後輩ハラスメント

 大学で間違って、空手部に入ってしまった。もう何十年も前のことだが、その間違いとは、こんな話だ。
 その前の年には、二人の新入部員が居たのだが、その頃は今から考えると信じられないぐらいに上下関係が厳しく、その二人とも逃げ出してしまった。部を辞めると大学にも居られなく、一人は学校を辞め、もう一人は一年近く姿を隠していたらしい。
 それは、ともかく、このままでは空手部が消滅してしまう。先輩達は慌てた。それで、翌年は誰かれ構わずに新入生勧誘をしたという訳だ。しかも、何とか厳しくない部に見せかけようとして策を弄した。
 幹部と呼ばれる強面の四年生は、取り敢えず道場の稽古には出て来ないようにした。まあ、まだ普通さが残る準幹部の三年生が道場を仕切った。当然、適当にしかやらなかった。
 それからコーラだ。稽古が終わると、先輩がコーラの大瓶を買って来てくれるのだ。喉が渇いたところで、これが堪らなくうまかった。全く子供じみた話だが、こういうのがずっと続くのだろうと思って入部してしまった。
 とんでもない話だった。道場に幹部と呼ばれる四年生が登場すると、一変した。
 返事は「押忍」。それも絶叫。厳しさも全然違う。コーラを飲ませてくれるどころではない。稽古が終われば、一年生は雑用に走り回る。しかも、大学生になったというのに五分刈り頭にしなければならなかった。
 しかし、辛いなんてことは、人間慣れれば慣れてしまうものなのだ。四股立ちを三十分近く。相撲の四股のような体勢を続ける。足腰を鍛えるといえばそうかもしれないが、要するに我慢の強制だ。夏合宿から始まる組手。実力差のある一年生と四年生がそれをやっても、猫が鼠をいたぶるのと同じ。さらには、先輩の夜のお楽しみ。新入生を真っ裸にして、あれをしろのこれをしろの。結局、感覚が麻痺してしまうのだろう。そうして、一年が過ぎ二年が過ぎる。
 たんなる体の辛さなんかには耐えられる。でも、心の辛さは別問題だ。
 三年生の準幹部と呼ばれる立場になっていた。
 私は下級生達に対して、上下関係を敢えて抜きにした立場を取った。彼等に同じような辛さを経験させたくなかったからだ。三年という学年は、はそれまでと比べれば、信じられないぐらいに自由だった。夏休みは新島式根島行きのストレチア丸の船室に住み込みでアルバイトもした。例えようもなく楽しかった。
 そして、八月末の夏合宿。これももう地獄ではなかった。その最終日。一人の後輩が近づいて来た。
「押忍。自分は金がないので、特急券が買えません。皆とは別に普通列車で帰ってもいいでしょうか」
 私は五千円を渡した。「皆には言うなよ」の言葉も添えて。
 後になって分かったことだが、私は頼みごとをすれば、他とは違って何でも「うん」と言う先輩と思われていたのだ。要するに甘く見られていたということだ。
 それから私は道場に余り出なくなった。空手もそこそこ強くなって黒帯も目前だったが別に惜しいとも思わなくなった。準幹部になっているので、稽古を休んでも特に何も言われないようになっていた。

 それから三十年近くの月日が過ぎた。
 あの五千円の後輩が、ОB会長になっていた。年に一度、会報が送られてくる。読めば、ついに空手部員が一人となってしまい、消滅の危機だと書いてあった。
 特に何も思うものもなく、時の流れでそうなるのだろうなとしか感じなかった。
 

後輩ハラスメント

後輩ハラスメント

  • 小説
  • 掌編
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-10-11

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