一見無駄な高み

生物における無駄な挑戦とは?

 残暑が厳しい中、私はとある講演会の誘導係として屋外に立っていた。
 白塗りの建物が眼前にあるので、いくら「木陰で仕事するように」と言われても、暑いものは暑い。額の汗をぬぐい去りながら、来場者にイベント開催場所をアナウンスするのが今回の仕事である。
 「あちらへ、あちらへ」と事務的かつ機械的に人を流しているうちに、ベルトコンベヤーで流れてくる肉の塊や自動車工場のパーツを思い出し、いささか愉快な気持ちになった。ほんの数時間のちょっとした小遣い稼ぎだが、実際の加工場と比べたら随分と気持ちに余裕がある。
 しかし、いくら懐古主義な者たちが「日本人のモラルが問われている」と嘆いていようが、どう転んでもまだまだ大和魂は生真面目であるようで、いざ講演会が始まる時間になってしまえば、一気に人気がまばらとなった。確かに何らかのトラブルで遅れた人もチラホラいたが、さらに時間が経ってしまえば音沙汰なしである。自分の立つ位置が施設の正門から離れていることが、それに拍車をかけているのだろう。
 暑い中でも何か動作に夢中になっていれば、案外何とかなってしまうのが人体であるが、それが無くなってしまえば、ほんの20分程度の時間の経過ですら永久に感じるのだ。奇才・天才のアインシュタインも、その様な言葉を残したと言い伝えがあるくらいなのだから、凡人である自分には殊更酷なのは至極当然である。
 しかし、そうは言っても決められた時間の間は「おかしな人が通らぬように」「諸事情で遅れて慌てている人を導いてやるように」そこにいなければならない。とはいえ基本的には誰もここを通らないのであるから、業務遂行に関するモラルに反しなければ、何をしていても構わないという事だろう。正直、何かしらしていないと、この暑さで頭が今以上に頓智気になりそうだ。

 私は先ず、目と鼻の先にあるビオトープの池を覗いてみた。元来水辺の魚を眺めることが好きな私の癒しになるかと思ったのである。ところが、池の中にいたのは梅の実程の大きさがある、オタマジャクシ達であった。こませの様な小さなメダカ達は、ふんぞり返る巨漢達に隠れ、池の波打ち際に縮こまっている。トノサマガエルだろうか。
 街中で見かけることはまずないが、あれが育てば握り飯サイズの力強いカエルが、この敷地内を闊歩することになるに違いない。これはこれでとても興味が沸いたが、うっかりオタマジャクシに夢中になりすぎるのもいけない。そ知らぬふりをして、元の木漏れ日の下に戻るのだった。

 元の配置に立ち尽くし、ぼんやりと目の前の建物を眺めた。照り返しは暑いが、案外まぶしくはない。窓には青い空と、悠々自適な雲の流れが映っている。あまりにも平和で静かだ。残暑で苦しいことを除けば、何ら苦ではない代わりに、すこぶる退屈である。
 その時、視界の傍を茶色い何かが横切った様に見えた。枯れた雑草かと思いそちらを見ると、それは薄茶色の大きなバッタであった。建物の前に雑草が点在しているので、そこから飛び出してきたのだろう。彼(あるいは彼女かもしれないが、以後「彼」で通させてもらうこととする)は自らの目の前にそびえ立っている建物に向かって、何べんも飛び掛かっては、足掛かりが掴めずに地に落ちていった。
 奇妙な話である。建物の周囲は、ある程度管理されてはいるものの雑草が点在しており、ましてやすぐ近くに、それなりの大きさの池を携えた人工のビオトープまであるのだ。涼しい秋ならまだしも、暑い中、白くギラギラする建物に飛びつく必要があるのだろうか。何故その体色を生かして、風景に身を溶かすことをしないのだろうか。ついそのような事をぐるぐると思案し始めた。

 先ず、バッタという生物は、確か「孤独相」「群生相」という形態の違いがあるものがいたと記憶している。ある特定の場所に住む個体数が少なければ「孤独相」と呼ばれる姿に成長することが多い。体がずんぐりと大きく緑色で、物静かかつ可愛げのあるバッタがこれである。一方、耕作地等で大発生した場合は「群生相」という姿に成長し、シャープな体つきと茶色い体、すさまじい飛翔能力を持つ。貪食で暴れ狂いながら、群れで全ての植物を食べつくしている姿がこれだ。可愛さのかけらもない、悪魔そのものである。
 しかし、私の前にて休み休み跳ね続けている彼は、茶色くシャープな様にも見える体躯だが、後ろに広がる人工の自然には目もくれないのである。なんとも型破りだ。食べることの欲求があまりに少なすぎる。
 人間の自分からすれば、地上よりほんの数メートル、下手すれば数センチ程度上にある窓は、バッタの彼からすれば、どれほど高く感じることであろう。今のバッタの位置から果たして、窓に映った空が見えるのかは疑問ではあるが、ともあれ限界に挑戦しているとしか思えない小さな姿に、私は思わず心でエールを送っていた。

 まるでイカロス、あるいはジョナサンの様だ――。
 私は何とも馬鹿馬鹿しいことを大真面目に連想し、思わず苦笑した。先ずイカロスはギリシャ神話に登場し、自作の羽を使い、太陽を目指してどこまでも駆け上がっていった人物である。そしてジョナサンは、小説『かもめのジョナサン』に登場する、ジョナサン・リヴィングストンの事である。彼はただ本能のまま餌を食べるためだけに飛ぶ事に疑問を持ち、飛行技術の限界に挑戦するようになったカモメであったはずだ。
 全ての生き物は、基本的に自然界では、ある程度本能と無駄のない動きで生が成り立つものであるし、最低限のエネルギー消費でサバイバルをしつつ、その生涯を終えるのである。しかし時にはこのような異端児が現れ、彼らは、自然の摂理とは何ら関係のない「無駄」をやらかしては楽しむのである。物語とは言えカモメですらそうなのだから、昆虫であるバッタがそうなっても、何らおかしくはないだろう。そしてこういった行動から、数万年単位で進化が起こっていく事に、大半の生物は気づかぬままなのである。

 バッタは何度もジャンプをするうちに、少しずつではあるが感覚をつかんだようで、徐々にではあるが、上へ上へとクライミングしていく。その先に、爽やかな青い空を映す窓があるのだが、それが私の先述した「実にくだらない」想像を掻き立てるきっかけとなったのだ。
 白亜の絶壁をよじ登り、時にはとっくに廃墟となっているクモの巣に足を引っかけながら、窓に映った小さな空へ、ただ黙々と歩を進める。

 そういえば最近自分は彼のように、「一見すると人生において役立つか分らぬこと」にチャレンジしたことはあっただろうか。

 ――「国社数理英」が何の役に立つのか?と学生時代に怠けた結果、後々になって後悔した。親から勧められた習字を断った結果、未だに悪筆のままだ。友人が劇を見に行くから一緒に行かないかと誘ってきたのを断った結果、それが最終公演だったことを成人してから偶然知った――。

 その時、腕時計をふと見ると、会場スタッフの休憩時間となっていることに気が付き、私は大慌てで休憩室へと急いだ。ここまでの間に結局のところ、自分とバッタの間を誰か別の人間が通ることはなく、そして、私はバッタのその後を見届けぬまま、その場を後にしたのだった。

一見無駄な高み

一見無駄な高み

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-09-14

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