宙でふれ合う花びら

宙でふれ合う花びら

宙でふれあ合う花びら

 これは小説というよりも遺書といったところだろうか。
 夏雲が膨らんで茜を孕む。私の傍には私を止めてくれるほど仲のいい友人や家族、恋人もいない。幾年も前からこの感情は膨らみ続けていた。
 私は人が嫌いだったのだ。

「濁った愛情の噂話。淫らに浮かぶ彩色の夜。ずっと信じていた。人は素直に優しいと。いずれ愛情も美化されずとも美しくみえるものだと。信じて、ただ貫こうと足掻いた。だけど世の中にそんなものは存在していなかった。春の樹といえば桜のような、そんな当たり前の言葉にすることほど無粋な関係はこの世の中になかった。」
 踏み出す右足。車を降りて数分。今や、この森の薄暗さは世間の不安と見間違えるほどだ。
 耳が震える奇怪な鳴き声。そのはずなのに心地よかった。もうすぐ夢が叶うのだと、思えたから。
「白痴だと刺され続ける心臓。生存率の低い性格。変化を起こせないと悟る力の弱さ。美しさすらも見失った目。本音すら言えなくなってしまった口。美味しさも歪んで分からなくなってしまった舌。生きるってなんだよ。生きていたいってなんだよ。人生なんて腑抜けた言葉いらないだろう。報われない世界っていうだけならこうはならなかった。」
 ようやくさざ波が聞こえ始めた。緑のカーテンを縫いくぐった月光柱。その光に現世を証明させるように照らされ、歩き続ける。大きな大義を胸に。指先に一つも宿らない力に。
「私の愛情は美しかった。あれが本物だった。だけど、それは世間の暇つぶしと荒波に飲まれた。ただ、私が愛した人が幸せであるようにと。死にたいだなんて思わなくてもすむように生きていてほしかった。」
 根に引っかかる。地球の体毛ごときに足を奪われる。見つめ続けて、数秒の泥。膝部が泥に濡れて染みている。どうも、死に際までうまくいけないようだ。しかし、ここで諦める訳にはいかないのだ。ドーナツの穴で刳り貫かれたゴール。
「あと少し。」
 泥の粒の大きさ、湿った違和感、しっかり握りしめて立ち上がる。
「そうだ。ずっと彼女の一人でもできれば幸せだと思っていた。趣味の一つでも見つけられたら生きられると思っていた。生きていれば、いいことがたまに起こるのだと本気で思っていた。それ等は、全部嘘だ。この心に残ったのは、無邪気さから好奇心を引いた虚無感だけだ。」
酔いつぶれたように左右に動く視線。未だ騒めき続ける葉が妙に胸を躍らせている。脈を打っている。手首にも、指先にも伝わるくらいに。
「もう少しだ。」
 月明かりに照らされる。
「ようやく、私に幸せが与えられる。前世からの恋も、嘘に塗りたくられたこの世の人々たちも、それを受け入れられない心からも、流れ星の鮮やかさも、ぜんぶ。」
 視線に残った葉の一枚がいとも簡単に揺れ消える。上げた視線を下ろして、ただ前を見つめる。まるで幼少期の僕のように。その明るい眼差しの向こう、砂浜から小さく伸びた石畳の防波堤。月明かりに照らされる程度であって不可解で、先も見えない。
「まるでこの心のようだ。」
 足に纏わりつく砂粒。未だしみ込み続ける泥の感情。遠く離れて笑う月明かりと、流れ星。
「この世界は私には向いていなかった。きっと死んだら楽になる。空気を求めて藻掻こうとも、どうだっていい。そのあとに心が残らないのならば。」
 焦る気持ち。抑えきらないまま、体に現れる。足が進む。未来が見える。
「ああ、これが本来の希望なんだな。」
 蹴り上げる砂が宙に舞う。舞った砂埃が星に見える。
「子供に見せてあげられたのなら。」
 虚しさで胸が覚める。雷が収まる紫のように。
「私だ、これが私だ。」
 世界にそう叫んでいた。
 パッと下がった空の向こう。
「僕はなんで笑っているんだ。そっか、飛び込んだって手遅れか。」
 走る、足が蛙の跳ねみたいに。走る、足が蛇のようにうねる。走る、熊に殺されないように一生懸命。砂のまどろっこしさが無くなった。きっと石畳に入ったのだろう。もう、視線はどこにもない。
「主犯は心だ。摩耗した心だ。だけど、その手助けをしたのは社会だ。来世があるのなら恨み倒してでも殺してやる。馬鹿なほうがよっぽど楽しい。知らないほうがよっぽど生きやすい。ははっ、もう呆れる。」
 立ち止まった先に海が広がる。月明かりが海面に溶けている。
「もう一度、語ろう。これは小説というよりも遺書に近い。」
 荒れる吐息の中無理に発した。そのため、何度も咳き込んだ。その夢の中のような感覚で気が付かなったのだが。この防波堤にはずっと夜に溶けた、苦しみが先端に立っていた。
「やっぱり死ぬのなら海がいいですよね。」
 それは恋でも運命とも名付けられない、歪な出会い。
 その女性はただ海を眺めながら言葉を紡ぎ続ける。
「死の境界線を跨いでこそ、本来の希望は訪れるものなのかもしれませんね。」
 風が注がれる、地球の中。荒れる呼吸は感情のまにまに。
「これが希望なら、死を実行しようとすることも悪いことではないかもしれない。」
 混ざった言葉が海に沈んだのか、空へ舞ったのか。それだけは観測できない。けれど、言葉だけは観測できる。
「死ぬなら海がいい。」
希望は希望でしかない、生きる理由にはなり得ないのだ。
「泡沫、咲けば弾く間にこそ玉響や。」
 呼吸の音を最後にこの言葉たちは終わる。

 ~終わり~

宙でふれ合う花びら

宙でふれ合う花びら

出会い 死に際 自殺 海 泡沫 玉響

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-08-21

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