涙の数だけ強くなれ

 手が震える、心臓がドキドキする。やっぱり、私は授業に出られない。早く逃げたい、ここから出たい。
 昨日、大学で英語コミュニケーションの授業中、私は発作に襲われた。
 私は病気を患っている。不安障害というものだ。それはどういう病なのかというと、例えば厚労省のホームページでは、「人に注目されることや人前で恥ずかしい思いをすることが怖くなって、人と話すことだけでなく、人が多くいる場所(電車やバス、繁華街など)に、強い苦痛を感じる病気」と紹介されている。私はそこそこ重症で、学校の講義室に入ることに強い恐怖を感じる。大学は休みがちで、わが校は出席日数に厳しいため、すでにいくつかの科目で単位不認定が決まってしまった。
 今日は一週間の最後、金曜日で、診察がある。私はいま、クリニックに来ていた。 
 私は言葉で自分の症状を伝えることが苦手なため、両親にも一緒に診察室に入ってもらい、両親から見た私の様子も主治医に伝える。私の主観だけでは、説明が不十分な場合があるからだ。
「結城さん、結城更紗(ゆうきさらさ)さん、診察室にお入りください。」
 主治医の声だ。私が通うこの医院では、診察室に居る医師が待合室に放送をかけ、患者を呼ぶ。私と両親の三人は椅子から立ち上がり、主治医がいる部屋に向かった。
 ドアを開けると、いつもどおりの微笑みを浮かべ、こんばんはと互いに挨拶した。
「1週間、どうでしたか?」
 主治医は私に問いかける。
「前と変わらず、授業にはほとんど行けてなくて。昨日の1限だけは一応出席したんですけど、手が震えて、心臓がバクバク音を立てていて、もう講義室から逃げ出すことしか頭で考えられなくなって、講義が終わったらすぐにトイレに逃げ込んだんですけど、それでもすぐには落ち着かなくて。2限以降は欠席しました。」
 うーむ、と主治医は言うと、少し考えるそぶりをしてから、口を開いた。
「ご自身ではどうしたいですか? 大学に行きたいけど身体がついてこなくて行けないのか、そもそも行きたくないと思っているのか。それによって方針はずいぶん違ってくるんですよ。」
「正直、わからないです。」
 私は、自分でも私の気持ちがわからない。
「今の状態ですと、コンディションが悪いから学校に行けないのだとすると、まずはそれを整えないことには治らないんですよ。前回の診察で言ってらしたように頓服が効かなくなっているなら、入院も視野に入れなければなりません。またはただ単に行きたくなくて行けないのであれば、カウンセリングなどで気持ちを整える必要があります。
 更紗さんは今どういう気持ち? やっぱりわからない?」
「わからないです。」
「学校で勉強する以外に、何かやりたいことがあるとかも、ない?」
「何もないです。本当に、ただ人が怖いだけ。」
 母が口を開く。
「更紗には、ゆっくり休む時間が必要なのでしょうか? この子、学校にもどこにも行かずに家でずっとだらだらしてるから、そんなこと思っちゃいけないのかもしれないですけど、どうしても見ててイライラしてしまって……」
「お母さんがそう思ってしまうのも仕方ないですよ。親とはそういうものです。
 そうですねえ、まず必要なのは自分探しかもしれませんね。
 更紗さん、本当に、本当に、やりたいことはないの?」
 執拗に私のやりたいことを訊かれると、どうしても責められているような気分になってしまう。じわ、と涙が出てきた。私の顔を正面から見つめている主治医は、そっとティッシュ箱を差し出してくれた。1枚抜き取り、目元を拭う。
 今度は父が発言した。
「この子、だいたい1年前くらいに、突然死にたいって言いだして。
 更紗、今はそんな気持ちはないのか?」
「……」
 主治医が父の発言に乗っかる。
「ない?」
「それを話さなきゃいけないなら、お父さんとお母さんは出てって……」
「なんて言った?」
 どうやら両親に今の言葉は聴こえなかったようだ。
「出てって。」
「え?」
「出ていけ!」
 唐突に声を荒らげた私を見て、両親は慌てて診察室から出ていく。足音が遠ざかっていくのを確認してから、私は自分の膝を見つめながら話しだした。
「私、昔から自分の気持ちがないんです。例えば、小学生は夏休みに読書感想文を書いたりするじゃないですか。あれがどうしてもできなくて。あと、中2までチェロを習ってたんですけど、そこの先生に音楽で表現しろって言われたときがあって。表現なんて言われても、何をしたらいいのか全然わからない。私にはないんですよ。昔から、なんにも。」
「更紗さんは、趣味とかないの?」
「趣味……?
 しいて言えば、読書、ですかね。自分の好みに百パーセント合致する小説って無いから、これのこの場面とこれを繋げたら面白いかなって想像してみたり、それを少しだけ書いてみたり。」
 主治医は口角を思いっきりあげた。
「あるじゃん、いいじゃん! それが趣味だよ。更紗さんの今の病状だとね、好きなことをするのが一番。一番大事なものを持ってるよ。
 そうかあ、更紗さんは、読書ね。すごくいい趣味だね。ご両親には言ってないの?」
「なんか小っ恥ずかしくて、言えてないです。それに、書いているのがバレたら、親は絶対読ませてって言ってくるし。私は自分の書いたものを誰にも読ませたくないんです。」
「じゃあ、ルールを決めるといいよ。勇気を出して言ってごらん。私は本が好きで書くこともするけど、自分が書いたものは誰にも見せたくないって。人はね、更紗さんが思ってるより怖くないよ。」
 主治医が話すあいだ、いくつもの感情の雫が零れ落ちる。理由は私自身ですらわからなかった。
「大丈夫。大丈夫。」

涙の数だけ強くなれ

涙の数だけ強くなれ

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-08-23

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