最愛の妻 Ⅰ

最愛の妻 Ⅰ

投稿済みの5作をI部にまとめました。

コンプレックス

 幼い頃から、自分の容姿がよくないことは知っていた。幼稚園ではっきりわかった。同じ組に三沢家の三女がいた。いつも髪を結い、かわいいリボンをしていた。服は皆同じ制服だが、明らかな素材の違いを思い知らされた。男児はかわいい子を好む。たとえ、自分勝手でわがままでも。おまけに「パパは社長……」と自慢した。
 嫌いな子だった。ああいうチャラチャラした中身のない子は大嫌い。ただひとつ、羨ましいことがあった。私にはないもの。兄貴だ。10歳年上の素敵な兄貴が、時々妹を迎えに来ていた。中学生の兄貴は妹の自慢だ。妹は見せびらかして甘えた。兄は妹の手を取って帰って行った。私の顔など見やしなかった。意識の隅にも入れなかったのだろう。

 素敵な兄貴の妹たちは私と同じ小学校だった。3人いた。皆かわいくて目立っていた。兄は運動会には応援に来ていた。先生たちと話していた。もう大人たちより背が高く、誰よりも素敵だった。噂は私の耳にも入った。三沢家の長男。学力優秀。スポーツ万能。高校ではディべート部で優勝した。
 
 その後は電車の中で見かけたことがある。何度かホームや電車の中で彼を見た。社会人になった彼はますます素敵になり、まわりの女性も意識していた。私のことは覚えていない。妹のそばで見つめていたのに。

 三沢家に飼われていた犬は、父が経営する動物病院に予防注射を受けに来た。家族旅行の時は犬を何日も預けた。長男が連れてきたこともある。私が大学生のとき、父の助手をしていると、彼が子犬を抱いてきた。診察室でしばしふたりきりになった。ふたりと1匹。
 18歳の飾り気のない女の頬は紅潮しただろう。しかし、彼は慣れていた。見られることに慣れていた。私は慣れていなかった。犬の爪を切り足の毛を刈る。彼は私の手元を見ていた。
「先生のお嬢さん?」
お嬢さん……
「似てますね」
そうよ。父親似なの。母に似ればよかった。母方の従妹の瑤子はかわいかった。

 男と交際したことはある。面倒くさい女より男の方が話しやすかった。ほとんどの男は私を恋愛の対象には見なかった。私も、あの三沢家の息子と比べてしまい、それを超える男には出会わなかった。一生独身でも構わない。

 それから10年以上経った。憧れていた男は目の前に現れた。最低の男、父親として。
 私は彼の妻を知っていた。私と同じ歳の女が、憧れた男の妻になった。嫉妬は湧かなかった。噂は聞いていた。三沢家の長男は結婚を反対されて家を出た。女のために家族も会社も捨てたのだ。なんと情熱的なのだ。
 そして、会社が危うくなると長男は戻ってきた。妻と子供を連れて。学歴のない東北の貧しい女だという。

 そのひとには感服した。父親は半身不随、母親も介護で腰を悪くした。妹たちの寄り付かなくなった家は荒れていた。三沢家の長男が、何もかも捨てて妻にした女はたいしたものだった。荒れ果てた邸がきれいになっていった。その美しい人は、梯子に乗り植栽を切っていた。結婚を反対した義父を車椅子で散歩させていた。笑っていた。楽しそうに。
 母が噂話を聞いてきた。魚屋でアラを買っていた。八百屋で大根の葉をもらっていた。もう、あの家には金がないのだ。なのに、笑っていた。皆、彼女に好意的だった。その妻のおかげだろう。会社は持ち直した。三沢家は再びにぎやかになった。

 ある日、彼女は病気の犬を連れてきた。大きな病院に検査に行くことになり、私は車を出し同行した。彼女に興味があった。彼女は自分で調べていて、病気のことに詳しかった。

 その後なにがあったのか? ある日、彼女から父に電話がきた。私は三沢邸に桃太郎の様子を見に行った。何があったのか? 彼女は家を出て郷里に帰っていた。弱った犬を残して。
 7歳の息子が犬の世話をしていた。薬の副作用で粗相をする。世話は大変だろう。
「おうちの方は?」
 私が大先生の娘だというと、少年は安心したようだった。父親は仕事で帰りが遅い。祖母は具合が悪く、寝ている。
 具合が悪いのは目の前の子供の方だった。片方の瞼が青い。アイシャドウでも塗ったように。転んだんだ、と息子は父親を庇った。
 
 気が気ではなかった。私はランニングしながら三沢邸の周りを走った。父親の帰りは遅いようだ。手紙を門扉に挟んだ。
「桃太郎のことでお話があります。電話をください。遅くても構いません」
 
 電話はなかった。放っては置けない。私はもう1度手紙を書いた。  
「2度目の手紙です。間違っていたらごめんなさい。間違いならいいけど。英幸(えいこう)君のことでお話があります。K動物病院の娘です。以前1度だけお目にかかりました。電話がなければ警察に連絡します」

 日にちが変わるまで待ったが電話はなかった。その時、少年がやってきた。犬を抱いて。真夜中にひとりで歩いてきた。副作用で体重の増えた重い犬を抱いて。
 その夜、ふたりで犬を看取った。
 そこにようやく現れた父親は酒臭かった。私は自分でも驚いた行動に出た。酔った男を外に引っ張り出し、犬を洗う水道の栓を捻った。3月だ。まだ寒かった。男は勢いよく水をかけられた。
「子供と犬を虐待するなんて、最低の大バカやろう。あの子は返さない。酒をやめるまで返さない」
 父親はずぶ濡れで土下座した。私の手紙を持っていた。

 朝、少年を送っていった。情けない父親は元のかっこいい男に戻っていた。丁寧に謝り礼を言い、2度と暴力は振るわないと私に誓った。少年は学校へ行った。ほとんど眠っていないのに。
 事態は急変した。夕方気になって様子を見に行くと、少年が大変なことをしでかしていた。幼馴染の夏生に暴力を振るい、顔に大きな怪我を負わせた。私は少年を放っておけなかった。父親の方も。そして、祖母はもっと危険な状態だった。祖母は明らかに病んでいた。病院に連れて行くとすぐに入院になった。情けない男は立て続けの出来事に後悔した。少年の精神状態も心配だった。

 妻のいない家に出入りした。いろいろ噂されただろう。隣のアパートに住む橘夫妻が協力してくれた。少年が怪我をさせたのはこの夫婦の娘だ。かわいい顔の娘は頬に大きな傷を負った。少年に殴られ食器棚のガラスに突っ込んだのだ。
 少女は生涯消えない傷を負った。しかしこの少女は自分のことより傷を負わせた少年を庇った。私は感動して胸が痛くなった。父親はさらに複雑だったろう。母親が知ったら彼女は息子のために戻っただろう。そうすればよかったのだ。そうすれば、この家は持ち直した。私は消えればよかったのだ。それを敢えて言わなかった。私の罪だ。父親は私に頼んだ。息子の力になってくれ、と。あなたに懐いている。心を開いている、と。
 
 家は平和を取り戻していった。やがて私は求婚された。ひとつだけ気がかりがあった。私は彼女の郷里を訪れた。かつて英輔と英幸と3人で暮らしていた部屋に島崎がいた。島崎、三沢家に不幸をもたらした音楽教師。
 私たちは道路を渡り海岸に降りた。私は聞いた。疑問に思っていた義母のことを。孤高の薔薇は泣き言も恨み言も言わなかった。彼女は話した。
 島崎の子供が欲しい。死にゆく男の子供が欲しい。命のすべてをかけ愛してくれる。愛は奇跡を生むのね。余命宣告された桃太郎と同じ。彼は、まだ生きている。愛はひとつじゃないのよ、亜紀さん。

少年

 英輔が私と再婚したのは息子のためだ。八方塞がりだった。どんなに有能な男でも父親としては失格だった。
 結婚式は内輪だけで行った。本当はやりたくなかった。ドレスも着物も着たくなかった。似合わない。私は成人式さえパンツスーツだった。英輔は最高のスタイリストだった。見栄えの悪い女を激変させた。選んだドレスはシンプルでくすんだブルー。それが私を引き立てた。彼の手が私を変えていった。化粧のマジック。さすが、化粧品会社の社長だ。
「素顔の君のがいいけどね」
嘘? まさか、本当に? 美しい女を、美しく化粧した女を見慣れているから?
 
 新婚旅行は2泊3日の近場だった。私はバレないようにした。長年のコンプレックス。夫は気づかないふりをした。
 男は女の最初の男になりたがり、女は男の最後の女になりたがる。オスカー ワイルド
 息子は見抜きやがった。

 この家に嫁いできて、いきなり9歳の子の母親になった。大きな邸の崩壊……幸せな家庭が突然壊れ、母親が出て行った。父親は酒に逃げ、母親そっくりの息子に暴力を。絶望した息子は幼馴染の女の子に怪我をさせ、さらに絶望した。
 私が義母になったことは、救いになったのだろうか? 
 家は姑が切り回していた。姑……不幸の根源。姑にはとりあえず平和が戻っていた。私は義母を刺激しないように努めた。義母には私のような嫁がよかったのだ。美しくもなく家事もできないダメな嫁。それが姑を安心させた。

 初めて風呂に入った。大きな邸に広い庭、羨ましがられるが古い。たいそう古い。庭の木は姑が嫁いで来る前からある。風呂も広いが古かった。窓は風でカタカタ音がした。開ければ木々が騒めく。亡霊でも出そうだ。
 電気も薄暗い。髪を洗おうとして、排水溝に信じられないものを見た。亡霊よりも苦手だ。私はシャワーをかけ、流そうとした。流れていかない。騒いだのだろう。英幸(えいこう)がドアを叩いた。
「亜紀先生、大丈夫?」
「な、ナメクジラ」
「……」
「ナメクジが、流れていかない」
「棚に塩があるでしょ。それをかけると流れていくよ」
 棚の上のきれいなボトル、入っているのはバスソルトではないのか? 
「獣医のくせに、虫が怖いの?」
「ナメクジは虫ではない!」
 私は騒いだ。あのお風呂はだめ。怖くて入れない。
「実家に帰らせてもらいます」

 大きな邸は虫屋敷。広い庭には……子供には宝物のクワガタが。土にはミミズ。それをこの家で育った息子は手でつかむのだ。部屋には蜘蛛が出現する。少年は素早い。蜘蛛の動きを予測し捕獲。手で捕獲。それを窓から放る。
 少年は夕方になれば言われなくても風呂を洗った。ズボンを脱いで。この少年も古い風呂は怖かったのだろう。ドアを開けて洗っていた。冷たい水に催したのだろう。少年は排水溝に向かって放尿しだした。窓の方を向いて。
 長い放尿時間に感心した。
 翌日、洗う前にトイレ行きなさい、と言うと赤くなっていた。

 彩が生まれた時、英幸は6年生だった。風呂はリフォームしたが、複雑だったに違いない。彩が生まれると私は英幸に世話をさせた。ふたりで沐浴させた。手の大きな兄が支えると彩は気持ちよさそうだった。 
 兄は頼りになった。妹の世話をした。おしめを変えた。丁寧だった。便を拭きとった。それでも嫌だったのだろう。シャワーを浴びさせた。雑な私は怒られた。兄は、妹のお尻が汚れると面倒くさがりもせずにシャワーを浴びさせた。地震があれば階段を駆け降りて彩のもとに駆けつけた。普段は怖がっていた、急な階段を。目も耳もよかった兄は妹の泣き声に敏感だった。
 彩も英幸に懐いた。初めて発した言葉はママでもマンマでもなく『ニー』だった。おにいちゃんの『ニー』
 夫は息子の名を呼ばなかった。いや、英幸本人が自分の名を嫌った。この家で息子の名前が呼ばれることは稀だった。

 義母が亡くなった。義母は亡くなる前に何を見たのか? 最愛の息子ではなく孫の顔を見つめた。私は英幸の手を握らせた。義母は前妻そっくりの孫を見て何を思ったのか? 見つめられ、優しく声をかけられ、安心しただろうか? 安らかに逝ったのだろうか?
 義母が亡くなると家の中は大変だった。ちょうど家政婦も都合で辞めてしまい、私はひとりで家事も育児もやる決心をした。
 幸子さんがやっていたことだ。あの人は、家事に介護に犬の世話、庭の手入れ、すべてひとりでやっていた。私にもできないわけがない。対抗心がわいた。しかし、慣れない家事は大変だ。私はごはんを炊いたこともなかった。
 初めて用意した朝食。ごはんを食べたふたりの反応は微妙だった。「朝炊いたの?」と英幸が聞くのを英輔が「ま、こんなもんだ。午後から雨だ」と話題をそらした。
 夕方、英幸はおなかがすいた、と冷やご飯でおにぎりを作った。手は大きい。残りごはんで大きなおにぎりをひとつ。器用だ。味噌をつけ、そのままの手で食べた。
「おいしそうね、ひとくち」
 初めて食べた。素朴な味。
「パパには内緒だよ」
ああ、幸子さんが作ったのだな。ママの味。ごはんはうまく炊けなかったが。
 英幸は炊飯器を洗うと米を研いだ。私は見ていた。
「おばあちゃんが教えたのね」
「……僕の仕事だった」

 ごはんが炊き上がると英幸は見ていた。私が反応しないと、
「炊けたらすぐほぐさないと駄目だよ」
しゃもじを持って器用にほぐした。
……幸子さんは息子を見事に躾けていた。その晩食べたごはんは光っていた。

 やがて、私は少年に見惚れるようになった。神は女の私の顔を、手を抜き適当に仕上げた。少年はまだ中性的で私はある映画を連想した。14歳の美少年。恋焦がれた音楽家は髪にさわることもなく死んでいった。私は触れられた。髪にも頬にも。肩にもお尻にも。
 それを見ている男がいた。男には触れられない。話もできない。そして少年は知っていた。楽しんでいた。父親の反応を。少年は空を見上げた。ため息をついた。復讐だ。父親の手の中でグラスが割れた。少年の中に前妻がいた。

『私がまだ非常に若かった時のことだ。ホームズ君。私は生涯に1度しか経験したことのない恋愛をした……
 彼を見ていると愛おしい彼女のあらゆる仕草が私の記憶に蘇ってきた』
 

アリス

 初めて連城(れんじょう)先生を見たのは、彩の小学校の運動会だった。転任してきたばかりの若い男性教師は母親たちの目を引きつけた。なるほど、目の保養になる美青年。若いママたちは、はしゃいでいた。
 でもね、私はきれいな男は見慣れているの。大抵は、中身が伴わないのよ。息子は別だけどね。なんたって、私が育てたんだから。

 5年生になった彩はブラスバンド部に入った。運動会の演奏は聴けたものではなかったが、その下手なバンドの顧問に連城先生がなったのだ。音楽の先生だった。若くて素敵な音楽の先生。女子部員が増えたという。彩が入部したのも先生に惹かれたからだろう。
 
 連城先生が来てからブラスバンド部は活躍し、コンクールにも出るようになった。彼はアマチュアバンドに入っていて、そのバンドの指揮者とメンバーも時々教えに来ていた。
 指導者の力はすごい。練習は厳しかった。夏休みも連日で、彩は旅行も行かないと言い出した。盆に田舎に帰ることも非難される雰囲気だという。たかだか区立の小学校の部活なのに。

 夏休み返上の成果はあった。初めて出場した都のコンクール。若いママたちの車に便乗して連れて行ってもらった。
 子供の成長はすごい。これが運動会で演奏していた子供たちなのか? すごい拍手だった。後ろを向いていた連城先生が前を向いた。黒の服を着た指揮者は手を胸に当てお辞儀をした。指揮者が主役になった。
 
『コンダクター、素敵でしたね』
帰りの車の中で若いママたちは話していた。
 コンダクター? 指揮者をそう呼ぶのか? 私は彩の吹いた楽器の名前さえよく知らない。何度か聞いたが。ユーなんとか?

 連城先生には、奥様と小さな男の子がいる。ママたちからの情報である。かなり年上の奥さん。出来ちゃった結婚かしらね? 奥さんはやはり小学校の図画の先生。才能があるのよ。美術展で入賞した。レン先生は料理もうまいのよ。共稼ぎだから、奥さんが、あれなのよ。やらないのよ。きっと。かわいそうに。

 彩は連城先生に懐いていた。女子は皆、レン先生と呼んで懐いていた。彩は冬休みに、飼い始めたばかりの子猫をレン先生に見せに行くという。
「連れて行っていいって言われたの?」
「うん。今日は練習ないし」
猫はピアノの下に隠れて出てこなかった、とか。

 バレンタインデーには、レン先生のためにチョコを作った。息子の幼馴染の夏生に教えてもらっていた。温度まで測っていた。いい加減な私には到底できない。夏生はいずれ息子と結婚するだろう。

 彩は不思議と友達が多かった。優しいのか、人の悲しみに敏感だ。隣近所の奥さんたちとも、うまく付き合っていた。私の帰りが遅いと、近所の家に上がらせてもらいプリンをご馳走になった。大きな古い家にひとりは怖いと。子供のいない奥さんの猫が亡くなった時には、お葬式をやるからと招かれていた。
 猫好きな駄菓子屋の奥さんとは、食事をしに行ったり、付き合いの年齢層が高い。
 道で会うと、彩ちゃん、と声をかけられる。
 同級生のママたちも彩を褒めた。大人だよねぇ、と。自分の娘よりずっと大人だという。背丈のせいだけではないらしい。
 大人か? 夜、家のトイレにひとりでいけないのに。確かに古い家のトイレは怖いかも。なんといっても家には亡霊がいるのだ。

 連城先生は年度末の演奏会が終わると、他の小学校から借りた楽器を返しに行く。区立の小学校では楽器を工面するのも大変なのだ。彩は放課後数人で、先生の赤い車に乗って手伝った。帰りにケーキをご馳走になった。ハンバーガーをご馳走になった。おみやげにキーホルダーをもらった……彩は嬉しそうに話した。先生も大変だ、と思ったのだ。散財も。

 夫は……忙しかった。自分の娘を構ってやらなかった。その代わりに、欲しがるままに携帯電話も買い与えた。
 それからは、メールの着信音が夜遅くまで鳴っていた。怒ると彩はベッドにもぐり、返信していた。

 連城先生のことはよく話してくれた。
「胃潰瘍なんだって。胃潰瘍ってなんでなるの?」
「彩たちがストレスかけるからでしょ」
ブラスバンドの顧問は大変だろう。無報酬。帰れば家のこともやるのだろう。

 彩が6年生になると、私も役員をやらないわけにはいかなくなたった。広報委員になった私は、連城先生にブラスバンド部の記事を書いてもらう担当になっていた。放課後、もうひとりの担当と職員室へ行った。17歳年下の人気のあるさわやかな音楽教師と、紙面の打ち合わせをした。間近で見ても絵になる。若い女教師がチラチラこちらを見た。
 もうひとりの担当は頬が紅潮し饒舌になった。かなり意識している。私はパソコンの話だけした。男が私を見てどう思うかはわかっていた。原稿は家のパソコンに送ってもらうことに。

 送信されてきた原稿は文字数が多すぎてまとめるのが大変だった。字数を無視しやがって。載せたいことがたくさんあるのはわかるが……半分以下になったものを送信して了解をもらった。

 夜、学校に集まって印刷する。彩は付いてきた。玄関で連城先生の下駄箱を開け、
「帰っちゃったんだー」
と、がっかりした。私は幼い恋心を微笑ましく思った。
 翌日も集まって作業。彩はまた付いてきた。小さな会議室で印刷したものを分ける。数人、子供たちも来ていた。そこへガラッとドアが開き連城先生が現れた。彩の顔がパッと輝いた。連城先生は子供たちを音楽室に連れていき遊ばせてくれた。

 公園で開催されるイベントにブラスバンド部も参加した。親たちは楽しみに見学に来ていた。目当ては曲ではない……そういうママが大勢いた。
 曲は、ルパン三世、宇宙戦艦ヤマト……盛り上がり終わった。

 連城先生は3歳くらいの息子と遊んでいた。色の白い奥様がいた。白い陶器のような印象だった。彩はおなかが痛いとか、気持ちが悪いとか言い出して、私は先に連れて帰ることにした。先生に言いに行くと、彩は……
 男の背は175センチくらいか? 彩は155センチ。
 ふたりは見つめ合っていた。

 バカな私は気が付かなかった。彩がシャワーを浴びている間に携帯を見て唖然とした。日に何度もやりとりしている。他愛ないものだ。
『明日は歌のテストだ』
『はい、がんばります』

『声、もっと出ただろう?』
『う〜ん、ごめんなさい』

『おはよう、雪だよ。雪が降ってる』
『わあ、ほんとだ、まっしろだ』

『先生、ストレスかけてごめんなさい』
『彩のせいじゃないよ』

『おかあさん、美人で上品じゃないか、さすが彩のママだ』
 先生とメールをしているのは知っていた。彩だけではないと思っていた。このメールがきた時に彩は嬉しそうに言ったのだ。
「ママ、美人で上品だって」
嘘つけ! 
 これは教師と生徒の交換ノート。まだ携帯を持つ子は少なかった。
 
『具合よくなった?』
『もう大丈夫です』

『彩、かわいいな。好きだよ』


 彩が風呂から出てきた。裸だ。背だけは高いが痩せている。生理もまだだ。子供だ。恥ずかしがりもしない。ショートカットで、色は私に似て白くはない。顔は似なくてよかった。
「彩! 早く服着ろ。風邪ひくぞ」
11歳上の異母兄に怒られている。

「彩の裸を見て、考えない?」
「何を?」
 母親の違う兄と妹…‥実は余計な心配をした。実の兄妹でもよくあるらしい。兄から妹への性的ないたずら。いたずらではすまない。妹は一生の傷を心に負う。兄の方は何事もなかったように生きていく……そんな記事をよく目にした。一姫二太郎がいいというのは、そういう意味もあるらしい。杞憂ですんでいるが。
 
「ムラムラしない?」
「バカじゃないのか?」
「そうよね」
 私は息子に謝った。
「あなたの恋愛対象の女はいくつくらいから?」
「なんだよ? いきなり」
「上限はひとまわり?」
息子はポーカーフェイスだ。
「そうだな、下は17、16、15、14、13、12。彩くらいか」
「やめてよ」
「変だよ。おかあさん」

 夫は出張だ。彩が眠ったあと、息子に携帯電話を見せた。最後の1行は見せなかった。一発退場になりうる。連城先生の写真を見せた。
「……なるほどね」
「なにがなるほどなの?」
「和樹に似ている」
「夏生の彼氏?」
「ただの友達」
「彩は懐いていたわね」
「パパのせいだよ。彩は寂しいんだ」
「……」
「なにやってるんだ? パパは?」
「忙しいのよ。部下のこととかも」
「自分の子供より大事なんだ」
「夏生とはどう?」
「……話をそらすなよ」
「……」
「男は女の最初の男になりたがり、女は男の最後の女になりたがる。オスカー ワイルド」
「それがなに?」
「パパは亜紀が最後の女なんじゃないの?」
「あたりまえ」
私は話題を戻した。
「この先生は怪しい」
「ただのメールだろ。交換日記みたいな」
「ロリコンかも」  
「ロリコンは中学生の少女。小学生をアリスコンプレックスという。不思議の国のアリス」

 どうすべきか? 校長にメールを見せたら連城先生はどうなるだろう? 注意で済むか? 世間の母親はどういう反応をするのだろう? 娘を問い詰めるのか? 夫に相談するのか? 担任に打ち明けるのか? 私は違うらしい。夫には話せなかった。話したら彼は終わりだ。

 その夜、メールを打った。迷ったあげく送信した。

 
『今日はお疲れ様でした。素敵な演奏でした。指揮も。彩の歳の離れた兄に似ているそうです。目も口も。だから惹かれるのでしょうか? 母親なのにわかりません。今日、ふたりを見て愕然としました。携帯も読みました。
 何がどうなっているのか、いつからなのか? 一生懸命思い出そうとしましたが、わからないのです。
 夫も兄も忙しく構ってやれません。寂しいから慕ったのでしょうか? 
 
 それとも、先生はロリータ・コンプレックス?
 アリス・コンプレックスですか?
 彩の裸を想像してムラムラするとか? まさか、もう見たとか?』

 どうするだろうか? 誤魔化すだろうか? 飛躍しすぎた母親だと笑うか? 
 パソコンの前で待った。夜中だ。寝ているのだろう。朝にしよう。眠ろう。眠れないだろうが。そのとき、メールが届いた。長いメールが届いていた。

『いつか、こんな日が来ると思っていました。メールはやめようと思いながら、やめられませんでした。
 5年生の彩ちゃんのことはよく覚えていません。背が高く優等生だったとしか。去年の学年末の演奏会のあと、よそから借りた楽器を返しに行くとき、何人かの女子が手伝いました。その後は皆都合が悪く、彩ちゃんだけが一緒に行きたい、と。おかあさんは仕事で遅いから、と。
 私は乗せて行ってしまったのです。彩ちゃんは恥ずかしがって、あまり喋りませんでした。一生懸命楽器を運んでくれました。そのあと、家まで送りました。家庭にも才能にも恵まれた、友達にも慕われている彩ちゃんは寂しそうでした。携帯の番号を聞かれ、私は教えてしまったのです。
 それからは頻繁にメールがきて、私は返しました。そして待つようになったのです。

 今日は私もびっくりしました。じっと見つめられ目をそらせませんでした。

 私は今まで、自分をアリスコンプレックスだと思ったことはありません……彩ちゃんに性的な感情を持ったことも、したこともありません。妻との間がうまくいかず、彩ちゃんの優しさに惹かれたのは事実です』

 誠実な返信に思えた。私の反応は世間一般とは違うのだろう。詳しく説明させてください、と頼まれて音楽室で会った。広報の取材のふりをして。丸め込まれないように。
 過激なことを言った。
「離婚して、待っていたらどうですか?」
これは、非難されるだろうが。連城先生は困ったような顔をした。
 先生は彩を褒めた。私を褒めた。
「他の生徒は皆、地球は自分中心に回っていると思っているけど、彩ちゃんは違う。優しいですね。優しいお嬢さんに育てましたね」

 それは、よく言われた。
 先生は話した。小学校には片親の子が多い。
 彩の隣の席の男子がカッターを握っていた。父親に殴られたという。彩は話を聞いてやり、慰めていた。
 男子が喧嘩をしていると止めた。大きな男子の背中のシャツをつかみ、泣きながら。やめなよ。○○君、と。
 ブラスバンドの仲間が具合が悪くて嘔吐した時は、汚れた楽器を掃除してあげた。彩は犬の嘔吐にも下痢便にも慣れてはいたが。

 母も優しかった。公にする勇気がなかった。彩はもうすぐ卒業だ。騒ぎにはしたくない。公にすれば、彩の名前も知られてしまう。
「先生も女のお子さんが欲しかったのではありませんか?」
「子供はもう……妻はひとまわりも年上なんです」
この男は、誤魔化せばいいものを。娘が欲しかったと言えば、彩みたいな娘が欲しかったと言えば、情状酌量の余地はあるだろうに。保身に走らない。
 彩は慕っているのだ。彩の、人を見る目は確かだ。

前妻

 彩とのメールは徐々に減らすよう命令した。卒業まで良い思い出だけを残すように。
 連城先生からは毎朝メールが届いていた。前日の報告。部活での彩の様子。メールは危険だ。彼は大量のメールを寄越した。私は先生とのメールを楽しむようになった。ミイラ取りがミイラになった。弱みを握られた彼は仕方なくメールに付き合ったのだろうか? そうではないと思いたい。
 共働きの男は食事の支度もする。献立が話題になった。家事をする男は前日の夕飯のメニューまで報告してきた。私も返した。料理は話題になった。
『鶏肉のトマト煮、あるものを入れるのを忘れました。味見したら、あら、こんなに違うんだ……慌ててあとから入れたけど……さて、なんでしょう?』
『なんだろう? ニンニクかな? ローリエか?』
『正解。ローリエです。すごいですね、先生』

 携帯電話の番号を教え合い、メールはもっと頻繁に。話題は音楽、映画のことにも。先生の入っているアマチュアバンドのことにも。
『S先生は凄いです。才能も。指導力も』
慣れてきたのか、彼は少しずつ妻の愚痴をこぼすようになった。
『あなたの奥さんは幸せね。おいしいものを食べられて。奥さんの胃袋をつかんでいるのね』
『私は、幸せじゃないですよ。私だって、沸いている風呂に入って、できているごはんを食べたい。広報で夜学校に行ったのだって、1度帰って食事の支度をしてから、忘れ物をしたと妻に言って戻ったんです』
『彩と示し合わせていたのね?』
『すみません。でも、たいして話もできなかった。他の子供たちがうるさくて』
バカ正直!
『奥さんにやらせなさいよ。なんのために結婚したの? 愛する男のために料理しようとか、思わないのかしら?』
『できないんです。片付けもできないんです。捨てられないんです。2階なんて物置ですよ』
『言えばいいじゃない。怒りなさいよ。男でしょ? 片付けろ、飯作れって』
『3倍、返ってきます。なに、その言い方? って』
『実は、私もそうだった。奥さんよりひどかったかも。結婚する気はなかったし、欲しいのは奥さんね、なんて言ってたから』
『あなたは、ご主人を愛してる。彩ちゃんから聞いてます』
『彩が、なんて?』
『パパのために一生懸命。パパは……出張が多い。彩のことなんか、愛してないの』
『そんなこと? たしかに留守がちだけど。そうよね。あなたのことだって、気が付きもしなかった』
 こんなメールをしていることを、見つかったらどうなるだろう? 責められるだろう。なにをやっているのだ? と。しかし、やめられない。

 情けない男……理屈ではない。女は強くて優しい男に惹かれるとは限らないのだ。夫も情けなかった。情けない男に惹かれる女もいるのだ。
 バレンタインデーには保護者からのプレゼントが下駄箱に入っていた、という。匿名で。憧れのあなたへ、と。
 私は、もちろん、会いはしない。私はチョコレートを渡したりはしない。過去に1度もない。貰った男は迷惑だろう。想像するだけだ。想像した。17も年下の男との……

 夫は手を伸ばせば拒みはしない。夫の義務は果たす。疲れていても。
「好きなようにしてくれ」
と冗談を言う。
 好きなように想像する。あの、陶器のような顔を思い出す。色の白い顔は夫の前妻の顔に変わる。亡霊が見ている。私は頭の中の男を追い払う。
 愛したのは英輔だけ。あなたの夫だった男だけよ。情けなくて、放っておけなかった……でも、いまだにこの胸の中にはあなたがいる。

 携帯に着信が。音でわかる。絶対に聞き逃さないための、モーツァルトの25番。この曲はまるで印籠だ。聞いたものは、途中だろうが、最中だろうがひれ伏す。ベッドでも、車の中でも、おそらく社内でも。この男にとって電話の相手は特別な娘。
 男は私の中に入ったまま携帯を見る。すぐに返信する。
「行くのね?」
「死にたいって」
「……」
「悪いな。早く、逝ってくれ」
私は引き止めることはできない。
「もう、早く行ってあげて」
なによりも優先する。仕事よりも、妻よりも、自分の子供たちよりも。あの娘は、前妻が助けた少女。命と引き換えに助けた、彩と同じ歳の少女。
 父親には捨てられ、母親には殺されそうになった。助けなければ、苦しみは終わっていただろう。

 メールは危険だ。

『彩はファザコンなのかも。あなたが親身になってくれて嬉しかったんだわ。パパは忙しくて彩のことは二の次だから』
『我慢してますね。わがまま言えばいいのに、って思います』
『この家には亡霊がいるの。夫の前妻。ランランラン』
ああ、送信してしまった。

『大丈夫ですか?』
『前妻はいまだに夫の1番の女。死ぬときには彼女の名を呼ぶ』
これは返信のしようがないだろう。
『あなたは魅力的です』
『どこが?』
なんてばかなことを? 若い娘ではあるまいに。魅力的でないのは自分が1番よく知っている。
『前妻には勝てない。バカな女よ。海で溺れている子供を助けたの。心臓が弱かったのに。ひどい女よ。死んでも夫を解放しない。余計に縛り付けてる。がんじがらめに。
 助けられた子は……先生、アノマリーをご存知? 顔の先天奇形』
『見たことはありません』
『調べなさい。知ったら自分の悩みなんて吹っ飛んでしまう。生まれた瞬間、嘆かれる』

 メールはもうやめよう。

『髪の生えない子がいました。帽子を被っていて、教師はいじめられないよう気をつけた。顔にアザがある子も。その子は明るくて皆に好かれていた』
『そうよ。絶対に生まれてきてよかったと思わせてみせる。彼女が命と引き換えに助けた子を。夫と私で』
『すごいですね。あなたは。尊敬します』

 謝恩会で連城先生を見た。目は合わせなかった。保護者の歌が終わると、彩は感極まって泣き出していた。周りの生徒が彩のそばに集まっていた。連城先生がそれを見ていた。
 卒業式の後、彩は何人かの生徒と一緒に連城先生に花束を渡しに行った。頼まれて私が用意した。予算よりずっと高くなったが。
 娘の卒業式。父親は来られなかった。別の式に出ていた。夫は熱心に学校へも行った。役員もやった。あの娘は不登校になることもなく、無事に卒業式を迎えた。卒業生代表として挨拶をしたはずだ。
 これからもそうだろう。中学、高校……何度絶望することだろう。私たちは希望を与えられるのか?

 彩は中学に入ると、楽器はやめてしまった。1年生の最初のうちは皆と小学校に先生の顔を見に行った。
 次第にメールは少なくなった。私はがっかりした。返信があると3倍の量を返した。そしてまた待つ。
 彩ならすぐに返すくせに……思って愕然とした。何をしているのだろう? とんでもない男に恋をし、娘に嫉妬するなんて……ありえない。気づかれたら大変だ。勘のいい英幸に気づかれないようにしなければ……

 結局私は口封じをされたのだ。同類になった。今更、彩のことを訴えるわけにはいかない。夫に知られたらどんな目で見られるだろう。

 連城先生は卒業した翌々年に異動になった。メールが来た。事務的なメールだった。このたびT小学校に移動になりました。お世話になりました。
「ブラスバンド指導は?」
「S先生が続けます」
「向こうの学校では指導しないの?」
「さあ、もうバンドも、尊敬していた人が信じられなくなったので」
「S先生とメンバーが不倫でもした?」
「すごいですね」
「あなたはよかったわね。上手くやったわ」
「感謝しています」
「奥様とも上手くやりなさい」
「メールは本心です。僕は楽しかった。勉強になりました」

 メールが途絶えると、私は異動先の学校のホームページを見た。活動しているアマチュアバンドの活躍を読んだ。

 結局、うまく口止めされたのだろうか? 

 先生はまた指導者として活躍した。バンドも続けていた。そして、彩が高校2年になった年に、事故で亡くなった。彩は泣きながら帰ってきた。
「連城先生が死んじゃった」
 
 5年経っていた。ショックだったが、現実とはかけ離れていた。あれほど恋焦がれたのに。
 先生は、夜中横断中、信号無視の車にはねられた。どうして夜中に? コンビニか? 奥さんと喧嘩でもしたのか? 
 それとも、誰かの力になろうして駆けつけたのだ……そう思いたい。
 最後に誰の名を? 誰の顔を思い浮かべたのだろうか?
 葬式に出た彩は悲しんだ。しかし、忘れるのは早い。数日たつとケロッとしていた。

 もはや、覚えてはいないのだろうか?

最愛の妻 Ⅰ

最愛の妻 Ⅰ

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更新日
登録日
2023-08-25

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