美しい抑圧

心を調教する話

職場の同僚、相坂さんは優しい女の人だ。私とは30歳も離れているのに、とってもフランクに接してくれる。
穏やかなクマさんみたいな旦那さんがいる(ほんとにクマのぬいぐるみみたいな旦那さんで、写真で見てびっくりした)。元サッカー少年だったイケメン息子さんが小学生の時に郊外の一戸建ちの家を買った。そこを手作りのキルトで飾りガーデニングに励み、のんびりほっこりした家庭を作った。


いつもランチには可愛いお弁当箱におにぎりを二つ入れて来る。そんなに小さなお弁当で足りるんですか?と訊くと、「ダイエットよ」と恥ずかしそうに笑い「これ、息子の幼稚園の時のお弁当箱なのよね。なんだか捨てられなくて」と言った。おにぎりの他にはたまに小さなおかずが入っていた。旦那さんのお弁当の残りを詰めて来るだけよと丸い頬をほころばせる。


元サッカー少年だったイケメン息子さんは3年前の春に結婚した。
それから突然、息子さんは転職した。
「お嫁さんと相談して決めたんだって。まったく今の子はしっかりしてるよねえ」
もちろん相坂さんは事後報告で大賛成だ。
もっとも相坂さんが反対したって、若い夫婦には関係のないことだろうけど。


だけど私は知っている。息子さんが大学を卒業して就職した時、相坂さんはとても嬉しそうだった。
「正直言うと、いい会社に決まって本当によかった。黙って見守ってることしかできなかったけど、こっそりあそこに入れたらいいなあって思ってたの。私の祈りが通じたかな」
冗談めかして笑っていた。
それをなんだか否定された気分じゃないのかなって思うのはお節介にも過ぎるから、私は黙っていた。


しばらくして息子さんは引っ越しをした。
相坂さんが旦那さんと息子さんと相談して何度も下見をして決めたマンションから、お嫁さんの実家近くのアパートに引っ越しをした。
その頃、初めてのお孫さんが産まれた。
「やっぱり女側の実家の近くが一番いいわよ。気兼ねなく頼れるから。おかげで私もこうしてのんびりと仕事を続けられるし。ありがたいわあ」
相坂さんはいつもと変わらない笑顔でにっこりとしていた。


9月の始めに、二番目のお孫さんのお宮参りがあったそうだ。
その少し前から相坂さんは仕事で小さなミスを繰り返した。おにぎりを一つしか食べなくなって、緊張した顔でときおりどこかを見ていたりしていた。
だから気にはなっていた。
「どうでしたか? 無事に終わりました?」
すると相坂さんはこっちこっちと手招きをして、私を廊下の片隅に連れて行った。それからこっそりと打ち明けてくれた。
「良かったよお。本当に良かった。上の孫と手をつないでる向こうのお母さんを見ても、私なんにも感じなかったの。うらやましいとかそういう変な気持ち。半年ぶりくらいに孫を見てもああ可愛いなあ~と思うくらいで、気持ちが大きく動くことはなかった。ほんとは怖かったのよ。あの人ばっかり可愛がってとかあの人にばっかり懐いてとか、そういう変な気持ちが自分に出て来るのが」
相坂さんは満面の笑顔を私に向けた。


それからしばらくして相坂さんは会社に来なくなった。
家から外に出られなくなったというのが理由だった。
来ない人を雇っている訳にもいかず、相坂さんは会社を辞めさせられた。


「外に出ようとすると身体が動かなくなるのよ」
最後に電話をした時、相坂さんは意外と元気な声で喋った。
「どうしてかなあ。どこも悪くないのに。いたって元気なのに。おかしいよね? こんなことある?」


泣けばいいのに、相坂さんはずっと笑っていた。

美しい抑圧

美しい抑圧

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-09-29

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