アレクサンダーの微笑み

Flaeche ― 平面

 マルクトシュヴァーベン――人口やく二千人の小さい村。他の町からかなり離れているので一応学校、病院と警察署はあったが、どれも小さく、学校は馬小屋を改造したものだった。
 住民はみなここで産まれ育ち、旅行に行った事もないし、家に電話を引いていたら他の家庭から羨ましがられた。
 このように時間流から外され、世界とコンタクトがない村は、まるで一つの小さな王国であった。だが人々もそれ以上の生活を望んでいなかった。毎日古くてガソリンの臭いがするトラクターで畑を耕し、夜飲み屋で少し騒ぐだけで彼らは十分だった。
 別にテレビになんて出たくなかったし、ましてマスコミが、しかも一人ではなく何十人も今まで見た事のないスポーツカーや小型ヴァンで村に来るなんて、彼らは絶対望んでいなかったはずだ。
 少なくともトルースの目にはそう映った。引きつった笑顔でマスコミの質問に答える村人たち。彼らはどのようにこの悲劇を受け止めているのだろうか?
 村でこんな少年が出てしまったとはと恥じているのだろうか? それとも殺された家族に花をささげ、彼らと悲しみにくれているのだろうか?
 トルースは後者の方が正しいと思った。村人たちはこの事件のせいでどれだけ村のイメージが下がるか理解してないし、気にしなかった。ただ少しの間、村人たちは犠牲者の家族と一緒に己の心を統一したかったのだ。
 汚いものでも見るようにトルースはテレビカメラに向かって微笑むアナウンサを睨みつけ、彼女は村で一つだけの警察署に入った。
 建物自体は村のように寂れていたが、まだ建てられたばかりなので、防犯カメラはなくとも取調室は防音されていると聞かされていた。助かったとトルースは思った。被告人との会話をマスコミに盗み聞きされたら一巻の終わりだ。
「弁護士のトルースヴァーハイトですね」
 看守はトルースに敬礼して、彼女の胸に光る弁護士のバッを眺めながら、身分証明書を受け取った。彼は村でただ一人の警官と看守の二人一役をこなしているのだろう。
 少し声が震えている、トルースは目を細め警官を観察した。身分証明書を異常に長く見つめている。もしかしたら彼は弁護士と会うのは初めてなのかも知れない。記録によると今回が村で起こった唯一の事件だから。
「で、では彼の独房に連れて行きます」
 トルースは看守の後を追いながら、警察署を内側から観察した。ここからだとマスコミのざわめきも聞こえない。
 警察署はまだ新しいので壁はまだ白く、清潔だった。一週間前までは形式的なものだけだったのかもしれない。
 ガチャンと鍵のシリンダーが回る音がして、トルースは我に返った。鉄を白く塗ったドアの後ろにはやく五メートル平方の部屋があった。しかし囚人に与えられた空間はその半分だけだった。鉄格子が彼の居場所を制御し、その独房に入る監視や弁護士を守っているのだ。
 トルースは警官が扉を閉めて、会話が聞こえない事を確認してから手提げ鞄をコンクリートの床に置き、用意された椅子に腰掛けた。
「……父は……?」
 鉄格子の反対側に座った囚人が初めて声を発した。ただ一言、歯の間から押し出すように喋った。
「……私はトルースヴァーハイト。貴方の弁護士です」
 少し額の皮膚を痙攣させてトルースは聞こえなかったように書類に目を向け、答えた。はっきり言って彼女は殺人鬼を前にしてどう対応すればいいか分からなかった。彼は自分の罪を認めているのだから、無実の罪でここにいると言う訳ではないし、彼の犯罪は血生臭く夢にも思えないほど恐ろしかった。トルースは現場の光景を思い出して身震いした。犯人が狂っていても許される犯罪ではない。
「……父は……?」
 トルースはフォルダーを開ける手を止めて、微かに震える囚人を眺めた。
 彼は足を椅子に上げ、顔を膝に埋めていた。オレンジの囚人服から黒い髪が見えているだけで、少し可笑しい光景だが、トルースには悪の塊にしか見えなかった。手足はやつれているのか骨が目立っていて、爪には土やレンガ色に固まった血がこびり付いていた。
 その体制がまるで一つの銅像のように、バックグラウンドの灰色とは違い、浮き上がっていた。彼は無意識的に自分の存在をトルースに見せつけ、強調させていた。
「……父は……?」
「貴方はアレクサンダーくんですね?」
「父は……?」
「貴方は十四歳でケルン生まれ、この村に引っ越したのは十一歳のころ。丁度両親が離婚し、貴方は父とここで暮らし始めた……」
「父は!」
 アレクサンダーは顔を上げて、真っ直ぐトルースを見つめていた。目が赤く彼は泣きそうだった。
 この顔は彼が拷問のような取り調べを受けたからだろうか? それとも警察署の奥深く閉じ込められていても、怒り狂う村人たちにリンチされるかと怖がっているのだろうか?
「貴方のお父よう、マルコスシュミッドは大丈夫です。しかし貴方のやったことを悲しんでいます」
 トルースはそう言ったが、本当は金切り声で叫びたかった。お前の弁護士になんてなりたくなかった! お前のような殺人者を弁護するのは恥だと思っている! 
「エヘ、エヘヘ」
 拳で涙を拭きながらアレクサンダーはホッとした笑顔で薄笑いをした。同時にリラックスしたように足を伸ばしてから、前髪をかきあげた。そして膝の間接を十分に伸ばした後、姿勢を伸ばし、裸の足を冷たいコンクリートにそろえた。アレクサンダーは晴れやかに笑っていた。まるで長年生きた老人が安らかな死の前、なにもやり残したことはないと確信した時の笑顔のようだった。
「今日は。僕はアレクサンダーシュミッドです」
 彼の異常な切り替えにトルースは驚かないではいられなかった。彼女は怒りが込み上げてくるを感じた。犯人は目の前にいる。鉄格子から腕を突き出し、彼の首を締めることは楽に出来るはずだ。
 突然アレクサンダーはニコリと笑って椅子から立ち上がって後ろを向いた。うなじの白い毛が窓から差し込む光に反射して、金色に輝きながら黒い鉄格子を触っている。
 今なら殺せる。トルースとアレクサンダーの距離はたったの二十センチ。いくら彼が逃げようとしても、足掻いても殺せる。
「僕を殺したいのならどうぞ」
「……」
「もし僕を殺して罪に問われるのが嫌なら僕の首を軽く触ってください。そしら僕は自分で自分の首を閉めますから」
 だったらさっさと自殺しろとトルースは叫びたかった。しかし彼女はアレクサンダーの行動に圧倒され、言葉がどこかで間違ってしまった。
「なぜ?」
「……貴方が僕の弁護士だからです。僕は人類からも運命からも見放された。この世でもはや僕の味方は貴方だけです。もし貴方にも見放されるのなら、僕は生き続けたくありません」
(私がアレクサンダーの味方……それは違う――いくら弁護士でも私は彼の味方じゃない。しかし私の使命は出来るだけ彼の刑を軽くし、検察官から守ること……)
 少し反省の余地があるとトルースは思った。被告人の証言も聞かないでマスコミが報道したことをうのみにしていた。それ以上、自分は弁護士と言う立場を忘れ、野次馬になろうとしていた。
「す、座って」
 毛穴が膨れ上がり、そろってトルースの方を向いていたうなじの毛はゆっくりと滑らかになり、先っぽが下に向いた。その時やっとアレクサンダーが鳥肌を立てていたのをトルースは気づいた。
「寒いの?」
 自分の鈍さを言葉で隠そうと彼女は緊張した声で言った。もちろん寒いわけではない。秋と言えども、暖房は効いていた。アレクサンダーは寒かったのではない、彼はトルースが本当に彼を殺すかもしれないと怖かったのだ。それに気づかずに、なんとか場を取りつくろうとトルースは彼に尋ねたが、直ぐに自分の言葉を心のなかで繰り返し恥ずかしくなった。
「優しんだね」
「えっ?」
「だって僕のことを気使ってくれる」
 一瞬だけ目を瞑り、微笑するアレクサンダーはトルースに彼が鉄格子の向こうにいて、囚人服を着て、殺人者だということを忘れさせた。
「べ、別に私は……仕事だから……」
「仕事なのに『寒いの?』って訊いてくれる。貴方は本当に優しい」
「と、とにかく座って」
 トルースが言うと、アレクサンダーは畳み椅子に腰掛けた。足を組まず、きちんとそろえ、両手も膝の上に置いてる。そして微かに微笑している。笑ってるのではない、内心は不安と恐怖で安らぎがないはずだ。ただトルースに愛想笑いしているのだ。しかし彼の笑顔は自然に、爽やかに見えた。
「貴方は本当に殺したの?」
 彼女はアレクサンダーがノーで答えるのを望んでいた。そしたらアレクサンダーを胸をはって弁護出来るだろうそしたら彼の無実を証明して、裁判を勝てるかもしれない。
「僕が間違いなく一人だけで三十六人全員を殺した。それは事実で疑う余地はない」
 まるで詰まらない詩を朗読するみたいにアレクサンダーは眉一つ動かさずに言った。まるでこの台詞を言うために何ヶ月前から練習したようにスラスラと。
 トルースがアレクサンダーに感じていた希望は怒りになり、彼の暖かい微笑は冷たい目と顔に張り付けられたマスクに見えた。そんなアレクサンダーを前にし、トルースは動揺と恐ろしさを再び感じていた。
「……なぜ? なぜ貴方はそんなことを出来るの?」
「僕は楽しんだヨォオ……最初に殺したやつなんかナイフを突き刺しても、それを引き出して僕に向かって来るゥウウ」
 アレクサンダーは立ち上がっていた。目を極限にまで見開き、闇が光りを飲み込むように彼の瞳孔は白目がほとんど見えないほど巨大化していた。さっきの微笑はどこかに消え失せ、今は能面のように平たい無表情の顔だった。
「頭を包丁で首から切り落としても、彼らは目を見開きながら泡を噴くんだヨォオ!」
 彼は華奢な腕を鉄格子の間に差し込み、トルースを掴もうとしたが、間一髪彼女は立ち上がりドアの近くで縮み上がった。アレクサンダーは肩まで鉄格子により腕を完全に伸ばしたが、指先が微かにトルースのジャケットに触れるばかりだった。
「だ、出して! 速く! こ、このドアを開けて!」
 恐怖にかられ、彼女は狂人のように扉を叩いた。その後ろで、目を空ろにしたアレクサンダーがトルースの椅子を掴み、彼女に投げつける。だが力が有り余って、椅子はトルースの頭を掠めただけだった。彼女は絶叫して、囚人の怪力に驚くと同時に、さらに強く鉄の扉を叩いた。
「だ、大丈夫ですか?」
 拳銃を抜いた看守が慌てたように扉を開けて、トルースとアレクサンダーの間に立った。
「動くんじゃない!」
 看守は脅すように拳銃をアレクサンダーに向けて、トルースは扉の間から二人を見守っていた。
 アレクサンダーは落ち着いたのか、腕を鉄格子から引き抜き、埃を払うように囚人服を叩いてからまたきちんと椅子に腰掛けた。
「動いちゃいないよ。フラウ(ドイツ語のミセスと言う意味。ミスはフロイラインだが、目上の人にフロイラインはあまり使わない)ヴァーハイト、さようなら」
 そしてニッコリと困惑した看守と弁護士に微笑みかけた。看守は別に悪気はなかったのだろうが、彼は苦虫を潰した顔で悪態をつきながら扉を閉めた。
 アレクサンダーは椅子に座ったまま孤独に残された。

Punkt ― 点

「彼は――アレクサンダーはどう言う子供だったんですか?」
 トルースは看守が入れたコーヒーを啜りながら訪ねた。
 アレクサンダーが気が狂ってるのはトルースの中で確定した事実だった。彼が犯行に及んだのもトルースは疑っていなかった。ただ、アレクサンダーの病的な切り替えはトルースの好奇心をくすぐった。なぜ彼が人を殺したのか理解出来ず、犯行の動機を知りたかった。一応彼女は仕事がらで訪ねたのだが、やはり心の何処かでは個人的にもアレクサンダーに興味を持っていた。
「いい子でしたよ。私はいまだに彼が殺したとは思えないんですよ――これは村全体が知っていることです。彼が悪い子だったと言う人は嘘をついてます」
「いい子と言うと……? 成績がよかったとか?」
「成績の所は私はよく分かりませんが、多分彼は結構優秀だったと思います。私が言いたいのは彼は規則を守り、礼儀正しく、他の子供が喧嘩していたら直ぐに止めに行く子供だったんです」
「もしかしてそれは大人を騙す為の仮面では有りません? つまりただいい子ぶっていたのでは……?」
 看守は手を大げさに振って、眉毛を合わせて真剣な顔になった。
「それは違います。実は彼は酷く恥ずかしがりやで、あまり友達もいませんでした。それに彼は自分の父を手厚く世話してます。毎日食事を作って、洗濯して、買いものに行って」
 ――『……父は……?』アレクサンダーが最初に言った言葉だった。自分の父が一人でなにも出来ないから心配しているのだろうか? それともその言葉の中にはなにか深い意味があるのだろうか? 彼は父が悲しんでいるだけだと聞くと安心した――トルースは直感的にアレクサンダーがなにかを隠してると思った。
 心の隅で産まれた疑問が晴れぬまま、トルースは看守にコーヒーのお礼を言ってから急ぎ足でアレクサンダーの父が住む家に向かった。村自体小さいので、二分ほど歩くだけでアレクサンダーの家に付いた。住所は予め調べておいたのだ。村の中心から五十メートル東北に離れていた。

 三階建ての一軒家。庭の芝生は綺麗に刈られていて、柵も一週間前塗られたように新しく見えた。これも全てアレクサンダーがやったのだろうか? 
 トルースは明るい木で作られたドアをノックした。呼び鈴を一応探したのだが、どこにもなかった。多分この村で呼び鈴は必要ないのだろう。なぜならこの村は夜のように静寂で車の音は聞こえず、時々犬が吠えるだけだった。
「誰ですか?」
 ドアを開けずに、まるで口を覗き穴に当てて喋っているような男の声が聞こえた。
「私はトルースヴァーハイトです。アレクサンダーの弁護士です。彼のお父ようですよね? 少しお話を伺いたいんですが?」
「帰ってくれ。マスコミが今まで私の家を包囲してたんだ。疲れた。帰ってくれ」
「息子さんのためになるかもしれないんですよ。私は弁護士です」
「だったら明日また来てくれ。今日はなにも言うことはない」
 トルースは怒りドアを叩いたが、男の声は途切れてしまった。どうやら明日来るしかないらしい。トルースは父の悲しみを理解出来たが、自分の息子を助けようとしている弁護士とも話さないとはどうかしてると思った。
 ドアに唾を吐きたかったものの、なんとかトルースは持ちこたえ警察署に戻ることにした。ホテルがないので警察署で寝泊まりすることになっていたのだ。
 フラフラと警察署に戻るともう夕方だった。爆弾でも落とされたかのように空は真っ赤に焼け、太陽の光は食堂の窓からトルースを照らしていた。
 眩しいと彼女は思い、席を窓際に移った。これなら太陽は彼女の髪を温めるだけで、光はさほど目に入らない。
「なにか分かりましたか?」
 看守が二人分の食事をトレイに乗せてやってきた。豚肉が入ったスープ、別に大したものではないが、新鮮な材料を使っているらしく、いい香りがした。少なくとも、トルースが働いている法律事務所で食べる食事よりよっぽどましだろう。
「アレクサンダーの父は私と話したくなかった」
「アレクサンダーくんには悪いけど――私は彼の父を好きじゃありません。嫌な人です。なんて言うか、自分のことだけを考えてるというか、自分の意思を通す人です」
 トルースは父の性格が事件と関係しているか考えこみ、黙ってしまった。結局彼女は夕食中沈黙していたが、真相に繋がるような考えは思い浮かばなかった。
 トレイを流しに置きトルースは自分に割り当てられた部屋に行った。小さい部屋でデスクとベッドが一つずつあったが、清潔で、快適まで行かずとも、十分夜を過ごせる所だった。
 窮屈なスーツを脱いで、椅子の背もたれに畳んでかけた。そしてトルースはトランクからパジャマを引っ張り出し、スーパで買ったポリエステルの素材で体を包んだ。
 両腕を天井に向けて、彼女は欠伸をした。大変な一日だった。この村に来るのもある意味一つの冒険だった。そしてやっとマルクトシュヴァーベンに付いたら、不思議な囚人に出会い、彼に対しての偏見は好奇心に変わっていた。
 トルースは髪を結わえ上げ、ナイトテーブルに放り出した新聞を手に取った。これは三日前の古新聞だったが、事件の状況が細かく説明された特集が掲載されていた。もちろんトルースは警察が調べた上げたもっとディープな資料を貰えるはずだった。しかし鑑識が上層部と死体解剖をやるかやらないでもめているらしく、まとまった捜査結果はまだ渡されていない。ただ鑑識で働いている友達から少し事件の真相を聞いただけだった。
 そのためこの事件に関してのトルースの知識は一般人より多くはなかった。だから新聞の特集を取っておいたのだ。
 今彼女は無闇に調べ続けたい本能的な衝動を覚え、自分の気持ちを沈めるためにも、もう一度特集を読みたくなったのだ。もしかしたら読んでる間に眠ってしまうかもしれない。
 部屋のライトを消してナイトランプから漏れる微かな光で彼女は細かく印刷された活字を読み始めた。

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 マルクトシュヴァーベン、九月九日から十日にかけての夜にアレクサンダーシュミッド(14)は彼のクラスメイトが住んでいる家に次々と侵入してクラスメイトとその家族を一人残らず虐殺した。この小さな村は犯罪と言うものを知らないのでほとんどの家のドアはあいていたが、乱暴に鍵を壊して侵入した形跡もある。凶器や殺し方は正によう々で、アレクサンダーは主にその家庭に置いてあった武器を使用したと見られる。彼は一夜にして三十六人を殺し、翌日には自首している。
 さらに数多くの指紋や彼の家に隠してあった血まみれの衣服が彼の犯行を裏付けている。しかしアレクサンダーは自首したものの、取り調べには一切協力的ではなく、口を塞いでいる。その上、十四歳の子供がこのような大量殺人を行えるかどうか問題になっている。
 まだ詳しいことは分かっていないが、犠牲者はいずれも事件の夜、被告の家にクラス会に呼ばれていた。警察はアレクサンダーがなんらかの恨みか要求不満で犯行に及んだのか調べている。
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 最初この記事を読んだ時、心は怒りで支配されてた上にすでに友達から事件を聞いていたので飛ぶように読んだだけだった。今一度読み返してみると、つじつまが合わない所が数カ所あった。
 まず十四の子どもがこんな大量殺人を行うのは体力的不可能だ。大人でも無理そうなのに、まだ筋肉も完成してない幼いアレクサンダーに出来る訳がない。そしてこの事件で一番の謎、なぜ彼は彼らを殺したのか。もしくわなぜ彼は自首しなければならなかったのか。
 無論、アレクサンダーが狂っていると言うのは簡単だ。いや、多分それが正しい答えで、深く考えるのは時間の無駄なのかもしれない。
 ブルリとトルースは震えた。アレクサンダーが見せた屍のような目を思い出したのだ。まるで両目を繰り抜き、黒く塗られたゴルフボールを目の窪みに入れたような顔だった。
 しかし椅子に背中をピンと伸ばして座るアレクサンダーはどうしても狂っているとは思えなかった。あの優しい笑い方は殺人鬼のものではなかった
 だったらやはり彼は真犯人ではなないのか。だが物体証拠がある上にアレクサンダーは自首している。トルースにこの二つの事実は難攻不落の砦に思えた。
(彼じゃないって分かっているのに……!)
 長い髪を結わえた輪ゴムを取り、トルースは髪の毛をぐしゃぐしゃと歪んだ指先でかき回した。
 ため息を付いて彼女は身を投げ出し、ふかふかの枕が彼女の頭を捕まえるのを感じた。フンワリとシャンプの匂いが髪の毛から伝わる。
 不思議にトルースは眠くなった。さっきまでの真実を知りたい衝動は自首と物体的証拠と言う偉大な壁に止められ、考える気力をなくした弁護士は白いシーツと布団の間、欠伸を拳で黙らせながら眠りに付いた。

Symmetrie ― 対称性

 寝心地はよくなかった。第一シーツが一度も使われたことがないらしく固かった。ベッドは柔らかくても、干物のように乾燥したシーツではベッドもまるで鉄の板のようだった。
 そして昨日希望を打ち砕かれても、トルースは夢の中でも考え続け、結局起きたら徹夜をしていたような疲れがドッと溢れてきた。
 欠伸をしながらシャワー室に入るトルースは昨日のようなかっこよさを持ち合わせていなかった。髪は老婆みたいにボサボサで目も少し腫れている。
 だが温かいシャワーを浴びた後、曲がった髪はまた昨日のような直線に変わっていた。赤い目も化粧で隠されてしまった。仕上げに灰色のスーツをピシッと着込み、トルースは鏡に映る自分の姿を微笑みながら頷いた。今日もスーツは決まっている!
 自信に満ちたトルースは軽やかな足取りで食堂に降りて行った。そこには看守がすでにパンを焼いて彼女のことを待っていた。どうやらアレクサンダーにもう食事を持って行ったらしく、彼はラジオを聞きながらリラックスモードに切り替わっている。
「今日はどこにいくんだい?」
「アレクサンダーの父と話してみたい」
「だったら早くするんだな。ほとんどのジャーナリストは村に泊まっていないが、朝御飯を食べたら彼らは全速力で村にやってくる。今なら彼と邪魔されずに話せると思う」
 昨日村に付いたばかりなのでマスコミが毎日都会からやってくるとは知らなかった。だが考えてみたらそうだ。この村に宿はないのだから。
 朝御飯を猛獣のように平らげ、トルースは急ぎ足でアレクサンダーがかつて住んでいた家に向かった。今日は絶対引き下がらないつもりだった。彼が開けるまでドアを叩き続けてやる。
 しかし何回ドアを叩き、シュミッドさんと叫んでも答えさえ帰ってこなかった。まだ寝てるはずはないと思い、トルースはドアノブを回してみた。すると扉はまるで見えない手で押し開けられたみたいにスーと開いた。
 トルースは首をかしげた。いくらこの村で鍵をかけないのが普通だと言ってもマスコミに追われ、しかもあの事件の後は普通戸締りは厳重にするはずなのに。
 少し戸惑いながら(固く見れば家宅侵入罪である)トルースは土足でアレクサンダーの家に入り込んだ。玄関側には靴が一足きっちりと揃えてあった。大きさから見てこれはアレクサンダーの父のもの。つまり彼は外出してない……。
 玄関から左手には小さな食堂とキッチンがあった。真っ直ぐ見ると階段が伸びていて、どうやら寝室がある二階に続いているようだ。トルースは不安で一段一段危なっかしく登った。物音を立てずにやっと二階に登ったら両端にいくつもの扉がある廊下が伸びていた。
 耳を一番最初のドアに当ててみる。なにも聞こえない。ゆっくりとドアノブを回し、音を立てないように扉を開けた。
 そこは書斎だった。手紙や伝票などが山になって部屋の中心に置かれたデスクを隠していた。壁は天井を支えるかのように立った高い本棚。辞書、ペーパーバックのベストセーラにヘッセを初めとしたドイツ文学もあった。
 読書家だったんだ――トルースは思った――この進歩と科学と言う言葉をしらない村で一番本が多い家庭だろう。少し感動と古い紙の匂いに魅力を感じたトルースは目を細めて数多くの本を眺めた。
 ふと、ある茶色のカーバで包まれた数冊の本が目に入った。上品な皮には金色の文字で年号が書いてあった。トルースはそっと一冊を引きぬき、開いてみた。どうやらアルバムのようだ。アレクサンダーが二三年若かったころの写真が乗っている。嗚呼、そして彼はアレクサンダーの父だろう、目付きが彼に似ている。
 父と子はどの写真でも幸せそうに笑っていた。アレクサンダーが昨日見せた愛想笑いなんかじゃない。写真の向こうにいる二人はまるで赤ん坊みたいに微笑んでいた。
 自分が違法的に家に侵入してることも忘れて次のアルバムを引っ張り出した。今度はアレクサンダーがもっと幼い時のころだろう。親子が三人並んで写っている。
 トルースは親指でアレクサンダーの写真を撫でて、視線はアレクサンダーからその隣に立った女の人に行った。トルースは息を飲まないではいられなかった。彼女はまるでアレクサンダーの生き写しだった。彼の髪の毛を伸ばせば間違いなく彼女との違いは分からないだろう。それほどアレクサンダーの母は彼に似ていた。
 不思議な気持ちでトルースはアルバムをもとに戻し、今度は彼女の好奇心はデスクの上に乱雑に置かれた紙の山に向いた。どうやらほとんどはアレクサンダーの父がシャルルと言う女性と交わした手紙らしい。トルースはアレクサンダーの父の名前がマルコスだということも知った。
 手紙が書かれた日付に合わして整理し、読んでみた。しかし実に時間の無駄に思える手紙ばかりだった。『お元気ですか?』で始まり、そのあとは天気のことを書き、『お返事ください』で終わる。正につまらない手紙集から移されたような文面であった。
 しかしそれでも辛抱強く最後まで読んだ甲斐はあった、なぜなら一番最後の手紙――日付は丁度9月一日――シャルルと言う女性は9月9日にマルクトシュヴァーベンに来て親戚の家に止まると書いていた。さらに親戚の子供はアレクサンダーとクラスメイトらしい。
 9日と言うと事件の日ではないかとトルースは思い、彼女が事件と関係あるのか考えた。しかしアレクサンダーがこの手紙を読んだのか疑わしい、それにシャルルはアレクサンダーとどのような関係があるのだろう?
 トルースは首をかしげながら、ここに来た理由を思い出した。
 もう長居しすぎたとトルースは慌てながら、書斎から次の部屋に続くドアを開けた。
 その部屋はカーテンが閉めきっていて薄暗かった。だがトルースは天井からぶら下がったサンドバックのような得体のしれない影は暗闇でも見逃さなかった。恐る恐る電気をパチンと付けると、それは写真で微笑んでいたアレクサンダーの父親だった。今は青ざめ、目玉が飛び出しそうな無残にも変形した顔でトルースを眺めていた。
 トルースは手で口を抑え後ずさりした。弁護士として死体の写真は幾度も見たことはあるが、生でしかも第一発見者として屍を見たことはなかった。
 胃が逆流する感じがして、トルースは白いカーペットに朝食に食べたトーストを履いてしまった。口の中は胃液で昇華された嘔吐物の匂いで包まれ、彼女はまた吐く衝動にかられた。ハンカチを唇に押し付け、彼女はバスルームを探した。幸いトイレは書斎の直ぐ横で、トルースは口に残った嘔吐物を胸糞悪さと共に流し洗うことができた。
 ため息を付いて、トルースは携帯を掴んだ。警察署に電話して状況を説明したら、街でただ一人の警官はアレクサンダーを一人にできないと言い、都会の警察に電話を掛けると約束した。
 警察がくるまで三十分はかかるだろうとトルースは思った。普通でも一時間山道をドライブしないといけないんだからいくら警察が速くともそれ以上時間は縮まらないだろう。しかしその間死体と一緒の家にいたくないのでトルースは外で待つことにした。
 玄関から出て、庭に座り込んだトルースは直ぐに携帯電話を取り出していた。死体を見たショックはすでに消えて、彼女の頭にはある推理ができあがっていた――この推理はアレクサンダーの父が自殺して初めて、まるで稲妻に打たれたみたいに突然思い付いた突飛な考えだった。しかしその為には裏付けが必要だ。彼女は私立探偵の友達に電話をかけた。彼なら彼女が知りたい情報を一時間いないで調べてくれるだろう。
「はい、ジョン私立探偵事務所です」
「トルースです」
「嗚呼、今日は。なにかね?」
「アレクサンダーシュミッドの家族の情報を知りたい。一時間でできるだけ細かく、血液型とかも」
「……人使いが荒いな。金はちゃんと払うんだろうな」
「多分払わない」
「分かった。こちらに帰ったら私といっぱい飲みに行くだけでいい」
「ありがとう」
 トルースはニッコリ笑って電話を切った。ジョンは昔から彼女にお熱で、彼女とデートできるならほとんどなんでもやる。
 後は一時間まつだけだ。そしたら真相は突き止められる。トルースは手を摺りあわせて喜ばずにはいられなかった。
「……おねぇちゃん、そこでなにしてるの?」
 驚いてトルースは顔を上げた。彼女の前には六歳ぐらいの男の子が暗い目で立っていた。白いティーシャツにジーンズはフックで止めてある。生意気で悪戯そうな子だったが、今は悲しみにくれているらしく、地面を見つめていた。
「うっ、うーんお姉ちゃんは別に何もしてないよ」
「事件の犯人捕まえたいんでしょ」
「なんで分かるの?」
 トルースは少し驚いて尋ねたら、彼は人差し指でトルースの胸をさした。嗚呼、彼はバッジで分かったんだなとトルースは理解した。
「犯人はアレクサンダーじゃないよ」
「なぜそう思うの?」
「だってアレクサンダーはそう言う兄ちゃんじゃないもん」
 トルースは微笑んで頷いた。彼の言うとおりだっと思ったが根拠はまだないし、この子供と話しても意味がないと思ったのだ。しかしいくら彼を追っ払おうとしても彼は馴れ馴れしくトルースにくっついてくるので、彼女は仕方なく警察が来るまで男の子の相手をした。

Beweis ― 証明

 警察は大体四十五分後に到着した。どうやら一大事と思い、急な山道を百五十キロで飛んできたらしい。しかしトルースが自殺だと説明すると彼らは少し落ち込んだようだった。それでも彼らは現場の写真を取り、鑑識が虫眼鏡と指紋を浮かび上がらせる液体を取り出した。
「まだ遺書は見つかってませんが、多分自殺ですね」鑑識が机を調べながら言い、さらに付け加えた。「多分あの悲劇のせいでしょうね」
 トルースは考えながら頷いた。まだあの寝室の地獄図が目の前に張り付き、思い出しただけでも気分が悪くなる。
「あと同僚から頼まれました。あの事件の鑑識結果です」
 サイドバッグからクリーム色の封筒を取り出して、刑事はトルースに渡した。
「ありがとう。では私はこれで……」
 見つけた状況は嫌と言うほど説明したのだ。もう彼らがトルースを引き止める必要はなかった。彼女は封筒を開けながら外に出た。すでに日光が木々に邪魔されずに人々を照らしている。
 その光を頼りにしてトルースは詳しい鑑識結果を読み始めた。特に面白い発見は残念ながらなかった。ただアレクサンダーがもう死んでいるのに被害者の遺体をさらに傷つけた事が分かった。それに大人の被害者は全員眠り薬を飲まされていた。鑑識の調べによるとその眠り薬は効くまで二三時間かかるが、そしたら次の十時間は絶対に目が覚めない強力な薬らしい。
 これで一つの謎が解けた。彼は被害者と争ったわけではないのだ。多分彼はパーティで眠り薬を酒に混ぜて、大人たちに反撃するチャンスを与えなかったのだ。だったら子どもでもあの人数を殺せるだろう。
 胸のポケット閉まった携帯が震えた。どうやらジョンは調べ終わったのだろう。
「もしもし」
「ジョンだ。アレクサンダーの家族を調べた」
「それで?」
「訊いて驚くな、アレクサンダーの母、シャルルが夫――これはマルクスシュミッドではなく彼と離婚したとすぐに結婚したやつだが――9月八日にマルクトシュヴァーベンに向かっている」
「嘘だ! そして彼女は今どこに?」
「マルクトシュヴァーベンに付く前に、運転を誤って山から墜落している。どうやら即死だったようだ」
 トルースは目まぐるしく考え始めた。まるで今まで影も形も見えなかったパズルが音を立てて繋がっていくようだった。アレクサンダーの母がシャルルで事件前日マルクトシュヴァーベンに出向いている。しかし村に付く前に不幸にも転落している。
 これで全て分かった。トルースは不敵に笑い、警察署に歩いて行った。

W.Z.B.W. ― かく示された

「アレクサンダーくん、今日は」
「フラウヴァーハイト、今日は」
 独房の中、アレクサンダーは目を軽く瞑り微笑んだ。彼はまだ父が死んだという事実を聞かされてない。もしトルースが彼にそのニュースを伝えたら、彼はどれほど取り乱すだろうか?
「もう一度聞くわ、貴方が犯人なの」
「うん。間違いない」
 トルースはアレクサンダーが壁に投げつけたまま床に転がっていた折り畳み椅子を開いて座り込んだ。
「貴方は嘘を付いている」
 自分の推理に彼女は自信があったが、確信とまではいかないので黙ってアレクサンダーの反応を見ていた。しかし彼は俯いて口を閉じていた。まるで最初からトルースが彼の嘘を見抜くを待っていたように。
「昨日君は叫んだ。殺した男がナイフで差しても、それを引きぬいて向かってくると。しかしそれは不可能だ。被害者は一人残らず全員眠り薬を飲んでいる。彼らが起き上がり、ましてナイフを体から引き抜くなんて無理なんだ」
 トルースの説明を頭を下げアレクサンダーは聞いていたが、やがて諦めたように顔を上げてニッコリと笑った。
「やっぱりバレちゃったか」
「それだけじゃない。君は真相を知っているから、私の推理を確認してくれるかな?」
「うん」
「犯人は君の父だ。彼は9月九日態と例のパーティを開いて、客に眠り薬を飲ませた。そして彼らが皆帰り、眠りに付いたころを見計らって、彼は一人ずつ殺した」
 アレクサンダーの顔には少し不安の色が浮かんだ。悲しみにくれているのは村の住人だけではない。真相を知り、自分の父が殺人鬼である事実は悪夢となりアレクサンダーの眠りを妨げているだろう。彼が泣き出さないのは精神力だろうか、それとも……? トルースは直感的にアレクサンダーが本当の感情を表さない理由が分かった。彼は泣けないのだ。
「……証拠と動機は?」
「動機は私もよく分からない。ただ彼の本当の目的はシャルルと言う女性を殺すことだったのだろう。しかしシャルルはパーティに来なかった、だから彼はシャルルが泊まると思われる家の住人を抹殺することにした。だが彼はシャルルが君のクラスメイトのおばさんだと分かっていたが、どのクラスメイトだか知らなかった。だから彼は君のクラスメイトの家族全員を殺さなければならなかった」
「シャルルはどうした?」
 アレクサンダーは自分の母を前の名前で尋ねた。その声には嫌悪と憎しみが混ざったまるで唾を吐くような言い方だった。
「9月八日、マルクトシュヴァーベンに続く道で交通事故にあっている」
 クスリとアレクサンダーは口に手を当てて笑った。
「彼女が死んで嬉しい?」
「嬉しいと言ったら父に怒られる。でも彼女は死んで同然な人間だった」
「全てを話してくれるかな?」
「その前に父が犯人だと決定的な証拠はあるのかい?」
「ない」
 トルースは苦虫を潰したような声で言った。多分警察を騒動させてこの村を隅から隅まで探し上げれば見つかるだろうが、警察はこの事件に積極的ではなかった。犯人は自首しているのだし、この人里はなれた村に大勢の警官を指名するのは税金の無駄遣いだと思われた。
「それでいい。あったら多分僕は口を割らなかったから。
 まず僕の人生からお話ししたほうがいいだろう。僕はシャルルと父の間に産まれたたった一人の子供だ。幼いころの記憶はあまりない。だが物心が付いてから、僕はのけ者だと知った。シャルルは父と結婚して僕を生んだ後、他の男を愛し始めたのだろう。そして父とシャルルの関係はドンドン悪くなっていった――勘違いしないでくれ、悪いのはシャルルの方だ。彼女は文句を色々言い、父に仕事を押し付けた。しかし父は一度も文句を言わなかった、彼はシャルルを本当に心のそこから愛していたのだから。
 だが父は仕事でほとんど何時も家にいなかった。だからシャルルの怒りと要求不満の帆咲は僕に向けられた。
 児童虐待、虐め、拷問、どんな言葉を使ってもいいが僕はあの時を思い出したくない。僕はなんどもなんどもシャルルの仕打ちを父に訴えようとしたが、彼が母に振り回されても無言で笑っているのを見ると、僕はなにも言えなかった。父はシャルルといることで幸せだったんだ。僕に彼の幸福を破壊する権利などないと思った。
 その一方、シャルルは離婚を父に申し出ていた。後で聞いたことによると父は何時もアレクサンダーがいる限り離婚するのはよくないと、断っていたんだ。そうしてシャルルの虐待はエスカレートした。『お前さえいなければ!』ってね。理不尽でしょ?」
 アレクサンダーはブルリど震え、腕を触った。多分囚人服の下には数知れない虐めの傷が残っているのだろう。その痛みが蘇り、彼は無意識的に腕を握りしめたのだろうか?
「しかしある日父が仕事から少し早く帰ってきた。もしかしたらシャルルは態と父に見せつけるために僕に対する虐めを長引かせたのかもしれない。うっすらとしか覚えていないが、その時僕は上を着てなかったんだろう。無数の傷後を見た父は直ぐに理解したらしく、怒り狂った。直ぐに父は離婚書を届け、僕を引き取り、この村に来た――それが僕の九歳の夏だった。
 僕は父を心から愛している。シャルルと一緒にいた時は生きる勇気を与えてくれたし、最後は僕を彼女のかぎつめから救ってくれた。僕のただ一つ願いは父から愛し返されることだった。
 だが神はその僕の素朴な願いさえ叶えてはくれなかった。ここに引っ越してきた後、父は僕を憎み始めたのだ。『お前さえいなければシャルルと離婚しなかったのに』と彼はよく言った。僕はどうしていいか分からなかった。嗚呼、父が望むのなら心臓を抉り出して父に捧げただろう。父がシャルルなしで生きられないように僕の父に対する愛情は強かった。僕は父の為にはなんでもすると天に誓った」
 アレクサンダーが喋るのを止めたので、トルースはこれが事件の真相かと思ったがアレクサンダーはただ簡単な質問をするために言葉を切ったのである。
「僕ってシャルルに似ている?」
「う、うん。でも写真で見ただけだからよく分からない」
 悲しそうにアレクサンダーは両手を反対側の肩に置き、自分を軽く抱きしめた。
「父はよく僕がシャルルに似ていると言っていた。そして僕の顔に思春期の影響でニキビが出来る少し前のある夜、突然父が部屋に入ってきた――その日を堺に父は時々僕と寝た」
 ギュッとアレクサンダーの指はオレンジ色の囚人服を手の中に包み込んだ。彼は床を向き、泣きそうだった。多分一言一言、体に食い込んだ銃の弾のように痛むのだろう。
「僕は全て父に捧げるつもりだった。例えこの体でさえも。
 最初は痛かったが、僕はこれが父の愛情だと思った。そう思わなければいられなかったのだ。父が僕をあの女と混合して、ただ自分の性的欲望を晴らすためだと信じたくなかった。
 この汚れた顔はシャルルに似ていると言う事実は僕は絶対に受け付けたくなかった」
 アレクサンダーは今や体を前に倒し、まるで椅子の上で蹲っているように細かく震えていた。
 鉄格子の向こう、トルースは驚かないではいられなかった。アレクサンダーの過去がこれほど深く、複雑だとは思っても見なかった。マルコスとシャルル、二人とも酷い親だった。自分のことしか考えず、二人の愛の結晶であるはずのアレクサンダーは二人はまるでゴミのように扱った。
「事件当夜を話してくれるかな?」
「……その夜までなにも知らなかった。ただ父が夜中に出かけに行くの追って、彼が殺人をするのを観てしまったんだ。僕は怖くなったが、父がまるで狂人のように猫背になって斧を振り回すのを見ると、僕は彼が刑務所に行くのを覚悟していると分かった。だが僕はそんなことが起こるのは許せなかった。だから父が殺しを行った家に入り、出来るだけ念入りに彼の指紋などを拭きとって態と僕のを残してきたんだ。そして次の日、僕は父に自首するから彼は話を合わせるようにと言い聞かして、警察署に出頭した――フラウヴァーハイト、今まで騙していてすいません。これが真実です」
 アレクサンダーは深呼吸して姿勢を伸ばした。彼は笑ってはいなかった。笑顔でもない、しかし安らかな顔だった。今まで自分の胸に閉まっていた秘密を打ち明けて心が軽くなったのだろう。
「これはあくまで私の推測だが、君は私に信じてほしくて、昨日あんな態度をしたのかい?」
「そうです。昨日全てを話したかった。だけど多分貴方は信じてくれないと思ったから、貴方の好奇心を引かなければならなかった」
「私は貴方を無実を証明して見せる」
「いいです。僕は父の罪を償うために少年院でも刑務所にでもいきます(死刑はドイツではない)。だからフラウヴァーハイトさん、僕をそっとしておいてください」
「アレクサンダーくん、これから私が言うことは君を混乱させるかもしてないけど、ゆっくりと聞いてね」トルースは前置きをしなければこの事実をかれにつたえられなかった。「君の父、マルコスシュミッドは今日の朝自殺死体で発見された」
 数秒沈黙が続いた。アレクサンダーの表情は凍りつき、トルースが言った事を理解するまで少しかかった。
「う、嘘だ……嘘だ……!」
「嘘じゃないわ。事実よ」
 そう言ってトルースは現場の写真をアレクサンダーに見せた。
 ポロリと一粒の涙がアレクサンダーの頬を転がり、それに続きまるで雪崩のように涙は彼の目から溢れてきた。彼は絶叫を上げ、よろめきながら椅子から倒れた。拳をコンクリートの床に叩きつけ、さらにまた意味不明な事を叫んだ。
 トルースはアレクサンダーの悲しみを心がギュッと締め付けられるように理解した。全てを尽くし父を守ったのにその父が自殺するとは、アレクサンダーは初めて父に裏切られた思ったのだ。
「なぜ? 僕は父を守れなかった! なぜなんだヨォオオオ?」
 トルースに質問するように叫び、アレクサンダーはまた泣き出した。無言で出来るだけ暖かいまなざしでトルースはアレクサンダーが泣き止むのをまった。
 父と母が死んだ今、彼を助けられるのは彼女だけだった。なんとしても彼に生きる気力を取り戻させなければとトルースは思った。

「フラウヴァーハイト、出ていってください」
 一時間もしただろうか、アレクサンダーは独房の角でうずくまっていた。
「私が出て行ったら、君は自殺するつもりだろう? 私は君の無実を証明する。だが君の助けなしでは無理だ。正直に全てを警察に話したら、彼らも君を助けてくれるだろう」
「例え父が死んだとしても、彼の名誉が怪我されるのは僕が許しません。だから僕に今死なせてください。もうこの世界はいい」
「シャルルの話しをしよう。彼女はマルコスと離婚した後、直ぐに他の男と付き合っている。そして九ヶ月後その二人の間で子どもが生まれるが、シャルルのボーイフレンドはその後彼女と別れている
 問題なのは血液型だ。シャルルはO型だった。マルコスはB型で、シャルルのボーイフレンドはA型。でもシャルルとボーイフレンドの間に産まれた子供はB型だったんだ。O型とA型の間でそんな事はありえない。つまりその子供はマルコスとシャルルの息子なんだ。
 君の弟だよ!」
 アレクサンダーは顔を上げていた。信じられないと彼は小さな声で言った。離婚するすぐ前、マルコスとシャルルは交わっていた。もしかしたらマルコスが強制的にやったのかもしれない。もしかしたら最後のセックスとしてやったのかもしれない。それとも、もしかしたら、本当は心の底で二人は愛し合っていたのかもしれない。その答えは誰にも分からないし、真実は太陽の光を見ることはないだろう。しかしマルコスとシャルルがアレクサンダーに与えた唯一プレゼントだと言うことは変りない。
「彼は今どこに……?」
「シャルルは彼のことを面倒見切れなかったから親戚がいるこの村に送った。彼女が泊まるはずだった家にね。その親戚も子供を持っていて貴方のクラスメイトだった。だが心配ない。事件当日君の弟は友達の家に止まっているから、君の父が彼に手をかけることはなかった。
 リオ、入っておいで」
 ドアを幼い手で押し開け、現れたのは先ほどアレクサンダーの家の前でトルースと遊んだ男の子だった。指を口に加え、好奇心に満ちた目でアレクサンダーを見つめている。彼はまだアレクサンダーが兄だということを理解していないのだろう。
「彼が……僕の弟、リオ?」
 トルースは頷いた。アレクサンダーの目にはまた微かだが生きている人間の煌きが宿った。若さと幸福に溢れるリオを見て、アレクサンダーは生きる勇気を感じたのかもしれない。
「もし貴方が自分の為に生きられないのなら、彼の為に戦って! リオに残された血の繋がった親戚は貴方だけ。貴方が死んでしまったら彼は本当に天涯孤独よ」
「……生きる……?」
 アレクサンダーは膝に顎を当てて、言葉の意味を忘れたようにトルースに聞き返した。
「そうよ生きなさい」
 そしてゆっくりとアレクサンダーはコクリと頷き立ち上がった。彼の瞳には一抹の不安もなかった。今までどの修羅場もくぐって来たのだ。彼はリオと共に生き続けるだろう。例え父が死んだとしても、今は彼に取って血を分けた弟の方が大事だった。
 アレクサンダーはもう一人ではなかった。

<hoc est initium>

アレクサンダーの微笑み

ここまで読んでくださった読者の皆様、本当にありがとうございました。誤字や文章の矛盾がございましたら、教えてください、お願いします。

ノート(別に読まなくても良いです)
*マルクトシュヴァーベンは実在するが、作品中のように小さくはなく、都会からも離れてない。ミュヘン郊外の村である。
*ドイツには死刑は存在しない。その上未成年は法律上、罪には問わない。

_MariaN_

アレクサンダーの微笑み

ある小さな村で、一夜にして三十六人が虐殺される。その犯人は直ぐに十四歳のアレクサンダーだと判明し、弁護士のトルースヴァーハイトがその村に送られ、彼女はアレクサンダーに疑惑を抱きながら事件を調査し始める。トルースが突き止めるのは決して晴れやかな真実ではなかった。ただ彼女はアレクサンダーの過去と、彼が背負った運命と言う十字架を知ることになる(46枚)。

  • 小説
  • 短編
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-05-07

Copyrighted
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  1. Flaeche ― 平面
  2. Punkt ― 点
  3. Symmetrie ― 対称性
  4. Beweis ― 証明
  5. W.Z.B.W. ― かく示された