くらげと釣り糸

 持ち物は多くない。小さいバケツ、クーラーボックス、折りたたみ式のイス、日焼け止めや端末を入れた小さいバッグで充分だ。水分は多めに持って行く。それから塩分補給ができるタブレットも。
 最近の夏は暑すぎる、と今朝のニュースでも言っていた。それでも相変わらず化石燃料の車はたくさん走っているし、どの店も寒いくらいに冷房が効いている。
 矛盾なんてどこにでもある。陸にだって、海にだって。
 いつもの場所に着くと、案の定先客は空をぼーっと見上げていた。
「早いね、レンさん」
「おお、イオ。休みっつってたか」
「今日だけね。どう? 調子は」
「これは来るぞ。俺には分かるんだ、波が来てるってな」
「それ、この前一匹も釣れなかったときも言ってたじゃない」
 だな、とレンさんは苦笑して、目の前の竿をじっと見つめた。
 ここはこの町でもあまり人気が無い場所だ。競争率が低いぶん、あまり良い釣果は期待できないスポット。それでもレンさんは長年通い続けているという。おれがこの町に来るずっと前から。
 レンさんは、岩のようだけど柳のようでもあるひとだ。家業の工務店を息子たちに譲って、一日中釣りをするようになってからこういう性格になった、と言う。
「海が変えてくれたのよ。心が荒立ってちゃあ糸が揺れる、魚も離れていく。だからじいっと待って、時には柔らかくこっちが向こうに合わせてやんのさ。魚はお客じゃねえ、ましてや敵味方でもねえ。だからこそ、釣りは難しくて、面白いんだな」
 おれは昔のレンさんを知らないので「そうなんだ」と聞き流したけれど、気にされることもなかった。レンさんは良くも悪くも、相手に対して無頓着だ。だからこんな場所を拠点にしているのかもしれない。何にせよ、おれにとってありがたいことだった。
「今年の梅雨は短かったから、釣れかたも少し変わるとかどうとか言ってたよ」
「またそりゃネットの話か。AIもどこまで信じられるもんだか」
「いやだって、天気とかはリアルタイムで見たいでしょ。レンさんも教えろって言ってくるくせに」
 言うと、フンと鼻を鳴らされた。
「山と空を見りゃ天気は分かる。どんな魚がどこでどのくらい釣れるのか、大体の運で良いのよ。俺はこれで飯を食ってるんでもねんだから、趣味、趣味。魚釣りじゃなくて糸垂らしだ」
「レンさん、釣れてもすぐ放すもんね」
「食うのはスーパーの特売の切り身で良いのよ。無駄に殺生することないもの、俺達などの娯楽で」
「そうだね。……おれたちは、そうだ」
 二人で頷いて、それぞれに水面を見つめる。魚を釣るより、この、変化が分かりにくい凪いだ水面を眺めているほうが、おれは好きだ。クルーザーをレンタルしたり海外の馬鹿でかい魚を釣ったりと、派手な楽しみ方をするひともいるらしいけど。レンさんが言う「糸垂らし」が、おれにも実のところ、一番性に合っているのかもしれない。
「そういえば、昨日の新聞、見たか」
「夕刊? おれ、朝刊しか見てない。何か大事件あった?」
「大事件っちゅうか毎年のあれよ。ここ数年で一番、ひどいらしいぞ」
「……アミ持って応援に行ったら喜ばれるかな」
「余計なことすんなって、貝入れてもらって帰らされるだらうな」
 毎年のあれ、というのは、こことは離れた海水浴場で起きる、くらげの大量発生のことだ。座布団をゆうに越す大きさのミズクラゲが、漁の邪魔になるほどわんさか獲れるのだという。「お盆の時期に海へ入ってはいけない」という言い習わしもある通り、この時期には強い毒を持ったくらげも多い。食べたり薬にしたりするにも限界があって、駆除する場合がほとんどだ。だけどそれにもお金がかかる。町の皆が頭を悩ませている問題だ。
「食うにしても、あれはどうにも持て余すな。コリコリしてて面白いらしいが」
「本当に……。この町だけじゃないらしいけど。それに、くらげだって増えたくて増えてるんじゃないだろうしね。もどかしいよね。……うん、もどかしい」
「釣り糸を垂らしたら、くらげはかかっかなぁ」
 どうでしょうねと返すと、軽く笑われ小突かれた。


******


 結局、空気だけを入れたバケツとクーラーボックスを抱えて帰路につく。中古車も中古車のミニバンのラジオを付けると、タイムリーなことにくらげの大量発生について、専門家が話をしていた。
 音量を上げて、港沿いの砂利道から国道に出る。アパートまでは三十分と少しだ。

 ―では、漁業関係者が声を上げるだけでは足りない、と。
 ―今大量発生しているクラゲを捕まえるのに、地元の漁師の皆さんの力を借りる、これは大前提でしょう。しかしそれで、今後の大繁殖を止められますか。違いますよね。
 ―これからも増える、生まれてくるくらげをどうするべきか、という。
 ―その通りです。クラゲの漁獲量と地球温暖化とに因果関係があるとは言い切れない、と指摘する人もいる。ではそもそも、海の何が変わったのか、ですけれど、たとえば人工物の増加ですよね。石油を採掘する機械だったり、あちこちに浮いているブイもそうです。そこをクラゲは家にしてしまう。そうするとやっぱり、クラゲは増えますよね。
 ―だからこそ、我々を含めた海に関わる人々が協力し合っていく必要があるのですね。ありがとうございます。ではここで一旦、お知らせです。

「言い得て妙だなぁ……」
 くらげがコロニーを作れる場所を減らす。くらげの天敵である魚が減りすぎないよう、乱獲をよりいっそう取り締まる。生態系を守るための活動を増やす。
 聞けばその通りだと思うことも、綺麗ごとのように思えてしまう。
 道が込んでいるのか、もう車のライトが必要な時間帯だ。ゆるゆると進みながら、遠くの高速道路を見やる。ぱちぱちと見え隠れするライトは、ウリクラゲの発光に似ている。
 もう―何かを見て似ていると思うなんて、ないと思っていたのに。
 一度頭に浮かんだ思考は、坂を転がり落ちるボールみたいに加速する。テレビでしていた食用くらげの話に驚いていた職場の人の言葉も思い出してしまった。
 くらげを食べる?
 あんなに可愛いのに?
 可哀想って思わないのかな。
「……レンさんのせいだ。レンさんが、あんな話するから」
 女々しい八つ当たりだ。車内に呟きを拾う人がいないのを良いことに毒づく。おれはまだ彼のように、岩にも柳にもなれていない。
 考えすぎるのは良くない。だからおれはいつもの通り、軽く軽く、薄い笑いを浮かべることにする。そうでもしないと、魔法は簡単に解けてしまう。
 くらげから人間に変わる魔法が。
 案の定、指先がどろりとちょっぴり溶けてステアホイールが濡れていた。慌てて拭いて戻れ、戻れと念じて、最後の一本になったミネラルウォーターを半分飲み干す。
 車の流れが一段落して快適になった道を下り、何の変哲もない住宅街の、何の面白みもない鉄骨アパートの二階。いくら日焼け止めを塗り直しても多少は焼けてしまう腕が痛くて、夕食より先にシャワーを浴びる。いつもより低い温度で。湯船に浸かる時間が惜しくて、徐々に温度を上げてぬるま湯で全身を洗う。
 あーあー、と小さな呆れ声が聞こえた。
「カラスの行水って言うんだよ、ちゃんとお湯に入らないと疲れちゃうんだよ、人間のからだは」
「痛いし時間かかるんだって。食べたらすぐに寝るから」
「食べてすぐに寝ると牛になるよ」
「あのね……」
 タオルを頭に引っかけたまま脱衣所から出る。キッチンの棚の上に乗っかった水槽を上から覗き込んだ。
「なにさ」
「お小言は要らないって、いつも言ってる」
「ものを知らないイオの手伝いをしてあげてるんだけどなぁ」
 かぱ、と小さく口を開けて、手の平サイズの亀がこちらを見上げている。
 彼―彼女、かもしれない、性別の見分け方は知らなかった―は、本当に仕方なさそうにことばを続けた。
「湯冷めするから早く拭けば。亀も珍しく腹ぺこになりましたよ」
「はいはい……」
 野菜くずを冷蔵庫から出して水槽に入れてやる。相棒は待ってましたと言わんばかりに、首をにゅっと伸ばしてレタスの芯にかみついた。
「それで、イオは今日、何を食べるの」
「パスタ。レンさんが、冷製パスタも美味しいって言ってたから、作ってみようと思って」
 作り置きをしていたソースに、レンさんからもらった夏野菜を和える。氷水できゅうとしめた麵に、オリーブオイルが多めのソースを絡めて、残り物で大豆のサラダを仕上げる。
 部屋にテレビはないのでラジオをつける。今日は、応援している三人組のバンドがメインパーソナリティーを務める番組がある日だ。
「ずうっと好きだねえ、その歌手。この前赤い服になったんだっけ?」
「赤い服? あぁ、還暦ね。そう。大先輩だよね」
「人間の」
「生き物の」
 小さい声で言い返す。亀の声はおれにしか聞こえないから、あまり大きく騒ぐと、一人でぶつぶつ喋っていると隣部屋のひとから思われてしまう。
「人間、ねぇ。いつもは疑ってるくせに、好きな人たちと一緒がいいんだねぇ」
「……疑いたくて疑ってる訳じゃないし」
 生物学上はヒトであることに間違いはない。だけど、どうしても不思議に思ってしまうことって、「ふつう」のひとにはないんだろうか。
 おれはずっと、自分がひとであることに確信が持てないでいる。
 変身の魔法をかけられた、くらげなんじゃないかと思っている―馬鹿げた妄想だと思われても仕方のない話だろうけど。
 小さい頃からこう思っていたのかどうか、おれにも分からない。おれには過去の記憶がほとんどないのだ。漂着したゴミと共に海岸に寝っ転がっていたところを、レンさんから見つけてもらってからが、大沢イオの人生の初まりだと言っても良い。
 あちこちがずきずき痛くて動けない中、ひび割れた声のおじさんが真っ青な顔で駆け寄ってくるのが見えたんだ。
「身分証もないし、何も覚えてないんだろ。俺んとこ来るか」
 レンさんはそう言って、色々な世話をしてくれた。おれはこれからどうすれば良いのか分からなかったから―病院はいつも込んでいて、ずっといて良い場所じゃないことだけは分かった―レンさんの言葉に素直に頷いた。
 おれは、学校、という場所に行く年齢はぎりぎり越していたらしく、レンさんの工務所に住まわせてもらうことになった。雑用をしながら過ごすうちに、ぼんやりと、自分のことが分かってきたのだった。
 記憶喪失とは言っても、周りの人たちの会話も、ものの名前もある程度分かる。いわゆる日常生活に必要な知識はある。だけどそれは、初めて触るものでも触り方が分かるから触る、自分の頭の中にある知識を確認する感じがした。行動を起こしてから「これで合ってたんだ」と実感する、というか。
 だけど周りは皆、ものや人や場所を、記憶で理解していた。いつ、どこに、だれと、どんなふうに。
 おれにはそれらが一切なかった。思い出がない人間なんているだろうか。
 おれは、ひとじゃないんじゃないか。
 そう思いはしても訊けなかった。レンさんに。奥さんに。今の若社長の息子さんに。
 さてこの感覚をどうしようと思いながら、レンさんと息子さんの散歩に付き合って、砂浜を歩いていたときだった。
 そこで―打ち上げられた、ビニール袋のような生き物を見た。
「おぉー。立派なクラゲだな、こりゃ」
 毒があるから触るなよ、とレンさんは忠告しておれたちを招き寄せた。
 くらげのかさのふちは青く、細長く伸びているぴらぴらしたものは赤っぽかった。
 ここにも流れ着くのか、と呟いた息子さんに、レンさんはただ頷いた。
「少ないと良いんだけどな、こういうの。毒あるっつっても生き物は生き物だもの」
 おれも息子さんに続いて顔を近付けた。透けてくしゃくしゃっとしわが寄っているところもあって、その質感からは、生き物らしさがあまり感じられなかった。
「レンさん。海に返しても駄目なの、これ」
「だろうな。もう生きてねえもん」
「ふぅん」
 立ち上がって、先に行っていた二人を追いかけようとしたとき。
「……よ」
「ん?」
 とがった音の声がして、足を止めた。
「……逃げたくせに、よく言うよ」
「え? え、あ、おれ?」
 耳をそばだててみると、確かに声は足下から聞こえていた。
「良かったな。自分は陸の上から高みの見物が出来て」
 声は、打ち上げられたくらげから聞こえている。
 慌ててしゃがみ直した。なに、と小さく声をかけると、触手の先がわずかに動いた気がした。
「くらげから人間になりたいなんて願ったのはお前くらいなもんだから、様子を見てやろうと来てみれば。なかなか元気にしてるじゃないか」
「くらげ……人間って、どういう」
「覚えてないのか。それも仕方ないけどな。何にせよ、お前が逃げ出したことに変わりは無い」
 くらげはそれきり、動きもしゃべりもしなくなった。完全に、海に戻れなくなったのだ。
 付いてこないおれを不思議に思ったのか、二人が呼びかける声が聞こえた。
 おれは額から吹き出した汗をぬぐって、すぐに戻った。


******


「……また、夢を見たんだね」
 電気もつけずに起き上がったおれに、亀がひっそり話しかけてくる。初めてくらげの声を聞いたときの夢を、今でもたまに見るのだった。
 キッチンまでふらふら歩いて、そのへんにあったコップに水道水を注ぐ。キッチン用の小さい電気を付けると、珍しく亀が水槽のふちまで昇ってきていた。
「落っこちる。危ないよ」
「きみがすごい顔色なのだから、流石に心配するよ。どう、眠れそう?」
「さぁ……」
 身体じゅうから流れ出た水分やよく分からないぬるぬるで、シーツもタオルケットもべしゃべしゃになっていた。
 くらげの分泌液は、海をきれいにしたり他の生き物の餌になったりするらしい。けれどおれのこれは、何の役にも立ちやしない。とりあえず敷き布団はテーブルとイスに引っかけて、タオルケットを洗濯機に放り込んだ。
 大きめのバスタオルを何枚か引っ張り出して、何とか寝られそうな環境を整える。今日はそこまで寝苦しい暑さでもないし、数時間は眠れるだろう。
「……ねえ、亀。君は他の生き物の声も聞こえるの」
「亀はイオとしかお喋りできませんよ。ホームセンター育ちだからね、野生にいる亀よりも、ネオンテトラたちとのほうが上手くお喋りできるかもしれない」
「っはは、そうか」
「イオは海に行くと、まだ聞こえるの?」
「ううん。夢の中だけだ。現実では、だんだん聞こえなくなる」
 夢の中では、様々なくらげたちと出会う。全長が二メートルあるやつ。ぴかぴか光る櫛板を沢山持ってるやつ。ぴょこぴょこ忙しなく動き回るやつ。水玉模様の傘のやつ。
 皆が皆、口を揃えて、逃げた先の生活はどうだと聞いてくる。
 知るかよ、そんなの。おれにはくらげだった記憶はなくて、この変な体質―どろどろになる身体と、生き物の声が聞こえる耳があるだけなんだから。
 と割り切ったつもりでいても、そう何度も聞かれていたら思ってしまうんだ。もしかしたらおれは本当に、くらげだったんじゃないかって。
「気に病むことはないんだと思いますよ、亀はね」
「考えないようにしようってことを考えてるんだから、難しいよ」
 くらげには脳がない。プランクトンの仲間だから。
 それがほんのちょっぴり、羨ましい。
 ひとでいることは嫌じゃない。たぶん。けれど、くらげたちのことを全然考えないでいるなんて出来っこない。逃げたなと、陸から海を見下ろす気分はどうだと、妄想の声がいつまでも追いかけてくるから。
 両腕に頭を埋めて、バスタオルの上に丸くなる。肘のあたりから、ほんのりと潮の匂いがした。


******


 釣りじゃねえこともしてみないか、とレンさんから連絡があったのは、夏の連休が始まる少し前のことだった。
 レンさんが言うには、「今度、孫が来るから下見をしておきたい」場所に行くらしい。要するに運転手を探しているんだろう。若社長は忙しいひとだし、おれも用事はなかったので二つ返事で了承する。
 連休二日目の朝、ミニバンでレンさんを自宅まで迎えに行く。工務所の事務所になっている小屋の前には、見たことのないうきうきした表情でレンさんと奥さんが待っていた。
「ごめんねえイオくん。私たち、仕事を抜けられなくて。お父さん運転もホラ返しちゃったし、ごめんねえ、お礼はたんとするから、お守りよろしくねえ」
「は、はい」
 おれはお守り要員、なのか。
 釣り用のジャケットやほつれたティーシャツではなくて、ぱりっとしたポロシャツ姿のレンさんは、ミニバンに乗り込むと少し小さく見えた。海を前に一人座っているよりシートベルトを締めているほうが小さく見えるなんて、何だか不思議だ。
「休みだってのにわざわざ済まんな。よろしく」
「安全運転で行きますね。……あの、奥さんが言ってた返すって」
「免許よ。今年の更新のときに返したの」
「早くないですか? だってレンさん、まだ」
「ヒヤっとすんのが増えたからさぁ。お母さんと話して決めたのよ。息子に送り迎えもしてもらえるし。事故は起きてからじゃあ遅い」
「そっ……かぁ」
 どこかで、レンさんはいつまでもレンさんのままなんだって思っていたけれど。
 じわじわと、目に見えにくい速度で、ものごとは変わっていくのだろう。
「で、どうしてまた水族館? お孫さんは釣りに連れて行ってあげないんだ」
「行きたいと言われたもんでな、じいちゃんは断れなかった。釣りは興味ない、だとよ」
「はは、正直者だ」
「イオは行ったことないんか、あそこの水族館」
「そう、ですね。あんまり、ああいうところって好きじゃないから」
 今日は平日だからか、道も水族館も空いている。近くの小学校の校外学習か、同じ帽子をかぶった子供の集団がいる程度だ。
 少々レトロっぽさを感じる受付を通る。館内は狭いながらも丁寧さを感じる佇まいだった。
 地域の生き物を紹介するコーナーや、水域ごとの特徴を解説しているコーナーには手書きのプレートが添えられている。食べ方にのみ言及したプレートもあった。担当者がそれぞれ工夫を凝らして書いているのだろう。つい気になって、どの水槽の前でもまじまじと読んでしまう。
 レンさんはというと、興味が湧いた水槽にだけ立ち止まっていた。石像みたくじっとしているから、ぱたぱた歩き回る子供たちが心なしか迷惑そうにしている。
 特に会話をすることもなく進んでいくと、子供たちの多くが足を止めている水槽があった。円形だったり筒状だったり、他のものとはかたちが異なる水槽が並んでいる。
「やっぱりかわいげのあるもんが好きか、子供は。さっきのカサゴとかホウボウとか、恰好良いし美味そうだったけどな。イオは」
「おれはヒトデとかが良いな」
「テヅルモヅルは」
「……何?」
「こう、こういうのだ。たまにかかるらしいぞ。船に乗るやつから聞いたことがある」
 青っぽい照明の下でふよ、ふわ、と動き回る白いもこもこ。紫外線ライトの下で小さく光るラグビーボール。絡まないのが不思議な、おれの身長と同じくらいの長さのしらたき。世界中の海からやって来たくらげの展示に、子供達も、レンさんも、見入っている。
 不規則に動くさまはいかにも無邪気そうに見える。脳がないから悩みや不安もないように見えるんだろうか。そんな生き物が流れに身を任せて漂う姿に癒やされる、というのは、変な感じだ。動物というより、きれいな植物を見るときの感覚に近いのかもしれない。
 レンさんは水槽に更に近づいてくらげを観察している。子供達も興味が勝ったのか、今度はレンさんを邪険にはしなかった。
 おれは水槽を直視できず、ぼんやりと通路をめぐる。水槽がない壁にはくらげの身体の構造が図解されたイラストが掛けられていた。
 半透明な傘をゆらゆらさせるみずくらげは、くらげの中でもメジャーな種類だ。こいつらの寿命は一、二年。ただ、くらげの増え方はほ乳類とは違う。だから寿命も、あってないようなものだったりして。
 くらげの記憶力が良いとも聞いたことがないので、もしとても長生きだとしても支障はなさそうだ。忘れたくても忘れられないことやとても悲しいことも分割して忘れて、すぐに安全に暮らしていけるようになるのかもしれない。
 哺乳類や他の生き物と比べたら、ないものばかりにも思えてくるけれど。規則的にぴょこぴょこ動くのは、人間の拍動と同じことなのだそうだ。
 人間も、くらげも。
 生きているから、どきどきする。
「大体見終わったか?」
「うっ……っわ、びっくりした。見終わりました。レンさんは? 予行練習ばっちり?」
「うん。孫は俺に似てるから、一人で楽しむと思うな。杞憂だぁな」
 それじゃあ予行練習も何も、二人で遊びに来ただけじゃないかと突っ込みを入れたいのをこらえて、出口ゲートへ向かう。土産物ブースに寄って「お母さんに買う」と真剣な面持ちでお菓子を物色しているレンさんが面白い。「良いのよ、買わなくたって!」って、奥さんならあの調子で言いそうだけど。
 おれは何も買わずに、キーホルダーやぬいぐるみのコーナーを見て回る。すると、「ほれ」とレンさんから小さいビニール袋を押しつけられた。
「今日の礼だ。手ぬぐい。釣りの時にも使えるだろ」
「え! あ、ありがとうございます、わざわざ」
「無理に誘って悪かったな。具合悪かったんじゃないのか」
「具合?」
「クラゲんとこ居たとき、すげえ顔だったぞ。吐きそうっちゅーか。帰りの運転できそうか?」
「……あー……。いえ、大丈夫です」
「無理はするなよ。急ぐ必要もない」
「……はい。無理も無茶もしてませんよ」
「そうか。ほら、近頃は建物の中にいても熱中症になるって言うだろ。気を付けろよ。飲み物足りるか」
「だ、大丈夫ですって」
 土産物ブースを出て駐車場に向かいながらも、レンさんの言葉は止まらない。心配されている安心感と申し訳なさと、騙しているような罪悪感とで、おれは一つも言葉を出せなかった。
 自分の息子より若い子供に迷惑をかけた、とレンさんは思っているのだろうか。迷惑をかけているのは、おれのほうなのに。
 自分の中の、言葉にならない気持ちのどろどろが身体の表面に溢れ出てくるのを、おれは首を横に振って押しとどめるばかりだった。
 やはり顔色が悪いようだから、と、エアコンをつけた車内で休憩してから出発することになった。レンさんはどこからともなく塩飴と穀物クッキーを二人分取り出す。
「ほら。塩分補給もちゃんとしろよ」
「ありがとうございます。てかこれ、見たことないけど……美味しいの?」
 クッキーの袋には、すごく安っぽいフォントで「おいしいクッキー!」と書いてある。いまどきのセンスと正反対の道を爆走しているデザインに、少し疑問を感じてしまう。
「おお、美味いぞ、何たってレーズンも入ってっからな」
 半信半疑で口に入れてみれば、レーズンやくるみ、麦の大ぶりな粒がほろほろと崩れてきた。かといって粉っぽい感じはしない。水分は多少持って行かれるけれど、うん、おいしい。昼食にはまだ早い時間の、少しだけ空いた腹の隙間に、ごつごつしたクッキーがちょうどよく収まった。
「……よし。行きますよ、シートベルト、締めてね」
「はいはい」
 太ももに落ちたクッキーのかすを外に払って、アクセルを踏む。レンさんの手にはまだ開けていないクッキーの袋が握られていた。かさり、音がして、袋は左ポケットに消える。
「―しかしよぉ。待遇が違うよなあ」
「いきなり何の話?」
「くらげよ。片一方は邪魔者扱いで、もう片一方はアイドルで」
 なんでだろうなぁ。
 といったきり黙ってしまったので、レンさんにとって独り言の延長みたいなものだったのだろう。
 けれどおれにとってはそうではなかったらしい。
 くらげの水槽を直視できなかったのは、いたたまれなさ、逃げたなと恨みを突き立てられている感覚、そのせいだったのだと今になって気付く。
 ひとであることをいくら疑っても、おれはくらげにはなれないのだ。彼らを仲間として見ることができない。人間にとって価値があるかどうか、でしか見られないのはきっと、ひとに馴染んでいる証拠だ。
「イオ、何した。やっぱり具合悪いのか」
「なんでもない」
「何でも無いって、何でも無えことはないだろお前」
「だからなんでもないってば!」
 指先や髪の毛の先が溶け出すのはまずい、と抑えようとしたら、目と鼻から水分が一気にどばどば流れ出してきた。何だこれ。運転していたらいきなり号泣し始めるなんて怖すぎるだろう。レンさんが動揺しているのが空気で分かる。車は止めたくない。最悪、立ち直れなくなりそうだ。無理をしてでも運転しないと。
 今日はレンさんのお守りを任されたんだから。あ、でも、前が全然見えない。安全運転って言ったのに。―おれが意地を張ったせいで事故るなんて、それこそごめんだ。
 車道も歩道も広くなっているところで停車する。ダッシュボード下に入れているティッシュで顔をぬぐうけれど、特に鼻から出てくる水分は止まる気配を全く見せない。安物のティッシュでこすれて、目元も鼻も痛い。水分が滲みてくる。レンさんもティッシュを次々と手渡してくるけれど、追いつかないと思ったのか、おれにさっき渡してくれた手ぬぐいを開けようとビニール袋を掴んだ。
「待ってレンさん、それは使いたくない」
「四の五の言っていられる状況かよ」
「いやでも、」
 レンさんからのプレゼントが開封即鼻水まみれは、ちょっと、いやすごく嫌だ。
「こういう体質なんです、仕方がないってことに……って、痛って!」
「んじゃま、取りあえず突っ込んどけ」
 ぶっといこよりにしたティッシュを鼻の穴に突っ込まれる。
 顔じゅうをぐしゃぐしゃにして到着した工務所で、案の定奥さんをものすごく驚かせて、連休二日目は終わりを迎えた。

******


 次の日は亀を連れてドライブをする予定だった。
「目んたま腫れているけど大丈夫?」と、亀はわざとらしく聞いてくる。亀なりの心配なんだろうけれど、「大丈夫?」と言いながら朝ご飯を無心でむさぼっているものだから、いまいち説得力がない。
「誰かに会いに行くんでもないんだし、大丈夫じゃない」
「む。コンビニエンスストアの店員をびっくりさせはするだろうけれどね」
 一日中家にいる亀は、おれがつけるラジオや日中聞こえてくる外の物音から言葉を覚えている。らしい。ペット入店可のコンビニでも、亀と一緒に入るのは少し気が引ける。だからそうした店に連れて行ったことはないのだけれど、どうやら亀は、コンビニとファミレスに対して格別の憧れがあるようだった。
「今日も朝ご飯を買いに寄るんでしょう、コンビニエンスストア。亀はオレンジ色の看板のところの飲み物が好きだよ、透明で中が見えるから」
「最近はどこもそんな感じのパッケージになってるよ」
「ほ! 本当に」
「うん……」
「どうして教えてくれなかったの」
「そこまで執着してるとは思わなかったよ」
 ぶつぶつ、まだ何かを言っている亀を深めのタッパーにうつしかえて、保冷機能が付いたバッグに入れてやる。今日は酷暑にはならないと天気予報で言っていたので、暑さに参ってしまう危険性はないだろう。
 気ままに車を走らせるだけではガソリン代のことを考えてしまうので、いちおう目的地は決めている。レンさんといつも「糸垂らし」をしている場所より北側。海水浴場やリゾート型宿泊施設もある、より大きな海岸沿いの町だ。
 亀はなぜか、この町で一番大きな市場と一体化した産直を気に入っている。最初に連れてきたのはおれじゃなくてレンさんらしい。というか、亀の元の飼い主はレンさんの息子なのだ。でかくなったら可愛くなくなるなあ、と心ない言葉をかけるので、危機感を覚えたレンさんがおれのところに連れてきた。息子さんの見立ては外れて、可愛いかはともかく、亀はほとんど大きくならなかった。
 その頃にはもう、おれは工務所への居候はやめていた。いつまでも世話になるわけにはいかないと直談判したところ、住む場所と働く場所を斡旋してくれて―レンさんがその頃すでに引退を考えていたと息子さんから聞いたのは、つい最近のことだ。
「良いですか、イオ。まずはあの商店のキャベツです。仕入れ先の農家さんが変わっていなければ、歯触り、香り、味、どれをとっても五つ星なのはあそこ以外にありません」
 保冷バッグから顔をのぞかせた亀が、口でおれの手首あたりをつまんでくる。言われなくても、と足早に進む。亀と一緒に回るのは野菜を売っている場所だけだ。食堂が多いコーナーは牛肉や豚肉の匂いがするし、魚市場のコーナーは、発砲スチロールに入った魚を直視できない。
 ずっと、肉も魚も苦手だ。見るのも食べるのも。
 亀が指名した店は値段もお手頃なので、キャベツ以外にも色々と買ってしまう。普段買い物をするスーパーでは見かけない野菜もあるし、ついつい手が伸びる。規格外品や傷ものは特に。
「それよりもあっちのにんじんのほうが良さそう。あとは……あれ! 赤い大根みたいな! 深紅のスープを作る材料の、あれもきっとイオ、食べたことないから」
 市場の喧噪にかき消されてか、亀の声に驚く通行人はいない。深紅のスープが何なのかは分からなかったけど、とりあえずカブの仲間らしきそれも買い物かごに放り込んだ。夏場の気温でだめにする前に、冷凍できるものはあらかたそうしてしまおう。亀もかごを見てふすふすと鼻を鳴らす。
 精算を済ませて、産直の方へ回る。市場と産直、どちらもあまりにも大きいので、一旦駐車場に戻って車を移動させた。
 まだ午前中も早い時間だというのに、駐車場はほぼ埋まっていた。タイムサービスの札が貼られた品物を抱えてほくほく顔の客の姿も多い。
 太陽の熱を首筋に感じつつ、冷房へ逃げるように自動ドアをくぐる。
 入ってすぐのところにあるガラス張りの売店でソフトクリームを買った。とても亀には食べさせられない(亀は悔しがる)けど、ここのブルーベリーソフトは別格だ。値段も格別なので、ごくたまにしか買わないけれど。実や皮の、つぶつぶした青いものが入っているところも、少し固めで溶けにくいところも、甘さが控えめなところも、どこをとっても百点満点だ。
 美味しいのにすぐなくなってしまうのが惜しいから、できるだけゆっくり食べる。溶けるぎりぎりを狙って、プラスチック製のスプーンでちまちまと掬っていく。
 朝っぱらからアイスやお菓子を食べる人はいない。観光客らしき集団は土産物の物色に夢中だし、地元の人たちはタイムセールや日替わり品をまず先に見るようだ。
 自然と一人になった売店近くのテラス席で、他の人間に声を聞かれる心配はないと思ったのだろう。亀がバッグのふたをめくって、きょろりと辺りを見わたした。
「犬も猫もいないと、落ち着いていられるねえ」
「そう? ワニがいる訳でもあるまいし、亀を食べるペットの話なんて聞いたことないよ」
「違うよ、イオがだよ」
「おれ? 落ち着いてる?」
 首を突き出して、神妙な動きで亀が頷く。
「無意識だったんだね、出かけるとき、いっつもイオは避けてるよ、犬も猫も。自分から触りにいったこと、ないでしょ」
「それは、……確かに、そうかも」
「難儀だねえ。あ、小指のとこ、溶けてる」
 慌てて溶けたアイスをすくい取る。いや、何かの動物を怖いと思ったことはないんだけど。それも―くらげのなごり、影響だったりするのだろうか。
 黙々とスプーンを口に運び、しっとりと湿気たコーンにかぶりつく。溶けたクリームがついていない部分を割って、亀にもお裾分けしてやった。
「ね、イオ」
 器用に前足とバッグのふちでコーンのかけらを抑えて、亀はこちらに首を傾けた。
「ん?」
「亀はね、イオがひとで良かったな、って思うなぁ」
 じくり。こめかみから喉を伝って心臓まで、締め付けられたような感じがした。
 ソフトクリームが冷たいから? 冷房で身体が冷えたから? どれも違うけど、手が震える。
「イオとドライブをするのも、部屋でイオとお喋りするのも、なかなか悪くないよ。レンさんも、あのばか息子も、おなじく思ってるんじゃない。言わないだけでさ」
「急に何の……話」
「このコーンがとても美味しいからそう思ったよ。だってイオがくらげでも亀でも、こんなふうに分けっこできないから。イオがひとで良かったなあ」
 ひとで良かった。
 おれは心からそう思ったことが、あっただろうか。
「どうしてもくらげがいいって言うんならね、流れ星に三回お願いしてみるのもテだと思うけどね。けっこう、ひとも楽しいと思うよ。美味しいものも食べられるし。たくさん」
「……食いしん坊だなぁ」
「うん。亀だからね」
「亀ってたいてい、ものすごい知識を持ってるんじゃないの。こう、教え導く感じの」
「そういう亀はちゃんと万年生きた亀だよ、年の功を積んだ、ね。亀はまだ四歳くらいだから無理です」
「そうなんだ……」
 亀の言うことがあんまり気が抜けているから、こちらも脱力してしまう。震えていた手も、ごつんとベンチのふちにぶつかった。
 なんだろう、この、考えてたことが何もかもどうでも良くなっちゃって、だけどそれが心地いい、この感じ。この亀のほうが、おれよりずっと、くらげみたいじゃないか。
 液体になって底に溜まったソフトクリームをすする。しなしなのコーンを囓って立ち上がる。また来た、と言ってくる店員の目線に負けず、おれはソフトクリームをもう一個注文した。ただしコーンは別にして。焼きそばや焼き鳥を入れる透明なパックに、ソフト部分を入れてもらった。これは箸で食べよう。
 麵をすするみたいにそれを平らげて、おれはすぐに車に戻った。買いたいものは買ったし、アパートに帰ろう。ゆっくり、のんびり、寄り道をしながら。
「亀、亀。まだお腹空いてる?」
 ぺろりと保冷剤のバッグをめくって、手つかずのコーンを投げ入れる。助手席に置いたとたん、亀はひょこりと首を出した。
「空いているかどうかというと普通だよ、でも食べないのかと言われたら喜んで食べます、亀はもらった食べ物を離さない、そんな空腹だね」
「……うん。それ、あげる」
「どうしたの? 太っ腹だね」
「そういう気分のときもあるじゃん」
 亀はありがと、と短く言うと、いそいそとバッグの中に戻った。かさりかさり、音がしているから、コーンを割っているのかもしれない。
 エアコンが効き始めるまでのあいだ、窓を開けて熱をもった空気を入れ替える。最大出力にしたエアコンの風で、前髪がぱたぱた揺れた。
「……亀はさ。仮の話としてさ。おれがひとじゃなくなっても、そんでも同じように話とか、してくれる」
「んん、何か言いましたか。エアーコンディショナーがうるさいです」
 亀はもう顔を出してこない。食い意地が張っているのが、今は少し、有り難い。
「おれが、もしも人間じゃなくなっちゃったらどうすんの、って」
「どうもしない。だって、イオはイオだよ」
「…………」
「それとも、亀に言って欲しいのですか。おまえはどっちつかずの半端者で、どこに行ってもひとりぼっちだって。ひとでもくらげでもなくて可哀想ですねって」
「ち、っが」
「家族を心配するのは、そうでしょう」
 かさり、かさり、コーンの音が小さくなる。窓を閉めて、エアコンの強度を弱めた。
「亀の時間に比べて、人間の時間は忙しない。くらげの時間はもっと短いんでしょうね。中途半端なままで過ごすこと、人間の時間のイオは、怖いんだね」
 亀だったら、ゆったりと思案して。くらげだったら、そんなことにかまけている時間なんてないくらい、一生が短くて。
 だからほら、やっぱりイオはひとなんだよ、と、亀はぽくぽく笑う。
「話し相手に選んでくれるのはとても嬉しいよ。でも亀だけじゃ不十分」
 分かっているでしょう、と、訳知り顔の音で亀は言う。
「喧嘩でないのでこの言い方で合っているのか分かりませんが。仲直りですよ、イオ」
「……うん」
 明日、レンさんに会いに行こう。
 おれは小さく頷いた。


******


 連休最終日の朝、おれはいつもの港へ行くことにした。
 昨日は行こうかどうか迷っている内に行けずじまいになってしまったのだ。さすがに亀からも、愛想を尽かしたように「イオのそういうところはイオという感じですよね。ここ一番が決まらないですねぇ」と言われてしまった。
 その代わり、普段はできない掃除や料理に時間を割いた。おかげで築四十年のアパートのシンクと風呂場は、新築みたいにぴかぴかになったけど。
「来たか。お早う」
「おはようごさいます。……あの、レンさん」
「うん。まぁ座れ。突っ立ってっと魚も逃げる」
 おとなしく隣に腰掛ける。準備もせずに水面を眺めているおれを、レンさんは放っておくことにしたらしい。横目で一度見たきり、話しかけてくるそぶりはない。
 だから、この沈黙に耐えきれず口を開いたのは、おれだった。頭を下げ、水面を見る。
「水族館の帰り、その……すみませんでした」
「ん。気にすんなや。お母さんには泣かせんなって怒られたがな。イオのことだから、なんか事情があるんだろうっつったけどよ」
「っほ、本当にごめんなさい」
「いやいや、具合悪いんでなかったんなら良い。……辛いこと思い出すのもあるだろ人間だもの。その時々よ。人それぞれだ」
 人間だもの、という言葉に、肩が揺れてしまった。気付かれただろうか。確かめたくなくて、水面から視線を外せない。
「…………ニュース」
「ん?」
「くらげの、ニュース。また出ましたね。大量発生の」
「……みたいだな。当たり前になっちまえば大騒ぎもしないんだろうが、そういう訳にもいかないんだろな。難儀なこった」
「……レンさんは、くらげ、食べたことあるんだっけ?」
「ない。近所のやつが食った話を聞いただけだ」
「そっか。じゃあ」
 話してみよう。
 少し怖いけれど、怖がったままでもいられない。
「くらげのこと、どのくらい知ってる? レンさん、ここでの釣りばっかで、ああいうのがよくいる場所には行かないでしょ」
「知ってる、ねえ。知ってるも何も、全然……。あの展示、水族館のクラゲの見て成る程と思ったな。面白い動物だなぁってよ。まぁ、見ても光るか丸いか長いかしか分からんね」
「動物……というか、厳密にはプランクトンなんだ、くらげはさ。研究でもまだ分かってないことが多いんだ。食事もね、別の種類のくらげを餌にするのだっているんだ。知ってた?」
「そんなのも書いてあったかもなぁ」
 ちゃぽん。一度、針を確認したレンさんの糸が、また投げ込まれる。おれはその波紋をじっと見た。
「プランクトンだからさ、ただ水流に乗って浮かんでるだけ。でもさ、それでも、自分の仲間と餌になるやつとの区別はつくんだって。不思議だよね」
「そりゃ、脳みそ以外のとこで分かってるんだろうなぁ」
「…………え。だって、何もないんだよ」
「身体はあるし、透明でもいるのが見えるんだから、どっかに分かるところもあんだろ。ひょっとしたら、クラゲはあの身体全部が心なのかもしれんな」
「……」
「どうした黙って」
「……レンさんが、あんまり面白いこと言うから」
「そうか? 言うだろ、よく。人間の身体ってのは、脳みその言うことだけ聞いて動いてるんじゃないんだって」
「分かんないよ……」
 だって、くらげは何も考えてないんだよ。そんなら身体が全部心だなんて、一体どういう考え方だよ。
 その身体だって、死ぬときは溶けて形がなくなってでろでろに崩れるじゃないか。勝手に意味を持たせたがるのは人間だ、くらげじゃない。くらげの生き方に心引かれるのは人間で、くらげじゃない。
「……クラゲは増えたくて増えてるんじゃないって、イオ言ってたよな」
 名前を呼ばれ、おれは恐る恐る顔を上げる。竿を引いて手を止めたレンさんが、こちらを真っすぐ見ていた。
「俺にはクラゲの気持ちは分からんけど、まぁ、その通りなんだろうな。んでよ、同じクラゲでも待遇違うのもそうなんじゃねえかなって、あの後思ったのよ。自分がああしたいこうしたいっつっても、まるまま叶うわけもないさ」
「……うん」
「だから、糸垂らしが必要なんだ」
 糸垂らし。釣り、じゃなくて。
 波立つことのない、静かな。
「釣りたいって思うのは大事だわ。でも意気込みすぎると逃げられるし、興味ない振りすんのも上手すぎると近づいて来ない。引きが来たら駆け引きしないと釣れないだろ。でもな、まず、まずは、糸を垂らさんと始まらないんだ」
「始まらない……」
「目の前で起きてること、結果ってのが思った通りでなかったらまたやればいい。理由を考えて、工夫して。色々分からんかったら知ってる連中に訊けば良いのよ。手遅れなんて、ないからよ」
 毎回新しく始めるんだから、遅れるってないんだ。
 にかりとレンさんは笑って。またぽちゃりと、釣り糸を水中に戻す。
「―レンさんも、じゃあ、手伝ってくれますか」
 まだ手遅れには、なっていないだろうか。
 ひとでいるには分からないことだらけで、妄想の声に悩まされているおれでも、まだ。
 くらげの話をしても、レンさんは―おれの周りのひとたちは、笑わずに聞いてくれるだろうか。
 おれは、聞いてほしい。話したい。釣り糸を垂らすためだけの、勇気を出したい。
 右手を拳のかたちにした。指先から落ちそうになっていた水滴を握り込むように。
「何だあ。俺が手伝えることだったらやってやる。暇はあるぞ、金はなくても」
「―じゃあさ。今度、また大量発生が起きたら、それ見に行こう。誰よりも早く」
「一等賞か! っはは、分かった、約束だな」
 ありがとう。お礼を言って、おれも釣り竿の用意にかかる。
「ところで、イオ」
 とレンさん。
「亀、元気か?」
「んー? ……うん。すごく、ね」
 そうか、とレンさんは頷く。糸を垂らす一日がまた、始まった。

くらげと釣り糸

くらげと釣り糸

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-10-09

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