404号室

一章 ぼく

 うちのマンションの壁はうすい。
 その分、家賃が安いから、あんまり文句は言えないんだけど、壁がうすいせいで隣の部屋の声がよく聞こえる。しかも住んでいるのは同年代の男女で、喧嘩ばかりしているから、余計にいらいらしてしまう。そんなに仲が悪いなら、どうして同棲なんかするんだろう。疑問が浮かんだが、恋人どころか友だちすらいないぼくにわかるはずもない。
 まあそれはともかくとして、進学を機にひとり暮らしをはじめてから、隣の部屋の声に悩まされてきたことは事実だった。うるさくなったらヘッドホンをつけてやり過ごしてきたけど、二か月も経つとそれだけでは耐えられなくなってきていた。

「これは、友だちから聞いたんだけど」
 みんなで怖い話をする会に参加したのはちょうどそんなときだった。
 ぼくは食堂の隅のテーブルで、クラスメイトの男子が話す怪談を聞いていた。
「そいつ、徹夜で麻雀してさ。始発で帰って、そのまま倒れるように寝ちゃったんだ。
 目が覚めたら夕がたで、いつの間にか部屋のなかは暗くなってた。
 ふと廊下を見ると、トイレの扉から明かりがこぼれてることに気づいた。
 朝、消し忘れたんだと思って、しまった、電気代がもったいないって、そいつ、あわててトイレまで行って、扉の横のスイッチをパチンって消したのね。
 そしたらトイレから、
『ちょっと、消さないでよ』
 って女の声がして。
 あ、ごめんってまた点けたんだけど、おかしいんだよ。だってそいつひとり暮らしで、部屋には誰もいないはずなんだから。
 もうびっくりしちゃってさ。しばらく布団にくるまって震えてたらしい。
 でも、いつまでもそうしてるわけにはいかないから、近所に住んでた仲間を呼んで、みんなで扉を開けたんだ。
 もちろん、誰もいなかった。
 だからそいつが寝ぼけてたんだって決めつけようとしたんだけど。
 トイレの床には、女の長い髪の毛が、何本も何本も落ちてたんだ」

 怪談が終わり静かになると、外の雨が強くなった気がした。
 昼休みのあとの食堂はさっきまでの混雑が嘘みたいに、ぼくとクラスメイトたちの六人以外、誰ものこっていなかった。あちこち放置されたオレンジのトレイがやたらと目を引いた。返却口で食器が重なる音がやけに大きく聞こえた。
「え、すごい。ちゃんと怖いじゃん」
 三人並んだ女子たちの中央に座する長谷川美樹が、真面目な顔してつぶやいた。それからこらえきれなくなったように小さく吹きだす。怖いと言いながら、それを笑いながら、彼女の目は好きな食べものを前にした子供みたいに輝いていた。
「その話、初めて聞いたかも。おもしろいね」
「いやあ、本当におもしろかったよ。やるじゃん」
 ぼくの隣の山﨑健太が日焼けした腕を組みながら、わざとらしくうなずいた。その奥で語り部をつとめていた小林洋平が、海外ドラマの登場人物みたいに両手を広げた。
「どういたしまして。楽しんでくれたならよかった」
「ほんとに怖かったあ。夢に見ちゃいそう」
 新田和香が舌足らずな口調で言いながら、両手で頬をおさえ目をしばたたかせた。ぼくの正面の中村ひとみはそれを見て鼻白んだ表情を浮かべたが、すぐにとりすました顔に戻ると、小林をねぎらうように言葉をかけた。
「話すのが上手なんですね。引きこまれました」
 ぼくも何か言おうとしたけど、何を言うべきかわからず、結局黙っていた。クラスメイトがこちらに目を向けることもあったが、ぼくが笑っているのかいないのか、よくわからない表情を浮かべていると、深追いすることなく会話に戻っていった。そのたびに、ぼくの胸のうちでは、安堵と焦りが溶けあうことなくぐるぐると渦を巻いていった。

 みんなで怖い話をする会。
 山崎が中心になって企画したその集まりにぼくは参加していた。もちろん、最初から誘われていたわけじゃない。直前に男子がひとり来れなくなったとかで、たまたま食堂にいたぼくに声がかかったのだった。
 要は、ただの人数合わせ。
 それでもぼくにとっては、クラスメイトと話せるまたとない機会だった。

「じゃ、次はおれの番だな」
 それからは山﨑と小林が交互に怖い話を披露していった。
 ちなみにみんなで怖い話をする会と謳いつつ、女子は聞く専門で、怖い話をするのは山﨑と小林のふたりだけだった。
 まるで、女王と侍女たちに芸を披露する道化たち。
 ただ、山﨑は主催のわりに怖い話が得意ではないらしく、たどたどしい語りで盛りあがりに欠けた。小林も語りはなめらかなものの、最初のトイレの話以外はどこかで聞いたようなものばかりでオチが読めてしまった。
 しかも最後に山﨑が披露したのは、怖い話ではなくアダルトビデオに映りこんだ幽霊の写真というきわどいものだった。ホテルで女優が口をつかう背後、ベッドの縁から行為を覗く白い顔にはたしかにゾッとさせられたが、女子から感心されるはずもない。
 みんなで怖い話をする会は、時間が経つほどに白けていった。
「なあ、おまえもなんかないのかよ?」
 急に話をふられ、驚いて隣を見ると、山崎が責めるようにぼくをにらみつけていた。
「怖い話。なんかあんだろ? ほら、おまえ、そういうの好きそうな顔してんじゃん」
 そんなことをいきなり言われても、怖い話なんてできるはずない。この会に参加したのだって、怖い話はしなくていい、ただ座っていればいいと言われたからだった。
 というか、怖い話が好きそうな顔ってなんだよ。
「いや、そういわれても……」
 と、笑って誤魔化そうとしたとき、斜め前の長谷川がこちらを見ていることに気づいた。長谷川もぼくが気づいたことに気づくと、悪戯っぽい笑みを浮かべながら、ノースリーブシャツから伸びた腕を胸の前で組み、テーブルについて身を乗りだしてきた。
「とかいって、本当は何か知ってたりして?」
 長谷川はクラスでもひときわ目を引く美人だ。単に綺麗なだけでなく、顔は小さく手足は長く、もう骨格からして違う。もちろんぼくが声をかけることなんてできないし、周りの男子たちも遠巻きに見てるだけ。
 そんな長谷川が今、食堂のトレイひとつ分の距離までぼくに迫っていた。
 長谷川は無邪気な笑みのまま、期待のこもった目でぼくを見つめていた。そうして見つめられていると、長谷川とどうにかなることなんて絶対にないのに、いいところを見せたいという気持ちになってくる。
「えっと……」
 すぐに浮かんだアイデアはなぜか、
「これは、友だち、から聞いたんだけど……」
 壁がうすい、うちのマンションのことだった。

「友だちの住んでるマンションの壁はすごくうすかった。
 その分、家賃が安いから、あんまり文句は言えないんだけど、壁がうすいせいで隣の部屋の声がよく聞こえた。しかも住んでいるのは同年代の男女で、喧嘩ばかりしていたから、余計にいらいらさせられた。
 友だちの部屋は403号室で、そのひとつ奥だから404号室になるのかな。
 ある夜、友だちが家にいると、やっぱり404号室から喧嘩が聞こえてきた。
 どうしてもめているのかわからないけど、売り言葉に買い言葉で、どんどん声が大きくなっていくのがわかった。声だけじゃなく、床を踏み鳴らす音や、何かが床に散らばる音まで聞こえた。
 ふたりの喧嘩になれていた友だちも、声の大きさや物音から、今日はいつもと違うみたいだと、だんだん隣の喧嘩の行く末が気になりはじめた。
 そのときだった。
 壁ごしに、女の鋭い悲鳴が聞こえた。
 そしてボウリングの球を床に叩きつけたような鈍い音がして、女の悲鳴が途切れた。
 友だちは息をのんで、404号室に耳をすませた。だけど、さっきまでの騒ぎが嘘みたいに、声どころか物音ひとつ聞こえない。
 友だちはそっと壁に近づいて耳をつけた。
 男のほうでも女のほうでもいい。誰かの声が聞こえるのをじっと待った。
 すると——」

 チャイムが鳴った。
 長谷川以外のクラスメイトたちが視線を上げる。音が見えるわけでもないのに、よく考えると不思議な行動だ。それでも、ぼくはあえてつられて同じようにした。
 三限の終わりのチャイム。そして四限は必修科目。
 タイムアップ。
 教室に移動する時間だ。
「で、続きは?」
 長谷川が真剣な顔で問うてきた。
「いや、その、なんというか……」
「なんつーか、タイミング悪いよな」
 隣を見ると、山﨑が苦笑いを浮かべていた。新田もそれにならいつつ、両手はすでに膝にのせたバッグにかかっている。四限の講師は授業の始めに出欠をとる。早く移動したいのだろう。
「えー! おあずけってこと?」
 長谷川が握った拳で軽くテーブルをたたいた。
「でも、今からオチだけ話すのも、苦しいですよね?」
 中村の問いに、ぼくは肯定も否定もせずクラスメイトたちを見かえした。みんな顔を見あわせたが、最後は小林がまた海外ドラマの登場人物みたいに両手を広げた。
「まあ、授業もあるしさ。また次の機会にあらためて聞こうよ」
「おお、そうだな! 次の機会にあらためて聞こう!」
 山﨑がいきなり大きな声で賛同した。なんとなく、次の機会という言葉に反応したことが透けて見えた。
 それでもまだ長谷川は不服そうにしていた。
「ねぇ、美樹ぃ。そろそろ行こう?」
 なだめる新田に、長谷川は鋭い目を向けたが、もはや全員が自分を待っていることに気づくと、荒いため息をついてから肩をすくめた。
「はいはい、わかりました」
 そして、幾分か和らいだ目でぼくを見た。
「続き、楽しみにしてるね」

 それから五限まで授業をこなして、傘を片手に外に出てみると、雨はもうすっかりやんでいた。雲もどこかに消えて、校舎のあいだからは水色の空がのぞいていた。夕がたなのにまだ明るい。梅雨曇りに隠されているあいだに日が長くなっていたみたいだ。
 電車を乗り継いで最寄り駅についたころにようやく日が暮れて、帰宅したぼくは部屋の電気をつけた。そしてシャワーを浴びたり夕食をとったりしてから、ベッドに寝転がって今日の出来事を反芻した。クラスメイトと話したこと。長谷川に見つめられたこと。
(本当は、何か知ってたりして?)
 組んだ腕をテーブルにつき、身を乗りだした彼女の整った顔。肩からこぼれた髪に隠れた、首すじから胸もとまでの肌色。そして、ノースリーブシャツからのぞいた肩のなめらかさも。長谷川に恋人はいるんだろうか。実はああいうタイプほど周りが一歩引いてしまって、誰も手を出していないなんてこともありうる。
(続き、楽しみにしてるね)
 だとしたら、ぼくが——
 そんな妄想は、隣の404号室の扉が開け閉めされる乱暴な音でかき消された。
 玄関と部屋をつなぐ廊下を踏み鳴らすどたどたという足音がしたのち、男女の声が白い壁のむこうから聞こえてきた。
 思わず、ため息がこぼれた。
 もちろん恋人がいなかったとして、長谷川がぼくと付き合うなんてことはありえない。もしそうなっても、こんな部屋につれてこられたらすぐ逃げだしてしまうだろう。隣の音が筒抜けの安い部屋。ぼくは浮いた話をするためのスタートラインにも立ってない。
 歯がゆさに、いらだつ気持ちと同調するように、404号室の男女の声も険しいものへと変わっていった。今日も喧嘩になったみたいだ。どうしてもめているのかわからないけど、売り言葉に買い言葉で、どんどん声が大きくなっていくのがわかった。
 いつもどおりヘッドホンでやり過ごそうとした。が、今日ばかりは経過が気になった。自分はこのあと起きる出来事を知っている気がした。
 いや、そんなはずない。
 そんなはずないという否定をかき消すように、床を踏み鳴らす音が聞こえた。声の大きさは、いつもならとっくに内容が聞きとれるレベルだ。それなのに今日はなぜか、もやがかかったみたいに肝心なところがぼやけた。その声にかぶさるように何かが床に散らばる音がした。そっちははっきりと聞こえるのが不思議だった。
 ふたりの喧嘩になれていたぼくも、声の大きさや物音から、今日はいつもと違うみたいだと、だんだん隣の喧嘩の行く末が気になりはじめた。
 そのときだった。
 壁ごしに、女の鋭い悲鳴が聞こえた。
 そしてボウリングの球を床に叩きつけたような鈍い音がして、女の悲鳴が途切れた。
 ぼくは息をのんで、404号室に耳をすませた。だけど、さっきまでの騒ぎが嘘みたいに、声どころか物音ひとつ聞こえない。
 ぼくはそっと壁に近づいて耳をつけ——ようとして思いとどまり、体を壁から引きはなした。404号室に気どられないようにベッドに移動して、こちらも音を立てないように気をつけながら電気を消した。
 布団を頭からかぶり、うつぶせになって目を閉じる。
「まさかね」
 きっと男のほうが怒りにまかせてつかみかかろうとして、驚いた女が悲鳴をあげ、その拍子に何か重たいものが床に落ちたんだ。そして大きな音がして、ふたりとも驚いて冷静になった。ただそれだけのこと。
 まさかそんなはずない。
 そんなはず——

 翌朝、目を覚ましてもやはり、404号室からは物音ひとつ聞こえなかった。
 こちらも念のため、音を立てないように注意して行動した。一限のない日でよかった。ゆっくり動いて、たっぷり時間をかけて支度して、外へ出た。快晴だった。気の早い蝉が鳴きだしそうなほど、強い日差しがぼくを迎えた。
 だけど、登校しても、授業を受けていても、昨夜の出来事が頭から離れることはなかった。
 隣の部屋から悲鳴が聞こえて、鈍い音がして、静かになった。
 昨日、口から出まかせで話したことが、現実に起きたのだ。
「ねえねえねえねえ」
 午前の授業のあと、昼食を終え、食堂を出たところで、明るい女の声とともに肩をたたかれた。なんの心の準備もしないまま反射的に振りかえると、立っていたのはなんと長谷川だった。驚いてのけぞったぼくを見て、長谷川は目を丸くしてから、口もとに手をあてて笑った。
「ごめん、驚かせちゃった?」
「あ、いや……」
 ぼくは誤魔化し笑いを浮かべた、つもりだったけど、どんなふうに見えたかわからない。きちんと笑えていたか、自信はない。それでもさっきより状況を受けいれられていたぼくは、あらためて長谷川と相対した。
 長谷川は昨日と同じようなノースリーブシャツに、色の落ちたジーンズを合わせていた。爽やかで溌剌とした笑顔の向こう、少し距離を置いたところで、新田が心配そうな顔でこちらを見ていた。
 長谷川が口の横に手を立てて、ぼくに顔をよせた。心臓が跳ねる。追いうちをかけるように、長谷川の甘いにおいが鼻先をかすめた。ハンマーで思いきりたたかれた鉄パイプみたいに、全身がぶるぶると震えた気がした。
「ねえ。昨日の話の続き、こっそり教えてよ」
 昨日の話の続き。その言葉に心臓が跳ねた。
 長谷川はこちらのリアクションを待たず、言葉を重ねた。昨日の話の続きが気になり、どうせ元ネタがあるのだろうとネットで調べてみたが、まったく見つからなかったので、あきらめて聞きに来たということらしい。
「でも、たしか、次の機会にって話だったはずじゃ……」
 ぼくがうめくように口にすると、長谷川はすっと冷静な顔になった。
「いいじゃん、べつに。山﨑くんたちもべつにって感じだったし」
「べつに?」
「怖い話。好きそうじゃなかったし」
 長谷川は顔をしかめながら、手のひらを口の前でひらひらさせた。たしかに下手ではあったが、主催だし好きじゃないということはないんじゃなかろうか。というか、長谷川からもぼくは怖い話が好きだと思われていたのか。思わず自分の頬に手をあてていた。本当に好きそうな顔をしているのかもしれない。
 いや、だからそれってどんな顔だ?
 それより昨日の話の続き。でも、そんなのぼくにもわからない。だって口から出まかせだし、それが現実になったかもしれないのに、布団をかぶって逃げてしまったから。
 どう答えるのがいいだろう。
 悩む間もなく、あるアイデアが浮かんできた。
 まるで、誰かが耳もとでささやいたみたいに。
「あの話……、実は続きがないんだ」
「どういうこと?」
 長谷川が訝しげに首を傾げた。辞書に載せたいぐらいの完璧な角度で。
 ぼくは心底困ったというふうに、頭に手をやり、顔をしかめてみせた。
「なんというか、そのあとどうなったのか、まだ友だちから聞いてなくて……」
 ぼくの言わんとすることを理解するにつれ、水が浸透して花が咲くように、長谷川の顔に驚きと感動が広がっていくのがわかった。
「えーっ! あれって、本当の話だったの?」
「美樹! そろそろ行こう!」
 長谷川は背後からかけられた新田の呼びかけに肩ごしにこたえつつも、まだ興奮冷めやらぬ様子で、ぼくを見る瞳はきらきらと輝いていた。
 その手にはいつの間にか、携帯電話が握られていた。
「ねえ、連絡先教えて」
 ぼくは言葉をなくしたが、すぐに我にかえり、命じられたとおり携帯電話を取りだした。頭のなかの冷静な部分は、このチャンスを逃すわけにはいかないことをよく理解していた。
「友だちから連絡あったら教えてよ」
 大学で誰かと連絡先を交換するのはこれが初めてだった。まさかその相手が長谷川になるなんて思いもしなかった。さすがにできすぎている。日頃のおこないだろうか。たしかに授業をさぼったことはないし、駐輪場に倒れていた自転車を誰に頼まれたわけでもなく直したことだってある。それから——
「あ、というかさ。その友だちに隣の部屋から変な音がしなかったか聞いておいて」
 不意に投げかけられた問いの奇妙さに、ぼくは現実に引きもどされる。
「変な音?」
 問いかえすと、長谷川は携帯電話の画面に視線を落としたまま、なんてことないような雰囲気でぼくの質問に答えた。
「ギコギコとか、ゴトゴトとか」
 そして携帯電話を鞄にしまい、顔をあげると、満面の笑みを浮かべた。
「死体を、バラバラにしてるかもしれないでしょ?」
「え?」
「よろしくね!」
 長谷川は手を振りながら、足どり軽く去っていき、新田と合流して背を向けた。
 ぼくは長谷川の背中に手を振ったまま、しばらくその場に立ちつくしていた。

 その日、授業中も帰り道も家についてからも、ぼくの頭のなかを占めていたのは長谷川への対応だった。
 友だちから連絡があったら教えてと言っていた。もちろん、友だちから聞いたというのは嘘なのだから、そんなもしもはありえない。隣の部屋から変な音がしなかったか聞いてくれとも言っていた。こちらも、存在しない友だちに聞くことはできない。
 つまり言葉どおりにしたがえば、ぼくが長谷川に連絡する機会は永久に訪れないということになる。
 ぼくは自分の部屋の白い壁を見た。
 404号室はあいかわらず沈黙していた。
 手にした携帯電話をぶらつかせながら、ぼくは長谷川の言葉を思い出した。
 ギコギコ、ゴトゴト、バラバラ。
 いきなり気味の悪いことを言いだしたことには驚かされたが、正直なところ、だからといって長谷川に連絡しないという選択肢はなかった。
 静かな壁の前で、ぼくは長谷川へのメッセージを作成した。
「当たりみたい」
 友だちから連絡があったという設定で。
「404号室から、ゴトゴトって音が聞こえたらしい」
 短い文章をためつすがめつ何度も確認してから、ぼくは送信ボタンを押した。

「やっぱりね。そんな気がしたんだ」
 長谷川からの返信はすぐに届いた。
「もし女が殺されたんだとしたら、男は死体の処分に困ると思ったの。犯行そのものが計画的じゃなさそうだし、余計にね。もし車があれば、どこかに捨てに行けるけど、そうじゃないなら、運びやすくするためにバラバラにするかもしれないって」
「なるほど」
 ぼくは相槌を打ちつつ、長谷川の意見に追従する。
「たしかに、友だちのマンションには駐車場がないから、車を持ってる可能性は低い」
「近所に駐車場を借りてる可能性もあるけどね。でも、車を持てるぐらい生活に余裕があったら、隣の部屋に会話が筒抜けのマンションなんかに住まないだろうし」
 隣の部屋に会話が筒抜けのマンションなんかに住んでる身としては、生活に余裕がないだろう点は大いに賛同できる。
「バラバラにした死体は燃えるごみに入れて捨てるのかな」
「そのお友だちは死体の横をなんにも知らずに通りすぎちゃったかもね」
 文末にスマイルマーク。悪趣味さに苦笑いしていると、メッセージが続けて届いた。
「知らぬが仏ってやつ。本当の仏はお友だちじゃなくて死体だけど」
 笑えない。ぼくは指を動かし、返信をつくる。
「でも、カラスが漁ればバレるから、燃えるごみはリスクが高いか」
「回収の直前に出せばいいじゃない? だいたい何時ごろか決まってるでしょ」
「うちは八時」
「早っ! かわいそー」
 ちょうど翌朝は燃えるゴミの日だった。
 気のせいだろうか、カラス除けネットに包まれているゴミ袋の量がいつもより多い気がした。半透明の袋に目をこらすと何かが見えてしまいそうで、ぼくはそれをあまり視界に入れないように気をつけながら通りすぎた。

 長谷川とのメッセージのやりとりはそれからも続いた。
 夜はもちろん学校の授業中も、時に脱線しつつ、時に戻りつつ、メッセージが届いた。ぼくも授業そっちのけで返信した。長谷川の冗談ににやつきながら前の席を見ると、ちょうど長谷川もこちらを見て笑っていた、なんてこともあった。
 これまでは後ろ姿を見ているだけだったのに。
「まだ死体の処分方法は考えてる途中なのかもね」
 メッセージの内容はあいかわらず物騒なものだったけど。
「さすがにもう処分済みじゃないかな。保管する場所もないだろうし」
「そう? 冷蔵庫の中を空っぽにすれば、女の死体ぐらい入らない?」
 ぼくは折りたたまれた死体が冷蔵庫に詰まっているところを想像して身震いする。
「だって、男の家の冷蔵庫なんて、ほとんどからっぽでしょ?」
 偏見の塊みたいな意見だが、自分の部屋の冷蔵庫を思い浮かべると反論はできない。
「もしそうでなくても、それこそいらない食材のほうを捨てちゃえばいい話ね」

「まあ、それもそうか」
 ぼくは心のなかで独りごちてから、シングルベッドで体を起こした。ずっと同じ姿勢で携帯電話にかかりきりになっていたせいで、肩やら肘やらがしびれていた。しびれがとれるのを待ちつつ壁の時計を見る。二時を過ぎていた。
 隣に気どられないように注意しつつ、体を伸ばしながら立ちあがり、握ったままの携帯電話をあらためて見やる。
 これは何かの雑誌で読んだ噂レベルの情報でしかないが、女の子のもとには男が想像する数倍のメッセージが届いているらしい。その記事の結論は、だから女の子からの返信が遅くても焦るな、だったはずだ。
 そう考えると、こうしてテンポよく返信が届くということは、長谷川に優先されているのかもしれない。
 自然と笑みがこぼれた。
 それにしても、雑誌モデルみたいな容姿をした長谷川にこういう趣味があるとは思わなかった。ひょっとして、みんなで怖い話をする会も長谷川の発案だったんじゃないか。だとしたら山﨑たちが不慣れだったことにも合点がいく。おそらく彼らは怖い話に興味なんてなかったが、長谷川の気を引くためにあの会を主催したんだろう。
 ぼくは自分の部屋の白い壁を見た。
 いきなり怖い話をしろと言われたときは動揺したし、即興で話を考えるのは数学の試験よりも疲れた。そのうえ、無理やりひねりだした話のとおり、404号室から悲鳴が聞こえたときは、何かとんでもないことをやらかしてしまったような気がした。
 だけど、そのおかげでこうして長谷川とやりとりできていることを考えると、人生とは本当に何が功を奏するかわからない。
 ぼくは長谷川から連絡が届いていないかもう一度確認しておこうと、再び携帯電話の画面に視線を落とした。
 そのときだった。
 ゴトゴトという音が、404号室から聞こえた。
 凝り固まった首を動かして、白い壁を見る。聞き間違いだろうか。頭のなかをいろいろなアイデアが浮かんだが、それらすべてを打ち消すように、また、ゴトゴトという音が聞こえた。今度ははっきりと。
 404号室から物音がしたのは、あの夜以来、初めてのことだった。
 普通はそういう物音がしたとして、部屋の模様替えをしているのかもしれない、遅い時間に非常識だな、ぐらいにしか思わないだろう。だけど長谷川との会話を経たぼくは、その音がするたびに違う場面を想像してしまう。
 考えているとまた、ゴトゴトという音がした。
 ぼくはいつかと同じように布団を頭からかぶり、うつぶせになって目を閉じた。壁ごしなのに、布団をかぶっているのに、ゴトゴトという音ははっきりと聞こえた。誰かに見られているような、見ているぞと言われているような気がした。
 まさかそんなはずない。
 そんなはず——

 翌朝、玄関の扉を開けると廊下が青いビニールシートで覆われていた。
 ニュース番組やサスペンスドラマで見かける事件現場の風景みたいに。
 だが、よく見るとそれはビニールシートより厚みのある緩衝材のようなもので、廊下を行き来しているのも紺色の制服の警察関係者ではなく、白と青の爽やかな制服を着た作業員だった。彼らは白いダンボールを隣の部屋から運びだしていた。
 腰の低い作業員に謝られ意図を察したぼくは、謝りかえしながら扉を閉め、体を壁につけて道を開けた。キャスター付きのハンガーボックスが目の前を通りすぎていく。カバーは透明で、女物のコートやスカートがかかっているのが見えた。
 ハンガーボックスが廊下の端の階段に消えていくのを見届けてから、再び隣に目をやると、グレーのスウェットの上下を着た男が立っていた。
 男の髪の毛はボサボサで、口もとに無精髭がのこり、目の下には隈ができていた。
「朝からお騒がせしてすみません」
 男の声はかすれていた。声と同様、肌に張りはなく、表情も暗い。壁ごしに聞こえた声の粗野なイメージからはかけ離れている。外に見せる顔と身内に見せる顔は異なるのが常だろうが、それにしても怒りで人を殺すほどエネルギーのある人間には見えない。
 いや、人を殺してしまったことに怯えて憔悴しているのか。
「——ねえ、ハンガーにかかりきらなかったやつ、ダンボールでいい?」
 男の背後で、扉のふちに手をかけて女が顔を覗かせた。
 薄手のパーカーにデニムという動きやすそうな格好をしたショートカットの女は、反応しない男の肩にふれようとして、その視線の先にいるぼくの存在に気づいた。
 女は少し驚きながら、軽く頭を下げた。
 そして再び顔を上げたあとは、落ちつかない様子でこちらの様子を窺っていた。
 ぼくも頭を下げてから、すぐに背を向けて階段へと歩を進めた。確認するまでもなく、自分の顔が熱くなっていることに気づいた。
 隣の部屋の男は女を殺していなかった。
 昨日のゴトゴトという物音も、まさか引越しの準備?
 なんだそりゃ。ここ数日のもやもやはなんだったんだ。
 自分にあきれてため息をつきながら、引越しの作業員とすれ違いつつ階段を下りる。そして集合玄関を通りすぎようとして、ふと気になり、自分の部屋の郵便受けを開けた。
 チラシが詰まっているだろうと想像していた郵便受けには何も入っていなかった。
 首をかしげながら郵便受けを閉めたところで、ぼくはあることに気づいた。
 自分の部屋の郵便受けには「403」と記されている。
 隣の部屋の郵便受けを見ると、「404」ではなく「405」と記されていた。
 ぼくは四階の郵便受けをたどっていった。
 401、402、403、405。
 隣の部屋は404号室ではなく405号室だ。

 その日、教室に長谷川の姿はなかった。
 連絡したところ、体調を崩して休んでいるとのことだった。
 お大事にと返しつつ、ぼくは少しほっとして、長谷川への説明を考えていた。
 隣の部屋の女は生きていて、男と引っ越していった。
 隣の部屋は404号室ではなく、405号室だった。
 部屋番号で4を飛ばすのは、調べてみると、よくあることみたいだった。4という数字が「死」を連想させるためらしい。ちなみに9も「苦」を連想させるため同じ。マンションを建てるような世代になると、そういう縁起を気にするのだろう。
 問題はもうひとつ。
 女が生きていたことはもちろんよかったけれど、怖い話の結末としてはあまりにもつまらない。もしそのまま伝えたら、きっと長谷川はがっかりするだろう。すぐに興味を失って、連絡をとることもなくなってしまうに違いない。
 携帯電話がまた長谷川からのメッセージを通知した。
「死体の処分方法だけどさ」
 あいかわらず物騒な入りだ。
「昔の連続殺人犯に、バラバラにした死体を寸胴鍋で煮て、骨だけにして、砕いて捨てたやつがいるんだって。隣の男も同じことを考えてたりして」
 ぼくはこの話が嘘であることを知っている。だけど知らされていない長谷川には、本当にあった出来事のはずだ。それなのに彼女は死体の処分方法を想像しては、ノコギリでバラバラにしたり、寸胴鍋で煮こんだりしている。変わっていると言えばそれまでだが、変わっているで済ませていいのだろうか。
 一瞬止まったぼくの指は、それでもすぐにまた動きだした。
 長谷川と話を合わせるべく、その連続殺人犯について調べ、もともと知っていたようなふりをしてメッセージを作成した。
 たとえ長谷川が変わっていたとしても、こうして連絡をとることは楽しかった。これ以上、距離が縮まらなくても、もしもを想像できるだけで十分すぎるぐらいだった。
 だって大学に入学してからずっと、本当に友だちがいなかったから。
 ぼくは初めて話したときより柔和に感じられるようになった長谷川の顔を思い出しながらメッセージを打ちこんだ。その連続殺人犯の事件をモデルにした映画があるらしいと話をつなげると、携帯電話はすぐにまた長谷川からのメッセージを通知した。映画のことは長谷川も知っていたらしい。今度観てみるつもりだそうだ。
 いっしょに観ないかと誘えたらいいのだろうけど、それで全部なくしてしまうぐらいなら今のままでいい。
「というか、こんな話ばかりしてるからかもしれないけどさ」
 長谷川との関係はぼくにとってかけがえのないものになっていた。
「最近、家にいても、誰かに見られてるような気がするんだよね」
 だから隣の部屋の女が生きていて男と引っ越していったことも、その部屋が404号室ではなかったことも、長谷川には伝えないことにした。

 長谷川からの連絡はその日からだんだんと減っていった。
 どうかしたかと尋ねてみたが、返ってきたのは体調が悪いという定型文だった。
 実際、嘘ではないらしく、大学の授業でも長谷川を見かけることはなくなっていた。
 それでも、間隔は空きつつも長谷川からのメッセージは届きつづけた。内容は404号室の経過について問うものか、長谷川が調べたという死体処理についてのさまざまな知識だった。
「死体を燃えるゴミに混ぜて捨てても、重さで不審に思われるらしいよ」
「もし燃えるゴミで捨てるんなら、血抜きしなきゃいけないってことね」
「強塩基性の水酸化ナトリウム溶液。強酸性の塩酸は意外と駄目」
「あとさ、猫砂って知ってる?」
 ぼくはそのひとつひとつに返信したが、以前のように長谷川からリアクションがあり、会話が弾むということはなかった。長谷川はただ一方的に物騒なメッセージを送りつけるばかりで、ぼくの返信は無視された。ぼくは不審に思いながらも、それだけ体調が悪いのだろうと深く考えないようにしていた。変なことを言って藪蛇になることは避けたかった。
 そして前期の授業が終わり、試験の準備期間に入った日、それは届いた。
「念のため聞くけど、あれって本当の話じゃないよね?」
 これまでの話の流れをぶった切った、脈絡のない質問だった。
「友だちから聞いたっていうのは、よくある作り話って意味でいいんだよね?」
 今さら何を言ってるんだろう。ぼくはすぐに返信した。
「本当だよ」
 長谷川からの連絡は途絶えた。

 定期試験が始まった。
 試験のたびに教室を見わたしたが、やはり長谷川の姿を見つけることはできなかった。落とすと留年の可能性が高くなる必修科目の試験でもそれは同じだった。
 我慢できず、返信を待たずに連絡しても、自分のメッセージが積み重なるだけ。
 だから試験最終日、チャイムが鳴る前に解答用紙を早々に提出したぼくは、そのまま帰宅するのではなく、廊下に出て、試験が終わるのを待っていた。
 長谷川について何か知らないか、クラスメイトに聞くつもりだった。
 しばらくして扉から出てきたのは、なんと山﨑だった。いつも周りにノートを借りているイメージがあったから意外だった。それとも早々に白旗を上げたのだろうか。
 躊躇しているあいだに目が合ってしまったぼくは、今さら避けるのも不自然だと覚悟を決めて、話しかけることにした。
「あの」
「あ? 何?」
「長谷川さんから連絡ない?」
「長谷川? ないよ」
 ぼくは少し考えてから問うた。
「怖い話をする会、もう一回やるって言ってなかった?」
「あー……」
 山﨑は肩にかけたリュックを背負いなおしながら窓の外を見た。
「そんな話もあったっけ。でもなんか、熱、冷めちゃったよな」
 そうつぶやくと、じゃあ行くわ、と背を向けて、山﨑は階段へ消えていった。
 チャイムが鳴ると、教室内が途端に騒がしくなり、扉からクラスメイトたちが次々と出てきた。そのなかに、いつもどおり友だちと群れている新田を見つけた。女子集団に話しかけることははばかられたが、勇気を出して、恐る恐る近づいていった。
「あの」
「え?」
 新田は振りかえり、話しかけたのがぼくだと知ると、露骨にぎょっとした顔をした。
「今話してもいい?」
「え? うん」
「誰? このひと」
 新田の友だちが訝しげな顔を浮かべた。
 クラスメイトだよ、と言ってやろうかと思ったが、そいつの名前をぼくも思い出せなかったので不問にした。
 ぼくは新田をその輪から少しだけ離した。
「あの、長谷川さんって、今日来てないの?」
「えー、知らない。来てないんじゃない?」
「必修の試験なのに来てないんだ?」
「そんなの私に言われても困るんだけど」
「病気とか?」
「だから知らないんだって。もういい?」
 ぼくが答えるより先に背を向けた新田は、再び友人たちの輪に吸収された。
 食いさがる気になれなかったぼくは、新田が階段に消えていくのを見届けてから、他に知っている顔がないかと廊下を見わたした。だけどタイミングを逃したのか、それ以上、ぼくが話しかけられるクラスメイトを見つけることはできなかった。
 いつの間にか廊下に立っているのはぼくひとりだけになっていて、窓の外から蝉の鳴く声が聞こえた。空の高いところで、飛行機のエンジンの音が響いていた。
 夏休みの始まりだというのに、とてもそういう気分にはなれなかった。

 大学から帰り、マンションの郵便受けを見ると、空室になった405号室の投函口に赤いビニールテープが貼られていた。自分の部屋の鍵を開けるときにも405号室に目をやったが、扉に大きな南京錠がかかっているのが見えた。
 なんとなく、引っ越していった男の憔悴した顔が思い出された。
 自分の部屋に入ったところで、携帯電話が震えていることに気づいた。長谷川かと思い、あわてて画面を確認する。残念ながら違った。市外局番から始まる、連絡先に登録されていない電話番号が表示されていた。
 荷物を置いてから、携帯電話を耳にあてる。
「もしもし」
 受話器のむこうからサーッというノイズが聞こえてきた。ノイズは波音みたいに周期的に乱れていた。本当に波音で、海辺から電話しているのかもしれない。いや、そんなわけないか。というか、そもそもこの相手は誰なんだろうか。
「あのお、失礼します」
 ワンテンポ遅れて聞こえたのは、年齢を感じさせる女性の声だった。鷹揚な、ゆったりとした口調だった。それなのに、なぜか神経質な印象を覚えたのが不思議だった。
「はい。あの、どなたでしょうか?」
「あのお……、ですねえ。そちらのマンションの、大家でございます」
 大家、という言葉がすぐ理解できなかった。大家。マンションの大家。この隣の部屋の声が筒抜けのマンションの持ち主。ぼくが毎月家賃を振りこんでいる相手。
 ついこのあいだまで学生服を着ていて、アルバイトもしたことのないぼくだから、そういう大人と話すのは初めてだった。
 悩むぼくが答えるより先に、大家の婦人が口を開くねちゃっという音が聞こえた。
 そして、
「気をつけてくださいねえ」
 婦人の声がボリュームのつまみを回したみたいに大きくなった。
「……え?」
「お隣のねえ、405号室の方がねえ、隣の部屋の喧嘩がうるさいって引っ越しちゃったものですからあ……、連絡しようと思ってたんですよお。ねえ……、その前に引っ越しちゃったんですけどねえ。あんまり大きな声をねえ出されると、困るんですよねえ」
「いや、うちは一人暮らしなので、静かにしているつもりですけど」
 ぼくの釈明を聞いたか聞かずか、電話は一方的に切れた。
 かけ直してもう一度説明しようかとも思った。だけどあの異様な雰囲気に再びふれることはためらわれた。

 ぼくは部屋の真ん中で、大家の女性に言われたことを反芻した。
 405号室に住んでいたあの男女は、隣の部屋の喧嘩がうるさいと苦情をいれて引っ越していった。405号室は角部屋なので、隣の部屋というのは403号室に他ならない。だけど403号室の住人であるぼくは、自分が部屋で誰かと喧嘩なんてしてないことを知っている。喧嘩どころか人を招いたことすらない。
 403号室のぼくは隣の部屋の喧嘩に悩まされていた。
 405号室の男女も隣の部屋の喧嘩に悩まされていた。
 少なくとも403号室の住人であるぼくは大きな声を出したことはない。
 だとしたら405号室の住人が聞いた隣の部屋の喧嘩とは、いったいどこから聞こえたのだろう。
 そのときだった。
 ガタンという音が、隣の部屋から聞こえた。
 間違いなく、隣の部屋からだった。誰かがいきなり立ちあがって、椅子が倒れたような音だった。だけどこの音が405号室からしているはずがない。405号室の扉には南京錠がかかっていた。
 ぼくの視線は白い壁へと向かう。壁のむこうを見ることはできない。だけど壁ごしに足音がして、その誰かが玄関へと動きだしたことがわかった。ドスドスと廊下の床を踏み鳴らす音が遠ざかっていき、金属製の扉が開け閉めされる音がした。そして——
 呼び鈴が鳴った。
 何度も、何度も。
 追い立てるように呼び鈴が鳴った。
 ぼくは足音をたてないように、床に体重をかけすぎないように気をつけながら、フローリングに靴下をすべらせて移動した。居間と廊下を隔てる扉のドアノブをゆっくりと回し、開けて、体をすべりこませた。
 暗い廊下に、また呼び鈴が響いた。
 トイレの前を通りすぎる。「ちょっと、消さないでよ」女の声が聞こえた気がした。扉を開け放した部屋の奥、ベッドの縁から、女の白い顔がこちらを覗いている気がした。暗い廊下を玄関まで進むあいだに、みんなで怖い話をする会で語られたものが次々と思い出された。
 405号室の住人が聞いた喧嘩がどこから聞こえたのか。
 ぼくはさっき自分がある可能性を意図的に排除したことに気づいていた。
 404号室。

 どうにか玄関までたどりついた。あいかわらず呼び鈴は鳴りつづけていた。扉のむこうに誰かいる。誰がいるのか確認したい。覗き穴がある。見ようと思えば見える。
 でも、いったいそこに何が見えるんだろう。
 躊躇したそのときを狙いすましたかのように、ポケットにいれていた携帯電話が震えた。あわてて取りだそうとして、落としそうになるも、なんとか握りしめ、すぐに画面を確認する。電話だった。表示された発信者を見て心臓が止まりそうになった。
 長谷川美樹。
 ぼくは携帯電話をすぐ耳にあてた。
「もしもーし」
 緊迫した状況とはギャップのある明るい声が聞こえた。
 連絡が来るのもひさしぶりだが、声を聞くのはもっとひさしぶりだった。
 ぼくは玄関にしゃがみこみ、手のひらで電話をおさえて、声をひそめた。
「大丈夫?」
 口をついて出たのはその言葉だった。
「全然連絡ないから。ごめん、何度もメッセージ送っちゃって。迷惑かなとも思ったんだけどまさか倒れてたりしないかなって心配だったから。試験も受けてないみたいだったし。何かあった? べつにぼくが口を挟むことじゃないかもしれないけど、もし何か困ってるなら力になるし。体調が悪いのも——」
「——ねえ、部屋の前にいるんだけどさ、開けてくれない?」
 ぼくは玄関に身を乗りだし、扉に触れないよう気をつけながら覗き穴に顔を近づけた。
 見なれない視界のなか、あの日のままのノースリーブシャツを着た長谷川が携帯電話を耳にあててじっとこちらを見ていた
 長谷川は画面の端にもう片方の手を伸ばした。直後、呼び鈴が鳴った。
 その音は半拍遅れて、受話器の向こうからも聞こえてきた。
「「ほら、いるじゃない」」
 扉ごしと受話器ごしで長谷川の声が二重に聞こえた。
「どうして家が……?」
 ぼくの問いかけに、長谷川が答えることはなかった。
 受話器から、ツー、ツー、ツーという音がした。
 再び覗き穴のむこうを見る。
 誰もいない。
 ぼくは鍵をひねりドアを開けた。
 蒸し暑い夏の空気が玄関へどろりと流れこんだがそれだけで、扉の前にはやはり誰もいなかった。
「どこに」
 そのときドアノブを握るぼくの手に女の白い手がかかっていることに気づいた。触られている感触はないのに、それは自分の視界にたしかに存在していた。耳もとに風と呼ぶにはささやかな空気の動きを感じた。誰かが耳もとで呼吸しているようだった。
 そして白い手が肌に吸いついて、冷たさが身体中に広がり、全身に鳥肌がたつ。
 部屋の奥から知らない女の笑い声が聞こえた。
「ずっとここにいたのにねえ」
 その声は、ぼくのすぐ後ろから聞こえました。

二章 わたし

 ——という話を知ったわたしは独自に調査を開始した。
 どうやら数年前まで、ある大学のオンライン掲示板に書きこまれていた内容らしい。
 その大学では学生同士の交流を目的として、在学生専用サイト内でオンライン掲示板を運営していた。履修登録のアドバイスや、イベントの参加募集、宗教勧誘やマルチ商法への注意喚起など、それなりに利用はあったものの、オンライン掲示板そのものが下火になっていたため、最終的には廃止されたそうだ。
 例の話はその掲示板が廃止されるまで、毎年六月に投稿されていたらしい。
「誰が投稿したか特定できますか?」
「できるよ」
 わたしはあるルートからその大学の職員にコンタクトをとっていた。
 数日後、その人物から投稿日時と学籍番号、氏名のリストが送られてきた。
「掲示板に書きこむときは学籍番号の表示、非表示を選ぶことができたんだけど、非表示にしようがどうしようが、大学側は誰の投稿なのか記録してたんだよね。完全な匿名ではないわけ。そんなことも想像できない馬鹿が学則違反で処分されるなんてことも日常茶飯事だった」
 電話で説明を聞きながら、わたしはリストに目を通す。
「掲示板の過去ログを漁って、各年の投稿者の学籍番号を調べて、投稿者の氏名まで紐づけておいた。投稿者は毎年違っていて、最初の投稿者以外みんな、学籍番号を非表示にしていたけど、たぶんあなたが一番気にするのは最初の投稿者だろうね」
 最初の投稿者の名前は長谷川美樹だった。
 わたしは長谷川美樹が属していたクラスから調査を広げ、例の話に登場した小林洋平、中村ひとみ、新田和香の三人と会う約束を取りつけることに成功した。

「自分はほとんど何も知らないんですよ」
 小林洋平は席につくなり、申し訳なさそうに肩をすくめた。
 大学院に進学した彼とは、比較的簡単に連絡をとることができた。
「四年のとき、友だちに言われたんです。これっておまえだろって。読んでみてびっくりしましたね。自分だけじゃなくて、他の登場人物も実名だったので」
 だとすると例の話は本当にあったことなのだろうか。
「少なくとも、自分が登場しているシーンについては本当です」
 そして、ふっと息をつき、頬をゆるめると、照れたように笑った。
「でも、他のシーンはわからないですね。自分が見たわけではないので」
 それからもいくつか質問したが、まだ数年とはいえ月日が経っているため、記憶もあいまいになっているようだった。
「そういえば自分の話が最初以外ベタすぎだって書かれてるじゃないですか」
 小林のほうから話しかけてきたのはそれが初めてだった。
 わたしが遠慮しつつうなずくと、小林は前のめりになった。
「実は最初のトイレの話は自分が本当に体験したことなんです」
 それから小林は背もたれに体をあずけてうすい笑みを浮かべる。
「で、面白いのが、全然別の場で同じ話を他人から聞かされたんですよ。自分の話だって。笑っちゃいましたよ。相手もまさか本人を前にしてるとは思わなかっただろうな」
 そして小林はさっきより真剣な目でこちらを見た。
「でも同じようなことってよくあって。昔、バイト先にすごくかっこいい先輩がいたんです。体格もよくておしゃれで、面倒見がよくて優しい先輩。みんなで飲みに行ったとき、すべらない話をしようってなって。すべらない話ってわかります? 自分の体験した笑える話をするんですけど」
 小林の笑みが左右非対称に歪む。
「その先輩がすべらない話をしたんです。たしかに面白くて、みんな笑ってたけど、自分だけ笑えなかったんですよね。昔、後輩から同じ話を聞かされたことがあったから。その先輩は誰かから聞いた話を自分のことみたいに話してたんですよ。飲み会でうけるために。なんかそれでがっかりしちゃったんです。それを思い出しました」

「はっきり言って迷惑してるんです」
 中村ひとみは不機嫌そうに言った。
 保険会社に就職した中村は多忙なようで、時間をもらうことにもかなり苦労した。
「なんか新田さんにイラッとしてるみたいなこと書かれてたじゃないですか。それで嫌なやつだって思われたみたいで。出回ったときにはクラスの付き合いもなくなってたからよかったですけど、ゼミで一緒になった新田さんの友だちには少し言われました」
 中村の話も、小林から聞いた内容とそこまで変わらなかった。みんなで怖い話をする会に参加したことは事実。だが、それ以外のシーンが本当かどうかはわからない。
 ひとしきり話したあと、中村はコーヒーカップを置いてため息をついた。
「でも思うんです。404号室は罠なんじゃないかって」
 わたしが首を傾げると、中村は真剣な顔で問うてきた。
「これって何色に見えますか?」
 中村は指先の赤いネイルを掲げた。
 赤色だとそのまま伝えると、中村はうなずいた。
「でもそれって、人間にはそう見えるってだけですよね」
 わたしは彼女の伝えたいことがわかった気がしたが、そのまま話させることにした。
「この爪がある周波数の光を反射して、その周波数の光を人間が赤だと認識しているだけで、人間がいなければ、生物がいなければ、色なんて実は存在しない」
 そう考えるとブルベとかイエベとか、ちょっと笑っちゃうわけですけど、と中村は自嘲めいた笑みを浮かべ、今度はテーブルに手のひらをのせた。
「そんなふうに人間の五感を介さずこの世界について考えてみると、人間とこの机も、空間上に存在する原子という点で変わらない。空間にいろんな原子が密度もばらばらに並んでいて、ところどころ良い並びになったところに電気が流れているだけ。
 しかも、最近読んだ本に書いてあったんですけど、原子って実は粒子でも波でもなくて、ただのエネルギーかもしれないらしいじゃないですか。だとしたら、わたしたちの存在というか、境目だと思ってるものも、実はすごく曖昧なんだなって思ったんです」
 中村は再びコーヒーに口をつけた。皿に置かれたカップの中は空になっていた。
「だから例の話が404号室って呼ばれてるのも、罠なんじゃないかって気がするんです。だって404号室っていうわかりやすいものがあれば、誰もがそれを避けようとしますよね。それさえ避ければ大丈夫だって。
 でも、怖いものがあったとして、それが人間にとってわかりやすく存在してくれるとはかぎらない。それって、SF映画の宇宙人がなぜか地球の言葉を話してくれるみたいな都合のいい考えだと思います」
 わたしは中村が話す内容を理解しようとうする。
「わかります? 宇宙人が地球の言葉を話せなくても存在しているように、例の話のそれも、404号室っていう名前がなくたって、部屋とかそういうものとは無関係に存在してるんじゃないでしょうか。それがたまたま404号室と重なっていたからこうして話題にできているだけで、いつまでも部屋なのかはわからないし、いつまでもそこにいてくれるともかぎらない」
 そこまで話してから、中村は肩を落とした。
「本当は、今日もあんまり来たくなかったんです」
 下を向いて長く黒い髪に隠された中村がぼそりとつぶやく。
「長谷川さんって本当に行方不明になってましたよね」

 数日後、わたしは再び送られてきたリストに目を通しながら、情報源である人物の説明を受けていた。まだ行方がわかっていなかった登場人物たちのその後について結果が出たのだ。

 長谷川美樹。
 大学一年後期の履修登録なし。学生課から帰省先住所に連絡。捜索願提出済みと回答あり。翌年前期から休学。四年後、除籍。

 山﨑健太。
 大学二年前期の履修登録なし。学生課から帰省先住所に連絡。捜索願提出済みと回答あり。同年後期から休学。四年後、除籍。

「こういうのって珍しくないんですか?」
 わたしが問うと、その人物はうなずいた。
「途中で大学に来なくなる学生はそんなに珍しくない」
 次のページも見てほしいと促され、わたしは資料をめくった。
「ただ、個人的に気になって、例の話を投稿した人たちも調べみたんだけど」

 松本大輔。
 大学二年後期の履修登録なし。帰省先住所に連絡。応答なし。学生課から現住所に連絡。応答なし。同年、除籍。

 田中健太。
 大学二年後期の履修登録なし。学生課から帰省先住所に連絡。連絡を機に捜索願提出。翌年前期、退学。

 川島慎一。
 大学二年後期の履修登録なし。学生課から帰省先住所に連絡。捜索願提出済みと回答あり。翌年前期から休学。四年後、除籍。

 同じような文章がA4のコピー用紙いっぱいに並んでいた。

「この語り手の男の子については調べなくていいんだっけ?」
 情報源の人物を部屋に招いたわたしは、コーヒーを淹れながら答えた。
「調べたいんですけど、手がかりがなくて」
「名前がわからないから? 会えたふたりには聞いた?」
「聞いてはみましたが、顔も名前も思い出せないそうです」
 小林と中村の回答はこのときも同じだった。思い出そうとしても、顔も名前も浮かばない。試しに当時のクラスの名簿を見せたが語り手だと思える人物はいなかった。
 小林と中村は不思議そうに首をかしげた。
「このなかの誰かではあるはずなんですけど」
 わたしはコーヒーをダイニングテーブルに置いた。
 客人の目はリビングの隅のテレビに向かっていた。
 わたしの意識も自然とそちらに向く。ニュース番組が流れていた。
「——未明、高速道路で玉突き事故が発生し、運転していた女性一名の死亡が確認されました。亡くなられたのは新田和香さんで、警察の調べによると、新田さんは自身の軽自動車で高速道路を走行中、前方の車両に衝突したものと見られ——」
「そろそろやめたほうがいいんじゃない?」
 わたしは問いに答えずリビングまで行きテレビを消した。
「そもそもなんのためにやってるの? こんなこと」
「テレビ点けました?」
「え?」
「テレビ」
「人の家に来て、勝手に点けたりしないけど」
「そうですよね」
「最初から点いてなかった?」
「わたしは点けてませんし、テレビを点けっぱなしにして出かけたりもしません」
 そのとき、ドンという大きな音が隣の部屋から聞こえた。わたしは思わず身をすくめ、ソファの背もたれに手をついた。音がしただけなのにそうしていないと立っていられなかった。白い壁をじっと見つめていると、また、ドンという音がした。さっきより大きくなっていた。わたしたちはそこでようやく顔を見あわせ、淹れたばかりのコーヒーをそのままにして部屋を出た。
 隣の部屋には誰も住んでなかった。

 数か月後、わたしはついに例の話の舞台になったマンションを見つけた。
 そのマンションは住宅街にあり、どこに置いてもなじみそうな外見をしていた。
 ベランダ側に回ると、403号室にも、405号室にもカーテンがかかっている。集合玄関に入り、例の話の語り手がしたように郵便受けを確認すると、401、402、403、405と、たしかに404号室はなかった。
 階段をのぼり、403号室の部屋の前に立ち、呼び鈴を目にとめた。平日の日中だから留守である可能性が高い。押してしまおうか。もし在宅でも間違えたと言えばいい。
 逡巡する間に、なんとなく405号室を横目で見ていた。その後の調査で、例の話に登場した405号室の男女が転居先で火災に遭っていたことがわかった。男は焼け跡から遺体で見つかり、女の行方はまだわかっていない。
 例の話の語り手である403号室の住人もまだ特定できていない。
 マンションが特定できたなら、前の住人をたどっていけばいつか出会えるだろう。情報を持つ人物に近づくため多少の手間はかかるだろうが、ある意味では時間の問題だ。安全に事を進めるためにはそちらを優先したほうがよかったのかもしれない。ただ、マンションを特定したからには待ちきれなかったというのが正直なところだ。
 わたしは403号室から数歩ずれて、403号室と405号室の扉が両方視界に入る位置に立った。
 目の前にあるのは、部屋と部屋の境目にある、なんてことのない壁。
 わたしは壁に手をあてた。
 そのときわたしの手に女の白い手がかかっていることに気づいた。触られている感触はないのに、それは自分の視界にたしかに存在していた。手は後ろに続いている。誰かがわたしの背後にいて手をのばしている。
 そして白い手が肌に吸いついて、冷たさが身体中に広がり、全身に鳥肌がたつ。
「もういないよ」
 その声は、わたしのすぐ後ろから聞こえました。

三章 あなた

 ——この話を読み終えたあなたは何も気にすることもなく、これまでどおりの生活に戻る。あなたは安心していい。最後まで読んだ者に呪いをかけるような、呪いを祓うために拡散を強要するような特別な仕掛けはこの話に存在しない。
 そんなことをするまでもないからだ。
「ずっとここにいたのにねえ」
 それでも不安なあなたのために、これからお話するのはただのおまじない。零時ちょうどに鏡を見てはいけないというような、迷信みたいなものだ。
 夜道で電話している女を見かけたら近づかないでください。
 暗がりですれ違う男の表情を絶対に確認しないでください。
 404号室のことは誰にも話さないでください。

404号室

404号室

大学生の男の子がクラスメイトの女の子に怖い話を披露します。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-09-30

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著作権法内での利用のみを許可します。

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