短編集 Ⅱ

短編集 Ⅱ

11 絶対喋らない

 ミサオに会った。
 衝撃だ。
 面談のあと母と入った甘味家で。中3の男が母とお汁粉食ってた。
 篠田が、大嫌いな篠田が女の子を連れて入ってきた。俺は見つからないよう下を向いた。あいつはすぐに気がついた。含み笑い。マザコンの優等生……
 あいつが、硬派の篠田が女の子を?
「新しい奥さんの連れ子かしら? 真面目そうな子。美女と野獣ね」
 連れ子は男の子のはずだ。
 離れた席でも彼女は光っていた。同じ年か? ミサオ、と呼ぶのが聞こえた。彼女は篠田さん、と呼んでいる。話しているんだろうな。俺のことを。この年でママとお汁粉、呆れるぜ……
 彼女はこっちを見て微笑んだ。 無邪気な屈託のない笑い。自分のことを笑われているんだろうに情けない。 
 母は俺の口を拭く。やめろよ、とも言えない。彼女に聞こえるから。立ち上がり横を通る。篠田はなにも言わない。しかし、変わるもんだ。目つきの悪い篠田の目が、人のいい優しい目をしていた。恋の魔力か?

 次に会ったのは本屋だった。彼女は篠田と入試問題を見ていた。篠田が本屋に? 高校いくのか? 学校にも来ていないのに。ふたりは楽しそうに話し、何冊か買い出て行った。彼女は俺に気がつかなかったのか? 意識の中にも入らないのか? なぜ篠田なんだ?

 数ヶ月、思っていた。しかし薄れていく。篠田は違うクラスだし、この頃は登校しているようだが話すこともない。感じが変わった。先生もびっくりしていた。彼女のせいだ。真面目に高校に行く気になったらしい。家でもうまくやっているらしい。新しい母親とも義弟とも。

 H高の入学式。大勢の生徒に保護者。同じクラスに操がいた。周りの男子は息を呑む。近寄りがたい雰囲気の女。篠田と一緒のときとは全然違う。彼女は俺の斜め右前。頭もいいらしい。クラス委員は俺と彼女、のはずだったが、先生は言い直した。違う女子に。操は家の事情でバイトの許可をもらっていた。
 操は頭がよかった。俺は勝てない。勝てたのは国語の時間だけだ。詩を暗唱する。俺がミラボー橋を暗唱し終わると先生はフランス語で歌い出した。操の冷ややかな表情。頭にきて俺も歌った。父母が聞いていたシャンソンだ。フランス語で先生と最後まで歌うと拍手喝采。操は無表情。この女には詩も歌も理解できない。頭はいいがバカだ。

 操は婦人服売り場でバイトをしている。品出しや値札付け。8時まで働いている。家庭の事情。篠田は知っているんだろう。水曜日、バイトは休みのようだ。M橋で篠田は待っている。以前のとげとげしさは微塵もない。操を待っている。操は篠田に会うとあの笑顔。俺には……教室では見せないくせに。ふたりは橋を渡っていく。毎週水曜日、M橋で俺はふたりを見送る……

 2年になって篠田がM橋で俺を待っていた。
「操を泣かせるな」
「?」
 操の帰りが遅い。
 俺と会っていることになっていた。篠田が問い詰めると泣いた……
「そうなるとは思ってたよ。操はおまえを好きになると……」
 篠田は勝手に誤解をし、
「かわいそうな子なんだよ。大事にしてやってくれ」
 わけがわからない。

 翌日操に言うと、初めて俺の目を見て謝った。そしてお願いされた。
「そういうことにしておいて」
「……」
「お願い……三沢くん」
 みつめられ断れるはずがない。
 断れないからどんどんエスカレートしていく。

 次に篠田とM橋で会ったとき、篠田はいきなり殴りかかってきた。柔道をやっていた俺は手は出せない。
「女を殴るなんて最低だ」
 バカな、俺が操を殴ったことになっている。冗談じゃない。本当のことを言おうとして言えなかった。俺は2度と手をあげない、と誓わされた。

 休み時間、屋上に操を呼び出した。頬がうっすら青くなっていた。長い髪で隠していたのだろう。
「お願い。あなたがやったことにして」
「冗談じゃない。篠田に殺される。言えよ。相手は誰だ?」
 次の言葉。俺はなにを言われたのかわからなかった。
「エンコウ」
「?」
「してるの」
「?」
「バイト先に来て、娘に選んでほしいってマフラー選ばせて私にプレゼントしてくれた。父だと思ってたの。私の本当の父親が探してくれたんだって。いろいろプレゼントしてくれて、小遣いもくれ、勉強できる部屋も借りてくれた。名乗れないけど父だと信じていた」
 声も出ない。
「篠田さんに知られたら……殺すわ。だから言わないで。話を合わせて」
「……」
「お願い……三沢くん」
 チャイムが鳴りそれから操は俺の顔を見なかった。なぜ俺に告白した? 俺の気持ちを知っているくせに。

 バイトのあと、操を付けた。彼女はタクシーを捕まえた。俺もあとを付け小さなマンションの前で降りた。エレベーターが3階で止まっていた。
 どうする? 止められない。叩きのめす。窓から放り投げてやる。自分がこんなに激昂するなんて。止められない。父にそっくりだ。
 俺は片端からインターフォンを鳴らし操を呼んだ。端の部屋の男がその男だとわかった。操が見ている前で急所を思いきり蹴って操を連れて逃げた。
「なんてことをしてくれたの? あなたはバカだわ」
 言いながら彼女は笑った。いや、泣いたのか?
 俺はバカだ。夜道を操の手を取って歩いた。彼女は覚悟を決めた。夜遅く叔父の家にふたりで行った。
 後始末は弁護士の叔父に頼んだ。俺はどうなってもいいが、操のことは絶対守ってくれと。
 
 なにも起きなかった。両親にも知られなかった。男に俺を訴えることはできなかったし、男の罪のほうが大きすぎる。蹴り足りなかった。まだ怒りが収まらない。

 解放された操は俺に感謝した。
「軽蔑して。私を」
「……」
「篠田さんには言わないで」
「……お願い、三沢くん、か。言わないよ。絶対」
 ばれてしまえばよかったんだ。篠田に愛想を尽かされ、捨てられればよかったんだ。

 哀れな女だ。操はそのあと結核がみつかり療養した。篠田は見舞いに行かない俺を責める。操は俺を愛しているのだと誤解している。
 行きたいよ。飛んで行きたい。ずっとそばにいてやりたい。操が望んでくれるなら。
「もう無理なんだ。あんな女とは付き合えない」
 篠田に殴られてやり、操のことは篠田に任せる。操が愛してるのはおまえなんだ。おまえには死んでも知られたくない。俺は生涯喋らない。俺は忘れる。

 操は2年の後半と、3年の前半休んだが戻ってきた。篠田がその間励ましていたのがわかる。戻ってきた彼女は長い髪をばっさり切っていた。よく笑うようになっていた。療養していた間、たくさん本を読んだらしい。思慮深くなっていた。俺に向けられた目は穏やかだった。俺が愛してるなんてこれっぽっちも思っていないのか? なぜ篠田なんだ?

 卒業間際、彼女に屋上に呼び出された。篠田のことを話す。幸せそうに。
「M橋から飛び降りて死のうと思ってたの。篠田さんがバイクで通りかかり止めてくれた」
 操の出生、父親だと思っていた男は酒に酔い話した。母親には他に男がいた……
「母が死んでてくれててよかった。篠田さんは高校進学を諦めていた私にお金を貸してくれた。父にもよくしてくれるの。私には神様みたいな人なの。あなたは恩人だわ。一生忘れない」
 一生忘れない。それだけで充分だ。

 何年かしてふたりが結婚したことを聞いた。そして何年かして篠田は俺を呼び出した。指定された店に行くと篠田は酔っていた。ボロボロだった。
 父親の会社が倒産。
「頼みがある。おまえ、まだひとりだろ? なんで結婚しない? 操をまだ愛してるだろ? 忘れられないんだろ?」
 篠田はまだ誤解していた。俺と操は愛し合いながら、操の出自と結核。三沢家の嫁にはできないからと諦めた……
 操の初めての男だと思っている。
「操もおまえを愛している。あいつに貧乏生活はさせられない」
 ボロボロの篠田を家の前まで送る。豪華なマンション。篠田は、操に会っていけ、と離さなかった。
 連れて行かれた篠田の部屋。10年近く会わなかった操、子供のいない彼女はまた笑わない女になっていた。
「操、おまえの愛しい三沢を連れてきてやったぞ。会いたかっただろ? 隠れて会ってたか?」
 操はひとことも喋らずコーヒーを入れた。
「どうなってるんだ? 君たちは?」
「金の切れ目が縁の切れ目。操は、俺と別れて三沢と一緒になれ」
 勝手なことを喋りソファーで眠る篠田に操は毛布をかける。
「贅沢な生活も続かなかったわね。金の切れ目が縁の切れ目」
「本心じゃないだろう?」
「……子供ができないの。天罰かも」
「そんな天罰はない」

 できる限りのものを操に残し、ふたりは別れた。豪華なマンションは売られ篠田は再出発した。操を見守ってやってくれと篠田は頭を下げた。力になってやってくれと。
 操は働き始めた。俺は彼女の働いている紳士服店へ行った。スーツを試着する。彼女は1番高いのを持ってくる。愛想笑いでも嬉しい。言われるままにカードを出す。
 操はひとりで生きていく決心をしていた。子供好きな篠田のために操は別れた。まだ篠田は若いからと。

 操が働きすぎで寝込んだ。俺は篠田のために彼女に会う。少しでも俺を見てほしかった。しかしそれは叶わない。彼女は篠田の様子を聞くために俺と会う。
 篠田の事務所を訪れた。
「操は元気か?」
「結核が再発した。もう俺には無理だ。見合いした。結婚するんだ」
 篠田は仕事を放り出して飛び出して行った。

12 思い出

 もうすぐ30歳になる。また見合いだ。いやになる。夏の終わり、久しぶりにプールで泳いだ。日曜の3時。そこに目を引く若い女がいた。延々と泳いでいる。広い肩幅。クロールと背泳を交互に。俺は同じコースであとを追った。等間隔でずっと泳いだ。彼女は自分のペースを崩さず4時に上がり更衣室へ行った。
 急いでシャワーを浴び着替えた。受付の近くで待つ。帽子とゴーグルで髪型も目もわからない。
 しばらくして彼女は来た。あの肩幅。ダメだ。若すぎる。まだ高校生かもしれない。化粧していない光っている肌。染めていない長い黒髪、目が印象的だ。スタイルもいい。肩幅だけ広すぎるが。おしゃれとはいえない服。しかしそのほうが引き立つ。
 彼女は歩き出す。誘うのは……できない。ただあとをつけた。彼女は近くのラーメン屋に入った。時間は5時前。
 俺は少し考え店に入った。まだ客はいない。彼女もいない? 夫婦でやっている店らしかった。彼女はこの店の娘か? ラーメンを注文する。しばらくして運んできたのは彼女だった。長い髪を束ね、営業用の愛想笑い。働いているのか? この店で?
 彼女はサッちゃん。入ってきた常連客がそう呼んだ。幸子か? 繁盛している店だった。幸子目当ての客が多い。近所の若い工員が気安くサッちゃん、と呼ぶ。彼女はきびきび動く。会計は暗算で素早い。俺は釣りをもらい彼女の手を見て驚いた。若い女の手ではない。大きくて苦労した手だった。傷があった。手のひらに……小1時間いて得た情報。年は18歳。名前は幸子。秋田か青森の出身。中卒で東京に出てきて家に仕送りしている。水泳が楽しみ。今日も泳いできたのか? と聞かれていた。店は9時まで。
 9時に店の前で待つ。幸子は俺を見て戸惑い……無視して歩き出した。深呼吸して走り出す。まさか走って逃げるとは……それが速い。追いかけ肩をつかむと……不覚。彼女は腕を振り上げ、振り下ろし一瞬で逃げた。護身術か?

 翌日仕事帰りに寄った。彼女が注文を取りに来た。ビールと高い順に3品頼む。店主の愛想がよくなる。
「顔が引きつってるぞ」
 上客の俺に営業用の笑顔。石鹸の香り。
「今日も泳いできたのか?」
「……銭湯行くより安いの」
 彼女は客に言われ領収書を書く。難しいワタナベ、と言われポケットからメモ用紙を出しさらさら書く。難しいワタナベを何種類も書けるのか?
 俺も領収書をもらう。
「ツゲ」
 幸子はメモ用紙に書く。
(拓殖)
 難しい名前を探す。
「リンタロウ」
(林太郎、麟太郎、凛太郎)
 1週間通い詰めた。営業用の愛想のいい笑顔。店の常連客が幸子のおかげでまた増えた。母は察した。だが、聞いたら驚くだろう。論外だと。
 毎日領収書をもらう。徳川慶喜、諸葛亮。幸子はメモにサラサラ書いて笑う。愛想笑いではない。楽しんでいる。
「今日は誰?」
「スティーブン、キング」
(Stephen King)
「君の好きな名前でいいよ」
(ヒースクリフ)
「今読んでるの」

 日曜日3時のプール。幸子は泳いでいた。あとをつける。彼女は笑った。営業用ではない。その日はラーメン屋まで並んで歩いた。
「9時に待ってる」
 彼女は頷いた。
 久しぶりに家で食事した。見合いは断った。母は彼女がいるなら連れてこいと言う。まだ彼女ではないし、不可能な恋。
 その夜から9時に店の外で待ち彼女を送る。風呂もないアパート。幸子は11歳上の男を恋愛対象とは思っていない。おにいさん、と呼ぶ。言葉に訛りが残る。
「田舎に帰りたい」
 愛しくて抱きしめた。
 足を踏まれる前に離し飛びのいた。
 おにいさんが抱き締めてはいけなかった。
「俺がおまえの故郷になってやる」
 なぜそんなことを言ったのか?
 立ち去るなら2度とは会わない。諦める。諦めて見合いして結婚する。
 幸子は立ち止まった。心の声が聞こえたのか? ひとりで健気に生きてきた幸子が泣き崩れた。

 初めて部屋に入った。殺風景な部屋。初めてインスタントコーヒーを飲んだ。砂糖と粉末ミルクの微妙なバランス。
「おいしいでしょ?」
「ああ。うまい。毎日飲みたい」
 テレビもない。働いてるラーメン屋では常についている。幸子は物知りだった。ニュースにワイドショー、政治、スポーツ、雑学、俺の知らないことを知っていた。中学の成績は良かった。漢字と数学、歴史の本があった。小説はたくさんあった。
 幸子はノートを付けていた。わからないことを書き出している。それが10冊以上。丁寧な字だ。辞書で調べるのか? 
 夭折の天才、揮毫……わからない言葉は調べて、済になっている。
『ベナレスで夜明けのガンジス川を見た。素晴らしかった……』
「これは?」
「新聞の投書欄。自分の悩みのなんとちっぽけなことか……絶望してたときだったから……見てみたいわ」
(連れて行ってやる)
 詩もあった。断片だけ。ラジオやテレビから聞こえてきた断片だけ。
(おまえはなにをしてきたのだと吹きくる風が私に問う)
「中原中也」
「おにいさんはなんでも知っているのね」
 
 ラジオでクラシックを聴くのが好きだ。
 ウイスキーのコマーシャルのピアノの曲?
 コーヒーのコマーシャルの雄大な曲?
 彼女の謎を解明していく。何年か前のコマーシャルの曲を口ずさむ。俺も思い出し口ずさむ。 
「チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番第1楽章」
 幸子はノートに書く。
「おにいさんはなんでも知っているのね?」
「有名な曲を知らないんだな」
「私は無知だから……」
「無知じゃない。話していてこんなに楽しい」
「ウイスキーのほうは?」
「モルダウだよ」
 この会話、クラシック好きの母が喜ぶだろう……いや、無理だ。
 幸子の数年来の疑問が解けていく。次に来る時はCDを持ってきてやろう。幸子からも教わる。彼女の心をとらえたジャズ、ロック、演歌、歌謡曲も。
 数学は好きだったから独学で勉強していた。高校数学の分厚い本。数列が面白いか? ラジオで英会話を聞いていた。
「もっと勉強したかった。友達の家にピアノがあって、素敵な応接セットがあって、私よりできないのに高校行った……ピアノ、習いたかった」
(今からでも習わせてやる)
 キスは我慢する。この年下の娘の兄貴でいいじゃないか。やがて郷里に帰るまで見守ってやるだけで……

 幸子は貪欲に曲を聞く。貸したCDが頭の中で鳴っている。俺の好きな曲に共鳴する。
「あなたは弾けないの? テンペスト」
「妹たちも続かなかった」
 ピアノは宝の持ち腐れ。
「子供に習わせたいわ。男の子に。テンペストを弾いてもらうの」
「俺の子に?」
 幸子は肯定も否定もしなかった。
「君はなんでもできるようになる」
「ならないわ。なにひとつ、うまくいかない」
 夜間高校に行けるはずだった。就職してみると話は違った。食肉加工工場で男の課長にひいきされ嫉妬された。袋詰めしている肉の中に包丁が紛れ込んでいた。
「美貌の罪ね。誰がやったかわかった。怖気付いてかわいそうだった。かばってやったの。自分の不注意だって」
 幸子は笑う……抱きしめた。幸子は泣きもしない。
「あなたはどこかのお嬢さんと結婚して。私は田舎へ帰る。先に死んだほうが亡霊になって会いに来るの。キャシーみたいに」
 そうだな。それがいい。そうするしかないんだ。

 19歳の誕生日に外に連れ出した。買ったばかりの車で迎えにいく。自慢した。バカだった。彼女は車にも詳しかった。服をプレゼントした。幸子が入ったこともない店で。1桁違う金額の服。それを着て食事に行く。車の中で化粧してやる。淡い口紅だけで充分きれいだ。エレベーターから降り、彼女は堂々としていた。場慣れしていた。テーブルマナーは教える必要がなかった。ホテルで働いていたからだ……
「誘われるの、日常茶飯事だったんだろ?」
「当然でしょ。 百万出すって気持ち悪いのがいたわ。できないから添い寝するだけだって」
 若くて美しい娘の過去になにがあったか? 
 宝石店で指輪を選ぶ。幸子は意味がわからない。
「時間がないんだ。また見合させられる」
「私を……選ぶの?」
「ああ、そうだよ」
「もう、働かなくていいの?」
「1桁違う生活をさせてやる」
 幸子は指輪を選ぶ。正面に陳列してある、車より高いダイヤ……店員が説明する。小娘に……幸子の質問に……店員がたじたじになった。
「これがいい。傷もないし」
 無理だよ。それは……
「これが欲しい。1桁じゃいや。ほかのならいらない」
 幸子は指輪を置いて出て行った。
「すみません、また来ます」
 この女のためなら車なんか手放す……本当に欲しいのなら……
 しかし、幸子は笑っていた。笑い転げていた。ダイヤはただの光った石。
「驚いた。宝石にも詳しいんだな」
「原価も掛け率もね。ホテルで働いてたときに展示会のたびに手伝わされた……安く買えるわよ。紹介しようか? 私なら原価でいいって」
「……」
「金を払ってもいいって」
「百万で添い寝するだけか?」
「悪い? 大学いきたかった。大倹受けて……」
「……いかなかった」
「軽蔑してやるの。あなたみたいな高学歴の金持ち。バカばかり。3月で都会とはお別れ。田舎にできるスーパーで働く……今より安い給料で。楽しみだわ。学歴を見下され、美貌を嫉妬され意地悪されて快感。次は何をされるか……」
 幸子は手を見る。俺は想像しただけで震える。

 暮れに幸子は田舎に帰った。ホームで見送る。4日会わないだけなのに。こんなに辛いと思ったことはない。もう帰ってこないのでは? 不安が胸を押しつぶす。正月は地獄だ。親戚が口々に言う。まだ結婚しないのか? 
 
 幸子は帰ってきたが本当の別れが近づいていた。
「こっちで働いて年に何度か帰ればいいじゃないか?」
「ハイジみたいに病気になる」
 幸子はため息をつく。決心は変わらない。一方的な愛だ。怒りに任せゴミ置き場の袋を叩いた。右手に激痛が走り血が流れた。ガラスか? 割れたガラスが袋に?
 幸子は素早かった。近くの家のドアを叩き救急車を呼んだ。ハンカチの上から彼女の手が押さえる。気が遠くなっていく。
「しっかりするのよ」
 頼もしい女だ。必死で俺を支えた。俺が守ってやる必要はない。守ってほしいのは俺のほうだ。
「一緒だな。おまえの手と……キスを……このままでは死ねない」
 人間の精神力はすごい。遠のいた意識が戻った。気を失っている場合ではない。幸子の唇が正気に戻した。
 怪我のおかげで幸子は帰郷を伸ばし、ずっと付いていてくれた。手術の間は家族とは離れて待っていた。ふたりきりになると世話を焼いてくれた。食事、歯磨き、体を拭き、着替えさせる。そして……勉強熱心な女はキスの研究をする。角度を変える。映画のようにステキなキスを……ずっといてくれるなら治らなくていい。
 父が幸子のことを調べさせた。幸子の家族のこと。直接聞いた通りのことだ。深く付き合った男もいない。それでも反対する。母がとりなす。1度会いたい、と。なにを言われるかはわかっている。19歳の田舎の貧困の父親のいない中卒の娘。三沢家の長男の嫁にするわけにはいかないと。
 5月の連休に幸子は帰る。もう戻っては来ない。俺は幸子を家に連れてきて紹介した。幸子は家の大きさに驚き、グランドピアノに驚き、飾ってある日本刀に驚いた。
「本物? 斬られるかも」
 幸子は買ってやった服ではなく普段の地味な服装で来た。ソファーに座らされ質問攻め。感情をなくすことの訓練を積んでいた女は、怒りも憤慨もせず涙も見せなかった。
 すぐ下の妹の言葉に幸子は出て行った。立ち上がり俺の顔さえ見ずに、客にお辞儀をするように丁寧に頭を下げて出て行った。
「本当のことでしょ? 財産目当て」
 父は聞く耳を持たなかった。男の孫は3人いる。
 
 海辺のホテル、幸子はベランダに出てすぐ真下の海を見て波の音を聞いていた。長い時間……体が冷え切っても。

 1週間後、幸子の実家に挨拶に行った。近くに部屋を借りた。幸子は当面俺を養うくらいの金は貯めていた。車を買ったばかりの俺が自由にできる金は僅かだった。幸子はスーパーで働く。籍を入れて夫婦になった。祝福は幸子の家族からだけ。
 5月の海、冷たくないのか? 幸子は足を濡らす。水を得た魚だ。泳いで行ってしまいそうで怖くなる。誰もこない海。幸子の帰りたがっていた田舎の海、青空の下で抱きかかえた。

13 この家には……

 幼い頃から憧れていた男の妻になった。
 大きな家に広い庭。羨ましがられるが古い。姑が嫁いで来る前からある大木。窓は風でガタガタ鳴る。開ければ木々が騒めく。
 木には子供には宝物のクワガタが。土にはミミズ。部屋には蜘蛛や毛虫が出現する。風呂場には雌雄同体の軟体動物が。

 夢を見た。気味の悪い虫や、風呂場のアレが襲ってくる。操っているのはあの人だ。あの美しい、夫の前妻。

 嫁いで1年が過ぎた。
 この家には前妻がいる。
 夫の胸の中には前妻がいる。
 あの人が出て行ったあと、私は犬の診察に来た。この家に出入りして、姑に気に入られ後妻におさまった。
 後妻とはいえ、素敵な夫にかわいい息子。幸せだった。
 不安はあった。うしろめたさもあった。私がいるからあの人は戻ることができなくなった。

 嵐の夜、凄まじい風の音で目を覚ました。夫は夢を見ていたようだ。
 夫が声のないうめき声をあげた。起こすと、一瞬現実との区別がつかないようだった。夫は呼んだ。妻の名を。私ではなく前妻の名を。そして美しい前妻の顔ではなく、怒った恐ろしい私の顔を見た。
 
 絶望した私は家を出た。風が吹き狂う。雨が私を打ちつけた。植木鉢が命でも吹き込まれたように私を襲ってきた。物置のトタン屋根がはがれて飛んできた。屋敷が怒っていた。前の女主人と違い、手入れをしない私を痛めつけようとしている。私は罰を受けた。雲の中にあの人の顔が見えた。
 あの人が屋敷を操り私を取り殺そうとしていた。

 立ちすくむ私を抱きかかえた男がいた。一瞬風は治まった。あの人もこの家も、愛する男には手を出さない。

 ︎ ︎
 
 母は妻に嫉妬していた? 妻を慕っていた男を母は愛していた?
 母の嫉妬がなにもかも壊した。
 妻は妊娠していた。私は知らなかった。
 母は気に入っていた。あの男を。あの男は隣のアパートに越してきた、人懐こそうな小学校の音楽の教師。
 あの男は家賃を払いに来た。母が応対していた。母は食べきれない中元の菓子や果物を渡していた。しだいに食事に招きピアノの演奏をしてもらうようになった。若返っていた。美容院に行き、化粧が濃くなった。年甲斐もなく……と私はからかった。
 音楽好きの妻があの男には無関心だった。年甲斐もなく恋をしている母の邪魔はしなかった……あの男を愛したのは母だった?

 母は毎朝おにぎりやサンドイッチを作り、学校へ行くあの男に門のところで待ち渡していた。朝食を取る時間のない独身の男に。60歳の母は年よりずっと若く見えた。
 しかし、あの男は妻を慕っていた。母は気づいた。嫉妬? 息子の嫁に? 父の介護をやり遂げた妻に嫉妬した? 父の下の世話までやらせておきながら? 父は妻を自分の娘たちより信頼し愛した。

 離婚させたのは母だ。なにがあったのだ? 母と妻とあの男の間に?

 救急車がきて妻はおなかを押さえ言った。消えていく意識の中で何回か訴えた。階段から落ちたの。自分で落ちたの、自分で……

 妻の辛抱と献身は終わった。私は疑ったのだ。母の言葉に惑わされた。
 妻は優しいだけの女ではない。すがりつくような女ではない。妻は信じてくれとは言わなかった。否定も弁解もしなかった。
 あなたの母親におなかの子を殺された、とは言わなかった。私を絶望させるようなことは言えなかった。

 妻は出て行った。私が不貞を疑ったから。近所の者は噂して喜んだ。羨ましがられていた大きな家の醜聞。崩壊。
 母は後悔しただろう。この家は崩壊した。あなたの息子は酒に逃げ、孫に暴力を振るい、あなたのかわいがっていた犬を投げつけ、あなたを突き飛ばしたのだ。孫はかばった。あなたを。孫はあなたに懐いていた。あなたはかわいがってくれた。私にそっくりだと。あなたが言えばそうなのだ。誰も母親似だとは言わなかった。

 ︎ ︎
 
 幸子が死んだ。田舎で少ない親戚が集まっていた。私は親戚に、少しの間、幸子とふたりだけにしてくれと頼んだ。6年ぶりに会ったかつての妻の顔をさわった。そして最後のキスをし、しばらくの間隣に寝た。
 
 
 日曜の朝、息子は庭で水を撒いていた。私は窓から見ていた。バラがもうすぐ終わる。私は思い出す。父が車椅子に座り、そばで指図していた。不明瞭な言葉を幸子は母よりも理解していた。
 
 幸せだった頃の光景が思い出された。そこの椅子に幸子と私は腰掛け、花を眺めていた。そして洋画のようにキスをした。息子は私の膝に乗り同じように幸子にキスをした。私は息子の顔中にキスした。

 トゲが息子の指を傷つけたようだ。息子は指に口をつけた。
 息子は空を見上げる。そしてため息をつく。

 手の中でグラスが割れた。私は亡霊を見た。

『私がまだ非常に若かった頃だ、ホームズ君、私は生涯で1度しか経験したことのない恋愛をした……
 彼を見ていると、いとおしい彼女のあらゆる仕草が私の記憶に蘇ってきた……』

14 美容院の女

 母と祖母の話を小耳に挟み、その美容院を訪れた。自転車で小1時間。
 幼い息子を捨てた父はこの美容院の女と再婚していた。いや、再再婚だ。
 駅の近くではないから家賃も高くはないだろう。ひとりでやっているらしい。客がひとりいた。
「あら、珍しい」
「あら、若くていい男」
 女店主と年寄りの客が言った。店主の美容師は髪は長いが……美容師か? 自分の頭をなんとかしろよ……
 客は施設の入居者くらいの年、80は過ぎているだろう。
「男は滅多に来ないから雑誌もないのよ」
 店主はドライブの本をテーブルの上に置いた。東京周辺のドライブの本。
「ドライブ、趣味なんですか? 運転うまそうですね」
「旦那が運転。私は隣で酒飲んでる」  
 豪快に笑う。
 父は運送業のはず……細い男だった。かつては……20年以上前だ。出ていったのは。
 母は勝ち気だった。祖母も。ふたりの強い女に閉口して帰ってこなくなった。居場所がなくなったのだと……それなのに、この体格の良すぎる豪快な女が妻なんて……

 三沢英幸(えいこう)、あいつの名前を書いた。住所は覚えている。簡単だ。同じ町名。同じ2丁目。あいつの家は3の4。
 髪を切りながら話した。かかっているBGMの話。余計なことは聞いてこない。先ほどの老婦人とは親しく話していたのに。
「店長さん、ドライブ以外の趣味は?」
「海外ドラマかな。客が来ない時は奥で観てる」
 自分も観ているドラマだった。話に花が咲く。
 カットだけだから早かった。金を払い釣りをもらう。名残惜しかった。

 帰りにケーキ屋があったので6個買った。母と祖母と自分の分。2個ずつだ。また美容室の前まで戻った。美容院の女は自転車で帰るところだ。思わず声をかけケーキを渡した。
「旦那に食べさせなよ。酒飲まないんだろ?」
「こんなに……ありがとう」
 大声で女は言った。
「また、おいでよ」

 帰り、三沢邸の前を通った。何年ぶりだろう? 同じ町内なのに。子供の頃は毎日のように遊んだ。迎えにきた。邸の庭でも遊んだ。あいつは母親に捨てられた。だから親しくなれた。誓ったのだ。同級生の(こう)と3人で。絶対親を許さない。親が死んでも泣かないと。墓に唾を吐きかけてやろうと。
 あいつに会えるわけないな。裏切りそうだ。父が幸せで嬉しいと思う。香は守るだろうな。誓いを守るだろう。
 あいつはどうしているだろうか? 墓に唾をかけに行ったか?
 

 1か月後再び美容院を訪れた。美容師の女は覚えていた。当たり前だ。接客業なのだから。まさか夫の前々妻の息子だとは思いもしないだろう。小さな店に客は自分だけ。
「三沢さん、仕事は忙しいの?」
「はい。正月も関係ないです」
 仕事のことを話す。女も母親のことを話した。認知症で……亡くなった。千葉の実家は荒れ放題。
「海まで歩いてすぐよ。いずれ、歳とったら帰る。サーファーだったのよ」
 その体でか?
「田舎なら金がなくてもなんとかなるからね」
「旦那さん、お金ないんですか?」
「年金はかけてるわよ。別れた子供が3人、ようやく養育費払い終わる……ひとり優秀なのがいるって自慢してる」
 養育費、出していたのか?
「ドラマにあるじゃん、最初の息子に会ってもわからないの。ギター弾いて歌うの」

ーー辛くて話題を変えた。仕事の話。認知症の話。女の母親もそうだった。男の介護士が来ると目の色が変わり、我が母ながら嫌だった……自分の息子より若い男に色ボケ……
「娘に嫉妬するのよ……」

 あの人も……病気だったのか? 脳の病気、それとも心の?

 智恵子は東京に空がないと言う……
 あいつのママが教えてくれた。
「おばちゃん、田舎に帰りたいの?」
 おばちゃんと呼ぶには若くて美しすぎる人だった。真っ白で……
「治ちゃんは人の気持ちがわかるのね」
「……なんでも買えるのに……」
「なんでも買えたら幸せだと思う?」
 ボクは首を振った。
「気がつくかしらね? 大事なものなくす前に」

 あいつは金持ちの嫌な坊ちゃんになっていた。欲しいものは、祖母がなんでも買って与えた。見せびらかした。あいつのママは何も言わずにゲームを取るとすごい握力で壊した。壊してゴミ箱に放り投げた。見事にストライク。あいつは呆気に取られ、泣くことも忘れた。
「友達なくすぞ。ママにも捨てられるぞ」 
 わかったのだろう。あいつは急いで後を追いかけ謝っていた。何度も何度も。
「おばあちゃんよりママがいい。ママが好きだ……」 

 よくプールに連れて行ってくれた。プールに入るとずっと泳いでいた。人魚のように。帰りにケーキを食べに連れていってくれた。店員が間違えた。あいつは怒った。
「チョコじゃなくて苺だよ」
 ボクは言えない。
「チョコも好きだからいいよ」
 
 あの男が夏生の部屋の隣に越してきた。夏生のママはウキウキしていた。おかずや菓子を差し入れし、夏生にピアノを教えてもらった。小学校の音楽教師にあいつもピアノを教わった。金を受け取るわけにはいかないから、あの人も……あいつの祖母も高級菓子や果物を渡していた。あいつのママは無関心だった。そう見えただけだったのか? 
 そのうち、あいつの家に皆が集まってピアノリサイタル……夏生母娘とボクも呼ばれた。あの人はクラシックファンだったから次々にリクエストしていた。あいつのママはキッチンでひとりで目を閉じて聴いていた。ボクがそばに寄っても気づかなかった。
「向こうでみんなと聴けばいいのに」
「気にして見に来てくれたの? 治ちゃんは優しいね」 
 音当てゲームだ。あの男が鍵盤を叩く。夏生が全部当てる。あいつは少し当たる。ボクにはわからない。あいつのママは……
「全然わからない」

 あいつのママは果物を切り盛り付けた。あいつが喜ぶように動物の飾り切り。器用な人だった。
「おばちゃん、その手の傷どうしたの?」
「前に、働いてたときに切ったの。包丁で」
「気をつけなよ」
「パパにもあるのよ。同じような傷。パパのは不注意。おばちゃんのは嫉妬。ひいきされてたからやきもちやかれたの。わかる? 治ちゃん」
 だから、ここで聴いてるんだね……
 
 あの男が苦しんでいた。あいつと夏生と、あの男の部屋に行くと死にそうだった……と思った。あいつはママを呼びに行った。ママは大人の男を、パパみたいに大きくはなかったが……支え階段から降ろすと車に乗せて病院へ連れて行った。若いふたりになにがあったのかなかったのか? ふたりきりになったのはそのときだけのはずだった。
 そのあとあの男は手術をし、見舞いには夏生のママとあの人が行った。あの男に好意を寄せていたのは夏生のママの方だと思っていた。あの男よりは10も年上だったが。 
 それからあいつのママの妹が家に来るようになって……まだ若い大学生。ふたりは付き合うようになった。夏生のママの淡い恋は終了。ふたりを応援するようになった。あの人は、ふたりが仲良くなると機嫌が悪くなった。頭が痛いとか大騒ぎした。

 あの男の部屋のベランダから三沢邸の庭がよく見えた。あの男は見ていた。バラの手入れをするあいつのママを。祖父が亡くなるとあいつのママは近くの畑を借りて野菜を作った。三沢家の若奥様が長靴履いて畑で……あの男は通りすがりに見ていた。見るために通りすがる……あいつのママは素っ気なかった。人前では。
 想像できない。あいつのママがあの男に……笑い、甘え……なんて。
 あいつのママが好きだったのはピアノ……貧乏で習えなかったから……

 あの人は……嫉妬していた。大奥様は若奥様に嫉妬していた。大奥様は息子よりも若い男に恋を? 
 あの人の嫉妬があの家を壊した。
 あいつのママは妊娠していた。おなかを撫でていた。幸せそうに……治が気付くと困ったように微笑んだ。
「英幸はどっちが欲しいと思う?」
「弟だよ。妹は夏生がいるから」
「まだ内緒よ」
 唇に人差し指を当て、そしてため息をついた。なぜ? 
「治ちゃんは人の気持ちがわかるのね」
「気をつけて……」
 知られたら……悪いことが起こりそうだ。あいつのママは自分の手を見た。

 そして悪いことは……起きた。

 救急車がきてあいつのママはおなかを押さえ言った。消えていく意識の中で何回か訴えた。自分で落ちたの、自分で……

 自分の想像が恐ろしくなった。あの人は病気だったんだ。

 あいつのママは出て行った。近所のものは噂して喜んだ。羨ましがられていた大きな邸の醜聞。崩壊。

 父親は? まさか、知っているのだろうか? 知っていて再婚した? いや、それはないだろう。
 わからない。そもそもこの考えがあっているのかもわからない。しかし、あいつのママは……

 あの人は……

 施設にもいる。自分が1番でないと気が済まないのだ。食事も薬も風呂も1番でないと気が済まない。扱うのは楽だ。褒めておだてれば機嫌がいいのだから。

「終わったわよ」
 女の声が現実に戻した。
「20年近く経ってるんだ。今更……」
「鏡の中の三沢さん」
「……」
「ケーキ3個も食べたわよ。1度に。おいしかった」
「……今日も買ってくるから食べさせなよ」
「亭主はモンブランが好きなの」
「甘党なんだな。酒飲まないのか」
「海外ドラマみたいね。あなたは……腎臓でもあげそうだわ」
「父親に似たのかな? 優しいだけじゃダメだって言われるよ」
「またおいでよ」

 20年か30年後、面倒見てやるよ。あなたを……だから頼む。亭主を……
 甘いな、あいつには言えない。

15 薔薇と棘

 引っ越してひと月になる。慌ただしく過ぎたひと月だった。もう来月分の家賃を払いにいかねばならない。
 土曜休みの午前中、隣の邸に家賃を払いにいった。門は開いていた。庭で若い女が花の手入れをしていた。広いツバの帽子を被り中腰で。近寄ると振り向いた。
「あの、家賃を」
 女は立ち上がった。めまいがしたようで思わず支えた。大丈夫です、と女は歩き出す。玄関に入り、待たせ、たいして待たせはせず、すぐに金を受け取り領収証を書いてよこした。きれいな字だ。
「大丈夫ですか?」
「丈夫だけが取り柄なのに。さっき、亡くなった義父が立っているのかと思った」
「亡くなった、おとうさんですか? ちょっと、ショックだな」
「義父に、ひどいこと言ったから。私を恨んであの世から歩いてきたのかと思った」
 彼女の名前も年も聞けなかった。大きな邸の嫁。化粧もしていなかった。それでも引きつけられた。
 肩幅が広かった。手も大きかった。彼女は半身不随の義父を献身的に介護していたと、隣の奥さんが言っていた。あの世から恨んでくる……とは?

 休みの日、ベランダに出てみた。3階だから隣の邸の庭がよく見える。彼女は花の手入れをする。中腰の姿勢で長い時間。視線に気づいたようだ。こっちを見上げ目があった。互いに軽く頭を下げた。
 彼女の夫は何度か見かけた。朝、車が迎えにくる。和樹が仕事に出かける時間。10才年上だという夫が後部座席に座り、もう書類を読んでいた。見送りに出ていた彼女は和樹を見て会釈をする。
 休みの日は何回もベランダに出た。小さな椅子とカモフラージュにするタバコを買った。
 
 バラが満開になり見事だ。また家賃を払いにいくと『嫁』は庭で手入れをしていた。気づいているのに振り向かない。和樹はそばに寄った。
「ピアノが得意なんですって?」
「隣の奥さんだな、好きだって言っただけですよ」
「テンペスト、弾ける? 生で聴いてみたい」

 日曜の朝、ベランダに出てタバコを吸っているフリをした。隣の庭が見える。ベランダの小さな椅子に座り庭を見る。
 目当ての彼女はバラの手入れをしていた。素手でしている。トゲで傷つけ、そこへ夫がパジャマのままやってくると、傷ついた彼女の手を舐めた。
 庭の椅子にふたりは座り花を眺める。和樹は部屋に入り窓越しにみつめた。夫、彼女より10才年上の男は妻にキスをした。長い時間キスをした。洋画のようだ。
 庭仕事に戻ろうと立ち上がった彼女を夫は後ろから抱きしめた。見られているとは思わないだろう。
 和樹は離れた。日曜の朝、好きな女が凌辱された。好きな女? 人妻だ。夫婦が休みの日の朝、愛し合う。当たり前のことだ。しかし……苦しかった。苦しくてドアを蹴った。

 となりの娘のピアノが上達していく。和樹は習っている先生を訪ねた。いまさらのピアノ。日曜の午後久しぶりにレッスンをした。
 歩いて帰る。区民農園があった。日曜の午後、彼女が農園で長靴を履いて作業をしていた。目が合った。
 畑でふたりで話した。葉を見ても、和樹はなんの野菜かわからない。彼女は教えた。野菜不足でしょ、と取り立てのトマトをくれた。ふたりでトマトを食べた。こんなところをお義母さんに見られたら? 
「よく義父と散歩したわ。車椅子で。最初は義母にしか面倒みさせなかった。体格のいい人でわがままで、義母のほうが体壊して」
 彼女は突然笑い出した。
「初めてトイレでパンツ下ろしたとき、憤死するかと思った」
「憤死?」
「拒否するのを力づくで。孫くらいの娘に」
 年は知らない。名前も聞かない。言わない。彼女は堪えきれずに笑う。十代の娘のように。
「すごいバトルだったの。夫も、義母も、義妹たちも役立たず。虐待かも」
「まさか」
「悔しかったら歩いて立てって。恨んで出てきてほしい。庭にいると感じるの。私を見てる。花を枯らしてないか、ちゃんと世話してるか……」
「じゃあ、キスしてたのも見られたな」
 彼女は和樹を見つめた。やはり、見てたのね、とは言わない。
「おおらかでいいな」
 表情を変えない。
「見てみたかったな。続きを。ベッドで乱れるのを」
「ベッドじゃないわ」
「え?」
「布団なの」

 次の週の日曜日、隣の邸はにぎやかだった。黒服の男女が大勢出入りした。義父の1周忌か? 長男の嫁は1番若い。若いが敬意を払われているようだ。
 夕方になると黒服の男女はそれぞれ帰って行った。そのたびに彼女は外まで出て見送る。最後の親族が帰ったのか、彼女は庭の椅子に座った。まだ、黒服のままだ。スカート姿は初めて見た。首に大粒の真珠。彼女が待っているのは義父ではない。和樹にはわかった。離れている彼女の心が手に取るようにわかった。
 ベランダに出てタバコを吸った……魂が空間で触れ合った。死んだ義父が怒って出てきそうだ。彼女は人妻だ。夫が戻ってこない妻を気にかけて庭に出てきた。和樹は部屋に入る。夫は疲れただろう、と妻の肩を揉む。彼女は泣き崩れた。義父のことを思い出したのか? 揺れ動く心に罪悪感を感じたのか?

 離れなければ……和樹は部屋を探した。離れたいが、離れられない。

 休みの土曜日、天罰が当たった。和樹はひどい腹痛で苦しんだ。救急車を呼ぼうか迷っているうちに動けなくなった。隣の娘と彼女の息子の声が聞こえた。
「かずちゃーん、ピアノ教えてー」
 それから少しして彼女がきた。和樹は支えられ抱えられ、3階から下ろされた。車に乗せられ病院に連れて行かれた。痛みで喋れない。考えられない。妻に間違えられた女はきびきびと動く。尿路結石、手術? ペニスから管を入れる……やめてくれ。そんな説明は。妻じゃない……

 帰りの車、彼女は運転しながら笑いを抑えられない。
「手術したほうがいいわ。早く」
「ああ。笑うな」
「若い看護師さんだったりして……クックックッ。」
 1泊2日の入院で手術した。彼女の前で説明されたように。
 次の日は休んだ。平日に庭を覗く。彼女と若い女が椅子に座っていた。和樹はタバコを吸う。妹か? 大学に通っている? 姉より垢抜けている。化粧も髪型も。似てはいない。華奢な女だ。

 休みに集中してレッスンした。なぜいまさらのピアノ? 基礎からやり直す。
 レッスンの帰り、畑の前でふたりに会った。
 妹は自己紹介した。
「フミコです」
 知りたいのは姉の名前だ。ひととおりの挨拶。若い娘は和樹に惹かれたようだ。3人で歩く。誰に見られても困りはしない。フミコは名残惜しそうに立ち止まって話し続けた。

 妹をカモフラージュにした。ベランダから堂々と手を振った。畑で堂々と話し、堂々と歩いた。そして彼女の家の庭で話をした。映画に誘われた。喜んで応じた。姉は顔色を変えない。フミコが席をはずした。
「似てないな。姉妹なのに」
「私は父親似だから」
「オレに惚れてる」
「……」
「オレが惚れてるのは別の人だ」
「……」
「なんとか言えよ」
「出て行って。アパートから」
 ポケットからハサミを出し脅された。
「フミコに手を出したら切るわよ」
「……真顔で言うなよ。恐ろしい」
 夏のバラが蕾をつけている。彼女は怒ったように次々切り落とした。
「なんてことするんだ」
「夏咲かせると弱るのよ」
 容赦なく切り落とし、トゲで指を傷つけた。
「バチが当たったんだ。どうして手袋をしないんだ?」
 彼女の手を取り傷を舐めた。ハサミが落ちる。頬を叩かれる。フミコが戻りふたりはなにごともなかったように話した。
 フミコと出かけた。姉妹の子供の頃の話を聞いた。姉がどれほど夫に愛されているかを聞いた。 
 家賃を持っていき話す。
「このあいだはピアノのリサイタルにいったよ。生でテンペスト聴いてきた」
「子供ができたの。ずっとできなかったのに」
「……残酷な女だ。オレの上をいってるな。おめでとう。よかったな。よかったな。妊婦を恋焦がれたりはしない。よかったよ」
 ふくらんでいくおなかを見たくはない。フミコには別れを告げた。別れるほどの仲にはなっていないが。

 家賃を払いに行く。ひと月は早い。半年恋焦がれた女がやつれていた。ひとめでわかった。流産したのか?
「死んでたの。おなかの中で」
「休んでろよ。顔が真っ白だ」
「バチがあたったんだわ」
「バカな、君がなにをした? オレは出て行く。出て行くよ」
 彼女はめまいがしたのか、しゃがみ込んだ。大声で義母を呼んだがいないようだ。抱き上げ寝室に運んだ。和室に布団が1組み敷いてあった。少しの乱れもない布団に寝かせた。部屋は片付いていた。
「動きすぎなんだよ。休めよ」
 彼女はもう喋らない。
「オレが来ると思ってたんだろ?」
 キッチンへ行きミルクを温め、彼女に飲ませる。
「おかあさんは? 病院か? ゆっくり休め。なにもするな。いいな」
 彼女は力なくうなずく。別人みたいだ。
 半年しかいなかった。彼女の前から去る。最後に……彼女のために勝手に弾いた。この半年集中して練習したテンペストの第3楽章を。古いグランドピアノで。

「宝の持ち腐れのピアノ、調律しててよかった」
 彼女が後ろで聴いていた。

 引っ越す前の日、彼女が部屋の査定に来た。ざっと見て敷金を返した。
「次借りるのにまたお金かかるわね」
「癌が見つかった。長いことないよ」
 彼女は笑っている。嘘は見破られる。
「本当だったらついていてくれるか?」
「夫に頼んでみる」
「許してくれるか?」
「……」
「ああ、嘘だよ」
「テンペスト、ありがとう。私も習ってみようと思うの。やっと時間ができたから」
「君は手がでかいからうまくなるよ」
「夫の好きな曲なの」
「ああ、そうかい」
 彼女はようやく声を出して笑った。
「おかあさんが寂しがってた。あなたは義父に雰囲気が似ていた。若い頃のね。あなたのおかげで元気になれたって……」
「うまくやっているんだな。おかあさんと」
「本当の娘のように思ってくれてる」
「笑えよ。君が、笑うのが好きだ」
 彼女はベランダに出て指差した。この部屋と庭の中間点を。
「そこで…… 」
「ああ。そこで、何度も」
「……素敵だった」
「君の名前は? いや、どうでもいい。すぐ忘れるから」

16 縁

 由佳の兄は3歳になった夏、川に落ちて死んだ。母は自分を責め精神を病んだ。分家の同い年の圭介を自分の息子と間違えた。思い込みたかったのだろう。
 由佳の誕生は母の症状を改善させた。由佳は過保護に育てられた。いつのまにか、分家の圭介は由佳の許婚になった。

 5歳年下の由佳はかわいかった。圭介が親に叱られると慰めてくれた。
「いい子、いい子」
と頭を撫で頬にキスしてくれた。

 由佳は体操部に入りたかったが母は許さなかった。草むらでひとりで倒立していると圭介が支えてくれた。
 圭介は高校生になると2歳上の野球部のマネージャーに恋をした。彼女が卒業すると付き合った。河原でデートをし、満月の下で結ばれた。
 草むらで愛し合っていたときに由佳がやってきた。すぐ近くで練習した。倒立して前転した。息をひそめていたがふたりは同時にくしゃみをした。少女はふたりを見つけて驚いたが、得意になって演技を見せた。

 彼女は家業を継ぐために理容学校へいった。長女の彼女は婿をとる。圭介には結婚などずっとあとのことだが、彼女のほうはそうではなかった。彼女は圭介とは一緒にはなれないと諦めている。彼女の結婚が現実味を帯びてくると圭介は決心した。母親に宣言した。理容師になる。理容店の婿に入る……母は当然猛反対した。
 母は彼女に金を渡した。
 その金で彼女は圭介に身を引くよう頼んだ。
「障害者の弟がいるの……もう結婚するの。決めたの。全部面倒みてくれる人なの……家のためなのよ」
そのあとは言い争い。
「寝たのか?」
「寝たわよ。初めてのフリをした」
圭介は手切金を叩きつけた。

 忘れたくて東京の大学を受験した。母は反対し口を滑らした。
「せっかく別れさせたのに……」


 夏に少年に会った。彼女と別れて2年目の夏、防波堤で満月を見ながら思い出に浸っていた。それを邪魔された。少年が海に飛び込んだ。圭介は川で死んだ由佳の兄を思った。本家の跡取り息子が生きていたら由佳と圭介の運命は変わっていた。母も優しい母親でいただろう。彼女との仲も反対されなかったかもしれない。
 助けなければ……圭介は服を脱ぎ飛び込んだ。
 少年は泣いて暴れた。酒臭かった。
「ママのところへいくんだ……いかせてよ。ママ、置いていかないで……」
「甘ったれるな」
圭介が殴ると少年はおとなしくなり言うことを聞いた。
 結局面倒を見ることになった。なぜか少年は圭介に懐いた。
「訛りが懐かしい……ママと同じだ……」
「母親なんて、いてもいなくても厄介なものだ」

 厄介な母親は電話をしてきた。父親の具合がよくないと。圭介は2年ぶりに帰ることになった。
 由佳は中学3年になっていた。身の軽かった子は、菓子を食べながらテレビを見て笑っていた。
「太ったな」
「失礼ね。床屋のあの人、双子を生んだわよ。ダンナさんとラブラブだって。圭ちゃん、付き合ってたでしょ? 河原でいやらしいことしてた……」
「ばかっ! 少し痩せろ、ブタ!」
リモコンが飛んできた。すごいスピードで。
「家と財産のために結婚するんでしょ? 私はもっと太ってやる。財産付きでもごめんだって思うくらいね」
由佳はすごい勢いで階段を上って行った。2年で由佳も変わっていた。

 次に帰ったのは由佳が高校1年の冬。家の中からピアノの曲が聞こえた。迫力のある曲だ。玄関で圭介は震えた。由佳が弾いているのか? 
 長い曲が終わると由佳は我に返った。圭介は少し遅れて拍手した。
「すごいな。君じゃないみたいだ」
あらためて由佳を見た。顎のラインがすっきりしていた。腹部がへこんでいた。
「好きな男ができたか?」
見つめ返した由佳の目、みるみる涙が溢れる。由佳は圭介に、おかえりも言わず立ち去った。

 夜、由佳の家に親戚が集まった。由佳は酒を運んできた。きれいになったなあ、と皆に褒められている。1年と4ヶ月ぶりだ。16歳の由佳は台所で酒を注いでいた。1升瓶から軽々と徳利に注ぐ。由佳は燗をした酒を運ぶと軽やかに階段を駆け上り、自分の部屋に行った。
 圭介はしばらく飲んでから、由佳の部屋をのぞいた。由佳はビデオを観ていた。椅子に座り食い入るように観ている。聴いている。昼間、由佳が弾いていた曲だ。思わず圭介は近付いた。弾いているのは知っている男だった。

 少年は酔ってペラペラ喋った。
「来年コンクールに出る。最年少で入賞してみせる。ママを奪った男の記録を塗り替えてやる」
 
 由佳はビデオに撮り、何度も観て聴いているのだろう。演奏を覚えるほどに。由佳のいい加減な練習では弾ける曲ではなかっただろう。コンクールは秋……まだ3ヶ月しかたっていない。すごい集中力だ。圭介に気づかない。魅了されたのは演奏か? 顔か? 
 三沢英幸(えいこう)、こんなこともあるんだな。親たちが勝手に決めた許嫁が君に恋をしている。ビデオの中の君に。

 翌日由佳は大広間で踊っていた。痩せるというダンスをビデオをかけ踊っていた。すごい汗だ。簡単に踊っているように見えるが……圭介は真似してみたがついていけない。
 数分間のレッスンが終わり圭介は拍手した。
「痩せたい」
「痩せたよ。きれいになった」
「もっともっときれいになって……」
「三沢英幸に会いたいか?」
「どうして?」
「夕べ、のぞいてた。惚れたか?」
由佳の目に涙が溢れる。
「おかしいよね。芸能人にも夢中になったことないのに。
 想像するの。いつか、きれいになってあの人に会うの。そして演奏する。あの人と同じ演奏。あの人はびっくりする。そしてどんなに私が思っているか……わかるはず」

 確かに魅力的な少年だった。酔って泣いてボロボロだった。ママ、ママ、ママ、自分を捨てた母を憎み焦がれた。

 由佳、そんなに好きなのか? 驚くだろうな。君の恋焦がれている男、オレは助けたんだぜ。
「手紙書いてみろよ。ファンレター。住所は調べてやる。繋がるんだよ。彼と」

 返事はなかったようだ。由佳は待ち続けやがて彼を恨む。つれない男を恨み憎み、また愛した。
「東京の音大行く。三沢さんが入るとこ調べて」
「……彼は音大行くの?」
「当然でしょ」
 いや、由佳がどんなに頑張っても同じ大学には入れない。彼は父親と同じ東大に入らなければならないのだから。

 由佳は親を説得した。実力で圭介よりレベルの高い大学に合格した。由佳は圭介の隣の部屋に住むことを条件に4年間の自由を勝ち取った。

 店を予約した。マンションの近くのフランス料理店。混んだランチタイムのあとのフルコース。
 ウェイターが水を持ってきた。圭介はふたりの反応を楽しんだ。彼に会うのは4年ぶりか?

 由佳は凍りついた。彼の顔を見て目から涙が溢れた。彼は戸惑い圭介を見た。今度は彼が凍りついた。頬が染まる。
 圭介はそっと唇に人差し指を当て、由佳に気づかれないようにした。
「このお嬢さん、君の演奏観て夢中なんだ。ファンレター出したのに、返事くらい書けよな」
由佳がようやく現実世界に戻り真っ赤になった。何事もなかったように料理が運ばれてくる。
「すごい偶然だな、運命かも」
由佳はなにも考えられなかった。食事も喉を通らない。
「チャンスだよ」
圭介はピアノを指さした。由佳はおじけづいた。いきなりの展開。
「言ってただろ。いつか、あの人に会って演奏する。あの人と同じ演奏。
 君の思いをぶつけてこい」
由佳は憑かれたように立ち上がりピアノの前に座った。ランチの客が数組残っていた。彼がピアノを開ける。どうぞ、と言ったようだ。

 由佳は演奏した。取り憑かれたまま。
 いいぞ、由佳。彼そっくりの演奏だ。ビデオの彼と同じ表情、同じ姿勢。
 彼は驚愕した。残っていた客も厨房の者も驚き出てきた。
 愛の告白だ。こんな告白をされては平静ではいられないだろう。演奏が終わっても彼は拍手もしない。周囲の盛大な拍手に由佳が我に返り恥ずかしがる。
 発した言葉は懐かしい響き……だろ? 懐かしい母親と同じ訛り。運命を感じたか? 
 おまけに障害のある愛だ。君は言っただろ? 障害のある愛だけが永遠の愛だ……由佳はオレの許嫁。君はウェルテルだ……
 
 
 由佳は彼と急接近した。
 ある夜、由佳が隣の圭介の部屋に三沢を連れてきた。泊めてくれ、と。
 彼の父親の違う8歳の弟が家出して、偶然由佳が保護した。弟の春樹はレストランの経営者の息子、実は亡くなった彼の母親の息子だった。
 春樹は自分の出生を知り家を飛び出し、公園にいるところを由佳に声をかけられた。
 彼にそっくりの幼い春樹を由佳の部屋に泊める。
「彼は帰ると言うから……圭ちゃんの部屋に泊めて……」

 春樹は由佳に懐いた。聞いたことのある訛りだから……
「縁があるんだな」
彼は丁寧に4年前の礼を言った。
「見違えたな。ママ、ママ……の少年が、父親の違う弟の面倒を見てるなんて……乗り越えたか?」
「彼女もいます」
「由佳を押し付けるなって?」
彼ははっきりうなづいた。

 由佳は三沢に頼まれ春樹の家庭教師になった。不登校になっていた彼の弟にピアノも教えた。由佳が話す郷里と言葉は春樹の記憶と重なった。
 三沢とは3人で会っているようだ。休日には遊園地に誘われたと喜んでいた。3人のデートか……
 春樹の家で食事にも誘われるらしい。酒を飲んで彼に支えられ送られてきたこともある。圭介は隣の気配を伺った。三沢は由佳が落とした鍵を拾いドアを開け、中へは入らずに帰って行った。ふたりの仲はそれ以上にはならない。それも長くは続かなかった。

 やがて由佳は諦めた。三沢の彼女が現れたのだ。由佳との仲を誤解し、店に現れた。
「逆立ちしてもかなわない……」
「逆立ちは得意だろ。奪え。君の情熱に勝てる女なんていないよ」
「三沢さん。誤解されて迷惑してた」

 彼は去った。由佳は春樹の家庭教師に甘んじた。弟の面倒をみていれば彼と繋がっていられる。由佳はメールで弟の様子を伝える。
 由佳は変わっていく。都会的な女に。いつか彼に会える日のために由佳は努力している。由佳は彼が恋人にふられるのを待っている。

 圭介は三沢を呼び出した。かつての思い出の場所。防波堤で彼は待っていた。
「彼女はあなたの許嫁。どうして、僕とくっつけたがるんですか?」
「由佳が言ったのか?」
「母親なんて、いてもいなくても厄介なものだ……」
「あのババア、またやりやがったな」
彼は吹き出した。
「いいおかあさんですね。息子のために恥も外聞もなく。子供なんてできたらとんでもないって、僕の彼女に別れさせるよう頼んだ。僕の父親のところへ行くと」
 なんて女だ……
「すごいお嬢さんなんですね。ホテルに牧場、ゴルフ場」
「ああ。そのためにオレの好きな女は身を引いた。あの女となら死ねたのに」
冗談めかして言った。
「僕も彼女となら死ねる。それに、由佳さんは弟の初恋の人だから」

 1年が過ぎた。圭介は実家に帰らなかった。母の電話にも出なかった。由佳が血相変えて飛び込んできた。田舎の父が倒れた……
 夜中に車で帰る。由佳は助手席でずっと起きていて圭介を励ました。父は心臓の手術が必要だった。母は気が弱くなっていた。やつれた母を責める気持ちはなくなっていた。
「戻ってこようか? こっちで働く」
「由佳をひとりにさせられない。変な虫がついたら……」
「バチが当たったんだよ。由佳の初恋を壊して、バチが当たったんだ」
「どういう意味?」
実家で母と話しているのを由佳に聞かれた。圭介は自分が由佳の恋を壊したと母を庇った。
「君が彼と急接近して焦ったんだ。頼んだんだ。子供ができた、なんてことのならないうちに別れてくれって」
由佳はなにを言われているのかわからなかった。
「オレは最低だ。田舎に帰るよ。君はもうひとりで大丈夫だ。家も君が継ぐんだ。オレより頭がいいし努力家だ。君ならやれる」

 部屋を引き払って実家に戻った。由佳は長い休みには帰ってきた。都会的な女になっていった。圭介は畑仕事で日に焼け言葉も訛りが戻った。
 周囲はふたりを許嫁として扱う。由佳は受け入れていた。親や親戚の前では恋人のように振る舞う。

 朝、由佳はマラソンをしていた。畑にいる圭介のところへ来ると子供の頃のように倒立した。支えると、Tシャツがまくれ腹筋があらわになる。まぶしかった。
 太陽の下に答えがあった。この女を愛している。しかし、
「自分の愛しい命を振り捨てるほど私を愛してくれるのは誰だろう……」
女は詩を口ずさむ。

17 乗馬服の女

 美月(みずき)はH高テニス部の1学年下の後輩だった。無口で目立たない生徒だった。
 ほかの女子は和樹の冗談に笑った。コロコロ笑った。美月はいつも真面目で……詰まらなかった。
 彼女はバレンタインデーにはチョコレートをくれた。ほかの女子と同じように。気があるのはわかっていたが、気が付かないふりをしていた。地味な彼女には……興味がなかった。

 おとなしい美月は告白もしなかった。だから乗馬クラブで会ったときには驚いた。就職した彼女は薄化粧をしてきれいになっていた。高卒なのに真面目な彼女は中堅の企業に合格し、その会社の馬術同好会に入っていた。和樹を誘った大学の馬術部の友人は、社会人の彼女たちを教えていた。友人は美月に気があったのだ。 
 無口で影がある美月を守ってやりたくなる、と……だから和樹は美月につれなくした。仲を取り持つよう頼まれたのだ。

 あの日、馬術雑誌から抜け出たような女がクラブにやってきて、皆の視線を釘付けにした。スタイルのいい女は乗馬もうまかった。障害物を飛び越えた。ポニーテールの長い髪が跳ねた。
 モデルのような女が和樹たちの横を通った。歩き方まで美しい。しかし、ああいう女は好きではない。自信満々の堂々とした、プライドの高そうな、颯爽とした、格好いい、格好いい女は……
 あの女は馬に水を飲ませていた。ポニーテールのほつれた後れ毛が……魅力的だ。白いパンツのヒップラインが……

「アブネスヨ!」
 大声で言われた。怒られた。方言? 
 女は顔に紅葉を散らす……
「後ろを通ったら蹴られるわよ」
 今度は標準語で怒られた。思わず出たのか? 東北弁か? 
 第1印象が崩れた。大きく崩れた。美月が走ってきて和樹の代わりに謝った。
「美月の彼氏?」
「高校の先輩です」
 あの女はジロジロ見た。

 あの女が和樹を食事に誘った。美月と友人と。あの女の車で行った行きつけのレストラン。友人は美月を見ていた。和樹はあの女を見ていた。多くは喋らない。
 あの女が店のピアノを弾いた。和樹は驚いた。久しぶりに聴いたベートーベンのテンペスト。和樹は近付いた。引き込まれた。拍手すると、
「ショシ」
「?」
「え?」
 女は笑う。
「田舎者だと思ってる?」
「と、とんでもない」
「恥ずかしい。よかった? って聞いたのよ」
「よかったです。テンペスト好きです」
「んだ。あなたも弾けるの?」
「んだ。弾けません。弾けません……1番なら」

 和樹が弾き終わると皆が拍手してくれた。テーブルに戻ると、友人は褒めたが美月はなにも言わず微笑んだ。
 それから……あの女とピアノの話をするのは楽しかった。もう方言は出さない。美月も熱心に友人の話を聞いていた。聞き上手だ。

 あの女には田舎に婚約者がいた。別にどうでもいい。友人の恋を成就させるために婚約者のいる女を好きになったフリをした。あの女はトイレに行き会計を済ませていた。3人で少しばかりの金を出すと、受け取った。どうでもいいのだろう。

 美月はあの女に旅行に誘われていた。あの女の故郷。父親の経営している乗馬クラブで特訓してくれると。あの女は和樹も誘った。
 あの女の車で行った。途中運転を変わった。車の話題になると美月は後部座席で眠っていた。
 あの女の父親が経営しているホテルで、婚約者に紹介された。年上の、かっこいい男だった。用意してくれた部屋は安いのに最高の部屋。美月は隣の部屋。婚約者も交えて夜遅くまでホテルのバーで飲んだ。あの女は婚約者の前でも和樹を見ていた。あの女は親の決めた婚約者を嫌っていた。だから年下の男に気のあるフリをした。それくらいわかっていた。
 4人で馬に乗った。よその大学生も合宿に来ていて、大勢で飲んで騒いだ。あの女といると美月は……清楚だ。

 朝、食堂に女ふたりが入ってきた。美月は念入りに化粧をし、雑誌から抜け出たような女になっていた。隣に、素顔でサラサラのロングヘアのあの女。驚いた。素顔のあの女は……あの女は和樹を驚かす。そのあたりから、和樹の気持ちは揺らいだ。いや、もっと前だ。でなければ来なかっただろう。初めて会って方言を聞いたときから惹かれていた。あの女は清楚で可憐だった。和樹は交互に見つめおかしくなった。たいていの男は化粧で騙される。婚約者は知っているのか? この女の素顔と魅力を?

 帰る前日の夜、3人で河原を散歩した。婚約者は仕事の電話をしていた。両手に花? の和樹にふたりの不良が絡んできて、あの女を連れて行こうとした。和樹はあの女の手をつかみ離さなかった。何度か殴られても守った。
 ああ、武道を習っておけばよかった。空手か柔道……ボクシング……

 意識が朦朧とし、あの女と婚約者に支えられて歩いた。ホテルの部屋のベッドで看病してくれたのは美月ではない。あの女は、弱いながら必死で守ろうとした彼に謝った。謝った。
 翌日の朝、美月が帰ったことを知った。仕事があるから予定通り、美月は帰った。ひとり、電車で。メールをしようとして……やめた。美月には友人のような誠実な男がふさわしい。
 
 由佳は積極的だった。命がけで守った和樹の株は急上昇した。彼も由佳にどんどん惹かれていった。化粧を落とした素顔の女に夢中になった。

 地方の金持ちの婚約者のいる女。贅沢な部屋。電子ピアノが置いてある。
「オレもひとり暮らしするんだ。これなら夜でも練習できるな」
「じゃあ、プレゼントするわ。私は来年卒業したら田舎に帰るから」
「もらえないよ。こんな高いもの」
「どうせ処分していくから。住所教えて」
 金に不自由しない女の部屋で酒を飲んだ。婚約者も来るのだろう。ダンベルが、6キロのダンベルがあった。あの、長身の体格のいい男っぽい婚約者に抱かれている由佳を想像した。由香はリクライニングチェアに座り目を閉じる。
「君は、ほかに好きな男がいるんじゃないのか?」
 そんな気がした。
「あなたもいるんじゃないの?」
 悪い女は誘惑した。
「婚約者がいるんだろ?」
「圭ちゃんが欲しいのは私の家と財産」
「そんな男にはみえない」
「圭ちゃんは壊したの。私の初恋を容赦なく。あなたの親にも言うかもしれない。婚約者のある女と付き合わせるなって。どうする?」
「捨てろよ。婚約者も家も」
「家も財産もない田舎者でいいの?」
「んだ」
 笑ってキスをした。初めてだ。酒臭いキス。酒臭い……
「あの人を……」
 酔った由佳が話す。
「こうやって誘惑したの」
 由佳は服を脱ぐ。
「誘惑したの。どうしたと思う?」
 トレーニングを欠かさない女の見事なプロポーション。理性はぶっ飛んだ。
「あの人はトイレに逃げたの。下痢してるって。トイレに閉じこもったのよ。私が酔って眠るまで……」
 そうすればよかった。絡みついてくる腕を振りほどき、トイレに逃げればよかった。誘惑したのは由佳だ。酔った由佳は詩を口ずさんだ。
「自分の愛しい命を振り捨てるほど私を愛してくれるのは誰だろう? 
 私のために海に溺れて死ぬものがあれば、そのとき私は石から解放されて、命へ、また命へと立ち帰っていくのだ……
 そんなにもにもざわめく血に私は憧れている……暗記してたんだけどな」
「ゲーテか?」
「リルケよ。あの人が好きだった」
「んだ」
「笑わせないで。好きよ。命がけで守ってくれた」
 避妊具まで用意していた年上の女。由佳は詩のヒロインになりたかったのだ。運命には逆らえないが……

 和樹をリードした女がベッドで泣いた。
「命を捨てるほど愛してる……」
 感激して言った。互いに初めてだった。初めての相手。由佳はベッドの上で泣いた。愛しているからだと思った。幸せなのだと思った。乱れた由佳の長い髪を指で梳かした。素晴らしい夜だった。

 次に会った時、由佳は元の女に戻っていた。化粧をし髪を大人っぽく束ねていた。そして白状した。不良に絡まれたとき、和樹がどうするかを観察していた、と。由佳を守るか自分を守るか。受けたダメージまで観察していた。和樹を助けたのは美月だった。携帯で助けを呼ぼうとし、もうひとりの男に携帯を奪われそうになり、逆襲した。和樹を守るため。
 彼女は由佳に習ったばかりの護身術で襲ってきた男の指を逆側に折った。圭介が走ってきて、男たちは逃げていった。

 かよわい美月がオレを助けた? あの美月が?

「嬉しかった。守ってくれて。いつ離すか見ていたの」
 信じられない彼に由佳は証明した。6キロのダンベルを軽々持ち上げる。
 怒りが彼を暴走させたが、無理やり抱こうとしてもかわされた。ボクシングを4年もやっている女は強かった。指1本ふれられなかった。
「おまえはオレのものだ。そうだろう?」
 由香は、もう、和樹を見ない。もう、過去なのだ。迷惑なのだ。年下の男の思い、愛は重荷。
「圭介さんを愛しているんだな?」
「……」
「答えろよ。そうしたら諦めてやる」
 由佳はうなずいた。
 この間は愛しあったのに。なぜこんなことに?
 由佳は謝った。年上の女は謝った。ごめんなさい、ごめんなさい、美月……

 美月……美月にひどいことをした。彼女は馬術同好会も辞めてしまった。友人は敢えなく失恋した。
 
 美月をテニス部に勧誘したのは和樹だった。
「かわいい子しか誘わないんだ」
 褒めたつもりが、意外な反応をした。薄っぺらい男……と侮蔑の目つき。思わず見つめ直した。頬が染まった。目は大きくはない。鼻筋は通っているが高くはない。唇は……口元はかわいい。肌がきれいだった。

 美月は球拾いをしながら和樹を見ていた。最後の数分間、和樹は教えた。彼女を選んだのは地味で真面目だったからだ。変な噂がたち、葉月先輩の耳に入るのがいやだった。真面目で几帳面な彼女は朝練にも1番に来た。サボることはない。コートの準備ができた頃、ほかの1年は来た。練習が終わったあとも皆が喋っている間に彼女は黙々とあと片付けをした。和樹は要領のいい自分を少し恥じた。美月は運動神経もよかった。2回戦まで進んだ女子は彼女だけだった。しかし彼女は自慢はしなかった。目立つことを嫌う。褒めると恥ずかしがった。

 美月がテニス部に入った夏休み、O先輩の家で集まり酒を飲んだ。和樹は葉月先輩が来ないから不機嫌で、ガブガブ飲んですぐに潰れて別の部屋で寝かされていた。夢だと思っていた……心配して様子を見に来た美月に……

ーー夏の夜、オレは酒臭い息をして美月にキスした。夢だと思い忘れていた。
 オレが葉月先輩に夢中だったときも、夏生と付き合っていた時も、おまえは遠くからオレを見ていた。こんなに軽い、薄っぺらいオレを……

 美月のことはなにも知らなかった。いつも人の話を聞き、自分のことは話さなかった。
 無口で影のある女……友人が守ってやりたいと言った女。

ーーオレは美月のことをなにも知らなかった。
 胸が苦しかった。
 大事なものを失った。

 由佳は田舎に帰ったのだろう。電子ピアノが送られてきた。圭介と結婚するのだろう。
 回り道してようやくたどり着いたのか? 愛する男の元へ。  

18 少年

 幼い頃から、自分の容姿がよくないことは知っていた。幼稚園ではっきりわかった。同じ組に三沢家の三女がいた。いつも髪を結い、かわいいリボンをしていた。服は皆同じ制服だが、明らかな素材の違いを思い知らされた。男児はかわいい子を好む。たとえ、自分勝手でわがままでも。おまけにパパは社長……と自慢した。
 嫌いな子だった。ああいうチャラチャラした中身のない子は大嫌い。ただひとつ、羨ましいことがあった。私にはないもの。兄貴だ。10歳年上の素敵な兄貴が、時々妹を迎えに来ていた。中学生の兄貴は妹の自慢だ。妹は見せびらかして甘えた。兄は妹の手を取って帰って行った。私の顔など見やしなかった。

 素敵な兄貴の妹たちは私と同じ小学校だった。3人いた。皆かわいくて目立っていた。兄は運動会には応援に来ていた。先生たちと話していた。もう大人たちより背が高く、誰よりも素敵だった。噂は私の耳にも入った。三沢家の長男。学力優秀。スポーツ万能。
 
 その後は何度か、ホームや電車の中で彼を見かけた。社会人になった彼はますます素敵になり、まわりの女性も意識していた。私のことは覚えていない。妹のそばで見つめていたのに。

 三沢家に飼われていた犬は、父が経営する動物病院に予防注射を受けに来た。家族旅行の時は犬を何日も預けた。長男が連れてきたこともある。私が大学生のとき、父の助手をしていると、彼が子犬を抱いてきた。診察室でしばしふたりきりになった。ふたりと1匹。
 18歳の飾り気のない女の頬は紅潮しただろう。しかし、彼は慣れていた。見られることに慣れていた。私は慣れていなかった。犬の爪を切り足の毛を刈る。彼は私の手元を見ていた。
「先生のお嬢さん?」
お嬢さん……
「似てますね」
そうよ。父親似なの。母に似ればよかった。

 男と交際したことはある。面倒くさい女より男の方が話しやすかった。ほとんどの男は私を恋愛の対象には見なかった。私も、あの三沢家の息子と比べてしまい、それを超える男には出会わなかった。

 それから10年以上経った。憧れていた男は目の前に現れた。最低の男、父親として。
 私は彼の妻を知っていた。私と同じ歳の女が、憧れた男の妻になった。嫉妬は湧かなかった。噂は聞いていた。三沢家の長男は結婚を反対されて家を出た。女のために家族も会社も捨てたのだ。
 そして、会社が危うくなると長男は戻ってきた。妻と子供を連れて。学歴のない東北の貧しい女だという。

 そのひとには感服した。父親は半身不随、母親も介護で腰を悪くした。妹たちの寄り付かなくなった家は荒れていた。三沢家の長男が、何もかも捨てて妻にした女はたいした人だった。荒れ果てた邸がきれいになっていった。その美しい人は、梯子に乗り植栽を切っていた。結婚を反対した義父を車椅子で散歩させていた。笑っていた。楽しそうに。
 母が噂話を聞いてきた。魚屋でアラを買っていた。八百屋で大根の葉をもらっていた。もう、あの家には金がないのだ。なのに、笑っていた。皆、彼女に好意的だった。その妻のおかげだろう。会社は持ち直した。三沢家は再びにぎやかになった。

 ある日、彼女は病気の犬を連れてきた。大きな病院に検査に行くことになり、私が車を運転し乗せて行った。彼女に興味があった。彼女は自分で調べていて、病気のことに詳しかった。

 その後なにがあったのか? ある日、彼女から父に電話がきた。私は三沢邸に桃太郎の様子を見に行った。何があったのか? 彼女は家を出て郷里に帰っていた。弱った犬と息子を残して。
 7歳の息子が犬の世話をしていた。薬の副作用で粗相をする。世話は大変だろう。
「おうちの方は?」
私が大先生の娘だというと、少年は安心したようだった。父親は仕事で帰りが遅い。祖母は具合が悪く、寝ている。
 具合が悪いのは目の前の子供の方だった。片方の瞼が青い。アイシャドウでも塗ったように。転んだんだ、と息子は父親を庇った。
 
 気が気ではなかった。私はランニングしながら三沢邸の様子を伺った。父親の帰りは遅いようだ。手紙を門扉に挟んだ。
「桃太郎のことでお話があります。電話をください。遅くても構いません」
 
 電話はなかった。放っては置けない。私はもう1度手紙を書いた。  
「2度目の手紙です。間違っていたらごめんなさい。間違いならいいけど。英幸(えいこう)君のことでお話があります。K動物病院の娘です。以前1度だけお目にかかりました。電話がなければ警察に連絡します」

 日にちが変わるまで待ったが電話はなかった。その時、少年がやってきた。犬を抱いて。真夜中にひとりで歩いてきた。副作用で体重の増えた重い犬を抱いて。
 その夜、ふたりで犬を看取った。
 そこにようやく現れた父親は酒臭かった。私は自分でも驚いた行動に出た。酔った男を外に押し出し、犬を洗う水道の栓を捻った。3月だ。まだ寒かった。男は勢いよく水をかけられた。
「子供を殴るなんて、最低の大バカやろう。あの子は返さない。酒をやめるまで返さない」
父親はずぶ濡れで土下座した

 朝、少年を送っていった。情けない父親は元のかっこいい男に戻っていた。丁寧に謝り礼を言い、2度と暴力は振るわないと私に誓った。少年は学校へ行った。ほとんど眠っていないのに。
 私は少年を放っておけなかった。父親の方も。そして、祖母はもっと危険な状態だった。祖母は明らかに病んでいた。病院に連れて行くとすぐに入院になった。情けない男は立て続けの出来事に後悔した。
 妻のいない家に出入りした。いろいろ噂されただろう。父親は私に頼んだ。息子の力になってくれ、と。あなたに懐いている。心を開いている、と。
 
 家は平和を取り戻していった。やがて私は求婚された。ひとつだけ気がかりがあった。私は前妻の郷里を訪れた。かつて英輔と英幸と3人で暮らしていた部屋に島崎がいた。
 島崎、三沢家に不幸をもたらした音楽教師。彼女は息子も社長夫人の座も捨てて、余命宣告された男と暮らしていた。
 私たちは道路を渡り海岸に降りた。
 彼女は話した。
 島崎の子供が欲しい。死にゆく男の子供が欲しい。命のすべてをかけ愛してくれる。愛は奇跡を生むのね。彼は、まだ生きている。愛はひとつじゃないのよ、亜紀さん。

 英輔が私と再婚したのは息子のためだ。八方塞がりだった。どんなに有能な男でも父親としては失格だった。
 結婚式は内輪だけで行った。本当はやりたくなかった。ドレスも着物も着たくなかった。似合わない。私は成人式さえパンツスーツだった。夫は最高のスタイリストだった。見栄えの悪い女を激変させた。選んだドレスはシンプルでくすんだブルー。それが私を引き立てた。彼の手が私を変えていった。化粧のマジック。さすが、化粧品会社の社長だ。
「素顔の君のがいいけどね」
嘘? まさか、本当に? 美しい女を、美しく化粧した女を見慣れているから?
 
 この家に嫁いできて、いきなり9歳の子の母親になった。大きな邸の崩壊……幸せな家庭が突然壊れ、母親が出て行った。父親は酒に逃げ、母親そっくりの息子に暴力を。
 私が義母になったことは、救いになったのだろうか? 
 家は姑が切り回していた。姑には平和が戻っていた。義母には私のような嫁がよかったのだ。美しくもなく家事もできないダメな嫁。それが姑を安心させた。

 初めて風呂に入った。大きな邸に広い庭、羨ましがられるが古い。たいそう古い。庭の木は姑が嫁いで来る前からある。風呂も広いが古かった。窓は風でカタカタ音がした。開ければ木々が騒めく。亡霊でも出そうだ。
 電気も薄暗い。髪を洗おうとして、排水溝に信じられないものを見た。亡霊よりも苦手だ。私はシャワーをかけ、流そうとした。流れていかない。騒いだのだろう。英幸がドアを叩いた。
「亜紀先生、大丈夫?」
「な、ナメクジラ」
「……」
「ナメクジが、流れていかない」
「棚に塩があるでしょ。それをかけると流れていくよ」
 棚の上のきれいなボトル、入っているのはバスソルトではないのか? 
「獣医のくせに、虫が怖いの?」
「ナメクジは虫ではない!」

 大きな邸は虫屋敷。広い庭には……子供には宝物のクワガタが。土にはミミズ。それをこの家で育った息子は手でつかむのだ。部屋には蜘蛛が出現する。少年は素早い。蜘蛛の動きを予測し捕獲。手で捕獲。それを窓から放る。
 少年は夕方になれば言われなくても風呂を洗った。ズボンを脱いで。この少年も古い風呂は怖かったのだろう。ドアを開けて洗っていた。冷たい水に催したのだろう。少年は排水溝に向かって放尿しだした。窓の方を向いて。
 長い放尿時間に感心した。
 翌日、洗う前にトイレ行きなさい、と言うと赤くなっていた。

 彩が生まれた時、英幸は6年生だった。気持ちは複雑だったに違いない。彩が生まれると私は英幸に世話をさせた。ふたりで沐浴させた。風呂はリフォームしていた。手の大きな兄が支えると彩は気持ちよさそうだった。 
 兄は頼りになった。忙しい父親に変わり、妹の世話をした。おしめを変えた。丁寧だった。便を拭きとった。それでも嫌だったのだろう。シャワーを浴びさせた。雑な私は怒られた。兄は、妹のお尻が汚れると面倒くさがりもせずにシャワーを浴びさせた。地震があれば階段を駆け降りて彩のもとに駆けつけた。普段は怖がっていた、急な階段を。目も耳もよかった兄は妹の泣き声に敏感だった。
 彩も英幸に懐いた。初めて発した言葉はママでもマンマでもなく『ニー』だった。おにいちゃんの『ニー』
 『ニー』は学校から帰ると彩のところに来る。歌を歌ってやる。歳の離れた兄がままごとをして遊ぶ。

 夫は息子の名を呼ばなかった。いや、英幸本人が自分の名を嫌った。両親から一字ずつ取った名前。この家で息子の名前が呼ばれることは稀だった。

 義母が亡くなると家の中は大変だった。ちょうど家政婦も都合で辞めてしまい、私はひとりで家事も育児もやる決心をした。
 幸子さんがやっていたことだ。あの人は、家事に介護に犬の世話、庭の手入れ、すべてひとりでやっていた。私にもできないわけがない。対抗心がわいた。しかし、慣れない家事は大変だ。私はごはんを炊いたこともなかった。
 初めて用意した朝食。ごはんを食べたふたりの反応は微妙だった。「朝炊いたの?」と英幸が聞くのを英輔が「ま、こんなもんだ。午後から雨だ」と話題をそらした。
 夕方、英幸はおなかがすいた、と冷やご飯でおにぎりを作った。手は大きい。残りごはんで大きなおにぎりをひとつ。器用だ。味噌をつけ、そのままの手で食べた。
「おいしそうね、ひとくち」
 初めて食べた。素朴な味。
「パパには内緒だよ」
ああ、幸子さんが作ったのだな。
 英幸は炊飯器を洗うと米を研いだ。私は見ていた。
「おばあちゃんが教えたのね」
「……僕の仕事だった」

 ごはんが炊き上がると英幸は見ていた。私が反応しないと、
「炊けたらすぐほぐさないと駄目だよ」
しゃもじを持って器用にほぐした。
……幸子さんは息子を見事に躾けていた。その晩食べたごはんは光っていた。

 やがて、私は少年に見惚れるようになった。神は女の私の顔を、手を抜き適当に仕上げた。少年はまだ中性的で私はある映画を連想した。14歳の美少年。恋焦がれた音楽家は髪にさわることもなく死んでいった。私は触れられた。髪にも頬にも。肩にもお尻にも。
 それを見ている男がいた。男には触れられない。話もできない。そして少年は知っていた。楽しんでいた。父親の反応を。少年は空を見上げた。ため息をついた。父親の手の中でグラスが割れた。少年の中に前妻がいた。

『私がまだ非常に若かった時のことだ。ホームズ君。私は生涯に1度しか経験したことのない恋愛をした……
 彼を見ていると愛おしい彼女のあらゆる仕草が私の記憶に蘇ってきた』
 

19 アリス

 初めて連城先生を見たのは、彩の小学校の運動会だった。転任してきたばかりの若い男性教師は母親たちの目を引きつけた。なるほど、目の保養になる美青年。若いママたちは、はしゃいでいた。
 5年生になった彩はブラスバンド部に入った。運動会の演奏は聴けたものではなかったが、顧問になったのが蓮城先生だ。女子部員が増えたという。彩が入部したのも先生に惹かれたからだろう。
 
 先生が来てからブラスバンド部は活躍し、コンクールにも出るようになった。彼はアマチュアバンドに入っていて、そのバンドの指揮者とメンバーも時々教えに来ていた。
 指導者の力はすごい。練習は厳しかった。夏休みも連日で、彩は旅行も行かないと言い出した。

 夏休み返上の成果はあった。初めて出場した都のコンクール。
 子供の成長はすごい。これが運動会で演奏していた子供たちなのか? すごい拍手だった。後ろを向いていた先生が前を向いた。黒の服を着た指揮者は手を胸に当てお辞儀をした。指揮者が主役になった。
 
 先生には、奥様と小さな男の子がいる。ママたちからの情報である。

 年度末の演奏会が終わると、他の小学校から借りた楽器を返しに行く。区立の小学校では楽器を工面するのも大変なのだ。彩は放課後数人で、先生の車に乗って手伝った。帰りにケーキをご馳走になった。ハンバーガーをご馳走になった。彩は嬉しそうに話した。

 夫は……忙しかった。自分の娘を構う時間はない。その代わりに、欲しがるままに携帯電話も買い与えた。それからは、メールの着信音が夜遅くまで鳴っていた。怒ると彩はベッドにもぐり、返信していた。

 6年生になると、私も役員をやらないわけにはいかなくなった。広報委員になった私は、先生にブラスバンド部の記事を書いてもらう担当になった。放課後、職員室へ行った。17歳年下の音楽教師と、紙面の打ち合わせをした。原稿は家のパソコンに送ってもらうことにした。

 夜、学校に集まって印刷する。彩は付いてきた。玄関で連城先生の下駄箱を開け、
「帰っちゃったんだー」
と、がっかりした。私は幼い恋心を微笑ましく思った。
 翌日も集まって作業。彩はまた付いてきた。小さな会議室で印刷したものを分ける。数人、子供たちも来ていた。そこへガラッとドアが開き連城先生が現れた。彩の顔がパッと輝いた。先生は子供たちを音楽室に連れていき遊ばせてくれた。

 公園で開催されるイベントにブラスバンド部も参加した。親たちは楽しみに見学に来ていた。
 彩は演奏が終わると、おなかが痛いと言い出し私は先に連れて帰ることにした。先生に伝えに行くと……
 先生は27歳。彩は11歳。
 ふたりは見つめ合っていた。


 ︎


 バカな私は気付かなかった。彩がシャワーを浴びている間に携帯を見て唖然とした。日に何度もやりとりしている。
『明日は歌のテストだ』
『はい、がんばります』

『おはよう、雪だよ。雪が降ってる』
『わあ、ほんとだ、まっしろだ』

 先生とメールをしているのは知っていた。これは教師と生徒の交換ノート?
 
『具合よくなった?』
『もう大丈夫です』

『彩、かわいいな。好きだよ』

 彩が風呂から出てきた。裸だ。痩せている。生理もまだだ。恥ずかしがりもしない。 

 どうすべきか? 校長にメールを見せたら連城先生はどうなるだろう? 注意で済むか? 世間の母親はどういう反応をするのだろう? 娘を問い詰めるのか? 夫に相談するのか? 私は違うらしい。夫には話せなかった。話したら先生は終わりだ。

 その夜、メールを打った。迷ったあげく送信した。

 
『今日はお疲れ様でした。素敵な演奏でした。指揮も。今日、ふたりを見て愕然としました。携帯も読みました。
 何がどうなっているのか、いつからなのか? 一生懸命思い出そうとしましたが、わからないのです。
 夫は忙しく構ってやれません。寂しいから慕ったのでしょうか? 
 
 それとも、先生はロリータ・コンプレックス?
 アリス・コンプレックスですか?
 彩の裸を想像してムラムラするとか? まさか、もう見たとか?』

 どうするだろうか? 誤魔化すだろうか? 飛躍しすぎた母親だと笑うか? 
 パソコンの前で待った。夜中だ。寝ているのだろう。朝にしよう。眠れないだろうが。そのとき、メールが届いた。長いメールが届いていた。

『いつか、こんな日が来ると思っていました。メールはやめようと思いながら、やめられませんでした。
 5年生の彩ちゃんのことはよく覚えていません。去年の学年末の演奏会のあと、よそから借りた楽器を返しに行くとき、何人かの女子が手伝いました。その後は皆都合が悪く、彩ちゃんだけが一緒に行きたい、と。
 私は乗せて行ってしまったのです。彩ちゃんは恥ずかしがって、あまり喋りませんでした。一生懸命楽器を運んでくれました。そのあと、家まで送りました。家庭にも才能にも恵まれた、友達にも慕われている彩ちゃんは寂しそうでした。携帯の番号を聞かれ、私は教えてしまったのです。
 それからは頻繁にメールがきて、私は返しました。そして待つようになったのです。

 今日は私もびっくりしました。じっと見つめられ目をそらせませんでした。

 私は今まで、自分をアリスコンプレックスだと思ったことはありません。彩ちゃんに性的な感情を持ったことも、したこともありません。妻との間がうまくいかず、彩ちゃんの優しさに惹かれたのは事実です』

 誠実な返信に思えた。私の反応は世間一般とは違うのだろう。詳しく説明させてください、と頼まれて音楽室で会った。広報の取材のふりをして。丸め込まれないように。
 過激なことを言った。
「離婚して、待っていたらどうですか?」
 これは、非難されるだろうが。連城先生は困ったような顔をした。
 先生は彩を褒めた。私を褒めた。
「他の生徒は皆、地球は自分中心に回っていると思っているけど、彩ちゃんは違う。優しいですね。優しいお嬢さんに育てましたね」

 母も優しかった。公にする勇気がなかった。彩はもうすぐ卒業だ。騒ぎにはしたくない。公にすれば、彩の名前も知られてしまう。
「先生も女のお子さんが欲しかったのではありませんか?」
「子供はもう……妻はひとまわりも年上なんです」
 この男は、誤魔化せばいいものを。娘が欲しかったと言えば、彩みたいな娘が欲しかったと言えば、情状酌量の余地はあるだろうに。
 彩は慕っているのだ。彩の、人を見る目は確かだ。


 ︎


 メールは徐々に減らすよう命令した。卒業まで良い思い出だけを残すように。
 先生からは毎朝メールが届いていた。前日の報告。部活での様子。彼は大量のメールを寄越し、私は待つようになった。
 共働きの男は食事の支度もする。献立が話題になった。音楽、映画の話題、そして彼は少しずつ妻の愚痴をこぼすようになった。
『あなたの奥さんは幸せね。おいしいものを食べられて』
『私は、幸せじゃないですよ。私だって、沸いている風呂に入って、できているごはんを食べたい。広報で夜学校に行ったのだって、1度帰って食事の支度をしてから、忘れ物をしたと言って戻ったんです』
『彩と示し合わせていたのね?』
『すみません。でも、たいして話もできなかった。他の子供たちがうるさくて』
 バカ正直!
『私も家事は苦手だった。結婚する気はなかったし、欲しいのは奥さんね、なんて言ってたから』
『あなたは、ご主人を愛してる。彩ちゃんから聞いてます』
『彩が、なんて?』
『パパのために一生懸命。パパは……出張が多い。彩のことなんか、愛してないの』
『そんなこと? たしかに留守がちだけど。そうよね。あなたのことだって、気が付きもしなかった』

 バレンタインデーには保護者からのプレゼントが下駄箱に入っていた、という。匿名で。憧れのあなたへ、と。
 私はチョコレートを渡したりはしない。想像するだけだ。想像した。17も年下の男との……

 夫は手を伸ばせば拒みはしない。
「好きなようにしてくれ」
 と冗談を言う。私は頭の中の男を追い払う。
 愛したのは英輔だけ……でも、いまだにこの胸の中には前妻がいる。

 携帯に着信が。音でわかる。絶対に聞き逃さないための、モーツァルトの25番。この曲はまるで印籠だ。聞いたものは、途中だろうが、最中だろうがひれ伏す。ベッドでも、車の中でも、おそらく社内でも。英輔にとって電話の相手は特別な娘。
 英輔は携帯を見る。すぐに返信する。
「行くのね?」
「死にたいって」
 私は引き止めることはできない。
 なによりも優先する。仕事よりも、妻よりも、自分の子供よりも。あの娘は、前妻が助けた少女。命と引き換えに助けた、彩と同じ歳の少女。
 父親には捨てられ、母親には殺されそうになった。助けなければ、苦しみは終わっていただろう。

 メールは危険だ。
『彩はファザコンなのかも。あなたが親身になってくれて嬉しかったんだわ。夫は忙しくて彩のことは二の次だから』
『我慢してますね。わがまま言えばいいのに』
『この家には亡霊がいるの。夫の前妻。ランランラン』
 ああ、送信してしまった。

『大丈夫ですか?』
『前妻はいまだに夫の1番の女。死ぬときには彼女の名を呼ぶ』
 これは返信のしようがないだろう。
『前妻には勝てない。バカな女よ。海で溺れている子供を助けたの。心臓が弱かったのに。助けられた子は……先生、アノマリーをご存知? 顔の先天奇形』
『見たことはありません』
『調べなさい。知ったら自分の悩みなんて吹っ飛んでしまう。生まれた瞬間、嘆かれる』

 メールはもうやめよう。

『髪の生えない子がいました。帽子を被っていて、教師はいじめられないよう気をつけた。顔にアザがある子も。その子は明るくて皆に好かれていた』
『そうよ。絶対に生まれてきてよかったと思わせてみせる。前妻が命と引き換えに助けた子を。夫と私で』
『すごいですね。あなたは。尊敬します』

 謝恩会で連城先生を見た。目は合わせなかった。保護者の歌が終わると、彩は感極まって泣き出していた。
 卒業式の後、彩は何人かの生徒と一緒に先生に花束を渡しに行った。

 娘の卒業式。父親は来られなかった。別の式に出ていた。英輔は熱心に学校へも行った。役員もやった。あの娘は不登校になることもなく、無事に卒業式を迎えた。卒業生代表として答辞を読んだはずだ。
 これからもそうだろう。中学、高校……何度絶望することだろう。私たちは希望を与えられるのか?

 彩は中学に入ると、楽器はやめてしまった。1年生の最初のうちは皆と先生の顔を見に行った。
 次第にメールは少なくなった。私はがっかりした。返信があると3倍の量を返した。そしてまた待つ。
 彩ならすぐに返すくせに……思って愕然とした。何をしているのだろう? 娘に嫉妬するなんて……ありえない。

 結局私は口封じをされたのだ。同類になった。今更、彩のことを訴えるわけにはいかない。

 先生は卒業した翌々年に異動になった。メールが来た。事務的なメールだった。このたびT小学校に移動になりました。お世話になりました。
「ブラスバンド指導は?」
「S先生が続けます」
「向こうの学校では指導しないの?」
「さあ、もうバンドも、尊敬していた人が信じられなくなったので」
「S先生とメンバーが不倫でもした?」
「すごいですね」
「あなたはよかったわね。上手くやったわ」
「感謝しています」
「奥様とも上手くやりなさい」
「メールは本心です。僕は楽しかった。勉強になりました」

 メールが途絶えると、私は異動先の学校のホームページを見た。活動しているアマチュアバンドの活躍を読んだ。
 先生はまた指導者として活躍した。バンドも続けていた。そして、彩が高校2年になった年に、事故で亡くなった。彩は泣きながら帰ってきた。
「連城先生が死んじゃった」
 
 5年経っていた。ショックだったが、現実とはかけ離れていた。先生は、夜中横断中、信号無視の車にはねられた。どうして夜中に? コンビニか? 奥さんと喧嘩でもしたのか? 
 それとも……誰かの力になろうとして駆けつけたのだ……そう思いたい。
 最後に誰の名を? 誰の顔を思い浮かべたのだろうか?

 葬式に出た彩は悲しんだ。しかし、忘れるのは早い。数日たつとケロッとしていた。もはや、覚えてはいないのだろうか?
 

20 そっくりな娘

 ここ数日……おへそが痛い。原因はわかっている。仕事のときに付けているゴムバンドのせいだ。蒸れてかゆかった。医者には行きたくない……
 湯船に漬かり眺めた。
 体がだるい。肩が重い。満月には体調が悪くなるらしい。眠いのも……

 おへそに吸い込まれていく? 
 ああ、疲れているな。パートなのに正社員より動いている。いい加減にはできない。安い時給でも。
 頭が吸い込まれていく。おへその中に……おなかの中に……誰のおなか? 私自身か、それとも?


 子が宿った。夫は言い争っていた。産むのはやめてくれ、と。土下座して頼んでいた。


 もう、40歳だ。子はふたりいる。息子は大学に入ったばかりだ。金をかけた。かわいい長男には金と愛情をありったけかけた。10歳離れた妹は……

 産むのはやめてくれって?
 産むわけないでしょ。あなたの子なんて、2度と、2度と2度と……

 息子が大学に入った。私は正社員になる。施設長も主任も歓迎してくれる。介護職は給料が安いがふたりで生活するには充分だ。大学の授業料は夫に出させる。夫は覚悟しているはずだ。この日が来るのを。この家は私のものだ。慎ましく暮らしてきた。この家は私が探し何度も足を運び決めた。夫は無関心だった。買う気などなかったのだ……私の結婚前の貯金と、結婚してから生活費を切り詰めて貯めた金を頭金にした。夫とあの子には出ていってもらおう。夫は文句は言わないだろう。あの子はもう小学校2年だ。幼いが家事はひと通りできる。私がしつけたのだから。

 まさかこの年になって妊娠? 8年もレスだったのに。この間、仕事の送別会で注がれて飲んでしまった。こんな地味な女を誘う男がいた。自慢してやりたくて……8年ぶりに夫のベッドに潜り込んだ。

 夫を取られた女……単身赴任させた私の罪なのか? 2度流産した私は転勤が怖かった。父が亡くなり母は私を頼りにしていた。息子はサッカーに熱中していた。中学受験にも備えなければならなかった。
 夫は高卒だが大手の保険会社で真面目に働いていた。女子社員に人気があったが単身赴任を疑いもしなかった。
 打ち明けられたのはあの子が生まれたからだ。女は産まない選択肢を取らなかった。時間が過ぎ早産……あの子を産んだ母親は亡くなった。
 別れていればよかったのだろうか? 当時息子とふたりで生きていく自信も意地もなかった。結局私は楽な道を選んだ。金銭的に楽な道を。

 すぐに引っ越した。周りはあの子を私の子だと思っている。あの子は父親似だが。息子を産んだあと2度流産した私は、生まれるまで親には話さなかった……
 8年の間、私はあの子を育てた。すぐに保育園に入れた。関わり合いは最小限に。怒りは湧き上がる。頬にふれ、撫でつねる。あの子は泣かなかった。私は強くはつねらない。叩かない。あの子は息子の幼い頃によく似ていた。
 叩かないが……泣いても無視した。息子があやす。抱いて子守唄を歌う。ミルクを作る。10歳の息子は算数が得意だ。きちんと計量できる。温度も正確だ。抱っこして飲ませる。ゲップもさせる。恐れ入る。夜になるとベビーバスに適温の湯を張り私を呼ぶ。息子は太陽だ。私は息子には優しい母親でいる。


 おなかのなかでわたしはどんどん育っていった。産むことにしたらしい。夫はおなかを撫でる。誰のおなかなのか? 私か? あの女か? あの女と結婚して暮らしたかったのだろう。あの女の子供をふたりで育てたかったのだろう。あの女の娘は皮肉にも私に性格が似てしまった。隣人はそっくりな母娘だと思っている。おかあさんが穏やかだものね……あの子は育ての母親にそっくりだ。おとなしく控えめで、いてもいなくてもわからない。人には利用され、夫には尽くしても報われず浮気され捨てられる……寸前だった。あの女が死ななければ、わずかな養育費で捨てられていたのだろうか? 

 夫も息子もあの子も、わたしが生まれるのを心待ちにしている。わたしが生まれる日は……あの女が死んだ日か? あの子が生まれた日だ。
 わたしが生を受けると母親は死んだ。私は死んだ。取るに足らない美しくもなく、いてもいなくてもどうでもいい女は死んだ。
 わたしは病院にいたから葬式は知らない。夫と子供、親たちが泣いたかどうかも知らない。つまらない女は消えた。私は悔いる。真面目に生きてきたことを。節約して貯めた金、人がいいから入らされた保険、夫は金には困らない。夫は長期休暇を取り育児に専念した。真面目な息子も協力した。あの子は……あの子は私が死んだことを嘆いたのだろうか? 愛されていないことはわかっていたはずだ。兄とは差別されてきた。兄はサッカークラブに入り高いユニフォームも買ってもらえた。
 あの子は……雛人形も買ってもらえず、私が折り紙で作ったものを大事にしていた。習い事もさせてもらえず、かわいい服も着せてもらえず頼みの父親は単身赴任。単身赴任ばかりだった。よその女に生ませた娘を私に押し付け無責任な男だった。

 わたしは泣く。あの子があやすと余計に泣いてやる。あの子はソファに座りわたしを抱いて子守唄を歌う。知っている歌を次から次に歌う。いい声だ。わたしが目をつぶるとそっと布団に寝かす。わたしはまた泣く。何度も繰り返し。幼いあの子の腕は痛むだろう。布団の上であの子も眠る。不憫な子だ。母親の愛情を求めても得られず……


 家族で順繰りにインフルエンザにかかったとき、1番先にかかり治ったあの子は皆の弁当を買いに行った。まだ小学校に入る前だ。熱の引かない私を心配し、何度もタオルを氷水で冷やし額に当ててくれた。寒い冬に冷たかったろう。幼い手で絞るのは大変だったろう。私は泣けて顔を背けた。あの子は傷ついただろう。


 子育ては順調だった。母親は必要なかったのだ。夫と息子とあの子。絶妙なチームワークと愛情。わたしは病気もせずに育ち子供達の成長を見守った。息子は会計士の試験に何度も落ちたが、私の貯金と生命保険があるから勉強に専念し、30歳前にようやく受かった。受かった時にあの子は言った。
「おかあさん、喜んでるね」
 あの子は息子に金がかかるから塾へもいかなかった。いかなくても息子より成績がよかった。兄の古い参考書を読み自分で理解した。部活は金のかからない料理部や手芸部。器用なあの子は大人顔向けの作品を作った。私の大事にしてきた家はあの子が掃除し手入れした。あの子が作るハンバーグは、
「おかあさんのと同じ味だよ」
と言われ涙ぐんだ。私の小さな花壇にあの子はきれいな花を咲かせる。日の当たらない花壇の私の好きなクリスマスローズ。地味で下を向いて咲く花。冬に咲く花。あの子は図書館から本を借りて研究するから、可憐なクリスマスローズは寒さが厳しくなると可憐に咲く。
 高校に入るとあの子は申し訳なさそうにテニス部に入りたいと言った。家事はほとんどあの子の役目だ。休日も遊べなかった。夫も息子も協力した。私はピンときた。よほどの理由がなければあの子は自分の意思を通さない。あの子は恋をした。テニス部の先輩。女子に人気のある軽い男だろう。若い男にあの子の魅力はわからない。若い男が好きなのはバラやひまわり。下を向いて咲いているあの子は相手にされない。
 あの子は大声で笑わない。私がそうしてしまった。友達もあの子といてもつまらないだろう。あの子の良さがわかるのは辛く苦しいときだ。

 やがて2人とも結婚した。息子の嫁は明るくて陽気で無頓着な女だった。家事はできない。息子のほうがうまい。それはかまわない。いろんな夫婦があるのだ。文句はないが……嫁はわたしには優しかったが、あの子に対しては少し見下しているようだった。息子が話したのだろうか? 日陰者だと。嫁は自分の着なくなった服をあの子にくれてやる。ブランドの高い服だ。だが、明らかに洗濯していない。酷い侮辱だ。それをあの子は、礼を言う。服を洗い染み抜きしのりをつけアイロンをかける。たいしたものだ。あの子は家事のベテラン。私に似て。家事と節約のベテラン。
 あの子の夫は……最悪だった。高校中退。父ひとり子ひとり。貯金なし。おまえの貯金を出してはダメよ。いつか裏切られるかもしれない。いつでも捨てる用意をしておきなさい……
 しかしあの子は幸せそうだ。男ふたりが住んでいた古くて小さな家をきれいにしていった。小さな庭で野菜まで作った。あの子の夫は幸せだ。あの子も……満たされているのがわかる。
 女の子が生まれた。名前は……旦那の父親が付けた。優子……その名に男は憧れるのだろうか? 優子……あの子の母親の名だ。
 あの子は幸せそうだ。肌が輝いている。名前の通り輝く。静かに穏やかに。あの子は幸せそうだ。美しい月。

 わたしは年頃になっても異性にはひかれなかった。私はもう70歳だ。夫はもっと歳を取った。ふたりには広すぎる家で夫と暮らす。ときどき夫はわたしを亡くなった妻と間違える。間違ってはいないのだが。夫は仏壇の前で泣く。私の名を呼んで。許してくれ……と泣く。
 病院のベッドで3人の子に看取られ夫は逝った。耳元で私は呟いた。

 許すわ。あなたが許しを乞うのは優子さんでしょ。あの世で会ったら伝えてね。あの子をプレゼントしてくれてありがとう。最高のプレゼントだった。


 家にひとり。ゆっくり風呂に入る。何年経ったのだろう。わたしの体はあの時の私の体と同じ、おへそが赤い。医者に行かなきゃだめだろうか?

 浴室のドアが叩かれた。

「寝てるんじゃないだろうな?」

 まさか、待っていた? 私が許したとでも思っているのか?

 私は思い出す。手帳に書いてある。年が変わっても書き写す。何年も。繰り越し繰り越し。

『怒りを忘れるな』

 追加しなければ

『あの子を愛さないように』
決してあの子を愛さないように……

短編集 Ⅱ

短編集 Ⅱ

  • 小説
  • 中編
  • 青春
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2023-08-28

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  1. 11 絶対喋らない
  2. 12 思い出
  3. 13 この家には……
  4. 14 美容院の女
  5. 15 薔薇と棘
  6. 16 縁
  7. 17 乗馬服の女
  8. 18 少年
  9. 19 アリス
  10. 20 そっくりな娘