冬風ラプソディ

 今日、俺は初めてミュージカル「ジキル&ハイド」の主演としてステージに立つ。主人公はヘンリー・ジキルとエドワード・ハイド。この役は今までに6人の役者が受け継いで演じてきたもので、俺は7代目だ。
 俺はどうしても4月9日という日付に縁を感じずにはいられない。なぜなら、ちょうど20年前の今日、俺は妹に誘われて、とある劇場へミュージカルを観に行ったからだ。そのタイトルはそう、今日から出演する作品である「ジキル&ハイド」、略して「ジキハイ」。その時の主演は3代目の人だった。あの日は、もう桜が散る頃だというのに、裏起毛の上着を着なければならないほど寒かった。まさしく季節は冬のようで、「ジキハイ」の冷たいラストシーンを彷彿とさせた。
 俺は妹の右隣の席で観劇し、そして感銘を受けた。
 役者たちの歌声、オーケストラのハーモニー。すべて初めて体験するもので、俺は、音楽を聴いているというより、演劇を鑑賞しているというより、「ジキハイ」という名のシャワーを浴びているような感覚に襲われた。特に、第1幕の中盤で歌われた、このミュージカルの中で最も有名な楽曲「時が来た」は、聴いている、いや、浴びている間、あまりにも感激して全身に鳥肌が立ち、寒気すら感じた。普通感動したら暑くなるものだろうと俺は考えていたが、それすら通り越すと寒くなるのか、と思った。
 
(以下、「ジキル&ハイド」のネタバレを含みます。ご注意ください。)

 俺は5歳の頃からヴァイオリンを習っていたが、音楽が嫌いだ。そう思うようになったのは、先生があまりに厳しかったため、反吐が出るほど苦しかったからだ。
 でも、俺の音楽嫌いは、あの4月9日に払拭された。
 オーケストラと俳優の歌声をいっぺんに浴びることができる機会はめったにない。少なくとも、俺にとってはあの日が初めてだった。ストリングス、金管、木管、打楽器、そして歌声。最高だった。音のシャワーの雫たち、それは力強く、そして老いぼれた父を元の元気な父に戻したいというジキル博士の思いや苦しみを体現していた。
 ジキル博士は、父のため、人間の心に潜む善悪2つの人格について研究し、完全な善意をもってすれば完全なる悪意を消し去ることができるという研究成果を得た。そして、善意と悪意を分離する薬を創り出す。その薬の人体実験をしようと、とある病院の理事会に出席したが、理事たちはこれを却下。失意のジキルを励まそうと、ジキルの友人であるアターソンは夜の街へジキルを連れ出す。そこで、ジキルは、エマという婚約者がいながらにして、娼婦のルーシー・ハリスと知り合った。
 ルーシーはジキルに甘く囁いた。「自分で(私を)試してみれば?」と。ルーシーにとって、この発言は下ネタ的な意味合いが強いのであろうが、ジキルはその言葉からひらめいた。薬を自分で試そう。ここで、ジキルは歌う。
 ♪時が来た 今こそ 二度とない 果てしない時が 今こそ 見果てぬ夢 手に入れる時だ
 あの日のこの曲には、柿澤氏の歌手としての魅力が凝縮されていた。男性ならではの奥深い声。決意を高らかに歌い上げる声。
 研究室に帰ったジキルは、薬を飲んだ。すると間もなく、体に異変が起こる。
 ジキルの悪意の化身、エドワード・ハイドが現れたのだ。
 ハイドは、人体実験を許さなかった病院の理事会のメンバーを次々と手にかけていく。そしてその後、大切なルーシーをも死なせてしまった。ジキルは、ハイドを制御できなくなってきていることを感じていた。
 ハイドは、ジキルの悪意の化身ではなく、元気な父を失い、実験に身を捧げ、婚約者エマとの幸せな生活をも失ったジキルの、自分を制御することができず、ハイドとして次々と人を殺してしまう、人を愛すことができなくなった悲しみの化身のような気がした。とにかく、苦しい場面ばかりだった。
 やがて、ジキルはエマとの結婚式を迎える。その幸せの象徴のような場でも、ハイドは現れた。また人を殺そうとするハイドを止めるため、アターソンはジキル/ハイドを銃撃する。撃たれたジキル/ハイドは、エマの腕の中で最期を迎えた。その時、エマは言った。
「ヘンリー、苦しかったね」
 本当なら、エマと幸せになるはずだった。エマと素敵な家庭を築き、研究を役立てて父を救うはずだった。しかし、父を救うために始まった人間の善悪の研究は、皮肉にもその幸せを奪った。俺は、どうしようもない絶望を感じた。エマの優しさに、人間の愛を見出すとともに。
「ジキル&ハイド」は、愛と絶望の物語であったように思う。

 俺はあの日から俳優を志した。特に、いつかはジキルとハイドをやりたい。季節外れに寒かったあの日の風の音は、「ジキハイ」は、まるで1つの狂詩曲のようだった。俺も、ラプソディを奏でたい。歌いたい。表現したい。
 俳優という仕事について、あの日以前の俺は勘違いしていた。ただ単に、架空の(ノンフィクションの場合は実在の)人物になりきって見せるだけのもので、エンタメ性の高い仕事だと思っていた。しかし、あの日の「ジキハイ」を観て、そして今のジキルとハイドである俺は思う。俳優とは、芸術家だ。アーティストだ。かつ、ヴァイオリニストと同じように、卓越した技術を必要とする。
 本を読み解く読解力や身体の使い方など、技術を持たない者には務まらない。頭の使い方も声の出し方も動き方も、何もかもを全ての役に合わせてつくっていく。文字だけのヒントしかない人間を自分にする。あたかもその人間が存在しているように見えて、伝わってくるものがあると、観客の心は動く。
 そうして心を動かせる俳優は、なんてすばらしい職業だろう。

 さあ、まもなく俺による「ジキハイ」は開演だ。観に来てくださったすべてのお客様を、愛と絶望の物語の中へといざなおう。俺が、ずっとずっと抱いてきた夢が、ついに叶う。
 俺は、ライトで照らされたステージに、1歩踏み込んだ。

冬風ラプソディ

冬風ラプソディ

(心の声)ジキハイ再演はやく来い!!

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-08-23

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