真紅の禁戒 第一章

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 恋愛、禁止。
 わが戒律。うら若き「(わたし)」と久遠と匿名に林立する「わたし」とを縛る、肉体と魂との不可視の契り。かの聖なるものにさずけられた至高のくるしみ。使命への一途なる貞節。いわく、わが意志による孤独の守護への同意。復唱しよう。恋愛、禁止。
 わたしは祈ってもいるのだった、いつやそれ、淋しさと愛への渇望に磨きぬかれて、果ては睡る水晶どうように純化されんことを。さればそれ、わたしは微笑でもって、他者へあけわたすのみなのである、まるでこどもが綺麗な石ころを、だいすきなひとのてのひらへ、そっと手渡すようなきがるさで。
 そう。わたしは、アイドル。ファンなるひとびとへの、奉仕の美である。
 天上の音階を駆け昇る高貴なる妖婦にして、俗なる海の底に身をうずくまらせる聖女なる職業。わたし、この俗のきわみにのみ宿りえる聖性を、こころから愛している。他者をよろこばせ、娯しませたいという魂本来の一途にして素朴な感情の迸りに従うこと、みずからを、その「商品性」に徹しさせるひたむきな努力こそが、わたしの使命の第一条件なのである。
 アイドルとは、仮面としてのガーリーなコスチュームに純粋へ剥がれて往く魂を蔽い、ファンにすらそれを売淫することを拒む、あまりにもピュアにしてコケティッシュな、瑕だらけの生のうごきをいう言葉だ。

  *

 齢、二十二。扨て、どこから語りはじめよう。
 わが憧れ(アイドル)との邂逅──それから、語ろうか。
 少女時代、いまでもそうであるのだが、わたしには一日いちにちが、ただ生存にせいいっぱいであった、当時、なにがわたしにそうさせているかすら解らず、おそらくや、この世界の空気のようなものが、わたしの躰には合っていないのではないかという自己憐憫めいた訝りが、「この推測は果して真であるか偽であるか、この苦しみは善か悪か、この感情は美であるか醜か」、そう、絶え間なくわたしに問いかけていたのだった。正しく、美しい、善い世界。まちがっていて、醜い、悪いわたし。色彩の異なり、罅割れ浮きあがり乖離してゆく、わたしに対立する世界と、わたしという疎外者。世界より迫るリフジンという名の敵との、死への渇望必至の闘い。そんな二元的な世界観を、幼少期より現実に適応する為にもったのが、少女時代のわたし。いまにもわが身を呑みこもうとする死の誘惑からひっしで躰をひきはなすうごきに、わたし、まるで疲れ果てていたのだった。
 病んでいる。そう想ってもらって、かまわない。わたしはわが病状の報告を、いまここでつまびらかにする意思はない。わが病の報告をするのならば──シモーヌ・ヴェイユの真白と、ボオドレールの漆黒を偏愛しており、その色彩は、自己無化という意味において、互いが上と下という矛盾をもちながらも、色彩学の通例どおりにおなじものだと想っている。瑠璃色へ往こうとし、真紅を吐きだしたいという妄念に苛まれ、漆黒の病める少女衣装に身を包み、そして、なによりもましろの美を怖れる。それで、いったん説明を終えよう。
 高校生になるまで友達なんていなかった、ダンゴムシ、それくらいだった。かれ等、よわくて惨めったらしく、リフジンに押しつぶされる社会的弱者のように住処は石の下、些細なことでうずくまるように丸まって、やはり、わたしのファンの男のひとに似ている。握手会で、ほんのすこし怒ったふりをしたらあたふたして平謝りする、わがいとしきファンたち。愛らしい。そうも想うだ。けれどもやはり、わたしはこういう男を恋愛対象にはみられない。優しくても、勿論よわさをもっていてもいいけれど、背をおおいかぶさるような巨きな愛と信頼に身をゆだね、心と心に結われてみたい。
 そんな少女であったわたし、テレビを見ていて、ひとりの女性アイドルが目にはいる。ヘアスタイルは当時に限ってはアイドルらしくしていたものの、その吐き捨てるような口調、まるでアイドルとは想えないようなぼそぼそと籠った低音の、まったく媚を偽装る気の伝わらない、しかし、暗みの籠る色香が鋭く迸るようなそれであった。まるで暴力の兆、銀の音立て硬くかたく薫るよう。
「清楚な女子は染まってない? 莫迦じゃないですか、そんなの男性の願望の投影ですよ。わたしの考えでは、清楚っていうのは、無疵のものにいう言葉ではないですよ」
 その言葉に、透明に焦がれ、だんだん汚れて往くみずからを責めていたわたし、息をのんだ。
 そのアイドル、その荒んだ言葉に反し、淋しいほどに透徹した眸をして、こういったのだった。
「清楚とは、瑕を負いつづけて、磨き剥いてゆくものです。不純を引き離し、削ぎ落して立ち現れるもの、それが純粋です」
 水樹晶。
「プラトニック・スキャンダル」という、元々地下で活動していた女性アイドルグループの、人気最高メンバーにしてイメージ最低(褒めている)の問題児。
 どこか暗みが輝いていたような二〇一〇年代後半を、まるでアイコンとして象徴されるようなアイドルの一人。不器用、失言多し、態度悪し、社会不適合者、生きる力がよわそう、あふれでる教室の外れ者感、アングラでしか生きられない異端者がまちがえて表で光を浴びてしまい、きっと睨みつけるも滲み出る人見知りオーラ、それが後光と射すような凄まじい場違い感、その割に我がつよく、空気は読めるのか読めないのか、思い遣りはあるのかないのか判断不能(この辺り、ファンは買いかぶりすぎであるかもしれない)、発言は基本的にマイノリティな価値観による攻撃的なそれ、根は優しくて繊細だけれど誤解されやすい(これはファンだけがいう)、そんなイメージで売っていた彼女、いつの時代も一定数存在する、生きづらさを抱えた病める少年少女たちに、カリスマ的人気を誇ったメジャーアイドルであった。国民的アイドルであったか否か。支持率・好感度という尺度をもってすればおそらくそうとはいえないであろうが、しかし、露出の頻度やカリスマとしての周囲の持ち上げ方は、はやファンのわたしからみても過剰といえるほどであったかもしれない。
「あれはシド・ヴィシャスの人気に似ているんですよ」
 とあるアイドル評論家が、そう書いているのを読んだ。
「自分じしんでしかいられない、いわば、パーソナリティをつくれない。社会的な人格を構築できないんです。そうじゃないかもしれないけれど──シドもそうじゃなかったしね──すくなくとも、そういうブランドイメージをもっている。歌もダンスも下手でしょう、ただ、正直なパフォーマンスをするでしょう。あのひとはあのひとでありつづけることで商品価値が宿って、一種のイタいとみなされるひとたちに勇気を与えるんです。まあ、パンクではあると思いますよ。引退したらパンクバンドを結成して、作曲も楽器もできない下手くそボーカルで食っていけるんじゃないですか」
 引退したら──わたしは、この言葉のつづきを、はや、読むことができない。
 当時のプロフィール。まだ、グループにいた頃のもの──彼女、一年で脱退したのだ。

 名前:水樹晶
 身長:一六〇センチ
 好きなアーティスト:バッハ、ワーグナー、フォーレ、シド・バレット(かれがいた時のピンクフロイド)、ニルヴァーナ、ブラック・フラッグ、Pファンク、灰野敬二、ヤニス・クセナキス、ジャニス・ジョプリン、ビル・エヴァンス、キース・ジャレット。
 尊敬する人物:いない。
 仲のいいメンバー:いない。
 好きなファッションスタイル:服に興味ない。
 将来の夢:ない。生き抜けたらいいな。
 五年後のあなたはなにしてる?:アイドルはやってない。
 ファンに一言:応援してくれてありがとう。表以外で関わらないで。

 学校に一人はいそうな、ぽつんと机に座り、ヘッドフォンをつけ周囲を拒絶した印象の、教室に馴染めない、しかし内に淋しさと過剰な自意識を抱えた少女が、その熱情を劣等感と炎と膨れる自意識込みで迸らせたような、そんなキャラクター。思春期の自尊心、劣等感、淋しさ、怖れ、そんなものが複雑に混合し、罅割れ揺れる玻璃の青い花のように不安定な印象の、きんと蠱惑めくあやうさを帯びる、銀の硬質な香気を散らす言葉たち。それがかっこよくみえたのは、彼女が、美しかったからだろうか──しかしファン以外からは、しばしばルックスを批判されていた、たしかに、とりわけ綺麗な顔立ちをしているわけではなかった。
 否。否。ルックスなんかじゃない、水樹晶は、ステージの上で、どこまでも格好よかったのだ。プリミティブな、いわく人性の根源よりわき昇る幼稚な衝動──「インチキに埋れて生き損なってんじゃねえよ!」とでもいいたげな、破壊的で率直なパフォーマンス、たしかにアイドルというより、パンクロッカーみたいだった。しかしその歌詞、大人が書いたものであり、彼女それを拒絶し、ソロアイドルになったというのが定説である。
 そう。彼女はアイドル、大人たちにしっかり商品として加工され、メディアにいいようにわるいように印象操作され、水樹は、そのイメージと自意識との──そしておそらくや、彼女固有の理想との──乖離にくるしんで、たびたびインタビューで死にたい気持を暗示するようになり、すれば構ってちゃんだと揶揄され、そうして、さながら約束を果たすように、丁寧に死の縁へ寝返りを打ち死の欲望にいっせいにたたみこまれるように舞い墜ち、投身自殺を果たした。

  *

 以下、ブログの更新最終日より。

 ブログタイトル:ご報告

  遺書
 わたし、不良なんかじゃありません。
 スクールカースト底辺の、英雄なんかじゃありません。
 インチキを告発するホールデン少年さながらの、ナードなロックスターでもありません。
 ただ、幾ら工夫し無理に装っても社会にぜったい馴染めない、純粋な愛と正直なやさしさに憧れる、ひとりの、病的に内気で臆病なエゴイストでしかないのです。嘘をつきたくない、正直に生きたい、(優しくなりたい)、これはほんとうだけれども、わたしがそれを歌うたび、ファンはわたしの闇と怒りだけをみて高揚喝采し、それ以外のひとびと、それこそがインチキだと罵り喚く、たしかにいい齢をしたわたしのそれには幼児めいた不気味さが籠るのは自覚しているけれども、わたしには、その自他より為される批判に耐えうる(つよ)い神経がないのです。生きているだけで、神経が痛い。いうなれば、自殺の理由はまさにそれ。痛くて、いたくて、耐えられないので、死ぬことにします。逃げ。弱さ。甘え。どうか、それ等だけでわたしの死を片づけてください。全的に軽蔑してください。それだけが、わたしからのお願いです。
 わたし、シモーヌ・ヴェイユみたいに、靭く、(やさ)しく、かよわく、美しく、さながら紗の砂はらはらと零れるがように、しんとしずかなましろの寝台に横臥わるがように死にたかったな。美と善の落す翳の重なる領域に、うっすらと月光を浴びて、かのひとの捧げ花のような骸、幾らかのそれを星のようにほの青く反映さえして、屹度横臥してあったのでしょう。剥ぎ落されたましろい光。まっさらに剥かれた音楽。そが闇へ閉ざされんとするまっくらな死は、はや、めざめの黎明をさながら月影から真の月が昇るがように、上澄と浮ばせたようであったことでしょう。…
 お父さん。
 お母さん。
 そして、弟よ。
 けっして、断じてあなたたちにわたしの死の責任があると想わないでください。ひとの人格をかたちづくるのは、産まれもっての気質と環境との相互関係に宿る相性であるとわたしはかんがえている、意思によるものは自我のうごきであると想うけれどもそれの存在の有無・全貌のうごきいわくわたしには不可解、たといわたし自身にだって、わが身がここまで苦しむわけを亮と識ることはできないのです。唯、ひとには各々の不可視の苦痛があり、それは他者にはけっして理解できず癒すことすら不可能であり、わたしに生れついたわたし固有のそれは、すべて抱え込むにはまるでわたしに向いていなかった、そういうことではないかしら。信じて。わたしは、あなたたちに、せいいっぱい愛されていました。愛されていました。こんなにも愛されても死をえらぶ内気な性格に閉ざされたわたしはもしや、受けた愛を自覚するシステムを躰にもたないのかもしれません。
 さようなら。
 わたし、アイドルですらなかったようでありました。
 傀儡としてわたしの翳を売淫しただけの、人間になるまえの何か、よく解らない、肉と観念の混合と乖離の、肉塊の付着した一つの神経であったようでありました。

  *

 もっとも彼女の遺志を裏切った者等、それはファンなのであった。
 ファンはこの自死を、なんとかコベイン等の嘗てのロックスターのそれ等と重ね合わせ、どこまでも、どこまでも純粋な生と死であったと祀り上げたのだった。死後につくられたファンサイトは、「宗教のにおいしかしない」「ファンの書き込みが病んでいる」からとして、一部では「閲覧注意」とされている。
 一度だけ読んだことがあるのだけれど、ファンの男性たちの、まるで死美人の裸体を淫らなる意欲で舐めまわすような視線で、「美少女アイドル・水樹晶の悲愴な死」という美麗にすぎるまでに装飾し塗りたくられた観念を眺めまわし弄るその眼差は、おなじファンであるわたしをして、劇しい嫌悪の感情へと駆った。
 もしほんとうに水樹を愛するのなら、その生き方を信じるのなら──現実を、塗るな。その本性まで、いたみながら、剥け。
「純粋さとは、穢れをじっとみつめうる力である」
 かのシモーヌ・ヴェイユのあらわした、世にも美しく硬質で強靭、それの促す生のうごきにおいて脆くも柔らかい領域をむきだしにするような箴言を大切にしていたのは、水樹晶、嗚そのひとであったのに。

  *

 わたしは水樹に、いや、「晶ちゃん」に、誤解によって命を救われていたのだった、彼女が与えたイメージ、「社会不適合者でも、死にたい気持をもっていても、そのひとらしく頑張っていたらかっこいい! 訳アリ人間の必死で生きる姿って可憐じゃん! 病んでるのって個性じゃん! わたしの生きたい生き方を生きていい、わたしの闘いたい闘いを闘っていい、わたしの愛するうごきでわたしの愛したいものためにうごいていいんだ!」に、自殺を延期されてもらったのだった。励まされていたのだった。水樹のおかげ、水樹のおかげでわたしは生き抜き、シモーヌを知って、虚無を起点と踏み虚ろに赫う城へ腕ふり立ちあがる勇気、わたしの「わたし」を生きようと走る或いは佇む勇気がえられ、そうして、くるしみたい苦しみをくるしめる歓び、まるでわが肌と神経でいたみを伴い識ったのだった。
 然し、水樹の自殺を知って数日後の話、死んだように睡り学校をさぼっていた十七歳のわたし、真夜中、なにかに操作されたように脚をうごかされて、無思考のまま、部屋のベランダからわが身を突き落としていたのだった。記憶はない、気づいたらベッド、しばらく経てば精神病院の閉鎖病棟。そして、まるで故郷を喪ったかなしいエルフといっても信じてしまうような、浮世ばなれしてふしぎな淋しさをただよわせた患者たちや、やたらとひとあたりの柔らかい医師と話す日々を経て、二つの診断名がついた。数か月後、退院。
 わたしは高校を辞め、十八と偽ってコンセプトカフェで働き貧しかった家に金をいれながら、亦アイドルオーディションへの交通費などを調達できなかった為に、十八になれば短期で身売に自己を投じたりしながら(誰にもいわなかった)、地下アイドルの面接を受けつづけた。
「アイドルなんてさ、」
 と、当時の友人がいったことをおぼえている。
 彼女、わたしが辞めた高校の同級生で、社会で活躍する向上心をもちだしていて、だんだん、わたしとは話が合わなくなってきていたのだった。何故って自殺未遂以来、わたしははや、下降したいとしか欲求しなかったから。退行しか、したくない。堕落だ、堕落。重力に従い墜落して往きながら、理不尽に背を圧しつけられて、そのなかで、魂の鎌首をぐいともちあげ、まるで翔べない翼はためかせて天へと昇る筋力を鍛えあげる、そして、全我の重量を掛け蒼穹見据え、どうにか、美と善の落す翳の重なる処、あかるめようとしていたのだから。嗚、水樹晶。かのひとのように。わたしは、水樹のうごきを、模倣しようとしていた。
「商品じゃん。大人にいいように利用されていうこと聞いて、男ウケのいい嘘のパッケージ貼られて、若さと性を売るだけでしょ。商品になりたいの? 若さと性的魅力を消費されたいの? わたしは価値あるものを作り出す側になりたいけどね」
「商品?」
 わたしはふだん大人しい、気弱だ、しかし、激情を抱え込んだ、いわゆる、情緒の安定しない人間である。ある起爆剤を踏まれれば、たたみこむように不可解な反駁を打つ攻撃的な臆病者だ。
 十八歳。武装(ファッション)様式(スタイル)は「地雷系」、何時(いつ)や爆発いたします。
「わたしは、商品でいい。純粋な商品性に徹したい。ひとを喜ばせたい、娯しませたい、これは、人性より迸る素直な気持になりえるの。おぼえてる? わたしたちの愛情のはじまりは、だいすきなひと──それは多くの場合親であるけれど──喜ばせて、喜んでいる顔がみたいという、一途なそれではなかったかしら? わたしは、感情と行為、現象をすべて優しい光で一途に透したい、それは不可能ではあるけれど、それがわたしのめざす生き方なの。
 わたしはほかのひとびとと同様に、たくさんの悪を享けた、暴力を受けた、理不尽なそれだった、わたしが一途な優しさを行使できなくなったのが、わたしたちは不幸であるという証拠なのかもしれない。悪を受ける。だからこそそれを他者へ投げつけたいという欲望をもった、けれどもそれでは悪は連鎖する。連鎖するでしょう? 悪を享けて、理不尽な暴力を受けて、そのうごきによって水晶を瑕に磨いて、引き離して、純粋さって闘いだ、無疵のそれなんかじゃない、その光りの水晶を他者へ一途なる音楽に徹して明けわたし、さっとこの世から消えること。それが、わたしの夢なんです。商品、上等です。使ってください、どうぞ使用してください。魂だけはけっして売らないけれど、肉に属すものであればなんだって売淫りましょう。そんな、気持です」
 彼女はこちらを見もせずにストローをくわえたまま静止し、「ふーん」とだけいうと、
「うん、それがナオちゃんの夢なんだね。全然否定する気ないよ。いろんな生き方あるよね。でも自分のこと不幸って喚くのはみっともないよ、与えられたもので幸福なんだって自覚して、その配られたカードでせいぜい成功できるよう頑張んなさいね」
 わたしたちは、またと会わなかった。

  *

 十八歳と七か月、漸く、地下アイドルグループの面接の書類選考を通った。ここまで掛かった理由の推測であるが、どうやらわたし、ある程度の猫かぶりくらいはできるけれど──それ、後ろめたくもあるけれど──容姿の魅力に、乏しいらしい。構わない。アイプチ。やや濃いめのノーズシャドウ。とるにたらない。わたしは、憧憬(アイドル)のうごきを身振と模していたいだけ。神殿は蒼穹であり、あるいは現実の理不尽という冷然非情の風景、それ双頭の女神ともいえ、教会はわが部屋のアイドルオタク領域──死者の記憶の一群が刻まれている、厳粛な領域。
 レッスン。ほどほどの厳しさ。会社に従属させようとする意思は伝わるが、運動のレベルとして大したことはない。従順な練習生として育て上げようとする一方で、幾分ぎこちのない、一種愛らしいうごきでデビューさせようとする事務所の意図を感じる。ここに拘りはない。どちらでも、構わない──いや、わたしは運動神経がわるいから、たすかったのかもしれない。
 そのデビューを目指すグループのコンセプトは、「アッパー&ダウナー↓クラッシュ」、曲調はハードコア・パンクとグランジ・ロック、サイケデリック・ミュージックのミックスを基調とし、しかしメロディはポップでメロディアスなそれを志向、衣装のデザインに少女らしさはみいだされるものの、破けていたりどぎついペイズリー柄だったりしていて、いわく「病みカワ」以外は部屋着しか所有しないわたしには、よくわからない感じである。しかしこのコンセプト、もしやわたしに、世にも調和するそれであるかもしれない。
 そう。「概念」の意味における少女、わたしいわく「概念少女」とは、劇しく炎ゆる激情と蒼ざめた憂鬱を抱えこみ、その混濁の挙句、何らかのものを紫の曳く閃光と貫き破壊せんとする危険な存在。して、パブロ・ピカソがそういったように、産まれもっての芸術家である筈だ。裏切らない。わたしの本能からをも堕ちた領域にある本性のわたし、魂の睡る領域、いわく、「わたし」をけっして裏切らない。その貞節をさえ守護すれば、わたしたちはみな芸術家であり、その決意とうごきとを殺さないかぎり、少女は「少女」として、勁くつよくなりえるのである。果てに素直な心情に従って、澄む光のいきれを毀せるようになるならば、はや、詩人的といってもいいかもしれない。
 ところで、「少女」なる言葉を解体し、幻想・理想をモデルに縫い合わせ再構築して、さればそれ、虚数として追究してみよう。何故虚数といえるというに、それ実在しない概念であるが確かに宿ると信じられるにあたいすると判断されることにくわえて、聖性という、赫う城へ到達するという不可能への推論を投げるために目的のための道具として必要とする、天上に浮ぶ金属質の豊穣かな砂漠ともいうべく概念であるから。そして、虚数は実在しない。しかし、在る。不在として、たしかに、在る。
 扨て、「少女」とはその前提として、高貴性というものを必要とする。異論に関心はない。しかしその高貴性というのは身分や社会的価値等外部から与えられたそれでなく、ただ産れもったそれを守り抜こうと、心身ともにズタズタになっている状態をいう。純粋さを守護し、汚れつづけるそれを瑕に磨いていく狂おしい勇敢なうごきをしつづけられている、これが、概念的な意味での「少女」の条件である。「少女」の魂から高貴が香気と昇るのは、もしそのひとが「少女」であるならば、屹度それ本能的に識っているであろう。湧きあがる無辜の激情は、他者の善を信じ抜きたいという甘ったれたそれであり、ごくごく自然に、愛という不可解きわまる狂気的な言説に美しい夢をもつ。恋愛と愛を亮(はっきり)と区別することを全身全霊で拒み、愛を実現し立証する恋愛の他いっさいの恋愛をそれと認めず、その余りを軽蔑、そして唾棄さえする──ここに、「少女」特有の冷酷・残酷がみいだしえる。「ほんとうに大切なことは目にみえない」、当然きわまるものとして、「少女」の魂はそれをすっと心の根から理解する。Primitive──わたしたちは、そうでありたいのです。其処まで底まで根まで墜落、「我」を匿名と久遠の林立する「わたし」へと、一途に堕として往きたいのです。紗の音を立て、砂と抛り、希みをいだき、真直ぐに墜落して往く所存である。
 このうごき、このうごきに血とともにかよう光と音楽の共同舞踏、それ果たして、高貴でなくてなんであろうか? 有機に宿りえる高貴とは、優しさに出発した勇気のうごき、そこより薫る鮮血と純化された体液の深紅な香気をいうのである。少女とは、わが魂を天上のうつしみとして翳とわが胸に抱き、けがれることを怖れ、そうして、既にしてけがれた部分をどこまでも嫌悪する。剥ぎ落そう、剥ぎ落そうと四苦八苦する。純粋。優しさ。頸さ。闘い。素直に生きて、優しくて、愛らしい戦士に、たとえば、魔法少女のようなものになってみたいのです。そのためであるならば、何処までも、どこまでも戦い抜くのがわたしたちだ。

  *

 概念少女の倫理学。誤りの例。
・Xをしなければならぬ、とされている。故に、それをしなければならぬ。
 不可。わたしは、「わたし」に従うから。わたしの倫理は、わたしだけのものだ。
・Xをしたい。故に、それをする。
 不可。「わたし」ではないわたしの意欲に、従いたくもないから。

概念少女の倫理学。唯一の正答。
・Xを「わたし」はしたい。そのために、前提として注意ぶかい思索とくるしみを重ねた。従って、全我を賭けてそれをしなければならぬ。──同意。

真紅の禁戒 第一章

真紅の禁戒 第一章

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2023-09-13

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