秋風のエチュード

「違う!」
 水谷先生の怒号が飛んだ。ピアノを演奏しているのはわたしで、それを聴いた先生が指導をしてくれる。水谷先生は厳しいということで有名で、わたしをピアニストにしたいと思っている母親の独断で、わたしは5歳の頃にこのピアノ教室に入れられた。
 ピアノは、好きだ。
 練習はつらいことばかりだし、レッスンでは毎回先生に怒鳴られる。だけど、それを乗り越えた先にある自分が奏でる美しいメロディーを聴くと、どうしてもこの沼からは抜けられない。
 今練習しているのはフランツ・リストが作曲した「愛の夢第3番」。発表会で演奏するための曲だ。本当はメンデルスゾーンの「春の歌」も魅力的だと思っていたけど、小学校卒業という節目の年に演奏する曲として、日ごろの感謝を込めて、母が1番好きな曲を選んだ。
「何度言ったらわかるの? 右手の分散和音はもっと小さく、タッチを浅く。今の演奏だと、メロディーがしっかり響いていないわよ! もう一度弾いてみなさい!」
 わたしは鍵盤に指を置き、神経を集中させた。自分の身体から発せられる音楽に、耳を集中させ、そして、弾く。
 ♪ミド~ド~ド~ ドド~ドレ~ドド~~ファ ファファソラド~シラ~~
 今度はうまくいった気がした。しかし、水谷先生の顔色をうかがうと、そうでもなかったのかもしれないと思い、自信は一瞬にして崩れ去った。
「右手はよかった。メロディーもちゃんと歌えてる。でも左手のベースが雑すぎる! メロディーと和音に集中してても、左手をおろそかにするんじゃない!」
 また、怒られた。
 じわ、と涙が出てきた。まだその日のレッスンが始まってから5分しか経っていなかった。でも、なぜだろう。水谷先生に怒号を浴びせられると、必ずわたしは泣いてしまうんだ。
 初めてのレッスンの時、先生の目から発せられる視線が怖くて、何も言われてないのに、ただ顔を見ただけで泣いてしまった。2回目のレッスンの時も、3回目のレッスンの時も同じだった。いつしか、わたしは気付いた。わたしは、水谷先生が苦手だ。あの顔を見ると、条件反射のように涙が出てくる。
 毎回のレッスンであまりにもわたしが泣くので、水谷先生は泣くことを禁止した。でも、禁止されたから泣かなくなるというほど、これは簡単な問題ではない。わたしはその掟を守れなかった。だから、余計わたしは怒られた。
 正直、レッスンは苦しい。毎週こんなにつらい思いをするくらいなら、いっそ死んでしまいたいと思ったことは何度もある。心の病気になればきっとレッスンを休ませてもらえるだろうと考え、うつ病になりたいと願ったこともある。それでもドロップアウトしなかったのは、ひとえにピアノを演奏することをやめたくなかったからだ。水谷先生がいやだからというくらいで、わたしはめげない。もっと上手になってやる。わたしはいつもそう思っていた。
 でも、ある時、その気持ちに終わりが近付いている気がした。
 それをわたしが自覚したのは、ちょうど2週間前のことだ。
 その日は、コンクールが終わってから初めてのレッスンだった。わたしは表現力が足りないとよく言われる。コンクールでの審査員さんの講評でも、わたしの演奏からは気持ちが伝わってこないと言われた。わたしは、もっと力をつけたい。だから、わたしは水谷先生に相談した。
「表現力って、どうしたら身につけられるんですか?」
 水谷先生は答えた。
「うーん、そうねぇ。
 表現力は人生経験を積めば自ずと身につけられるんじゃないかしら。私から教えられることではないわ。」
 わたしはその答えをきいて、ガッカリした。この人はわたしのことを想ってくれていない、と思った。わたしは、たぶん水谷先生に失望したんだと思う。もっと上達したいと思っているわたしに、そんな雑な指導をするなんて、と。
 そんなわたしに、ママが驚くべき提案をしたのだ。
「来週は水谷先生のレッスンはお休みだから、葉鳥先生という人の体験レッスンに行ってみない? ママが大好きな演奏家さんで、すごく気持ちのこもったピアノを弾く人気の先生なんだけど、どう?」
 わたしは、行きたいと答えた。それで、先週は葉鳥先生の体験レッスンに行ってきた。葉鳥先生はわたしにこう言った。
「つむぎちゃんは、表現力がないんじゃない。表現したくてもできないんだよ。
 どういうことかって言うとね、つむぎちゃんは気持ちを演奏で表すやり方を知らない。いつも鍵盤のタッチは一定だし、音量もほとんど変わらないんだもの。それでは、もう6年生なんだから、コンクールで結果が出なくても仕方ないわ。」
 そして、葉鳥先生はさらに続けた。
「もし私の教室に入ってくれるなら、イチから感情表現の仕方を教えるわ。どう? やってみない?」
 わたしはそれをきいて、嬉しかった。心が昂って、思わずわたしはまた泣いてしまった。
「あらあら。」
 葉鳥先生は、そう言って、わたしを咎めはしなかった。その葉鳥先生の態度を見たわたしは、気づいた。何か大切なことを忘れていたんじゃないかって。
 嬉しいこと、悲しいこと、楽しいこと、つらいこと。それらは全部、どんな形であれ、素晴らしいものなんじゃないかって。
 そして、体験レッスンからの帰り道、わたしはママに言った。
「水谷先生が悪いとは言わないけど、わたしは葉鳥先生の考え方の方が好きだから、葉鳥先生の教室に通いたい。」
 ママはあっさり「わかったわ」と答えた。
 ママは一生懸命動いてくれた。水谷先生に今までの感謝を伝えるための菓子折りを準備したり、葉鳥先生と連絡を取り合ったり。そして、葉鳥先生に習う最初の曲は、わたしが1番好きな曲である、ショパンのエチュード「黒鍵」に決まった。
 わたしは今までのピアノ教室をやめて、来月から新しい先生に習う。不安もあるけど、楽しみの方が断然大きい。今、わたしはさっそく黒鍵のエチュードを練習している。がんばる、これからも。

秋風のエチュード

秋風のエチュード

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-08-23

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