海辺の老人

海辺の老人

投稿済の作品をひとつにまとめました。
『この家には亡霊がいる』のスピンオフで3話以降は重複します。

1 海辺のあばらや

 海岸通りに1軒のあばらやがある。大きな家と小さなマンションの間にはさまれて。
 荒れ果てた家、やぶれや、破屋(はおく)

 到底、人は住めないだろうと思うが、時々、老人が家の前に座っている。
 植木がかなりある。狭い歩道の半分まで伸びている。
 荒れている。自転車のタイヤが放置されている。壊れた傘が投げてある。食べ物のビニール袋が投げ捨てられている。
 その前を通ると……老人がブツブツ何か喋っている。時々嬌声をあげる。
 人の名前を呼んでいるようだ。よく聞き取れないが怖い。
 老人は、隣のマンションの前でも座っていた。海岸やスーパーでも。人はホームレスという言葉を使った。
 老人は、あばらやに住んでいるが水道も止められている。隣の人に貰うらしい。時々家の前で体を拭いている。ずっと以前からいるようだ。詳しくはわからない。

 男はあばらやに住み付いていた。流れてきた。土地勘があった。妻の故郷だ。何度か訪れた。もう20年以上も前だが。
 結婚して子供が産まれた。待望の女の子だ。妻に似てかわいいだろう。名前は決めてあった。

 現実から逃げ出した。男は弱い。いつでも逃げ出すのは男だ。ドラマにもあった。放浪して戻ると、子供は死んで、人知れず庭に埋められていた。

 娘には手術が必要だった。考える時間はない。男は拒否した。このまま、死なせてやりたい。首を振る妻を説得しようとした。
 死なせてやるんだ。その方がいい……
 しかし、女医の説得の方が勝った。妻は生かせる道を選んだ。
 男は病院を逃げ出した。

 男は勝手に堕ちていった。嘆き呪い堕ちていった。
 堕ちた。堕ちた。この地の者は他所者を追い出しはしなかった。あばらやに住むことを黙認し、食料まで置いていってくれる。水は隣の者が分けてくれる。

 墓地に行く。日課だ。御供物をいただく。もう、悪いとも思わない。放置すればカラスに突かれ散らかる。後始末が大変だ。寺の和尚も了解済みだ。掃除して少しばかりの駄賃をもらうようになった。男は丁寧に墓の掃除をする。そして、賞味期限の近い菓子や缶詰をもらう。

 寺に、にぎやかな集団が来た。男ふたりに、女が5人。若い者も年配者も。
「お寺なのよ。はしゃいではダメ」
「大丈夫だよ。誰もいないし、ママは喜んでる」
 若い男が言った。数のうちに入らないのだ。墓掃除の汚い年寄りの男は。
 集団は掃除したばかりの墓の前に立ち、豪華な花を広げた。
 墓参りに薔薇の花か? 東京から来たのか?  
 垢抜けた集団だ。若い女の頬に傷があった。遠目でも目立つ傷だ。

 ……悩んだだろうか? 子供の頃からあるのか? いじめられたりしなかっただろうか? 
 頬に傷のある女は丁寧に掃除をし、サングラスの女が花を供えた。あとひとりの女は……いちばん背の高い女は男を見た。久作(きゅうさく)を見ていた。

 年配の男が線香を持って、すぐそばを通った。久作にお辞儀をした。こんな汚ない浮浪者のような男に。同年代くらいだろうか? 天と地の差だ。服も家族も。
 背の高い娘は気がついたようだ。お供物泥棒……盗むのでは? と見張っているのだ。
 母親にだろうか、たしなめられている。事情があるのよ、とでも言っているのだろう。

 居づらくなって寺を出た。海岸まで歩く。台風が近づいているのに波は穏やかだ。
 20年くらい前、こんな穏やかな海で死んだ女がいたという。溺れている子供を助けて女が死んだ。自分の子を残して。
 生きている資格のない自分は、落ちるところまで落ちても、なお死ねずにいるのに……

 久作は穏やかな波を見ていた。
 周りが騒がしくなった。また、あの集団だ。
 若い男が墓に備えたのと同じ薔薇の花束を持っていた。それを若い娘たちが1本ずつ分けて海に流した。まさか、この海で亡くなったという女の親族か? 
 背の高い娘が久作に気がついた。近づいてきて茶のボトルを差し出した。
「お墓をきれいにしてくれてありがとうございます」
 きれいな娘だ。自分の娘も……思い出せない。思い出したくない。娘の顔。
「親戚のお墓なの。滅多に来られないから」

 あの女は?
「友達のおかあさん。気になるの?」
 誰かに似ている。誰だったか……
 女の子が欲しいな。君に似たかわいい娘……
 あの子は? 髪の長いサングラスをした……
「台風が来るわ。気を付けてね」
 娘は耳が遠いと思ったのだろう。大声を出し集団に戻っていった。

2 娘

 道路の向こうに娘がいた。久作はあばらやの前で体を拭いていた。娘は道路を渡り近づいた。
 台風が来る。
 ひどい家だ。住んでいるのか? こんな家に?
 アロエが狭い歩道をふさいでいる。自転車のタイヤが、壊れた傘が、ゴミが……
 家の中はゴミの山。
「ここに住んでるの? 台風が来るのよ」
「……」
「超大型台風なのよ。早めに避難しないと」

 娘の父親が道路を横断してきた。久作はあばらやに入ろうとした。
「君に、頼みがあるんだ」
 俺に? 頼み?
 驚いて父親の顔を見た。娘とよく似ていた。見るからに立派な成功者。
「墓を掃除してくれないか? 私はしょっちゅうは来られないんだ」
 父親は話し続けた。
「前妻の、墓なんだ。妻は溺れている子供を助けて死んだ」
 久作の反応を見ながら父親は話し続けた。
「さっきの墓だ。いつもきれいにしてやっててほしい」
 父親は財布から札を出し、渡そうとした。久作は受け取らなかった。
「月命日に花を備えてやってくれないか?」
「……」
「17年経つ。助けた娘は二十歳だ。強く育った。頭の良い子だ。なにをやっても負けていない」
 父親は久作の汚れた手に札を握らせた。強い力だ。
「私が父親代わりだ」
 一瞬ふたりは見つめ合った。
「行こう、(あや)
 父娘は道路を渡っていった。
「早めに避難しなさいよ」


 久作の頭の中にはモヤがかかっていた。話したこともすぐ忘れる。
 台風がくる。サイレンが鳴っている。学校へ避難するようにと。風があばらやを打ちつけた。
 その中で久作は別の生き方を想像してみた。

 逃げなかった。いや、1度は逃げたが……放浪して妻のところへ戻った。娘は死んでいた。いや、あれはドラマの中だ。妻と抱き合って泣いた……あれはドラマの中の話か?

 誰かがドアを叩いた。しつこく来る市の職員か? 台風の中で死なれでもしたら非難されると。
 死んでもいい。死にたいんだ。

「おじさん、避難するのよ」
 初めて声を出した。不明瞭で聞き取れなかっただろうが。
「ノ……」
 背の高い若い男が、有無を言わさず久作を背負った。娘の傘は役にたたない。車に乗せられ娘に手を握られ、久作は避難場所のホテルに連れて行かれた。

 これは、現実なのか? 豪華なホテルの部屋。 
 風呂で若い男に体を洗われた。誰だ? 抵抗しても無駄だった。いやではないのか? こんな汚い男にさわって? 

 素晴らしい食事が目の前にあった。勧められたが、喉を通らなかった。
 女が来た。若い男の母親らしい。あの、お節介な娘と一緒に来た。母娘なのか? 
 女は体温計と血圧計を出し、バイタルを測った。2度測ると脈診をした。医者か? 娘が心配そうに見ていた。
「病院には?」
 10年以上行ってない。おかしいのか?
「大丈夫よ。安心して休んでね」

 若い男がしばらくそばにいた。寝具で眠るのは久々だ。
「……はが……おちる」
「なに? 歯が痛いの?」
 歯は数本しか残っていない。もはや痛みも感じない。 
 葉が落ちる。寒い外で必死に耐えていた植物を妻は部屋の中に入れてやった。暖かい部屋に入れると、葉が落ちた。毎日数枚ずつ落ちていった。
 久作は死を悟った。

 翌朝、浴衣のまま外に出た。台風の去った海岸はまだ波が荒かった。風も強かった。日の出前なのにすでに暑かった。
 久作は幻を見た。娘の顔を見た。消し去りたかった自分の娘……

「母は溺れている子供を助けて死んだ。心臓が悪かったんだ」
 若い男の声がした。いや、父親のほうか? 
 心臓が? ああ、確かそんなことを言われた。不整脈だ。薬を飲まないと脳に……血管が詰まると。
「ノ……」
 倒れる久作を若い男が支えた。
「のぞみは元気だよ。見なかったか? サングラスをしていた娘。強い子だ。父親とは大違いだ」
「ノ……」
「僕の母が助けた。僕の父が育てた。強く強く……誰にも負けない」 

 救急車のサイレンが近づいた。

 久作は入院したのち施設に入れられた。ゴミの山の中に通帳があった。
 久作は金を貯めていた。10年前までは記帳していた。切れた健康保健証も免許証も持っていた。汚い鞄にひとまとめにしてあった。
 片付けと手続きは彩がした。父親に施設に入れるよう頼んだ。
 優しい彩は放っておけなかった。何度も通い世話を焼き、(のぞみ)に呆れられた。望は冷ややかだった。
 久作は彩を時々、ノ……と呼ぶ。彩は返事をする。久作は幸せそうだった。

3 前妻

 英輔が私と再婚したのは息子のためだ。どんなに有能な男でも父親としては失格だった。大きな邸の崩壊……幸せな家庭が突然壊れ、母親が出て行った。父親は酒に逃げ、母親そっくりの息子に暴力を。
 たまたま私がそばにいただけだ。
 獣医の私のところへ息子がやってきた。犬を抱いて。真夜中にひとりで歩いてきた。副作用で体重の増えた重い犬を抱いて。
 その夜、ふたりで犬を看取った。
 そこにようやく現れた父親は酒臭かった。私は自分でも驚いた行動に出た。酔った男を外に引っ張り出し、犬を洗う水道の栓を捻った。3月だ。まだ寒かった。男は勢いよく水をかけられた。
「子供を虐待するなんて、最低の大バカやろう。あの子は返さない。酒をやめるまで返さない」
 父親はずぶ濡れで土下座した。

 妻のいない家に出入りした。いろいろ噂されただろう。父親は私に頼んだ。息子の力になってくれ、と。あなたに懐いている。心を開いている、と。
 
 家は平和を取り戻していった。やがて私は求婚された。
 結婚式は内輪だけで行った。本当はやりたくなかった。ドレスも着物も着たくなかった。似合わない。私は成人式さえパンツスーツだった。夫は最高のスタイリストだった。見栄えの悪い女を変身させた。選んだドレスはシンプルでくすんだブルー。それが私を引き立てた。彼の手が私を変えていった。化粧のマジック。さすが、化粧品会社の社長だ。
「素顔の君のがいいけどね」
 嘘? まさか、本当に? 美しい女を、美しく化粧した女を見慣れているから?
 
 新婚旅行は2泊3日の近場だった。私はバレないようにした。長年のコンプレックス。夫は気づかないふりをした。
 男は女の最初の男になりたがり、女は男の最後の女になりたがる。オスカー ワイルド

 この家に嫁いできて、いきなり9歳の子の母親になった。
 私が義母になったことは、救いになったのだろうか? 

 ***

 夫は土下座した。何度目だろう? 嵐の夜に、うなされて前妻の名を呼んだこともあった。
「今度は何? 好きな女でもできた?」
「ああ」
「へえ、生きている女なら、まだマシよ」
 夫は写真を見せた。私は言葉を失った。
「やはりショックか? 見慣れるとかわいいんだがな。かわいくてかわいくて、愛しくてたまらない」
 

 ***

 この家には亡霊がいる。
 夫は手を伸ばせば拒みはしない。夫の義務は果たす。疲れていても。
「好きなようにしてくれ」
と冗談を言う。

 亡霊が見ている。
 愛したのは英輔だけ。あなたの夫だった男だけよ。あなたに去られて、情けなくて、だらしなくて、放っておけなかった……でも、いまだに、この胸の中にはあなたがいる。

 携帯に着信が。音でわかる。絶対に聞き逃さないための、モーツァルトの25番。この曲はまるで印籠だ。聞いたものは、途中だろうが、最中だろうがひれ伏す。ベッドでも、車の中でも、おそらく社内でも。この男にとって電話の相手は特別な娘。
 男は入ったまま携帯を見る。すぐに返信する。
「行くのね?」
「死にたいって」
「……」
「悪いな。早く、逝ってくれ」
 私は引き止めることはできない。
「もう、早く行ってあげて」
 なによりも優先する。仕事よりも、妻よりも、自分の子供たちよりも。あの娘は、前妻が助けた少女。命と引き換えに助けた、彩と同じ歳の少女。
 父親には捨てられ、母親には殺されそうになった。助けなければ、苦しみは終わっていただろう。

 
 彩の卒業式。父親は来られなかった。別の式に出ていた。夫は熱心に学校へも行った。役員もやった。あの娘は不登校になることもなく、無事に卒業式を迎えた。卒業生代表として挨拶をしたはずだ。
 これからもそうだろう。中学、高校……何度絶望することだろう。私たちは希望を与えられるのか?

 前妻はいまだに夫の1番の女。死ぬときには彼女の名を呼ぶ。
 前妻には勝てない。バカな女、海で溺れている子供を助けた。心臓が弱かったのに。ひどい女。死んでも夫を解放しない。余計に縛り付けている。がんじがらめに。
 
 でも……あなたの産んだ子供が、あなたの助けた子供が、私を慕う。私は夫の協力者。それでいい……

 絶対に生まれてきてよかったと思わせてみせる。あなたが命と引き換えに助けた子を。英輔と私で。


***

「兄貴、兄貴のママは幸せね」
「なんだって?」
「私にだってわかる……忘れられない女。幸せだわ」
「パパの望みはおまえの幸せだけだよ」
「パパにはもっと大事な子がいる気がする」
「なんだって?」
「隠し子でもいるんじゃない?」
「バカ言うな」
「この間の海外出張だって誰と行ったんだか」
「ありえないよ」
「パパには甘えられない。誰かと私を比べてる。不満を言うと怒るもの。どんなに恵まれているかわからないのかって」

***

「久作の貯金が底をついた」
「私の貯金を使って。あるんでしょ?」
「おまえの結婚資金だぞ。いいのか?」
「使って。ありったけ」
「おまえは優しいな。誰に似たんだろう」
「パパでしょ」
「……」
「おにいちゃんにも」
「……ママにもな」
「パパ、まだ……忘れられない?」
「……」
「いいよ。私にだってわかる。だから、望を育てたんでしょ?」
「恨んでるか? 望のために、おまえのことは、ママに任せきりだった」
「望には言わないの?」
「望のいちばん嫌いなタイプだ。五体満足で働きもせず、保護を受けて」
「でも、死ぬんだよ」

4 小さな木の実

 あれは、私が付き合っていた彼を送っていったときのことだった。父と同郷の彼は気に入られ、よく家に来て飲んだ。酔った彼を私はアパートまで送った。近くのコインパーキングに、車を止めた。気分よく酔った彼を支える。
「早くやりたい……(こう)、あいしてるよー」
 隣の車から降りてきた男に聞こえただろう。恥ずかしい……目が合った。驚いた。知っている男だ。年は50を過ぎたばかりのはずだ。私の父と同じくらい。でも全然違う。背が高い。洗練されている……この男は……この男のことはよく知っている。同じ町内に住んでいる。豪邸の主人だ。何度も見たことがある。この男の息子のことはもっとよく知っている。私の同志だった。小学校の同級生。母親に捨てられたもの同志。この男の息子は私の初恋の人だった。
 その父親は妻に捨てられ一時期荒れた。私の父親と同じだ。しかし私の父親と違いすぐに再婚した。再婚した相手はもっともっとよく知っている。動物好きの私は彼女の父親の動物病院によく行った。猫の治療、去勢。まだ彼女は若かった。私はよく捨て猫を拾っては世話をし、彼女のところへ連れて行った。捨て猫の里親探し、彼女は……亜紀さんは仲間だった。亜紀さんは三沢君の義母になった。

 三沢君のおとうさん……

(こう)、知り合いか? オレもこんな車欲しいよー」
 男も気付いた。彼が何度も私の名を呼ぶから。コウ……嫌いではない。この男の後妻は褒めてくれた名だが……高級車の助手席から降りたのは女の子だった。髪の長い……下を向いていたので顔は見えなかった。薄暗くなっていたし、それに三沢氏は……隠した。慌てて隠した。彼の娘ではない。三沢君の妹はもっと背が高い。
 三沢氏は女の子を先に行かせて挨拶してきた。
「偶然だね。世間は狭い。香……さんだね。ハムスターやしきの……」
「ハムスター?」
 彼が聞き返す。
「ハムスターに交尾させて増やしていた」
 なんてことを……話題をそらせようとして……
「こうび? コウビ? 交尾……か」
 彼がバカみたいに繰り返した。
「ちゃんと避妊しろよ」
 酔った彼に三沢氏がちゃかし、彼は了解です、とふざけた。
「あの子は?」
「親戚の娘だ」
 明らかに嘘だ。私の顔色を読んだのだろう。罰が悪そうに去っていった。

 彼の部屋で抱かれた。心ここにあらず……三沢君のことを思った。会ったばかりの父親のことを。亡くなった母親のこと、中学3年の秋の、犬のシャーロックの死を。治のことも……
 酔って疲れた彼は眠りに落ちる。私はドアを閉めて鍵をかけた。パーキングに隣の高級車はまだあった。まだ戻っていない。まだあの少女と一緒なのだろうか?

 まさか、隠し子? 妻に捨てられた男が亜紀さんを裏切っている?

 車を出し途中で戻った。高級車はまだあった。隣はあいていた。なにをしようというのか? 私は待った。待って確かめてやる。聞いてやる。亜紀さんを裏切っているのか? と。

 彼から電話がきた。寝ちゃってごめん……おやすみ……明日電話するよ……
 窓が叩かれた。三沢氏が私を見た。窓を開ける。
「少し話そうか」
 私が助手席のドアを開けると三沢氏は乗り込んできた。
「彼は、名前は?」
「……」
「どこの家? 親は? ひとり暮らし?」
 なぜ私が質問攻めに? やましいことがあるから……
「さっきの女の子はどこの子ですか? 亜紀さんは知ってるの?」
「もちろん。君は英幸(えいこう)の同志だったな」
「ええ、母親に捨てられた同志です」
「気が強そうだ」
「ええ。亜紀さんに言いつけてやる」
 三沢氏は舌打ちをした。息子と同じ癖だ。なんともかっこいい舌打ち。
「困ったな」
「やっぱり隠し子なの?」
「英幸は知らないんだ」
「ひどい。亜紀さんを裏切るなんて」
「亜紀は知ってる」
「え?」
 三沢氏は携帯をいじり写真を見せた。亜紀さんと少女の写真。三沢氏と少女の写真。少女の顔を見て私は……
「見慣れるとかわいいんだがな……かわいくてかわいくて、愛しくてたまらない。しかし……やはりショックか?」
 三沢氏が話す。
「先天性の顔の奇形。あの子の父親は娘が生まれると姿を消した。母親は強い。強くさせた。強くならなきゃ許さない。あの子は何度も整形手術を受けた。私は明るく生きるよう育てた。私は親戚のおじさん……君の彼はひとり暮らしじゃ町内会には入っていないな。私は町内の催しには必ず出て……あの子を連れ出す。明るい子だよ。口達者で頭がいい。柔道を教えてるから誰もいじめたりできない……
 英幸(えいこう)の母親は海に溺れているあの子を助けて死んだ」
 三沢君が中学3年の時だ。
「母親は心中しようとした。娘と。英幸の母親が、私の前妻が、私の愛した女が助けた。自分の命と引き換えに。私はなんでもしてやる。あの子のために。幸子が助けたあの子のために。幸子の代わりに……英幸は知らない。英幸には黙っててくれないか」
「三沢君は優しい。あの子を見れば……」
「大変なのはこれからだ。年頃になれば絶望するだろう。君だったらどうだ?」
私には答えられない。

 あの日、私の車のあとを三沢氏は付いてきた。私の家の前で三沢氏は車を止め手を上げた。さよなら、おやすみ、と言うように。あの日から私は何度も何度も思い返す。私は三沢氏のことを思いながら彼に抱かれた。父と同じくらいの歳の男に恋をした。


 困った私は行動を起こした。久々に訪れた三沢邸。亜紀さんは驚きもしなかった。亜紀さんはなんでもお見通しだ。私と父を救ってくれた恩人、私にいろいろ教えてくれた。生理のときも、女性の体のことも避妊のことも……この人の義理の息子に私は恋をしていた。初恋だ。それなのに……
 三沢君がいた。中学を卒業したあとも何度か会っていた。三沢君の家の庭で。卒業式に大勢の前で握手を求めた私の気持ちは、いつもはぐらかされた。
「また捨て猫か。去勢されるのか、かわいそうにな」
 動物好きな私たちは慣れていた。飼っていたハムスターの下腹部が腫れて大きくなり、心配して亜紀さんに見せたときは
「睾丸よ」
と言われて安心した。
「ハムスターのタマタマは立派なの」
 睾丸、去勢、交尾、生理、……小学校4年だった私と三沢君と治は、そういう言葉を恥ずかしいとも思わず使っていた。
 私が亜紀さんに会いに行くのは里親探し……三沢君は会うたび背が伸びていた。
「香に彼氏ができたって?」
「え、ええ。三沢君は?」
「失恋した」
「男に?」
 懐かしい舌打ち。
「失恋? あなたが? 女に?」
「ああ、治に負けた。あいつはいい奴だからな。僕よりずっと」
「治ちゃん……」
「納得だろ?」
「そうね。あの子と比べられたらかなわない」
「おまえはなぜ治を好きにならなかった?」
「そうよね。治ちゃんにすればよかった」
「……負けた。負けた」
「ま、恋愛ほど苦痛と努力のいるものはありません。それに耐えれるだけの人間におなりなさい」
「青春論かよ……おまえは強いよな」

 中学3年の夏、三沢君を捨てた母親が亡くなった。ずっと優等生でいたこの家の長男は、不良グループと付き合うようになった。亜紀さんの動物病院からモルヒネ盗んで……とか噂になり、私は治と飼っていた大型犬を連れて、取り戻しにいった。同志を。
「そうよね。あなたのために不良の巣窟に乗り込んだ」
 三沢君は、かつて亜紀さんが保護した犬の最期を看取っていた。三沢君が名付けたシャーロックは、まだ無邪気だった同級生に貰われていたのだ。
「恐れ入った。付き合わないか? 僕たち、いいコンビだ」
「女だと思ってないくせに」
「好きだったよ。髪がボサボサで汚くて動物臭くて……」
「言わないでっ! 私はひとりで暮らしてたのよ」
 思い出したくない。父は長距離の運転手。手入れされなくなったお化け屋敷のような家に、ほとんどひとりで暮らしていた。まだ10歳だった。
「お菓子の袋をナイフで切って、手も切った。血が襖に飛び散った。誰もきてくれない。私はそのまま泣き疲れて眠った。あんたとは違う」
 感情の失禁。私はおかしい。三沢君は私を抱き寄せた。憐んで。
「いい匂いだ。ミサワのシャンプー。ずっとあのままでいればよかったのに。おまえが男だったらよかった」
「あんたは色が白くて女みたいだった。泣き虫だった。雷を怖がってたくせに」
「おまえと治に助けられた。おまえは父親にも歯向かって強かった。羨ましかったよ」
「私は……あなたが羨ましかった。亜紀さんがおかあさんで羨ましかった」
「じゃあ、結婚しようぜ。好きなだけ犬も猫も飼ってやる」
「この家で? 亜紀さんとおとうさんと?」
 三沢氏が義父になる……
「おまえの家に住んでもいい。オヤジさんとはうまくやれるよ」
「彼もそう言ってくれるの。父に気に入られてる」
「クソッ。また振られた」
私たちは声を出して笑った。
「血が、怖くない?」
「怖いよ。知ってるだろ?」
「違う。母の血。結婚するの怖い。私も母みたいになるかも」
「……結婚か。恋愛の終結。恋の惰性もある。移り気もある。しかし、そのために一々離婚していたら、人の一生は離婚の一生となるだろう……」
「青春論か。亜紀さんがくれた本」
 亜紀さんが勉強の遅れをみてくれた。読書の楽しみも教えてくれた。
「ピアノ弾いてよ。小さな木の実」
「絶対いやだ。いやな女」

 町内会の子供会。私は彼と覗きにいった。大きな公園で模擬店、三沢氏はカレーをよそっていた。三沢氏がごはんを、あの子がカレーをかける。私に気づくと三沢氏は会員ではない私と彼にもカレーをよそってくれた。彼は少女を見てショックを受けていた。写真を見せられていた私も……町内の人たちは大人も子供も少女に好意的だった。少女は活発でクイズにも答えて景品をもらった。最後に三沢氏と少女は歌を歌った。歌詞カードが配られ子供たちはともに合唱した。きれいなメロディ、きれいな高音の声と魅力的な低音、ああ、この低音は三沢君とそっくりだ。
 歌は過去を蘇らせる。私は鮮明に思い出した。この歌は小学校6年のときに音楽会で歌った。三沢君は伴奏しながら歌った。まだ高音のきれいなボーイソプラノだった。三沢君は初めての練習のときに途中で泣き出した。父親を思い泣き出した。私は父との仲が修復できていたが、三沢君は妹も生まれたが寂しかっただろう。治は天使だ。治は他人の悲しみには敏感だ。すぐに気づき大声で歌い、わざと音を外して皆を笑わせて誤魔化した。私も大声で歌った。私たちは同志だった。そんなことを父親は知らないのだろう。

小さな木の実
作詞 海野洋司
作曲 G.ビゼー

ちいさな手のひらに ひとつ
古ぼけた木の実 にぎりしめ
ちいさなあしあとが ひとつ
草原の中を 馳けてゆく
パパとふたりで 拾った
大切な木の実 にぎりしめ
ことしまた 秋の丘を
少年はひとり 馳けてゆく

ちいさな心に いつでも
しあわせな秋は あふれてる
風と 良く晴れた空と
あたたかい パパの思い出と
坊や 強く生きるんだ
広いこの世界 お前のもの
ことしまた 秋がくると
木の実はささやく パパの言葉


 三沢氏と少女の歌に大人たちは感動した。歌詞に感動した。歌詞の少年は、坊やはあの少女のことだと皆が思った。三沢氏は少女のパパなのだ。

 三沢氏が私のところへ来た。少女は遊んでいる。仲間に囲まれて。
「家に来たそうだね。英幸に会った……」
「三沢君が聞いたらショックを受けるわ。小さな木の実。少年は、坊やは三沢君のことよ。この歌は父と息子の絆を歌ってるの。知らないでしょ? 三沢君はこの歌を歌いながら泣いていた。母に捨てられ、父親の愛を欲しがっていた。三沢君は言ってた。僕にパパはいないって。パパは彩のパパだって。私の父に懐いてたわ。三沢君、かわいそうな三沢君……」
 私は泣き出した。私の感情はどうなっているのだろう?
「ありがとう。そんなに息子のことを思ってくれて」
「三沢君が伴奏したのに音楽会にも来ないで、運動会にも1度も来なかった……」
「他人の子供会に出てる。カレー売ってる。ひどい父親だと思うよ。英幸は許さない。許さなくていい……」
「……あなたが好きです」
「いきなり、何を言うか」
「ほんとですね。あなたも三沢君も好き」
「困った娘だな。彼が見てるよ」
「迷ってるの。プロポーズされた。どうすればいい?」
「1度失敗した男に聞くな」
「亜紀さんに言うんでしょ? 香に告白されたって。亜紀さんはモテるパパで喜ぶかしら? 亜紀さんは、最高ね。亜紀さんは……」
「最愛の女だ」
「三沢君は幸せです。亜紀さんがおかあさんで」


 ︎

『海辺の老人』は『この家には亡霊がいる』のスピンオフ作品です。3話以降は重複します。

5 希望

「望、会いたくないか? 父親に?」 
 僕が聞くと、望は空を見上げた。ママのように。
「田舎に帰りたい……」が口癖だった。

「私の父は銀河系宇宙」
「なに?」
「あなたのおとうさんに言われたわ。私は、あなたのママと銀河系宇宙が性交して産まれた娘」

 望とふたりで墓参りに行った。
「おとうさんは?」
「ゴルフだ」
「亜紀さんと?」
「ああ。前妻の墓参りなんてもう忘れていい」


 施設に寄った。窓から海が見える。普段は面会に来る者もいない。殺風景な個室だ。小さなプレーヤーから波の音が聴こえていた。意識のない久作のために流している。久作は眠っていた。口を開けて眠っていた。どんな人生だったのだろう? 

 僕が事務所に行っている間、望は久作の部屋で待たせた。もう長くはない。もう最後だろう。僕は望に会った日のことを思い出した。


 薄々感じていた。父の秘密……不在がちなこと、まさか、隠し子か? いや、ありえない。
 義母の言葉……
「あなたのママはバカだった」
「ああ、他人の子を助けて、春樹を置いて逝った」
「助けられた子はどうしているかしらね? 憎くない?」
 助けられた子は……重荷だろうな。自分のために死んだ女がいるなんて。

 疑惑をそのままにし、年を越した翌年の春、
「H高の入学式にいかないか?」
 父が僕を誘った。夏生(なつお)との結婚が決まった年の4月、僕は26歳になっていた。
「来賓?」
「いや、知り合いの娘が新入生代表で挨拶をする。中学のディベートコンクールで優勝した」
 知り合いの娘……詳しいことは言わなかったが予感はあった。彩の入学式にはいかないくせに……父とふたりで出かけたことはない。母校を訪れるのを断る理由もない。 
 
 保護者席の後ろの方に座った。知っている教師はいない。式の流れは変わらない。
 新入生代表の挨拶。会場がざわめいたあと静かになった。思わず座り直した。そうする者が多勢いた。正座して聞きたいくらいだ。
 15歳の娘がライトを浴びた。映し出された異様な……顔。見るからに先天性の奇形だとわかる。何度か整形したのかもしれない。筋肉が未発達なのか、話している表情は凝視に……見ているのが辛い。しかし見なければ失礼だ。

金縷(きんる)の衣は再び()べし、青春は得べからず……これは私の恩人が教えてくれました。青春とは無縁だと思っていた私に、顔を上げ前を向け強くなれ、と励まし叱ってくれました……」

 よく通る声、天は魅力的な声を彼女に与えた。
 あとはとてつもない努力のみ……
 父の知り合いの娘……父は言わなかったが。僕の頬に涙が伝わる。悲しみの涙はコントロールできるが……感動した時の涙は抑えが効かない。父にバレないよう汗を拭くふりをした。バレているだろうが。

 彼女、望の挨拶は校長より来賓より、誰よりも素晴らしかった。

 生徒達が教室に戻ったあと、父は彼女の母親に僕を紹介した。どういう知り合いなのかは話さない。1度聞いたが答えはなかった。2度聞く習慣は父との間にはない。
 彼女を強く育てた母親には、誰もが敬意を払う。

 父と話せないことを僕は義母に話す。どういう知り合いか聞いた。亜紀は珍しく言葉を濁した。
「彩と同じ歳なのに……あの子を見たら彩の悩みなんか吹き飛ぶわね」

 
 夏、眼医者に通った。検査があるからバスで。
 学生には夏休みだ。そのバスにあの娘が乗っていた。すぐに気付いた。混んだ車内。顔を隠さず堂々としていたが……子供が泣き出した。
「怖いよー」
 少女はマスクをし、サングラスをかけた。
「怖い思いさせてごめんね」
 マスクには子供が喜ぶキャラクターが描いてあった。子供は泣き止んだが、少女は停留所で降りた。まだ駅ではないのに。
 僕はあとを追いかけていた。少女は駅までの2停留所を歩いた。マスクを外した気配はない。傷ついているのだろう。生まれてから15年。数え切れないほどひどい扱いを受けたに違いない。彼女を見ればどんな不細工な顔だろうが感謝するだろう。夏生の顔の傷も僕の過去も足元にも及ばない。
 僕はあとをつけ改札口まで見送った。夏休みの部活だろうか? 得意のディベート部か?

 3度、同じことが続いた。彼女も僕の存在に気が付いた。改札口で振り返る。11歳年下の、彩や春樹と同じ年の娘。薄幸とはいうまい。強い女だ。あの母親も。

 もう眼医者に通うことはなくなった。
 仕事の帰り、僕は信じられないものを見た。彼女が停留所に座っていたのだ。僕の乗った停留所を彼女は覚えていたのだろう。
 夏の夕方、僕は車で通り過ぎ、もう1度戻った。間違いなく彼女だ。間違うわけがない。
 目が合った。ごく自然に彼女は乗ってきた。ごく自然に僕は車を走らせた。 
英幸(えいこう)さんでしょ? 三沢さんの息子さんの……幸子さんの息子さん」
「母を知っているの?」
「おかあさんは、私を助けて亡くなったのよ」
 驚き、声の出ない僕の横で彼女は話す。
 
 田舎の海で出会ったふたりの母親。春樹を抱いていた僕の母。同郷の母親は娘と心中しようとしていた。娘が生まれると父親は出ていった。母は身の上話を聞き励ました。しかし母親は娘を連れて海に入った。波がふたりを引き裂くと母親は助けを求めた。水泳の得意な僕の母が助けた。命と引き換えに……

 ずいぶん遠くまで来てしまった。パーキングで休み飲み物を買った。背筋を伸ばし堂々と歩く娘を行き交う人が驚きを隠さない。僕は彼女の手を握った。父もそうしてきたのだろう。
 外のベンチでコーヒーを飲んだ。夜のとばりが彼女を隠した。
「私を憎む?」
「……もう、母が生きていたことのほうが嘘のようだ……」
 自然に僕は肩を抱いた。
「無条件で……許す。尊敬する。もっと早く会いたかった。君の力になりたかった」
「亜紀さんが子犬をくれた」
「義母が子犬を?」
「素敵なおかあさんね。おとうさんも」
「……僕は君の兄になるよ」
 彼女は涙を流した。
「感情のないことの訓練はできているのに……」
 夜のとばりが現実社会を遮断した。僕はママを感じた。
「母が……」
「幸子さん?」
「ああ。喜んでるよ。僕たちを見ている。ホントだよ。僕は霊感が強いんだ」

 彼女を送った。小さな家に母娘は住んでいた。母親が出てきて家に上がった。ヨークシャーテリアが彼女を守っていた。居間の棚に母の写真があった。家には1枚もないはずだ。
「弟さんにもいつか謝りたい」
 ポツリと彼女が言った。
「春樹にはずっと会ってない」
 父は、会っているのだろうか? 芙美子おばさんにはときどきは会っているはずだ。『幸子』の残した命はどうしているだろう?
 彼女の部屋に、母親が子供を抱いた絵が飾ってあった。別荘の立ち入り禁止の部屋から消えた絵だ。
「おとうさんに貰ったの。あなたのおかあさんが海辺で子供を抱いていた……重なるの。あなたのおかあさんと」
「抱いているのは僕ではない。弟でもない。女の子だ。君だよ。君を抱いてる」

 記憶の最初から父はいた。父親だと思っていた。甘えさせてくれた。絶望して死にたいと言ったときに父は真実を語った。
「最愛の女がおまえを助けて死んだのだ」と。
「助けなければよかったのに、そうしたらこんなに苦しむことはなかった……」
 望が言うと父は怒って首を絞めた……

 父は最初、母子を憎んだ。だが、娘の顔を見ると言葉を失った。
 想像した。『幸子』はこの娘を見てどんな反応をしたのだろう? 『幸子』は強い女だった。逆境には立ち向かっていった。『幸子』なら娘を隠すことなく希望を与え、強く育てただろう。父は『幸子』の遺志を継いだ。
 自分の子供は亜紀に任せ、愛した女が命に変えて助けた娘を強く育てたのだ。並大抵ではなかっただろう。おそらく『幸子』と心の中で話していたのだろう。
 自分の息子には向き合わなかったくせに……僕はあなたの愛した女の息子だから、強い女の息子だから大丈夫だとでも思っていたのか? 

 部屋の隅にフラフープが置いてあった。
「おとうさんが買ってきてくれた。おとうさんは上手なのよ」
 本もCDもたくさんあった。母が読んでいた小説、母が好きだった曲。
「柔道を教えてくれた。強くなれって。カラオケに連れていってくれた。思いきり歌うの。おとうさんは上手。それでも絶望したときは別荘に連れていってくれた。誰にも会わない。遮断するの。おとうさんと私だけ。それに……幸子さんの亡霊と」
「立ち入り禁止の部屋か?」
「おとうさんは、とことん付き合ってくれた。先に帰りたくなるのはいつも私の方だった」

 海外出張は手術のためだった。毎年のように行われた手術に父は同行した。急な出張も何度もあった。何度も父は、絶望する望に付き合った。望を強くするために。10年以上の父と望の物語が目に浮かぶ。
「学校にもしょっちゅう来てくれた。だから辛い思いはしなかったのよ。先生も保護者も生徒も、皆優しくしてくれた」
「母の話をした?」
「強い人だったと。たくましい人だったと。望は絶望の望じゃない。希望だって。同じ境遇の人に希望を与えろって。絶対、生まれてきてよかったと思わせてやるって。おとうさんに会えてよかった」
「もうすぐ母の命日だ。忘れていたが……」
「毎年お墓参りに行くの。おとうさんに引きずっていかれたわ。1年間なにをしたか、報告しろって」
 僕を連れて行こうとはしなかったくせに……

 怒りは湧いてこなかった。僕の顔を見なかった父、話をしなかった父。教えてもらったことはなにもない。勉強も柔道も歌も。
 想像する。望との出会いから今までを。歳とともに増していったであろう苦悩と絶望。
 絶望か希望か? 想像する。望を抱き上げた父を。手術の間、待っている父を。母の墓前でのふたりを。海を。柔道を教える父、歌うふたり、子犬を世話するふたり、学校でのふたり、実の父娘よりも深く強い絆だ……

6 社長

 あのひとが危篤、あのひとの兄から電話がきた。英幸(えいこう)君の名を呼んでいると……
 ちょうど私とふたりだけのときだった。社長はすぐに動いた。私に仕事を任せ英幸君を連れ前妻に会いに行った。
 34歳の若さであのひとは亡くなった。あのひとは海で溺れている子供を助けて死んだ。あのひとらしい。なにより愛した故郷の海があのひとを殺した。

 社長はだんだん仕事に意欲をなくしていった。空を見つめ、ため息をつく。あのひとが亡くなった後遺症か? 私は聞いてみた。
「亜紀がいたから思ったほどのダメージはなかった。いや、ほっとした。幸子が死んでほっとした。もう、誰のものにもならない……なんだかそんな映画があったな。運命の女が死んでくれてほっとした」

 よく外出していた。まさか……恋か? 
 長い休暇を取った。聞いた。問い詰めた。
 女、ですか? と。
「株を買ってくれないか? 私の分」
「女ですか?」
 今度はうなづいた。なにもかも順調な今? 英幸君は権威あるコンクールで入賞した。社長は自慢していた。
「あの娘のことばかり考えている」
 あの娘? 若い女か?
「あんなに荒れて苦しんで、新しい女だって? 亜紀さんを裏切るような、片棒担ぐことなんてできるわけないでしょう」
「亜紀は知ってる」
 社長は娘の写真を見せた。
「手術させたい。幸子が助けた娘だ。この娘のためになんでもしてやりたい」

 あのひとは、かつて社長と英幸君と暮らしていたアパートに住んでいた。男の忘れ形見の息子がいた。まだ2歳だった。あのひとの妹が、社長が私と一緒にしたかったあのひとの妹が、かつて愛した男の忘れ形見を育てている。英幸君そっくりだと、あのひとそっくりだという。
 娘も同じ歳だった。あのひとが自分の息子を遺して助けた娘……

 娘の母親は社長より20も年下で頼りなかった。娘と心中しようとしたのだ。社長は母娘の保護者になり、あのひとが住んでいた部屋に住まわせた。手術ができるようになると近くに呼び寄せ、父親代わりになった。
 社長はあのひとと暮らしていた部屋で、娘の面倒を見ていた。心の中のあのひとと一緒に。


 英幸君が入社した。1年目は小さなアロマショップの販売を任された。彼は1年しかいなかったが売り上げを倍にした。2年目からは研究室で同期の信也君と香りの研究をしていた。試作したラベンダー系の香りは新製品として売り出され、在庫が追い付かないほど売れた。

 社長と英幸君は通販サイトに思いきった広告を入れた。若い娘たちに呼びかけた。
 化粧……美しくなっていく娘たちの映像
 反転……醜く化粧した娘たち、子供たち、男たち……
 アザで悩む者、先天性の顔の奇形……
 ナレーションが入る あのひとが助けた娘の声だ。
「この子たちに救いの手を……」
 手術もできない、貧しい国の子供への寄付の呼びかけ。信也君が、学生時代に旅していた村で出会った、男の子の映像……
 コマーシャルは反響を呼び膨大な寄付金が集まった。それはテレビでも取り上げられ、あのひとが助けた娘は取材に応じた。娘の生い立ち、今の生活、高校での生活。発言する、歌う。踊る。誰にも引けを取らない。生徒が囲む。意地悪な声が聞こえる。怖い……見た? あの顔? 気持ち悪い……娘は顔を上げ、前を向き背筋を伸ばす。
「私はこの顔と生きています……」

 この娘にはあのひとがのりうつった。あのひとが助けたときに生まれ変わった。この娘は銀河系宇宙と性交して生まれたあのひとの娘……

 社長は私に伝言を託した。遺言か? 自分で言えばいいものを。

「亜紀、君はわかっている筈だ。たとえ、君の言うとおり、最期に前妻の名を呼んだとしても、それはそういう病気のせいなのだ。俺は必死でそうならないよう努力するが……そんなふうに思われていたら君より先に死ねないな……できるなら最期は最愛の君に看取られたい。欲を言えば、彩と英幸と望にいて欲しい。そして黙って逝きたいものだ。三島が伝えてくれるだろう。どんなに君を思って恋焦がれて愛していたかを……」


***
 
 望は父親の残した金を受け取らなかった。頑なに拒否した。

 英幸と望は、ある墓の前を通った。英幸が立ち止まり、少しの間手を合わせると、望も真似をした。
「ママの墓掃除をしてくれてた人だよ」


   (了)



あとがき

 1冊の本を購入した。
『この顔と生きるということ』
 今は、興味があればネットで調べられる。購入できる。

 娘が小学校高学年のころ、生まれつきだか、ヤケドのあとだか目立つ女の子がいた。皆に好かれていた。真面目で明るい。
 私が娘に顔のことを言うとすごい剣幕で
「それがどうした?」
 どうもしません。優しい娘だった。

 ○は生後5ヶ月で心臓の手術をした。胸には開胸手術のあと。
 年頃になったら悩むだろうと思っていた。しかし……平気だった。ビキニも着たし青春を謳歌した。

 *は男の子。脇に血腫? みたいのがあって毎月レーザーで治療に。なかなか小さくならない。握りこぶしくらいの大きさになった。病院に行くと……もっとかわいそうな子が。額に……女の子だ。

 数十年前、眼科に行くために乗ったバスの中の話、見たのは女性でした。異様な……顔。それを夫に話したら……

 夫は病院で降りる階を間違え、子供を見たそうだ。

 ネットで検索していたら、ありました。ラオスの女の子の写真。寄付はすでに終わっていた。

海辺の老人

海辺の老人

  • 小説
  • 短編
  • 青年向け
更新日
登録日
2023-08-22

Copyrighted
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Copyrighted
  1. 1 海辺のあばらや
  2. 2 娘
  3. 3 前妻
  4. 4 小さな木の実
  5. 5 希望
  6. 6 社長