不細工な水滴

恋愛にも辿り着けない自尊心の話です。

仕事を辞めたいという同期に、何とか説得して翻意させて欲しい。主任からのそんな都合のいい依頼を断れない私は本当に馬鹿だ。
指定したカフェで久しぶりに向かい合って座った。
色白で薄いそばかすが尖った鼻の周りに点々としている。相変わらず化粧っけなどほとんどない。子供のような悪戯っぽい茶色の目がこちらを訝しげに見ている。
「で、これって主任に頼まれたんですよね」
同期だが年は2つ違う。だからいつも彼女は私に敬語を使った。
「それだけじゃないけど……」
歯切れの悪い言い方に自分が嫌になってくる。
いつも調子のいい事を言って、空元気で振る舞ってきた。たった2歳だけの年の差なのにこちらの方が世慣れているふりをして、相談役みたいなポジションだと自己陶酔していた。
でもそんなこと全部虚構だと今、バレてしまおうとしている気がする。
「前から思ってたんですが、立木さんて日和ってますよね」
誰からもよく思われたくて……と、歯に衣着せぬその物言いが彼女の美点でもあり欠点でもある。
「日和ってるとかそんなの今は関係ないよ。私はただ、タキちゃんに辞めて欲しくなくって」
「どうしてですか? 私が辞めちゃいけないんですか?」
彼女は少しめんどくさそうに言う。
「そんなの私の勝手というか……、自由ですよね。立木さんにまったく関係ないですよね」
「そう言われればそうなんだけど……」
――今、彼女に辞められると本当に困るんだよ。ギリギリの人数で回している今の業務がたちまち立ち行かなくなる。急な補充なんかできる訳がない。もう本当にギリギリなんだよ。何もかもがギリギリ。人手も日数も予算も――常になく本音を明かす主任はずるい奴だ。こういう時だけ情に訴えて来る。一度だけ関係を持ったのは、こういう時の為だったんじゃないかと勘ぐりたくなる。
「確かに途中で抜けちゃったら、職場の皆に迷惑を掛けるって分かってます。だけどもう決めちゃった事ですから」
「決めちゃった事って……」
「これでも自分なりにずいぶん悩んだんですよ。気が付きませんでしたか?」
「うん。全然気が付かなかった」
嘘だ。薄々感づいてはいた。
「意外と鈍感ですよね、立木さんって」
そう言うと、彼女はアイスコーヒーを手に取る。グラスの淵を舐めるようにして少しだけ舌を潤している。

私もまたアイスコーヒーを飲もうとグラスを触った。冷たい水滴が指に触れ気持ちが悪い。水滴はつうっと流れ落ちてテーブルに不細工な水たまりを作る。
それを見ながら戦法を変え主任に倣って情に訴えてみる事に決めた。
「私はタキちゃんが辞めちゃったら、ちょっと寂しいかな」
「はあ?」
彼女はこれ以上ない程の蔑んだ声をあげて見せた。
「なんですか、それ」
「せっかく今まで一緒に頑張って来たのに、寂しい」
「えー?」
そして薄いリップを塗った唇を歪めてけらけらと笑い出した。
「ウケる。立木さん、そんなキャラでしたっけ」
そして大きく溜息を付いてから言った。
「立木さん、私のことがとっても好きなんでしょう?」
「嫌いだよ」
条件反射のように言いながら、致命的な戦法ミスを犯した事に気づいた。
「嘘。とっても好きだからこんなにバカみたいな事をやってるんですよ」
私はうつむいたままテーブルの上の水たまりを見ていた。水滴はもう紙ナプキンにまで沁みている。みっともない。ダサい。恰好悪い。つまりは平凡。人を好きになるっていうのはあまりにも普通で陳腐だ。
彼女はグルグルと硝子の棒でグラスの中の液体を掻き混ぜた。
「立木さんは違うと思っていたのになあ」
「違うって何が」
「そういうのを超越してるって思ってた」
じわじわと怒りが込み上げてくる。顔が熱い。恥ずかしさと共に、今ここで上下関係が築かれようとしている予感に心が打ち震える。想われる彼女が上で、想う私が下だ。そんな事になって堪るかと思う。
「タキちゃん。そんなのただの思い込みだよ」
彼女の目がこちらを見る。色素の薄い、情のない茶色い目。
「やっぱりそうですかね」
「そうだよ。私はただ説得役に選ばれただけで、それからそこにちょっと同期としての義務感が入っちゃっただけなんだから」
そして、これも付け加えなくちゃと思った。
「勘違いしないでね」
タキちゃんは窓の外を眺めている。私の言葉の後半部分はもう聞いていないようだった。
後は白々しい時間が残っているだけだ。
この子とはもうこうして話す事はないだろう。もう二度と対面で座る事もないだろう。説得は失敗しました。申し訳ありません。明日、主任にそう言って哀しそうなふりをしてみせる自分を想像してみる。
心の中の扉を閉じる。もう二度と、けして。


だけど、閉め出されたのは彼女なのか。
それとも私の方なのだろうか。

不細工な水滴

不細工な水滴

  • 小説
  • 掌編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-08-16

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