なみなみ

 体調が優れなかった。このところ急激に蒸し暑くなって、梅雨前線とかいう頭痛の種が日本の上でのさばっているせいだ。目はとっくに覚めているけど、かれこれ十分くらい、布団を被ったままだった。布団に顔を押し付けて、嘘泣きでもしてみようかと思う。でも、本当に泣いてしまうような気がして、できなかった。
 寝返りを打って、窓からベランダを見る。洗濯物が曇天に揺れていた。わたしが寝ている間に、同じ大学に通っている、同棲相手の美羽子が洗って干してくれたのだろう。美羽子の白いTシャツ。わたしの長いスカート。美羽子の下着。わたしの黒い靴下。シャワーを浴びた後のタオル。ギンガムチェックの皿拭き。時折吹く強めの風に、一斉にうわっと煽られている。
 そんな光景にも見飽きて、目を閉じる。部屋を出たくはなかった。昨日の夜、美羽子と喧嘩した。寝室に置いてあるテレビで一緒にミステリー映画を見ていて、犯人って誰なんだろう、と美羽子が呟いたところ、原作小説を読んだことのあるわたしが思わず、この人が犯人だったような気がする、とネタバレしてしまって、喧嘩になったのだ。今思い返してみるとばかばかしい話だが、ぎくしゃくしたのはもう変えられない事実だ。
 シングルベッドを二つ寄せて作ったなんちゃってダブルベッドに、もう美羽子の姿はなかった。寝室を出たら、ダイニングで鉢合わせるかもしれない。そうなったら、なんとなく気まずい。うう、と布団を自分にきつく巻きつけながら、充電していたスマホの画面を開く。美羽子からメッセージが来ていた。『午後から雨予報なの忘れて洗濯物干しちゃった』『もうバイト行っちゃったから、雨降ったら入れといて〜』とある。美羽子はこの、なみなみの伸ばし棒をよく語尾に使う。昨日のことなど何も無かったかのような、のんきな日常のメッセージ。まあ、美羽子は寝たら全部忘れるタイプだし。こんなものか、と思いながら、『りょうかい』と素早く返信して、スマホを布団の上に放り投げた。ぽふ、と言って、わたしのへその上の掛け布団に着地する。
 寝転がったまま、洗濯物の隙間から覗く灰色の雲をじっと見る。雨が降りそうでもあり、降らなさそうでもある。雨は嫌いではないけれど、はっきりしない天気はやきもきするから嫌い。梅雨入りしたというなら、毎日雨が必ず規則正しく降って、ささっと梅雨前線が通り過ぎてくれればいいのにな。
 もう家に美羽子がいないということがわかったので、とりあえず一旦、布団を出て起き上がる。まずはトイレに行った。何気なくキッチンの流しを見たら、食器が水切りラックにきちっと整列していて、それだけで少し情けない。ラックから、数滴水滴の残ったコップを取り出して、水道水を飲む。そのコップ以外の食器は拭いて、戸棚にしまった。
 美羽子がいなくて安心していた自分もいたが、だんだんそうも思えなくなってきた。うらさみしい。なんで昨日、喧嘩なんかしたんだ。わたしのせいか。
 美羽子と一緒に住み始めて、早半年になる。その前の、独り暮らしをしていた期間の方が長いし、一人には慣れているのだけれど、1Kに一人なのと、2DKに一人なのでは、全く訳が違うのだ。食卓に置いてある美羽子の好きなミッフィーの卓上カレンダー、美羽子がいつも座る椅子にかけっぱなしのうすみどりのカーディガン、とか、美羽子の痕跡が、今、美羽子がいないことを強調していた。思わず頭痛が増すほどに。
 一時間くらい本を読んでいたが、まったく落ち着かなかった。家にいてもどんどん息苦しくなるばかりなので、気晴らしに外に出ることにする。玄関で靴を履いていると、シューズラックに引っ掛けている傘と目が合った。雨に降られる前に洗濯物を取り込むということは、雨が降る前に家に戻っているはず。それなのに今、傘を持って行くのは、さらさら約束を守る気がない人みたいで嫌なので、持って行かない。
 アパートを出て、当てもなく、住宅地をさまよう。小さな公園の隅に咲く、色が悪くなってきたあじさい。しゃきんしゃきんという音が流れているゲーム機を持って、マンションのエントランスの壁際に座り込んでいる数人の小学生。曇りの日でもしっかりと日よけのアームカバーをした腕で、買い物かばんを抱えている主婦。歩くとかんかんと音が響きそうな階段の裏からひょいと顔を出して、車が通りすぎた後の道路をさっと渡っていく猫。美羽子の色を持たない、無色透明な色の彼らの前を通り過ぎる。
 そして、駅前の赤信号で立ち止まった。一瞬空を仰いだ後、なんとなくスマホを開いてしまう。美羽子からのメッセージ通知、二件。
『お! 起きたんだ〜』『元気?』
 元気かというとそうではないけれど、元気でないというと甘えな気もする。『ぼちぼち』と送信した。続いて、『起きたら美羽子がいなくて、』というところまでテキストボックスに打ってしまって、バックスペースを連打する。美羽子がいなくて、もうお墓に入っちゃったのかと思った。そんなこと言ったって、困らせるだけだし、既読ついてから返信が来るまでの時間、わたしもずっと困ったままになる。結局、『昨日よりは良い感じ』とだけ付け足して送信し、スマホはポケットにしまった。
 電車の高架下を通り過ぎて、駅の反対側に出る。まだなんとか活気の残っている商店街が広がっているが、いつか潰されて高いマンションでも建つんだろうな、と美羽子が言っていた。せっかく外を歩いて、美羽子のことを頭から追い出せてきたはずだったのに、スマホを見たせいで、美羽子の情報が脳内にあふれ出て来る。もう一度、空を見上げる。家から見たのと同じ、ねずみ色の厚い雲。洗濯物のことを思い出した。家のベランダで、色とりどりの服が、無骨なキャンバスにさみしく揺れていたのだった。
 鍵だけ持っていて、財布も何もないから、商店街を歩いても、それほど面白味はなかった。古本屋の前の、値引きワゴンを覗いてみたけれど、岩波文庫をぱらぱらとめくってみて戻しただけになった。また歩き出して、昼時の飲食店にぱらぱらと人が入っていくのを見やる。あれは、二日前、美羽子と夕食を食べた中華料理屋だ。あの日、美羽子はちょっと酔っていた。帰り道、満月がクラゲに見えてこわいとか言って泣いていて、かわいかったな。その店の、食品レプリカが置いてあるショーケースの前で立ち止まった。エビチリが嘘っぽくつやつやしていた。
 その建物の脇に伸びていて、アーケードと交差する道へと曲がった。五十メートルくらい先で、大通りに突き当たるようになっていて、車や自転車が走っているのが見える。そこに行き着くまでに、少し目を引く低層ビルがあった。どの建物もちょっと薄汚い茶色とか灰色をしているのに、そのビルは淡いサーモンピンクの外壁だった。近づいてみると、一階に、○○町キリスト教会と書かれた古ぼけた看板がある。日曜礼拝、毎週日曜、十時半から十二時半。そんな文字を目で追っていると、大きなガラス戸から人がぞろぞろ出てくる。そういえば今日は日曜だった。老人、老人、青年、老人、子ども、老人。みんな、小綺麗な身なりをしていて、ちらちらとこちらを見てくる。信者らしい。わたしは足早に、大通りの方へ立ち去った。自分でも、なんで逃げようと思ったんだか分からない、平然と突っ立っていても問題はなかったのに。看板を見ていたところを話しかけられたって、しつこい新興宗教とかじゃないだろうし、ちょっと見ていただけです、とか言えば、そこで会話は終わるだろう。でも、神さまの話は、したくなかった。絶対的な存在について、考えたくなかった。そんなものはないから。空も心もなんでもそう、洗濯物だって、いつまでも干しっぱなしじゃないし、あの教会だって、いつか崩れるし、賃貸アパートだって、人が出たり入ったりすることが前提なのだし、映画の続編だって、演者が干されて制作中止になるかもしれないんだし、美羽子だって、わたしだって、そんなことないって、いくら今誓い合ったとして、いつかお互い愛想を尽かしてしまうかもしれないのだし。昨日みたいに。
 御託を並べながら歩いているうちに、ぽつぽつと腕に水滴が当たるのを感じた。道に水玉模様のしみができていく。雨だ。まずいな。洗濯物が濡れる。家に帰らないと、と思うけど、走れない。足取りが重すぎる。とにかく、商店街のアーケードの方まで戻って、駅までは屋根の下を行くことにする。こうしてわざわざ雨を凌ぎながら歩いている間も、洗濯物は濡れているかもしれないのに。滑稽だ。
 そうこうして、駅に着いた。ここからアパートまでは、雨に降られるしかない。覚悟を決めて、やや雨足の強くなってきた中に飛び出した。早歩きで向かっていると、道の向こうの方に、赤信号で立ち止まっている美羽子の姿を見つける。無意識のうちに走り出していた。
「美羽子」追いついて、名前を呼ぶと、ちょっと驚いた様子で肩をすくめて、美羽子は振り向いた。美羽子も、わたしとおんなじで、傘を持っていなかった。美羽子の、脱色した茶色いロングヘアと、ペールブルーのブラウスの肩が濡れている。「風邪引いちゃうよ」
「奈々に言われたくないよ〜」美羽子がふわりと笑った。「体調良くなった?」
「うん」朝からぐにゃぐにゃとした視線でしかものを見ていられなくて、頭痛も先刻まで続いていたのだけれど、それらすべて、美羽子をまっすぐ見られたことで吹き飛んだ。「万全」
 よかったあ、と目を細める美羽子を見て、思う。美羽子の前では、真実のことはより真実になり、絶対だと思うことは本当に絶対になる、と。ごちゃごちゃ考えなくてもわかっていたことだ。わたしもへへ、と笑みを浮かべる。
「あ、ねえ、もしかしてさあ」と、美羽子が眉をひそめた。
「あー、うん、今から洗濯物入れに帰るとこ」
「やっぱりか〜っ」
「走る?」
「走る!」
 美羽子がそう言った途端、信号が青になって、わたしたちは雨の中を駆け出した。

なみなみ

なみなみ

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-09-20

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