家に帰った。待っていましたとばかり報道陣に取り囲まれる。それを振り切って下園は家の中に入った。啓子は顔面蒼白で強張っている。下園はなんと声を掛けて良いか分からない。

 一方の横田は北岳で奇跡的に助かったが、記憶喪失になり何故か人に合う事に怯えて山を出る事はなかった。しかし山男である横田は本能的に生きる術を知っていた。洞窟に住家を作り、うさぎや猪、川魚を捕り山菜や果物などを食料にしていた。山を知り尽くした横田には食料には困らなかったが、記憶喪失に陥った時点から人との接触を極端に怖がっていた。商社マンである横田が何故そうなったのか、死の恐怖は性格まで変えたのか、それは定かではない。
 自力で助かったなら真っ先に家族に連絡を入れるのが普通だが、記憶を失ったと同時に人を怖がる偶然が重なり五年も過ぎてしまったのだ。
 その理由として後に臨床心理士が以下のように述べている。
 パーティーのリーダーとしての責任を果せなく、みんなを遭難させたと云う罪意識が、そうさせたのではないか。記憶は喪失してもそれだけは心の奥底にあったに違いない、と。テレビ報道では登山家などをゲストに呼び、憶測に拠る報道が続いていた。当事者の横田を呼べば一番良いのだが人を拒む病では憶測で語るしかない。

これは横田自身が後に語った事であるが。遭難してから一命をとり止めたが、この時点で記憶が飛んでいたと言う。誰と来たか何故そこに居るのか分からぬまま、生きたいという本能が優先してしまった。山に籠ってから何人か側を通っていたが横田はそれを避けて来た。だから五年間も隠れ通せたのだろう。家族の存在も記憶から消されサバイバル生活が五年続いた所を、猪狩りに来ていた猟師に見つかった。猟師は町に連絡をして捜索隊が組まれた。そしてやっと保護した。
 その時は人間と言うより野生化した動物のように逃げまくったが総動員でやっと保護した。横田は病院に収容され現在治療を受けている。
 少し時間は掛かるがキチンと治療しれば記憶が戻る可能性があるそうだ。
 テレビ報道を見て下園は頭を抱えてしまった。横田は命の恩人である。
そして今の妻と連れ子は下園にとってもかけがえのない家族である。しかし元はと云えば横田の最愛の家族である。己の誤った判断が横田の幸せを奪い取った。記憶が戻って人の妻となっていたら、横田はどんなに悲しむだろうか。
 しかし下園にも今では宝物のような存在の妻と子である。
 悩んだ末、啓子の判断に任せる事にした。しかし啓子も同じ気持ちだった。
 神様はなんて酷な運命を与えたのか……
 取り敢えず会わなくてはならない。そう決めた啓子は病院に向かった。
 だが横田は愛する妻を前に、キョトンとした顔で啓子を見るばかりだった。
 啓子もショックだった。子供を連れていっても反応がないのだ。
でもほって置けない。私の力で甦らせたいと祈る啓子。 
「貴方……私が分からないの」
だが反応がない横田に啓子は悩む。むしろ目覚めないで欲しい。しかし意識が戻っても欲しい。敬子の心は揺れる。啓子は自分に訴えた。
『私はどうすれば良いの? せめて二年いいえ三年早く戻ってくれたらこんな悲劇は起きなかったのよ。勿論、貴方を愛している。それは今も変わりはない。しかし今の夫、下園は生きる気力さえ亡くした私と子供を支えてくれた。恩もあるし愛情もある。今更どちらかを選べ、なんて酷な話でしょう。私は二人とも裏切れない。むすろ私自身が二人の前から姿を消すべなのだろうか。教えて、私はどうすれば良いの』

 それから半年、医師と啓子の努力が実り、ついに横田の記憶は断片的だが戻った。
「貴方、私が分かる敬子よ」
「ケイコ……ちょっと待ってくれ。此処は何処だ? もしかして病院なのか? 俺は……そうだ北岳で雪崩に巻き込まれたんだよな。そうだ思い出した。俺は助かったのか? 下園さんどうなった、まさか亡くなったなんて事はないよな。もしそうなら責任者である俺の責任だ。どうしょう……」
「心配しないで下園さんは助かったわ」
「そうかぁ良かった。本当に良かった。そうだ会社に行って事故報告しないと」
「貴方、貴方が遭難してどの位過ぎたか知って居るの」
「う~ん一週間、まさか二週間って事はないよな」
「貴方……何を仰っているの。五年よ、五年も過ぎたのよ」
「まさか冗談を言うなよ、そんな筈はない。そうだ子供が生まれる予定なのに、まだ生まれてないのか」
 横田は記憶が蘇ったが、それは五年前の遭難した時からで。その後の五年間の記憶が飛んでいた。
「貴方は遭難した時の事は覚えていても途中の事は思い出せないの。貴方は遭難した後、奇跡的に助かったらしいの、でも記憶を無くして山中の自然で生きて来たのよ。何故か極端に人を避けるようになって、そして五年、狩人さんが発見してやっと戻れたのよ」
「まさか、俺が人を避ける訳がないじゃないか」
「お医者さんの話だと責任感の強い貴方が、申し訳ないという気持ちが強過ぎて。無意識に人を避けていたのではないかと言っていたわ」
「しかし五年が過ぎたって、まるで浦島太郎か……あっ思い出した。啓子、今年子供が生まれると言っていたじゃないか。それと和義は?」

遭難した事は覚えていても途中の五年間の記憶が飛んでいるようだ。酷だが現実を話さなくてはならない。
「和義、和美を連れて入ってらっしゃい。お父さんに顔を見せてあげて」
和義は父が遭難した時は五歳だった。やや父の記憶が失いかけて居たが啓子は、父の写真を飾ってあって父の記憶を刻ませて置いた。しかし娘の和美とは初対面であり、むすろ下園を父と思っているようだ。この状況をどう説明して良いものか、いきなり娘に、この人がお父さんよと言っても抵抗があるだろう。しかしこの現状から逃げる訳には行かない。
和義と和美が病室に入って来た。一夫はキョトンとして二人を見た。
「和義なのか? 幼稚園に通っていた本当に和義なのか?」
其処に立って居た和義は身長が伸びて啓子と同じくらいになっていた。隣には五歳になる女の子が不思議そうな顔をして父を見ていた。
「貴方、分ったでしょう。和義はもう小学四生よ。そしてこの子が和美、貴方の娘よ」
「……なんてことだ。本当に五年もの歳月が過ぎたと言うのか信じられん。和義ごめんな。今更お父さんだよと言っても戸惑うよな。そして和美、初めましてお父さんです。いきなり父と言っても困るよな。和義、長い間苦労掛けたな、お父さん分るか?」
「お父さん僕、覚えているよ。毎日お父さんの写真見ていたから、お帰りなさいお父さん」
「そうか、そうか有り難う。和美もおいで」
一夫は二人を抱きしめた。啓子も涙を溜めてその光景を見ていた。
其処に親友である吉野が病室に入って来た。
「よう横田。俺は分るよな。まさか忘れたとは言わせないぞ」
「吉野か……お前年を取ったな。白髪まであるじゃないか」
「馬鹿言え、お前自分の顔を鏡で見て見ろよ。五年だ、五年の歳月が流れたんだよ。どうだ、浦島太郎になった気分。まぁいい今は無理するな。ともあれ奥さんに苦労かけた事は確かだ。これから一生掛けて償いをするんだな」
やっと現実を理解し始めた横田は、それから数週間、精神的なケアも受け、やっと野生から目覚め過去の記憶を取り戻した。但し五年の空白期間は記憶にないという。

 横田が最初に謝った言葉は「啓子……ごめんな。約束を破って」だった。
 その言葉に啓子の心は急激に横田に傾いた。しかし此処から大きな問題が残っている。死んだと思って下園と再婚していたとは言えなかった。やはり此処は親友の出番だ。退院する前日、吉野と病室で二人きりになり三時間もこれまでの経緯を聞かせた。

「横田、これから言う事を良く聞いてくれ。お前には空白の五年間に何が合ったか。お前が遭難して救助隊やヘリを飛ばして探しても見つからず打ち切られたが、大学時代の仲間の手を借りて俺達は五度も山に登った。それから一年過ぎてお前や敬子さんの親戚が葬儀を出そうと進めたが啓子さんは、夫は生きて居るからと断ったんだ。そして二年が過ぎ、流石に葬儀をしないとは言えず葬儀をした。それでも啓子さんはお前が生きていると信じていた。しかし三年目にして蓄えも底をつき、幼い子供を育てなくてはならない現実があった。そこでお前が遭難したのは自分に責任があると下園さんが一生懸命、啓子さんを陰で支えた。子供二人を抱えた啓子さんは、親切にしてくれた下園を拒めず力を借りるしかなかった。それから一年後つまり昨年、二人は結婚した。これを裏切りと云うには酷だ。敬子さんの立場を分かってやれ。
「そんなバカな……」

横田は絶句した。それでも吉野は焦らずじっくり横田に言い聞かせた。やっと納得した横田は。
「……そうか下園さんがなあ」
「ああ、お前も複雑だろう。いいか、お前が啓子さんの立場になって見ろ。死んだと誰もが諦めていた。生きて居ると分かっていたら二百パーセント二人は一緒になる事はなかったはずだ」
「どうだ、良く考えて啓子さんと接しろ。間違っても攻めるじゃないぞ」
「五年か、俺には途中の記憶はないが人を避けていた事は確かなようだ。俺は真っ先に下山していればこんな事は起きなかったんだな。分った吉野、良く話してくれた。お前には何かと世話になったな」

しかし吉野にはもう一つ仕事が残っていた。下園の意見も聞きたい。数日後、吉野は下園と会っていた。だがもう下園の腹は決まっていたようだ。
下園は黙って身を引くと言った。命を救ってくたれ命の恩人、横田への恩返し……下園は会社を辞めて啓子に置手紙を残し海外に行ってしまった。本来なら横田に、おめでとうと言葉を掛けるべきだろうが、今は黙って去る事が精一杯だった。それが横田への恩返しであり啓子が一番幸せな道だと下園が選択した答えだ。啓子は涙を流し下園に感謝した。
一応、形式的には問題は解決したが此処でも吉野は横田に念を押した。
「これ以上、不幸な出来事はないだろう。それぞれが責任の取り方がある。黙って受け止めてやれ。敬子さんもお前も複雑だろうが元の鞘に収まったのだ。そして子供の為に失われた五年もの空白の時間を掛けて埋めてくれ」
「ありがとう吉野、色んな人に迷惑を掛けた。幸い会社側はお得意さんのお客さんを命がけで守ったのだから、遠慮せず復帰してくれと言われたよ。これで家族を食わせて行ける。暫くギクシャクすると思うがその時はお前が我が家に遊びに来てカバーしてくれよ」
「嗚呼、家族連れて行くから、その時は特上の酒を出してくれよ」
啓子は気持ちを整理し以前住んでいた家へ横田と子供を連れて戻った。五年間の出来事は色んな事があった。夫が五年間の記憶がないという。出来るなら敬子も五年の空白は忘れたい。それでも元々の家族なのだ。力を合わせればきっと幸せを掴めると信じ、新しい一歩を踏み出した。

6人のパーティーは雪崩に合い、横田が行方不明に命は助かったが記憶喪失に、何故か人を恐れ逃げまくって5年。下園を助けうとして遭難に合い、責任を感じた下園は横田の家族を献身的支えた。やがて二人は結婚、そこに死んだと思われていた横田が発見されるも妻も子供もさえ分からない。最愛の妻は助けた下園と再婚していた。その現実に横田は……
悲運なサスペンス小説です。よろしくお願いいたします。

俺は死んでいない

俺は死んでいない

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • サスペンス
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-10-17

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