逢魔時

 橙色の絵の具を直に絞って手でべったりと塗り広げたような空がぬるい風で希釈され、町並みの縁取りが徐々に染まっていく。人さらいの時刻が意地を張ってあらがいを見せているお陰でか、歩みを進めるたびにおれたちの影は細く長くすくすくと育っていく。
「ときに、青年よ」
「なんだい」
 自分では石を蹴り弄んで行き進む目的地はまったく判りやしない。呼びかけてきた初老の紳士と、彼の背広から伸びる手に引かれて赤い吊りスカートを自慢げに振り振りと小さなスキップをぴかぴかの靴で刻む女児は、どうやら何処かに導いてくれている。
「きみは、夕暮れの別名を知っているかね」
「〝黄昏〟」
ちらと隣を歩く紳士を窺えば、少々滑稽なとぼけた面が身形の整いから妙に浮いていた。
「確か、もう一つ、あったろう」
「〝逢魔時〟だったかな」
「そうだ、それだね。ありがとう」
垂れた目尻の笑い皺が深くなった。何をそんなに、嬉しそうにするのだか。
 蹴ってきた石が不意に脇道に逃げて、あっ、と間抜けな短音が口から滑り出たのと、風船の持ち手が抜けてゆくかのごとく女児が紳士の手を離れて駈歩で飛び出したは殆ど同時か。「こっちこっち!」と、小さな体がめいっぱいに飛び跳ねていたのは、三叉路の手前だった。
「あのさ、おれ」
 紳士の曲がりかけた背中に続いて女児を追う。いかにも高そうな背広だなあ、だとか、端の方でそんな感想を抱けるくらいの、軽い雑談の一つのつもりだった。
「おれ、いま自分が夢見ててその中に居るって、分かってるんだよね」
 いささか遅れてのおれの発言を受けるや否や、二人の表情は寂しそうだとも残念だとも取れないものへと物もいわず沈んだ。知らない間に暮れ進んだ空が落とす、真っ赤な闇がその俯き顔に落ちる陰影を暈していた。があ、があ。幾筋も通り過ぎてゆくカラスたちの鳴き声はやけに煩い。
「……だったら、一緒に来ちゃだめだね。ばいばい」

 けたたましく暴れるアラーム。そいつの居場所辺りに手を伸ばして黙らせ、大きなあくびを一つ。纏わりついていた布団から這い出て視界に広がるのは、ようく見慣れた自室だった。
 ――きみは、夕暮れの別名を知っているかね。
 耳孔の奥辺りに蘇り咲くのは、優しげな声。あのときおれが、二人と同じ方向に着いていったなら、この身はどうなっていたのだろう。晩夏に不釣り合いな冷たさが、やけに喧しく背筋を撫でていった。

逢魔時

逢魔時

  • 小説
  • 掌編
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-08-22

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